2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

■2005年3月7日(月) われわれの内なる<1970年代>14

 ◆ 『「同志社の栞」資料集』を更に読む。そして、その反響に思う……  ◆  
 この「甲子園村だより」で『「同志社の栞」資料集』頒布を告知してから、少なからず の方々から申し込みがあった。意外にも、1人を除いて全く未知の人たちだった。未知で はなかった1人についても、藤本敏夫さんの1周忌の集いで1度会っただけだった。
 ほぼ全員が70年代後半から80年代初めにかけて同志社の学館や寮などで活動した人 たちだった。いわゆる「新学友会」(変な表現だ)の方々が多く、これも意外に好意的だ った。「甲子園村だよりを拝見しておりますが、70年代前半を闘いぬき、混迷の70年 代後半を悔やむ松岡社長の心情が滲みでていて、70年代後半を同大で過ごしたものとし ては忸怩たる思いがします」
 また、従前から私の「甲子園村だより」や、かつて(大昔!)私が出していた個人誌に 近い『季節』も読んでいてくれていた。それも、有り難いことに、それらを真っ正面から 読んでくれていた。それにしても、こんな「甲子園村だより」を、少なからずの未知の人 たちが読まれていたとは驚きだった。
 さらに、みなさん方に共通するのが、申し込みの際も、資料集が届いてからも、長いメ ールをくれたことだ。
 ここで感じたのは、当時みな悩んでいたこと、卒業後も、自分なりに反芻していたこと 、そして、それをほとんど誰にもまともに話すこともなかったらしいこと……だ。
 これは学友会職員のM・H君の話からもうかがえたことだが、みなさん方のメールから も、70年代後半以降の同大学生運動は、私が想像していた以上に惨憺たる状態だったこ とが感じられた。これじゃあ、学友会解散もやむなし、かと思った次第だ。
 資料集の後半は、この間の「甲子園村だより」でも述べているように、同大学生運動の 分裂と混乱が反映されたものになっている。前半が、<二つの安保闘争>をメルクマール とする闘いの気分が溢れているので、この落差に、尚更違和感を覚える。私より先輩の世 代の方々が読まれても、おそらくそう感じられるだろう。近く、『田原芳論文集』や、鹿 砦社の新雑誌『紙の爆弾』の案内と共に、諸先輩方にも資料集の案内も入れたダイレクト メールを出す予定だが、資料集を手に取られた諸先輩方らの気持ちはどうだろうなあ。
 口汚い表現が溢れる後半部分に比べると、やはり私は、拙くとも、前向きに対権力との 闘いの気分に溢れた前半部分に共感を持つ。後半部分、本来ならば「田辺町移転阻止」と いう大きな闘いが展開されているべき時期だが、どうも、牧歌的にしか感じられないのは 私だけだろうか。最後の一人になっても闘いを貫徹するという、同大学生運動の革命的精 神は体現されたのだろうか。同志社大学学友会50数年の歴史の半分を担ったとする「7 7年5・19」以降の新学友会の運動は、それ以前の運動とは、やはり異質であり、大き な落差があるように思う。

