◆懲らしめのための民事訴訟

管制塔被告団グループに1億300万円の賠償請求が来たのは、2005年のことだった。運輸省が提起した民事訴訟は95年に判決が確定し、損害賠償額は4,384万円だった。それに利息が付いて、時効直前の2005年には1億300万に膨らんでいたというわけだ。その年から給与の差し押さえ、財産の差し押さえなどが通告されていた。

管制塔破壊という実害があったとはいえ、スラップ訴訟(公共の利益がないのに、運動を破壊するために行なわれる訴訟)に近い、民事訴訟による判決の履行だった。すでに反対同盟は分裂し、政府の意を受けた「話し合い路線」が軌道に乗っていたから、その意味では空港問題の帰趨とは関係なく、この請求は懲らしめのための「憂さ晴らし」とでも言うべきか――。

 

柘植洋三=元三里塚闘争に連帯する会事務局長による2005年7月18日付アピール文「管制塔賠償強制執行の攻撃を、我等ともに受けて立たん」の文頭(2005年7月22日付『旗旗』に全文あり http://bund.jp/?p=226 )

◆戦友会としての被告団

そこで元被告団が再集合し、1億円カンパ闘争が開始されたのである。元の所属党派を通じたカンパが大口だったが、ネットカンパが広く一般の人々から寄せられたという。われわれの三月要塞戦元被告団も久しぶりに全国結集(弁護士を入れて、たしか20人ほど)で、このカンパ運動を支援することになった。

集れば必ず飲み会というか、集りそのものが飲み会の場で、そこに管制塔元被告が説明に来るという感じだった。何かというと資金源としてあてにされる弁護士さんは「1億円も、ですか……」などと、ぼう然とした雰囲気だったが、すでに数千万円単位でまたたく間にカンパが集っているという報告を聴くと、ホッとした表情になったものだ。

元過激派学生というのは非常識な連中ばかりで、まじめな弁護士さんたちからはあまり信用されていない。それでも、突入ゲートごとの被告団、前年5月の攻防で逮捕されたグループなど、まさに戦友会のごとき集いが復活したのは、このカンパ運動の副産物だったといえよう。この年の11月には、1億300万円が国庫に叩きつけられ(収納され)た。

◆ネット上の議論

それにしても、1億円をカンパで集めるのはいいとして、それを敵である政府に差し出すという運動に、疑問の声もないではなかった。徹底抗戦して、たとい労役を課せられようが何をされようが、政府に「謝罪金」のようなものを出すべきではないと。もっぱら匿名のネットで議論が起きたものだ。匿名の議論だから「政府に恭順の意を表するような、反革命行為は信じがたい」とか「敗北主義だ」などという主張に「おまえ、責任をもって現実の大衆運動をやったことなんてないだろう。口先だけの評論野郎」などと反論があったりしたものだ。

たしかに民事判決の当初は「ないものは払えない」という論理で打っちゃってきたのは本当だ。やがて生活を抱え、家族をつくった元被告たちに、生活破壊の重たい攻撃が掛けられているのだから、カンパ運動はしごく当然だった。それを批判する人たちは、そもそも運動に立場性(責任)がない。安全圏の中に身を置いたとしか思えなかった。お前こそ、いま直ちに空港に突入して管制塔を破壊して来い! である。

◆民事訴訟の怖さ

それにしても、民事訴訟というのは生やさしくない。交通事件で民事訴訟になるのは、示談金をめぐって、すでに任意保険という補償の前提(原資)があるからであって、一般の事件だとなかなか考えにくい。たとえば殺された家族の損害賠償・慰謝料として民事訴訟をしても、相手が塀の中の死刑囚ではどうにもならない。そこで死刑を廃止して、仮釈放のある無期刑ではなく、終身刑を導入してしまう。死ぬまで懲役労働をさせて、その報奨金を被害者遺族への賠償金とする。という議論を、わたしは死刑廃止論の大御所としているところです。

ぎゃくに、犯人を知ってから時効が始まるので、とっくに刑事事件としては時効になっていても、民事訴訟は有効となるのだ。公安事件にかぎらず、被害者のいる事件は墓場まで持っていくというのは、けっして例え話ではないのです。そんな事件、あなたも体験していませんか?

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

衝撃満載『紙の爆弾』11月号! 公明党お抱え〝怪しい調査会社〟JTCはどこに消えたのか/検証・創価学会vs日蓮正宗裁判 ①創価学会の訴訟乱発は「スラップ」である他

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

断続的な連載も20回を超えると、どうしても感傷的かつ追憶的な内容になってしまい、緊張感のないことこのうえない。まことに申しわけありません。今回も追憶的とはいえ、すこし刺激的なタイトルにしてみました。ズバリ“元中核派の彼”である。

中核派は最大党派だけに、いろいろと多くの接点があった。わたしの大学にも非主流派ながら数十人単位でいたし、三里塚現地ではイヤでも顔を合わせる。3月横堀要塞戦の中核派の相被告は、4人だった。いい人もいたが、党派性が強くてイヤな人たちだった、という印象が大きい。そんな中核派の活動家のひとりと、活動の場ではない職場で出会ったのである。

◆党派と個人的な関係の断層

その彼は唐突にも、わたしの職場にというべきか、何しろ目の前で中核派の月刊誌「武装」を読んでいたのだ。労働運動のかけらもない職場の誰も、それには気づかない(まったく気にしない)けれども、わたしにとっては「えぇーーっ!」(心の中の声)であった。

すでに中核派とは83年段階で三里塚闘争が分裂し、敵対的とまでは言わないものの仲良くできる間がらではなかった。被告団も分裂していた。たまに三里塚現地を訪れると、それはたいがいが現地集会の前日であったりするから「脱落派は、生きて帰れると思うなーッ!」というシュプレヒコールを浴びせられたものだ。われわれと中核派は、外見的には敵対勢力だったのだ。その中核派が、わたしの職場に居る……!

それはもう、ある意味で楽しくて仕方がなかった。職場での好感度もあり、見てくれは売出し中の若手俳優だ、といっても通るような涼やかな風貌。そして何よりも、気風が素晴らしい青年だった。どんな会話からお互いのことを語り合ったかは、あまり記憶にない。それと意識したときには、わたしは彼に誘われるまま中核派の集会に参加し、彼もわたしが誘うままに「脱落派(反対同盟熱田派)」の集会に参加していた。山谷の支援運動にも誘ったことがある。政治の多様性、経験の重要さをわかって欲しいという意味で、わたしは彼にいろいろな提案をした。わたしも彼の提案を諒解する関係になった。

とはいえ、個人的な関係が党派を超えるはずはない。彼においては、もっと個人的な恋愛関係などにおいて、党派を越えられないものがあったはずだが、そのことには触れない。それにしても、活動を秘匿していた職場での出会いには愕いたものだ。そこから、ある意味で双方の駆け引きもあった。中核派という組織の成員である以上、彼はわたしをオルグするのが使命となるわけであって、わたしのほうは彼に付き合いつつ、しかし思想的にはポストモダンの蓄積を披瀝しながら、両者が政治的にも思想的にも折り合うことはなかった。いや、組織的に折り合わなかったというべきか。思想はまた、政治とは別物である。

