昭和20年8月15日、日本は連合国のポツダム宣言を受諾して終戦に至る。だが、少なくとも前年の7月(サイパン陥落)には、敗戦は誰の目にも明らかだった。とりわけ最新の戦況(戦果は過大だったが、詳細な損害報告)を伝えられ、戦略観にも卓越したものがあった昭和天皇において、講和交渉を始める必要を理解していたはずだ。

 

にもかかわらず、天皇をして「もうひとつ、戦果を挙げてから」(近衛上奏への回答)などと逡巡させたのは、国体護持(天皇制の維持)の可否であった。

開戦当初のような戦果を挙げて、対等とは言えないまでも、アメリカがこれ以上の出血を回避したくなる戦況が欲しかったのだ。そうでなければ、天皇制を維持できないと考えていたのである。天皇制を護持するためには、自身の退位も厭わない覚悟だったという。

◆終戦で浮上した退位論

昭和天皇は敗戦後の8月29日に、内大臣木戸幸一に退位の内意をあらわしている。
「戦争責任者を連合軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思召しあり」(木戸幸一日記)

この昭和天皇退位論は、じつは戦中からあったものだ。天皇側近のなかから、とりわけ伝統的な公卿のあいだで検討がなされていた。

細川護貞(近衛内閣の総理秘書官)の日記によれば、昭和19年の3月に、戦局の悪化をうけて細川と近衛文麿が話し合ったことが明らかになっている。その内容は敗戦後の国体問題、すなわち天皇制を維持するために、天皇が戦争の責任をとって退位し、新たな天皇を立てるという意味である。そのさい、昭和天皇の処遇はどうなるのか。この時点では、上皇になるとも何とも具体的な構想がなされた様子はない。

退位という処断のもつ重さに、ふたりは戸惑いながら話し合ったものと思われる。明治大帝いらい、皇位は一世一元(詔勅)であり、退位はありえない。細川の日記に「恐れ多いこと」とある如く、天皇の進退は禁忌に属することがらだった。

「最悪の事態については、今日から相当研究して置かねばならぬ問題であるが、恐れ多いこと乍(なが)ら、御退位の如きは、我国の歴史には度々あるのであり」(上掲の細川日記)。

そして、その近衛は20年1月に、京都の別邸に岡田啓介と米内光政(ともに海軍出身で、元総理大臣)、仁和寺の門跡岡本慈航をまねいた。このときは、無条件降伏の場合には、昭和天皇が出家して仁和寺に入る、という構想であった。

退位して出家すれば、連合国も戦争責任を問わないだろうというものだ。まるで武家騒乱の時代の、出家による禊(みそぎ)。仏門に入った者は責任を問われない。というものを想起させる天皇出家である。この退位構想が信任の厚い近衛から天皇の耳に入ったのは、おそらく間違いないであろう。

そして、いよいよ敗戦が決まった。

いっぽう、アメリカの三省調整委員会(国務省・陸軍省・海軍省)では、天皇を戦争犯罪人として戦争裁判に訴追させるべきという議論が支配的だった。唯一、日米開戦時の駐日大使だったJ.C.グルーが「天皇は平和主義者で、戦後日本の混乱を回避するためには、天皇の温存が得策である」との見解を、国務省内で展開していた。戦争犯罪裁判への天皇裕仁の訴追は、まだ微妙な段階だったのである。

中国では天皇制廃止論が主流だったが、蒋介石は日本国民の判断にまかせるべし。イギリスは立憲君主制(天皇制)の存続を認める方針だったが、天皇の戦争犯罪には言及していない。ソ連は昭和天皇の戦争責任を問い質す方針だった。いっさいは、占領軍として主導権を握るアメリカにゆだねられた。

そこで、ひろく知られているのが、昭和天皇のマッカーサー連合軍最高司令官との面会である。

 

◆マッカーサーとの会談

天皇とマッカーサーの面会・対談は、11回におよんでいる。その席上、天皇が「わたしの身はどうなってもいい」と、戦争責任を一身に引き受ける発言をして、マッカーサーを感動させたという話が伝わっている。

扶桑社の教科書は、会見の中身をこう記している。

「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。

だが、このマッカーサーの「感動」は、自分と天皇の会見を美化したものではないかと、現代史の研究者から史料批判されてきた。

◆真偽が錯綜する記録

その発端は、児島襄が公表した「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(『文藝春秋』昭和50年11月号)である。9月27日の会見に同席した通訳官奥村勝蔵が記したという「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇の発言はなかったのだ。

また平成14年10月に外務省は第1回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開したが、児島氏が公表した「御会見録」とほぼ同一の内容である。したがって公的には、天皇発言はなかったことになる。

「会見録」によると、マッカーサーが20分ほど「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となる結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。

要するに、戦争への反省と自己弁護である。マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」との天皇発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのである。

いっぽうで、日本側にも天皇とマッカーサーの発言を裏付ける記録はある。奥村メモを天皇に届けた藤田侍従長が記した「回想録」である。

職掌上、奥村メモに目を通した同侍従長は、昭和36年10月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。

問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に5枚ほどあったと思う」と述べ、天皇は次の意味のことをマッカーサーに話したとしている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

この天皇発言に続けて、藤田侍従長は「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と自分の感想を書き、つぎのようなマッカーサーの発言を記している。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)

これで天皇の戦争責任発言は、歴史のなかに復活したのである。ではなぜ、公的に否定された天皇発言が「じつはあった」となったのか。

◆削除されていた発言とマッカーサーの天皇制擁護

その後、平成14年8月5日付の「朝日新聞」は、この推測を傍証する文書を紹介する。奥村の後任通訳を務めた元外交官松井明が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井はこう記している。

「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」

松井は奥村からの話としての伝聞である。それはおそらく松井が通訳に任官する昭和24年以降のことであろう。

昭和20年当時は、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いていた。

昭和20年10月22日の三省調整委員会では、マッカーサーに対し天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報が発信されている。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に次のような回答の手紙を送ったという。

「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数10万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)。

