いちばん若い歳での引退式かもしれない22歳でリングを去る翔栄(2017.1.8)

エキシビジョンマッチながら迫力ある蹴り合いを見せた長江国政と藤原敏男(1983.6.17)

「引退テンカウントゴングで送ってやりたい」と願う所属ジム会長や後援会などの信頼関係で実現する最後の勇姿を披露する選手たちの引退式──。名チャンピオンなど功績や存在感を残した選手が現役を去ることを決意した時、そこで引退を宣言し、引退式に臨む選手の在り方を過去の例から振り返ると、いろいろな思惑の引退式に繋がりました。

◆外傷性くも膜下血腫のため22歳で惜しまれながら引退した翔栄

過去行なわれた引退式には予期せぬものもありました。特に最近では、今年1月8日、治政館ジム興行WINNERSに於いて引退式を行なった元・日本ライト級チャンピオン.翔栄(治政館)がそうでした。外傷性くも膜下血腫のため現役を続けられなくなり、そんな原因で引退する運命は実に残酷。22歳での惜しまれながら早過ぎる引退でした。

引退式は役員からの記念品贈呈と他のゲストは王座決定戦で戦った勝次(藤本)が駆けつけたのみで簡潔に終了しましたが、治政館ジムの長江国政会長の計らいがあって実現したささやかながら引退式でした。

テンカウントを聞いた後、戦い慣れた後楽園ホール場内を見つめる富山勝治(1983.11.12)

リングにそっとグローブを置いて戦いに別れを告げた飛鳥信也(1995.12.9)

◆名チャンピオンたちの盛大な引退式

過去には存在感大きかった名チャンピオンの引退式は、引退そのものがメインイベントとなり、藤原敏男引退記念興行や富山勝治引退試合興行は盛大に行なわれました。

1978年、外国人(日本人)初のタイ国ラジャダムナン王座を奪取した藤原敏男氏は1983年2月の1000万円争奪オープントーナメント62kg級準決勝で、足立秀夫(西川)を3ラウンドKOに下し、決勝進出を決めたその場のリング上で突然の引退宣言、これは驚きの波紋を呼ぶ中、同年6月の引退興行に繋がりました。

過去に名勝負を展開した元・全日本フェザー級チャンピオン.長江国政(ミツオカ)との異例の3ラウンドのエキシビジョンマッチは思いっきり攻めた展開で終え迎えた引退式で、数々の名チャンピオンやプロモーション関係者が贈呈品を持って花を添えに訪れた盛大な引退式でした。

同年11月の東洋ウェルター級チャンピオン.富山勝治引退試合は永遠のライバル、元・日本ライト級チャンピオン.ロッキー藤丸(西尾)との公式5回戦をKO勝利で締め括り迎えた引退式も過去の業界を支えた興行関係者が熱く語らい、富山自身も全国のファンへメッセージを残す式となりました。

◆業界低迷時代にも選手の引退式は個性的だった

この二人を前後する業界低迷時代にも過去の隆盛期を支えた池野興信(目黒)、木村保彦(目黒)、猪狩元秀(弘栄)、内藤武(士道館)など幾人もの引退式があり、寂しい時代の中でもそれぞれの個性が発揮されていました。

特に多いのが昔からあるエキシビジョンマッチを行なう引退式は、最後のファイト姿のお披露目として最も多いやり方でしょう。しかし2分制の1ラウンドのみという場合もあり、動けるギリギリの体調かもしれませんが、あくまでも試合をするコンディションで正式2ラウンドで臨む姿勢が欲しいところではありました。

昔からあったパターンかもしれませんが、スーツ姿で登場する引退式のみのパターンも増えました。これは翔栄の場合と似た形で、アンダーカードの合間で行なうセミファイナル的な手法。怪我や病気でリングを去る場合は仕方ないにしても、力ある選手はスーツ姿よりもう少しファイト姿のお披露目が欲しい選手もいました。

大月晴明との激闘は引退式を考えぬ捨て身のファイトとなった蘇我英樹(2016.4.10)

小泉武会長に見守られて挨拶する蘇我英樹(2016.4.10)

◆過酷だった蘇我英樹の引退式

さらに最も過酷なパターンが、昨年4月に市原臨海体育館でWKBA世界スーパーフェザー級チャンピオン.蘇我英樹(市原)が前年激戦の末敗れている大月晴明と公式3回戦をKO負けして迎えた引退式でした。