   いうまでもなく、同大学生運動は、60年、70年の<二つの安保闘争>前後、わが国 の学生運動に一時代を築いた。これのバックボーンとなったのは、関西ブントだった。こ の関西ブントの中心となったのも同志社の活動家だった。69年のブント分裂後もそれら を継承してきたのは、全学闘争委員会だったし、69年から70年代初めの同志社の学生 運動とは、即ち全学闘運動の謂である。それ以外の運動はなかったのだから。こうしたこ とは、厳とした歴史的事実だ。抽象的に、単なる学生の運動だったわけではない。
 77年5月19日の学生大会で全学闘を「放逐」し「党派的団体による学外からの領導 を一切許さない」ことを決議したという。この言葉「党派的団体による〜」云々を書いた 人らはおそらく意識していなかっただろうが、それ以前の同大学生運動を否定、清算する 意味合いが感じ取れる。ブントが分裂するまでの同志社の学生運動は関西ブント、関西社 学同の「党派的団体による」運動であったのだから。その後の全学闘こそノンセクトだっ た(私など、ブント系のどこぞの党派の幹部だったかの風評が一部にあるが、私は党派経 験は一切ない)。新学友会の主張を読んでいけば、私が書いた文章がそっくりそのまま新 学友会の主張として貼り込まれている箇所もあって、失笑を禁じえなかったが、これなど 、どうなんだろうなあ。少なくとも、私の意に反して使われては困ってしまう。
 70年代後半、私が大学を去ってから全学闘が「変質」したとしても、これを否定する 余り、産湯と共に赤子を流すようなことをやったらいかんわ、な。
 幾つかの証言を総合すれば、全学闘は、80年代初めに、中心メンバーが卒業したり、 ある者は党派に流れたりなどして最終的に解体したようだ。だから、いい意味でも悪い意 味でも、全学闘を語り継ぐ者がいなくなり、その頃には、遠い過去の運動になってしまっ たようである。結局、残念ながら、最盛期の同大学生運動を担い、また全国の学生運動に 一時代を築きながら、きちんと総括されることなく消えていったといえる。それも、悲惨 な末路で……。
 私に言わせれば、この辺りで、関西ブントの系譜にあった、俗に「ブント主義」といわ れる急進的な同志社の学生運動の流れは途切れてしまったと思う。また、新学友会の人た ちには僣越だが、新学友会を主流とする以降の運動は、上記した理由から、それまでの同 志社の学生運動の流れとは違ったものである。もっとも、新学友会の人たちも、「77年 5・19」を殊更に強調することからも判るように、みずからこれまでの運動とは違うと 言っているのだから。
 そもそも、その「77年5・19」というのは、4半世紀も鸚鵡返しに言うように、そ んなに大層に意味のあることなのか。もし、そのように大きな意味があるのならば、翌年 の三里塚開港阻止決戦では、どんな闘いをやったのか。つまるところ、「コップの中の嵐 」や「宮廷革命」には精力的であっても、対権力との闘いや革命的政治闘争、その煮詰ま ったところでの政治決戦には消極的ならば、あまり意味がない。仮に一大学内の闘いでも 、例えば、70年代後半以降、たびたびあった学費闘争でも、私たち全学闘が闘った71 〜72年の学費闘争、なかんずくその頂点の2・1学費決戦を凌駕する運動はなかった。 全学闘を「放逐」し「同大学生運動の革命的飛躍」を勝ち取ったと言うのであれば、私た ちの闘い、また、これ以前の先輩らの闘いを越えた闘いをやってから言ってほしい。「7 7年5・19」というのは、憎っくき全学闘を「放逐」したという、「コップの中の嵐」 や「宮廷革命」に勝利したにすぎないのであって、特段に「同大学生運動の革命的飛躍」 を勝ち取ったものでもなんでもない。
 
