2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

■2005年3月13日(日) われわれの内なる<1970年代>15

 ◆ オレは<腐っても全学闘>だ! ◆  
 1960年、70年の<二つの安保闘争>をめぐる時代は、美しい叛乱の季節だった。 これを否定する者は、おそらくいないだろう。ロシア革命でいえば、<第一革命>であり <1905年革命>にアナロジーされてもいいだろう。そして、70年代は「激動の70 年代」といわれながらも、時が過ぎるにつれて、実際は分裂と混乱、さらには、いわゆる 「内ゲバ」が先鋭化し、中核VS革マル戦争、連合赤軍事件に象徴される暗澹たる季節だ った。このことを否定する者もいないだろう。
 私は、美しい叛乱の季節と暗澹たる季節の端境期=1970年に、九州の片田舎から出 てきて大学に入った。まだ闘いの雰囲気が溢れた、それなりに幸せな時代だった。昨日の ことのように記憶が甦ってくる。新左翼総体が、前年69年の安保決戦に敗北したあとを 受けた70年にしろ、沖縄−三里塚闘争が全人民的政治闘争として盛り上がった71年ま では、記念碑闘争にしろカンパニア闘争にしろ、万単位の活動家や大衆を動員、結集させ ることができた。例えば、70年闘争は、カンパニア闘争として一部に「壮大なゼロ」と いわれながらも、今なら大変な闘いである。
 私たちの世代は「遅れて来た青年」と揶揄されつつも、美しい叛乱の季節に駆け込むこ とができた。71年の運動は、67年〜69年の闘いの陰に隠れて、さほど評価されない が、中核派に破防法が適用されたり、私たちが当時遣った言葉でいえば、「日本階級闘争 の一大転換点」の年だった。60年代よりも遙かに困難な情況下での運動の質、とりわけ 実力闘争の内実や武装の問題でも、60年代を凌駕していたと思う。ちなみに、中核派は しばらく大衆運動路線を取っていて、新左翼ファンを失望させていたが、69年4・28 沖縄闘争での破防法適用で逮捕・拘禁されていた本多延嘉議長(75年に革マル派に虐殺 された)が保釈、7月の全学連大会(だったと記憶)でふたたび武装闘争路線を宣言、そ の年の秋の三里塚闘争、11・14〜19の渋谷、日比谷大暴動を果敢に闘ったが、客観 的に見ても、それまでの新左翼の実力闘争の質を遙かに越えたものだった。  そのように、60年代とは違った質でもって再度盛り上がろうとする運動の機運も、翌 年の連合赤軍事件や、この少し前から先鋭化する中核VS革マル戦争を中心とする「内ゲ バ」などによって、一気に暗転する。予期もしなかった、変な形で「日本階級闘争の一大 転換点」になってしまった。「激動の70年代」という表現も、これも予期しない、変な 形での「激動の70年代」となってしまった。
 同志社大学の学生運動でいえば、72年初め頃までは、「ゲバ民」と呼ばれ、まだ元気 だった日共=民青との党派闘争以外には、分裂と混乱は全くなく、美しい叛乱の季節が続 いたといえよう。だからこそ、私たちは学内問題でも、学費闘争を最後まで貫徹すること ができたと考えている。
 ところが、私たちが思想的に、また大衆的基盤として、影響力を残せなかったことから 、分裂と混乱が惹起されたと思う。怖くて偉大な先輩諸氏に比べれば、自分自身と比較し ても、私たちは小物だった。私が指導された先輩諸氏クラスの人材がうようよいれば分裂 と混乱は避けえただろうし、たとえ表面化しても収拾できただろう。  これまで述べてきたように、私が大学を離れた75年以降の不幸な出来事は、長らく私 を悩ませた。今に至るまでそれから自由になれない。
 
