2週間の拘束となっている豪華クルーズ船ダイヤモンドプリンセスの乗客、3,771人(乗員1,000人余をふくむ)から、新たに3人の感染(累計64人)が判明した。濃厚接触者273人のほかに、70歳以上の乗客(1,000人)には、再検査が行なわれているという。

バカンスのためにクルーズしていたのに、まるで罪人のように船室に拘禁されるとは、乗船している方々に同情するしかない。報道によれば、船内感染を予防するために、船室から出ることも禁止されているという(窓なし船室の客だけデッキに出られる措置となった)。また、香港でも別のクルーズ船(3,000人乗船)に乗客の下船が禁止されている。日本政府は新たなクルーズ船の入港を拒否する方針だという。

2週間の経過観察の場合に心配されるのは、拘禁性ノイローゼ(拘禁反応)である。拘禁病と総称され、症状は多岐におよぶ。女性の場合はほぼ例外なく無月経となる。


◎[参考動画]客室さえ出られない……世界が注視する豪華客船の行方(ANNnewsCH 2020/02/05)

わたしの経験(三里塚闘争で1年間の拘置)では、同じ被告(公判グループ約50人)のうち、2人にこの症状が出た。ひとりは吃音(持病)が恒常化し、公判廷で陳述書を読むのに苦労していた。獄外では人に対する指示も明快で、よく喋るほうだった人が、保釈後もまるで別人のように寡黙になったのを記憶している。

もうひとりは、ちょっとマズい感じというか、拘禁障害がヘンなかたちで現出した。おそらく無意識だろうと思われるが、近くにいる女性に抱きついてしまうのだ。弁護士をまじえた被告団会議で、相被告の女性に抱きついてしまった。襲いかかるという表現があてはまる感じで、その人の仲間(同志)から「女性差別行為」だと断定されたから困ったことになった。左翼運動の場合、たんなる痴漢行為が「差別」とされる。女性の政治的な決起を抑圧する行為、というのがその内容である。

年長の相被告(他党派)から「病気なのだから、治療の方向で考えるべき」という意見も出たが、とりあえず女性から離れた場所に座らせるなどの処置がとられたのだった。確信的な政治犯においてすら、自由を拘束された人間がいかに苛酷な精神状態に置かれるか、それは死刑囚における心神耗弱などにも類例は多い。重篤なウイルス感染かもしれないという不安、部屋から外出できない乗客たちが心配である。


◎[参考動画]停泊続くクルーズ船 船内でも接触断たれ戸惑いも(ANNnewsCH 2020/02/07)

ところで現在、乗客たちがクルーズ船に留め置かれているのは「船長命令」だという。感染者と診断された人は指定感染病罹患者として強制入院させることができるが、感染が特定されない乗客は「身分」が不確定なまま、14日間の経過措置ということになるのだ。しかも客船であることから、公海上・接続海域・領海という法的な区分で主権のおよぶ範囲が決まってくる(公海上ならイギリス)。現状では日本国の要請で、イギリス人(船籍はイギリス・船主はアメリカ)船長が命令を発しているという法的な状態なのだ。

しかし船長の命令権が船舶の安全な航行に関するものである以上、行動の自由(基本的人権=不当な拘束を受けない)と対立するのは明白で、乗客が船を降りようとすれば、これを阻止する法的な根拠はない。にもかかわらず、乗客を船内に停留する政府の方針に、病人は隔離するという発想があるのではないか。乗客は大半が高齢者であるという。持病をかかえ、常用薬が足りなくなっている人もいるという(優先的に搬入方針だと報じられている)。持病を持っている感染者が死亡に至るケースが増えているという。

感染とは別個に拘禁性の病状が出る前に、感染がない人たちは自宅に帰すべきではないだろうか。船内に留めて感染者が増えることをやむを得ない前提として、船外(一般社会)に出さないというのなら、それは棄民の思想である。ハンセン氏病の例にあるとおり、日本社会には病人を隔離する精神的な風土がある。

現段階では、インフルエンザに比べるとはるかに感染力は低く、症状の重篤性(死亡率)も低いとされている。症状が出ない症例があることから、危険なのだというのはウイルスが新型だからであって、ぎゃくにいえば基礎疾患がなければ無病状で終わるということでもあるのだ。ホテルでの隔離もふくめて、もはや拷問のような「船内拘置」はやめるべきではないか。


◎[参考動画]米国人乗船客の対応は日本政府に一任…米政府、判断(ANNnewsCH 2020/02/08)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)

2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

◆懲らしめのための民事訴訟

管制塔被告団グループに1億300万円の賠償請求が来たのは、2005年のことだった。運輸省が提起した民事訴訟は95年に判決が確定し、損害賠償額は4,384万円だった。それに利息が付いて、時効直前の2005年には1億300万に膨らんでいたというわけだ。その年から給与の差し押さえ、財産の差し押さえなどが通告されていた。

