◆本当に「国民のほとんど」がLINEを利用しているのか

SNSのLINEから個人情報が漏洩していた件で、総務省はLINEの使用を、取りやめたそうだ。ある新聞によると「国民の多くが使っている」との表現も見られるLINE。広く普及していることは認知していたが「国民のほとんど」といわれるほど、皆さんが利用していたとは少々驚いた。

けども本当に「国民のほとんど」が利用しているのか、との疑問も捨てきれない。わたしの知人のなかにはLINEを利用しているひともいるが、大半はLINE世界とはまったく接点のないひとだからだ。

SNSには主たるものだけでもFacebookやTwitter、Instagram、LINEなどがあり、この4つともを利用している方も少なくないだろう。

◆無償サービスの危険性

端的に言って、SNSは危険である。理由を述べよう。

発信を仕事や業務にしている人にとって、SNSは利用価値の高いネット上の道具であろう広告費の削減が達成できて日々発信内容の更新ができる。しかし、発信と無縁な方がこの世界に足を踏み入れると、無意識のうちに「みずからの素性や嗜好、毎日の生活を暴露する」行為に及んでしまう。聞かれもしない私生活を写真やことばで晒してしまうのだ(「個人情報保護法案」をぶっ潰すのがSNSだともいえるかもしれない)。

それぞれのSNSは、発信形態や登録者同士の通話機能、データ互換機能など特性や危険性を充分に理解して使えば、便利な側面はある。ただしそれは、ほとんどの場合、仕事や業務に限定されるといってよく、そうでない場合には危険性が高まると考えてよい。

危険性とは、それぞれのサービスがいずれも「無償」で利用できることから想像が可能だ。無償のサービスであっても利用約款は存在するはずだが、そんなものを熟読してから利用する人は、ごく少数であろう。当然ながら運営会社に利用者の情報は登録され、運営会社は利用者間の情報交換(その中には「秘密」にしておきたい内容も含まれる)を閲覧するることができる。データも保存される。

そういった認識をもって、SNS利用者は日々利用をしているだろうか。わたしはまったくSNSを利用しないので、細かい操作性を知らないし、約款も読んだことはない。初対面の人と名刺交換をすると「TwitterのアカウントやLINEはなさっていらっしゃらないのですか」とたびたび聞かれた記憶がある。その程度にSNSの利用者は浸透している証拠だろう。わたしはメールアドレスと電話番号を他人に伝えても、さらに繋がり(しがらみ)が要求されそうなSNSでの関係など持ちたくはないし、日々どころか日に何回も自分の感情や、出来事を他人様に知らしめたいと皆目思わない。

◆無償サービスであるSNS事業は本当に社会的なインフラストラクチャーなのか?

ただでも街中に監視カメラがくまなく設置され、都市部ではトイレ以外では、ほぼどこにいても監視カメラで勝手に姿を撮影される。この時代に、わざわざ考えていることや、感情の起伏を発信しなければならない理由が、わたしにはない。LINEは連絡網のような機能の利便性が高いらしく、個人から商店、企業から、はては官公庁までが利用しているそうだ。でも、利用者の皆さんは、利用約款を読んだことがおありであろうか。

個人や企業の利用は、置いておくとして、官公庁が私企業の提供する無料サービスを、かくも無防備かつ無前提に利用することに問題はないのだろうか。私企業であるから、業績が傾けば当然業務の停滞や、倒産だってあり得るし、マーケットとしての旨味がなければ、サービスの撤退だって他国では現実に起こっている。SNSではないが、みずほ銀行の度重なるトラブルを見ていれば、システムの危うさは理解されよう。無償サービスであるSNSを、社会的なインフラストラクチャーのように捉えるのは、危険すぎる。

◆「愚行」を増殖させるSNS依存症

そして何よりの落とし穴は、SNSは強度の「依存性」を帯びていることである。個人の利用者でTwitter中毒になり、生活が歪んでしまったひとを少なくない数みてきた。中には自死してしまった人もいる。人間の生育を阻害することしか頭にない文科省は、この危険なSNSを含むPCならびにネット利用教育を小学校から行うという。このような政策を「愚行」と呼ぶ。Twitter依存症になると、感情の制御ができなくなり、攻撃的言辞を容易に発信してしまう傾向がある。

必要のないかたは、SNS使用を控えることをお勧めする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

「児童虐待」をテーマにした映画「ひとくず」のロングラン上映が各地で続いている。

 

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

映画は、空き巣を稼業とするカネマサ(金田匡郎)が、空き巣にはいった部屋で、少女鞠(まり)に出会うところから始まる。カギをかけられ、電気も止められ、食べ物もない部屋にうずくまる鞠に、幼いころ母親にトイレに閉じ込められた自分を重ね合わせるカネマサ。鞠を救いたいとの思いは募るが、現在の行政の仕組みではなかなか救えないことを知る。鞠の胸にアイロンを押し付けたのは、鞠の母親凛の愛人。それを止めることのできない凛をカネマサは怒鳴りつける。しかし、その凛の背中にも虐待の跡をみつけてしまう。「虐待の連鎖」。

監督、脚本、編集、プロデューサー、そして主演カネマサを演じた上西雄大さん(56歳、大阪出身)も幼い頃、実父が実母に暴力をふるう場面を見て育ったという。映画を作るきっかけとなったのは、別の企画の取材で話を聞きに行った精神衛生士・楠部知子さんから、虐待の実態を知らされたことからだった。

日本における児童虐待相談の件数は、2016年度で12万2578件、26年間増え続けている。胸などにアイロンを押し付けられ火傷を負う子どもは鞠だけではないこと、性的虐待も多いことなど。「アイロンをあてるとき、熱くなるまで待つ訳じゃないですか?その時の子どもの恐怖を思うと辛くて辛くて……」と監督。その思いをどうにかしたい、鞠のように虐待された子を救ってあげたい、そうした思いから一晩で台本を書き上げたという。そして「この作品を世に出すことが、虐待をなくしていくことにつながるのであれば」との思いで映画を作った。

しかしこの作品は、虐待の実態を知ってもらったり、啓蒙するために作ったのではないという。じつは虐待の加害者もまた虐待の被害者であるケースも多く、そうした「連鎖する虐待」の中に置かれた人たちが、その中で人間の愛、良心、家族の暖かさ、優しさを知り、変わっていけることを描きたかったという。「もし映画を観て感動してもらえるなら、その先に虐待について目を向ける思いが宿ってもらえることを願っている」と、上映後には「児童相談所対応ダイヤル」189(イチハヤク)を印した缶バッチをお客さんに配っている。

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

◆子どもの愛しかたがわからない親たち

 

上映後に配られた「児童相談相談所対応ダイヤル189」を印した缶バッチ。画像クリックすると公式HPへ

映画を見る前に、杉山春さんの「ネグレクト」を読んでいた。ネグレクト(育児放棄)も虐待の1つだ。10代の若さで親になった雅美と智則は、ともに幼い頃、親から育児放棄されて育ってきた。雅代や智則の母親も雅代や智則が嫌いだったり憎んでいる訳ではない、ぎりぎりに生活する中で、子どもに愛情をかけてあげることが出来なかった親たちだ。そんな親に育てられた雅代も智則もまた、子どもを育てる術をしらない。映画「ひとくず」で、凛が「どうやって子どもと接したらいいか、愛情注いだらいいか、わからないの」と泣き叫んでいたように。

雅代と智則も、子どもの育て方、愛情の注ぎ方を知らず、うまくいかない子育てに悩み、途方に暮れても、親や社会に助けを求めることもできないできた。そして段ボールに入れた3才の娘を餓死させてしまう。杉山さんは、逮捕された二人の裁判を取材する過程で、二人の親や周辺の関係者にも取材を広げ、痛ましい事件の背景を探っていく。

