いまから33年前の1986年4月26日、旧ソ連(現ウクライナ)でチェルノブイリ原発事故が起きた。IAEA公式見解による事故関連死者は4000人だが、被曝等による事故後の長期的な関連死者数は数十万人とも言われ、いまだに議論が続いている。いずれにしても福島第一原発事故が起こる以前の人類史上、最悪の事故とされている。

チェルノブイリから3年後の1989年、東京千代田区に設立された市民団体が「たんぽぽ舎」だ。設立当初はチェルノブイリ由来の食品汚染の放射能測定活動を中心にしながら様々な学習会を行っていた。3.11以後、原発問題について考え、活動する人たちにとって、「たんぽぽ舎」を知らない人は稀有だと思う。日本全国から情報を収集し、ほぼ日刊でメールマガジン「地震と原発事故情報」を発信し、放射能測定器を用いて食品の安全を監視、毎週金曜日の官邸前行動に参加するなどして活動するたんぽぽ舎は、〈原発ゼロ社会〉を目指す運動においてとても重要な存在となっている。日本で唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』もたんぽぽ舎と鹿砦社のコラボマガジンだ。

そのたんぽぽ舎が今年2月24日、年に1度の総会と共に設立30周年記念の講演会を行った。準備のために慌ただしいムードが漂う最中、サンドイッチを頬張りながら忙しそうにしているたんぽぽ舎共同代表のひとり、鈴木千津子さんにお話をうかがった。

たんぽぽ舎共同代表の鈴木千津子さん

◆「職業訓練校でニットを教えて欲しい」と言われて……

── 鈴木さんがたんぽぽ舎の仲間になったのは、いつ頃なんでしょうか。

鈴木 設立する前なんですよ。ファッションデザインというか、ニットのデザインなんかをやっていて、その頃は最高潮のときだったかな。色々な雑誌に載ってました。今はそんなに簡単にはいかないけど、昔は「来年はどんな色にしようか」って私たちで相談して、そこで決めた色を流行色として流行らせたもんなんですけどね。それで、柳田さんにうっかり会ったのがことの始まりなんです。

── その頃はまだ、たんぽぽ舎は設立されていなかたったんですね。デザインの仕事のなかで、どのように柳田さんにお会いしたんですか?

鈴木 私は東京都の官庁にいたわけではなくて、普通に民間でデザインをやっていたんだけど「職業訓練校でニットを教えて欲しい」という依頼があったんですね。最初は「助手さんに行かせればいいや」と思ってたんですけど、どうしても私に来て欲しいということだったのでやることにしました。

2年目、といってもまあ、季節労働みたいなもので1年間ずっと通しで仕事をするわけじゃないんですけど、2年目の時に柳田さんに会ったんですよ。柳田さんは当時、東京都庁の係長として公営の職業訓練校の運営に関わっていたんですね。次の年にまた職業訓練校に行ったら、今度は柳田さんがいないのね。どうしたのかなと思ったら、隣の人が「バカなやつがいるんだよ」って言うのね。「係長クラスまで昇進したのに自分から降りた馬鹿がいる」って。それが柳田さんのこと。

計りの下にあるのが初代放射能測定器だ。解析ソフトや特注のシールド等を含めて当時の価格で680万円

◆「放射能測定器が欲しい」というから……

で、私はこっちの方にも事務所を持ってたんですよね。有楽町に事務所とお店があったり、青山でお店やってたり、個人で色々やっていた。そういう中で柳田さんと会って、勉強会に誘われて。チェルノブイリの後、1988年頃かな。私は原発のゲの字も知らないから、学習会の席に座っていること自体が、ハッキリ言ってすごく居心地が悪い。聞いた話なんて、なんだか右から左に消えてっちゃって。そうこうしているうちに、学習会に参加している人たちの中で「放射能測定器が欲しい」っていう話が出たんです。

最初は「行政で買えばいいじゃない」と思ったんです。けれど、許可が下りても2年はかかる。2年も待てないんじゃないかと思った。ちょっと引き出し開けたら家なんかいつでも建てられるくらいは余裕があったので、測定器を自分で買っちゃった。(解析ソフトや特注のシールド等を含めて)680万円もするものだから、みんなびっくりしちゃうだろうなとは思ったんだけど、実際に私が「測定器を買った」って言ったら、5分ぐらい誰も口聞いてくれないのね(笑)。

それで、当時私は出資だけして終わりっていうつもりでいたのです。ところが、色々な運動グループが測定器を自分たちのものにしたいって言い始めて、それは嫌だと。みんなが自由に使えるようにしたいと思っていたんです。そうこうしているうちに、ビデオ撮ったり学習会やったり、みんながワイワイ集まれる場所を作りましょっていうことでたんぽぽ舎を作ったのです。

共同代表のおふたり。柳田さんと鈴木さん

◆2年も経つと、みんな機械(測定器)があることすら忘れちゃう……

“2台目”について説明する鈴木さん

── 放射能測定器から始まったんですね。

鈴木 そうです。だけどチェルノブイリの事故が起きてから2年も経つと、みんな機械(微量放射能測定装置)があることすら忘れちゃう。なかなか放射能が出ないから、外部の人はみんな、測る意義がもうないんじゃないかって言うんだけれど、私たちはそうではないと思っていた。むしろ放射能が出ないことに意義がある。当時は生活クラブもパルシステムもグリーンコープも機械(測定器)をどこも持ってませんでした。だからそうした生協などと掛け合って、「(放射能が)出ていないことに測定する意義がある」という風に考えてもらって皆に測定器を使ってもらいました。

── チェルノブイリ直後の日本はどんな雰囲気でしたか?

