2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

2004年11月19日(金) われわれの内なる<1970年代>8

◇ 悲運の理論家・田原芳(かおる。本名・中島鎮夫)さんのこと(1) ◇
 突然に大阪で労働運動をやられているOさんという方から電話いただいた。54歳というから私より1つ年上だ。
「突然に失礼します。H・Kさんから紹介していただきました。実は田原芳さんの論文集を復刻したいので、手伝ってもらえませんか。まだ入手していない資料も貸してください。これは私が個人的にやることで、100万円を用意しました」
 私が出張中にも電話いただいていた。この前に、「7」で採り上げた先輩のM・Yさんから、「64年度生のHらが論集を作ろうとしているので、連絡があったら、資料を貸してやってくれないか」と言われていたので、この件かと思っていたが、違っていた。
 Oさんは、「同志社とは関係がないですけど...」と恐縮されていた。聞くところによれば、大学には行かずに、高校を出てからしばらく赤軍派系の「革命戦線」(RF)という大衆組織で活動し、高校の同級生が同志社の二部学友会で活動していたことから、同志社の学館には出入りしていたという。二部学友会は学館の1階にあった。2部学友会のBOXは、70年代初頭、京都の革命戦線(RF)の残党の唯一の拠点だった。
 一方、私たちが拠点としていた一部学友会は2階にあり、"別館族"からは尊敬と侮蔑の意味を込めて「2階」と揶揄されていた。外部の人らには判らないが、自治会やサークルなど学館周辺にいる者にしか判らない、一種の"隠語"である。
 多数の活動家が出入りする同志社の学館だったから、Oさんには面識がなかった。
 Oさんは、以来ずっと小さなブント系の組織で活動してきて、40数名の労働運動組織を率いて、今に至っていると自己紹介してくれた。2002年3月、日比谷公園で、イスラエルのパレスチナ侵攻に抗議して焼身自殺した桧森孝雄さんは長年の仲間だったという。先輩M・Yさんが送ってきた文章によれば、桧森さんの遺書には「田原理論の総括」が必要なことが書かれていたという(M・Yさんはなんでそんなことまで知っているのか、京都における、古い活動家のネットワークの広さに驚く)。

 さて、田原芳さんのことである。田原さんは、私たち同志社で学生運動に関わった者にとっては、藤本敏夫さん同様、伝説の人である。藤本さんが実践家という面、いわばオモテの人というイメージが強い反面、田原さんは理論家であり、背後から運動をバックアップする、いわばウラ方の人というイメージがある。藤本さんは、学生運動をやらない人も含め誰もが知っているが、田原さんは、一部の学生運動活動家が知っているにすぎない。今では、忘れられた新左翼理論家の一人である。
 Oさんが用意した100万円といえば、決して小さな金額ではない。なぜ、Oさんは、汗水流して蓄えた大金を投げ打って、今では忘れられた一新左翼理論家の論文を復刻することを決意したのだろうか?──少なからず関心を持った。
 ここで、田原芳という理論家の人となりをイメージするために、田原さんの経歴を、私も資料提供でささやかに協力した『夢は世界を翔けめぐる〜中島鎮夫(田原芳)未完の年譜』〔中島鎮夫(田原芳)を偲ぶ会・編〕に沿って、ざっと見ていこう。──
 