そのいっぽうで、三里塚闘争ではわたしのほうが彼を、やや強引に誘ったのかもしれない。十数人しかいない隊列にまき込んで、シュプレヒコールに唱和させた記憶がある。彼に誘われ中核派の大衆デモに参加したわたしは、集会・闘争後の「解散戦争」に参加させられて、どうにも愉しかった記憶がある。地下鉄を発進直前に突然降りて、反対側のホームの電車に乗る。その後はタクシーで集結地点に近づき、最後はなぜかいつも同じ飲食店で宴会をするという成りゆきだった。宴会場に対立党派が待ちかまえていれば、一網打尽だと思うのだが……。沖縄の古参活動家の記憶も鮮明だ。その後、故郷にもどった「元中核派の彼」は独自の道をあゆみ、いまも連絡が取れている。

 

加藤登紀子『登紀子1968を語る』(情況新書2010年)

◆パルタイの幻影

いま、わたしはポスト68というテーマで、ある雑誌を編集しています。やはり70年代・80年代・90年代を通して、党派という問題は大きいのだと思う。革命党が必要という命題があるいっぽうで、党派の狭隘な思想は大衆運動の桎梏になる。もともとブントは、パルタイの狭隘な政治から脱して、自由に政治をやるために分派したのではなかったかと、歌手の加藤登紀子さんが語ってくれたことがある(『登紀子1968を語る』情況新書)。

そうであるならば、党派性のすべてを解体した政治党派(どんな形式で、どういう結集方法があるのだろう)というものの出現を望みたい。ゆるやかなネットワークでもいいのかもしれない。われわれは、いかにもパルタイの幻影に支配されていた。そこからの自由を今世紀の課題にすることが、左翼運動の再生のカギかもしれないと、ここでは述べておこう。そして言えるのは三里塚という場所が、いかにも多くの出会いを設えたものだったと。感謝したい。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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2018年芸能界最大の衝撃新刊! 上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』西城秀樹、ジョー山中、舘ひろし、小山ルミ、ゴールデン・ハーフ、吉沢京子……。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

70年代なかばの学生運動といえば、内ゲバの要素がつよくて「うちの息子ったらもう、学生運動に熱中して、困ったものよ」などという話が極めて深刻なものとなっていた。年に十数人の死者を出す内ゲバは、学生運動の牧歌的なよそおいを彼方に追いやってしまっていた。すでにヘルメットをかぶって集団で殴り合うのではなく、サラリーマン風のスーツを着た活動家が、ひそかに隠し持った鉄パイプで対立党派の活動家の頭部を狙う。そんな殺人事件が内ゲバの実態だったのだ。※立花隆の『中核VS革マル』参照。

◆「こんどはちゃんと逃げなさい」

大学の先輩には「いまや非(合法)・非(公然)の時代だ」と、よく言われたものだ。したがって、学生運動をしているなどということを、誰も家族にも話さないのがふつうだった。「ベ平連の運動ならいいけど、全学連はダメよ」などと、70年前後にはベ平連の街頭カンパには応じていたわたしの母親も、「内ゲバが怖いから、気をつけなさい」とよく言ったものだ。

が、そのじつ、わたしが18歳で学館闘争で逮捕されたときは「こんどはちゃんと逃げなさい」などと言っていた。もともとジャーナリスト志望だった人だから、息子が東京の大学(文学部)に進んだのが、自分の夢の実現でもあったのかもしれない。そんなわけだから、わたしが開港阻止闘争で逮捕されたときも、それほど愕かなかったようだ。息子逮捕の報を聴いて東京にきてからは、北九州にはない多様な交通機関をつかっての行動が楽しかったと述懐してくれたことがある。

とはいえ、一ヶ月ほど行方不明(横堀要塞にろう城)で、世間を愕かせた開港阻止闘争で逮捕されたのだから、わが家にとっては大変なことだったと思う。国家(政府)が農民を苛めるのは怪しからんと、父親も三里塚闘争には好意的だったが、しょせんは保守思想の戦中派である。共産主義運動を理解できるはずもない。わたしが家族を三里塚に誘うようなことは、最後までなかった。それには少しばかり、左翼運動への思想的なアプローチの方法が、わたしについては素直ではなかったのかもしれない。

◆「反スターリン主義=反官僚主義」というロマン

ある有名な女優のお兄さんで、70年闘争をくぐった人がアルバイト先の先輩で、よく口にしていたのが「革命運動は、正義というわけじゃないからね」だった。早稲田解放闘争(革マル派との内ゲバ)に参加して逮捕されたとき、父親に「正義の闘いなんだろう?」と問われて、言葉に詰まった時のことを語ってくれたのだった。「革命が起きたら、そこで死ぬべきだ」とも言っていた。革命後の権力に居座ることを、潔しとしない「反スターリン主義(反官僚主義)」を標榜していたのだと思う。わたしはそれにロマンを感じた。称賛もされるべきではない、われわれの死をかけた闘い。つぎのような吉本隆明の詩を、学生時代のわたしは好んだ。

わたしたちはわたしたちの死にかけて
愛するものたちとその星を
わたしたちのもとへかえさなければならない
その時についての予感が
わたしたちの徒労をわたしたちの祈りに
至らしめようとする
(架空な未来に祈る歌)

フレーズのうつくしい響きを、そのままに味わっていただければいいと思う。解説を加えるとしたら、死をかけて徒労のような闘争を行なうわれわれ。それはほとんど、架空の祈りに近いものであろう、ということになろうか。20歳前後だから、そんなロマンチシズムも心地よく感じられたものだ。それはたぶんに精神的には不健全であって、いわゆる人民大衆の正々堂々とした運動にはもって似つかぬものに感ぜられる。あるいは戦士の思想とでもいうべきだろうか。

◆母親を三里塚の現闘小屋に招いた先輩活動家がいた

そんな雰囲気であるから家族を三里塚に誘うなどということは、わたしについては思いも浮かばなかったが、いたのである。母親を三里塚の現闘小屋に招いた先輩活動家が。それを知ったのは、わりと最近のことだ。心臓の持病で亡くなられたので、往時の仲間が集まって偲ぶ会をひらいたときに、当時の現闘の人から聞かされた。その先輩は学生会中執の副委員長、政経学部の委員長を歴任した、いわばオモテの活動家で見栄えのする好男子だった。映画「仁義なき戦い」を好み、コワモテを標榜するところはあったが、もともと地方の優等生で、お坊ちゃんタイプ。どちらかといえば、体育会系の健康な若者だった。

元現闘の方の話を紹介しておこう「彼のお母さまが、新潟から来られたわけです。そんなことは、われわれにも初めてなので、大歓迎はしましたが。この汚い部屋に泊まってもらうのもどうかなと思い、染谷の婆さんの家にご案内しました。染谷の婆さんはわれわれの庇護役でもありますから、心地よく引き受けていただきまして、さいわいでした」

