2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

2004年12月10日(金) われわれの内なる<1970年代> 10

◆ 海を渡った2人の先輩活動家(2) ◆
「私はその当時、京都の同志社大学の学生自治会『学友会』の中央委員長だった」──
 これは、伝説の同志社大学学友会委員長、矢谷暢一郎さんの著書『アメリカを訴えた日本人──自由社会の裂け目に落ちて』(毎日新聞社刊、1992年)の一節である。矢谷さんは現在、ニューヨーク州立大学教授(心理学)である。矢谷さんが学友会委員長だったのは、1968年から69年にかけてのこと、同志社の学生運動全盛期の時代だ。
 著書のプロフィール欄には、「1946年生まれ。60年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長。同大中退。77年渡米……」とある。著書出版の時は、ニューヨーク州立大助教授と記されている。
 矢谷さんは、前号で登場した奈良平さんや、内ゲバで亡くなった望月上史さん(本連載10月1日参照)らと同じ1965年度生である。70年入学の私たちにとって、矢谷さんはすでに伝説の人だった。70年4〜6月闘争を最後に政治活動から離れ、同時に大学も中退したと聞いている。私とちょうど入れ違いだ。しばらくして、大病を患ったということは著書にも触れられているが、私たちも在学中に聞いたことがあり、周囲の方々が献血し一命を取り留めたという。結核だったと記憶するが(記憶違いでなければ)、中大で亡くなられた望月さんも結核を患っていたそうで、同志社の学生運動のリーダーたちはなぜに、この時代もう珍しくなっていた結核を患うのか……ちょっと不思議に感じた。
 矢谷さんは、私が大学に入った直後に、長大なレポートを実名で『同志社学生新聞』に掲載されている(3回と思われるが、私が保存しているのは2回分。1回目を本稿末尾に画像掲載)。これに私は非常に感銘を受けた記憶がある。
 タイトルは、『60年代階級闘争総括──権力闘争の開始70年代階級闘争へ向けて』。一章は「69年沖縄闘争総括」、二章が「フランス五月革命の総括と世界──日本階級闘争にとっての教訓」と二章構成になっている。
 最初から「4・28沖縄闘争の敗北と『党の革命』 7・6党内闘争の教訓」という、同大ブントの痛苦な分裂から書き始めている。一部を引用しておこう。──
「だが、『7・6事件』は、(中略)党内闘争の勝利決着を『革命闘争の為に組織した軍事』できりひらこうとする、軍事至上主義=軍事力学主義の産物であった。即ち、党の革命が、『党自身の形成した軍事』の自然成長性によって、逆に解党主義=無政府主義を招来せしめた。我々はこの事を真剣に総括しておかなければならない」
「そして又我々は、党内闘争─党派闘争は『その闘争(論争)の内容や、一方の過ちが権力に対する味方階級の混乱や過ちであると言う点に於いて把握され、その修正を敵権力に向けて組織される様に、相互に展開論争されなければならない』事を確認し、いかなる過ちであろうとも、敵権力と見なしたり、又結果的にしろ売りわたしたりする事は、絶対にしてはならず、又、その意味に於いて、『テロ、リンチ等の肉体的制裁は一切してはならない』事も、この『7・6事件』を契機に意志確認しなければならない」

 矢谷さんは冒頭に、「その過程で生を絶たれた同志、望月上史の名を高く掲げたいと思う」と記しているように、直接的には、ついこの間まで共に闘ってきつつも、志半ばにして斃れた望月上史さんの死からの主体的反省の言であるが、読者も気づかれるように、矢谷さんの言は、この2年後、かの連合赤軍の悲劇として繰り返されることとなる。
 一時代を築いた同志社の学生運動は、69年のブントの党内闘争を受けた分裂、そしてそれまでの学友会運動の歴史を継承し赤ヘル潮流の再興を願って運動を担った全学闘争委員会に対する、72年2月1日学費決戦での全員逮捕攻撃を大きなターニング・ポイントとして、以降70年代半ばまで「最後の過激派」(『シリーズ20世紀の記憶』毎日新聞社)として残りつつも、70年代後半には、ことごとく解体していくのである。

