
2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。
| ■2004年9月17日(金) われわれの内なる<1970年代> 2 |
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| 70年安保闘争は、いわゆる「三派全学連」による67年10・8羽田闘争から一気に展開し、まだ地方の純朴な高校生だった私にも、そのインパクトは強く届いた。10・8の翌日のクラス討論の光景が目に浮かぶ。そうして、68年〜69年の全国学園闘争、安保─沖縄闘争は、言うまでもなく戦後最大の反体制運動の盛り上がりを呈した。一時は、安保粉砕もできるのではないかと思われたような、局地的に勝利したこともあった。しかし、70年前夜、このうねりも手痛い敗北を喫する。 これを「革命は密集した反革命を生み出すことによって前進する」というマルクスの言葉をもって総括する人もいた。確かに「密集した反革命を生み出」したが、<われわれの革命>は、果して「前進」したであろうか?── 1971年は、68〜69年の陰に隠れているが、ふたたび闘いが、沖縄─三里塚を環として盛り上がった年だった。このことは前回も少し触れた。実際に破防法(破壊活動防止法)も適用されている。 S・Kさんが逮捕された7月の三里闘争、われわれ同志社大学全学闘は4名逮捕、3名が起訴された。私は、S・Kさんらに申し訳がないと自己を責め、この闘いに行かなかった自分を恥じた。 私たちが三里塚闘争に関わったのは、2月の第1次強制代執行阻止闘争から。そして、来るべき秋の第2次強制代執行阻止闘争に向け、現闘団を常駐させることになった。取香(とっこう)という所に、他の京都の部隊「全京都学生連合会」(京学連)の人たちと共に小屋をこしらえた。これには東大の建築科の方々が手伝ってくれた。東大の建築科の近代建築の知識が、三里塚の大地の小屋と、どう結びつくのか、そのアンバランスに苦笑するが、私たちは真剣だった。 小屋は、まあいいのだが、そこに穴を掘って、そこにこもってでも闘うということになって、穴堀りにも精を出したが、今から思うと、雨が降れば、いつ崩れて生き埋めになるか判らないようなもので、ゾッとする。 東大全共闘も、三里塚にも関わっていて、先頃、『磁力と重力の発見』(みすず書房)という大部の難解な本で大仏次郎賞を受賞した山本義隆氏(この時点でも、東大全共闘議長の肩書であったのかは記憶にない)も、まだ行き来されていた。山本氏は、わざわざ同志社まで来てくれて、三里塚闘争について講演してくれた。私たちにとって、まさにカリスマ的存在だった山本氏の講演を熱く聞いていたことを、ハッキリと覚えている。その記録が手元にあるが、これを読むと、それが行なわれた当時の学生会館の空気のようなものが蘇ってくる。 私が最初に三里塚に行ったのは、71年の4月28日だった。なぜ、日にちまで覚えているかといえば、4月28日(ヨンニッパ)の集会(東京・清水谷公園→日比谷野音)が終わった後、先輩に「松岡、お前、三里塚に残れ」と言われ、そのまま現闘団に組み入れられたからだ。そのつもりもなかったから、準備もしてこなかった。最初、冗談かと思ったが、マジだったのだ。怖い先輩には逆らえない。 それから、10日ほどいただろうか。帰京したら、民青にテロられ病院送り。全くトホホだ。退院したら、京都の市街地で最初の実力闘争となった5・19沖縄返還協定調印阻止全関西集会があった。これは、密かに全学闘と京学連で集会後のデモを実力闘争としてやることを意志統一していた。この時の意志統一の内容は、八派(当時の新左翼を総称してこう揶揄した。いささか侮蔑の意が込められている)の集会に介入し、中核派がこれを阻止しようとすれば、中核とゲバをやり、機動隊とも闘うという、今から思えば、全く凄いものだった。全学闘の竹ヤリ部隊が機動隊を突破するや、一気に市街戦の様相となった。こういう場合、他党派も含め意志統一し、それは前もって大衆的に確認されるわけで、当然、警察当局も情報を把握し、警備もその下に行なわれるのが普通だろう。しかし、集会を仕切る最大党派・中核派も知らないうちにやったものだから、機動隊も慌てふためきガタガタだった。中核派も、メンツをなくし怒ったという話を、後から聞いた。 この頃、同志社全学闘は、学内に来た右翼の武装部隊ともゲバをやって勝ったり、日共・民青とは連日のゲバで、向かうところ敵なしの強さだった。