◆綾瀬警察署留置の「ズンム天皇」

1969年1月19日午後、東大安田講堂バリケードを破壊し内部に突入してきた機動隊に私たちはたいした抵抗もすることなく全員逮捕された。それは闘いのあっけない幕切れだった。一列に立たされ怒気に満ちた若い機動隊員に集団リンチを受けた。私も観念したがタオルで覆面の長い髪の私を女の子と見たのかヘルメットの上をポコンと鉄パイプで叩かれる程度ですんだ。

そして夕闇迫る頃、手錠をかけられた私たちは装甲車に乗せられた。「闘いは終わったのだ」という虚脱感、「囚われの身」の敗北感のようなものがひしひしと胸に迫った。手錠につながれた仲間達もみな押し黙ったまま、二日間に渡る攻防戦の疲労感もあったのだろう。私たちは精いっぱい闘ったのだ。

 

「よど号ハイジャック犯・若林容疑者」手配写真(綾瀬警察署撮影)

私は綾瀬警察署に留置された。

写真を撮られ指紋をとられた。「犯罪者」にされた侮辱を感じた。このとき撮られた写真は「よど号ハイジャック犯」手配写真に後に使用されたが、それはとても人相の悪いもの、いかにも「凶悪犯」、おそらくふて腐れてカメラをにらみつけていたからだろう。

翌日から取り調べが始まった、担当刑事は少年課の小太りの中年男と「タタキ専門」という若手、「逮捕学生が多くて臨時動員された」と言っていた。完全黙秘が意思統一されていたので私は「黙して語らず」と宣言した、すると刑事はその言葉を調書にそのまま書いた。少年課刑事はなだめすかす役、「タタキ専門」は強面(こわおもて)役、なるほど取り調べとはそうやるのかと思った。

「おい、ズンム天皇、取り調べだ」! 

看守というか留置場担当の警官に東北出身者がいて、私をいつも「ズンム天皇」と呼んだ。真ん中分け長髪に淡いまばらなあご髭の私は彼に言わせれば「神武天皇」、東北のズ~ズ~弁では「ズンム天皇」になる、ちょっと太った人の良さそうな看守で「おい、ズンム天皇」の呼びかけになんとなく親愛感を感じたものだ。

同房のおっちゃんは「下場木(げばぎ)一家の親分」と自分を紹介した。刑務所で服役中に余罪がばれてまた警察に送られてきたのだそうだ。「弱っちゃうよな~、詐欺罪だなんてみっともなくてみんなに言えねえよ。せめて暴行とか傷害だったらいいんだけどね~」とよくぼやいたが、あの世界では詐欺は「恥ずべきこと」らしい。ヤクザ世界の名誉と恥、ちょっと社会勉強をした。この親分とは仲良くなって「学生、出たらウチを訪ねてこいや」とも言ってくれた。下場木一家は栃木あたりのヤクザらしく親分の口調はズ~ズ~弁っぽい愛嬌のある訛(なま)りがあって人がよさそうに見えた。同房の法政の学生とも親しくなったが互いに完全黙秘の身、自分のことは話せないからいつも「親分」が会話の中心になった。

留置場の弁当は極度に量がなく常時、飢えていた。飢餓感とはこういうものかと思うほどで毎晩くらいなにかを食べる夢を見た。食事時間が近づくと自然に唾が出てきて壁の時計ばかりを見た、秒針が妙に遅いとイライラしたものだ。取調室では所持金で店屋物をとって食べられる、空腹にカツ丼はとてもおいしかった。だから取り調べがいつの間にか待ち遠しくなるから不思議だ。他の学生らも「お座敷(取り調べ)まだですか~」と看守に言ったものだ。飢えさせるのも警察の「犯人を落とす」手法の一つかもしれないとも思った。

◆取り調べの怖さ ── いちばん怖いのは自分自身の心の弱さ

留置期限の23日間が終わりに近づくと釈放される学生も出てきて「釈放か起訴か」が気になり始める。「起訴覚悟」とは言え、やはり「早く娑婆に出たい」「出れるかも」という気持ちも芽生える。この時が危ない。担当刑事が「おまえ釈放されたら着替えとか要るし、誰かに迎えに来てもろわなきゃならんだろう」などと話しながら「せめて名前と住所くらい言えや、親か親戚に連絡してやる」と誘いを入れてくる。こうなると「釈放」の二文字が大きく頭の中で踊り始める。「名前と住所くらいはいいか、心証も悪くしない方がいいかも」という甘い幻想が芽生え始める。

「東京には姉が居るし」と私はつい名前と出身地を話した。すると急に刑事の態度が一変、「講堂のどこに居た? 指揮者は誰だ」と突っ込んできた。これで私の目が覚めた。「それは黙秘します」と答えた。すると少年課の刑事は「今頃の琵琶湖は……」とかなんとか郷愁を呼ぶような話をした、タタキ専門の若手は「黙ってたら出れないぞ」と脅しに出た。取り調べも闘争なのだ! そのことを実感した。

姉が東京にいることも話したので姉が面会に来た。私は姉の持ってきたおまんじゅうを一箱ぺろりとたいらげた、そんな私の姿を見て姉はぽろぽろ涙をこぼしていた。

完全黙秘はできなかったけれど最後の一線で踏みとどまることができた。

私は「取り調べの怖さ」を体験した。いちばん怖いのは自分自身、心の弱さであるということ、自分自身との闘争なのだ、と。一言でいって、「起訴を免れたい」「早く出たい」という自分の心の弱さとの葛藤にうち勝つことだが、案外、これが難しいということを身を以て体験した。

当然ながら私は起訴と決まった。留置場を出るとき、仲間の学生達から「がんばれよ!」といっせいに声をかけられた。なにか熱いものがこみあげ、「さあ、これから新しい闘争が始まるのだ」と気を引き締めた。

◆無知からの脱却 ── 資本論に挑戦

私は小菅刑務所(現在の東京拘置所)拘置区に収監された。起訴が決まり私は裁判を控えた「未決囚」になったのだ。

収監前に身体検査があって素っ裸になって肛門の中まで調べられたが、それはとても屈辱的な場面だった。囚人服に着替えると一人前の「囚人」になった。カッコ悪いことこの上ない姿、「世界でいちばんカッコイイ」元ラリーズとかはもう関係のない「囚人No.1115」でしかない人間になる。私は単なる「お尋ね者」になった。

独房は小さな布団を敷ける程度の狭い空間、窓際に小さな机と椅子があって、机の蓋を開けると蛇口付きの洗面台、椅子の蓋を開ければ水洗トイレ、合理的な生活空間になっていた。窓には鉄格子、初めての監獄生活がこれから始まるのだと思った。壁にはペンキで塗りつぶされたなにかで彫った「民族独立行動隊」の落書きが見えた。どういう種類の人間が収容されるのか、よくわかった。

食事は三食を決められた時間にとり、起床、就寝時間も規則的、30分の運動時間もあって、久しぶりに経験する「健全な生活」、かつてのドラッグや不規則な生活でボロボロの肉体が拘置所生活が続く中で肉付きもよくなり健康体を取り戻した。

時間はたっぷりあったので「政治無知」克服のためのいまは学習期間と定めた。いつも政治的無知を痛感していたし、「何のために何をめざして闘うのか」? その解答がほしかった。

 

K.マルクス『資本論』1(岩波文庫1969年1月16日刊)

私はマルクスやレーニンの著作も読んだことがなかったので各党派の機関誌にある指定学習文献を参考にML主義学習を始めた。

マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』『賃労働と資本』『資本論』、そしてレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』『何をなすべきか』等々。

レーニンからは、国家の本質が暴力であること、帝国主義の経済的基礎は独占資本にあること、その独占資本の経済活動が植民地獲得要求となり、各国独占資本の不均等発展により植民地再分割戦から帝国主義間戦争が起きること、レーニンはこれを内乱、革命へとしていることを初歩的に学んだ。党派の機関紙が言ってることも、こういうことを根拠にしているのだろう程度にはわかった。

いちばん苦労したのは『資本論』だ。克明丹念に読み込まないととても理解が難しい、ノートにとりながら一日に数頁しか進まないこともあった。なんとか頑張って、搾取の本質が剰余価値生産、剰余労働時間の搾取にあることがなんとなく理解できた。生産力と生産関係間の矛盾が資本主義から社会主義への必然性の根拠であることなど史的唯物論についても学んだ。

これまでの私は17歳の「ならあっちに行ってやる」以降、理知の世界から離れ多分に感性的衝動で考え動いてきた。でも政治は理知を知らずにではできない、だから「理」を学ぼうと思った。理詰めで考えることの大切さ、理知がわかれば社会と革命がわかる、やるべきこともわかる、その妙味も学んだ。まだ「真理に目覚めた」にはほど遠かったが……。

安田講堂逮捕以前から政治的無知、「野次馬」から脱しようと必死の私だったが、やっと獄中生活で学びの機会を得た。それは逮捕、起訴、未決囚となることによって覚悟が据わったからだと思う。もう自分にはこの道以外にはないと腹を据えたら、学習にも精力が注げたのだろう。その意味では東大安田講堂籠城戦に志願したのは正解だった。

「革命家の卵からの孵化」、成長途上の時間、獄中はまさに私の革命の学校になった。22歳になったこの年、生涯で初めて自分の目標を持って学ぶということを知った。

「ならあっちに行ってやる」── 進学校、受験勉強からのドロップアウト以降のLike A Rolling Stone 人生、暗中模索の5年を経て私は「革命の学校」に入学した、そんな感じだったと思う。

「戦後日本はおかしい」から「戦後日本の革命」へ! その帰結が「目的を持って学ぶ」ことだった、いまはそう思える。

もちろんML主義を学習したからといって、革命がわかるわけではない。でもそれは後日の問題、この時は「無知からの脱却」「理知を知る」が先決問題だった。

◆「卵からの孵化」── 赤軍派から勧誘

獄中生活は学習だけが全てだったわけではない。

まさかこうなるとは思ってなかったので、菫(すみれ)ちゃんには何も言わないで上京した。住所も聞いてなかったから手紙も出せなかった。でもきっと「Bちゃんは安田講堂に行ったはず」と考えるだろうと信じた。「やっとここまで来たよ」と“True Colors”の恩人に伝えたかった。留置場で食べ物の夢を見たとき、菫ちゃんとどこかの木の下でおにぎりを食べてる夢も見た。きっと「頑張るんだよ」と激励してくれてるだろう、彼女は舞台女優ステップアップの道を着実に進んでいるはずだ-菫ちゃんには負けられない! そう思って気を引き締めた。ここにいる時間を無駄にしてはいけないと思った。 