天皇の戦争責任発言があったのかどうかは、上記の史料から推論するしかない。少なくとも認められるのは、天皇がGHQの占領政策に協力すること、マッカーサーに敬意を表して(モーニング姿)、恭順の意を表したことであろう。そしてマッカーサーはそれに「感動」し、天皇制を存続させるべきと本国に報告したのである。これが日本がアメリカに「永続敗戦」する戦後の国体となったのだ。

アメリカ政府の判断で天皇訴追が見送られたころ、昭和天皇は側近にこう語っている。明仁に譲位するにしても、摂政を立てなければならない。秩父宮は病状があり、高松宮には戦歴があってGHQがみとめないだろう。三笠宮は若すぎる、というものだ。

戦犯訴追を免れたことで退位する気がなくなったのである。しかし国民のあいだには、天皇の政治責任を追及する声は少なくなかった。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回、昭和天皇が近衛文麿の「講和促進の上奏文」を肯んぜず、「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」と応えたことを記した。

 

じつはこのあと「戦果を挙げてでないと、なかなか話は難しいと思う」とある。

つまり、アメリカと対等とまではいかないが、講和交渉に応じざるを得ない戦局をつくらなければ、相手も応じないであろう。という戦略家としての判断だったことになる。

だが、前回指摘したとおり、天皇はある種のギャンブル症候群に陥っていたのではないか。いや、少なくとも個々の敗北を検証する観察眼を失っていた。大本営の幕僚たちもまた展望を描けないまま、精神論に陥っていたというべきであろう。精神論の物質的な象徴こそ、神風特別攻撃隊であった。天皇はこれにショックを受けながらも「よくやった」と称揚した。

 

山本五十六

戦前、近衛文麿に「是非やれと言われれば初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と語り、外交交渉の継続を「三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」としていた山本五十六のような人物は、もはや海軍にも陸軍にもなかった。

「国大なりといえども戦好まば必ず滅ぶ 国安らかなりといえども戦忘れなば必ず危うし」(山本五十六)をもって瞑すべし。

◆なぜ「聖断」は遅れたのか

マリアナ海戦の敗北とサイパン失陥後、茫然自失になっていた昭和天皇は、台湾沖航空戦のまぼろしの「戦果」に浮かれ、ふたたび「皇国の興廃」をかけたレイテ海戦によって意気消沈する。にもかかわらず、もう「一度戦果を挙げたい」というのだ。

近衛は奏上の直後、天皇が「(陸海軍は」台湾に敵を誘導し得ればたたき得ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思う」と語ったのを細川護貞に伝えている。

だが、アメリカ軍を台湾に誘導するには、台湾に強力な勢力がなければ応じるはずがない。すでに台湾には航空兵力はなく、敵の空爆に手をこまねいているしかなかった。台湾だけではない。たとえばニューブリテン島の海軍の拠点・ラバウルにも1年は籠城できる準備はあったが、航空兵力をうしない戦略的な意味もなくなった拠点を、アメリカ軍が攻撃する義理はなかった。

 

アメリカ軍がつぎの攻略目的にしたのは、日本の本国(沖縄)であった。大本営も本土決戦の準備のために時間稼ぎ、およびアメリカに出血を強いる「決戦」としてこれを位置づけた。生還を期さない神風特別攻撃隊が3900人にもおよぶ犠牲を出したのも、全軍が戦死・県民の4人に1人が犠牲(20万)になる沖縄戦の渦中であった。

いっぽう、本土も主要都市が焦土と化していた。昭和20年の3月10日には東京大空襲で10万人の死者がでている。そのころ、天皇はどういう生活をしていたのだろうか。

吹上にある御文庫と呼ばれる防空施設に、昭和天皇は起居していた。10トン爆弾にも耐えられるという鉄とコンクリートに覆われた場所で、皇室はその身の安全を護られていた。もっとも、アメリカ軍は占領時の必要を考慮して、のちに進駐軍の本部となる第一生命ビルほか、国会議事堂など主要な施設、皇居にも爆弾を落とすことはなかった。

 

◆沖縄戦での戦争指導

台湾ではなく沖縄が「決戦の地」になったことで、昭和天皇の「戦意」が衰えたわけではなかった。

「沖縄戦が不利になれば、陸海軍は国民の信頼を失い、今後の戦局に憂うべきものが出てくる。現地軍はなぜ攻勢に出ないのか、兵力が足らないのであれば逆上陸をやってはどうか?」と陸軍に督励している。

もともと、本土決戦の時間稼ぎとして持久戦をもとめられ、作戦は現地軍(第32軍)にまかされていた。だが、天皇の督促を電令された第32軍は、あたら中途半端な攻勢に出ることで、戦力を消耗してしまうのだった。

海軍に対しても、天皇は作戦を指導している。航空総攻撃の上奏のときに「航空部隊だけの総攻撃か?」と下問があり、それへの対応として、戦艦大和以下の水上特攻が準備されたのだ。

◆陛下に強いられた特攻

元来、特攻作戦は「志願制」であった。部隊長が「志願したい者」と隊員たちに告げ、それに全員が応じることで、形の上では「特攻隊に志願」という体裁がとられていた。

 

弾薬庫に火がまわり、爆沈する戦艦大和

しかし、戦艦大和の場合は軍令部による「命令」となった。沖縄で国民が犠牲になっているのに、大和は生き残っているのか。と、詰め腹を切らされたのである。天皇の下問がその契機になったのは、いうまでもない。宇垣纏海軍中将は、その日記『戦藻録』に、その悲惨な無駄死にを「軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやの御下問に対し、海軍全兵力を使用いたすと奉答でるにある」と記している。

戦艦大和の沈没(4月7日)、沖縄戦の敗北(6月23日)で、あとは本土決戦を待つのみとなった。そのかん、ドイツの降伏とムソリーニ処刑が4月30日に天皇に報告され、日本単独での戦争継続は不可能との奏上(東郷重徳外相)を受けている。このとき天皇は「早期終戦を希望する」と返答している(『実録』)。

