◆現役時代

鴇稔之(とき・としゆき/1963年5月3日生)は目黒ジムの、TBSテレビ放映時代末期の1980年1月、高校一年生の時に入門し、この老舗のジムで、創生期から多くのチャンピオンを輩出した歴史を間近で見て、先日亡くなった藤本勲会長と最も長く接してきた純粋なキックボクサーである。

王座初挑戦は21歳の時、武藤英男(伊原)と対戦は惜敗(1984.11.30)

防衛戦に臨む鴇稔之、リングに入場(1992.9.19)

1981年11月デビュー後、日本王座はフライ級で1度、バンタム級で3度目の挑戦で丹代進(早川)との王座決定戦を制し初獲得。菅原誠司(花澤)、三島真一(光)、船津勝人(治政館)らを相手に4度防衛。他、タイの大物プロモーター、ソンチャイ・ラタナスワン氏が率いる殿堂ランカーとの激闘に加え、日本フライ級チャンピオン.松田利彦(士道館)とのチャンピオン対決を制し、全日本バンタム級チャンピオン.赤土公彦(キング)との事実上の統一戦は引分けるも、いずれも名勝負を展開。1993年5月、室戸みさき(山木)に判定で敗れ、6年に渡る王座から陥落。減量がきつく、フェザー級転向も同年11月の初戦から挑戦者決定戦で再び室戸みさきと対戦し敗れ去った。ここに至るまで、鴇は左眼の疾患が原因で、相手の右フックでノックダウンすることが増えた結果、1994年(平成6年)11月、引退。

◆左眼の異変

1988年、アメリカ・カリフォルニア州遠征での試合の際、各州が義務付けるアスレチックコミッションの検診を受けた結果、眼圧が高いと診断され帰国後、日本で再検査を受けたところ、緑内障で左眼外側(耳側)の視野が狭いことが発覚。日常は右眼がカバーしたり、視線をずらすことで周囲はハッキリ見える為気付き難いという。相手の右フックでノックダウンすること増えたのはこのせいだった。

更に網膜裂孔を発症し、左眼はほぼ見えなかった。治療ではレーザーでの網膜修復や、眼玉を取り出して細かい部分まで再検査するといった聞けば怖くなるような手術は成功するも、後に網膜剥離も発症し、引退に導かれてしまった。眼疾患は無情な運命を迎えるものである。

[左写真]船津克人(治政館)と対峙する鴇稔之(1992.9.19)/[右写真]船津勝人との防衛戦、ハイキックが冴えた(1992.9.19)

[左写真]昭和の名レフェリー、李昌坤氏の勝者コールは何度受けたことか(1992.9.19)/[右写真]日本バンタム級チャンピオン.鴇稔之(目黒)、この時代の王座は価値があった(1992.9.19)

室戸みさき(山木)に敗れ王座陥落(1993.5.21)

目黒ジムで小野寺力とのスパーリングパートナーを務める(1995.4.25)

◆アマチュアムエタイへ進出

引退後は目黒ジムトレーナーとして選手を育てる側に回った。1990年代後半は後輩にあたる新妻聡、小野寺力らを指導し、幾人も日本のトップクラスに君臨させた。更に2011年には石井宏樹をラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級チャンピオンに育て上げた。

鴇稔之は引退前からアマチュアムエタイにも力を注いでおり、毎年のアジア大会には日本勢を率いて参加してきた実績がある。タイ国はムエタイをオリンピック競技種目に加わることを目標にしており、その道程は険しくも、アジアエリアに於いて実績を積み重ねている中、今年は3月開催予定だったアマチュアムエタイ世界大会が、残念ながらコロナウィルスの影響で開催10日前で中止。数々の世界的スポーツイベントが中止になって来た今年の不運であった。

2007年5月、鴇稔之は大田区蒲田にKickBoxジムを開設すると、更にプロ・アマチュアともに自ら選手を育てる環境を整え、現在プロに於いてはジャパンキックボクシング協会事務局長を務めている。

◆目黒ジム危機から聖地を守る

1966年(昭和41年)、日本で最初のキックボクシングジムとして誕生した目黒ジムは、キックの帝王・沢村忠が所属し、富山勝治、亀谷長保をはじめ、多くの名チャンピオンを生んで来たその歴史は長い。そしてその聖地となった目黒区下目黒にある目黒ジムだったが、過去に何度か目黒ジム存続の危機が襲っていた。鴇稔之はそのすべてを見て来た一人である。最初はデビュー前のことで、1981年6月、権之助坂の名物だったガラス張り目黒ジムは目黒雅叙園近くにあるプロボクシングの野口ジムに吸収される形で移転。ここは1950年にライオン野口こと、野口進氏が御自身所有の敷地に開設した本家のジムであった。

目黒ジムでトレーナーとして小野寺力を指導(1995.11.17)

更に鴇稔之が直接関わったものは引退後の1995年から目黒ジム存続の危機が続いていった。諸々の事情は省かせて頂くが、ジム建屋が抵当に入り、賃貸契約を結んで経営続行、本家だったボクシングの野口ジムは北千住へ移転した。

更に2003年、建屋は解体されマンション建設に移った。その地下に藤本ジム開設に導くことに成功し2005年4月、落成式を迎えた。この聖地を守ることに全力を尽くした藤本勲会長と鴇稔之だった。

目黒ジムでのミット持ちは定着した存在(1996.4.11)

新時代のスターが揃った中ではあるが、残念ながら藤本勲会長重病の為、2020年1月31日(練習日は30日が最後、31日は撤収日)をもって歴史と伝統の聖地の幕を閉じ、同所を手放すこととなった。そして5月5日早朝に訃報が入り、藤本会長は永眠。静かに家族葬が行われたが、鴇稔之は関係者を代表して特別に通夜に参列。藤本会長は眠っているような穏やかな表情だったという。亡くなる一週間前にも電話で「“コロナ騒ぎでジムの練習生は減ってないですか?”と心配してくれる優しい藤本会長でした」と語る。

聖地を離れても、今後も目黒ジムの歴史と伝統を受け継ぐことへ、所属選手は皆それぞれの道へ進みつつ想いは同じであろう。過去、目黒ジムから独立した選手が開設し、活動を続けるジムが10箇所程あるが、鴇稔之氏は目黒一門会としての興行も目指している。

目黒ジムで名トレーナーとなった鴇稔之(1996.4.11)

新築された藤本ジムの披露パーティーにて、選手を引き連れ御挨拶(2005.4.17)

◆野口修さんとの最後の会話は新スタジアム構想

鴇稔之は老舗に関わる人物との交流は深い。キックボクシング創設者、野口修氏は2016年3月30日に永眠されたが、最後までお付き合いがあったのは鴇稔之であった。その最後となった会話の中には野口修氏のキックボクシングスタジアム構想があった。

タイのルンピニースタジアム、ラジャダムナンスタジアムに匹敵するボクシング向きの会場を作り上げようじゃないかという構想だった。

「いいブレーンが集まってきているからやれるぞ!」という野口修氏の試算があり、生涯最後の仕事として立ち上がりかけたところで、野口修氏は肺気腫で亡くなられてしまった。

野口修氏の人生は若い頃からとてつもない大きな野望を持って挑んで来た人で、渋谷、新宿、丸ノ内等、日本の一等地を候補に挙げていた。実際にはそうはいかぬ一等地でなくても、やや郊外での可能性は残っているだろう。その野望を聴いていた鴇稔之。遺志を受け継ぐことは難しいが、タイのようなスタジアム王座は、協会や連盟等の実態の掴み難い組織でなく建設物として残るが故の、ここに集まる群衆が価値を高めていき、支配人が辞任や死去に至っても必ず後継者が受け継ぎ、王座の価値は続くだろう。それが格闘技の殿堂後楽園ホールに例えれば分かりやすく価値が高いと考えられるが、実際は無理な話で、新たに日本にキックボクシングスタジアムが建てられたら理想的と以前から明言している。