 ところで、伝説の学友会委員長が再び私たちの前に、その名を現わしたのは、1986年夏のことだった。ニュースにも出た(大きく出たように記憶するが、それは私の主観的なものかもしれない)。驚いたのは私だけではあるまい。矢谷さんの名は有名だったから、同志社で学生運動に関わった誰もが驚き、事態の推移を市民社会の片隅から見ていたのではないだろうか。当時、ニューヨーク州立大学博士課程に身を置いていた矢谷さんは、オランダ・アムステルダムでの学会(それも、大学から補助金をもらっての参加だった)からの帰途、突如ケネディ空港で拘束されたのである。77年に渡米し、一度も帰国せずに10年の年月が経とうとしていた。70年代も後半になれば、矢谷さんが『同志社学生新聞』で熱っぽく語った「権力闘争の開始70年代階級闘争」も散発的なものになっていた。大病でベッドに伏し、大学も中退、まともに職に就けないともなれば、考えることも多かったのではなかろうか。年齢も30になって、夫婦で渡米ともなれば、かなりの冒険だったはずだ。この時の想いは、いかばかりだったろうか。
 日本では中退にもかかわらず、異国の地で学士号、修士号を取得、そして博士号まで目前だった。だれしもが、その頑張りを称賛するだろう。子供も2人生まれた。質素ながらも、このまま平穏な学究生活を送ろうとしていたのだが……。
「『あなたは、共産党に入党したことは?』
 私の問いに答える代わりに、ブレッグス氏(注・取調官)は質問を変えた。
『ありません』
『本当に?』
『ありません』
『ジャパニーズ・レッド・アーミーを知っていますか』
『はい、知っています』
 日本の赤軍派のことであろう。
『そのメンバーではありませんか?』
『いいえ、ちがいます』
『正直に言ってくださいよ、ミスター・ヤタニ』
『その事実はありません』
『貴方は逮捕された経験がありますか、ある種の政治活動で?』
 いよいよ核心に入ってきた、と感じた。……」
 学友会委員長だった1968年、「『ベトナム反戦・日韓条約反対』のデモを組織し、京都、大阪、兵庫、和歌山各県の学生と、社会党の反戦青年委員会の労働者達と共に、大阪の中央通りの御堂筋を占拠、埋め尽くした。その際私は、機動隊の警棒でめった打ちにあい、後頭部の十数針の裂傷と全身打撲で病院に担ぎ込まれた。数日間の入院後、大学へ戻ったその日、“騒乱”の責任をとる形で逮捕され、長期留置、裁判送りとなった」(同書より)のである。これも伝説的に語られてきた、1968年の数波にわたる御堂筋突破闘争というもので、矢谷さんがこのうち6月15日、6月28日、10月21日のどれで逮捕されたのか定かではないが、私の記憶では、71〜72年頃、その判決の記事で矢谷さんと、京大C戦線の理論的リーダーY・Tさんの名前が新聞の記事に出ていて、大騒ぎしたことがある。
 ちなみに、私は約10年間ほど、御堂筋に面したビルで働いていて、日々御堂筋の四季の移ろいを眺めて仕事していたが、70年代半ば以降、御堂筋でデモらしいデモを見た覚えはない。矢谷さんらが、何度も御堂筋を占拠した時代は、美しい叛乱の時代だった。
 その時の矢谷さんの罪状は「凶器準備結集・道路交通法違反・公務執行妨害」で「懲役4月、執行猶予1年」ということだったという。数千の部隊を率いての、あれほどの闘争で、まだ罪もさほど重くもなく、ここでも幸せな時代だったといえる。
 矢谷さんにとっては、執行猶予も過ぎた1970年代の初めで、「片が付いていた」はずだったのだが、当局にとっては“片が付いていなかった”のである。俗にいう「ブラック・リスト」に載っていたのだ。
 その後やって来たFBI特別捜査官は、次のように告げたという。──
「米国務省の1976年の情報によれば、貴方はジャパニーズ・レッド・アーミーのメンバーである、となっている。逮捕はそのためです。当局の関心はその一点で、それ以外は何もありません」
 確かに、国務省がそのように誤認したとしても、仕方がない側面もあろう。なにしろ、同志社は「ジャパニーズ・レッド・アーミー」(赤軍派)の拠点校であり、望月さんはじめ周囲も赤軍派の人が多かったわけだから。しかし、ことは人ひとりの一生に関わる問題だ、このような個人情報は正確の上にも正確を期すべきだ。そして、身柄の拘束については、慎重の上にも慎重を期すべきだ。
 頼みの日本領事館は支援を拒否、「大きな力」が、かつての「過激派」に報復しているようだ。心ある手を差し延べ釈放に向けて奔走してくれたのは、大学の仲間たちや上司、日本にいるかつての友人たちだった。そしてオノ・ヨーコも新聞にコメントを寄せ支援してくれた。
「ヤタニさんに対するアメリカ政府の待遇は、全くアメリカらしくないやり方で、びっくりしている」
 さすがにインテリジェンスがあるのか、“塀の中の人たち”の人望も日に日に得てきたことが、文中から窺い知れる。囚人相手に「自主講座」も開いていたという。
 しかし、36日間の拘置を経ての判決はアウト。入管法違反によるビザの取り消しによって国外追放の危機に追い詰められた。
 ところが、マスコミの記事が事態を大きく転換させる。『ニューヨーク・タイムズ』『ニューズディ』『USA・トゥデー』、NBC、CBS、日本の朝日新聞、時事通信……。ニューヨークじゅう、いや全米に渡って報じられ、大きな社会問題になった。
 そして、8月20日、一転「釈放」となるのである。──

