◆平民東宮妃

正田美智子は1957年(昭和32年)に、聖心女子大学の文学部外国文学科を首席で卒業した。在学中は合唱部や英語演劇部のほか、テニス部に所属していたという。スポーツと学業に秀でた、美貌の才媛という表現が似つかわしい。

卒業した年の8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会で、当時皇太子だった明仁親王と出会う。このときは美智子が明仁を負かしている(対戦はダブルス)。これがテニスコートの出会いとして知られ、その後もテニスを通して交際を深めた。

いったん、正田家に正規の婚儀申し込みがなされるも、正田家はこれを拒否。明仁親王の熱意によって、最終的に婚約が決まったという。

『入江相政日記』によれば、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者が正田美智子の入内に猛反対している。その意を受け、右翼を動かして結婚反対運動を起こそうとした者もいたという。

翌1958年11月には、皇室会議で結婚が了承される。反対論を押し切ったのは、明仁の熱意とそれをうけた、昭和天皇の理解だったとされる。

本格的な皇室民主化は、全国巡幸とともに皇太子の成婚によって始まったのである。これが皇室アイドル化、開かれた象徴天皇制の基本路線となった。

◆宮中某重大事件

じつは昭和天皇自身が、皇后良子(ながこ)の入内に反対された経緯がある。良子の実家である久邇宮家には、島津家との血縁関係があり、島津家には色覚異常の血統があるというものだ。いわゆる「宮中某重大事件」である。

元老の山縣有朋らがうごいて、久邇宮家に婚約辞退をせまるなど、一時は婚儀が危ぶまれた。このとき、裕仁親王に倫理学を教えていた杉浦重剛が、人倫論を訴えて婚約破棄論に抵抗している。

「婚約破棄という人倫にもとることが行なわれれば、今まで親王に倫理を教えてきたのが無駄になり、また良子女王は自殺するか出家するしかなくなる」と訴えたのだ。

ちなみに杉浦が言うとおり「婚約破棄が人倫にもとる行為」であるならば、現在の眞子内親王と小室圭の婚約も、同等に扱われなければならないであろう。

けっきょく婚約破棄という事態は避けられ、この事件はかえって山縣有朋の失脚につながる。

三島由紀夫は『豊饒の海』第一巻『春の雪』において、綾倉聡子と洞院宮治典王(閑院宮載仁親王と閑院宮春仁王の父子をアナライズした人物)の婚約(勅許済み)を解消させることで、聡子を月修寺に入山させる。おそらく三島は宮中某重大事件における杉浦の発言を知ったうえで、ヒロインの聡子を出家させたのであろう。この禁忌の王朝物語が、全編のテーマになる。

じつは宮中某重大事件の後のことになるが、皇族との婚約を破棄された女子がいる。その婚約破棄をした皇族とは、ほかならぬ久邇宮良子(香淳皇后)の兄なのだ。現在の眞子内親王婚約問題とある意味でかさなる、婚約破棄事件の顛末を明らかにしておこう。

 

久邇宮朝融王(あさあきらおう)

◆久邇宮朝融王の婚約破棄事件

久邇宮朝融王(あさあきらおう)が婚約したのは、酒井伯爵家の菊子という女性である。まだ学習院の生徒だった菊子を朝融王が見染めたのである。

『牧野日記』には「大正六年御婚約」とあり、大正天皇の勅許で朝融王と酒井菊子の婚約は整った。

ところが、この婚約を久邇宮家が破棄したいと言い出したのだ。朝融王も父親の邦彦王も「絶対に菊子とは結婚しない」「させない」と言い張ったという。

邦彦王がその理由としてあげたのは「婚約の女には節操に関する疑あり。此疑ある以上は如何なることありても之を嫡長子の妃となすことを得ず」

ようするに、菊子に節操(処女ではない)疑惑があるというものだ。

『牧野日記』には次のように記録されている。

「此れは道徳上の問題たるは勿論、殿下には今日となりては直接御縁続きの事なれば、本件の取扱如何に依りては御立場に非常なる困難を来しては、実に容易ならざる義」「皇室の尊厳、御高徳の旺盛に依って統一を保つ事も相叶ふ次第なり。其皇室に於て人倫道徳を傷つける様の出来事は、極力之を避けざる可からず」

ようするに、良子の婚儀で皇太子殿下の縁戚となった久邇宮において、このような人倫・道徳にもとるような行為(婚約破棄)は極力避けるべきだと。宮内省の首脳陣の苦渋が読み取れる。

けっきょく、宮内省内で調査を重ねた結果、上記の「節操に関する疑」は「根拠なし」と結論づけている。

この結論をうけて、邦彦王は「酒井令嬢品行問題は全く取消」と、節操疑惑を取り下げる。

しかし「両者到底円満の共同生活見込なきに付、可然(しかるべく)大臣におゐて配慮頼む」と婚約破棄を繰り返すのであった(『牧野日記』)。

ようするに、振り上げた拳の落としどころに困り、宮内省で何とか処置してくれ。先方から申し出たように破談にしてくれ、というのだ。

破談交渉が続いているにも拘らず、この騒動は新聞にすっぱ抜かれた。最初に関係記事を掲載したのは9月6日付の『万朝報』だった。追いかけ記事が世間をにぎわせる。

しかも朝融王は、菊子との婚約破棄を正当化する目的で「菊子は不治の肺病なので結婚できない」と、裕仁親王に重大なウソをついていた。

裕仁親王(昭和天皇)は朝融王の不誠実さにあきれ果て、菊子に大いに同情したという。後にこれを忖度した近衛文麿らが奔走して、菊子と前田侯爵家との縁談をまとめている。

破談交渉ののち、宮内省はつぎのような発表をおこなった。

「朝融王殿下酒井菊子と御結婚のこと予て御内定の処、今回酒井家に於て本御結婚の将来を慮り辞退を申出たる趣を以て、宮家より御内定取消御聰済の儀願出られたるに就き、其手統を了せり」

ここに、宮家の体面をまもりつつ、酒井家の側から破談にさせるという、宮家およびその御曹司のわがままが、まかり通ったのである。

のちに酒井菊子は、裕仁親王の同情を忖度した近衛文麿らが尽力し、旧金沢藩主家の前田利為侯爵との縁談がまとめられ、大正14年2月7日に結婚式を挙げた。彼女は前田菊子として四人の子宝に恵まれ、戦後はマナーやエチケットに関する評論家として活躍し、1986年まで生きた。

いっぽうの朝融王は、伏見宮博恭王の三女・知子女王との縁談が成り、大正14年1月26日に婚儀の礼が執り行われた。しかし結婚後も朝融王の素行は悪く、侍女を妊娠させてしまう。戦後は事業に失敗し、親族を頼るも零落したという。

なぜ朝融王が酒井菊子に「節操の疑い」を生じたのかは、推して知るべしであろう。

◆仕掛けられた出会い

平成天皇皇后の「世紀の出会い」「テニスコートの出会い」に、仕掛けがあったのは言うまでもない。教育係の小泉信三だとする説もあるが、そうではない。現在では聖心女子大が、その窓口だったと考えられている。

というのも、テニスコートの出会いの前年度に、正田美智子は三島由紀夫と歌舞伎座観劇で見合いをしている(観劇ののち、井上という料亭で歓談)。このときの仲介者は不明だが、在学中だった聖心女子大の推薦(縁談許可)がなければ、そもそも成立しない。

けっきょく、平岡家(三島の実家)がわから断ったことになっているが、三島は母といっしょに聖心女子大の卒業式を見に行っている。本人は乗り気だったのだろう。祖母のなつが「商家の娘など」と反対したのが有力説だ。

そしてもうひとつは、天皇側近の動きである。

当時のお妃選び取材班で、元朝日新聞顧問の佐伯晋によれば「歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳」の努力があったという。

「民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果がお2人のご婚約・ご成婚だ」(JCASTニュース)。

こうして皇太子ご成婚は、正田美智子の名をとってミッチーブームを起こすほど、国民を熱狂に巻き込む。

だがその裏側には、隠然たる民間東宮妃反対運動があった。上述したとおり、ほかならぬ香淳皇后良子が反対の急先鋒であり、皇室そのものが賛否両論に揺れたのだ。

皇后良子は静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き「東宮様の御縁談について、平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたという。

