2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

2004年10月5日(火) われわれの内なる<1970年代> 5

◇ 悲運の全学連委員長を支えた無頼派闘士 ◇
久しぶりに心から嬉しいことがあった。涙が出た。私だけでなく、今回の出来事の関係者数人の方々も同様に泣かれたという。──
 私はこの間、元日大全共闘の方が個人的に始められたサイト「1968年 全共闘だった時代」にめぐり会い、主宰のY・Hさんともメル友になって、時折メールを交換している。私より3歳年長の方だが、丁重に応対していただいている。
 さて、9月3日付けの「甲子園村だより」に、故・藤本敏夫さんの3回忌の集まりの写真を2枚アップしている。Y・Hさんが、かのサイトで「甲子園村だより」を紹介されたところ、早速ご覧になった元日大全共闘の方がいて、目敏くその写真の中に、私たちの怖い大先輩である村上正和さんの姿を約30年振りに発見されたのである。
 その方、諸般差し障りがあるのでT・Nさんとするが、かのサイトのY・Hさんにこのことをメールで連絡された。Y・Hさんは、T・Nさんの気持ちを察し、「是非お知らせしたくて、T・Nさんには無断の転送です。多分彼も許してくれると思います」と、そのメールを私に送ってくれた。そのメールの内容とは、……

「本日メールさせて頂いたのは、『甲子園村だより』の写真のなかで、大変懐かしい顔に出会ったからです。それは、すこしさみしい想いもしますが、京都・南座前のロシア・レストラン『キエフ』で行われた故藤本敏夫氏を偲ぶ同志社大のなかに、一宿一飯の恩義のある『村上氏』を発見し、大変なつかしい想いに浸りました。その時代、彼はキエフでマネージャーをしていたのですが、私が傷心の旅であることを察し、ギンギンに冷やしたズブロッカをすすめたりしてくれたことなど思い出しました。
 仕事が終わった後、彼に連れられ祇園の店へ。(よど号で北朝鮮に行き、はやい時期に死亡が伝えられ、当時予備校生であった『吉田金太郎さん』の両親が経営している店でした。)
 さらに近くの1軒と高瀬川ぞいのもう1軒という具合にハシゴをし、河原町近くの彼の部屋で1泊。
 その後、彼が上京しロシア・レストラン『スンガリー』に来ることになりましたので、ゴールデン街では一緒によく飲みました。彼は故藤本氏とは同期(ママ)で親友でしたので、そのころ加藤登紀子さんの家族が経営していた上記の店でマネージャーとして働いていましたが、しばらくして、郷里の熊本県人吉市(ママ)に帰ってしまい、それ以後会うことはありませんでした。(中略)
 そのころから彼はかなりの大酒のみで、写真を見ても正直ほんとに年取ったなという印象をもちました。それもとてもシャイでナイーブな感性をもったひとでしたから、酒を腹いっぱい飲むことも理解できるような気がしますし、その結果の現在でしょう。彼も傷つきやすく優しいこころを持っていたひとなので身体が心配でしたが、人吉に帰りそれなりにしぶとく、精一杯生きてきたということが伝わる写真です。(ちなみに、写真のいちばん右の人です。)」

 藤本さんと「同期」(実際は村上さんが1年下)だということと、「人吉市」(阿蘇郡小国町が正しい)という記憶違いは、約30年も前のこと、仕方ないだろうが、読めば判るように、想いの込もったメールだ。私も、T・Nさんの気持ちを察し、藤本さんの1周忌と此春寮の集まりでいただいた参加者名簿に記された村上さんの実家の住所・電話番号を、「すでに公開されているものだから」といって知らせた。Y・Hさん同様、怖い大先輩も「多分許してくれる」と思って「無断」で。
 おそるおそる、T・Nさんは電話されたのではないだろうか。結果はどうだっただろうか。村上さんは度量の深い方だから、きっと大丈夫……

