同志社大学此春寮歌音源の完成に協力いただいたグリークラブへの募金について 此春寮OB会発起人(馬場徹、小西桂、川島繁)

鹿砦社代表 松岡利康

久しぶりに爽やかな話題を紹介します。過日の同志社大学此春寮(ししゅんりょう)の先輩・前田良典さんの著書『野の人』の刊行を予告する記事で、関連して少し同寮のことを書き記しましたが、さらもこれに関連する記事です。ぜひご一読、できればご協力お願いいたします。(松岡利康)

寮歌揮毫は書家・龍一郎

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

物語は昨年12月に小生(川島)の拙いHPを見た同志社大学グリークラブ員からの問い合わせのメールから始まる。「同志社にまつわる歌の楽譜を調べており此春寮の楽譜はありませんか」と言うものだった。作詞・作曲者は分かっているものの楽譜は誰もその所在を知らない。1977年寮史編纂の時も同窓一同に問い合わせを試みたようだが譜面に行き当たることはできなかった。又、現在寮歌は現役の此春寮生の間でもど歌い継がれていないという。

この寮歌はかつての寮母砂野文枝さん(2010年1月死去)の追悼歌でもある。今でも決まって毎年1月には彼女が眠る深草の共同墓地にOBが集まり彼女を偲び寮歌を歌っているのだ。このままでは此春寮から同志社から寮歌が消える。こんな恐れが頭をよぎる、そんな時に一通の電子メールが寄せられた。これは何かの啓示ではないかと考えた。同窓でも55才 あまりも離れた現役生からメールをもらうことなどまず考えられないこと、しかし伝統の系譜なのか Doshisya college songには、和訳すればこんな一節がある。

「親愛なる母校よ、同志社の学徒はぶどうの枝のごとくつながりゆくことだろう」
つまりこれは寮歌を復元せよということなのだと解釈する。

この思いが伝わり小西桂君が家族の協力も得て譜面を起こしてくれた。そしてこれがグリークラブの皆さんに伝わり、19名のクラブ員が此春寮のために、手弁当で力強く量感あふれる若い声で寮歌の音源を完成してくれました。“人生意気に感ず”とはこのことだろうか! 今まで誰もなしえなかったことです。私たちOBも後輩達のこのボランティア精神溢れる行為に何らかの返答をしなければならないだろう。これは通り一遍のお礼文書でことを済ますことは出来ない。

同志社グリークラブは本年創立120周年である。コロナ禍の活動自粛により19年より合唱コンクールの全国大会から遠ざかり23年春では4年生団員はゼロと危機的な状況を迎えていた。

しかし24年には見事に復活し、大学ユースの部で関西では関学を押さえて一位金賞、更に全国大会では三位金賞に輝いた。東西大学合唱演奏会、全同志社合唱祭など自身の創立120周年記念演奏会を含め多忙な活動を行っている。全国にまたがる活動がために相当な活動資金が入ることは明らかだ。

そこで此春寮OBとして、音源完成への感謝の意を込め、部活動を支える応援を下記のように提案し、皆さんの協力をお願いしたい。

文中の受賞記事の様子(同志社大学グリークラブHPより)

  1. 全国各地で行われるグリークラブの演奏会を機会があれば鑑賞する
  2. 今回の音源作成に協力いただいたグリークラブの活動を支えるため、募金を募り集まった資金は大学募金課を通じてグリークラブへ寄進

・一口以上 5,000円
・募金目標 100,000円
・募金方法郵貯銀行からの振込(6月30日締切り)
(受取人)川島繁(カワシマシゲル)
(記号)14370
(番号)94558181
(備考)此春寮
※振込手数料(5万円未満)は、窓口 203円 ATM 152円