皇后とともに反対派にまわった、旧皇族の梨本伊都子の日記(婚約発表当日)を紹介しておこう。

「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」(11月27日)。

北白川肇子を東宮妃に推薦していた松平信子も、明仁が正田美智子との結婚を決めたことに「妃は華族すなわち学習院出身者に限る」という慣例を主張して反対した。

これらの反対派は昭和天皇の意向にしたがって、皇室会議の決定を了承したものの、隠然たる平民東宮妃反対派として宮中および旧公家社会に残存した。

そう、彼女たちとその末裔こそが、宮内庁の旧華族守旧派とともに、美智子妃を苦しめるのである。そんななかで昭和天皇裕仁は、生物学の研究に没頭してゆく。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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保守派による昭和天皇の評価として「帝王学を修められた英邁」とするものが少なくない。その評価は君子にたいする形式的な賛辞であり、実質は激動の昭和史を国民の苦難とともに生きてきた共感であろうか。

かえりみて上記の賛辞をみたす内実があるとしたら、戦中の戦争指導の過多による講和工作の遅滞を別として、時におうじて適切な対応をこなした几帳面さであろう。大正天皇が女官制度(側室)を遠ざけ、昭和天皇において廃止したこと。人間宣言や皇太子への民主教育、これから取り上げる皇太子の民間人との結婚など、天皇制と皇室の民主化に果たした、一定の役割はみとめられるべきであろう。

だがそれにしても、中国戦争における和平工作の不徹底。太平洋戦争の開戦時における和平工作の不徹底、サイパン陥落を目途に講和へ転じることができなかった「戦争ギャンブル症候群」ともいうべき戦争指導へののめり込みは、その道義的責任や法的責任(形式)をこえて、戦争犯罪への責任が問われてしかるべきであった。

小野田寛郎が言うとおり、昭和天皇の責任の取り方における出処進退の不明確さが、戦後日本の無責任な風潮をもたらしたのは疑いないところなのだ。その昭和天皇の戦後をたどってみよう。

◆昭和天皇の戦後改革

昭和天皇の「人間宣言」は有名だが、原文(ほぼ漢文カナ書き下し)を知っている人はあまりいないのではないだろうか。正確にいえば、日本は神話の国ではなく、天皇も現御神ではないと言っているだけで、天皇が人間だとはひと言も書かれていない。

参考までに、原文の冒頭部と訳文(全文)を掲載しておこう。冒頭には「五箇条の御誓文」が引用され、わが国は近代化の「国是」として民主主義があった。とすることで、明治維新の精神に立ち返り、国家再建にいそしもう、というほどのものだ。

【原文冒頭】
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

【訳文=全文】
ここに新年を迎える。かえりみれば、明治天皇は明治の初め、国是として五箇条の御誓文をお示しになられた。それによると、
一、幅広く会議を開き、何事も議論をして世論に従い決めなければならない
一、身分の高い者も低い者も心をひとつにして、積極的に国のあり方を考えていかなければならない
一、中央政府も地方の領主も、庶民に至るまで、それぞれ志を遂げ、人々が生きていて幸せに感じる事が重要である
一、古くからの悪しき習慣を打ち破り、人類普遍の正しい道に基づいていかなければならない
一、知識を世界に求め、大いにこの国の基盤となる力を高めなければならない
お考えは公明正大であり、付け加えなければならない事柄は何もない。わたしはここに誓いを新たにして国の運命を開いていきたい。当然このご趣旨に則り、古くからの悪しき習慣を捨て、民意を自由に広げてもらい、官民を挙げて平和主義に徹し、教養を豊かにして文化を築き、そうして国民生活の向上を図り、新日本を建設しなければならない。

大小の都市の被った戦禍、罹災者の苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者増加の趨勢などは実に心を痛める事である。しかしながら、我が国民は現在の試練に直面し、なおかつ徹頭徹尾、豊かさを平和の中に求める決意は固く、その結束をよく全うすれば、ただ我が国だけでなく全人類のために、輝かしき未来が展開されることを信じている。

 

そもそも家を愛する心と国を愛する心は、我が国では特に熱心だったようだ。 今こそ、この心をさらに広げ、人類愛の完成に向け、献身的な努力をすべき時である。

思うに長きにわたった戦争が敗北に終わった結果、我が国民はややもすれば思うようにいかず焦り、失意の淵に沈んでしまいそうな流れがある。過激な風潮が段々と強まり、道義の感情はとても衰えて、そのせいで思想に混乱の兆しがあるのはとても心配な事である。

しかし私はあなたたち国民と共にいて、常に利害は同じくし喜びも悲しみも共に持ちたいと願う。私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。天皇を現御神(あきつみかみ)とし、または日本国民は他より優れた民族だとし、それで世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。 私が任命した政府は国民の試練と苦難とを緩和するため、あらゆる施策と政府の運営に万全の方法を準備しなければならない。同時に、私は我が国民が難問の前に立ち上がり、当面の苦しみを克服するために、また産業と学芸の振興のために前進することを願う。我が国民がその市民生活において団結し、寄り合い助け合い、寛容に許し合う気風が盛んになれば、わが至高の伝統に恥じない真価を発揮することになるだろう。 そのようなことは実に我が国民が人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をなす元になることは疑いようがない。

一年の計は年頭にあり、私は私が信頼する国民が私とその心をひとつにして、自ら奮いたち、自ら力づけ、そうしてこの大きな事業を完成させる事を心から願う。

以上のごとく、天皇の人間宣言は文言にはない。国民が「臣民」ではなくなったというのは、つぎのフレーズによるものであろう。

天皇と国民の絆は「信頼と敬愛」によって結ばれるべきで、わたしが任命した政府は国民のために万全の施策を準備しなければならない、と。

◆皇室現代化(民主化)の妙案とは?

さて、明治大帝の全国巡幸にならって、昭和天皇は国民との接点を親しくするいっぽう、皇室改革も具体化しなければならなかった。そのひとつは東宮(皇太子)の教育であり、その結婚もまた現代的(民主主義的)なものにしなければならない。皇統の継承とはつまり、皇位継承者の婚姻がその真髄なのである。

しばらく戦争にかかる暗いテーマがつづいたので、ここからは天皇家の唯一性という、皇統の正統性の根幹。すなわち婚姻をテーマにすすめていこう。そのことはまた、現在の秋篠宮家にかかる自由恋愛結婚にかさなるテーマでもある。(つづく)

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後に天皇の戦争責任が本格的に問われるのは、1975年を待たねばならなかった。しかし当の昭和天皇は、みずからの政治責任・戦争指導責任に敏感だった。昭和24年12月19日の拝謁では、田島道治宮内庁長官が当時の皇太子を早く外遊させるべきだという昭和天皇に理由を尋ねたところ、昭和天皇はこう語っているのだ。

【皇太子への譲位の意志】
「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ 又退位等ノ論が出テ イロイロノ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考ヘラルヽノデ ソノ為ニハ 東宮チャンガ早ク洋行スルノガ ヨイノデハナイカト思ツタ」と語ったと記されている。

これから自分の退位や譲位も考えられるが、そのためには皇太子(明仁)が海外訪問をして、即位するための準備をすることが必要なのだ、というのである。皇太子への譲位を考えているよ、という意味にほかならない。

ところが一方で、昭和天皇はこの直後にこうも語っている。

「東宮ちやんは大分できてゝいゝと思ふが、それでも退位すれば私が何か昔の院政見たやうないたくない腹をさぐられる事もある。そして何か日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」と述べ、

当時まだ若い皇太子に位を譲れば「院政」と言われ、日本のためにならないのではないか。というのだ。ようするに、退位や譲位はまだ早いと。退位を迷いながらも、皇太子の成長に頬をゆるめる。父親としてのまなざしも感じられるところだ。
いっぽう国民からの視線は、やはり隠忍自重を旨としているようだ。以下は静養に御用邸を使うこと、宮殿がうしなわれた宮城での住まいについてである。国民の苦しい境遇が「ひがみ」を持つのではないかと言うのだ。その「ひがみ」が自分の信用を落とすのではないかと心配している。

【別荘での静養】
昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論など唱へる人達、生活ニ困った人 特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「それは境遇上のひがみと思ふが、そういふ人のある事を考へても行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されている。