セコンド姿も定着した鴇稔之氏(2016.9.18)

チーフセコンドとしての姿、内田雅之にアドバイス(2018.1.7)

◆キックボクシングの真の組織作り

「キックボクシングは公的機関が管轄する下で運営されないと真の競技とはならない。スポーツ省(庁)が定めてくれるのが望ましいが、それはまだまだ無理でも、キックボクシングが誕生して50年以上経つのだから、業界一丸となって確固たる組織作りに動き出さなければならない。」

そんな理想を語る鴇稔之氏はジムを運営し、トレーナーとして強い選手を育てることが本業で、決してスタジアム建設や公的機関に働きかけることが使命ではない。しかし強い選手を育てても、日本エリアでも世界広域でも乱立した中の一つのチャンピオンとなってもそこでの最高峰とは言えず、世間から評価もされず稼ぐことも出来ない。そんな勿体無い競技人生となってしまうことへの改善策として、アマチュアとしてもオリンピックを目指せる環境を整備し、プロとしてもムエタイ二大殿堂に匹敵する日本のスタジアム建設や、公的機関が定めるライセンス制度に業界を導こうとしている人物なのである。そういう思想を持ってメジャー競技に導き、自らの教え子がこの頂点に立つことを目指し活躍する鴇稔之であった。

その鴇稔之氏にこの格闘群雄伝の今後の価値も導く第一回掲載に選出し、御登場頂いた次第でありました(敬称略あり)。

高橋勝治のセコンドに付く鴇稔之(2019.3.3)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆物件探し回った時代

コロナの影響は政府から要請された自粛で各ジムは閑散とした日々。家賃と光熱費は嵩むばかり。優遇されるジムもあるかと思うが、練習生は減り、経営が難しなるばかりだ。

ニシカワジム、オープニングパーティーでは藤原敏男さんスパーリングで御登場(1983年)

元々、コロナとは関係なく、キックボクシングジムの開設は簡単なものではなかった。それは加盟団体に認可を受けなければならないといったものだけでなく、不動産物件が少ないことにもある。その上、リングやサンドバッグなどの設備費用も必要となる。

現在のキングジムの前身、ニシカワジムは1981年(昭和56年)開設当初、他のジムでの間借りや路上(路地)練習、夜の市場の空きスペースを借りるなどを経て、1982年12月、当時国鉄小岩駅近くの雑居ビルの一室を借り、リングもある設備揃ったジムを構えた。昭和の時代、キックボクシングジムに貸す条件は厳しく、西川純会長の苦労が伺えたものだった。

設備整ったニシカワジム、ここからデビューした赤土公彦は大きく飛躍した(1983年)

平成に入り、所属の向山鉄也氏が引退後、会長となってキングジムへ移行も、当初は都営新宿線一之江駅からやや離れたところに借りられたのは、トイレも無いバラック小屋。2007年2月には江東区の都営新宿線大島駅近くのビル2階に開設され、設立披露パーティーで公開されたジムは、今迄より遥かにグレードアップしたジム設備であった。

キングジムの新装開店は賑やかなオープニングだった(2007年)

OGUNIジムが板橋区中台にあった頃のジム、当時の選手は想い出深いだろう(1992年)

現在のOGUNIジムは現・会長の斎藤京二氏が現役時代の1983年(昭和58年)に開設し、路地や公園、他のジムでの間借り練習を経て、1986年10月、後援会会長(当時小国ジム会長)が探し回ってくれた末に建てられた、板橋区中台の狭い道の分かれ目、三角地帯の二階建てバラック小屋でスタート。

都営三田線志村三丁目駅から15分ほど歩き、初めて行くには分かり難い道だった。リングは無く、それでも「雨露凌げて遠慮なく動ける環境が整って有難い」と当時の選手が語っていたほど、揶揄されることなく居場所があることは有難いことだっただろう。1995年(平成7年)に現在の池袋本町のビルに移ってからはリングも整い、JR池袋駅からは商店街を通り、やや歩くが山手線主要駅周辺となれば練習生は大幅に増えたという、やはり立地条件は重要なことが伺える。

◆キックボクシングという競技は肩身が狭い!

ある、某ジム会長は、「木造の狭い古い自宅の1階を改良してジムとしてきましたが、老朽化で床に穴が開いたり、シャワーのお湯が出なくなったり、住宅密集地で夜8時頃に終了しなければならないという条件があり、かなり不便でした。次には小学校や区の体育館を借りるも、子供たちの空手指導をするという条件で借りた手前、プロ選手が練習に専念したくてもキックボクシング練習だと使用不可になるので、子供達の空手の練習時間と同時にキックの練習をしました。空手は社会的に認知された競技で低年齢層の裾野まで広く、キックボクシングは危険、野蛮的イメージが強く、認知されない昭和の時代でした。」と語り、またある某ジム会長は、「ジム探しは苦労しましたね。 物件はあっても当時、ガチンコファイトクラブが流行っていて、こいつらもガラが悪いと思われたんではないでしょうか。家主さんからOKもらったのに、契約前に急に断られたり。ボクシングとか格闘技する人間は不良みたいな感じと思われていたでしょう。」と語ってくれた。

キックボクシングは世間との認識のズレがあるなあと思ったものだった。私(堀田)がこの業界にすんなり馴染めたのも、選手やジム会長、トレーナーさん達が皆、一般の人と変わらぬ穏やかな人達だったからであるのだが。

市原ジム、男の汗がムンムンする昭和のキックらしさがあった(1983年)

市原ジムは草木が室内に伸びてくる自然さが良かった(1983年)

◆物件探しは楽になったか

現在、練馬区大泉学園駅前にあるクロスポイント大泉ジムは雑居ビルの2階にあるが、1階は賃貸物件を仲介する不動産屋さん。以前、店員さんが「2階の音や響きは伝わってくることがあるが、もう慣れました」と笑っていた。階下に店舗を構えるお店としては、業務に影響するような事態は無いが、これが生活空間となると騒音や響きは気になることだろう。

昭和の時代から練馬区に住んでいた私は、当初一番近いキックボクシングのジムと言えば所沢の士道館、次はかなり遠いが目黒ジムだった。主に千葉方面にキックボクシングジムが多いと思ったことがあるが、地元の選手に「土地が安いからだよ!」と簡単な理屈であった。

現在も昔も、物件はどの鉄道沿線でも駅近は家賃が高い、僻地は練習生が集まり難いといった現象は当然だろう。飲食店や美容室、雑貨屋など、どの業種も物件探しは苦労するところだが、不動産業者は良い物件はなるべくイメージの良い業種に貸したいと見られ、物件が空いていても、キックボクシングは激しい運動による振動や壁や床の傷み、叫び音が煩い、汗臭くなるとか、「ヤクザ者の類が出入りするのでは?」などのイメージがあり、なかなか借りることが難しい場合も多いが、昔のような扉を開けただけでカビ臭い風通しの悪いジムや、鬼のスパルタ指導となるジムも極めて少なく(厳しいことは確かだが)、冷暖房完備、女性専用シャワールーム更衣室などの環境が整い、女性が気軽に練習出来る等、イメージが良くなって来た分、土地柄にもよるが、借り難さは少なくなってきているかもしれない。

