「琉球の風」の頃 ── 2005年「名誉毀損」に名を借りた言論・出版弾圧から4年余り(2009年)、ついに勝機を掴み“第一の奇跡”の後、幾つかの企画に乗り出す!

松岡利康

これから適宜、これまでに私がやってきたことについて書き連ねていきたいと思います。何卒ご笑読ください。

すでに何度も申し述べていますが、2005年の弾圧後、会社は壊滅的打撃を被りました。しかし、読者の皆様方、ライターやデザイナーさん、取引先などのご支援により2009年秋、ついに勝機を掴みブレイク! 2010年には悲願の甲子園復帰を果たし、同時に「西宮ゼミ」を開始します。それを手始めに幾つかの企画に乗り出します。

ここでは、高校の同級生・東濱弘憲君(故人)が、みずからの出自を自覚し始めたライフワーク、島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」(於・熊本)について述べましょう。

東濱君は父親が沖縄・与那国島出身、戦後ほどなくして熊本に移住し、東濱君は熊本で生まれ育ちます。熊本は沖縄から疎開したり移住されてきた方が多く約30万人ともいわれ「熊本節」という島唄があるほどです。高校の3年生の時に同じクラスでした。

彼は高校卒業後、ファッション業界を志し、桑原デザイン研究所に入りますが中退、その後、職を転々とし、マグロ船にまで乗ったということです。

やがて熊本に戻りブティックを開店、その際にデパート勤務していたのを辞めさせ引っ張ってきたのが、奇縁というか私の中学の同級生だった有田正博君で、有田君はのちに、今や世界的ブランドとなったPaul Smithを初めて日本に持ってきたことで有名です。有田君については以前に少し述べていますので、ここでは省きます。

この店もすぐに頓挫、東濱君はみずからの出自を悟り沖縄料理店を開き、ここでミニライブをやっているうちに大きなイベントをやる夢を持ち、大阪で開催された「琉球フェスティバル」を観て奮起し、ようやく開始したのが「琉球の風」というわけです。彼はこれをライフワークとし、沖縄民謡のレジェンド知名定男先生を総合プロデユーサーとして開始します。詳しくは、この記録『島唄よ、風になれ!~「琉球の風」と東濱弘憲」をご一読ください。

「琉球の風」全景
「琉球の風」全景
鹿砦社の大きな看板が目立ちます
鹿砦社の大きな看板が目立ちます

第1回、2回は大赤字、満を持してBeginや宇崎龍童さんを招いた第3回になってようやく黒字化、しかし財政は安定しません。側で見てひやひやしていました。宇崎さんは、「ギャラを振り込みたいので銀行口座を教えて欲しい」と電話を入れたところ、事情を知った宇崎さんは教えてくれなかったということです。これぞ男宇崎! この話を聞いた私は宇崎さんの人間性を垣間見た気がし感激しました。

宇崎さんとネーネーズのジョイント。こんな場面は「琉球の風」ならでは
宇崎さんとネーネーズのジョイント。こんな場面は「琉球の風」ならでは
宇崎さんと
宇崎さんと

東濱君の志に感銘を受けた私は、会社も再興し資金的余裕が出来たこともあり、一枚噛むことにいたしました。広告宣伝費として毎回300万円を出し、プログラムを入れるため先着1千名に特製エコバッグを提供することにしました。今では到底できませんが、当時は太っ腹でした。

知名先生、かりゆし58の前川真吾さん
知名先生、かりゆし58の前川真吾さん
第1回から参加され続けた宮沢和史さんと
第1回から参加され続けた宮沢和史さんと

しかし東濱君はガンに侵され志途上の2012年4月24日、60歳の若さで亡くなりました。「10年は続けたい」という彼の遺言に従い、その後も続き、第10回を最後に幕を閉じました(第10回は台風のためやむなく屋内でミュージシャンと一部観客で開催)。