【住まい】
昭和24年8月30日の拝謁では、昭和天皇は御文庫(住居として使っている防空施設)の改築・新築について、こう述べている。
「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘リ(あま)皆ワルク思ツテナイ様デ 一部ニハ退位希望者アルモ 大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ 私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ 私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハ ツマラヌト思フ」

【終戦の詔勅の本意】
そして田中道治は、戦争責任に関する天皇の本音を聞いてもいる。昭和26年8月、静養先の那須御用邸で拝謁したさいに、昭和天皇は「長官だからいふのだが」と前置きしたうえで、終戦の日に放送された「終戦の詔勅」の内容に触れたというのだ。
「あれは私の道徳上の責任をいつたつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが、地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが、道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して 多少とも償ふといふ意味であるがデリケートである」と述べたとされる。

そのまま理解すれば、退位して楽な生活をするのもいいが、道義上の責任を感じるからこそ、天皇の地位にとどまって責任を償うのだ。ということになる。見た目はカッコいいが、かなり体裁を意識した発言という印象だ。

昭和26年12月13日の拝謁では、独立回復を祝う式典で述べるおことばの文案を検討する中で、昭和天皇はこう語っている。

「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」と述べ、田島長官が「それは織り込みますれば結構でございますが、余程六ケ(むつか)しいと存じますが、どこかに其意味ハ出なければならぬと存じます」と返している。じつは退位をしないかわりに、天皇と田島は、国民への公式の謝罪を検討していたことがある。

◆発見された天皇による、国民への謝罪(草稿)

天皇の「国民への謝罪詔書草稿」を、田島が起草していたのだ。書かれたのは昭和23年前後と推定されるが、それは東京裁判の判決が下った時期でもある。草稿が発見されたのは2003年のことだ。

 

【原文】
朕、即位以来茲ニ二十有余年、夙夜祖宗ト萬姓トニ背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ 勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能ク支フルナク、先ニ善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト 構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終ワリ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル。屍ヲ戦場ニ暴シ、命ヲ職域ニ致シタルモ算ナク、思フテ其人及其遺族ニ及ブ時寔ニ忡怛ノ情禁ズル能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或イハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ、剰ヘ一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時憂心 灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。身九重ニ在ルモ自ラ安カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ負荷ノ重キニ惑フ。
然リト雖モ方今、希有ノ世変ニ際會シ天下猶騒然タリ身ヲ正シウシ己レヲ潔クスルニ急ニシテ國家百年ノ憂ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸ムガ如キハ眞ニ躬ヲ責ムル 所以ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽ヘ敢テ挺身時艱ニ當リ、徳ヲ修メテ禍ヲ嫁シ、善ヲ行ツテ殃ヲ攘ヒ、誓ツテ國運ノ再建、國民ノ康福ニ寄與シ以テ祖宗 及萬姓ニ謝セントス。全國民亦朕ノ意ヲ諒トシ中外ノ形成ヲ察シ同心協力各 其天職ヲ盡シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ國威ヲ恢弘センコトヲ庶幾フ。

【訳】
 私が即位してこの二十数年、朝起きて夜寝るまで歴代の天皇や祖先、国民の期待を裏切るようなことがないよう、勉めてきたが、時勢の流れに支えきれず、周辺諸国との善隣平和な関係を失い、列強諸国と戦争状態となった。そして、遂に悲痛な敗戦となり、そして今日の見るに耐えない災難が甚だしい状況になってしまった。
 国民が死体を戦場にさらし、命をその職や受け持ちの範囲で散らしたが、そのかいもなく敗れてしまった。その本人やその遺族の皆さんのことを思うと、まことに憂いに痛む思いが止められない。
 戦闘で傷つき、戦災を被り、あるいは、身柄をまだ外国に抑留され、財産を外地で取り上げられたりする例もまた、数えきられない。おまけに、一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住が困窮して、膨大な苦痛は、日本が始まって以来の災難と言ってもいい、ひとり静かにこの事を思うと、憂い心が焼ける思いだ。
 私の徳が無い為にこのような結果となり、深く天下に謝罪するものです。身は皇居に在るのだけれども、とても落ち着いてはいられない。心を国民のもとに置き、責任の重さに心惑う。
 しかし現在まだ、歴史始まって以来の変化に遭遇して、世間はまだ騒然としている。自分だけ潔く退位することは、責任から逃れるだけで、逃げ出すことは責任をとることにならない。
 現在の国内世界情勢を考えると、国家国民の為に挺身し、その時代の難問題に当たり、徳を修めて禍を寄せ付けず、善を行って災いを掃い、国の再建国民の幸福に寄与することを誓い、それをもって、歴代天皇や国民に謝罪することにさせて下さい。
 国民の皆様、再び、私の誠の意思を理解し、国内国外情勢を察して、一致協力 それぞれの仕事に励み、この非常事態の世の中を乗り越え、国の力を広げ回復することをお願いしたい。

ここでも、退位して責任を投げ出すのは無責任であるから、国民のために挺身したい。国民も一致協力して国の再建に尽くしてほしい。というものだ。

◆原爆はしかたなかった

そのいっぽうで、昭和50年には「国民への謝罪」の内実が問われる事態も起きた。記者会見で「原爆は仕方なかった」と口をすべらせたのである。記者会見は昭和50年10月31日に日本記者クラブが主催し、皇居宮殿内の「石橋(しゃっきょう)の間」で行われたものだ。

このシリーズの冒頭に挙げた「(戦争責任という)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。」につづく答弁になる。

秋信記者 天皇陛下にお伺いいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。

昭和天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。

軍部および天皇が原爆投下を知っていた(テニアン方面への諜報活動)という説については、別稿に改めたい。戦後天皇制はやがて、皇太子(明仁)の民間人との婚儀という、幸福のオブラートに包まれながら、象徴として定着していくことになる。そのさいに始まった宮中守旧派との暗闘は、今日もなお皇室を覆っている。(つづく)

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戦後革命の挫折とともに、共産党をはじめとする左翼陣営からの天皇制批判は、忘れられたかのように鎮静化した。あたかも、天皇を論じるのは禁忌であるかのごとく、戦後も温存されたのである。

新たに天皇制が打倒対象になるのは、戦後30年をへた昭和50年(1975年)だった。この年、天皇は初めてアメリカを訪問した。それに先立つ7月には皇太子明仁夫妻が沖縄(海洋博)を訪問し、ひめゆりの塔で火炎瓶による糾弾を受けている。


◎[参考動画]沖縄 ひめゆりの塔 皇太子殿下 美智子妃殿下襲撃事件(1975年7月17日)

新左翼運動で初めて、天皇制打倒がスローガンになった年である。いや、これ以前にも67年の建国記念日の実施にさいして、同盟登校が行なわれて天皇制(紀元節)復活を批判する動きはあった。

しかし70年の華青闘告発(左翼運動のスケジュール闘争主義を批判する)いらい、新左翼が反差別運動への取り組みの中で、天皇制が差別の根幹(貴種・家柄・選良の裏返しとしての差別と排除)にあると、ようやく達した思想的な地平であった。それが75年なのだ。

当時、大学一年生だった筆者は、7月の皇太子の沖縄訪問阻止闘争、9月の天皇訪米阻止闘争を、はじめての街頭デモ(羽田現地闘争)として経験したものだ。マスメディアは新左翼の天皇闘争を「政治テーマを見失った」などと評したものだ。60年代の政策阻止闘争や安保闘争の挫折によって、政治課題を乗り移ったと見ていたのかもしれないが、女性解放運動や部落解放運動など反差別運動という新たな潮流を、これらの報道はまったく見ようとしていない。

理論的にも天皇制批判は、新左翼を支持する研究者からのものだった。旧講座派系のマルクス主義歴史学者であり、文化大革命と全共闘運動を契機に共産党を離れた、井上清をその嚆矢(こうし)とする。

『木戸幸一日記』『杉山メモ』など、この時期に出版された新史料を駆使した、『天皇の戦争責任』(1975年)が、井上清の最初の仕事である。これに続いて、天皇制国家の機構的特質をふまえて、天皇を含む宮中グループの特質と責任を明らかにした藤原彰『天皇制と軍隊』(1978年)が刊行される。