管制塔破壊という実害があったとはいえ、スラップ訴訟(公共の利益がないのに、運動を破壊するために行なわれる訴訟)に近い、民事訴訟による判決の履行だった。すでに反対同盟は分裂し、政府の意を受けた「話し合い路線」が軌道に乗っていたから、その意味では空港問題の帰趨とは関係なく、この請求は懲らしめのための「憂さ晴らし」とでも言うべきか――。

 

柘植洋三=元三里塚闘争に連帯する会事務局長による2005年7月18日付アピール文「管制塔賠償強制執行の攻撃を、我等ともに受けて立たん」の文頭(2005年7月22日付『旗旗』に全文あり http://bund.jp/?p=226 )

◆戦友会としての被告団

そこで元被告団が再集合し、1億円カンパ闘争が開始されたのである。元の所属党派を通じたカンパが大口だったが、ネットカンパが広く一般の人々から寄せられたという。われわれの三月要塞戦元被告団も久しぶりに全国結集(弁護士を入れて、たしか20人ほど)で、このカンパ運動を支援することになった。

集れば必ず飲み会というか、集りそのものが飲み会の場で、そこに管制塔元被告が説明に来るという感じだった。何かというと資金源としてあてにされる弁護士さんは「1億円も、ですか……」などと、ぼう然とした雰囲気だったが、すでに数千万円単位でまたたく間にカンパが集っているという報告を聴くと、ホッとした表情になったものだ。

元過激派学生というのは非常識な連中ばかりで、まじめな弁護士さんたちからはあまり信用されていない。それでも、突入ゲートごとの被告団、前年5月の攻防で逮捕されたグループなど、まさに戦友会のごとき集いが復活したのは、このカンパ運動の副産物だったといえよう。この年の11月には、1億300万円が国庫に叩きつけられ(収納され)た。

◆ネット上の議論

それにしても、1億円をカンパで集めるのはいいとして、それを敵である政府に差し出すという運動に、疑問の声もないではなかった。徹底抗戦して、たとい労役を課せられようが何をされようが、政府に「謝罪金」のようなものを出すべきではないと。もっぱら匿名のネットで議論が起きたものだ。匿名の議論だから「政府に恭順の意を表するような、反革命行為は信じがたい」とか「敗北主義だ」などという主張に「おまえ、責任をもって現実の大衆運動をやったことなんてないだろう。口先だけの評論野郎」などと反論があったりしたものだ。

たしかに民事判決の当初は「ないものは払えない」という論理で打っちゃってきたのは本当だ。やがて生活を抱え、家族をつくった元被告たちに、生活破壊の重たい攻撃が掛けられているのだから、カンパ運動はしごく当然だった。それを批判する人たちは、そもそも運動に立場性(責任)がない。安全圏の中に身を置いたとしか思えなかった。お前こそ、いま直ちに空港に突入して管制塔を破壊して来い! である。

◆民事訴訟の怖さ

それにしても、民事訴訟というのは生やさしくない。交通事件で民事訴訟になるのは、示談金をめぐって、すでに任意保険という補償の前提(原資)があるからであって、一般の事件だとなかなか考えにくい。たとえば殺された家族の損害賠償・慰謝料として民事訴訟をしても、相手が塀の中の死刑囚ではどうにもならない。そこで死刑を廃止して、仮釈放のある無期刑ではなく、終身刑を導入してしまう。死ぬまで懲役労働をさせて、その報奨金を被害者遺族への賠償金とする。という議論を、わたしは死刑廃止論の大御所としているところです。

ぎゃくに、犯人を知ってから時効が始まるので、とっくに刑事事件としては時効になっていても、民事訴訟は有効となるのだ。公安事件にかぎらず、被害者のいる事件は墓場まで持っていくというのは、けっして例え話ではないのです。そんな事件、あなたも体験していませんか?

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

衝撃満載『紙の爆弾』11月号! 公明党お抱え〝怪しい調査会社〟JTCはどこに消えたのか/検証・創価学会vs日蓮正宗裁判 ①創価学会の訴訟乱発は「スラップ」である他

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

断続的な連載も20回を超えると、どうしても感傷的かつ追憶的な内容になってしまい、緊張感のないことこのうえない。まことに申しわけありません。今回も追憶的とはいえ、すこし刺激的なタイトルにしてみました。ズバリ“元中核派の彼”である。

中核派は最大党派だけに、いろいろと多くの接点があった。わたしの大学にも非主流派ながら数十人単位でいたし、三里塚現地ではイヤでも顔を合わせる。3月横堀要塞戦の中核派の相被告は、4人だった。いい人もいたが、党派性が強くてイヤな人たちだった、という印象が大きい。そんな中核派の活動家のひとりと、活動の場ではない職場で出会ったのである。

◆党派と個人的な関係の断層

その彼は唐突にも、わたしの職場にというべきか、何しろ目の前で中核派の月刊誌「武装」を読んでいたのだ。労働運動のかけらもない職場の誰も、それには気づかない(まったく気にしない)けれども、わたしにとっては「えぇーーっ!」(心の中の声)であった。

すでに中核派とは83年段階で三里塚闘争が分裂し、敵対的とまでは言わないものの仲良くできる間がらではなかった。被告団も分裂していた。たまに三里塚現地を訪れると、それはたいがいが現地集会の前日であったりするから「脱落派は、生きて帰れると思うなーッ!」というシュプレヒコールを浴びせられたものだ。われわれと中核派は、外見的には敵対勢力だったのだ。その中核派が、わたしの職場に居る……!

