2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

2004年11月26日(金) われわれの内なる<1970年代> 9

◆ 悲運の理論家・田原芳(かおる。本名・中島鎮夫))さんのこと(2) ◆
▲『夢は世界を翔けめぐる』表紙 ▲田原芳さん


 田原芳さんに、生前会ったのは一度だけだった。60年安保後の全学連中執仲間の佐藤粂吉さんに頼み込んで会わせていただいた。この前に佐藤さんには、当時私が出していた雑誌『季節』で三上治氏との対談をやっていただき、また単行本『敗北における勝利』で、60年安保時の全学連委員長・唐牛健太郎さんのことについて寄稿いただいていた。
 1980年代の前半のことだったと記憶する。大阪・梅田の駅前ビルの居酒屋だった。どういうわけか、同じ全学連中執仲間のT・Yさんも同席された。田原さんからいただいた名刺には「千里山生協」と書かれていた。
 細身で浅黒く、表情にそれまでの幾多の苦労が感じられた(いや、田原さんの政治活動の経緯を知った上で見たから、そう感じたのかもしれないが)。年譜等によれば、既にこの頃、健康もすぐれなかったようだ。しかし、心を許せるかつての仲間とのよしみか、明るそうだったが....。もう20年ほど前のこと、その時の話の詳しい内容は覚えていないが、当時私は、60年、70年という<二つの安保闘争>の資料編纂作業を行なっていて、とりわけ初期の関西ブントについてのそれに忙殺されていたから、この件についての話もしたような記憶がある。それについての成果は、『季節』5号、6号という、電話帳のような大部の本になっている(雑誌なのに、この5号、6号だけがカバー付きである。現在、6号はまだ入手可能のようだが、5号は手元にもなく、ほとんど入手不可能だと思われる)。この過程で知り合った高橋順一さん(元・ブント叛旗派。現・早稲田大学教授)が、『リベルタン』(創刊号が廃刊号)という雑誌での書評で、私の作業を「奇妙な情熱」と言ってくれた(誉めているのかどうか判らないが。苦笑します)。
『季節』5号にまとめた「関西ブントの思想」には、1960年代前半、田原さんの書いた政治論文類が数多く収められている。その一つをここで一部引用しておこう。──

「すい星の如く現われ消えた『同盟』。それはそもそも何ものであったか。安保闘争ののちに訪れた分派闘争と混迷の中からすでに立ちあがったもの、そして大管法から憲法改悪に至る反動化を前に新しい闘争の戦列を固めなければならないもの、またあの『同盟』が既成左翼のくびきを絶ちきり更に伸びあがって手を届けさせようとした『新しい我々の党』をそれの一歩一歩の歩みからきづきあげるもの、それが我々であるならば、我々はもう一度この問いに答えなくてはならない。共産主義者同盟とは何であったか。同盟は安保闘争と分派闘争で何を主張したか、成果は、誤りは何か、我々は現在までに何をどの程度に深め発展させたのか、残されている仕事は何か。....」(「低迷の中から〜共産主義者同盟は何を明らかにしたか」1962年)

 田原さんが、同志社にブントを創設したメンバーに加わり、同志社の学生運動が1960年代から70年代にかけて一時代を築き、また全国にその名を馳せた関西ブントの理論的屋台骨を支えたことは確かなことだ。
 第2次ブント系のリーダーや主要活動家で、今に至っても知名度の高い人は多くいる。藤本敏夫さんは言うに及ばず、塩見孝也(一向健)、荒岱介(日向翔)、三上治(味岡修)、榎原均(竹内毅)、八木沢二郎(新開純也。元タカラブネ社長)....。そうそう、重信房子や田宮高麿らだって元はブント系。
 そうした人たちに比すれば、田原さんの知名度は決して高くはない。同志社で学生運動に関わった人たち、せいぜい関西ブントに関わった人たちの一部で知られているにすぎない。東京では全くといっていいほど忘れ去られているという。
 今般、Oさんが「個人的な仕事」として、今や散逸している田原さんの理論作業の編纂をされようと決意されたことは、まさに「奇妙な情熱」だ。私がかつてやったのは、60年代前半の田原さんの理論作業を採り上げたにすぎず、Oさんがやろうとされているのは、パンフレットも全部復刻し、60年代はじめから、政治活動から退く70年代初頭まで全般に渡る。この意味で、極めて画期的で、期待される。この「甲子園村だより」を見て連絡を寄越された方もいる。
〔田原芳論文集の問い合わせ、予約注文は、メールでは oonishi@mva.biglobe.ne.jp
ファックスでは 06─6855─5814 田原芳論文集予約係あてお願いします〕