私は出所してからの自分の政治生活も考えた。組織のない自分はどうすべきか? 当時、労働者の中に反戦青年委員会をつくる運動があって、牛乳配達労組とか新聞配達労組とかがあったので、まずはその辺からでも始めてみるかとか、いろいろ夢想した。

各党派の機関紙も読んだ。この年の4・28沖縄闘争では大規模な首都決戦が叫ばれたが、警察力によって封殺、大量逮捕者を出しただけで闘いが不発に終わったことを巡って総括論争が起きていることも知った。革命の後退局面打開のため武装闘争を掲げる赤軍派が生まれたことも知った。それはブンド(共産主義者同盟)内部の分派闘争になって同志社の望月上史が反赤軍派に拉致されて脱出途上の建物から落下して命を落としたことを知った。

望月は同志社の活動家で私が一目置いている存在だった。なにか思い詰めたような顔をして迫力あるアジテーションをやる栄養不良気味のちっちゃな姿に「こいつは本気だな」と認めていたからだ。そんな彼が選んだ赤軍派に私は関心を持った。活動家に冷淡だった自分は先達である望月の遺志を無駄にしてはいけない、とも思った。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

機関誌「赤軍No.4」を読んだが、防御から対峙、そして攻撃へという論法に何か主体的な闘争観を感じたものだ。その武装闘争路線にも「ゲバ棒とヘルメット」からの飛躍意欲を感じたし、何よりも「命がけ」の本気度を感じた。世界革命戦争というスローガンもいまでこそ超主観主義そのものだがフランス5月革命、欧米のベトナム反戦闘争、民族解放武装闘争の世界的高揚の中では決して実現不可能なものとは思えなかった。

9月初めの全国全共闘結成集会での赤軍派の登場が「とってもカッコよかったわよ」と面会に訪れた理知的な東大大学院の素敵なお姉さんのお言葉の信用力もあって、入るなら赤軍派かなと漠然と考えていた。

そして9月30日、私たち同志社「東大組」は全員保釈釈放された。翌日、みなが集まった場で同志社のSからのオルグ、赤軍派参加への勧誘があった。私には願ってもないこと、一も二もなくその場で快諾した。

ついに私は組織に巡り会えた、菫ちゃんに遅れること一年、ようやく「卵からの孵化」へと一歩踏み出せた。もう「一匹狼」、「野次馬」じゃない! 私には同志と組織がある! このことが何より嬉しかった。

いま考えれば、「東大保釈組」の私たちには非転向で獄中8ヶ月、闘争で鍛錬された人間、そんな「革命ブランド」が付けられていたのだろう。でもそれはどうでもいいこと。私に組織と同志ができた、そのことが重要なことだった。

11月に上京し赤軍派に合流することになった。求めよ、さらば道は開かれん! そんな気分だった。

◆ささやかな「出所祝い」

保釈後、しばらくは東京在住の姉の家で過ごした。小菅での差し入れや面会では姉夫婦には世話をかけたからお礼もかねての訪問、そして私は懐かしの本拠地、京都に向かった。

「ロックと革命in京都」── 私を育んでくれた恩人達との「出会いの地」京都、私はその京都を離れ新しい活動舞台に移る。私には「最後の京都」となる1969年の10月の日々、それはとてもありがたい感謝でいっぱいの至福の時間になった、そのことを記しておこうと思う。辛い別れを共に越え晴れやかに送り出してくれた最後の恩人への感謝と感傷を込めながら……。

10月初旬、私は京都に帰還した。

イの一番に菫ちゃんに連絡を入れた。「卵からの孵化」を果たしたいま、誰よりもそのことを報告したい人だった。音信不通の獄中8ヶ月を経て思いの外、意気揚々と帰ってきた姿を見て彼女はとても喜んでくれた。逮捕された私がボロボロになって帰ってくるんじゃないかと心配していたようだった。

その日の夜、菫ちゃんと私はささやかな「出所祝い」をやった。

「お酒飲もか」ということで最新のロックが聴けるというスナックバーに行った。私もこんな日はロックが聴きたいと思った。店は意外に広かった。私たちはカウンター席を避けて二人で横並びに座れる壁際の落ち着いた席に着いた。二人だけの「出所祝い」を誰からも邪魔されたくなかった。

何を話したか「記憶は遠い」。この8ヶ月は自分自身との闘いだったこと、とても貴重な体験になったことを話したと思う。そして何よりもやっと「アホやなあ」を卒業、政治組織の一員になれたこと、「卵からの孵化」を果たしたこと、その「勝利の報告」を! “True Colors”「あなたの色はきっと輝く」を歌ってくれた「よきライバル」への感謝の気持ちを込めて。

「ほんま今日はBちゃんのお祝いの日やね」と言って菫ちゃんは私に乾杯してくれた。私はジン・オンザロック、彼女はジンフィーズかなにか。 

「アホやなあ」から一年以上も経て「Bちゃんよかったね」の祝杯。もう僕たちは卵じゃない、温め合ってきた道はほのかだけれど見えてきた。ほどよいアルコールと店に流れるロックに私たちは酔った。こんなときに喜びを分かち合える人のいることがとても素敵な気持ちにさせてくれた。

薄暗い照明は二人だけの時間を過ごす濃密な空間をつくってくれていた。もう言葉は要らなかった。あの時、流れていた音楽、ブラスロックバンド Blood, Sweat&Tears(血と汗と涙)の“Spinning Wheel”(糸車)、そして壁に掛かっていたAl Kooperのレコードジャケット……あの光景はいまも鮮やかに思い浮かべることができる。

「今日はお祝いの日やね」は、私たちにとって新しい門出、祝祭のドラマチックな夜になった。


◎[参考動画]Blood Sweat & Tears – Spinning wheel

ある日の夜、菫ちゃんが「あしたお休みやから遠足に行こか? 私のおにぎり弁当食べさせたげる」と言った。おそらく留置場での夢の話を私がしたのだと思う、「それええなあ」!で決まり。

翌朝、二人で京都駅を出発した。目的地は私の故郷、草津線沿線の野洲川河原。

国鉄東海道線に乗ってキオスクで買ったお茶を飲みながら草津に向かった。この電車に乗って高校や大学に通ったと話した、「へ~、これに乗ってたんや、懐かしいやろ」── 遠足というのは大人でも気分を浮き立たせる。互いの子供時代の話題になって「“若ちゃん”って呼ばれてたんや、昔は可愛かったんやね」──「ほな、いまはどうなんや」!──「ぜ~んぜん」…… こんなたわいのない話に笑い転げるような無邪気で陽気な気分、こんなのはいったい何年ぶりのことやろ?

草津線は草津駅を始点とし関西線につながるローカルな単線、通退勤時間以外は1、2時間に一本程度のディーゼル単線、次の電車までまだ時間があったので、私の家に行って休憩。彼女は私の父母に挨拶をしたと思うが、OK以外の女性は彼らには初めて、「この子は誰や?」と思ったことだろう。発車時間まで懐かしいわが家の苔の庭を眺めながらボブ・ディランか何かのロック系レコードを二人で聴いた。私の歴史を見てほしくて私のレコード・コレクションも説明しながら彼女に見せた。

のどかなディーゼル車に乗って石部駅で降り、野洲川河原でお弁当を広げた。広い河原には一面、葦(あし)がほどよく茂っていてとてもいい感じ、遠足地には申し分なし。京都育ちの菫ちゃんには鄙(ひな)びた田舎風景は清々しい開放感を与えたことだろう。

河原で彼女の心尽くしのおにぎり弁当を開いた。「この握り方はなんや」とか悪態はついたが、彼女のお弁当はとてもおいしかった。「菫ちゃんの料理はおいしいね」と私は素直に誉めながらおにぎりをほうばり、弁当のおかずに舌鼓をうった。留置所で見た夢は正夢になった。

子供時代のように川に石を投げあったり、おっかけっこをしたりで少女時代に戻ったように彼女もはしゃいだ。二人で遊んだ広々とした河原での遠足の一日、久々に心身共に穏やかでのびのびと、こんな一日を楽しむことのできたのは菫ちゃんのおかげ。

草津駅に着いたのは、もう暗くなってから。駅近くの食堂で夕食をとった。二人の楽しい遠足の一日は終了。でもこれからがまた新しい一日の始まりだった。

◆夜の相乗りサイクリング

夕食後、彼女を駅に見送ろうとしたら、菫ちゃんは私にこう仰せになった ──「京都まで自転車に乗せて行って」! 一瞬「ん?」と思ったが、「エエよ」と私は快諾した。

冷静に考えれば、京都までは国電で30分の距離、滋賀と京都の境には逢坂山越えという難所がある。私は高校時代に三段変速のサイクリング車で京都までツーリングしたりしたものだがけっこう時間がかかった。相乗りで行けばどれくらい大変か、しかも夜道、まともに計算すればちょっと考えものの事態。京都に着くのは深夜? 夜明け? 菫ちゃんはなんでこんな「駄々をこねた」のか?? 私はよく考えもしないで彼女が「乗せて行って」と言うから「エエよ」と答えただけ。いま思えば不可思議このうえないこと、たぶん恋時間というのは計算度外視で成り立つものなのだろう。

私の家に戻り三段変速付きサイクリング車に彼女を乗せた。しばらく行くと「お尻が痛くて京都までもちそうにないよ」と彼女が訴えた。サイクリング車の荷台は狭くて相乗り用にはできていない、仕方なく魚屋の友人から荷台の広い営業用の自転車を借りた。荷物を運ぶには便利だが変速機もない重い自転車、でも彼女のお尻が痛くならないならそれでよし、ただそれだけで再出発した。

そのうえこのとき、便利な国道一号線は味気ない、琵琶湖沿岸沿いの道を行こうとなった。これはこれでまた遠回りの夜の田舎道でもっと大変な道中、いや無謀なコース。でもそんなことは考えなかった。菫ちゃんのために少しでもいい景色を走る、が重要だった。

こうして夜の相乗り京都行が始まった。ひんやりした風を受け背中に彼女の体温を感じながら走る相乗り旅路は快適そのものだった。でもやはりこの自転車はしんどかった。何回か休憩しながら瀬田川河口付近まで来ると目の前には夜の琵琶湖が広がっていた。「ちょっと夜景を見ていこか」と道路脇の土手の草むらに座った。夜は人気のない二人で落ち着ける所だった。

相乗り旅の余韻にひたりながら見る夜景は素晴らしかった。浜大津付近の華麗な光のきらめき、星明かりに浮かぶ比叡山の黒々とした山容、中腹には比叡山国際観光ホテルの灯火も見える。湖面は月の光を帯びて揺らめいていた。琵琶湖はとてもロマンチックな夜の魔力に満ちている。「ほんま綺麗やね」とか二言三言、言葉を交わし、しばらくは無言で私たちは夜景に見惚れた。

