2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

■2005年2月28日(月) われわれの内なる<1970年代>13

◆ すべてが解体していった70年代後半、ビルの谷間の黄昏に佇んで…… ◆ 
 75年初め、すべてを後輩に託して私は大学を去った──。京都にいては、生活スタイルも変わらないと考え大阪に出て働き始めた。引っ越しには、元・学友会委員長だった後輩のN君 とK君が手伝ってくれた。ガソリン代を負担するということで、学友会のワゴン車を借り (公私混同?)、N君がヘルニアにもかかわらず運転してくれた。その後、激痛でのたう ち回らせた。N君は一時、アル中だったとお兄さんが言っていたと人伝に聞いた。わかる ような気がした。
 72〜73年頃、学費闘争で大量の検挙、逮捕者を出し、さらに連合赤軍事件も起きた りで、運動は日を経るごとに拡散していった。頼りとした先輩らも、中退したり卒業した りしていなくなった(児童文学作家になったS・Kさん、直接の指導者M・Hさん、Sさ んやMさんなど、文学部の先輩方は中退が多かった。なぜか、卒業するとかしないとかに は何の関心もない、超越した人たちだったように思う)。
 先輩らがいなくなるにつれて、私たちの世代が責任ある立場に立たされた。しかし、元 々たいした資質も能力もない私らは、しばしば困った事態に立ち至った。人材不足もあっ て、私は、72年には文学部自治会委員長、73年には、4回生にもかかわらず大学祭( 第98回EVE)実行委員長に就いた。学費闘争の裁判も始まった(判決が出たのは、7 5年12月のことだった)。
 72年5月15日に沖縄が日本に「返還」され、これで運動の波が最終的に終わったよ うに感じた。この日、確か東京で、波乱のないカンパニア・デモに行って、なんとも言え ない虚脱感を覚えた。
 72年といえば、私の故郷である熊本での自衛隊海外派兵阻止闘争があったぐらいで、 これもさほど盛り上がらなかった(しかし、今思えば、現在の自衛隊イラク派兵が、さほ どの抵抗運動もなく簡単になされたことを見るならば、72年の派兵阻止闘争はまだ一定 の効果があったといえる。派兵がなされなかったのだから)。
 そうした運動の拡散期にあって、運動の基盤はますます脆弱になっていったから、この 頃から同志社の学生運動は、政治ゴロや簒奪者らの草刈り場となっていったように思う。 私たちが手をつけれなかった個別の諸課題をあげつらって、「全学闘には○○の視点がな い」ということで突っ込んできて、それを許容していくと、さらに嵩にかかってくる。い つかN君が、困った場面に直面し、「お前ら、ええかげんにしろよ!」と怒鳴ったことが あった。
 かつて、私たちの中心部隊であった大成寮闘争委員会は、寮長自身が学費闘争で逮捕・ 起訴されたりで、解体した(のちに「大成寮寮闘委」を潜称した徒輩は、全学闘の中心部 隊だった「大成寮闘争委員会」解体後、京大を中心とする純毛派のミニ党派G研からオル グされ作られたグループである)。その頃から、ブント系、赤軍系などの諸党派が蠢き始 め、実際に「一本釣り」された者らを知っている。今出川キャンパスからも遠く離れ、大 きな寮ということもあり、なすすべもなくなっていった。
 前回、いささか生臭い話を書いた。私が入学した1970年当時、同志社の学生運動は まだ活況を呈していた。ブントは前年に分裂していたが、後遺症を思わせないほどだった 。赤軍系も、合法組織とされる「革命戦線」(RF)の残党が、二部学友会や暁夕寮あた りに少人数いるぐらいだったが、全体としては和気あいあいとして、何かのデモがあれば 、いつも数百の赤ヘル部隊が出たし、毎日のように繰り広げられる日共・民青とのゲバル トも、寄せつけなかった。まだ立命が、御所を挟んで広小路にあった時代で、日毎、そこ から民青の暴力部隊が押し寄せて来た。早朝は特に要注意で、私など挑発に乗って朝数人 で突っ込んでいったところ、潜んでいた多数の行動隊に捕まり「暴力反対」を叫ぶ彼らの 暴力で病院送りになったことがある(苦笑)。ちなみに、当時の同志社の民青は、時に「 あかつき行動隊」と称する立命の暴力部隊と共に動き、70年の12月に、確か2人だっ たと記憶するが、先輩活動家が早朝の新町キャンパスで捕まり、特に文学部の先輩Sさん は、意識不明で瞳孔が開き、一時医者も見放すほどの重態だった(幸いに一命は取り留め たが、このとき、亡くなっていたら、京都の共産党は大変なことになっただろうと、不謹 慎にも私たちはささやき合った)。
 みな全学闘に結集し、学生会館ホールでは、数度、赤軍派の「武装蜂起集会」などもあ った、いい時代だった。70年代後半の分裂と混乱の予兆など微塵も感じさせなかった雰 囲気だった。
 私が意外に感じたのは、全般的に<親赤軍>で、袂を分かったブント戦旗派(とりわけ 関地区系)に対しては拒否感が色濃かったことだ。この当時、全学闘は関西ブントの流れ を汲みつつも<親赤軍、非戦旗関地区系赤ヘルノンセクト>といえた。微妙な色合いを持 っていた。つまり、赤軍には行けないが、かといって関地区には拒否感がある、独特な組 織だった。当社から本も出したことのある高橋順一さん(当時、ブント叛旗派。現在、早 稲田大学教授)に言わせれば、全学闘は「独立社学同」だと規定されたが、そのような性 格だったといえるだろう。ちなみに、高橋さんには、『闘論・スキャンダリズムの真相』 (『噂の眞相』岡留安則編集長と私との対論集)の巻末において詳細な「学生運動用語解説」 を書いていただいている。ご参考いただきたい。