木戸内大臣によると「従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ。それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇聯(ソ連)が出てくるとの御意見であった」(『高木海軍少将覚え書』)。これはまだ、沖縄戦が渦中にあった時期のことだ。

◆混迷する和平の模索

木戸内府をはじめとする宮中首脳、海軍首脳の終戦派などのあいだで、ようやく天皇による「聖断」の準備が考慮されはじめていた。本土決戦で行けるところまでいき、あるタイミング(もう戦争は無理?)で天皇の聖断を仰ぐというものだ。

陸軍の主流派は本土決戦を合言葉に、国民もまた「一億玉砕」の空気だった。すでにラジオで「海ゆかば」が流れるときは「玉砕」の訃報、軍艦行進曲が流れるときは「戦果」がまがりなりにも報じられる国民生活である。もっぱら「玉砕」という言葉が、国民の将来を覆っていた。

3000機とも4000機ともいわれる残存航空部隊と海上特攻兵器など、陸軍および海軍の戦争継続派は、本土決戦の準備にこれつとめている。

天皇は「本土決戦準備」の現状を知りたくても、参謀総長の上奏がないので心配し、侍従武官の大半を九十九里方面に派遣して視察させている。その結果、軍部が言うほどの準備があるわけではないと、認識を深めていた(「実録」)。

いっぽう、最高戦争指導会議ではソ連を仲介とする和平工作が検討されていた。東郷外相の委嘱をうけた広田弘毅元首相が6月3日から、マリク駐日ソ連大使との会談を開始する。

このほか、中国人繆斌(みょうひん)を通じて、重慶の国民政府との和平交渉のルートを探ろうとした繆斌工作。45年4月シベリア経由で帰国した駐日スウェーデン公使バッゲを通じて、連合国側に和平条件の探りを入れようとしたバッゲ工作。スイス駐在海軍武官藤村義朗中佐らがアメリカの情報謀略機関のアレン・ダレスとの接触を図ったダレス工作などが終戦工作としてあげられるが、いずれも日本政府が正式に取り上げたものではなく、何の成果もあげなかった。

◆けっきょく、原子爆弾がすべてを決めた

これに対して、マリク大使との交渉は正規のものである。広田・マリク対談についで、佐藤尚武駐ソ大使にソ連側との交渉を命じたことから、日ソ両国の正式の交渉となった。

ソ連側からの質問に「和平の斡旋依頼だ」と答えて、近衛文麿を天皇の特派使節として派遣しようとした。しかるにソ連は回答を引き延ばし、交渉はなんら具体化しなかった。周知のとおり、1945年2月のヤルタ会談で、米英に対して対日参戦を約束していたのである。

7月には天皇も戦争継続をあきらめていたが、上記の日ソ交渉に期待がかかり、ポツダム宣言は無視した。そのかん、空襲による国民の犠牲はつづいた。

そして8月6日、人類史を画する蛮行が行なわれる。広島への原爆投下である。さらにソ連が参戦した9日、長崎にも原爆が投下される。ここに至って、ようやく政府首脳(鈴木貫太郎政権)は「聖断」を天皇に請う。

日清・日露・第一次大戦のように軍部だけで戦い、その延長に講和を展望する昭和天皇の戦争指導は、戦略・戦術の全面的な破綻ののちに、ついに国家の壊滅をもって終局したのである。敗戦ではなく、それは大日本帝国の崩壊だった。

それではなぜ、解体した国家の主権者たる天皇が戦争犯罪に問われず、戦後を生き延びたのであろうか。われわれの疑問は尽きない。(つづく)

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。太平洋戦争が熾烈をきわめるなか、天皇はどこかでアメリカに一撃をあたえるまで、講和の条件はないと考えていた。それは国体の護持という思惑、言いかえれば保身であった。昭和天皇に批判される責任があるとすれば、戦争を長引かせたこの身勝手な思惑であろう。

◆台湾沖航空戦のまぼろし

 

昭和19年(1944)6月19・20日に戦われた、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わった。日本海軍は空母3隻を喪失、艦載機400機を失い、機動部隊を基幹とした艦隊を構成できなくなったのだ。

太平洋戦争において、決定的な役割を果たした空母機動部隊をもってする海戦は、もはや日本海軍にとって不可能となり、サイパン島も上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

このとき、天皇は逆再上陸によるサイパン奪還を、嶋田軍令部総長に対して、二度にわたって要求している。天皇の戦略的な勘は生きていたというべきであろう。まさにここが太平洋戦争の正念場だった。その希望はしかし、かなわなかった。すでに機動部隊が崩壊し、制海・制空権ともにアメリカに握られていたのだ。

サイパン失陥はそのまま、アメリカ軍をして東京空襲を可能とさせる(初空襲は昭和19年11月24日)。8月にはテニアンが陥れられ、いよいよアメリカ軍の空爆が秒読みとなった。

このころ、昭和天皇が戦争指導に熱意をうしなったことは、前回述べたとおりだ。海戦と島嶼攻防の敗北に意気消沈したところで、講和工作を本格的にはじめていれば、あるいはアメリカの東京空襲は計画だけに終わったかもしれない。

ところが、意気消沈した昭和天皇を驚かせる、そしてにわかに活気づける報告が10月に訪れたのだ。台湾沖航空戦の「大勝利」である。

 

昭和19年10月12日~15日にかけて、台湾沖で行なわれた航空戦(捷号作戦)の「戦果(大本営発表)」は以下のとおりである。
【撃沈(アメリカ軍の損害)】 航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻
【撃破】航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻
【撃墜】112機(基地における撃墜を含まず)
【日本軍の損害】飛行機未帰還312機

もうこれは、ほとんどアメリカ海軍太平洋艦隊の壊滅を意味すると思われた。19隻もの空母を撃沈、ないしは撃破したのである。

だが、フィリピン近海に十数隻の空母をともなうアメリカ艦隊が現れたとき、大本営はしばらく混乱したが、別の新手が出現したものと、台湾での戦果を疑わなかった(一部の軍幹部は「戦果」に懐疑的であった)。
じっさいの損害は、以下のごとくである。