 田原さんは、66年に『プロレタリア独裁への道』(1。同志社大学学生新聞局発行。発行人は奈良平靖彦)という大部の本をまとめられている。これには、それまでの関西ブント関係の多くの資料、有名なところでは「政治過程論」「第三期論」「革命的学生運動とは何か」なども収録されている。今から思えば、この本は、私たちの世代も現役の頃、いわば座右の書として重宝したし、その後の運動のうねりを予言するような内容になっている。
 田原さんが、その後の運動のうねりを予言していたのかどうかは判らないが、少なくとも以降の運動のために、それまでの理論的成果を整理する必要を感じ、こうした作業をなされたものと思う。やはり、時代の節々で、こうした作業は必要であろう。『プロ独への道』の1は、資料もかなり収められているので分厚いが、2、3巻は、田原さんの単独の論文で、薄いパンフレットである。『プロ独への道』1以降、関西ブントの資料が、きちんとした形で編纂されたという話は聞かない。わずかに、不肖私が一部やったにすぎないが、私はブントの同盟員であったわけでもなく、理論家でもなかったから、問題意識、政治意識も稚拙であった。だから、さほど評価されるほどのものでもなかった。
 しかし、この過程で、数多くの資料を収集でき、これらは今も捨ててはいないから、いつか機会があれば、"老後の楽しみ"として整理できれば、と願っている。
 ちなみに、田原さんの『プロ独への道』の発行人に名を記している奈良平靖彦さんは、学友会書記長や京都府学連委員長など、当時の学生運動の主要ポストを歴任されている。70年代以降は同朋舎という出版社のナンバー2として同社を大きくされているが、まさに小ブル急進主義か、大きくし過ぎて事実上の倒産に至る。いささか個人的な話になり恐縮だが、奈良平さんが発行人として出されていた雑誌『WIRED』(98年5月号)に1ページ「税金泥棒にプライバシーはない!!」などと、私の暴論が掲載されている。取材当初は知らなかったのだが、掲載誌を見て発行人に相当するPublisherに同氏の名があって驚いた。同朋舎倒産と共に同誌も廃刊になるが、その後、奈良平さんの姪ごさんが新たな出版社を立ち上げ、そこで出されているのが月刊『サイゾー』である。此春寮の後輩M・K君が設立時に、そうした経緯を知らずに偶然出資したというが、因果を感じさせる(不肖私も時々、相変わらず暴論を吐かせていただいています)。

 いささか話が逸れたが、歴史は偽造されることなく、正しく記されねばならない。ソビエト・ロシアの歴史を想起するまでもなく、革命の歴史は、勝者によって都合よく改竄し簒奪されかねない。殊に、クロンシュタット反乱のように、敗者の闘いや運動は、<知られざる革命>として正しく記録、総括されないことも多い。同志社や関西のブント系の運動は、あまりによく闘ったが故に壊滅的な敗北を喫し解体した。一部その流れの組織や運動は残っているようだが、かつてのように、社会的影響力を持ったものではない(これには異論もあろうが、反論歓迎です)。
 同志社や関西ブントの運動が一時代を築いたことは、はっきりとした歴史的事実だ。これは正当に評価されて然るべきである。
 今般、私も田原さんの理論復刻の仕事に参加させていただくことになった。ありがたいことだ。『季節』で資料編纂していた70年代終わりから80年代初頭にかけての頃が懐かしく蘇ってくる。
 イスラエルのパレスチナ侵攻に抗議して焼身自殺した桧森孝雄さんの遺書に書かれてあったという田原理論の総括、再検討の必要性は、わが国の歴史の転換点としてあった<二つの安保闘争>の歴史的評価と総括、そしてこれの大きな一角を担った同志社や関西ブントの歴史的評価と総括にとっても大事なことだと思う。
 そして、この大事な仕事が、桧森さんの遺志を引き継ぎ(実際にOさんは桧森さんが亡くなられる直前まで、一緒に活動していたという)、さほど有名ではない(失礼!)真摯なブント系一活動家Oさんの「個人的作業」として、汗水流して蓄えた大金を投げ打ってなされることに、拍手喝采しなければならない。
 また、Oさんは、多くの活動家を輩出した同志社のブントや学生運動の関係でもなく、本来ならば同志社の運動関係者らがやるべき仕事、この点では私も責任の一端を感じないわけではないが、この話を聞いた同志社関係の運動の諸先輩の方々のほぼ全員が、わずかの異議もなく賛同されている。
 こうした過去の資料編纂などの作業に対しては、「懐古趣味」だとかいうような批判が必ず出てくる。しかし、そうではないと思う。かく言う人に限って、語るべきほどの過去の闘いを持っていなかったり、自らの過去の運動の整理や総括をきちんとしていなかったりする。歴史は正しく残されなければならない。よく言うではないか、「旧きを訪ねて新しきを知る」と。
 田原さんや桧森さんの遺志、Oさんの意志に応え、立派な本に仕上げたいと願っている。拙い編集技術の中でやっていた『季節』の頃とは違い、編集スキルも少しはマシになっているから、それを活かさせていただこう。

