武家の傀儡から天皇制国家の元首へ、そしてアメリカ民主主義のもとでの象徴天皇制。さらにはアイドル化路線による、国民的な融合性の浸透と、変化をとげてきた。ここに天皇制の可変性がある。

すこし、歴史的解説をしておこう。

さかのぼれば古代においては奈良王朝という、近世の絶対権力に近い強権を振るったこともある。天皇制はその時代に即応した、きわめて柔軟なありかたで生き延びてきた。

天皇家が信仰する宗教においても、同様なことがいえる。古代奈良王朝は仏教を国是としてきた。平安期には上皇が出家して法皇となり、この天皇家の仏教信仰は神道と融合したものだった。鎌倉・室町・江戸期の全般をつうじて、天皇は神仏とともにあり、朝廷文化はそのまま神社仏閣・仏教美術と一体であった。

明治維新による近代において、初めて国家神道が仏教を排撃(神仏分離令による廃仏毀釈)し、天皇家は神道の祭祀を家職にすることとなった。

政治権力による宗教統制は、奈良朝の仏教令(僧尼のの国家免許化)、徳川政権のキリスト禁教(宗門改め制度)いらい、明治時代以降の近代は、きわめて厳格な宗教統制の時代だった。とくに軍事政権とむすび付くことで、その強権性は増したといえよう。

だが、柔軟な可変性があるということは、天皇家の神道祭祀が普遍的なものではないことを意味している。江戸時代までは宮中祭祀(朝儀)も神仏に対するものであって、宗廟とされる伊勢神宮にすら神宮寺が存在したのである。つまり神道は天皇家にとって、絶対的な祭祀ではないのだ。じつは太平洋戦争の敗戦後にも、改宗を具体化する試みがあった。

◆日本民主化のために天皇がキリスト教に改宗する可能性があった

 

ウィリアム・P. ウッダード『天皇と神道―GHQの宗教政策』(サイマル出版会)

事実として伝わっているのは、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーが、日本の民主化の柱として、天皇のキリスト教への改宗を検討していたことである。

プリンストン大図書館収蔵のジェームズ・フォレスタル米海軍長官(当時。後に初代国防長官)の日記によれば、マッカーサーが「天皇のキリスト教への改宗を許可することを幾分考えたが、その実現にはかなりの検討を要する」と発言したことが明記されている。

GHQ宗教課のウィリアム・ウッダード元調査官も「天皇はキリスト教徒になるのではないか」とのうわさが流れた、と回想録に書いている。

また、皇居の警護も担当していたエリオット・ソープGHQ民間情報局局長の回想録には、ローマ法王庁の駐日大使が天皇との会見を何度も要求した経緯が明らかにされている。

こうしてGHQとローマ法王庁を中心に、天皇のキリスト教改宗計画が動き始めていたが、当の昭和天皇はどう考えていたのだろうか。

◆カトリック関係者との接触

じつは昭和23年(1948)に、昭和天皇はふたつのルートからカトリック関係者に接近しているのだ。

カトリック団体聖心愛子会の聖園テレジアというドイツ生まれの修道女。慈生会のフロジャックというフランス人神父がその窓口である。

フロジャックが日本のカトリックの現状をローマ法王庁に報告する前に会い、その後はローマ法王庁から来日したスペルマン枢機卿らの一行と会っている。

さらには、側近の者に地方のキリスト教事情も調べさせている。

それに先立つ1946年9月7日の『昭和天皇実録』によると、元侍従次長の木下道雄が7月28日から8月17日まで、九州でカトリックの状況を視察して天皇に報告しているのだ。牧師の植村環から、香淳皇后とともに聖書の進講を受けてもいる。

1946年は獄中や中国から復帰した共産党員が、本格的な活動を始めた時期である。4月に日比谷公園で「幣原反動内閣打倒人民大会」を開催して7万人を集めている。翌47年には25万人の「米飯獲得人民大会(食料メーデー)」が皇居前広場で開催されている。「朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが掲げられ、デモ隊の一部が坂下門を突破して皇居に乱入している。ようするに、戦後革命が胎動を始めた時期なのである。

◆キリスト教シンパだった昭和天皇と香淳皇后

昭和天皇のキリスト教(カトリック)との接点は、皇太子時代の大正12年(1922)にさかのぼる。半年間におよぶ欧州訪問のときである。

イタリアを訪問したさいに、天皇はローマ法王ベネディクト15世と会見している。このとき法王は、日本がカトリック教会と連携することを勧めている。朝鮮の3.1運動のさいに、カトリック教徒が動かなかった事実をつたえ、かりに日本がカトリック国になっても、天皇制は影響を受けないと説いたという。

この連載でも明らかにしたとおり、太平洋戦争の講和工作を、日本はふたつのルートで行なっていた。不可侵条約を結んでいたソ連とは敗戦間近だったが、開戦以前に考えられていたのがローマ法王庁による講和だったのである。これは開戦にあたって、昭和天皇から提起されたものの、軍部には一顧だにされなかった経緯がある。

じつは、キリスト教に親しみを持っていたのは、昭和天皇だけではない。香淳皇后が戦前からキリスト教徒と親しかったのだ。多くのキリスト者が「自由主義者」として特高警察と憲兵隊に弾圧されているさなか、すなわち開戦後の昭和17(1942)年から44(同19)年にかけて、皇后はキリスト教徒の野口幽香を宮中に招き入れて、定期的に聖書の講義を受けていたのである。天皇もこれを黙認していた。

のちに正田美智子が昭和皇太子妃として入内したとき、彼女の出身大学がカトリック系であることが問題視された。皇太子妃もクリスチャンなのではないかと、もっぱら学習院女子のOG会(常磐会)から疑義が出たのである。

◆神社神道、皇室神道には中身がない

敢えていえば、神社神道には、ほとんど宗教としての教理や信心の内容がない、形式的な儀式をもって行われる祭祀である。

その衣裳や形式は素朴であって、それゆえに日本的な美意識に耐えるものがある。とはいえ、カトリックや仏教の煌びやかな美術的な世界を持たない。形式の単純さは、教理の希薄ゆえでもある。それゆえに、古神道においては仏教の菩薩道(修行)とむすび付き、あるいは補完されて生き延びてきたのだ。

神道神話の物語性は、じつに人間的・世俗的であり、そこに救いを求めるには人間臭すぎる。なにしろ、神も死んで黄泉の国へ行くのである。じっさいに、皇室宗廟の大半は寺院にある。寺院を通じてしか、極楽に行けないと歴代の天皇たちが知っていたからだ。

したがって、神道の祭祀たる昭和天皇と香淳皇后がキリスト教に心情をかさね、あるいは改宗していたとしても、何ら不思議ではないのだ。眞子内親王と佳子内親王が、そろって国際基督教大学(ICU)を選んだのも、じつは偶然ではない。そのICUは、ほかならぬマッカーサーが設立に尽力した学校であり、教職員はキリスト教徒であることが求められる。

それほどまでに、皇室神道の底は浅いのだ。ここにも、天皇制が崩壊するほころびがあると指摘しておこう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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義母に嫌われるほど目立つ、一部の国民から妬みを招くほど人気がある。それが昭和皇室のスーパースター、美智子妃であった。香淳皇后が抱いていた敵意が、美智子妃の存在が皇太子明仁を「脇役」「添え物」にするほど、彼女は皇室アイドル化路線の体現者であった。

その人気は、平成の世になってからもつづいた。いや、皇族や旧華族の一部に嫌われた昭和時代にも増して、皇后としてのその華やかな存在が重みを増し、そして叩かれたのだった。いわゆる美智子皇后バッシングである。