このように穏やかな気持ちで故郷の景色を眺めたり、恋時間をもつようなことは、もうこれからはないだろう! そんな思いに私はとらわれた。そう思うと琵琶湖と菫ちゃんに「ありがとう」という気持ちで胸がいっぱいになった。涙がこぼれそうでぐいっと夜空をにらんだ。気配を察したのか菫ちゃんはそっと肩を寄せてきてくれた。ありがとう、私は感謝と愛しさでいっぱい、私と菫ちゃんは時の経つのも忘れてそんな切ない時間を共にした。そこだけは時計の針の止まった空間、二人だけの「時のない」世界。

結局、夜の相乗りサイクリング行は体力的に限界、膳所(ぜぜ)の町まで来て自転車を乗り捨て錦織(にしごおり)駅で京阪電車に乗り換え京都に向かった。京阪三条に着いたとき時計の針はもう10時をはるかに過ぎている……。

「京都まで自転車に乗せて行って」の菫ちゃんも、「エエよ」と即答した私も、あの日は頭がおかしくなっていた。ボブ・ディラン初恋の人スーズの言葉を借りるなら「あのとき二人は離れるのがもう嫌になっていた」、たぶん菫ちゃんの「駄々こね」も私の「エエよ」もそういうことだったんだろう。本当に「離れるのがもう嫌になる」一日になった。

◆“Fields Of Gold”── 軽々しい約束はしない、でも僕たちは……

京都最後の日々── それは二つの卵がやっと孵化を果たした幸福の絶頂、互いに温め合った恋時間がその頂点に達した時、しかしそれが同時に二人の時間の終焉をも意味するという時。

赤軍派加入は私が京都からいなくなるということを意味する。彼女は彼女で京都での演劇女優への道が開けたばかり、ましてや軍事の領域に踏み込んだ赤軍派に参加するとは恋時間の入る余地もない非日常の生活に入るということ、私たち二人の共有する時間が互いの志や夢に向かうためのものである以上、「最後の京都」は辛くても避けられない別れの時。

Stingのつくった素敵なラブソングがある。それは“Fields Of Gold”! 

「軽々しい約束はしない(できない)が でも残された日々 僕たちは……」!

Sting“Fields Of Gold”

この歌詞が京都最後の出来事をそのまま語ってくれている。ちょっと美化しすぎかもしれないけれど、でも心は同じ……

軽々しい約束はしないが

誓いを破ったこともある

でも残された日々 僕たちは

黄金の世界を歩もう

これだけは誓おう

……

きっと君は僕を想う

風が大麦をなでるとき

嫉妬する空の太陽に言うんだ

黄金の世界を歩んだと

輝く世界に生きたと

二人の黄金の世界

11月初め、私は京都を離れ、東京に向かった。

最後の京都は“Fields Of Gold”── 胸は痛む、でももう悔いはない、晴れやかな気持ちで心機一新、新しい門出へと旅立った。(つづく)


◎[参考動画]Sting – Fields Of Gold

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

『週刊金曜日』6月16日号に掲載した小社広告(別掲①)について、広告を出広した鹿砦社に抗議するのではなく、『金曜日』に抗議が殺到し困ったと同誌発行人(社長)の植村隆氏(別掲②)から先週末の6月23日にお電話がありました。何を抗議したのか分かりませんが『金曜日』に抗議した人たちに抗議します。文句があるなら広告元の鹿砦社に言え!

①『週刊金曜日』6月16日号に掲載した小社広告

②『週刊金曜日』発行人兼社長の植村隆氏(2019年12月7日、鹿砦社創業50周年の集いにて)

さて植村社長、来週(つまり6月26日~30日の週)に小社を訪問したいということでした。どこの中小企業でもそうでしょうが(『金曜日』は違う?)、月末は支払いなどで慌ただしく月明け(7月第1週)にしていただきました。

なので、商取引の常識においても、あるいは道義上、信義上、植村社長と話し合うまでは、本件を伏せておき発言も控えておくつもりでした。

しかし、植村社長は小社を差し置いて先行的にColabo仁藤夢乃代表を訪問し一方的に謝罪し「おわび」文(別掲③)を同誌6月30日号に掲載されたということです。これを植村社長から聞いたわけではなく、仁藤代表のSNS(別掲④)で知りました。まずは、商習慣上、あるいは道義上、信義上、まずは長年の取引先で出広元の小社と協議すべきではなかったのではないでしょうか。

[左]③『週刊金曜日』6月30日号に掲載されたという植村隆発行人兼社長による「おわび」文。[右]④Colabo仁藤夢乃代表のSNS(2023年6月27日付)

『金曜日』には前発行人(社長)の北村肇さん(故人)の時代から10年以上にわたり広告を出広してきました。北村さんとは同期(1970年大学入学)で、世代が同じということもあり妙にウマが合い懇意にさせていただきました。亡くなる直前には上京した私のために無理を押して長い時間を割いていただきました。当地(兵庫県西宮市)での講演や市民向けのゼミなどにも複数回お越しいただきました。

今、『金曜日』には小社以外に有料広告は入っていません(見過ごしであればご指摘ください)。「広告に依存しない」と言っておられるようですが、「依存」するもなにも広告が入らないのですから、やせ我慢でそう言っているにすぎません。

当事者(広告主)である小社と話し合う前に一方的に、Colabo仁藤代表に勝手に謝罪し「おわび」文を掲載することは道義上、信義上、いかがなものでしょうか?

月が明けて植村社長と協議し、本件についてあらためてご報告いたしますが、とりあえず本日の報告は手短にとどめておきます。

広告の上部に記しているように私たちの出版活動のモットーは「タブーなき言論」です。これを基本に創業から50年余り出版活動に勤しんでまいりました。本年創刊18年を迎えた月刊『紙の爆弾』もその具体的な営為です。『金曜日』には及ばないかもしれませんが、長年多くの読者に支えられてきました。ですから、2005年の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で壊滅的打撃を受けた際も、また近年新型コロナで苦境に落とされた際も、少なからずの方々にご支援いただき「命拾い」(ある方の言葉)することができました。

また、『金曜日』と重なる読者もおられます。なので一方的に「差別、プライバシーの侵害など基本的人権を侵害するおそれのあるもの」(「おわび」文より。内規にもあるそうです)と断じられると小社への信用を毀損することにもなりかねません。おわかりですか?

くだんの『人権と利権』は、これまでメディアタブーとされてきた「Colabo」「LGBT」に対してタブーなしに採り上げ思い切った誌面づくりをいたしました。しばき隊界隈で飛び交う誹謗中傷や汚い言葉は排し、真正面から問題に向き合い公正な論評に努めたつもりです。私たちなりに自信を持って世に送り、左右問わず多方面の方々にお読みいただき大きな反響があり多くの方々のご賛同も得ることができました。

かつて『金曜日』には、「大学院生リンチ事件」(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)関係の出版物の広告を発行ごとに掲載させていただきました。そうした際に、『金曜日』編集部から咎められることも掲載拒否されることもありませんでした。さすがに『金曜日』、度量があることに感心した次第です。

ところが『金曜日』とあろうものが、今回は一体どうしたんですか!? あまりにも偏狭、北村肇さんも草葉の陰で泣いてますよ! メディアとしての自律性や主体性があれば、尚急に一方に謝罪するのではなく、意を尽くし公正に判断すべきではなかったでしょうか。

月末の慌ただしいさなか、こんなことに時間を割いている場合ではないのでしょうが、黙っているわけにはいかず一言呈させていただいた次第です。

株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

プリゴジンのバフムト撤退および国防相批判、参謀総長批判が、プーチンに粛清の「長いナイフの夜」を招来させるのではないかと、ちょうど一カ月前にわれわれは指摘してきた。

◎「勇者たちは地獄に堕ちるのか? ロシアの民間軍事企業『ワグネル』創設者プリゴジンはプーチンに粛清されるかもしれない」(2023年5月27日)

◆政変をめざしたのは明らかだったが……

その後、ワグネルの宿営地がロシア正規軍のミサイル攻撃を受け、プリゴジンは報復としてロシアのヘリコプターを撃墜して13名を殺害した。

そしてプリゴジンは軍幹部の粛清をもとめて、モスクワ進軍を開始したのだった。その過程でプリゴジンは地方で小政治集会をひらき、国民の支持を取り付ける行動に余念がなかった。さらには南部の大都市ロストフ・ナ・ドヌーの軍事拠点を占拠し、市民の大歓迎を受けたのである。この大歓迎は、メディアやネットでは有名だが、じっさいにワグネルを観たのは初めてだった市民の「大歓迎」であったとされる。伝説のヒーローたちが、手際よく軍司令部を占拠したことへの愕きでもあった。

このワグネルの「行進」がムッソリーニのローマ進軍(国王エマニエーレ3世による総理指名)、ヒトラーのミュンヘン一揆(失敗・投獄)に倣い、政変をめざしたのは明らかだったが、プーチンに「裏切り」と断じられ、検察当局が捜査を開始した段階で、部下に撤退を命じた。クーデターは未遂におわり、プリゴジンはベラルーシに「亡命」したと伝えられている。

この「亡命」劇は、ただちに粛清に乗り出せないプーチンが、盟友ルカシェンコ(ベラルーシ大統領)と相談の上、収拾策に出たものだ。プーチンの政治力の低下を指摘する声は多い(西側首脳)が、軍事衝突を回避した手腕は独裁者の冷徹を感じさせる。プーチンは政治危機を脱したのだ。


◎[参考動画]プリゴジン氏 反乱収束以来初めて声明発表(2023年6月27日)

◆スターリン流の粛清劇が待っている

ナチスドイツの「長いナイフの夜」は、独自の指揮系統と武器供与をもとめたナチス党突撃隊(党の軍隊)とプロイセンいらいの国防軍の矛盾だった。ナチスの党内対立(権力の強化をめざすゲーリング、ヒムラーらとエルンスト・レーム)もあった。ヒトラーは盟友レームと国防軍の矛盾に悩み、しかし最後はみずから親衛隊を率いて粛清を断行したのである。「裏切りは許さない」と。

これは法に拠らない虐殺・死刑執行であり、西欧諸国はヒトラーの無法を批判したものだった。しかし唯一、この粛清劇を称賛したのが、ソ連の独裁者スターリンだった。政治局会議で、スターリンはこう発言した。

「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!」(スターリンの通訳だったヴァレンティン・ベレシコフの証言)。

この発言から5ヶ月後の1934年12月に、スターリンの有力な後継者かつ潜在的なライバルと目されていたセルゲイ・キーロフが暗殺された。キーロフ暗殺を契機に、スターリンはソ連全土で大粛清を展開していくことになるのだ。

このスターリンを「偉大な指導者」と評価してきたプーチンは、レーニンの「分離(独立)をふくむ連邦制」を批判して、今回のウクライナ侵攻に踏み切ったのだった。レーニンが批判した「スターリンの粗暴さ」を体現しているのが、プーチンその人なのである。

