――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆岡本医師の診察を受けに滋賀医大附属病院へ向かう

2週間後にわたしは滋賀医大附属病院へ向かった。東京から京都までは新幹線、京都から東海道線に乗り換えて最寄りの瀬田駅で下車。瀬田駅からは帝産バスに乗った。京都には何度も足を運んだことがあったが、滋賀県に目的地を定めるのは初めてで、滋賀医大附属病院は自然豊かな環境に恵まれていた。都心の喧噪との対比が印象深い。

岡本医師の受診待ち患者さんの数は壮絶だった。こればかりは都心の病院と変わりがない。ようやく名前が呼ばれ診察室に入った。挨拶をしようとすると、岡本医師はすでに送ってあったわたしの検査データを注視していた。体調や既往症などの質問に答えた後、少し息をついた岡本医師は、

「あなたのがんは中間リスクです。小線源単独で対応可能でしょう。手術の詳細な予定を立てるためにもう一度、そのあと『プレプラン』とが必要です。遠いですが手術前に受診していただく必要があります。よろしいでしょうか?」

と次のステップを明確に提示してくださった。わたしに異議のあろうはずはない。2月後再診を受け、翌月に「プレプラン」のため再度滋賀医大附属病院への来訪が決まり、予約票を手に帰路に就いた。まだ日没までかなり時間があったから京都で観光をしようかとも思ったが、気持ちの高揚感があり、それを早く家族に伝えたかったので、寄り道することなく新幹線に乗った。車内販売で「ビール」の声をきくと思わず販売員を止めてしまい、缶ビールを1本だけ飲んだ。そのあとは気が抜けたためか、寝込んでしまい、気が付いたのは品川駅到着のアナウンスだった。

◆2泊3日で「死の恐怖」から解放される?

岡本医師の診察を受けただけで、まだ治療を受けていないのに、滋賀に出かけた日以来、わたしの体調は見違えるほどに好転した。初診の翌朝には久々に6キロの早朝ジョギングを再開した。食欲も戻った。体重が10キロ近くも落ちていたので、昼食時など「もう治療は終わったのですか」といわれるほどに、体がカロリーを欲していた。

いよいよ入院の日を迎えた。月曜日に入院して火曜日には手術を受けた。麻酔は部分麻酔で、手術中も岡本医師と放射線科の医師との声を聴きながら手術室に流れる音楽を聴いているうちに「はい、終わりました」。予想よりも早く岡本医師から声をかけられた。

水曜日は放射線の関係で一日外部と最低限の接触に限られる部屋で過ごし、木曜日には早くも退院できた。2泊3日で「死の恐怖」から解放される?信じがたいとは感じなかった。「もう大丈夫」岡本医師の言葉ではないが、自分の内部深いところがそう確信していた。

◆「迷っている場合じゃないでしょ! 誰のおかげでお父さん回復できたの?」と娘の声

初診以降滋賀医大附属病院では、岡本医師に対する嫌がらせの類が発生していることは、おなじ時期に入院していた患者さんから聞いていた。医学の世界ではひいでた医師の足を引っ張ることは、ありうることだろう、程度にしかわたしは考えていなかった。わたしにもビジネスの世界でも同様の経験があったから。

半年に一度の検診だけで、前立腺の状態は落ち着きが確実になったころ「患者会」を結成すると、知り合いの患者さんから連絡を受けた。岡本医師が滋賀医大附属病院から「追放」される危機にあるといわれた。いくら医学界が旧態依然としていたとしても、世界屈指の治療成績を残し続けている医師を、病院から放逐することなど、企業経営者の端くれにあるわたしには信じられなかった。メーカーにあっては商品開発とR&D(研究開発)の重要性は、基本中の基本。病院にあっては治療成績と評判こそが資産と、わたしのような人間は感じるからだ。

しかし、滋賀医大附属病院は予想外に、着実に岡本医師追放に向けて手を打ってくる。寒い時期に患者会から「JR草津駅でデモ行進をする」との連絡が入った。連絡をしてきたのはわたしと同じ日に手術を受けた、九州の患者さんだった。なにかしたい。なんでもしたい。と思いながらも、市民運動に縁のなかったわたしは、正直とまどい、夕食時「こういうことがある」と家族の前で話題にした。

「お父さん迷っている場合じゃないでしょ!誰のおかげでお父さん回復できたの?行くべきよ。ねえお母さん、私たちも行こうよ!」

わたしの優柔不断は、娘と女房の即決の前で完全に無力だった。

◆わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともにスタンディングに参加した

寒い季節にしては暖かい日だった。JR草津駅前には目算で200名近くのひとびとが集まっていた。デモなどに参加したことのないわたしには、この光景もまた驚きだった。こんなにたくさんの人が自分になんの「利益」もないのに集まっている。でも幹部の方々の運営には無駄がなく、家族で参加したわたしたちを皆さん暖かく迎えてくださった。

集会で待機患者の方が切実な訴えをはじめると、数年前の記憶がよみがえった。

「死」。もう、わたしには「死」しかないのか、と不眠に陥り、食欲を失い、自暴自棄になりかけたあの日々。わたしは岡本医師の治療により回復するチャンスを得たことに、謙虚さを失いかけている自分を恥じた。いま話している患者さんはあのときの、わたしとまったく同じことを訴えている!

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

2019年11月26日。わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともに、スタンディングに参加していた。この日は岡本医師が滋賀医大附属病院で手術を行うことができる最終日にあたった。最初にデモに参加して以来、滋賀には10回以上足を運んだ。「なにか社会に貢献したい」とわたしは思うようになっていた。前立腺がんが治癒しただけでなく、なにかが私の中であきらかに変わった。この日わたしは病院内には入らなかったが、岡本医師は淡々と、いつもどおり滋賀医大附属病院における、一応の区切りとなる患者さんの手術を終えたことだろう。

死の恐怖におびえる経験をしたかたであれば、理解できるだろう。あの恐怖から解放された瞬間を。そして事実「死」の恐怖を迫った前立腺がんが岡本医師により治癒したことにより取り戻せた、日常のありがたさを。岡本医師はこの先どうなる?いや、岡本医師の治療を待っている患者さんは?

患者会と岡本医師の闘いは、「仮処分」での勝利をえて、本来であれば治療ができなかった50名近い患者さんの治療を可能にした。努力と行動が「不可能」を「可能」にした。滋賀医大附属病院なのか、ほかの場所なのか、患者会の末席を濁しているだけのわたしに、岡本医師の将来はわからない。でも滋賀医大附属病院正門で夕刻、「岡本医師の治療継続を! 岡本医師、待機患者が待っています!」 なかまの誰かが低い小声ではっきりと病院に向かって宣言した。わたしも小声で彼に続いた。(了)

◎前立腺がんになった──患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語
[前編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33021
[後編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33027

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

《関連過去記事カテゴリー》
滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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