
「甲子園村だより」のコーナーは鹿砦社スタッフの生の声を掲載していきます。
| ■2004年9月3日(金)「遙かなる青春時代の残照」その後 |
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例年にない異常な暑さも、9月の声を聞くと、さすがに幾分かは和らいできたように感じる。ここ甲子園では、高校野球が終わる頃になると、秋風が吹き始める。─── さて、8月に発行した『スキャンダル大戦争』8号の巻末近くに「日々雑感──備忘録風に」という駄文を掲載した(前項に再録 リンクをクリックすると読む事ができます)。そのひとつ、私たちの出版活動の理解者、S・Mさんから、「読物としても面白く」「こうした形で続けていただきたいと思います」という、熱いメールをいただいた。S・Mさんは、「鹿砦社は社長の存在感で持っている会社だと思う」が、「これは“顔のない企業”が増えている昨今では極めて重要なこと」とおっしゃってくれた。 そして、数日後、長い長いメールが届いた。要約して紹介しておこう。── |
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| 私も70年代末にノンセクトで学生運動をやっていたわけですが、自分が行なっていたことは間違っていなかったと確信を持っております。 T大学でノンセクト学生運動を行なった者たちの、もはやほとんど全員が、学生時代の自分たちの行動を“はしか”のように語っているのには呆れます。みな当時は必死でしたし、我々の活動によって、多くの人々に「迷惑」もかけました。 どんなことでもそうでしょうけど、「若気の至り」として学生運動体験を愚弄する人間は信用できません。学生運動が「小児はしか」で、そういう病気にかぶれて「狂気」に走っていたとしたら、自分の行動をそういうふうに卑下する人物の現在の思考や信念だって、「はしか」のような病気かも知れませんから。……すくなくとも「学生運動=はしか」という捉え方をする人物については、この理屈が当てはまるはずであり、現在の発言とて妄言だという疑いが強くなります。 ……というわけで、『スキャンダル大戦争8』の巻末日誌のように、松岡社長が同志社大学での学生時代のことを語り、現代の学生の覇気のなさを嘆くのは、非常に正しい態度であり、これこそが望ましい「おとなの態度」であり、過去の自分を卑下しようとする卑怯な小市民ばかりの現代日本において、あっぱれな態度だと敬服しております。(お世辞ぬきで本当に。) 我々は、自分らが学生の頃に信念をもって実行したライフスタイルを、自信をもって語ればいいし、語るべきなのです。 戦時中に前線で戦った人々は、ほとんどがその《現場の記憶》を腹にしまい込んだまま、墓場に持っていこうとしています。あるいは、パンパンや闇市で暗躍した人々なんかも、そうした体験を語らずに、しずかに死んでいこうとしています。 しかし、彼らはそれなりにどうしようもない必然性や、その他さまざまな考えがあって、そうした生き方を選んだわけです。ですから、喜怒哀楽のすべてを堂々と語ってほしかったと、私は心から残念に思います。先達が語らなければ、後世には伝わらないし、批判するにせよ共感するにせよ、後輩が理解する機会すら提供できないからです。 戦争体験と学生運動は違うかも知れませんが、主体的に確信を持って選択したという意味では学生運動のほうが後世に経験を伝える価値も意義もあります。 人類の生理学的本性や、社会の基本構造が、革命的に変わらぬかぎり、青年はいつの時代でも青年であり、青年ならではの理想や情熱で行動していくわけです。ですから、本来的にそうした素質をもった世代に、経験を語り伝えることは絶対に必要です。 ……というわけで、学生運動についての社長のさらなる御発言を期待しております。 |
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| う〜む、ここまで真正面から言われると、それはそれなりに応じないといけないだろう。私が学生運動に関わった時期は、1970年から74年頃までの5年ほどにすぎない。鈴木邦男などはこのことを、雑誌『SPA!』等で、ブント系の某党派に入っていた、「爆弾の松岡」といわれていたとか針小棒大に書いているが、どこかの党派に入っていたことはないし、60年代から70年代にかけて、どこにもいた単なる一学生活動家だったにすぎない。今では週刊誌が並ぶ書店の店頭に、新左翼系各党派の機関紙が溢れかえっていた当時、京都では、とりわけ多かったように記憶にある。私は活動家としては、さほど優秀でもなかったし、理論家でも、ゴリゴリでもなかった。とはいっても、アジテーションも、立看も、今はなきガリ版も、毎日毎日やった。 