こんなイベントは、現実問題、もうできないでしょう。この記録も第5回までで、以後の回のものは出来ていません。残念です。いつかまた、儲け出すことがあれば、ぜひまとめて上梓できれば、と望みます。

『[特別限定保存版]島唄よ、風になれ!』
『[特別限定保存版]島唄よ、風になれ!』

Ж『[特別限定保存版]島唄よ、風になれ!~「琉球の風」と東濱弘憲』はA5判・上製240ページ、DVD付き、定価2640円(税込み)です。ぜひご購読お願いいたします。
https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000356

ЖЖ「琉球の風」の際の画像を数点掲載しておきます。もう一度でいいからまたやりたいです。

「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」 ―― 今の心境

松岡利康

すでに鹿砦社の代表交替を公表し、おおむね受け入れられたと思っています。ふと、若い頃に馴染んだ吉田拓郎のアルバムのタイトルを想起いたしました。

「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

これは広島から東京に出て自費出版した吉田拓郎のアルバム(LP)のタイトルです。「古い船」=創業57年になる鹿砦社、「古い水夫」=私松岡です。このアルバムを若き拓郎は自費出版し、次いでこの中から、私も好きな『イメージの詩』をシングルカットします。あまり知られていませんが、若き拓郎のデビュー曲です。拓郎はその後『結婚しようよ』『旅の宿』などがヒットし、これらがデビュー曲のように誤認されますが、そうではありません。

『イメージの歌』は長い曲です。拓郎の前に「フォークの神様」といわれた岡林信康の曲『それで自由になったのかい』も長い曲です。どちらも若い頃から好きな曲です。

『イメージの詩』には、
「闘い続ける人の心を誰もがわかっているのなら、闘い続ける人の心はあんなには燃えないだろう」
という歌詞があり、涙が出る想いです。

ちなみに、『イメージの詩』は拓郎の作詞・作曲ですが、初期の拓郎を支えたのは、レコード大賞受賞曲『襟裳岬』を作詞した作詞家・岡本おさみです。岡本と組んで、『襟裳岬』はじめ数々の楽曲を出します。『旅の宿』『落陽』……。思い出すなあ。

さらに、岡本おさみはネーネーズの『黄金(こがね)の花』『山河、今は遠く』(いずれも作曲は知名定男)も作詞しています。これらも私の好きな曲です。こういう話をすれば止まりません(苦笑)。
「黄金で心を捨てないで 黄金の花はいつか散る」

板倉善之監督の「Ich war, ich bin, ich werde sein!」が東京、岡山、大阪で上映決定。必見です!

尾﨑美代子

釜ヶ崎を撮った16ミリ映画「月夜釜合戦」で撮影を担当した板倉善之監督の「Ich war, ich bin, ich werde sein!」(ドイツ語で「私はかつて在り、いま在り、今後も在る」ローザ・ルクセンブルクの言葉)の上映が全国何か所かで行われます。

この作品では「月釜」監督の佐藤零郎君がインタビュー、録画を担当。2019年釜ヶ崎のあいりん総合センターが閉鎖され、それまで釜ヶ崎のあちこちでおっちゃんらを撮り続けていた板倉君と零郎君が、もうおっちゃんらを撮れなくなるのではとこれまで撮り続けたフィルムをまとめた作品。釜ヶ崎を歩き「あの人、気になるな」と目星をつけた方にインタビューを申しこみ、話を聞いたものをまとめてます。

登場した方の半分位の方を私も知っています。でもみなさんに、そんな過去や釜ヶ崎にきたいきさつがあったのかと驚かされました。三角公園などでハトを自由自在にあやつるハトおじさん、しょっちゅう見てたのに、おじさんにそんな過去があったのかと……。そのハトおじさんも、車椅子で生活しながら「野宿の方がいい」と言ってたおばちゃんも、今はもう見なくなりました。白ヘルメットの「丹下左膳」のおじさんは、どれだけ長い間野宿生活をしていたことか。いつも店の近くに台車を止めて休んでいました。今は生活保護を受けているそうで、板倉君らが会いに行ったら、見違えるほど元気になっていたといいます。本当に良かった。

