2004年9月3日から鹿砦社代表・松岡の連載が始まりました。

■2005年4月4日(月) われわれの内なる<1970年代> 16

 ◆ 伝説の学友会委員長、矢谷暢一郎さんに会えた! ◆  
 この連載の10回目(2004年12月10日)で、「海を渡った先輩活動家」として 、矢谷暢一郎さんのことを書いた。
「海を渡った先輩活動家(1)」(同10月21日)の冒頭で、「私が生きている間に、 どうしても会って話を聞きたい先輩活動家が2人いる」として、1人はハイジャックでピ ョンヤンに渡った若林盛亮さん、そしてもう1人が、同志社の学生運動全盛期の「伝説の 学友会委員長」矢谷暢一郎さんだ。
 ほとんど日本には帰ってこないと聞くし、おそらく会えることもないだろうと思ってい た。
 3月14日午後10時頃、そろそろ事務所を出ようかと思っていたところ、此春寮の先 輩M・Yさん(62年度生)から電話があった。
「矢谷が帰ってきて、明日昼頃集合し、H・Kらと藤本(敏夫)の墓参りに行く。君も、 年度末で忙しいだろうが、出てこないか」ということだった。
「明朝、スケジュールを調整してみて、行けるようでしたら行くようにします」と、二つ 返事で答えた。なぜ、二つ返事だったのか。……
『どこの馬の骨とも分からない、まったく未知の者を受け入れてくれるだろうか』
『先輩方も怖そうだしなあ……』
 ということなどが過ったからだ。一晩迷った。
 しかし、一生会えないと思っていたところ、これは千載一遇の縁ではないか。行こう!  
 明朝、H・Kさんに電話すると、集合時間は午前11時だという。えっ、M・Yさんは 昼頃だと言ったぞ、時刻は9時を過ぎていた。ヤバい。甲子園から京都まで、下手すると 2時間弱掛かる。すぐに甲子園の事務所を飛び出した。
 集合場所の祇園石段下(懐かしい!)に駆けつけると、それらしき先輩方数人がたむろ していた。
 H・Kさんに電話した際、学友会残務整理委員会に立ち寄って、くだんの『「同志社の 栞」資料集』をもらってから来るということだったので、学友会残務整理委員会の水野裕 之君(これまで「M・H君」と記して来たが、『資料集』編纂を称える意味合いで、これ からは実名表記にする)に電話したところ、「来られていますよ」ということだった。
「くれぐれも粗相のないようにしてくれよ」と私。水野君も幸運だ。
 矢谷さんは、少し遅れてタクシーを飛ばして、祇園石段下に現われた。
「あなたが松岡サン?」
 水野君が気を利かせてくれて、矢谷さんのことについて書かせていただいた、先の拙稿 のコピーを渡してくれていた。矢谷さんは、それをタクシーの中で読まれていたようだ。 私も持参していたが、大先輩を前にして、冷や汗はかくし、緊張で胸はドキドキだった。 直立不動状態だった。そして、矢谷さんは、『資料集』を編纂した水野君の労苦を褒めら れていた。伝説の学友会委員長に褒められて、水野君も、学生会館解体−学友会解散とい う辛酸を舐めてきたことも吹っ飛ぶような気持ちだったのではないか。実際、最後になっ ていい仕事をしたと思う。
 その後、坂を登り、京都市内が一望できるところにある、藤本敏夫さんのお墓に参り、 記念撮影をした。ほぼ同年代の、同大学生運動の伝説の大物活動家同士、矢谷さんが藤本 さんの墓を見る眼差しには、私など雑魚が決して近寄り難い空気があった。
 もう、35年以上も前の疾風怒濤の時代のことに想いを募らせておられたのだろうか。 いい光景を共にさせていただいた。このことは、一生忘れないだろう。
 私も、買ったばかりのデジカメで数枚撮らせていただいた。かつて、なにかの拍子で大 事な場面が撮れていない失敗をしたこともあり、『ここで撮れていないとブン殴られるだ ろうなあ』などと手が震えた。
 

