
2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。
| ■2004年10月21日(木) われわれの内なる<1970年代> 7 |
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◇ 海を渡った2人の先輩活動家(1) ◇
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| 私が生きている間に、どうしても会って話を聞きたい先輩活動家が2人いる。── 先輩のM・Yさん(1962年度生。これは“1962年生まれ”ということでは勿論なく、“1962年入学”という意味である)からメールが来ていた。その添付ファイルに『個と共同(改定版)〜藤本敏夫追悼2周年に寄せて』があった。この初版は、既に述べた藤本敏夫さんの1周忌に集う会で配付された小冊子『追悼 藤本敏夫』に収められている。M・Yさんらしい難解な文章だ。 そこに、初版には出ていなかった記述があった。── 「よど号でピョンヤンに飛んだ若林(盛亮)君が30年の月日を経てまもなく帰日しようとしている。当時の路線と方針については真面目に総括されなければならない。しかしそれとは別に若林君の大学時代のサークルは文化団体連合(文連)の広告研であり、観光事業研であった。彼が自治会活動から出て来たのではなく文化サークルから出て来たことに加えて、彼は単独で行こうとしたのではなくあと2名が続こうとしていた上に、この3人をサークルの30〜40人が支え上げていた(サークル組織の機能)ということである。62・63世代の後で同志社学生戦線をまとめていたH、K、YにしろN、T、中大で死んでしまった望月、矢谷にしろこの事実に驚く他はないと思う。私も同じである」 若林盛亮さん──1970年春、赤軍派の一員として「よど号」ハイジャックで北朝鮮に渡り、今また「拉致疑惑」で世間の注目を浴びている。当時23歳、同志社大学の学生だった。私は1970年入学だから、彼らが飛び立ったのと入れ代わりに同志社大学に入学ということになる。当時、同志社大学が赤軍派の発祥の地であり拠点であることは、故郷熊本でも知られており、「あのアカの大学に行くとね」などと言われたこともある。 私たちが大学に入学し、学生会館を行動の拠点としていた中で、「若林」という名は、伝説的でさえあった。文学部の先輩に、やはり若林という人がいて、この人も獰猛な人だったが、同志社で若林という名は偽名でも使うなと諸先輩に言われた、笑い話にもならない話がある。 M・Y先輩の記述は、当時の同志社の学生会館の雰囲気を象徴しているように思える。この頃は、過激であればあるほど人気があった。赤軍派は,もちろんブントの中から出てきたのであるが、70年当時、赤軍派の他にもブントの中には幾つも分派があった。戦旗派(この中にも荒派、関地区、神奈川左派、さらぎ派など数派)、叛旗派、情況派……しかし、知名度で赤軍派に勝る分派はない。お年寄りや、はたまた若いOLに戦旗派とか叛旗派とか聞いても誰も知らないが、赤軍派なら10人のうち10人全員が知っているほどの知名度だ。 過激な者の人気が落ち、過激であることがヤボったいと思われるようになるのは、そう、70年代半ば、いや72年の連合赤軍事件後あたりからだろうか。 若林さんら「よど号」の人たちを見ると、時代の流れに取り残され、さらには遠く異国の地で老境に入ろうとしていることに、なにか青春の痛みのようなものを感じて、やるせない気持ちになる。重信房子さん逮捕のテレビの映像を観ても、そうだった。さらには、街を歩いて、時折目にする50代前後の新左翼活動家の指名手配のポスターを見ても……。行き掛かり上、そういうことになったと思えばいいのか。彼らは、田舎の高校では秀才で、将来を嘱望されていた者がほとんどだったと思う。私が知る限り、当時は時代の最先頭を疾走していた者らだ。今は、時代の流れに取り残されてしまったかのように思われる。人の運命とか宿命とかいうものがあるとするならば、そう思うしかないのか……。 東大全共闘議長の山本義隆さんだって、時代が時代でなければ、湯川秀樹、朝永振一郎氏に続くノーベル賞クラスの頭脳だったことは、よく知られる。「よど号」グループの小西隆裕さんは東大の医学部、並の頭では入れない。安田講堂の闘いでの行動隊長だった故・今井澄さんも東大医学部、こんな秀才連中が暴れ回った時代だった(ちなみに、50代あたりの医者、仮に町医者でもご注意を! 昔は「暴力学生」だった人も少なくない。医大、医学部というのは、けっこう過激だったんだぜ。重信房子さんが逮捕された後、逃亡を支援したということで、元ブント系分派の指導者で徳洲会所属の医者、M・T氏が逮捕されていることは、ひとつの象徴だ)。 