同志社大学グリークラブHP
http://www.gleeclub.jp/index.html

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此春寮 寮歌
金田義国 作詞
西田晃 作曲

1)遍く地より 集い来て
神を見上ぐる 若人の
その意気高く 谺せん
ああ 我が同志社 此春寮

2)互いに努め いそしみて
友と交わり 喜びの
心に満ちて 進みゆかん
ああ 我が同志社 此春寮

3)憂い苦しみ 分かち合い
共にいたわり 祈りつく
正しく強く 生き抜かん
ああ 我が同志社 此春寮

《6月のことば》真理がわれらを自由にする

鹿砦社代表 松岡利康

《6月のことば》真理がわれらを自由にする(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

今月の言葉は「真理がわれらを自由にする」だ。

この言葉は、知る人ぞ知るで、国立国会図書館の目立つ所に貼られている有名な言葉である。

浅学の徒である私はこの言葉を知らなかった。知ったのは、加藤一夫著『記憶装置の解体──国立国会図書館の原点』(1989年。品切れ)を出版した時だ。この頃、著者は国会図書館に勤めておられた。何で知り合ったのかは定かではないが、おそらく加藤さんが翻訳された第二期トロツキー選集『革命はいかに武装されたか』に関心を持ち連絡したことからだったと微かに記憶にある。学生時代に革命家トロツキーに関心を持ち、ロシア革命の見直しの連続講座も持ったので、この関連からだったかな。上京するたびに国会図書館に立ち寄り歓談させていただいた。そのうち著書にまとめようという話になったのではないか……。

本書刊行は1989年というから出版を専業としてまだ5年ほどしか経っていなかった。A5判350ページの、けっこう大部の本になり、途中弱音を吐いたが、著者に叱責され、また出版界の先輩には激励され、出版に漕ぎつけることができた。

著者は1960年代後半の激動の時代に大学に身を置き闘いながら、70年代に入り大学を離れ国立国会図書館に入った。その、いわば中間総括の書である。今紐解いても意義ある本で輝きを失ってはいない。

ところで、「真理がわれらを自由にする」とはどういう経緯で国会図書館に貼られているのだろうか? 次の解説が一番的確なので、長いが引用し説明に替える。──

《東京・永田町にある国立国会図書館は、昭和23年(1948年)設立された日本で唯一の国立図書館として、国会だけでなく広く日本国民に開かれた図書館だ。
 図書館の利用者は、昭和36年(1961年)開館されたここ東京本館の目録ホールにある図書カウンター上部に刻まれた「真理がわれらを自由にする」という日本語と、その傍らのギリシャ語銘文を自然と目にすることになるが、この言葉が国立国会図書館法の前文として明記され、図書館の精神として66年もの間生き続けていることはそれほど知られていない。
 昭和23年(1948年)起案された国立国会図書館法の前文には、法案の起案に参画した歴史家で当時の参議院図書館運営委員長であった羽仁五郎氏がドイツ留学中にフライブルグ大学図書館で目にした銘文をもとに、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」と記されており、このフライブルグ大学図書館の銘文は新約聖書・ヨハネによる福音書の一文「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」に由来するものとされている。》(永田純子「真理がわれらを自由にする」:国立国会図書館に生きるギリシャの精神)

(松岡利康)

《4月のことば》凡事徹底 鹿砦社代表 松岡利康

《4月のことば》凡事徹底(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

「凡事徹底」── いい言葉です。小さなことや当たり前のことを徹底的にやることによって見えてくるものがあるという意味ですが、なかなかできそうでできるものではありません。四字熟語は中国から由来するものが多いということですが、これは最近(といっても、20、30年前ですが)日本で誕生したとされます。通説では、イエローハット社の創業者・鍵山秀三郎氏が作ったといわれています。プロ野球の野村克也やラミネスがよく使ったといわkれます。「凡事徹底」というタイトルの書籍もあります。

当社も1995年に「日々決戦」「一日一生」「一所懸命」などと共に社是に定めましたが、なにか精神的な訓示を上から押し付け、説教臭く思われたのか、あまり歓迎されませんでした。

とはいえ、環境が苦しい時にこそ、基本に立ち返り「凡事」を「徹底」して「一所懸命」にやることが大事で、そして、そこにまた見えてくるものがあるということでしょう。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 「4・5鹿砦社反転攻勢の集い」で流れを変えよう!

