◆藤川さんが四国八十八箇所御遍路の旅で味わったこと!

藤川さんの剃髪撮るのも巣鴨以来

2001年4月18日、藤川さん(藤川清弘和尚)は一時帰国、再会時に約束のプリペイド式携帯電話を渡すと、予定通り四国鳴門市一番礼所霊山寺へ、八十八箇所御遍路の旅が始まった。ここから約50日間の旅となる。私は一度も同行することは無かったが、後々旅の話を聞くと、札所での理不尽な想いを何度もする旅だったようで、これが今の日本のお寺か、慈悲の念など全く感じない住職が多かったという。

藤川さんは旅の資金はそこそこ持っているが、タイで出家した比丘として、極力戒律を守りながらの旅で、正に比丘(食を乞う者)として、お寺で食事の施しを願い出た時は、「文句言いながら無料うどん券を放り投げて来よった!」とか、また別の寺で「タイの寺で修行しとる藤川と言う者ですが、戒律で一般のホテルなどには泊まれないので、ここで一晩泊めてくださいませんか?」と願い出た時には「寺の外に通夜堂があるからそこで寝ろ!」と無愛想に言われて行って見ると、雨が降ったら水浸しになるような掘っ建て小屋で、夜はまだ少し寒い時期で冷たい床。

それでも寝る準備をしていると警察官が二人やって来て、「お前どこの人間や、不審者が居ると通報があった、パスポートを見せろ!」と怒鳴りつけてくる警察官だったという。

ワット・ポムケーウで藤川さんと再会、同僚の比丘と一緒に

朝の風景、藤川さんの托鉢を撮るのは4度目となった

藤川さんも気の強い元・地上げ屋、「ワシは日本人で許可を貰うてここに居るんや、お前なんかにパスポート見せる必要は無い!」と突っ撥ねたという。どうやら「そこで寝ろ!」と言った住職がすぐさま警察に「不審な者が居る!」と通報したようだった。黄色い袈裟を纏い、テーラワーダ仏教の身分証明書もパスポートも持った比丘を、そんな扱いをする住職が、四国八十八箇所の礼所のひとつにあるのか。

更には四国八十八箇所巡りで礼所の僧侶の態度に不愉快な想いをした一般の巡礼者もかなりの数に上るようだ(2001年当時の話)。

一方で藤川さんは、人から施しを受けた物しか食べてはならない戒律を極力守っていたが、日本に居てはそんな話は通用しない。止むを得ず、夜のうちにコンビニエンスストアーの前にタムロする若者に「ワシ、タイで坊主やっとるんやけど、戒律で自分から食べ物を買うたりは出来んのや、すまんけどお金預けるからオニギリとかパンとかでええから買うて来てくれへん?」と頼んだら「あっ、いいですよ~!」と嫌な顔もせず、すぐ買って来てくれたという。

田舎らしさがある托鉢にて

横柄な寺の住職より素直な若者に何度も出会い、親切な振舞いや、「オッちゃん頑張ってな!」と励ましてくれる声掛けには本当に心救われたようだ。

◆手紙が来ない

2002年、年明けぐらいから藤川さんから手紙が来なくなった。“これで縁が切れた”という訳がない。電子メールに替わっただけだった。藤川さんも初期的なノートパソコンを手に入れたようだ。この冬、寒いのに日本に来た時など、しつこいものだった。

携帯電話には留守電が入り、家の固定電話にも留守電が入り「藤川ですう、電話くださあい!」の他、携帯電話メールにも同様の文言、パソコンメールにも同様の文言、ミクシィにまで同じ文言が入っていた。

「これだけやっとけば“知りませんでした”とは言えんやろ!」さすがに元・地上げ屋、やることはしつこい。

托鉢と街の風景とともに

鶏に餌を与える比丘、寺に居るといろいろな小動物に出会える

寺の子猫たち、干した魚の朝食を与えられる

ムエタイジム経営には試練も多かった伊達秀騎

◆2003年3月、もう一度タイへ

私が再びタイに渡った目的は、伊達秀騎が始めたジムの様子を見ること、そして2年3ヶ月ぶりに藤川さんが修行するワット・ポムケーウへ訪れてみることなどがあった。

一週間の滞在の拠点は伊達秀騎が運営するイングラムジム。彼は2002年3月に計画どおりムエタイジムを開設していた。

バンコクのスクンビット通り、高架鉄道のプロンポン駅に近いエリアに在り、将来有望な選手も居て、まだ新しく広いジムだが、やがて引っ越さなければならない事情があって、バイクに乗って物件交渉に向かう伊達くんの姿があった。

藤川さんの寺は二度目の訪問なので迷うことなく到着。ジャーナリストの江頭紀子さんも訪れて来て、藤川さんが長年続けられて来られた仏陀の教えを説く活動が、次第にマスコミを巻き込む友達の輪を広げたものと感じた。

藤川さんと再会した途端にいつものマシンガントークが始まり、あるショックな話を聞かされた。

数週間前、我々の古巣のワット・タムケーウのアムヌアイさんが突然、藤川さんを尋ねて来たという。

日本人選手の修行の場となるムエタイジムも昔と比べ環境は良くなったものだ

夕食後の寛ぎの時間。こんな触れ合いが人を育てる。奥中央がアーリー、ギター持つのがダーウサミン、後の看板選手となる

交通事故で亡くなったワット・タムケーウの和尚さん、再会成らず

そこで言われたことは、ワット・タムケーウの和尚さんが交通事故で亡くなったというもの。車で外出する際、寺の世話人が運転する車が誤って横転し、車から投げ出された和尚さんは即死だったらしい。

そこでアムヌアイさんが藤川さんに申し入れたことは「ワット・タムケーウの和尚(住職)になってくれないか?」というものだった。和尚さんの死を悔やみながらも、さすがに断ったという。ビザの更新で外国に頻繁に出る為、寺を守れないのは明白。長く副住職を務めたヨーンさんも還俗した後で、他に長老と言える先輩は居ないアムヌアイさんは人生の決断の時だろうか。

更に藤川さんはやがて本を出版するという。字は汚い、文章は小学生の作文より下手、人様に聞かせられるような人生ではないからと断わり続けるも、出版社、執筆者から励まされ煽てられ続けると書かざるを得なくなって、四国御遍路が終わった辺りから少し書いては諦め、また励まされ、また進んでは旅の為ストップしつつも何とか書き上げ、後は執筆者に丸投げしたという。

「その完成出版に向けて5月にソムサック(仮称)を連れて日本に行くから宜しく!」と丸投げして待つだけの藤川さんは涼しい顔。ソムサックさんは、私が前回この寺に寄った際、泊めて貰った倉庫小屋の軒先の部屋に居た真面目な30代の比丘で、この2003年春には近くの海沿いの小さな掘っ建て小屋のような寺の住職になったという。

私の最初の剃髪をしてくれたワット・タムケーウのアムヌアイさん(撮影は1994年当時)

藤川さんもこのワット・ポムケーウに来た当初から、ソムサックさんは頼りになる存在で、「今迄でコイツが一番信頼できる坊主なんや!」と言い、「一度、日本に連れていってやりたくて、ワシの支援者らの前でテーラワーダ仏教について喋って貰おうと思うとるんや!」と言い、パスポート取得やビザ申請も進んでいるという。タイで生まれタイで育ち、仏門を中心とした人生のソムサックさんが見る東京の街はどんな風に映るのだろう。

通算4度目となる藤川さんの托鉢も撮影させて貰った。今回はメークロン駅ではない方向で、藤川さんの後を若い比丘が一人着いていた。出家10年を超える長老となって新米比丘を随えて貫禄充分であった。

◆切れるどころか深まる縁

実際はたいした用の無い旅だったが、この寺のクティの屋上で日光浴させて貰い、しっかり日焼けできた。藤川さんが私を誰も居ない屋上に誘ってくれたのは、実はこれが本当の渡タイ目的で、人に見せたくない皮膚疾患を持つ私の身体は強い紫外線によってキレイに治った。あまりやるべきではない手段だが、一気に治したい目的は達成できた旅となった。

ここで出会った江頭紀子さんには帰国後、「オモロイ坊主を囲む会」の飲み会に誘われた。

藤川さんのオモロイ説法にハマるタイプの似た者同士でオモロイ人達だった。これではまだまだ藤川さんとの縁は切れそうにないなあ。更にはこのメンバーを中心に日本上座部仏教協会設立へ向かう2003年春だった。

寺の屋上が旅のメインになるとは

クティの屋上から見る寺の風景

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2019年12月号!

