菅辞任か解散強行か、と風評おびただしかった政治日程が決まった。自民党の総裁選挙9月17日告示、29日投開票である。

横浜市長選挙の敗北で死に体と見られていた菅総理が、開き直った再選出馬となった。25日には菅総理が党本部を訪れ、二階幹事長・林幹雄幹事長代理と約30分にわたって面会。公然と密談することで、自分たちが政局を仕切るのを行動でしめしたかたちだ。

◎[参考記事]「五輪強行開催後に始まる「ポスト菅」政局 ── 二階俊博が仕掛ける大連立政権」(2021年7月21日)

◆難航する野党共闘

総裁選挙を前に持ってきたことによって、総選挙(衆院選挙)の日程もかなり長いタームを含むことになる。社民党の関係者と懇談する機会があったので、以下に国会内の見通しをまとめておこう。

総裁選挙後の臨時国会で、首班指名となる。懸案のコロナ対策立法ののちに解散総選挙となり、その日程は最長でギリギリ11月までずれ込むものと考えられる。これは菅の再選、新総裁の場合も考えられる日程であろう。総裁選敗北で政権交代の危機も考えられる自民党にとって、失地回復の時間的猶予を確保したことになる。

もうひとつ、巷では台風の目になるかもしれない「小池新党」だが、国民民主との提携が現実的であるという。もともと、希望の党として一体化していた関係である。その国民民主の存在が、共産党との関係で野党共闘のネックになっている。社民党関係者によると、いまだ60か所以上の小選挙区で候補調整が遅れているというのだ。連合が嫌う原発反対、そして共産党への反発である。これに代わるかたちで、市民連合や文化人を看板にした選挙対策が練られているという。

このかんの選挙でわかるように、圧倒的な多数派である無党派層の選択肢になる野党共闘候補が実現しなければ、国民の20%に満たない自民党支持で一強政治が継続してしまうのだ。

◆あいかわらずの菅答弁

それにしても、わが菅総理のボロボロ、トホホな発言はあいかわらずだ。言い間違いをあげつらいたくはないが、一国の宰相の発言である。記者会見から拾ってみよう。

「タリバンの首都、カブール…」(※正しくは「アフガニスタンの首都」)。

「カニ政権は機能しなくなり……今後の情熱は、依然として不透明であります」
(※正しくは「ガニ―政権」)。

「感染拡大を最優先にしながら…」(※「感染拡大防止を、」のつもりであろう)。

◆総裁選展望

ふたたび自民党の派閥構成の概要である。(★は総裁選出馬)

派閥名       国会議員数    総理・総裁候補者
細田派(清話会)  96人       ★下村博文
麻生派(志公会)  55人       河野太郎
竹下派(平成研)  52人       加藤勝信、茂木敏充
岸田派(宏池会)  47人       ★岸田文雄
 谷垣グループ   23人(重複含む) 
二階派(志帥会)  47人       林幹雄、※党外[小池百合子]
菅派(ガネーシャ) 26人       ★菅義偉
石破派(水月会)  17人       石破茂※この時期の総裁選挙に批判的
石原派(未来研)  10人       石原伸晃※菅続投支持
無派閥       63人       ★高市早苗(細田派系)、野田聖子(二階派系)

現在のところ、★印が総裁選出馬宣言をしている。

このうち、有望株とみられていた河野太郎が出馬するのかどうか。出馬しないのはワクチン相ほかに抜擢してくれた菅への配慮ではないかとされているが、その動静が注目される。

去年から再出馬の岸田文雄は、じつはあとがない。参院から総選挙(山口三区で河村建夫と争う)で衆院に転じる林芳正が、宏池会の後継者となるからだ。今回を逃がせば、岸田が総理大臣になる可能性はなくなる。まさに背水の陣である。

昨年の総裁選で敗れたあとは、何となく一皮むけたような雰囲気もあり、出馬にあたっての政策では、経済再生のための「所得分配」問題にも発言がおよんでいた。よりましな選択としては、岸田の健闘に期待してもいいかもしれない。

そして下村博文の出馬である。よりにもよって、嫌いな人物が総裁選への出馬を宣言した。


◎[参考動画]総裁選に向け動き加速(テレ東BIZ 2021年8月27日)

じつは自民党の政治家だから嫌いだとか、そういうものはわたしの場合は、ないつもりだ。そしてこの通信で、個人的な好き嫌いや個人的な感情を顕わにするのを、なるべく避けてきた。

個人的な感情で論評・報道してしまうと、その批判の公共性が失われるからだ。さまざまな考え方があるし、個人エッセイ的に心情を吐露する人がいても悪くはないと思うが、ウエブマガジンも「社会的公器」である。そこを逸脱して、個人の感情で批評してしまえば、公共のネットを私物化することになる。したがって「わたしは」ではなく「われわれは」という視点を、ある意味では勝手に世論を代表するかたちで押し出すことにもなる。だがそこで、個人的感情を公的な視点によって抑制するのである。

だが、今回は感情的なものを抑えるのはむつかしい。嫌いなのである。下村博文という政治家が(苦笑)。

ほかにも、公明党代表の山口那津男の優等生的な風貌も嫌いだったが、実際には社民党の福島瑞穂なみの平和観の持主で高潔、非常に聡明な人物だと知って、その嫌悪感はなくなった。しかし、下村博文は安倍晋三以上の極右政治家である。この男だけは、総理大臣にしてはならないと思う。

もうひとり、高市早苗が先駆けて出馬宣言している。

「総裁選に出馬します!――力強く安定した内閣を作るには、自民党員と国民からの信任が必要だ。私の『日本経済強靭化計画』」(文藝春秋9月号)。

安倍元総理に再出馬をもとめたところ、拒否されたのでみずから出馬したという。じつは自民党内にも「女性宰相待望論」があり、単なる当て馬・咬ませ犬とするには惜しい。下村博文とちがって政策要領もあるので、彼女については稿をあたらめて批評したい。

◆戦況はどうか?

それでは、総裁選挙の戦況はどうなのだろう。というよりも、菅の再選はあるのか。今回は地方党員の投票が反映される、フルスペックの総裁選挙である。

2012年の総裁選では、石破茂・安倍晋三・石原伸晃・町村信孝・林芳正が出馬し、石破茂が199票で安倍晋三(141票)に差をつけるも、過半数の獲得にはいたらず国会議員による決選投票となった。

ここでは派閥の論理が優先し、安倍が108票、石破89票となり、地方党員の意志が封じられた格好になった。今回、地方の自民党で圧倒的な人気をほこる石破茂は出馬せず、二番手人気の河野太郎も不出馬の可能性が高い。

したがって、菅義偉と岸田文雄の事実上の一騎打ちは、地方票の獲得率によって流れが決まる。

問題なのは、もしも岸田が地方票で多数を獲得し、しかし2012年のように決選投票となって派閥力学で菅が再選された場合である。自民党は民意を反映しない、ひとにぎりの幹部たちの思わくで政治を動かす。国民の一部とはいえ、地方党員の意志を踏みにじった結果、総選挙がどのようなものになるか。もはや火を見るよりも明らかであろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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8月27日、午前11時半、東京地裁前に「勝訴!」「捜査の違法を認める!」の旗が掲げられ、大きな歓声がわき起こった。この日、東京高裁(村上正敏裁判長は)、1967年、茨城県でおきた強盗殺人事件(布川事件)の冤罪被害者・桜井昌司さんの国賠訴訟控訴審で、一審勝訴判決と同水準の賠償を命じる判決を言い渡した。

この裁判は、布川事件の犯人にされ、無期懲役判決が下され、29年間獄中につながれてきた桜井さんが、2011年再審無罪を勝ちとったのちも、警察、検察に謝罪されず、「犯人視」され続けたため起こした裁判であった。高裁判決は、一審判決をさらに踏み込んで警察、検察の違法性を認定した、完全勝訴判決となった。

布川国賠控訴審で「完全勝訴」! 捜査の違法を認める!