この映画が山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されることが決まったのが昨年。その暮れに一夜限りの上映会がありました。 ある日、板倉君と零郎君が案内のチラシを店に持ってきました。その映画祭で上映されることがどれだけ価値あることか知らない私は「へえ、山形の映画祭に応募したのね。夕張ではなく山形の方ね」と軽くいなしました。すると2人は(はなママはわかってないな)という顔をして、「あのですね。この映画祭には世界中のドキュメンタリー映画が1500作品も集まるんです。その中から15作品が選ばれ、上映されるんですよっ」と説明。「あらま、それは凄い」、私がそう驚くと、零郎君は(もっと凄いことがあるんですよ)といわんばかりに、「本当は僕たちはこの映画をひとつ下のランクで応募したんです。しかし、それを見た審査員の方々が『これはその上のランクでいくべきだ』と1番上のインターナショナル部門に格上げしてくれたんですよっ」と言ったのです。いわば「松・竹・梅」とランクがあって、ちょっと気弱に「竹」で応募したが、審査員たちが「これは松ランクでいくべきだ」と言ってくれたということでしょうか。それもまた凄い。

昨年12月28日、大阪市九条のシネ・ヌーヴォで上映された後のトークショー。左から佐藤零郎、板倉善之、小田香(映画監督)
昨年12月28日、大阪市九条のシネ・ヌーヴォで上映された後のトークショー。左から佐藤零郎、板倉善之、小田香(映画監督)

どうぞ皆さん、この機会にぜひご覧になってください。釜ヶ崎は、映画に登場したような様々な個性を持つ人たちが、いくらでも自由に生きていける、人生をやり直せる場所でした。しかし、この間、維新の会らが進めるジェントリフィケーションによってどんどん住みにくい町に変えられようとしています。いや、すっかり変えられ、多くのおっちゃんたちは住みにくさを感じていることでしょう。どんな人でも生きていける釜ヶ崎を少しでも残したい……そんな思いで観てください。

以下、板倉監督からの案内です。
どうぞ、みなさん、お近くの会場に足を運んでください。

「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形イン東京」
※昨年ノミネートされた映画祭の関連企画です。
10月30日(土) K’s cinema(新宿)
11月11日(水) アテネ・フランセ文化センター

「岡山映画祭2026」
11月21日(土)

・大阪の劇場公開
12月19日(土) シネ・ヌーヴォ(九条)

映画のホームページも開設しました。
https://caldrons.net/ich

大阪は12月19日、これは見逃せない。シネヌーヴォでお会いしましょう。

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

ミニシアター不在の西宮にシネマカフェ開業のクラウドファンディングにご支援を!

鹿砦社代表 松岡利康

長年西宮ゼミはじめいろいろなイベントでお世話になって来たカフェ・インティライミ(昨年7・12『紙の爆弾』創刊20周年 鹿砦社反転攻勢の集いでも使わせていただきました)にシネマカフェを併設するということです。

ご支援の方法は「ピッコロエビス」で検索してください。
https://camp-fire.jp/projects/971918/view

クラファンをやるとは聞いていましたが、すでに開始されていて、9月27日が締め切りということです。うっかりしていましたが、何卒1口乗ってください! 私も支援し、いろいろ企画したいと思っています。硬軟織り交ぜ上映したい映画が多数あります。

学生の頃は、太秦にエキストラのバイトにも何度もいきましたし、学館や京一会館(廃館)でさんざん好きな映画を観ました。そんな懐かしい映画上映を企画したいと思っています。私が企画するので、どんな作品か、皆様方には大体想像がつくと思います(苦笑)。