それは平成皇太子の結婚という、いわば慶事を前後して行なわれた一大キャンペーンだった。

●平成5(1993)年4月「吹上新御所建設ではらした美智子皇后『積年の思い』」(『週刊文春』4月15日号)
●6月「宮内庁に敢えて問う 皇太子御成婚『君が代』は何故消えたのか」(『週刊文春』6月10日号)
●6月「宮内庁記者が絶対書けない平成皇室『女の闘い』」(『週刊文春』6月17日号)
●7月「皇室の危機『菊のカーテン』の内側からの証言」(『宝島30』8月号)
●7月「『宝島30』の問題手記『皇室の危機』で宮内庁職員が初めて明かした皇室の『嘆かわしい状況』」(『週刊文春』7月22日号)
●9月「天皇訪欧費用『2億円』の中身」(『週刊新潮』1993年9月9日号)
●9月「美智子皇后が訪欧直前の記者会見で『ムッ』としたある質問」(『週刊文春』9月16日号)
●9月「美智子皇后のご希望で昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主(『週刊文春』)9月23日号)
●9月「宮内庁VS防衛庁に発展か 天皇・皇后両陛下は『自衛官の制服』お嫌い」(『週刊文春』9月30日号)

ご記憶にあるだろうか。記事に憤激した右翼団体が、発行元の出版社に街宣車で押しかけるという事態も起きたものだ。

上記の記事のうち、吹上新御所建設では、昭和天皇が愛した皇居内の自然林を伐採し、香淳皇后との「別居」を実現したというものだ。なかでも宮内庁職員の「内部告発」がリアルに暴き出す皇室の内幕は雑誌の増刷につながり、国民の関心をかった。大内糺(仮名)という人物の匿名記事である。

暴露記事の背景には、天皇の代替わりのさいに侍従や女官が総入れ替えになるので、お役御免となった人々から、過去の憤懣や内情が暴露されたものと考えられる。現役の職員からの「タレコミ」があったかもしれない。

たとえば、皇太子妃時代の美智子妃が友人を招いて、その宴が深夜にまで及ぶ。そのかん、お付きの侍従や女官たちは勤務が解けないというもの。

いわく「美智子様は宵っぱりで、午前1時、2時になってもインスタントラーメンを注文したりするので、当直職員は気を許すことができない」

あるいは「華美な生活を好み、キリスト教に親和性が高く、皇室になじまない」「パーティーなどの計画も、美智子様がウンとおっしゃらないと話が進まない」などと痛烈に批判する。

宮内庁関係者によると、昭和皇太子夫妻の宵っぱりは事実だったようで、職員たちの不満がそこに反映されているという。

◆皇后を襲った失語症

皇室記者たちによれば、「思わず首をかしげたくなる記事」だったが、いや、だからこそ皇后美智子のショックは大きかった。この「キャンペーン」で失語症になったというのだ。10月の誕生日には、以下のコメントを発表している。

「どのような批判も,自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思いますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません。今までに私の配慮が充分でなかったり,どのようなことでも,私の言葉が人を傷つけておりましたら,許して頂きたいと思います。」

このコメントが皇后への同情論として、国民にいっそうの美智子礼賛をもたらした。そしてその後は「美智子皇后の雅子妃イジメ」というキャンペーンが週刊誌を飾ることになるのだ。

その大半は、雅子妃の帯状疱疹などの体調不良にむすびつき、あたかも美智子妃が嫁いびりをしているかのような報道が相次いでいく。そして雅子妃の公務からの離脱がはじまり、平成皇太子の「雅子への人格否定」発言が飛び出すのである。

どこの家庭にもある嫁姑の確執は、ここまで見てきたとおり皇室においても変るところはない。ある意味で国民はその噂をもって、皇室に人間らしい親しみを感じ、あるいは芸能報道的な好奇心をくすぐられるのだ。

単に事件としての皇室スキャンダルではなく、ファンとしての手がとどく芸能記事なのである。そこにこそ、戦後天皇制の国民意識への下降、国民的融和性という本質があるのだ。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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年内に、劇的な「大団円」を迎えることになりそうだ。9月1日の読売新聞のスクープ、眞子内親王が年内結婚へ! である。秋篠宮家と宮内庁のリークであろう。

ついに眞子内親王と小室圭氏が、みずからの意志で結婚へとすすみ、皇室を離脱したうえでアメリカに移住するというのだ。弁護士試験への合格が前提だが、小室圭氏のニューヨークでの法律事務所への就職も決まっているという。メディアのバッシングや国民の猛反対を押し切って、ふたりの愛は「皇族スキャンダル」から「世紀の大恋愛」へと花ひらくことになりそうだ。

報道によれば、眞子内親王は一時金の財源が税金で、小室さんの母親をめぐる「金銭トラブル」への批判もあることから、受け取ることを辞退する考えを持っているという。宮内庁や政府は眞子さまの考えを踏まえ、一時金の額を減らすことや、特例で辞退することができるかどうかなどを検討するという。

※[参照記事]「眞子内親王の結婚の行方 皇室の不協和こそ、天皇制崩壊の序曲」(2021年4月13日)

4月に小室圭氏が文書(借金問題の事実関係)を発表したとき、眞子内親王がその相談に乗っていたことが、4月9日に行われた加地隆治皇嗣職大夫の会見によって明らかにされた。文書の発表が小室氏の独断ではなく、眞子内親王の意向でもあるというものだ。このことについて、苦言を呈するオピニオンは少なくなかった。

「本来ならば天皇家は民間の金銭の争いなどとは最も距離を置かねばならない立場だ。その眞子さまが、小室家と元婚約者男性のトラブルのリングに乱入し、一緒になって70代の元婚約者を追い込んだも同然だ。」(ネット報道)という指摘がなされたものだ。 

皇室制度に詳しい小田部雄次静岡福祉大学名誉教授も、眞子さまへの失望を口にした。

「国民に寄り添い、その幸せを願うはずの皇族である眞子さまが、恋人と一緒になって一般の人を相手に圧力をかけてしまったという事実は重い」

「眞子さまが、自ら望んで伝えたいと願ったとは思いたくない。仮に眞子さまが、恋人の対応は自分が主導したと伝えることで、国民が黙ると考えているのならば、それほどおごった考えは皇族としてあるまじきことです」

眞子内親王は「おごった考え」から、自分たちの危機を突破しようとしたのだろうか。そうではない。借金があるから皇族との結婚は許さないという、小室氏への不当なバッシング(低所得者差別)を回避し、ただひたすら望みを遂げたいという思いであろう。それがゆるされないのが皇族ならば、皇籍を捨ててでも結婚に突き進む。皇族も人間なのである。じつに自然な成りゆきではないか。

自民党の伊吹文明は法律論に踏み込んで、ふたりの結婚そのものに疑義をとなえた。

「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

伊吹は「皇族は日本人・人間であるが、国民ではない」と明言するのだ。それでは、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。国民の権利の源泉は、基本的人権である。

つまり人間だから、自由に生きる権利があり、それは職業の選択の自由・婚姻の自由をも包摂する。伊吹は憲法の理解を「基本的人権」ではなく「日本国と日本国民の統合の象徴」に限定してしまっているから、その矛盾を矛盾として突き出せずに、皇族は国民ではないが大和民族・日本民族だと、摩訶不思議なことを言いだすのだ。

◆皇室・皇族という「矛盾」

そしてじつに、この「矛盾」にこそ、天皇制(皇室文化と政治の結合)が崩壊する根拠がある。ふつうの人間に「皇族」という型を押しつける「矛盾」は、あまりにも無理がありすぎる。したがって、小田部雄次の言う「皇族としてあるまじきこと」を、かれら彼女らはしばしばするのだ。

皇籍離脱を口にしたのは、眞子内親王だけではない。

三笠宮寛仁(ともひと)親王は、アルコール依存による酒乱、別居、母娘の疎遠など、いわば一般庶民の家庭にある家族崩壊を国民の前に見せてきた。寛仁親王の「皇籍離脱宣言」は、まさにふつうの家庭と皇族という看板の「矛盾」を露呈させたものなのだ。

