4月から10月にかけて、奈良県内8ケ所の会場で、巡回展「先住民族アイヌは、いま」が開催される。4月24日、奈良県人権センターで開会セレモニーが開催され、「平取アイヌ遺骨を考える会」代表の木村二三夫氏の講演、「先住民族アイヌの声実現!実行委員会」の出原昌志氏の「取り戻したいアイヌの歴史」と称した展示解説などが行われた。

巡回展「先住民族アイヌは、いま」ポスター

巡回展「先住民族アイヌは、いま」の様子

巡回展を開催した「先住民族アイヌのいまを考える会」委員長・淺川肇氏は、昨年2月からこの展示会を企画し立ち上げ、
(1)県内各地で、身近な場所で行うこと、
(2)気軽に立ち寄っていただきたいので無料で行うこと、
(3)アイヌ民族について、私たちはあまりに無知なのでアイヌ目線で行うことを目標に準備を行ってきた。

「世界の先住民族の生存や尊厳、自決に関する権利を規定した『先住民族の権利に関する国際連合宣言』が2007年に採択され、日本も賛成したが、2019年施行された『アイヌ施策推進法』は、アイヌの自決権、土地や領域、資源回復や補償などには触れておらず、国連の宣言とはかけ離れており、アイヌの暮らしと誇りを立て直す内容とはなっていない。私たちはアイヌ民族と日本人(和人)の歴史的関係性やアイヌ民族がおかれている現状をもっと知る必要がある」、「幕藩体制下の支配や、アイヌを日本国民にさせる近代国家の政策などの抑圧や差別に抗してきたアイヌ民族の歴史や、伝統的に継承されてきた文化を紹介する本展示の開催が、アイヌ民族の先住権・自決権を尊重し、アイヌ民族をはじめとする多民族・多文化の共生社会を実現する一助になることを願っています」などと巡回展開催の意義を述べられた。

そんななか、先ごろ、日本テレビの朝の情報番組「スッキリ」で、アイヌ民族を差別する内容の作品が放映された件で、これまで2回の交渉を行ってきた出原昌志氏にお話を伺った。(聞き手・構成=尾崎美代子)

3月12日、「スッキリ」はアイヌ民族の女性をテーマにしたドキュメンタリー作品を紹介したのち、お笑いタレント脳みそ夫が謎かけで、「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」というテロップ付き漫画の映像を放映した。これに対して「先住民族アイヌのいまを考える会」は、「部落解放同盟奈良県連合」「奈良ヒューライツ議員団」とともに抗議を行っている。

アイヌ差別発言に抗議する 共同声明(2021年3月28日)

左から木村二三夫さん(「平取アイヌ遺骨を考える会」代表)、出原昌志さん(「取り戻したいアイヌの歴史」「先住民族アイヌの声実現!実行委員会」)、淺川肇さん(「先住民族アイヌの今を考える会」委員長)

──  差別映像が制作されるまでの経緯を教えてください。
出原 3月12日は「財布(サイフ)の日」の日で、すでに別の台本を作って映像ができていた。だけど脳みそ夫氏から提案があって新たに台本作ってあの映像を制作したという話です。担当ディレクターはそれまで「民族について軽々に扱えない」としていたというので、僕らは「ちょっと今の説明は不可解だ。民族を軽々に扱えないといっていたのに、なぜ脳みそ夫氏が提案したら民族問題を扱うことになったのか?」と追及し、次回は脳みそ夫氏本人がチャランケに出席して説明と謝罪を行うことを要求しています。
 日テレには番組考査部というコンプライアンスや人権問題を扱う部署があるが、そこの代表が、当初、アイヌ民族差別と捉えられずに「アイヌ民族に対する認識が薄かった」と認めており、また、日テレ全体の共通認識として被差別部落問題などはペーパーがあるが、アイヌ民族問題ではなかったこと。結局、アイヌ民族の歴史や人権に無関心であったことです。いまは放送に至る経緯をもっと検証していく段階です。ただ僕らが申し入れた5項目は全部うけとめ実行するということは確認しています。

──  番組前の打ち合わせで、誰もおかしいと思わなかったのか?
出原 日テレの言い方では、作成された映像を本社のプロデューサーに問い合わせたらOKが出たから、後は放映までスルーパスで、生放送中は番組チーフプロデューサーとプロデューサーが確認しているだけとのことです。専門のチェックマンがいないわけです。

──  MCの加藤浩次さんは北海道出身なのに、おかしいと思わなったのでしょうか?
出原 加藤さんは小樽出身ですが、あの年代で同じ高校にいた人の話も聞いたが、あの時代も単一民族国家観の授業が行なわれていて、彼はアイヌ民族の歴史について理解をしていなかったのではないかと思います。小樽のアイヌ民族は強制移住でいないから身近ではなく、加藤さんが気付くのは無理だったのではという話です。

──  でも人間に対して「あ、いぬ」だけでも差別と思いませんかね?
出原 それが差別と意識できなかった。わざわざ「アイヌ」というテロップまで入れて、驚きでしたね。週刊現代は、ディレクターが台本を書いて脳みそ夫氏にやらせたと言っているが、他の情報も含めて、脳みそ夫氏が提案してやったというのが事実だと思います。脳みそ夫氏が提案して、ディレクターが台本は書くから「やらせた」と言えばそうなるが。僕らはそうした認識でチャランケをしていますが、そのことに関して脳みそ夫氏が所属するタイタンのチーフマネージャーも異議申し立てはしていません。

──  当日は結局夕方のニュースで謝罪したのですね?
出原 番組中も抗議の電話はじゃんじゃん入ってきています。なぜ、直後の生番組で謝罪放送をしなかったと糾すと、「スッキリ」の後の生番組は首都圏のみの放送になり、午後からの「ミヤネ屋」は関西で製作されているとのこと。結局夕方のニュースで謝罪した。でもあの時は「不適切な発言」というだけで「差別だった」とは言っていなかった。その直後に、私から担当プロデユーサーに電話を入れて「月曜日のスッキリで謝罪してください」と要求した。1つ目はアイヌ民族差別と明確に認めること。2つ目は、アイヌの歴史に触れて言うこと。もうひとつは再発防止に努めるということ。また、チャランケを申し入れたらそれに応じるという事を確認しました。担当プロデユーサーは、謝罪放送を検討しており「やります」となった。それで3月15日月曜日の「スッキリ」の冒頭で、水卜アナウンサーがアイヌ差別と認めて謝罪した。それを見て、一応、日テレは努力していると認めて、同時にチャランケの日程調整に入りました。

──  チャランケ? 話し合いですね?
出原 1回目は3月18日。最初、チーフプロデユーサー(部長)が謝罪すると言うので、「参加者全員から一人一人自分の言葉で謝罪してほしい」と伝えた(当初は日テレ側5人、現在参加者は、日テレ側5名とタイタン2名の7名)。彼等の発言を聞いて、アイヌ民族からも自分の被差別経験などを含めて、今回のアイヌ民族差別の衝撃と重大さを話した。そのアイヌ民族の身を削る言葉を聞いて、もう一度、彼等にどう思うか、再度、一人一人に発言してもらった。その上で、放映までの経緯の概略的な話を聞いたが、次は詳細な経緯を説明してほしいと約束して、4月15日2回目のチャランケを行なった。経緯をペーパーで出してもらったが、まだまだ疑義が残ります。職員らの聞き取りなども全部出ていない。また、定期的にアイヌ民族を講師に職員研修と、アイヌ民族の歴史や人権などに関して定期的に番組作りをすることを要求して確認しています。
 アイヌ民族差別は日本人問題ですが、奈良の3団体の申し入れは、道外からこのような組織的な抗議の声はこれまでほとんどなく、本当に画期的なことです。日テレには、アイヌ民族差別を許さない社会規範を作る責任があると要求しています。ああいう大きな民放できちんとやってくれれば、成果も大きいので、引き続き頑張って話し合います。
──  今日はどうもありがとうございました。

[2021年4月24日奈良県人権センターにて]

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

東京裁判で戦犯として訴追されることを逃れた昭和天皇は、退位(明仁への譲位・弟宮による摂政)を否定した。

のちに触れるが、天皇は道義的責任と法律的な責任を明確にわけて認識していたようで、極東裁判で訴追されなかったことをもって、法律的な責任は回避できたと判断したのである。