このかん再三申し述べさせていただいているように、新型コロナ襲来以来、引き起こされた鹿砦社の苦境を寄稿者、読者の皆様方と共に突破し、流れを変えようと、4月5日、反転攻勢の集いを開催することになりました。『紙の爆弾』の寄稿者を中心に、ちょっと声を掛けたところ、またたくまに30人ほどの発起人が集まってくださいました。

また、ご支援のカンパ、ご祝儀も日々お寄せいただいています。有り難いことです。もう4日後になりますが、日々、緊張感がみなぎってきています。

この20年間、いろいろなことがありました。なんと言っても『紙爆』創刊直後の私の逮捕―勾留で会社が壊滅的打撃を被ったことでしょう。囚われの身、それも接見禁止で、面会も手紙も、弁護士以外にはできなく、動こうにも動けなくて、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」という心境でした。今は、会社の情況が苦しくても、電話もできるし動き回れます。これだけでも大きな違いです。

詳しいことは4月7日発売の『紙爆』(20周年記念号)5月号に記述してありますので、ぜひ購読いただきご一読ください。

4月5日の集いのご報告は、「デジタル鹿砦社通信」、『紙爆』6月号(5月7日発売)などで行います。

(松岡利康)

《2月のことば》敗北における勝利 鹿砦社代表 松岡利康

《2月のことば》敗北における勝利(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

もう半世紀余りも前のことになるが、1972年2月1日、学生運動も最盛期から後退期に入る時期、前年から全国の大学で学費値上げが発表され、これに抗議する学生によって反対闘争が盛り上がっていた。

学生運動が後退期に入るのを見計らったかのような時期だった。

例えば関西大学もバリケードストライキに入っていたが、前年12月、革マル派が、対立する中核派の活動家を急襲し2人が殺された。こんな有り様なので、反対運動は自然消滅した。年を越したのは私のいた大学と、あと数えるばかりだったと記憶する。

私たちは、断固として身を挺し学費値上げを阻止せんと徹底抗戦し学費値上げ阻止の意志表示をした。

百数十名の無差別検挙で40数名逮捕、10名が起訴された。裁判は数年を費やしたが、結果は1人が無罪、あと9名は微罪だった。

学費値上げはなされ、阻止できなかった。──

値上げを阻止できなかったという意味では、私たちの敗北である。

しかし、その敗北は決して無駄ではなかったし無意味でもなかったと今でも思っている。長い人生には勝ちもあれば負けもある。

敗北の中にも、自分なりになんらかの意味を汲み取り、後の人生に活かせればいいんじゃないか ──

〈敗北における勝利〉── いつこの言葉を知ったか記憶が定かではないが、私たちの世代には馴染みが深い、アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝の中にあった言葉ではないかと微かに覚えている(違っているかもしれないが)。ドイッチャーのトロツキー伝は三部作の大部の本で、人に貸したまま手元にはない(この言葉の由来を知りたいということもあるが、無性に再読したくなり古書市場で見つけ注文したところだ。高価だと思っていたところ3冊で3000円! そういえば、正月休みに街に出たら古書展をやっていて、吉本隆明の本が1冊500円、3冊も買ってしまった。われらが青春の隆明が1冊500円とは。  

あれから半世紀余りが経った。あっというまだったな。敗北だらけの人生で満身創痍だが、その敗北を教訓化して、果たして勝利への途は見つかったのか――。

【追記】

上記した、古書市場で注文したアイザック・ドイッチャー著トロツキ伝第3巻『追放された預言者・トロツキー』が届いた。早速紐解くと、記憶通り、その末尾に「六 後書 敗北における勝利」とあった。なんともいえない感動!