早世する生がい者の妹さんを同道していたのかどうかは記憶にないが、付き合っていた彼女をそこで紹介したはずだ(遠距離交際の果てに、結婚には至らず)。今にして思えば、本当に自分たちがやっていることを信じていたならば、彼のように家族を三里塚に誘うのだろうなぁと、自分の覚悟のなさが思い起こされる。(つづく)


◎[参考動画]40年目の三里塚(成田)闘争(Kousuke Souka2012年11月2日公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

7日発売!月刊紙の爆弾10月号

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

久しぶりに、三里塚の裁判闘争をふり返ってみた。21歳から25歳にかけて、足かけ4年におよぶ裁判闘争は、わたしにとって論理的な勉強をする時期だったかもしれない。学部は文学部で現代文学(卒論は武田泰淳の「史記」)だったし、どちらかといえば感性的に運動に参加したほうである。未決の獄中1年のあいだに、刑事訴訟法や資本論の読書、ドストエフスキー、高橋和巳を読破したことは前に書いた。

未決拘置の卒論ともいうべき冒頭意見陳述は、京大教授佐藤進さんの『科学技術とは何か』をもとにした、今でいえばポストモダン的な資本制の近代合理主義批判だった。資本主義のもとでは、すべてが数量化されるがゆえに三里塚のような開拓農の苦労が個別には理解されない。そこに農民たちの政府への不信が組織されたのだと、かなり説得的な論述になった。思い起こせば、獄中の1年ほど勉強した時期はなかったなぁ、である。

 

秋葉哲さんの談(HP「懐古闘争の記録」より)

◆3・8分裂と裁判の終了

判決が出たのは、1983年の3月である。おりしも三里塚芝山連合反対同盟の分裂が明白になり、論告求刑の日(2月公判)はマスコミのカメラの放列を浴びたものだ。判決の当日は、傍聴券をめぐって北原派の支援と熱田派の支援が睨み合う事態となって、わたしたち被告団もなかなか裁判所に入れない有り様だった。フェンスを挟んで殴りあいも起きていた。それに公安刑事が介入しようとする。逮捕者こそ出なかったが、やはり内ゲバは良くない、とこの歳になって思う。

判決時の裁判長は民事畑の人で、訴訟指揮はきわめて温厚、反対同盟の三幹部に対する気遣いも素晴らしかった。「秋葉さんの畑は、やはり園芸農業なのですか?」と、秋葉哲救援対策部長が最終陳述を終えたあとに、語りかけた記憶がある。それでも判決を言い渡すときは、かなり緊張した語調になっていた。それを考えても、いい人だったんだなと。

◆裁判は体験するべきです

最初の裁判長は荒木さんといったが、なかなかロマンスグレイの見栄えがする方で、わたしは嫌いではなかった。訴訟指揮は弁護側に対しても、検察側に対しても厳しかった。ロイヤー(法律家)というのは、若い学生にとってすこぶるカッコいい存在だった。

4回生から裁判と法律に接したことになるが、他学部聴講ではいくつか法学部の選択科目を選んだものだ。後年、アパートの敷金問題(敷金の没収と多額な修繕金の請求に対して、内容証明を出し敷金を奪還)、あるいは出版社の契約不履行事件で本人訴訟をした時に、訴訟法の知識は大いに役立った。大学進学の時に母親から「法学部がいちばんツブシが利く」と言われたのは、こういうことだったのかと思ったものです。したがって出身学部を訊ねられると、文学部法律学科刑事訴訟法専攻と答えることもありますね。あるいは文学部経済学科マルクス主義経済学専攻とか。

裁判と縁が切れない鹿砦社のデジタルサイトならではのこと、いまもわたしは法律的な知識に恵まれている。これは悪いことではない。各種の法律および判例には、人類の叡智が詰まっているのだと思う。たといそれが、正義感やバランスを欠いた裁判の判決であっても、裁判官や裁判員の苦渋がにじみ出ていればいいと思う。いまわたしは、死刑制度をめぐる本を執筆中です。法律といえば、憲法「改正」が政治の焦点になるのだそうな。あらためて、日本国憲法を読み返しながら、その論点を探ってみたいと思う。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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学生が観念的で、頭デッカチなのは仕方がないことである。その大半が気分だからだ。どんな雰囲気で闘いに参加するのかは、二木啓孝さんのインタビューを参照(『NO NUKES Voice』最新16号)されたい。もちろん学生にも学生としての生活があり、大学の単位を取れなければ、卒業と就職はおぼつかない。だがその現実を感じさせない、自由な時間が学生生活なのであろう。かく言うわたしは、8年間も大学に在籍した。二度も逮捕されたが処分は受けなかったし、保釈の身柄引受人は在籍する大学の教授だった。学内の主流派の党派とは対立していたが、三里塚の英雄ということで敬意を表されていたように思う。いわく「あれは要塞戦戦士の横山」であると。学生革命家などお気楽なものだといえば、たしかにそうかもしれない。お気楽ではあったが、ずいぶんと犠牲を強いられた記憶はある。「滅私奉公」を「滅資奉紅」と呼び換えても、費やした時間はかけがいのないものだ。ふつうの若者が愉しんだ甘い青春とは、あまり縁がなかったと思う。

ところで、かくもお気楽な学生活動家にたいして、労働者の場合はそうはいかない。78年の開港阻止闘争では逮捕者の6割以上が労働者で、その多くが公務員だったことに、政府自民党は衝撃を受けていた。逮捕された労働者の場合は三里塚の裁判闘争とともに、多くの場合に解雇撤回闘争を強いられた。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

◆クビを覚悟の生産点の闘争とは?

ところで、労働者の場合は、職場・生産点での闘いが、その試金石になる場合がある。三里塚闘争における鉄道労働者の場合がそれだった。空港および航空機にはジェット燃料が不可欠で、三里塚空港の場合はそれを運ぶのが動労千葉の鉄道労働者たち。つまり支援の最大勢力である中核派が虎の子にしている労働組合なのである。

ここに大きなジレンマが発生する。空港反対運動に参加しながら、空港に不可欠のジェット燃料を運ぶ。だったら、空港の命脈を握っているのだから、空港を機能させないカギになるではないか。と考えるのは単純すぎる。当時はまだスト権のない国鉄(公務員)である。違法なストをやれば必ず処分が待っている。すでにスト権ストや順法闘争などで、大量の処分者を抱えている労組にとって、組合が潰れてでもジョット燃料を運ばないのか、という問題である。わたしの弁護人だったH弁護士は隠れ中核派とも公然たる幹部党員ともいわれた人だったが「動労千葉がジェット燃料を止める? そりゃあ、組織が吹っ飛ぶねぇ」と笑っていたものだ。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