《双方の損害》
【日本軍】 航空機 312機
【アメリカ軍】 航空機89機、搭乗員約100名
※空母2隻が小破・巡洋艦3隻が大破・駆逐艦2隻が損傷(うち1隻は衝突事故によるもの)

じっさいには、アメリカ艦隊をわずかに傷つけたにすぎなかった。その反面、300機以上の日本機が失われたのは事実だった。誤報の理由も明らかだった。

数日にわたる空海戦には夜間戦闘もあり、経験不足の日本機パイロットは、アメリカ艦船の近くで水柱が上がったのを見て、ことごとく撃沈・撃破と思い込んでいたのである。爆弾は信管に水圧がかかっただけで破裂し、大げさな水柱があがる。それにしても、あまりの「戦果」の違いである。

この「戦果」の結果、つづくレイテ作戦ではアメリカの上陸部隊の壊滅、および戦艦隊によるレイテ湾突入が企図されたのだ。

この時期の昭和天皇は、あきらかに一種のギャンブル脳になっていたと思われる。

緒戦の劇的な戦果、向かうところ敵なしの皇軍。ガタルカナル・ミッドウェイ以降も、負けが込むにつれて、緒戦の快哉が忘れられずにいたはずだ。勝利の脳内麻薬が忘れられなかったのだ。

マリアナ海戦とサイパン陥落で、その敗戦の理由に冷静な分析を加えていれば、あるいは講和路線への転換もあったかもしれない。少なくとも、本土が本格的に空爆に晒される前に、講和戦略に転換することも可能だった。故事に言う「勝敗は時の運」ではなく、敗戦には合理的な理由があるのだ。

 

じつはミッドウェイにおける空母機動部隊の敗戦の理由は、緒戦のインド洋作戦でも露呈していた問題なのだ。

攻撃機の爆装から雷装への転換に時間がかかること、したがって装備を転換しているときに襲われた結果が、3空母の同時被爆であり、それも急降下爆撃による飛行甲板のダメージという、空母にとっては致命的なものだった。

この急降下爆撃の威力も、南太平洋の海戦で判明しているにもかかわらず、日本海軍は伝統的な雷撃(爆装から雷装)にこだわって勝機を逸したのである。

もうひとつ、日本海軍航空部隊の致命的な弱点は、ゼロ戦や一式陸攻などにみられる防御システムの脆弱性だった。旋回力(空戦能力)や航続距離を重視するあまり、搭乗員の防御(機銃の弾丸を防ぐ鋼板)を犠牲にした結果、開戦いらいのベテランパイロットたちを失ってきたのだ。

予科練(中学3年から受験可能)を基盤に、中学生を殴って鍛えるという教育方法にも限界があった。対するアメリカ軍は、心身ともに優秀な大学生をパイロットに育成し、その生命を強度な防御力をもったグラマンやロッキード機、日本機の到達できない高空を巡航する「空の要塞」と呼ばれる爆撃機など、戦術思想においても大きな違いがあった。その戦術思想の差こそが、昭和17年中盤以降の戦況となって顕われたのである。

そして戦争が長期化することで、工業力・人口・物資の差が歴然となってくる。その意味では、昭和天皇が開戦にあたって講和戦略を云々していたのは慧眼であった。にもかかわらず、時の運をたのむ戦略観に陥ってしまったのだ。

はたして、レイテ沖海戦においては、その彼我の物量の差が明らかになった。

アメリカ海軍がこの海戦(陸軍のフィリピン上陸支援)に動員した艦船は、空母35隻、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141、航空機1000機、ほかに補助艦1500隻である。

対する日本海軍は、空母4隻、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34、航空機は基地発進をふくめて600であった。ほぼ大敗といえる、その結果も記しておこう。

【日本の損害】空母4・戦艦3・巡洋艦10・駆逐艦9
【アメリカの損害】空母3・駆逐艦3

※フィリピンのサマール沖で、大和を基幹とする戦艦がアメリカの小型空母を攻撃するも、ぎゃくに航空機の反撃に遭う。上の写真は日本の戦艦の砲弾を浴びる米艦隊を背景に、反撃に出ようとするアメリカ機。

レイテ沖海戦の結果、日本海軍は艦隊を組むこともままならない。ほぼ崩壊状態となった。このとき神風特別攻撃隊が組織され、航空機の攻撃では唯一の戦果をあげた。その攻撃を聞かされた昭和天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかし、よくやった」と感想をのべたという。神風自爆攻撃は、大元帥の裁可を受けたのである。

やがて沖縄は鉄の暴風に見舞われ、本土の各都市も高高度からの無差別攻撃にさらされる。それでもなお、昭和天皇は戦争の幕引きをしようとはしなかった。

◆戦争を長引かせた責任

東京が空襲を受けるようになった昭和20年(1945)2月14日、近衛文麿元総理は、敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めた。

ところが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと答え、これを拒否したのである。

そしてこのときの判断次第では、それ以降の敵味方の損害はなかった可能性もある。このとき、天皇が早期終結を受け入れ、命じていれば、少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。日中戦争の泥沼化のなかで、暴走する軍部(関東軍)およびそれを統制できない政権に懐疑的だった天皇は、開戦劈頭(へきとう)の「大勝利」に浮かれた。そして、大元帥としての軍事的才能を開花させるのだ。

◆開戦前から和平への道を模索する

 

日米開戦が決定的になった時期、昭和天皇は講和への外交工作を気にかけている。

「戦争終結の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹つるの要あるべし」(『高松宮日記』天皇から木戸幸一への下問)と、開戦前に講和工作を模索しようとしていたのだ。

この天皇の要求を、軍部も無視していない。

開戦に当っての大本営政府連絡会議の「腹案」には、独ソ講和によって日独伊三国が英国を降伏させ、ソ連を枢軸側に引きこむ。蒋介石専権の打倒および米豪の海上交通路を遮断し、アメリカをして戦意喪失させる、という希望的展望が盛り込まれている。