◆虐待が起こる背景

虐待が起こる背景は様々だろうが、カネマサ、凛、鞠、そして雅代、智則を見る限り、経済的環境(貧困)も深く関係していると思われる。以前、関西で貧困問題などに取り組む司法書士の徳武聡子さんが、家庭の経済的状況と子どもの言葉量が比例すると話されていた。経済的に余裕のある家庭では、親が子どもと会話する量も多く、子どもが覚える言葉も増える。一方で、経済的に貧しく、ダブルワークで働く親などは、家に戻っても疲れはて、子どもにかける言葉も少なくなる(もちろん経済的に貧しくても家庭で子どもに十分声をかけてやれる親もいる)。「めし」「早く、寝ろ」「うるさい」…いや、それすら発せられないかもしれない。

 

映画『ひとくず』より。画像クリックすると公式HPへ

逮捕された雅代も智則も、真奈ちゃんの言葉を教えることはなかった。幼児は「ご飯よ」と言えば「ゴハン」「いただきます」と言えば「いただきまちゅ」と言葉を覚えていくのではないか。真奈ちゃんが亡くなるまで覚えた言葉はたった1つ、智則の母親が教えた「おいちい」だった。

「ネグレクト」では、雅代と智則が裁判を通じ、徐々に変わっていく様が鮮明に描かれている。とくに智則は、獄中で様々な本を読み、言葉を覚え、自身の内面を見つめ直し、何故わが子を死なせてしまったかを考えていく。一審では、検察官の質問に「ちょっと覚えてないです」と繰り返していた智則が、判決後、どうしても控訴したいと弁護士に訴える。理由は、量刑不当ではなく、無理やり殺意があったとした判決には納得できないからだという。

「裁判上認められなくても、一人でも多くの人に当時の私たちの気持ちを理解してもらいたい」と、二審では、当時の自分の考えを必死で言葉にし、何故真奈を死なせてしまったかを証言していく。「二人にとって裁判は、おそらく生まれて初めて自分自身の心の奥をのぞき込み、考え、他者に向けて言語化していく作業だったはずだ」と杉山さんは書いている。

◆「虐待の連鎖」を断つために

「ひとくず」の主人公カネマサも、「バカやろ」と相手を口汚く罵倒するしかできない男だった。母親の愛人に虐待を受け続けてきたカネマサは、庇ってくれなかった母親に「死ぬまで憎み続けてやる」とつきつける。

「虐待の連鎖」は、どうしたら断ち切っていけるのか?映画「ひとくず」では、かつて母親の愛人を殺したカネマサが、今度は凛の愛人を殺すという、無茶な形で断ち切っていくが……。

「虐待がこんなに酷いと告発したいのではなく、そんななかにもある人間の愛、良心、家族の温かさをみつけてほしい」と監督が願っていたものは、映画でどう描かれたのか。カネマサの実母への憎しみは、鞠、凛親子と出会い、どう変わっていったのか?映画では、描かれていないが、私は、カネマサが刑務所で何を考えていたか、ぜひとも知りたいと思った。

エンドロールの後に描かれる希望、赦し、出所後のカネマサを迎えたのは鞠、凛、そして……。


◎[参考動画]映画『ひとくず』アンコール上映版予告編(2021年1月31日)

◎『ひとくず』公式HP https://hitokuzu.com/

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

3月5日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

武装闘争は、どのような思いで実行されたのか。そしてそれを、どのように考えるのか。今回、東アジア反日武装戦線を取り上げたドキュメンタリー作品が完成した。それが、2000年代初頭に釜ヶ崎で日雇い労働者を撮影していた韓国のキム・ミレ監督作品『狼をさがして』だ。

© Gaam Pictures

◆「東アジア反日武装戦線」とメンバーのその後

東アジア反日武装戦線とは1970年代、明治以降の帝国主義を批判し、企業爆破を実行したグループ。この名称は同志が使用できるようにされていたため、各「部隊」は自分たちを「狼」「大地の牙」「さそり」と名乗った。

1968-69年の全共闘を経て、大道寺将司(だいどうじまさし)さんは70年、帝国主義の研究会を発足させる。キューバ革命などに関しても学ぶなか、武装闘争の路線が固まっていく。あや子さんも研究会に加わった。72年、東アジア反日武装戦線の名称が決まり、大道寺将司さん・大道寺あや子さん・片岡利明(かたおかとしあき・現在は益永)さん・佐々木規夫(ささきのりお)さんらのメンバーは、「狼」を名乗る。74年、小冊子『腹腹時計』を発刊。同年8月14日、太平洋戦争でアジア人民を殺した「大犯罪人」たる昭和天皇・裕仁が乗車する列車を爆破する「虹作戦」実施のための行動が開始されたが、完遂できなかった。その翌日、韓国では、在日韓国人で朝鮮総連活動家・文世光(ムン・セグァン)が大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)を暗殺しようとする。「狼」は、これに刺激を受けて30日、三菱重工業東京本社ビルを爆破、8名が死亡、376人の負傷者が出た。その後、11月25日に帝人中央研究所を爆破。

いっぽう71年、齋藤和(さいとうのどか/かず)さんは浴田由紀子(えきた/えきだゆきこ)さんらと知り合い、のちに「大地の牙」を結成。同「部隊」は74年10月14日、三井物産の本社屋「物産館」を爆破、16人の負傷者が出た。その後、12月10日に大成建設を爆破。

翌75年2月28日には、「狼」「大地の牙」「さそり」合同で、間組本社と間組大宮工場とを爆破、5人の負傷者が出た。

「大地の牙」は75年4月19日に、オリエンタルメタル製造の本社と韓国産業経済研究所も爆破している。

大道寺将司さんに会った黒川芳正(くろかわよしまさ)さんは74年に「さそり」を結成。宇賀神寿一(うがじんひさいち)さんや桐島聡(きりしまさとし)さんとともに12月23日、鹿島建設のプレハブハウス工場の資材置場を爆破。75年には2月28日以外にも、4月28日に間組京成江戸川作業所を爆破して1人の負傷者が出、5月4日にも間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破した。

逮捕後、75年のいわゆる「クアラルンプール事件」で佐々木規夫さんが、77年の「ダッカ日航機ハイジャック」で大道寺あや子さんと浴田由紀子さんが釈放。大道寺将司さんは死刑確定の後、2017年5月24日に多発性骨髄腫のため東京拘置所で病死。益永利明さんは確定死刑囚として東京拘置所に、黒川芳正さんは宮城刑務所に収監されている。大道寺あや子さんと佐々木規夫さんは国際、桐島聡さんは全国指名手配中。斎藤和さんは取調中に服毒自殺。宇賀神寿一さんは懲役18年が確定した後、2003年6月11日に出所した。浴田由紀子さんは95年にルーマニアで身柄を拘束・日本に移送されて懲役20年が確定し、2017年3月23日に出所している。

© Gaam Pictures

◆「東アジア反日武装戦線」を辿る

『狼をさがして』は、2004年8月の、釜ヶ崎で亡くなった仲間の慰霊祭の場面から幕を開ける。山谷でも同様の「イベント」があるが、おそらく15日に実施される「釜ヶ崎夏祭り慰霊祭」だろう。1972 年、「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)」によって始められ、活動家や日雇い労働者を弔うものだ。作品には、喜納昌吉(きなしょうきち)さん作詞・作曲の『花』を歌う人も映し出される。監督は韓国の建設産業史をめぐって釜ヶ崎を訪問し、そこで「資本と国家にあらがう人たち」を目にして、東アジア反日武装戦線を知る。