東京高裁前で、判決前にアピールする桜井昌司さん

◆一審判決の意義

この事件では、自白以外に証拠がなかったため、警察、検察もなんとか桜井さんらの自白を取ろうと必死になって、捜査や取り調べで数々の違法行為を行ってきた。2019年5月30日、一審の東京地裁(市原義孝裁判長)は、警察、検察の捜査や取り調べに違法行為があったとして、国と茨城県に計7600万円余りの賠償を命じた。一審判決以上に詳しく、警察、検察の捜査や取り調べの違法性を認定したものだった。

一審判決は、警察が、事件発生時、桜井さんが兄のアパートにいたとのアリバイを述べたのに、「兄が否定している」とか、現場で桜井さんらを見たと供述した人はいないのに、見たと証言する人が存在するなどと嘘をいい、桜井さんを自白に追い込んだことを違法とした。

また検察は、事件当日、被害者宅の周辺で、桜井さんらを目撃したなどと証言した4人の捜査報告書などの開示を拒み、桜井さんの無実を示す証拠を開示しなかったことで、裁判所の誤った有罪判決を導いたとした。特に「公益の代表者」である検察官に対して、事件を解明し、真相を明らかにする職責があり、重要な証拠は有利不利を問わずに、法廷に提出する義務を負うと指摘したこと、特に弁護側から具体的な証拠開示の申し立てがあった場合は、合理的な理由がない限り、応じなければならないと述べたことは、非常に重大な意義をもつものだった。

桜井さん側は、当初、控訴しない予定だったが、検察が判決を不服として控訴したため、認定の一部を不服として付帯控訴し、東京高裁で控訴審が争われていた。

支援者の声援に見送られ入廷する桜井さん

仮釈放後結婚し、桜井さんを支えてきた奥様の恵子さん

◆さらに踏み込んだ高裁判決

午前11時の判決言い渡しに先立って、高裁前で宣伝活動が行われ、桜井さんがアピールを行った。

「日本の社会が酷くて、安倍晋三みたいなのが堂々と政治をやっている。コロナ対策もまともにやれない。やっぱりそれもこれも含めて、日本の司法が歪んでいることが全てだと思っています。警察も検察の方も真面目に仕事しているということを私は確信しているし、疑ったこともありません。でも残念ながら、日本の警察、検察は平然と公然と力におもね、白を黒とする組織です。警察という仕事はいつも人を疑うために、人間として歪んだ人たちの組織だと、私たち冤罪被害者は確信しています。警察官は人を信用しなくなり、正義を行いたいという過剰な思いと共に、無実の人に嘘の自白をさせてしまう。それが多くの冤罪の原因です。(中略)日本の警察というのは、適正に捜査をして、冤罪を作る組織なんです。そろそろ社会の皆さんが、この事実に気付いてほしいと思います。幸い私の事件は再審が勝って、国賠も一審で認められ、今日東京高裁でも認められることを100%確信しています。」
 
裁判の冒頭、村上正敏裁判長は、判決期日が延期になったことを丁寧に詫びられた。そして非常にわかりやすく書かれた判決要旨を読み上げた。「まるで誰かの作文のよう」と考えながら聞いていたが、判決後の報告集会で、弁護団から「桜井さんや私たちがずっと言い続けてきたことだ」と述べられた。そう、桜井さんが何度も獄中ノートに書き連ね、警察、検察に何度も話したアリバイなどの話だ。だからか、判決要旨を聞きながら、何度も「うんうん」とうなづき、ときおり天井を見上げる桜井さんがいた。

判決要旨の一部を紹介する。

「早瀬警察官は10月13日から3日間、被控訴人(桜井さん)に対し、長時間にわたって本件強盗殺人事件に関わる取り調べを行い、厳しく追及した。その間、被控訴人及び杉山を被害者方付近で目撃した者がいるとの虚偽の事実を告げ、また本件犯行があったとされる8月28日には杉山と一緒にいた光明荘(桜井さんのお兄さんのアパート)に宿泊したかもしれないと被控訴人が供述したのに対し、賢司(桜井さんのお兄さん)に確認していないにもかかわらず、賢司がその日は泊まっていないと言っている旨を述べ、同月15日には、やったことは仕方がないから早く素直に話せと母親が言っている旨のねつ造した話をし、同日行われたポリグラフ検査の結果、被控訴人の供述は全て嘘であると判明したとの虚偽の内容を伝え、手だてもないのに被控訴人の意向に従って新聞報道されないようにすると述べるなどした。そして、同日、被控訴人は、ポリグラフ検査後の取り調べ再開からわずか約1時間後、本件犯行を自白した」。(判決要旨より)

早瀬警察官は、このように虚偽の事実を次々と突き付け、桜井さんに心理的動揺を与えた。とくにポリグラフについて、一般的に科学的で検査結果には極めて高度の信頼性があるかのごとき印象を与え、まだ20歳で社会的経験の乏しい桜井さんに、非常に強い心理的動揺を与えたとした。

桜井さんはその後、有元検事にアリバイを主張したが、その後再び早瀬警察官の取り調べを受け再度自白に追い込まれた。そして有元検事と交代した吉田検事が、桜井さんが兄のアパートにいた際、窓から隣の部屋に入り缶詰を盗んだと説明したことに対して、以下のような嘘をつき、桜井さんを更に窮地に追い込んだ。

「自分も東京から通っており、光明荘と向かいのアパートをみてきたが、とても向かいのアパートに渡ることはできないと虚偽の事実を述べ、(実際には渡ることは可能であった)、控訴人のいうことは信じられないと告げ、被控訴人の主張するアリバイを調書に記載することもせず、否認しても裁判官は信じないだろうとも述べた。また、吉田検察官は、杉山に対して、公開の法廷で裁判官及び弁護人等の同席する場所においてさえ、後記のとおり高圧的な態度を示していたこと等に照らすと、被控訴人に対する取り調べについても、相当に高圧的であったものと推認できる」(判決要旨より)。

判決後の報告集会での桜井さん

13時から日比谷図書文化会館地下ホールで「報告集会」が行われ、弁護団お一人お一人の挨拶、続いて布川裁判を支えてきた奥様の恵子さん、「獄友」で国賠を闘う青木恵子さん、西山美香さん、日本国民救援会副会長伊賀カズミさんが挨拶を行った。最後に桜井さんのお話を。

「皆さん本当にありがとうございました。今まで何度も判決を聞いたが、今日の判決ほど、胸がすく判決はありませんでした。私と杉山が、54年前に警察や検察に何度も訴えた事実をそのまますっと認めてもらえた。聞いていて心安らかになった判決でした。途中で何度も涙がでそうになりました。当たり前のことが当たり前に認められるまで、54年かかるという……。何故こんなに嘘が当たり前のように報道されたりする、酷い国家なのか。こんなことがどこから生じるか? やっぱり検察庁のゆがみとしか思えません。平然と過ちを犯しても、謝りがない、54年間、無駄な労力を使う国家とは何か? しかも税金を使う。(裁判で)勝つのは嬉しいが,勝っても検察官の懐が痛むんですか? 何も影響はない。これは何なのか、勝手も怒りがわいてくる。やっぱり私たちは、どこかでこの過ちを正せるような国にしなくてはいけない、生意気ですが改めてそう思いました。ご存知のように私は2年ほど前に癌を発症し、医師からは見放されました。本当は死んでいるはずですが、なぜかどんどん元気になっています(拍手)。冤罪をつくる警察、検察も、どこかおかしいと思っているはずなので、私は生かされる限り、誰もが冤罪をうけないようなシステムを作るために、これからも、皆さんと共に頑張っていきたいと思っています。ありがとうございました」(拍手)。

判決後の報告集会

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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◆暴露小説の衝撃

1963年(昭和38年)のことである。雑誌『平凡』に掲載された小山いと子のノンフィクション小説「美智子さま」に対して、宮内庁が「事実に反する」として猛抗議する事件があった。けっきょく、この小説は掲載差し止めとなった。

この「猛抗議」は、初夜のことを暴露された美智子妃の「怒り」によるものと解釈されているが、そうではないだろう。

問題となったのは、秩父宮妃(勢津子)、高松宮妃(喜久子)が、美智子妃に好意を持っていない、というくだりだった。また、美智子妃が結婚報告で伊勢神宮に行かれた時、祭主の北白川房子さんが美智子さまに「敵意と侮蔑を含んだ絶望的な冷たい顔をした」という箇所である。

これらは周知のものであって、事実であったからこそ宮内庁官僚の怒りに触れたのである。そしてそのソースの出所が、口の軽い東宮侍従だったことから、内部粛清の意味合いもあった。

入江相政日記から引いておこう。婚約段階のことで、すでにこの連載でも触れてきた。

「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんというようなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃勢津子)と喜久君様(高松宮妃喜久子)を招んでお訴えになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子(勢津子の母)という顔ぶれで田島さん(道治・前宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいわれた由。」

「御婚儀の馬車について良子皇后のときは馬4頭だったのに、美智子さまのときには馬6頭にすることに、良子皇后は不満を表明された」と記録されている(1959年3月12日)。

昭和天皇の意向もあって、美智子妃の入内は滞りなく行なわれたものの、実家の正田家へのバッシング、一連の儀式での謀略(前回掲載)は目を覆うものがあった。その発信源は皇后良子および、それに追随する宮中女官、昭和天皇の侍従たちであった。

とりわけ皇后良子においては、気に入らない嫁であれば、おのずと態度にも顕われようというものだ。ふたたび入江日記から引用しよう。

「美智子妃殿下に拝謁。終りに皇后さまは一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか等、おたずね。」(『入江相政日記』1967年11月13日)