ほかにも皇族のなかでは、高円宮承子(たかまどのみやつぐこ)女王という、破天荒で魅力的な存在がある。ヤンキーと評される彼女にとって、皇籍は「矛盾」であろうか。はた目には「矛盾」をも呑み込んで、豪快に生きているように見える。平成上皇の「御言葉」(退位宣言)もまた、天皇制の「矛盾」にほかならない。

胸には蜥蜴のタトゥー、学習院時代から「スケバン」的な風貌が周囲を驚かせ、イギリス留学中は奔放な性生活を暴露された高円宮承子。じつは日本ユニセフ協会の常勤の嘱託職員でもあり、語学に堪能な彼女は皇族外交に欠かせない存在でもあるという。

◆皇室の民主化が天皇制を崩壊にみちびく

2017年の婚約発表、それに対するリアクションとして借金問題が報じられていらい、小室家の借金問題は国民の婚約反対運動にまで発展してきた。

たとえば小室圭は貧乏人のくせに不相応な学歴を形成(国立音大付属からカナディアン・インターナショナル、ICU進学)し、もともと玉の輿をねらっていたのだと。結婚を匂わせて、高齢の元婚約者から400万円をせしめた。あるいは亡父の遺族年金を強奪した、などなど。およそふつうの家庭なら、どこでもありそうな話がメディアの好餌にされてきたのだ。

だがそれも、わが皇室の戦後史をひもとくならば、まさに「ふつうの」バッシングだったことがわかる。正田美智子(上皇后)が明仁皇太子に嫁ぐときも、猛烈な反対運動、旧華族や皇族による反対、宮内庁の侍従や女官たちによる陰湿な美智子イジメがあった。

その意味では、皇族皇室の民主化というファクターが、一歩づつ、そして確実に天皇制を変質せしめ、崩壊へとすすむ序曲でもあるのだ。その第一の扉はひらかれた。快哉。

※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈38〉世紀の華燭の陰で──皇后・旧華族による美智子妃イジメ」(2021年8月27日)
※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈39〉香淳皇后の美智子妃イジメ」(2021年8月29日)


◎[参考動画]眞子さま結婚へ……内定から4年 なぜ今? 秋篠宮さまは(ANN 2021年9月1日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆暴露小説の衝撃

1963年(昭和38年)のことである。雑誌『平凡』に掲載された小山いと子のノンフィクション小説「美智子さま」に対して、宮内庁が「事実に反する」として猛抗議する事件があった。けっきょく、この小説は掲載差し止めとなった。

この「猛抗議」は、初夜のことを暴露された美智子妃の「怒り」によるものと解釈されているが、そうではないだろう。

問題となったのは、秩父宮妃(勢津子)、高松宮妃(喜久子)が、美智子妃に好意を持っていない、というくだりだった。また、美智子妃が結婚報告で伊勢神宮に行かれた時、祭主の北白川房子さんが美智子さまに「敵意と侮蔑を含んだ絶望的な冷たい顔をした」という箇所である。

これらは周知のものであって、事実であったからこそ宮内庁官僚の怒りに触れたのである。そしてそのソースの出所が、口の軽い東宮侍従だったことから、内部粛清の意味合いもあった。

入江相政日記から引いておこう。婚約段階のことで、すでにこの連載でも触れてきた。

「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんというようなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃勢津子)と喜久君様(高松宮妃喜久子)を招んでお訴えになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子(勢津子の母)という顔ぶれで田島さん(道治・前宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいわれた由。」

「御婚儀の馬車について良子皇后のときは馬4頭だったのに、美智子さまのときには馬6頭にすることに、良子皇后は不満を表明された」と記録されている(1959年3月12日)。

昭和天皇の意向もあって、美智子妃の入内は滞りなく行なわれたものの、実家の正田家へのバッシング、一連の儀式での謀略(前回掲載)は目を覆うものがあった。その発信源は皇后良子および、それに追随する宮中女官、昭和天皇の侍従たちであった。

とりわけ皇后良子においては、気に入らない嫁であれば、おのずと態度にも顕われようというものだ。ふたたび入江日記から引用しよう。

「美智子妃殿下に拝謁。終りに皇后さまは一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか等、おたずね。」(『入江相政日記』1967年11月13日)

これは侍従長をつうじて、天皇皇后に美智子妃が態度を表明したものにほかならない。昭和天皇への直訴にも近いものだ。平民だからというだけではない。

婚約時から成婚後も終わらない。美智子妃の国民的な人気こそが、皇后良子には気に入らない最大のものだったのである。

常磐会(女子学習院OG会)の関係者によると、写真集を出すなど。皇室にはふさわしからぬ振る舞いが皇后の怒りを招いていたという。

その証言によると、皇后が美智子妃にむかって「皇族は芸能人ではありません!」と、直接叱りつけたこともあったという。

そのとき、美智子妃はムッとした表情のまま、しかし聞く耳をもたなかったとされている。そして美智子妃は返すように、良子皇后の還暦の祝いを欠席したというのだ。かなりの嫁姑バトルだ。

『写真集 美智子さま 和の着こなし』(2016年週刊朝日編集部)

◆ミッチーブーム

そもそも皇族のアイドル化路線は、昭和天皇が敷いたものだった。男子を手元で育てる、ネオファミリーの先取りともいうべき核家族路線は、明仁皇太子が昭和天皇から示唆されたものと言われている。

だが、それもこれも平民出身皇太子妃美智子がいなけれな、始まらないものだったのである。一般国民にとって、旧皇族出身や旧華族出身の妃殿下では距離が大きすぎる。

選りすぐれば、ある意味でどこにでもいる才媛で、誰もがみとめる美女。そして旧皇族や旧華族いじょうの気品と気配り、やさしさを感じさせる女性。そんな女性皇族を国民に親しませてアイドル化する。それが美智子妃だったのだ。思いがけなくも、美智子妃は国民的な「ミッチーブーム」を引き起こす。

皇室の私生活をメディアが報じるようになったのは、映像ではTBSの「皇室アルバム」(1959年~)を嚆矢とする。

50年以上の長寿番組であり、フジテレビの「皇室ご一家」(1979年~)、日本テレビの「皇室日記」(1996年~)は、その後追い番組だが、後追い番組が定着したことこそ、このコンテンツが象徴天皇制に見事にフィットするものである証左だ。戦前は、一般国民が「天皇陛下の御姿を拝し奉る」ことすら出来なかったのだから。
この番組が始まる契機は、まさにミッチーブームだった。番組の制作は各局の宮内庁担当だったが、当初は手探りの状態で、皇族が一人も登場しない回もあった。

やがてレギュラー番組化するなかで、宮内庁の職員(侍従職内舎人ら)も関与するところとなり、陛下(昭和天皇)の「御意向」も反映されている。が、その「御意向」は、日ごろ会えない皇族の様子を知りたいというものが多かったという(関係者)。天皇陛下も楽しみにしている番組、ということで人気番組になる。そのメインコンテンツは、言うまでもなく皇太子夫妻とその子供たちであった。

そして、このような皇室アイドル化路線に、隠然と反対していたのが良子皇后なのである。

『美智子さまの60年 皇室スタイル全史 素敵な装い完全版』(2018年別冊宝島編集部)

◆テレビ画像に「無視」が公然と

国民の前に、皇后良子と美智子妃の「バトル」が印象付けられたのは、1975年の天皇訪米のときのことだった。出発の挨拶のときに、皇后が美智子妃を「無視」したのである。

公式の場で挨拶を交わさないばかりか、わざと「無視をする」ということは、そのまま存在を認めないのに等しい。皇族にとって「挨拶」とは、最重要の「仕事」「公務」なのだから。

