
2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。
| ■2005年2月21日(月) われわれの内なる<1970年代>12 | |
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◆『「同志社の栞」資料集』を読む ◆
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| 後輩M・H君が届けてくれた『「同志社の栞」資料集』を紐解いた。本文540ページ に詰め込まれた同志社大学学友会50余年の歴史は、激動の時代をくぐり抜けてきた、闘 いの歴史であったことは言うまでもない。学生は、学友会の旗の下に結集し、反動の嵐に 抗してきた。この1ページ1ページから、その息吹が感じ取れる。とりわけ、本文を新た に組まずに、当時のまま写真製版して復刻したことで、尚更リアルさが伝わってくる。 同志社大学学友会は、戦後間もない1949年(昭和24年)に設立されたとされるが 、その頃の資料は散逸していて、本資料集にも収録されていない。のちのちに資料集を作 るために運動があるわけではないのだから、おそらく当時は、設立間もないことのドサク サと、時代の混乱が相まって資料類も散逸したのであろうか。だが、戦後の混乱期から民 主主義の揺籃期の中で、どのような想いと経緯で学友会や自治会は創設されたのであろう か。このことは、編者も記しているように「今後の課題」であろう(いや、むしろ、私た ちの世代が在学中にやっておくべき作業だったのかもしれないが)。 本資料集では、わが国の大きな転換点となった60年安保闘争の前夜1957年版から のほぼ全年(1962年版のみ欠落)が収録され、60年、70年の<二つの安保闘争> を中心として、学友会に結集した学生らが時代の空気を敏感に汲み取り、先進的に活動し てきたことがわかる。49年から56年までが未収録で62年が欠落しているからといっ て、本資料集の価値が損なわれることは全くない。本年3月いっぱいで残務整理が一応終 了するというタイムスケジュールの中で、社史編纂資料室や図書館などを駆けずり回って 、短期間の間に、分厚い資料集にまとめ上げたことは、大いに評価されるべきだ。M・H 君も、最後にいい仕事をしたと率直に褒めてやりたい。 60年安保闘争、学生会館問題、深夜の武装襲撃で全国的に衝撃を与え日共・民青が同 志社で支持基盤を失くした「同大事件」、学園闘争と70年安保闘争、71〜72年学費 闘争、それ以降の混迷の中での田辺移転(キャンパスの二極化)……そして50余年の歴 史に幕を降ろす過程は、文字通り壮大なドラマである。 おそらく諸先輩の方々には、学友会が解散したこと、その前に学生会館が解体されたこ と、さらにもっと前に、赤ヘルの大軍でもって70年前後の学生運動を牽引した全学闘が 悲惨な結末を遂げたことさえ知らない方が多くおられるものと察する。 この連載で書き連ねていることを読んでいただければわかるように、70年代半ば以降 は悲惨な話が多い。「激動の70年代」などと叫んでいたことが嘘のように、70年代は 悲惨な季節だった。少なくとも私にとっては……。それでも、── 「甲子園村だより11、読ませていただきました。 冷静に書いておられますが、無念な思いが滲んでいるのが良く分かります。 息子の田辺での入学式、嬉しくて私もノコノコついて行きました。 式は進行し、むさくるしい身なりの学友会の学生数人が新入生歓迎の辞で登壇し、やおら アジテーションを始めました。 学長を呼び捨てにするも、当の学長はにこやかに微笑んでいる大学……、なんて素晴らし い大学だと涙が出そうでした。 卒業式、学長の送辞で、人生に悩み打ちひしがれた時はこの学び舎の事を思い出して欲し い、いつでも尋ねてきてほしい……、言葉だけでもこんな送辞をしていただける大学に改 めて息子はいい大学に行けたと羨ましく思ったものです。 