 この体質はその後も続き、70年12月にブント戦旗派が二つに割れた際、関地区派、 日向派双方から全学闘の引っ張り合いがなされることになる。関地区派は、突如「蜂起戦 争派」を名乗り出し、旧関西ブントの同志社人脈を通じ全学闘への急接近を開始する。日 向派も大成寮の寮長も努めたこともある(記憶違いかもしれない)K・Mさん(故人)の オルグに成功する。
 関地区派と日向派の党派闘争は、71年4・28日比谷野音入口でのゲバルトに日向派 が勝利することによって決着した。このことで、関地区派はその後の全国政治闘争、つま り沖縄─三里塚闘争に登場できなくなるが、結局、全学闘をオルグできなかったことが、 その第一の敗因とされる。おそらく、全学闘が関地区派と一緒に日向派と闘ったら、勝負 は分からなかっただろうが、そもそも全学闘が日向派と闘う必然性はなかったし、「ブン ト内の党内・党派闘争にはタッチせず、どちらにも与しない」という、当時の全学闘首脳 の判断は正しかったといえよう。
 前回同様、またまた話が逸れてしまった。元に戻そう。──
 そのように、70年から72年初めにかけては、同志社の学生運動は、全学闘争委員会 も健在で、全国の学生戦線が後退と解体の局面にあった中でも元気だった。分裂や混乱な どなかった。だからこそ、学費闘争、沖縄─三里塚闘争を闘い抜くことができたのだと思 う。逆に言えば、学費闘争はそれ以降もあったそうだし、私たちの時代からの大きな課題 だった田辺町移転阻止闘争もあったとのことだが、分裂や混乱にあった中では、まともに 闘えなかったことは当然だ。私たちが必死で闘った三里塚闘争も、78年の開港阻止決戦 では、同志社の部隊は登場できなかったばかりか、旗一本も翻ることはなかった。誰彼が いいの悪いのと応酬し合っても仕方がない。私たちの後の全学闘にも、これを批判・非難 する新学友会の人たちにも大いに反省していただきたい。
 また、私(〜たち)としても、自分では同志社の学生運動の精神を後の世代に引き継い で大学を離れたと思っていたが、そうではなく、勘違いしていたことを、今になって自覚 、反省している。前回も述べたように、私たちの世代(70年度生)は、確かに先輩らか ら同志社の学生運動の革命的精神、その比類ない戦闘性を継承し闘ったつもりだ。しかし、それを 私たちの世代は、後の世代に継承させれなかったし、影響力も希薄だった。だから、私たちが 大学を去った後、分裂と混乱は起きたのである。
 70年代後半、76年のG研・P派連合軍との「内ゲバ」に全学闘敗北、77年学友会 からの全学闘「放逐」などの報を聞くたびに、私の手の届かないところで起きている同大 学生運動の分裂と混乱にやるせない気持ちになった。その頃、私は御堂筋に面したビルの 7階にあった小さな会社に勤めていた。この頃になると、かつて巨万のデモ隊が席巻した 御堂筋にデモを見ることもなくなっていた。
 ビルの窓から見る夕陽がまぶしかった。言いようのない虚脱感、絶望感に佇むしかなか った……。
 そうした私に、さらに鞭打ったのは、79年の此春寮夜間襲撃、監禁・リンチ事件だっ た。学友会と学館を追われた全学闘は、相国寺を挟んだ此春寮に残党が逼塞していたとい うが、新学友会内の一部政治ゴロのグループに夜間襲撃され、夜通し監禁・リンチを受け るという事件が起きた(ちなみに、前回、前々回に登場した学友会職員のM・H君によれ ば、このグループはしばらくして学友会を去ったという)。「同志社の学生運動も、ここ まで落ちてしまったのか」と思わざるをえなかった。
 なぜ、私がこの事件に慟哭し怒りを覚えたのかといえば、この連載の6回目のところで 述べていることから、読者のみなさんなら理解していただけるだろう。砂野文枝寮母さん が、戦前から母子二代に渡って守り抜いて来たものを土足で踏み荒らされたことが許せな かった。個人的に言えば、学費闘争で逮捕された際、保釈の身元引受人にもなってもらっ ていたから尚更だった。
 私などまだ大阪にいたからマシかもしれないが、同志社に教職員などで残っていた先輩 らの気持ちはいかばかりだったろうか。
 いささかクサい表現になるが、私が青春をかけた同志社の学生運動、直接に関わった全 学闘と学友会、一時期を過ごした此春寮での先輩や寮母さんらとの交流が、ずたずたにさ れるような虚脱感と絶望感に、ビルの谷間から見る夕陽が胸に滲みた。私がこよなく愛し た同志社の学生運動の栄光が、斜陽になっていくことに耐えられなかった。
 さらにトドメを刺すように追い打ちをかけたのは、79年5月、同級の井坂豪男君(学 術団団長)の自殺だった。──
 かつて、あつっぽく語った<70年代>は、意に反し虚脱感と絶望感に打ちひしがれて 終わろうとしていた。──
 
「もう独りで歩けない
 時代の風が強すぎて
 傷つくことなんて
 慣れたはず だけど今は……」
 (X−JAPAN『Forever Love』)




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