評論家で東アジア反日武装戦線メンバーの支援活動もおこなう太田昌国(おおたまさくに)さんは、旅先で集めた絵はがきやパンフレットを大道寺将司さんに送っていた。太田さんはFacebookなどにも、「私にできたことは少ない。ほとんどなかった、と言ったほうがよい。旅行が叶わぬ彼に、せめても旅先から絵葉書を送った」と記す。新潟県松之山温泉近くに広がる雲海の絵葉書や観光案内書を送った際には、大道寺将司さんから以下のような句が返ってきた。

雲海に落人(おちゅうど)の影消えにけり

マスコミは当初、「思想もない爆弾魔」「爆弾マニア」として報道したという。だが本作には、東アジア反日武装戦線メンバーの主張も取り上げられている。「日帝中枢に寄生し」ている企業に対し、「世界の反日帝闘争」に参加する仲間と連帯し、「新大東亜共栄圏」を実現しようと海外や発展途上国の植民地化をもくろむ者たちを打倒すること。それこそが、「戦死者を増やさぬ唯一の道」だという。だが、1人ひとりの感覚や心情は、素朴なものだったりする。それにショックを受け、共感を抱く人が多く存在してきたし、現在も存在し、本作によってそれを知る人もいるだろう。女性の運動を経て、大道寺将司さんの妹となって支援を続けた大道寺ちはるさんも登場する。

1975年に「狼」グループの一員として逮捕され、87年に出所後、福祉の仕事に携わっている荒井まり子さんも登場。姉は「公安警察の尾行をまこうとして亡くなった」そうだ。荒井さんは獄中でも「東アジア反日武装戦線獄中兵士」を名乗っていたが、密かに猫や他の人との交流も楽しんでいたらしい。荒井さんの母親も、支援者という「友だちを増やしてくれたから、今もまわりにお友だちがいっぱい」などと口にする。

電光掲示板や派手なアニメの看板などが乱立する東京では、東アジア反日武装戦線が単なる殺人者として露骨に嫌悪されていると説明されるシーンもある。ただし実際には、ほとんどの人は詳細などまったく知らず、また忘れ去られている部分もあるだろう。

また監督は、大道寺将司さんの故郷、北海道釧路市にも足を運ぶ。

© Gaam Pictures

◆朝鮮・中国・アイヌ侵略と彼らの犠牲

韓国の監督作品として観るからこそ、印象に残るシーンもある。荒井さん親子が朝鮮民謡『アリラン』を歌い、哀愁を語らう。朝鮮から強制連行された方々を追悼する様子も描かれる。

東アジア反日武装戦線の主張にも当然、日帝による「35年間に及ぶ朝鮮の侵略・植民地支配」への批判が含まれる。自らは「日本帝国主義者の子孫であり」これを「許容、黙認し、再び生き返らせた、この認識より始めなくてはならない」というものだ。

「大地の牙」が爆破した大成建設の前身は、大倉財閥系の企業だ。大倉財閥は軍需産業で成長し、東アジア反日武装戦線は「大成建設が1922年に信濃川水力発電所で朝鮮人労働者を大量に虐殺した」ことも、爆破の理由にあげている。韓国の新聞『東亜日報(トンアイルボ)』によれば、「惨殺された者100人以上」ともいう。

同様に「大地の牙」によるオリエンタルメタル社・韓産研爆破の日程として選ばれた4月19日とは、1960年3月15日の韓国大統領選挙における不正を糾弾し、民衆デモが発生。大統領を下野させたこのデモのなかでも最大規模だった「革命の日」の日程に合わせたものだ。

齋藤和さんは学生時代、「朝鮮革命研究会」に相談役として加わり、その後、日雇い労働をしながら4回韓国へ渡航。彼の友人の中野英幸(なかのひでゆき)さんは、歴史を知ることなく、本気でないなら、恥ずかしいので支援はやめてくれといわれたことが心に残っている。

また、東アジア反日武装戦線は朝鮮同様、アイヌへの侵略の歴史にも言及していた。本作では、アイヌのイベントの様子も取り上げられている。筆者には以前、アイヌへの侵略と北海道への進出の歴史に先祖が関わった知人がおり、残された記録を目にしたことがあった。彼らは「アイヌと友好的に関わった」などと主張していた。そんなことも思い出した。まったくアジア侵略と同様だ。

さらに、「さそり」が爆破した鹿島建設には、戦時中に強制連行した986人の中国人労働者が、過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかね、1945年に一斉蜂起し鹿島組の現場責任者らも戦後に重刑を宣告されたことが背景にある。事件後の拷問も含め、45年までに400人以上の中国人労働者が死亡した。

彼らの犠牲のうえで、現代のわたしたちは「平和で安全で豊かな小市民生活を保障されている」と、東アジア反日武装戦線は訴える。

本作には、8月15日の「反『靖国』行動」と、それに対する右派の様子も映し出されていた。

© Gaam Pictures

◆「すべての人が対等に生きられる世界」に向かうために

だが、東アジア反日武装戦線メンバーが、「非合法・武装闘争として実行」したことに対する「自らの反革命に落とし前をつける」と語るシーンなどもおさめられている。監督は、武装闘争について、冷静なスタンスを変えない。

浴田由紀子さんの出所は最近で、筆者も集会に参加したので、よく覚えている。『週刊金曜日』に報告文も寄稿した。その際、浴田さんは、「世の中を変えたいと思い、これだけ長く刑務所にいた女性は、ほかにいないと気づいた。(当事者として)犯罪者・出獄者の気持ちを理解する私が、出獄した女性たちが助け合い、人間性を奪う刑務所に行かずに済むネットワークをつくりたい。これがわたしの新たな役割」「当時、大切な人・大切なこと・自分もないがしろにしたことが一番の間違いだった。開かれた世界で自由に交流し、人間らしい日常をわたしから実践したい」と語っていた。

内田雅敏弁護士は本作で、「日本・天皇の戦争責任に関し、十分でないが終わったという認識が強かった時代に、企業の戦争責任を問うて企業爆破をすることで、日本の近現代史における未精算の問題、植民地支配や戦争責任について、徐々に理解されるようになった」という旨のことを述べている。

本作では、「反日亡国論」とは、国家や民族的な結合をなくすことであるというのも説明される。

さまざまな運動とその歴史に関わる筆者としては、武装闘争を単純に批判できない。そこで、本作ラスト近くの京都大学名誉教授・池田浩士(いけだひろし)さんの「暴力は圧倒的にわたしたちの側にない」からはじまる言葉には、ぜひ、耳を傾けていただきたい。そのうえで個人的には、やはり現代日本においては、武装闘争は倫理・道徳的な視点からというより、市民の共感や賛同を得られないものは運動にはなりえず、それは運動として成功しないという考えから否定的ではある。

個人的には、救援連絡センターの山中幸男さん、足立正生さんをはじめ、知人・仲間が多く登場し、そこも楽しませていただいた。現在、救援で働く宇賀神寿一(シャコ)さんがパーキンソン病であることを、本作で初めて知った。エンドロールに意外な方の名前も連なっていた。運動関係者の方なども、ぜひ最後までじっくりと、ご覧いただきたい。