おそらくプリゴジンは、密かに粛清されるであろう。だからいったん国外に退去させ、ロシア国民との接点をなくしてから、人々がプリゴジンの名を忘れかけた時期に「窓から転落させる」か、毒物で密殺すると予告しておこう。すでに昨年らい、10人をこえるプーチンに批判的なオリガルヒや政治家が、プーチンの命で密殺(不審死)されているという。

ウクライナ戦争が軍幹部による陰謀(プーチンへの嘘の進言)であり、不正義の軍事行動であると断じたプリゴジンは「正義の行進」をモスクワまで続けるべきだった。まさに「侵略戦争を内戦へ」(レーニン)と転化することで、かれの「正義」は実現されるべきだったのだ。なぜならば、国民の多くは彼の「正義」を支持していたのだから。


◎[参考動画]夢の亡国共産主義④スターリンの大粛清

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2023年7月号

原発の火力代替性を主張するならば、現在問題視されている石炭火力の電力をすべて原発で置き換えるほどのインパクトが必要だ。それがウラン資源からみて可能か、という問題になる。原発が石炭を代替できるほど普及しなければ、二酸化炭素排出量の引き下げに寄与できたなどとは言えないからだ。

現在世界の石炭火力は、全電力生産の約40%(*)ほど。一方、原発は過去最大の時でも10%程度。つまり石炭との代替とは、世界の電力生産の半分程度を原発にすることを意味する。

そのためには100万キロワット級原発を年間80基ペースで20年にわたり追加
で建て続けなければならない。

(*)全世界の発電電力量は約27000TWh(27兆kWh)、 石炭火力は約10000TWh(10兆kWh)の発電電力量で約40%、原発は約3000TWh(3兆kWh)で約10%。

原発と石炭火力の電力をすべて原発で発電する場合、設備利用率70%で100万キロワット級原発が約2000基必要になる。

一般に原発の建設には立地点を探して許認可手続を経て完成までには十5年くらいはかかる。民主的手続きなど不要な国ならば十年以下で可能かもしれない。

しかし、このペースで原発の資機材を調達するのは不可能だ。人材育成となるとさらに困難だ。原発は自動運転も出来ないし、メンテナンスでも多くの人手が必要だ。1基あたり年間、運転員クラスで20から30人、メンテナンス要因は1000人以上、何基も集中立地して合理化し、ロボットなどで検査、監視を補助しても、半分にも減らせない。そのため運転員を年間数千人、メンテナンス要員を数万人ずつ養成し続けなければならない。それに対して天然ガス火力は年間数十人の要員で100万キロワット級の発電所を動かせる。

もっと重大な問題がある。現在の核燃料サイクル、燃料生産の規模は、世界で400基あまりの原発を稼働させる程度にしか稼働していない。これが2000基に増加した場合、現在の余力を投じても追いつかない。具体的にはウラニウム採掘量を3倍程度に増加させ、核燃料生産量も同様に増やす必要がある。

しかし世界の鉱山開発はほとんど止まっている。また、高品位のものは残り少ない。原発が増えると予測したら、低品位でも開発をするだろうが、汚染もさらに拡大する。

増産をすれば可採年数は急激に減り、おそらく現在の品位の鉱石は十年程度でなくなる。低品位のものを使っても原発の運転年数40年が終わる頃には採算ベースのウラニウムは枯渇するだろう。

残されるのは再処理ウランや濃縮残渣で出た低濃度のウラン(減損ウランや劣化ウラン)である。これらは使えないことはないが、汚染があったり再濃縮に莫大な電力と費用がかかることで採算が合わないだけでなく、様々な汚染事故リスクが急激に増大する。

それが資源的に見た原発の限界点だ。このことを理解するには、小学校の算数の問題を解く程度の知識で十分だ。

なお、これに対しては高速増殖炉を開発すれば良いとの意見が聞こえてきそうだが、何十年も国策として巨額の税金を投入していたもんじゅやスーパーフェニクスさえ、まともに運営できなかったことを忘れてはならない。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号(2022年3月11日発売号)掲載の「原発は「気候変動」の解決策にはならない」を本ブログ用に再編集した全3回の連載記事です。

▼山崎久隆(やまざき・ひさたか)
たんぽぽ舎共同代表。1959年富山県生まれ。脱原発東電株主運動、東電株主代表訴訟に参加。反原発運動のひろば「たんぽぽ舎」設立時からのメンバー。湾岸戦争時、米英軍が使った劣化ウラン弾による健康被害や劣化ウラン廃絶の運動に参加。福島第一原発事故に対し、全原発の停止と廃炉、原子力からの撤退を求める活動に参加。著書に『隠して核武装する日本』(影書房 2007年/増補新版 2013年)、『福島原発多重人災 東電の責任を問う』(日本評論社 2012年)、『原発を再稼働させてはいけない4つの理由』(合同出版 2012年)、『核時代の神話と虚像』(明石書店 2015年)等多数。

◎たんぽぽ舎 https://www.tanpoposya.com/
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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6SZ247L/


〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌
季節 2023年夏号
NO NUKES voice改題 通巻36号 紙の爆弾 2023年7月増刊

《グラビア》原発建設を止め続けてきた山口県・上関の41年(写真=木原省治
      大阪から高浜原発まで歩く13日間230Kmリレーデモ(写真=須藤光男

野田正彰(精神病理学者)
《コラム》原子炉との深夜の対話

小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
《コラム》核のゴミを過疎地に押し付ける心の貧しさ

樋口英明(元福井地裁裁判長)
《報告》司法の危機 南海トラフ地震181ガル問題の重要性
《インタビュー》最高裁がやっていることは「憲法違反」だ 元裁判官樋口氏の静かな怒り

菅 直人(元内閣総理大臣)
《アピール》GX法に断固反対を表明した菅直人元首相の反対討論全文

鮫島 浩(ジャーナリスト)
《講演》マイノリティたちの多数派をつくる
 原発事故の被害者たちが孤立しないために

コリン・コバヤシ(ジャーナリスト)
《講演》福島12年後 ── 原発大回帰に抗して【前編】
 アトミック・マフィアと原子力ムラ

下本節子(「ビキニ被ばく訴訟」原告団長)
《報告》魚は調べたけれど、自分は調べられなかった
 一九五四年の「ビキニ水爆被ばく」を私たちが提訴した理由

木原省治(上関原発反対運動)
《報告》唯一の「新設」計画地、上関原発建設反対運動の41年

伊藤延由(飯舘村「いいたてふぁーむ」元管理人)
《報告》飯舘村のセシウム汚染を測り続けて
 300年の歳月を要する復興とは?

山崎隆敏(元越前市議)
《報告》原発GX法と福井の原発
 稲田朋美議員らを当選させた原発立地県の責任

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山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)
《報告》原発利用促進のためのGX脱炭素電源法案の問題点

原田弘三(翻訳者)
《報告》「気候危機」論についての一考察

井筒和幸(映画監督)×板坂 剛(作家)
《対談》戦後日本の大衆心理【後編】

細谷修平(美術・メディア研究者)
《映画評》シュウくんの反核・反戦映画日誌〈3〉
 わすれてはならない技術者とその思想 ──『Winny』を観る

三上 治(「経産省前テントひろば」スタッフ)
《報告》今、僕らが思案していること

佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
《報告》亡国三題噺
 ~近頃“邪班(ジャパン)”に逸(はや)るもの
  三重水素、原発企業犯罪、それから人工痴能~

山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
《報告》山田悦子の語る世界〈20〉
 グローバリズムとインターナショナリズムの考察

再稼働阻止全国ネットワーク
原発の全力推進・再稼働に怒る全国の行動!
福島、茨城、東京、浜岡、志賀、関西、九州、全国各地から

《福島》古川好子(原発事故避難者)
福島県富岡町広報紙、福島第一廃炉情報誌、共に現地の危険性が過小に伝えられ……
事故の検証と今後の日本の方向を望んでいるのは被害者で避難者です!
《東電汚染水》佐内 朱(たんぽぽ舎ボランティア)
電力需給予備率見通し3.0%は間違い! 経産省と東電は石油火力電力7.6%分を隠している! 
汚染水の海洋放出すべきでない!
《東海第二》志田文広(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
運動も常に情報を受信してすぐに発信することが大事
4月5日定例の日本原電本店行動のできごと
《浜岡原発》沖 基幸(浜岡原発を考える静岡ネットワーク)
中電が越えなければならない「適合性審査」と「行政指導」
《志賀原発》藤岡彰弘(「命のネットワーク」事務局)
団結小屋からメッセージ付き風船を10年余飛ばし続けて
《高浜原発》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
「関電本店~高浜原発230kmリレーデモ」に延べ900人、
「関電よ 老朽原発うごかすな!高浜全国集会」に320人が結集
《川内原発》鳥原良子(川内原発建設反対連絡協議会)
「川内原発1・2号機の九電による特別点検を検証した分科会」まるで九州電力が書いた報告書のよう
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
原発延命策を強硬する山中原子力規制委員会委員長・片山規制庁長官
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
『3・11 大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦・青志社)

反原発川柳(乱鬼龍選)

龍一郎揮毫

私たちは唯一の脱原発雑誌『季節』を応援しています!

国民の大多数から「無実なのに死刑囚にされた冤罪被害者」と認識されている袴田巌さんの再審がついに行われることになった。袴田さんは1966年の逮捕から現在まで57年にわたり、殺人犯の汚名を着せられてきたが、無事に再審が行われれば、無罪判決を受けることは確実だとみられている。

このような状況の中、過去に袴田さんに対し、無実の訴えを退ける判決や決定を下した裁判官たちはどのような思いで、どのように過ごしているのだろうか。当連載では、該当する裁判官たちの中から存命であることが確認できた人たちに対し、公開質問を行っていく。

 

古田佑紀氏(『司法大観 平成十九年版』より)。現在は弁護士をしている

4人目は古田佑紀氏。2008年3月24日、袴田さんに対して特別抗告を棄却する決定を出し、袴田さんの第一次再審請求を「棄却」で確定させた最高裁第二小法廷の裁判官の一人だ。

◆「古田氏の略歴」と「古田氏への質問」

古田氏は1942年4月8日生まれ、北海道出身。司法試験合格後、元々は検察官や法務官僚として働いていた人だった。法務・検察では、次長検事まで出世している。

2005年に最高裁の裁判官に就任し、袴田さんの第一次再審請求を「棄却」で確定させたのち、2012年4月8日付けで定年退官。現在は弁護士になり、東京都中央区八重洲にある『村田・加藤・小森法律事務所』に所属している。

2013年11月には、旭日大綬章を受章。2015年から2021年まで東芝で社外取締役を務めた。

なお、古田氏が旭日大綬章を受章した際、内閣府のホームページでは、古田氏の「功労概要」が以下のように公表されている。

〈最高裁判所判事としてその重責を果たすとともに、我が国司法制度の発展に貢献した。また、多年にわたり次長検事等として法秩序の維持に貢献した。〉

そんな古田氏に対しては、以下のような質問を書面にまとめ、郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒を同封のうえ、『村田・加藤・小森法律事務所』に特定記録郵便で郵送し、取材を申し込んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【質問1】

袴田巌さんは再審が決まり、無罪判決を受けることが確実な状況となりました。古田様はこの状況をどのように受け止めておられますか?