これは怪我すれば引退式は中止になる可能性があり、試合後、立ち上がった直後では呂律がうまく回らない状況でダメージが心配されましたが、次第に回復し、挨拶とテンカウントゴングまでしっかりした足取りで踏ん張りました。

挨拶で笑わせ、セレモニー全体の調子を狂わせた竹村哲。応援に駆けつけたベイビーレイズJAPANに囲まれて(2015.12.12)

◆ラストファイトに最強の相手を選んで引退式に臨む目黒ジムの選手たち

過去には飛鳥信也(目黒)の公式戦引退試合5回戦も最強の相手、ギルバート・バレンティーニ(オランダ)を迎え、2ラウンドKO負けの後、他の試合を挟んでの休憩後の引退式でしたが、これも控室に帰ってから「あっ試合だ、行かなきゃ」とKO負けしたことが記憶に無く周囲に止められた状況で、ようやく現実にハッと気が付く目覚めでしたが、引退式は無事に、熱く語るメッセージを残しテンカウントゴングに送られました。

この試合から目黒ジムの選手はラストファイトに最強の相手を選んで引退式に臨むことを目指し、後輩の新妻聡は2000年7月にタイの現役チャンピオン、ノッパデーソン・チューワタナと対戦し、ボロボロに蹴られ5回戦判定負け(引退式は2003年12月)。更に小野寺力も2005年10月、大田区体育館でタイの現役チャンピオン、アヌワット・ゲオサムリットに2ラウンドKO負け後の引退式に臨みました。

2015年12月にはNKBウェルター級チャンピオン.竹村哲(ケーアクティブ)が同級5位.マサ・オオヤ(八王子FSG)を4ラウンドにKO勝利後、ロックバンド仲間が応援に大勢集う中、40分に渡る長い引退式。

涙ある語り口がある中、会場係員のトランシーバーが鳴り響くアクシデント、それを突っ込む竹村哲や、労いの言葉を途中で忘れ「……とにかくお前はよく頑張ったなあ、長い間ご苦労さん!」と苦笑いで締め括った渡辺信久連盟代表の意外なスピーチに、こんな笑える引退式も珍しいと思える展開となりました。

テンカウントゴングを聴く大和大地(2014.9.21)

◆家業を継ぐため引退した大和大地

若くして引退した場合は、復帰の可能性も大きいため、安易に引退式は行なわないようですが、23歳で引退したNJKFスーパーフェザー級チャンピオン.大和大地(大和)は家業を継ぐための引退で、周囲も温かく見送りました。

逆にかなりの期間を置いて引退式を行なう場合もあり、3年以上ブランクを空けるのは“復帰は完全に出来ない”と自覚して臨むことに時間を掛ける必要があるのかもしれません。

また、復帰は思うほど簡単ではないことを自覚し、復帰の気持ちが絶対沸かないように“ワザとブクブクに太る”という手段を使う選手もいたようですが、これでは引退式でその姿を見せるのは嫌で行なわないパターンもあったかもしれません。

◆多くの選手たちは静かにリングを去っていった

その反面、仲間内以外には告げることなく静かにリングを去っていった大多数の選手がいました。「いつの間にか見なくなったなあ」とファンが思える選手はそんな存在かもしれません。大会場で自主興行を打てないジムが団体(連盟主催)の興行に要望してもチャンピオンになっていないなど実績の無い選手の引退式は却下された例もありました。

加藤竜二も事故で脳挫傷になり引退を決意し若くしてリングを去った(2015.9.27)

そんなジム側が苦肉の策の自主興行で、キックボクシング興行は滅多にない小さな会場などで引退式を行なうこともあり、想い出の聖地、後楽園ホールでの試合が最も想い出深い選手が多いところで、叶うならここでやってあげたい想いはジム会長側にもあったことでしょう。

◆選手自身にとっての“有終の美”を第一優先に

また自ら引退式を望まない名チャンピオンも多く存在しました。愛弟子にはやってあげても自らの引退式は行なわなかったジム会長も幾らか存在します。

今活躍する名選手もいずれリングを去る日がやってきます。実績を残した選手の中では、引退式より、最終試合が完全KO負けであっても強い相手や戦い果せなかった相手と戦い悔いなく燃え尽きる、選手自身にとっての“有終の美”を第一優先に飾らせてあげたいものです。

大和ジム盟友が揃ってのエキシビジョンマッチを終えた大和3人衆、大和大地、大和哲也、大和侑也(2014.9.21)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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