軍艦を修理する反戦労働者

生産点の労働者というのは、かようにジレンマを抱え持っている。たとえば米海軍の横須賀の母港化に反対している造船労働者も、ドックで米艦船の修理をすることになる。海上自衛隊に反対している労働者も、自衛隊艦船の部品をつくることがある。軍艦を修理しない闘い、すなわち職場生産点での反戦闘争をするのであれば、就業を拒否してしまうか? それは無理な注文であろう。横須賀の修理ドックは、そのほとんどが自衛隊の艦船を受け入れていたのだから。同志がいたので、その言葉を紹介しておこう。「ぼくらは自衛隊の護衛艦も修理してるからね。能書きだけで、組合の活動なんてできないんだよ」機関紙の編集部として、彼を取材したときのことである。

三里塚に話をもどすと、反対同盟の農民たちは「動労千葉はジェット燃料を運んでいるじゃないか」「ちっとも、われわれの支援になっていない」と、ことあるごとに指摘したものだ。それに対する、支援党派の動きもあった。社青同解放派がジェット燃料を積んだ貨物車両を襲撃したのである。もちろん鉄道労働者に危害を加えたわけではないが、中核派にとっては労働者の職場を襲撃した、ということになる。この件では現地集会で両派がゲバルト寸前になった。じっさいにジェット燃料輸送を拒否する動労千葉のストライキ支援で、津田沼電車区に行ったことがある。ただし一日だけのストであって、組織を賭けた政治ストができたわけではない。

◆勝利をめぐる戦術とは?

 

レーニン『なにをなすべきか?』

およそ革命運動にとって、最後の勝利(武装蜂起による権力奪取)いがいは、運動の目的は陣地戦である。組織的な地平を獲得する以外には、闘争それ自体はほとんどが敗北であろう。しかし、やがて軍隊のなかに作られた革命細胞が部隊の大半を掌握し、工場がゼネラルストライキで操業を停止する。そしていよいよ、政治危機にさいして革命党本部が蜂起を支持する(レーニン「何をなすべきか」)。もはや警察力では革命の側に組織された軍隊を抑えられず、街頭では政府打倒お民衆蜂起がはじまる。と、ここまで来なければ、おそらく労働者は生産点で政治ストを行なうことはできない。いや、形だけの政治ストなら日本の労働者も経験してきたが、合法的なスト権の行使にすぎない。三里塚闘争は少なくとも、組合の存亡をかけた闘いへの選択肢を提起したという意味で、やはり歴史的な闘いだったのであろう。そこでは、具体的な勝敗をめぐる戦術が明白だったのだ。そのリアルさに、夢みがちな新左翼の活動家たちは魅せられたのではないか。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新『紙の爆弾』9月号!「人命よりダム」が生んだ人災 西日本豪雨露呈した”売国”土建政治ほか

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

 

『戦旗派コレクション』より

わたしは理論誌とも思想誌ともいわれる雑誌の編集をやっていますが、理論や思想が世の中を変えるなどと思ったことは、じつはあまりない。人を動かすのは感情であり、魅力のある物事だと思うからです。その物事の原因や拠って立つ構造を解明することにこそ、理論や思想はあるのではないでしょうか。

とはいえ「理論派」「知性派」と呼ばれることに人は憧れ、その対極にある、やや侮蔑的な評価が「肉体派」ではないか。学生時代には、よく「君たちは肉体派だな」と言われたものです。この「君たち」とは、わたしの出身大学(けっこう受験生に人気はありまずが、一流とは言えますまい)の意味であって、わたしたちを評したのは、東京大学から「指導」に来ていた理論派の学生でした。どうせ俺たちは肉体派だという自虐が顕れるのは、三里塚現地で肉体労働に従事するときでしたね。団結小屋の改修や風車をつくるための穴掘り、要塞建設などなど。とにかくあてにされる。

ところがいちど、内ゲバで他党派と揉み合いになったとき、かの東大生は言ったものでした。「いいよな、君たちみたいに身長のある人は。相手に掴まれても、パッと突き放せるだろ」。このときに判ったものです。ああ、この人が「君たちは肉体派」と言うときには、背が低いことへのコンプレックスがあったんだな、と。

学生活動家というのは、大きな人か小さな人の両極端がなぜか多くて、昨年亡くなられた塩見孝也さんなどは巨漢系。塩見さんに早稲田でオルグされた故荒岱介さんも180センチの身長でした。いっぽう塩見さんと袂を分かつ赤軍派の指導者・高原浩之さんは小柄な方です。意外なことに、小柄な人のほうが頼りになると、よく言われたものです。

ヤクザも同じで、大柄な人と小柄な人がなぜか多くて、中肉中背という親分はあまりいない。たとえば工藤會の三代目・溝下秀男さん、山口組の五代目・渡辺芳則さん、太田興業の太田守正さんなど、小柄だが胸や腕は筋肉隆々という方が多かった。たぶん小柄だと、そのハンディを乗りこえるために鍛えるんでしょうね。大きい人だなと思ったのは、広島挟道会のM氏くらいのものだった。ヤクザは知性派とか理論派と呼ばれるのは評価が低い証しで、もっぱら「武闘派」が名誉ある親分ということになる。

◆「肉体派」という呼称に違和感がなくなった40代

わたしが「肉体派」という呼称に違和感がなくなったのは、40歳をこえるあたりからでしょうか。左翼活動家にしろヤクザの親分衆にしろ、付き合っている方々がひと回り年上なものですから、その中にいると話題が健康と病気の話ばかりだと気づいた。まだロードバイクはやっていませんでしたが、けっきょく左翼もヤクザも健康のことばかりになってしまうんだなと。だったら、今後は健康と環境問題が人類のテーマだと。

そこできっぱり、煙草をやめました。親父が肺ガンで死んだというのもありましたが、喫煙癖は病気だと思うと、意外に簡単にやめられたものです。いったんやめて、それでも家内が吸っていたので、もらい煙草をしているうちに「やっぱり、これって病気なのかな」と。そのうちに家内が怪我(浴衣で外出したときに、下駄を滑らせて脚の指を骨折)をして、じゃあ一緒に煙草をやめようとなったわけです。いらい、運動はもっぱらサイクリング、楽しみはお酒だけという生活です。さて、肉体派というテーマにもどりましょう。

 

『戦旗派コレクション』より

本格的にロードバイクに乗りようになってからは、肉体派という実感がむしろ誇らしく感じられたものです。もう50歳台になっていましたが、隆々たる大腿筋に盛り上ったハムストリングス。腕も硬く太くなっていきます。もうひとつ「肉体派」といえば肉体美をもって「演技派」に対置されるわけですが、肉体美という意味ではもう完全に、知性派とか理論派なんかというものを打ち負かす魅力があります(女優じゃないけど)。2008年の洞爺湖サミットにさいして、自転車ツーリングを呼びかけて「肉体派は集まれ!」というキャッチを同行するグループに提案したところ「せめて知的肉体派」にして欲しいと異論があった。単なる「肉体派」はダメらしい(苦笑)。

三里塚の横堀要塞にろう城が決まったとき、鉄の入った安全靴やぶ厚い作業着、フルフェイスのヘルメットに身を固めながら思ったものです。もっとスマートな都市ゲリラのほうが性にあってると。しかし逮捕されて3畳一間の独房にいると、三里塚の大地に身を躍らせたいと、そればかり考えていました。