最後に。「世界同時革命」はわたしたちの知る以外でも一部実行され、一部実現し、現在にいたると筆者は考えている。現在、政治に嘘がまかり通り、新自由主義は暴走し、格差は拡大し続けている。わたしたちは今こそ、東アジア反日武装戦線や60年代以降の運動に改めて注目し、今と未来を変えるために彼らからも学ぶことができるだろう。知り、行動する。本作で語られる「闘う人々と一緒に、お互いの国も世界も変えて、すべての人が対等に生きられる世界」「先祖がアジアの人々に対しておこなった過去の誤りを正し、償う」ことを実現するために、「自分も今のままではいけない、平和も豊かさも否定し、疑い、自己否定の時代の反日武装戦線の立場」を生かすことができるのではないだろうか。

キム・ミレ監督 © Gaam Pictures

【映画情報】
『狼をさがして』
(2020年/韓国/モノクロ・カラー/DCP/74分)

監督・プロデューサー:キム・ミレ
出演:太田昌国、大道寺ちはる、池田浩士、荒井まり子、荒井智子、浴田由紀子、
内田雅敏、宇賀神寿一、 友野重雄、実方藤男、中野英幸、藤田卓也、平野良子ほか
企画:藤井たけし、キム・ミレ
撮影:パク・ホンヨル
編集:イ・ウンス
音楽:パク・ヒュンユ
配給・宣伝:太秦株式会社

公式サイト:http://www.eaajaf.com
2021年3月27日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)

1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。映画評・監督インタビューなど映画関連としては、『週刊金曜日』『情況』『紙の爆弾』『デジタル鹿砦社通信』などに寄稿してきた。2000年代以降、ブント(共産主義者同盟)の知人も多い。K-POPと韓流ドラマ好き。訪韓1回、訪朝3回。『neoneo』向けにも朝鮮関連のドキュメンタリー、ドラマ評などを執筆してきた。月刊『紙の爆弾』2021年4月号には「パソナが淡路につくる『奴隷島』(仮)」寄稿。

最近、こちらでは新型コロナウイルスに関して書き続けてきたが、個人的に長期化への覚悟はできた(というのも妙な表現だが)。今回は、テーマを変更し、今村彩子監督ドキュメンタリー映画『きこえなかったあの日』を紹介しながら、災害時をはじめとする生活を背景に、人と人とのコミュニケーションについて改めて考えたい。

©2021 Studio AYA

◆「障害」とは何か

本作は、2011年の東日本大震災から幕を開ける。宮城県亘理郡亘理町に暮らす加藤褜男(えなお)さんは、津波の警報がきこえず、近所の人の車に乗せてもらって避難。菊地藤吉(とうきち)さんと信子(のぶこ)さんも、近所の人の声がけで高台に避難した。その後、加藤さんの家も菊地さんの家も津波で流されたのだ。

先日、ネット番組『Abema』で、障害者の兄弟姉妹である「きょうだい児」の特集が組まれた。そのなかでタレントが、「ある意味、障害は多かれ少なかれ誰にでもある」という旨の発言をする。それに対し、きょうだい児の方も、うなずいていた。

また近年、障害の「害」は「否定的で負のイメージが強い」との理由で、「障がい」という表記が見られるようになった。ただし、筆者の知る障害者団体メンバーの方は、「実際に生活していて『障害』がある。だから、『障害』と記すべき」という意見も聞いた。調べてみると、「東京青い芝の会」は邪魔・妨げを意味する「碍」の使用を提唱してきたが、ひらがなでは「『社会がカベを作っている』『カベに立ち向かう』という意味合いが出ない」と言う。

実際、社会は声が大きくなるマジョリティーに合わせて形成されている。そのため、マイノリティであればあるほど、生きづらくなっているのだ。実際、東日本大震災でも、本作によればいわゆる健常者の2倍障害者が亡くなっているそうで、これも朝日新聞の報道によれば「住民全体に占める死者・行方不明者は1%弱。障害者は2倍に上り、被害が際だっている。23日にあった障がい者制度改革推進会議で、内閣府が報告した。津波で大きな被害を受けた岩手・宮城・福島3県の沿岸37市町村に住む障害者は約15万人。内閣府が障害者関係の27団体に確認したところ、約9千人のうち2.5%にあたる約230人が死亡、または行方不明になっていた」という。

さらに、手話通訳のいない公共施設も多い。そこで、家族に同行してもらう必要があったりする。

©2021 Studio AYA

◆口話教育の問題と、それを超えていく加藤さんのコミュニケーション

『きこえなかったあの日』には、何人かのキーとなる人が登場する。その1人が前出の加藤さんで、彼は聾学校で口話の教育を受けたため、受けた教育全体としては大変不十分なものとなっていた。そのため、彼は読み書きもできなかった。口話教育の問題に関しては
《鼎談》排除の歴史と闘うための書籍『手話の歴史』/映画『ヴァンサンへの手紙』
〈1〉『手話の歴史』翻訳本誕生の背景
〈2〉手話を禁じた「ミラノ会議」の影響
〈3〉ろう者の人権尊重や本当の意味での「選択の自由」を求めて
で、触れさせていただいているので、ご参照願いたい。

ただし、加藤さんはかなり積極的で、愛嬌もあり、みんなに愛される。手話通訳士の岡崎佐枝子(さえこ)さんのもとにも足繁く通う。加藤さんはコミュニケーションを十分に取れる相手が限られるためにさびしいのかもしれないと、岡崎さんは感じている。

いっぽうで、13年の鳥取県を皮切りに手話言語条例が成立していく。手話言語条例とは、「〈1〉『手話の歴史』翻訳本誕生の背景」でご説明したように、「日本語と同等の言語として手話を認知させ、ろう者が手話言語による豊かな文化を享受できる社会を実現する」ことを目指すもの。プレスシートで全日本ろうあ連盟の石橋大吾さんは、「『福祉』の中でのみ語られてきた手話を、福祉という扱いではなく『言語』として扱う」「1人でも多くの方々に自分の身近にもきこえない人が暮らし、手話言語を必要としていることや、手話言語は音声言語と対等な言語であることを知っていただき、手話言語への理解が広まり、きこえない人の人権が尊重された共生社会の実現が私たちの願い」と語る。その必要性が高まっていったわけだ。

加藤さんのコミュニケーションは拡大していき、得意の大工仕事で人を助け、さまざまな集会所に顔を出す。独特の手話は手話を解する方にすら伝わりにくいようだが、身振り手振り、そして表情で、誰とでも交流する。

加藤さんの様子を目にしていると、これは手話に限らないということに気づく。外国語学習でも何でも本来は、相手とコミュニケーションを取りたい、だから相手の使用する言語表現を学ぶ。その際、不十分でも、やはり身振り手振り、表情などで補うことは可能どころかむしろ大変重要だということだ。伝え合いたいという意思が大切なのだろう。しかし、マイノリティほど当初の相手が限られる。そこをどうするのかということだろう。その後、加藤さんは、災害公営住宅へと移る。

©2021 Studio AYA

◆「震災後、いろんなことを考えた。いろんな思いが湧き出て、それらを教育に取り入れた」

2016年には熊本地震が発生。その際には、熊本県聴覚障害者情報提供センターや対策本部によって、筆談や絵によるコミュニケーションが準備され、手話が活用されて、聴覚障害者のためのポスターも掲示された。

また、18年の西日本豪雨では、一般社団法人広島県ろうあ連盟が聴覚障害者団体として全国で初めて、独自でボランティアセンター「西日本豪雨災害ろう者対策本部災害ボランティアセンター」を設立している。難聴でボランティアを断られてきた人が、受け入れてもらえることを喜び、盛んに活動する姿も映し出された。107日間で383名がボランティアに参加したという。