 後輩で後に学友会職員になったM・H君が届けてくれた『「同志社の栞」資料集』を紐 解けば、私にふたたびオブセッションを呼び起こす。
「松岡さんは、全学闘が75年以降変質したことをご存知なのか」というメールもいただ いた。また、次の指摘は正鵠を得ているとので紹介しておこう。───
「やはり、1970年代前半と同後半との相違は埋めにくいなというのが感想です。  政治で大衆を領導できたのは70年代前半までではないでしょうか。
『5・19』以降の学友会が全く正しいとは思いませんが、やむをえなかった面もあると 思います。
 75年2・6政治集会以降の全学闘のレーニン主義的な政治内容(主に、自然発生性と 目的意識性)をサークルが飲むかどうかと言われても、どう答えようもありませんでした し。
 最早、大衆は70年代前半の大衆ではありませんでしたし」
 また、次のような意見もあった。これも正鵠を得ている。──
「正直申しまして私も解体される寸前の全学闘の一部の人と接触があり、反発を覚えたこ とも事実ですし、かと言って新学友会で活動する気にもなれず、私のように個別サークル 問題に埋没してしまった人は多いのではないでしょうか」
 全く悲劇としか言いようがない。こんな情況を残して私は大学を去ったのだから、忸怩 たる想いだ。
 元々、同志社の全学闘は、カウツキー、ベルンシュタイン、プレハーノフ、ジノビエフ 、カーメネフら、ロシア革命史で登場し、いつの時代でも形を変えて登場する、いわゆる 「修正主義(−者)」「改良主義(−者)」に対する闘いを説明する際、レーニンの言葉 を借りるが、「レーニン主義者」と言われる活動家は、実はほとんどいなかったと思う。 私も、いわゆる「レーニン主義者」ではないが、レーニンも時にいいことも言っているし 、私たちが、60年代後半から70年代初めにかけての運動を総括する際、「1905年 革命」に学んでいたが、ここで「武器を取るべきではなかった」という見解に対したレー ニンの『モスクワ蜂起の教訓』には勇気づけられた(このことについて私は、74年の『 学術団団報』に未完のレポートを掲載している)。その他、『何から始めるべきか』『何 をなすべきか』程度のことは読んだ。ロシア革命に、それまでとは違う発想で関心を持っ た私は、今では絶版になった大月書店版の『レーニン全集』全巻を買おうとまで考えあぐ んだことさえある。まずはレーニンの言動に沿って、それに対するトロツキーや、その他 の革命家、クロンシュタット叛乱やマフノ運動などの「知られざる革命」との確執などを 見ることで、ロシア革命の栄光と敗北の歴史の中から、何らかの教訓化ができるのではな いか、と思ったからである。ドイッチャーやカーなどのロシア革命研究も世に出ていたし 、私のロシア革命史への関心は高まったのだった。
「自然発生性と目的意識性」という言葉や考え方なども、70年代後半に突然主張され出 したものでもない。古い資料に容易に発見できるし、私たちが常に先輩らから叩き込まれ ていたことだった。全学闘は、高橋順一さんの言われるように「独立社学同」的な運動体 であり、運動論はあっても組織論はなく、ベ平連ほどではないにしろ、簡単に運動を離れ ることができる組織だった。べつに「党」がどうのとか「党−大衆」の関係がどうのとか いうことを深刻に意識したことはなかった(少なくとも私たちは)。日毎運動が細ってい く過程で、全学闘「変質」の張本人として槍玉に挙げられるM君(71年度生だったと記 憶する。最初は、まだ赤軍系の「革命戦線」の影響が強かった二部学友会ボックスに出入 りしていた。工学部。後に大学院に在籍していた時に一度会ったことがある)やT君(7 2年度生。文学部。5年ほど前の此春寮寮母さんを囲む集まりで再会)らは、私のように いい加減でも軟弱でもなく、根が生真面目過ぎるほど生真面目だったから、全学闘の組織 的脆弱性をどう解決するかに焦り苦慮したものと思われる。いわれるように彼らが「レー ニン主義的」であったのなら、変容していた70年代後半の学生大衆の意識に気づかず、 レーニンの古典的組織論を持ってくることによって全学闘の組織的脆弱性を補強しようと したのではないかと思う。
 私は「77年5・19」が、四半世紀後の学友会解散宣言にまで記載されるほど、私の 後の世代が殊更に持ち上げるようには、「全学闘一派を放逐した」こと以上に大層に意味 があることとは思わないが、この時点で私は「新学友会」に流れた者はM・H君以外には 人脈はなく、逆に全学闘や此春寮には数多くの後輩との人脈や交流があった。私は5年間 大学にいたからM・H君との関係があったが、ほとんどは4年で卒業したりして大学を離 れているから、70年度生以前の私たちの世代は、「新学友会」の人たちとの繋がりは全 くといっていいほどない。ちなみに、74年(この年の新入生が77年の4回生)にもな ると、70年度生でまだ別館にウロウロしていたのは、私の他には、I・M君(工学部。 2・1学費決戦被告)、Y・H君(部外連。2・1被告。新町別館を設計段階から仕切っ た実務官僚として名を残した)、M・N君(法学部。元学友会委員長)ぐらいだった。全 員が、先輩諸氏から「少年探偵団」などと揶揄されていたほどのガキっ子活動家だった。 彼らも、70年代後半の人たちとの人脈は、一部全学闘活動家との関係を除いてはなかっ たのではないかと思う。
 私たち以降の全学闘がどのように「変質」したのか直接は知らない。しかし、この「変 質」があったにしても、これは私たちや先輩らの運動に根があるから、それは私(〜たち )の責任でもある。「変質」した全学闘の後輩らが、全学闘の運動を継承し、この旗を守 ろうとしたのなら、私(〜たち)は全学闘の赤ヘルを被った者として、拠点を放逐され傷 ついた後輩らを見棄てることはできない。なにしろ、義理と人情の全学闘であり、後輩を 愛する伝統のある此春寮だから……(フザケて言っているのではない、マジだ)。義理と 人情に厚い私らは、79年の此春寮に対する「黒百人組」的夜間武装襲撃の翌朝には、会 社を休んで駆けつけたのだった(後日談だが、ある先輩は日本刀を持って駆けつけたとい うではないか。任侠映画の観過ぎか!? 故・深作欣二監督のインタビューを付けた鹿砦 社の『仁義なき映画列伝』をヨロシク!)。「変質」し“不良”になった弟分に対し、同 じ全学闘の血を引く賢明な(?)兄貴分としては、庇わざるをえないだろうが。
 私は5年間、大学にいた。全学闘以外で政治活動をやったことはないから、後々に「変 質」したからといって「全学闘一派」などと口汚く非難されると、やるせない。おそらく 、私たちの先輩方もそうだろう。例えば、創設からの全学闘の活動を担った67〜69年 度生の先輩活動家が「全学闘一派を放逐」などという下りを見れば、目を剥き仰天するだ ろう。
 学生大衆の大勢が決めたのならば、「変質」した「全学闘一派を放逐」するのもいいだ ろう。だが、そのことで、60年代後半から70年代初めにかけての全学闘運動そのもの が否定されたり清算されたり、不当に過小評価されることに対しては、私は「全学闘」と 書かれた赤ヘルメットをこよなく愛した一人として、断固異議を唱える。不当に否定、清 算、過小評価された全学闘運動に対する正当な評価、復権がまずはなされなければならな い。そうでなければ、最盛期の同大学生運動の客観的捉え返しはできないだろう。<二つ の安保闘争>をめぐる関西ブントをバックボーンとした学友会の運動、ブント分裂後の運 動を一手に引き受けた全学闘の運動以外に、同志社での革命的学生運動は存在しなかった ことは間違いないのだから、ここのところが偽造されてはならない。
 先に紹介したように、新学友会は「やむをえなかった面もある」のかもしれないが、一 方で「個別サークル問題に埋没した人は多い」という側面も生み出したように、大きな運 動として一つに力を結集できなかったことは、みなにとって不幸だったと思う(田辺町移 転阻止闘争は、本来ならば、全ての力を一つに結集して大きな運動として展開されるべき だったのに、一体何をやっていたのか! と喝破したい気持ちだ)。とはいっても、全国 の他大学の運動や、新左翼系党派の分裂と混乱が、極端に先鋭化し、血を血で洗う殺し合 いにまで地獄絵図化したことに比べると、まだマシかもしれないが……。
 