ちなみに、インティライミオーナーの近兼拓史さんは、かつて阪神大震災後、地域FМをやっていて、鹿砦社から『FMラルース999日の奇跡~ボランティアが作ったラジオ局』を刊行、現在は丹波市でヤクザの事務所の跡地に行政の協力を得てミニシアターを営業されています。そのノウハウをインティライミにシネマカフェを併設するというプロジェクトです。

熱く、暑く、和まされ、励まされ、反原発の思いをさらに強固にした「福島支援ライブ」へのお礼

尾﨑美代子

8月29日、集い処はなでの「福島支援ライブ」、たくさんの方にお集まり頂きました。ありがとうございました。

ライブの投げ銭は、9月2日判決が言い渡される原発賠償関西訴訟原告団にカンパさせて頂きました。カンパ合計は46,000円、出演者のヒデヨヴィッチ上杉さんが自身の物販(Tシャツ、CD)の売上の3割3,000円をカンパに入れて下さいまして、計49,000円、エイッもう一押しとはなままが1000円足して50,000円を関係者の方にお渡ししてきました。

それにしても熱く、暑く、和まされ、励まされ、怒りの声と拳を共にあげ、笑いも涙もゴチャまぜにし(顔クシャクシャの方、多め)、反原発の思いを更に強固にしたひとときでした。私はライブ中もバタバタ動き、写真はほとんど撮れませんでしたが、1枚だけ撮ったのはアカリトバリの曲に一曲目から涙する今野さん、ちなみにその2人後ろでもグズグズ泣く菅野みずえさんが。

カオリンズ、アカリトバリ、ヒデヨヴィッチ上杉さん、HANAMAMA(私)が歌い、そのあと福島から来阪された今野寿美雄さんのトークショーを予定していました。さて、どんな感じにしようか考えてましたが、

朝店で200円料理の準備をしながら、「そうだ!今野さんのトークは菅野さんとの掛け合いでやって貰おう」とひらめき、ムチャ振りしたもの。大成功でしたかね。

最後に今野さんと皆さんで「大空と大地の中で」(松山千春)を合唱しました。この曲は2021年今野さんの浪江町の家が解体された際に撮られた動画「9年目の津波」で歌われた曲です。松山千春さんから使用許可は取得しています。曲のエンディングコーラスを全世界から募集し、多くの方々と歌われた思い出の曲です。

3・11から10年目、カンパが減り財政的に厳しくなったとの理由で反原発活動を休止しますといったある大きな反原発団体がありましたね。凄いですね。金(カンパ)が減ったら活動出来ないのですか。カンパ(資金)は何かをして作るものですよ。釜ヶ崎や山谷で昔から言われたスローガンがあります。「金のある人は金を!知恵のある人は知恵を!そして力のある人は力を!」。歌える人は歌を、料理作れる人は料理を、運べる人は運び、暑い表に立ち続け売ってくれる人、歌に手拍子いれたり、踊ってくれる人、「ここ座って」と席を譲ってくれる人……いろんな人がいて、最終的にカンパが集まり、それが誰かさんたちの活動を助けることに繋がればとやっています。それが大事。まだまだ反原発運動は負けてないで!もっともっと活動しないといけないで!

また集いましょう!!

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

「6.23」難波屋ライブで、私が話したこと。

尾﨑美代子

いくつかの重要なミッションが終わりつつあるので、少し前のことだが、6.23、あの日のことを書いておく。

正月明けから問題になっている「2秒の視線」問題に関連して6月23日大阪の難波屋で「反戦ライブ」──6.23沖縄戦犠牲者慰霊の日に沖縄の声に耳を傾け、1.31声明、4.3声明に抗するライブをする宣言──というライブが開催された。宮城善光さん、Swingmasaさんらが演奏し、その間に何人かがアピールした。私も、自分は沖縄や辺野古の活動には直接関わってないので躊躇していた。しかし、「2秒の視線」問題については、直接は関わってないが、非常に関心をもってみてきたので、結果、ライブで発言させてもらった。その内容をかいつまんで書いておく。