本作のラストでショックを受ける人もいるかもしれない。だが、それ以上に作品全体からは、事実のみならず希望を受け取ることができる。

今村彩子監督は、ろう者の立場から、コミュニケーションというものの本質を追求し続けているように感じた。それは、16年の自転車ロードムービー『Start Line(スタートライン)』も、月刊『紙の爆弾』に映画評を寄稿させてもらった「ASDときどき鬱」の友人との関係性を描く『友達やめた。』も同様だ。『きこえなかったあの日』のプレスで監督は、取材を通じて「遠慮や諦めから分かったふりをしてしまいがちなろう者にとって、分からないことをそのままにせず、根気よく尋ね返すことの大切さを再認識でき」、専門家にとっては「コミュニケーションをとる上での注意点を知ることができる」ということへの気づきにも触れた。宮城県立聴覚支援学校教諭の遠藤良博さんは、「震災後、いろんなことを考えた。いろんな思いが湧き出て、それらを教育に取り入れた。自分から周りに訴えられる人間になってほしい。手話が通じなくとも、メモ帳を持って行動してほしい。耳のきこえる仲間を作ってほしい」と記す。

わたしが移住した先の田舎には、自然災害によって完全に孤立するエリアがある。その行政区においては、高齢者や障害者もたくさんいるのだ。だが、区長さんが率先して防災の取り組みを進め、現在では全国でも屈指の事例を重ね、メディアの取材も多い。区長は「今こそ顔のみえる関係づくりを」と呼びかけている。

新型コロナウイルスの影響により、マスクで口元が見えなかったり手話通訳を呼びにくいなどの困難が聴覚障害者にとって立ちはだかっているという。人は1人では生きられず、そこには支え合いが必要だ。その際、さまざまな人との多様なコミュニケーションが大切で、日々の工夫、その積み重ねが、妨げがあった過去とは異なる未来を育むのだと思う。


◎[参考動画]予告編

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
フリーライター、労働・女性運動等アクティビスト。月刊『紙の爆弾』2月号の特集「2021年 日本のための7つの『正論」』に、「『弱者切り捨て』に反撃ののろしを上げよう」寄稿。現在では、オルタナティブの活動に注力。

まさか、であった! 前回の記事で、天王山の戦い(山崎合戦)は主人公・明智光秀にとってあまりにも惨めなので、省略されるかもしれない。主人公の最期(死)まで描かないという、前代未聞の結末になるかもしれない、という予言が当たってしまった。ある意味で、トホホである。

もちろん前回も紹介したとおり、その人物の生涯があまりにも長いので、作家の原作およびNHK大河ドラマの脚本において、省略されるのもやむを得ない(海音寺潮五郎原作「天と地と」)と解説しておいた。

だが、今回は山崎の合戦(光秀が羽柴秀吉に敗北死)という、わずか一日を省く(ナレーションで代替え)異常さなのである。たんなる手抜きではなく、意識的に惨めな最期を端折ったのである。ここに、当初からの作品コンセプトの破綻を見ないわけにはいかない。

しかも!である。架空の人物(架空の医師の助手・駒)の言葉とはいえ、明智光秀が生きているのを見た。というトンデモない結末となったのである。最後のシーンでは、武家風から町人風の髷に変えた光秀が京の町を闊歩し、さらには馬に乗って、颯爽と平原を駆け抜けてゆく。

前回の最終講評で終わりにするつもりだったところ、トンデモないことが起きたので再論しなければなるまい。

というのも、生存説が単なるトンデモではなく、天海大僧正明智光秀説という、歴史研究者にとっては、あながち無視できない奇説があるからだ。


◎[参考動画][麒麟がくる] 第41回 まとめ | 月にのぼる者

◆明智光秀は生き延びて僧天海となった?

南光坊天海は、実在の人物である。天文5年(1536)の生まれだとされている。上杉謙信が1530年、織田信長が1534年だから、明智光秀(生年不明だが、信長よりも年上だとされている)とは同時代人ということになる。

相模の三浦氏系蘆名氏の出身だとされているが「俗氏の事、人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」と記録にある。ようするに、出自がハッキリとしない人物なのである。ほかに足利将軍(11代義澄か12代義晴)の落胤説もある。
没年のほうは、江戸時代なのでハッキリしている。寛永20年10月2日(1643)ということは、天文5年生誕説を採るならば、107歳まで生きたことになる。112歳説などもあるようだ。

川中島の合戦(永禄4年=1561)で「謙信と信玄の一騎打ちを見た」「信玄にあとから聞くと、あれは影武者だと答えた」などと語っていることから、諸国遊行のうちに青年期・壮年期を過ごしたといえよう。

それほど出自がわからない人物であるにもかかわらず、大僧正(大師号)を贈られるなど、不思議な点が多いのだ。江戸の町を設計した、江戸城を「の」の字型に縄張りした、とされている。

あるいは、江戸城の北東に寛永寺を築き、その住職を務めている。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣ったという。

寛永寺の南西側には、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を配置し、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなど、寛永寺が比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる。

これらの都市建設思想は、京都ゆかりの知識人、明智光秀にしか考えられない、かもしれない。上野東照宮、増上寺もこの天海が開山にかかわっている。

そこで、明智光秀が生き延びて、家康の庇護のもと天海大僧正になったという説が生まれたのだ。


◎[参考動画][麒麟がくる] 第42回 まとめ | 離れゆく心

◆傍証の数々

傍証も少なくない。

家康ゆかりの日光に明智平という地名があること。

比叡山に、俗名を光秀とする僧侶の記録があること(一時、比叡山に潜伏した?)。

さらには有名な史実として、徳川家光の乳母(斎藤ふく=春日局)が斎藤利三の娘であり、家康はそれを了解のうちに採用したこと。そののち、斎藤一門は繁栄している。

山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず、戦後加増されたこと(実際は大津城の攻防で、西軍をくぎ付けにした功績)。いっぽうで、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に呼応しなかった筒井家が、慶長13年(1608)に改易されていること(実際には家中分裂で改易)。

これら傍証ともいえる光秀=天海説の伏線を敷くかのように、今回の「麒麟がくる」最終回では、光秀から家康に宛てた書状が登場する。菊丸(岡本隆)に託される光秀の「遺言」ともいえる書状である。

すなわち、自分が斃れたあとは家康に天下を託したい、との内容であるのは想像に難くない。


◎[参考動画][麒麟がくる] 第43回 まとめ | 闇に光る樹

◆正義の人でなければならないのか?

こうした結末にしなければならなかった理由は、一連の記事で明らかにしてきたとおり、NHK大河の主人公が「生来の正義の人」「利発な天才系」でなければならない。ある意味では勧善懲悪主義の基調が仇となっているからだ。

主人公がことさらに悪人である必要はないが、あまりにも葛藤がない。あまりにも悩みがない、みずからの苦悩がなさすぎる。

たとえば「風林火山」(原作新田次郎)の信玄は、苦渋の果てに父親を追放する。のみならず、みすからも父子対立のすえに嫡男の義信を自害に追い込む。多くの側室を抱えたがゆえに、その対立にも悩まされる。いわば苦悩の人であった。
いやそもそも、信玄は謙信が言うように、その内部に悪をひそませた人であったかもしれない。

それでは、伊達政宗(NHK大河は「独眼竜政宗」)はどうであろうか。政宗は弟を殺しているが、信玄ほど陰謀家ではない。政宗が母親に毒殺されそうになった(史実には疑いがある)シーンを、NHKはショッキングに描いたではないか。その苦悩も涙も十分に伝わる脚本だった。

上記の二作品は、NHK大河シリーズ史上、最高の視聴率を成し遂げている。ようするに、NHK大河は人間を描けなくなった。類型的な勧善懲悪主義に堕してしまっているのだ。

