横堀要塞の抜け穴トンネルが警備陣に気づかれていたのは、すでに書いたとおりだ。場所までは特定できなかったものの、その存在は知られていた。あるいは推定されていた。そして検察官が抜け穴トンネルから脱出した者がいなかったことを、立証しないというドジを踏んだのも前述したとおりだ。ために刑事裁判を厭う裁判長は、殺人未遂被告にも執行猶予を与えてくれた。

抜け穴トンネルが予期されていたのは、交通課の刑事たちのレベルでも「過去の例(第一次・第二次強制収用阻止闘争)をみれば、すぐにわかるじゃないか」「あそこから、外に出た者はいないんだ。君たちが『自分たちは逃げなかったが、ほかに逃げた者がいる』とか言っても通用しないぞ」と事態は判明していたのに、検事はあえてトンネルからの脱出の有無を立証しなかった。ぎゃくに言うと、警察と検察の連携のなさは明らかだった。そして「逃げられなかったのは、指導者が悪いからだぞ」(取り調べの刑事)というのは半分は当たっているが、半分は「前日に脱出しなかった」のは、党派間の政治の問題なのである。

◆名作『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

獄中で読んでおもしろかったのは、漫画『男組』の物語の展開のなかに、関東少年刑務所の脱出用トンネルが登場したことだ(78年5月「少年サンデー」連載分)。あきらかに、わたしたちの横堀要塞の脱出用トンネルをヒントに描かれたものだ。その証拠に要塞化した少年刑務所の上空には、三里塚の地を思わせる飛行機が描かれている。わたしたちへの「応援しているぞ」というメッセージであろう。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

原作者の雁屋哲は東大時代に教養部自治会の役員をやっていた元活動家で、代表作『美味しんぼう』で知られるとおり、反米・反TPP・反原発の思想の持ち主である。『男組』は1974年の4月連載開始で、当時高校生のわたしは、受験勉強のかたわら読んでいた。大学に入って、アルバイト先の暇な時間にコミック化した『男組』を読んでいると、いつもは大学の教科書を読んでいると、にこやかな表情をする英語の堪能な女性事務員は、何となく軽蔑した視線を寄越したものだ。まだマンガが市民権を得ていない、それはいまでも同じかもしれないが、知的な層からみれば上から目線で見られていた。

そうであったとしても、『男組』は読み返してみるに、じつに政治的で扇動的なマンガだと思う。闘わなくなった若者に「闘え」と何度もアジる。アジるのは主人公の流全次郎だけではなく、ライバル(もうひとりの主人公)の神竜剛次もだ。剛次は「ブタのように奴隷労働の対価をむさぼる父親たちを乗り越えて、俺の理想の国家づくりに協力しろ」と、高校生たちを扇動する。そして闘わない大衆をも「ブタ」とののしる。その神竜剛次の危険な野望である独裁国家づくりを阻止するために、流全次郎も「いま神竜と闘わないで、いつ闘うのだ?」と、同級生たちの覚悟のなさを批判する。わたしたちは「三無派」(無関心・無責任・無気力)とも四無派(+無感動)とも呼ばれた世代で、雁屋にしてみれば「喝」を入れたいのはよくわかる。雁屋のメッセージを少なくとも、わたしは正面から受け止めた人間のひとりだと自負する。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

◆あらゆる政治的計画は破綻する

けれども、そのあまりにも過剰なボルテージは、池上遼一の巧みでダイナミックな描画によって、抜き差しならないところまで物語を引っぱってしまう。後段、流全次郎とその盟友である堀田正盛と倉本は「機動隊をせんめつせよ!」と呼号する。どこかで聞いたスローガンではないか。

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

特命機動隊なる非合法としか思えない警察集団が、殺人の許可をえて取り締まりに当たっているのだから、高校生番長グループが「機動隊をせんめつせよ!」と叫ぶのも不思議ではないが、これは70年闘争の中核派の主張である。物語全体に、たとえば影の総理を児玉誉士夫や岸信介、あるいは田中角栄、三島由紀夫をダブらせてみせる人物設定が巧みで、読む者を政治のリアリイズムのなかに誘う。それゆえに、ボルテージを上げすぎても破綻しないギリギリのシナリオが成立している。とはいえ、政治のアジテーターがけっして政治的な結末まで準備できないのと同じで、物語はアジテーションで終るしかない。なぜならば史実をなぞる物語でないかぎり、政治的計画は第一の命題である「政治は結果がすべて」であることによって、かならず裏切られる運命にあるからだ。

それでは、三里塚芝山連合空港反対同盟とわれわれ支援の政治的な計画は、どこで何に裏切られ、あるいはどの地点で僥倖に遭遇したのだろうか。それは陥穽に落ちたと評価されるべきものなのだろうか。80年代に複数の回路で行なわれた「話し合い」は、90年代にいたって学識者の調査団、さらには円卓会議(上下のない立場での会話)として形になってゆく。(つづく)

『男組』(雁屋哲原作・池上遼一作画)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

タブーなき最新刊『紙の爆弾』2018年7月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

千葉刑務所(千葉拘置所)

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

◆明治以来の獄房・千葉刑務所(千葉拘置所)

いまの刑務所はテレビも観られるのだという。ヤクザの取材で知ったことだが、時間と選局は決められているものの、かなり自由に観られるそうだ。時間は所によって違い、18時から21時、19時から21時だという。わたしが入っていた頃の千葉拘置所(千葉刑務所内)は、18時からラジオ放送が始まり、21時に消灯。その後、22時か23時までラジオが聴けたと記憶する。昼は12時から13時だったか、休日(刑務所的には免業日)は終日聴けたと思う。

いま、北海道の旭川刑務所の独房が評判で、まるでワンルームマンションだと言われている。旭川刑務所はLB級、つまりロング(長期刑)で再犯(B分類)の重刑犯の刑務所である。千葉刑務所もLB級で、わたしが入っていた頃は狭山事件の石川一雄さんが居たところだ。建物は明治時代のもので、古色蒼然とした赤レンガ造り。独房の扉はぶ厚い一枚板で、トイレは肥溜め式。唯一の救いは、頑丈なレンガとコンクリートなので、夏の熱さがそれほど感じられなかったことだろうか。冬も寒いとは感じなかった。

いま、東京拘置所は建物全体に冷房があり、個室にもその冷気がくるので夏も快適だという。密閉性が高いので、冬も寒くないという。いずれにしても、堅牢に造られた建物は夏も冬もそこそこに快適だということだろうか。いまはレンガ造りの門だけ保存されている千葉刑務所(千葉拘置所)は、明治時代の建物だった。独房のなかには朝鮮人(おそらく共産主義者)の落書きが記され、戦前の日付が残されていたりした。

◆左翼学生にとって拘置所が革命の学校なら、ヤクザにとって刑務所は大学

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

拘禁されているのだから、それが苦痛と思えばキリがないけれども、拘置所のなかで21歳になったわたしはシャバでは意識しなかった向学心で、それなりに充実した「獄中生活」を送ったと思う。時間をかけて資本論を読むのは初めてだった。「相対的価値形態と等価形態は相互に従属し制約し合う二要素であると同時に、相互に排斥する両極であり、換言すれば同一なる価値表象の両極である」という価値形態論のフレーズをいま読んでも、何のことかさっぱり理解できないが、若いわたしは解かったような気になっていた。

小説もよく読んだ。高橋和巳の小説は「こんなの、獄中で読まないほうがいいよ」と差し入れ担当の仲間が言っていた『憂鬱なる党派』もふくめて、ほとんど読破したと思う。やはり『悲の器』と『邪宗門』がダントツにおもしろく、そしてテーマがズーンと重たい。『悲の器』が文化人論・恋愛論・法と国家論を詰め込んだ重厚な問題作なら、『邪宗門』は宗門の悲劇を通じて描いた壮大な現代史であろう。何度も読み返せる小説作品としては、三島由紀夫の『豊饒の海』四部作とともに、わたしはこの二作品を挙げたい。