2026年6月23日大阪の難波屋で開かれた6.23反戦ライブ

その少し前、一連の問題の中で、どなたかがこんな発言をしていた。「本土の支援の方が手作りのゼッケンも持ってきてくれたら、着てみなければならない。歌を歌ってくれれば手拍子のひとつもしないといけない」と。それがずっと頭にこびりついていた。

本人がよかれと思ってやっていることが、現場で闘う人たちにはどううつるのか。負担になることもあるかもしれない。実はそんな体験を私はしていた。

80年代初め東京の日雇い労働者の街・山谷に支援に入っていた時だ。あれは越冬闘争のときだ。私たちの組織は2班に分かれ、24時間体制で入っていた。前日朝8時に越冬闘争会場の玉姫公園に入ったら、翌日の8時までいて、第2班と交代する。公園の活動は朝食準備、片づけ、掃除、相談業務、公園から争議へ、夕食準備、片づけ、ワッショイデモ等々、一日中忙しかった。

24時間体制とはいえ、支援には夜組合事務所などに寝る場所が確保されていた。そんななか、「なぜ支援者だけ暖かい場所で寝るんだ。労働者と行動を共にすべき」と考えた私は「今日は労働者とここで野宿しますわ」と宣言。労働者がいる焚火の間に入らせて貰った。しばらく話していたが、睡魔が襲ってきて、敷かれていた段ボールに横になったらすぐに寝込んだ。翌日は朝食の準備のため5時頃には起きたのではないか。すると、私が寝ていたダンボールを囲んでいた数人の労働者が口々にいうのだ。「ねえちゃん、寒くなかったか」「よう、寝てたわ。疲れてたんやな」と……。私は何をやっていたんだ。

時が過ぎ、釜ヶ崎で似たことがおこった。2019年、釜ヶ崎で労働者や野宿者が寄り所にしているセンターが3月末で閉まるとなった。結局反対の声が多くて、3月末には閉まらず、最終的に暴力的に閉鎖されたのは4月24日だった。センター閉鎖により、昼間センターで安心して寝たり、夕方閉鎖後も周辺で仲間と寄り添って野宿していた人は、完全に外に放り出された。

私は米などカンパしてもらったので、毎日簡単な弁当を作り、野宿者に配った。1日せいぜい10数個の弁当。センターの北側、JR新今宮駅を降りて横断歩道渡ってすぐの場所に、知ってる人が野宿していた。数年前まで仕事に行っていて、私の店にもときおり寄ってくれた人。相手も気づかれたら嫌だろうと思い、最初は彼がいないときや寝ている時に、こっそり枕元に弁当を置いてきた。

ある日、気が付いていた彼が「ママ、ありがとね」というので、翌日からは普通に置いてくるようになった。彼は年上の知り合いと二人で野宿していた。ある日、相方の彼が「ママさん、俺も羽振りが良かったとき、ママさんの店に数回行ったことあるんやで」というので、その後は二人とよく話すようになった。

センター閉鎖後、京都や福井から、いろんな人が現場を見に来てカンパなどを寄せてくれた。そんななか、当時のTwitter(現在のⅹ)でフォロワー数が多い著名な外国に住む日本人女性が来日し、釜ヶ崎にも来たいと連絡してきた。

その日、私は彼女に、新今宮駅を降りて横断歩道を渡ったところで待っていると告げた。そう、あの2人が野宿している場所だ。彼女は少し遅れて、約束のその場所に来た。と思ったら、すぐに野宿する2人にかけより2人の間に入り込んだ。

皆さん、ご存じだろうか。野宿する人のタイプはいろいろだ。簡単なテントを作る人、地べたに段ボール敷き、その上に野宿する人、どこかからもってきた簡易ベッドで野宿する人……。しかし、その2人は、山積みのゴミの上(とはいえ、そのごみは段ボールだったり、漫画本だったり、衣類だったりする)の間で野宿していたのだ。彼女は2人の間に座り込み、誰かに渡すつもりで持ってきた缶ビールを渡し「イエーイ」とピースサインをしてみせた。缶ビールをもらった2人も彼女に習ってピースサインをした。彼女はその写真を自撮りで撮った。