 かつてのわれわれの精神的拠点だった学生会館が解体され学友会が解散した今、全学闘 の元活動家にも、袂を分かった新学友会の元活動家にも、心ある人たちは少なからずいる だろうから、恩讐を越えて<われわれの革命>(これは2・1学費決戦被告団の冒頭陳述 集のタイトルでもある)は何だったのか? を問いかけ、言葉の上ではなく真の<総括> に向けて語る時が来ていると思う。たとえ、拙く、シンドい作業であるにせよ、身を挺し て運動に関わった者にとっての責務とさえいえるだろう。
 少なくとも私にとっては、後々の世代にとって確かに当初「やむをえなかった」ことも あったにしろ、学友会から全学闘を「放逐」したことによって清算されてしまい、間違い なく一定の意味のある運動を展開したにも関わらず、長年同志社では語られることもなく 忘却の彼方に消えていった全学闘運動の総括、さらに<二つの安保闘争>をメルクマール として一時代を築いた同大学生運動の総括は、いわば“ライフワーク”である。終生成し えない大きな課題かもしれないが、始めなければ仕方がない。
 私も50歳を越し、老境に入ろうとしている。先輩活動家らは既に老境の方も多い。一 昨年夏、藤本敏夫さんの一周忌に多くの伝説的な先輩活動家のみなさん方が集われたが、 こういう集まりは69年のブントの分裂以来初めてということだった。ブント分裂の過程 で亡くなった故・望月上史さんをみなで弔うことも初めてだったということだった。望月 さんは、同志社で学生運動に関わった者ならば、決して忘れてならない先輩である。
 先輩のみなさん方も、若き日の運動の総括について、一人ひとりが反芻されているよう に感じられた。私は<生き残り全学闘><一人全学闘>を自認する者だ。いや、「腐って も鯛」ではないが、<腐っても全学闘>の矜持はまだ棄てていないつもりだ。これから、 そうした有意義な作業が共同の行為としてなされるならば、怖い先輩諸氏らの末席を汚し て微力ながら参画させていただきたいと考えている。いや、何より私自身がその“はじめ の第一歩”を踏み出したい──この連載は、その一端だと思って、せっせせっせと書き連 ねている次第だ。本来ならばこんな駄文など公にするようなものではないかもしれないが 、あえてホームページで公にすることによって、心あるみなさん方の意見、前向きな批判 などを浴び、拙い<総括>作業を進めていきたい。“老人行動隊”の心意気も、あながち バカにはできないぜっ!
 
 打ちひしがれた70年代後半、私の琴線に響いた歌があった───。
 
「風が激しく吹いている
 愚かな昔みだらに過ぎて
 道は途上で夢も破れた
 そんな昔はまぼろしか
 風よ運べ燃える思いを
 火よ放て俺の心に
 
 過ぎ去るものは過ぎ去ればいい
 流れるものは流れてゆけ
 命あるものは生きていればいい
 酒があるなら飲み明かせばいい
 風よ運べ燃える思いを
 火よ放て俺の心に
 
 風よ運べ燃える思いを
 火よ放て俺の心に」
 (みなみらんぼう作詞・作曲『途上にて』)


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