この表題はまことに荒唐無稽ながらも、明治政府の歴史観を左右する幕末ミステリーである。もしもそれが史実ならば、驚愕するような事実よりもさきに、われわれは明治維新という「革命」の内実を知ることになる。その内実が謀略であると。そして、南朝史観とよばれる維新政府の歴史観に、こんどは生々しく触れることになる。

仮説はこうである。幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたというのだ。その名は長州田布施出身の大室寅之祐、長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという。

最初にこの説をとなえたのは、鹿島昇(弁護士・歴史研究家)だった。その云うところをトレースしてみよう。

南朝・後醍醐天皇の皇統は、後村上天皇──長慶天皇──後亀山天皇の正系のほかに、尊良親王(東山天皇)から正良親王(松良天皇)にいたる傍系がある。正良親王の皇子のひとり、光良(みつなが)親王が南朝崩壊後に長州の麻郷に落ちのびたのが、大室天皇家であるという。室町時代の長州は守護大名の大内氏が支配するところで、南朝勢力が西日本に落ちのびるのは、懐良親王が九州を拠点とした例から考えて不思議ではない。

わたしは薩長両藩の主家が関ヶ原で没落した島津と毛利であり、明治維新は一面において268年の歳月をへて徳川打倒に燃える両家の意趣がえしであると考える。長州藩において、大室天皇家はその切り札だったのだろうか。

鹿島昇(弁護士・歴史研究家)によれば、幼い明治天皇(祐宮睦仁親王)が何者かに殺害され、その代わりに別の人物が皇位に就いたという。それが長州田布施出身の大室寅之祐(写真左)。長州藩が秘匿していた南朝の末裔であるという

◆将軍家茂・孝明天皇暗殺

鹿島昇は幕末の政治情勢から、暗殺者たちの動機を精緻に解読する。将軍徳川家茂と孝明天皇の死(1866年)がそのキーワードである。すなわち、皇女和宮の降嫁によって従兄弟となったふたりは、公武合体の体現者であった。ふたりは長州征伐の実行者であり、天皇のもとに徳川家を中心にした連合政権を構想していた。

この政権構想はしかし、尊皇攘夷と倒幕をねらう薩長連合にとって容れられるものではなかった。とくに京都から排除され、その勅命によって征討までされた長州藩にとって、ふたりは目の上のたんこぶだったのである。

たとえば「(和宮降嫁によって)尊攘派は肝心の天皇を幕府に奪われてしまった。すなわち、幕府が『玉をとった』のである」「薩長密約の際に家茂と孝明天皇の暗殺はすでに謀議されており、これに公武合体派から尊攘派に鞍替えした岩倉具視が荷担したのであろう」と、鹿島昇は解読する(「明治天皇は二人いた!!」『天皇の伝説』メディアワークス)。

それもまったくの推論というわけでもない。鹿島が謀殺の論拠とするのは、作家の山岡荘八が独自にしらべた事実である。すなわち、宮中からさし回された正体不明の医師が、風邪で伏せっていた徳川家茂に薬を処方したところ、それから三、四日目に亡くなったとする。

「将軍の胸のあたりに紫の斑点が出て、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引きとった」(山岡荘八「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和43年11月号)というのだ。蜷川という御小姓頭は蜷川京都府知事の祖父にあたり、おそらく将軍家茂の死にぎわは事実なのであろう。
孝明天皇の最期もまた、謀殺めいたシーンに彩られている。

明治天皇の外祖父(生母の父親)中山忠能の『中山忠能日記』によると、やはり天皇は天然痘の潜伏期で、12月11日には「不眠・発熱・食欲不振・ウワ言の病状を経て」「十六日朝には顔に吹き出物が出始めた。だが、十七日から便通があり、食欲も起こり熱も下がり、典医も『まづ順当』と診断している」