一般クラスのボクシング教室、地道な活動がジムを支え、会員との絆も深る(2007年)

◆苦しい経営

ジム設備は揃っても経営が苦しい場合は多い。あるボクシングジムトレーナーさんは、知り合いのジムオープンのお手伝いに始まり、そのジムが事情あって閉鎖が決まると、そこの会員さんから「新たにジムをオープンして欲しい」と頼まれ、その会員さんが探してくれた物件でジムオープンするも、何年も赤字経営が続いたが、3年掛けて地道にボクシングのフィットネスクラブ的コーチを続け、ようやく会員さんが増えて安定し始めた。

そんな頃に東日本大震災で外出を控える会員が増え、電力削減等でのジム練習時間短縮で会員が著しく減って収入が大幅に減少の経験もあるが、会員さんの協力でジム運営をいろいろな策を練って続け、なんとか徐々に回復してきたところで、今年はコロナウイルス蔓延影響で再び経営危機を迎えた。今は東日本大震災の経験を活かし、禍を転じて福と為す状態という。

コロナによる自粛の影響でジム閉鎖したという話は今のところ聞かれないが、今後もそんな事態に至らないよう、各ジム会長やトレーナーさんとまた後楽園ホールで再会したいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆修行の癒し

タイに修行に行った選手が日々、ムエタイジムでの厳しい練習や暑さ不潔さ、むさ苦しい男集団生活、ものの考え方の違う土地での住み難さに耐える中、タイ選手との友情も芽生え、修行の成果と想い出を持って帰国する。その修行を活かし、日本での試合で勝利する、とは行かぬ場合も多いが、ムエタイ修行は人生に於いて貴重な経験だろう。

そのタイ遠征に於いて、恋愛に至る出会いも少なくない。昭和のある時期はキックボクサーとタイ人女性との結婚が小さなブームのような現象さえあったものだった。

より海外へ渡り易くなった後々には正確な数値は分からないが、過去のカップル誕生にはいろいろなエピソードがあっただろう。

向山鉄也氏、息子さんは羅紗陀(向山竜一/元WBCムエタイ日本ライト級チャンピオン)(1985.1.6)

単純な例だが、朝、ロードワーク中にジムの近くの住宅地に住む、通学中の女の子と目と目が合う。そんな自然な出会いから必死でタイ語も覚えて声を掛け、お喋りに発展する。そんな日々、通りすがりに手を振って微笑んでくれる。その笑顔に心奪われていく。死ぬような苦しいムエタイ修行に対する微笑みの国の美女は、日本人女性とは違った清々しい優しさに癒されるのである(と、勘違いするのである)。

◆羨ましい仲

そんな数々の出会いの中、現在一番円満な家庭のひとつと思うのが、元・日本ウェルター級チャンピオン、現・キングジム会長の向山鉄也氏の家庭である。

こちらの奥様は、来日当時は片言の日本語だったが、いつの日か写真の用で私に電話が掛かってきて「向山の妻です!」と聴こえてきても「この人、向山さんの奥さんとは違うんじゃないの?」と思うほどタイ語訛りが全く無い、日本の標準語の発音が完璧。

そのキングジム所属の元・WBCムエタイ・インターナショナル・スーパーライト級チャンピオン、テヨン選手は千葉(センバ)ジムの元・日本ムエタイ・ミドル級チャンピオン、中川栄一氏の次男(中川勝志)だが、中川栄一氏もタイ遠征でタイ人女性と恋愛結婚した人。昭和の終わり頃、私はたまたまタイで幾度か二人の様子を見かける機会があったが、仲睦まじく、この二人は絶対上手くいくと確信できたものだった。

◆縮まらぬ意識

他にもお似合いカップルを見たり聞いたりしてきた反面、恋愛はしたが結婚には至らなかったケースも、更には結婚はしたが、短期で離婚に至ったケースもあった。

私の知人範疇から外れるが、有名なところでは、タイの英雄、元・WBA世界ジュニアバンタム級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーが日本人女性と結婚したり、元・WBC世界ストロー級チャンピオン.ナパ・キャットワンチャイが井岡弘樹と王座を懸けて戦っていた頃も、ナパはチェッカーズの郁弥似の甘いマスクで人気が出て、日本女性がタイまで追っかけて行ったという、ボクサーとしての実力とは別の、アイドル型人気という現象も時代が変わったものだった。

その国際結婚も恋愛も、次第に心がズレていくのは日本人とは違う気質、文化、習慣、学問の深さの違い。彼女がカップラーメンすら作れないといった些細なことから感情のもつれもあったり、旦那が必死で稼いできた安月給から、将来やイザという時に蓄えたお金を「こんなにあるんだからいいじゃないの!」と躊躇いなくタイの実家へ送ってしまう奥様。

あくまでも相手にもよるが、価値観の違いや育った環境の違う国際結婚は難しいものである。

世界王座19度防衛のカオサイ・ギャラクシー氏(左)。人気No.1ナパ・キャットワンチャイ氏(右)

現在は、はまっこムエタイジム会長のユタポン前田氏(1992.10.10)

◆無知な人の話

キックボクサーに限らず、自然な流れの一般旅行者、ビジネスマンも同じような恋愛に進む日本人男性は多い。

私がムエタイ選手のビザ申請の為、日本大使館を訪れたある日、日本の小金持ち風50代ほどのオッサンが、いかにも水商売系の女の子を連れて窓口で、「この子、日本に連れて帰りたいんやけど、何を用意したらいいん?」と問い掛けても、そんな胡散臭い出会いの相談に、親切なアドバイスされる訳もなく、「どこ行ったら教えてくれるの?」と怒りに近い口調で厚い防弾ガラス越しのインターホンで訴えていたが、要件が違えばサッサと通話を切って去ってしまう大使館員。

公務員のふてぶてしい連中には私もラオスのタイ領事館でも味わっているが、この時はこの旅行者男性が無知過ぎると思ったものだ。

1980年代以降は日本で不法滞在、不法就労者が増えていた時代で、一試合のみの短期滞在予定プロボクシング世界チャンピオンでさえ書類審査が難しかった時代に、特に若い一般女性のビザ取得は不可能と言えるほど難しいものだった(現在は経済格差が縮まり、かなり緩和されています)。

そんな他人事を話している私もタイ人女性に惚れた一人である。付き合った女性の中には一方的にフッた私の罪があった。甲斐性無い私に結婚は無理だった。

伊達秀騎(左)、チャイナロン・ゲオサムリット(右)(1995.6.10)

そんな過去の、様々な過ちを反省する私的な思いで、その後、出家に至った理由の一つがあった(こんな志で出家するものではない)。

それも三日で挫けそうだったのだが、還俗し生まれ変わった後、人を不幸にすることは無かったが、無知で甲斐性無いのは変わらない私である。

◆逆パターン

キックボクシング関係者の中では昭和の時代から、渡航が増えた平成の時代にも国際結婚に至った夫婦を見かけることが多かった。タイ女性をお嫁さんに迎えるだけでなく、日本人女性がムエタイボクサーを迎えるパターンもあった。

業界では有名どころ、はまっこムエタイジムを経営するユタポン前田さんもその一家。私が来日のお手伝いをしたチャイナロンというムエタイボクサーも日本で結婚し円満に暮らしている。

1997年にタイへビジネスで渡って、現在バンコク中心部でムエタイジムを経営している、「タイで三日坊主!」にも登場した伊達秀騎氏も現地でタイ女性と結婚し、一女を儲け円満に暮らしている。どこの国からであろうと文化の違いを乗り越えた家庭は今後も末永く幸せを貫いて頂きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年7月号【特集第3弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