青春時代のほろ苦い体験が脳裏に過(よぎ)る。──

そのほろ苦い体験とは、同じ大学の先輩の詩人の次のようなものだ。

「不世出の革命家に興味を持った一人の貧乏学生は ひどく暗い京都の下宿で汗のふとんにくるまりながら やたらに赤線をひっぱっていた ついには革命的情熱とやらの蜘蛛の巣のような赤線にひっかかり くるしんでいる夢をみた ほそい肉体をおしながら漆黒の海流 亡命舟は灯を求めて盲目の舟首を軋ませつづけた」(清水昶「トロツキーの家」)

『LGBT問題 混乱と対立を超えるために』女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著 定価990円(税込み)

『紙の爆弾』創刊20周年の2025年、メディア総体が腐朽化する中で、『紙の爆弾』と鹿砦社の役割は重大! 皆様のご支援で年末危機突破! コロナによってもたらされた低迷を打破し再復活を勝ち取り、共に『紙の爆弾』創刊20周年を迎えましょう!  鹿砦社代表 松岡利康

定期購読・会員拡大、鹿砦社出版物の積極的購読で圧倒的なご支援を!
2025年年頭にあたって

皆様、新年明けましておめでとうございます。

2025年が始動しました! 本年は4月7日に本誌『紙の爆弾』が創刊20周年を迎えます。また、7月12日には、『紙の爆弾』創刊直後に検察権力によってなされた、「名誉毀損」に名を借りた言論・出版弾圧からも20年となります。これらについて詳細は別の機会に譲るとして、ここでは触れません。

さらに本年は、1月17日に鹿砦社本社の在る兵庫県一帯を襲い小社も(わずかですが)被災した阪神淡路大震災から30年、ベトナム戦争終結50年、敗戦から80年を迎え、社会的、歴史的にも節目の年となります。

こうした中、出版・メディアをめぐる情況は、全部とは言わないまでも多くが権力のポチとなったり腐朽化していき真実が報じられなくなってきています。

わが『紙の爆弾』はミニメディアではありますが、弾圧に屈せず、一貫として愚直に<タブーなき言論>を信条として20年近くせっせせっせと一号一号発行を積み重ねてまいりました。

この間、「名誉毀損」弾圧事件で壊滅打撃を被りつつも、皆様方のご支援で奇跡の復活を遂げることができました。しかし、いいことは長く続かないのか、新型コロナという魔物によって再び地べたに叩きつけられました。

それでも読者の皆様方は見棄てずご支援を続け、青色吐息ながら命脈を保ってきています。

この20年近くの間に、『紙の爆弾』『季節』の定期購読・会員が総計で1千名余りとなりました。この皆様方が中心になって、定期購読・会員の更なる拡大、書籍・雑誌の積極的購読、あるいはまとめ買い(1万円以上)を行っていただくだけで、かなり資金繰りは楽になります。

一昨年(2023年)は一時はコロナ前の水準に回復しましたが、昨年(2024年)に入りドツボに嵌ってしまいました。油断や見通しの誤認などがあったことは否定しません。

毀誉褒貶はありますが、この30年間、鹿砦社の、いわば〝ビジネスモデル〟として芸能(スキャンダル)本を出し続けて、この利益で硬派の社会問題書や『紙の爆弾』『季節』の赤字を埋め、これらを出し続けてきました。『紙の爆弾』はようやく利益が出るようになりましたが、とはいってもこれで人ひとりの人件費が出るほどでもありません。ちょっと黒字といったところです。

しかし、私たちの出版社は芸能出版社ではなく、本丸の勝負所は社会問題書です。そうでないと単なる、どこにでもある柔な芸能出版社になってしまいますから。

ところが、この‟ビジネスモデル”が壊れたのは、コロナ禍を機に最近のことです。儲け頭となっていた芸能本が売れなくなりました。何としても他に‟鉱脈”を発掘しなければなりません。それは何処にあるのでしょうか? 皆様方のアイディアや企画、ご意見を募ります。

このかん、「身を切る改革」ではありませんが、いつのまにか肥大化していた会社の態勢もスリム化し、経費圧縮も最大限行いました。お引き受けいただいた社債は総額2千万円に達しました。コロナ前、鹿砦社創業50周年を機に私松岡は後進に道を譲るつもりでしたが、すぐに新型コロナ襲撃(まさに襲撃という表現が正しい)、これにより、これだけの社債、さらには会員や定期購読などでご支援いただく方々が多くおられ、現状がコロナ前の状態に正常化し、社債の償還が解決するまでは無責任に身を引くわけにはいかなくなりました。若手の後継者・中川志大と二人三脚で頑張ります! 中川には無垢の状態で引き継ぐことができなく申し訳なく忸怩たる想いですが……。