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

 

高部務『あの人は今 昭和芸能界をめぐる小説集』

著者は1968年に高田馬場にある大学に入学、と『一九六九年 混乱と狂騒の時代』の冒頭にある。ベトナム反戦運動のさなか、立川の高校に通っていたというから60年代末を多感な時期に体感したといえよう。そんな著者が週刊誌のトップ屋稼業をはじめた70年代からのエピソードをもとに、昭和の空気を味わうがごとく切りとった小説作品集である。実在の人物をもとにした小説であれば、仮名を用いてもそこはかとなく登場人物の息づかいが感じられ、暴露ものではないと思いつつも「あっ、これは誰それだ!」という興味が先を読ませる。なかなかのエンターテイメントなのだ。

たとえば、表題作「あの人は今」の西丘小百合は南沙織である。おりしも出版社系週刊誌の黎明期で、スクープをねらう芸能記者のうごき、事務所と結託した番組スタッフのうごめき、そしてその結果としての女性歌手のささやかな夢の実現。彼女が沖縄米軍基地および日米地位協定の理不尽さに憤りをもっているのは、わたしのような芸能界門外漢でも知っていることだけに、読んでいてリアルで愉しい。

◆昭和の芸能一家の喜悲劇

その西丘小百合こと南沙織が南田沙織としてブラウン管に登場する「蘇州夜曲」は、福島県いわき市の一家の父親が娘のかおりを歌手デビューさせようと奮闘する、70年代にはよくあった東北と東京の光景ではないか。700万円で戸建ての家が造れた時代に、資産家とはいえ1千万円単位でデビュー資金を要求される。坪3000円の土地担保で融資された4千万円は、すでにレコード大賞の審査員や著名な音楽家たちの懐に渡っているのだ。1億円近くを詐取された父親は、警察に告訴するも娘とカネはもどってこない。芸能界の華やかなステージの裏側に、こんな喜悲劇(せめて喜びもあったとしたい)は山とあったのだろう。我慢という名前の芸能プロデューサーが実刑判決を受けたのが、父親とこの作品にとっては唯一の救いだ。名曲蘇州夜曲が物語の背景にあることがまた、昭和のロマンを伝えてくれる。

「同窓生夫婦」も芸能界デビューを夢みる少女の物語だ。第二の山口百子(=山口百恵)を夢みた少女は、地方の勝ち抜き歌合戦をへて芸能プロに所属することになる。母親を援けたいという動機はしかし、女と駆け落ちをした父親との再会という、やや救いの乏しい現実から出発している。これが作品中に果たされないのは、読者にとっては虚しい。

ともあれ彼女は堀米高校(=堀越学園)に通いながら、同級生のライバルたちと凌ぎを削る。しかるに、凌ぎを削るのは異性関係の足の引っ張り合いというか、スキャンダルであるのは言うまでもない。少女は芸能プロの男とのあいだに出来た子供を堕胎したことを、新人賞をめぐるライバルの同級生にリークされ、賞レースの年末までに華やかなステージから沈んでしまう。救いは彼女を慕って(?)いた中学からの同窓生の男の子だった。おそらく今でも大半の歌手志望者が落ち着く、カラオケスナックを第二のステージにした歌手生活が、彼女のささやかな幸せを受け止めたのだ。喝采。

「マネージャーの悲哀」の麻田美奈子モデルがあるとすれば、大阪から上京した赤貧の母娘と言う設定なので、浅田美代子ではなく麻丘めぐみであろうか。そのアイドル候補に怪我をさせた件(濡れ衣)で母親に土下座させられたマネージャーは、女子大生ブームの新しいアイドルにも身代わりの土下座をさせられた末に、暴露本ライターに行き着く。ベストセラーになったらしく、かれは国道沿いにホルモン店をいとなむ。何というかまぁ、めでたし。

順番は前後するが「消えた芸能レポーター」は喫茶店のボーイから記者(芸能レポーター)になった元受験生が、じつは強姦犯だったというミステリアスな展開だ。作品のなかばからドキュメンタリータッチに感じられる筆致は、この原案が事実だったことを感じさせる。失踪した元強姦犯は樹海の中で死んだのか、それともまだ生きているのか――。


◎[参考動画]南沙織 夜のヒットOPメドレー

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』では「『季節』を愛読したころ」を寄稿。

高部務『あの人は今 昭和芸能界をめぐる小説集』

◎朝日新聞(2019年11月23日付)にも書評が掲載されました!
高部務〈著〉『あの人は今 昭和芸能界をめぐる小説集』(評者:諸田玲子)

いよいよ鹿砦社創業50周年の集いが近づいてまいりました。あらためて感慨深いものがあります。

 

最初の書籍、中村丈夫編『マルクス主義軍事論』

一般的にも、一つの会社が50年もつというのは大変な話だといいます。現在起業ブームだといわれます。若者が企業で束縛されるのは嫌だと簡単に起業しますし、また定年になった人が、これまでの経験やスキルを活かし起業することもあります。

しかし、会社を興すのは誰でもできますが、これを継続させることのほうが断然大変だし困難です。どれだけが成功し、長く続いているでしょうか、まさに「センミツ(千に三つ)」の世界だと思われます。

鹿砦社は、1969年に4大書評紙の一つ『日本読書新聞』(廃刊)の組合員4人で創業しました。また、2代目は2人の共同代表で、3代目が私ですが、私の前の6人の内5人は既に鬼籍に入られました。

このたび創業50周年を迎え、当時のことを調べました。わからなかったことが、かなりわかりました。唯一の生き証人、現在『続・全共闘白書』の事務局を務める前田和男さんが証言してくれ、これは創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に収められています。

私ももう若くはありません。やれることに限りがありますが、あと数年、頭が回り体力が続く限り、鹿砦社の創業前後のこと、その後のほうは私が先輩らの意志を引き継ぎ、日本の転換期に起きたこと等を記録していきたいと考えています。

 

こんなこともありました

来る12月7日(東京)、12月12日(関西)での集まりには多くの方が賛同され出席されることになっています。有り難いことです。これは、鹿砦社にもまだやるべきことが残っていることの証だと、自分なりに解釈しています。期待もまだ残っています。

私としては、まず第一にホリエモンや重信房子さんらも幽閉中に聴き感動したとされる「プリズン・コンサート」が、新年早々未曽有の500回を迎える「Paix2(ペペ)」の支援を継続・拡大していくことです。ギターができ作詞・作曲ができ歌を歌えても、また車を運転できても(各地の刑務所は辺鄙な所にありますから自前のワゴン車で向かいます)、まずできることではありません。芸能人のように一度二度は行けても100回も200回もできることではありません。ましてや500回も!「Paix2」の活動を見て、「日本もまだ捨てたもんじゃない」と感じますし、こういうピュアな志のある人をこそ応援しなくてはなりません。「Paix2」が紅白歌合戦に出るまで(一度ノミネートされたことがあるとのこと)支援していきたいと思っています。

歌う「Paix2」

記念本が続きますが、500回ののちに、500回のドキュメントも入れたプリズン・コンサート500回記念本を出版いたします(来年2月刊行予定)。さらにファン・クラブも強化し今後の活動をバックアップします。

次に、わが国唯一の反(脱)原発雑誌『NO NUKES voice』の継続です。2014年8月に創刊し、もう5年経ちますが、ずっと赤字です。当時イケイケの時期で、1千万円を準備しましたが、それもとうに底を尽きました。正直のところ、日本には反(脱)原発雑誌はないから、すぐに採算が取れ安定するだろう……という気軽な気持ちで始めましたが、反(脱)原発運動や住民運動に関わる方々からの期待が大きな反面、実売はなかなか伸びません。しかし、私たちは諦めずに粘り強く持続する所存です。関連して、設立30年を迎えた「たんぽぽ舎」についても、ささやかながら支援して行きます。

もう一つ、来年4月創刊15周年を迎える月刊『紙の爆弾』の拡大・継続です。同誌は、採算はトントンまで来ていますが、伸び悩んでいます。しかし、大小問わずメディア全体が腐敗・堕落・自己規制・権力迎合へと向かい、それに無感覚です。私たちは、いかなる困難があろうとも、小なりと雖も、あくまでも〈タブーなき言論〉の旗を掲げ続けていきます。

当面こうした三つを中心として、鹿砦社は、まさに雪崩打つ反動化の嵐に抗する〈砦〉として次の50年に向けて出立いたします。

12・7(東京)、12・12(西宮)での鹿砦社創業50周年の集いに圧倒的に結集し、まずは50年間、いろんな困難にぶち当たりつつも、これを乗り越え生き延びたことを共に祝い、気持ちを新たに頑張っていこうではありませんか!

◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

鹿砦社の出版活動を支持される皆様方

いよいよ鹿砦社創業50周年記念の集いが近づいてまいりました。
今回の集いは創業50周年というメモリアルな集いであり、〈特別な集まり〉です。毎年この時期にやっている忘年会(あるいは新年会)とは全く趣旨が異なります。これまで出席されなかった方こそぜひご出席をお願いする次第です。

◆ 鹿砦社創業50周年記念の集いのご案内! ◆

 

『マルクス主義軍事論』から50年後に刊行された『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

私たちの会社=鹿砦社は1969年創業、本年創業50周年を迎えました。決して平坦な道程ではありませんでした。その都度、心ある皆様のサポートで乗り越えてまいりました。これからも茨の道が待っているでしょうが、2005年の突然の出版弾圧を乗り越えたように、どのような困難にも立ち向かい乗り越えていく所存です。

また、創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』も去る10月29日に発売になりました(創業前後の経緯は文中、創業メンバーの1人、前田和男氏インタビューで明らかにされています)。

創業50周年と出版記念、さらに忘年会も兼ね、東西で集まりを持ちます。会場は、これまでの活動で縁(ゆかり)のある所です。たとえ狭くても(広くはない!)、質素でも(豪華ではない!)、私たちにとっては意味のある所です。

加えて、私たちが支援している女性デュオ「Paix2(ぺぺ)」が全国の刑務所・矯正施設を回る「プリズン・コンサート」も来年早々(1月18日、関東圏某刑務所)前人未踏の500回を迎えようとしています。これは大変なことです。「プリズン・コンサート」500回を目前にした「Paix2」も、多忙な中、どちらの集まりにも来て歌ってくれます。

創業50周年を皆様と共に祝い、次代に向けて気持ちを新たにスタートいたしたく思います。どなたでも参加できますので、ぜひ多くの皆様方のご参集をお願い申し上げます!

【東京】時:12月7日(土)午後3時から(午後2時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:スペースたんぽぽ
(東京都千代田区神田三崎町2-6-2ダイナミックビル4F。TEL03-3238-9035。JR水道橋から神保町方面へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートとトーク、その後懇親会(飲食有り)
[賛同人(出席される方のみ)]山口正紀(ジャーナリスト)/小出裕章(脱原発研究者)/立石泰則(ルポライター)/板坂剛(作家・舞踊家)/大口昭彦(弁護士)/足立昌勝(関東学院大学名誉教授)/森奈津子(作家)/林克明(ジャーナリスト)/横山茂彦(情況出版)/柳田真(たんぽぽ舎共同代表)/鈴木千津子(同)ほか。(敬称略) 
     
【関西】時:12月12日(木)午後6時から(午後5時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:西宮カフェ・インティライミ
(西宮市戸田町5-31。TEL0798-31-3416。阪神・西宮駅市役所口から川沿いに南へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートと懇親会(飲食有り) 
[賛同人(出席される方のみ)]山田悦子(甲山事件冤罪被害者)/新谷英治(関西大学教授)/水谷洋一(西宮冷蔵社長)/森野俊彦(弁護士)/大川伸郎(弁護士)/飛松五男(コメンテーター)/渡部完(元宝塚市長)/田所敏夫(ライター)ほか。(敬称略)
 
*どちらも、準備の都合がありますので、事前(東京=12月2日まで、関西=12月5日まで)に鹿砦社本社(matsuoka@rokusaisha.com 電話0798-49-5302)、もしくは東京編集室(nakagawa@rokusaisha.com 電話03-3238-7530)へお申し込みください。
**参加者全員に、魂の書家・龍一郎揮毫の2020鹿砦社カレンダー、記念品を贈呈いたします。    以上  

弾圧10周年に龍一郎が贈ってくれた檄

タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』

「風化」に楔を打ちこむ『NO NUKES voice』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

「SNSで助けを求めていた子を助けてあげた。正しいことをした」

共同通信の報道によると、大阪市の小6女児誘拐事件の容疑者・伊藤仁士(35)が、逮捕前の調べでそのような趣旨の供述をしていたという。これをうけ、ネットでは、伊藤が自分の犯罪を正当化している可能性や、刑事責任能力が無いと装って罪を免れようとしている可能性を疑う声が飛び交っている。

しかし、伊藤が取り調べでそのような異常な供述をしているのが事実なら、本当に精神障害を患っている可能性が高いとみるのが妥当だ。過去の同種事件でも、犯人が精神障害に陥っており、取り調べや法廷で異常な供述をした例が複数あるからだ。

◆精神障害でも有罪とされた2人の女児監禁犯

1人目は、埼玉県朝霞市の中1女児監禁事件の寺内樺風(27)。2016年に逮捕された当時、千葉大学の学生だった寺内は、被害女児を自宅で2年余り監禁していた間、アサガオの種で合成麻薬のようなものを作り、少女の食事に混ぜて食べさせていたとされる。これだけでも相当異常だが、さいたま地裁での公判でも裁判長に職業を聞かれ、「森の妖精」と答えたのをはじめ、「私は日本語がわからない」「ここはトイレです」などと意味不明な言葉を次々に発し、世間を騒がせた。

そして2人目は、2012年に広島市で小6の女児をカバンに入れ、タクシーで連れ去ろうとした小玉智裕(27)。小玉は当時、成城大学の学生だったが、事件を起こした時は運転免許を取得するために広島市に滞在していた。逮捕された時は小玉を取り押さえたタクシー運転手や社会人野球選手のお手柄が話題になったが、広島地裁の裁判では、「自分の手足になる人間をつくろうと思った」「植物工場を作って、研究者や労働者にしようと思った」などと特異な犯行動機を語った。

そんな2人はいずれも裁判で完全責任能力を認められ、寺内は懲役12年、小玉は懲役3年の判決がそれぞれ確定している。だが、寺内については、精神鑑定で発達障害の一種である自閉スペクトラム症の傾向があったと判定されており、小玉も精神鑑定で「広汎性発達障害を基盤とする空想癖」があり、それが犯行に影響した判定されていた。社会の注目を集めた重大事件では、被告人が犯行時、明らかに重篤な精神障害に陥っていた場合も裁判で完全責任能力を有していたと認定されるのが常だが、この2人もそうなったわけである。

◆伊藤が異常発言をしているのが事実なら・・・

翻って、今回の大阪女児誘拐事件の伊藤については、現時点でまだ責任能力について深く考察しうるに足る情報は報道されていない。しかし、寺内や小玉に続き、女児を誘拐したり、監禁したりしようとした犯人がまたしても精神障害を疑わせる発言をしている事実だけでも重要だ。

精神障害者の犯行というと、刃物を振り回して無差別に人を刺し殺すような事件のイメージが根強いが、女児を誘拐したり、監禁したりする犯行も精神障害者にありがちな犯行なのではないだろうか。伊藤が報道されているような異常発言をしているのが事実なら、少なくともその可能性が浮上していると言える。

重大事件で犯人が精神障害に陥っている可能性が論点になると、犯人が責任能力を否定されて罪を免れたり、刑が軽くなったりすることを想像し、冷静な思考ができなくなる人は少なくない。しかし、同種犯罪の再発防止のためには、まずは冷静に事実関係を見極める必要がある。

伊藤が身柄を拘束されている大阪府警察本部

▼片岡健(かたおか けん)

全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆岡本医師の診察を受けに滋賀医大附属病院へ向かう

2週間後にわたしは滋賀医大附属病院へ向かった。東京から京都までは新幹線、京都から東海道線に乗り換えて最寄りの瀬田駅で下車。瀬田駅からは帝産バスに乗った。京都には何度も足を運んだことがあったが、滋賀県に目的地を定めるのは初めてで、滋賀医大附属病院は自然豊かな環境に恵まれていた。都心の喧噪との対比が印象深い。

岡本医師の受診待ち患者さんの数は壮絶だった。こればかりは都心の病院と変わりがない。ようやく名前が呼ばれ診察室に入った。挨拶をしようとすると、岡本医師はすでに送ってあったわたしの検査データを注視していた。体調や既往症などの質問に答えた後、少し息をついた岡本医師は、

「あなたのがんは中間リスクです。小線源単独で対応可能でしょう。手術の詳細な予定を立てるためにもう一度、そのあと『プレプラン』とが必要です。遠いですが手術前に受診していただく必要があります。よろしいでしょうか?」

と次のステップを明確に提示してくださった。わたしに異議のあろうはずはない。2月後再診を受け、翌月に「プレプラン」のため再度滋賀医大附属病院への来訪が決まり、予約票を手に帰路に就いた。まだ日没までかなり時間があったから京都で観光をしようかとも思ったが、気持ちの高揚感があり、それを早く家族に伝えたかったので、寄り道することなく新幹線に乗った。車内販売で「ビール」の声をきくと思わず販売員を止めてしまい、缶ビールを1本だけ飲んだ。そのあとは気が抜けたためか、寝込んでしまい、気が付いたのは品川駅到着のアナウンスだった。

◆2泊3日で「死の恐怖」から解放される?