私等は二度と帰って来るなと、石を持って追われる如く放り出されたのですから、さみし い限りです」 とのメールをいただいた。これは、日頃叱咤激励していただいている、「1968年全 共闘だった時代」というサイトを個人的にやられている元・日大全共闘のYさんからだ。 息子さんが同志社の文学部新聞学科出身である。日大に比べれば,同志社はまだマシなの かもしれない(それが大学当局の手だったりすることもあるのですよ、Yさん)。 ちょっと話が逸れたが、よく考えてみると、人それぞれ、事情は異なっても、「無念の 想い」を持って大学を去っていき、今に至っているのかもしれない。 だが、学生会館の跡地に建てられたバカでかい建物を見たとき、私たちがキャンパスを 去ってからの30年の間に、同志社大学は金満体質を身に付けてしまったように感じた。 田辺町(現在の京田辺市)に移転してから、財テクに失敗したとかのニュースを聞いたこ ともある。キャンパスが二極化したことで、学生間の絆が弱まった(どころか、バラバラ に途切れた)とも言われる。それは正しい指摘だ。私たちの時代に、狭いキャンパスにひ しめき合ったことことが懐かしい。そして、学館周辺や出町界隈で夜遅くまで語り合った ことで絆は強まったと思う。 ところで、いささかしつこく蒸し返すようだし生臭いことも書くが、この資料集でも頻 繁に出てくる「全学闘」(全学闘争委員会)のことについて、やはり触れないわけにはい かない。 前回、私たちが大学を去って以降、同志社の学生運動に分裂と混乱がもたらされたとい うことについて記述した。他党派の介入がなく(中核派がたまにビラ撒きに登場するぐら い)、自治会も寮もサークルもみなが全学闘に結集し、和気あいあいと活動していた70 年代初頭からすれば信じがたいことだ。本資料集の後半は、全学闘に対する批判が目につ く。学友会解散の声明文(2003年12月18日)に至っても、「1977年5月19 日全学学生大会に於いて『学友会は今後、同志社大学生の主体性のみに依拠し、党派的団 体による学外からの領導を一切許さない』姿勢が確認されて以来、……」云々とある。こ ちらもしつこい。四半世紀余りも同じことを言っていることに驚く。「1977年5月1 9日」以前の私ら全学闘は余程の極悪漢だったようである(苦笑)。このように、学友会 50余年の歴史の半分は、流れが変わっているので、本資料集の前半と後半では、イメー ジにかなりの差が感じられる。本資料集を手にされた先輩活動家の方々は、どのような感 想を持たれるだろうか。目をむくよ。 「1977年5月19日」の学生大会で全学闘を「放逐」したとされ、同大学生運動の「 革命的飛躍」を克ちとったとするが、78年版以降常に「全学闘」の<影>が見て取れる 。全学闘は、実体的に80年前後には解体したと思われる。それでも尚更ずっと「敵対・ 介入する部分」と記されているが、これについては異議がある。「学友会は今後、同志社 大学生の主体性にのみ依拠し、党派的団体による学外からの領導を一切許さない」という ことについても虚偽がある。「反全学闘」の一点で、T寮の表看板の背後に蠢いていた毛 派のミニ党派「G研」(主力は京大)や、赤軍派系の中で最も政治ゴロ的動きをしてきた P派がいたことは、新学友会の人たちは知っていたはずだ。76年に全学闘が手痛い敗北 を喫した、T寮を表看板にした部隊との内ゲバは、P派のD(OB)、M(他大学)らが G研と結託して仕掛け、当日の現場指揮者はP派のS(OB)だったといわれている。こ れは公然の秘密だ。D、M、Sらは私より年長だから当時30歳を過ぎていたと思う。全 学闘は、負けてばかりではなく、勝ったり負けたりでもなく、民青や右翼含めゲバルトで はずっと不敗であったから、その敗北は深刻だったと思われる。その後、全学闘は一気に 解体に向かう。さらに、手負いの虎に追い打ちをかけたのが「5・19」の全学闘放逐劇 だが、私の性格上、人が傷ついているところに追い打ちをかけるような者に私は与できな い。