快方に向かったというのだ。

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」という最期であったという。

当時、宮中においても毒殺説が飛びかい、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介している。

これを裏づける説をとなえたのは、瀧川政次郎である。中国人医師の菅修次郎が夜半に呼び出され、目かくしをしたまま連れて行かれたという。そこで診療させられたのは、わき腹を刺された、ひん死の人物だった。じつは菅医師が連れて行かれたのは御所ではなく、堀河紀子(孝明天皇の愛妾)の広大な屋敷だったというものだ(「皇室の悲劇」)。

中山忠能が日記に書いた「御九穴より御脱血」というのは、刺し傷だったのだろうか。

この説を、作家の南条範夫は「孝明天皇暗殺の傍証」『人物往来』昭和33年7月号)において、母方の祖父・土肥一十郎の日記を読んだ記憶として書いている。

「白羽二重の寝衣や敷布団はもちろんのこと、半ばはねのけられ掛布団に至る迄、赤黒い血汐にべっとりと染まっている人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下しようもない程甚だしい出血に衰弱し切って、ただ最期の呻きを力弱くつづけているに過ぎない」

何ともなまなましい、暗殺現場に立ちあったかのような描写であることか。こうして、尊皇攘夷派・倒幕派にとって邪魔な存在だった将軍と天皇が暗殺されたのだ。その暗殺者たちは、みずからの政権を盤石なものにするために、つぎなる暗殺に手を染める。16歳の陸仁親王(明治天皇)暗殺である。

◆なぜ吉野朝時代なのか

陸仁親王(明治大帝)暗殺について、孝明天皇暗殺ほどの生々しい証言や伝聞があるわけではない。鹿島昇が「証言」と称するものは、ことごとく伝聞であり、亡くなられた人々が反論できない、したがって根拠のわからない「証言」なのである。誰がいつどこで、どうすり替えたのか、詳細がよくわからない。

いわく、昭和4年に三浦天皇(三浦芳堅=南朝傍系)が、元宮内大臣・田中光顕に獄秘伝の『三浦皇統系譜』を持参したとき、田中は「じつは明治天皇は孝明天皇の息子ではない」「明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の息子満良親王の御子孫」だと証言したという。

いわく、元宮中顧問官で学習院院長も務めた山口鋭之助が、大正9年に「明治天皇は北朝の孝明天皇の子ではない。山口県で生まれて維新のときに京都御所に入った」と言ったという。

いわく、岸信介元総理は元中政連幹事長だった鎌田正見に、いまの天皇家は明治天皇のときに新しくなった、と語ったという。

いわく、陸仁親王と明治天皇が別人であることは、鹿島昇自身が清華家の当主である廣橋興光から聞いたことがあるという。

いわく、中川宮(前出の東武皇帝・日光宮能久親王の兄)の孫娘である梨本宮家の李方子も、明治天皇は南朝の人だと証言したという。

いわく、鹿島昇の旧友・松重光雄は、中学生のときに担任の萩出身の教師から、明治天皇はすり替えられたと教えられたという。

ほかにも証言らしいものはあるが、もうここまでにしよう。鹿島昇の脳裡に根を張った推測・推論なのだ。もの言わぬ死者の証言よりも、われわれには問題にしなければならないことがある。なにゆえ明治政府が北朝の天皇をいただきながら、「吉野朝時代」などという歴史観で南朝を正統としたのか、である。そこにこそ、明治天皇がすり替えられたかどうかの「真相」が浮かび上がるはずだ。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。

当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。

そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。

三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。

◆三島の円照寺取材

『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。

円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。

円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。

後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。

その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。

作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。

そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。

ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。

そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。

「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。

三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。

◆『豊饒の海』謎の結末の解釈

従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。

しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。

作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。

道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。

どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。

『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。

推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。

『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。

門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。

市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。

どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。

※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。

※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html

「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

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月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