未決の「舎房雑役」は既決の模範囚が行なうのだが、その中に高橋和巳を読んでいる人がいて、本(領置品)の出し入れのさいに話になった。「高橋和巳はおもしろいよな。ちょっと硬いけどな」と、彼はかなりのインテリで、ドストエフスキーの話もした記憶がある。のちにヤクザの取材をすることで、ヤクザにとって「刑務所は大学」だということだった。担当さん(看守=刑務官)を「先生」と呼ばされ、イヤでも本を読むしかないのだから――――。

 

千葉刑務所(千葉拘置所)

◆獄メシ 麦6割・白米4割の健康食

ネットで検索すると、いまも獄メシは、麦6割・白米4割の健康食らしい。それが美味いかどうかは、お正月に出る白米100パーセントを食べてみればわかる。白米(銀シャリ)はまるで、上質なもち米を味わうかのごとき美味さで、麦飯の不味さを実感させたものだ。カレーとモツ煮込みがわたしには極メシの御馳走で、たまに薄いトンカツが出ると狂喜乱舞であった。このトンカツ定食が夜に出るのは、決まって死刑相当の被告が千葉刑に滞在する時だった。というのも、某党派の長期刑相当の被告は、東京地裁と千葉地裁に被告事件を抱えていたから、たまに千葉刑に移送されてきたのだと思われる。

そしてなぜトンカツなのかといえば、これは新聞でも暴露されたことだが、千葉刑務所は刑務官たちがコッソリと養豚をしていたのだ。もちろん自分たちで餌をやるわけではなく、懲役囚に育てさせていたのである。刑務所はいわば工場であり、キャピックという組織を通じて製品を一般に販売している。懲役囚にわずかな報奨金を与えて、木工工場からは箪笥やテーブル、印刷工場ではチラシや文庫本の印刷、金属工場ではネジや釘といった部品類、そして独房では封筒・紙細工など、シャバでは主婦の内職みたいなものが行なわれている。たまにデパートで刑務所作業販売会という催しが行なわれることがある。販売されているのは木工製品が主流で、それはそれは職人が造ったとしか思えない逸品ばかりが並んでいるものだ。

トンカツも楽しみだったが、自弁でお菓子は買える。獄中にいると不安がつのり、ついつい食べすぎになる。白アンパンが好物なので、毎日一個は食べていたような気がする。甘い物は注文できるのだが、ポテトチップスとかジャンクフードは少なかったように思う。それにしても、1日15分の運動では食べた量を消費できるはずもなく、逮捕された時に50キロほどだったわつぃの体重は、1年間で63キロまで増えていた。これは懲役囚でも同じらしく、みなさんふっくらとしている。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

7日発売!タブーなき『紙の爆弾』2018年7月号!

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

この連載も10回目になります。闘争の歴史を記述するのは、あくまでもわたし個人の視点によるものであって、100人がいれば100の史実と真実がある。という歴史観から自由ではありません。とはいえ、歴史関連の著書もある史家のひとりとして、なるべく事実に即したものを書き残しておきたい真摯さは持っているつもりです。

そこで、書ける範囲で三里塚闘争の実相を記しておきたいと思う。三里塚闘争において闘争の実効性の大半を占めたのは、実力闘争がもっぱらであった。機動隊を前面に立てて空港建設が行なわれたかぎりで、それは共産主義革命をめざす政治党派が意図した以上に、農民の怒りを根源にした、自主的で必然的な判断・意志によるものだった。三派全学連をはじめとする新左翼の闘争の先鋭化はしたがって、三里塚芝山連合空港反対同盟の実力闘争によって培われたものだ。

以下はゲリラ闘争の記録である。自慢げに華々しい戦記物を書くつもりはない。ふつうの人間が戦場に置かれたとき、どんな行動をするものか。すくなくともわたしたちは、三里塚の地で疑似戦場を体験していたのだ。人が命を落とす戦争というものの怖さを、わたしも掠(かす)るように体験した。その意味では、戦争体験と言えるかもしれない。じっさいに複数の仲間が三里塚で死に(自殺をふくむ)、敵であった機動隊員も4名が殉職しているのだから――。


◎[参考動画]映画『三里塚に生きる』特報(第一弾予告編)(Kobo Sukoburu 2014年7月7日公開)

◆都市ゲリラ

ゲリラ行動の原則は敵の弱い環を叩く、戦術の基本から準備される。たとえば空港公団の設備の警備が手薄な場所。ビジネスビルの一角に、たまたま空港公団に関連する事業所の事務所があったなら、その事業所があるフロアのトイレなどが狙い目だった。なにくわぬ顔をしてエレベーターに乗ってフロアに降り立ち、ガソリンが入ったビール瓶にウエスを浸したものに、火の点いた蝋燭を立ててくる。時限発火装置などという技術開発はなかったから、ガソリンに火が付くかどうかはわからない。翌日、夕刊紙に「トイレでボヤ」という記事を見つけたゲリラ実行者は、ひそかに成功を快哉するというわけです。ただ、見出しの「過激派のイタズラか?」に少々傷つく。これはしかし、典型的な都市ゲリラだ。監視カメラが設置されているいまは、もう使えない戦術だろう。念のために付記しておきますが、わたしがやったゲリラではありません。

◆死者の出る野戦

77年5月の岩山大鉄塔破壊のときは、大学のサークル連合の合宿からもどったばかりで、仲間から「おまえ、やっと来たか」と言われた記憶がある。鉄塔の跡地では旗竿を構えたまま隊列を組んで、機動隊に迫ろうとすると猛烈な放水を浴びた。お腹にまともに受けた瞬間、身体がふわっと浮くような感じだ。ウィーンというモーターの音がして、暑いと感じられる5月の日差しのなか、放水のしぶきが肩にはじける。ちょっとシャワーを浴びたような快感と、戦場にいる臨場感。つぎに盾を持った機動隊員が前進してきて、そのまま追い立てられるように道路から排除された。

翌日は朝から千代田農協の構内で、鉄塔撤去への抗議集会だった。と同時に、周辺で機動隊との衝突がはじまった。集会をしている買う場内にもガス弾が飛来して、たまたまそれに当たった労働者が昏倒する。機動隊と対峙するデモ隊の脇から、突如として走り出てきた赤ヘルが火炎瓶を投擲する。機動隊のジュラルミンの盾が、サーッと後退する。随所で竹槍で機動隊と激闘が繰り広げられる。投石もすさまじかった。そんな攻防が昼過ぎまでくり返されたのだった。その日、臨時野戦病院に防衛線を張っていた東山薫さんが、ガス弾の直撃をうけて死亡したのは、連載の初期に書いたとおりだ。その翌日、ゲリラの襲撃をうけた機動隊員が殉職した。相互に犠牲者が出て痛み分けの様相だが、三里塚闘争が「戦死者」をともなう闘いなのだという実感で気分が重なった記憶がある。

◆トラックで乗り付けて、火炎瓶をフェンスに投げつける

開港前のゲリラ闘争は、集会の開催などとは関係なく行われていた。夜半にトラックで警備の手薄なフェンスに乗り付け、鉄柵に火焔瓶を叩きつける。ボッと燃え上がる炎を背に、トラックに飛び乗って逃走する。現地集会がひらかれる時以外は、ヘリコプターが動員されるのは稀で、空港の中からパトカーや警備車両が出動することもない。いわば三里塚の闇の中をやりたい放題のゲリラだった。

その様子を、警察無線の傍受で何度も聴いたことがある。「第5ゲート付近、火炎瓶事件が発生」「トラックで逃走の模様」「警備出動の可否を上申」などいう会話が聴こえてくる。じっさいに、警備車両が出動して、某党派の団結小屋を捜索したこともあった。「トラックのエンジンが熱いかどうか、確認せよ。エンジンを確認せよ」という警備本部からの指令で、現場班から「エンジンは……、冷えています」の応答があった。

ゲリラに使った車両を、そのまま団結小屋まで回送するゲリラはありえない。その夜の内に、空港の警備圏外に脱出しているはずだ。だがそれも、まだNシステムがない時代だからこそ可能だったゲリラであって、90年代にはいると物資の搬入も幹線道路を避けなければならなかった。後年、自転車ツーリングで元ゲリラ要員といっしょに利根川サイクリングロードを走ったとき、河川敷の道路経由で物資を搬入したと聞かされたものだ。

