
2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。
| ■2004年10月15日(金) われわれの内なる<1970年代> 6 |
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◇ プロテスト群像──ある寮母さんの想いと寮生との絆 ◇
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| 今回は、前回の主人公、藤本敏夫さん、村上正和さん、そして私たちが過ごした同志社大学此春(ししゅん)寮と、その寮母さんのことについて述べる。 ここに一冊の本がある──『プロテスト群像〜此春寮三〇年史』。1977年4月10日の発行。B5変形判、306ページ、上製、箱入り、資料や年表も充実し堂々とした本だ。発行人は、砂野文枝(いさの・ふみえ)。世間ではまったく無名の一大学寮の寮母(当時)である。編纂委員として、砂野寮母の他、5名の元寮生の名が記され、砂野さんの意志を支えている。編纂委員を代表して、小柳伸顕氏が「あとがき」を書いている。長年、大阪・釜ケ崎でキリスト者の教師として活動してきた人だ。 全国の大学寮は数多くあれど、一介の寮母さんが発行した寮史は、おそらくこれだけだろうと思われる。1972年春から砂野さん個人で計画を立て、5年後の77年に完成となった。丁度72年は、私も学費闘争で逮捕されて保釈された頃であり、砂野寮母さんには身元引受人になっていただいたが、この頃、砂野寮母さんは、健康にすぐれず、おそらくなんらかの想いがあって、自己史と重なる寮史の編纂を思いつかれたものと察する。 此春寮は、定員30名ほどの小さな寮として、同志社大学と相国寺の裏手の閑静な住宅街の中にある。1940年(昭和15年)に、京都市上京区相国寺門前町631の1、同志社校内の一角に建てられた。そして、1962年(昭和37年)、現在の上京区塔ノ段町藪の下419に移転している。寮名の「此春」とは,校祖・新島襄の遺言ともいうべき七言絶句「尚抱壮図迎此春」から採り、「新島のその身は再起不能の病苦のなかに倒れこんでも、やがて設立される同志社大学の精神的基幹は『此春』を迎えるのである」と、本書に命名の由来が記されている。そう、「壮図」つまり壮大な事業(新島の場合、同志社大学設立)の意志を抱いて「此春」を迎えるのである。われわれも、どんな苦難に遭っても、変革の大義を抱いて「此春」を迎えるのだ。 此春寮は元々、神学部の寮として出発している。時に社会的に名が出る牧師がいたら、 この寮出身ということも少なくない。一般寮になるのは、1965年(昭和40年)、開放闘争を経てのことである。この時、神学部当局は「閉寮」を通告、これに対し寮生はハンストで対抗し、一般寮化を勝ち取る。その後、かの藤本敏夫さんをはじめ、数多くの闘う寮生を輩出していき、まさに全同志社だけでなく全国の学生の最先頭に立って、ベトナム反戦闘争から安保─沖縄闘争、学園闘争を担っていくのである。 さて、砂野文枝さんは、お母さんも先に寮母として就き、その後、1938年(昭和18年)1月に寮母の職に就いている。まだ戦時下のことである。爾来、終戦を挟んで、一貫して此春寮寮母として生きて来られた。各世代の寮生からは「ママちん」と呼ばれて来た。今年3月で卒寿(90歳)を迎え、その記念の集いのことは、既に書いている(このサイトにも再録)。現在は京都市内で、卒寮生のY・M君(73年度生)が面倒を見ている。週末ともなれば、関西在住の卒寮生がひっきりなしに訪れている。私など、忙しさにかまけて長年ご無沙汰していたところ、中年太りで体型も変わっていたりで(昔はなあ、細身でカッコ良かったんだぜ)、会っても忘れられていたことがあった(苦笑)。身元引受人に忘れられたら情けないな。 Y・M君は、独身を通し、砂野さんも同様で、老後の面倒を見ている。う〜む、こういうことも世間ではまずない話だ。しかし、よく考えてみると、ここに、寮母と寮生の強い絆がある。