それはもう、ある意味で楽しくて仕方がなかった。職場での好感度もあり、見てくれは売出し中の若手俳優だ、といっても通るような涼やかな風貌。そして何よりも、気風が素晴らしい青年だった。どんな会話からお互いのことを語り合ったかは、あまり記憶にない。それと意識したときには、わたしは彼に誘われるまま中核派の集会に参加し、彼もわたしが誘うままに「脱落派(反対同盟熱田派)」の集会に参加していた。山谷の支援運動にも誘ったことがある。政治の多様性、経験の重要さをわかって欲しいという意味で、わたしは彼にいろいろな提案をした。わたしも彼の提案を諒解する関係になった。

とはいえ、個人的な関係が党派を超えるはずはない。彼においては、もっと個人的な恋愛関係などにおいて、党派を越えられないものがあったはずだが、そのことには触れない。それにしても、活動を秘匿していた職場での出会いには愕いたものだ。そこから、ある意味で双方の駆け引きもあった。中核派という組織の成員である以上、彼はわたしをオルグするのが使命となるわけであって、わたしのほうは彼に付き合いつつ、しかし思想的にはポストモダンの蓄積を披瀝しながら、両者が政治的にも思想的にも折り合うことはなかった。いや、組織的に折り合わなかったというべきか。思想はまた、政治とは別物である。

そのいっぽうで、三里塚闘争ではわたしのほうが彼を、やや強引に誘ったのかもしれない。十数人しかいない隊列にまき込んで、シュプレヒコールに唱和させた記憶がある。彼に誘われ中核派の大衆デモに参加したわたしは、集会・闘争後の「解散戦争」に参加させられて、どうにも愉しかった記憶がある。地下鉄を発進直前に突然降りて、反対側のホームの電車に乗る。その後はタクシーで集結地点に近づき、最後はなぜかいつも同じ飲食店で宴会をするという成りゆきだった。宴会場に対立党派が待ちかまえていれば、一網打尽だと思うのだが……。沖縄の古参活動家の記憶も鮮明だ。その後、故郷にもどった「元中核派の彼」は独自の道をあゆみ、いまも連絡が取れている。

 

加藤登紀子『登紀子1968を語る』(情況新書2010年)

◆パルタイの幻影

いま、わたしはポスト68というテーマで、ある雑誌を編集しています。やはり70年代・80年代・90年代を通して、党派という問題は大きいのだと思う。革命党が必要という命題があるいっぽうで、党派の狭隘な思想は大衆運動の桎梏になる。もともとブントは、パルタイの狭隘な政治から脱して、自由に政治をやるために分派したのではなかったかと、歌手の加藤登紀子さんが語ってくれたことがある(『登紀子1968を語る』情況新書)。

そうであるならば、党派性のすべてを解体した政治党派(どんな形式で、どういう結集方法があるのだろう)というものの出現を望みたい。ゆるやかなネットワークでもいいのかもしれない。われわれは、いかにもパルタイの幻影に支配されていた。そこからの自由を今世紀の課題にすることが、左翼運動の再生のカギかもしれないと、ここでは述べておこう。そして言えるのは三里塚という場所が、いかにも多くの出会いを設えたものだったと。感謝したい。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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2018年芸能界最大の衝撃新刊! 上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』西城秀樹、ジョー山中、舘ひろし、小山ルミ、ゴールデン・ハーフ、吉沢京子……。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

70年代なかばの学生運動といえば、内ゲバの要素がつよくて「うちの息子ったらもう、学生運動に熱中して、困ったものよ」などという話が極めて深刻なものとなっていた。年に十数人の死者を出す内ゲバは、学生運動の牧歌的なよそおいを彼方に追いやってしまっていた。すでにヘルメットをかぶって集団で殴り合うのではなく、サラリーマン風のスーツを着た活動家が、ひそかに隠し持った鉄パイプで対立党派の活動家の頭部を狙う。そんな殺人事件が内ゲバの実態だったのだ。※立花隆の『中核VS革マル』参照。

◆「こんどはちゃんと逃げなさい」

大学の先輩には「いまや非(合法)・非(公然)の時代だ」と、よく言われたものだ。したがって、学生運動をしているなどということを、誰も家族にも話さないのがふつうだった。「ベ平連の運動ならいいけど、全学連はダメよ」などと、70年前後にはベ平連の街頭カンパには応じていたわたしの母親も、「内ゲバが怖いから、気をつけなさい」とよく言ったものだ。