警察無線を盗聴していて、よくわかったのは現場の最高指揮官が「参事官」ということだった。参事官(本庁課長・警視長クラス)は本庁のキャリア組で、派遣された各県警の本部長を歴任したあとに、本庁にもどって警視庁長官レース(審議官・警視監クラス)に臨む。したがって自分よりも年上の県警幹部を叱咤しまくり「ヘリを飛ばせろ!」と叫ぶ。その下命をうけた県警幹部が「〇〇参事官から、かさねてヘリ出動の要請あり」などと連絡が入る。そんなやり取りは滑稽で、しかし迫真のものだった。

昼日なかにトラックではなく、徒歩で山野を逃げたこともある。もう開港していたから、飛行阻止闘争という意味合いで滑走路の延長上で黒煙を炊くというものだった。山林火災にはならないよう、古タイヤや灯油をつかった大きな焚火である。黒煙が上がれば、飛行機の離着陸に影響があるだろうというものだが、近くにいるわたしたちが煙たい思いをするだけだったかもしれない。もうもうと黒煙があがると、機動隊が大挙してそれを消しに来る。そこを待ち伏せして襲撃するというわけではなく、なにしろ少人数だから逃げる。無許可で大きな焚火をしただけだから、刑事犯罪ではないと思われるが、とにかくゲリラ闘争らしく逃げる。田んぼの畔を走り、小川を飛び越えて山林に隠れる。逃走地点は決めてあって、3時間ほど逃げた地点に迎えのクルマがやってくる。この場合はクルマをゲリラに使ったわけではないので、そのまま団結小屋にもどって夕食ということになるのだった。

やはり飛行阻止闘争で、凧をつかったことがある。凧にアルミ箔を貼って、それで管制室のレーダーが妨害されるのかどうかはわからないが、凧揚げで飛行を阻止するのだ(笑い)。小さいころに凧揚げをやった経験のない学生はダメで、うまく揚げた学生が賞賛されたものだ。(つづく)


◎[参考動画]東峰地区(mogusaen 2016年5月28日公開)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

◆第四インター日本支部の栄光

3.26開港阻止闘争で全国にその名を知らしめたのは、第四インター日本支部(革命的共産主義者同盟)だった。管制塔占拠にさいしても「管制官には危害を加えない」という方針が確認されていたことから、非暴力直接行動であるとの評価も浮上した。もっとも、これはベトナム反戦運動のころに起きた、ベトナム戦争反対行動委員会の日特金属工業(米軍や自衛隊に機関銃を供給)への抗議行動(機械などを破壊)になぞらえて評価されたものだと思われるが、ちょっと的外れである。開港阻止闘争では機動隊に火炎瓶を投げつけたし、鉄パイプを機動隊員に打ち下ろしてもいる。だが、内ゲバはしないという組織路線が、革共同両派の内ゲバ戦争に辟易していた人々には、清廉なものに見えたはずである。左派労働運動のご意見番的な存在である長崎造船労組は「いま、君たち(第四インター)は好感をもって労働者たちに受け入れられている」と評したものだ。

当時、第四インターの実働部隊である青年学生共闘は逮捕された200人ほどをふくめて、600ほどか。政治集会で1000人ぐらいではなかっただろうか。当時、中核派が1500人ほど、社青同解放派が600~700、ブント系では戦旗(荒派)が150、戦旗(西田派)が100、ほかに大きなところでは立志社(のちにMPD)が130、第四インターとともに管制塔占拠をになったプロ青同(共労党)は80ほどにすぎなかった。わたしがいたグループといえば、60人もいたのだろうか。三里塚闘争全体では、警察発表で9000人、主催者(反対同盟)発表で20000人と言われていた時代である。いずれにしても、史上初めて学生と労働者が警察に勝ったということで、第四インターはいわゆる人民大衆に期待され、その活動は受け入れられた。まるで60年代の三派全学連(第四インターも三派全学連には参加している)の再来のように、かれらの人気は高まった。

が、思わぬことからその栄光の赤旗(鎌トンカチ)は、地に堕ちることになったのだ。それはレイプという女性差別が、ほかならぬ三里塚現地闘争団の内部に起きていたのである。

◆現地闘争団のレイプ事件

最近、当時の女性活動家から当時のことを聞く機会があった。レイプ事件そのものは、調べてみれば他党派もふくめて芋づる式に露見したという。わたしのいたグループでもレイプこそなかったものの、就寝中に女性の身体を触るなどの行為はあった。その問題については、「女性の政治的決起を抑圧するもの」と指導部から評価が説明されたかと思う。痴漢、あるいわセクハラ行為なのに、左翼はヘンな理屈をこねるものだと思った記憶がある。※第四インターでは、女性が嫌がる性的接触をすべてレイプと規定したという。

最近、わたしが話を訊いた元第四インターの女性も、「レイプ問題も、マルクス主義から説明しなければならない女性指導部に、ちょっと厭きれた」「女性が嫌なことをされたわけだから、そこを具体的に問題にしなければ解決しないのに」と語ってくれたが、そのいっぽうで当時は解放感にあふれた雰囲気で、三里塚の地はすばらしく楽しかったとも言う。若い男女が狭い小屋で寝泊まりしているのだから、問題が起きないほうがおかしいと、わたしは思う。とはいえ、女性が嫌がることをしていたのだから、徹底して指弾されてしかるべきである。かく言うわたしも、最初に街頭デモで密集したとき、女性活動家と身体を密着させることにアソコが驚いたものだ。左翼ってすごい、と思った。

◆フェミニズムの勃興は女性差別から

ともあれ、この事件(複数)によって第四インターは組織的な混乱に陥った。レイプを糾弾する女性グループが形成され、のちに分派して第四インター国際書記局から正統派と認められる(正確には組織としてではなく、このグループのメンバーを国際書記局が受け容れた)。女性差別と言えば、60年代末の全共闘運動のバリケードのなかで、レイプ事件や女性が嫌がる事件は頻発していたという。上野千鶴子は、男子活動家から『共同便所』という言葉が出たのがショックだった、とその当時を語っている(朝日新聞の連載記事)。いわば全共闘運動における女性差別こそ、リブ(フェミニズム)が生まれ出る契機だったのだ。

 

『三里塚闘争50年の集い7・17東京集会報告集』(2017年1月15日三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)発行/定価500円)※画像をクリックすると模索舎ストアにリンクします。

70年の全学連大会で議長が気軽に女性活動家に書記を依頼したことから、その大会は女性差別糾弾がテーマとなったのはよく知られている。第四インターという組織はおそらく、そういう組織的な矛盾を経ることがなかったのではないか。わたしは学生時代に障がい者介護をやっていたが、その当該(障がい者)が第四インターを批判して、ぼくの部屋を勝手に解放空間にしてしまったと語ったのを知っている。その解放空間とは、彼に言わせれば若い男女の乱れた関係、いや、セックスが解放されてしまった空間だったようだ。

上野千鶴子は「同志である男性活動家に裏切られた」と語っているが、差別の実際こそ男女の関係をつくりかえる契機になるのだろう。しかるに、三里塚闘争の主体である反対同盟農民の家庭において、その女性差別は顕著だった。若い男女の関係ではなく、封建的な家父長制において、嫁たちは苦しんでいたのだ。しかもその嫁たちはリブ運動に目覚め、反権力闘争の中に女性解放の展望を見出そうとしていた、新左翼の支援嫁たちなのである。このテーマについて、本稿ではこれ以上は掘り下げない。じつは支援嫁たちの三里塚闘争として、ある気鋭の女性ライターに書くことを勧めているからだ。乞うご期待! そのエッセンスは、支援嫁のひとりである石井紀子さんの発言で触れられる 。紀子さんによれば、おっかぁ(家父長の妻=婦人行動隊)たちは「共同経営者」であり、農家で妻の立場はけっして弱くはない。彼女たちの賛同を抜きには、家父長といえども何もできないからだ。支援嫁はしかし、ほとんど家内奴隷だった。ようやく共同経営者になろうとしたとき、夫たちは空港との共存に走り、支援嫁たちは立ち尽くすしかなかった。(つづく)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、最新刊は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