今回の「麒麟がくる」において、明智光秀の人物像が大きく変わったという評価は、しかしあまりにも史実とかけ離れた、その意味では稗史(はいし)と呼ぶべきものだったといえよう。彼の本当の苦悩や野心は、現代に再生できなかったのである。

[関連記事]
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈1〉 人物像および本能寺の変に難点あり!(2020年8月28日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈2〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 謀略の洛中(2020年9月6日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈3〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 朝廷か将軍か(2020年9月13日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈上〉光秀は帝に会える立場だったか? 朝廷陰謀説を採ったNHK──本当にいいのか?(2021年1月23日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈下〉天王山の合戦は省略 朝廷・濃姫黒幕説で、最終回はイラストで終了か?(2021年2月5日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

◆濃姫が「毒殺」を使嗾

最後は巧くまとめるんだな、という印象である。少し早いが、次回(2月7日)が最終回ということで、ネタバレ情報も入ったので解説しておこう。とんでもないことが起きない限り、これで最終講評としたい。

前回の講評では朝廷黒幕説、正親町帝が「信長が天下を乱すようなら、見届けよ」。つまり「信長追討の密勅」が暗に行なわれたという解釈で、トンデモないことを云うものだと批判した。そもそも織田家の陪臣の身では、帝に拝謁できない時代考証の誤り。

しかるに、43回「闇に光る樹」は京都で濃姫(帰蝶)と密会し、濃姫をして「父道三ならば、信長に毒を盛る」と言わせるのだ。

NHK大河ドラマ・ガイド『麒麟がくる 後編(2)』

以前の批評で「誰でもいいから黒幕説」のひとつとして、森乱丸黒幕説と並列していたトンデモ説が、にわかに浮上してきたのだ。陰謀の陰にオンナありのドラマとしては秀逸な展開だが、濃姫と光秀がおなじく道三を父と仰ぐような関係ではないことを確認しておこう。

すなわち「麒麟がくる」のコンセプトそのものに関わることだが、光秀が信長に仕えるようになるまでの前半生はほとんど謎、消息不明なのである。

土岐一族系の明智氏の出であることは、たぶんその名乗りから疑いないかもしれない。そんな程度の出自なのである。明智城や明智の荘に係る、同時代史料があるわけではないのだ。

足取りがわかっているのは、越前朝倉家に何らかのかたちで関係していたことぐらいである。この点は「麒麟がくる」も史実考証に忠実で、朝倉氏に仕官したとはしていない。したがって「信長さまに拾われるまでは浪々の身であった」という史実を踏襲したことになる。

いっぽうの濃姫(帰蝶)も、足取りがよくわからない人物である。濃尾同盟の証しとして信長に嫁いだのはまぎれもない史実だが、その後がよくわからない。

複数の史料に「安土殿」「信長公御台」「北の方」などの記述があるので、信長没後まで生存していた可能性は高いが、早世説もある人なのだ。それも信長の子を産まなかったからにほかならない。

信長には生駒吉乃をはじめ、11人の側室があり、12人の息子と9人の娘、6人の養子があった。悲しい話だが戦国女性は子を産まなければ、よほどの内助の功がない限り存在感は希薄となる。

◆イラスト合戦

今回の大河がふざけているのは、時代考証のいい加減さだけではない。合戦シーンがじつに断片的で、その大半が歴史解説番組なみのイラストなのである。これほど歴史ファンを莫迦にした脚本があるだろうか。

光秀の場合は単独で戦った大きな合戦といえば、丹波制圧のほかには天王山の合戦(山崎の合戦)ぐらいしかなく、重点を置ききれなかったのは了解できる。

しかし、比叡山焼き討ちとともに武田征伐では恵林寺での快川紹喜の「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」などは欠かせない見せ場で、信長の残虐性を際立たせるには格好のネタであったはずだ。長島合戦や越後での一向宗狩りなど、信長を悪者にするシーンは豊富にあったはずだ。

松永久秀の最後について前回も解説したが、北陸戦線で織田軍が上杉謙信に敗北した事情(秀吉の無断離脱)など、当時の緊迫感のある政治情勢を欠いてしまったために、ドラマ自体がふぬけた印象となった。

◆最期を描かないラスト

さて、問題はラストである。これまで大河ドラマは主人公の最期まで描き切ることで、偉大な人生の達成感を視聴者にもたらしてきた。

もちろん例外もないではない。上杉謙信の生涯をえがいた「天と地と」では、第4次川中島合戦の「勝利」(実際の歴史家の評価は、引き分けであろう)でジエンドとなっている。その後のエポックを欠く関東出兵や北陸での織田氏との争いなど、とうてい長すぎて描き切れないという事情がみとめられる。

しかし、今回は光秀の情けなさを象徴する「三日天下」(実際には11日)と天王山の合戦を、簡略シーンかイラストで済ませてしまおうというネタバレ情報なのである。

天王山の合戦の敗因は、秀吉が「信長さまは生きている」と吹聴したために、光秀方に兵が集まらなかった、とするものだそうだ。

本能寺で信長の首が見つからなかったのは史実である。信忠(信長の息子)の首も二条御所の縁板を剥がして遺体を隠したという説があるとおり、織田父子の深謀遠慮が感じられる。

だが、史実は本能寺の変後の政治工作が朝廷方面に手間取り、一向宗(根来寺)や長曾我部元親、上杉景勝、武田遺臣団など反織田勢力への工作が不足したのである。

本能寺の変後、北陸から柴田勝家が撤退、信濃からも森長可が撤退、川尻秀隆が武田遺臣団に殺され、滝川一益も北条氏に攻められて敗走するという、各地の織田勢が総崩れ(天正壬午の乱)するなかで、光秀は政治工作の不足で求心力を得られなかったのだ。

光秀の人望のなさも挙げざるを得ない。前回の講評で紹介したとおり、フロイスの「みんなからは嫌われていたが、信長だけには気に入られていた」という人物評価が当たっているのだろう。あてにしていた細川藤孝も筒井順慶も、光秀に味方しなかったのだから。

肝心の最期のシーンはどうなるのだろうか。

小栗栖の田の細道を十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする『別本御代々軍記』(「太田牛一」のが正確なところと考えられる。そこで切腹するというのが江戸時代の歴史本だが、実際にはその後斬首された斎藤利三とともに、粟田口に首と胴体をつながれて晒されたという(「兼見卿記」)。

ともあれ配役の演技陣諸氏には、最後の熱演技を期待したい。

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◎「麒麟がくる」の史実を読む〈3〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 朝廷か将軍か(2020年9月13日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈上〉光秀は帝に会える立場だったか? 朝廷陰謀説を採ったNHK──本当にいいのか?(2021年1月23日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈下〉天王山の合戦は省略 朝廷・濃姫黒幕説で、最終回はイラストで終了か?(2021年2月5日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

1月17日放送の「月にのぼる者~光秀ついに帝に拝謁」で、イッキに朝廷陰謀説が濃厚になった。これは解説に務めなければならないであろう。

NHK大河ドラマ・ガイド『麒麟がくる 前編(1)』

本能寺の変の動機の、現在主流となっている説は「四国政策変更説」である。すなわち、長曾我部氏の所領を安堵(四国は切り取り自由)していた信長がこれを撤回し、息子の信孝を総大将に約束違反の四国派遣軍を組織したことによる。

しかるに、光秀は家臣の斎藤利三が長曾我部家の家臣の縁戚であることから、織田家の四国政策の窓口となっていたのだ。

したがって、信長の四国政策の変更は、光秀のメンツを潰すものとなる。

この信長の政策変更の背景には、阿波の三好氏ら長曾我部と対立していた者たちが信長陣営に接近する動きがあった。すなわち、長曾我部氏に四国を全面的に任せるのではなく、両者を調停しつつ同時に織田家への臣従をもとめたのである。信長にとっては、両者の所領を安堵する苦肉の策でもあった。