岡本医師の診察を受けただけで、まだ治療を受けていないのに、滋賀に出かけた日以来、わたしの体調は見違えるほどに好転した。初診の翌朝には久々に6キロの早朝ジョギングを再開した。食欲も戻った。体重が10キロ近くも落ちていたので、昼食時など「もう治療は終わったのですか」といわれるほどに、体がカロリーを欲していた。

いよいよ入院の日を迎えた。月曜日に入院して火曜日には手術を受けた。麻酔は部分麻酔で、手術中も岡本医師と放射線科の医師との声を聴きながら手術室に流れる音楽を聴いているうちに「はい、終わりました」。予想よりも早く岡本医師から声をかけられた。

水曜日は放射線の関係で一日外部と最低限の接触に限られる部屋で過ごし、木曜日には早くも退院できた。2泊3日で「死の恐怖」から解放される?信じがたいとは感じなかった。「もう大丈夫」岡本医師の言葉ではないが、自分の内部深いところがそう確信していた。

◆「迷っている場合じゃないでしょ! 誰のおかげでお父さん回復できたの?」と娘の声

初診以降滋賀医大附属病院では、岡本医師に対する嫌がらせの類が発生していることは、おなじ時期に入院していた患者さんから聞いていた。医学の世界ではひいでた医師の足を引っ張ることは、ありうることだろう、程度にしかわたしは考えていなかった。わたしにもビジネスの世界でも同様の経験があったから。

半年に一度の検診だけで、前立腺の状態は落ち着きが確実になったころ「患者会」を結成すると、知り合いの患者さんから連絡を受けた。岡本医師が滋賀医大附属病院から「追放」される危機にあるといわれた。いくら医学界が旧態依然としていたとしても、世界屈指の治療成績を残し続けている医師を、病院から放逐することなど、企業経営者の端くれにあるわたしには信じられなかった。メーカーにあっては商品開発とR&D(研究開発)の重要性は、基本中の基本。病院にあっては治療成績と評判こそが資産と、わたしのような人間は感じるからだ。

しかし、滋賀医大附属病院は予想外に、着実に岡本医師追放に向けて手を打ってくる。寒い時期に患者会から「JR草津駅でデモ行進をする」との連絡が入った。連絡をしてきたのはわたしと同じ日に手術を受けた、九州の患者さんだった。なにかしたい。なんでもしたい。と思いながらも、市民運動に縁のなかったわたしは、正直とまどい、夕食時「こういうことがある」と家族の前で話題にした。

「お父さん迷っている場合じゃないでしょ!誰のおかげでお父さん回復できたの?行くべきよ。ねえお母さん、私たちも行こうよ!」

わたしの優柔不断は、娘と女房の即決の前で完全に無力だった。

◆わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともにスタンディングに参加した

寒い季節にしては暖かい日だった。JR草津駅前には目算で200名近くのひとびとが集まっていた。デモなどに参加したことのないわたしには、この光景もまた驚きだった。こんなにたくさんの人が自分になんの「利益」もないのに集まっている。でも幹部の方々の運営には無駄がなく、家族で参加したわたしたちを皆さん暖かく迎えてくださった。

集会で待機患者の方が切実な訴えをはじめると、数年前の記憶がよみがえった。

「死」。もう、わたしには「死」しかないのか、と不眠に陥り、食欲を失い、自暴自棄になりかけたあの日々。わたしは岡本医師の治療により回復するチャンスを得たことに、謙虚さを失いかけている自分を恥じた。いま話している患者さんはあのときの、わたしとまったく同じことを訴えている!

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

2019年11月26日。わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともに、スタンディングに参加していた。この日は岡本医師が滋賀医大附属病院で手術を行うことができる最終日にあたった。最初にデモに参加して以来、滋賀には10回以上足を運んだ。「なにか社会に貢献したい」とわたしは思うようになっていた。前立腺がんが治癒しただけでなく、なにかが私の中であきらかに変わった。この日わたしは病院内には入らなかったが、岡本医師は淡々と、いつもどおり滋賀医大附属病院における、一応の区切りとなる患者さんの手術を終えたことだろう。

死の恐怖におびえる経験をしたかたであれば、理解できるだろう。あの恐怖から解放された瞬間を。そして事実「死」の恐怖を迫った前立腺がんが岡本医師により治癒したことにより取り戻せた、日常のありがたさを。岡本医師はこの先どうなる?いや、岡本医師の治療を待っている患者さんは?

患者会と岡本医師の闘いは、「仮処分」での勝利をえて、本来であれば治療ができなかった50名近い患者さんの治療を可能にした。努力と行動が「不可能」を「可能」にした。滋賀医大附属病院なのか、ほかの場所なのか、患者会の末席を濁しているだけのわたしに、岡本医師の将来はわからない。でも滋賀医大附属病院正門で夕刻、「岡本医師の治療継続を! 岡本医師、待機患者が待っています!」 なかまの誰かが低い小声ではっきりと病院に向かって宣言した。わたしも小声で彼に続いた。(了)

◎前立腺がんになった──患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語
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[後編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33027

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滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた……

前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた。どうしよう、もう余命は短いのか? 「日本人の二人に一人はがんになる」と聞いてからタバコはすぐやめた。食事もなるべく化学調味料や保存料のはいっていないものを選ぶよう女房に意見した。内臓を冷やすとよくないといわれたので、爾来暖かい飲み物を採るように心がけ、下着も厚めにしてきた。胃カメラ、大腸内視鏡検査も1年ごとに受けている。どの値も正常値から飛び越えることはなかった。血圧や脈拍も。

ことしの健康診断の血液検査で「PSAが高い」といわれた。PSA? なにを示す値であるのかすら知らなかった。産業医からPSAは前立腺肥大や前立腺がんが起きると値が高まる指標だと教わった。いまから振り返れば、当時のわたしは、「お気楽」だった。前立腺がんの理解不足はもちろんのこと、前立腺の機能自体に対して、まったく知識がなかった。産業医はロボット手術を勧めた。

「前立腺の全摘出は難しい手術ではありません。取ってすっきりしましょう」

肌の上にできた「デキモノ」を取るような簡単な手術のような説明だった。入院と手術の日をそこで決めようとされたので「家族に相談させてください」と断って帰ってきた。インターネットで本気で調べだしたのは、あの産業医が気楽に説明してくれたから、逆に怖さを感じたのだ。

◆「月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」

調べだすとますます怖くなった。前立腺を全摘出しても再発率がかなり高いことを知った。再発しなくとも、排尿障害に苦しむ人の声をきいた。たしかに前立腺がんの治療はうまくいっているようだ。だけれども排尿障害があり、常時おむつを着用していないと普通に生活できない。その人は「手術も大切だけど、そのあとの生活も考えて治療法を選ぶべきでした」とメールでアドバイスしてくれた。

「恥ずかしながら小生、月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」厳しいことばでメールは結ばれていた。

小線源治療は前立腺全摘出よりも、術後の負荷が少ないとは聞いていた。だが、前立腺に小さいとはいえ放射能を埋め込む治療法に、なんとなく不安を覚え選択肢の中から早期に排除してしまっていた。さいわいわたしのがんは、一刻をあらそう進行の早い病気ではないらしい。だからといって悠長に構えてはいられない。ほおっておけば、いずれ骨やリンパなどに転移することは確実と忠告されていた。

◆このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる

この頃から、おぼろげだった「死」を現実に考えるようになった。このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる。まだ定年まで何年もある家族を養う身で、早々に人生から「退場」しなければいけないのか。怖い。怖い以上にわたしはまだ「死ねない」。まだわたしの収入に依存している家族はわたしがいなくなったらどうする? 生命保険の死亡給付金は、保険金が高いから一昨年4分の1以下に契約をみなおしたばかりだ。目先の支出にとらわれたのが間違いだったのか……? いや、お金の問題ではないだろう。わたしは平均寿命まで、干支一回り以上の年月が残っている。