これらの研究は、戦時中の昭和天皇に政治的・軍事的実権がなかったと思われていた戦後の常識を、実証的にうち破るものだった。また「穏健派」と位置づけられていた宮中人脈の戦争責任を問題とするものでもあった。キリスト教関係者の研究としては、敗戦前後の時期の連合諸国からの天皇および天皇制への厳しい批判と、天皇制の処遇をめぐる相克を紹介した武田清子『天皇観の相剋』(1978年)がある。
このシリーズの冒頭に、天皇の政治責任を問うインタビューが行なわれたのも1975年10月である。

◎天皇制はどこからやって来たのか〈26〉 昭和天皇──その戦争責任(1)(2021年3月12日)

文学界では「近代文学」派による文学者の戦争責任がワンクール終わり、進歩的知識人と呼ばれる人たちは「思想の科学」など拠って立つ論壇で、同様の戦争責任を深めていた時期である。最後に天皇制の軍国主義を先頭で戦った兵士、戦後を天皇の軍隊復活のために生きた作家の、昭和天皇観を記しておこう。

 

小野田寛郎

◆小野田寛郎の昭和天皇観

ルバング島で発見された元日本軍将校・小野田寛郎は天皇の戦争責任についてこう語っている。

「私に命令を出したのは、天皇です。なぜ、戦争が終わったときに、連絡にこなかったのか? 救助とか捜索とかいうことはない。連絡にくればいい。それで済むことなんです。それが証拠に、命令書が来たら、私は四日で出たじゃありませんか。オヤジどもが勝手にきめやがった代議士が寄ってたかってつくったのが徴兵令で、天皇陛下がこれを裁可されたわけでしょう。われわれはその奴隷ですよ」(「小野田寛郎元少尉と語り明かした“天皇と兵隊!”」週刊現代昭和51年4月1日号、聞き手:本田靖春)。

昭和天皇の無責任な政治態度が、戦後の日本におよぼした影響についても、小野田の舌鋒はするどい。

「あのころ、多くの若者が国家存亡のときと信じて命をかけて戦場へ行った。そういう人が天皇に対する気持ちを言えと今いわれたら、だれだってぼくと同じことをいうでしょうね。上官の命令は朕の命令であり、絶対だった。そして戦った。敗戦後、日本国民はだれも天皇の責任に言及しなかったようだが、天皇は自ら責任をとるべきだった。そうされた場合、あるいは国民の間から天皇はいさぎよく責任をとられた立派な方だから、再びその座にすわって欲しいとの要望が出てきたかもしれない。そこんところをあいまいにしたことが今の無責任時代の源流になったのではないか。若者でも小役人でも、なにか間違いを犯して追及されるとすぐひらきなおるでしょう。」(『ブラジルの小野田寛郎日本国無責任論を語る』朝日ジャーナル昭和50年10月3日号、聞き手:菊地育三)。

 

三島由紀夫

◆三島由紀夫の昭和天皇観

市ヶ谷蹶起で自決した三島由紀夫は、特攻隊員と2.26事件の磯田浅一に憑依された作品『英霊の聲』のなかで、昭和天皇を呪詛する言葉を記している。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」

このリフレインは、作品を解題する三島の文章によればこうだ。

「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを陛下は二度とも逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。」(文藝、1966年6月号)。

「昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。(中略)
そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の聲」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。」(三島由紀夫「二・二六事件と私」河出文庫版)

三島の言う「二度」とは、2・26事件における鎮圧の勅命、および昭和21年の人間宣言である。忠心を承認して神としてふるまう具体性は、作家の解説には明確ではない。のちに作家は盾の會の会員たちを率い、皇居に突入して昭和天皇を弑逆する計画があったことを明らかにしている。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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東京裁判で戦犯として訴追されることを逃れた昭和天皇は、退位(明仁への譲位・弟宮による摂政)を否定した。

のちに触れるが、天皇は道義的責任と法律的な責任を明確にわけて認識していたようで、極東裁判で訴追されなかったことをもって、法律的な責任は回避できたと判断したのである。

しかし、国民のあいだには隠然たる批判があった。匿名ながら警察当局が蒐集したものとして、少なくない天皇批判が存在している。

いわく「天皇が退位した」「出家されたらしい」「沖縄に行ったようだ」「逮捕され絞首刑になった」などと、流言飛語や怪文書のたぐいはあとを絶たなかった。

◆メーデー・プラカード事件

公然としたもので有名なのは、メーデー・プラカード事件であろう。1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(正式名称は「飯米獲得人民大会」)のさいに、参加者の日本共産党員・松島松太郎の掲げたプラカードが不敬罪に問われた事件である。

 

「詔書 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)

「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)

このプラカードを見て、戦争がおわった日本は誰でも何でも発言できる自由がもたらされたのだな、と思うわれわれは歴史認識が甘すぎる。戦後も刑法が改定されるまで、治安維持法や不敬罪が存続していたのだ。

検察庁は松島を刑法74条違反で訴追したが、松島側は「ポツダム宣言の受諾によって天皇の神性消滅を受けて不敬罪は消滅した」と主張して争った。

いったん不敬罪で起訴されたものの、GHQの「天皇といえども特別の保護を受けるべきではない」という意向により、罪名は名誉毀損罪に変更される。

第一審(東京地裁昭和21年11月)は不敬罪を認めず、天皇個人に対する名誉毀損罪のみが認められた。のちの控訴審において、不敬罪の成立可能性の認定は引き継がれるも、新憲法発布による大赦で松島は免訴(裁判停止)となった。

政府はもとより、裁判所と検察は判例を残すことを肯んじなかったのであろう。大赦(恩赦)は法的には君主の職権(明治憲法では天皇の大権事項、戦後憲法では天皇の国事行為)であるから、松島は昭和天皇に赦されたことになる。

◆日本共産党の天皇制批判

その松島が所属した日本共産党は、戦前からゆいいつ天皇制を批判してきた政党である。のみならず、天皇制を絶対君主制として打倒対象にしてきた党だった。有名な32年テーゼから引用しよう。

「日本における具体的情勢の評価に際しての出発点とならねばならぬ第一のものは天皇制の性質及び比重である」として、天皇制を以下のように規定する。

「日本において1868年以後成立した絶対君主制は、その政策に幾多の変化を見たにも拘らず、無制限絶対の権をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧及び専制支配のための官僚的機構を間断なく造り上げた」

「日本の天皇制は、一方では主として地主として寄生的封建的階級に立脚し、 他方では又急速に富みつある強欲なブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の棟領と極めて緊密な永続的ブロックを結び、継々うまく柔軟性をもつて両階級の利益を代表し、それと同時に、日本の天皇制は、その独自の相対的に大なる役割と、似而非立憲法的形態で軽く粉飾されているに過ぎない。」

論点を以下の様に定式化することができる。

(1)天皇制とは「似而非立憲法的形態で粉飾されているに過ぎない」「絶対君主制」、すなわち「天皇制的国家機構」である。

(2)それは「一八六八年以後成立し」「その政策に幾多の変化を見たにも拘らず、無制限絶対の権をその掌中に維持し」ている。

(3)天皇制は「地主として寄生的封建的階級」「急速に富みつつある強欲なブルジョアジー」に立脚し「これらの階級と極めて緊密な永続的ブロックを結び」「両階級の利益を代表し」ている。

(4)「勤労階級に対する抑圧及び専制支配」「国の経済および政治的生活においてなお存するありとあらゆる野蛮なるもの」の維持という「独自の,相対的に大なる役割」を保持し「国内の政治的反動と一切の封建制の残津の主要支柱」「搾取階級の現存の独裁の輩固な背骨」となっている。

(5)その機能を果たすために天皇制は「官僚的機構を間断なく造り上げ」「最も反動的な警察支配を布」いている。

つまり天皇制とは、明治維新以後成立した絶対主義的国家機構であり、地主・ブルジョアジーに立脚し,両搾取階級の独裁および勤労階級抑圧の機能を遂行する反動的・専制的支配体制の第一義的構成要素ということになる。

 

戦後はアメリカ帝国主義の支配を受けつつも、絶対主義的な国家機構を残存させ、ブルジョア階級の支配を補完している。したがって勤労階級にとって、天皇制は打倒対象である。