しかし、国民のあいだには隠然たる批判があった。匿名ながら警察当局が蒐集したものとして、少なくない天皇批判が存在している。

いわく「天皇が退位した」「出家されたらしい」「沖縄に行ったようだ」「逮捕され絞首刑になった」などと、流言飛語や怪文書のたぐいはあとを絶たなかった。

◆メーデー・プラカード事件

公然としたもので有名なのは、メーデー・プラカード事件であろう。1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(正式名称は「飯米獲得人民大会」)のさいに、参加者の日本共産党員・松島松太郎の掲げたプラカードが不敬罪に問われた事件である。

 

「詔書 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)

「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)

このプラカードを見て、戦争がおわった日本は誰でも何でも発言できる自由がもたらされたのだな、と思うわれわれは歴史認識が甘すぎる。戦後も刑法が改定されるまで、治安維持法や不敬罪が存続していたのだ。

検察庁は松島を刑法74条違反で訴追したが、松島側は「ポツダム宣言の受諾によって天皇の神性消滅を受けて不敬罪は消滅した」と主張して争った。

いったん不敬罪で起訴されたものの、GHQの「天皇といえども特別の保護を受けるべきではない」という意向により、罪名は名誉毀損罪に変更される。

第一審(東京地裁昭和21年11月)は不敬罪を認めず、天皇個人に対する名誉毀損罪のみが認められた。のちの控訴審において、不敬罪の成立可能性の認定は引き継がれるも、新憲法発布による大赦で松島は免訴(裁判停止)となった。

政府はもとより、裁判所と検察は判例を残すことを肯んじなかったのであろう。大赦(恩赦)は法的には君主の職権(明治憲法では天皇の大権事項、戦後憲法では天皇の国事行為)であるから、松島は昭和天皇に赦されたことになる。

◆日本共産党の天皇制批判

その松島が所属した日本共産党は、戦前からゆいいつ天皇制を批判してきた政党である。のみならず、天皇制を絶対君主制として打倒対象にしてきた党だった。有名な32年テーゼから引用しよう。

「日本における具体的情勢の評価に際しての出発点とならねばならぬ第一のものは天皇制の性質及び比重である」として、天皇制を以下のように規定する。

「日本において1868年以後成立した絶対君主制は、その政策に幾多の変化を見たにも拘らず、無制限絶対の権をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧及び専制支配のための官僚的機構を間断なく造り上げた」

「日本の天皇制は、一方では主として地主として寄生的封建的階級に立脚し、 他方では又急速に富みつある強欲なブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の棟領と極めて緊密な永続的ブロックを結び、継々うまく柔軟性をもつて両階級の利益を代表し、それと同時に、日本の天皇制は、その独自の相対的に大なる役割と、似而非立憲法的形態で軽く粉飾されているに過ぎない。」

論点を以下の様に定式化することができる。

(1)天皇制とは「似而非立憲法的形態で粉飾されているに過ぎない」「絶対君主制」、すなわち「天皇制的国家機構」である。

(2)それは「一八六八年以後成立し」「その政策に幾多の変化を見たにも拘らず、無制限絶対の権をその掌中に維持し」ている。

(3)天皇制は「地主として寄生的封建的階級」「急速に富みつつある強欲なブルジョアジー」に立脚し「これらの階級と極めて緊密な永続的ブロックを結び」「両階級の利益を代表し」ている。

(4)「勤労階級に対する抑圧及び専制支配」「国の経済および政治的生活においてなお存するありとあらゆる野蛮なるもの」の維持という「独自の,相対的に大なる役割」を保持し「国内の政治的反動と一切の封建制の残津の主要支柱」「搾取階級の現存の独裁の輩固な背骨」となっている。

(5)その機能を果たすために天皇制は「官僚的機構を間断なく造り上げ」「最も反動的な警察支配を布」いている。

つまり天皇制とは、明治維新以後成立した絶対主義的国家機構であり、地主・ブルジョアジーに立脚し,両搾取階級の独裁および勤労階級抑圧の機能を遂行する反動的・専制的支配体制の第一義的構成要素ということになる。

 

戦後はアメリカ帝国主義の支配を受けつつも、絶対主義的な国家機構を残存させ、ブルジョア階級の支配を補完している。したがって勤労階級にとって、天皇制は打倒対象である。

しかしその共産党は、51年綱領による武装闘争方針(ロシア共産党およびコミンフォルムの決定)で、国民政党としての性格を急速に失っていく。35人いた国会議員が、武装闘争の過程でゼロになってしまうのだ。徳田球一をはじめとする指導部は、朝鮮戦争の勃発とともに公職追放となり、いわゆる冷戦体制のもとで、天皇制批判は封印されてしまうのだ。

50年代の武装闘争路線は、朝鮮戦争の後方かく乱が目的だった。朝鮮人民軍と中国の義勇軍がアメリカ軍を追い落とし、難民が日本に押し寄せたとき、イッキに戦後革命の烽火が上がる。北海道にソ連軍が上陸して、中国の占領地と分割されるか、日本に革命政権が樹立するか。その中で天皇制も廃絶されたかもしれない。その戦後革命は山村工作隊による農村根拠地禍という誤りや、GHQの謀略によって頓挫する。その挫折とともに、天皇批判も後景化されるのだった。

 

いっぽう、昭和21年(1946)から昭和29年(1954)にかけて、昭和天皇は全国を巡幸している。昭和21年元旦をもって、神から人間になった天皇が国民と接し、戦後復興をともに担う国民のシンボルとなる過程でもあった。

畏れ多い現人神から、親しまれる人間天皇へ。平和憲法の冒頭をかざる「国民統合の象徴」として、天皇は戦争責任から解放された。戦争の艱難辛苦をともに体験し、廃墟からの復興をともに歩む存在となったのである。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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昭和20年8月15日、日本は連合国のポツダム宣言を受諾して終戦に至る。だが、少なくとも前年の7月(サイパン陥落)には、敗戦は誰の目にも明らかだった。とりわけ最新の戦況(戦果は過大だったが、詳細な損害報告)を伝えられ、戦略観にも卓越したものがあった昭和天皇において、講和交渉を始める必要を理解していたはずだ。

 

にもかかわらず、天皇をして「もうひとつ、戦果を挙げてから」(近衛上奏への回答)などと逡巡させたのは、国体護持(天皇制の維持)の可否であった。

開戦当初のような戦果を挙げて、対等とは言えないまでも、アメリカがこれ以上の出血を回避したくなる戦況が欲しかったのだ。そうでなければ、天皇制を維持できないと考えていたのである。天皇制を護持するためには、自身の退位も厭わない覚悟だったという。

◆終戦で浮上した退位論

昭和天皇は敗戦後の8月29日に、内大臣木戸幸一に退位の内意をあらわしている。
「戦争責任者を連合軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思召しあり」(木戸幸一日記)

この昭和天皇退位論は、じつは戦中からあったものだ。天皇側近のなかから、とりわけ伝統的な公卿のあいだで検討がなされていた。

細川護貞(近衛内閣の総理秘書官)の日記によれば、昭和19年の3月に、戦局の悪化をうけて細川と近衛文麿が話し合ったことが明らかになっている。その内容は敗戦後の国体問題、すなわち天皇制を維持するために、天皇が戦争の責任をとって退位し、新たな天皇を立てるという意味である。そのさい、昭和天皇の処遇はどうなるのか。この時点では、上皇になるとも何とも具体的な構想がなされた様子はない。

退位という処断のもつ重さに、ふたりは戸惑いながら話し合ったものと思われる。明治大帝いらい、皇位は一世一元(詔勅)であり、退位はありえない。細川の日記に「恐れ多いこと」とある如く、天皇の進退は禁忌に属することがらだった。

「最悪の事態については、今日から相当研究して置かねばならぬ問題であるが、恐れ多いこと乍(なが)ら、御退位の如きは、我国の歴史には度々あるのであり」(上掲の細川日記)。

そして、その近衛は20年1月に、京都の別邸に岡田啓介と米内光政(ともに海軍出身で、元総理大臣)、仁和寺の門跡岡本慈航をまねいた。このときは、無条件降伏の場合には、昭和天皇が出家して仁和寺に入る、という構想であった。