(1)藤本敏夫さんの墓で

 墓参を終え、坂の途中の京料理店で、矢谷さんを囲み、みなで会食を取り、歓談した 。2時間余りも、和気あいあいと過ごした。矢谷さんは、久しぶりに、かつての“同志” と共にして、本当に嬉しそうだった。
 最年少(53歳にもなって“最年少”とは凄い!)の私も、当初は緊張していたが、矢 谷さんや先輩の方々も気安く受け入れていただき、打ち解けた。本当に、有意義な時間を 過ごさせていただいた。
 矢谷さんは、入学以来ずっと、内ゲバで亡くなられた望月上史さんに付いて指導され、 活動家として鍛えられたということだった。しばらくは、朝から晩まで活動を共にされた ということだった。まさに「寝食を共にする」とは、このことだ。ここで、先の拙稿で引 用させていただいた、70年に『同志社学生新聞』に書かれた矢谷さんの総括レポートの 冒頭で、「その過程(注・ブント内の党内・党派闘争)で生を絶たれた同志、望月上史の 名を高く掲げたいと思う」と書かれた重い意味が判った気がした。
 私も、この連載で、70年代以降の同大学生運動、学友会運動の分裂と混乱に気が狂い そうになったことについて書いている。よく考えれば、これも、望月さんの死を惹起した ブントの分裂に伴う同大学生運動の分裂に比べれば、小さなことのように思えてきた。い わば師匠的な存在であった望月さんの死を前にしての矢谷さんの心の中はいかばかりだっ たろうか──胸が痛む。
 その後70年代に入り、矢谷さんは、大学を除籍(この通知が実家に届いたとき、親父 さんは仰天されたというが、その光景が目に浮かぶ)、運動からも離れる。この前後、大 病を患い、これが落ち着いたところで新天地を求めて渡米、学究の道で再起を目指す。そ の過程で起きたのが、この連載の10回目で記述した拘束事件である。
 
 お会いして、矢谷さんが、人望を集め、かつての歴史に残る大闘争を、リーダーとして 牽引したことも判るような気がした。やはり、私らとは器が違う。たった3時間ほど一緒 しただけで、人を惹きつけて放さない、人となりというものが伝わってきた。
 このところ私は、新しい雑誌の創刊と、社会的犯罪企業告発本の著述・出版に追われて いた。デジカメの操作にも慣れない(重い画像の送り方が分からない)ことも重なって、 当日の写真を送るのが遅れてしまったが、メッセージを付けて送ったところ、矢谷さんの 人間性が伝わってくるような、温かいお礼のメールが届いた。これを私だけが“独り占め ”するのも勿体ないし、是非とも、この「甲子園村だより」の読者のみなさんにも“おす そ分け”したいと思うので、私信ではあるが、披瀝しておきたい。矢谷先輩、“無断転載” お許しくださいね。
 その最後で、矢谷さんは、『アメリカを訴えた日本人』のPartIIを書かれているこ とを明らかにされ、私ごときに、「ひょっとすると、あなたの協力が要るかもしれません 」とおっしゃってくれた。涙がこぼれるくらい嬉しい限りだ。「是非とも協力させてくだ さい」と返したことは言うまでもない。───


(2)会食にて歓談

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松岡利康さん 
  
メールありがとう。 先日はわざわざのご足労、感謝しております。 
また、あなたの『甲子園村だより』には過分な記事をかいてもらって、 これもまた感謝しなければなりません。 先日の墓参りの後、 酒盛りの席上でおわかりのごとく(醜態をみせましたね)、美樹ちゃん (田中美樹)やわたしは彼ら"ツワモノドモ"の先輩に囲まれていつも 叱咤激励・特訓を受けていたようです。 しかも、いつも辛らつに やりこめられて! しかし、30数年ぶり、本当に久しぶりに逢って実に楽しいひと時がもてました。 "後輩"(こう言われると迷惑かも しれませんが)のあなたにも逢うことができ、ほんとうによかった。  
  
あれから、姫路に行き、翌日は仙台、そして東京と一週間ほどの一時 帰国で少なくない"かっての人たち"にあったり、消息を聞くことができました。 東京では加藤登紀子さんのうちに厄介になりましたが、"当時"の principleを今なお継承しているのは『甲子園村だより』のあなたと 加藤登紀子さんをふくめたわずかのひとたちだけのようにみうけられました。 
登紀子さんは、丁度 『絆』という、亭主だった今は亡き藤本敏夫さんとの 往復書簡を本にしたばっかりでした。 出版販売は3月30日(?)だった と記憶しています。 
  
わたしは、いま『アメリカを訴えた日本人』のPart IIを書いています。去年の 
American Psychological Association の112回年次総会で発表 した"From Pearl Harbor to 9・11:A Japanese Teacher in America" 
を軸に書き始めました。 これについては、次回またお話します。 ひょっとすると あなたの協力が要るかもしれません。 
  
とりあえず、感謝しつつ。 お元気で、  矢谷 
 


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