「ありがとうございました。九州・阿蘇に20年まえに帰郷された村上さん。会えなくなって30年近くになっても『日大のT・Nです』ですぐに分かっていただきました。なんだかあまりにも懐かしすぎるので、お互い声がうわづってしまいそうでした。
 写真の中の村上さんは、風貌こそ“年取ったかな!”とは思いますが、おそらく今もあの当時のなにか大切なものを持ち続けていらっしゃるのではないかな、とそんなことを感じさせる電話でのやりとりでした。
 あまりにも突然の電話で本人もほとんど絶句!『ワーなつかしなー、本当にT・Nか、よう憶えている!』なんと切り出そうかとチョット緊張気味で『村上さんのお宅ですか? 正和さんいらっしゃいますか?』『わたしです?』『東京から電話しています、憶えていますか? T・Nです』……(どうもさいきん涙腺がゆるくなっているみたいだ……目がかすんでいる)こんなやりとりから始まった懐かしい電話は、気がついたらそれから15分以上続いていました。
 ほとんど呆然自失気味の時代に、なにもかも知った上で、なにも言わずに受け止めてくださった村上さんの久しぶりの声。いまお母さんと二人ぐらしであること、帰って20年たったこと、10年前にお父さんが亡くなったこと。
 藤本さんの臨終のとき、その後の鴨川での葬儀の時、ずうーと一緒にいたこと、青山葬儀場へは行っていないことなどなど……
 身体はどうだ、大丈夫か、この年になるとどこかここかが悪くなって、でも、やっぱり生きていてよかった! ほとんどバラバラに散っていった、あの若い日の想い出が見事によみがえるようでした」

 T・Nさんが「茫然自失気味」だったのは、「爆弾犯」にデッチ上げられたことにある。その後、長い裁判闘争によって、冤罪が立証され無罪が確定されたが、彼らが京都で出会ったのは、「爆弾犯」にデッチ上げられ、周囲の眼も厳しかった1970年代前半のことだ。無罪が確定したとはいえ、T・Nさんは、世紀が変わった今でも、国賠訴訟(国家賠償請求訴訟)を闘っているという。凄いわっ! 今でもT・Nさんの闘う意志が持続しているのに、あの京都での出会いがあったとしたら、素晴らしいことではないか。
 私は、怖い大先輩を持ったことを誇りに思った。サイトの主宰者Y・Hさんも通勤途上の車の中で、「何故か涙がにじんでくる」と、9月30日付けの管理人日記で書いておられる。私ももらい泣き……中年男らの、こうした姿もたまには許してほしい。
 ちなみに、9月30日は、奇しくもY・Hさんのサイト開始1周年、そして日大闘争に関わった方々にとっても大事な日であるという(その理由は、Y・Hさんのサイトを見てくれ)。

 怖い大先輩、村上正和さんの話になったので、こういう機会もまずないと思うから、藤本敏夫さんの遺稿集『僕の生涯』の中で、村上さんについて記述されたところを是非とも紹介しておきたい。──

「昭和三十九年春、新聞学研究会に入部してきた村上の言動は他の新入生とは異質であった。彼は黒の学生服で登場し、熊本のヤクザと親交のあることを公言し、義理と人情がこの社会の最も大切なルールであることを力説した。(中略)
 研究会の会長であった私はそんな村上の無頼なる振舞いに、深層で拒否反応はあったものの、ある親しみを感じていた。その親しみは私の挑発に半ば乗って村上が京都府学連主催の街頭デモに参加したことによって倍増し、村上はその時から幾多の紆余曲折がありながら、反日共系新左翼運動の活動家への道を歩むこととなった。
 村上がはめられた私の言葉とは次のような右翼的言辞であった。
『権力と正面からようぶつからんようなもんは根性の入った筋モンとはいえんぜ!』」