それも「反全学闘」の一点で、政治的立場が違う者同士が、まさに悪魔と手を結ぶよ うに組んでのことは、いかがなものか。特に、私はかつては全学闘だったわけだから、そ れは私に対して向けられた刃のように感じられた。 さらに、多くの学友会や全学闘の運動に関わった先輩らを憤慨させた79年の此春寮夜 間襲撃、監禁・リンチ事件は、新学友会内の彼らのグループであったことも判っている。 そうしたことをとってみただけでも、「党派的団体による学外からの領導を一切許さない 」ということがキレイ事であることが判る。 話はどんどん生臭くなってきたが、そうしたことは、私が大学を去ってからのこととは いえ、ずっと私を悩ませてきたことだった。それは、私の世代で、運動の後退局面で蠢い てくる政治ゴロや、よからぬ徒輩を抑えてきたと前回述べたが、それは表面的なことだっ たと思う。私たちの世代(もっと狭めていえば70年度生)が75年春に最終的に大学を 去るとともに、ここぞとばかり、よからぬ徒輩らは息を吹き返してきたのだろう。 私たちの世代、つまり1970年度生は、67年〜69年の一大決戦後の「遅れてきた 青年」ではあったが、私たちが大学に入った年には、67〜69年度生という、怖い先輩 らがうじょうじょしていたから、これら先輩方から鍛えられ、誰よりもどこよりも戦闘的 で急進的であろうとせよという同志社の学生運動の革命的精神を継承したと自覚している 。特に私がいた文学部には、この連載の最初に採り上げさせていただいたS・KさんやM ・Hさん、K・Hさん、K・Y(女性。ゲバルト・ローザ!)さん、Kさん、Mさん(赤 軍派がブントと分派するきっかけとなった7・6事件や全国全共闘結成大会でのゲバルト に参加したという)、Tさん、Sさん、Wさん……など多彩だった。 その後、私たちの世代や71年度生らの世代は、71〜72年の学費闘争、沖縄─三里 塚闘争を、68〜69年度生の先輩活動家と共に闘うことになる。この際、ある先輩から 、「71年度生は優秀だが、70年度生は不作」だと評価された。私ら70年度生は「少 年探偵団」などと揶揄されたぐらいだ。しかし、71年度生は、72年以降すぐにほぼ召 還。私たち70年度生は、少ないながらも何とか踏ん張った。本来ならば、私たちの世代 が、後に続く世代に同大学生運動の精神を伝えなければならないところ、やはり「不作」 で小物だったようで、先輩活動家ほどの影響力を残すことはできなかったみたいだ。実は 、それが不十分だったことこそが、72年学費闘争で百数十名が検挙されたことや、それ でブタ箱に入っている最中に起きた連合赤軍事件などで、それらの総括にみなが深刻に悩 んでいたとはいえ、70年代半ば以降の同大学生運動に分裂と混乱をもたらすことになっ たものと、私は私なりに痛苦に反省している。 そのように、いわば過渡期にあった私たちの世代が、思想的、人格的、人脈的に、もっ と影響力を有していたのならば、後々の分裂と混乱は食い止められ、同志社の革命的学生 運動は、例えば三里塚開港阻止決戦や田辺町移転阻止闘争などでも、もっと戦闘的に、も っとラジカルに闘うことができたものと考えている。78年の三里塚開港阻止決戦では、 同志社の旗一本見ることはなかった。田辺町移転阻止闘争でも、どのような闘いをしてい るのか、なんら伝わることもなかった。かつての同志社の学生運動だったら、常に闘いの 先頭に同志社の学友会や全学闘の赤旗が翻り、最後の一人になっても、意地でも身を挺し て徹底抗戦したであろうが……。 そのように、私(〜たち)は、きちんと伝えるべき役割があったにもかかわらず、その 影響力が希薄だった。 しかし、学生運動の分裂と混乱の影響を最も受けたのは、70年代後半以降に入学して きた学生かもしれない。新入生(特に地方出身の)が運動に関わるのには偶然の要素が強 く、偶然に学友会や此春寮に入ってみずからのポジションやシチュエイションを知るわけ である。この後々の世代にも、分裂と混乱を招来させる要素を残した私たちの責任はけっ して軽くはないと自認している。 