そうして、卒業後、何十年経っても、毎週、卒寮生が尋ね、折りに触れ集まりも催されている。これも、まずないことであろう。これから何度集まれるか判らないが、これまでさほど協力できなかった反省から、ささやかながらでも協力していこうと思っている。 ところで、此春寮は、激動の1960年代から70年代にかけて、定員わずか30名の小さいながら強固な砦、言葉の真の意味で闘いの<拠点>として在った。これは確かなことだ。そして、藤本敏夫さん、村上正和さんのような優秀な学生運動活動家を輩出した(私も、平の一活動家として、その末尾に連なった)。これも事実である。警察権力による寮の家宅捜索もあった。こうした中で、「暴力学生」といわれた若き活動家を支え、叱咤激励し、時に慰めたのが砂野寮母さんだった。警察権力の家宅捜索には待ったをかけたり、逮捕された寮生の世話に奔走したり(デモで逮捕された者ばかりではなく、酔っぱらって警察に留置された人もいましたが)、まさに肝っ玉母さんね。デモや集会のある日、寮でくすぶっている者が寮母さんに見つかれば叱られ、デモや集会に追い立てられることもあった。 かつては気づかなかったが、砂野さんが、これほどまでに若い学生の闘いを支えたのには、戦時下にあって戦場に送り出された寮生の姿が、まだ若くして寮母として就任した砂野寮母の、物悲しい青春の残照としてあり、これが原点となっているのではないか、と最近思うようになった。私のような生来愚鈍な者でも、50歳も過ぎれば、そういうことが判ってくるようになってきた。 個人的な想い出をいえば、暑い京都の夏(今は冷房が付けられていると聞くが、当時はなかった)、キャンパスにも寮にもほとんどの学生が帰省している中、閑散とした寮内で秋からの運動の準備をしていたこと。どういうわけか、大阪の生協で働いている、ある先輩、よく肉の塊と酒を持ってよく寮を訪れていたこと(失礼だが、大阪から寮まではけっこう時間が掛かるのに、この時、この先輩はどんな想いだったのだろうか。また、肉の塊は、生協から余り物をくすねて持って来ていたのかと思っていたところ、身銭を切って買ってきてくれていたということを最近知って、あらためて感動)。逮捕されることになる学費闘争のさなか、寮と学生会館とバリケードを往復した日々。学費闘争後、消耗して長い総括文書を書き、それをガリ版で切り(カッティングね)、後輩のM・K君が手伝ってくれて印刷(スッティングと言いましたね)したこと……などなど。 書名の『プロテスト群像』の「プロテスト」とは、旧来のキリスト教神学に対してプロテストする者、ひいては旧来の価値観や旧体制に対しプロテストする者という意味が込められているという。いいタイトルだ。 私たちは、かつて若き日々、此春寮で共に培ったプロテスト精神を想起し、持続していきたい。 冒頭に名を出した小柳信顕氏は今でも釜ケ崎で活動しておられるという。小柳氏には『教育以前〜あいりん小中学校物語』(田畑書店刊。1978年。現在絶版という)という優れた著書がある。こういう生き方もまた、此春寮の良心ともいえる。 私たちが寮生であった当時、よく読まれていた詩集があった。1965年に25歳で亡くなった元寮生・植田逸雄さんの遺稿集ともいうべき詩集『異端宣言』だ。今は手元にないが、次のフレーズだけはよく覚えている。── 「異端とは闘うことである」 反動の嵐の中にあっては<異端>的存在として、常に<闘う>砦であり続けた此春寮は、寮史の編纂対象となった30年の倍の60年余の歴史を刻んだ。寮史に記載された以降の30年はいかばかりだっかた? これからも真に<闘う砦>としてあり続けていただきたいと、老境に差しかかったOBとしては心から願う。かつて<われわれの闘う拠点>であった学友会(5学部自治会も。寮OBのK・Kさんの影響が今でも強いと思われる神学部自治会は解散を拒否)や学生会館がなくなった今、殊更にその想いは強い。 『プロテスト群像』は今、ほとんど入手困難である。ネットで調べると、ある神戸の店で、なんと1万円の値が付いていた。本書の価値は、値段だけではない。 ![]() ▲『プロテスト群像』表紙 ![]() |
▲『プロテスト群像』本文