もう還暦をこえたいまは、ひたすら健康のために自転車に乗り、健康な食材と美味しい料理が生きがいです。それと、やっぱりお酒なのですね。もう完全な肉体派。いまちょうど、五木寛之先生と廣松渉先生の対談本の復刻(抄録)を編集していますが、60歳で身まかられた大哲学者よりも、86歳にならんとする国民的作家のほうが肉体派だったということになります。肉体派万歳! (この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

三里塚闘争は土地所有をめぐる空港反対運動だったのか、それとも農民闘争だったのか。社会運動の観点からは、そんな命題が残されたように思う。実態は農民が主体の住民運動であって、土地を奪おう(強制収容しよう)とする国家との闘いだった。農民が主体である以上、営農の問題は運動の原動力でもあった。農民にとって営農とはつまり、土地と共生して行くということにほかならないからだ。

◆資本主義における農民問題とは何か?

あのころ、わたしたちは社会主義論の立場から、農業の集団化というテーマが問題意識にあった。戦争反対や政策反対闘争の延長に革命を措定するのではなく、運動そのものが社会主義の要求を内包するものと提起するべきだと。そこで単なる空港反対運動ではなく、農民を社会主義に動員する萌芽があるはずだと考えていた。当時はオルタナティブ(政策選択)という言葉が流行していたが、あえて社会主義革命の準備という表現に執着したものだ。これは関西ブントと合流したゆえの党派性であろうか。当時、わたしが属した情況派の流れを汲む組織は、赤軍派の一派と合流していた。

一般的な定義をしておこう。マルクスの時代、農民は共同体を通じても自然の力(天変地異)に抗することができず、神や絶対的な権力(君主)に頼らざるを得ない(『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』)したがって、没落するか体制に組み込まれる存在だと考えられた。もっともマルクスは、ロシア革命の黎明期にベラ・ザスーリッチ(ナロードニキ・メンシェビキの女性革命家)に宛てた手紙では、ロシアのミール(農村共同体)の革命的な可能性を予言している。

いっぽう、帝国主義段階の資本主義の下では、農産物は国際競争の中で、商品として安価な地域に淘汰される。したがって農業は大工業化されるしかないので、農民の大半はかならず零落する。これが近代の農業・農民問題である。そこから、土地の共同所有・全人民的な所有のよって、農業の集団化が計られることで、農民は零落することなく生産性を上げることができる。と、レーニンおよびロシア社会民主党(ボ)を継承したコミンテルンは問題意識を持った(わたしの理解です)。したがって、農民は労働者階級と連帯して、社会主義に向かうべきである。そうしなければ、零落する小ブルジョアジーとなるしかないのだと。かなり教条的だが、新左翼の大半はこう考えていたはずだ。じっさいには、ソ連邦のコルフォーズ・ソフォーズ(国営農場と集団農場)は農民の営農意欲を刺激できず、資本主義的な工業化すらできなった。

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

◆共同出荷と有機農法

三里塚における農業の集団化は、東峰部落で行なわれたワンパック、共同出荷場の作業にその具体性があると思った。そこで現地集会の前夜には青年行動隊を呼んで、農業の集団化について討論会を持ったことがある。「どうせ闘うのなら、農業もいろんな方法でやってみっぺ。いろんなことを試してみる。そういう問題意識だな」と語ってくれたものだ。三里塚の運動が生協をはじめとする全国に広がっているから、流通も全国に拡大できる。じっさいに、わたしは藤本敏夫さん(加藤登紀子さんのお連れ合い)の「大地を守る会」のアルバイトをしていたから、三里塚の野菜(根菜類が多かった)の需要は実感していた。それでものちに、同じ東峰部落の堀越さんが朝採り野菜を団地などで直販したほうが、野菜の美味さは格段に上だったと思う。ぎゃくに言えば、三里塚の野菜は「三里塚闘争」というだけで、ありがたがられる存在だったのだ。

有機農法については、かなり早い段階で取り入れられていた。冬場の援農で、「堆肥を取ってきてくれ」と言われて、山積みになっている乾燥堆肥の温度におどろいたことがある。見えない微生物が繁殖して、そこだけ熱を持っているのだ。農学部の学生も「無農薬・有機農法(微生物農法)」に興味を持っていて、それを見るために三里塚闘争に参加するケースもみられた。

◆成田用水問題

三里塚闘争に農業農民問題としての側面が厳然たるかたちで浮上したのは、80年代なかばの成田用水問題だった。成田用水は高地(北総台地)である三里塚に、はやくから計画されていた。それが土壌整備(深田の底上げ)などと一体化して、空港建設の見返り事業として立ちあらわれてきたのである。支援党派の多くは、これを空港建設の一部と見なして反対した。用水建設反対運動も実力闘争となったが、これがのちに反対同盟の分裂にいたるひとつの契機だった。常東農民運動で名高い山口武秀さんの言うところを、伝聞だが記しておこう。共産党も新左翼も、農民運動としての三里塚闘争を政治闘争にしてきた。政治的に利用してきた、というニュアンスである。農業基盤整備を行わない農民運動は、営農とかけ離れたところで闘っていることになるのではないか。そういう意見だったと思う。肝に命じるべし。

◆農への志向

それにしても、三里塚闘争にかかわった学生たちは農業というものを体感することで、人生観が変わったのではないだろうか。少なくともわたしはそうである。わたしの先輩の二木啓孝さんも同様だ。最新号の『NO NUKES voice』(Vol.16)に「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」というインタビューにまとめてみた。ぜひ読んでいただきたい。明大農学部出身の二木さんは、鴨川の棚田で農に接している。

わたしの場合は連れ合いに誘われてだが、松戸の市民農園でささやかな「営農」をしている。年間9000円で3メートル×5メートルの畑に、ホウレンソウや小松菜、ミニトマトにナス、ピーマン、獅子唐辛子、トウモロコシ、キャベツなど。マンションでやってみたプランター農業とは、まったく地力がちがうので愕いた。週末だけの農業とはいえ、スーパーで野菜を買う機会が減った。みなさんも是非!(この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

月刊『紙の爆弾』8月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

このたびの集中豪雨によって被災された方々に、お見舞い申し上げます。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

◆くり返された水面下の話し合い

1978年5月の出直し開港の前に、財界首脳が労働界を介して反対同盟との話し合いを行なったのは前述したとおり 。政府の無為無策に対して、財界が音頭をとることで休戦協定を結ぼうというものだった。ところが千葉県自民党と千葉日報の暗躍で、戸村一作委員長が福永運輸大臣と会談することになり、財界首脳の「和解調停」はついえた。政府運輸省としては、戸村委員長と話し合うことで誠意は尽くした、ということになったわけだ。

