
2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。
| ■2005年2月14日(月) われわれの内なる<1970年代>11 | |
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◆ ある後輩の突然の来訪 ◆
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| 私が、この連載を開始するに至ったのは、かつて若き日、いろいろな意味で拠り所とし
ていた同志社大学学友会の解散と学生会館の解体が大きなきっかけとなっている。 2月のある日、30年振りに1人の後輩から電話があった。1974年春、私が5回生 の時、ほとんど休眠状態だった「歴史哲学研究会」というサークルで研究会を、ほんの数 人でやっていたところ、新入生として入部してきたM・H君だった。新入生で入部したの は彼だけだったと記憶する。 当時、私たちの課題は、ロシア革命史の捉え返し(クロンシュタット叛乱やマフノ運動 、あるいはトロツキーなどの読み直し)と初期マルクスの解読だったと思う。初期マルク スでは、在野の哲学者・田中吉六(故人)の講演会を、その年、大学側の企画(アッセン ブリアワー)として実現させ、好評を博した。 その際、手伝ってくれたのがM・H君だった。そのサークルは彼が後を引き継いでくれ たが、在学中での彼との関係は、わずか1年ほどのことだった。 ところで、同志社大学学友会は、各学部自治会やサークル団体、応援団、体育会までも 包括する大きな組織で、それ故に年間数千万円の大金が動く。このため、専従の職員を雇 っており、しかし、運動について直接の発言力はない。あくまでも事務処理が仕事である 。私たちがいた時はTさんという初老の人だった。このTさんは、1950年代から学友 会に勤務していたが、1981年に退職されている。きっちりされた方で、学友会が、大 きく揺れ動いた60年代から70年代にかけて維持できたのは、ひとえにTさんの実務力 にあった。達筆な方で、今でも毛筆でしたためた学友会声明が目に浮かぶ。同志社の学生 運動最盛期の生き証人でもある。私のことを気にされていたというが、Tさんにも、いち どお会いしたい。 M・H君は卒業後2年間は民間の会社に勤めたとのことだが、Tさんの後を継いで81 年から学友会管理部に勤め始めたということを、風の便りに聞いていた。 M・H君は真面目で寡黙な男で、彼がTさんの後を継いで学友会の専従の職に就いたの かは、ほぼ想像がつく。 しかし、私が大学を去った後、同志社の学生運動に分裂と混乱が招来される。その萌芽 は、私たちがいた頃にもあったが、まだ私たちの世代で抑えることができた。私たちが去 った後、人格的、人脈的に抑えることのできる者はいなくなったと思う。私が拠った「全 学闘」は「全学闘一派」などと非難され、77年に学友会から追われ、拠点として死守し たのは唯一、此春寮だけとなった。その此春寮も、79年のある日、新学友会の悪質な一 グループによって夜間に襲撃され、居合わせた寮生は夜通し監禁、リンチを受けている。 私たちが在学していた頃には考えられなかったことである。寮母さんが悲鳴を上げて電話 してこられたことを思い出す。 「全学闘」とは「全学闘争委員会」の略称であり、60年代後半から70年代初頭にかけ て、同志社の学生運動を全学的に唯一牽引してきたし、また全国的にもその戦闘性で名が ある。私は「全学闘」の一兵卒として闘い逮捕されたこともあり、「全学闘」という名称 には、言葉には言い表わせないこだわりや想い入れがあるから、私たちが去った後、風の 便りに聞く同志社大学の学友会をめぐる分裂と混乱にはやるせなさを感じざるをえなかっ た。これは、今でも引きずっている。以前に記述した田原芳さんが、みずからが作り上げ てきた関西ブントから放逐され、また組織が分裂・解体していく様を見て、精神的に病ん だことには及ばないにしても、私なりに精神的に病む寸前までいったことは事実だ。 全学闘も70年代後半に入ると、かなり変質してきたといわれる。