いささか話が逸れたが、若林さんは、長髪のバンド青年で、みずからのバンドも持っていて、けっこう人気もあったという。その上、広告研とか観光事業研とか、ずいぶんと幅広いことだ。今では広告研究会などのメンバーが過激派、それも最過激派の赤軍派になるということは考えられないことだが、そういう時代でもあった。ちなみに、同志社学生放送局などは、三里塚の闘いの実況放送をキャンパスに流す試みさえやった(途中でヤバくなって中止したが)。 先輩M・Yさんが書いておられるように、早ければ来年にも若林さんら「よど号」メンバー4人が帰国するといわれているが、「当時の路線と方針について真面目に総括されなければならない」。私たちも、まだまだ60年代、70年代の<影>から逃げることはできない。若林さんや小西さんら時の秀才たちが叫んだ「国際根拠地」「単一の国際非合法党建設」「世界党」「世界赤軍」「世界革命戦争」「国際党派闘争」……過激な言葉も、ここまで乱発されるとインフレと、時に“信用不安”を起こす。 殊に、関西のブントは、60年安保闘争以後も勢力を維持し、学生運動、労働運動にも根を張っていたとされる。これが、疾風怒濤の時代の荒波の坩堝で、一気にウルトラ急進化し、他の新左翼諸党派が言わないようなスローガン、言葉をマジに発した。私など、入学すぐの学生大会の議題に、「インドシナ革命戦争勝利!」はまだしも、「今秋、前段階武装蜂起貫徹!」などあって、度肝を抜かれた記憶がある。学友会(この時は、確か、前年に「ポツダム自治会解体」とかで学友会や自治会を解体していたから、学友団だったと記憶する)が仕切る学生大会ですよ、凄い「アカの大学」に入ったもんだと驚いた。 関西ブントから赤軍派は生まれ、関西ブントは赤軍派分派後も、労働者を中心として組織を維持、戦旗派を名乗る。ところが、元は同じ、こちらも赤軍派に“挑発”されて、同様のスローガンを叫ぶようになる。そして、みずからも「蜂起・戦争派」と規定し、非合法組織RG(エル・ゲー)の建設に取り掛かる。他方、(今の荒岱介さんを中心とする)東京の戦旗派も負けじとばかりに「恒常的武装闘争」などという。こちらはRGの代わりに「共産主義武装宣伝隊」なんてフラクションも作り「軍事を孕む党」などという。過激な言葉のオンパレードです。こうした過激な言葉の競い合いをやる一方で、中大ブント主流派=叛旗派という分派は、みずからを“吉本主義者”と自称するように、難解そうな美辞麗句のオンパレード(当初、私のような田舎出の者には、カッコいいように思われるのだが、なにか「論語読みの論語知らず」のように感じられて、ついに異和感を覚えるようになった。望月上史さんを40日余り監禁して死に至らしめた残虐さを孕むことを想起すると、その残虐さを糊塗するマヌーバーかいなと思ったものだ)。 3年前から、「よど号の子ども」らが続々と帰国している。一昨年秋、若林さんの子息、貫徹君も、みなと一緒に帰国した(第2陣だったと記憶する)。どういう因果か、同志社大学全学闘の仲間だったK・T君が、アパートなどが決まるまでの間、彼らをしばらく自宅に泊めた。K・T君とは、一時義絶していたのだが、「君もたまにはいいことをやるじゃないか」と、関係を修復した。それはそうだろう、10代で世間のバッシングを全身に浴び(それも、親のせいで。子供らには責任はない)、祖国とはいえ見知らぬ地に、海を渡って来るわけだから、心細いだろうに。 殊に、死亡したとされる岡本武さん(かの岡本公三さんの実兄。岡本兄弟は私と同郷で、いつもどこか気に掛かる)夫妻の長女Hさんの今後の大変さは想像を絶する。K・T君は、他の子と違い、身寄りが途絶えている彼女の住民登録手続きなどに奔走した。K・T君のやったことは、悪いことなのか!? 人間として、いいことではないのか!? もともとK・T君は、主体(チュチェ)思想を信奉するわけでも、赤軍派のシンパでもなかった。高校時代から、最初に入った中央大学では中核派で、主体思想とは対極の、いわゆる「反帝・反スタ」思想がこびり着いている男だ。彼がマルクスやレーニンを読んでいるのは見たこがない。トロツキーやローザなどだ。「彼ら反革命がわれわれに鉄をもちいるならば、われわれはこれに対し鋼鉄をもって応えなければならない」というトロツキーの言葉は聞き飽きるほど聞いた。 それが、興味半分で総評か何かの旅行団に紛れて北朝鮮に行き、田宮さんらに会ったのが機縁だったという。義理と人情に厚い全学闘精神、「子供らをよろしく」と言われれば、誰しも断りきれない。特に、人の好いK・T君は──。 K・T君は、子供らの帰国の少し前、故・田宮高麿さんの奥さんの手記の出版の話を持って来た。K・T君でなければ有無を言わさず断っていたところだが、出版を引き受けた。これは、森順子(よりこ)著『いつまでも田宮高麿とともに』というタイトルで世に送り出された。