皇室ジャーナリストの渡邉みどりは、このようにふり返っている。

「羽田空港で待機する特別機のタラップの脇には皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻、そして三木首相ご夫妻の順に並んでおられました。昭和天皇、香淳皇后がいよいよ機内にお入りになるとき、おふた方は、宮様方のごあいさつに対し丁寧に返礼をなさいます。」

「特に昭和天皇は美智子さまにお辞儀をされた後、皇太子殿下に『あとをよろしく頼みますよ』というように深く頭を下げられ、皇太子さまも父君に『お元気で』といったご様子で最敬礼なさいました。」

「次の瞬間、モニターを見ていた私は、ぎくりとしました。」

「数歩遅れた香淳皇后は常陸宮さまにゆっくりとお辞儀をなさったあと、美智子さまの前を、すっと通り過ぎて皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。モニターの画面に映る映像は、後ろ姿でしたが、素通りされたのははっきりわかりました。香淳皇后は手に、つい先ほど美智子さまから贈られたカトレアの花束をお持ちでした。そのまま、美智子さまにも、深々とお辞儀をなさるとばかり思っていましたのに。」

「この『天皇訪米』の一部始終の映像はテレビで日本中に放送されたのです。私自身その時は、昭和天皇の訪米という歴史的なニュースを無事に中継することで、頭がいっぱいでした。昭和天皇と香淳皇后がご出発したあと、思わずスタッフと顔を見合わせて、『お気の毒に』とつぶやきました。」

浜尾実元東宮侍従も、当時のことをこう語っている。

「私もテレビを見ていて驚きました。東宮侍従をしていたころ、美智子さまのお供で吹上御所に行った時など何か皇后さまの態度がよそよそしいことは感じたことがありました。それは美智子さまの人間性というより、そのご出身(平民)が美智子さまを孤立させることになっていたんだと思います。ただ、あのお見送りの時は人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました」

だが、このような「無視」や「直言」をものともせず、美智子妃はある意味で淡々と、皇太子明仁とともに新しい皇室像を作り上げてゆく。

そればかりか、昭和天皇亡き後は、いわゆる「平成流」という流れをつくり出し、宮内庁官僚や女官たちと対立を深めてゆく。ために、週刊誌メディアへの情報のタレコミで、猛烈なバッシングを浴びるようになるのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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正田美智子(平成上皇后)は日清製粉の令嬢だった。日清製粉は祖父正田貞一郎が創業者の中心人物であり、正田一族を中核とする企業と言ってさしつかえない。その意味では創業者の三男を父に持つ正田美智子は、生まれついてのお嬢様だった。

とはいえ、彼女は平民である。皇太子明仁との婚儀に、香淳皇后(良子皇后)や秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮(柳原愛子の親族)らが反対したことは、本連載〈35〉に書いたとおりだ。

学習院在学中の北白川肇子

もともとは、北白川肇子(はつこ=島津肇子)が皇太子妃候補として有力視されていた。

明仁の立太子に前後して、肇子は「お妃候補」として世間の注目を浴びている。1951年7月29日の読売新聞は「皇太子妃候補の令嬢たち」という特集記事で、肇子ら旧皇族の少女たちを紹介している。さらに1954年1月1日の読売新聞の「東宮妃今年中に選考委」という記事でも、肇子の名が報じられた。

当時の日記をみると、旧華族社会や宮内庁の侍従、女官たちのあいだでは、肇子が皇太子妃になるものと思われていた。

◆日本の旧公家社会

敗戦で皇室・皇族の縮小がはかられ、華族制度が廃止されてからも、日本の公家社会は生きのこった。表向きは一般社団法人霞会館として、霞が関ビル34階が所在地となっている。650家740人(当主)が会員で、年に4回の会合のほか各家間の親睦交際で、そのコミュニティを保っている。かれらの間ではふつうに「〇〇公爵のお嬢様」「□□子爵家のご長男」などという言葉が交わされるのだ。

ほかに旧公家(江戸時代以前)で構成される堂上家は「堂上会」として京都に拠点を置き、こちらは御所清涼殿に昇殿できる家格(公卿)にかぎられる。よく京都人が「天皇さんはいま、東京に行かれてはります」というのは、京都こそ公家社会のメッカであり、朝廷は京都御所にあるという意味だが、その実体はこの堂上会ということになる。

政治権力と結びついている「天皇制」を解体する契機があるとすれば、天皇が本来の居場所である京都に帰るときであろう。そのさいの皇室は、皇室御物や歴代天皇が庇護してきた神社仏閣およびその宝物とともに、文化的な存在になるであろう。天皇制を廃止するからといって、タリバンのように仏像を破壊するような主張が、現在の日本国民を占めるとは思えない。反日武装戦線の敗北や皇室ゲリラの衰退がそれを物語っている。

現実的には、以下のようなことが想像できよう。

本朝のながい歴史に照らして、天皇という存在は御所に逼塞して学問に打ち込む。そして政治には口を出さない。国事行為も政府がすべて引き受ける。どうしても位階が欲しい人には、歴代の天皇たちがやってきたように、高い値段で買っていただけばよい。明治いらいの伝統にすぎない叙勲(勲章)も、続けたければ有料にする。これがふさわしいのである。

神社仏閣・宝物・天皇陵墓(発掘が学問的利益になる)などの皇室文化というものに価値があるとすれば、最低限の生活を文部科学省が保証し、百害あって国民的な利益のない宮内庁は廃止してしまう。それがいいと思う。

1959年に成婚。世紀の婚姻で「ミッチーブーム」が起こされた

◆アイドル化こそ民主化の第一歩だった

さて、昭和30年代にもどろう。

北白川肇子嬢の世評もよく、婚約は時間の問題と思われていた。だが、戦後すぐに皇室をアイドル化することで「象徴」へとシフトした天皇制は、閉鎖的な公家社会の維持よりも、国民に開かれることを望んでいた。それが正田美智子の入内にほかならない。これには皇太子の側近、小泉信三(教育掛)の暗躍があったとされる。

1959年に成婚。世紀の婚姻は国民的な「ミッチーブーム」を生み、1964年の東京五輪とともに、高度経済成長の起爆剤となった。馬車と騎馬のパレードまで行なった主役は、あきらかに皇太子妃美智子であり、明仁皇太子は刺身のツマにすぎなかった。

人々の前でも物おじせず、堂々たる体躯に誰もがみとめる美貌。語学に堪能であり、聖心女子大時代にはプレジデント(自治会委員長)を務めた才媛。そんな女性が国民的な祝福を得て「プリンセス・ミチコ」となったのである。この時期に生まれた女性には「美智子」という名前が多い。

そのような社会現象になるほど、開かれた皇室の第一歩は成功した。戦争犯罪の血にまみれた昭和天皇さえ、この時期には神々しく感じられたという。

◆世紀の成婚の陰で

皇室に入る美智子に仕える女官長は、秩父宮勢津子の母松平信子が推挙した、勢津子の遠縁にあたる牧野純子である。前述のとおり勢津子と信子は、美智子の入内に猛反対した母子だ。

ちなみに松平信子は、女子学習院のOG会である常磐会の会長である。常磐会は、明治いらい皇族妃や元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子に対する反対運動が起きていたのだ。陰湿な陰謀さえはかられた。

それは、皇太子妃決定の記者会見でのことだった。正田美智子はVネックに七分袖のオフホワイトのドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところが、ドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかったのだ。

「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」

会見後、早くも宮中からクレームが入る。しかし、である。この手袋は正田家が用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだったのだ。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたというしかない。この手袋事件は、美智子妃イジメの第一幕ともいうべき出来事だった。

成婚後も隠然と、かえって陰湿な嫌がらせ・イジメとなって、それは顕われた。こういう証言もある。

「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)