◆      ◆      ◆       ◆     ◆
 1938年、満州・奉天に生まれる。
 終戦の翌年、1946年に引揚げ、長崎県平戸に居住。
 1959年、2浪後、同志社大学文学部に入学、京都へ。60年安保の前年のことである。1回生で文学部自治会委員に。
 同年11月、高野澄(当時学友会委員長。歴史作家)、佐藤浩一(当時の日本共産党同志社細胞キャップ。労働問題評論家。ペンネームは当時は花井正、のち第2次ブント時代は飛鳥浩次郎)らと共に、日共離脱→同大ブント結成に至る。実際に正式にブント同盟員になるのは、翌年春のことと年譜には記されている。同大ブントの機関誌は『小さな旗上げ』だった。この<小さな旗上げ>が、以降1960年から70年代にかけて、わが国の学生運動に一時代を築くのである。
 1960年、学友会書記長に就任。当時の京都府学連委員長は、同じ同志社の浅川清だった。戦後史を画する60年安保闘争を闘う。
 1961年、京都府学連副委員長、全学連中央執行委員に就任も全学連分裂。この頃から「関西共産主義者同盟」、いわゆる「関西ブント」の中心的メンバーとして、精力的に理論活動を開始。
 1963年12月、学費闘争でハンスト・座り込み闘争のさなか、日共・民青の武装部隊が襲撃し、田所伴樹(故人)学友会委員長らが拉致、監禁、リンチされた、いわゆる「同大事件」が起こり、解決に奔走。しかし、この事件によって、逆に日共・民青は同志社での大衆的支持を喪失する。
 1964年、同志社大学卒業。東京大学生協に就職、東京へ。この当時、今では想像できないが、67年に総代会が日共に暴力的に乗っ取られるまで、同志社の生協はブントが持っていた。また、関西では関西大学、大阪市立大学、東京の明治大学など、ブント系の生協運動も盛んで、田原さんが東大生協に就職したことには、生協運動の絡みと関西ブントの東京での足場作りなどの意味合いがあったものと思われる。
 さらに、この頃、同志社の学生運動活動家が卒業し続々と関西の労働運動に参加していく。
 1965年、東大生協を退職、関西大学生協に転職。同時に、同志社大学の学生運動を指導。
 1966年、全学連再建に向けた理論構築のため、「政治過程論」などの関西ブントの資料も収録した、田原編纂の論文集『プロレタリア独裁への道』が刊行される。この『プロ独への道』は続刊され全3巻。発行所は同志社大学学生新聞局、発行者は3巻とも奈良平靖彦(68年に京都府学連委員長との記録がある)。
 同年10月、ブント再建(いわゆる第2次ブント)。
 同年12月、全学連再建(いわゆる三派全学連)。同志社の蒲池裕治が副委員長。
 1967年、大阪府生協連合会へ出向。
 同年10月8日、羽田闘争。京大生・山崎博昭君虐殺。
 同年11月12、第2次羽田闘争。
 1968年1月から米原子力潜水艦エンタープライズ阻止闘争はじめ三派全学連による実力闘争が常態化。
 同年3月、ブント7回大会。「マルクス主義戦線派」(略称マル戦派)と分裂し関西ブント主導権確立。同時に、同大ブント創設のメンバーであり、マル戦派に移行していた佐藤浩一(飛鳥浩次郎)と決別。
 同年10月21日、国際反戦デー。防衛庁─御堂筋闘争。
 同年12月、ブント8回大会。田原、綱領委員長に就任。
 1969年1月18〜19日、東大闘争。
 3月、同大学館で全学連大会(委員長・藤本敏夫、副委員長・久保井拓三。両氏とも故人)。
 同年4月28日、沖縄闘争。ブント(久保井、さらぎ)と中核派に破防法適用。
 同年6月、同志社、無期限バリスト突入。この頃から水面下では沖縄闘争の総括をめぐり党内闘争、分化が激しくなる。
 同年7月6日、ブントの中央委員会を赤軍派のフラクが襲撃し、さらぎ徳二議長瀕死の重傷で逮捕され、党内・分派闘争公然化。報復として望月上史らを拉致、以後40日に渡り監禁、望月死去。同時に、田原らが作り上げてきた同大ブントも事実上解体。年譜によれば、「同志社大学関係は64年入学生までは関西地方委へとどまり、65年以降入学生は赤軍派へ結集した」と記されている。
 同年8月、ブント9回大会。同時にこの頃、赤軍派も正式結成、別党へ。
 同年10月〜11月、安保決戦。赤軍派なき関西ブントは、10・21中電マッセンストに全力を挙げるが挫折。同大出身で、同じ共同住宅を作った前田裕晤、マッセンストの方針に反対しブント離脱。
 1970年2月、同志社で赤軍派とブントとの党派闘争熾烈化。Oさんに私を紹介したH・Kさん、赤軍派にリンチ受け、報復として東京からの援軍を含めたブント連合派、相国寺裏の此春寮に集結し、入試の真っ只中、受験生の目の前で学館の赤軍派を襲撃、双方に逮捕者多数。
 ブント連合派内でも党内闘争熾烈化し、6月に叛旗派・情況派と分裂。12月に日向派と連合3派(関西、神奈川、さらぎ)に分裂。第2次ブント最終的に分裂。
 1971年4月28日、「蜂起戦争派」統一集会(清水谷公園。連合ブント3派、赤軍派、京浜安保共闘、同大全学闘、京大C戦線など)。こののち日比谷公園で連合3派と日向派の内ゲバ、連合3派敗北。この敗北により、連合3派も崩壊。関西派もRGと烽火派に分裂。また、この敗北によって、関西ブントら連合3派は、折から盛り上がっていた沖縄返還協定調印阻止闘争での政治的登場ができなくなる。
 同年秋、三里塚─沖縄闘争高揚。同志社では学費値上げ阻止闘争が、全国学費闘争の頂点として闘われる。
 1972年2月1日、学費決戦で全学闘100数十名検挙、約50名余逮捕(10人起訴)され壊滅的敗北。同志社赤ヘル最後の政治決戦だった(松岡も逮捕)。これ以降、同志社の急進的学生運動は衰退の一途を辿り、本年2004年の学友会解散に至るのである。
 同年2月、連合赤軍による軽井沢銃撃戦とリンチ殺人発覚。
 田原、政治活動を離れると同時に生協を退職。
 1972年〜4年、転職を繰り返す。
 1974年、神戸市東灘区に喫茶店開店。
 1975年、喫茶店閉店。2月〜8月、神経症で入院。また、胃潰瘍でも入退院を繰り返す。
 同年10月、千里山生協に就職。
 1985年11月、胃ガンが発見され手術。
 1988年9月、千里山生協退職。
 1989年6月14日、逝去。享年50歳。
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 年譜を見るだけでも、壮絶な人生だったことが判る。本日は、これ以上書き進めることはできない。〔続く〕


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