同時期、「よど号」グループから離れた八尾恵さんの『謝罪します』が出版されたが、こちらのほうは大きな話題となった。八尾さんが、当社の地元の高校(甲子園の高校野球で、プラカードを持つ高校ね)出身だということで、著書の端々に、この界隈のことが出てくる。藤本敏夫さんも、この界隈の出身、遺稿集に出てくる喫茶店は、今もある(ここからすぐそこに)。森さんの手記は、一部には注目されたが、黙殺され、森さんらの主張は世の中の人々にはなかなか届かない。 一度ぐらい……と思い、K・T家に泊まった子供らにごちそうした。せめてもの慰労と激励の気持ちにすぎない。その流れでカラオケにも興じた。ピョンヤンにもカラオケのラウンジのような店があることを教えてくれた。 貫徹君は、今時の日本には珍しくなった好青年だった。これなら人に好かれ、厳しい日本の社会でも生きていけるだろう。カラオケもうまく、加山雄三の『海よ』を堂々と歌い上げた。 ところが、この国では、そうした、ささやかな宴会でも監視されているらしい。それからひと月ほど経った頃、ある日の朝7時、わが家の前に警視庁公安の刑事5人が立った。家宅捜索である──。4時間近くも掛かったが、何も出てこなかった(出てくるわけないだろう!)。K・T君の自宅には、すでに子供らが泊まっている間になされたが、これも民主社会にとっては明らかに違法であるし、嫌がらせとしか思えない。こちらは、一度は仕方がないと言えば仕方がないと千歩譲っても、この後も子供らのアパートを何度も尋ねたりするのは、いかがなものか。せっかく祖国で自立して生きてゆこうと思っていても、逆に追い詰めていくことになる。祖国の人間は、そんなに卑劣なのか。たとえ親が犯罪を犯しても、子供の将来を見守るという日本人の美徳はどこにいったのか。 以来、一人を除いて彼らには会ってはいない。伝え聞くところによれば、「松岡さんには迷惑を掛けた」と、子供らも、ピョンヤンの若林さんらも、心苦しく思って配慮しているということだ。例外的に会っている一人、K・Yさんは、偶然にも、アルゼからの出版差し止め仮処分事件を受任していただいているK弁護士の事務所で働いていることで、会う機会があるわけだ。K弁護士も、かつては京大で学生運動の闘士だったそうだが、事情を判っていながら、偉いと思う(普通は「面倒を見る」と言葉では言っても、雇用するまで踏み込む者は、まずいない)。 34年間余りも異国の地で過ごしてきた先輩活動家・若林盛亮さん──“歴史のいたずら”で海を渡ることになった若林さんにとっての34年間は、どのようなものだったのだろうか? その本当の想いを聞ける日は来るのであろうか? もう34年余りも経ったのだから、1日も早く祖国の地を踏み、歴史の闇の彼方に隠された<真実>を語ってほしいと、心から願う。たとえ、しばらくはブタ箱のまずいメシを食うハメになっても、いろいろと厳しい異国の地で余生を過ごすよりは、大いに意義があると思う。 先輩M・Yさんら、先に引用した文章にあるように、世代は前後するが、同時代を生きた人たちにとっては、いつまでも「当時の路線と方針については真面目に総括されなければならない」と思い続けているし、故・藤本敏夫さん、故・望月上史さんらと同じく、若林盛亮さんの名も忘れられてはいない。諸先輩の方々、ほとんど50代半ばから後半、M・Yさんなんかもう還暦でっせ、今や老境の部類に入る。「若きボリシェビキ」ではなく「老人行動隊」だよ。さほど要領よく転身できない同志社の活動家の体質だろうか、みなさん、決して全てを清算することなく、なにか心の澱に残して生きておられるようだ。こういう先輩たち、オレは好きやね。 若林さん──あなたも、そして私(〜たち)も、闘いの拠点としていた同志社の学生会館も、今は解体されて、もうありませんよ。学友会や自治会も……。 しかし、私たちの心の中には、あの堅忍不抜の闘う拠点=学生会館はいつまでも在り続けます。 「Ich war,ich bin,ich werde sein! (わたしはかつて在り、いま在り、こんごも在る)」(ローザ・ルクセンブルク「ベルリンの秩序は維持されている」) |
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■2004年10月15日 われわれの内なる<1970年代> 6
■2004年10月5日 われわれの内なる<1970年代> 5
■2004年10月1日 われわれの内なる<1970年代> 4
■2004年9月24日 われわれの内なる<1970年代> 3
■2004年9月17日 われわれの内なる<1970年代> 2
■2004年9月10日 われわれの内なる<1970年代> 1
■2004年9月3日「遙かなる青春時代の残照」その後
■トピックス再録 日々雑感──備忘録風に
■2003年5月4日
■2003年4月1日