11月の秋篠宮(皇嗣殿下)が「長女(眞子内親王)の結婚について、それを認めるのは憲法にもあり、親としても認めるべき」という発言によって、眞子内親王と小室圭氏の婚姻は事実上、皇室によって認められた。

と同時に、週刊誌による小室母子バッシングが百家争鳴といったありさまだ。小室家はけしからん、眞子さま(300円カレー、旧型パソコン)にくらべても贅沢(キャビアのパスタ)をしている。ほかにも900万円の借金がある。三菱東京UFJ銀行勤務時代に、書類の紛失を女性行員の責任にした。はては、眞子内親王の「秘密」を知っている(暴露する可能性がある)などと。

ここにこそ、生身の個人を「象徴」にいただく憲法第1条、戦後天皇制の矛盾が露呈し始めたというべきであろう。

かつて、眞子内親王と小室圭氏の婚約話が俎上にのぼったとき、宮内庁は以下の祝辞を、そのホームページに掲載したものだ。

「小室圭氏は、眞子内親王殿下のご結婚の相手にふさわしい誠に立派な方であり、本日お二方のご婚約がご内定になりましたことは、私どもにとりましても喜びに堪えないところでございます。この度のご婚約ご内定に当たり、お二方の末永いお幸せをお祈りいたします」

ところが今、宮内庁は定例記者会見で、小室圭氏に対して異例の「苦言」を呈しているのだ(西村泰彦長官、12月10日)。

「ご結婚に向けて説明をしていくことにより、批判に対して答えていけることになるのではないか」「説明責任を果たすべき方が果たしていくことが極めて重要だ」

この発言自体は、秋篠宮が11月の会見で、「実際に結婚するという段階になったら、もちろん、今までの経緯とかそういうことも含めてきちんと話すということは、私は大事なことだと思っています」と小室氏に説明を求めたことを、補完するものといえよう。

しかし、2017年の婚約内定まで、5年間という長い春をへてきた二人にとって、母親の借金問題(400万円)が、青天の霹靂であったことは自明であろう。本人ではなく母親の過去をほじくり出され、借金を背負った家庭の子は結婚できない、ということにほかならない。

いや、皇族の結婚は「普通の家庭」の問題ではない。と、天皇制を護持する人々は言う。そうであるならば、皇族は国民ではなく、したがって恋愛の自由はないのだと明言すればよいではないか。自民党の天皇制護持派は、実際にそう明言している。


◎[参考動画]宮内庁長官「小室さん側が説明責任果たすべき」(ANN 2020年12月10日)

◆やはり国民ではない皇族

こんどは自民党、伊吹文明元衆議院議長の「苦言」である。

「(秋篠宮の)父親としての娘に対する愛情と、皇嗣という者のお子様である者にかかってくるノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)としての行動と両方の間の、相剋のような、つらい立場に皇嗣殿下(秋篠宮)はあられるんだなと思った」
などと、秋篠宮の「苦渋」をおもんぱかりながら。かえす刀で、小室氏に「苦言」を呈するのだ。

「小室さんは週刊誌にいろいろ書かれる前に、やはり皇嗣殿下がおっしゃってるようなご説明を国民にしっかりとされて、そして国民の祝福の上に、ご結婚にならないといけないんじゃないか」

さらに伊吹文明は、法律論に踏み込んで、二人の結婚そのものに疑義をとなえる。
「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

皇族は日本人であるが、国民ではないと明言するのだ。だが、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。

それは投票権や納税の義務などという、付加的な権利義務関係ではない。人間としての生存権にかかる婚姻。すなわち人間の尊厳にかかわることなのである。それをもって、憲法は国民の権利を「基本的人権」として、第一義に謳っているのだ。国民ではない者は、それでは人間ではないのか、と問い返してみることだ。

「眞子さまと小室圭さんの結婚等について、結婚は両性の合意であるとか、幸福の追求は基本的な権利であるとかいうことをマスコミがいろいろ書いているが、法的にはちょっと違う」