が、そのじつ、わたしが18歳で学館闘争で逮捕されたときは「こんどはちゃんと逃げなさい」などと言っていた。もともとジャーナリスト志望だった人だから、息子が東京の大学(文学部)に進んだのが、自分の夢の実現でもあったのかもしれない。そんなわけだから、わたしが開港阻止闘争で逮捕されたときも、それほど愕かなかったようだ。息子逮捕の報を聴いて東京にきてからは、北九州にはない多様な交通機関をつかっての行動が楽しかったと述懐してくれたことがある。

とはいえ、一ヶ月ほど行方不明(横堀要塞にろう城)で、世間を愕かせた開港阻止闘争で逮捕されたのだから、わが家にとっては大変なことだったと思う。国家(政府)が農民を苛めるのは怪しからんと、父親も三里塚闘争には好意的だったが、しょせんは保守思想の戦中派である。共産主義運動を理解できるはずもない。わたしが家族を三里塚に誘うようなことは、最後までなかった。それには少しばかり、左翼運動への思想的なアプローチの方法が、わたしについては素直ではなかったのかもしれない。

◆「反スターリン主義=反官僚主義」というロマン

ある有名な女優のお兄さんで、70年闘争をくぐった人がアルバイト先の先輩で、よく口にしていたのが「革命運動は、正義というわけじゃないからね」だった。早稲田解放闘争(革マル派との内ゲバ)に参加して逮捕されたとき、父親に「正義の闘いなんだろう?」と問われて、言葉に詰まった時のことを語ってくれたのだった。「革命が起きたら、そこで死ぬべきだ」とも言っていた。革命後の権力に居座ることを、潔しとしない「反スターリン主義(反官僚主義)」を標榜していたのだと思う。わたしはそれにロマンを感じた。称賛もされるべきではない、われわれの死をかけた闘い。つぎのような吉本隆明の詩を、学生時代のわたしは好んだ。

わたしたちはわたしたちの死にかけて
愛するものたちとその星を
わたしたちのもとへかえさなければならない
その時についての予感が
わたしたちの徒労をわたしたちの祈りに
至らしめようとする
(架空な未来に祈る歌)

フレーズのうつくしい響きを、そのままに味わっていただければいいと思う。解説を加えるとしたら、死をかけて徒労のような闘争を行なうわれわれ。それはほとんど、架空の祈りに近いものであろう、ということになろうか。20歳前後だから、そんなロマンチシズムも心地よく感じられたものだ。それはたぶんに精神的には不健全であって、いわゆる人民大衆の正々堂々とした運動にはもって似つかぬものに感ぜられる。あるいは戦士の思想とでもいうべきだろうか。

◆母親を三里塚の現闘小屋に招いた先輩活動家がいた

そんな雰囲気であるから家族を三里塚に誘うなどということは、わたしについては思いも浮かばなかったが、いたのである。母親を三里塚の現闘小屋に招いた先輩活動家が。それを知ったのは、わりと最近のことだ。心臓の持病で亡くなられたので、往時の仲間が集まって偲ぶ会をひらいたときに、当時の現闘の人から聞かされた。その先輩は学生会中執の副委員長、政経学部の委員長を歴任した、いわばオモテの活動家で見栄えのする好男子だった。映画「仁義なき戦い」を好み、コワモテを標榜するところはあったが、もともと地方の優等生で、お坊ちゃんタイプ。どちらかといえば、体育会系の健康な若者だった。

元現闘の方の話を紹介しておこう「彼のお母さまが、新潟から来られたわけです。そんなことは、われわれにも初めてなので、大歓迎はしましたが。この汚い部屋に泊まってもらうのもどうかなと思い、染谷の婆さんの家にご案内しました。染谷の婆さんはわれわれの庇護役でもありますから、心地よく引き受けていただきまして、さいわいでした」

早世する生がい者の妹さんを同道していたのかどうかは記憶にないが、付き合っていた彼女をそこで紹介したはずだ(遠距離交際の果てに、結婚には至らず)。今にして思えば、本当に自分たちがやっていることを信じていたならば、彼のように家族を三里塚に誘うのだろうなぁと、自分の覚悟のなさが思い起こされる。(つづく)


◎[参考動画]40年目の三里塚(成田)闘争(Kousuke Souka2012年11月2日公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

7日発売!月刊紙の爆弾10月号

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

久しぶりに、三里塚の裁判闘争をふり返ってみた。21歳から25歳にかけて、足かけ4年におよぶ裁判闘争は、わたしにとって論理的な勉強をする時期だったかもしれない。学部は文学部で現代文学(卒論は武田泰淳の「史記」)だったし、どちらかといえば感性的に運動に参加したほうである。未決の獄中1年のあいだに、刑事訴訟法や資本論の読書、ドストエフスキー、高橋和巳を読破したことは前に書いた。