【質問2】

古田様が旭日大綬章を受章された際、内閣府のホームページでは、古田様の「功労概要」が以下のように公表されています。

〈最高裁判所判事としてその重責を果たすとともに、我が国司法制度の発展に貢献した。また、多年にわたり次長検事等として法秩序の維持に貢献した。〉

古田様は、これがご自身に相応しい評価だと思われますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この質問に対して、古田氏からは以下のような回答が郵便で届いた。

個別の事件に関する取材はお受けしておらず、コメントを差し控えます。

古田氏については、追加取材をすることを検討している。

※古田氏の生年月日と出身地、異動履歴は『司法大観 平成十九年版』と『新日本法規WEBサイト』の情報を参考にした。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

今回のメインイベンター則武知宏はTOMOにヒジ打ちで切り裂く見せ場を作るも引分けに終わる。

◎野獣シリーズvol.3 / 6月17日(土)後楽園ホール17:30~21:02
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

(試合順は中止試合を省いています。戦歴はパンフレットより。この日の結果を含む)

◆第13試合 フライ級5回戦

NKBフライ級3位.則武知宏(テツ/1994.12.5岡山県出身/50.65kg)
19戦8勝(4KO)7敗4分
        VS
NJKFフライ級3位.TOMO(K-CRONY/1982.10.30茨城県出身/50.65kg)
22戦7勝(5KO)12敗3分
引分け0-1
主審:前田仁
副審:加賀見49-49. 鈴木48-49. 高谷49-49

則武知宏は昨年12月24日に、ノンタイトル戦ながら藤原あらしに挑む形で、4ラウンド3ノックダウンによるKO負けを喫しているが、今回のメインイベントはTOMOを迎え撃つ形でしっかり勝利を掴みたいところ、両者は2020年2月8日に3回戦で引分けており、今回は5回戦で決着が付くと思われた。

引分けは惜しいが、一進一退の攻防が続いた則武知宏とTOMOの5回戦

初回はローキック中心の攻防。距離は遠く、単発の蹴りで長丁場を意識した様子見の両者。第2ラウンドには距離が近くなり、蹴りからパンチが激しくなる。

第3ラウンドには則武知宏がTOMOを青コーナーに追い詰め、ヒジ打ちでTOMOの額を切ってややリズムに乗って攻勢に転じるも、TOMOも劣勢を許さず先手打つパンチとローキックもあったが決定打に繋がらず試合終了。攻防の密度は濃かったが、またも引分けに終わった。

TOMOの長身が活きる中、則武知宏の距離を詰めての攻勢も強かった

健闘を称え合いツーショットに収まる両者

◆第12試合 57.0kg契約3回戦

WBCムエタイ日本フェザー級9位.TAKERU(GET OVER/1999.4.20愛知県出身/ 56.55kg)
25戦16勝(8KO)8敗1分
        VS
NJKFバンタム級4位.吏亜夢(ZERO/2004.12.3栃木県出身/56.85kg)
14戦8勝4敗2分
引分け 1-0
主審:高谷秀幸
副審:加賀見30-29. 鈴木29-29. 前田29-29

アンダーカードに比べ、スピーディーで、しなやかさが増した蹴りの攻防。2ラウンドまでは吏亜夢の長身を活かした蹴りと首相撲からヒザ蹴りで主導権奪った展開も、初回からコツコツ蹴って来たTATERUのカーフキックが第3ラウンドには逆転した流れで吏亜夢を苦しめたが時間切れで終了。

KAKERUがカーフキックで吏亜夢を苦しめた

ラストラウンド、吏亜夢の左ストレートがヒット

◆第11試合 ライト級3回戦

KEIGO(BIG MOOSE/1984.4.10千葉県出身/60.75kg)21戦7勝9敗5分
      VS
蘭賀大介(ケーアクティブ/1995.2.9岩手県出身/61.1kg)7戦5勝(3KO)1敗1NC
勝者:蘭賀大介 / 判定0-3
主審:加賀見淳
副審:前田27-30. 鈴木27-30. 高谷27-30

初回、互角の攻防から徐々に首相撲からヒザ蹴りの連打と圧力で第3ラウンドにはKEIGOを体力消耗でヘロヘロにしたところで右ストレートからパンチ連打でロープダウンを奪った蘭賀大介。更にパンチで追って大差判定勝利。

グロッギー状態のKEIGOを追い詰める蘭賀大介

蘭賀大介の連打を受けてロープダウンを喫するKEIGO

◆第10試合 59.5kg契約3回戦

半澤信也(Team arco iris/1981.4.28長野県出身/59.35kg)27戦9勝(4KO)14敗4分
       VS
NIIZMAX(クロスポイント吉祥寺/1980.9.20東京都出身/59.0kg)32戦15勝15敗2分
引分け 三者三様
主審:鈴木義和
副審:前田30-29. 高谷30-30. 加賀見29-30

スロー気味にフェイント入れる蹴りで、やや変則的なNIIZMAX。半澤信也も攻め難そうな中、互いのヒットも単発で噛み合わない攻防の末の引分け。

決定打の無い展開からラスト1秒でNIIZMAXが後ろ蹴りを見せる

◆第9試合 60.0kg契約3回戦

田中大翔(不死鳥道場/2002.7.4新潟県出身/59.0kg)7戦6勝(4KO)1敗
        VS
山本太一(ケーアクティブ/1995.12.28千葉県出身/60.0kg)13戦5勝(4KO)5敗3分
勝者:田中大翔 / TKO 2R 1:21 /
主審:前田仁

序盤は山本太一の先手パンチが有効だったが、田中大翔の左ストレートで山本がバランスを崩したような転び方。スリップ扱いだったが、このパンチが効いていたか、流れは田中に傾き、第2ラウンドにも左ストレートで山本を倒し、立って来るがカウントほぼ8辺りでレフェリーストップ。

田中大翔の左ストレートを喰らってスリップダウンする山本太一、これは効いていたか

◆第8試合 55.0kg契約3回戦

ベンツ飯田(TEAM Aimhigh/1997.4.17群馬県出身/54.7kg)14戦3勝(1KO)9敗2分
       VS
蒔田亮(TOKYO KICK WORKS/2002.6.23千葉県出身/54.9kg)3戦3勝
勝者:蒔田亮 / 判定0-3
主審:加賀見淳
副審:高谷27-29. 鈴木28-29. 前田28-29

ダブルノックダウン寸前のパンチ交錯の後、蒔田亮がパンチでノックダウンを奪って攻勢を維持して判定勝利。

ダブルノックダウン寸前から蒔田亮が攻勢に転じてここでノックダウンを奪う

◆第7試合 57.5kg契約3回戦

村上祐馬(不死鳥道場/1994.6.23長野県出身/57.25kg)3戦2勝(2KO)1分
       VS
堀井幸輝(ケーアクティブ/1996.11.7福岡県出身/57.3kg)3戦2勝1分
引分け 0-1
主審:鈴木義和
副審:高谷29-29. 前田29-29. 加賀見29-30

下がり気味の堀井幸輝だったが、クリーンヒットが優って互角の展開に収まり引分け。

◆第6試合 ライト級3回戦

マングース松崎(NEXT LEVEL渋谷/2003.3.7沖縄県出身/60.15kg)3戦1勝1敗1分
        VS
辻健太郎(TOKYO KICK WORKS/1984.3.13東京都出身/61.2kg)3戦1勝2分
引分け 三者三様
主審:高谷秀幸
副審:加賀見30-29. 前田30-30. 鈴木29-30

◆第5試合 54.5kg契約3回戦

安河内秀哉(RIKIX/2003.10.7東京都出身/54.4kg)5戦3勝(2KO)2敗
      VS
煌(KANALOA/2004.12.18岐阜県出身/54.45kg)1戦1敗
勝者:安河内秀哉 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:加賀見30-28. 前田30-28. 高谷30-28

安河内秀哉がカーフキックで煌を苦しめ主導権奪って第2ラウンドと3ラウンドを抑えて判定勝利(10-9)。

◆第4試合 バンタム級3回戦

幸太(八王子FSG/1998.3.19山形県出身/53.3kg)5戦1勝4敗
      VS
香村一吹(渡邉/2007.7.22東京都出身/53.4kg)2戦2勝
勝者:香村一吹 / 判定0-3 (27-30. 27-30. 27-30)

香村一吹は前進気味に幸太をロープ際に追うが蹴りが少ない。それでも接近戦でパンチ連打でスタンディングダウンを奪って大差判定勝利。

◆第3試合 60.0kg契約3回戦

木村郁人(BIG MOOSE/2000.12.27千葉県出身/59.65kg)5戦1勝4敗
      VS
利根川仁(Realiser STUDIO/2003.1.24東京都出身/59.6kg)1戦1勝
勝者:利根川仁 / 判定0-3 (26-30. 26-30. 26-30)

第2ラウンドに利根川仁がヒザ蹴り連打でスタンディングダウンを奪って攻勢を維持して大差判定勝利。

◆第2試合 女子53.0kg契約3回戦(2分制)

KARIN(HEAT/2007.2.15静岡県出身/51.9kg)2戦1勝1敗
     VS
RUI・JANJIRA(JANJIRA/2000.11.5東京都出身/52.7kg)1戦1敗
勝者:KARIN / 判定2-0 (29-28. 30-30. 29-28)

KARINが前蹴りの素早さで主導権奪って攻勢維持。RUIも細かくパンチを打って出る踏ん張りを見せた。

◆第1試合 ウェルター級3回戦

健吾(BIG MOOSE/1993.10.10千葉県出身/66.3kg)2戦1勝1敗
      VS
後藤啓太(拳心館/1997.8.29新潟県出身/66.6kg)2戦2勝(1KO)
勝者:後藤啓太 / 判定0-3 (28-30. 28-30. 29-30)

◆フェザー級3回戦 真生の体調不良により欠場により中止
真生(神武館)vs増田康介(Realiser STUDIO/ 56.75kg)

《取材戦記》

前回興行までは藤原あらしや片島聡志が特別出場していた感じの賑やかさも、今回は特別参加は無く、やや物足りなさを感じる興行でした。更に13試合中5試合が引分け。それがセミファイナルとメインイベントが含まれていては消化不良の印象は拭えないでしょう。