わたしが逮捕されたとき、警察の取調べ官は交通課の刑事だった。逮捕者が200名以上もいたので、公安部の捜査員では足りなくなっていたのだろう。交通課の刑事たちにも左翼方面の知識はそれなりにあって、三里塚闘争の歴史にも詳しかった。40代なかばと思われる刑事は「君たちは便利だと思って乗ってるかもしれないけど、新幹線だって騒音の問題があるんだぞ」「政治が悪いから、いろんな問題が起きる」などと、社会問題に敏感なところを感じさせたものだ。

◆内輪揉めしている猶予がなかった三里塚でも、内ゲバは起きた

わたしが18歳のときに学内闘争で逮捕されたときほど、左翼運動にたいする批判めいたことは吹き込まれなかった。わたしが18歳のころは中核派の本多書記長が殺されるなど内ゲバも全盛期で、中央大学の中庭で襲撃された学生が植物状態になりながらも生きている話や、岡山大学の寮生がクルマで轢き殺された事件などを例に、耳もとで「だから学生運動はやめろ!」と説得されたものだ。三里塚では初期の段階で取り調べにきた年輩の刑事が「きみ、闘争に疲れたという顔をしてるなぁ。こうなった以上、しっかり勉強でもするんだな」などと励ましてくれた。開港を延期させた壮挙(?)に、彼らも歴史的な事件にかかわる興奮が感じられた。

とはいえ、交通課の刑事たちは「どうして三里塚では内ゲバが起きないのかな」「そうだなぁ。ああ、でも中核と革マルがいっしょにいるわけじゃないから、起きないんだろ」などと呑気な風情だった。担当検事はわたしの母校のOBだったから、やはり内ゲバの事例を材料に「転向」を迫ったり、「君たちの運動は離合集散が激しすぎる」と、的を得た批判をくれたものだ。三里塚では内ゲバは起きない。反対同盟の運動的な権威と組織的な厳格さがそれを許さなかったというべきか。あるいは日々が戦場である三里塚の地では、内輪揉めしている猶予がなかったというべきかもしれない。

しかしその三里塚でも、内ゲバは起きた。それも小競り合いや殴り合いというレベルではなく、寝込みを襲うという内ゲバ殺人の手法だった。すでに書いた83年の3月8日の反対同盟の分裂ののち、大地共有化運動に反対する中核派が第四インターの活動家を襲ったのである。数名が重傷を負い、1人が片脚を切断する事態に陥った。この行為は社会運動の広範な人々から批判され、のちに分裂した中核派系の人々は誤りであったと認めたが、それは大地共有化運動の否定に根ざすものであるところまで、自己批判が深められるものではなかった。

◆運動に与えた負の影響

内ゲバが運動に与えた負の影響は、ぬぐいがたいほど深刻なものとして、いまもわが国の社会運動に亡霊のような影をやどしている。ブントにおける7.6事件と赤軍派の分派、武装闘争の帰結としての連合赤軍事件、中核派と革マル派、および社青同解放派の内ゲバ戦争。三里塚闘争の大地共有化における内ゲバは、全国の三里塚支援勢力を分断した。あるいは多くの人々を三里塚から足を遠ざけさせた。これらの内ゲバは明確には教訓化されず、今日に至っている。

じっさいに、左翼運動の直接的な影響を受けていない人々においても、たとえばヘイトスピーチにたいするカウンター運動の内部で、同様の事件が起きているのだ。社会運動は非暴力直接行動であっても、激しい肉体的な接触が起きる。したがってそこに、実力で紛争を解決する志向が生じることになる。そして内部暴力が生まれる。

わたしたちの世代が影響をうけたマルクス主義やレーニン主義においては「いっさいの社会的秩序の暴力的転覆」(『共産党宣言』)によってしか、共産主義者の目的(革命)は達せられないとされていた。さらには「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である」(『国家と革命』)とされてきた。そこから「暴力一般は否定しない」という意識が、ぬき難くあるのは間違いないだろう。

連合赤軍の場合は、高度な暴力である銃撃戦・殲滅戦に耐えられる高度な階級意識、すなわち共産主義化が必要であるとして諸個人の「総括」がもとめられた。この「総括」とは、リンチによる同志殺しであった。反革命を殲滅する「処刑」の思想でもある。マルクスおよびレーニンの暴力論が、そこに根ざしている。そうであれば、マルクスとレーニンによる左翼思想そのものが、内ゲバの根拠なのではないか。

そこまでは了解できるとしても、ヘイトカウンター運動のように、およそ基本的な左翼思想が感じられない運動の内部においても、内ゲバ(リンチ)は発生したのだ。いや、右翼においてもリンチ事件は発生している(統一戦線義勇軍)のだから、そもそも内ゲバは左右の思想圏を超えている。人間の運動体が持っている病理なのであろうか。

◆語りつがれるべきことを語って欲しい

明白な敗北の教訓、あるいは具体的な事実だけがすべてであろう。敗北が明らかであるがゆえに、徹底した総括(同志殺しではなく理論作業)がなされた連合赤軍問題にたいして、革共同両派および解放派の内ゲバ戦争は、かたちのうえでも継続されているかぎり、総括のとば口にすら立てない。100名をこえる死者は深刻であり、そしてその史実は重大である。その中心を担った人々も鬼籍に入らんとする現在、語りつがれるべきことを語って欲しいものだと思う。

たとえば「われわれがカクマルと戦うことで、人民の運動は防衛された」(革共同再建委員会の見解・『革共同政治局の敗北』の記述など)と、内ゲバを正当化する主張がある。これはしかし、未曽有の内ゲバ戦争を美化するものにほかならない。革マル派を「未曾有の反革命」に成長させたのも、ほかならぬ内ゲバ戦争によるものであって、革マル派だけが内ゲバの原因だったという主張は戦争の相互関係、事物の相対性を見ない硬直した思考なのである。革マルを指弾する中核派や社青同解放派が自治会や運動の統制においては、革マル派とまったく同じレベルの独裁制を敷いたのは、つとに知られるところだ。

革命党派・革命家こそ高い倫理性がもとめられると云ったのは、自身が共産党の党内闘争を体験した高橋和巳である。殺人にまでは至らなかったとはいえ、内ゲバによる他党派構成員襲撃とは人間の変革を否定した死刑の肯定にほかならない。そのような革命党派はおそらく、死刑制度を肯定する社会を築くにちがいない。革命運動をふくめた社会運動の所作とは、めざすべき社会をそのまま体現しているのだから。三里塚闘争においても、内ゲバは不可避であったが、やがて条件闘争派、絶対反対派、空港との共存派はそれぞれの道を歩むようになる。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

出直し開港の5月20日(1978年)を前に、戸村一作委員長が福永運輸大臣と会談したことで、財界首脳の休戦協定案は棚ざらしにされた。そしてそのまま、事実上の消失だった。政府運輸省は、戸村委員長と「対話」したことで、誠意を尽くした格好を得たのである。

◆清廉な政治と裏の政治

閣僚や自民党有力者(中曾根康弘ほか)は「機関銃で過激派を掃討しろ」とか、暴力には暴力で応じるとばかりに気色ばんでいたが、冷静だったのは千葉県自民党だったということになる。その意味で、財界との合意(休戦協定案)が反故になる政府との「対話」に応じた戸村委員長は、裏の政治がわかっていなかった。いや、空港絶対反対という原則をつらぬく清廉な政治が、反対運動の力の源泉だったのだから、裏の政治がわからないのは仕方がない。誰もが納得できる、闘争の原点でもある原則なのだから。やがてその原則は、時間の推移とともに、いわゆる「脱落」や「条件派」への転向が相次ぎ、反対同盟の組織の脆さを浮き彫りにしてゆく。

そもそも空港建設反対は農民の営農と生活を否定するものに対する闘争だったのだから、営農と生活の原点から考えれば、空港が開港した以上、単なる反対闘争だけで良かったのかどうか。この時期から農作物の共同出荷や有機農業など、新しい農業のあり方が検討されるいっぽう、農業を十分にやっていけない個別の農民への視座がもとめられたのだ。さもなければ、高額の移転費用と代替え地に屈するよりない。