それはそうだろう、 全ての運動や組織は、長い間には、それを支える活動家やリーダーの人格、そして外的要 因などで変質したり腐敗したりすることもありえる。いつか学友会に電話した際、「松岡 さんの頃の全学闘と、以後の全学闘とは違っています」と言われたが、仮にそうであった にしても、いや、そうであるのなら、全学闘が同志社の学生運動激闘期に一時代を築いた ことは確かなことだから、産湯と一緒に赤子を流すようなことはしてほしくなかった。そ の後の学友会運動は、誰よりもどこよりも急進的であろうとしたブント(─主義)の流れ を汲んだそれまでの運動とは異質なものになったと、私は思っている。 それはさておいても、私は全学闘であったことを誇りに思うし、全学闘は全学闘に変わ りはないから、M・H君の立場も考え、長年、意識的に接触もせず、私との関係も口外せ ず義絶してきた。ただ、2000年に『この人に聞きたい青春時代』を刊行した際、この 本を学友会気付で送ったところ礼状が返ってきた。── 「『この人に聞きたい青春時代』送って頂きありがとうございました。 あの時代の雰囲気が、各々の表現者によって濃厚に切り取られていて、おもしろく読ま せて貰いました。 学友会での仕事を始めて、もう20年近くになりますが、今を思えば、この学生会館別 館という奇妙な空間にまぎれ込んだのも、大学1回生の最初に、すべての授業に幻滅し、 歴史哲学研究会の門戸をたたいたのが、そもそもの始まりでした」 昨年4月に学友会が解散となり、ちょっと気にはなっていたので、昨年暮、知人の在学 生に調べてもらったところ、判らなかった。しかし、なんとか続けて調べてほしいと依頼 していた矢先の電話だったので、この在学生が連絡をつけてくれたものと思っていた。 そうではなかった。学友会が解散するというので、これまでの歴史を客観的に整理して みようと考え、毎年春、新入生に配る『同志社の栞』を1957年から現在まで編纂し、 一冊の本にしたので、直接会って渡したいということだった。彼も彼なりに私のことを気 に掛けてくれていたのだ。私が出していた学生運動関係の本も、かなり購読してくれてい たという。 週末の休みの日、わざわざ甲子園まで、その本『「同志社の栞」資料集──学友会の《 主張》1957〜2004』を持って来てくれた。数日前に出来上がったばかりだという 。本文総頁540ページにもなる労作である。編集・発行は「同志社大学学友会残務整理 委員会」となっている。真っ先に私に届けてくれたことに礼を言い、いい仕事をしたと褒 めた。 確かに客観的に編纂するということで、全学闘時代の主張やアピールなども載っている 。私が書いたと思われる(記憶が定かではないが、この頃の被告団の文章は私が書いてい るので、多分そうだろう)学費闘争被告団のアピールも載っている。 学生運動の衰退は今更言うまでもないが、かつて一時代を築いた同志社の場合も例外で はなかった。 M・H君によれば、学生大会も85年が最後で、以来、自治委員(各学部20名)のな り手探しにも苦慮し、自治会選挙も毎年5パーセントほどだったという。また、サークル も、かつて活動家を輩出してきたところでさえ廃部したりで、佳日の面影もないというこ とだった。特に、社会科学系のサークルは全滅に近いという。最後の学友会委員長ら数人 で、もうもたないと判断し、自主解散に至っり、大学側からの働きかけがあってのことで はないとする。 戦後の民主主義の揺籃期から、60年、70年という<二つの安保闘争>を軸として、 日本が高度成長を遂げるのに歩調を合わせ、学生の自治という意識を、学生みずから真剣 に問いかけてきて、自治会活動が活発だった時代はもう来ないのだろうか。 M・H君も50歳になったという。私も50代の半ばに差しかかろうとしている。私た ちにとって、若き日、同志社大学学友会、学生会館を拠点とした運動の、本当の<総括> の作業を、苦しくともやっていく時が来ているようだ。 この連載も、2カ月ほど途絶えてしまったが、これを機会にまた再開していきたい。 尚、『「同志社の栞」資料集』は、希望者には、なんと無料で頒布するという。私宛に メールいただければ、とりまとめて申し込みます。 |
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