さて、「全学闘」であるが、前述したように、80年前後には実体的に解体したものと 思われる。他大学の全共闘が、もっと以前に解体していった中で、まあ、もったほうだろ う。しかし、ここでも言わせてもらえれば、解体の仕方が中途半端だ。せっかく解体する のであれば、例えば同時期にあった三里塚開港阻止決戦などで革命的敗北主義を貫徹し玉 砕して終わってほしかったところだ。 生臭い話のついでに、前述した79年の此春寮夜間襲撃事件であるが、襲撃した徒輩は 、居合わせた寮生を椅子に縛りつけ、夜通し監禁・リンチしたという。これは、東京の大 学の元活動家からも聞いたほど、東京にさえ伝わっている事件だ。実際に襲撃した新学友 会内の悪質なグループの跳梁を、このグループ以外の学友会メンバーはどう思っていたの だろうか。結局、「反全学闘」の一点で暗黙に了解したのではないか。この事件は、此春 寮出身者だけでなく多くの先輩活動家らに衝撃を与え、これを境に、同大学生運動の人脈 は分断されたといえる。例えば、藤本敏夫さんの1周忌に集う会でも、これ以後の同志社 学友会関係者の出席はない(もっとも全学闘も80年前後に解体し、こちらもこのあたり でストップしているが)。77年以降の学友会に関わった人たちは、(本資料集には載っ ていないが)この事件の深刻な意味を考えてほしいと思う。 ところで、79年版の末尾に、直接的に私について記述された箇所を発見した。── 「以上の文書の中にもみられるように我々は、全学闘争委員会運動全般を否定しているわ けではない。75年以降、とりわけ『9・30』以降の全学闘に対して批判を突きつけて いるのである。その頂点が『5・19』であった。これを『宮廷革命』と呼び、我々を『 簒奪者』と規定された、『季節』創刊号における山崎健氏の『非難』が的はずれなもので あることはあきらかであろう。氏がすみやかに誤解をとかれんことを心から願うものであ る」 「山崎健」とは、学生時代からの私のペンネームだが、「以上の文書」といっても、今回 初めて目にしたが、これが書かれた際には読む機会がなかった(郵送でもしてくれたら読 んでいたかも)ので「誤解」を解くこともできないだろう。「9・30」も、私には何の ことか判らない。私にとっての「5・19」とは、京都市街地での最初で最後の市街戦と なった71年5・19沖縄返還協定調印阻止祇園石段下武装制圧闘争のことだが、上の文では違っていて、「 全学闘一派を放逐」した学生大会のこと。「全学闘争委員会運動全般を否定しているわけ ではない」といっても、それならそれで、きちんと述べないとダメだろう。あらためて、 今読んでみても、むしろ「全学闘運動全般を否定している」としか読めない。もっとも「 全学闘一派を放逐」とかいう言葉ばかり目につく中では、「誤解」は解けるわけがないだ ろう。一貫して「全学闘運動全般を否定している」ことで、77年以降の学友会運動は、 これ以前の運動とは<異質>のものになったと、私は考えているということは前回でも述 べた。何が<異質>なのか? それは、誰よりもどこよりも急進的で戦闘的であろうとす るラジカリズムだろう。私たちの頃は、競って誰よりもどこよりも急進的で戦闘的であろ うとした。「全学闘一派を放逐」した「5・19」以降の学友会運動がそうであったとは 到底思えない。 私に言わせれば、かつては誰よりもどこよりも急進的で戦闘的だった同志社の学生運動 だったのだから、田辺町移転、学生会館解体の際でも、ほとんど闘いらしい闘いがなかっ たことは残念至極だ。繰り返すが、最後の一人になっても身を挺して闘ってほしかった。 所用で京都に行った際、足を伸ばして学生会館解体の現場に行ったことがあるが、不覚に も涙が出た。 そのように、本資料集の後半は、同志社学生運動の分裂と混乱を反映したものとなって いる。これは、私にとっても他人事ではなく、責任の一端を感じている。同志社の学生運 動の大先輩の田原芳さんが、みずからが作ってきた関西ブントの分裂・解体の様を目にし て精神的に病まれたことも前回述べた。