しかしその共産党は、51年綱領による武装闘争方針(ロシア共産党およびコミンフォルムの決定)で、国民政党としての性格を急速に失っていく。35人いた国会議員が、武装闘争の過程でゼロになってしまうのだ。徳田球一をはじめとする指導部は、朝鮮戦争の勃発とともに公職追放となり、いわゆる冷戦体制のもとで、天皇制批判は封印されてしまうのだ。

50年代の武装闘争路線は、朝鮮戦争の後方かく乱が目的だった。朝鮮人民軍と中国の義勇軍がアメリカ軍を追い落とし、難民が日本に押し寄せたとき、イッキに戦後革命の烽火が上がる。北海道にソ連軍が上陸して、中国の占領地と分割されるか、日本に革命政権が樹立するか。その中で天皇制も廃絶されたかもしれない。その戦後革命は山村工作隊による農村根拠地禍という誤りや、GHQの謀略によって頓挫する。その挫折とともに、天皇批判も後景化されるのだった。

 

いっぽう、昭和21年(1946)から昭和29年(1954)にかけて、昭和天皇は全国を巡幸している。昭和21年元旦をもって、神から人間になった天皇が国民と接し、戦後復興をともに担う国民のシンボルとなる過程でもあった。

畏れ多い現人神から、親しまれる人間天皇へ。平和憲法の冒頭をかざる「国民統合の象徴」として、天皇は戦争責任から解放された。戦争の艱難辛苦をともに体験し、廃墟からの復興をともに歩む存在となったのである。(つづく)

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昭和20年8月15日、日本は連合国のポツダム宣言を受諾して終戦に至る。だが、少なくとも前年の7月(サイパン陥落)には、敗戦は誰の目にも明らかだった。とりわけ最新の戦況(戦果は過大だったが、詳細な損害報告)を伝えられ、戦略観にも卓越したものがあった昭和天皇において、講和交渉を始める必要を理解していたはずだ。

 

にもかかわらず、天皇をして「もうひとつ、戦果を挙げてから」(近衛上奏への回答)などと逡巡させたのは、国体護持(天皇制の維持)の可否であった。

開戦当初のような戦果を挙げて、対等とは言えないまでも、アメリカがこれ以上の出血を回避したくなる戦況が欲しかったのだ。そうでなければ、天皇制を維持できないと考えていたのである。天皇制を護持するためには、自身の退位も厭わない覚悟だったという。

◆終戦で浮上した退位論

昭和天皇は敗戦後の8月29日に、内大臣木戸幸一に退位の内意をあらわしている。
「戦争責任者を連合軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思召しあり」(木戸幸一日記)

この昭和天皇退位論は、じつは戦中からあったものだ。天皇側近のなかから、とりわけ伝統的な公卿のあいだで検討がなされていた。

細川護貞(近衛内閣の総理秘書官)の日記によれば、昭和19年の3月に、戦局の悪化をうけて細川と近衛文麿が話し合ったことが明らかになっている。その内容は敗戦後の国体問題、すなわち天皇制を維持するために、天皇が戦争の責任をとって退位し、新たな天皇を立てるという意味である。そのさい、昭和天皇の処遇はどうなるのか。この時点では、上皇になるとも何とも具体的な構想がなされた様子はない。

退位という処断のもつ重さに、ふたりは戸惑いながら話し合ったものと思われる。明治大帝いらい、皇位は一世一元(詔勅)であり、退位はありえない。細川の日記に「恐れ多いこと」とある如く、天皇の進退は禁忌に属することがらだった。

「最悪の事態については、今日から相当研究して置かねばならぬ問題であるが、恐れ多いこと乍(なが)ら、御退位の如きは、我国の歴史には度々あるのであり」(上掲の細川日記)。

そして、その近衛は20年1月に、京都の別邸に岡田啓介と米内光政(ともに海軍出身で、元総理大臣)、仁和寺の門跡岡本慈航をまねいた。このときは、無条件降伏の場合には、昭和天皇が出家して仁和寺に入る、という構想であった。

退位して出家すれば、連合国も戦争責任を問わないだろうというものだ。まるで武家騒乱の時代の、出家による禊(みそぎ)。仏門に入った者は責任を問われない。というものを想起させる天皇出家である。この退位構想が信任の厚い近衛から天皇の耳に入ったのは、おそらく間違いないであろう。

そして、いよいよ敗戦が決まった。

いっぽう、アメリカの三省調整委員会(国務省・陸軍省・海軍省)では、天皇を戦争犯罪人として戦争裁判に訴追させるべきという議論が支配的だった。唯一、日米開戦時の駐日大使だったJ.C.グルーが「天皇は平和主義者で、戦後日本の混乱を回避するためには、天皇の温存が得策である」との見解を、国務省内で展開していた。戦争犯罪裁判への天皇裕仁の訴追は、まだ微妙な段階だったのである。

中国では天皇制廃止論が主流だったが、蒋介石は日本国民の判断にまかせるべし。イギリスは立憲君主制(天皇制)の存続を認める方針だったが、天皇の戦争犯罪には言及していない。ソ連は昭和天皇の戦争責任を問い質す方針だった。いっさいは、占領軍として主導権を握るアメリカにゆだねられた。

そこで、ひろく知られているのが、昭和天皇のマッカーサー連合軍最高司令官との面会である。

 

◆マッカーサーとの会談

天皇とマッカーサーの面会・対談は、11回におよんでいる。その席上、天皇が「わたしの身はどうなってもいい」と、戦争責任を一身に引き受ける発言をして、マッカーサーを感動させたという話が伝わっている。

扶桑社の教科書は、会見の中身をこう記している。

「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。

だが、このマッカーサーの「感動」は、自分と天皇の会見を美化したものではないかと、現代史の研究者から史料批判されてきた。

◆真偽が錯綜する記録

その発端は、児島襄が公表した「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(『文藝春秋』昭和50年11月号)である。9月27日の会見に同席した通訳官奥村勝蔵が記したという「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇の発言はなかったのだ。

また平成14年10月に外務省は第1回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開したが、児島氏が公表した「御会見録」とほぼ同一の内容である。したがって公的には、天皇発言はなかったことになる。

「会見録」によると、マッカーサーが20分ほど「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となる結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。

要するに、戦争への反省と自己弁護である。マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」との天皇発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのである。

いっぽうで、日本側にも天皇とマッカーサーの発言を裏付ける記録はある。奥村メモを天皇に届けた藤田侍従長が記した「回想録」である。

職掌上、奥村メモに目を通した同侍従長は、昭和36年10月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。

問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に5枚ほどあったと思う」と述べ、天皇は次の意味のことをマッカーサーに話したとしている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

この天皇発言に続けて、藤田侍従長は「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と自分の感想を書き、つぎのようなマッカーサーの発言を記している。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)

これで天皇の戦争責任発言は、歴史のなかに復活したのである。ではなぜ、公的に否定された天皇発言が「じつはあった」となったのか。

◆削除されていた発言とマッカーサーの天皇制擁護

その後、平成14年8月5日付の「朝日新聞」は、この推測を傍証する文書を紹介する。奥村の後任通訳を務めた元外交官松井明が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井はこう記している。

「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」

松井は奥村からの話としての伝聞である。それはおそらく松井が通訳に任官する昭和24年以降のことであろう。

昭和20年当時は、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いていた。

昭和20年10月22日の三省調整委員会では、マッカーサーに対し天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報が発信されている。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に次のような回答の手紙を送ったという。

「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数10万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)。

天皇の戦争責任発言があったのかどうかは、上記の史料から推論するしかない。少なくとも認められるのは、天皇がGHQの占領政策に協力すること、マッカーサーに敬意を表して(モーニング姿)、恭順の意を表したことであろう。そしてマッカーサーはそれに「感動」し、天皇制を存続させるべきと本国に報告したのである。これが日本がアメリカに「永続敗戦」する戦後の国体となったのだ。

アメリカ政府の判断で天皇訴追が見送られたころ、昭和天皇は側近にこう語っている。明仁に譲位するにしても、摂政を立てなければならない。秩父宮は病状があり、高松宮には戦歴があってGHQがみとめないだろう。三笠宮は若すぎる、というものだ。

戦犯訴追を免れたことで退位する気がなくなったのである。しかし国民のあいだには、天皇の政治責任を追及する声は少なくなかった。(つづく)