 しかし、物語は、ここで終わらない。さすがに、かつては全国の学生運動の先頭にあった同志社の学友会委員長、京都府学連委員長を努めたひとかどの人物、このままでは事を済ますわけにはいかない。一転して逆襲に転じる。
 矢谷さんをブラック・リストに載せ、拘束した根拠となった悪法「マッカラン・ウォルター法」に対して異議を申し立て、自身のブラック・リストからの抹消を求めての訴訟を始めるのだ。これには、多くの学者、マスコミ、法律家、人権擁護委員会などが熱い支援を行ない、遂に1991年6月、矢谷さんを国務省など全ての機関にあるブラック・リストから削除する裁判決定が出されのである。さらに、時のブッシュ政権も、「3年かけて25万人のブラックリストを再審査し、イデオロギー・思想信条が理由で米国入国が不適格と見做された者も、テロリストでなければそのリストから削除する用意がある」(ニューヨークタイムズ)との声明を出した。その最初の人物が矢谷さんだということである。この事件は、米国では「ヤタニケース」といわれているという──。

 いつか、『サンデー毎日』に、デーブ・スペクターとの対談で、「中退なのに、同志社の学長が会いたいと言ってきた」と苦笑しながら語っているのを読んだ。このコピーは取っておいたつもりだが、紛失してしまったようだ。今でも、同志社のサイトを見れば、「著名なOB」に矢谷さんの名がある。「ニューヨーク州立大学教授」の名で(決して「学友会委員長」とは言えないよな)。まあ、中退でもOBはOBに違いないだろうが、なにか、いやな気分がしたのは、私だけではないだろう。中退を強いられ大学を去った時の寂しい想いは判らず、功成った者には「著名なOB」などと尻尾を振る、その根性がいやらしい。
 この連載の10月21日の記事の中で、ピョンヤンに渡った若林さんと共に、死ぬまでに一度会って、話を聞きたい先輩活動家として矢谷さんの名を挙げた。矢谷さんには迷惑だろうが、『同志社学生新聞』に載った論文『60年代階級闘争総括』を読んで活動家の道を歩んだ者としては、自らの闘いの総括のためにも、叶えられないかもしれない願望としてある。私の想いは、今でも熱いし、いつまで経っても尻が青いのかもしれない。
 著書の「あとがき」に、藤本敏夫さんが「私の経験を熱心に勧めてくれた」と書いてあった。そして、昨年8月16日の藤本敏夫さんの一周忌に集う会の発起人に矢谷さんの名があった。何としても会うんだ! と思って駆けつけたが、やはり来られなかったようだ。太平洋の彼方のアメリカは、私にとって遠いようだ──。
 70年に『同志社学生新聞』に書いた論文から20年余り経った著書では、社会変革に対する矢谷さんの考え方は次のように変わっていた。──
「ソ連と東ヨーロッパで、内部の変革を求める人々の大きなうねりが起こっている時、それにつけこもうとする一方の陣営に手を貸すのではなく、冷戦を内側で終わらせる同質の運動が求められている。<六〇年代>に自ら発して答えられなかった問いに、この二十年、私たちは充分答えられるだけの成長をしたのだろうか。少なくとも、<六〇年代>に私たちが批判した政府に、答えさせてはならないと思う」(「あとがき」から)
▲『アメリカを訴えた日本人』(毎日新聞社刊。1992年) ▲『同志社学生新聞』70年5月15日号

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