これは侍従長をつうじて、天皇皇后に美智子妃が態度を表明したものにほかならない。昭和天皇への直訴にも近いものだ。平民だからというだけではない。

婚約時から成婚後も終わらない。美智子妃の国民的な人気こそが、皇后良子には気に入らない最大のものだったのである。

常磐会(女子学習院OG会)の関係者によると、写真集を出すなど。皇室にはふさわしからぬ振る舞いが皇后の怒りを招いていたという。

その証言によると、皇后が美智子妃にむかって「皇族は芸能人ではありません!」と、直接叱りつけたこともあったという。

そのとき、美智子妃はムッとした表情のまま、しかし聞く耳をもたなかったとされている。そして美智子妃は返すように、良子皇后の還暦の祝いを欠席したというのだ。かなりの嫁姑バトルだ。

『写真集 美智子さま 和の着こなし』(2016年週刊朝日編集部)

◆ミッチーブーム

そもそも皇族のアイドル化路線は、昭和天皇が敷いたものだった。男子を手元で育てる、ネオファミリーの先取りともいうべき核家族路線は、明仁皇太子が昭和天皇から示唆されたものと言われている。

だが、それもこれも平民出身皇太子妃美智子がいなけれな、始まらないものだったのである。一般国民にとって、旧皇族出身や旧華族出身の妃殿下では距離が大きすぎる。

選りすぐれば、ある意味でどこにでもいる才媛で、誰もがみとめる美女。そして旧皇族や旧華族いじょうの気品と気配り、やさしさを感じさせる女性。そんな女性皇族を国民に親しませてアイドル化する。それが美智子妃だったのだ。思いがけなくも、美智子妃は国民的な「ミッチーブーム」を引き起こす。

皇室の私生活をメディアが報じるようになったのは、映像ではTBSの「皇室アルバム」(1959年~)を嚆矢とする。

50年以上の長寿番組であり、フジテレビの「皇室ご一家」(1979年~)、日本テレビの「皇室日記」(1996年~)は、その後追い番組だが、後追い番組が定着したことこそ、このコンテンツが象徴天皇制に見事にフィットするものである証左だ。戦前は、一般国民が「天皇陛下の御姿を拝し奉る」ことすら出来なかったのだから。
この番組が始まる契機は、まさにミッチーブームだった。番組の制作は各局の宮内庁担当だったが、当初は手探りの状態で、皇族が一人も登場しない回もあった。

やがてレギュラー番組化するなかで、宮内庁の職員(侍従職内舎人ら)も関与するところとなり、陛下(昭和天皇)の「御意向」も反映されている。が、その「御意向」は、日ごろ会えない皇族の様子を知りたいというものが多かったという(関係者)。天皇陛下も楽しみにしている番組、ということで人気番組になる。そのメインコンテンツは、言うまでもなく皇太子夫妻とその子供たちであった。

そして、このような皇室アイドル化路線に、隠然と反対していたのが良子皇后なのである。

『美智子さまの60年 皇室スタイル全史 素敵な装い完全版』(2018年別冊宝島編集部)

◆テレビ画像に「無視」が公然と

国民の前に、皇后良子と美智子妃の「バトル」が印象付けられたのは、1975年の天皇訪米のときのことだった。出発の挨拶のときに、皇后が美智子妃を「無視」したのである。

公式の場で挨拶を交わさないばかりか、わざと「無視をする」ということは、そのまま存在を認めないのに等しい。皇族にとって「挨拶」とは、最重要の「仕事」「公務」なのだから。

皇室ジャーナリストの渡邉みどりは、このようにふり返っている。

「羽田空港で待機する特別機のタラップの脇には皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻、そして三木首相ご夫妻の順に並んでおられました。昭和天皇、香淳皇后がいよいよ機内にお入りになるとき、おふた方は、宮様方のごあいさつに対し丁寧に返礼をなさいます。」

「特に昭和天皇は美智子さまにお辞儀をされた後、皇太子殿下に『あとをよろしく頼みますよ』というように深く頭を下げられ、皇太子さまも父君に『お元気で』といったご様子で最敬礼なさいました。」

「次の瞬間、モニターを見ていた私は、ぎくりとしました。」

「数歩遅れた香淳皇后は常陸宮さまにゆっくりとお辞儀をなさったあと、美智子さまの前を、すっと通り過ぎて皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。モニターの画面に映る映像は、後ろ姿でしたが、素通りされたのははっきりわかりました。香淳皇后は手に、つい先ほど美智子さまから贈られたカトレアの花束をお持ちでした。そのまま、美智子さまにも、深々とお辞儀をなさるとばかり思っていましたのに。」

「この『天皇訪米』の一部始終の映像はテレビで日本中に放送されたのです。私自身その時は、昭和天皇の訪米という歴史的なニュースを無事に中継することで、頭がいっぱいでした。昭和天皇と香淳皇后がご出発したあと、思わずスタッフと顔を見合わせて、『お気の毒に』とつぶやきました。」

浜尾実元東宮侍従も、当時のことをこう語っている。

「私もテレビを見ていて驚きました。東宮侍従をしていたころ、美智子さまのお供で吹上御所に行った時など何か皇后さまの態度がよそよそしいことは感じたことがありました。それは美智子さまの人間性というより、そのご出身(平民)が美智子さまを孤立させることになっていたんだと思います。ただ、あのお見送りの時は人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました」

だが、このような「無視」や「直言」をものともせず、美智子妃はある意味で淡々と、皇太子明仁とともに新しい皇室像を作り上げてゆく。

そればかりか、昭和天皇亡き後は、いわゆる「平成流」という流れをつくり出し、宮内庁官僚や女官たちと対立を深めてゆく。ために、週刊誌メディアへの情報のタレコミで、猛烈なバッシングを浴びるようになるのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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ジャパンキックボクシング協会の若き看板スター、モトヤスックと馬渡亮太が、いずれもちょっと効いてしまうノックダウン奪われ判定負けも、観衆に感動を与える激闘を残した。

緑川創は6月から毎月続く試合の中で、頑丈な身体での存在感示す勝利。

悠斗は学生キックからプロ転向後、NJKFランカーまで上がり、そこからプロボクシングに転向し、第42代日本ライトフライ級チャンピオンとなった選手。コロナ禍での興行が流れる事態やジム閉鎖などの諸事情を持ってキックボクシングに復帰し、6月12日に白幡裕星(橋本)に判定負け。今回の2戦目は見事、強打炸裂の勝利となった。

6月1日よりKIXジムがジャパンキックボクシング協会に加盟されたことが小泉猛協会代表より紹介があり、金川剛一氏が挨拶されました。

◎Challenger3 ~Beyond the limit~ / 8月22日(日)後楽園ホール17:30~20:10
主催:治政館ジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第7試合 70.0kg契約 5回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(=岡本基康/治政館/69.8kg)
     VS
緑川創(元・WKBA世界SW級C/RIKIX/70.0kg)
勝者:緑川創 / 判定0-3
主審:少白竜
副審:椎名46-50. 桜井46-50. 松田46-50 

モトヤスックは2018年5月13日デビューで、2020年1月5日、同門の先輩、政斗をTKOで下し、この協会のウェルター級王座戴冠。

緑川創は2004年6月12日デビュー。2009年5月31日に日本ウェルター級王座獲得。4度防衛後返上。2019年4月14日にWKBA世界スーパーウェルター級王座獲得。初防衛後、所属ジム消滅により団体離脱の為返上。

うっかり星を落とせない立場の両者。序盤からけん制での様子見から被弾するリスクを負いながら距離は縮まり、主にパンチでアゴやボディーへ強打を打ち込む両者。第3ラウンド、緑川がやや攻勢強め主導権奪ったかにみえるが、打ち続けないとモトヤスックはすぐにでも巻き返す技量あり、やや被弾していた緑川はうっすらと鼻血を流す。

緑川創とモトヤスックのパンチの交差

緑川が右ストレートでノックダウンを奪うとモトヤスックは辛うじて立ち上がる

第4ラウンド、モトヤスックが流れを変えようと一瞬のスキを突いて右ストレートで出ると一気に緑川をロープに追い詰めて連打を続け、緑川は一瞬腰が落ちかけるも切り抜ける。ここが経験値の差か、打ち合いの距離の中、緑川が右ストレートでモトヤスックはノックダウン。立ち上がるところ、一瞬ふらついて後退するが続行。もっとも苦しいラウンドとなった両者。

最終ラウンドもやや緑川ペースが続く中、蹴りが少ないパンチ中心の攻防。緑川が鼻血を激しく流すほど被弾もしている中、倒しに行くにはキツいのは確かで、勝ちを拾いに行く流れでも手数を出して終了。モトヤスックも逆転狙うヒジ打ちもパンチもすでに遅かった。

踏ん張りのラストラウンドの攻防

武田幸三賞(MVP)を受取る緑川創。10年前に観たかった武田と緑川の対戦

◆第6試合 56.0kg契約 5回戦

馬渡亮太(治政館/56.0kg)
      VS
WBCムエタイ日本スーパーバンタム級1位.一航(=大田一航/新興ムエタイ/55.9kg)
勝者:一航 / 判定0-2
主審:椎名利一
副審:松田48-48. 桜井48-49. 少白竜47-49