三里塚関連年表(1977年~1979年)

80年前後には、空港反対運動を騒音に対する条件闘争とする代わりに、二期工事の凍結という担保が反対同盟内部で語られていた。まだ反対同盟内には絶対反対派もいたが、それは建前にすぎなかったはずだ。なぜならば、最大党派の中核派に「信頼」されていた北原鉱治事務局長においてすら、政府要人との密会の場を活写されている(本人は合成写真だとして、密会の事実を否定)。

政府要人と反対同盟幹部の密会を斡旋したのは、旧ブント系のグループ(旧情況派幹部)だった。のちにわたしは、稲川会二代目・石井進(稼業名は石井隆匡)の遺族を取材することで、石井の北祥産業ビルが交渉の舞台になっていたことを知る。竹下政権時代の裏総理こと石井進が交渉を斡旋したのは、80年代なかばのことである。

◆反対同盟の内部分裂と空港公団による執拗な切り崩し

83年には、反対同盟は大地共有化をめぐって、内部分裂の危機に至る。土地の共有化は強制執行の手続きを煩雑にし、闘争資金を獲得すると同時に空港反対闘争を全国化する狙いがあった。これに対して、土地を売り渡す運動ではないかという疑問が農民の中に生まれる。

中核派が大地共有化に反対したこと(一説には革マル派との内ゲバ戦争のなかで、住所を特定される共有化に参加できないからだとされている)もあって、反対同盟は混乱した。混乱に拍車をかけたのは、やはり中核派の青年行動隊に対する批判だった。批判をこえて、政治的な統制にまでおよんだ時、青年行動隊のほうから「もう、おれらはキモいった」(おれたちは腹を立てた)と、決別宣言がなされた。北原派と熱田派への分裂である。支援党派も連帯する会(廃港宣言の会・第四インターなど)と中核派などに分裂した。中核派が第四インターの活動家を襲撃するなど、深刻な事態も起きた。そしてなおも、空港公団による反対同盟の切り崩しは執拗だった。

三里塚関連年表(1979年~1983年)

◆1985年10.20闘争の意味

その80年代のなかばに、3.26の再版をねらった大闘争が準備された。3.26では第四インターの後塵を拝し、横堀要塞鉄塔に4人を上げることしかできなかった中核派、および社青同解放派(主流派)、共産同戦旗派(反主流派)が三里塚交差点で機動隊と大規模な衝突をしたのだ。85年10月20日のことである。別動隊(解放派)が消防車を装って空港内に進入し、3.26管制塔破壊の再版を実現しようとしたが、空港機能を停止できなかったという点で、作戦は最終的には失敗だった。中核派は67年10.8闘争の再現として位置付けていたが、内ゲバで血塗られた左翼運動が再生するわけはなかった。

とはいえ、この85年10.20闘争は大きな意味を持っている。空港絶対反対の旗を降ろし、条件派に転じかけていた反対同盟青年行動隊(当時は中年世代)が、この大闘争を見学し、帰趨を見つめていたのである。つまり、この先も実力闘争で行けるのか、それともやはり条件闘争で収拾をはかるべきなのか、である。ある意味で、大衆的実力闘争の限界を指し示すものだった。ぎゃくに11月に行われた、中核派による多発ゲリラ(国電ケーブル切断)の有効性がしめされたのである(この日は大半のサラリーマンが臨時休日だった)。

そしてこれ以降、成田治安立法(78年施行)にもとづく団結小屋の撤去が相次いだ。徹底抗戦でいくつかの団結小屋・要塞化した拠点が撤去されたが、そのなかで熱田派反対同盟の幹部は「闘いには敬意を表するが、空港を壊すわけでもなく、徹底抗戦は玉砕ではないか。玉砕した兵隊から『こう戦えば勝てる』と言われても同調できるわけではない」と語ったものだ。まさに正論であって、新左翼の革命的敗北主義は実際の戦争(日中戦争)を体験している幹部にとって、容れられるものではなかった。こうして、反対闘争は目的をどこに据えるのか、混迷を深めていく。(つづく)

三里塚関連年表(1983年~1986年)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

最新『紙の爆弾』6月号安倍晋三“6月解散”の目論見/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

◆国民の4分の1が開港に反対だった

管制塔占拠――開港阻止は、あまねく国民に三里塚空港の問題点を伝えた。議会は実力による開港阻止を批判し、ほぼ全会一致で暴力的反対運動を退けるために成田治安立法を決議した(青島幸男議員が反対)が、マスコミによると国民の4分の1が農地を空港にすることに反対だった。問答無用の土地収用、地域社会・共同体の破壊につながる空港が本当に必要なのか、国民的な議論が沸き起こった。空港問題を国民に知らしめただけで、3.26闘争の意義は大きかったといえよう。

戦前・戦後をつうじて、反政府の大衆運動がまがりなりにも警察権力に勝った、初めての闘争でもあった。岸内閣を倒した名高い60年安保闘争も、警備当局を驚嘆させた10.8羽田闘争(佐藤ベトナム訪問阻止)、東大闘争をはじめとする諸大学の全共闘運動も、「具体的な勝利」の地平を切りひらいたものではない。60年代後期の大学闘争では佐藤政府の介入で反故にされたものの、9.30断交で理事会を辞任させ、諸要求を勝ち取った日大闘争が唯一のものであろう。その意味では、60年代・70年代闘争のうっ憤を晴らす快挙だった。


◎[参考動画]1978.3.26 三里塚 成田闘争 管制塔占領事件(rosamour909 2010年5月13日公開)

◆財界による和解調停 ── 桜田武の手紙

いっぽうで、政治的な駆け引きもはじまった。地域的とはいえ、改造トラックやダンプカーが機動隊を蹂躙し、鉄筋コンクリートの要塞からは鉄筋弾が飛びかう。そして管制塔が占拠されたことで、和解への道がさぐられた。それは政府においても、空港反対派においても同様だった。闘争には妥結という果実が必要であり、相互絶滅にいたる闘争の展望を語る者は、おそらく共産主義革命という究極目標を措定したのにほかならない。いや、共産主義革命を標榜する者たちにおいてすら、革命のための陣地を確保すること。すなわち勝ち取った地平を、交渉において確約させることが必要だった。それは具体的には、三里塚空港二期工事の凍結という確約にほかならない。

最初にうごいたのは政府ではなく、財界と労働界だった。

総評の富塚三夫事務局長と福永健司運輸大臣が会い、話し合いの糸口を探ろうとした。それはしかし、とりあえず反対同盟内の社会党員と話をつなごうとする、形ばかりのものにしかならなかった。

 

桜田武=元日経連名誉会長、元日清紡績社長(1904年3月17日生~1985年4月29日没)

本気で和解――休戦協定への糸口をさぐっていたのは、財界人と影響力のある組合活動家である。財界からの接触をうけた長崎造船労組の西村卓司は、反対同盟の幹部に接触し、戸村一作委員長との面談を希望した。そのさい、西村は反対同盟の強硬派(絶対反対派)の幹部と会って、戸村との会見を取りようとしたのだ。西村は総評労働運動の最左派に位置する老練な活動家で、役回りとしてはこの人しかなかった。財界側は日経連専務理事(当時)の桜田武だった。

桜田武の手紙はこんな書き出しで始まる。

「西村卓司様                 桜田武

先般は御面識の儀を得て小生としても心おきなく意見を申し上げ、又戸村さんはじめ皆様のご意見を承はる事が出来大変に有難く且うれしく存じ候。其後福永健司大臣と一夕懇談仕りご要望の点等傳えて進言仕り候も思ふに任せず残念に存じ候。要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じ……」

この手紙を受けた西村は、開港阻止闘争の主力党派だった第四インターの政治局員・今野求に電話を入れた。会合したのは成田現地だった。そこで話されたのは、桜田武と土光経団連会長ほか、財界のトップが交渉に出席するので、戸村一作委員長の出席をお願いしたいと。戸村委員長の説得には時間がかかった。戸村委員長は清廉の士であり、裏交渉などという「政治」が嫌いな人である。

 

戸村一作=三里塚芝山連合空港反対同盟委員長(1909年5月29日生~1979年11月2日没)