家族の面倒はもちろんだが、わたしだって定年退職後にやりたいことがある。退職金が出たら女房と世界一周旅行をしてみたい。女房には話したことはないけれども、きっとこの申し出は歓迎されるだろう。転勤と残業ばかりで、迷惑をかけてきた女房へのねぎらいに、贅沢ではなくとも「世界一周旅行」に出かけるのは、わたしのようなものにとって「身の程知らず」ということなのであろうか。

そんなことはないだろう。けっしてエリートではなかったが、入社以来わたしは、精一杯に会社に尽くしてきたし、そのことはいまの職位が証明してくれるだろう。同期入社で取締役の席に座っているのはわたしひとりである(けっしてそのことを披歴したいわけではない)のだから。バブルのあとの不況時にも、今世紀に入ってからの市場の変化にも、わたしはわたしなりに全力で取り組み、会社にはいくばくかの貢献をできたのではないか、と手ごたえは感じている。

いまは、そういったわたし社会的な経歴ではなく、「存在」としてのわたしがどうなるか、を決めなければならないのだ。いずれやってくる「死」に無謀な抵抗をしようとは思わない。だれにでも訪れるその瞬間は蕭々と受け入れよう、と昔から考えてきた。しかし、事故でもない限り、子供が一人前になってからだろうとしかその時のことは描けなかった。肺がんで40代の若さで亡くなった後輩の葬儀に立ちあったときも、わたし自身の「死」についての現実感はなかった。

焦りと恐怖が日ごとにました。食欲も失い半年で10キロ近く体重が落ちた。調べれば、調べるほど「悪い想像」しかできなくなっていた。日課のジョギングを欠かすようになって何か月が過ぎただろうか。晩酌などする気にもならない。

◆ベテランの看護師さんが岡本医師を教えてくれた

岡本圭生医師

滋賀医大附属病院の岡本医師の情報を知らせてくれたのは、わたしの会社の健康診断を請け負っている会社の看護師さんだった。産業医とわたしの会話に同席していたベテランの看護師さんが「一度コンタクトしてみてください」と連絡をくれた(わたしの会社の健康診断には、産業医だけでなく看護師さんからのアドバイスも受けられるサービスがついていた)。

岡本医師の情報を調べて驚いた。わたしのような中間リスクだけではなくハイリスクの患者さんまで受け入れている。それだけではなく超ハイリスクの治療でも95%以上再発させていない。本当か? 滋賀医大附属病院のサイトにアクセスすると、岡本医師のメールアドレスが掲載されている。「大学病院で自分のメールアドレスを公開するお医者さんがいるのか」このことはわたしの焦りを増すことになった。「ほかの患者に先を越されてわたしの手術が遅れたら困る!」利己的であるけれども、わたしは他者に対する配慮ができる状態ではなかった。早速岡本医師にメールを送った。

返信があったのは次の日の夕刻だった。会社のメールアドレス宛に「詳しい情報を送ってください」と。びっくりした。忙しいであろう大学病院のドクターが見知らぬものからのメールに1日もたたず返信をくれたことに。わたしは検査結果の詳細を再度岡本医師にメールで送信した「一度私の診察を受けてください」と短いが診察を受けてくださるメッセージが返ってきた!

その晩久しぶりに日本酒が飲みたくなった。美味かった。まだ診察も受けていないのに半年以上ぶりに気持ちが楽になった。(つづく)

2019年1月12日草津駅前集会

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

まだ陽が昇らぬ朝、寺を出る藤川さん

◆市場の中を列車が通るメークロンでの托鉢

ワット・ポムケーウを訪れた翌朝、藤川さんを待っていると、6時過ぎにその姿が現れた。

托鉢に付いて行く先はメークロン市場。ここは世界中から注目されている市場だと聞かされていたが、そこはテントが張られた中の、野菜や果物や魚が並べられたごく普通の市場だった。

足下を見れば線路が敷かれており、野菜などの食材は線路まではみ出て並べられ、すぐ先には国鉄メークロン駅が見え、やがて列車が通るとはとても思えないほどの市場の中で人が行き交っていた。

市場の中を歩く足下は線路

線路上でサイバーツを受ける藤川さん

市場の中の線路を歩く

他の寺の比丘も後ろに付く街中の托鉢

藤川さんは市場内を托鉢し、朝の静寂な道を歩いた過去と違いやや賑やかな、また信者さんが藤川さんに笑顔で話しかける光景もある市場らしい雰囲気も重なっていた。

市場の外まで廻りきると「もうすぐ列車が発車して、この辺ガラッと変わるから見ときぃ!」と言って私を残して先に寺に帰られた。

やがて駅の方からアナウンスが聴こえてくると、線路まで置かれていた野菜などの売り物は瞬く間に線路脇まで下げられ、突き出していたテント屋根は折り畳まれて引っ込められた。

列車は汽笛を上げながら迫って来る。

当然ながらスピードを上げられる区域では無く、人が速歩きする程度のスピードで、幅の狭い位置で通過を待つ人は身を屈めるように体勢を作るが、手を伸ばせば列車に触れるほどの距離。

出発間際の列車

この列車が倒れ掛かって来たら身体はペシャンコだなと分かる重量感。日本では許されない至近距離である。

2両編成の列車は汽笛を上げながら市場をギリギリ擦り抜けるように通過して行った。

通り過ぎた途端、テント屋根は引っ張り出され、せり出した屋根がまた重なり合うゴチャゴチャした市場に30秒足らずで何事も無かったかのように元に戻ってしまった。

舞台劇の場面入れ替えのような素早い光景だった。

このメークロン市場は見学ツアーも組まれている観光地でもあるようだ。

汽笛を上げながらゆっくり進んで来る列車

通過を待つ人はギリギリの位置

我に返ったように藤川さんを追って寺に戻ると、他の比丘達も帰って来る様子が伺え、托鉢でサイバーツ(お鉢に入れる寄進)された品々はサーラー(葬儀場・講堂)に運ばれ、白飯は一旦タライに集められ、頭陀袋に入れられた惣菜も一箇所に集められるのはどの寺も同じ。

日本で普通にビジネスに追われた生活を送って再びタイで托鉢に遭遇すると、「懐かしいなあ、俺もこんな風に托鉢に行って、寺でバーツを空けていたんだなあ!」と眠っていた脳が蘇えるように鮮明に思い出した。

この寺も4~5名のグループに分かれて短い読経の後、朝食となった。皆、無口に静まり返って食事が進む。時折、“カチン、コン、ススーッ”とあちこちで皿とスプーンが当たる音、惣菜が入れられたタライや容器が床に触れたり擦ったりする音が広いサーラーに響く。こんな些細な現象が妙に懐かしい。意識していなかったことも覚えているもんだなと思う。

食事が終わると短めの読経があり比丘達はその場を去る。そこでデックワット(寺小僧)に呼ばれて私も一緒に食事させて頂いた。

市場の外を歩く

読経して食事に入る比丘たち

◆イタズラの効果

朝食後、しばらくして本堂に移って30分ほどの読経があり、今日も覗かせて貰った。朝は葬式やニーモンなど無い限りは読経の時間となるようだ。後は自由な時間に入り、泊めて貰った倉庫の縁側で藤川さんとまたのんびり雑談に入ったり、昼寝をさせて貰った。

私が出家した年以降、毎年ねだられる古風ある日本の風景カレンダーは、主に春原さんが送ってくれていたが、今回はタイに来る前、1本だけ私がイタズラで7枚綴り(表紙と2ヶ月単位)のあるカレンダーを送っていた。それがある日の夕方、藤川さんが夕涼みをする境内のベンチで若い比丘らと雑談していたら、デックワットが筒状の郵便物を持って来たという。

静かな食事、食器などのわずかな音が響く

「カレンダーやとすぐ分かったから、“日本の風景でも見せたろ”と思うて皆の前で開けて見たら“ヘアヌード”やないか。慌てて『これはヤバイ、見たらアカン!』言うて丸めて部屋に持って帰ったけど、若い比丘らは一斉に静まり返って目がテンになっとったわ。そしたら夜遅くになって若い奴の一人がワシの部屋ノックしよった。