馬渡亮太は今年1月10日にクン・ナムイサン・ショウブカイ(タイ)とのWMOインターナショナル・スーパーバンタム級王座決定戦に勝利し王座獲得。

序盤の様子見は馬渡がバランスいい蹴りでけん制、やや受け身でも相手をよく見て蹴り返す一航。第3ラウンドには接近した隙に右ヒジ打ちを側頭部にヒットさせ、ノックダウンを奪った一航。馬渡はちょっと足にくるダメージを負う。

一航の右ヒジ打ちが馬渡亮太にヒット

手応えあったか、一航が勝利を確信

ここから被弾することを避け、ダメージ回復を図る。ガードを高く上げる馬渡にボディーブローを叩き込み、一航は攻撃力増して前に出る、立場逆転したラウンドとなった。

第4ラウンド、互角の攻防ながら、馬渡はロープを背にする展開だが、蹴りのヒットはやや優る。第5ラウンドも両者力を振り絞る攻防で終了。全体を通せば、やや押された場面があった一航に、ラウンド制ではこんな失点もある微妙な採点で、一人のジャッジは引分けと付けているが、ノックダウンを奪った一航の勝利は僅差ながら妥当なところ。

鼻血を流しながら反撃に転じる馬渡亮太

追い気味に一航が攻めて出る終盤

◆第5試合 51.0kg契約3回戦

JKAフライ級1位.細田昇吾(ビクトリー/50.8kg)
     VS
NJKFフライ級4位.悠斗(=高橋悠斗/東京町田金子/51.0kg)
勝者:悠斗 / TKO 2R 2:39 / カウント中のレフェリーストップ 
主審:松田利彦

パンチを狙うスタイルの悠斗。キックボクサーとしての試合勘は鈍っていない様子で蹴りを織り交ぜ、素早い踏み込みでパンチに繋いでいく。重そうな悠斗のパンチを避ける細田は距離を取りつつ蹴りでリズムを掴んでいく。

悠斗が追い、細田がロープ際に詰まったところで逃がさなかった悠斗。右フックを被せると細田はロープにもたれ掛かりながら崩れるようにノックダウン。プロボクサー経験者のパンチはやはり重く、細田はフラつきながらカウント中にレフェリーに止められた。

悠斗は速いステップで踏み込み、重いパンチを振るった

ロープ際で逃げ遅れた細田昇吾、悠斗の右フックに沈む

◆第4試合 58.5kg契約3回戦

眞斗(KIX/58.0kg)vs大翔(WSR・F荒川/58.35kg)
勝者:大翔 / TKO 2R 0:27

大翔の左ヒジ打ちによる眞斗の眉間をカット後、続けて左ハイキックヒットによるノックダウンのカウント中、ドクターチェックに入り、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ

◆第3試合 55.0kg契約3回戦

樹(治政館/54.6kg)vs中島大翔(GETOVER/54.8kg)
引分け 0-0 (29-29. 29-29. 29-29) 

◆第2試合 バンタム級3回戦

西原茉生(治政館/53.35kg)vs中島隆徳(GET OVER/52.75kg)
勝者:西原茉生 / 判定2-0 (29-29. 30-28. 29-28) 

◆第1試合 女子ピン級3回戦(2分制)

女子ミネルヴァ・ピン級6位.藤原乃愛(ROCK ON/44.95kg)
     VS     
世莉JSK(治政館/45.2kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

《取材戦記》

メインイベント、19歳と34歳の対戦は、昭和の時代なら十代でチャンピオンになったら将来有望でもまだ新鋭の域と見られ、30歳を超えれば現役選手は少ない時代だった。

そんな年の差対決は、上がって来る者を叩き潰す、ロートルには引導を渡すといった厳しさの中、蹴りは少なく重いパンチが交錯する両者は、それぞれの立場で負けられない意地が表れていた。モトヤスックのラッシュを受けたときは「ヤバッ!」と思ったという緑川。勝因は「大人の意地です!」という当初の「大人の魅力と厳しさで勝つ!」を経験値で貫いた勝利となった。

馬渡亮太は2019年11月30日にNJKFに於いて、S-1ジャパン55kg級トーナメント決勝戦で大田拓真に敗れており、大田兄弟にはいずれも敗れてしまう結果となってしまったが、馬渡と大田一航は、2001年生まれで一学年違いの同い年。大田拓真は1999年生まれで、これから何度も戦う可能性があるライバル関係は続くだろう。

馬渡亮太は9月20日、ジャパンキック・イノベーションで出場が決まり、またもベテランの兵となる、数々の王座戴冠している宮元啓介(橋本)との対戦が予定されています。

今回のメインイベントとセミファイナルは5回戦だから見ることが出来た攻防と技量の名勝負。3回戦制で力を余らせての終了では本来のキックボクシングではないだろう。

ジャパンキックボクシング協会次回興行は11月21日(日)後楽園ホールに於いて、ビクトリージム主催でKickInsist.11が開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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正田美智子(平成上皇后)は日清製粉の令嬢だった。日清製粉は祖父正田貞一郎が創業者の中心人物であり、正田一族を中核とする企業と言ってさしつかえない。その意味では創業者の三男を父に持つ正田美智子は、生まれついてのお嬢様だった。

とはいえ、彼女は平民である。皇太子明仁との婚儀に、香淳皇后(良子皇后)や秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮(柳原愛子の親族)らが反対したことは、本連載〈35〉に書いたとおりだ。

学習院在学中の北白川肇子

もともとは、北白川肇子(はつこ=島津肇子)が皇太子妃候補として有力視されていた。

明仁の立太子に前後して、肇子は「お妃候補」として世間の注目を浴びている。1951年7月29日の読売新聞は「皇太子妃候補の令嬢たち」という特集記事で、肇子ら旧皇族の少女たちを紹介している。さらに1954年1月1日の読売新聞の「東宮妃今年中に選考委」という記事でも、肇子の名が報じられた。

当時の日記をみると、旧華族社会や宮内庁の侍従、女官たちのあいだでは、肇子が皇太子妃になるものと思われていた。

◆日本の旧公家社会

敗戦で皇室・皇族の縮小がはかられ、華族制度が廃止されてからも、日本の公家社会は生きのこった。表向きは一般社団法人霞会館として、霞が関ビル34階が所在地となっている。650家740人(当主)が会員で、年に4回の会合のほか各家間の親睦交際で、そのコミュニティを保っている。かれらの間ではふつうに「〇〇公爵のお嬢様」「□□子爵家のご長男」などという言葉が交わされるのだ。

ほかに旧公家(江戸時代以前)で構成される堂上家は「堂上会」として京都に拠点を置き、こちらは御所清涼殿に昇殿できる家格(公卿)にかぎられる。よく京都人が「天皇さんはいま、東京に行かれてはります」というのは、京都こそ公家社会のメッカであり、朝廷は京都御所にあるという意味だが、その実体はこの堂上会ということになる。

政治権力と結びついている「天皇制」を解体する契機があるとすれば、天皇が本来の居場所である京都に帰るときであろう。そのさいの皇室は、皇室御物や歴代天皇が庇護してきた神社仏閣およびその宝物とともに、文化的な存在になるであろう。天皇制を廃止するからといって、タリバンのように仏像を破壊するような主張が、現在の日本国民を占めるとは思えない。反日武装戦線の敗北や皇室ゲリラの衰退がそれを物語っている。

現実的には、以下のようなことが想像できよう。

本朝のながい歴史に照らして、天皇という存在は御所に逼塞して学問に打ち込む。そして政治には口を出さない。国事行為も政府がすべて引き受ける。どうしても位階が欲しい人には、歴代の天皇たちがやってきたように、高い値段で買っていただけばよい。明治いらいの伝統にすぎない叙勲(勲章)も、続けたければ有料にする。これがふさわしいのである。

神社仏閣・宝物・天皇陵墓(発掘が学問的利益になる)などの皇室文化というものに価値があるとすれば、最低限の生活を文部科学省が保証し、百害あって国民的な利益のない宮内庁は廃止してしまう。それがいいと思う。

1959年に成婚。世紀の婚姻で「ミッチーブーム」が起こされた

◆アイドル化こそ民主化の第一歩だった

さて、昭和30年代にもどろう。

北白川肇子嬢の世評もよく、婚約は時間の問題と思われていた。だが、戦後すぐに皇室をアイドル化することで「象徴」へとシフトした天皇制は、閉鎖的な公家社会の維持よりも、国民に開かれることを望んでいた。それが正田美智子の入内にほかならない。これには皇太子の側近、小泉信三(教育掛)の暗躍があったとされる。