また一人、キックボクシングの生き証人が逝ってしまった。

一見怖いイメージも元後輩の向山鉄也選手をからかうお茶目さもあった(1983年2月5日)

キックボクシングの老舗、目黒ジムに長く務め、藤本ジムに移行後、会長を務めて来られた藤本勲会長が5月5日午前3時過ぎに永眠されました。78歳でした。

2年ほど前から体調を崩し、興行にも姿を見せることも少なくなり、昨年12月興行に於いて勇退式を行ない、協会役員から外れ療養することになった藤本勲氏でした。それまでの病状を考え、今年1月31日には目黒区下目黒の藤本ジムも閉鎖されました。

勇退式の日、藤本会長から聞いた病状では過去、腎臓摘出や糖尿病があり、間質性肺炎、肝臓癌の疑いもあり検査中と言われていましたが、肺癌、胆嚢癌も併発していた様子でした。亡くなる一週間前には、ジムを経営する後輩達に電話で「コロナの影響で大変な時期だけどジムは大丈夫か!」と心配する様子だったということです。

こんなセコンド姿が毎週全国に映し出された時代があった。選手は富山勝治(1983年11月12日)

4年前にこのデジタル鹿砦社通信枠で「藤本勲物語、日本キックボクシング半世紀の生き証人」として拾わせて頂き、過去掲載と一部重複しますが、藤本勲氏の本名は藤本洋司。1942年(昭和17年)1月24日山口県生まれ、1967年(昭和42年)2月26日に、テレビ初の放映で同門の木下尊義との日本ヘビー級(三階級制67.5kg超/当時は全日本という名称)王座決定戦で、4ラウンドKO勝利で王座奪取。

後の東洋ヘビー級王座は奪取成らずも、1969年6月、東洋ミドル級(七階級制/正規の72.5kg以下)王座決定戦で、ポンピチット・ソー・サントーン(タイ)に判定勝利し東洋王座奪取。

1970年12月5日がラストファイト。51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績。引退後、キックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となり、54年に渡り、目黒の聖地で業界を見つめてきた最古参でした。

日本ライト級チャンピオン、飛鳥信也のセコンドに付く藤本トレーナー(1992年6月)

1998年7月、会長となった藤本勲氏は「死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と言う本音は、本当に身体が動く限り、癌で10kg痩せても踏ん張って来た様子が伺えます。

石井宏樹に続く2人目のムエタイ殿堂スタジアムチャンピオン誕生は成らなかったが、藤本氏自身がデビュー当時からジム運営に関わり、トレーナー、会長までを経て育てたチャンピオンは50名を上回ります。

元・日本ライト級チャンピオン.飛鳥信也氏の現役時代、担当トレーナーとなったのが藤本勲氏であり、飛鳥氏は、「どんな励ましの言葉よりも藤本会長がセコンドに居るだけで安心感を持って戦えました。そんな人格と経験値を持った人がセコンドに居る、“ジャブ、ロー”しか言わなくても、そこに居るだけで励みになり心強かった。」と語り、そんな言葉は最近の選手からも聞かれます。

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(=髙橋勝治)は2006年5月、19歳で藤本ジムからデビューし、「藤本勲会長の、身体で語る昔ながらの指導で、試合の時は何よりも気合の入る言葉で“ジャブ、ロー”を繰り返す。それが凄く心強いものでした(フェイスブックより引用)。」と語る。その存在感は他団体興行、他のジムには無い、キックボクシングの初の興行から全てを見て来た偉大な親父風でした。

日本ライト級ランカーだった元木浩二さんは、藤本会長の訃報を知り、「目黒ジム入門当時、偶然にも藤本さんが営業部長を勤めるカステラのナガサキ屋に就職しており、その影響で職場ではより一層皆に可愛がられ、1983年(昭和58年)、伊原ジムに移籍した後も、目黒ジムに遊びに行くと快く迎えてくれて、『ジム終わったら二人で焼肉でも行きませんか?』と誘うと嬉しそうに一緒に行ってくれました。今、僕に優しかった藤本さんの顔が想い浮かび、とても懐かしく、それ以上に哀しく涙が出てしまいます。」と懐かしそうに語っていました。

レフェリー・李昌坤さんの引退式で感謝状を渡した藤本代表(1996年2月)

目黒藤本ジムが改築完成した翌年の藤本会長(2006年1月5日))

改めて振り返るとテレビ放映時代の沢村忠をはじめ、多くの名チャンピオンから新人選手まで、藤本氏のセコンドに付く姿が、脇役ながらも全国に毎週映し出され、長身のメガネを掛けた二枚目のちょっとキザなお兄さん的印象は強い。それは一見怖い印象もありつつ、ジムでもナガサキ屋の店舗でも、ジョーク言っての対面販売が好きで、お茶目なエピソードも多い藤本会長なのでした。

現在、コロナウィルス蔓延問題も懸念される時期でもあり、親族の希望もあって通夜・葬儀告別式は親族のみで行われるということで、コロナ問題が落ち着いた頃、藤本会長を偲ぶ会などを予定されている様子です。昭和のキックボクシング同志といった面々が藤本会長を偲び集まることでしょう。

《取材戦記》

私もテレビで藤本会長の沢村忠、富山勝治など多くの選手のセコンドに付く姿を見て来た一人。1981年に上京して後楽園ホールで見た姿もテレビで見た姿と変わらなかった。

そして友達が目黒ジムに入門した縁で目黒ジムを訪問すると、藤本氏の対応が優しく、後のある日、さほどのお付き合いも無いのに中目黒にあるタイ料理店に誘ってしまうも、あっさりOKしてくれて飛鳥信也さんも連れてやって来られました。元木浩二さんの話にもあるように、誘われれば快くお付き合いしてくれたのは誰に対しても対等に向き合う、そんな人柄が皆に愛される親父さんであったことでしょう。

私もそこから次第に目黒ジムとの付き合いも深くなり、テレビで観た藤本さんと知人で居ることの不思議さと、今日まで選手が感じるセコンドのような存在感がありました。それは昔のことの分からないことがあれば藤本さんに聞けばいいという安心感。もう創生期のことは聴けない。また一人偉大な人が逝ってしまいました。御冥福をお祈り致します。

キックボクシング生誕50周年記念パーティーにて。左は御挨拶に立つ藤本会長。右はTBSで実況を務めた石川顕アナウンサーとの再会(2014年8月10日)

藤本会長勇退式で最後のリング登壇となった(2019年12月8日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年6月号 【特集】続「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

◆安倍首相の緊急事態宣言後の経営難……

キックボクシングに限らず、多くの競技が先行き未定の興行中止や延期となり、ジムが自粛休業された所属選手は試合出場を目指して、今は出来る範囲でひたすら身体が鈍らないように自己練習に明け暮れる日々。

自粛休業も、賃貸で経営するジムは家賃・光熱費が大きな負担となってくるので、経営難に陥るジムも出てくることが懸念されています。

昭和50年代後半のキックボクシング低迷期、国内で興行予定が立たない団体と各ジムは、香港でのキックボクシングブームに乗って選手の遠征試合を重ねました。また時代を問わず、選手個人はタイへ修行に出掛け、たとえタイの田舎の無名なリングでも勧められれば臨んで出場していました。でも現在は、タイに入国も労働許可証を持った者のみと制限されている上、どこの国にも遠征することも難しい現状です。