さらには具体的に、前掲の天皇の意を受けて、スウェーデン、ポルトガルを通じたローマ法皇庁への外交戦略も付加されている。開戦後も連合軍のシチリア上陸時に、ドイツがルーマニアの油田を失う可能性が論じられ、日本として独ソ妥協を講じられなければ、戦争方針を変更しなければならないことが検討されている(『真田穣一郎日記』)。

これらの戦争戦略、外交政策による戦争の早期終結が実現しなかったのは、戦争の性格がそれまでにない、総力戦に変わっていたからにほかならない。

総力戦とは国民経済(生産と消費)の戦争経済(軍需に集中)への転換であり、それは軍事技術・兵器の高額化と大量化に促されたものだ。

その意味では、昭和天皇が開戦にあたって、和平への道を模索していたのは、講和が容易だった日清・日露戦争、あるいは第一次大戦を限定的に戦った歴史から考えていたものにすぎない。

総力戦の時代には政治(外交)が後景化され、軍事(戦闘)が最優先になる。政治と軍事が逆転するのだ。そしてそれは、兵器の大規模化と国民の総動員によって、国家の崩壊まで突き進む。このことを天皇は理解していなかった。いや、天皇自身が総力戦に呑み込まれていくのである。

◆龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」

 

開戦劈頭、日本は海軍が真珠湾にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅し、陸軍もマレー上陸から怒涛の進撃を開始する。開戦三日目には、イギリス東洋艦隊(戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス)を航空作戦で壊滅させた。

2月にはシンガポール陥落(英軍降伏)、バンドンでオランダ軍が降伏。海軍もインド洋で残存英国艦隊(空母ハーミスほか)を壊滅させ、艦隊決戦となったスラバヤ沖海戦、バダビア沖海戦においても、米・豪・蘭・英の連合軍を敗走させた。赫赫たる勝利である。

龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と天皇は喜びを述べている。じつは天皇自身が、イギリス艦隊の動き(出港)に注意するよう、戦争開始前から軍部に指示をしていた。南部仏印進駐時やイギリス艦隊の動向など、軍事的な才能さえ感じさせる発言が残されている。

フィリピンのコレヒドール要塞の攻略に手こずったとき、天皇は大本営陸軍部を執拗に督励し、追加部隊の派遣を要求している。まさに大元帥として、戦争を指揮し、督戦しているのだ。

◆陸軍機は使えないのか?

 

米豪の交通を断つ目的で、日本海軍はニューブリテン島にラバウル基地をつくり、さらにソロモン諸島に戦線を延ばした。ニューギニアの攻略を目的とした陸軍とのあいだに、齟齬が生じるようになってしまう。昭和17年の南太平洋における戦いは、天皇にとって陸軍と海軍の提携が気になって仕方なかった。

「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空隊では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないか」(田中新一『業務日誌』)。

陸軍はこのとき、中国の重慶攻撃のために爆撃機を南方から撤退させる計画を進めていた。しかも陸軍機は、洋上での航法に慣れていなかった。編隊からはぐれてしまうと、海上で迷子になったまま帰還できない爆撃機も少なくなかったのである。

ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪われると、天皇は三度目の督促をする。

「海軍機の陸戦協力はうまくいくのか、陸軍航空を出せないのか」(「実録」)と。

このガダルカナル島の苦戦を、軍部以上に気にかけていたのは昭和天皇だった。

「ひどい作戦になったではないか」(「実録」)と、感想をのべている。

珊瑚海海戦、南太平洋開戦で海軍が得た勝利も「小成」と評価はきびしい。開戦当初の勢いからすれば、アメリカの戦意を喪失させる大勝が待ち遠しかったのである。

◆日露戦争の教訓から注意を喚起するも

 

学者的な几帳面さで、歴史にも通じていた昭和天皇は、困難な時期にも軍事的な天才ぶりを見せている。海軍がガタルカナル島の米軍飛行場を、夜間艦砲射撃しようとした(天皇に上奏)さいのことだ。

「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初島八島の例あり、注意を要す」(『戦藻録』)と釘を刺したのだ。

日露戦争の旅順閉塞戦のとき、戦艦の初瀬と八島が機雷によって沈没した、ある意味では貴重な戦訓を、海軍の永野修身軍令部総長に伝えたのである。

この天皇の警告は、的中してしまった。海軍にとって二度目の艦砲射撃(一度目は戦艦金剛と榛名)だったが、同じような航路をとってガタルカナルに接近した戦艦比叡と霧島は、待ち構えていたアメリカ軍の新鋭戦艦のレーダー砲撃の餌食となったのだ。夜間攻撃であれば、いちど成功した航路をたどりやすい。アメリカは用意周到にこれを狙い、昭和天皇も歴史に学ぶ者にしかない直感で、危機を感じ取っていたことになる。

昭和17年6月には、ガタルカナル島攻防(撤退)とならんで太平洋戦争のターニングポイントになるミッドウェイ海戦で、海軍も致命的な敗北を負った。

この年の12月、昭和天皇は陸海軍とも「ソロモン方面の情勢に自信を持っていないようである」「如何にして敵を屈服させるかの方途が知りたい」「大本営会議を開くべきで、このためには年末年始もない」と軍部を突き上げた。

そして実際に、12月31日に大本営会議が開かれた。ガタルカナル島撤退後、どこかで攻勢に出なければならない、という天皇の焦りが感じられる。

◆決戦をもとめる天皇

昭和18年になるとアッツ島玉砕をはじめ、アメリカ軍の反転攻勢がめざましくなる。

「どこかの正面で、米軍を叩きつけることはできぬか」(『杉山メモ』)という言葉を何度も発している。

昭和天皇の発言だけを見ていると、軍部にやる気が感じられないかのようだ。いや、軍部は戦力的な手詰まりに陥っていたのだ。太平洋上に延びきった前線では、アメリカ軍との戦いよりも、兵士たちは飢えと感染症に苦しんでいた。輸送船が潜水艦に狙われ、海軍は前線の補給のために駆逐艦を使わなければならなかった。