退位して出家すれば、連合国も戦争責任を問わないだろうというものだ。まるで武家騒乱の時代の、出家による禊(みそぎ)。仏門に入った者は責任を問われない。というものを想起させる天皇出家である。この退位構想が信任の厚い近衛から天皇の耳に入ったのは、おそらく間違いないであろう。

そして、いよいよ敗戦が決まった。

いっぽう、アメリカの三省調整委員会(国務省・陸軍省・海軍省)では、天皇を戦争犯罪人として戦争裁判に訴追させるべきという議論が支配的だった。唯一、日米開戦時の駐日大使だったJ.C.グルーが「天皇は平和主義者で、戦後日本の混乱を回避するためには、天皇の温存が得策である」との見解を、国務省内で展開していた。戦争犯罪裁判への天皇裕仁の訴追は、まだ微妙な段階だったのである。

中国では天皇制廃止論が主流だったが、蒋介石は日本国民の判断にまかせるべし。イギリスは立憲君主制(天皇制)の存続を認める方針だったが、天皇の戦争犯罪には言及していない。ソ連は昭和天皇の戦争責任を問い質す方針だった。いっさいは、占領軍として主導権を握るアメリカにゆだねられた。

そこで、ひろく知られているのが、昭和天皇のマッカーサー連合軍最高司令官との面会である。

 

◆マッカーサーとの会談

天皇とマッカーサーの面会・対談は、11回におよんでいる。その席上、天皇が「わたしの身はどうなってもいい」と、戦争責任を一身に引き受ける発言をして、マッカーサーを感動させたという話が伝わっている。

扶桑社の教科書は、会見の中身をこう記している。

「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。

だが、このマッカーサーの「感動」は、自分と天皇の会見を美化したものではないかと、現代史の研究者から史料批判されてきた。

◆真偽が錯綜する記録

その発端は、児島襄が公表した「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(『文藝春秋』昭和50年11月号)である。9月27日の会見に同席した通訳官奥村勝蔵が記したという「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇の発言はなかったのだ。

また平成14年10月に外務省は第1回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開したが、児島氏が公表した「御会見録」とほぼ同一の内容である。したがって公的には、天皇発言はなかったことになる。

「会見録」によると、マッカーサーが20分ほど「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となる結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。

要するに、戦争への反省と自己弁護である。マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」との天皇発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのである。

いっぽうで、日本側にも天皇とマッカーサーの発言を裏付ける記録はある。奥村メモを天皇に届けた藤田侍従長が記した「回想録」である。

職掌上、奥村メモに目を通した同侍従長は、昭和36年10月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。

問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に5枚ほどあったと思う」と述べ、天皇は次の意味のことをマッカーサーに話したとしている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

この天皇発言に続けて、藤田侍従長は「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と自分の感想を書き、つぎのようなマッカーサーの発言を記している。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)

これで天皇の戦争責任発言は、歴史のなかに復活したのである。ではなぜ、公的に否定された天皇発言が「じつはあった」となったのか。

◆削除されていた発言とマッカーサーの天皇制擁護

その後、平成14年8月5日付の「朝日新聞」は、この推測を傍証する文書を紹介する。奥村の後任通訳を務めた元外交官松井明が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井はこう記している。

「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」

松井は奥村からの話としての伝聞である。それはおそらく松井が通訳に任官する昭和24年以降のことであろう。

昭和20年当時は、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いていた。

昭和20年10月22日の三省調整委員会では、マッカーサーに対し天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報が発信されている。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に次のような回答の手紙を送ったという。

「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数10万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)。

天皇の戦争責任発言があったのかどうかは、上記の史料から推論するしかない。少なくとも認められるのは、天皇がGHQの占領政策に協力すること、マッカーサーに敬意を表して(モーニング姿)、恭順の意を表したことであろう。そしてマッカーサーはそれに「感動」し、天皇制を存続させるべきと本国に報告したのである。これが日本がアメリカに「永続敗戦」する戦後の国体となったのだ。

アメリカ政府の判断で天皇訴追が見送られたころ、昭和天皇は側近にこう語っている。明仁に譲位するにしても、摂政を立てなければならない。秩父宮は病状があり、高松宮には戦歴があってGHQがみとめないだろう。三笠宮は若すぎる、というものだ。

戦犯訴追を免れたことで退位する気がなくなったのである。しかし国民のあいだには、天皇の政治責任を追及する声は少なくなかった。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回、昭和天皇が近衛文麿の「講和促進の上奏文」を肯んぜず、「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」と応えたことを記した。

 

じつはこのあと「戦果を挙げてでないと、なかなか話は難しいと思う」とある。

つまり、アメリカと対等とまではいかないが、講和交渉に応じざるを得ない戦局をつくらなければ、相手も応じないであろう。という戦略家としての判断だったことになる。

だが、前回指摘したとおり、天皇はある種のギャンブル症候群に陥っていたのではないか。いや、少なくとも個々の敗北を検証する観察眼を失っていた。大本営の幕僚たちもまた展望を描けないまま、精神論に陥っていたというべきであろう。精神論の物質的な象徴こそ、神風特別攻撃隊であった。天皇はこれにショックを受けながらも「よくやった」と称揚した。

 

山本五十六

戦前、近衛文麿に「是非やれと言われれば初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と語り、外交交渉の継続を「三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」としていた山本五十六のような人物は、もはや海軍にも陸軍にもなかった。

「国大なりといえども戦好まば必ず滅ぶ 国安らかなりといえども戦忘れなば必ず危うし」(山本五十六)をもって瞑すべし。

◆なぜ「聖断」は遅れたのか

マリアナ海戦の敗北とサイパン失陥後、茫然自失になっていた昭和天皇は、台湾沖航空戦のまぼろしの「戦果」に浮かれ、ふたたび「皇国の興廃」をかけたレイテ海戦によって意気消沈する。にもかかわらず、もう「一度戦果を挙げたい」というのだ。

近衛は奏上の直後、天皇が「(陸海軍は」台湾に敵を誘導し得ればたたき得ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思う」と語ったのを細川護貞に伝えている。

だが、アメリカ軍を台湾に誘導するには、台湾に強力な勢力がなければ応じるはずがない。すでに台湾には航空兵力はなく、敵の空爆に手をこまねいているしかなかった。台湾だけではない。たとえばニューブリテン島の海軍の拠点・ラバウルにも1年は籠城できる準備はあったが、航空兵力をうしない戦略的な意味もなくなった拠点を、アメリカ軍が攻撃する義理はなかった。

 

アメリカ軍がつぎの攻略目的にしたのは、日本の本国(沖縄)であった。大本営も本土決戦の準備のために時間稼ぎ、およびアメリカに出血を強いる「決戦」としてこれを位置づけた。生還を期さない神風特別攻撃隊が3900人にもおよぶ犠牲を出したのも、全軍が戦死・県民の4人に1人が犠牲(20万)になる沖縄戦の渦中であった。

いっぽう、本土も主要都市が焦土と化していた。昭和20年の3月10日には東京大空襲で10万人の死者がでている。そのころ、天皇はどういう生活をしていたのだろうか。

吹上にある御文庫と呼ばれる防空施設に、昭和天皇は起居していた。10トン爆弾にも耐えられるという鉄とコンクリートに覆われた場所で、皇室はその身の安全を護られていた。もっとも、アメリカ軍は占領時の必要を考慮して、のちに進駐軍の本部となる第一生命ビルほか、国会議事堂など主要な施設、皇居にも爆弾を落とすことはなかった。

 

◆沖縄戦での戦争指導

台湾ではなく沖縄が「決戦の地」になったことで、昭和天皇の「戦意」が衰えたわけではなかった。

「沖縄戦が不利になれば、陸海軍は国民の信頼を失い、今後の戦局に憂うべきものが出てくる。現地軍はなぜ攻勢に出ないのか、兵力が足らないのであれば逆上陸をやってはどうか?」と陸軍に督励している。

もともと、本土決戦の時間稼ぎとして持久戦をもとめられ、作戦は現地軍(第32軍)にまかされていた。だが、天皇の督促を電令された第32軍は、あたら中途半端な攻勢に出ることで、戦力を消耗してしまうのだった。

海軍に対しても、天皇は作戦を指導している。航空総攻撃の上奏のときに「航空部隊だけの総攻撃か?」と下問があり、それへの対応として、戦艦大和以下の水上特攻が準備されたのだ。