未決拘置の卒論ともいうべき冒頭意見陳述は、京大教授佐藤進さんの『科学技術とは何か』をもとにした、今でいえばポストモダン的な資本制の近代合理主義批判だった。資本主義のもとでは、すべてが数量化されるがゆえに三里塚のような開拓農の苦労が個別には理解されない。そこに農民たちの政府への不信が組織されたのだと、かなり説得的な論述になった。思い起こせば、獄中の1年ほど勉強した時期はなかったなぁ、である。

 

秋葉哲さんの談(HP「懐古闘争の記録」より)

◆3・8分裂と裁判の終了

判決が出たのは、1983年の3月である。おりしも三里塚芝山連合反対同盟の分裂が明白になり、論告求刑の日(2月公判)はマスコミのカメラの放列を浴びたものだ。判決の当日は、傍聴券をめぐって北原派の支援と熱田派の支援が睨み合う事態となって、わたしたち被告団もなかなか裁判所に入れない有り様だった。フェンスを挟んで殴りあいも起きていた。それに公安刑事が介入しようとする。逮捕者こそ出なかったが、やはり内ゲバは良くない、とこの歳になって思う。

判決時の裁判長は民事畑の人で、訴訟指揮はきわめて温厚、反対同盟の三幹部に対する気遣いも素晴らしかった。「秋葉さんの畑は、やはり園芸農業なのですか?」と、秋葉哲救援対策部長が最終陳述を終えたあとに、語りかけた記憶がある。それでも判決を言い渡すときは、かなり緊張した語調になっていた。それを考えても、いい人だったんだなと。

◆裁判は体験するべきです

最初の裁判長は荒木さんといったが、なかなかロマンスグレイの見栄えがする方で、わたしは嫌いではなかった。訴訟指揮は弁護側に対しても、検察側に対しても厳しかった。ロイヤー(法律家)というのは、若い学生にとってすこぶるカッコいい存在だった。

4回生から裁判と法律に接したことになるが、他学部聴講ではいくつか法学部の選択科目を選んだものだ。後年、アパートの敷金問題(敷金の没収と多額な修繕金の請求に対して、内容証明を出し敷金を奪還)、あるいは出版社の契約不履行事件で本人訴訟をした時に、訴訟法の知識は大いに役立った。大学進学の時に母親から「法学部がいちばんツブシが利く」と言われたのは、こういうことだったのかと思ったものです。したがって出身学部を訊ねられると、文学部法律学科刑事訴訟法専攻と答えることもありますね。あるいは文学部経済学科マルクス主義経済学専攻とか。

裁判と縁が切れない鹿砦社のデジタルサイトならではのこと、いまもわたしは法律的な知識に恵まれている。これは悪いことではない。各種の法律および判例には、人類の叡智が詰まっているのだと思う。たといそれが、正義感やバランスを欠いた裁判の判決であっても、裁判官や裁判員の苦渋がにじみ出ていればいいと思う。いまわたしは、死刑制度をめぐる本を執筆中です。法律といえば、憲法「改正」が政治の焦点になるのだそうな。あらためて、日本国憲法を読み返しながら、その論点を探ってみたいと思う。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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学生が観念的で、頭デッカチなのは仕方がないことである。その大半が気分だからだ。どんな雰囲気で闘いに参加するのかは、二木啓孝さんのインタビューを参照(『NO NUKES Voice』最新16号)されたい。もちろん学生にも学生としての生活があり、大学の単位を取れなければ、卒業と就職はおぼつかない。だがその現実を感じさせない、自由な時間が学生生活なのであろう。かく言うわたしは、8年間も大学に在籍した。二度も逮捕されたが処分は受けなかったし、保釈の身柄引受人は在籍する大学の教授だった。学内の主流派の党派とは対立していたが、三里塚の英雄ということで敬意を表されていたように思う。いわく「あれは要塞戦戦士の横山」であると。学生革命家などお気楽なものだといえば、たしかにそうかもしれない。お気楽ではあったが、ずいぶんと犠牲を強いられた記憶はある。「滅私奉公」を「滅資奉紅」と呼び換えても、費やした時間はかけがいのないものだ。ふつうの若者が愉しんだ甘い青春とは、あまり縁がなかったと思う。

ところで、かくもお気楽な学生活動家にたいして、労働者の場合はそうはいかない。78年の開港阻止闘争では逮捕者の6割以上が労働者で、その多くが公務員だったことに、政府自民党は衝撃を受けていた。逮捕された労働者の場合は三里塚の裁判闘争とともに、多くの場合に解雇撤回闘争を強いられた。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

◆クビを覚悟の生産点の闘争とは?