昭和19年の元旦には「昨日の上奏(上聞)につき」として「T(輸送船)北上につき、敵の牽制なるやも知れず『ニューブリテン』西方注意すべし」と、侍従武官を呼びつけて警告している。この年も大晦日まで、軍務にかかる上奏を受けていたことになる。

それはともかく、実際にアメリカ軍は輸送船団を陽動部隊にして、日本軍の注意をニューブリテン島に惹きつけておいて、ニューギニア北部に上陸していたのだ。昭和天皇の細かい注意力は、数千キロ離れた戦場に向けられていたのである。

 

しかし全般的に、昭和天皇の戦争指導は減退してゆく。

敵機動部隊(スプルーアンス提督が率いる15隻の空母部隊)がサイパンに近づくと、天皇はサイパン失陥で東京がB29の爆撃範囲に入ることを考え、海軍に不退転の決戦をもとめる。

「このたびの作戦は、国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」(「業務日誌」)と。

しかるに、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わる。空母3隻を喪失、艦載機400機を失ったのである。そしてサイパン島も、上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

意気消沈した天皇は、吹上御所で夜ごとにホタルの灯をながめていたという。このときこそ、昭和天皇は戦前からの持論であった「講和交渉」を始めるべきであった。

結果論で批判しているのではない。みずから語った日本海海戦に比すべき戦いに負け、サイパンが陥落したのだから、東京空襲の災禍は誰の目にもわかっていた。国家を崩壊させる総力戦の威力を、しかし天皇は徐々に知ることによって「和平」のタイミングを逸し、国民を絶望的な戦いに巻き込んでしまうのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

生誕時から病弱だったのは記録にある事実だが、5人の皇子のうち唯一成人したのだから、むしろ逞しかったというべきではないか。大正天皇のことである。皇女も10人中4人しか成人できなかった。感染症が蔓延し、医療は西洋医学がようやく本格的に採り入れられた時期のことだ。

 

大正天皇

幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学となった。このあたりから、皇嗣としてはダメなのではないかという風評が世間に漏れはじめた。

それでも11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱、すなわち大正天皇婚約解消事件を経て、九条節子と結婚した。

この大正天皇婚約解消事件とは、大正天皇と皇族である伏見宮禎子(さちこ)女王との婚約がいったんは成立したものの、のちに華族の九条節子(さだこ)が結婚相手となった事件である。この婚約者の変更は、禎子女王の健康不安によるものだったが、明治天皇が皇族からの入籍を希望していたことが元の原因でもある。明治大帝は臣下からの縁嫁を望んでいなかったのだ。

いっぽう、伊藤博文らの政権中枢は、皇族間の婚姻とそれによる宮家の増加(宮廷費の増加)に反対意見だった。皇族の軍務を奨励する小松宮彰仁親王など、皇族の独断専横もあり、近代天皇制は親政論と立憲君主制、あるいは天皇機関説のあいだをゆれ動いていたのである。

◆政治向きではなかったのか?

その死後には、明治大帝との比較で政治的評価を貶めるものが少なくなかった。典型的なものでは、国会遠眼鏡事件であろう。帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡したとされるものだ。

しかしこれは、丸めた状態で勅書の上下を確かめたものであって、天皇が突如として奇行に走ったというのは大げさであろう。不用意な発言を山縣有朋に窘められることはあっても、在位前半の大正天皇はきわめて健康かつ正常に役目をこなしている。その山縣を、天皇はすこぶる嫌っていた。そのいっぽうで、おもしろい話をしてくれる大隈重信を気に入っていた。

そして在世中は、大正デモクラシーと呼ばれるリベラルな時代で、とくに文芸やライフスタイルが刷新され、自由の気風に満ちていた。モダンガール、モダンボーイが闊歩し、女学校ではハイカラさんとよばれる女子たちが自転車に乗って学園生活をエンジョイしていた。

天皇はフランス語を学び、日本酒よりもワインを愛した。運動のために自転車に乗り、三菱財閥から贈られたヨットでクルージングを楽しんだ。

そして、女官制度への疑問を側室を否定することで実践した。すなわち、自身の実母が昭憲皇太后ではなく、柳原愛子だったことに衝撃を受け、女官(側室)を近づけなかったというのだ。この女官否定は、昭和天皇において制度そのものの空洞化にいたる。国家主義的な近代天皇制は大正天皇において、すでに民主化の第一歩を歩み始めていたのである。

◆詩人として

大正10年前後から、体調や言動に異変をともなうようになり、事実上公務ができない状態になった。大正15年にはいよいよ貧血状態を起こし、葉山御用邸に向う原宿駅では「イヤだイヤだ」と駄々をこね、目撃した人々は「狂人になった天皇が葉山に監禁されたと思った」といわれる。

ヘンなところがあると評されただけに、異才の持ち主でもあったようだ。古来、狂気は天賦の才につうじるという。漢詩は三島中洲の指導を受け、和歌より漢詩を好んだ。雅号は昭陽である。生涯に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している(宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録)。

和歌は生涯で465首を詠んだとされるが、明治大帝の約9万首、昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし歴史学者の古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している

1926年(大正15年=昭和元年)暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御。

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

明治元年(1968)10月12日に即位したとき、天皇は14歳であった。孝明天皇の第二皇子、母親は権大納言中山忠能の娘中山慶子とされている。中山慶子は典侍(ないしのすけ=側室)であるから、女御(正室)の九条夙子(英照皇太后)を実母と公称した。

女児のごとき祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王から、後年の男性的な明治天皇となった落差。この落差ゆえに「明治天皇はすり替えられた?」(前回掲載記事)とする説が生まれたのである。それほど落差が感じられるのを、ゆえなしとはしない明治天皇の「雄々しさ」とは、どのようなものなのだろうか。

 