◆陛下に強いられた特攻

元来、特攻作戦は「志願制」であった。部隊長が「志願したい者」と隊員たちに告げ、それに全員が応じることで、形の上では「特攻隊に志願」という体裁がとられていた。

 

弾薬庫に火がまわり、爆沈する戦艦大和

しかし、戦艦大和の場合は軍令部による「命令」となった。沖縄で国民が犠牲になっているのに、大和は生き残っているのか。と、詰め腹を切らされたのである。天皇の下問がその契機になったのは、いうまでもない。宇垣纏海軍中将は、その日記『戦藻録』に、その悲惨な無駄死にを「軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやの御下問に対し、海軍全兵力を使用いたすと奉答でるにある」と記している。

戦艦大和の沈没(4月7日)、沖縄戦の敗北(6月23日)で、あとは本土決戦を待つのみとなった。そのかん、ドイツの降伏とムソリーニ処刑が4月30日に天皇に報告され、日本単独での戦争継続は不可能との奏上(東郷重徳外相)を受けている。このとき天皇は「早期終戦を希望する」と返答している(『実録』)。

木戸内大臣によると「従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ。それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇聯(ソ連)が出てくるとの御意見であった」(『高木海軍少将覚え書』)。これはまだ、沖縄戦が渦中にあった時期のことだ。

◆混迷する和平の模索

木戸内府をはじめとする宮中首脳、海軍首脳の終戦派などのあいだで、ようやく天皇による「聖断」の準備が考慮されはじめていた。本土決戦で行けるところまでいき、あるタイミング(もう戦争は無理?)で天皇の聖断を仰ぐというものだ。

陸軍の主流派は本土決戦を合言葉に、国民もまた「一億玉砕」の空気だった。すでにラジオで「海ゆかば」が流れるときは「玉砕」の訃報、軍艦行進曲が流れるときは「戦果」がまがりなりにも報じられる国民生活である。もっぱら「玉砕」という言葉が、国民の将来を覆っていた。

3000機とも4000機ともいわれる残存航空部隊と海上特攻兵器など、陸軍および海軍の戦争継続派は、本土決戦の準備にこれつとめている。

天皇は「本土決戦準備」の現状を知りたくても、参謀総長の上奏がないので心配し、侍従武官の大半を九十九里方面に派遣して視察させている。その結果、軍部が言うほどの準備があるわけではないと、認識を深めていた(「実録」)。

いっぽう、最高戦争指導会議ではソ連を仲介とする和平工作が検討されていた。東郷外相の委嘱をうけた広田弘毅元首相が6月3日から、マリク駐日ソ連大使との会談を開始する。

このほか、中国人繆斌(みょうひん)を通じて、重慶の国民政府との和平交渉のルートを探ろうとした繆斌工作。45年4月シベリア経由で帰国した駐日スウェーデン公使バッゲを通じて、連合国側に和平条件の探りを入れようとしたバッゲ工作。スイス駐在海軍武官藤村義朗中佐らがアメリカの情報謀略機関のアレン・ダレスとの接触を図ったダレス工作などが終戦工作としてあげられるが、いずれも日本政府が正式に取り上げたものではなく、何の成果もあげなかった。

◆けっきょく、原子爆弾がすべてを決めた

これに対して、マリク大使との交渉は正規のものである。広田・マリク対談についで、佐藤尚武駐ソ大使にソ連側との交渉を命じたことから、日ソ両国の正式の交渉となった。

ソ連側からの質問に「和平の斡旋依頼だ」と答えて、近衛文麿を天皇の特派使節として派遣しようとした。しかるにソ連は回答を引き延ばし、交渉はなんら具体化しなかった。周知のとおり、1945年2月のヤルタ会談で、米英に対して対日参戦を約束していたのである。

7月には天皇も戦争継続をあきらめていたが、上記の日ソ交渉に期待がかかり、ポツダム宣言は無視した。そのかん、空襲による国民の犠牲はつづいた。

そして8月6日、人類史を画する蛮行が行なわれる。広島への原爆投下である。さらにソ連が参戦した9日、長崎にも原爆が投下される。ここに至って、ようやく政府首脳(鈴木貫太郎政権)は「聖断」を天皇に請う。

日清・日露・第一次大戦のように軍部だけで戦い、その延長に講和を展望する昭和天皇の戦争指導は、戦略・戦術の全面的な破綻ののちに、ついに国家の壊滅をもって終局したのである。敗戦ではなく、それは大日本帝国の崩壊だった。

それではなぜ、解体した国家の主権者たる天皇が戦争犯罪に問われず、戦後を生き延びたのであろうか。われわれの疑問は尽きない。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

安倍晋三までの62人を全網羅!! 総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

4月1日から商品やサービスについて、消費税込みの価格を示す「総額表示」が義務化されたが、案の定な展開になっている。昨年秋頃、ツイッター上で「#出版物の総額表示義務化に反対します」というハッシュタグをつけるなどして騒いでいた人たちがいつのまにか、どこかに消えてしまっているのだ。

彼らは当時、「出版物が総額表示を義務化されると、消費税率変更の際にカバーの刷り直しや付け替えを余儀なくされ、少部数の本が絶版になったり、小さな出版社が潰れたりする恐れがある」などと危機感をあおっていたはずだ。しかし、いつのまにかフェイドアウトしてしまったのは、実際はそこまで心配する必要のない話だと気づいたからだろう。

一体、いつまでこういうことを繰り返すのだろう……と私は正直、げんなりせずにいられない。過去にも同じような例をたびたび目にしてきたからだ。

日本書籍出版協会と日本雑誌協会はHPで出版物の総額表示に関するガイドラインを発表した

◆思い出される「ぼったくり防止条例」や「裁判員制度」が始まる時の騒動

たとえば、思い出されるのが、2000年に東京都が全国で初めて、性風俗店や飲み屋でのぼったくり防止条例を施行した時だ。これは当時、新宿・歌舞伎町などで酷いぼったくり事件が相次ぎ、社会問題になっていたのをうけて作られた条例だった。

この条例が施行される前、メディアでは「有識者」たちが条例の不備を色々指摘し、「こんな抜け穴だらけのザル法では、悪質なぼったくり業者は取り締まれない」と読者や視聴者を不安に陥れるようなことを言っていたものだった。

だが、実際に条例が施行されると、新宿、池袋、渋谷、上野という規制対象地域の路上からは、風俗店や飲み屋の客引きが一斉に姿を消した。条例ができた効果により、ぼったくり業者が激減したわけである。私は当時、歌舞伎町のぼったくり業者にそうなった事情を取材したが、彼はこう説明してくれた。

「条例に不備があろうが、ザル法だろうが、そんなのは関係ない。ああいう条例ができたということは、お上が『これからはぼったくり業者を厳しく取り締まる』という意思表示をしたということだから。そうなれば、俺たちはこれまで通りの商売を続けるわけにはいかない。警察がその気になれば、法律なんか関係なく誰だって捕まえられるんだから」

私はこの説明を聞き、深く得心させられた。警察に理屈など通用しない。この現実を知っているぼったくり業者たちからすれば、メディアに出てくる「有識者」たちが解説する「条例の抜け穴」など机上の空論に過ぎないわけである。そして机上の空論で騒ぎ立てていた「有識者」たちは何事も無かったように消えていった。

2009年に裁判員制度が施行された時も同じようなことがあった。制度の施行が間近に迫った時、またメディアでは「有識者」たちが、「裁判員の呼び出しを拒んだら罰則があるというのでは、苦役の強制であり、徴兵制と同じだ」とまで言って、読者・視聴者の不安を煽ろうとしていた。

しかし実際に制度が始まってみると、裁判員の呼び出しを辞退する人はいくらでもいるし、それで罰せられた人がいたという話はまったく聞かない。私はこれまで様々な裁判員裁判を取材し、判決後にある裁判員たちの会見にも出席してきたが、裁判員たちは「参加して良かった」「良い経験になった」と前向きな感想を述べる例が多いのが現実だ。

そしていつしか、裁判員裁判について「徴兵制と同じだ」とまで言っていた「有識者」たちはどこかに消えてしまったのだった。

◆権力に物申す「言論」というのは結局……

そしてまた今回の「#出版物の総額表示義務化に反対します」騒動である。書店に並んだ書籍は4月1日以降もそれ以前と変わらず、新旧の価格表示が混在したたままだが、それで何か問題が起きたという話はまったく聞かない。出版社側も帯やスリップに消費税込みの価格を表示することで、今後消費税率が変わってもカバーの刷り直しや付け替えはせずに済むようにして、事足りているようである。

こうしてこの問題について不安を煽り、騒いだ人たちはどこかに消えてしまったのである。

誰もがそうだというわけではないが、権力に物申すのが好きな人たちの中には、事実関係をほとんど調べず、思い込みだけでものを言っている人が少なくない。「#出版物の総額表示義務化に反対します」と声高に叫んでいた人たちは、そのことを改めて証明した。今後も新しい制度や法律ができるたび、彼らは懲りずに同じ行動を繰り返すはずなので、しっかり観察させてもらいたい。

▼片岡 健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

◆「西成」は売れる?