思わぬクレームが入った美智子妃のドレス姿

イジメの第二弾は、成婚報告で訪れた伊勢神宮でのことだった。このときも美智子妃は白いアフタヌーンドレスで、正装の皇太子(燕尾服を着用)に合わせたものだった。一見して、ロイヤルカップルにふさわしい姿である。だが、これに思わぬクレームが入ったのだ。美智子妃(写真)のドレスのスカートが膨らんでいるのは判るであろうか? このフレアをふくらませるパニエがけしからん、伊勢神宮の参拝には馴染まないスカートだというのだ。

なぜ皇族の女性に相談しなかったのか、ということが問題にされた。いや、相談できるはずがなかった。この日の衣裳も、じつは宮内庁および女官たちが準備したものだったのだ。美智子妃は嵌められたのである。

誰かが、わたしを陥れようとしている? いや、美智子妃が疑心暗鬼になることはなかった。皇太子明仁との仲はむつまじく、懐妊をもってその立場は盤石なものになったからだ。

歓呼にこたえて車窓を開けた美智子妃を、にらみつける(?)牧野純子女官長

そして「国母」となった美智子妃は、思いきった行動に出る。

第一子浩宮が誕生し、そのお披露目に外出したときのことである。クルマの窓を開けて、国民の歓声と報道陣の写真撮影に応えようとする美智子妃を、となりに同乗している牧野女官長がにらみつけている(?)。これこそ、天真爛漫で美貌の皇太子妃が、守旧勢力の嫌がらせの中で、国民に訴えるように見せた笑顔である。

というのも、ここまでの道は極めてきびしく、とりわけ実家の正田家が守旧派からの、陰湿な攻撃を受けていたからだ。

「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」と語るのは、美智子妃の母堂・正田富美子である。亡き富美子は何も言わなかったが、凶器が郵送されてきたり、家を燃やすなどの嫌がらせ電話が掛かってきたという。ほんの一部とはいえ、皇室の敵・国民の敵と言わんばかりの反対運動が起きる。

今日のわれわれは、秋篠宮家の眞子内親王の恋人の母親に借金があることをもって、ふさわしくない。借金問題を解決してから、という世評を知っている。

本人たちの意志よりも「貧乏人のぶんざいで無理な学歴づくりをするのが怪しからん」という、それは変化の時代の憤懣ではないだろうか。もともと島国で育まれた日本人の国民性は、差別的なものなのである。

昭和30年代の日本はまさに、平民のぶんざいで皇室に嫁ごうなどと、許すことで出来ん! 畏れ多いことをする、非常識な一家。だったのである。

しかし美智子妃イジメの陰湿さ、激しさはまだ序の口だった。すなわちイジメの源泉が、夫の母親である光淳皇后・良子だったからだ。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)

今こそ鹿砦社の雑誌!

前回は、皇太子明仁と美智子妃の婚姻がもたらした、平民出身妃殿下への皇族および旧華族の反発まで解説した。さらにここから、昭和・平成にいたる皇室と宮内庁を巻きこむ現代天皇制の矛盾を解読していきたいところだが、その前に戦前に立ちかえる必要がある。

昭和天皇を支配した女帝を紹介しなければ、現在の皇室がかかえる内部矛盾が、普遍的なものであることを明示し得ないからだ。

明治大帝いらいの天皇権力を、単に大日本帝国陸海軍の大元帥に措定してしまえば、その内実は軍隊をふくめた政治官僚組織と個人(天皇の個性)に、われわれの視点はかぎられる。それが立憲君主制としての天皇機関説であれ、王権の官僚的軍事独裁であれ、近代的な組織によるものだからだ。

しかし、われわれは官僚組織という形式、権力者の個性のほかに、もうひとつのファクターを視ることで、天皇制権力の真実のすがたにせまるべきではないだろうか。

そのもうひとつのファクターとは、皇室の中にある人間関係。すなわち天皇家の家族の肖像、わかりやすくいえば人間関係にほかならない。

◆近代天皇制権力を捉え返す

この連載では、昭和天皇の太平洋戦争における戦争指導の過剰さ、一転して戦局の悪化に直面すると投げ出してしまう、かれの個性のゆらぎを見てきた。

その感情の起伏に、家族というファクターが影響を与えていたとしたらどうだろう。天皇制研究に残されたフィールドが、そこにあるはずだ。

たとえば戦前の天皇制権力を「天皇制絶対権力」(講座派=君主制の近代的帝国主義)や「天皇制ボナパルティズム」(労農派=半封建制的国家独占資本主義に君臨する君主制)などと分析してきた。

これら左派研究者や共産主義運動の党派による分析が、それ自体として何ら国民的な議論に寄与しえなかったことを、戦前の反天皇制運動は教えている。戦後の運動もまた、単に「天皇制廃絶」を唱えることで、アイドル化した象徴天皇制の実体的な批判・国民的な議論に上せることはできなかった。

したがって、これまでの天皇制批判の限界を、われわれは皇室の人間関係のなかから確認できることになるかもしれない。

◆母親に頭が上がらなかった大元帥

いずれにしても、開戦当初からソ連もしくは中立国、バチカン法王庁を介した和平調停を前提にしていた昭和天皇において、そのオプションを後手に回らせたものがあったとしたら、太平洋戦争末期の沖縄・広島・長崎の災禍の原因も、そこにひとつのファクターがあったことになる。

その明確な原因が、ほかならぬ昭和天皇のマザーコンプレックスだったとしたら、愕かれる向きも多いのではないだろうか。そのマザコンの原因は、大正天皇皇后の貞明皇大后なのである。

貞明皇后

◆大日本帝国の国母として

貞明皇大后こと九条節子(さだこ)は、明治17年の生まれである。九条公爵家は平安後期いらい藤原一門の長者で、戦前の華族でも最上位(近衛・一条・二条・鷹司も五摂家藤原氏)といえよう。

節子は幼くして高円寺村の豪農に預けられ、農村育ちの健康さが評判だったという。彼女は野山を駆け回り、いつも日焼けしていたことから「黒姫」と呼ばれていたという。

学習院中等科在学中に皇太子妃候補となり、他の妃候補が健康面で不安視されるなか、満15歳で5歳年上の皇太子嘉仁親王(大正天皇)と婚約、結婚。翌年には迪宮裕仁親王(昭和天皇)を生んでいる。女子はいない。

爾後、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王を生み、国母として皇室に君臨する。とくに秩父宮を親しく接し、昭和天皇には厳しかった。

そのひとつは、2.26事件の時のことである。2.26の蹶起将校たちが、当時弘前の31連隊に大隊長を勤めていた秩父宮を当てにしていたのは知られるところだ(役割の具体性はない)。秩父宮は首謀者の西田税と陸軍士官学校の同期であり、蹶起将校たちと懇談することも多かったという。とくに第三連隊に所属していた頃は、首謀者の安藤輝三と親密だった。

その秩父宮は27日に上野に到着し、ただちに皇居に参内する。2.26将校たちのもとめる「天皇親政」を昭和天皇に具申し、ぎゃくに叱り飛ばされたのである。その後、秩父宮は貞明皇太后の御座所(大宮御所)に行き、そこで長い時間を過ごしている。秩父宮が皇太后から授かった策、あるいは非常時の「大権の趨勢」は何だったのであろうか。この事実は松本清張の未完の大作『神々の乱心』に詳しい。

2.26将校(とくに、皇居方面を担当した中橋基明)が宮城の諸問を押さえていたら、天皇と戒厳軍の連絡がとれず、クーデターは成功していたといわれる。そのさい彼らが掲げる「玉」が、秩父宮だったのだ。

貞明皇后が出産した3人の息子たち。 左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の光宮宣仁親王(高松宮)、次男の淳宮雍仁親王(秩父宮) (1906年頃撮影)