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前回、昭和天皇が近衛文麿の「講和促進の上奏文」を肯んぜず、「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」と応えたことを記した。

 

じつはこのあと「戦果を挙げてでないと、なかなか話は難しいと思う」とある。

つまり、アメリカと対等とまではいかないが、講和交渉に応じざるを得ない戦局をつくらなければ、相手も応じないであろう。という戦略家としての判断だったことになる。

だが、前回指摘したとおり、天皇はある種のギャンブル症候群に陥っていたのではないか。いや、少なくとも個々の敗北を検証する観察眼を失っていた。大本営の幕僚たちもまた展望を描けないまま、精神論に陥っていたというべきであろう。精神論の物質的な象徴こそ、神風特別攻撃隊であった。天皇はこれにショックを受けながらも「よくやった」と称揚した。

 

山本五十六

戦前、近衛文麿に「是非やれと言われれば初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と語り、外交交渉の継続を「三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」としていた山本五十六のような人物は、もはや海軍にも陸軍にもなかった。

「国大なりといえども戦好まば必ず滅ぶ 国安らかなりといえども戦忘れなば必ず危うし」(山本五十六)をもって瞑すべし。

◆なぜ「聖断」は遅れたのか

マリアナ海戦の敗北とサイパン失陥後、茫然自失になっていた昭和天皇は、台湾沖航空戦のまぼろしの「戦果」に浮かれ、ふたたび「皇国の興廃」をかけたレイテ海戦によって意気消沈する。にもかかわらず、もう「一度戦果を挙げたい」というのだ。

近衛は奏上の直後、天皇が「(陸海軍は」台湾に敵を誘導し得ればたたき得ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思う」と語ったのを細川護貞に伝えている。

だが、アメリカ軍を台湾に誘導するには、台湾に強力な勢力がなければ応じるはずがない。すでに台湾には航空兵力はなく、敵の空爆に手をこまねいているしかなかった。台湾だけではない。たとえばニューブリテン島の海軍の拠点・ラバウルにも1年は籠城できる準備はあったが、航空兵力をうしない戦略的な意味もなくなった拠点を、アメリカ軍が攻撃する義理はなかった。

 

アメリカ軍がつぎの攻略目的にしたのは、日本の本国(沖縄)であった。大本営も本土決戦の準備のために時間稼ぎ、およびアメリカに出血を強いる「決戦」としてこれを位置づけた。生還を期さない神風特別攻撃隊が3900人にもおよぶ犠牲を出したのも、全軍が戦死・県民の4人に1人が犠牲(20万)になる沖縄戦の渦中であった。

いっぽう、本土も主要都市が焦土と化していた。昭和20年の3月10日には東京大空襲で10万人の死者がでている。そのころ、天皇はどういう生活をしていたのだろうか。

吹上にある御文庫と呼ばれる防空施設に、昭和天皇は起居していた。10トン爆弾にも耐えられるという鉄とコンクリートに覆われた場所で、皇室はその身の安全を護られていた。もっとも、アメリカ軍は占領時の必要を考慮して、のちに進駐軍の本部となる第一生命ビルほか、国会議事堂など主要な施設、皇居にも爆弾を落とすことはなかった。

 

◆沖縄戦での戦争指導

台湾ではなく沖縄が「決戦の地」になったことで、昭和天皇の「戦意」が衰えたわけではなかった。

「沖縄戦が不利になれば、陸海軍は国民の信頼を失い、今後の戦局に憂うべきものが出てくる。現地軍はなぜ攻勢に出ないのか、兵力が足らないのであれば逆上陸をやってはどうか?」と陸軍に督励している。

もともと、本土決戦の時間稼ぎとして持久戦をもとめられ、作戦は現地軍(第32軍)にまかされていた。だが、天皇の督促を電令された第32軍は、あたら中途半端な攻勢に出ることで、戦力を消耗してしまうのだった。

海軍に対しても、天皇は作戦を指導している。航空総攻撃の上奏のときに「航空部隊だけの総攻撃か?」と下問があり、それへの対応として、戦艦大和以下の水上特攻が準備されたのだ。

◆陛下に強いられた特攻

元来、特攻作戦は「志願制」であった。部隊長が「志願したい者」と隊員たちに告げ、それに全員が応じることで、形の上では「特攻隊に志願」という体裁がとられていた。

 

弾薬庫に火がまわり、爆沈する戦艦大和

しかし、戦艦大和の場合は軍令部による「命令」となった。沖縄で国民が犠牲になっているのに、大和は生き残っているのか。と、詰め腹を切らされたのである。天皇の下問がその契機になったのは、いうまでもない。宇垣纏海軍中将は、その日記『戦藻録』に、その悲惨な無駄死にを「軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやの御下問に対し、海軍全兵力を使用いたすと奉答でるにある」と記している。

戦艦大和の沈没(4月7日)、沖縄戦の敗北(6月23日)で、あとは本土決戦を待つのみとなった。そのかん、ドイツの降伏とムソリーニ処刑が4月30日に天皇に報告され、日本単独での戦争継続は不可能との奏上(東郷重徳外相)を受けている。このとき天皇は「早期終戦を希望する」と返答している(『実録』)。

木戸内大臣によると「従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ。それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇聯(ソ連)が出てくるとの御意見であった」(『高木海軍少将覚え書』)。これはまだ、沖縄戦が渦中にあった時期のことだ。

◆混迷する和平の模索

木戸内府をはじめとする宮中首脳、海軍首脳の終戦派などのあいだで、ようやく天皇による「聖断」の準備が考慮されはじめていた。本土決戦で行けるところまでいき、あるタイミング(もう戦争は無理?)で天皇の聖断を仰ぐというものだ。

陸軍の主流派は本土決戦を合言葉に、国民もまた「一億玉砕」の空気だった。すでにラジオで「海ゆかば」が流れるときは「玉砕」の訃報、軍艦行進曲が流れるときは「戦果」がまがりなりにも報じられる国民生活である。もっぱら「玉砕」という言葉が、国民の将来を覆っていた。

3000機とも4000機ともいわれる残存航空部隊と海上特攻兵器など、陸軍および海軍の戦争継続派は、本土決戦の準備にこれつとめている。

天皇は「本土決戦準備」の現状を知りたくても、参謀総長の上奏がないので心配し、侍従武官の大半を九十九里方面に派遣して視察させている。その結果、軍部が言うほどの準備があるわけではないと、認識を深めていた(「実録」)。

いっぽう、最高戦争指導会議ではソ連を仲介とする和平工作が検討されていた。東郷外相の委嘱をうけた広田弘毅元首相が6月3日から、マリク駐日ソ連大使との会談を開始する。

このほか、中国人繆斌(みょうひん)を通じて、重慶の国民政府との和平交渉のルートを探ろうとした繆斌工作。45年4月シベリア経由で帰国した駐日スウェーデン公使バッゲを通じて、連合国側に和平条件の探りを入れようとしたバッゲ工作。スイス駐在海軍武官藤村義朗中佐らがアメリカの情報謀略機関のアレン・ダレスとの接触を図ったダレス工作などが終戦工作としてあげられるが、いずれも日本政府が正式に取り上げたものではなく、何の成果もあげなかった。

◆けっきょく、原子爆弾がすべてを決めた

これに対して、マリク大使との交渉は正規のものである。広田・マリク対談についで、佐藤尚武駐ソ大使にソ連側との交渉を命じたことから、日ソ両国の正式の交渉となった。

ソ連側からの質問に「和平の斡旋依頼だ」と答えて、近衛文麿を天皇の特派使節として派遣しようとした。しかるにソ連は回答を引き延ばし、交渉はなんら具体化しなかった。周知のとおり、1945年2月のヤルタ会談で、米英に対して対日参戦を約束していたのである。

7月には天皇も戦争継続をあきらめていたが、上記の日ソ交渉に期待がかかり、ポツダム宣言は無視した。そのかん、空襲による国民の犠牲はつづいた。

そして8月6日、人類史を画する蛮行が行なわれる。広島への原爆投下である。さらにソ連が参戦した9日、長崎にも原爆が投下される。ここに至って、ようやく政府首脳(鈴木貫太郎政権)は「聖断」を天皇に請う。