最近、西成(ここでは「釜ヶ崎」界隈を示す)で動画を撮影するYouTuberが増えている。有名(?)YouTuberに紹介され客が増えたと喜ぶ店がある一方、他の客の顔を撮られては困ると断る店もあるようだ。店の紹介だけでなく、公園で酒盛りする人やセンター周辺の野宿者の生活を面白可笑しく撮るものも多い。刺青を堂々と見せる人、ムショ帰りと話す人、泥酔してクダをまく人……西成には様々な経歴、過去をもつ人、ひと癖もふた癖もある人が多いが、それはこの街がどんな人をも受け入れる懐の深さがある証拠だ。

しかし、そうした人たちを撮って視聴数を伸ばし、広告代を稼ぐYouTuberは、彼らに動画をYouTubeにアップすると説明したり、許可を得ているのだろうか。実際、動画に映る人に聞くと、知らないという人もいるが、問題はないのだろうか?

◆暴力野郎が「平和を守ろう」というようなもの

こうした一部のYouTuberと同様に、この町の人情味の厚さや懐の深さを利用しながら、センター解体と新たなまちづくりを進めようとしているのが、大阪維新の「西成特区構想」だ。

大阪市は3月30日、センター解体後の跡地の利用計画について、新たな戦略を発表した。資料には「新今宮エリアの魅力が認知され、訪れて楽しいエリアになるようなイメージ向上を図るにあたり、新今宮の魅力を伝える新たなコンセプト『新今宮ワンダーランド』と、キャッチコピー『来たらだいたい、なんとかなる』を参詣曼荼羅(さんけいまんだら)をイメージしたポスターや、人気スポットを紹介したリーフレット、WEBサイトで積極的に展開していきます」とある。

西成は「不思議の国」「おとぎの国」「ワンダーランド」か?! 福島から始まった聖火リレーで、「踊って楽しもう! イエーイ!」と白けた演出でひんしゅくを買った電通の考えそうなことだ。

それにしても何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。これまでは確かにそれが出来た。日雇労働者の寄り場であり、生活に困窮した人が「あそこに行ったらどうにかなる」と目指してきたのが、JR新今宮駅前にどんと構える「あいりん総合センター」(以下センター)で、そこに行けば、仲間と会え、仕事も見つかり、飯を安く食え、仲間とワイワイ騒ぎ、洗濯も出来てシャワーが浴びられ、娯楽も楽しめる……それこそ「来たらだいたい、なんとかなる」だった。

もちろんセンターだけでなく、町全体も。しかし今、その肝心要のセンターを暴力的に閉鎖し、周辺の野宿者を強制的に立ち退かせようとしているのが、大阪市だ。センター解体したあとの広大な跡地でひと儲けを企む連中が、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。遅筆で有名な大作家が、原稿を急かされるたび奥さんをボコボコに殴り逃げられ、DVの事実を暴露されるや、「憲法9条を守ろう」「平和を守ろう」と叫ぶようなものだ。

「新今宮ワンダーランド」のHPより

◆西成の魅力の上っ面を掠め取るジェントリフィケーション

神戸大准教授の原口剛さんは、現在西成で進められるジェントリフィケーションについて、先の強制排除など直接的な排除のほかに、家賃や土地の値段が上がることで住みにくくなることや、街の雰囲気が変わることで、長く住んでいた人たちが住みづらくなる「雰囲気による排除」があると指摘する。

そして、この「雰囲気による排除」にかかわる重大な問題として、「たんに『人情がなくなる』のではなく、一方で『人情』がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態」が起こり得るとし、肝心なのは「生きられる人情」と「売りになる人情」の違いであると指摘する。

「そもそも『人情』というのは、センターで労働者が集まって日常を過ごすとか、そういったことも含めて、いろいろな生活の営みの中で、じっくり長い時間をかけて培われてきたものです。これに対してジェントリフィケーションというのは、実は何ひとつ発明することができない。例えば『人情』の上澄みだけ吸い取って、それを商品化して『下町らしさ』というパッケージにして売り出すということです。そうして『売りになる人情』へと仕立てながら、そもそも『人情』を生み出した担い手を追っ払ってしまう」と。

ここ数年「釜ヶ崎」や「西成」「人情」「下町らしさ」を売りにした店が増えるなか、原口氏が「言葉にならない叫び」と呼ぶ暴動さえ「「西成ライオット(暴動)ビール」として売りに出されるようになった。しかし、そこからは確実に一部の人たちが排除されていることを忘れてはならない。

街中に建てられたおしゃれ過ぎる建物

◆消されていく西成の臭いと色

私の店は西成の真ん中を南北に走行する阪堺電車というチンチン電車のガード近くにあるが、かつてそこは「ションベンガード」と呼ばれていた。ガード脇に公衆トイレがあるからか、ガード脇のニセアカシアの木のそばで立小便をする人が多かったからか……。

ポスター剥がされ落書き消され、真っ白にされたションベンガード

「街をカラフルに」と描かれた壁画。良く見ると野宿出来ないようになっている

ガードの両壁にはかつて「狭山闘争に決起しよう」だの「86春闘に勝利しよう」などのポスターが貼られたり、「ケタオチ飯場○○」と、悪質業者の名前が落書きされていた。壁からポスターが剥がされ、落書きが消され、ペンキで真っ白に塗られたのは数年前だ。倒れそうなニセアカシアの木も切られ、あたりはすっかり様変わりしてしまった。町中の足立酒店の自販機も撤去され、道端で酒盛りする人も減り、西成警察署裏の屋台が撤去され、屋台の客からホルモンを貰い、肥え太った野良犬もいなくなった。この町特有の臭いや色が徐々に消されてきた。

西成出身のラッパー・SHINGO★西成が「町おこし」のため手がけた南海電鉄の壁に描いたアートな壁画はペンキ代を募り、子どもらと描いたのに、南海電鉄高架下の一角はセンター仮庁舎を作るため無残に解体された。「白黒な街を虹色の街に」と謳っていたが、SHINGOちゃん、西成の労働者が黒やグレー、カーキ色を好んで身に着けるのは、建設現場で油や汗や汚れても、汚れが目立たないためでもあるし、生活保護費削減で、洗濯や風呂の回数減っても、何日も同じ服着ていられるからでもあるんやで。

同上

◆差別と暴力を覆い隠すミヤシタパークの「西成チューハイ」

 

渋谷の宮下公園に関する、ねる会議さんのツイート(2020年8月13日付)

野宿者を暴力的に排除して作られた東京渋谷の「MIYASHITA PARK」では「西成チューハイ」なるものが「売り」に出されているという。記事を見ると、別々に出された焼酎と炭酸を自分で割って飲むというスタイル……それって西成で有名な立ち飲み屋難波屋から始まった難波屋チューハイではないのか。しかし、難波屋でも釜ヶ崎でもなく、なぜか「西成チューハイ」とネーミングされ売りにだされている。

ここにもさんざん野宿者を暴力で叩き出し、さらに中に入れる人と入れない人を差別的に分けながら「でもぼくには西成に知り合いがいる」(「I have black friends」)と言うような胡散臭さが見て取れる。もう一度言おう! 野宿者を暴力で叩き出しながら、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。太平洋戦争が熾烈をきわめるなか、天皇はどこかでアメリカに一撃をあたえるまで、講和の条件はないと考えていた。それは国体の護持という思惑、言いかえれば保身であった。昭和天皇に批判される責任があるとすれば、戦争を長引かせたこの身勝手な思惑であろう。

◆台湾沖航空戦のまぼろし

 