『何や?』言うたら、『すんません、あのカレンダー、貰えませんか?』と。

『ワシが持っておっても仕方無いからやってもええが、こんなモン見てどうするんや?』って言うても“ニヤッ・・・!”と笑うだけやった。あれ貰いに来るの勇気要ったやろうな!」

私の藤川さんへの恥かかせ狙いはあまり効果は無かったが、トンだ波紋が広がったようだ。奴らも修行の足りない未熟な連中だこと。

寺に帰れば犬が出迎えるのは日常のこと

和尚さん(手前)を先頭に読経が始まる

定位置は無く、徐々に集まる比丘たち

◆シルクロードへ向けて

ただ藤川さんの様子を伺いに来ただけの訪問だったのに、またこの雑談で興味深い話を持ち出された。

「来年4月頃に、四国御遍路八十八箇所の旅に出ようかと思うとるんや、旅に出るのにいろいろ準備せないかんモンがあるんやけど、お前、携帯電話準備してくれへんか?」

なんやかんやと言い包められて「OK~!」と言ってしまって後悔したのは帰りのバスの中だった。

“俺って悪徳商法に丸め込まれるタイプだなあ。人の優しさに付け込んで来るからタチが悪い。まあ、藤川クソジジィの為に、今回限りで言うこと聴いてやろう!”ってもう何回目だろう。

その寺から帰る際は、門まで見送ってくれて、「じゃあまた4月にな、頼むで!」と言うこと言えば“気が変わらん内に!”と言わんばかりに、早々に引き上げて行かれた。あのジジィめ。

この藤川さんの野望は、
「いずれは御釈迦様が歩いたシルクロードの道をワシも歩いてみたいんや。その予行演習として足腰を鍛える為に、四国八十八箇所の霊場を歩くことにしたんや。道中は乗り物を一切使わず、宿泊は寺か巡礼宿、民家、野宿で通して、食事も托鉢か仏心ある人から供養で賄おうと思って居る。一日でも二日でも一緒に歩いてくれる人があればと思うて、何時でも連絡取れるように携帯電話を持って歩きたいんや!」と言う。

雑談に入る藤川さんの野望ある眼力

そして私にも「一日でも付き合って写真撮ってくれたら有難いし、道中、テーラワーダ仏教の仏教の布教を兼ねて仏陀の教え、真の仏教を伝えながら歩こうと思う!」と計画しているという。

とにかく一箇所に留まるのが嫌いで新しいことにチャレンジしたがる藤川さん。歳を重ねてその勢いがより一層増してきた感じがする。私が四国まで付いて歩くのは難しいが。

◆伊達秀騎の次なる挑戦!

残りのバンコク滞在で幾つか用事を済ませ、最終日に泊めて貰ったのは伊達秀騎が住む高層マンション。3年前にタイに移り住み就職し、この頃は個人で事業を立ち上げていた。一階にガラス張りの伊達くんの事務所があり、4~5年前のキックボクサーとしての姿はすでに無く、ビジネスマンの風格抜群の姿があった。これからムエタイジムを始める計画があると言う。日本人がムエタイの本場で始めるムエタイジムは果たして上手くいくだろうか。チャンピオンには届かなかった伊達秀騎のタイでの難しい挑戦である。

私の周りには野望持った奴多いなあ。藤川さんと伊達くん。二人の挑戦は私にも刺激を与えてくれる存在である。

今回の旅は慌しく終わってみれば楽しい旅だった。また来たい。御世話になった寺やジムなど、まだ行かねばならないところもある。次はいつ来られるだろうか。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

11月7日発売 月刊『紙の爆弾』2019年12月号!

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11月21日大津地裁で滋賀医大病院の患者であった4名が、同病院泌尿器科の河内明宏、成田充弘両医師を相手取った「説明義務による損害賠償請求訴訟」の証人調べが行われ、この日は岡本圭生医師が証人として証言台に立った。

2週間ほど前に、大津地裁はこの日の法廷の傍聴を抽選とすることを、HPで発表していた。抽選で傍聴席に入ることのできる数は38名だ。患者会を中心の38を大きく上回る人数の方々が抽選を受けた。

岡本圭生医師

◆証言台に立った岡本圭生医師

10時30分、開廷の法廷では、この裁判で初めて記者席が設けられ、開廷前にはMBSによる法廷撮影も行われた。原告側は原告のお二人を含め弁護団など総数9名が着席、岡本圭生医師も着席し2分間の法廷撮影が行われた。法廷撮影の際、被告側代理人はなぜか入廷せず、不思議な印象を受けたが、その原因は閉廷後明らかになる。

ほぼ定刻通りに開廷が宣言され、原告、被告、補佐人(岡本医師)3者から書証の提出があり、弁論及び確認されたのち、岡本医師が宣誓を行い。証言に入った。原告側から岡本医師の質問を担当したのは、古山力弁護士だ。質問は岡本メソッドの特徴や、放射線医との連携の方法などを確認することからはじまり、標準的小線源治療と岡本メソッド違いを具体的な例を挙げながら明らかにしていった。

そして古山弁護士が「シード挿入のための穿刺(せんし)の技術について、被告らは『前立腺の“生検”(前立腺にがんがあるかないかを細胞を取り出し調べる検査)ができれば可能であると主張していますが、そうなんでしょうか」との質問を発すると、岡本医師は「私のやっている施術は、被膜ギリギリに穿刺をする、理想的な針の配置をするものです。ポジショニングからシードを置いていくのは、ミリ単位の精度を要する技術です。単純に前立腺の組織を針を刺して取ってくるのとはまったく異なる、まったく違うものです」と「生検ができれば小線源治療ができる」との被告側の認識の誤りを、明確に否定した。

質問はさらに滋賀医大内の「医療安全委員会」で岡本医師に対する合併症の指摘がなされたことに移ったが、この件については、偶然にも期日の4日前に「朝日新聞デジタル」が「患者の同意なくカルテを外部に示す 滋賀医大、外部の医師に」との記事で問題が取り上げられており、滋賀医大ぐるみで岡本医師を陥れるための工作が展開されたとして、滋賀医大の行為は個人情報保護法違反の疑いがあると指摘されていた。「説明義務による損害賠償請求訴訟」と直接の関係はないものの、滋賀医大に巣くう「法律軽視・無視」体質が露呈した事件であり、ここでも岡本医師への誹謗中傷を狙った攻撃であることから、「医療安全委員会」についての質問がなされたのであろう。

続いて、被告成田医師と岡本医師がどのような関係にあったのか、成田医師がひとりで小線源治療施術可能だったのか、被告が主張する「チーム医療」体制があったのかどうかを明らかにする質問が発せられた。

◆岡本医師の印鑑が勝手に使われ、偽造文書が被告側から裁判所に「証拠」提出されていた!

そしてこの日、最大の驚愕の事実が明らかになる。古山弁護士が「乙C10の3枚目を示します。これは泌尿器科講座の教授である河内教授と小線源講座特任教授である岡本先生の連名で作成され、成田准教授を小線源講座の兼務を学長に求めるものです。これは被告らから裁判所に証拠提出されています。証拠提出される前にこの書面の存在を知っていましたか」の問いに対し岡本医師は「知りません」と回答、古山弁護士が「見たこともありませんか」と確認すると「岡本医師は見たこともありません」と明確に答えた。さらに古山弁護士が「右上に岡本先生の名前がありますね。そのに「岡本」の印が押されたものですが。印を押しましたか」と聞くと岡本医師は「押したことはありません」と回答。

大変な事態が明らかになった。岡本医師の印鑑が勝手に利用され、文書が偽造され、こともあろうにその偽造文書が裁判所に被告側から「証拠」として裁判所に提出されていたのだ。つづく質疑で岡本医師は「この件については大津警察に刑事告発をして、現在捜査中だと伺っています」と事件は民事から刑事へと広がりを見せていることを明らかにした。

ついで、被告側代理人からの反対尋問に移ったが、取り立てて報告すべき内容はないのですべて割愛する。

偽造された有印公文書

岡本圭生医師(中央)

◆「被告側の反対尋問は枝葉末節…主尋問の根幹は全く崩せないで終わった」(井戸謙一弁護団長)

裁判終了後、弁護士会館で記者会見が行われた。

井戸謙一弁護団長が冒頭「今日は傍聴席を埋め尽くしていただきエールを送って頂きあがとうございました。皆さんもお分かりになったと思いますが、岡本先生は40分でぴったりと素晴らしい証言をして下しました。被告側の反対尋問は枝葉末節なところをちくちくと突くというもので主尋問の根幹はまったく崩せないで終わったと思います。争いの中心に至るものではありませんでした。次回以降は病院側の関係者の証人尋問になります。こちらが反対尋問をする立場になりますので、充分準備して臨みたいと思いますので引き続き支援をお願いいたします」と総括した。井戸弁護士は次の予定があるためにここで退出した。