1959年に成婚。世紀の婚姻は国民的な「ミッチーブーム」を生み、1964年の東京五輪とともに、高度経済成長の起爆剤となった。馬車と騎馬のパレードまで行なった主役は、あきらかに皇太子妃美智子であり、明仁皇太子は刺身のツマにすぎなかった。

人々の前でも物おじせず、堂々たる体躯に誰もがみとめる美貌。語学に堪能であり、聖心女子大時代にはプレジデント(自治会委員長)を務めた才媛。そんな女性が国民的な祝福を得て「プリンセス・ミチコ」となったのである。この時期に生まれた女性には「美智子」という名前が多い。

そのような社会現象になるほど、開かれた皇室の第一歩は成功した。戦争犯罪の血にまみれた昭和天皇さえ、この時期には神々しく感じられたという。

◆世紀の成婚の陰で

皇室に入る美智子に仕える女官長は、秩父宮勢津子の母松平信子が推挙した、勢津子の遠縁にあたる牧野純子である。前述のとおり勢津子と信子は、美智子の入内に猛反対した母子だ。

ちなみに松平信子は、女子学習院のOG会である常磐会の会長である。常磐会は、明治いらい皇族妃や元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子に対する反対運動が起きていたのだ。陰湿な陰謀さえはかられた。

それは、皇太子妃決定の記者会見でのことだった。正田美智子はVネックに七分袖のオフホワイトのドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところが、ドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかったのだ。

「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」

会見後、早くも宮中からクレームが入る。しかし、である。この手袋は正田家が用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだったのだ。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたというしかない。この手袋事件は、美智子妃イジメの第一幕ともいうべき出来事だった。

成婚後も隠然と、かえって陰湿な嫌がらせ・イジメとなって、それは顕われた。こういう証言もある。

「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)

思わぬクレームが入った美智子妃のドレス姿

イジメの第二弾は、成婚報告で訪れた伊勢神宮でのことだった。このときも美智子妃は白いアフタヌーンドレスで、正装の皇太子(燕尾服を着用)に合わせたものだった。一見して、ロイヤルカップルにふさわしい姿である。だが、これに思わぬクレームが入ったのだ。美智子妃(写真)のドレスのスカートが膨らんでいるのは判るであろうか? このフレアをふくらませるパニエがけしからん、伊勢神宮の参拝には馴染まないスカートだというのだ。

なぜ皇族の女性に相談しなかったのか、ということが問題にされた。いや、相談できるはずがなかった。この日の衣裳も、じつは宮内庁および女官たちが準備したものだったのだ。美智子妃は嵌められたのである。

誰かが、わたしを陥れようとしている? いや、美智子妃が疑心暗鬼になることはなかった。皇太子明仁との仲はむつまじく、懐妊をもってその立場は盤石なものになったからだ。

歓呼にこたえて車窓を開けた美智子妃を、にらみつける(?)牧野純子女官長

そして「国母」となった美智子妃は、思いきった行動に出る。

第一子浩宮が誕生し、そのお披露目に外出したときのことである。クルマの窓を開けて、国民の歓声と報道陣の写真撮影に応えようとする美智子妃を、となりに同乗している牧野女官長がにらみつけている(?)。これこそ、天真爛漫で美貌の皇太子妃が、守旧勢力の嫌がらせの中で、国民に訴えるように見せた笑顔である。

というのも、ここまでの道は極めてきびしく、とりわけ実家の正田家が守旧派からの、陰湿な攻撃を受けていたからだ。

「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」と語るのは、美智子妃の母堂・正田富美子である。亡き富美子は何も言わなかったが、凶器が郵送されてきたり、家を燃やすなどの嫌がらせ電話が掛かってきたという。ほんの一部とはいえ、皇室の敵・国民の敵と言わんばかりの反対運動が起きる。

今日のわれわれは、秋篠宮家の眞子内親王の恋人の母親に借金があることをもって、ふさわしくない。借金問題を解決してから、という世評を知っている。

本人たちの意志よりも「貧乏人のぶんざいで無理な学歴づくりをするのが怪しからん」という、それは変化の時代の憤懣ではないだろうか。もともと島国で育まれた日本人の国民性は、差別的なものなのである。

昭和30年代の日本はまさに、平民のぶんざいで皇室に嫁ごうなどと、許すことで出来ん! 畏れ多いことをする、非常識な一家。だったのである。

しかし美智子妃イジメの陰湿さ、激しさはまだ序の口だった。すなわちイジメの源泉が、夫の母親である光淳皇后・良子だったからだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆民事提訴とその判決

昨日の工藤會裁判(刑事)につづき、民事についても触れておこう。

その前に、今回の裁判の弁護団のひとりに感想をいただいたので、簡単に触れておこう。「予想外の判決だった。死刑はないだろうという予想だった」ということである。

昨日の記事で「想定どおり」としたのは、ある意味では訳知りのミスリードになるかのかもしれない。事実吟味のない、とんでも判決であることは論証したとおりだ。メディアの反応も「組織のトップに初めての死刑判決」というものだが、こちらは事実を伝えているにすぎない。

さて、民事についても裁判所は「親分」に厳しい。歯科医師は野村悟ら4人に対し、総額約8400万円の損害賠償を求める訴訟を福岡地裁に起こし、2020年2月に和解している。和解金は明らかにされていないが、山口組や稲川会の事件の判例から考えて、請求の6割前後であろう。

元警部の民事事件では、3000万円の訴訟にたいして、1600万円の判決(福岡高裁)だった。工藤會側は控訴をしていない。

元漁協組合長殺害事件の遺族も「損害賠償命令制度」を利用し、総額7800万円の支払いを求める申し立てをしている。

この損害賠償命令制度が一般にも広がっているのは、暴力団追放センター(警察OBが天下る)による代理訴訟制度が完備したからである。

そしてここが、注視しなければならない問題である。暴追センターの権益が拡大することで、警察官の天下り(民間企業の警備員)が横行するのだ。そしてその利権は、掛声とは裏腹にヤクザ組織の温存へと結果すると指摘しておこう。

工藤會の頂上作戦が始まって足掛け7年になるが、元暴対本部長がその著書で明かしているように、工藤會は解体どころかその端緒についたに過ぎない。それというのも、地元採用の警察官たちは水面下で工藤會と結びつき、幹部たちも壊滅に追いやる気がないからだ。かれらにとって、工藤會は飯のタネなのだから。

◆上納金の課税問題

工藤會をめぐっては、上納金の扱いにもメスが入れられた。ヤクザの法人格は「任意組織」であり、国税が介入しないこともあって、事実上の「非課税」とされてきたものだ。つまりヤクザ組織とは、学会や会費制の同好会と同じなのである。指定暴力団である以上、国家がその存在を公認してもいる。

経済規模で一兆とも二兆円とも推定される、ヤクザ資金に国税の網を掛けるために、財務省と警察庁は試行錯誤してきた。

ところが肝心の国税職員が、ヤクザの事務所を訪ねられない。怖いからである。いっぽうでヤクザ組織の経理の透明化をもとめれば、ヤクザの合法性、存在意義を確固たるものにしてしまう。その意味でヤクザへの課税は、当局にとってアンビバレンツな課題だったのである。

そして、暴対法および暴排条例に盛り込まれなかったヤクザへの課税が、今回の工藤會裁判(別件)で問われることになったのだ。

すなわち、個人への課税である。上納金(本家運営費)を個人口座に入れていたことで、野村被告の「個人所得」としたのだ。以下は、判決内容である。

「特定危険指定暴力団工藤会(北九州市)の上納金をめぐり、約3億2000万円を脱税したとして所得税法違反罪に問われた同会総裁野村悟被告(74)について、最高裁第3小法廷(宮崎裕子裁判長)は18日までに、被告側の上告を棄却する決定をした。16日付。懲役3年、罰金8000万円とした一、二審判決が確定する。」(新聞記事)。


◎[参考動画]工藤会トップ“死刑判決” 裁判長に「後悔するぞ」(ANN 2021年8月25日)

◆ヤクザは壊滅するべきなのか?