昭和19年(1944)6月19・20日に戦われた、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わった。日本海軍は空母3隻を喪失、艦載機400機を失い、機動部隊を基幹とした艦隊を構成できなくなったのだ。

太平洋戦争において、決定的な役割を果たした空母機動部隊をもってする海戦は、もはや日本海軍にとって不可能となり、サイパン島も上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

このとき、天皇は逆再上陸によるサイパン奪還を、嶋田軍令部総長に対して、二度にわたって要求している。天皇の戦略的な勘は生きていたというべきであろう。まさにここが太平洋戦争の正念場だった。その希望はしかし、かなわなかった。すでに機動部隊が崩壊し、制海・制空権ともにアメリカに握られていたのだ。

サイパン失陥はそのまま、アメリカ軍をして東京空襲を可能とさせる(初空襲は昭和19年11月24日)。8月にはテニアンが陥れられ、いよいよアメリカ軍の空爆が秒読みとなった。

このころ、昭和天皇が戦争指導に熱意をうしなったことは、前回述べたとおりだ。海戦と島嶼攻防の敗北に意気消沈したところで、講和工作を本格的にはじめていれば、あるいはアメリカの東京空襲は計画だけに終わったかもしれない。

ところが、意気消沈した昭和天皇を驚かせる、そしてにわかに活気づける報告が10月に訪れたのだ。台湾沖航空戦の「大勝利」である。

 

昭和19年10月12日~15日にかけて、台湾沖で行なわれた航空戦(捷号作戦)の「戦果(大本営発表)」は以下のとおりである。
【撃沈(アメリカ軍の損害)】 航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻
【撃破】航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻
【撃墜】112機(基地における撃墜を含まず)
【日本軍の損害】飛行機未帰還312機

もうこれは、ほとんどアメリカ海軍太平洋艦隊の壊滅を意味すると思われた。19隻もの空母を撃沈、ないしは撃破したのである。

だが、フィリピン近海に十数隻の空母をともなうアメリカ艦隊が現れたとき、大本営はしばらく混乱したが、別の新手が出現したものと、台湾での戦果を疑わなかった(一部の軍幹部は「戦果」に懐疑的であった)。
じっさいの損害は、以下のごとくである。

《双方の損害》
【日本軍】 航空機 312機
【アメリカ軍】 航空機89機、搭乗員約100名
※空母2隻が小破・巡洋艦3隻が大破・駆逐艦2隻が損傷(うち1隻は衝突事故によるもの)

じっさいには、アメリカ艦隊をわずかに傷つけたにすぎなかった。その反面、300機以上の日本機が失われたのは事実だった。誤報の理由も明らかだった。

数日にわたる空海戦には夜間戦闘もあり、経験不足の日本機パイロットは、アメリカ艦船の近くで水柱が上がったのを見て、ことごとく撃沈・撃破と思い込んでいたのである。爆弾は信管に水圧がかかっただけで破裂し、大げさな水柱があがる。それにしても、あまりの「戦果」の違いである。

この「戦果」の結果、つづくレイテ作戦ではアメリカの上陸部隊の壊滅、および戦艦隊によるレイテ湾突入が企図されたのだ。

この時期の昭和天皇は、あきらかに一種のギャンブル脳になっていたと思われる。

緒戦の劇的な戦果、向かうところ敵なしの皇軍。ガタルカナル・ミッドウェイ以降も、負けが込むにつれて、緒戦の快哉が忘れられずにいたはずだ。勝利の脳内麻薬が忘れられなかったのだ。

マリアナ海戦とサイパン陥落で、その敗戦の理由に冷静な分析を加えていれば、あるいは講和路線への転換もあったかもしれない。少なくとも、本土が本格的に空爆に晒される前に、講和戦略に転換することも可能だった。故事に言う「勝敗は時の運」ではなく、敗戦には合理的な理由があるのだ。

 

じつはミッドウェイにおける空母機動部隊の敗戦の理由は、緒戦のインド洋作戦でも露呈していた問題なのだ。

攻撃機の爆装から雷装への転換に時間がかかること、したがって装備を転換しているときに襲われた結果が、3空母の同時被爆であり、それも急降下爆撃による飛行甲板のダメージという、空母にとっては致命的なものだった。

この急降下爆撃の威力も、南太平洋の海戦で判明しているにもかかわらず、日本海軍は伝統的な雷撃(爆装から雷装)にこだわって勝機を逸したのである。

もうひとつ、日本海軍航空部隊の致命的な弱点は、ゼロ戦や一式陸攻などにみられる防御システムの脆弱性だった。旋回力(空戦能力)や航続距離を重視するあまり、搭乗員の防御(機銃の弾丸を防ぐ鋼板)を犠牲にした結果、開戦いらいのベテランパイロットたちを失ってきたのだ。

予科練(中学3年から受験可能)を基盤に、中学生を殴って鍛えるという教育方法にも限界があった。対するアメリカ軍は、心身ともに優秀な大学生をパイロットに育成し、その生命を強度な防御力をもったグラマンやロッキード機、日本機の到達できない高空を巡航する「空の要塞」と呼ばれる爆撃機など、戦術思想においても大きな違いがあった。その戦術思想の差こそが、昭和17年中盤以降の戦況となって顕われたのである。

そして戦争が長期化することで、工業力・人口・物資の差が歴然となってくる。その意味では、昭和天皇が開戦にあたって講和戦略を云々していたのは慧眼であった。にもかかわらず、時の運をたのむ戦略観に陥ってしまったのだ。

はたして、レイテ沖海戦においては、その彼我の物量の差が明らかになった。

アメリカ海軍がこの海戦(陸軍のフィリピン上陸支援)に動員した艦船は、空母35隻、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141、航空機1000機、ほかに補助艦1500隻である。

対する日本海軍は、空母4隻、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34、航空機は基地発進をふくめて600であった。ほぼ大敗といえる、その結果も記しておこう。

【日本の損害】空母4・戦艦3・巡洋艦10・駆逐艦9
【アメリカの損害】空母3・駆逐艦3

※フィリピンのサマール沖で、大和を基幹とする戦艦がアメリカの小型空母を攻撃するも、ぎゃくに航空機の反撃に遭う。上の写真は日本の戦艦の砲弾を浴びる米艦隊を背景に、反撃に出ようとするアメリカ機。

レイテ沖海戦の結果、日本海軍は艦隊を組むこともままならない。ほぼ崩壊状態となった。このとき神風特別攻撃隊が組織され、航空機の攻撃では唯一の戦果をあげた。その攻撃を聞かされた昭和天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかし、よくやった」と感想をのべたという。神風自爆攻撃は、大元帥の裁可を受けたのである。

やがて沖縄は鉄の暴風に見舞われ、本土の各都市も高高度からの無差別攻撃にさらされる。それでもなお、昭和天皇は戦争の幕引きをしようとはしなかった。

◆戦争を長引かせた責任

東京が空襲を受けるようになった昭和20年(1945)2月14日、近衛文麿元総理は、敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めた。

ところが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと答え、これを拒否したのである。

そしてこのときの判断次第では、それ以降の敵味方の損害はなかった可能性もある。このとき、天皇が早期終結を受け入れ、命じていれば、少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。日中戦争の泥沼化のなかで、暴走する軍部(関東軍)およびそれを統制できない政権に懐疑的だった天皇は、開戦劈頭(へきとう)の「大勝利」に浮かれた。そして、大元帥としての軍事的才能を開花させるのだ。

◆開戦前から和平への道を模索する

 

日米開戦が決定的になった時期、昭和天皇は講和への外交工作を気にかけている。

「戦争終結の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹つるの要あるべし」(『高松宮日記』天皇から木戸幸一への下問)と、開戦前に講和工作を模索しようとしていたのだ。

この天皇の要求を、軍部も無視していない。

開戦に当っての大本営政府連絡会議の「腹案」には、独ソ講和によって日独伊三国が英国を降伏させ、ソ連を枢軸側に引きこむ。蒋介石専権の打倒および米豪の海上交通路を遮断し、アメリカをして戦意喪失させる、という希望的展望が盛り込まれている。

さらには具体的に、前掲の天皇の意を受けて、スウェーデン、ポルトガルを通じたローマ法皇庁への外交戦略も付加されている。開戦後も連合軍のシチリア上陸時に、ドイツがルーマニアの油田を失う可能性が論じられ、日本として独ソ妥協を講じられなければ、戦争方針を変更しなければならないことが検討されている(『真田穣一郎日記』)。