これが、長曾我部氏(当主は元親)をして、約定違反だと憤慨させる。すでに四国の大半は、長曾我部の手中にあったからだ。光秀は調停に務めるが、長曾我部氏の態度は頑なで、調停は好転しなかった。

そこで、上記の四国派遣軍が準備されたのだ。本能寺の変のとき、この四国派遣軍は摂津の港で船出の準備をしていた。総大将信孝のほかに丹羽長秀、織田一門衆の津田信澄ら、一説には1万5000以上の大軍、鉄甲船9隻をふくむ軍船300隻が準備されていたという。

いっぽう、光秀は四国担当をはずされ、信長の命で中国攻めに苦労している羽柴秀吉の援軍を命じられる。そして信長自身は、京都本能寺に公家衆・堺の茶人たちを招いて茶会。供の者はわずか数十人(明覚寺に嫡男の信忠が500の兵)という、ほぼ無防備状態が生まれる。

これを知った光秀は1万3000の兵で、数日前から熟慮をかさねていた計画を実行する。すなわち本能寺の変の勃発である。

◆光秀は帝に会える立場だったか?

ドラマは終盤にさしかかって、仕掛けが明らかになってきた。

松永久秀が光秀の美濃時代から登場し、志貴山で自決したときに破却したとされる古天明平蜘蛛茶釜(こてんみょうひらぐも)を光秀に託す。この茶釜を手にする者は、天下をになう覚悟がいる、との意味付けが物語を進行させる。

だが、久秀の謀反は今回の大河ドラマで描かれているほど、覚悟のあるものではない。上杉謙信の上洛を見越した謀反が失敗、いや見込みちがいに終ったにすぎない。

そして信長は意外なことに、平蜘蛛をカネに替えるなどと言い出す。本能寺の変の前夜まで、茶道具に執着していた信長の言葉としては無理がある。じつは本能寺の変の前夜に茶会が開かれ、当日も信長は茶会を予定していた。博多商人の島井宗室を招き、宗室の楢柴肩衝(茶入れ)を召し上げるつもりだったのだ。

それはともかく、光秀が正親町天皇に拝謁をたまわる。光秀の官位は従五位下であるから昇殿できず、地下人として庭からの拝謁となった。

帝いわく、「月にのぼろうとする武士たちは、還って来ぬ」と。玉三郎の正親町天皇は、じつにはまり役だ。彼にしかできない役であろう。

拝謁の内容は「天下を夢みた者は死ぬ」との帝の思し召しである。

そして、光秀にこう命じる。

「信長が月にのぼろうとするかどうか、しかと見届けよ」

つまり「信長が天下に破天荒なことをするようなら、その死を見届けよ」

やんわりとした、しかし追討の勅命である。

右大臣とはいえ信長の陪臣にすぎない光秀を、単なる挨拶やご機嫌伺いで三条西実澄が帝に会わせるわけはない。これは信長追討の密勅いがいの何ものでもないのだ。そこを慮らずに、脚本を書いてしまったというのであれば、とんだ不敬である(笑)。時代考証の誤りである。

史実を参考にすれば、すぐにわかることだ。上杉謙信は長尾景虎を名乗っていたときに、二度にわたって上洛し正親町天皇に拝謁している。

謙信も光秀と同じ従五位下だが、関白近衛前久とその従兄でもある十三代将軍足利義輝の推挙によって、幕閣待遇で昇殿しているのだ。

しかも近江にながらく滞在し、三条西家ほかの公卿に多額の土産を積み上げて、帝への忠勤と経済的支援を申し出てのものだ。じっさいに、謙信は関東管領職という東国武家を統括する地位を占めていた。

以上のことから、いずれにしても今回の大河ドラマが無理な設定で朝廷黒幕説となったのは明白だ。畏れ多くも(苦笑)、NHKは禁裏に踏み込んでしまった。

◆やはり無理があった企画

そもそも、この大河ドラマの企画にしてから無理はなかったか。

長谷川博己が演じる、正義と善意のかたまりのような光秀が、史実のように惨めな死(裏切者としての命運)を辿るのであれば、そもそも光秀を主人公に「麒麟(平和のシンボル)」をどう描くつもりだったのか? 

たとえば、松永久秀(吉田鋼太郎は、はまり役だ)とともに悪逆を尽くして(史実=イエズス会の光秀評価)最後は殺される、敗者の魅力にでも賭けたほうが良かったのではないだろうか。

光秀の人となりを伝えるものは少ないが、わずかにあるものも、彼への評価は辛らつである。

「信長の宮廷に十兵衛明智殿と称する人物がいた。その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」(ルイス・フロイス「日本史」)。

頭が良くて信長には気に入られているが、ほとんど全ての者から嫌われているというのだ。これで「麒麟(平和)」を呼ぶ者というのは無理があった。

「彼(光秀)は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」(前掲書)。

すでに夏の段階で、おおまかな作品の史料評価(時代考証)は行なってきたので、ご興味がある方は参照してください。

◎「麒麟がくる」の史実を読む〈1〉 人物像および本能寺の変に難点あり!(2020年8月28日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈2〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 謀略の洛中(2020年9月6日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈3〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 朝廷か将軍か(2020年9月13日)

この中でわたしは、

「長谷川博己はキャリアも演技力も十分な俳優だが、演技巧者であるがゆえにこそ、主役級の華はないと言わざるをえない。彼は名わき役なのである。前半の斎藤道三役の本木雅弘の熱技に、まるっきり呑まれてしまった」

「まるでウラのない善人で、正義漢なのである」

「これでは本能寺の変が、たとえば信長をよほどの悪逆な主君にしないかぎり、うまく描けないのではないだろうか。染谷将太の信長は神がかり的ではないだけに、いまのままでは単なる無能な殿というイメージになってしまう。無能な信長像というのは、NHK大河のみならず初めてではないか」

「そもそも『麒麟(平和のシンボル?)がくる』ためには、悪逆の王(信長)を滅ぼさなければならない。という設定自体、当の光秀が秀吉に滅ぼされてしまうのだから、どだい無理があるというものだ。明智光秀は天海僧正だった説でも採らないかぎり、『戦乱のない世を』というテーマがけっして果たされないのは自明である」と、指摘してきた。

しかし、単に長谷川博己の起用に問題があったのではない。NHK大河は若い主役俳優を起用し、作品をつうじて演技の幅が豊かになる。その成長の過程こそ魅力であった。

近いところでは、2014年の「軍師官兵衛」の岡田准一の好演が挙げられる。晩年の如水時代まで、年輪をかさねるように役を演じきり、岡田は歴史プロパーとしても画面に定着した(NHKのザ・プロファイラー)。

いまのところ、というかもう終わりだが、明智光秀のなかに何ら変化が起きないのである。これでは成長しようにも、ファクターがなさすぎる。

歴代の光秀役では「利家とまつ」の萩原健一の激しい演技が、狂気じみた魅力で記憶されている。やはり、この路線が正しかったように思われる。

◆NHKがめざしたもの

NHKの狙いとして、日刊ゲンダイは以下の「放送作家」の批評を紹介している。

「戦のない世の中を夢見る光秀は、そのためには『誰にも手出しできぬ大きな国をつくることじゃ』と言い放つ道三に心酔し、父母に疎んじられた信長は岳父の道三を頼り、道三の娘の帰蝶はファザコン。つまり、道三をキーパーソンに、光秀が長男、信長が次男、帰蝶がおてんばな妹というような関係なんです。道三の『大きな国』を平らかで豊かな国と考える光秀は、いったんは信長に夢を託しますが、『大きな国』とは自分が天下を意のままにすることだと考える信長と行き違いが大きくなっていくというのが、ここ数話の展開ですよね。そして、もはや戦乱は広がるばかりで、王が仁ある政治を行う時に現れるという麒麟は来ないと悩み、信長を増長させた“長男”の責任として、泣いて馬謖ならぬ、“弟”を斬るという本能寺の変が描かれるのでしょう」(放送作家)。