第12試合で、蘭賀大介の連打を受けてKEIGOがロープダウンを喫しました。ロープが無ければ倒れていたと考えられる状態を言います。今回はスタンディングダウンと言っても問題無い範疇でしょう。スタンディングダウンは立ったまま打たれ続けては危ない為、“ノックダウン同様扱い”となりますが、プロボクシングではスタンディングダウンが無い為、このまま試合ストップされます。これには賛否両論あるようですが、スタンディングダウンは有った方がいいと思います。

日本キックボクシング連盟興行は8月5日(土)に拳心館主催興行、野獣シリーズvol.4が新潟県万代島大かま多目的ホールにて開催。メインイベントは「棚橋賢二郎(拳心館)vsガン・エスジム(タイ)。

8月6日(日)には大阪府豊中市の176BOXに於いて、「Z-V Carnival」が朝11時より開催。メインイベントは高橋聖人(TRIANGLE)vsどん冷え貴哉(Maynish)。夕方興行では「ガルーダフェスvol.4」が15時30分より開催。メインイベントは高橋一眞引退試合、高橋一眞(TRIANGLE)vs駿(Reborn)。

いずれも野獣シリーズvol.5となるようです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

月刊『紙の爆弾』2023年7月号

私、藤井敦子は鹿砦社から黒薮哲哉氏が出版された『禁煙ファシズム』で取り上げられた当事者です。詳細は『禁煙ファシズム』をお読みいただきたいのですが、要約すれば、近隣住民から「藤井家の喫煙により受動喫煙の被害を受けた」として、4500万円を超える損害賠償請求訴訟を起こされました。それだけではなく、「たばこを吸っているのではないか」という理由だけで、神奈川県警の刑事らが複数回自宅に「捜査」にやってきました。自宅の中で喫煙をしているから、との理由で、刑事さんが「捜査」にやってくるのは普段の生活感覚からは、不思議で、恐怖でもありました。

近隣住民に訴えられた民事訴訟は、被告である私の完全勝利を勝ち得ました。でも、はたしてこのように、不確実あるいは事実と異なる根拠もない事由で巨額の民事訴訟が提起されてもいいものなのか、との疑念はぬぐえません。被告として裁判に関わった間、私や家族はとてつもない精神的な負荷を強制されました。

そこで、被告として訴えられた裁判では勝訴したものの、スラップ訴訟や、禁煙運動の行き過ぎた実態の問題を痛感したため、私が原告になり、私を訴えた近隣住民と嘘の診断書を書いた日本禁煙学会理事長・作田学医師を相手に「訴権の濫用」ではないか、を争う民事訴訟を提起し、現在、横浜地方裁判所で係争中です。

毎日新聞は、6月16日付けで、「『ベランダ喫煙』でトラブル」と題する宮城裕也記者の署名記事を掲載しました。(ネット版のタイトルは、「レベル3の急性受動喫煙症」

俗に言う「受動喫煙症」が引き起こす隣人トラブルについて書いたものですが、客観的な事実関係に数々の誤りがある上に、禁煙ファシズムを助長させかねない内容なので、毎日新聞社宛てに次の書簡を送付しました。以下、その全文です。

宮城裕也記者による記事「『ベランダ喫煙』でトラブル」の一部(2023年6月16日付毎日新聞)

毎日新聞社さま

初めまして。藤井敦子と申します。

2023年6月16日に掲載された御社所属・宮城裕也記者が書いた【「ベランダ喫煙」でトラブル】という記事に対して意見があります。この記事の中で宮城裕也記者は下記のように述べています。

・日本禁煙学会は受動喫煙による健康被害について6段階の基準を設けている。女性は病院で、レベル3にあたる「急性受動喫煙症」と診断された。

・1年ほどたつと、女性の部屋に再び臭気が漂うように。22年末、女性は症状が悪化し「慢性受動喫煙症(藤井注:レベル4のこと)」となった。10代の長女も急性受動喫煙症(藤井注:レベル3)と診断された。

まず、【受動喫煙症】という病名は国際基準であるICD10に割り当てられていません。よって厚労省にも認められていません。日本禁煙学会が独自の基準を設けているだけですが、それをあたかも公式に認められている病気であるかのように記事で流布されたことは大変問題があります。

2019年(令和元年)11月28日横浜地裁は、日本禁煙学会が自身の設ける「受動喫煙症診断基準」において、患者の自己申告だけで客観的根拠に乏しい診断書を安易に作成して構わないとしているのは、法的手段の布石とするための「政策目的」だと断罪されています。

2020年(令和2年)10月29日東京高裁での判決でも共に、受動喫煙症診断書および化学物質過敏症診断書は、患者が言っていることに基づいて書かれているだけで何ら客観的根拠に乏しいと判示されています。

この裁判では日本禁煙学会および化学物質過敏症関係の医師や専門家が計20通を超える診断書と意見書を出しましたが、その全てが、患者の言ったことを鵜呑みにしている限り何の客観的証拠にはならないと当然の判決を下されています。

その裁判とは、私の夫を被告とする裁判です。私の夫である藤井将登は一日わずか数本(機械式煙草に換算して1.5本)のタバコを自室である気密構造の防音室で吸っていただけにもかかわらず隣人家族3名から4500万円で訴えられ、3年の間法廷に立たされました。

提訴の根拠となったのが、日本禁煙学会理事長・作田学氏が書いた3枚の診断書です。そこには受動喫煙症や化学物質過敏症という言葉がまことしやかに踊り、夫が犯人として記載されています。夫がほとんどタバコを吸わないのに、どうやって隣人が重篤な病になり得るのでしょうか。その理由は簡単です。受動喫煙症診断基準では「患者の話だけで診断書を書いてよい」と定められているからです。

私の隣人は、それぞれ自分に都合のよい診断書を作田医師に書いてもらいました。
1通目は原告家族の父親に対して「受動喫煙症レベル3」という診断書が書かれました。父親は自らに25年の喫煙歴があることを隠していました。海外では「25年タバコを吸っていれば、その影響が消えるのに25年かかる」というのが定説なのですが、日本禁煙学会は過去の喫煙を不問にします。

また喫煙歴を告げるか告げないかはあくまでも任意となっており、医師側が積極的に聞き出そうとすることもありません。そうして、ちゃっかり自らも「受動喫煙症レベル3」の診断書を得て、我が家を4500万円で提訴したのです。

また、2通目の母親に書いた診断書では、作田氏は「1階のミュージシャンが『四六時中』喫煙している」と書きました。もちろんこれは事実ではないのですが、私はつい先日まで、作田医師が母親(患者)の言うことをそのまま書いたのだと思っていました。ところが違ったのです。

今年2月9日に行われた裁判での本人尋問で、作田医師は「そういうものだから一般論として」書いたと述べました。一般論から犯人にされてはたまりません。事実作田氏が夫を犯人として下した診断内容は、警察や管理組合へ提出され、我が家は苦難の道をたどることになるのです(後日、裁判勝訴後、警察と管理組合からは謝罪を得ています)。このように診断書の持つ影響は大きく、だからこそ客観的に証明できるはずもないことを診断書に記載してはならないのです。

3通目の娘に書いた診断書は想像を絶する酷さです。娘に対し、作田氏は「受動喫煙症レベル4、化学物質過敏症」の診断書を作成しましたが、実際には作田医師は診察をしていないのです。その会ったこともない患者(娘)に対し、母親の話と他人の書いた診断書からだけで、作田氏は診断書を作成したのです。

このことで作田医師は横浜地裁から医師法20条違反の認定を受けました。そしてその事実を私は作田氏が勤務する日本赤十字医療センターに伝えました。その中で私は作田医師に対する適正な処分をお願いし、日赤院長本間之夫氏からは、「調査を行った上で対応を検討する」との回答があり、その3ヶ月後、作田氏は除籍となりました。

では、宮城裕也氏の記事にも出てくる「受動喫煙症レベル4」とはどのようなものでしょうか。

受動喫煙症にはレベルは0~5まであるのですが、最も重篤なレベル5は作田氏の説明によると【致死レベル】です。作田氏は、原告の娘を致死レベル一歩手前であるレベル4だと判断したにもかかわらず、入院を勧めることもなく、「相手(喫煙者)に自分が書いた診断書見せて禁煙してもらおうと考えた」と証言台で述べています。事実も確かめぬまま、声高に受動喫煙被害なるものを一方的に叫ぶ人間の話ばかりを聞き、喫煙をやめさせるために診断書を使うことは診断書への信頼失墜に繋がります。

このたび、御社は多少調べればわかるものを調べようともせず日本禁煙学会のプロパガンダにのっかり、受動喫煙症があたかも国に認められた病であるかのような発信を行いました。大手新聞社として極めて軽率です。

ちなみに、以前、赤旗新聞が作田氏や日本禁煙学会を記事で扱った際に、私が同様の投げかけを行いました。そのときに赤旗の記者は判決文をきちんと読み、「謝罪も含めて根本的な反省・議論をして対応策をとらない限り、今後日本禁煙学会を記事には出さない」と回答しました。情報を発信する側の姿勢として正しいと思います。 

つきましては、御社に問いたい。毎日新聞は自社の発した誤情報について撤回もしくは問題を明らかにし、新たな正しい情報を発信するつもりはあるか。

以上につき、6月末までに下記メールかお電話でお返事いただけたらと思います(宮城氏にはすでにツイッターで意見を送っていますが、報道を流したのは毎日新聞社ですので、社としての見解を聞きたいです)。

事件や受動喫煙症診断書のあり方について詳しく知りたいということであれば、お話しすることも可能です。お返事のない場合には「何ら問題がないと考えている」ということで理解いたします。

以上、よろしくお願い申し上げます。

2023年(令和5年)6月17日
藤井敦子
神奈川県横浜市青葉区
メール a_atchan@yahoo.co.jp

 
[追伸1]尚、このような受動喫煙における動きは香害でも広がっており、香りのついた洗剤や柔軟剤を使用する隣人に内容証明を送りつけて強制的に使用をやめさせようとする動きが、日本禁煙学会役員・岡本光樹弁護士(元都議会議員)により進められています。私は、たとえ製品の中に含まれる化学物質に問題があったとしても、違法でなくマナーを守って使用している隣人に対して、強制的に内容証明や診断書・訴状等を送ってやめさせようとする強権的手法には断じて反対です。

[追伸2]我が家が巻き込まれた裁判は通称・横浜副流煙裁判と呼ばれ、インターネットを検索すれば沢山出てくると思います。ジャーナリスト黒薮哲哉氏が全面取材を行っており、これまで日刊ゲンダイ、週刊新潮、紙の爆弾(鹿砦社)、須田慎一郎氏が報道するYouTube番組「ニュー速通信」などで報道されています。また、映画化され「窓」という表題で、西村まさ彦さんが主演(原告側)を演じ、MEGUMIさんが被告側を演じています。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に選ばれ、今年6月30日に上映されます。