これらの戦争戦略、外交政策による戦争の早期終結が実現しなかったのは、戦争の性格がそれまでにない、総力戦に変わっていたからにほかならない。

総力戦とは国民経済(生産と消費)の戦争経済(軍需に集中)への転換であり、それは軍事技術・兵器の高額化と大量化に促されたものだ。

その意味では、昭和天皇が開戦にあたって、和平への道を模索していたのは、講和が容易だった日清・日露戦争、あるいは第一次大戦を限定的に戦った歴史から考えていたものにすぎない。

総力戦の時代には政治(外交)が後景化され、軍事(戦闘)が最優先になる。政治と軍事が逆転するのだ。そしてそれは、兵器の大規模化と国民の総動員によって、国家の崩壊まで突き進む。このことを天皇は理解していなかった。いや、天皇自身が総力戦に呑み込まれていくのである。

◆龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」

 

開戦劈頭、日本は海軍が真珠湾にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅し、陸軍もマレー上陸から怒涛の進撃を開始する。開戦三日目には、イギリス東洋艦隊(戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス)を航空作戦で壊滅させた。

2月にはシンガポール陥落(英軍降伏)、バンドンでオランダ軍が降伏。海軍もインド洋で残存英国艦隊(空母ハーミスほか)を壊滅させ、艦隊決戦となったスラバヤ沖海戦、バダビア沖海戦においても、米・豪・蘭・英の連合軍を敗走させた。赫赫たる勝利である。

龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と天皇は喜びを述べている。じつは天皇自身が、イギリス艦隊の動き(出港)に注意するよう、戦争開始前から軍部に指示をしていた。南部仏印進駐時やイギリス艦隊の動向など、軍事的な才能さえ感じさせる発言が残されている。

フィリピンのコレヒドール要塞の攻略に手こずったとき、天皇は大本営陸軍部を執拗に督励し、追加部隊の派遣を要求している。まさに大元帥として、戦争を指揮し、督戦しているのだ。

◆陸軍機は使えないのか?

 

米豪の交通を断つ目的で、日本海軍はニューブリテン島にラバウル基地をつくり、さらにソロモン諸島に戦線を延ばした。ニューギニアの攻略を目的とした陸軍とのあいだに、齟齬が生じるようになってしまう。昭和17年の南太平洋における戦いは、天皇にとって陸軍と海軍の提携が気になって仕方なかった。

「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空隊では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないか」(田中新一『業務日誌』)。

陸軍はこのとき、中国の重慶攻撃のために爆撃機を南方から撤退させる計画を進めていた。しかも陸軍機は、洋上での航法に慣れていなかった。編隊からはぐれてしまうと、海上で迷子になったまま帰還できない爆撃機も少なくなかったのである。

ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪われると、天皇は三度目の督促をする。

「海軍機の陸戦協力はうまくいくのか、陸軍航空を出せないのか」(「実録」)と。

このガダルカナル島の苦戦を、軍部以上に気にかけていたのは昭和天皇だった。

「ひどい作戦になったではないか」(「実録」)と、感想をのべている。

珊瑚海海戦、南太平洋開戦で海軍が得た勝利も「小成」と評価はきびしい。開戦当初の勢いからすれば、アメリカの戦意を喪失させる大勝が待ち遠しかったのである。

◆日露戦争の教訓から注意を喚起するも

 

学者的な几帳面さで、歴史にも通じていた昭和天皇は、困難な時期にも軍事的な天才ぶりを見せている。海軍がガタルカナル島の米軍飛行場を、夜間艦砲射撃しようとした(天皇に上奏)さいのことだ。

「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初島八島の例あり、注意を要す」(『戦藻録』)と釘を刺したのだ。

日露戦争の旅順閉塞戦のとき、戦艦の初瀬と八島が機雷によって沈没した、ある意味では貴重な戦訓を、海軍の永野修身軍令部総長に伝えたのである。

この天皇の警告は、的中してしまった。海軍にとって二度目の艦砲射撃(一度目は戦艦金剛と榛名)だったが、同じような航路をとってガタルカナルに接近した戦艦比叡と霧島は、待ち構えていたアメリカ軍の新鋭戦艦のレーダー砲撃の餌食となったのだ。夜間攻撃であれば、いちど成功した航路をたどりやすい。アメリカは用意周到にこれを狙い、昭和天皇も歴史に学ぶ者にしかない直感で、危機を感じ取っていたことになる。

昭和17年6月には、ガタルカナル島攻防(撤退)とならんで太平洋戦争のターニングポイントになるミッドウェイ海戦で、海軍も致命的な敗北を負った。

この年の12月、昭和天皇は陸海軍とも「ソロモン方面の情勢に自信を持っていないようである」「如何にして敵を屈服させるかの方途が知りたい」「大本営会議を開くべきで、このためには年末年始もない」と軍部を突き上げた。

そして実際に、12月31日に大本営会議が開かれた。ガタルカナル島撤退後、どこかで攻勢に出なければならない、という天皇の焦りが感じられる。

◆決戦をもとめる天皇

昭和18年になるとアッツ島玉砕をはじめ、アメリカ軍の反転攻勢がめざましくなる。

「どこかの正面で、米軍を叩きつけることはできぬか」(『杉山メモ』)という言葉を何度も発している。

昭和天皇の発言だけを見ていると、軍部にやる気が感じられないかのようだ。いや、軍部は戦力的な手詰まりに陥っていたのだ。太平洋上に延びきった前線では、アメリカ軍との戦いよりも、兵士たちは飢えと感染症に苦しんでいた。輸送船が潜水艦に狙われ、海軍は前線の補給のために駆逐艦を使わなければならなかった。

昭和19年の元旦には「昨日の上奏(上聞)につき」として「T(輸送船)北上につき、敵の牽制なるやも知れず『ニューブリテン』西方注意すべし」と、侍従武官を呼びつけて警告している。この年も大晦日まで、軍務にかかる上奏を受けていたことになる。

それはともかく、実際にアメリカ軍は輸送船団を陽動部隊にして、日本軍の注意をニューブリテン島に惹きつけておいて、ニューギニア北部に上陸していたのだ。昭和天皇の細かい注意力は、数千キロ離れた戦場に向けられていたのである。

 

しかし全般的に、昭和天皇の戦争指導は減退してゆく。

敵機動部隊(スプルーアンス提督が率いる15隻の空母部隊)がサイパンに近づくと、天皇はサイパン失陥で東京がB29の爆撃範囲に入ることを考え、海軍に不退転の決戦をもとめる。

「このたびの作戦は、国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」(「業務日誌」)と。

しかるに、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わる。空母3隻を喪失、艦載機400機を失ったのである。そしてサイパン島も、上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

意気消沈した天皇は、吹上御所で夜ごとにホタルの灯をながめていたという。このときこそ、昭和天皇は戦前からの持論であった「講和交渉」を始めるべきであった。

結果論で批判しているのではない。みずから語った日本海海戦に比すべき戦いに負け、サイパンが陥落したのだから、東京空襲の災禍は誰の目にもわかっていた。国家を崩壊させる総力戦の威力を、しかし天皇は徐々に知ることによって「和平」のタイミングを逸し、国民を絶望的な戦いに巻き込んでしまうのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

NHK大河ドラマ「青天を衝け」のイントロに、北大路欣也ふんする徳川家康が登場して、お茶の間の好評を博している。

第5回「栄一、揺れる」(3月14日放送)では、「今日も出てきましたよ」とあいさつし、興味ぶかいことを語った。

北大路家康は「『士農工商』、もう教科書にその言葉はありません」と語り、図版アニメの「士農工商」図は、士とその他に変形した。江戸時代に武士階級とその他しかなかった身分制度を表現したものだ。

この意外な史話解説は、ネットでも話題になったという。以下はネットニュースからだ。

SNSでは「えっ……教科書に士農工商ってもうないの!? びっくりだわ」「士農工商ってもう教科書に載ってないって徳川家康が言ってたけど、本当?」「士農工商てもう教科書に載ってないの? 北大路家康が言ってたぞ」といった驚きの声が上がったほか、「現代の教科書を知ってる徳川家康」「最新の教科書もチェックしている家康」「家康公、最近の教科書事情にもお詳しいw」などと感心していた。(ヤフーニュース 3/14 20:45配信)。