ところで、労働者の場合は、職場・生産点での闘いが、その試金石になる場合がある。三里塚闘争における鉄道労働者の場合がそれだった。空港および航空機にはジェット燃料が不可欠で、三里塚空港の場合はそれを運ぶのが動労千葉の鉄道労働者たち。つまり支援の最大勢力である中核派が虎の子にしている労働組合なのである。

ここに大きなジレンマが発生する。空港反対運動に参加しながら、空港に不可欠のジェット燃料を運ぶ。だったら、空港の命脈を握っているのだから、空港を機能させないカギになるではないか。と考えるのは単純すぎる。当時はまだスト権のない国鉄(公務員)である。違法なストをやれば必ず処分が待っている。すでにスト権ストや順法闘争などで、大量の処分者を抱えている労組にとって、組合が潰れてでもジョット燃料を運ばないのか、という問題である。わたしの弁護人だったH弁護士は隠れ中核派とも公然たる幹部党員ともいわれた人だったが「動労千葉がジェット燃料を止める? そりゃあ、組織が吹っ飛ぶねぇ」と笑っていたものだ。

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

 

国鉄千葉動力車労働組合HPより

軍艦を修理する反戦労働者

生産点の労働者というのは、かようにジレンマを抱え持っている。たとえば米海軍の横須賀の母港化に反対している造船労働者も、ドックで米艦船の修理をすることになる。海上自衛隊に反対している労働者も、自衛隊艦船の部品をつくることがある。軍艦を修理しない闘い、すなわち職場生産点での反戦闘争をするのであれば、就業を拒否してしまうか? それは無理な注文であろう。横須賀の修理ドックは、そのほとんどが自衛隊の艦船を受け入れていたのだから。同志がいたので、その言葉を紹介しておこう。「ぼくらは自衛隊の護衛艦も修理してるからね。能書きだけで、組合の活動なんてできないんだよ」機関紙の編集部として、彼を取材したときのことである。

三里塚に話をもどすと、反対同盟の農民たちは「動労千葉はジェット燃料を運んでいるじゃないか」「ちっとも、われわれの支援になっていない」と、ことあるごとに指摘したものだ。それに対する、支援党派の動きもあった。社青同解放派がジェット燃料を積んだ貨物車両を襲撃したのである。もちろん鉄道労働者に危害を加えたわけではないが、中核派にとっては労働者の職場を襲撃した、ということになる。この件では現地集会で両派がゲバルト寸前になった。じっさいにジェット燃料輸送を拒否する動労千葉のストライキ支援で、津田沼電車区に行ったことがある。ただし一日だけのストであって、組織を賭けた政治ストができたわけではない。

◆勝利をめぐる戦術とは?

 

レーニン『なにをなすべきか?』

およそ革命運動にとって、最後の勝利(武装蜂起による権力奪取)いがいは、運動の目的は陣地戦である。組織的な地平を獲得する以外には、闘争それ自体はほとんどが敗北であろう。しかし、やがて軍隊のなかに作られた革命細胞が部隊の大半を掌握し、工場がゼネラルストライキで操業を停止する。そしていよいよ、政治危機にさいして革命党本部が蜂起を支持する(レーニン「何をなすべきか」)。もはや警察力では革命の側に組織された軍隊を抑えられず、街頭では政府打倒お民衆蜂起がはじまる。と、ここまで来なければ、おそらく労働者は生産点で政治ストを行なうことはできない。いや、形だけの政治ストなら日本の労働者も経験してきたが、合法的なスト権の行使にすぎない。三里塚闘争は少なくとも、組合の存亡をかけた闘いへの選択肢を提起したという意味で、やはり歴史的な闘いだったのであろう。そこでは、具体的な勝敗をめぐる戦術が明白だったのだ。そのリアルさに、夢みがちな新左翼の活動家たちは魅せられたのではないか。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

最新『紙の爆弾』9月号!「人命よりダム」が生んだ人災 西日本豪雨露呈した”売国”土建政治ほか

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

 

『戦旗派コレクション』より

わたしは理論誌とも思想誌ともいわれる雑誌の編集をやっていますが、理論や思想が世の中を変えるなどと思ったことは、じつはあまりない。人を動かすのは感情であり、魅力のある物事だと思うからです。その物事の原因や拠って立つ構造を解明することにこそ、理論や思想はあるのではないでしょうか。

とはいえ「理論派」「知性派」と呼ばれることに人は憧れ、その対極にある、やや侮蔑的な評価が「肉体派」ではないか。学生時代には、よく「君たちは肉体派だな」と言われたものです。この「君たち」とは、わたしの出身大学(けっこう受験生に人気はありまずが、一流とは言えますまい)の意味であって、わたしたちを評したのは、東京大学から「指導」に来ていた理論派の学生でした。どうせ俺たちは肉体派だという自虐が顕れるのは、三里塚現地で肉体労働に従事するときでしたね。団結小屋の改修や風車をつくるための穴掘り、要塞建設などなど。とにかくあてにされる。