さて、今回の工藤會裁判を機に、論壇でも暴力団政策をどうするのか、朝日新聞「オピニオン・フォーラム 耕論 消えゆくヤクザ」で福岡県暴追センター(警察OB)とアウトロー系のジャーナリスト、映画監督らがそれぞれの思うところを語っている。ひきつづき、工藤會裁判との関係で諸論を紹介、批評していきたい。

このうち「犯罪組織は壊滅すべきだ」とインタビューに応じているのは、藪正孝という元県警幹部(暴力団対策副部長・暴力団追放センター専務理事)である。
藪は地元採用組で、いわば叩き上げの刑事あがりである。つまり、キャリア組ではない。

この「犯罪組織」を数十年前の「過激派組織」「極左暴力集団」に置き換えてみれば、藪が言う警察権力の恣意性は明らかだ。ヤクザには犯罪者が多いが、警察官にも犯罪者は多いから、警察もヤクザと同じ「犯罪組織」だ、とわれわれは言うことも不可能ではない。いまは、それは措いておこう。

藪が専務をつとめる「暴力団追放センター」は、年間事業費7000万円という、税金からの補助金を柱にした資産18億の公益財団法人である。警察官から天下った専務理事の給料が、なんと月額48万円もの高額なのである。

つまり藪正孝という人物は、福岡県警から暴追センターに天下り、現役警察官時代以上の高給を得ているわけだ。そしてそういう人物が、公然と「工藤會は壊滅しない」と著書で語るところに、その相互依存関係は明白というべきかもしれない。追放運動を本気でやるのなら、税金を食い扶持にするのではなく、ぜひともボランティアでやってもらいたいものだ。

いっぽう、ヤクザ関連の著書が多い末広登(龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員)は、暴力団離脱後の受け皿がないと指摘する。ここ9年間に組織を抜けた5453人のうち、就職者数は165人にとどまり、3%の元組員しか就職できていないというのだ。元暴5年条項というものがあり、組をやめても5年間は銀行口座、アパートを借りるなど、社会生活を送ることもままならないのだ。

ところが、上述の藪正孝は「希望する職種に就けないことはあっても、就職できなかった人はいません」という。どっちが本当なのだろうか。

映画「ヤクザと家族 The Family」を撮った河村光庸は、不寛容な社会が憲法に保障された基本的人権を軽んじている、と指摘する。

末広が指摘する「離脱後の検挙人数が、一般に比べて60倍以上」(警察庁)から考えれば、あるいは「元暴アウトロー」が特殊詐欺や覚せい剤事件に関与していることを考えるならば、ヤクザ組織の壊滅こそがヤバいのではないだろうか。組織の箍(たが)をはずれた元暴犯罪者を再選産しているのだから。

藪はヤクザが覚せい剤事件に関与するというが、ヤクザは公式には覚せい剤はご法度である。山口組が政界人・文化人とともに、覚せい剤撲滅運動に取り組んだ歴史(麻薬追放国土浄化同盟)を、藪が知らないわけではないだろう。

このように、暴力団(ヤクザはこの名称を名乗らない)と、われわれの社会がどう向き合っていくのか。その「解体・壊滅」はどのような道筋を辿るべきなのか、まだまだ一筋縄ではいかない課題なのである。

すくなくとも、凶悪犯罪の共謀の事実関係をなおざりにした判決が、極刑としてくだされた事実を刻んでおくべきであろう。


◎[参考動画]暴力団「工藤会壊滅」カギは”離脱・就労支援” 福岡県警(RKB毎日放送2021年8月25日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆予想どおりの判決だが――

8月24日、五代目工藤會の最高幹部(野村悟総裁・田上不美夫会長)に対する判決が下りた。予想どおり極刑であった。福岡地裁足立勉裁判長は事件全てに関与を認定し、野村総裁に求刑通り死刑、田上会長に無期懲役(求刑無期懲役、罰金2000万円)を言い渡した。

弁護側は「証拠に基づかない、憶測による求刑を追認したもの」として、判決を批判している。ヤクザの場合は組織を離脱・現役引退がなければ仮釈放がないので、無期刑は終身刑と同義である。

罪名にかかる事件は、後述する4つである。

警察・検察と裁判所が「反社」というキーワードで連携した、裁判の判決そのもの評価にはさして意味がない。90年代の暴対法、2011年以降の排除条例いらい、暴力団裁判における重刑の流れは決まっている。

◎[関連記事]横山茂彦「工藤會野村悟総裁に極刑を求刑 証拠なしの裁判がいよいよ結審に」(2021年1月19日)

明確な指示や命令をしていなくても、子分の犯行に親分は責任を問われる。この強引な法的根拠は、民法の使用者責任である。

第715条(使用者等の責任)
1.ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2.使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
3.前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。

この場合の「事業」とは、暴力団抗争や不法行為全般と認定されている(判例=?平成16(受)230 損害賠償請求事件、平成16年11月12日)。

上記1項の但し書きにある「使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をした」としても、暴力団特有の親分子分の絶対服従の関係で、子分はその意向を無視できない。ということになるのだ。

かなり曲解をしないと無理だが、とにかく暴力団裁判ではこう推認される。親分にその意志があれば、子分はそれを忖度して犯行におよぶ。よって、犯行は親分の責任であると。

ヤクザ排除の背後に警察利権、たとえばヤクザからシノギを奪い、警察OBの再就職警備業務を民間に拡大する思惑があるとしても、暴力団排除は時代の趨勢である。

上記のような曲解にもとづく裁判が行なわれるのも、警察権力に唯々諾々としたがう裁判所の倣いであろう。そして国民はそれを支持する。伝統的な任侠道それ自体が、もはや過去の遺産なのだといえよう。

ヤクザの存在が過去のものと感じるのは、われわれ戦後世代にとって暴力は身近にあるものだったが、すでにそれは過去のものなのであろう。

父親や教師はふつうに体罰を用いたし、それは昭和の社会に是認されてもきた。いまや、口でつよく叱っただけでモラルハラスメント、パワーハラスメントの社会なのだから。

問題なのはメディアが警察の反社キャンペーンに迎合し、裁判にかかる極端な法運用に無批判なことである。使用者責任が一般の企業に適用された場合、経営者は事業にかかる被害の発生責任を、すべて負わなければならなくなる。あるいは政治的、恣意的な捜査が行なわれた場合、法律の歯止めが利かなくなる。これでは法治国家とは言えないだろう。

そしてジャーナリズムにおいては、事件の背景を知らないものがきわめて多い。警察当局の発表を鵜呑みに、暴力団対市民社会という構図でとらえがちである。実態は必ずしもそうではない。


◎[参考動画]北九州市の暴力団・工藤会トップらに判決「主文後回し」厳刑へ(福岡TNCニュース 2021年8月24日)

◆被害者は元山口組親分

まずは、個々の事件から解説しておこう。

1998年2月の元漁協組合長射殺事件
2012年4月の福岡県警元警部銃撃事件
2013年1月の看護師刺傷事件
2014年5月の歯科医刺傷事件

このうち1998年の被害者の「元漁協組合長」とは、元山口組梶原組組長の梶原国弘なのである。

じつは2013年12月にも、梶原の実弟の上野忠義(漁協組合長)が自宅前で殺害されている。そして2014年の歯科医死傷事件の被害者は梶原国弘の孫で、父親が現職の漁協組合長なのである。

つまり梶原家と工藤會の漁協の利権をめぐる紛争が、事件の背景にあったのだ。梶原国弘は山口組の代紋を降ろしたとはいえ、工藤會との関係では「ヤクザ同士」のシノギの関係にあり、孫の歯科医は「敵の弱い環を叩く」工藤會特有の戦術の犠牲者といえよう。

被害者の歯科医は一般市民だが、2014年には親族の会社社長が中学生を脅し、丸刈りを強いたとして強要容疑で逮捕されている。この親族の自宅から工藤會幹部の封書などが発見され、公共工事からの暴力団排除を目的に、親族が経営する建設会社名は公表されている。

この親族は前記漁協の理事でもあったが、この工藤會との交際が明らかになったことで辞任した。そして中学生を脅した席に、容疑者の親戚で北九州市議が同席していたことが、捜査関係者への取材でわかっている。何ともスリリングで危険な一族ではないか。およそ「一般市民」とは言えまい。

北九州の事件で、暴力団と一般市民という構造が紙面におどる背景には、この地域に特有の暴力的な体質がある。

18歳まで北九州市で育ったわたしの証言として、ふつうの市民がヤクザのように暴力をふるう。かつてはそういう土地柄であったことを知っておいて欲しい。たとえば2003年、工藤會組員が小倉堺町の「倶楽部ぼうるど」を手りゅう弾で襲撃したときは、複数の客が現場で組員を殺害している。過剰防衛と思われるこの殺害で、訴追された者はいない。客がヤクザよりも喧嘩に強く、殺されたのはヤクザだったのだ。


◎[参考動画]工藤会 最高幹部に判決へ(4) 求刑は死刑と無期懲役 4つの市民襲撃事件に福岡地裁の判断は?(福岡TNCニュース 2021年8月23日)

◆71年前の地元抗争と58年前の紫川事件

梶原組と工藤會の因縁は、じつに70年以上も前にさかのぼる。戦後混乱期の1950年のことである。草野一家(工藤組系)草野高明組長の実弟が、梶原組の組員に刺殺される事件が起きているのだ。この抗争は手打ちが成立せず、梶原組と草野一家の対立はつづいた。

1963年になると、梶原組が三代目山口組(田岡一雄組長)の傘下にはいる。このとき、小倉の安藤組と長畠組が、梶原組とともに山菱の代紋を受けている。北九州に山口組が進出したのである。