しかし、私たちの場所的拠点のみならず精神的拠点としてきた同志社大学学生会館の解体と学友会の自主解散の報には驚くと共に失望し、何らかのフラグメンテを書いておきたかったにすぎない。いちど京都に行く用件があり、足を伸ばして学生会館が取り壊された跡地に行ったが、涙が出た(本当に)。同じ頃、早稲田の学生会館の解体には、少なからずの学生の反対運動があったことをテレビのニュースが報じていた。同志社では、どうだったのだろうか? 私が学生だったら、たった一人になっても、しがみついて闘っていただろう。私は、72年2月1日、前年71年から続いていた学費値上げ阻止闘争の最終局面で、<たった一人になっても闘う>ことを自ら体現し、同大今出川キャンパス明徳館屋上に立てこもってバリケードを死守せんとした。その後、全学闘の仲間百数十名が検挙され、60数名が逮捕、私はじめ10名が起訴された。わが国の学生運動史の年表には載らないような小さな闘いではあったが、同志社大学では、69年のバリケード戦を凌駕する最大規模の闘いであった。私個人にとっても<原点>である。 60年代から学友会、そしてその後半には全学闘争委員会(全学闘)に組織された同志社大学の革命的学生運動は、69年秋、72年初頭の2つの決戦で、中心的活動家に数多くの逮捕者を出し、やがて脆弱化していったと聞く。毎日新聞社発行の『シリーズ20世紀に記憶 かい人21面相の時代』では「最後の過激派」として写真が載っている。 私たちの共通の想いは、闘わずして腐臭を放つより、最後の最後まで闘い抜いて解体しよう、ということだった。これは、私たちが最先頭で闘い抜くことで、仮に敗北することはあったにしても、全学的、全戦線的にヘゲモニーを貫徹するという、まさに<革命的敗北主義>であった。特に、70年入学という、いわば“遅れてきた青年”であった私(〜たち)の世代は、69年を越える戦闘性を合言葉にした。 ところで、「甲子園村だより」の、この前のページを見れば、「5月4日」となっている。ところが、今年の「5月4日」ではなく、昨年の「5月4日」だった。実に1年振りということになる。その末尾に、くだんの藤本敏夫さんの1周忌に集う会のことに触れている。このことについては、『スキャンダル大戦争』8号で書いた。 そして本年、今度は3回忌をやることになったから来い、というメールが届いた。8月21日夕刻、藤本夫人の加藤登紀子さんの実家が営まれている、京都・四条ロシアレストラン「キエフ」にて。急遽バタバタと準備されたようで、1周忌の際の3分の1ほどの人数、40人ほどだろうか、関西在住の方々を中心に声を掛けたということだった。 多くの諸先輩方の発言の中で一番印象的だったのは、69〜70年の学友会委員長の志賀茂(現G寿司副社長)さんの発言だ。志賀さんは、学友会がなくなったことを嘆かれ、できるものなら自分がやりたいぐらいだと言われた。志賀さんは、まさに最盛期の学友会委員長だったわけで、当時はまさに<闘う学友会>として、自らが最先頭でそれを担ってきたという想いがあるのだろうか。 志賀さんについては、伝説的な人なので、幾つもエピソードが語られているが(志賀さん、後輩の私たちは、勝手にいろいろ噂してますよ。すみません)、大阪・十三(じゅうそう)にあった小さな寿司屋を、今や80数店舗にまで大きくした人にも関わらず、こういう集まりには気さくに参加され、また自らのお店のスペースを提供されたりしている。数年前、元赤軍派議長・塩見孝也氏が出所された際の集いも、G寿司で行なわれたという。普通、ここまで出世すれば、こうした元「暴力学生」や「過激派」との付き合いなどとは縁切りにする人が多い中で、立派だと思う。 私は、S・Mさんに“挑発”されて、「我々は、自分らが学生の頃に信念をもって実行したライフスタイルを、自信をもって語ればいいし、語るべき」だという考えに共鳴し、やはり少しづつでも語っていきたいと思うようになった。これから、この「甲子園村だより」をトポス(場)として書き綴っていきたい。── せっかく、ここまで書いてきたのだから、ついでに、私の好きな、同志社の先輩の詩人・清水昶さんの詩を引用し、ひとまずペンを擱こう。── |
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| 不世出の革命家に興味を持った一人の貧乏学生は ひどく暗い京都の下宿で汗のふとんにくるまりながら やたら赤線をひっぱっていた ついには革命的情熱とやらの蜘蛛の巣のような赤線にひっかかり くるしんでいる夢をみた ほそい肉体をおしながら漆黒の海流 亡命舟は灯を求めて盲目の舟首を軋ませつづけた ──(『トロツキーの家』より) |
![]() (1)1年振りに加藤登紀子さんと共に高歌放吟 |
![]() (2)挨拶する同大学生運動最盛期の学友会委員長、志賀茂さん |