2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

2004年10月1日(金) われわれの内なる<1970年代> 4

◇ 内ゲバで亡くなった2人の先輩活動家の無念 ◇
 70年代以降、わが国の新左翼運動、学生運動が、大衆的基盤を失い後退していった要因の一つに“内ゲバ”があるということは、今更言うまでもないだろう。
 ここで、私(〜たち)にとって忘れがたい、同志社の2人の先輩活動家、望月上史さんと正田三郎さんの内ゲバでの無念の死について述べる。

 望月上史さん──既に述べた藤本敏夫さんの1周忌の集いは、同時に望月上史さんをも弔うものだった。
「激しい戦いと混乱の真只中で亡くなったため、これまで何もしてあげることのできなかった望月上史君に対しても、遅ればせながら追悼の意を表し、偲びたいと思います」(呼びかけ文より)
 それまで、同志社で望月さんが、多くの人の前で公に弔われたということは聞かない。私が在学中でもなかった。
 これに先立ち(2003年6月8日)、23名の有志で墓参も執り行われたという。
 望月さんは、1969年9月29日に亡くなっている。私は70年入学だから、このとき、地方の高校生だったが、鮮烈な記憶がある。わが国における最初の内ゲバでの死者だったから……。
 ここでは詳しい経緯は省くが、69年、手詰まり状態の運動を軍事力で突破せんとして、赤軍派は生まれた。同志社の学生組織の中心は赤軍派に流れたとされるし、関西のブントの学生組織はなべて赤軍派に流れるか、親赤軍派だったといわれる。この激しい分派闘争の過程で、ブント連合派に、塩見孝也氏ら3人と共に拉致され、折からバリケード封鎖中の中央大学に20日間も監禁。ロープをつたって逃げる際に学舎の3階から転落し、2カ月に及ぶ危篤状態ののち死亡。結核も患っていたという。享年22歳。……
 確かに逃げる際に転落し、リンチのさなかで亡くなったわけではないので、直接的な内ゲバ死ではないと言う人がいるが、「全員がゲバ棒を握れないように十本の指をぐちゃぐちゃに潰されていた」(小嵐九八郎・著『蜂起には至らず〜新左翼死人列伝』より)というだけで、内ゲバでのリンチ死という他ない。
 監禁したのは、中央大学というから、いわゆる“中大ブント”、のちの“叛旗派”である。それに、真夏に20日間も監禁したというから、異常というしかない。普通、監禁するにしても1日か2日だろう。なんとかならなかったものか。叛旗派は、その機関誌紙などで、政治党派らしからぬ美辞麗句を連ねた表現で人気があったが、<政治>とは怖いものだ。当時の中大ブントの指導者、三上治氏も藤本敏夫さん1周忌の集いに参加されていたが、三上氏にも、望月さんの死について、今ここで、どのように考えられているのか、あえて問いたい。
 70年代初頭、私たちが学生会館で運動に関わっていた頃、望月さんの名は伝説的だった。
 しかし、小嵐氏もその著書の中で述べられているように、「資料は沢山あると思ってい
たが」「その弔いや遺稿集を出す余裕はなく、ますます資料は少い」。いまだに望月さんの遺稿集などない。1章分にわたって書かれたのは、小嵐氏の『蜂起には至らず』だけだ。小嵐氏は、ブント系ではなく社青同解放派だったということだが、本来ならば、まずもってブント系、赤軍派系、あるいは同志社関係の者によって書かれるべきだったのではなかろうか。わが国の新左翼の内ゲバで最初の死であるにしては、寂しい。これでは望月さんも浮かばれない。
 私は同志社の受験を地方試験で受けたので遭遇しなかったが、70年の文学部の入試日に、相国寺を挟んで此春寮に結集したブント連合派が、学生会館の赤軍派を襲撃、学館前で壮絶なゲバルトがあったという。双方に多数の逮捕者があったとの記録がある。
 望月さんの死は、わが国の内ゲバの最初の犠牲者ということ(この前後に中核派の党内闘争で死者が出ているが、どちらの日にちが先か後かは問題ではない)、そして以後の内ゲバにおける累々たる死者を生んだことなどを想起すれば、もっときちんと総括されるべきだと思う。
 同志社学生運動の先輩諸氏! 私のようなガキの活動家に、こんなことを言われたままでいいのですか!?

 もうひとり、私にとってインパクトの強かったのは正田三郎さんの死である。正田さんは、同志社では少数派だった中核派の活動家だった。71年12月、この年は全国で学費値上げ阻止闘争が闘われていた。関西では、同志社と関西大学が中軸だった。中核派は関西大学のバリケードに、関西の学生活動家の総力を結集させていた。そこを、早朝、革マル派が襲撃、仲間と共に虐殺されたのだ。
 60年代後半から70年代初頭にかけて、同志社で、いな京都で学生運動に関わった人で、正田三郎さんの名前を知らぬ人はいないだろう。正田さんは、ブント系がほとんどの同志社の学生運動にあって、たった数人のマル学同中核派(当時は革共同というよりマル学同というほうが一般的だったようである。いわゆる「マルチュー」である)の旗を守っていた人である。酒もタバコも飲まない、ビラ1枚も大切にまくという正田さんの生真面目な活動姿勢は、対立党派にあっても一目も二目も置かれるものであった。私も何度か話したことがあるが、温厚な人だった。政治主張は別として、人格面で、この人を悪く言う人に逢ったことはない。
 71年の入学式の日だったか、正田さんら中核派も私たち全学闘も今出川キャンパス西門でビラをまいていたが、日共=民青に襲撃され、一緒になって反撃した記憶がある。すぐに学館から全学闘の援軍が来たことで押し返したが、そのあと正田さんが「全学闘の諸君と共に民青諸君を粉砕し〜」とアジっていたことも覚えている。
 71年11月、中核派は同月14日に沖縄返還協定批准阻止に向けた闘い、いわゆる「渋谷大暴動」を計画していたが、「渋谷大暴動、渋谷大暴動」と念じつつビラをまいていたという。今では想像できないが、渋谷駅一帯を火炎瓶の海にし、戒厳令下に置いた。この闘いで逮捕された活動家は、今でも拘留され裁判闘争を闘っていることを、過日、東京地裁に行った際にビラをもらい知った。私たちも、それなりの30数年を過ごしてきたが、その活動家の人たちの30数年は想像に絶する。
 正田さんが虐殺されたことを契機として中核派は革マル派に対し「カクマル」と表現するようになる。革マルに、「革命」の「革」などもったいない、ということだ。
 ところが、望月さん同様、正田さんについての記録や資料も、ほとんどない。
 正田さんが虐殺された翌日だったか数日後だったかは定かではないが、今出川キャンパス西門に、彼を追悼する立看が置かれた。同志社ではふつう、中核派の立看など、置かれるやすぐに撤去されるのだが、このときは持ち去られることもなくボロボロになるまで、木枯らしにさらされていた。これも正田さんの人格のなせるところだろうか。
 彼が斃れた関西大学のキャンパス周辺では幽霊が出るというウワサもあながちウソではないかもしれない。──

「埋葬の日は、言葉もなく/立ち会う者もなかった、/憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった/空にむかって眼をあげ/きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。/『さよなら、太陽も海も信ずるに足りない』/Mよ、地下に眠るMよ、/きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」(鮎川信夫「死んだ男」より)


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