最後は「戸村さん、2月の要塞戦を含め3.26闘争で若者たちが何百人も逮捕され、大怪我した者、死にそうな者もいる。管制塔は破壊されて、3月30日の開港は粉砕された。この後、敵の大将と掛け合って5月20日開港を止めるのは戸村さんあなたがやって下さい!」という言葉が決定的だったという(「3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末」柘植洋三)。

財界側は桜田武(日本経済団体連合会専務理事)・土光敏夫(日本経済団体連合会頭)・中山素平(興業銀行頭取)・今里廣記(日経連広報委員長)・秦野章(参議院議員)・五島昇(日本商工会議所会頭)。このうち二人は海外だったが、国際電話で直結されていた。当時の財界のフルスタッフがそろっていたわけである。

桜田武が発言した。

「そもそも、成田問題がこのようにこじれているのは、政府の12年にわたる不誠実に問題がある。成田はこのまま開港しても、天皇陛下が外国に行幸される際に使えるものではない。三池問題など戦後の大問題は、最後はわれわれ財界が始末を付けてきた。暗礁に乗り上げている成田問題も我々が、打開策を政府に提案したい」これに対して戸村委員長は、席上の相手を見据えて「話し合いなど必要ない、実力闘争あるのみ」と、政府の理不尽を糾弾した。

 

戸村一作『わが十字架・三里塚―自己変革論』(1974年教文館)

会談は二回行われ、以下のことが合意された。

・政府は予定している5月20日開港を一年間延期する。
・一年間の休戦をする。その間、双方は共に実力行動を留保する。
・その間に双方の合意がなければ、一年後には戦闘再開。
・財界はこの条件を福田内閣に受け入れさせるために、運輸大臣に会見する。

財界としては、反対派との交渉のイニシアチブを握ることで福田総理の退陣をもとめ、空港問題の暫定的な解決をはかろうとする意図があった。それは膠着した空港問題の解決をはかるとともに、財界の存在感を世間にしめそうとするものでもあった。

いっぽう三里塚現地では、30をこえる支援党派・団体が共同声明を発表し、5月20日の出直し開港が強行されれば、3.26を上まわる闘いで粉砕すると警告した。5月10日のことである。そして同じ時刻に、戸村委員長が福永運輸大臣と会っているとの情報が入った。戸村・福永会談をセットしたのは、千葉日報の社長と自民党の成田空港建設促進委員長だった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚空港・開港阻止決戦 1978.3.26 包囲・突入・占拠(anzen bund 2014年2月16日公開)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

3月27日の朝は、無線でのやり取りで始まった。「要塞のみなさんに、各紙の一面記事を見せたいものです」「900の部隊が横堀合宿所前に集結しています。みんな生き生きとしています」などと、管制塔占拠の快挙に快哉をあげる。そのいっぽうで「900の部隊が集結」というのは、要塞からの脱出を900人で援護する準備はできているよ、という意味である。そして「南120メートル」という符丁を会話のなかに差しはさむ。要塞から120メートル南の脱出地点を、確保してくれという意味である。

◆放水を浴びたときは息ができなくなりそうで怖かった

 

『戦旗派コレクション』より

その日は、汗ばむほど暑かった。ガス弾が間断なく撃ち込まれて、ガスの飛散をふせぐために溜めた水のなかで弾けた。ガス弾はロケット花火と同じで、火薬の推進力で飛んでくる。なかには落下せずに裏の杉林に達してしまい、杉のほそい葉に引っかかったまま燃え尽きるのもあった。思いがけなく赤い炎をやどした針葉樹が、何とも美しく感じられた。かつて東峰十字路戦闘(機動隊3人が殉職)のときに、高校生で参加した友人が「ふしぎなことだけど、乱闘のさなかに赤い花を見たよ。そこだけ平穏で、風になびく花びらが綺麗だった」と語っていたのを思い出した。騒擾のさなかにも、人は静寂を意識するものだ。

暑いから放水でも来ればと思っていたが、夕刻になって放水を浴びたときは息ができなくなりそうで怖かった記憶がある。100メートルはあろうかという大型クレーンは、すでに完成してわれわれの眼前に四角い防護網(鉄製のネット)を垂らしている。10メートル四方はあっただろうか、その防護網が最後に何のために使われるのか、まだわたしたちは気づいていなかった。

◆首の近くでガス弾が破裂した

夕刻に本格的な戦闘になった。首の近くでガス弾が破裂したので、わたしはいったん3階の風呂場に行って水で流してもらった。なぜか発電機が止まっていて、換気扇が使えないから2階あたりまで催涙ガスがしのび込んでいた。昼過ぎのことだったか、突然真顔になって「外に出て、重機を壊しにいく」と言い出した人がいた。あれは軽いパニック障害だと思う。要塞の一階はトンネルから掘り出した土で埋まっているから、もうトンネルいがいに外には出られないのだ。やがて夕陽が地平線ちかくに落ちたころ、ブルドーザーが整地をはじめた。まもなく重機が前進してくるはずだ。

そしていよいよ放水がはじまった。要塞の縁には工事用の鉄パイプを立てて、べニア板を縛り付けてあったから、そこで放水が跳ねる。水しぶきで何も見えなくなったとき、クレーンがいきなりガーンと下りてきた。組み立てられた大型クレーンではなく、ユンボのクレーンだった。左右にうごいて、鉄パイプをなぎ払う。直系5センチ以上の鉄パイプが、飴のように折れ曲がるのには驚いた。クレーンに火焔瓶を投げつけては、放水がそれを消す。割った火炎瓶に火を点けて、機動隊員が乗り込んでくるのに備える。しかし、どうやって乗り込んでくるつもりだ。その答えはまもなく、おどろくべき現実の光景となった。大型クレーンの先に垂らしてあった防護網が要塞の上に水平に倒されたのだ。そのときは気づかなかったが、下敷きになってしまった仲間もいた。

◆土を掻き、残土を後方におくる

「全員、地下二階までおりろ!」という指揮者の声で、わたしたちは階下に殺到した。5人が鉄塔に登っていくのを見た。その5人のうち2人は洋弓を持っていたので、殺人未遂が罪名に加わることになるが、さいわいにも執行猶予付きの判決だった。わたしのほうは残念ながら火炎瓶は何本も投げられなかったが、投石やガス弾を避けるのに必死で、それなりにからだが動いていたのだろう。地下トンネルに入ったときは、もうこれで逮捕されてもいいやという気分になっていた。溜まっていた疲れからか、ラグビーの試合を終わったような爽快感。じっさいには、脱出は困難だろうと誰もが思っていた。山狩りで発見された感触はなかったものの、トンネルがどこまで達しているのか、はなはだ不安なのである。私たちは東側の短いトンネルに向かい、大所帯の第四インターが南の長いトンネルに向かった。

「出られそうか?」全身をつかって土を掻き、残土を後方におくる。やがて風が入ってきた。先頭のひとりが出ようとしたとき、機動隊の声がした。「いたぞ!」脱出戦術は読まれていたのだ。しかし指揮系統の乱れか不徹底か、すぐに踏み込んでは来ない。そればかりか、トンネルの前で茫然としている機動隊員の姿が、夕刊の記事になっていたのを、のちに知った。

◆父親ほどの年輩の機動隊員に逮捕された

わたしたちは南側の長いトンネルに向かった。そこには、インターの部隊がまだ疲れた表情でいるのだった。やはり土手までは達していなかったのだ。やがてわたしたちを襲ったのは、酸欠という恐怖だった。「はぁはあ」と激しく息を吸わないと、息ができない。秋葉哲さんの「もういいから、上に向かって掘りなさい。空気を入れなさい」という指示で、スコップを上に向けた。すぐに穴が開いて、ちょうど機動隊の靴が見えた。上から「反同(反対同盟の警察用語)か?」と誰何された。引き上げられて、顔面を鉄甲でかるく一発。わたしは父親ほどの年輩の機動隊員(専門職ではなく、地方から動員された管区機動隊)に逮捕された。「だいじょうぶか」と言われたのを覚えている。最初の脱出失敗が8時ごろだとして、最終的に逮捕されたのは翌日(午前1時ごろ)になっていたから、5時間ちかくも土と格闘していたことになる。千葉刑務所内の拘置所に連行された翌朝は、まぶしいほどの陽光のなかに桜が満開だった。

