私はこれまで死刑判決を受けた様々な被告人に会ってきた。ここで紹介するA(50)は、その中でもとくに印象深かった1人だ。2年前にAの死刑判決が確定して以来、面会や手紙のやりとりができない状態が続いているが、私は春の訪れを感じる今日このごろ、「ある事情」からAのことを思い出す機会が増えている。

死刑囚Aが収容されている東京拘置所

◆凶悪犯のイメージとかけ離れた実像

裁判の認定によると、Aは2004年に不倫相手の女性(当時22)の金を使い込んだうえに殺害し、2010年にも別の不倫相手の女性(当時25)を別れ話のもつれから殺害したとされる。こうした犯行の概要だけを見ると、まぎれもない凶悪犯である。インターネット上には、色つきの眼鏡をかけた遊び人風の面持ちのAの写真が流布しているが、あれを見て、いかにも悪そうな男だと思った人もいるはずだ。かくいう私も最初はそうだった。

しかし、実際に会ってみると、Aの実像は凶悪犯のイメージからかけ離れていた。

私がAに取材依頼の手紙を出したうえ、Aが収容されている拘置所まで初めて面会に訪ねたのは2013年の秋のこと。Aは静岡地裁沼津支部の裁判員裁判で死刑判決を受けたのち、すでに控訴も棄却され、当時は最高裁に上告中だった。この日、面会室に現れたAの姿を一目見て、私ははっと息を飲んだ。Aは背こそ高かったが、髪が真っ白で、頬はこけ、半袖半ズボンの囚人服から伸びた手足はやせ細っており、あまりにも弱々しい雰囲気だったからである。

私が「突然訪ねて、すみません」と謝ると、逆にAのほうが深々と頭を下げてきた。「以前より痩せられましたか?」と聞くと、「はい。25キロくらい痩せました」と申し訳なそうに言い、「体調でも悪いんですか?」と尋ねると、「いえ、大丈夫です」とやはりまた申し訳なそうに言う。かえってこちらが恐縮させられるほど、Aはとにかく腰が低かった

「これまでマスコミの方とは一度もお会いしていないんですが、片岡さんがくださった手紙を読ませて頂き、心情を気づかってくださっている内容だったんで、一度お会いするだけお会いしようと思ったんです。正直、事件のことはお話できるかわからないんですが・・・」

Aはそんなことを話しながら、目をみるみる潤ませた。私が「事件のことを話すのは精神的に難しいですか」と尋ねると、「そうですね。正直、難しいです。『こうなんで、こうです』と簡単に話せることではないですから」とまた申し訳なさそうに言うのだった。

◆裁判で伝えたいこと

Aによると、裁判員裁判で死刑判決を受けた時、最初は控訴せずに刑を確定させようと思ったのだという。その考えが変わったきっかけは判決公判後、子供たちが面会に来てくれたことだったという。

「子供たちと色々話しまして、自分がなぜ、こんなことをしてしまったのかということを子供たちに残したいと考えるようになったんです。そして控訴審では実際、そういうことを話したんですが・・・判決ではそれに触れてもらえなかったんです」

私が「だから、最高裁に上告したんですか」と問うと、Aはまた申し訳なさそうに頷いた。

「判決に不服があるわけではないんです。私がしなければならないのは、責任をとることだと思います。死刑になったからといって、ご遺族の方々に許してもらえるわけではないですが・・・ただ、(犯行は)したくて、したことじゃなかったということ、なぜこういうことをしてしまったのかということを私は伝えたいんです」

そう声を振り絞るように話したところで、Aの両目から涙が溢れ出してきた。私はこれまで様々な殺人事件の犯人に会ってきたが、Aほど罪の意識に苦しむ様子が強く伝わってくる者はいなかった。とにかく私にとって、強烈な印象を残した初面会だった。

◆「今思い出すのは広島のことばかり」

私はこの日以降、断続的にAのもとに面会に訪ねるようになった。ただ、案の定というべきか、Aは事件のことを何も語れず、面会中の会話は当たり触りのない話題に終始せざるをえなかった。ただ、Aは必ずしも私に事件のことを話したくないわけではないようにも思えた。事件に関することは話したいが、話せない。面会中のAの様子からは、そんなもどかしい心情である様子が窺えた。

そんなAが「片岡さんが私のことをどこまでご存じかはわからないんですが・・・」と切り出したのは3回目の面会の時だった。

「私は元々、広島の人間なんです。それで親近感を覚えたのが、このように片岡さんと面会できるようになるうえで一番大きかったと思うんです」
 
後掲のプロフィール欄に書いてあるように私は広島市在住だが、Aは広島県の観光地として知られる尾道出身なのだという。Aは「私が広島で過ごしたのは高校までで、もう広島を離れてからの人生のほうが長くなりました。しかし、今思い出すのは広島のことばかりなんです」と懐かしそうに言うのだった。