2019年の鹿砦社創業50周年を東京と地元西宮で多くの皆様方にお集まりいただき祝っていただいてから新型コロナ襲撃、そして以来この5年間は、正直大変でした。今もまだ大変な情況は続いています。それは私たちの業界・出版界でもそうで、店閉まいした書店さんも多いです。出版社も、一部を除き大変な情況です(特に中小零細出版社は)。

しかし、私(たち)は諦めません。もう一度復活したい、いや復活するぞとの決意で、年の瀬をやり繰りし新年を迎えました。私たちの出版社・鹿砦社、あるいは『紙の爆弾』『季節』には、社会的にもなすべき仕事がまだまだ多くあります。例えばジャニーズ問題、一昨年英国BBC放送が世界に向けて告発放映したことをきっかけに大きな社会問題になりましたが、この後、日本の大手メディアも追随しましたが、一体それまで何をやっていたのでしょうか。

私たちは大手メディアには無視されつつ「イエロージャーナリズム」と揶揄、蔑視されながらも1995年以来四半世紀余りも細々ながら告発本を出し続け、BBCにも事前に資料提供など協力し、これが実を結んだといえるでしょう。こういうこともありますので、あながち「イエロージャーナリズム」も馬鹿にできません。こういった意味では『紙の爆弾』も「イエロージャーナリズム」の権化といえるでしょうが、こういうメディアは他にありませんので、この意味だけでも存在価値があるでしょう。

また、私たちは以前から、「たとえ便所紙を使ってでも」発行を続けると言い続けてきました。「便所紙」とは、昔々、日本がまださほど裕福ではなく、良質なトイレットペーパーがなかった時代、尻拭き紙として安価な紙を使っていたものを揶揄した言葉です。今では死語かもしれませんが、私たちの決意を表す言葉として使ってきました。これは今でもなんら変わりはありません。

新年を迎え、苦難の中、本年一発目の『紙の爆弾』をお届けするにあたり私松岡の個人的な想いを書き連ねさせていただきました。厳しい経営環境は、決して恥ずべきことでもなく、これを明らかにし、この一年必死で頑張り、来年の年初にはもっと明るいご報告ができるように努めます。

具体的には『紙の爆弾』『季節』の定期購読を1千人→2千人へ倍増、会員も倍増を目指します。そうして、従来の方々に加え新規の定期購読、会員の方々が‟最大のスポンサー”として鹿砦社の出版物の積極的直接購読を促進し、会社の売上や資金繰りに貢献いただきたく強く希望いたします。

本年も旧に倍するご支援、叱咤激励をお願い申し上げます。

株式会社鹿砦社代表 松岡利康

人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける(揮毫:龍一郎)
人生に夢や希望を持つ者は誇り高く生きてゆける(揮毫:龍一郎)
https://www.kaminobakudan.com/
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2025年2月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年冬号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年冬号

《11月のことば》限界突破 あきらめたらそこでおしまい 鹿砦社代表 松岡利康

《11月のことば》限界突破 あきらめたらそこでおしまい(鹿砦社カレンダー2024より。龍一郎揮毫)

速いもので、今年もあと2ヵ月となりました。
新型コロナ襲来によって、それまで左団扇状態だった雰囲気は暗転しました。
何度も「限界」を感じました。

「あきらめたらそこでおしまい」──

「限界」を「突破」するために皆様のお力を借りて「歯を食いしばって」頑張ってきました。
「限界」に次ぐ「限界」で「あきらめ」かけたりもしました。
コロナで似たような経験をされた方も少なくないでしょう。
しかし、「あきらめ」なければ、浮かぶ瀬は必ずあるものと信じています。

20年近く前の出来事、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧でも打ちのめされ「限界」を感じましたが、運良く「突破」できました。
奇跡としか言いようがありません。出版業界ではそういわれているそうです。

「限界」は「突破」でき、奇跡は起きると信じたい。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年11月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか

『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著

《10月のことば》絆 あなたとここにいることがなによりすばらしい 鹿砦社代表 松岡利康

《10月のことば》絆 あなたとここにいることが なによりすばらしい(鹿砦社カレンダー2024より。龍一郎揮毫)