本通信でも、鹿砦社「紙の爆弾」の記事における「士農工商ルポライター稼業」(昼間たかし)をめぐって、解放同盟から「差別を助長する表現」との指摘をうけて、部落の歴史で江戸時代の身分差別について触れてきた。「紙の爆弾」2021年1月号にも「求められているのは『謝罪』ではなく『意識の変革』だ」を発表した。

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈前編〉(2020年11月12日)
◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈後編〉(2020年11月17日)

そのなかで、士農工商に触れた部分をまとめておこう。

江戸時代の文書・史料には、一般的な表記として「士農工商」はあるものの、それらはおおむね職分(職業)を巡るもので、幕府および領主の行政文書にはない。したがって、行政上の身分制度としての「士農工商」は、なかったと結論付けられる。

むしろ「四民平等」という「解放令」を発した明治政府において、「士農工商」が身分制度であったかのように布告された。すなわち江戸時代の身分制が、歴史として創出されたのである。

またいっぽうでは「解放令反対一揆」を扇動し、動員された一般民において、「士農工商」とその「身分外」の部落民に対する排撃が行なわれ、そこに近世いらいの部落差別が再生産されたのである。

上記の記事にたいして、江戸時代になかった士農工商が明治時代に「確立された」のは「納得できない」などの批判もあったが、その批判者から根拠となる史料が示されることはなかった。

教科書から「士農工商」という表現・文言が消えたのは、北大路家康が言うとおり事実である。東京書籍の「新しい社会」(小学校用)の解説(同社HP)から、長くなるが引用しておこう。

Q 以前の教科書ではよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述がなくなったことについて,理由を教えてください。

A かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし,部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて,このような実態と考えに対し,修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明「部落史研究から部落史学習へ」明治図書,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は,身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも,近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないですし,してきてはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。この見解は,先述した「農民」という表し方にも関係してきます。
 2点目は,この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが,他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に,「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが,身分上はそのような関係はなく,対等であったということです。また,近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ,先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて,「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して,新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は,もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は,「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも,古くから基本的にはこの意味で使われており,江戸時代の儒学者も職業人一般,人間一般をさす語として用いています。ただし,江戸時代になると,「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から,江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし,教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては,「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。以前は「四民」本来の意味に立ち返り,「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし,やはりわかりにくい,説明しにくいなどとのご指摘はいただいており,平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は,明治政府の一連の身分政策を総称するものですが,公式の名称ではないので,この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ,以前の教科書にあった「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ,現在の教科書の「江戸時代の身分制度は改められ,すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が,近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。  
(「四民」の語義については,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

もともと「士農工商」(律令とともに中国から伝来した概念)は、古代における士が貴族階級であり、その他に農工商の職業があるという社会像を表したものだった。士や農が上位にあり、商人が卑しいとするものでもない。

だが、儒教的かつ農本主義的な幕末の国学思想において、受容しやすいものだった。あるいは天皇を頂点とする身分制社会を再生産した明治政府において、武士が上位にあり農民がその次に尊重される社会像、工業よりも商業を下位に置く世界観が、そのまま江戸時代いらいのものとして、部分的に継承されたのである。

富国強兵殖産興業という明治政府のスローガンとは、もって異なる身分制(天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民)はしかし、一般国民に受け容れられた。差別は政策ではなく、人間の意識のなかに宿るものなのだと、歴史的に論証できる。部落差別は近代的な市民社会観が定着することにより、江戸時代よりも過酷なものとして表象されてくる。そこに水平社運動の発生する理由があったといえよう。

歴史学が社会に果たせる役割があるとすれば、興味本位の歴史のおもしろさを紹介するだけでなく、部落史研究のような社会の根源を規定する「差別」や「排外主義」の歴史的な根拠。あるいは、為政者によって意識的につくられる階級や階層、かつてはブルジョア階級、今日では「上級国民」の成立理由を明らかにしていくことであろう。評判の北大路家康は、その成果なのである。そして渋沢栄一という日本資本主義の父と呼ばれる人間像が、どのようにイデオロギーとして表象されるのか、興味をもって見守りたいものだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆本当に「国民のほとんど」がLINEを利用しているのか

SNSのLINEから個人情報が漏洩していた件で、総務省はLINEの使用を、取りやめたそうだ。ある新聞によると「国民の多くが使っている」との表現も見られるLINE。広く普及していることは認知していたが「国民のほとんど」といわれるほど、皆さんが利用していたとは少々驚いた。

けども本当に「国民のほとんど」が利用しているのか、との疑問も捨てきれない。わたしの知人のなかにはLINEを利用しているひともいるが、大半はLINE世界とはまったく接点のないひとだからだ。

SNSには主たるものだけでもFacebookやTwitter、Instagram、LINEなどがあり、この4つともを利用している方も少なくないだろう。

◆無償サービスの危険性

端的に言って、SNSは危険である。理由を述べよう。

発信を仕事や業務にしている人にとって、SNSは利用価値の高いネット上の道具であろう広告費の削減が達成できて日々発信内容の更新ができる。しかし、発信と無縁な方がこの世界に足を踏み入れると、無意識のうちに「みずからの素性や嗜好、毎日の生活を暴露する」行為に及んでしまう。聞かれもしない私生活を写真やことばで晒してしまうのだ(「個人情報保護法案」をぶっ潰すのがSNSだともいえるかもしれない)。

それぞれのSNSは、発信形態や登録者同士の通話機能、データ互換機能など特性や危険性を充分に理解して使えば、便利な側面はある。ただしそれは、ほとんどの場合、仕事や業務に限定されるといってよく、そうでない場合には危険性が高まると考えてよい。

危険性とは、それぞれのサービスがいずれも「無償」で利用できることから想像が可能だ。無償のサービスであっても利用約款は存在するはずだが、そんなものを熟読してから利用する人は、ごく少数であろう。当然ながら運営会社に利用者の情報は登録され、運営会社は利用者間の情報交換(その中には「秘密」にしておきたい内容も含まれる)を閲覧するることができる。データも保存される。

そういった認識をもって、SNS利用者は日々利用をしているだろうか。わたしはまったくSNSを利用しないので、細かい操作性を知らないし、約款も読んだことはない。初対面の人と名刺交換をすると「TwitterのアカウントやLINEはなさっていらっしゃらないのですか」とたびたび聞かれた記憶がある。その程度にSNSの利用者は浸透している証拠だろう。わたしはメールアドレスと電話番号を他人に伝えても、さらに繋がり(しがらみ)が要求されそうなSNSでの関係など持ちたくはないし、日々どころか日に何回も自分の感情や、出来事を他人様に知らしめたいと皆目思わない。

◆無償サービスであるSNS事業は本当に社会的なインフラストラクチャーなのか?

ただでも街中に監視カメラがくまなく設置され、都市部ではトイレ以外では、ほぼどこにいても監視カメラで勝手に姿を撮影される。この時代に、わざわざ考えていることや、感情の起伏を発信しなければならない理由が、わたしにはない。LINEは連絡網のような機能の利便性が高いらしく、個人から商店、企業から、はては官公庁までが利用しているそうだ。でも、利用者の皆さんは、利用約款を読んだことがおありであろうか。

個人や企業の利用は、置いておくとして、官公庁が私企業の提供する無料サービスを、かくも無防備かつ無前提に利用することに問題はないのだろうか。私企業であるから、業績が傾けば当然業務の停滞や、倒産だってあり得るし、マーケットとしての旨味がなければ、サービスの撤退だって他国では現実に起こっている。SNSではないが、みずほ銀行の度重なるトラブルを見ていれば、システムの危うさは理解されよう。無償サービスであるSNSを、社会的なインフラストラクチャーのように捉えるのは、危険すぎる。

◆「愚行」を増殖させるSNS依存症

そして何よりの落とし穴は、SNSは強度の「依存性」を帯びていることである。個人の利用者でTwitter中毒になり、生活が歪んでしまったひとを少なくない数みてきた。中には自死してしまった人もいる。人間の生育を阻害することしか頭にない文科省は、この危険なSNSを含むPCならびにネット利用教育を小学校から行うという。このような政策を「愚行」と呼ぶ。Twitter依存症になると、感情の制御ができなくなり、攻撃的言辞を容易に発信してしまう傾向がある。

必要のないかたは、SNS使用を控えることをお勧めする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27

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