昭和天皇と秩父宮。この兄弟には、5.15事件を前後するころから、天皇親政をめぐる論争が絶えなかったという。すなわち、陸海軍大元帥として軍事政権を指導するべきという秩父宮と、あくまでもイギリス流の立憲君主として国務に臨む昭和天皇の、それは埋めがたい思想的相克であった。

戦争が始まると、昭和天皇との関係が、悪い方向に現出する。

太平洋戦争の戦況が悪化しても、貞明皇太后は昭和天皇が薦める疎開に応じなかったのである。そのために、昭和天皇も皇居に留まることになったのだ。昭和天皇が帝都に留まることで、最前線を指揮する気概が芽生えていたのだとしたら、戦争指導を煽ったのは貞明皇太后ということになるのかもしれない。

そればかりではない。戦勝祈願のために伊勢神宮に参拝するよう指示してもいる。すでに敗色が濃厚な時期である。昭和天皇の頭の中にあった「早期の講和工作」は、いつしか貞明皇太后の戦勝への熱望に感化され、かれもまた戦争指導に熱中し、あるいは敗戦に茫然として、なすすべを忘れたのであろうか。

◆昭和皇后をイジメる

貞明皇大后は姑として、嫁の香淳皇后良子(昭和皇后)には、何かにつけて厳しかったという。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女王)であった香淳皇后に対する、家柄の嫉妬(貞明皇大后は九条家の出身だが、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人々は感じていたという。

宮中で仕える女官たちがその衝突をまのあたりにしたのは、大正天皇崩御の数ヶ月前のこと。すでに摂政となっていた昭和皇太子夫妻が、療養先の葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。

皇太子妃良子(昭和皇后)が、姑である皇后節子(貞明皇太后)の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋を付けたまましぼったのだ。その結果、皇太子妃は手袋を濡らしてしまった。

「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、良子は何も言い返せず、ただ黙っているしかなかった。

幼いころから運動神経もすぐれ、頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后は、日ごろから目下の者を直接叱責することはなかった。それゆえ、この一件を目の前にした女官たちは驚いたという。

「お二人は、嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまったのだ。

そのいっぽうで、3人の弟宮の嫁たち。秩父宮・高松宮・三笠宮の各親王妃を、御所での食事や茶会を度々招いて可愛がった。とくに次男秩父宮の妃・勢津子はお気に入りだったらしく、毎年3月3日の桃の節句には、勢津子妃が実家からお輿入れしたときに持ち込んだ雛人形を宮邸に飾り、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であった。女子を生まなかった皇太后にとって、3人の親王妃は娘のような存在だったのであろうか。

明治天皇時代からの女官・山川三千子の『女官』には大正天皇の私生活、とりわけ貞明皇后との隙間風ともいえる裏話が明かされている。大正天皇崩御後の貞明皇太后があたかも、宮中において大権を振るったことも明らかだが、本稿のテーマから逸れるので参考資料として紹介しておくいにとどめる。山川のような女官たちもまた、天皇をめぐる人間関係の重要な位置を占めているのだといえよう。

いずれにしても、姑と嫁の普遍的な相克・桎梏は、近代天皇家にとって人間くさい逸話でありながら、やがて宮内省(宮内庁)や侍従、女官たちを巻きこんで、昭和・平成の時代まで持ち越されるのだ。まさに人間関係の渦巻く宮廷、愛憎が支配する禁裏である。

昭和天皇が動植物の観察・研究に没頭していくのも、家庭内紛争からの逃避がその動機のひとつではなかったのだろうか――。(つづく)

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◆平民東宮妃

正田美智子は1957年(昭和32年)に、聖心女子大学の文学部外国文学科を首席で卒業した。在学中は合唱部や英語演劇部のほか、テニス部に所属していたという。スポーツと学業に秀でた、美貌の才媛という表現が似つかわしい。

卒業した年の8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会で、当時皇太子だった明仁親王と出会う。このときは美智子が明仁を負かしている(対戦はダブルス)。これがテニスコートの出会いとして知られ、その後もテニスを通して交際を深めた。

いったん、正田家に正規の婚儀申し込みがなされるも、正田家はこれを拒否。明仁親王の熱意によって、最終的に婚約が決まったという。

『入江相政日記』によれば、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者が正田美智子の入内に猛反対している。その意を受け、右翼を動かして結婚反対運動を起こそうとした者もいたという。

翌1958年11月には、皇室会議で結婚が了承される。反対論を押し切ったのは、明仁の熱意とそれをうけた、昭和天皇の理解だったとされる。

本格的な皇室民主化は、全国巡幸とともに皇太子の成婚によって始まったのである。これが皇室アイドル化、開かれた象徴天皇制の基本路線となった。

◆宮中某重大事件

じつは昭和天皇自身が、皇后良子(ながこ)の入内に反対された経緯がある。良子の実家である久邇宮家には、島津家との血縁関係があり、島津家には色覚異常の血統があるというものだ。いわゆる「宮中某重大事件」である。

元老の山縣有朋らがうごいて、久邇宮家に婚約辞退をせまるなど、一時は婚儀が危ぶまれた。このとき、裕仁親王に倫理学を教えていた杉浦重剛が、人倫論を訴えて婚約破棄論に抵抗している。

「婚約破棄という人倫にもとることが行なわれれば、今まで親王に倫理を教えてきたのが無駄になり、また良子女王は自殺するか出家するしかなくなる」と訴えたのだ。

ちなみに杉浦が言うとおり「婚約破棄が人倫にもとる行為」であるならば、現在の眞子内親王と小室圭の婚約も、同等に扱われなければならないであろう。

けっきょく婚約破棄という事態は避けられ、この事件はかえって山縣有朋の失脚につながる。

三島由紀夫は『豊饒の海』第一巻『春の雪』において、綾倉聡子と洞院宮治典王(閑院宮載仁親王と閑院宮春仁王の父子をアナライズした人物)の婚約(勅許済み)を解消させることで、聡子を月修寺に入山させる。おそらく三島は宮中某重大事件における杉浦の発言を知ったうえで、ヒロインの聡子を出家させたのであろう。この禁忌の王朝物語が、全編のテーマになる。

じつは宮中某重大事件の後のことになるが、皇族との婚約を破棄された女子がいる。その婚約破棄をした皇族とは、ほかならぬ久邇宮良子(香淳皇后)の兄なのだ。現在の眞子内親王婚約問題とある意味でかさなる、婚約破棄事件の顛末を明らかにしておこう。

 

久邇宮朝融王(あさあきらおう)

◆久邇宮朝融王の婚約破棄事件

久邇宮朝融王(あさあきらおう)が婚約したのは、酒井伯爵家の菊子という女性である。まだ学習院の生徒だった菊子を朝融王が見染めたのである。

『牧野日記』には「大正六年御婚約」とあり、大正天皇の勅許で朝融王と酒井菊子の婚約は整った。

ところが、この婚約を久邇宮家が破棄したいと言い出したのだ。朝融王も父親の邦彦王も「絶対に菊子とは結婚しない」「させない」と言い張ったという。

邦彦王がその理由としてあげたのは「婚約の女には節操に関する疑あり。此疑ある以上は如何なることありても之を嫡長子の妃となすことを得ず」

ようするに、菊子に節操(処女ではない)疑惑があるというものだ。

『牧野日記』には次のように記録されている。

「此れは道徳上の問題たるは勿論、殿下には今日となりては直接御縁続きの事なれば、本件の取扱如何に依りては御立場に非常なる困難を来しては、実に容易ならざる義」「皇室の尊厳、御高徳の旺盛に依って統一を保つ事も相叶ふ次第なり。其皇室に於て人倫道徳を傷つける様の出来事は、極力之を避けざる可からず」