これが結果的にはどうだったのか。たとえ財界が音頭をとったところで、おそらく政府当局者(福田政権)は休戦協定を結ぶことはなかっただろう。反対同盟が財界首脳との協議で要求していた「逮捕者の即時釈放」(超法規的措置)を、司法当局はもとより行政府が肯(がえ)んじるはずがない。反対同盟の総意もまた、中途半端な和平ではなく「空港絶対反対」だった。じっさいに労働者学生の血が流され、獄中には捕らわれた若者たちがいるのだ。そして死者が出ている以上、安易な妥協策を講じるのは、即座に「裏切り」と言われかねない。

とはいえ、日本人同士が血を流し合う空港反対闘争の終結、あるいは円満な解決を、反対同盟農民も望んでいた。秋葉哲さん(救援対策部長)は「政府が二期工事を断念すれば、こっちも闘争の矛をおさめる準備がある」と語っていたものだ。これは初期の財界調停案でもあって、第三の首都圏空港を千葉県船橋の沖に海洋空港として建設する。都心からのアクセスが悪い三里塚空港は、貨物便用途の空港とする。そんな構想は現実的に感じられていたものだ。そのための水面下の交渉が、何度となく繰り返された。

80年代の全般を通して、反対同盟の幹部が政治ブローカー(農本系右翼や新左翼の元幹部)の手引きで、自民党政治家に接触した。そしてそのたびに、写真入りですっぱ抜かれてしまい、交渉は頓挫するのだった。すっぱ抜かれたものは氷山の一角で、表面化しない交渉もおびただしくあったのだろう。あるいは、反対同盟の幹部がひそかに自分の土地を空港公団に売ってしまい、それが露顕することもあった。その幹部にとっては、背に腹は替えられない事情があったはずだ。何も食わずに闘えと言うほうが、そもそも無責任ではないか。土地を奪われては食べていけないという原点から、空港反対運動は出発したのである。反対運動をやっているがために、食えなくなったのでは原点にもとるといえよう。


◎[参考動画]三里塚 大地の乱 前編(newleft1984 2009/09/19 に公開)

◆都市ゲリラ化した反対闘争

いっぽう、話し合いが模索されるなかで、支援勢力(新左翼)はどんな動きをしていたか。開港後の80年代は、飛び道具をつかったゲリラの時代だった。それも自動発火装置や金属弾、そして70年闘争いらいの爆発物も登場した。空港敷地内や建造物への攻撃、ジェット燃料のパイプラインへの攻撃。そして90年代に入ると、個人へのテロが急増した。千葉県の土地収用委員へのテロ、空港関連事業を請け負った企業の個人をねらったもの、その家屋を爆破するなどである。

あえて運動の一環としてのゲリラ闘争とは書かない。それが敵の弱い環をねらう戦争の基本戦術であったとしても、運動から孤立したテロリズムは空港を廃港にするという目的からは大きく逸れているとわたしは思う。空港を廃港にするというのならば、国民的な議論を経なければありえないはずだった。三里塚に臨時革命政府(労働者権力)ができるのならともかく、廃港は政府の決断をもとめることになる。ということは、政権交代や政治危機(政権が立ち行かない事態)をつくるよりないのだ。

開港を阻止したとき、国民の4分の1が空港よりも緑の大地を取りもどすべきだと、空港建設に反対だったのだから、大衆運動と国民的な議論による廃港の可能性はないわけではなかった。よしんば武装闘争が政治革命を目的にしたものであったとしても、物理的に政治権力を倒すには国民(人民)の圧倒的多数が政府を追い詰め、いっぽうで警察や軍隊の一部が革命の側に来るのでなければ成立しない。それは歴史上の革命が教えるところだ。先進国における革命とは帝国主義支配下の民族解放戦争ではなく、人と社会の変革なのだから――。

具体的にしめしておこう。空港の施設建設を請け負った企業の寮が放火され、労働者2名が殉職している。やはり空港関連企業の幹部宅が爆破され、無関係の父親が死亡している。公団職員の自宅が焼かれ、土地収容委員がテロで重傷を負った。三里塚闘争は大衆運動からかけ離れた、テロリズムになってしまったのだ。

◆円卓会議という名の懐柔策

90年代に入ると、宇沢弘文・隅谷三喜男といった学者が調査団を立ち上げて、三里塚闘争の収拾策をはかるようになる。宇沢にしても隅谷にしても、研究者としての人生の仕上げに三里塚空港問題という難題をクリアすることで足跡を残したい。そんな気配が感じられたものだが、善意の第三者が紛糾した事態を収拾するのは、悪いことではないだろう。調査団はシンポジウムを開催して、これは円卓会議と呼ばれた。誰も上位ではなく、下位でもない。対等の立場で話し合い、そこで得られた結論には従う。やれるものなら、やってみてくださいというのが、わたしたち熱田派支援の気分だった。もちろん、中核派に指導された北原派は不参加である。この時点で、シンポジウムは半分しか意味がないことになる。もしも北原派を会議の席に着かせていたら、このシンポジウム(円卓会議)は歴史的な偉業として歴史に名を残したであろう。

円卓会議では政府・空港公団側から一方的な建設計画と強権的な土地収用についての反省が表明され、事実上の「謝罪」が行なわれた。隅谷調査団およびシンポジウム(円卓会議)の、それは政府に対するスタンスであったから、政府・空港公団は消極的にではあれ建設方法の問題点を「謝罪」るのには、やぶさかではなかったはずだ。いや、それ以前に江藤隆美運輸大臣が反対同盟に謝罪を表明していたのだから、いまさら頭を下げるのをためらうことはなかったはずだ。

その意味では、学者たちが主導した円卓会議は形式的なものにすぎなかった。事実、その後の空港建設は機動隊を前面に出した「強制措置」こそ採られなかったものの、法的な手段で反対派農民を追い詰めるものだった。日々の生活を圧迫する騒音と莫大な移転費用の補償が現実の問題となった。それを準備した円卓会議は、かたちを変えた政府の「懐柔策」にすぎなかったのである。

◆三里塚闘争が残したもの

それでもわたしは、政府の「謝罪」をもって、三里塚闘争は終焉したのだと思う。いまも騒音下で苦しみを余儀なくされている人びと、あきらめずに「空港絶対反対」を闘っておられる人びとには敬意を表しながらも、闘争をやめる権利は農民たちにはあったのだと思う。不遜ながら思うことがある。膨大なエネルギーをもって相互に攻防した敵味方をこえて考えるに、国家的なプロジェクトを誤れば取り返しのつかないことになる。そんな貴重な教訓が残ればいいのではないか。いまは原発再稼動の問題および電力計画に、その教訓が生かされるのかどうかだ。そして思いを馳せるのは、戦争ゴッコのなかにも愉しいことは多かったという懐旧であろうか。私的なことも長々と連載しましたが、ご精読ありがとうございました。

今年はあまり盛り上がっていませんが、いわゆる「1968革命」から50年です。全世界が苛烈なまでにイデオロギーと政治的な地歩をかけて争った風景から、50年もの時が過ぎたのです。そのことが残した意味・意義・内省すべきことを、遅れてきた世代も追体験したのだとわたしは思います。いまもそれは続いているかもしれないし、これから負の遺産を払しょくした社会運動が生まれるのかもしれない。そのきざしは確かに、78年のわたしたちにはあったのですから。(この連載は随時掲載します)