ところがいちど、内ゲバで他党派と揉み合いになったとき、かの東大生は言ったものでした。「いいよな、君たちみたいに身長のある人は。相手に掴まれても、パッと突き放せるだろ」。このときに判ったものです。ああ、この人が「君たちは肉体派」と言うときには、背が低いことへのコンプレックスがあったんだな、と。

学生活動家というのは、大きな人か小さな人の両極端がなぜか多くて、昨年亡くなられた塩見孝也さんなどは巨漢系。塩見さんに早稲田でオルグされた故荒岱介さんも180センチの身長でした。いっぽう塩見さんと袂を分かつ赤軍派の指導者・高原浩之さんは小柄な方です。意外なことに、小柄な人のほうが頼りになると、よく言われたものです。

ヤクザも同じで、大柄な人と小柄な人がなぜか多くて、中肉中背という親分はあまりいない。たとえば工藤會の三代目・溝下秀男さん、山口組の五代目・渡辺芳則さん、太田興業の太田守正さんなど、小柄だが胸や腕は筋肉隆々という方が多かった。たぶん小柄だと、そのハンディを乗りこえるために鍛えるんでしょうね。大きい人だなと思ったのは、広島挟道会のM氏くらいのものだった。ヤクザは知性派とか理論派と呼ばれるのは評価が低い証しで、もっぱら「武闘派」が名誉ある親分ということになる。

◆「肉体派」という呼称に違和感がなくなった40代

わたしが「肉体派」という呼称に違和感がなくなったのは、40歳をこえるあたりからでしょうか。左翼活動家にしろヤクザの親分衆にしろ、付き合っている方々がひと回り年上なものですから、その中にいると話題が健康と病気の話ばかりだと気づいた。まだロードバイクはやっていませんでしたが、けっきょく左翼もヤクザも健康のことばかりになってしまうんだなと。だったら、今後は健康と環境問題が人類のテーマだと。

そこできっぱり、煙草をやめました。親父が肺ガンで死んだというのもありましたが、喫煙癖は病気だと思うと、意外に簡単にやめられたものです。いったんやめて、それでも家内が吸っていたので、もらい煙草をしているうちに「やっぱり、これって病気なのかな」と。そのうちに家内が怪我(浴衣で外出したときに、下駄を滑らせて脚の指を骨折)をして、じゃあ一緒に煙草をやめようとなったわけです。いらい、運動はもっぱらサイクリング、楽しみはお酒だけという生活です。さて、肉体派というテーマにもどりましょう。

 

『戦旗派コレクション』より

本格的にロードバイクに乗りようになってからは、肉体派という実感がむしろ誇らしく感じられたものです。もう50歳台になっていましたが、隆々たる大腿筋に盛り上ったハムストリングス。腕も硬く太くなっていきます。もうひとつ「肉体派」といえば肉体美をもって「演技派」に対置されるわけですが、肉体美という意味ではもう完全に、知性派とか理論派なんかというものを打ち負かす魅力があります(女優じゃないけど)。2008年の洞爺湖サミットにさいして、自転車ツーリングを呼びかけて「肉体派は集まれ!」というキャッチを同行するグループに提案したところ「せめて知的肉体派」にして欲しいと異論があった。単なる「肉体派」はダメらしい(苦笑)。

三里塚の横堀要塞にろう城が決まったとき、鉄の入った安全靴やぶ厚い作業着、フルフェイスのヘルメットに身を固めながら思ったものです。もっとスマートな都市ゲリラのほうが性にあってると。しかし逮捕されて3畳一間の独房にいると、三里塚の大地に身を躍らせたいと、そればかり考えていました。

もう還暦をこえたいまは、ひたすら健康のために自転車に乗り、健康な食材と美味しい料理が生きがいです。それと、やっぱりお酒なのですね。もう完全な肉体派。いまちょうど、五木寛之先生と廣松渉先生の対談本の復刻(抄録)を編集していますが、60歳で身まかられた大哲学者よりも、86歳にならんとする国民的作家のほうが肉体派だったということになります。肉体派万歳! (この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

三里塚闘争は土地所有をめぐる空港反対運動だったのか、それとも農民闘争だったのか。社会運動の観点からは、そんな命題が残されたように思う。実態は農民が主体の住民運動であって、土地を奪おう(強制収容しよう)とする国家との闘いだった。農民が主体である以上、営農の問題は運動の原動力でもあった。農民にとって営農とはつまり、土地と共生して行くということにほかならないからだ。

◆資本主義における農民問題とは何か?