同じ年、山口組内菅谷組の菅谷政雄が北九州小倉に芦原興行社を設立し、工藤組の前田プロダクションの興行(北原謙二=歌手)に、力道山のプロレスをぶつけてきた。菅谷組の北九州進出は、山口組の若頭である地道行雄との権力争いがあったとされているが、いずれにしても山口組の枝の組織が大手を振って小倉を歩くのを、工藤組が看過するはずはなかった。

両者のいさかいは抗争事件に発展し、菅谷組が工藤組の前田国政(前田プロ)を射殺、工藤組の組員が山口組内安藤組の組員を拉致殺害し、紫川に放置するという事件に発展する。

事態を重くみた山口組田岡三代目が収拾に乗り出し、九州ヤクザの大物である大野鶴吉の仲介を頼んで手打ちとなった。のちに博多で起きた「夜桜銀次事件」で山口組と工藤組(および九州連合)が抗争寸前の事態となるが、このときも地道政雄の仕切りで和解している。以降、山口組は北九州から撤退する。梶原国弘がヤクザの看板を下ろしたのは、このような流れの中である。

※工藤會は工藤組から工藤連合草野一家(1987年)となり、現在の工藤會(1990年)と改称した。

◆元警部銃撃事件と看護師傷害事件

2012年の元警部銃撃事件は、もともと工藤會担当の刑事だった人物が病院の警備員に天下りし、これを組員が襲ったものだ。

実行犯の組員は検察側の証人尋問で、事件の約2週間後、指示役の工藤会系組幹部から北九州市小倉北区の組事務所で、現金50万円入りの封筒を渡されたと述べている。

同人は「こんなんもらうためにやったんじゃありません」と一度は返したが、組幹部は「いいから」と胸ポケットに入れてきたという。この事件の実行犯(元組員中田好信)の判決は懲役30年(事件3件)である。

2013年の看護師襲撃事件は、その背景がちょっと恥ずかしい。野村悟総裁が局部の外科手術を受けたさいに、看護師の軽口に腹を立てて組員たちに不満を述べたところ、それをおもんぱかった組員が犯行に及んだのだ。この事件については「女の娘(おんなのこ)を襲撃するとか、極道のすることやないです」と、工藤會幹部があきれた口調で語ったものだ。

先代の溝下秀男三代目は、芸能人や作家の局部増大手術を請け負った人である。なぜ生前にやってもらわなかったのか、事件の深層は奈辺にありそうだ。溝下が残した極政組の組長ほかふたりの幹部が、溝下没後に殺害されたのは誰のさしがねだったのか……。溝下のユーモアや深謀遠慮は敬称されず、過激な武闘路線のみが生きのこったのだ。(つづく)


◎[参考動画]【注目裁判の焦点】暴力団「工藤会」”死刑求刑”のトップに24日判決 福岡(RKB毎日放送 2021年8月23日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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先日、野球評論家の張本勲氏、お笑い芸人の宮迫博之氏という2人の著名人がその言動により世間から激しい批判にさらされた。批判の対象となった2人がとった事後的な対応は好対照だったが、2人の騒動は1つの教訓を示したように思う。

◆もう過去の話になった張本氏の女性蔑視発言

張本氏の発言は日本ボクシング連盟が正式に抗議する事態にまでなったが……(サンデーモーニングHPより)

まず、張本氏。女子ボクシングの入江聖奈選手が金メダルを獲得したことに関し、レギュラー出演するTBS系『サンデーモーニング』で2月8日、「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね」などと発言し、「女性蔑視だ」と批判された。張本氏はこれをうけ、「言葉足らずだった」と釈明したが、「見苦しい言い訳だ」と再び炎上。同15日の放送で改めて謝罪したが、番組が若い女子アナに謝罪文を読み上げさせたため三度、批判が集まった。

一方、宮迫氏。いわゆる「闇営業問題」でテレビに出演できない中、ユーチューバーとして活躍していたが、相方の蛍原徹氏と心の溝が埋まらず、ついに「雨上がり決死隊」が解散に。このことで「すべては宮迫が悪い」とばかりに大炎上。宮迫氏は事態を重く受け止め、改めてユーチューブで謝罪すると共に活動を休止した。

さて、こうして見ると、2人が起こした騒動はまったく異なるが、事後的な対応は宮迫氏のほうが「誠実」だったのは間違いない。張本氏の場合、最初の発言よりむしろ事後的な対応が「不誠実」だという印象を与え、批判された感もある。

では、騒動の後、2人がどうなったかというと、ここが興味深い。事後的な対応が「誠実」だった宮迫氏はいまだに活動を自粛中なのに対し、事後的な対応が批判された張本氏は現在、何事もなかったように問題の番組サンモニにレギュラー出演し続けているのである。

張本氏は22日放送のサンモニに出演中、暴力行為により日本ハムから巨人に移籍した中田翔選手に対し、「新天地で頑張って欲しい」とエールを送るようなことを言ったという。もはや自分の騒動など完全に忘れ、他人の心配をするまでに立ち直っているのである。

◆著名人の言動を批判する人たちというのは……

この2人の騒動が示した教訓、それは「世間の評判なんか気にしても仕方ない」ということだ。

張本氏、宮迫氏共にその言動が世間の人たちに批判されても仕方ない面はあったかもしれない。しかし、メディアの情報だけをもとに著名人の言動を批判するような人たちは、結局、その時だけ無責任に盛り上がり、すぐに自分が怒っていたことすら忘れてしまうのだ。

自分と無関係な人を不快にさせて何も問題ないということはないだろうが、大事なのは結局、自分が自分のことをどう思うか。世間の無責任な批判に対し、まともに取り合わなかった張本氏のほうが、深刻に受け止めた宮迫氏により早期に復活しているのを見ると、筆者は心底、そう思う。

人生は短い。他の誰かが自分の人生に責任を持ってくれるわけではない。他者の評判など気にせず、自分の人生を生きたいものである。

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

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◆開票前に、楽勝ムードは吹っ飛んでいた

横浜市長選は、4選を目指す現職の林文子氏(75)=自民の一部の市議が支援、新人の太田正孝氏(75)、田中康夫氏(65)、小此木八郎氏(56)=菅総理と自民市議が支持、坪倉良和氏(70)、福田峰之氏(57)、山中竹春氏(48)=立民推薦・共産支援、松沢成文氏(63)の7人の計8人が立候補し、野党共闘の山中氏が当選した。


◎[参考動画]【LIVE】横浜市長選 開票速報!「選挙をSHARE」(TBS 2021年8月22日)

◎2021横浜市長選挙 開票速報一覧(朝日新聞)

最多得票者が4分の1以上の票を得られなければ、再選挙になる可能性もあったが、野党の圧勝という結果だ。IRカジノ導入隠しによる自民楽勝の見通しをくつがえした格好だ。

じつは数日前の調査で、自民党公認の小此木氏の苦戦はつたえられていた。
「小此木氏の支援に入った自民党の国会議員はこう愚痴る。世論調査や期日前投票の出口調査をみると、なんと菅首相の地盤である衆院神奈川2区(横浜市)でも小此木氏が苦戦。現職の林文子氏(75)、山中氏が優勢という数字が出たという」(日刊ゲンダイ)

期日前投票の数値が、選挙結果をほぼ左右するのは選挙戦の常識である。あわてた自民党県連は現場をテコ入れしたが、市民の関心はカジノよりもコロナ感染対策にあったというべきであろう。

そのカジノ誘致問題も、自民党の姑息さが漏れ伝わることになり、あぶはち取らずの結果となったのだ。

◆IRカジノ隠しは通用しなかった!

小此木八郎候補は、国家公安委員長の職を辞して立候補した、自民党にとっては横浜市長選挙の隠し玉だった。

横浜市長選挙がIRカジノを焦点にしているのも確かである。喉に刺さったトゲというべきであろう。カジノ誘致では林文子前市長が「白紙から容認へ」と変節し、反対派の市民のみならず、ハマのドンこと藤木幸夫(横浜港ハーバーリゾート協会会長)の猛反発を生んでいたのだ。

そこで自民党と小此木氏は、カジノ導入反対の姿勢をとりつつ、個人的にも関係の深い藤木氏を取り込もうと必死だった。

だが早くから、その思惑は見透かされていた。IRカジノ反対派から、小此木氏は林市長と同じ「隠れカジノ容認派だ」と指摘されてきたのだ。自民党お得意の昭和の田舎選挙ならいざしらず、都会的な政治センスのある横浜市民が、欺瞞的な公約を見破らないはずがない。

そして、取り込んだはずの藤木幸夫氏も「横浜で負けて、菅政権は終わりだ」と公言していたのである。

◆やっぱり菅総理では選挙は勝てない

支持率の低下がいちじるしいわが菅義偉総理は、7月下旬には横浜市内で配布されたタウン誌で小此木氏支援を表明していた。

市長選レベルで総理が支持を明確にするのは、地元とはいえ異例中の異例である。さらに菅総理は有権者に「衆議院議員菅義偉」の名で小此木氏を支持する文書を送付する力の入れようだった。