◎[参考動画]三里塚 大地の乱 後編(newleft1984 2008/06/16 に公開)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新刊!月刊『紙の爆弾』8月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆援農という政治工作

膝づめで親しく話をして、酒を酌みかわしながら信頼関係を築いてゆく。そして政治的な課題を共有して、ともに行動計画を練る。そんなのが三里塚における、理想的な「政治工作」というものだったのだろう。まだ二十歳になったばかりのわたしは、現闘キャップが言う「政治工作」という意味があまりよくわからなかった。とは言いながらも、援農をすることで反対同盟農民への「政治工作」を、わたしも果たしていたのだ。三里塚における「政治工作」とまちがいなく、農民たちに恩義を売るという意味だったに違いない。農民たちにとってわたしたち支援学生は、使いやすい労働力だったのである。予期せぬ援農の朝は、こんな感じで始まったものだ。朝もはやくから、現闘小屋の電話がリーンと鳴る。

 

映画『三里塚のイカロス』

「はい、もしもし。○○団結小屋です」
「いま、そっちに学生さん、いるのかい?」
「は?」(現闘のキャップ)
「援農な、頼めないべぇか?」

電話を掛けてくるのは、決まって「おっ母ぁ」である。家父長である当主が掛けてくることは、めったになかった。親父たちは面倒なことはすべて、おっ母たちに任せたものだ。

「どうなんだべ?」
「はぁ……」

 現闘キャップ、ここで寝起きのわたしの顔を見ていますね。
「援農、来てくれない? 学生さんいるんだべ?」
「ええ、ひとりいますけどね」
「頼むわぁ。来させてよ!」

ややあって、現闘のキャップがわたしに問う。
「政治工作、いや援農、行けるかい?」
「は、はぁ」
「頼んだぞ。よろしくね」
「は、はい!」

かくして、その日のわたしの活動が決まったのである。本当は前日の夜まで鉄塔(岩山鉄塔)当番で、今日はオフだったはずなのに。現闘のキャップはクルマの修理に行かなければならないので、わたしが援農をすることになったのだ。こういう緊急呼び出しの援農というのは、きまって待遇が悪い。そもそもボランティアの援農に「待遇」の良し悪しもなかろうと思われるかもしれないが、貧乏学生にとって昼飯と晩御飯の「待遇」はきわめて重要なのである。若い身に三里塚の地は何の楽しみもなく、ひたすら食べることだけが生きがいだった、ような記憶がある。思い返してみると、現闘団が二名ほどの党派で、しかも実働部隊が学生なのに、反対同盟の方針を左右する「政治工作」など行なえるはずもない。援農で恩義を売ってはその恩義をもとに、自分たちのイベント(当時は「総決起集会」などと呼ばれた)に参加してもらう。そんなことだった。

◆ケチだった援農先、豪華だった晩餐

農作業に慣れない学生にとって、援農は大変だった。大変なのは、その対価である食事だった。関西から援農に入った学生が言ったものだ。

「あそこ、昼飯がひどかったやん。サトイモの煮ッころがしだけやろ。なんじゃいこら、で、僕らは納屋で寝てましたよ。ベタベタに疲れてたし」

なんと、昼飯が気に入らなかったから、作業をサボって納屋で寝ていたというのだ。たぶんその時は、援農の人数が多かったのだろう。2~3人しかいない場合は、そうはいかない。朝の9時ごろから始まって、夕方6時を過ぎるまでひたすら働いたものだ。

その代わりに、青年行動隊の若手の農民がその大半だったが、農作業後の食卓は豪勢だった。すきやき・焼き肉・寿司の店屋物、お酒も出て三里塚闘争の将来を語り合いながら、という具合だった。援農土産に「持っていきなさい」と言われて持ち帰る採りたての野菜、とくに真冬のニンジンや大根は美味しかった。シャキッと歯ごたえのあるみずみずしさは、都会のスーパーで買ったものでは味わえない。採りたての野菜が美味しいのだという記憶は、いま市民農園を借りた野菜づくりに生きている。

◆反対同盟の人々

反対同盟の人々についても、印象を記しておこう。東峰部落の石井武さんは、わたしたちの団結小屋の庇護者であるとともに、横堀要塞戦ではわたしの相被告だった。石井という名前は三里塚・芝山地区には多い名前で、例の「731部隊」は石井部隊とも呼ばれていた。石井武さんは731部隊ではなかったが、満州で活躍された関東軍の陸軍将校である。「おれは匪賊を何人××したか知れない」が酒を飲んでの口ぐせだった。元将校だけに、戦略的な視点や戦術的な判断は卓抜だった。

三里塚闘争の軍師といえば、岩沢吉井さんをおいて他にない。ほかならぬ3・26管制塔占拠の作戦立案は、この人が空港建設説明会の混乱のさいに公団事務所から手に入れていた図面がもとになっている。それは地下水道の精緻な見取り図であり、空港の地下構造の全容である。すなわち、空港を裸にしたようなものだったという。この山林の向こうを掘れば、空港中枢に通じるマンホールがあるはずだ、という感じだったらしい(映画「三里塚のイカロス」)。


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

とくに名前は控えますが、戸村一作委員長亡きあと、反対同盟の顔として活躍されたK氏は、そのオモテ向けの顔と、裏側の顔が乖離する人物だった。とは言っても、他の幹部たちのようにウラ金づくりに走ったりしたわけではない。「他の幹部」というワードが気になる方にはI副委員長など、善意でありながら自分の土地をひそかに売ってしまったり、闘争の資金を私的に流用した方々のこととしておきます。

さて、そのK氏は凛とした演説の風情とはまったく逆に、宴席(全国集会の会場係の慰労会)になると、へらへらとした顔になる。若い女性が大好きだったのだ。何かといえば、「こっちに来なさい」と、若い女性活動家に言葉をかけては、身体を押し付けるように、にじり寄る。ああ、見た目は立派な人なんだけど、こういう面があるのだなぁと、わたしはその光景を眺めていたものだ。ただし身体を押し付けようとしても、直接には触れなかったように記憶している。その意味では、けっしてセクハラではなかった。

わたしの相被告で、秋葉哲救対部長は温厚な人格者だった。わたしたちと要塞に立てこもった反対同盟幹部のなかでは唯一煙草を嗜まれない方で、最初の意志統一の会議で「嫌煙権を主張しますぞ」などと、みんなを笑わせたものだ。地下道(脱出用トンネル)では最後までわたしたちと一緒にあり、最後は「上に掘って酸素を入れなさい」と指示してくれた。酸欠寸前だったわれわれは、秋葉さんに生命を救われたと言っても過言ではない。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき『紙の爆弾』7月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆78年はニューミュージックとディスコサウンドの時代だった