明治天皇

◆調停機関から大元帥へ

20歳になった天皇の事績はすぐれて明快である。

征韓論をめぐって起きた明治6年政変では、勅旨を発して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ、政権内部の対立を調停している。

同時期に全国で起きた自由民権運動に対しては、漸次立憲政体樹立の詔を出してこれを慰撫。これらの背景に三条実美、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允ら政権主流派の動きがあったのは明白だが、政権調停機関としての役割をそこに見出すことができる。

明治15年には軍人勅諭を発し、大元帥としての性格を明確にしていく。さらに明治22年2月11日、大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇大権を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった。

翌明治23年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を明記する。殖産興業・富国強兵政策の先頭に立つ、近代天皇の姿を明確にしたのである。

そして、いよいよ明治27年(1894)、日本は大元帥のもと日清戦争に踏み切る。このとき天皇は大本営において、直接戦争指導に当たっている。

明治37年(1904)の日露戦争も同様に、大本営にあって戦争を指揮している。

日露戦争後は韓国併合と満州経営をすすめ、日本を植民地支配する帝国主義に押し上げた。ぎゃくにいえば、侵略と併呑、寄生性と腐朽化への道(レーニン)である。これらの「偉業」をもって、天皇は後年「明治大帝」「明治聖帝」と呼ばれる。

だが、その覇業は古代いらいの帝としての皇統継承事業、すなわち子づくりにおいても発揮された。いや、近代天皇制を古代的な親政において実現する志向は、子づくりや華族の縁戚化、そしてのちには皇族の拡大という宮中第一政策において実行されてゆくのだ。

 

一条美子

◆片っ端から女官に手をつける

とにかく、女には手が早かった。皇后は一条美子という、のちに昭憲皇太后と称せられる女性だが、この人との子はなかった。

以下、側室となった女性たちである。

葉室光子は19歳のときに宮中に入り、翌年には天皇の第一子を出産するも死産。光子も産後に亡くなった。

橋本夏子も17歳のときに女子を身ごもったが死産、自身も産後の経過不良のため死去。

千種任子も二人の女子をもうけるが、夭折する。

のちに大正天皇を生む柳原愛子も二人の男子と一人の女子を幼くして失っている。こうなると、側室とその子供たちの地獄というべきか。

じつはこの事態には、日本社会を覆った感染症の影響があったと考えられる。天然痘とコレラである。

孝明天皇は1866年12月11日に発熱し、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、親王(明治天皇)に完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこしたという。

 

柳原愛子

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」(中山忠能日記)という最期であった。いったん快方に向かい、そこから再度悪化したことで、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介しているのだ。

これが前回紹介した毒殺説であるが、ともあれ天然痘による疱瘡が確認できることから、これ以降も種痘を受けなかった幼子、女官たちが相次いで感染し、命を落としたことは容易に想像される。

多産だったのは、園祥子という女官である。彼女はわずか13歳で女官となっている。明治18年、19歳の時に初産に失敗(女子死亡)し、翌年も女子を失っているが、21歳の時に天皇の11子を生むと、6人の子をつくり(うち2名死亡)、合計8人もの皇子を身ごもったことになる。

明治天皇最後の女は、小倉文子(伯爵家)という女性だったが、子をなさなかったことから公式の記録には残っていない。

けっきょく、明治天皇は5の皇子と10人の皇女をなしたのである(成人したのは5人、男子は大正天皇のみ)。慧眼なる読者諸賢は、男子5人、女子10人という比率の中に、近代天皇家における男子出生率の低さを読み取るであろう。しかし大正天皇には4人の皇子はあっても、女子はいなかった。昭和天皇においては、男子2人、女子5人である。平成天皇は男子2名、女子1名、令和天皇は女子1人である。

もっとも、伊藤博文や松方正義など、明治の元勲とよばれる人たちの女好きは有名で、明治天皇がとりたてて女癖が悪かったというものでもない。

◆60歳の若さで崩御

当時はじゅうぶんに生きた年齢だったのかもしれないが、享年60であった。

晩年は歩行も困難なほど体調を崩し、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いていたという。じっさいに糖尿病だったようだ。枢密院の会議中に、寝てしまうことも多かったという。

写真撮影を極度に嫌ったので肖像画でしか往時を偲べないが、べつに西洋文明を否定したり「写真は魂を抜き取る」などの明治人に特有の迷信ではない。食事は西欧風の肉食や牛乳を奨励し、明治6年にはみずから断髪して、国民に西欧風の生活習慣を率先垂範している。

天皇は酒をたしなみ、乗馬や和歌、刀剣蒐集、レコード鑑賞を好んだという。それにしても、60歳は若すぎる。相当なストレスに見舞われる日々があったのだろう。

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渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

この表題はまことに荒唐無稽ながらも、明治政府の歴史観を左右する幕末ミステリーである。もしもそれが史実ならば、驚愕するような事実よりもさきに、われわれは明治維新という「革命」の内実を知ることになる。その内実が謀略であると。そして、南朝史観とよばれる維新政府の歴史観に、こんどは生々しく触れることになる。

仮説はこうである。幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたというのだ。その名は長州田布施出身の大室寅之祐、長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという。

最初にこの説をとなえたのは、鹿島昇(弁護士・歴史研究家)だった。その云うところをトレースしてみよう。

南朝・後醍醐天皇の皇統は、後村上天皇──長慶天皇──後亀山天皇の正系のほかに、尊良親王(東山天皇)から正良親王(松良天皇)にいたる傍系がある。正良親王の皇子のひとり、光良(みつなが)親王が南朝崩壊後に長州の麻郷に落ちのびたのが、大室天皇家であるという。室町時代の長州は守護大名の大内氏が支配するところで、南朝勢力が西日本に落ちのびるのは、懐良親王が九州を拠点とした例から考えて不思議ではない。

わたしは薩長両藩の主家が関ヶ原で没落した島津と毛利であり、明治維新は一面において268年の歳月をへて徳川打倒に燃える両家の意趣がえしであると考える。長州藩において、大室天皇家はその切り札だったのだろうか。