日清・日露・第一次大戦のように軍部だけで戦い、その延長に講和を展望する昭和天皇の戦争指導は、戦略・戦術の全面的な破綻ののちに、ついに国家の壊滅をもって終局したのである。敗戦ではなく、それは大日本帝国の崩壊だった。

それではなぜ、解体した国家の主権者たる天皇が戦争犯罪に問われず、戦後を生き延びたのであろうか。われわれの疑問は尽きない。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。太平洋戦争が熾烈をきわめるなか、天皇はどこかでアメリカに一撃をあたえるまで、講和の条件はないと考えていた。それは国体の護持という思惑、言いかえれば保身であった。昭和天皇に批判される責任があるとすれば、戦争を長引かせたこの身勝手な思惑であろう。

◆台湾沖航空戦のまぼろし

 

昭和19年(1944)6月19・20日に戦われた、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わった。日本海軍は空母3隻を喪失、艦載機400機を失い、機動部隊を基幹とした艦隊を構成できなくなったのだ。

太平洋戦争において、決定的な役割を果たした空母機動部隊をもってする海戦は、もはや日本海軍にとって不可能となり、サイパン島も上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

このとき、天皇は逆再上陸によるサイパン奪還を、嶋田軍令部総長に対して、二度にわたって要求している。天皇の戦略的な勘は生きていたというべきであろう。まさにここが太平洋戦争の正念場だった。その希望はしかし、かなわなかった。すでに機動部隊が崩壊し、制海・制空権ともにアメリカに握られていたのだ。

サイパン失陥はそのまま、アメリカ軍をして東京空襲を可能とさせる(初空襲は昭和19年11月24日)。8月にはテニアンが陥れられ、いよいよアメリカ軍の空爆が秒読みとなった。

このころ、昭和天皇が戦争指導に熱意をうしなったことは、前回述べたとおりだ。海戦と島嶼攻防の敗北に意気消沈したところで、講和工作を本格的にはじめていれば、あるいはアメリカの東京空襲は計画だけに終わったかもしれない。

ところが、意気消沈した昭和天皇を驚かせる、そしてにわかに活気づける報告が10月に訪れたのだ。台湾沖航空戦の「大勝利」である。

 

昭和19年10月12日~15日にかけて、台湾沖で行なわれた航空戦(捷号作戦)の「戦果(大本営発表)」は以下のとおりである。
【撃沈(アメリカ軍の損害)】 航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻
【撃破】航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻
【撃墜】112機(基地における撃墜を含まず)
【日本軍の損害】飛行機未帰還312機

もうこれは、ほとんどアメリカ海軍太平洋艦隊の壊滅を意味すると思われた。19隻もの空母を撃沈、ないしは撃破したのである。

だが、フィリピン近海に十数隻の空母をともなうアメリカ艦隊が現れたとき、大本営はしばらく混乱したが、別の新手が出現したものと、台湾での戦果を疑わなかった(一部の軍幹部は「戦果」に懐疑的であった)。
じっさいの損害は、以下のごとくである。

《双方の損害》
【日本軍】 航空機 312機
【アメリカ軍】 航空機89機、搭乗員約100名
※空母2隻が小破・巡洋艦3隻が大破・駆逐艦2隻が損傷(うち1隻は衝突事故によるもの)

じっさいには、アメリカ艦隊をわずかに傷つけたにすぎなかった。その反面、300機以上の日本機が失われたのは事実だった。誤報の理由も明らかだった。

数日にわたる空海戦には夜間戦闘もあり、経験不足の日本機パイロットは、アメリカ艦船の近くで水柱が上がったのを見て、ことごとく撃沈・撃破と思い込んでいたのである。爆弾は信管に水圧がかかっただけで破裂し、大げさな水柱があがる。それにしても、あまりの「戦果」の違いである。

この「戦果」の結果、つづくレイテ作戦ではアメリカの上陸部隊の壊滅、および戦艦隊によるレイテ湾突入が企図されたのだ。

この時期の昭和天皇は、あきらかに一種のギャンブル脳になっていたと思われる。

緒戦の劇的な戦果、向かうところ敵なしの皇軍。ガタルカナル・ミッドウェイ以降も、負けが込むにつれて、緒戦の快哉が忘れられずにいたはずだ。勝利の脳内麻薬が忘れられなかったのだ。

マリアナ海戦とサイパン陥落で、その敗戦の理由に冷静な分析を加えていれば、あるいは講和路線への転換もあったかもしれない。少なくとも、本土が本格的に空爆に晒される前に、講和戦略に転換することも可能だった。故事に言う「勝敗は時の運」ではなく、敗戦には合理的な理由があるのだ。

 

じつはミッドウェイにおける空母機動部隊の敗戦の理由は、緒戦のインド洋作戦でも露呈していた問題なのだ。

攻撃機の爆装から雷装への転換に時間がかかること、したがって装備を転換しているときに襲われた結果が、3空母の同時被爆であり、それも急降下爆撃による飛行甲板のダメージという、空母にとっては致命的なものだった。

この急降下爆撃の威力も、南太平洋の海戦で判明しているにもかかわらず、日本海軍は伝統的な雷撃(爆装から雷装)にこだわって勝機を逸したのである。

もうひとつ、日本海軍航空部隊の致命的な弱点は、ゼロ戦や一式陸攻などにみられる防御システムの脆弱性だった。旋回力(空戦能力)や航続距離を重視するあまり、搭乗員の防御(機銃の弾丸を防ぐ鋼板)を犠牲にした結果、開戦いらいのベテランパイロットたちを失ってきたのだ。

予科練(中学3年から受験可能)を基盤に、中学生を殴って鍛えるという教育方法にも限界があった。対するアメリカ軍は、心身ともに優秀な大学生をパイロットに育成し、その生命を強度な防御力をもったグラマンやロッキード機、日本機の到達できない高空を巡航する「空の要塞」と呼ばれる爆撃機など、戦術思想においても大きな違いがあった。その戦術思想の差こそが、昭和17年中盤以降の戦況となって顕われたのである。

そして戦争が長期化することで、工業力・人口・物資の差が歴然となってくる。その意味では、昭和天皇が開戦にあたって講和戦略を云々していたのは慧眼であった。にもかかわらず、時の運をたのむ戦略観に陥ってしまったのだ。

はたして、レイテ沖海戦においては、その彼我の物量の差が明らかになった。

アメリカ海軍がこの海戦(陸軍のフィリピン上陸支援)に動員した艦船は、空母35隻、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141、航空機1000機、ほかに補助艦1500隻である。

対する日本海軍は、空母4隻、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34、航空機は基地発進をふくめて600であった。ほぼ大敗といえる、その結果も記しておこう。

【日本の損害】空母4・戦艦3・巡洋艦10・駆逐艦9
【アメリカの損害】空母3・駆逐艦3

※フィリピンのサマール沖で、大和を基幹とする戦艦がアメリカの小型空母を攻撃するも、ぎゃくに航空機の反撃に遭う。上の写真は日本の戦艦の砲弾を浴びる米艦隊を背景に、反撃に出ようとするアメリカ機。

レイテ沖海戦の結果、日本海軍は艦隊を組むこともままならない。ほぼ崩壊状態となった。このとき神風特別攻撃隊が組織され、航空機の攻撃では唯一の戦果をあげた。その攻撃を聞かされた昭和天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかし、よくやった」と感想をのべたという。神風自爆攻撃は、大元帥の裁可を受けたのである。

やがて沖縄は鉄の暴風に見舞われ、本土の各都市も高高度からの無差別攻撃にさらされる。それでもなお、昭和天皇は戦争の幕引きをしようとはしなかった。

◆戦争を長引かせた責任

東京が空襲を受けるようになった昭和20年(1945)2月14日、近衛文麿元総理は、敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めた。

ところが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと答え、これを拒否したのである。

そしてこのときの判断次第では、それ以降の敵味方の損害はなかった可能性もある。このとき、天皇が早期終結を受け入れ、命じていれば、少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。(つづく)

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。日中戦争の泥沼化のなかで、暴走する軍部(関東軍)およびそれを統制できない政権に懐疑的だった天皇は、開戦劈頭(へきとう)の「大勝利」に浮かれた。そして、大元帥としての軍事的才能を開花させるのだ。