ようするに、良子の婚儀で皇太子殿下の縁戚となった久邇宮において、このような人倫・道徳にもとるような行為(婚約破棄)は極力避けるべきだと。宮内省の首脳陣の苦渋が読み取れる。

けっきょく、宮内省内で調査を重ねた結果、上記の「節操に関する疑」は「根拠なし」と結論づけている。

この結論をうけて、邦彦王は「酒井令嬢品行問題は全く取消」と、節操疑惑を取り下げる。

しかし「両者到底円満の共同生活見込なきに付、可然(しかるべく)大臣におゐて配慮頼む」と婚約破棄を繰り返すのであった(『牧野日記』)。

ようするに、振り上げた拳の落としどころに困り、宮内省で何とか処置してくれ。先方から申し出たように破談にしてくれ、というのだ。

破談交渉が続いているにも拘らず、この騒動は新聞にすっぱ抜かれた。最初に関係記事を掲載したのは9月6日付の『万朝報』だった。追いかけ記事が世間をにぎわせる。

しかも朝融王は、菊子との婚約破棄を正当化する目的で「菊子は不治の肺病なので結婚できない」と、裕仁親王に重大なウソをついていた。

裕仁親王(昭和天皇)は朝融王の不誠実さにあきれ果て、菊子に大いに同情したという。後にこれを忖度した近衛文麿らが奔走して、菊子と前田侯爵家との縁談をまとめている。

破談交渉ののち、宮内省はつぎのような発表をおこなった。

「朝融王殿下酒井菊子と御結婚のこと予て御内定の処、今回酒井家に於て本御結婚の将来を慮り辞退を申出たる趣を以て、宮家より御内定取消御聰済の儀願出られたるに就き、其手統を了せり」

ここに、宮家の体面をまもりつつ、酒井家の側から破談にさせるという、宮家およびその御曹司のわがままが、まかり通ったのである。

のちに酒井菊子は、裕仁親王の同情を忖度した近衛文麿らが尽力し、旧金沢藩主家の前田利為侯爵との縁談がまとめられ、大正14年2月7日に結婚式を挙げた。彼女は前田菊子として四人の子宝に恵まれ、戦後はマナーやエチケットに関する評論家として活躍し、1986年まで生きた。

いっぽうの朝融王は、伏見宮博恭王の三女・知子女王との縁談が成り、大正14年1月26日に婚儀の礼が執り行われた。しかし結婚後も朝融王の素行は悪く、侍女を妊娠させてしまう。戦後は事業に失敗し、親族を頼るも零落したという。

なぜ朝融王が酒井菊子に「節操の疑い」を生じたのかは、推して知るべしであろう。

◆仕掛けられた出会い

平成天皇皇后の「世紀の出会い」「テニスコートの出会い」に、仕掛けがあったのは言うまでもない。教育係の小泉信三だとする説もあるが、そうではない。現在では聖心女子大が、その窓口だったと考えられている。

というのも、テニスコートの出会いの前年度に、正田美智子は三島由紀夫と歌舞伎座観劇で見合いをしている(観劇ののち、井上という料亭で歓談)。このときの仲介者は不明だが、在学中だった聖心女子大の推薦(縁談許可)がなければ、そもそも成立しない。

けっきょく、平岡家(三島の実家)がわから断ったことになっているが、三島は母といっしょに聖心女子大の卒業式を見に行っている。本人は乗り気だったのだろう。祖母のなつが「商家の娘など」と反対したのが有力説だ。

そしてもうひとつは、天皇側近の動きである。

当時のお妃選び取材班で、元朝日新聞顧問の佐伯晋によれば「歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳」の努力があったという。

「民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果がお2人のご婚約・ご成婚だ」(JCASTニュース)。

こうして皇太子ご成婚は、正田美智子の名をとってミッチーブームを起こすほど、国民を熱狂に巻き込む。

だがその裏側には、隠然たる民間東宮妃反対運動があった。上述したとおり、ほかならぬ香淳皇后良子が反対の急先鋒であり、皇室そのものが賛否両論に揺れたのだ。

皇后良子は静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き「東宮様の御縁談について、平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたという。

皇后とともに反対派にまわった、旧皇族の梨本伊都子の日記(婚約発表当日)を紹介しておこう。

「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」(11月27日)。

北白川肇子を東宮妃に推薦していた松平信子も、明仁が正田美智子との結婚を決めたことに「妃は華族すなわち学習院出身者に限る」という慣例を主張して反対した。

これらの反対派は昭和天皇の意向にしたがって、皇室会議の決定を了承したものの、隠然たる平民東宮妃反対派として宮中および旧公家社会に残存した。

そう、彼女たちとその末裔こそが、宮内庁の旧華族守旧派とともに、美智子妃を苦しめるのである。そんななかで昭和天皇裕仁は、生物学の研究に没頭してゆく。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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保守派による昭和天皇の評価として「帝王学を修められた英邁」とするものが少なくない。その評価は君子にたいする形式的な賛辞であり、実質は激動の昭和史を国民の苦難とともに生きてきた共感であろうか。

かえりみて上記の賛辞をみたす内実があるとしたら、戦中の戦争指導の過多による講和工作の遅滞を別として、時におうじて適切な対応をこなした几帳面さであろう。大正天皇が女官制度(側室)を遠ざけ、昭和天皇において廃止したこと。人間宣言や皇太子への民主教育、これから取り上げる皇太子の民間人との結婚など、天皇制と皇室の民主化に果たした、一定の役割はみとめられるべきであろう。

だがそれにしても、中国戦争における和平工作の不徹底。太平洋戦争の開戦時における和平工作の不徹底、サイパン陥落を目途に講和へ転じることができなかった「戦争ギャンブル症候群」ともいうべき戦争指導へののめり込みは、その道義的責任や法的責任(形式)をこえて、戦争犯罪への責任が問われてしかるべきであった。

小野田寛郎が言うとおり、昭和天皇の責任の取り方における出処進退の不明確さが、戦後日本の無責任な風潮をもたらしたのは疑いないところなのだ。その昭和天皇の戦後をたどってみよう。

◆昭和天皇の戦後改革

昭和天皇の「人間宣言」は有名だが、原文(ほぼ漢文カナ書き下し)を知っている人はあまりいないのではないだろうか。正確にいえば、日本は神話の国ではなく、天皇も現御神ではないと言っているだけで、天皇が人間だとはひと言も書かれていない。

参考までに、原文の冒頭部と訳文(全文)を掲載しておこう。冒頭には「五箇条の御誓文」が引用され、わが国は近代化の「国是」として民主主義があった。とすることで、明治維新の精神に立ち返り、国家再建にいそしもう、というほどのものだ。

【原文冒頭】
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

【訳文=全文】
ここに新年を迎える。かえりみれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない
お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。

大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。

 

そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。

思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。

しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。天皇を現御神(あきつみかみ)とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。 私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。 そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。

一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心をひとつにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う。

以上のごとく、天皇の人間宣言は文言にはない。国民が「臣民」ではなくなったというのは、つぎのフレーズによるものであろう。

天皇と国民の絆は「信頼と敬愛」によって結ばれるべきで、わたしが任命した政府は国民のために万全の施策を準備しなければならない、と。

◆皇室現代化(民主化)の妙案とは?