ようやく暑さも和らいで来ました。
もうすぐ秋風が吹き木枯しの季節となるのでしょうか ──

もうこの仕事に本格的に関わり始めて40年になります。
大学を出て10年、出版とは全く関係のないサラリーマンをやりました。
毎日、大阪御堂筋のビルの7階から四季の移ろいを眺めながら過ごしました。

会社を整理するというので、それまでに同人誌のようなものや資料集を出したりはしていましたが、他に仕事を探すこともなく、わずかな退職金を元手に出版を生業にすることにしました。

若かったな。すでに子どももいたし、今だったら踏み止まっていたでしょうね。
他人より10年遅れて出発しましたが、これまで多くの方々に迷惑をかけたり助けてもらったりして〈絆〉をこしらえてきました。
大学関係の先輩・後輩、多かれ少なかれ学生運動や社会運動に関わった人たちなどが多いです。

決して一人でやって来れたわけではありませんでした。むしろ助けてくれる方がいたからこそ、生来鈍愚な私でもここまでやって来れたと思っています。

自分で望んだわけではありませんでしたが、これまで他人よりは起伏のある人生でした。

特に2005年、『紙の爆弾』創刊直後の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧は「人質司法」による長期勾留を強いられ正直きつかったです。

これまでこの通信でも何度も述べているので繰り返しませんが、これを皆様方との〈絆〉で乗り越えれたことは大きいです。誰もが「松岡も鹿砦社も終わりだろう」とささやいでいたということですが、人の運命というのはわからないものです。その前の阪神大震災でも、「松岡も鹿砦社も終わりだろう」と東京ではささやかれたそうですが、自分で言うのも僭越ですが、我ながらしぶといです。

その後、奇跡ともいうべき復活を遂げることができ、これでこのまま後の世代にバトンタッチをしようと思っていたところ新型コロナ来襲で、またペシャンコにされようとしました。

ところが、ここでも皆様方との〈絆〉で生き残っています。思い返せば、20年、30年、40年と、付き合いの長い方が多いです。これで知らず知らず〈絆〉が出来たのだと思っています。

そう、「あなたとここにいることがすばらしい」ということです。

これからもいつまでも「あなたとここにいること」、そしてもっともっと強い〈絆〉で『紙の爆弾』『季節』を継続させ鹿砦社を継続させていければと願っています。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年10月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか

『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会=編著

《9月のことば》疲れたら眠る 鹿砦社代表 松岡利康

《9月のことば》疲れたら眠る(鹿砦社カレンダー2024より。龍一郎揮毫)

9月に入りました ── 今年の夏は例年にない記録的猛暑でした。
まだしばらく残暑が続くようです。
そろそろ疲れが出てくる時期です。

また、世事の悩みもままあります。
そんな時には、くよくよ考えずに思い切って眠りましょう! 
なにか妙案が出てくるかもしれません。

Tomorrow is another day. 
(明日は明日の風が吹く)

猛暑もあってひいひい言ってる間に今年も3分の2が過ぎてしまいました。
月日の経つのは本当に速いものです。

今年残り3分の1を全力疾走するしかありません!
なかなか厳しい状況が続きますが、なんとしても、幾度目かの“奇跡の復活”を遂げなければなりません。

いつまでも鹿砦社と共に歩んでいただきたく願います。

(松岡利康)

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか


◎『季節』創刊10周年特別企画『脱(反)原発のための季節セレクション』(仮)
出版のためのクラウドファンディングご支援のお願い

https://readyfor.jp/projects/kisetu_nonukes
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0DB1GZ5CM/
◎鹿砦社 https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000748

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2024年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録 2024年8月15日 鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。一昨年亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

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戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2024年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉 鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

鎮魂(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。


◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない
だけど 野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
戦さで死んだ 悲しい父さん
私は あなたの娘です
20年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていてください 遙かな父さん
いわし雲飛ぶ 空の下
戦さ知らずに 20歳になって
嫁いで母に 母になるの
野に咲く花の 名前は知らない
だけど 野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】


◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

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