◆開戦前から和平への道を模索する

 

日米開戦が決定的になった時期、昭和天皇は講和への外交工作を気にかけている。

「戦争終結の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹つるの要あるべし」(『高松宮日記』天皇から木戸幸一への下問)と、開戦前に講和工作を模索しようとしていたのだ。

この天皇の要求を、軍部も無視していない。

開戦に当っての大本営政府連絡会議の「腹案」には、独ソ講和によって日独伊三国が英国を降伏させ、ソ連を枢軸側に引きこむ。蒋介石専権の打倒および米豪の海上交通路を遮断し、アメリカをして戦意喪失させる、という希望的展望が盛り込まれている。

さらには具体的に、前掲の天皇の意を受けて、スウェーデン、ポルトガルを通じたローマ法皇庁への外交戦略も付加されている。開戦後も連合軍のシチリア上陸時に、ドイツがルーマニアの油田を失う可能性が論じられ、日本として独ソ妥協を講じられなければ、戦争方針を変更しなければならないことが検討されている(『真田穣一郎日記』)。

これらの戦争戦略、外交政策による戦争の早期終結が実現しなかったのは、戦争の性格がそれまでにない、総力戦に変わっていたからにほかならない。

総力戦とは国民経済(生産と消費)の戦争経済(軍需に集中)への転換であり、それは軍事技術・兵器の高額化と大量化に促されたものだ。

その意味では、昭和天皇が開戦にあたって、和平への道を模索していたのは、講和が容易だった日清・日露戦争、あるいは第一次大戦を限定的に戦った歴史から考えていたものにすぎない。

総力戦の時代には政治(外交)が後景化され、軍事(戦闘)が最優先になる。政治と軍事が逆転するのだ。そしてそれは、兵器の大規模化と国民の総動員によって、国家の崩壊まで突き進む。このことを天皇は理解していなかった。いや、天皇自身が総力戦に呑み込まれていくのである。

◆龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」

 

開戦劈頭、日本は海軍が真珠湾にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅し、陸軍もマレー上陸から怒涛の進撃を開始する。開戦三日目には、イギリス東洋艦隊(戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス)を航空作戦で壊滅させた。

2月にはシンガポール陥落(英軍降伏)、バンドンでオランダ軍が降伏。海軍もインド洋で残存英国艦隊(空母ハーミスほか)を壊滅させ、艦隊決戦となったスラバヤ沖海戦、バダビア沖海戦においても、米・豪・蘭・英の連合軍を敗走させた。赫赫たる勝利である。

龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と天皇は喜びを述べている。じつは天皇自身が、イギリス艦隊の動き(出港)に注意するよう、戦争開始前から軍部に指示をしていた。南部仏印進駐時やイギリス艦隊の動向など、軍事的な才能さえ感じさせる発言が残されている。

フィリピンのコレヒドール要塞の攻略に手こずったとき、天皇は大本営陸軍部を執拗に督励し、追加部隊の派遣を要求している。まさに大元帥として、戦争を指揮し、督戦しているのだ。

◆陸軍機は使えないのか?

 

米豪の交通を断つ目的で、日本海軍はニューブリテン島にラバウル基地をつくり、さらにソロモン諸島に戦線を延ばした。ニューギニアの攻略を目的とした陸軍とのあいだに、齟齬が生じるようになってしまう。昭和17年の南太平洋における戦いは、天皇にとって陸軍と海軍の提携が気になって仕方なかった。

「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空隊では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないか」(田中新一『業務日誌』)。

陸軍はこのとき、中国の重慶攻撃のために爆撃機を南方から撤退させる計画を進めていた。しかも陸軍機は、洋上での航法に慣れていなかった。編隊からはぐれてしまうと、海上で迷子になったまま帰還できない爆撃機も少なくなかったのである。

ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪われると、天皇は三度目の督促をする。

「海軍機の陸戦協力はうまくいくのか、陸軍航空を出せないのか」(「実録」)と。

このガダルカナル島の苦戦を、軍部以上に気にかけていたのは昭和天皇だった。

「ひどい作戦になったではないか」(「実録」)と、感想をのべている。

珊瑚海海戦、南太平洋開戦で海軍が得た勝利も「小成」と評価はきびしい。開戦当初の勢いからすれば、アメリカの戦意を喪失させる大勝が待ち遠しかったのである。

◆日露戦争の教訓から注意を喚起するも

 

学者的な几帳面さで、歴史にも通じていた昭和天皇は、困難な時期にも軍事的な天才ぶりを見せている。海軍がガタルカナル島の米軍飛行場を、夜間艦砲射撃しようとした(天皇に上奏)さいのことだ。

「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初島八島の例あり、注意を要す」(『戦藻録』)と釘を刺したのだ。

日露戦争の旅順閉塞戦のとき、戦艦の初瀬と八島が機雷によって沈没した、ある意味では貴重な戦訓を、海軍の永野修身軍令部総長に伝えたのである。

この天皇の警告は、的中してしまった。海軍にとって二度目の艦砲射撃(一度目は戦艦金剛と榛名)だったが、同じような航路をとってガタルカナルに接近した戦艦比叡と霧島は、待ち構えていたアメリカ軍の新鋭戦艦のレーダー砲撃の餌食となったのだ。夜間攻撃であれば、いちど成功した航路をたどりやすい。アメリカは用意周到にこれを狙い、昭和天皇も歴史に学ぶ者にしかない直感で、危機を感じ取っていたことになる。

昭和17年6月には、ガタルカナル島攻防(撤退)とならんで太平洋戦争のターニングポイントになるミッドウェイ海戦で、海軍も致命的な敗北を負った。

この年の12月、昭和天皇は陸海軍とも「ソロモン方面の情勢に自信を持っていないようである」「如何にして敵を屈服させるかの方途が知りたい」「大本営会議を開くべきで、このためには年末年始もない」と軍部を突き上げた。

そして実際に、12月31日に大本営会議が開かれた。ガタルカナル島撤退後、どこかで攻勢に出なければならない、という天皇の焦りが感じられる。

◆決戦をもとめる天皇

昭和18年になるとアッツ島玉砕をはじめ、アメリカ軍の反転攻勢がめざましくなる。

「どこかの正面で、米軍を叩きつけることはできぬか」(『杉山メモ』)という言葉を何度も発している。

昭和天皇の発言だけを見ていると、軍部にやる気が感じられないかのようだ。いや、軍部は戦力的な手詰まりに陥っていたのだ。太平洋上に延びきった前線では、アメリカ軍との戦いよりも、兵士たちは飢えと感染症に苦しんでいた。輸送船が潜水艦に狙われ、海軍は前線の補給のために駆逐艦を使わなければならなかった。

昭和19年の元旦には「昨日の上奏(上聞)につき」として「T(輸送船)北上につき、敵の牽制なるやも知れず『ニューブリテン』西方注意すべし」と、侍従武官を呼びつけて警告している。この年も大晦日まで、軍務にかかる上奏を受けていたことになる。

それはともかく、実際にアメリカ軍は輸送船団を陽動部隊にして、日本軍の注意をニューブリテン島に惹きつけておいて、ニューギニア北部に上陸していたのだ。昭和天皇の細かい注意力は、数千キロ離れた戦場に向けられていたのである。

 

しかし全般的に、昭和天皇の戦争指導は減退してゆく。

敵機動部隊(スプルーアンス提督が率いる15隻の空母部隊)がサイパンに近づくと、天皇はサイパン失陥で東京がB29の爆撃範囲に入ることを考え、海軍に不退転の決戦をもとめる。

「このたびの作戦は、国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」(「業務日誌」)と。

しかるに、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わる。空母3隻を喪失、艦載機400機を失ったのである。そしてサイパン島も、上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

意気消沈した天皇は、吹上御所で夜ごとにホタルの灯をながめていたという。このときこそ、昭和天皇は戦前からの持論であった「講和交渉」を始めるべきであった。

結果論で批判しているのではない。みずから語った日本海海戦に比すべき戦いに負け、サイパンが陥落したのだから、東京空襲の災禍は誰の目にもわかっていた。国家を崩壊させる総力戦の威力を、しかし天皇は徐々に知ることによって「和平」のタイミングを逸し、国民を絶望的な戦いに巻き込んでしまうのだ。(つづく)

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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