国会議員補欠(再)選挙では3連敗。知事選挙でも連敗をかさね、党内から「菅さんでは総選挙は戦えない」という声がつよくなっていたところに、ダメ押しのような地元での敗戦である。

コロナ禍の悪化もあって応援演説にこそ駆けつけなかったが、もしも足を運んでいたら政治生命は終わっていただろう。菅が来たから負けた、と。

◆公明党の集票力に陰り

今回の選挙では、公明党の集票力にも陰りがみられた。その典型は横浜(神奈川6区)の遠山清彦元衆議院議員であろう。緊急事態宣言中にもかかわらず、銀座で飲み歩いていたことがバレ、議員辞職に追い込まれたのは記憶に新しい。

のみならず、元秘書の不正融資にかかる容疑で自宅と事務所の家宅捜査を受けているのだ。この公明党議員の「自民党政治家化」に、創価学会幹部は危機感をつよめているという。そしてこの遠山元議員も例にもれず、IRカジノ推進派なのである。こうなると、横浜菅王国の崩壊というべきかもしれない。

もはや菅総理には、9月の早い段階での総理大臣辞職しかない。自民党総裁の座にしがみつくことで「菅おろし」と言われる惨めな末期を遂げ、党史に芳しくない名を残すのか、それとも後継指名をすることで党内に政治的影響力を残すのか。道は二つしかないのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆柔道の達人

甲斐栄二(かいえいじ/1959年8月19日、新潟県佐渡ヶ島出身)は柔道で鍛えたパワーとテクニックで独特のKOパターンを確立し、そのハードパンチは上位を倒す厄介な存在として注目を集めた。

試合ポスター用に撮られたベルト姿(1986年5月25日)

甲斐は「現役時代はそれほど練習した方ではなかったよ!」と謙遜するが、その基礎となったのが学生時代の柔道。全国高等学校総合体育大会の新潟代表にもなった技術が、キックボクシングでの飛躍に大いに役立っていた。

柔道では「山下泰裕さんとも対戦したことがあるけど、あっと言う間に投げられた!」と笑って言う。

キックボクシングとの出会いは、柔道整復師の資格を取得するため、高校卒業後に仙台の専門学校に通っていた時に「キックボクシングをやりたい!」と言う友人に誘われ、仙台青葉ジムに見学を同行した。瀬戸幸一会長に「キミもやってみないか?」と言われ、興味を持ったことからすぐに入門した。

◆脅威の存在

甲斐栄二は1979年(昭和54年)1月デビュー。4戦目でランク入り。1981年1月にはノンタイトル戦ながら早くもWKA世界ライト級チャンピオン、長江国政(ミツオカ)と対戦。同年5月25日には宮城県で全日本フェザー級チャンピオン、酒寄晃(渡辺)にタイトル初挑戦。いずれも判定で敗れたが、当時の名チャンピオンと対戦する機会に恵まれ、将来を嘱望されていた。

1983年には二人の元・日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)と千葉昌要(目黒)を右アッパーで次々とKO。この後も甲斐の実力はチャンピオンクラスをKOする脅威の存在となりながら業界は最低迷期。同時期、酒寄晃と再戦もあったが激闘となりながら惜しくも倒された。甲斐に限らず、どの選手も目標定まらず、モチベーションを持続させるのも難しい時代だった。

酒寄晃には今一歩及ばずも強打は唸った(1983年9月10日)

甲斐はビジネスの都合もあって上京。半ば引退状態の中、業界低迷期を脱した時期の1985年7月、ニシカワジムに移籍した甲斐は再び開花。復帰戦ではブランクは関係無いと言える鋭い動きを見せ、越川豊(東金)をまたも右の強打でぐらつかせ、連打で倒した。

甲斐の強打で越川豊をKO(1985年7月19日)

須田康徳には勝利寸前も逆転KO負け(1985年9月21日)

1986年1月には日本ライト級タイトルマッチ、チャンピオンの長浜勇(市原)に挑戦し、頬骨を陥没させる強打でKOし王座奪取。相変わらずのハードパンチャーの脅威を示した。

しかし、追う者から追われる者へ立場が変わるとハードパンチも研究され苦戦が続いた。

同年7月、斉藤京二(小国)との初防衛戦は、やはり狙いを定めさせず、サウスポースタイルに切り替えて来た斉藤を捕らえきれずドロー。11月の再戦では一瞬のタイミングのズレに斉藤の左フックを食って4ラウンドKO負けして王座を奪われた。これで引退を決意したが、翌1987年7月、全日本キックボクシング連盟復興興行に際して国際戦出場を要請され、ロニー・グリーン(イギリス)と対戦も1ラウンドKO負け。9年間の充実したキック人生に幕を下ろした。

◆ハードパンチャーの原点

甲斐栄二は30戦19勝9敗2分のうち、17KO勝利はすべてパンチによるもの。ハイキックも多用したが、蹴りのKO勝ちはひとつもなかった。名ハードパンチャーも「一度はハイキックでKOしてみたかった!」と唯一の心残りを語っていた。

甲斐は元から右利きで、当然ながらジム入門後も右構えで基本を教えられた。しかし元々、柔道で鍛えられて来た経験はキックの右構えに違和感を感じていた。それは柔道の右構えは右手・右足が前に出るキックの左構えに相当したことだった。

斉藤京二第一戦は互いが警戒した中の引分け(1986年7月13日)

チャンピオンとしてリングに立つ甲斐栄二(1986年11月24日)

1983年に須田康徳(市原)を倒した時の甲斐は実績では劣り、勝利はフロックと言われた。余裕の表情のベテラン須田に、右構えからいきなり左にスイッチし、背負い投げを打つ要領で、右アッパーが須田のアゴを打ち抜くKO勝利を掴んだあの瞬発力は柔道仕込み。元々背負い投げが得意だった甲斐は、反則ながら時折、背負い投げも仕掛けたが、右構えでも左構えでも戦えるスイッチヒッターであった。1985年9月に須田と再戦した時も、強打でKO寸前のノックダウンを奪うも、須田の猛攻を受け逆転KO負けしたが、前回の勝利はフロックではないインパクトを与えた。

甲斐は「柔道は空手よりキックボクシングに向いているのではないか!」と語る。腕力と握力、肩と腰の強さ、どの角度からもパンチが打ちやすい柔軟さで戦える柔道の基本は有利だという。

甲斐は身長が162cmほど。「過去のライト級では、俺が一番背が低いチャンピオンだろうなあ!」と笑うが、柔道で培った技術をキックボクシングで最大限に活かし、身長差の影響も感じさなかった。

甲斐栄二の戦歴の中には、1981年に翼五郎(正武館)と引分けた試合があるが、甲斐は総合技ミックスマッチでの再戦を申し入れたという。翼五郎はプロレス好きで、投げを打ち、縺れた際には腕間接を絞めに来たり、足四の字固めを仕掛けたこともある話題に上る曲者だった。当時、総合系格闘競技は無く、一般的にも競技の範疇を超えており、当時所属した仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長も取り合ってくれなかったという。

タイ旅行の途中、ムエタイジムを訪れて、久々のサンドバッグ蹴り(1989年1月7日)

◆仲間内

一時ブランクを作り、上京後に復帰を目論んでいた頃、ニシカワジムに移籍する経緯があったが、西川純会長に現役を続ける場を与えてくれた恩は、後に甲斐栄二氏は「意地でもチャンピオンになって西川さんへ恩を返したいと思った!」と語っていた。最後のロニー・グリーン戦は引退を延ばし、最後の力を振り絞っての出場も西川会長への恩返しだっただろう。

ジムワークでは後輩に対し、怒鳴る厳しさはないが、技の一つ一つに「こうした方がいいよ!」など見本を見せて細かいアドバイスをしてくれる先輩だったという後輩達の声は多い。練習時間以外では明るい笑い声で周囲を和ますのが上手。ジム毎に独特のカラーがあるが、ここでは甲斐栄二氏がムードメーカーとなる存在だった。

当時、一緒に練習していた赤土公彦氏は「甲斐さんがスパーリング相手をして頂いたことがあるのですが、手加減してくれていたのに、ガツンとくる重いパンチで、瞼の上が内出血して青タンになったことがあり、やはり凄いキレのあるパンチと実感しました!」と語る他、「甲斐さんは踏み込みのスピードが凄く速くて、蹴りも凄く重いんです!」とその体幹の良さが垣間見られるようだった。

でも「ローキックはカットされると痛いから蹴らないよ!」と甲斐さん本人が笑って語っていたらしい。

引退後は現役時代から勤めていた市川市の不動産会社を受け継いで、社長となって責任ある立場で運営に携わっていた。

後進の指導など業界に残る様子は全く無かったが、後々に出身地の佐渡ヶ島へ里帰りされた模様。現在が現役時代だったら、甲斐栄二氏の柔道技を活かした総合格闘技系の試合出場を観たいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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