 昭和三十九年、つまり1964年、60年安保闘争後の学生運動が低迷期にあった京都の、同志社大学の雰囲気、そして先輩活動家と地方出身新入生との、牧歌的ともいえるやり取りが目に浮かぶようである。ここから、藤本さんと村上さんの生涯に渡る親交が続くことになる。後日談になるが、70年に「キューバ研」(日本キューバ交流研究所。藤本さんは事務局長)の活動のため藤本さんと共に上京したり、72年の藤本さんの下獄にも見送っている。さらに、T・Nさんのメールにあるようにキエフやスンガリーの責任者を努めたりもされている。そうして、臨終の際も……。
 村上さんは藤本さんが言うように、「異質」な活動家であった。同志社の学生運動を支えた無頼派の流れを象徴しているといってもいいだろう。藤本さんと村上さんの強い絆については異議を挟む人は誰もいない。先輩諸氏によれば、お互いタイプが違うことで、最後まで信じ合えたのだという。むべなるかな、である。
 こういう人柄だから、私は、T・Nさんからの突然の電話をも受け入れてくれるだろうと信じていた。気持ちが通じ合っていれば、30年の年月の障壁など突き崩す。

 ところで、前回の「甲子園村だより」で記述したように、1969年夏、第2次ブントは、赤軍派が誕生、党内・党派闘争が熾烈化する。そうした中で、当時全学連委員長という立場で保釈直後の藤本さんは、身の危険を感じ逃避行を余儀なくされる。大阪市内や長崎・平戸など転々とする。そうして同年暮れ、村上さんの実家、熊本県阿蘇・小国へと向かう。ここの記述は、(いささか変な譬えで申し訳ないが)高倉健の任侠映画を観るようだ。──

「小国に着いた時、空は一面粉雪が舞い、森閑とした駅舎を出る時、私は一人だった。道は暗く定かではなかったが、舞い散る雪のほのかな明りが前に出て歩くことを決意させた。
 橋のたもとまで歩いた時、雪はその勢いを少し増し、橋の向うが見えなくなった。
 橋の向うに何かあるのか。村上の家は今もあるのだろうか。あの威厳と慈悲心のない混ぜになった親父はいるのだろうか。(中略)
『時代の終わりの時代ということなのか』
 似非インテリの世迷い言のような一人言に苦笑いした時、橋の中ほどから突然傘が現われ、音もなく小走りに近づいて、その傘は私の眼の前に差し出された。
『遅うなってしもて』、宇宙の闇から白いベールをくぐり抜けて、村上の親父がそこに立っていた」……

 藤本敏夫さんの生涯の軌跡をよくよく見ていけば、世間でよくいわれるように、人気歌手・加藤登紀子さんと獄中結婚して話題をまいた、学生運動華やかりし時代の栄光の全学連委員長という<陽>の印象が強い反面、実は<陰>での悲運、悲哀、苦悩が読み取れる。そして、その藤本さんの一年後輩として生涯に渡って支えた無頼派の闘士こそが村上さんだったことに異を唱える者はいまい。
 私たち、後々の世代からすれば、遠い雲の上の存在だった2人──殊に村上さんは怖くて近寄りがたい大先輩だった。
 私にとって今でも記憶に残っているのは、70年代の終わり、確か寮の30年史『プロテスト群像』の出版記念だったか、寮母さんの何かの記念日だったか……京都御所のほとり、旧新島会館で行われた集まりで、壇上で一緒ににこやかにされていた2人の姿だ。その時の藤本さんは輝いていて、役者が違うと感じた。私たちなど、端っこで羨望の眼で眺めるしかなかった。
 もう、涙が止まらない。──
 ちなみに、私も熊本出身、ここ甲子園は藤本さんの地元でもある。卑小なる私は、偉大なる先輩に頭を垂れるしかない。

  「親にもらった体一つで 戦い続けた気持ちよさ
   右だろうと 左だろうと
   わが人生に 悔いはない」
      (『わが人生に悔いなし』なかにし礼・作詩/加藤登紀子・作曲)



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