 

『戦旗派コレクション』より

◆脱出トンネルも無駄ではなかった

思い返してみると、要塞からの脱出トンネルも無駄ではありませんでした。というのも、公判廷で二人目の裁判長(刑事事件は嫌いだと公言する、民事畑のやさしい人でした)は被告人質問で「あなたがたは要塞に残ったけれども、外に脱出した人もいたのでしょう?」と丁寧にも言ってくれたのだ。わたしたちは、運わるく脱出できなかったのではないかと―――。対するに検察官は、わたしたちのほかに誰も脱出した者はいなかったとの立証を詰めない甘さにも気づいていなかった。つまり裁判長のわたしたちへの同情の念を払しょくしないまま、論告求刑を終えたのである。これはマヌケというほかはない。反対同盟3幹部が相い被告ということもあって、前述した殺人未遂の要件を課せられた5人も執行猶予付きの判決だった。ドジな検察にはすいませんが、めでたし♪

わたしの三月要塞戦の物語は、ここまでにします。その後の三里塚闘争が和戦両様をたどりながら、どんなふうに変化していったのか。とくに話し合い路線の帰趨をたどってみたい。(つづく)


◎[参考動画]NARITA STRUGGLE 1978 成田空港管制塔占拠 Part 2

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

最新『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

 

『戦旗派コレクション』より

わたしたちが要塞に入ったのは、3月の上旬だった。横堀の団結小屋に集合して、そこから水田の畔をたどるように、靴を泥濘にとられながら要塞の裏手の土手を駆けのぼった。要塞に入ったとき、反対同盟のI・S氏(青年行動隊)から「政府と公団は3月30日に開港を祝して、500人ほど政財界の人間を集めてパーティーを開こうとしているらしい。それに一泡吹かしてやろうじゃないか」という目的を告げられた。そのために、要塞から東と南に抜け穴を掘って脱出路にする。あるいは長期籠城ができるようなら、その穴を補給路にする計画を告げられた。ようするに、要塞に引きつけた機動隊を地下道で翻弄する長期戦を視野に入れたもの。逮捕されない戦いをする、というものだ。てっきり逮捕覚悟と思っていたものが、脱出できる計画だったのだ。これは嬉しかった。一か月近くも前に要塞に入れられたのは、そういう妙味のある計画だったのである。

◆三里塚の大地にトンネルを掘る

翌日から、短いほうは東に50メートルほど、南に向けては100メートル以上のトンネルが掘りはじめられた。要塞は2階が居住空間で、3階にはガソリン入りのドラム缶が置いてあった。発電機をつかった電気なので、ときおり蛍光灯が消えたり点いたりでグローブ球がスパークする。ガソリンに引火しないかとヒヤヒヤしたものだ。反対同盟の幹部(北原事務局長・石井武実行役員・秋葉哲救対部長)の3氏は3階の特別室だった。2月要塞戦では内田行動隊長以下、最先頭で闘っていたが、それは鉄骨だけのスケルトン状態だったからで、コンクリートを打った要塞では、文字どおりたてこもるしかなかった。したがって、反対同盟幹部の活躍はほとんどなかった。それはそれで、何となし士気を削ぐような印象がしたものだ。その幹部たちが入ってきた頃には、トンネルはおおむね完成していた。

それにしても、厳寒のなかを剥き出しの鉄塔で悲惨なたたかいを強いられた2月要塞戦にくらべると、わたしたちの3月要塞戦は恵まれていたというか、申しわけないほど好待遇だった。三食休憩付きの二交代勤務のうえ、バス・トイレ付、コックと栄養士も居たのだから。そしてあまり使えなかったものの、火炎瓶用のガソリンや鉄パイプ、鉄筋弾にブロック片と武器もよりどりみどり。2月要塞が補給のないガダルカナルやインパール作戦ならば、われわれは潤沢な武器と兵糧を備えたマレー攻略部隊のようなものだった。たとえが悪くて、すみません……。

トンネルの掘削はけっこう愉しかった。三里塚の土は黒いビロードのように細かく、いわゆる肥えた土壌である。ところが、いったん表土をくぐると、関東ローム層はやわらかい赤土だった。小ぶりの鍬だったと思うが、サクサクと一時間もすれば50センチは掘り進んだような記憶がある。ときおりバサッと落盤してヒヤリとする。ヒヤリとするのはそのたびに壁に這わせてある電灯が一緒に落ちてしまうからだ。安物の電灯だったのか、よく切れてしまった。消える前の煌々と明るくなる瞬間がはかない。どのくらいで土手に達しただろうか。50メートルのトンネルはすぐに堀止めとなった。完全に貫通してしまうと、警察の事前捜査で発見されてしまう。

 

『戦旗派コレクション』より

◆三里塚・野戦の夜空

鉄塔が運び込まれたのは、3・26の何日前だったかハッキリおぼえていない。要塞の下で何台ものクルマを連ね、警備している機動隊や私服刑事にむけてヘッドライトを照射しながらの搬入だった。そして3月25日の昼から、航空法違反49条の構成要件とされる鉄塔の組み立てがはじまった。のちに起訴状で知ったことだが、2月要塞戦(連載第2回)の採証で立ち入り捜査をしようとしたところ、火炎瓶が現認されたので取り締まりに入った、ということになっていた。「火炎瓶を現認したので、これより取り締まりを行なう」という警告は確かに聴いた。ヘリコプターが接近していたから、おそらく写真を撮っていたはずだ。ということは、警察は航空法49条での立件に自信を持っていなかったのであろう。

ともあれ、これで警備当局には立ち入り調査・取り締まりの名分ができたのだった。その夜、まず目隠し用に立てていた竹のバリケードが、装甲車によって一本ずつ押し倒された。それを待っていたかのように、こっちも応戦する。武器はY字型に鉄パイプを溶接した大型パチンコから鉄筋の矢、腕に装着してつかうパチンコ、ブロック片、そして火炎瓶である。鉄筋の矢は威力がすさまじく、直進して着弾すると「ドコン!」と装甲車の防護壁が音を立てる。一瞬、装甲車が動きを止めて「おおっ、当たった」「動かないぞ」。一説には、装甲車の装甲版に突き刺さったともいう。しかし、矢のダメージで動きを止めたわけではなかった。装甲車の内部では「被弾しました」「異状ないか?」「ありませんツ!」などという会話があったかどうかは知らない。そしてガス弾がバンバン飛んできた。夜空に花火のように火薬の弧を描きながら、鉄塔にコキンと当たって落下してくる。きな臭い嫌な匂いで、涙がでてくる。その夜は15分ほどの戦闘で終了した。

◆要塞西側は機動隊車両で埋め尽くされていた

 

『戦旗派コレクション』より

翌3月26日、三里塚第一公園で全国集会が開かれる予定だ。わたしたちのたてこもる要塞の西側は、門前市をなすがごとき機動隊車両で埋め尽くされていた。集会後はカンパニアデモじゃなくて、こっちまで攻めてきてくれよと思ったものだ。というのも、100メートルはあろうかと思われるクレーンが、わたしたちの眼前で組み立てられているのだ。やがて、あれが要塞からの攻撃を防御する防護板を吊るし、機動隊の接近を容易にするであろうことは想像がついた。

いっぽう、本集会に先立つ午前中に菱田小学校跡地で別の集会が開かれたのを、わたしたち要塞籠城組が知るよしもなかった。「おい、あれは俺ら(味方)なのか?」という誰かの声で、赤ヘル軍団が菱田から東峰方面に、山林のなかを進撃するのに気づいたのだった。その行軍は陸続という表現がふさわしい、おりからの陽光にヘルメットの赤がまぶしかった。つぎに「おいあそこ、いったい何をやってるんだろうなぁ?」という声で、管制塔の方角に目を凝らしてみた。ヘリコプターが管制塔に近づいて、何かしているようだがよくはわからない。そのときは、そんなことよりも眼前の戦闘、といっても1キロほど離れているはずだが、赤ヘルと機動隊の激突に目を奪われていた。飛びかう火炎瓶、鉄パイプを振るっての死闘。まさに特等席からの「観戦」だった。炎は北東からの風にあおられて、草原を舐めるようにわれわれの眼下に達した。機動隊員が盾で炎を消そうとするが、もはや燃えるにまかせるしかない。「おいツ、く、空港のなかで炎があがっているぞ!」それは本当だった。黒煙がもうもうと上がり、破られた第9ゲートの向こうで空港が燃えている。5ゲート方面でもデモ隊がフェンスに肉迫し、火炎瓶が投じられている。