私は、彼女とはほとんど話もせずに別れた。翌日彼女のTwitterを見たらサムネが2人の野宿者と彼女がピースする写真だった。私は確か彼女に「その写真アップしていいの?」と聞いたと思う。彼女の答えは「おじさんが出していいと言ったから」だった気がする。

翌日の彼女のTwitterにはこんな告知があった。「帰国する前に東京に寄るのでオフ会をしたいと思います。参加できる方、DM下さい」。帰国前のオフ会で、彼女は会った方々にこんな話をしたのではないか。「今回日本にきて釜ヶ崎にも行きました。ええ、野宿しているおっちゃんたちとも仲良くすることができました。その証拠がこの写真です。いえい」とか?

私はあの日、越冬闘争が闘われている玉姫公園で、労働者と一緒に焚火の周囲で野宿した話は、その後一回も人に話した覚えはない。以上、6・23難波屋ライブで発言させてもらったことです。

「本土の人が手作りゼッケンもってきてくれたら、着けてみなくてはならない」「歌を歌ってくれたら、手拍子でもしなければならない」。どなたかのあの言葉が忘れられない。

良かれと思ってやったことが相手の負担になったり、運動の妨げになることがある。もっと言えば、良かれと思ってやっている「フリ」をして、じつは活動家、人権派、正義の味方の貴方を輝かせる、目立たせる「ダシ」に使ってはいないか。弱い立場の人たちに寄り添うというとき、私たちはそのことを忘れてはいけない。

写真は以前daysjapanで取り上げられていた、どこかアジアの貧しい国でゴミ処理をする子どもたちをスタディツアーで訪れた日本の学生が一緒に撮った写真。ツアー代金が子どもたちのためになるから、子どもたちもバカ学生と共にポーズを取る。取らざるを得ない。

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
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「戦争トラウマ」を描いた映画『父と家族とわたしのこと』

尾﨑美代子

3月28日(土)、十三の七芸で上映が始まった『父と家族とわたしのこと』を観てきました。父や祖父が戦争で見ず知らずの罪もない人たちを殺害しなければならないという、過酷な戦闘現場で精神をやられ、復員後アルコール中毒や家族への暴力などさまざまな形ででてくる「戦争トラウマ」を描いた映画。

映画には、藤岡美千代さん、市原和彦さん、佐藤ゆなさん(仮名)という3人の方が登場する。藤岡さん、市原さんはお父さんに、30代の佐藤さんは、祖父の虐待を受けた実の母親に「支配」で複雑性PTSDを抱えている。

実は私は藤岡さんのパートナーさんは知っていたが藤岡さんとは会ったことがなかった。でもフェイスブックではいつも笑ってるイメージだった。そのフェイスブックで藤岡さんが復員兵のお父さんから受けた暴力で苦しめられてきたこと、そのお父さんが亡くなった時、思わず「万歳!」したことを知った。戦争トラウマは、「野火」や「ほかげ」など戦争作品を撮った塚本晋也監督の作品でも触れられている。しかし、現実がこんなにむごいとは……。

ネタバレになるのでここいらで止めておく。実は私は藤岡さんのそんな話を聞きたくて、一度私の店で話してもらったことがあるし、「ルポ 戦争トラウマ」も読ませてもらった。しかし、映画になるとまた違った迫力があった。

