
本日より鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。前回9月3日号からお読み下さい。
| ■2004年9月10日(金) われわれの内なる<1970年代> 1 |
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| わが国の歴史の転換点が、幾つかある。今から振り返れば、戦後四半世紀経って、蓄積されてきた大きなうねりが、1970年という年に、政治、経済、文化の全ての面で求心化してきていたように思える。── 私は1970年に同志社大学に入学した。早稲田の一文と教育、立命館も受験したが、通ったのは同志社だけだった。私は九州・熊本から出てきた。どこにでもいるような地方出身者で、素朴単純な田舎者だったし、高校は大学の付属高校だったが、この大学は革マル派の拠点校だったから、早稲田に行ってれば、革マルになって、内ゲバに狂奔し、ちょうどその後に起きたリンチ殺人事件(俗に「川口君虐殺事件」といわれる)に連座していたかもしれない。ちょっとした“歴史のいたずら”によって同志社に入ったことで、私の人生も、よかれ悪しかれ、決定づけられたといえる。 1970年は「激動の年」といわれたが、前年の反体制勢力の敗北によって、学生運動や反戦運動は、総体的にカンパニア闘争に終始した。本来ならば日米安保改訂の頂点である6月は激しい攻防戦が予期されたが、「壮大なゼロ」とさえいわれるように、平穏のうちに終わった(とはいっても、この時の動員規模は、今では想像できないものだろう)。1970年は、前年までのラジカルな闘いに比べれば「激動の年」ではなかったが、やはり歴史の転換点であったことは確かだと思う。 この年に一服した反体制運動の嵐は、翌1971年、沖縄返還協定調印から批准阻止闘争、三里塚闘争、そして同志社も含めた全国学費値上げ阻止闘争で、再沸騰する。私が「遅れて来た青年」として積極的に関わったのは、ここに於いてである。 今でも、1970年の京都の風景、同志社大学のキャンバスや学生会館の風景が脳裏から離れない。赤ヘルメットの大群がデモを連ね、寺町今出川の関東書籍(その後、経営が代わったのか洛陽書房となった)という書店の店先の(今や週刊誌で溢れ返っている)ラックには、新左翼諸党派の機関紙が溢れ返っていたし,当時まだ走っていた市電では、学生らが、まるでスポーツ新聞を読むかのように、お気に入りの党派の機関紙を読んでいる光景が思い浮かぶ。今では考えられないことだ。── 御所を挟んで、立命館大学広小路キャンパスがまだあり、河原町今出川界隈には、同志社、立命の学生らの熱気がとぐろを巻いていた時代だった。今、立命館はないし、同志社も田辺に大半が移転(同志社女子大はいち早く田辺へ)、そうした活気はすっかりなくなった。ちなみに、この同志社、立命に限らず近年、多くの大学が都心から郊外に移転しているが、これは間違いだったと断言できる(このことについては、同志社の田辺町移転を含め後日述べる)。少なくとも、「学生の街」といわれた京都が、そうでなくなった。 私は、いつの頃からか、授業に行かなくなり、代わりに学生会館に出入りするようになる。文学部なので文学部自治会、そしてこの闘争委員会である「文学部共闘会議」(L共闘)に引っ張り込まれることになった。 L共闘には、個性的な先輩が多く、多大の影響を受けた。その一人、S・Kさんのことについて記しておこう。── S・Kさん、今は児童文学作家として活躍されている。ある新人賞も受賞され、処女作から老舗児童文学出版社で刊行。それを一冊郵送してくれたが、S・Kさんらしく、「本当にこれが子供が読む本かいな」と思うような難しさで、ページ数も多い。日々のミーティングでのレジメの文章も難しかったな。 S・Kさんは、71年7月、三里塚闘争(成田空港反対闘争)で逮捕され、出獄してきたのは、その年も押し迫った、木枯らしが吹きはじめた季節だった。 そのS・Kさんが書いて寄越した奇妙な短編小説がある。「創作・夕陽の部隊」というタイトルで、児童文学作品ではない。彼の学生運動体験をもとにしたものだ。「S・Kさん、何か書いてよ」という、私の求めに応じて、大学ノートに書き、そのまま切り離して郵送してきた。一読して、共鳴した。 タイトルの横に、 しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま と一句ある。「6・15」とは、今ではすっかり忘れられているが、われわれの運動の、これも<原点>であった。60年年安保闘争の頂点での国会突入闘争で樺(かんば)美智子さんが亡くなった日である。 そうして、「これは、過渡期の一つの報告書である。」というフレーズで書き出す。 ある年の秋の闘いを控えた、ブント系の一分派の内部の動きが描かれる。── 「俺はこう思っている。理論として、すべての新左翼系知識人を凌駕し、実戦的行動力をもった党派をつくるべきだ。行動のみでのラディカル性でもって大衆をひっぱっていく時代は過ぎた。もういちど60年ブントに戻ろう。