 私は全学闘の一員として、時に揺らぎながら、時に先輩や同期の活動家らに叱咤激励さ れながら、三里塚や沖縄闘争などの革命的政治闘争、学費決戦などを最後まで全うした自 負があるから、今でも<一人全学闘>の気分を持っているつもりだし、このことが今の私 の出版活動を支えていると思っている。最近はあまり発行していないが、「鹿砦社通信」 などはまさにアジビラで、こうした母班は抜け切れない。
 ところで、「醜悪きわまりないスターリン主義的宗派性にまみれ、革マルばりの観念左 翼集団に転落していた『全学闘』」という言葉が目に入った。う〜む、凄いね。「スター リン主義的宗派性」かい? 「観念左翼集団」だって? バカを言っちゃあいけないよ。 かつて私ら全学闘は、「単ゲバ」「素朴肉体派」「ブランキスト」などと言われたことは あっても、「スターリン主義的宗派性」とか「観念左翼集団」などと言われたことは、た だの一度もなかった。私たちの後の全学闘は、そこまで「変質」したってことかねぇ。ま た、類似の言葉「政治ゴロ」などと言われたこともなかった。
 そのように、70年代後半に全学闘は「変質」したと殊更に非難されるが、では、全学 闘「放逐」以降の新学友会の運動はどのように「革命的」だったのだろうか? むしろ、 分裂と混乱の再生産、運動の矮小化の再生産を繰り返してきたのではないのか? そのこ とによって、「田辺町移転阻止」という、私たちが後の世代に託した最終決戦には、大き な力を結集して闘うことができなかったのではないか?(ちなみに、私らが大量逮捕され 全学闘の持てる組織と運動を賭けて闘った72年2・1学費決戦は、「田辺町移転阻止─ 大同志社構想粉砕」の前哨戦だったことは言うまでもないだろう)。もっと言えば、全学 闘の「変質」に我慢がならずにそれを「放逐」したのはいい口実であって、すべての悪を 全学闘の「変質」のみに帰することによって開始した運動だったから、ダラダラと続いた のかもしれないが、結局は展望を失くして自ら解散に至ったのではないのか。数年前、学 友会が財テク(どっかの金貨らしい)をやって失敗したということを、なにかの集まりで 在学生から聞いたことがあるが、これなど学生運動の本来の姿に反するし、運動の展望を 失いヒマとカネを持て余してやった典型だろう。これこそ「変質」だ。
 つまるところ、全学闘の後々の「変質」があったのであれば、それは突然に起きたので はなく、表面化はしなかったにせよ、私たちの時代、さらに69年の創成当時にまで遡っ て根があると思う。この点では、私も全学闘の中心的な活動家だったことから、自分なり に大いに反省している。しかし、少なくとも私たちは「政治ゴロ」でもなかったつもりだ し、「スターリン主義的宗派性にまみれて」てもいなかったし「観念左翼集団」では絶対 になかった。私に直接、こんな言葉を吐いた者はいなかったが、こんな言葉を吐いた当人 も、自らの足元を見つめ直したほうがいいだろう。
 私はものごとを他人事のように語る「評論家」ではないから、同大学生運動について語 るとき、いつも自分のこととして語っているつもりだが、50代も半ばになり老境に入ろ うかという今に至るまで、こんなことを引きづっているのもドンキホーテなのかもしれな い。まあ、「オールド・ボルシェヴィキ」の戯言とでも思って読み飛ばしていただければ 結構であるが、私にとっては、<二つの安保闘争>前後に一時代を築いた同志社の学生運 動の探究は、大仰に言えば、ライフワークだから、これからも、生臭いことも含め、書き 連ねていきたいと考えている。
 
 最後に、80年代初めに同大生だったA君からのメールの一部を、本人了解のうえ引用 しておこう。認識を同じくするところもあるが、10年の年月の違いは、あまりにも大き いようだ。──
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「栞に書いていないことを少々お話いたします。私の立場上、当事の主な文章には目を通 していました。例の『季節』を寮で読んだように思います。インターネットのおかげで、 その著者に直接連絡が取れて嬉しく思います。逆らって申し訳ありません、私は内ゲバの 時代というか、分裂と混乱というか党派闘争というか、力と数の問題、ヘゲモニー争いは 不可避であったと思います。それ以上に社会全体からくる人間の・学生の意識変化が上げ られます。80年代前半には矮小なものを目の当たりにしてきました。おそらくそれ以降 はもっと矮小なものだったであろうと推測します。

   77年政変時、神学部自治会と部外連のみが中立の態度をとったと記録には残っています 。そのせいでしょうか、神自の私の上の世代の主力の人たちは新左翼というかプロ独の思 想を継承していたのでしょうか、蜂起派や思想運動に接近していましたし、自治会で朝鮮 半島の自主的統一・高麗共和国支持などという主張をされていたのでビビリました。神学 部は200人足らずの特殊な学部でした。神自は規約上、選挙の代わりに毎年学生大会を 開催して8人の常任委員の承認を得ていました。要するに直接民主主義、神学部共同体の 理念が規約に色濃く残っていたのです。私の上の世代は79か80年頃からだったと言っ ていました。学生大会の場で一般学部生から遊離している、何故規約を見せない等の異議 申し立てを喰らい、学友会のように力と数によるシャンシャン大会では済まない、数回継 続開催しなければ成立しない状態を数年経験してきました。幸いにも中核等の介入は避け られましたが、生理的に左翼を受け付けない奴やスピーチコンテストみたいな奴等の発言 もありました。でも中には傾聴に値するものもあり、そうしなければ成立しない状況でし た。所詮大学解体以降の復活ポツダム自治会、先進的革命的スローガン以前、五学部自治 会と違って常任委員のなり手探しも一苦労でした。今思えばもっと矮小な或いは根源的な 意味での77年政変の連続というものだったかもしれません。
 