わたしの未決拘留の一年間は、ラジオを通じて音楽に親しんだ一年でもあった。音楽通になるのは、拘置者の特権というべきか宿命というべきか。クルマを使って出版社で集配業務をやっていた時期もラジオは身近な存在だったが、90年代の音楽はそれほど印象に残っていない。千葉拘置所ですごした1978年を、わたしはひそかに78年革命と呼びたいと思ってきた。68年革命という世界史的な革命とはややちがう、しかし明らかに68年革命を否定する文化とミュージックシーンがそこにあったと思うからだ。まず、ニューミュージックの勃興による、四畳半フォークという60年代後期の若者文化の否定があった。まったく別のベクトルからは、ディスコミュージックが日本に到来していた。これら音楽シーンから歴史の思想的回路を取り出してみよう。


◎[参考動画]Bee Gees Stayin Alive (Extended Remaster)

映画「サタデーナイトフィーバー」を起点にしたディスコブーム。最近復活したABBAが多数の楽曲を仕掛け、ディスコの女王ドナ・サマーが次々に新曲を発表。60年代に日本人のアイドルだったシルビィ・バルタンも「ディスコクィーン」という曲をリリースしている。荒井由実・中島みゆき・ハイファイセット・サーカス(この年デビュー)を中心にしたニューミュージックには、渡辺真知子(カモメが翔んだ日)、庄野真代(飛んでイスタンブール)ら、本来なら歌謡系であるべき新人歌手が参入した。このニューミュージックは、60年代のフォーク文化を継承しながら否定する、アメリカ西海岸ミュージックとフォークのクロスオーバーなどと言われたものだ。

ロックではイーグルス(ホテルカリフォルニア)、ソウル系のスタイリスティックス(愛がすべて)が際立っていたと思う。「ホテルカリフォルニア」は言うまでもなく、アメリカという国家の疲弊と思想的な限界をバラードにしたものだ。ベトナム戦争に傷ついたアメリカは、ホテルカリフォルニアというホスピスに癒されているのだ。ここには68年いらい、スピリット(革命的な精神)は置いていないと、その叙情的なフレーズが語る。日本では矢沢永吉であろう。「時間よ止まれ」がミリオンセラーのヒットで、この年にハンク・アーロンの世界記録を塗り替えた王貞治に次いで「ヒーローと呼べる男」になった。最近亡くなった西城秀樹も、YMCAをはじめとするゲイミュージックを別のかたちで伝えて、一世を風靡したものだ。そういえば、ふつうの女の子にもどりたいキャンディーズが後楽園球場で4万人を集め、ピンクレディはラスベガスに進出した。かぐや姫(みなみこうせつら)の復活はあったものの、総じて60年代フォークが引導を渡されたのが78年だったと、わたしは思う。

◆78年革命から80年代ポストモダニズムへ

68年を否定した時代を、かりに文化における革命と措定してみる。78年革命があったとしたら、68年(70年)革命の遺産を払しょくし、若者たちはひたすら新しい時代を求めていたというテーマの設定はどうだろう。新しい時代が峻拒したかったものとはおそらく、68年革命と内ゲバに象徴される敗北の歴史であるはずだ。

不遜を承知で言おう。小熊英二が『1968』で2011年の3.11以降、社会運動は組織参加から個人参加の時代に変ったという、恣意的で皮相な見識とはちがって、68年いらい組織から個へと参加方法を移行させてきたにもかかわらず、運動を閉塞させてきたものからの自由。つまりマルクス主義やレーニン主義などの枠組みからの脱出を、70年代後半のわたしたちは希求していた。別の言いかたをすれば、運動と組織におけるポストモダン(近代合理主義批判)が始まっていたのだと、強引に理屈づけてしまおう。そうでなければ、80年代初頭からのニューアカデミズムとポストモダニズムの台頭が、どうにも説明できないのである。

ポストモダンという言葉が、大きな物語の終焉として語られるようになったのは、ジャン・リオタールの『ポストモダンの条件』が最初であろう。それより前には、建築家(チャールズ・ジェンクス)から発せられた『ポストモダニズムの建築用語』(77年)があり、世間一般にはポストモダンは建築様式として、磯崎新の建築作品群などで知られてきた。脱構築(デコンストラクション)という言葉が用いられたが、これは解体的止揚と訳したほうが適切であろう。その意味では、78年のニューミュージックは68年革命の成果であるフォークソングを解体的に止揚し、78年のディスコブームは60年代末期のゴーゴー喫茶(モンキーダンス)を解体的に止揚するものだった。

しかしながら、ニューアカデミズムとポストモダン現象が90年代には早くも失速するように、ニューミュージックとディスコブームも一過性のものにすぎなかった。ニューアカとポストモダン(この場合は思想としての)が一過性のものだったのは、そのあまりにも難解なレトリックと概念、わざと難しく書くことが偉いかのようなスタイルによって、誰もそのステージに上がれなくなった(単に本を読み通せなかった)からだ。

ニューミュージックとディスコ音楽が難解だったとは思えないが、この場合は楽曲の幅の狭さがその原因だったのではないか。あまりにもワンパターンだった。ニューミュージック系の流れでは、最近は本格的な声楽の歌い手をグループでプロデュースする手法が流行り、それなりに成功しているようだ(FORESTAなど)。とはいえ、歌唱力ではアイドルグループを凌駕できても、オリジナル曲とサラ・ブライトマンのような歌手が出てこなければ、本物の歌でアイドル文化を越えることはできないだろう。

◆本物の思想とは何なのだろう?

 

グループサウンズやフォーク、そしてポップスと呼ばれた欧米の楽曲、さらにはビートルズやストーンズ、ショッキングブルーなど。これら70年を前後するミュージックシーンを超える、本物のミュージシャンは、まだ日本には出てきていないと思う。坂本龍一教授にしても、そこは超えられなかったと思う。

いっぽう本物の思想といえば、階級ならぬ階層社会のなかで見直されるのは、やはりマルクス主義ではないだろうか。ヘーゲルいらいの大きな物語の終焉については同意しよう。革命というマルクスの物語も潰えたと思う。にもかかわらず、ニューアカとポストモダンの死骸のなかで、けっきょく残ったのはマルクスの方法論、すなわち経済的な与件に決定されるわれわれの存在と、それゆえに求められる共同体論の模索ではないか。すぐる5月5日はカール・マルクス生誕200年記念日だった。

映画「マルクス・エンゲルス」が上映され、反貧困運動いらいマルクスがもう一度見直されようとしている。わたしにとっては資本論読破40周年だが、そのガイストはもはや記憶にない。わたしたちの生きる術も労働や生産といった、資本の本源的な運動にはないと思う。78年革命が三里塚闘争によるものだとしたら、それはすでに経済的な与件ではなく、環境と共同体にこそ活路を見出そうとしていたはずだからだ。具体的には労働や生産点よりも流通と消費に、わたしたちは意識を移してきたのだ。どちらが本物なのかは、よくわからない。(つづく)


◎[参考動画]映画『マルクス・エンゲルス』予告編

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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