鈴木 一般的な反応としてはフクシマとあんまり変わらないんですけど、一部の人が、フクシマよりも、敏感に反応していました。8000km離れたこちらまで汚染物質が飛んでくるということでね。

── たんぽぽ舎は、初めから現在の場所で活動していたんですか?

鈴木 ここは1994年からです。最初はたんぽぽ舎の債権を買ってもらったりして、それで西神田に事務所を借りました。原発に関心が少しでもある人や関心をもってほしいと願った人々が仕事場と自宅の途中でちょっと寄っていけるという場所に事務所を開いた。私が関わり出した頃は、文化人グループや医者とか私たちみたいな人種は、絶対に運動なんかに関わるはずがないっていわれていた時でした。だから大家さんは、うちのグループの社員さんが会社終わりに雑談する場所かなって勝手に思ってたらしい。有楽町でテナントとなり、特に厳しい審査に合格して店舗を借りるのって、すごく大変でした。でも西神田のビルの時は前の(有楽町の)テナントに合格した人であればと、簡単に借りられた。ただ、原発反対って言っちゃうと借りられない。嘘は言わなかったけれど、原発反対とは言わなかった。ところが、開設日に新聞に大きく載り、すぐに大家さんにばれました。それでも大家さんは、このビルは2部上場の会社ばかり入っているビルですと言っただけ。なんとなく許してくれました。

これは自動式の画面だが、手動式のものは数値を手動で区切る必要がある

── 別の事務所に置いてあった測定器はどれですか?

鈴木 奥にある手動のもの。私にとっては懐かしい。メンテナンスにずいぶんお金をかけてます。今でも使おうと思えば使えるんだけど、他の2台で十分だから。でも、3.11の直後は他の2台がまだ来てなかったから、こればっかり使ってましたよ。このコンピューターでしか動かせない。

── コンピューターとセットなんですね。手動というのは?

鈴木 えっと、ここに色々な情報がでてくるんですね。ウランとかトリウムっていうのは、まあ見ればわかるのだけれど、(パソコンの画面を指差し)セシウム137とかっていうのはこの辺りにピークが出てくるんですね。で、こっちがセシウム134。手動っていうのは、私が自分でラインを入れて数字を区切るんです。それから計算する。

── 他の2台は自動なので、この作業は必要ない。

鈴木 そうです。

“2台目”の放射能測定器。重さが380kgもあり輸送に苦労したとのこと

◆うっかり出会っちゃったのが運の尽き(笑)

── 次に入ってきたのはどれですか?

鈴木 緑色の測定器。3.11の前に到着しましたけれど、動き出したのは事故の1年後くらいかな。2台目のこれは重さが380kg。一体型だから、建物の下からここまで持ってくるのに5時間以上かかったんです(笑)。小さな金属の丸太でレールみたいなのを作って、4、5人で少しずつ移動して設置しました。ゲルマ(ゲルマニウム製)にしようかと思ったんだけど、1トンぐらいあって重すぎる。床が抜けちゃうでしょ。で、これ(シンチレーション検出器)だって測り方によってはゲルマに負けないぐらいの精度と感度があるし、小さな数値から大きな数値まで測れる。この床の鉄板邪魔なんだけど、これがないと床が抜けてしまうんですって。

── それじゃ、最初に見せていただいたのは3台目なんですね。

鈴木 3台目は2012年頃に来ました。これも400kgあるのですけれど、シールドは6つに分かれてるから輸送は比較的スムーズでした。これは精度が高いので、2台目とあわせて頻繁に使ってます。

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総会の開始時間。下の階にある「スペースたんぽぽ」へ移動し、早速マイクを握る鈴木さんは、ピっとまっすぐな姿勢にグレートーンのファッションがとても素敵だ。総会後の懇親会では、歩き回って日本酒を振る舞いながら柔らかな表情で仲間と話している。「みんなと出会った頃は39歳でしたよ。うっかり出会っちゃたのが運の尽き」と笑う鈴木さん。魅力的に感じずにはいられなかった。

◎たんぽぽ舎 https://www.tanpoposya.com/

たんぽぽ舎オフィスにて

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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〈原発なき社会〉を目指す雑誌『NO NUKES voice』19号 特集〈3・11〉から八年 福島・いのちと放射能の未来

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