あのころ、わたしたちは社会主義論の立場から、農業の集団化というテーマが問題意識にあった。戦争反対や政策反対闘争の延長に革命を措定するのではなく、運動そのものが社会主義の要求を内包するものと提起するべきだと。そこで単なる空港反対運動ではなく、農民を社会主義に動員する萌芽があるはずだと考えていた。当時はオルタナティブ(政策選択)という言葉が流行していたが、あえて社会主義革命の準備という表現に執着したものだ。これは関西ブントと合流したゆえの党派性であろうか。当時、わたしが属した情況派の流れを汲む組織は、赤軍派の一派と合流していた。

一般的な定義をしておこう。マルクスの時代、農民は共同体を通じても自然の力(天変地異)に抗することができず、神や絶対的な権力(君主)に頼らざるを得ない(『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』)したがって、没落するか体制に組み込まれる存在だと考えられた。もっともマルクスは、ロシア革命の黎明期にベラ・ザスーリッチ(ナロードニキ・メンシェビキの女性革命家)に宛てた手紙では、ロシアのミール(農村共同体)の革命的な可能性を予言している。

いっぽう、帝国主義段階の資本主義の下では、農産物は国際競争の中で、商品として安価な地域に淘汰される。したがって農業は大工業化されるしかないので、農民の大半はかならず零落する。これが近代の農業・農民問題である。そこから、土地の共同所有・全人民的な所有のよって、農業の集団化が計られることで、農民は零落することなく生産性を上げることができる。と、レーニンおよびロシア社会民主党(ボ)を継承したコミンテルンは問題意識を持った(わたしの理解です)。したがって、農民は労働者階級と連帯して、社会主義に向かうべきである。そうしなければ、零落する小ブルジョアジーとなるしかないのだと。かなり教条的だが、新左翼の大半はこう考えていたはずだ。じっさいには、ソ連邦のコルフォーズ・ソフォーズ(国営農場と集団農場)は農民の営農意欲を刺激できず、資本主義的な工業化すらできなった。

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

 

二木啓孝さんインタビュー「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」(『NO NUKES voice』Vol.16より)

◆共同出荷と有機農法

三里塚における農業の集団化は、東峰部落で行なわれたワンパック、共同出荷場の作業にその具体性があると思った。そこで現地集会の前夜には青年行動隊を呼んで、農業の集団化について討論会を持ったことがある。「どうせ闘うのなら、農業もいろんな方法でやってみっぺ。いろんなことを試してみる。そういう問題意識だな」と語ってくれたものだ。三里塚の運動が生協をはじめとする全国に広がっているから、流通も全国に拡大できる。じっさいに、わたしは藤本敏夫さん(加藤登紀子さんのお連れ合い)の「大地を守る会」のアルバイトをしていたから、三里塚の野菜(根菜類が多かった)の需要は実感していた。それでものちに、同じ東峰部落の堀越さんが朝採り野菜を団地などで直販したほうが、野菜の美味さは格段に上だったと思う。ぎゃくに言えば、三里塚の野菜は「三里塚闘争」というだけで、ありがたがられる存在だったのだ。

有機農法については、かなり早い段階で取り入れられていた。冬場の援農で、「堆肥を取ってきてくれ」と言われて、山積みになっている乾燥堆肥の温度におどろいたことがある。見えない微生物が繁殖して、そこだけ熱を持っているのだ。農学部の学生も「無農薬・有機農法(微生物農法)」に興味を持っていて、それを見るために三里塚闘争に参加するケースもみられた。

◆成田用水問題

三里塚闘争に農業農民問題としての側面が厳然たるかたちで浮上したのは、80年代なかばの成田用水問題だった。成田用水は高地(北総台地)である三里塚に、はやくから計画されていた。それが土壌整備(深田の底上げ)などと一体化して、空港建設の見返り事業として立ちあらわれてきたのである。支援党派の多くは、これを空港建設の一部と見なして反対した。用水建設反対運動も実力闘争となったが、これがのちに反対同盟の分裂にいたるひとつの契機だった。常東農民運動で名高い山口武秀さんの言うところを、伝聞だが記しておこう。共産党も新左翼も、農民運動としての三里塚闘争を政治闘争にしてきた。政治的に利用してきた、というニュアンスである。農業基盤整備を行わない農民運動は、営農とかけ離れたところで闘っていることになるのではないか。そういう意見だったと思う。肝に命じるべし。

◆農への志向

それにしても、三里塚闘争にかかわった学生たちは農業というものを体感することで、人生観が変わったのではないだろうか。少なくともわたしはそうである。わたしの先輩の二木啓孝さんも同様だ。最新号の『NO NUKES voice』(Vol.16)に「反原発は、生き方の問題です 三里塚とメディアの現場」というインタビューにまとめてみた。ぜひ読んでいただきたい。明大農学部出身の二木さんは、鴨川の棚田で農に接している。

わたしの場合は連れ合いに誘われてだが、松戸の市民農園でささやかな「営農」をしている。年間9000円で3メートル×5メートルの畑に、ホウレンソウや小松菜、ミニトマトにナス、ピーマン、獅子唐辛子、トウモロコシ、キャベツなど。マンションでやってみたプランター農業とは、まったく地力がちがうので愕いた。週末だけの農業とはいえ、スーパーで野菜を買う機会が減った。みなさんも是非!(この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやましげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

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横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

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