藤岡美千代さんと島田監督。美千代さん、お父さんの写真と共に登壇

市原さん、佐藤さんからもこれでもかこれでもかと辛い告白が続く。市原さんの父親は皆で旅行に行くバスの中、酒が入ると突然母親に「この淫売女!」と叫び暴行したという。佐藤さんは、母親の歪んだ「支配下」に置かれ、時には母親の性器を触らせられたりしたという。が、しかし監督は、そんな辛い当事者の告白を相手が話したいときにしか聞かなかったという。そんな優しい監督だからこそ、こんなに素晴らしい作品が撮れたのだと思う。これでもかこれでもかと辛い告白は続くが映画はこれだけでは終わらない。自分が被害者なら、加害者のことをしらなくてはならない。これは、私が冤罪だけでなく、実際にあった凶悪事件を追い続ける理由と同じだ。人間、「オギャー」と産まれたときは誰も犯罪者、殺人鬼ではなかったのだもの。彼・彼女を凶悪な犯人にさせた背景には、社会的な政治的なものがあるはず。私はそれをさぐりたいといつも思っている。

藤岡さんら3人も次の一歩として、そうしてきた。市原さんも父親の軍歴を取り寄せた。父親は満州鉄道の仕事をしていたため、日本人全員を日本へ返し、自分は最後に日本へ戻ってきた。そのため帰国がほかの人よりうんと遅かった。母親は父の生死も知らされぬなか、一時期別の男性と暮らしていた。その事実が父親の脳裏にこびりついて、酒が入るたび、母親を「淫売女」するようになったのだろう。「仕方ないですよね」。そうつぶやく市原さん。市原さんはそうして、父と住んでいた故郷を訪ねる旅にでる。

藤岡さんの故郷を訪ねる旅、更には父親が最後にいたロシアを訪ねる旅で、表情がどんどん変わっていくのがわかる。

映画終了後の島田陽磨督とのトークショーで、藤岡さんはロシアへ行った時の話をされて、帰りの汽車から見えた白樺の木々が兵士に見えたという。延々と並ぶ兵士たちのような白樺の木々を見ながら、初めて嗚咽をもらした藤岡さん、そして絞り出すように出たひとこと。それは内緒。

島田監督のお話。ロシアで訪れた小さな村、でも既に何人もの若者がウクライナで亡くなっている。僻地から戦争に駆り出される人が多い(と、聞こえたような)。島田監督は3.11後の福島を撮った「生きて、生きて、生きろ」も撮った。戦争も原発もいつも弱い者に一層矛盾を押し付ける気がする
「胡桃澤さん、来てるでしょ」と美千代さんのムチャぶりでステージに上げさせられた劇作家で精神科医の胡桃澤伸さん

この映画を一人でも多くの方に見て欲しい。世界中で痛ましい紛争が続き、毎日大量の人たちが殺されている今だからこそ、私たちは二度と戦争に加担してはならない……そんな思いを強く心に刻んで欲しい。

この映画、配給会社を入れず独自に宣伝活動をやっているとのこと。チラシ配布や自主上映などで映画を広めるお手伝いをしたい。

『父と家族とわたしのこと』https://chichito.ndn-news.co.jp/

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
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野田正彰著『過ぎし日の映え』、注文殺到! やはり腐っても朝日、影響力は大きいことを、あらためて実感!

鹿砦社代表 松岡利康

野田正彰著『過ぎし日の映え』が2月22日付けの朝日新聞の野田先生インタビュー記事の冒頭で引用され、この5日間(2・24~3・2の営業日)で200冊超の注文が殺到しています! 

本書は、著者の出身地の高知新聞に連載されたものを単行本化したものですが、地方紙のせいか、知られざる事実も多いです。特に、『夜と霧』の著者として有名なフランクルに会い、インタビューした記事内容は衝撃的でした。著者自身が驚いたそうです。「この本(『夜と霧』)では、すべてがアウシュヴィッツでの体験のように読める。ところが、私が移送の行程を順々に聞いていったとき、フランクルは、アウシュヴィッツにいたのは『3日2晩』と答えた。私は驚いて問い直したが、彼は続けて話した。」

あとは本書を読んでいただきたいが、驚いたのは野田先生だけではありません。”通説”とはまったく異なると感じました。2日間に及んだ、この「フランクルとの対話」だけでも本書の価値があります。池田香代子(新版『夜と霧』を翻訳。大学院生リンチ事件では「見ざる、言わざる、聞かざる」の姿勢を貫いた)、聞いとるか!?