◎[参考動画]『[窓] MADO』公式HP

▼藤井敦子(ふじい あつこ)
 Twitter https://twitter.com/DuvallyMonika
 note https://note.com/atsukofujii/

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

上記『人権と利権』は5月23日発売以来話題を呼び圧倒的な勢いで売れています。ちょうど、いわゆる「LGBT理解増進法案」が国会に上程され審議に入るということもあったかと思いますが永田町界隈でもよく読まれていたようです(このこともあってか編者の森奈津子さんは参議院に参考人として呼ばれています。この件では賛否ありますが、ここでは触れません)。発売直後にAmazonから700冊余りの注文が来、これが捌けると在庫がなくなりAmazonでは古書業者が高値で出品し定価の倍近くになっているほどです。

こうした情況に不快感を覚えたのか、発売から1カ月近くにもなって突然Colabo仁藤夢乃代表が、同書(特に表紙、グラビア)を非難し、そしていつものように彼女の周辺から、対談者の一人で、「女性に対する暴力を想起させる表紙」について「謝罪」した加賀奈々恵さんに誹謗中傷が集中しています。甚だ遺憾であり怒りを禁じえません。私たちは断固加賀さんを守り共に在り続けます。全国でも特にLGBT化が進む埼玉県で、覚悟を決め、女性・女児の人権、安心・安全のために、たった一人でLGBT化(具体的には公衆トイレから女性トイレをなくし「ジェンダーレストイレ」化)に異を唱えた加賀さんの志に連帯します! 加賀さんのツイッター(およびyoutube)にアップされた意を決した加賀さんの凛々しさを見よ!


◎[参考動画]加賀ななえ【政策の変遷について/埼玉県LGBT条例基本計画パブリックコメントについて】(2023年2月26日)

当然私たちとしては理不尽な攻撃に対して最後まで加賀さんを見放さず守ることは言うまでもありません。当社への抗議は今のところファックスが1枚来ているだけです。

ここで、表紙について少し説明させていただきます。

【1】仁藤代表が仰るような、Colaboのバスの画像を「切り刻まれ」たというのは全くの誤認です。バスは、取材班メンバーが4月末に駐車場を突き止めそこに赴いて撮影したものでネットから採ったものでもありません。その写真をグラビアと共に、表紙のバックに使っています。本文で記事に採り上げているからです。そのどこがいけないのでしょうか? バスに「肖像権」があるのでしょうか? 私たちが昨年そのバスに傷つけたというツイートもありましたが、昨年私たちの取材班は動いておらず悪質なデマです。

現地に赴くということは、基本的に当社がよくやっている手法で今に始まったことではありませんし、当社に限らず他社の週刊誌などでもよくやっている初歩的な取材方法です。鹿砦社として最近では東電の幹部、原発事故の関係者や「大学院生リンチ事件」(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)関係者を直撃したりしています。

【2】バスの前のガラスが割れているのは、LGBTの象徴であるレインボーのガラスが割れている様子で、特段意味はないです。見る人によって受け取り方はいろいろあるとは思います。決して「女性に対する暴力を想起させる表紙」を目論んだわけではありませんが、加賀さんがそう感じられたのであれば残念です。男目線と女目線では感じ方が異なるのかもしれません。「派手目に」やればやったでアレコレ言われ、また綺麗に大人しくやれば目立ちませんし、むずかしいところではあります。

【3】本書は月刊『紙の爆弾』という雑誌の増刊号ですが、雑誌は決められた発売日を1日も遅らせることはできず、今回は特に「緊急出版」ということでかなりタイトなスケジュールでした。『紙の爆弾』など他の雑誌も同様にタイトですが、多人数が寄稿したりするので、表紙のチェックについて『紙の爆弾』は編集長1人の独断で、他の雑誌も2~3人がチェックするだけです。寄稿者全員に回していれば取次搬入日に間に合わなくなります。例えば『世界』という雑誌がありますが、寄稿者全員がチェックするわけでないことは当然です。その表紙にも好き嫌いはあるでしょうが。加賀さんバッシングに加担している太田啓子弁護士は、実は鹿砦社発行の反原発雑誌旧『NO NUKES voice』(誌名変更し現在『季節』)に座談会で登場されたことがありますが、太田弁護士に事前に表紙を見せたことはありません。

【4】今回は5月18日に取次搬入で、23日に発売でした。加賀さんら寄稿者・対談者らには18日発送、19日か20日に届きご覧になったと思います。逆に言えば、それまで加賀さんに表紙をご覧いただくことはありませんでした。また、他の方々の原稿の内容も、いたずらに別の方々に見せることはできませんから見本が届くまでは知る由もありません。

【5】表紙、グラビア、他の方々の対談や寄稿の内容については、5月19日 or 20日に見本をご覧になるまで加賀さんは一切ご存知なかったし、一切の責任は鹿砦社にありますので、誹謗中傷や文句があれば鹿砦社の私松岡にお願いいたします。お名前、ご連絡先などを明記の上、メールmatsuoka@rokusaisha.comかファックス0798-49-5309にてお送りください。

◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

もう少し言わせてください。加賀さんを誹謗中傷する人たちは仁藤代表はじめ果たして『人権と利権』の内容をよく読んだ上で批判しているのでしょうか? 「言論には言論で」というではありませんか。仁藤代表は著書も多く反論本を出版できる環境も能力もあるのですから、きちんと反論されたらいかがでしょうか。Colaboに繋がる人たちに「大学院生リンチ事件」(しばき隊リンチ事件)に直接・間接的に関わった人たちもいます。ここでも私たちは地を這うような取材/調査を元に6冊の本にまとめ出版しましたが、1冊も反論本はありませんでした。

最近鹿砦社に対し「ヘイト出版社」、本書編者・森奈津子さんに対し「差別者」と詰っている者がいます(杉並から差別をなくす会・谷口岳)。本書において私は、
「こうした風潮に異を唱える者に対しては『差別者』『レイシスト』『ヘイター』などと口汚い悪罵を浴びせ、謝罪と沈黙を強いる。本書出版後、当社や森奈津子、あるいは対談者らに対して、そうした悪罵が投げつけられるかもしれない」
と“予言”していますが、現実化しつつあるのは極めて遺憾です。

尚、本書についての私の問題意識、なぜ本書を出版するに至ったのかなどについては本書巻末の「解題」において申し述べていますのでぜひご一読いただきたく望みます。

株式会社 鹿砦社 代表
松岡利康

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 定価990円(税込)。最寄りの書店でお買い求めください

平和都市といわれる広島でもコロナ禍や(賃金・年金の十分なアップ無き)物価高騰を背景に生活に困窮されている方が増えています。こうした中で、「シェアリンク広島」では、2022年夏以降、毎月第四日曜日に広島市内の集会所などを借りて、物資提供会をしています。

地域の皆様や、製パン会社など協力いただいた企業やフードバンクから提供された食料やお菓子、日用品、衣料、子どものおもちゃなどの物資提供や、リサイクル活動、コーヒーやお茶、ホットケーキを提供する喫茶コーナー、スタッフによる困りごと相談会などが行われています。

5月28日(日)、そのシェアリンク広島が開催されている「物資提供会」を取材させていただきました。この日は西区大芝集会所で開催されました。

シェアリンク広島が開催している「物資提供会」の様子(2023年5月28日西区大芝集会所にて筆者撮影)

◆開始と同時に家族連れや高齢者ら一斉に並ぶ 中間層にも広がる困難

この日も14時の開始と同時に、ごく普通の家族連れや高齢者の方が食料や日用品などに並ばれました。

本社社主・さとうも、十数年前から隣接する岡山県での活動も含め、野宿生活者支援などの活動には参加させていただいております。

ただ、さとうが活動に参加し始めた00年代後半の支援を受けられる方は、古くからの野宿生活者の方、少し時代が下っても我々いわゆる就職氷河期の非正規雇用の多い年代で派遣切りにあって住居も失った方、さらにはいわゆるシングルマザーの方などが多かった印象がありました。

しかし、最近では、ご両親が共働きで子どもさんお二人という感じの典型的なご家庭や、一応住む家もあるごく普通の年金生活者の高齢者の方など、従来ならいわゆる中間層と呼ばれるような方の中でも非常に生活が苦しい状況が広がっています。そのことを再確認させられました。

夫婦お二人で一生懸命働きながら、育ち盛りの子どもさんを育てているが、食料中心に激しい物価の高騰で追いつかないというご家庭。成長に応じて服も年齢にあったおもちゃなども必要。そうした中でこうした取り組みは助かっているご様子でした。

物価が高騰しているのに、年金は下がっているお年寄り。食料を大事そうに取って行かれました。

この物資提供会には、広島市西区だけでなく、他の市区からも毎回来られている方がおられるようです。

人々に余裕がない中でバラバラになりがちな中で、こうしたつながっていく場の重要性を感じました。

◆取材だけのはずが筆者も暮らしの相談を……

この日は筆者も取材だけのはずが、スタッフの方に促され、生活相談や子守り(?!) をさせていただく羽目になりました。

多くの大人の方が筆者にいろいろとお話をお聞かせくださいました。また、子どもさんたちも、ここに来られるのを楽しみにされているご様子でした。筆者は介護ではプロですが、自分に子どもはいないので緊張しました。だが、喜んでいただいたようで何よりでした。

◆ますます重大な政治の責任

この日、多くの方に喜んでいただいたのは良かった。しかし、一方で、こういう取り組みがさらに必要になるような政治は政治として間違っている。困っている人をさらに苦しめる政治は間違っている。総理にはそう申し上げます。

ここまで生活苦が広がっている状況に、政治がきちんと対策を打たないといけないのではないでしょうか?

実際、「(2019年の税制改定に伴い)今年から自動車税が上がって大変」という声もうかがいました。

地元選出の総理は、少子化対策と称して、社会保険料をアップしようとしています。あるいは、児童手当拡充のためと称して、扶養控除見直しという形で多くの子育て世帯に対して増税しようとしています。あるいは、軍事費のための増税もしようとしています。だが、こんなことでは防衛以前に守る国がなくなってしまうのではないでしょうか?