◆「標準的小線源治療もやったことのない成田医師が岡本メソッドをできるのか…」(古山力弁護士)

引き続き尋問を担当した古山弁護士が期日の概略を報告した。

「本訴訟の中心はあくまでも原告の方々ですが、岡本先生がどのように関わっておられたか、そして岡本メッソドとはどのようなものであるか、特殊なものであるので陳述書には書かれていますが、口頭で説明頂くのが良いと判断しました。時系列ではなくピンポイントで質問をしました。重要なことを申し上げますと、被告らは岡本医師が指導医での成田医師の治療を計画していました。『本当にそんなことができるのですか』、ということをまず岡本先生から説明してもらいました。成田医師をやったことはない。これは争いのないことです。では標準的小線源治療もやったことのない成田医師が、本当に岡本メソッドをできるのかと。そもそも小線源治療とはどういうものなのか岡本メッソドとはどういうものなのかを説明していただき、未経験のものがやるとどれくらい危険なことかを主に話していただきました。その絡みで今回の原告の皆さんにはどんな不適切なことがあったのかを説明していただきました。後半は成田准教授について偽造文書が出ていたこと、成田准教授をどのように止めたかなどを聞きました」との報告があった。

◆「権力に任せて不正を横行させる連鎖は断ち切らないといけません」(岡本圭生医師)

次いで岡本医師の話があった。

「まず弁護団の先生にお礼を申し上げます。ようやくこの日を迎えられ私の仕事ができました。また今日もたくさんの患者さんたちが来ていただき、これが私にとっての心の支えです。わたしの願望は今も待っている前立腺がんの患者さんを一刻も早く今まで通りに助けられるようになりたい。どうしたらいいか皆さんの力やお知恵をお願いしたいと思います。今回の問題は故意の『説明義務違反』です。成田医師に経験があろうがなかろうが、最初から最後まで患者さんを騙さないといけないことをやろうとする。それがばれそうになったら隠蔽して逃げ切ろうと考えている。こんな国立大学病院を許してはならないということです。私と大学の闘いではもちろんないわけです。ここにおられる待機患者さんを含めてこれは一つの革命だと思います。医療を医学村=一部の権力者の私有物に留めるのか、患者・市民が取り戻すのかその闘いだと思います。人は死んでいませんが極めて事件性の高い問題なのでジャーナリストの方もしっかりと記事を書いていただいて、大いに『医療は誰のためにあるか』を真剣に議論していただきたいと思います。
 相手側の弁護士の質問には特にいうことはありません。最初の質問で『相手にならないな』と思いました。滋賀医大は一度リセットしなければ仕方ないでしょう。声を挙げようにも上げられない病院、学生。こんなファシズムのような大学は一度リセットしないとだめです。来週以降管理者たち、自分達のメンツを守るために、皆さんの命を犠牲にしようとした連中が出てきます。陳述書は配布した通りですが、今回分かったことは滋賀医科大学は司法の場にも常に、捏造したものを出してくることです。19日に朝日新聞が私のインシデントについて勝手に外部に出している。あるいは「事例報告委員会」なるものが、開かれてもいないのに議事録をでっちあげてインシデントをでっちあげている。あるいは、病院のホームページで私の小線源治療が、大したことはないと貶めるような捏造を掲載し、大阪高裁における仮処分の抗告にまで出している。
 極めつけがこれです。きょうも争点になりましたが『成田准教授を併任准教授にする』という文書。私が成田准教授は併任準教授にふさわしいとしている。これは裁判に初めて出てきて、こんなものがあったと知ったわけです。明かな有印文書偽造・行使です。この件は大津警察で告発が受理されています(告発人は岡本圭生医師、被告発人は河内明宏医師、告発日は2019年7月2日)。受理されているということは捜査中ということです。この点どうなっているのかをジャーナリストの方々は大津警察に是非追及していただきたいと思います。こういうものを司法の場に次々に出してくる。どうしようもないと思いますよ。これでは滋賀医科大学は公益法人として成り立たない。来週以降も管理者や脅されて寝返ってしまった放射線科の河野医師も出てきます。こんな風潮が漂っている限り、患者さんは安心して受診できないし、学生さんは安心して勉強できません。
 私に突きつけられた状況はヤクザの舎弟になるのか、正義を果たしたらお前は打ち首だということです。もし河内医師の要求通りに騙して、ここにおられる原告の方に対処していたら、私はとうに自死していますよ。そういうことを要求されたのが若手であれば逃れられません。権力に任せて不正を横行させる連鎖は断ち切らないといけません。市民と医学村の闘いとしてとらえる必要がある。ここで変わらなかったら変わらないと思いますのでよろしくお願いいたします」
と思いを一気に吐き出すように語った。

有印公文書を示す岡本圭生医師

有印公文書偽造。ここまでの暴走が過去例にあるのだろうか。記者からの質疑で「弁護団の皆さんには、過去公的機関が裁判に偽造有印文書出してきた経験があるか」の質問に対して、いずれの弁護士も「経験がない」と回答していた。

来週末の11月29日(金)には河野医師、塩田学長、松末院長の証人尋問が行われる。闇はどこまで暴かれるのだろうか。

さて冒頭法廷撮影の際に、被告側代理人の姿がなかったことを紹介した。これまでの期日では代理人は2人だったがこの日はこれまで見たことのない、人物が新たに加わり3名となっていた。わたしはてっきり新たな弁護士が追加で選任されたのであろうと考えていたが、裁判後「あれが成田医師ですよ」とある患者さんから伝えられた。被告成田医師はテレビに映るのを避けた。そうも想像できる。引き続きこの事件の展開は注目してゆく。

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▼田所敏夫(たどころ としお)
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月刊『紙の爆弾』2019年12月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

自分が寄稿させていただいた本を解説するのも、最近では「自著を語る」というスタイルで雑誌や研究会に定着している。今回、デジ鹿編集部の要請もあって、いわば「共著」本を書かせていただくことになった。この本の肝心な部分は、それなりに学生運動や党派の歴史を知っている者にしか書けないということで、お鉢が回ってきたものとみえる。

もっとも「自著を語る」というスタイルは、人文系の専門書に特有のものであって、大著を読みこなす評者が限られているために、ふつうに書評を頼めば数ヶ月を要し、肝心の著書が本屋さんから返本されたころに書評が出るという、困った事態を回避するのが目的でもある。この書評がデジ鹿に記載されるころに、本書はまだ本屋の店頭を飾っているだろうか。

◆「7・6事件」とは何か

何を置いても、本書の最大の読みどころは「7・6事件考」(松岡利康)である。1967年10・8羽田闘争を反戦運動の導火線とするなら、68年は全共闘運動の大高揚の年、パリの五月革命をはじめとするスチューデントパワーの爆発。いわゆる68年革命の翌年、69年は挫折の年である。1月に東大安田講堂が陥落し、古田会頭以下の辞任と自己批判を勝ち取った日大闘争も、佐藤栄作総理の「政治介入」によって解決の出口が閉ざされていた。

全共闘運動が崩壊するなかで、70年安保決戦を日本革命の序曲とするために、ブント(共産主義者同盟)は党内闘争に入っていた。国際反戦デーの「闘争目標を新宿で大衆的に叛乱をめざすべきか、それとも日本帝国主義の軍事的中枢である防衛庁攻撃にすべきか」をめぐって、政治局会議で幹部たちが殴り合うという事態(68年秋)もあった。

そして「党の革命」「党の軍隊建設」を掲げ、首相官邸をはじめ首都中枢を3000人の抜刀隊で占拠し、前段階蜂起をもって日本革命の導火線にする。という主張をもった、のちの赤軍派フラクがブントの全都合同会議を襲ったのが、7・6明大和泉校舎事件である。重信房子さん(医療刑務所で服役中)の「私の『一九六九年』」と合わせ読めば、事件の概略はつかめると思う。

 

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代─京都』

問題なのは、このブント分裂の引きがねとなった事件が尾ひれをつけて語り継がれてきたことだ。その結果、中大1号館4階から脱出するさいに、転落死した望月上史さん(同志社大生)が、中大ブントのリンチで手の指を潰されていた」という伝説になっていたのだ。その件を、ある作家の著書からの引用として『遥かなる一九七〇年代』(垣沼真一/松岡利康)に書いたところ、中大ブントを代表するという神津陽さん(叛旗派互助会)から、事実ではないとの批判が寄せられていたものだ。