先の4月28日、ここにおいてブント内の日向派と呼ばれるグループと関西派が日比谷野音の入口でゲバルトをやり、関西派が壊滅的な敗北を喫したが、これに全学闘は中立の立場を守った。ブント関西派は、前年12月に、連合ブントを形成していた日向派と分かれ、全学闘抱き込み作戦を行なうが、失敗。その際のキーワードは「蜂起戦争派」だった。私は、ブント関西派のゲバルト部隊にいた先輩に、「もしも、全学闘がゲバルトに加わっていたら勝っていたことは間違いない」と愚痴られたことを覚えている。日向派も全学闘には秋波を送っていたが、ブント内の党派闘争には巻き込まれないということが、全学闘の了解事項だった。これには、60年安保以来の大部隊を擁してきた同志社のブントが、69年に赤軍派の分派によって崩壊したことが底流としてあったようである。 5月の京都での闘いは首都・東京に飛び火し、6月15日〜17日にかけて沖縄返還協定調印阻止闘争が激しく闘われた。しかし、ここでまたもや新左翼陣営は2分解する(独自路線をいく革マルを入れると3分解ともいえる)。「沖縄奪還」をスローガンとする中核派・第四インターのブロックと、社青同解放派、フロント他諸党派のブロック。後者の一部は「返還粉砕」を叫んでいたことで「返還粉砕派」ともいわれた。ノンセクト・グループもほとんど後者の集会に流れた。私たちも後者の集会に参加し、三里塚の部隊と京都からの部隊の合同で実力闘争を闘った。路地に閉じ込められ、「もうアカン」と思った矢先、後ろから火炎瓶がビンビン飛んできて、肉弾戦で機動隊の壁を突破できた。 こののち7月、三里塚で、先輩S・Kさんらが逮捕された第2砦や農民放送塔を巡る攻防戦があったのである。 71年8月、京都──夏休みで、私たち全学闘の一部しかいない学生会館別館で、秋の三里塚闘争への関わりをめぐり、連日、意志統一のミーティングが行なわれていた。狭い自治会ボックスで、もう一人、私に影響を与えたM・Hさんらを中心に、それは行なわれた。私たち以外にはいない学生会館別館で、意志統一のアジテーションが響く。私たちは京都を離れ、三里塚の大地に赴いた。もうすぐ新学期が始まろうとしていた。キャンパスに学友が戻る頃、私たちは、いつ戻れるか判らない闘いに赴いたのだった。 9月16日、第2次強制代執行阻止闘争が開始された。明け方からゲリラ活動がアチコチで勃発する。最大拠点=駒井野では、砦死守戦が繰り広げられた。この映像は残っているので、ドキュメンタリー番組などで観た人もあろう。東峰十字路では、バッタリ遭遇した部隊と機動隊がぶつかり、機動隊員3名が亡くなった。新左翼運動は、初めて機動隊を殲滅したことで、いいも悪いも、この日はメモリアル・デーなのである。この意味で、69年に赤軍派が提起した機動隊殲滅が実態的に三里塚闘争で現実のものとなったのだ。 私は、沼に胸までつかりながら逃げた。ベトナム戦争の報道写真で見るようなことを、実際やった。なんとか最後まで闘って、京都に戻ることができた。この闘いに比べれば、それまでの闘いはなんとたやすいものだろうと思った。 第2次強制代執行阻止闘争では、参加した新左翼の部隊は多数の逮捕者を出したが、全学闘は7月と違い逮捕者はいなかった。 ちなみに、のちのち、私たちの出版活動を支えてくれた高橋順一氏(思想史専攻。現・早稲田大学教授)は、ブント叛旗派の一員として参加し逮捕されている。このとき、叛旗派は、組織的、そして構成員の思想性の面で脆いと見なされたのか、集中的に弾圧されたように思われる。高橋氏の罪状は「凶器準備集合、殺人」ということだ。高橋氏は、その後、組織を離れ、大学に入り直し、現在の地位を自力で確保されている。殺人容疑の者を教授として受け容れる早稲田の度量の深さには驚かざるをえない。 これを書いている本日は、9・16の闘いからちょうど33年目の日だ。どうしても胸が熱くなる。日本の空の玄関といわれる成田空港──その開港までには、多くの人たちの血が流されていることを忘れてはならない。 三里塚から戻ると、キャンパスは華やかになっていた。 これからキャンパスでは、心ある教職員から情報がもたらされたりして、予期されていた学費値上げの動きが現実のものとなってくる。 私たちの闘いは、終わることがなかった。─── |
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■2004年9月10日2004年9月10日(金) われわれの内なる<1970年代> 1
■2004年9月3日2004年9月3日(金)「遙かなる青春時代の残照」その後
■2003年5月4日
■2003年4月1日