やがて、激突で逮捕された学生たちが、野っぱらを連行されてくるのが見えた。わたしたちが事態を知ったのは、二階に降りてからだった。ラジオの臨時ニュースは管制塔が占拠されたことを報じていた。「あれって、管制官を吊り上げてたんだな」と、ようやく管制塔の異様な風景に得心したのだった。のちに「管制塔に赤旗がひるがえった」と呼ばれる日のことである。その夜、わたしたちを包囲している機動隊が部分的に撤収した。「おい、機動隊が帰っていくぞ」「ホントだ!」それが全軍であれば、われわれは機動隊を退却させたことになるが、そうではなかった。(つづく)


◎[参考動画]NARITA STRUGGLE 1978 成田空港管制塔占拠 Part 1

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

多士済々の登壇者たち

 

集会冒頭で上映された『三里塚のイカロス』

管制塔占拠闘争から40年目をむかえた3月25日、連合会館で集会がひらかれた。参加したのは300人ほどだが、わたしをふくめて初老をむかえた元被告たち、三里塚闘争の歴史に興味を持っているという若い人の参加もあった。

◆映画『三里塚のイカロス』に感謝

冒頭に『三里塚のイカロス』が上映された。この映画では、加瀬勉さん(農民活動家)のインタビューをはじめ、第四インターの初期の現地闘争団の活動家、元中核派の三里塚闘争責任者(昨年雪山スキーで逝去)、支援嫁たち、土地買収を担当した公団職員(反対派に自宅を爆破され重傷を負う)に話を聞くかたちで、三里塚闘争の重たい陰の側面に光があてられている。反対同盟の3・8分裂をめぐる内ゲバについても触れられている。あるいは部落の共同体をのこすために、部落決議で移転に応じた辺田部落の支援嫁の自殺も、この映画のモチーフだったという。ちなみに、その女性は筆者の相被告(三月要塞戦)でもある。インタビューはたびたび、離着陸するジェット機の騒音にさえぎられる。観る者に、いやでも三里塚の現実が伝わってくる。まさに三里塚の過去と現在に向き合った、重厚な作品といえるだろう。この映画を撮った監督(代島治彦)とスタッフに感謝したい。

◆反対同盟の柳川秀夫さんの言葉

反対同盟の柳川秀夫さんからは「元被告の皆さんは、三里塚闘争で人生が変わったと思います。たとえ人生が変わっても、こうして会えているのだから、それはそれで納得のいく人生を歩んできたのではないでしょうか」と、自身も納得のいく生き方をつづけたいと語られた。そして三里塚闘争が歩んできた足跡を振り返りながら、「腹いっぱいではなく、腹八分目で生きていく社会、不自由なく持続できる社会に作り変えていく内容があるのではないか。そのための運動を持続していきたい」と提案された。哲学が感じられる話だった。

反対同盟の柳川秀夫代表

 

廃港要求宣言の会の鎌田慧さん(ジャーナリスト)は、当時をふりかえって「第2第3の管制塔占拠をという掛け声はあったが、あれは二度も三度もできるものではなかった。開港にむけた情勢が煮詰まり、反対運動が高揚したところに、ある種の必然性をもってやり遂げられたもので、管制塔占拠をしなくても廃港にできる運動を模索するべきだと感じていた」と語られた。そして持続的に社会のあり方を変えていく運動の質があれば、三里塚闘争の半世紀およぶ歴史は無駄にはならないし、伝えていかなければならないと述べた。

 

まさにその世代をこえた伝承が、木の根ペンションで行われていることが、ビデオで報告された。すなわち、木の根風車あとに造られたプール付きの木の根ペンションが再開され、若者の音楽を中心にイベントが開かれていることだ。その担い手は、現地闘争団のメンバーを親に持つ若者(大森武徳さん)である。幼いころから現地闘争を目にしてきた彼は、自分よりも若い世代にも伝えていきたいと語っていた。大森さんは有機農業をひろめることを、営農のテーマにしているという。

主催者でもある管制塔被告団の平田誠剛さんの挨拶、現地に住んで現闘を継続している山崎宏の第3滑走路計画の解説、清井弁護士からの発言につづいて、支援嫁のひとりである石井紀子さんのメッセージが代読された。

◆三里塚闘争に女性が継続して参加できない側面があった事実

メッセージで印象的だったのは、彼女自身がリブの出張所として三里塚に来たつもりだったが、それはじつに困難な道だった。今回「女性の発言者がいないので」という理由で参加を要請されたが、どうしてほかに女性の参加者がいないのか、と疑問が提起された。もちろん集会に女性参加者はいたが、三里塚闘争には女性が継続して参加できない側面があったのは事実である。このあたりは深く切開されなければならない、日本の社会運動全体の問題であろう。

遺影は、新山幸男さん(右・第四インター)、原勲さん(左・プロ青同)

◆あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった

 

全国で空港反対運動を持続している反空連などの発言のあと、管制塔被告団が壇上に上がった。その後の人生の歩みや現在が語られ、なるほど多士済々の彼らならではの管制塔占拠なのだなと思わせるが、壇上からは「われわれは、あの日各所で闘っていた、みなさんの一部にすぎないのです」という発言があった。そう、あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった。政府と農民の非妥協のたたかいが、最終的にのぼり詰めた先。78年3月の開港阻止闘争そのものが、管制塔占拠という歴史的な勝利をもたらしたのだと思う。

レセプションでは、わたしも三月要塞戦被告団として発言させていただいた。ほかに5・8(岩山大鉄塔破壊にたいする野戦)被告団、2月要塞戦被告団、第8ゲート被告団、第9ゲート被告団からも発言があった。それぞれが戦友会という雰囲気である。この連載でもふれるが、厳寒のなかで闘われた2月要塞戦にくらべて、わたしたちは用意周到な準備(バストイレ・三食付き・二交代でベッド就寝・大量の火炎瓶と鉄筋弾・鉄筋矢など)に加えて、脱出(補給)用のトンネルまであったのだ。

 

そこで、二次会では「3・26で管制塔を破壊したあとに、なぜわれわれは脱出しなかったのか」という議論になった。管制塔が占拠された夜、横堀要塞を包囲していた機動隊は一時的に、大挙して撤退していた。おそらく政府高官や官僚が事件後の視察に来たので、機動隊の警備状態をみせるために、一時撤退したのではないだろうか。しかしわれわれには、トンネルからの撤収は最後の段階まで持ち越された。撤退は議論にすらならなかったのである。

議論にできなかったのは、おそらく管制塔占拠・空港突入が赤ヘル三派(第四インター日本支部・プロ青同=共産主義労働者党・共産同戦旗派主流派)だったから、中核派(4名)はぜったいに要塞からの撤退に反対するだろうと思われる。ここで逮捕者を出さなければ、かれらは開港阻止闘争でまるっきり何もしなかったことになるからだ。事実、彼らは機動隊が突入するや、鉄塔に登って抗戦した(第四インターも1名が鉄塔に残った)。撤退のイニシアチブを反対同盟3幹部も取ろうとはしなかった。管制塔を破壊して開港阻止闘争に勝ったのだから、逃げも隠れもしまいという空気があったのも確かだった。いまこうして闘争記を書けるのも、あのとき逮捕されたからだと考えると、撤退の議論は懐旧をみたす酒の肴なのかもしれないと思う。冒頭に紹介した柳川秀夫さんの言葉ではないが、われわれは三里塚闘争で逮捕され英雄(一部の社会運動だけでの英雄ですが)になったことに、こころから納得しているのだ。

当時のヘルメット姿で物販する元被告たち

▼ 横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

前の記事を読む »