この日の「シェアリンク」のような取り組みは当座、必要です。

◎このイベントの連絡先はシェアリンク広島 井原さん 080-4553-4454 です。

◎また、広島市安佐北区・可部ではフードバンクの「あいあいねっと」が食料配布会を行っています。6月下旬の食料配布会の開催日は以下です。
日程:6月24日(土)13時~14時まで。(1日30世帯限定です。なくなり次第終了!!)
配布場所:あいあいねっと 事務所前広場 (安佐北区可部3丁目9-21)
 
▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

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G7広島サミットは「大成功」と議長を務めた岸田首相は胸を張った。だがそれが虚勢であり、今回のサミットを通じ「G7の悪意」、「G7の凋落」が暴露され、「G7の時代は終わった」ことを世界の前に示した。それが5月のG7広島サミットだった。

 

Bob Dylan - The Times They Are A-Changin’

60年前にボブ・ディランがつくった「時代は変る」-“The Times They Are A-Changin’”、その歌詞がそのまま当てはまる時代をいまわれわれは迎えている。

国中のおとうさん おかあさんよ

わからないことは 批評しなさんな

むすこや むすめたちは 

あんたの手にはおえないんだ

昔のやり方は 急速に消えつつある

新しいものを じゃましないでほしい

助けることができなくてもいい

とにかく時代は変わりつつあるんだから

この「国中のおとうさん おかあさん」を「G7」に置き換えればいい。とにかく時代は変わりつつあるのだ。

◆被爆地広島を怒らせた「広島ビジョン」

今回のG7サミットは被爆地、広島で行われたことが最大の「売り物」だった。

G7首脳が原爆資料館を訪れ「被爆の実態」を知っただけでも意義があるとマスコミは持ち上げた。「オバマ大統領は10分だったが、今回は40分」などと言われるが、被爆の悲惨さを伝える当時の生々しい実物資料展示室まで見たか否かは「非公開」と発表された。おそらく館内での「被爆者の声を聞く」時間などを考えれば「オバマの10分」と大差ないものだったであろう。だから資料館で何を見たかは「非公開」にせざるを得なかったのだ。単なるパーフォマンスの場とすることで広島を侮辱したと言える。

被爆地、広島では「G7初めて」となる核軍縮に向けた文書とされる「広島ビジョン」が採択された。広島への冒涜はこの文書に象徴的に示されている。

「広島ビジョン」のポイントは「全ての者の安全が損なわれない形での核軍縮」という文言が盛られたことだ。逆読みすれば「安全が損なわれるような形での核軍縮はやらない」ということだ。ロシアの核使用の危険、核軍拡の中国、「北朝鮮」の危険という「安全を損なう脅威」を煽りつつ「核抑止力の強化」を宣言した「広島ビジョン」、核軍縮に逆行するG7合意だ。

広島県原爆被害者団体協議会の箕牧智之理事長は、「広島ビジョン」がG7各国の核保有や“核の傘”による安全保障を正当化し、「核抑止」を肯定する内容だったことに「まったく賛成できない」と断言し、「ロシアの核の脅しも問題だが、ますます世界を分断させることにならないか」と懸念を表明した。

1991年から8年間、広島市長を務めた平岡敬氏は、「岸田首相が、ヒロシマの願いを踏みにじった。そんなサミットだった」「19日に合意された“広島ビジョン”では、核抑止力維持の重要性が強調されました。戦後一貫して核と戦争を否定してきた広島が、その舞台として利用された形です」と怒りを露わにした。

国内政局がらみのバイデンの「早退」で日米韓首脳会談は顔合わせ程度に終わったが、バイデンは別途、日韓首脳を米国に招き正式会談をやると公表した。ここでの主要議題はNATO並みの「核使用に関する」協議体、「日米韓“核”協議体」創設となろう。米韓はすでに“核”協議グループ創設を4月末の尹錫悦(ユン・ソクヨル)「国賓」訪米時に合意している。

この通信で何度も述べてきたことだが、わが国には「核持ち込み」「核共有」の受け入れが迫られる。すなわち「非核の国是放棄」を迫られる。

「広島の怒り」の火に油を注いだ「G7の悪意」を目撃した広島や長崎の人々、いや日本国民がそれを許さないだろう。

◆グローバルサウスを敵に回したG7

今回の広島サミットの目的の一つが、ウクライナ支援やロシア制裁に距離を置くグローバルサウスと呼ばれる発展途上国をG7側に取り込むことにあった。しかしそれは全く逆の結果をもたらした。

広島サミット後、G7に招待されたグローバルサウス諸国はいっせいに今回のG7サミットを批判した。

「ウクライナとロシアの戦争のためにG7に来たんじゃない」(ルラ・ブラジル大統領)。インド有力紙は見出しに「ゼレンスキー氏の存在に支配されたG7」の記事を配信。インドネシア紙は「世界で重要性を失うG7」との記事を、ベトナム政府系紙は「ベトナムはどちらか一方を選ぶのではなく、正義と平等を選択する」と書いた。

今回のG7広島サミットはゼレンスキー主演の喜劇舞台になった。会議直前に彼の参加が公表され、ウクライナ問題には触れたくないグローバルサウス首脳らにとっては寝耳の水、いわば「嵌(は)められた」(プライムニュース司会の反町隆史発言)恰好になった、怒りを買うのは当然だろう。また「ゼレンスキー劇場」のために、グローバルサウス首脳の発言時間も制約を受けた。「グローバルサウスの日」の日程が「ゼレンスキー劇場」のために大きく時間が割かれたからだ。グローバルサウス首脳はいわばだまし討ちにあった形になった。

「G7先進国」でかつて自分がやった植民地支配をまともに反省した国はない。英国のエリザベス女王国葬の時、あるアフリカの首脳は「彼女は生前、一度たりとも植民地支配への謝罪の言葉を述べなかった」と語った。グローバルサウスは、G7の米国式「普遍的価値観・法の支配」秩序はかつての植民地支配秩序の現代版に過ぎないことを知っている。

ウクライナ支援やロシア制裁を強要する「ゼレンスキー氏の存在に支配されたG7」で、彼らはさらにそれを痛感させられた。グローバルサウスを取り込もうとしたG7は自らの厚顔無恥ぶりをさらしただけの結果を広島で招いたと言える。

米国を筆頭とするG7諸国に対し「もうあんたらの手に負えないんだ」ということをグローバルサウスは世界に知らしめた、そんな意義を持ったとしたら、それはよいことだ。


◎[参考動画]【G7広島サミット】「ウクライナ」テーマに議論 ゼレンスキー大統領も出席

◆虚勢を暴露したウクライナ軍事支援

「戦局を変える」と鳴り物入りで宣伝された「F16戦闘機のウクライナへの供与」も内容はお寒いものだ。

まず供与されるF16は欧州諸国では旧式の余り物、いわば「在庫品一掃」の形。操縦士の訓練は3ヶ月で基礎的な離着陸、空中飛行は修得できるが、空中戦の実戦対処となると数年はかかるだろうとか、また機体の維持管理要員の訓練も数ヶ月いや数年かかるとさえ言われている。

要するに即戦力にはならない。これをゼレンスキーは「F16機の獲得は、ロシアが敗北を喫するだけとの世界からの強力なメッセージの一つ」と虚勢を張った。

こうした実戦的な意味を持たない軍事支援が「戦局を変える」と世界に虚勢を張った、ここにも広島サミットで見せた「G7の窮地」を見ることができる。

案の定、「5月反転攻勢」を叫んだゼレンスキーだが5月も終わりになって「戦車の台数が足りない」と言い訳しだした。なす術がないのが現実だろう。ロシア軍は自らの支配管轄下に置いた東部のロシア人居住地域の最前線一帯に対戦車用の2.5mの深さを持つ塹壕を延々張り巡らすなど二重三重の重厚な防御陣を構築した。欧州から最新のレオポルド型戦車が供給されたというが、いくら戦車が来ても戦車戦などとうてい無理だろう。

欧州諸国、いや米国内部からも「いつまでこんな制限のないウクライナ支援を続けるのか?」、ロシア制裁のあおりを受け穀物などの物価高騰、エネルギー難の生活苦に追い込まれた国民の怒りの声が上がり続けている。

広島サミットで華々しく打ち上げた「ウクライナ軍事支援」は線香花火に過ぎないこと、G7がやっきになってもウクライナ軍の「反転攻勢」は絵空事だと世界が知る日は遠くない。

◆バイデンの会議「早退」── 米国内の分断を露呈

今回の広島サミットは「G7の親玉」、米国の弱体ぶりをも露呈するものになった。

バイデンは、ウクライナへの「無制限の軍事支援」などで膨らむ予算確保のために、債務上限を見直す法案を議会に提出したが共和党の反対で法案が採択できない事態に陥り、これが通らないとデフォルト(債務不履行)宣言を受ける国家的危機に直面、日米韓首脳会談も後日に延ばし会議を「早退」、帰国せざるを得なかった(帰国後、妥協案成立)。さらにバイデンはG7広島訪問後に予定した公式訪問日程、オーストラリア、パプアニューギニア歴訪もキャンセルせざるを得ないという外交失態を演じ赤恥をかいた。

対ウクライナ支援を巡る米国内の意見対立、分断ぶりが、民主党と共和党の「債務上限見直し」を巡る対立として露呈、それが「米国の窮地」を世界に見せることになった。

朝日新聞の望月洋嗣・アメリカ総局長は同紙の「多事奏論」に「突きつけられる二つの正面」と題する文章を寄せた。ここにはロシアのウクライナへの「特別軍事作戦」によって中ロ「二正面作戦」を強いられた「米国の窮地」が書かれている。

「ウクライナ軍事支援は欧州に主導させ、米国も日本も中国への対応に資源を集中すべきである」とのトランプ政権下の国防総省で軍事戦略策定に関わったエルブリッジ・コルビー氏の見解を紹介。

他方でハドソン研究所のジョン・ウォルターズ所長兼最高経営責任者(CEO)の懸念「米国が(ウクライナ)支援から手を引けば、欧州は政治、経済、軍事の各面でワシントンを支持しなくなり、中国は欧州との新たな関係を模索するだろう」を紹介。

この二つの対立する見解を紹介しながら望月総局長は「米国にはもはや“二つの戦闘”に向き合う余力はない」と結論づけた。

「G7の親玉」の足下が揺らいでいる「米国の窮地」をG7首脳はじめ世界に見せるという失態も、バイデンは世界に見せた。

ボブ・ディランの「時代は変る」は最後をこう締めている。

線は引かれ コースは決められ

おそい者が つぎには早くなる

いまが 過去になるように

秩序は 急速にうすれつつある

いまの第一は あとでびりっかすになる

とにかく時代は変わりつつあるんだから


◎[参考動画]Bob Dylan – The Times They Are A-Changin’ 時代は変る

近々、日韓首脳を米国に呼びつけて広島で延期になった日米韓首脳会談が開かれる。そこでは日米韓“核”協議体創設が何らかの形で話し合われるだろう。

わが国に対する「G7の親玉」からの「非核の国是放棄」の強要は、秒読み段階に入ったと言える。これを排撃するためにも「昔のやり方は 急速に消えつつある」という時代を感じとる鋭敏な感覚と、時代の流れを読む目をしっかり持とう!

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

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