検証の結果、中大で赤軍派4名を監禁したのは情況派系の医学連の活動家で、当初は暴力があったもののきわめて穏和的な「軟禁」であったという。証言したのは、わたしも編集・営業にかかわった『聞き書きブント一代記』(世界書院)の石井暎禧さん(現在は幸病院グループの総帥)である。軟禁中の塩見孝也さん(のちに赤軍派議長)らが、ブント幹部の差し向けたタクシーで銀座にハンガーグを食べに行っていた、などという雑誌記事を学生時代に読んだ記憶があるが、医学連OBの配慮だったかと得心がいく。中大ブントとひと言で言っても、数が多いのである。荒岱介さんの系列だったという九州の某ヤクザ系弁護士の中大OBを知っているし、情況派の活動家も少なくはなかった。その意味では「中大ブントがリンチ・監禁をした」というのは、あながち間違いではない。何しろ中大全中闘は5000人の動員を誇り、有名人では北方謙三が「赤ヘルをかぶっていた」とか、田崎史郎が三里塚闘争で逮捕されたとか、じつに裾野が広い。また目撃談として「塩見さんが生爪を剥がされていた」という証言もあるという。元赤軍派の出版物も出るので、今回の松岡さんの「草稿」がさらなる事実の解明で豊富化されることに期待したい。

それにしても、ブントは分裂して赤軍派を生み出し、最後は連合赤軍という同志殺し事件を生起させた。マルクス主義戦線派との分裂過程でも、暴力をともなう党内闘争はあった。その後、四分五裂する過程でも少なからず暴力はあった。けれども、寝込みを襲撃するとか出勤途中の労働者をテロるといった、中核VS革マル、革労協のような内ゲバには手を染めていない。だからこそ7・6事件という、いわば牧歌的な党内闘争の時代の内ゲバ死を問題にできるのであろう。死者が100人をこえる「党派戦争」の反省や総括の試みが、上記の党派からなされることは、おそらく絶対にないだろう。なぜならば「同志」は「死者」となったまま、いまも「闘っている」のだから、生きている人間が「誤りだった」などと言えるはずがないのだ。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

◆板坂剛の独断場

もう一本、本書の記事を推薦するとしたら、板坂剛さんの「激突対談」であろう。小中学校が同期だった中原清さん(仮名)とのドタバタ対談、激論である。前著『思い出そう!一九六八年を!!』の座談会では、真面目にやろうとしたことが仇となってしまったが、今回は相手にもめぐまれて、もう読む端から爆笑を誘うものになった。やり取りを引用しておこう。

板坂 だからおまえなんかにゃ判らねえって言ったんだよ。
中原 だったらこんな対談、無意味じゃねえか?
板坂 無意味じゃねえよ。
中原 俺には無意味としか思えんな。
板坂 それはおまえが無意味な存在だからだよ。
中原 やっぱりちょっと外に出ようじゃないか?
板坂 まだ終わってねえっつうんだよ。

もちろん内容もちゃんとある。ストーンズに三島由紀夫、中村克巳さん虐殺事件、日大芸術学部襲撃事件などなど。けっきょくこの対談を三回読み返したわたしは、いままた読み始めてしまっている。

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▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』では「『季節』を愛読したころ」を寄稿。

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ここで紹介する新潟の冤罪事件が起きたのは1914年だから、あの第一次世界大戦が勃発した年だ。「大昔の事件」と言っても過言ではないが、筆者は今から数年前、その現地を訪ねて取材したところ、無実の罪で処刑された青年の「子孫」に会うことができた。事件取材をしていると、奇跡のような出会いに恵まれることはままあるが、これはとくに忘れがたい経験の1つだ。

◆家族を救うために死刑になった模範青年

その事件が起きた場所は、新潟県中蒲原郡の横越村大字横越という所で、今の地名で言えば、新潟市江南区横越東町にあたる。被害者は、この村で農業を営んでいた細山幸次郎(当時50)という男性だ。2014年12月30日の早朝、この幸次郎が自宅の納屋で頭部を鈍器でめった打ちにされ、死んでいるのが見つかったという事件だった。

その容疑者とされたのは、幸次郎の義母ミタ(同68)、妻のマサ(同45)、長男の要太郎(同23)、次男の幸太(同19)の4人である。つまり、警察はこの事件を家族間の殺人事件だとみたのだが、実はその根拠は脆弱だった。幸次郎の遺体が見つかった時間は雪が降り積もっており、外部の者が細山家に出入りした足跡がなかった。それだけのことで、内部犯と決めつけたのだ。

横越東町の細山家があったあたり

実際には、事件当日はひどい雪で、雪の上に足跡がついても、すぐに消える状態だったから、外部犯も十分に考えられた。今の警察の捜査が何も問題ないとは言えないが、当時の警察の捜査は驚くほど杜撰なものだった。

もっとも、長男の要太郎と次男の幸太は、容疑者として新潟監獄に収監されたのち、父の殺害を自白するに至っている。それは、「予審」で予審判事から厳しく追及されたためだった。

予審とは、旧刑訴法時代、公判をすべきか否かを決めるためなどに裁判官が行っていた手続きだ。しかし実際には、非公開の法廷で裁判官が捜査の延長をしていたようなものだった。その予審の法廷で、まず幸太が「家族4人で父を殺害した」と自白した。すると、今度は長男の要太郎が「他の3人は関係ない。父は自分が1人で殺した」と自白したのだ。

その後、新潟地裁の第一審では、4人全員が無実を訴えたが、幸太の自白が真実と認められ、全員が死刑に。続く東京控訴院(現在の東京高裁に相当)の控訴審では、要太郎の自白が真実と認められ、要太郎のみが死刑維持、他の3人は逆転無罪となった。この判決が大審院(現在の最高裁に相当)で確定し、要太郎は1917年12月8日、東京監獄で処刑されたのだ。

しかし、その捜査は上記したように杜撰なもので、要太郎、幸太共に自白内容は客観的事実との矛盾点が多かった。そもそも、幸次郎は温厚な性格で、子供たちをかわいがっており、要太郎らが父を殺害する動機も見当たらなかった。地域で評判の模範青年だった要太郎は、接見に来た弁護士に、「他の3人を出獄させるため、自分1人で罪を引き受けた。公判へ回れば、事実の真相はわかるものと思っていたのです」と訴えていたという。

◆子孫が語る「事件のその後」

筆者がこの事件の地元・横越東町を訪ねたのは2015年の8月だった。この時点で、事件発生から101年の月日が流れていた。現場は田んぼが広がり、のどかな雰囲気だったが、当然というべきか、現場となった細山家のあった場所はすでに別の家族の家が建っていた。

その家の人に話を聞いてみたが、100年前、自分の家があった場所で、そのような事件が起きたことは全く知らなかった。それも当然だろう。筆者自身、自分の家がある場所やその近所で100年前に起きた出来事など何も知らない。大した収穫もなく、取材を終えることになりそうだと思いきや・・・現地で1人、処刑された要太郎の子孫が今も暮らしていたのだ。

「私が生まれる前のことなんで、詳しいことはわかりませんけど、そういうことがあったとは聞いていますよ。その死刑になった人は、いい子だったんで、なんとかしたいと裁判所に手紙やら何やらを出したけど、ダメだったってね」

そう聞かせてくれた女性Mさんは、要太郎の叔父の娘さんである。この時点で95歳。腰は少し曲がっていたが、話し方はしっかりした人だった。民謡をやっているという。100年前に起きた事件について、このように当事者の血縁者から話を聞けるとは、夢にも思っていなかった。

Mさんによると、要太郎の家族は群馬に移り住んだそうだが、その際、「一番下の弟」がこの地の寺にあった要太郎の墓を掘り起こし、「先祖の墓は自分が守る」と言って群馬に持って行ったという。その「一番下の弟」とは、幸太のことだと思われる。自分の生命を犠牲にして家族を守った兄・要太郎を強く尊敬していたことが窺えた。

「もうそろそろいいですか? 私も忙しいんですよ」

Mさんは迷惑そうにそう言うと、最後はそそくさと家の中に入っていた。自分が100年前の大事件の生き証人だという意識など微塵もなく、淡々と生きている感じの人だった。それがまた良かった。

細山家の近くにある寺の墓地。細山家の墓はここから群馬に移された

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

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