◆原点に返ったストリート練習

選手によっては感染拡大前から危機を感じて地方の実家に帰省する選手もいたようです。 そこでロードワークや近所の公園でダッシュの走り込み等の基礎トレーニングをして、そんな練習風景を見た地元の小中学生が興味を示し、勿論、密集・密接を避けながら一緒に練習に参加して、思わぬコミュニケーションとキックボクシングの知名度アップにも繋がっている話がありました。

首都圏で自粛生活をするしかない選手も大半ですが、選手同士が公園や路地でキックミットを持ち合い、交替で蹴りの練習をするというジム設備を持てなかった時代のような原点に返っている話も聴かせて頂きました。

ストリートジムのイメージ画像(昔の実際の練習風景)(1981年12月27日撮影)

この新型コロナウイルスによる影響により、選手らはまた必ず近いうちに興行が再開されると信じ、ひたすら自分との闘いとなって、諸々の生活事情も重なって心折れて気持ちが引退に傾くか、怪我の回復と筋力アップに力を注ぐチャンスと考えた、何でもプラスに捉えるようにする心の持ち方が、今後の人生に大きく影響していくでしょう。

そんな今、ジムに於いてトレーニングを実践、それを撮影し、インターネット等で一般会員練習生に配信し、テレワーク型指導でトレーニングを促すジムもあるようで、今の時代にあった工夫も活かされているようです。

プロ野球やサッカーも開催が延期されていますが、格闘技においてはタイでよくある王宮前広場での興行のように、屋外で開催されれば密閉だけは避けられるので、屋内より開催され易いかもしれません。プロレスやキックボクシング創生期は、かつて駐車場や空き地を借りての興行も多く、「雲行き怪しい中、客席に席番貼り付ける作業しながら雨降らないこと祈りつつ、何とか乗り切った!」というある会長も居ましたが、そんな時代も懐かしいものです。

無観客となっても外部へ配信も出来る時代(2017年7月2日撮影)※スクリーンはイメージ

◆タイの現状

日本は規制が緩過ぎで感染者が増えている状況に対し、タイは下降線の様子です。
タイは実質軍事政権で、こういう緊急事態の際には統制がしっかり取れて、感染者がタイ全土で1日30人程まで下がり、当初の100人超えた頃から日毎に減っている模様。タイの非常事態宣言は4月30日まで規制が掛かっており、夜間は完全な外出禁止令が発令中、見つかれば逮捕されます。その後の延期は今のところ発表されていない様子(4月20日現在)。

多くのムエタイ選手やトレーナーは、田舎に帰省し農作業して、それが専門誌のFacebookに掲載されたりもしている模様で、山中慎介や佐藤洋太と対戦した元・WBC世界スーパーフライ級チャンピオン.スリヤン・ソー・ルンウィサイや、2年前、梅野源治の挑戦を退けた当時のルンピニー系ライト級チャンピオン.クラーブダム・ソー・ピヤックウタイもその話題の人です。

タイ社会がいろいろと厳しくなり、政府の支援金を受けられず、失望して自殺したというニュースもあるといいます。

タイの王宮前広場での観衆、密集・密接だが密閉だけは避けられている(2000年12月5日撮影)

◆中止・延期と目途が立たない再開見込み

日本は緊急事態宣言が発令され、プロボクシングも5月31日まで興行中止・延期が決定。更に後楽園ホールは政府の緊急事態宣言による要請で5月6日まで休館となり、その間に予定されたイベントは全て中止。

キックボクシング興行は無観客試合も自粛となり、3月末までは強行された興行も、今はどこも開催中止や延期に陥っています。

ジャパンキックボクシング協会は5月10日に後楽園ホールで予定された興行も中止決定。4月24日から、その5月10日枠に延期したREBELSも興行中止決定。

6月に入ると14日に後楽園ホールに於いて予定されるニュージャパンキックボクシング連盟興行、6月20日の日本キックボクシング連盟(NKB)興行、6月21日の市原臨海体育館でのジャパンキックボクシング協会興行等は今のところ、開催予定としていますが、まだ新型コロナウイルス感染影響の下降も終息も見込めないと判断する団体と各プロモーターは多く、今後も政府の要請によって6月以降も影響が出ることが予想されます。終息に2年は掛かるという専門家の話が事実とすれば経済への影響も懸念されるところ、今更遅いですが、タイのような迅速な対応が安倍首相と政府に求められています。

もう少し密接を避ければ開放的で暴動も避けられそう(2000年12月5日撮影)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆首都バンコク、ルンピニースタジアムでは3月6日だけで100人超の感染者!

バンコクでは新型コロナウイルス(COVID-19)による影響で、バンコクとその周辺の県に限り、デパート、ショッピングモールなどの商業施設、スタジアム、スポーツ施設、イベント、パブ、ソープランド、マッサージ店その他、人が集まる場所の開催全面禁止令が発令されました。当初の閉鎖等の実施となったのが3月18日から3月31日まで。その後4月12日まで延期。さらに4月末まで延長されています。他の県は各県知事の判断によります。

3月25日には改めてタイ全土でのスタジアム、スポーツ施設、スポーツ競技会、競馬場、遊技場の開催禁止令と70歳以上の人と5歳以下の子どもの正当な理由なき外出の禁止令が発令されています。外国人の入国も一部の条件を満たしている労働許可所持者など以外は実質入国禁止。

コンビニエンスストアとスーパーマーケットの営業は可能。飲食店は持ち帰りのみで店内での飲食は不可。ムエタイも興行開催やジムのオープンも出来ず、やっていれば違法となり、10万バーツ(約33万円)の罰金か1年以下の禁固刑が決められている模様。

試合の無い選手たちは一例として、野菜を売るなどのアルバイトもしている選手もいるようです。発表されている非常事態宣言の日程や禁止範囲が日々拡大化される可能性もある中、「経済が悪化し犯罪が増える可能性が高くなるのが怖い」と言う現地の声があるようです。

3月6日のルンピニースタジアムでのムエタイ興行で100人あまりの爆発的な感染者を出した中では、MC担当した有名俳優が感染したり、ギャンブラーらの感染が増えたのが公になった為、無観客試合も禁止されてしまいました。

ムエタイジムの昼間の休息時間。これはイメージ画像です

◆お寺にタンブン(寄進)に行く人も減ってはいるものの……

数は減っても通常の托鉢は各地で行われている模様(2003年3月撮影)

タイのお寺では、比丘による通常の托鉢は行われており、お寺に信者さんが集まる徳を積む行為も、一般的に言えば営利目的ではないにせよ、人が集まる場所として禁止令に該当すると考えられますが、お寺にタンブン(寄進)に行く人は減ってはいるものの、やはり敬虔な仏教徒の在家信者さんはお寺と密着した存在で、お寺に行って御布施や寄進をすると考えられ、比丘の食を乞う存在は食糧難に陥ることは無く、そのバランスは保たれていると考えられます。

中には人と比丘も密着を避けるという理由で、タンブンする食品を比丘が持つバーツ(御鉢)めがけて3メートルほど離れたところから投げ渡すとか、食品を棒に括り付けてバーツに入れるとか、離れてサイバーツ(御鉢に寄進)するのをネタにした、ふざけた動画がインターネット上に投稿されているのが出回ってますが、これらはヤラセが多いようです。

◆日本では経営難に陥るジムやプロモーションも出てくる

開場前の後楽園ホール南側

日本でのプロボクシング興行は当初どおり、日本ボクシングコミッションと日本プロボクシング協会の連係決定で、改定を経て4月末までの興行中止か延期が決定(無観客試合は規定条件を満たせば可能)。