多くの広島県民がそうであるように、Aも広島カープファンであるとのことだった。広島にいたころはよく旧広島市民球場に野球観戦に行っていたそうで、「最近一番うれしかったのも、カープがクライマックスシリーズに出られたことなんです」と心底うれしそうに言った。

また、Aは事件を起こす前、自分で車を運転して静岡の友人たちを広島に連れて行き、平和記念公園などを案内することがよくあったという。元々、友人は多い人物だったのだろう。

「今は弁護士の先生が面会に来てくれて、話ができるのが唯一の楽しみです。いつもは誰とも話さないので、ここの職員の方に話しかけてもらっても、うれしく感じるくらいですから」

Aはこの時、目に涙を浮かべながらも笑顔で話していたが、私はAの現在の境遇に思いを馳せ、身につまされた。

◆事件のことを話せなかった事情

最高裁は通常、公判を開かずに書面のみで審理を行うが、控訴審までの結果が死刑の事件については、弁護人と検察官の双方から意見を聴くための公判を開くのが慣例だ。Aの上告審で、この公判が開かれたのは2014年の秋のことだった。

その公判では、他の裁判所とは一線を画する最高裁の荘厳な法廷で、2人の弁護人が弁論し、Aの死刑回避を懸命に訴えた。殺害行為に計画性はなく、冷酷な犯行だとか残虐な犯行だとは言えないこと。Aは内省を深めており、更生の可能性があること。そしてAが最も訴えたかった「事件を起こした経緯」についても、弁護人は弁論の中で詳細に説明していた。

それを聞いていると、Aにとって、被害者2人の殺害はやりたくてやったわけではないことはよく伝わってきた。そしてそれと同時にわかったのが、Aが面会の際、事件のことを私に話せなかった事情である。A本人の意向を忖度して書くことは控えるが、要するにAは被害者の尊厳や遺族の心情への配慮から私に対し、事件のことを詳細に語ることができなかったのだ。それもまたAの罪の意識の深さの現れだと私には思えた。

Aも言うように、被害者の遺族はAが死刑になっても、決してAを許せないだろう。一方でAがこれ以上ないほど内省を深めているのは確かだ。だが、この日から約40日後の2014年12月2日、最高裁がAに宣告した判決は「上告棄却」。これによりAの死刑は事実上、確定したのだった。

◆最後の面会

私が最後にAと会ったのは、最高裁が上告棄却の判決を出した翌日だった。Aはこの日も面会室に静かな面持ちで現れた。死刑が事実上確定した直後であっても、取り乱した様子は見受けられなかった。

「(死刑という)結果が変わることを望み、上告したわけじゃないですから。伝えておきたいこと、言ってきたいことがあって、そのために上告してきたことですから。ただ――」

Aはそこまで話すと、感極まった。

「なぜ、こういうことをしてしまったのかを伝えたのに、それに何一つ返答がないというか――」

最高裁の上告棄却判決はA4でわずか3枚の短さで、弁護側が法廷で説明していた「Aが事件を起こした経緯」には何ら触れられていなかった。Aは、それが悔しかったのだ。

「こういうことなら、片岡さんに事件のことをお話しておけばよかったかもしれないですね」とAは言った。もしもAから事件のことを詳細に話されても、私に何かできたとも思えないが、たしかに私としてもAがなぜ事件を起こしたかはもっと聞いておきたかった。

「片岡さんがいつも面会の際、面会申請書で私との関係の欄に“友人”と書いてくれたでしょう。あれがうれしかったです。今の自分には、弁護士の先生以外に、そんなことを言ってくれる人がいないですから」 

そこまで言ったところで、Aは再び感極まり、泣き出した。私は何か言葉をかけたい思いだったが、適当な言葉が思い浮かばなかった。この日からしばらくして、弁護人が最高裁に行った判決訂正の申し立ても退けられ、Aの死刑は確定した。これにより東京拘置所におけるAの処遇が死刑確定者のものとなり、私はAと面会や手紙のやりとりができなくなってしまった。

◆「生きているうちにもう1回」

最後に面会した日から2年余りが過ぎた。日々の生活にかまけて、私の中から正直、Aに関する記憶は少しずつ薄れつつある。そんな私が再びAのことをよく思い出すようになったのは昨年、広島カープが快進撃を続けて社会現象にもなったことによる。前述したようにAがカープファンだったこともあるが、Aが面会中に述べた次のような言葉が私には大変印象深かったからである。

「生きているうちにもう1回、カープの優勝を見られればいいんですが」

カープは昨年、25年ぶりにセリーグのペナントレースを制し、このAの願いは叶った。しかしその後、カープが日本シリーズでパリーグ覇者の日本ハムに負けてしまったことをAはどう受けとめたのか。今はもう一度カープが日本一になる日を見たいとの思いを心の支えにしているのだろうか。プロ野球12球団の春季キャンプが始まり、プロ野球のニュースを目にする機会が増えた今日この頃、私はまたAのことをよく思い出すようになっている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』