鹿島昇(弁護士・歴史研究家)によれば、幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたという。それが長州田布施出身の大室寅之祐(写真左)。長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという

◆将軍家茂・孝明天皇暗殺

鹿島昇は幕末の政治情勢から、暗殺者たちの動機を精緻に解読する。将軍徳川家茂と孝明天皇の死(1866年)がそのキーワードである。すなわち、皇女和宮の降嫁によって従兄弟となったふたりは、公武合体の体現者であった。ふたりは長州征伐の実行者であり、天皇のもとに徳川家を中心にした連合政権を構想していた。

この政権構想はしかし、尊皇攘夷と倒幕をねらう薩長連合にとって容れられるものではなかった。とくに京都から排除され、その勅命によって征討までされた長州藩にとって、ふたりは目の上のたんこぶだったのである。

たとえば「(和宮降嫁によって)尊攘派は肝心の天皇を幕府に奪われてしまった。すなわち、幕府が『玉をとった』のである」「薩長密約の際に家茂と孝明天皇の暗殺はすでに謀議されており、これに公武合体派から尊攘派に鞍替えした岩倉具視が荷担したのであろう」と、鹿島昇は解読する(「明治天皇は二人いた!!」『天皇の伝説』メディアワークス)。

それもまったくの推論というわけでもない。鹿島が謀殺の論拠とするのは、作家の山岡荘八が独自にしらべた事実である。すなわち、宮中からさし回された正体不明の医師が、風邪で伏せっていた徳川家茂に薬を処方したところ、それから三、四日目に亡くなったとする。

「将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引きとった」(山岡荘八「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和43年11月号)というのだ。蜷川という御小姓頭は蜷川京都府知事の祖父にあたり、おそらく将軍家茂の死にぎわは事実なのであろう。
孝明天皇の最期もまた、謀殺めいたシーンに彩られている。

明治天皇の外祖父(生母の父親)中山忠能の『中山忠能日記』によると、やはり天皇は天然痘の潜伏期で、12月11日には「不眠・発熱・食欲不振・ウワ言の病状を経て」「十六日朝には顔に吹き出物が出始めた。だが、十七日から便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医も『まづ順当』と診断している」

快方に向かったというのだ。

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」という最期であったという。

当時、宮中においても毒殺説が飛びかい、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介している。

これを裏づける説をとなえたのは、瀧川政次郎である。中国人医師の菅修次郎が夜半に呼び出され、目かくしをしたまま連れて行かれたという。そこで診療させられたのは、わき腹を刺された、ひん死の人物だった。じつは菅医師が連れて行かれたのは御所ではなく、堀河紀子(孝明天皇の愛妾)の広大な屋敷だったというものだ(「皇室の悲劇」)。

中山忠能が日記に書いた「御九穴より御脱血」というのは、刺し傷だったのだろうか。

この説を、作家の南条範夫は「孝明天皇暗殺の傍証」『人物往来』昭和33年7月号)において、母方の祖父・土肥一十郎の日記を読んだ記憶として書いている。

「白羽二重の寝衣や敷布団はもちろんのこと、半ばはねのけられ掛布団に至る迄、赤黒い血汐にべっとりと染まっている人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下しようもない程甚だしい出血に衰弱し切って、ただ最期の呻きを力弱くつづけているに過ぎない」

何ともなまなましい、暗殺現場に立ちあったかのような描写であることか。こうして、尊皇攘夷派・倒幕派にとって邪魔な存在だった将軍と天皇が暗殺されたのだ。その暗殺者たちは、みずからの政権を盤石なものにするために、つぎなる暗殺に手を染める。16歳の陸仁親王(明治天皇)暗殺である。

◆なぜ吉野朝時代なのか

陸仁親王(明治大帝)暗殺について、孝明天皇暗殺ほどの生々しい証言や伝聞があるわけではない。鹿島昇が「証言」と称するものは、ことごとく伝聞であり、亡くなられた人々が反論できない、したがって根拠のわからない「証言」なのである。誰がいつどこで、どうすり替えたのか、詳細がよくわからない。

いわく、昭和4年に三浦天皇(三浦芳堅=南朝傍系)が、元宮内大臣・田中光顕に獄秘伝の『三浦皇統系譜』を持参したとき、田中は「じつは明治天皇は孝明天皇の息子ではない」「明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の息子満良親王の御子孫」だと証言したという。

いわく、元宮中顧問官で学習院院長も務めた山口鋭之助が、大正9年に「明治天皇は北朝の孝明天皇の子ではない。山口県で生まれて維新のときに京都御所に入った」と言ったという。

いわく、岸信介元総理は元中政連幹事長だった鎌田正見に、いまの天皇家は明治天皇のときに新しくなった、と語ったという。

いわく、陸仁親王と明治天皇が別人であることは、鹿島昇自身が清華家の当主である廣橋興光から聞いたことがあるという。

いわく、中川宮(前出の東武皇帝・日光宮能久親王の兄)の孫娘である梨本宮家の李方子も、明治天皇は南朝の人だと証言したという。

いわく、鹿島昇の旧友・松重光雄は、中学生のときに担任の萩出身の教師から、明治天皇はすり替えられたと教えられたという。

ほかにも証言らしいものはあるが、もうここまでにしよう。鹿島昇の脳裡に根を張った推測・推論なのだ。もの言わぬ死者の証言よりも、われわれには問題にしなければならないことがある。なにゆえ明治政府が北朝の天皇をいただきながら、「吉野朝時代」などという歴史観で南朝を正統としたのか、である。そこにこそ、明治天皇がすり替えられたかどうかの「真相」が浮かび上がるはずだ。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。

当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。

そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。

三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。

◆三島の円照寺取材

『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。

円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。

円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。

後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。

その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。

作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。

そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。

ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。

そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。

「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。

三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。

◆『豊饒の海』謎の結末の解釈

従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。

しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。

作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。

道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。

どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。

『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。

推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。

『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。

門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。

市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。

どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。

※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。

※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html

「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

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鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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