 もう一方で私は此春寮生という立場でした。新学友会の末端に加わったのは私が初めてで した。77年政変の余韻の強い当時の大成寮・サークル野合政権下の学友会中常委からは 当然のこと、此春寮の上の方々からは右翼日和見主義に加担している云々、両方からいじ められましたねぇ。ストレス解消に原理、民問研、日共を締め上げていました。今となっ ては懐かしい日々です。結局神自は外務省のラスプーチンこと79年度佐藤優のカリスマ の下、陰湿な傀儡政権的生徒会となり、親新学友会、親神学部執行部となりました。所詮 大人の政治、私は愛想も使命感も尽かし辞めました。狂おしいほどの怨念がありましたが 、こちらは奴も『有名』になり今はスッキリしております。
 
 83年だったかな、此春寮の執念ともいうべき『70年代寮闘争史中間総括』を配布する と、大成寮名で此春寮襲撃自己批判ビラを出しました。ずっと『全学闘に対する自己批判 的総括出せ』と迫っていた中常委はそれと同じだ、と言うだけで文章は出しませんでした 。組織の面子でしょうか。実際中常委もほぼ全員大成寮で固めていましたから。一方全学 闘を継承したであろう此春寮主力の火柱グループの人たちの数人は烽火派に流れました。 この勢いでしょうか、84年に田辺移転実力阻止・反右翼日和見主義を標榜し『全学戦線 』を立ち上げて公然化しましたが、烽火派による此春寮執行委他の指導計画書が発覚し、 寮長脱寮、その連続という事態もありました。こちらの古典的綿密な政治手法にも愛想を 尽かし、私は沈黙しました。結局彼らも卒業・分散、タカラブネ労組に流れたりしました が、当然学内のアンチセクト感は強く、此春寮にも大衆的基盤は残せなかったようです。 5年ほど前の坂下寮母退職0B会で会いましたが、今でも彼らの一部は見果てぬ革命を志 向していました。省略しますが、学友会・大成寮内部でもいくつかのヘゲモニー争いがあ りました。溝は埋まることはなかったのです。79年乗っ取り此春寮入寮選考を仕切って いた高木克典はその後の80年学友会委員長、日共に告訴されつつも80年代前半学友会 ・大成寮の精神的指導者として辣腕を振るっていました。
 
 そう私の時代は一時的一揆的な連帯感・達成感の楽しさはあっても、総論的には後退して いく閉塞感、消耗感でした。組織論と行動論の相克、70年代半ば以降の活動家たちはそ の縮小再生産だったと推測します。プロレタリア独裁、革命的祖国敗北主義は昔の壁の落 書きでした。コップの中の嵐、ファッションとしての左翼、複合的要因により時代と共に 急進的左翼運動が大衆的支持を失っていく、当局が徹底的な弾圧をしない同志社リベラリ ズム的内部分解過程だったと思います。闘うべき対象も巨大な風車、共通の理念からわか り易い個々の目先の利益或いはセクト・内部分派への圧力と縮小化していき、83年田辺 移転決定以降には御堂筋、学館を埋め尽くすどころか、既にM前集会さえも十数人しか集 まらない状況だったのです。学生の意識の分散化は時代の流れ、日共や他のセクトに明け 渡すくらいなら学友会の解散もやむを得ない、官僚的で横暴で好きにはなれなかったけれ ど、大した役得もなく、あれから後退戦を20年もよく守ったなあ、褒めてやるぜ、むし ろ潔いと感じるのは私だけではないでしょう。でも何で神自が生き残っているのか、こい つはちょっと胡散臭い。寮も80年代終わりには舎費・名簿を提出し、安アパート化して いるようです。
 
大きな夢よりも小さな欲望を、時代は急速に変容しています。そんな中でも自分の青春時 代の頂点は永遠に輝いていてほしいものですね。あの日の仲間たちは大人になって散り散 りバラバラですが、此春寮という入れ物はまだ残っています。実に大人しそうな学生ばか りですが。あの底抜けの豪傑村上兄(正和さん。この連載の5回目に登場──引用者)は 此春寮と学生が大好きでした。此春寮の前で『私の青春よ、さようなら』と言って京都を 去りました。私も決して時代を取り戻すことはできませんが、暴れん坊委員長時代を遡る ことはできます。そんな昔話もまた素晴らしきものです。松岡兄のご健闘を願うものです 。闘争勝利!」


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