プロキックボクシング興行では、元から機能するコミッションは存在せず、国の自粛要請が出ても法的拘束力は無い為、判断は各団体、各プロモーション任せしかありません。自粛ムード高まる中での開催された興行もあり、会場費のキャンセルが出来ない等、主催ジムが経済的に大打撃を受けるので開催せざるを得ないという場合があるようです。中には開催反対意見もあったり、開催希望する意見もある様子で、コロナに対する個人の意識の差があるようです。

会場も建っているだけで日々経費が掛かるもので、キャンセル代無料とはいかない立場でもあり、市や区運営の会場によっては社会情勢を考慮してキャンセル料を取らないという温情もある模様です。長引くほど経営難に陥る各ジム、各プロモーションの生き残りも深刻化していく状況で、終息を祈るばかりの日々は続きます。

自粛状況や興行中止期限は日々変化していくものと考えられますので、各団体等の発表を御確認ください。

後楽園ホールの開場前風景。無観客となるとこんな感じか

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年4月号

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

アメリカの水泳連盟が、東京オリンピックの一年間延期を提言した。すなわち、同連盟はアメリカオリンピック委員会に書簡を送り、「いまとるべき責任ある行動は選手の健康と安全を最優先することだ」「選手たちに具体的な道筋を示し2021年の安全な大会に向け準備させるための解決策だ」として、アメリカオリンピック委員会に声をあげるよう要求したのである。


◎[参考動画]米水泳連盟「東京五輪1年延期すべき」仏水連からも(ANNnewsCH 2020/03/21)

おなじくアメリカのオリンピック・パラリンピック委員会も3月20日、「東京五輪の運命を決めるにはもっと時間が必要」との認識を示し、傘下の主要競技連盟が、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)をめぐる大会の延期を要求している。

代表選手の選出や派遣を担う競技連盟が「大会の1年間延期」を求めたのは、五輪史上初めてとされる。過去にオリンピックが戦争で中止されたことはあっても、4年に一度の定款から、延期がなかったからだ。

すでに2月下旬に、IOC(国際オリンピック委員会)のディック・パウンド委員が、新型コロナウイルスの感染拡大で東京オリンピック中止の可能性に言及している。これに連動してJOC委員からも同調する発言があり、森会長および日本政府は色めき立って発言打消しに奔走したものだ。


◎[参考動画]「とんでもないこと」森会長 五輪延期発言に猛反論(ANNnewsCH 2020/03/11)

3月19日にはIOCのジョン・コーツ調整委員長が英紙「ガーディアン」の質問に応じて、「9月または10月に延期することは可能かどうかの質問に対し「それは可能だ。現時点ではどんな可能性もある」と答えている。

だが、一年間延期については、「それは表面上簡単な提案のように思える。ただ、世界選手権大会はあなた方が話している日付(2021年8月6日から15日)と全く同じであるため、1つ降ろすと言うほど簡単ではない」としている。一年延期したら、五輪が世界選手権とバッティングしてしまうというのだ。

コーツ調整委員長といえば、マラソン開催を東京から札幌に移転させた実力派の委員である。次期会長ともいわれるコーツ委員長の影響力は大きいものがあるという。

JOCでは、ソウル五輪柔道女子銅メダリストの山口香理事が「毎日新聞」の取材に応じ、新型コロナウイルスの感染拡大で開催が懸念されている東京オリンピックについて「アスリートが十分に練習できていない現状では延期すべきだ」とする。さらに山口理事は「延期の議論すらできない空気はおかしい。マラソン・競歩の札幌移転のように、IOCの突然の決定は許されない。判断の時期や条件などオープンに議論すれば、選手や関係者も心の準備ができる」と話したという(3月20日)。

ほかにも、ソチ冬季五輪のアイスホッケー女子でカナダの4連覇に貢献したへーリー・ウィッケンハイザーIOC委員は、東京五輪を予定通り開催することは「無神経で無責任な行為。この危機は五輪よりも深刻だ」と自身のツイッターで非難したという。スペインオリンピック委員会のアレハンドロ・ブランコ会長は、選手が練習もできない状況に追い込まれていることに「最も重要なことは選手たちが練習することができず、不平等な状況にあることだ。このままでは選手を公平に開催地に送ることができない」と延期を希望している。

委員ばかりではない。リオ五輪の陸上女子棒高跳び金メダリストのエカテリニ・ステファニディ(ギリシャ)は「IOCは練習を続けさせることで私たちや家族の健康、公衆衛生を危険にさらしたいの?」と自身のツイッターで怒りを表明している。陸上男子800メートルのガイ・リアマンス(イギリス)も「五輪の成功を望んでいるが、実現するためにはイベントを延期する必要があると強く信じている」と延期を訴えている。

もはや7月開催から秋開催、もしくは一年間延期には流れができてしまい、7月開催の変更が規定事実になったかのようだ。


◎[参考動画]IOC会長「異なるシナリオも」五輪延期を示唆?(ANNnewsCH 2020/03/20)

◆中止を誰が決めるのか?

もともとアメリカ3大放送ネットワークが、秋の大リーグプレイオフやアメリカンフットボール、バスケットボールなどの人気スポーツ番組とのバッティングを避けて、メインスポンサーの立場から強要してきた夏五輪の7月開催である。昨年7月の猛暑を体験しているわれわれ日本人には、最初から到底信じられない日程だった。

前出のパウンド委員は「(コロナウイルスの)事態が終息しなければ、東京オリンピックの中止を検討するだろう」と、5月までの判断が必要だと語っている。米3大ネットワーク(スポンサー)の了解がなければ、延期ではなく中止が濃厚と観測されているのだ。一年延期の現実性のなさは、コーツ調整委員長が言うとおり世界選手権とのバッティングに明らかだ。

それでは誰がいつ、中止の決断をするのだろうか? 結論から言えば、このままズルズルと決断できないまま、5月末に至って「中止」が発表されるのではないだろうか。それはIOC単独の決断ということになるだろうと、わたしは思う。なぜならば、わが安倍総理に五輪経済にしぼってきた「国運」を左右し、国際的な責任も問われる開催中止の「決断」は、ほぼ無理だろうと思うからだ。

そして最も懸念されるのは、コロナウイルスの終息がままならない状態で、7月開催になだれ込んでしまうことだ。IOCがJOCおよび日本政府、東京都に判断をゆだねた場合、その怖れは非常に高くなるはずだ。責任の所在が混在化し、責任を取りたくない政治家およびJOC委員たちの資質から考えて、この可能性は残念ながら高い。

そのさいは、各国から歯が欠けたように選手が派遣されないまま、感染覚悟の日本選手団とわが国民、そしていくばくかの海外選手の参加による空洞五輪として、オリンピック史上に「燦然とかがやく」ことになるのではないか。いや、参加することに意義があるのだから、それもいいかもしれない。このさい観客抜き(観客抜きはない、と安倍総理は明言しているが)でも選手抜きでも、五輪大会開催を祝おうではありませんか。


◎[参考動画]「Rio to Tokyo」Rio Olympic(HISTORY CHANNEL 2016/09/30)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

いまこそタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年4月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

首相・安倍晋三が「福島第一原発事故の汚染水の影響は、完全にコントロールされており、健康への心配は、現在も未来もまったくない」と福島県で被災されている皆さん(あるいは原発事故による様々な疾病に苦しむ方や、事故を苦に自死され方々)を無視・冒涜する許されざる虚構の演説で招致にこぎつけた、「金の亡者の祭典」こと「東京五輪」開催が事実上不可能になった。


◎[参考動画]安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(2013/09/08)


◎[参考動画]滝川クリステルさんのプレゼンテーション IOC総会(2013/09/08)