そして、こうも解説する。

「信長も、“兄”である光秀の思いは痛いほどわかるから、『是非に及ばず』(仕方がない。光秀を恨まない)と言い残して自害したという解釈になるのだろうか。もはやシェークスピア悲劇の世界で、信長役の染谷将太は『(台本を読んで)鳥肌が立ちました』と語っている。(2021年01月10日 09時26分 日刊ゲンダイDIGITAL)。

なるほど、ドラマの序盤で本木道三を看板に持ってきたのは、そういう深遠な意図があったか、である。

だが、これにも無理があるのは言うまでもない。麒麟の権化となるべき光秀が、秀吉に討たれる理由が見当たらないのだ。まさか、秀吉に討たれる前に幕引きをはかるのか。(つづく)

※上述のとおり、光秀の最期がどうなるのか。ハッキリ言えば秀吉に敗れて挫折死か、それともトンデモ説に飛びついて「天海僧正になった」なのか。見極めてから、あらためてダメ出しをしたいと思います。続編にご期待ください。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

◆大晦日の井岡一翔の“タトゥー”をきっかけに

大晦日のWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで、井岡一翔の左腕と脇腹に見られた“タトゥー”について賛否両論の意見が交わされました(刺青、入れ墨、タトゥーは慣習的には示すものが違うかもしれませんが、ほぼ同じ意味らしいです)。

日本ボクシングコミッションルールの欠格事由に「入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者」は試合に出場できないというルールがありますが、ファンデーション等で隠すなど表面から一時的にも消す場合は出場許可される場合が多いようです。

入れ墨をドーランで隠す配慮ある石川直樹(2020年1月5日)

大月晴選手は胸に小さな☆マーク。可愛いもんである(2019年4月13日)

こういうルールがあること、賛否を議論されることは、それだけメジャーな競技である証明でもあり、更に細分化した部分で問題が起きているのが今回の入れ墨問題。その入れ墨はどこで線引きをするかは難しい問題でもあります。

以下、4つに分けると、

(1)どんな小さな入れ墨でもダメ。
(2)全身大部分の入れ墨や暴力団組員を表すもの、それを連想させるものでなければOK。
(3)身体の一部分で、デザイン化した絵柄、お守り的意味合いならOK。
(4)海外はOKなんだから日本も海外に合わせないと時代遅れ、どんな入れ墨もOK。

ルール的に(1)~(4)のどこで線引きするかとなると“ちょっとならOK”としたら、その線引きが難しくなります。

“大晦日の井岡一翔の場合まではOK”となる線引きするとしたら、その境界線で「井岡のより小さいのにダメなの?」や、「井岡のより大きくてガラ悪いのにOKになった!」といった損する選手、得する選手が出てくる僅差の判定に起こりがちの不可解感が生まれ、抗議殺到の可能性が高いでしょう。だから今は、従来通りのルールでいくしかないプロボクシング。それでも寛大に、ファンデーションで隠すならOKとされているのでしょう。

年代や育った環境にもよるので、意見が纏まらずに落としどころが難しい問題です。

一方で「ボクシングを健全な競技、スポーツとするのであれば、入れ墨は小さくてもダメ。“テレビに出る=世間一般への影響力”を考慮しなければならない。」という意見や、「日本では昔から“入れ墨=反社会勢力”という印象が強過ぎるせいで、未だに良くないという印象が根強く、ヒーロー的な選手が入れ墨を彫ると、それに憧れる子供が真似をする影響からダメ。」等の意見もあるのも事実。また、「皮膚移植して入れ墨を消してでもやりたいボクシング。」という選手も居た魅力あるスポーツでもあるのです。

JBCの入れ墨に関わるルールを変えたいなら、それなりの署名運動や嘆願書など諸々の手続きを取ればいいところ、井岡一翔の行動で問題提起の良いきっかけにはなったことでしょう。

弾正勝vsロッキー武蔵。昔のキックボクサーはサポーターで入れ墨を隠した(1985年3月16日)

◆キックボクシングでは入れ墨OK?

マイナー競技としての年月を経たキックボクシングは、創生期からルールが大雑把なため、テレビ局から対応を求められる以外は規制が緩い部分が多い。

昔のキックボクシングでは腕や太腿に入れ墨していた選手がサポーターを着けて試合出場していた選手がいました。腕や脚をダメージから保護してしまう不平等性があるのではないかという意見もありながら、細かいことの規制はありませんでした。

TBSテレビ放映時代の日本ヘビー級チャンピオン,ジミー・ジョンソン(横須賀中央)は横須賀米軍基地勤務からアメリカへ帰り、再び日本のリングに立った時は、腕から胸に厳つい入れ墨が大きく彫ってあったものでしたが、これも何も問題にならない昭和の時代でした。

現在も入れ墨がある選手が試合出場していますが、団体やフリーのプロモーター興行によってルールや出場条件はやや違いがあるようで、全身に近い彫りものでも隠さず出場したり、ある程度はファンデーションで隠す配慮をする選手やジムの意向、団体の規律がある興行も存在します。

もう入れ墨には慣れっ子になってしまった我々以下の世代。何といっても普段は一般人らしく礼儀正しく振舞う選手が多く、反社会勢力的存在ではないことは分かります。しかし、初めてキックボクシングを観たという一般人からは怖く見えるものということを考慮した方がいいかもしれません。

首にかけて阿涅塞と彫ってあるような字はイタリアのオリビア・ロベルト(2020年2月16日)

左腕も厳つい絵柄のオリビア・ロベルト。海外では珍しくない入れ墨である(2020年2月16日)

◆タイの国技・ムエタイでは

ムエタイが国技のタイ国では、昔からサックヤーン(タイ仏教が関連する伝統タトゥー)が普通にありますが、やはり一般的に中流以上のタイ人は入れ墨はしておらず、身体に彫るのはやはりチンピラ気質の輩や、ムエタイ選手、トレーナー、運転手、アーティスト、水商売系が多いようです。刑務所に服役する者は、やっぱり厳つい入れ墨が入ってる連中ばかりであるようです。

昔のムエタイジムでも、子供の頃に彫ったのだろうと思える、手の甲や腕にサックヤーンが入っていたのを何人も見たことがありますが、お守りとして彫る文化としては仕方無いものの、日本では教育現場で大問題となるでしょう。

タイのお坊さんも慣習的に入れ墨は多い(2003年3月15日ワット・ポムケーウ)

◆入れ墨問題の今後

キックボクシングは今後、統括する組織が出来上がる時代が来れば、入れ墨問題も提起されることでしょう。今でも「ボクシングが入れ墨ダメなんだからキックボクシングでもダメだろう」と思っている選手も居るらしい。

競技は別物でも、他競技にも影響を与える歴史と伝統あるプロボクシングは、あらゆるルールやシステムがキックボクシング界に真似されてきた経緯があり、お手本となる存在でもあるのです。今回の“井岡一翔のタトゥー問題”は物議を醸しながら何らかの進展は見られるはずで、他人事ながらそこはしっかり見守って、いずれキックボクシング界でも活かして欲しいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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