もうひとつ付言しておきます。本書を読んで強い感銘を受けた、ある方は、なんと100冊お買い上げになり、友人、知人にプレゼントされました。有り難い話ですが、これほどまでに人を感銘させる本だということでしょう。

掛け値なしに一人でも多くの方に読んでいただきたい一冊です。

鹿砦社 https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000782

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315959/

3月21日(土)大阪西成 ~差別に抗う~袖すりあうも集い処はなライブ 皆さんどうぞ聴きにきてください!

尾﨑美代子

今週土曜日、3月21日となりました。~差別に抗う~袖すりあうも集い処はなライブ。今回は尼ヶ崎のオヤジ人権バンド元「ドランカーズ」のギター、ボーカル担当の中島(なかしま)敏也、通称とっしゃんと、カオリンズの夢の共演。投げ銭、要オーダーとなります。

「ドランカーズ」と出会ったのは2011年の正月、釜ヶ崎の越冬闘争のステージで演奏したドランカーズが立ち呑み屋難波屋の奥で呑んでました。そこに、私たち「はなと愉快な仲間たち」が飲みに行きました。そこにはなに時折飲みに来ていた部落解放同盟の西岡智さんが居られ、紹介されたのがドランカーズでした。呑んでるうちに意気投合し、今度一緒にライブをしようとなり、決まったのが3月12日。前日、11日もはなで練習してました。テレビでは津波被害の報道が流れてて。心配しながらも、難波屋に行くと、ちょうどテレビからは「◯◯に何百体の遺体が流れつきました」とアナウンスが…。不安なまま迎えたライブでは……

前置きが長くなりました。ドランカーズは部落出身の人と在日の人の混合バンド。中島さんには新井英一さんの「清河への道」を歌って頂く予定です。カオリンズには、4・3事件の記憶について、キム・ヒャンリことかおりちゃんが作詞した「故郷の石ころ」を歌ってもらう予定。2組の曲はぜったいに心に染み入るはず。どうぞ聴きにきてください。

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

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飯塚修三医師との出会いと西宮人物伝

鹿砦社代表 松岡利康

2年ほど前、突然に同市内で眼科医院を開いておられる飯塚修三医師からお手紙がありました。

西宮北口駅構内の書店で偶然『紙の爆弾』を見つけ、ぱらぱらとめくったら、雪印の牛肉偽装告発で有名な西宮冷蔵・水谷洋一社長の記事が掲載されているので買い、『紙爆』と鹿砦社に関心を持ち、調べられたとのことでした。飯塚医師と水谷さんとの関係については別途記事をお読みください。

数日後、先生が営む医院に伺い、いろいろ歓談させていただきました。真面目で博学な方でした。これを機に『紙の爆弾』を定期購読していただき、昨年7・12の『紙の爆弾』20周年、『季節』10周年をめぐる反転攻勢の集いにもご出席いただきました。

また、先生は西宮医師会の会報に連載を持たれており、西宮に縁のある人たちについて調べ書かれていました。西宮出身で私の大学の大先輩・藤本敏夫さん(故人)についても書かれています。

先生とその会報については、後日、あらためて申し述べたいと思いますが、今回は、7・12反転攻勢の集い・関西の記事と、西宮冷蔵・水谷洋一さんについての記事を転載させていただきます。

【追記】先に飯塚修三医師について記しましたが、飯塚医師は以前にも鹿砦社や、地元出身で私の大学寮の大先輩である藤本敏夫さん(故人)についても西宮医師会の会報に掲載されています。関心のある方はご一読ください。

◎鹿砦社 https://www.kaminobakudan.com/
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