その理由はあらためて述べるまでなく、新型コロナウイルスの感染を、政権の無策で抑えることができず、日本が世界有数の感染拡大国になってしまったことが、直接の理由である。きょう現在五輪実施委員会やIOC、日本政府のいずれもが「東京五輪中止」を宣言してはいないが、国内での大規模イベントは軒並み中止か延期。海外からの渡航客も激減。2019年10-12月期の実質GDP成長率は前期比年率-6.3%と大幅に落ち込み、特に10月の家計消費は-11.5%とリーマンショック直後の2008年10-12月期を上回る減少と政府発表の統計は示している。

企業は在宅勤務を増加させ、大学の多くは入学式の取りやめを決定し、新年度の授業開始時期すら決まっていない。3・11から10年目に入り、原発再稼働やカジノ解禁、改憲など、よこしまなことばかりを画策していた、極悪政権とマスコミ誘導があるとはいえ、極悪政権に高い支持率を与え続けてきた国民に対する、「2011年3月11日をしっかり想起せよ」との天啓が下ったのだ。

否、それだけではなく、世界を覆いつくした「経済成長至上主義」の責任なき暴走にストップがかけられたと、見ることもできよう。戦々恐々として大マスコミは報じないが、「世界の工場」と呼ばれた中国は大打撃を受け、今年の成長率は実質4%台に落ち込むとの予想も聞かれはじめた。米国をはじめ株高で浮かれていた国々でも、すでに猛烈な暴落、乱高下がはじまっている。パンデミックだけではなく、大恐慌がやってくることは明らかだ。

そんな時世のなかで、客観的な情勢として「五輪」などに時間や人員を割き、楽しんでいる余裕などないことには、さすがに少なくない皆さんが、肌で感じておられることだろう。


◎[参考動画]東京五輪中止なら経済損失7.8兆円 大手証券が試算(2020/03/07)

3月8日東京五輪の選考を兼ねて、名古屋ウイミンズマラソンがおこなわれていた。わたしは「東京五輪反対」ばかりを主張しているが、けっしてスポーツが嫌いなわけではない。むしろマニアックな競技も含めてスポーツ観戦は趣味の域きに入るだろう。一山麻緒選手の激走は感動的だった。22歳で20分台をあのコンデションで出すとは!しかし、アナウンサーが「東京への最後の切符をかけて」と連呼するたびに複雑な気持ちになった。

「金の亡者」が欲得ずくで行う競技会であっても、選手は出場したいことだろう。

各種競技で「五輪出場選手が決まる」、との報道を目にするにつけ、可哀そうに思えて仕方がない。しかし、彼らとて立派なアスリートであれば、それなりの人格と知性を持ち得るはずだ。何度も繰り返すように「東京五輪」が福島を中心とする原発事故被害の隠蔽のために画策され、それに思慮のない人や「ここでまた一山いけるで!」と計算高い企業群が、欺瞞に満ちたきれいごとをならべ、いまも苦しんでいる人たちの、生活や気持ちを「なきものにしよう」と企み計画されたのが「東京五輪」の本質であることくらい理解できなければ、一流のアスリートではない。

スポーツは素晴らしい。けれども、スポーツをおこなうには、危険のない(健康上・安全上)諸条件と、それを楽しむことができるアスリートと観客が必要だろう。この夏、日本にはその両方の要素がないのだ。

「東京五輪中止」は既に内々では決定されているだろう。だが、誰も発表しないので、わたしが断定的にお伝えする。どう考えてもこの夏東京での五輪開催は不可能だ。IOCや実行委員会は金勘定に頭を悩ましているだろうが、WHOが「気温が上昇したたからといって収束するわけではない」と発表し、日本に渡航を禁止する国が日々増加しているのだ。

そんなことよりも、可及的速やかに混乱を最小化させる手立てに集中するのが政権の仕事だろう(混乱に乗じて憲法に「緊急事態条項」を書き混むなどといった、言語道断の議論を国会でしている場合か)。安倍や自公政権には何も期待しない。唯一の期待は「早く退場してくれ」だけだ。


◎[参考動画]「緊急事態宣言」可能に 法改正(2020/03/05)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故

『NO NUKES voice』Vol.23
紙の爆弾2020年4月号増刊
2020年3月11日発行
定価680円(本体618円+税)A5判/132ページ

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総力特集 〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故
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[グラビア]福島原発被災地・沈黙の重さ(飛田晋秀さん

[インタビュー]菅 直人さん(元内閣総理大臣)
東電福島第一原発事故から九年の今、伝えたいこと

[インタビュー]飛田晋秀さん(福島県三春町在住写真家)
汚染されているから帰れない それが「福島の現実」

[報告]横山茂彦さん(編集者・著述業)
元東電「炉心屋」木村俊雄さんが語る〈福島ドライアウト〉の真相

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
車両整備士、猪狩忠昭さんの突然死から見えてくる
原発収束作業現場の〈尊厳なき過酷労働〉

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈7〉
事故発生から九年を迎える今の、事故原発と避難者の状況

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
奪われ、裏切られ、切り捨てられてきた原発事故被害者の九年間

[対談]四方田犬彦さん(比較文学者・映画史家)×板坂 剛さん(作家・舞踊家)
大衆のための反原発 ──
失われたカウンター・カルチャーをもとめて

[報告]本間 龍さん(著述家)
原発プロパガンダとは何か〈18〉
明らかになる福島リスコミの実態と功罪

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎副代表)
「特定重大事故等対処施設」とは何か

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
停滞する運動を超えて行く方向は何処に

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈7〉記憶と忘却の功罪(後編)   

[報告]佐藤雅彦さん(翻訳家)
5G=第5世代の放射線被曝の脅威

[報告]渡辺寿子さん(核開発に反対する会/たんぽぽ舎ボランティア)
「日本核武装」計画 米中対立の水面下で進む〈危険な話〉

[読者投稿]大今 歩さん(農業・高校講師)
原発廃絶に「自然エネ発電」は必要か──吉原毅氏(原自連会長)に反論する  

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
老朽原発を止めよう! 関西電力の原発と東海第二原発・他
「特重」のない原発を即時止めよう! 止めさせよう!

《関電包囲》木原壯林さん(若狭の原発を考える会)
「5・17老朽原発うごかすな!大集会inおおさか」に総結集し、
老朽原発廃炉を勝ち取り、原発のない、人の命と尊厳が大切にされる社会を実現しよう!

《規制委》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
1・24院内ヒアリング集会が示す原子力規制委員会の再稼働推進
女川審査は回答拒否、特重は矛盾だらけ、新検査制度で定期点検期間短縮?

《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎・再稼働阻止全国ネットワーク)
原発の現局面と私たちの課題・方向

《北海道・泊原発》佐藤英行さん(岩内原発問題研究会)
北海道電力泊原子力発電所はトラブル続き

《東北電力・女川原発》笹氣詳子さん(みやぎ脱原発・風の会)
復興に原発はいらない、真の豊かさを求めて
被災した女川原発の再稼働を許さない、宮城の動き

《東電・柏崎刈羽原発》矢部忠夫さん(柏崎刈羽原発反対地元三団体共同代表)
柏崎刈羽原発再稼働は阻止できる

《関電・高浜原発》青山晴江さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
関西のリレーデモに参加して

《四国電力・伊方原発》名出真一さん(伊方から原発をなくす会)
三月二〇日伊方町伊方原発動かすな!現地集会 
レッドウイングパークからデモ行進。その後を行います。圧倒的結集をお願いいたします。

《九州電力・川内原発》けしば誠一さん(反原発自治体議員・市民連盟事務局次長/杉並区議会議員)
原発マネー不正追及、三月~五月川内原発・八月~一〇月高浜原発が停止
二〇二〇年は原発停止→老朽原発廃炉に向かう契機に!