一部には「狂死」とさえいわれているほど、深刻 に悩まれたという(実際に精神病院に入院されたりアル中になったりで入退院を繰り返さ れた。本連載8、9参照)。私は田原さんほどの大物活動家でもなかったが、私にとって も、70年代後半以降の同志社の学生運動の分裂と混乱には、つい最近まで悩まされてき た。おそらく京都に居たならば、精神的にイカレていただろうと思う。 闘うべき時に、真に闘ったかどうかということは、知る人は知っているだろうし、なに よりも自分自身が一番よく知っているから、それでいいではないか、と最近思うようにな ってフッ切れた。私たちの闘いは、学生時代の5年間という短い期間の<小さな火花>に すぎなかったが、その後の過程とも併せ、30年間もくよくよ、くよくよ悩み続けてきた 。私が、小さな人間だということの証しかもしれない。 本資料集を編纂したM・H君との義絶から30年振りの再開──50歳を過ぎ初老の域 になろうとしても、昔のことにこだわり続けている私もドンキホーテかもしれない。しか し、この呪縛からは当分解き放たれることはないようだ。元・日大全共闘のYさんは、3 0年余りも奥さん以外に過去の経験を口外しなかったというが、2年近く前から堰を切っ たように何か語りたくなってサイトをこしらえ、語り始められた。Yさんも、「無念の思 い」で大学を去られ、以来故郷に戻りずっと呻吟されてきたという。「無念の思い」は、 Yさんとは内容は違うが、私も同じだ。 この資料集は、学友会解散がなされた後になって、もはや学生ではない学友会職員のM ・H君が一人で作業に取り掛かったということだが、学友会ありし時期に、現役の学友会 メンバーによってなされたのならば、学友会解散などということを決断することはなかっ たと思うのは甘いだろうか。無名・無数の先輩らが長年、時代の荒波の中で反動の嵐に抗 し<学生の自治>という意識を高め、時に血を流して闘っていった歴史を顧みれば、けっ して学友会解散などという発想は出てこないと思う。これも甘いだろうか。学友会職員に は発言権も発言力もないが、M・H君には、学友会解散という一大事を決めるということ に対しては、そんな建前は無視してでも一喝して欲しかった。私がかく言うのは、学友会 内部の深刻な事情を顧みないものだから、長年学友会メンバーと直に接してきたM・H君 からは反論があろうが……。 しかし、いちど解散することは簡単だが、次に作るときは大変だ。物事みなそうだ。そ れもみずから「永久解散」としている。時代はどう転回するか誰も分からない。また激動 の時代が到来し自治会や学友会の結成が要請された時、その当事者たる学生は苦労するに 違いない。それも「永久解散」などという古証文を持ち出されでもしたらどうするのか( 狡猾な当局者はやりかねない)。 いずれにしても、各々がいた時代や、活動した位置で想いは違うだろうが、一人ひとり が本資料集をぜひ手にとっていただき、私たちが目指そうとした<闘いの意味>について 、そしてその正当な評価や誤りなどについて、考えていただきたい。 きょうの文章は、これまで以上に長くなった。まとまりがなく、言いたいことがあっち に行ったりこっちに行ったりしているが、想いが噴き出し止めることができなかった。部 分的に異論や反論はあるにしても、この連載の読者のみなさんには、私の想いの根幹は理 解いただけるものと信じている。 ■「甲子園村だより」をお読みの方で『「同志社の栞」資料集』をご希望の方は、早めに 私あてにお申し込みください。漸次取りまとめて「学友会残務整理委員会」のほうに注文 します。代金、送料とも不要です。 ■『田原芳論集』の完成が遅れていますが、こちらのほうもよろしくお願いいたします。 発行者のOさんが引っ越されましたので、今後は私あてにお申し込みください。定価は未 定ですが、3000円前後になるものと思います。『「同志社の栞」資料集』と同じぐら いの分厚さです。 |
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