 ところで、この項のタイトルに「悲運の理論家」と書いた。藤本敏夫さんのところでも「悲運の全学連委員長」と、どちらも「悲運の〜」という枕詞を付けている。まさにその通りだと思うが、この連載の藤本敏夫さんに触れたところで、69年の分派闘争のさなか、熊本・阿蘇の後輩の実家へ逃亡したことを書いた。ところが、逃亡先は阿蘇だけではなかった。長崎県平戸の田原さんの実家にも逃避行をされたと聞く。藤本さんほどの人だったら、関西のみならず、全国どこに行っても顔を知られているから、阿蘇や平戸まで逃げないと身の安全がもたなかったのだろうか。
 この2人の「悲運」のリーダーと理論家は共に今はいない。──
 私たちは、いい機会だから、かつて「何を主張したか、成果は、誤りは何か、我々は現在までに何をどの程度に深め発展させたのか、残されている仕事は何か」(田原「低迷の中から」)を、今、あらためて考えたい。

 田原さんが、学生運動や政治活動と共に関わった生協運動も、同志社の生協は日共に乗っ取られてしまったが、千里山生協はじめ大阪の幾つかの生協は、今も活発に健在であるという。
 最近、田原夫人、洋子さんからOさんあて、次のような手紙が届いたという。───

「O様からの今度の『田原芳論文集』復刻のこと2人の子どもに話しました。
 特に娘は、1972年生まれで、父親の闘病生活の姿しか知らず、とにかく子どもたちにとっては、あまりよい父親像はないようでした。
 告別式の多くの人の参列と、翌年の『中島鎮夫(田原芳)を偲ぶ会』で驚き、自分たちの知らない父親の姿をみたようでした。
 そんなわけで今回のO様のことも驚きながら娘は『お父さんの生きた証みたいなもんやね。内容はわからなくても、できたら私も一冊欲しいなあ』と感動しておりました。
 ありがとうございます」

 きょうの「甲子園村だより」も長くなってしまった。長くなったついでに、藤本さんが田所伴樹(63年「同大事件」時の学友会委員長)追悼集に引用し、また田原さんの追悼パンフレット『夢は世界を翔けめぐる』巻末に引用された『時には昔の話を』(加藤登紀子・作詞)を引用して筆を置きたい。───

「時には昔の話をしようか
通いなれた なじみのあの店
マロニエの並木が窓辺に見えてた
コーヒーを一杯で一日
見えない明日を むやみにさがして誰もが希望をたくした

ゆれていた時代の熱い風に吹かれて
体中で瞬間を感じた そうだね

道端に眠ったこともあったね
どこにも行けない みんなで
お金はなくても なんとか生きてた
貧しさが明日を運んだ
小さな下宿屋にいく人もおしかけ
朝まで騒いで眠った

嵐のように毎日が燃えていた
息がきれるまで走った そうだね

一枚残った写真をごらんよ
ひげずらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない
友達もいく人がいるけど
あの日のすべてが虚しいものだと
それは誰にも言えない

今でも同じように見はてぬ夢を描いて
走りつづけているよね どこかで」

▲丸太抱えし68年10.21防衛庁突入闘争



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