《北陸電力・志賀原発》藤岡彰弘さん(命のネットワーク)
混迷続く「廃炉への道」 志賀原発を巡る近況報告

《読書案内》天野惠一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
『オリンピックの終わりの始まり』(谷口源太郎・コモンズ)

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

2月26日、安倍首相が「今後2週間はスポーツや文化に関するイベントの開催について中止・延期などの対応をとるよう要請した。」という発表がありました。

プロボクシングは、日本ボクシングコミッションと管轄下の日本プロボクシング協会が2月26日、いち早く日本全国で行われる3月興行全てが中止か延期と発表しました。

プロボクシングを含む多くの興行が中止となった後楽園ホールのリング

伊原代表のマイク投げも今回は見られない

3月に予定されていたプロボクシング興行は全国で15興行。4月以降の興行は、政府の要請やコロナウイルス感染拡大の影響を鑑みて判断する模様です。

大相撲春場所も前々から対策を発表していましたが、本場所そのものの延期は難しいので(過去、1日順延有り/昭和天皇崩御)、無観客での開催や中止も考えられた中、日本相撲協会は3月1日、春場所の無観客開催を決定しました。

政府発表の翌日2月27日、3月興行を予定される一部のキックボクシング各団体興行、フリーのプロモーター興行は中止・延期の発表がありました。

キックボクシングは統一管轄機関(コミッション)が無いので各団体等の協議次第ですが、中止・延期の発表とともに、3月初頭開催の直前中止が難しいもの、下旬に大会場での強行を予定している興行もあり、一斉に自粛要請ができない、または発表にバラつきが出るのはこんな時、コミッションが無いのは不便なものです。

鹿砦社通信で掲載予定の二つの興行は、2月27日に主催者より中止、または延期が発表されています。

・3月8日(日)後楽園ホールでの新日本キックボクシング協会主催、REBELSとの合同興行「TITANS×REBELS.1st」

3月8日予定、新日本キックボクシング協会「TITANS×REBELS」は延期の発表

アリス(左)とオンドラムの二人も出場予定だった「TITANS×REBELS」

・3月15日(日)後楽園ホールでのジャパンキックボクシング協会主催「KICK Insist.10」

3月15日予定、ジャパンキックボクシング協会「KICK Insist.10」は中止を発表

その他も中止の発表をされている団体興行やフリーの単独興行があります。

チケットに関して、「後楽園ホール窓口にてチケットをご購入された方は、3月1日(日)から3月31日(火)まで、後楽園ホール窓口にて払い戻しのご対応を致します。」という発表です。 その他、購入先での発表を御確認願います。

2月29日(土)に後楽園ホールで行われましたREBELS.64について、以下の対応を行なった模様です。

3月8日のメインイベンターは重森陽太だった(撮影:伊原プロモーション)

前日計量の一般公開中止、サイン会の中止、 会場入口付近に消毒剤の設置、 スタッフのマスク着用、 全ての来場者に手洗い・アルコール消毒・うがいの励行・マスクの着用などの徹底。今後の開催される興行についてもこのような対策が強いられることでしょう。

中止となった興行のカードは今後の予定されている興行に順延され、選手、ジム側の先のスケジュールの都合によって消滅カードもあるかもしれないのは仕方無いところ。

「TITANS×REBELS.1st」という対抗戦の延期は次回以降の興行に組み込むか、または時期をずらした新たな日程を組んだ上での興行開催も検討されることでしょう。

自然災害はいつ起こるか分からないものの、問題は会場費、売り捌かれたチケットの払い戻し、パンフレット・ポスターの製作費などとそれらの人件費があります。

保険で賄える範疇が判別し難いところがありますが、悪天候、交通機関の事故による開催不能は対象となり、地震や戦争など被害の規模がどこまで及ぶか予測が難しい場合や、新型ウイルスの蔓延防止による中止は対象とならないようですが、保険会社によって対応が異なるようで、今後の災害時に向けた対策が急がれるところでしょう。

昨年10月の台風19号による日本キックボクシング連盟の興行中止がありましたが、対戦カードは後々の興行に組み込まれたり消滅したカードがありました。PRIMA GOLD杯トーナメント戦も準決勝後の期間が大きく空いてしまう影響が出ましたが、後の興行で決勝戦を開催し、無事終了を迎えています。このコロナウイルス影響が長引くと続けて興行中止に繋がるので、あらゆるスポーツ、文化イベントは終息を祈るばかりでしょう。

以上は3月1日時点の状況です。今後の中止・延期、または無観客開催などの発表には各主催者発表を御確認ください。

「TITANS×REBELS」記者会見で意気込みを語ったばかりの選手たち(2月22日/撮影:伊原プロモーション)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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3月1日に実施された、「東京マラソン」で、大迫傑選手が4位ながら2時間5分29秒(速報値)の日本新記録を打ち立てた。一般参加者から参加費を徴収しておきながら「新型コロナウイルス」のため参加を断り「来年の出場権を約束しますから、返金はしません」と無茶苦茶なぼったくりで、顰蹙を買った大会運営も、さらなる「新型コロナウイルス」に関する騒ぎの拡大と、日本新記録により希釈され、大会実行委員会は留飲を下げていることだろう。


◎[参考動画]3月1日 東京マラソン2020~Tokyo Marathon 2020~兼 マラソングランドチャンピオンシップファイナルチャレンジ ~東京2020オリンピック日本代表選手選考競

日本人の2時間5分台は立派な記録である。けれども、参考記録ながら世界は既に2時間を切るところまでマラソンは高速化している。どのくらい早いかをわかりやすく示してみよう。マラソンは42.195キロだから時速20キロで走っても2時間は切れない。時速20キロは平たんな道で自転車をスムースに漕ぐようなスピードだ。

常日頃トレーニングされているかたは別にして、一度時速20キロの世界を安全な場所で経験されることをお勧めする。とんでもなく早く、これを2時間続けるのは人間業とは思えないことを、体感していただけると思う。

そして、余分な話かもしれないが、大迫選手は日本新記録を出したので、賞金1億円を手にした。それくらいの価値はあるだろう。が、他方わたしのあたまには、まだ、マラソンが純粋なアマチュア競技であった時代の、偉大な選手の声が残っている。宗兄弟は瀬古利彦と同じ時期に活躍した双子のランナーだった。ある取材で宗兄弟のどちらだったか忘れたが「ゴルフがあんなに楽をして何千万円ももらえるんだったら、僕たちは2時間以上苦しんでいるんだから正直1億円位ほしいですよ」と本音を吐露した。

生まれた時代が違えば宗も億万長者になれていたかもしれないなぁ。ちょっとかわいそうに思える。宗兄弟や瀬古、伊藤国光が活躍していた時代、日本の男子マラソンは世界レベルにあった。調整さえ間違わなければ五輪でメダル獲得も夢ではなかった。1984年8月のロス・アンジェルス五輪では二人とも完走し、猛は4位入賞を果たした。瀬古は時差を無視した直前の現地入りにより、調整失敗で活躍できなかった。


◎[参考動画]1984 LA OLYMPIC MARATHON


◎[参考動画]ロサンゼルスオリンピック男子マラソン後インタビュー

大迫選手の奮闘には拍手を送りたいが、残念ながらあと4分近く世界とは差が開いている。

そして、日本新記録樹立に「東京五輪近づく」のクレジットが目に入るが、「東京五輪」強行は、恐るべき惨状と背中合わせであることを、読者諸氏にはご理解いただけるだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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