そうだ、全共闘に戻るのではなく、ブントに戻るのだ」 「ズバリ言う。倒閣闘争を、武装してやるんだ。三年間も沈黙したんだ、この機会を逃せば、ファシズムまで、おたがい黙りっこだよ。ま、もうすこし聞いてくれ。俺たちの武装は、二度敗れた。一度めは、羽田での10・8だ。そして、二度めが赤軍の銃撃戦だ。こんど、やるとすれば、この二度と、質的に異なるものであるべきだと思う。──もうすこし言わせろ、俺は狂ったわけじゃない」 「狂ってる。自殺行為だ」 「一応の了解がとれたようだから、俺のプランを言う。最終的には、69年に出来なかった、機動隊の粉砕と、自衛隊による、人民への敵対行為をひきだすことが、今秋の闘争目標だ。そして、とにかく、人民を、ふたたび俺たちの側に獲得することだ。そのために、この闘争は、当初、米軍基地に向けて行なうべきだと思っている。むろん、最終的には中央権力闘争となるが、ワン・クッションは必要だ。日米安保体制の暴露と、帝国主義軍隊自衛隊の本質を、この秋に、一挙的に露呈させる。即ち、69年赤軍派が提起し、不発に終わった前段階武装蜂起を、この秋に、やり切る」 「D大の自治会ボックスで開かれた関西地方の定例会議で、20名の地区委員を前に、涼は用心深く、かつ大胆に方針提起を行なった。…… そうして、質問は予期すべく嵐のように沸き起こった。<武器とは、具体的に何を指すのか?>の一点に集中してくる問い。<統一戦線結成によって、同盟の現在までの主張を大きく変換させることは、何なのか><赤軍派の二の舞を演じることが、いったい、どんな人民への利益をもたらすのか>……」 「いくつかの闘争、いくつかの政治の波をくぐり抜けて、何度か手を引こうと思い、彼と同期の、ほとんどの活動家が市民社会の中に消えていくのを見、涼はいつも、自分もいずれはそうなることを予期していた。けれど、その契機を見出しえぬまま、留保しつつここまで来て、のっぴきならぬ闘争に入りこんでしまったことを、彼は皮肉っぽく思った。けれど、彼の内部では、いつも、『まだまだ本質的な政治、本質的な闘争に俺は関わっていない』と言う声があった。それが今度かもしれぬ、と彼は思った」 「涼はその翌日、京都へ戻った。レジュメもなにも用意している暇はなかった。至急、かれの手兵、D大のグループと、村住に、河野と月形をはじめとする同盟中央の方針を提示し、あしざまに批判と非難を訴えた。…… 十名の『暴力部隊』が作られ、涼、村住とともに、中央『逮捕』の計画が練られた。同時に、『除名』に関する機関紙(号外)も、極秘のうちにD大新聞局が作製することとなった」…… 私は、S・Kさんが、どういう想いで、この短編小説を書いたのか、判るような気がする。S・Kさんは異質な活動家だった。谷川雁を愛読していたような記憶がある。一時、谷川雁が経営していた「テック」という会社に勤めてもいた。その前後に、テックでも労働争議があったが、彼はどういう気持ちだっただろうか。 1970年前後、無数の学生活動家が血を流し闘った。新左翼系党派のリーダーたちも、まだ若かった。最年長の部類に入る、60年安保から持続してきた人でも、せいぜい30歳前後だ。自分の経験からいっても、30歳前後というのは若造も若造だ。これで、引用にもあるように「中央権力闘争」だ、「前段階武装蜂起」だ、さらには(引用にはないが)「世界革命戦争」だとか「世界同時革命」などと本気で大言壮語しているのだから、奇妙な時代でさえあった。 この小説でいう「D大の自治会ボックス」で、私たちは毎日、そうした言葉を発し過ごした。ベトナムで、解放戦線と米軍が闘っている真っ只中で、世界的なベトナム反戦運動の高揚をバックに、革命の同質性、革命の現実性が、感覚的に実感できた時代であったから、そうした、今から振り返れば、誇大妄想的な大言壮語であったにしても、学生会館という空間では、自然であった。殊に京都では(いや、京都だけではなく、この時代の空気だったのかもしれない)、言葉の上でも行動でも、過激であればあるほど人気があった。当時の学生運動を「新左翼芸能界」と揶揄した人もいたが、時代の変り目だった1970年──まだまだ「新左翼芸能界」も元気があった。 S・Kさんの学生運動についての想いは、次のフレーズに凝縮されている。── 「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だと言ったんだ、だってそうだろう、革命を戯画化することは出来るが、戯画によって革命は出来ないからな」 そうなんだ、われわれは「虚構を重ねる」という過ちを犯したのかもしれない。「革命を戯画化することは出来るが、戯画によって革命は出来ない」──このことに気づいていなかった。まさに本質を射た言葉である。 当時、私に運動のなんたるかを教えてくれた先輩方で再会したい人は何人もいる。70年代から新世紀にかけて、どのような生きざまだったのだろうか。S・Kさん、「創作・夕陽の部隊」の<続編>を是非とも書いてください。 〔注・「創作・夕陽の部隊」は、初出『季節』6号(1981年)、その後、単行本『敗北における勝利』(1985年)に収められている。いずれも鹿砦社。品切れ絶版〕 |