さて、明治大帝の全国巡幸にならって、昭和天皇は国民との接点を親しくするいっぽう、皇室改革も具体化しなければならなかった。そのひとつは東宮(皇太子)の教育であり、その結婚もまた現代的(民主主義的)なものにしなければならない。皇統の継承とはつまり、皇位継承者の婚姻がその真髄なのである。

しばらく戦争にかかる暗いテーマがつづいたので、ここからは天皇家の唯一性という、皇統の正統性の根幹。すなわち婚姻をテーマにすすめていこう。そのことはまた、現在の秋篠宮家にかかる自由恋愛結婚にかさなるテーマでもある。(つづく)

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後に天皇の戦争責任が本格的に問われるのは、1975年を待たねばならなかった。しかし当の昭和天皇は、みずからの政治責任・戦争指導責任に敏感だった。昭和24年12月19日の拝謁では、田島道治宮内庁長官が当時の皇太子を早く外遊させるべきだという昭和天皇に理由を尋ねたところ、昭和天皇はこう語っているのだ。

【皇太子への譲位の意志】
「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ 又退位等ノ論が出テ イロイロノ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考ヘラルヽノデ ソノ為ニハ 東宮チャンガ早ク洋行スルノガ ヨイノデハナイカト思ツタ」と語ったと記されている。

これから自分の退位や譲位も考えられるが、そのためには皇太子(明仁)が海外訪問をして、即位するための準備をすることが必要なのだ、というのである。皇太子への譲位を考えているよ、という意味にほかならない。

ところが一方で、昭和天皇はこの直後にこうも語っている。

「東宮ちやんは大分できてゝいゝと思ふが、それでも退位すれば私が何か昔の院政見たやうないたくない腹をさぐられる事もある。そして何か日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」と述べ、

当時まだ若い皇太子に位を譲れば「院政」と言われ、日本のためにならないのではないか。というのだ。ようするに、退位や譲位はまだ早いと。退位を迷いながらも、皇太子の成長に頬をゆるめる。父親としてのまなざしも感じられるところだ。
いっぽう国民からの視線は、やはり隠忍自重を旨としているようだ。以下は静養に御用邸を使うこと、宮殿がうしなわれた宮城での住まいについてである。国民の苦しい境遇が「ひがみ」を持つのではないかと言うのだ。その「ひがみ」が自分の信用を落とすのではないかと心配している。

【別荘での静養】
昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論など唱へる人達、生活ニ困った人 特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「それは境遇上のひがみと思ふが、そういふ人のある事を考へても行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されている。

【住まい】
昭和24年8月30日の拝謁では、昭和天皇は御文庫(住居として使っている防空施設)の改築・新築について、こう述べている。
「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘リ(あま)皆ワルク思ツテナイ様デ 一部ニハ退位希望者アルモ 大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ 私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ 私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハ ツマラヌト思フ」

【終戦の詔勅の本意】
そして田中道治は、戦争責任に関する天皇の本音を聞いてもいる。昭和26年8月、静養先の那須御用邸で拝謁したさいに、昭和天皇は「長官だからいふのだが」と前置きしたうえで、終戦の日に放送された「終戦の詔勅」の内容に触れたというのだ。
「あれは私の道徳上の責任をいつたつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが、地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが、道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して 多少とも償ふといふ意味であるがデリケートである」と述べたとされる。

そのまま理解すれば、退位して楽な生活をするのもいいが、道義上の責任を感じるからこそ、天皇の地位にとどまって責任を償うのだ。ということになる。見た目はカッコいいが、かなり体裁を意識した発言という印象だ。

昭和26年12月13日の拝謁では、独立回復を祝う式典で述べるおことばの文案を検討する中で、昭和天皇はこう語っている。

「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」と述べ、田島長官が「それは織り込みますれば結構でございますが、余程六ケ(むつか)しいと存じますが、どこかに其意味ハ出なければならぬと存じます」と返している。じつは退位をしないかわりに、天皇と田島は、国民への公式の謝罪を検討していたことがある。

◆発見された天皇による、国民への謝罪(草稿)

天皇の「国民への謝罪詔書草稿」を、田島が起草していたのだ。書かれたのは昭和23年前後と推定されるが、それは東京裁判の判決が下った時期でもある。草稿が発見されたのは2003年のことだ。

 

【原文】
朕、即位以来茲ニ二十有余年、夙夜祖宗ト萬姓トニ背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ 勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能ク支フルナク、先ニ善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト 構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終ワリ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル。屍ヲ戦場ニ暴シ、命ヲ職域ニ致シタルモ算ナク、思フテ其人及其遺族ニ及ブ時寔ニ忡怛ノ情禁ズル能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或イハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ、剰ヘ一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時憂心 灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。身九重ニ在ルモ自ラ安カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ負荷ノ重キニ惑フ。
然リト雖モ方今、希有ノ世変ニ際會シ天下猶騒然タリ身ヲ正シウシ己レヲ潔クスルニ急ニシテ國家百年ノ憂ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸ムガ如キハ眞ニ躬ヲ責ムル 所以ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽ヘ敢テ挺身時艱ニ當リ、徳ヲ修メテ禍ヲ嫁シ、善ヲ行ツテ殃ヲ攘ヒ、誓ツテ國運ノ再建、國民ノ康福ニ寄與シ以テ祖宗 及萬姓ニ謝セントス。全國民亦朕ノ意ヲ諒トシ中外ノ形成ヲ察シ同心協力各 其天職ヲ盡シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ國威ヲ恢弘センコトヲ庶幾フ。

【訳】
 私が即位してこの二十数年、朝起きて夜寝るまで歴代の天皇や祖先、国民の期待を裏切るようなことがないよう、勉めてきたが、時勢の流れに支えきれず、周辺諸国との善隣平和な関係を失い、列強諸国と戦争状態となった。そして、遂に悲痛な敗戦となり、そして今日の見るに耐えない災難が甚だしい状況になってしまった。
 国民が死体を戦場にさらし、命をその職や受け持ちの範囲で散らしたが、そのかいもなく敗れてしまった。その本人やその遺族の皆さんのことを思うと、まことに憂いに痛む思いが止められない。
 戦闘で傷つき、戦災を被り、あるいは、身柄をまだ外国に抑留され、財産を外地で取り上げられたりする例もまた、数えきられない。おまけに、一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住が困窮して、膨大な苦痛は、日本が始まって以来の災難と言ってもいい、ひとり静かにこの事を思うと、憂い心が焼ける思いだ。
 私の徳が無い為にこのような結果となり、深く天下に謝罪するものです。身は皇居に在るのだけれども、とても落ち着いてはいられない。心を国民のもとに置き、責任の重さに心惑う。
 しかし現在まだ、歴史始まって以来の変化に遭遇して、世間はまだ騒然としている。自分だけ潔く退位することは、責任から逃れるだけで、逃げ出すことは責任をとることにならない。
 現在の国内世界情勢を考えると、国家国民の為に挺身し、その時代の難問題に当たり、徳を修めて禍を寄せ付けず、善を行って災いを掃い、国の再建国民の幸福に寄与することを誓い、それをもって、歴代天皇や国民に謝罪することにさせて下さい。
 国民の皆様、再び、私の誠の意思を理解し、国内国外情勢を察して、一致協力 それぞれの仕事に励み、この非常事態の世の中を乗り越え、国の力を広げ回復することをお願いしたい。

ここでも、退位して責任を投げ出すのは無責任であるから、国民のために挺身したい。国民も一致協力して国の再建に尽くしてほしい。というものだ。

◆原爆はしかたなかった

そのいっぽうで、昭和50年には「国民への謝罪」の内実が問われる事態も起きた。記者会見で「原爆は仕方なかった」と口をすべらせたのである。記者会見は昭和50年10月31日に日本記者クラブが主催し、皇居宮殿内の「石橋(しゃっきょう)の間」で行われたものだ。

このシリーズの冒頭に挙げた「(戦争責任という)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。」につづく答弁になる。

秋信記者 天皇陛下にお伺いいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。

昭和天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。

軍部および天皇が原爆投下を知っていた(テニアン方面への諜報活動)という説については、別稿に改めたい。戦後天皇制はやがて、皇太子(明仁)の民間人との婚儀という、幸福のオブラートに包まれながら、象徴として定着していくことになる。そのさいに始まった宮中守旧派との暗闘は、今日もなお皇室を覆っている。(つづく)

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