この8月、上念素子・著『廻船問屋の中ぼんさん──明治~昭和初期の大阪・商家の物語』という本を出版しました。
「鹿砦社らしくない本だね」という声も聞きましたが、失礼な(苦笑)、かつてはこういう類の本をよく出版していましたので、私にとってはべつに珍らしいことではありません。
水の都・大阪で繁栄した廻船問屋の興亡をめぐる、著者の祖父の物語を小説風に書いた力作です。いわば「ノンフィクションノベル」といったらいいでしょうか。廻船問屋のことや、最期は沖縄戦で火炎放射を浴びて戦死した主人公については、ぜひ本書をご購読いただき目を通してみてください。
昨年末、突然、本書の著者が参加している児童文学研究会の先生・梓加依さんからお電話があり、「ぜひ読んで欲しい原稿がある」ということで、師走の慌ただしいさなか、お二人で来社されました。
原稿を預かり、ざっと目を通し、一所懸命に書かれたことが文脈から窺えましたが、「今の私の会社では出版できない」と著者に伝えようとしたところ、「松岡さんには迷惑かけない。売れ残ったらみなで売る」からと梓さんから綺麗な直筆でお手紙をいただき、小部数で出版することにしました。実際に下記にある『主婦の手づくり選挙入門』も、その数年前に出した宇治児童文学会・編著『お母さんたちが読んできた児童文学100冊の本』も、女性パワーで一気に売ったという経験もあり、研究会を主宰しておられますから「売れ残ったらみなで売る」という言葉にも信憑性もありました。
原稿の送り付けや出版企画の話は1年に何度かありますが、ほとんど断っています。梓さんの紹介がなければ一顧だにせず断っていたでしょう。
梓さんと知り合ったのはもう30年余り前の1991年4月、「あしたをひらく女性の会」編著で前記の『主婦の手づくり選挙入門──もっと女性議員を!! 兵庫県川西の熱き体験』という書籍を出版したことに遡ります。この本の編集は、『季節』と「デジタル鹿砦社通信」の編集長・小島卓君が務めましたが、この本が縁で、梓さんの当時のペンネーム「長崎青海」さんと知り合ったのです。
当時、鹿砦社と同じく、関西で言う「阪神間」の一角、兵庫県川西市は汚職と選挙違反で荒れ、無党派の女性らが「あしたをひらく女性の会」を結成、出直し市議選に2人立候補させ2人とも当選、この記録を一冊の本にまとめたものです。あらためて紐解くと、今でも十分に通用する内容です(その後、同会は分裂したと風の噂で聞き、梓さんもそれを機に会を離れたということでした)。
これを前後して梓さんと知り合うのですが、どういう経緯だったか私も梓さんも、さすがに30年余り前のこと、思い出せません。
その翌年の1992年2月、長崎青海・著『豊かさの扉の向こう側』という書籍を出版しましたが、これが梓さんの人生を変える一冊になったということです。これまで知りませんでした。
この本を、教育委員会の方が偶然読まれ感銘を受け、「研修で使いたいので20冊持って来てほしい」とお電話があったそうです。売れ残りを私から買い取って手元にあったので、すぐに持って行ったそうです。
その後、やはりこの本が縁で、ある国立大学の非常勤講師の話があり、自分は高卒で不適当だと断ったそうですが、それでもいいからと採用されたということです。しかし、これ以降、いくつか非常勤講師や家裁の調停員などの仕事が舞い込むことになります。当時、梓さんは図書館のアルバイト職員で、高卒ですから当然司書の免許もなかったそうですが、高卒のままではいけないと、意を決して、近畿大学の通信教育に入学し卒業、司書の免許も取得します。向学心の強い彼女は、さらに神戸大学の大学院にも進み50歳を過ぎて博士課程前期(修士)を修了したそうです。
『豊かさの扉の向こう側』出版後、いつのまにか付き合いがなくなり、こういうことがあったのを、最近まで知りませんでした。さらに驚いたのは、彼女の単著『おかあちゃんがほしい──原爆投下と取り残された子どもたち』(素人〔そじん〕社刊、2018年)での「あとがきにかえて──もう一つの物語『養護施設と私』」におけるカミングアウトです。
梓さんは、一見上品で裕福なイメージですが、これを覆すような記述です。正直驚くと共に涙が出てきました。彼女は終戦前年の1944年(昭和19年)に異国で生まれ、敗戦濃厚の引揚の混乱で実の母を亡くし見知らぬ女性に引き取られ育てられたそうです。少し長くなりますが、このくだりを引用します。──
「私も戦争中に誰の子どもかわからずに育ての親に養育されました。そこことを戦地にいた父は知りませんでした。戦争から帰ってきて自分の子どもだと聞かされて私を育てたのです。父が戦争に行くときに母はお腹が大きかったのです。けれどもその子どもは死産でした。代わりに私をもらったようです。戸籍は実の子どもになっていました。当時はそんなこともできたのです。
私が高校を卒業する時に記念に献血をしたことで、私が父の子どもではないことを、父も私も知ることになりました。血液型が父と違ったのです。その後、母がこのことで自殺未遂をしたり、父が家に帰らなくなったり、私は母からひどく叱られ憎まれたりして、『あなたなんかもらわなければよかった』という母の言葉で家族は崩壊しました。私はそのすべてが自分の存在のせいだと思われて苦しい時間を過ごしました。何度も死ぬことを考えました。」
普通こういうことは「墓場まで持って行く」ようなことでしょうが、梓さんは齢七十を過ぎ、なにかを達観されたのか、自己の生きてきた道程を書き記しておかなければならないという強い想いが強迫観念のように込み上げて来たのではないでしょうか。
加えて、引き揚げてきた長崎には、翌年8月9日、原爆が落とされ育ての母は被爆し、その後がんで亡くなったそうです。当然1歳かそこらの梓さんも被爆したはずですが、母は、差別を心配し梓さんは被爆していないと通したということです。梓さんはその後、広島に転居し、高校を卒業するまでを過ごしたとのことです。高卒後、大阪に出て働き始め結婚、出産、阪神大震災で被災、長女の震災鬱と死を経て、現在に至ります。まさに波乱の人生です。震災後の96年、次女が鹿砦社に勤めたこともありました。
手前味噌ながら『廻船問屋の中ぼんさん』は良い本ですが、販売面では苦戦しています。印刷所への支払いも頭の中に過っていたところ、つい数日前の夕方、そろそろ帰宅しようかと思っていたところに電話があり、取ってみると梓さんでした。開口一番「銀行口座を教えて」ということでした。「松岡さんが30年前に私の『豊かさの扉の向こう側』を出してくれたお蔭で、その後、大学の講師などに就けた。松岡さんには恩があるので、本の製作代金を支払うわ」ということでした。「えっ!」唖然としました。翌日、本の製作代金を遙かに上回る金額が振り込まれました。
「一冊の本が人の運命を変えることがある」とは、よく言われることです。私も常々言ってきましたが、実際に、身近でこういうことが起きるとは……。ひょっとしたら、『廻船問屋の中ぼんさん』の著者・上念素子さんも、この本を出版したことで、のちに運命が変わるかもしれません。
『豊かさの扉の向こう側』はちょうど30年前の出版、30年の歳月を越えて梓さんとの再会にもまたなんらかの運命的なものがあるように感じます。
コロナ禍、円安と物価高、ウクライナ戦争と暗いことが続く世の中、久しぶりに気持ちが清々しくなるような話でした。ぜひともみなさんに知って欲しくて書き記しました。
*『豊かさの扉の向こう側』『主婦の手づくり選挙入門』は在庫有りません。
(松岡利康)