よくぞ言った、と評価しておこう。皇族には人間的な尊厳や基本的人権はない、と言っているのにひとしい。伊吹文明において、皇族は人間ではないのだ。


◎[参考動画]伊吹元衆院議長が小室圭さんに異例の苦言(FNN 2020年12月3日)

◆納采の儀と1億4000万円問題

けっきょく、秋篠宮の「婚約と結婚はちがいますから」という暗喩によって、宮内庁および自民党は小室家にたいして、謝金をチャラにしないと1億4000万円の一時金はとんでもない、と世論に訴えているのだ。国民的な合意が得られない、税金を使うのだから。という理屈で、象徴天皇制の矛盾を取り繕う。国民が祝福しない(と思う人によって)、その婚姻は不可能とされる。そんな人道にもとる不合理、人権侵害があるだろうか?

これまでに、皇籍離脱による一時金1億5000万円前後が、支払われなかった前例はない。じつは上記の秋篠宮発言も、単に婚約(納采の儀)と結婚という段階を追ってのものである。そこを見誤ると、とんでもない事態が生起するだろう。

眞子内親王において自主的に皇籍離脱して、恋のためにすべてを捨てる。ふたりが、いわば駆け落ち的な婚姻に至った場合、もはや皇室典範も象徴天皇制もガタガタになってしまう。一時金が宙に浮くはずはないのだから、祝福しない国民は皇室に「No!」を突き付けるのだろうか。今回の婚約問題は、そこまで根底的な内容をはらんでいるのだ。

かつて、大正天皇は女官(実質的な側室)を遠ざけ、昭和天皇は女官制度そのものを廃止した。そして平成天皇は「自由恋愛形式」の婚姻をして、教育も核家族的なもの(宮中にて皇子傅育)を採用した。秋篠宮に至っては、ほぼ出来ちゃった婚で、兄よりも先に結婚という暴挙。令和天皇もまた、自分の意志を貫いてエリート官僚と結婚した。男性皇族においては三笠宮寬仁親王のごとく、皇族としての制約を嫌って皇籍離脱発言した人物もいる。

いまや皇室の民主化・自由化が果てしなく旧来の天皇制を掘り崩し、新たな別物に変貌してゆくことを、国民的な議論をつうじて実現できる可能性が高まってきたと、結論しておこう。


◎[参考動画]「皇女」とは…皇室研究者に聞く(テレビ東京 2020年12月11日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

皇室の某女性が民間人の男性と結婚したいと、意向を明らかにしている。それに関しては一部報道で皇室から離脱するにあたり「持参金1億5,000万円」との報道もなされている。

そこで、一番身近にいる公務員である宮内庁へその内情を電話で取材した。

◆正直に回答してくれる宮内庁職員

宮内庁 はい、こちら宮内庁でございます。
佐野  恐れ入ります。今、ご結婚を予定されていらっしゃいます何とか様の一時金についてお尋ねをしたいのですが。
宮内庁 ちょっとお待ちくださいませ。
宮内庁 宮内庁でございます。
佐野  宮内庁のどちらの部署の方になりますでしょうか?
宮内庁 宮内庁の秘書課になりますが。
佐野  お名前をお尋ねしてもよろしゅうございますでしょうか。
宮内庁 ○○○○と言います。
佐野  恐れ入ります。教えていただきたいのですが、これは報道で見たのですけれども、今結婚を予定されている……
宮内庁 眞子内親王殿下と小室圭さんですね。
佐野  持参金というか……
宮内庁 皇室を離れるにあたっての一時金でしょうかね。
佐野  はい。それが一億いくら……
宮内庁 これは実際には皇室を離れることが決まった段階で、皇室経済会議というものが開かれましてそれで額も確定されるというような状況です。
佐野  前にですね……
宮内庁 黒田清子様ですね。
佐野  その時はおいくら…
宮内庁 1億5,000万円です。要は、皇族費という定額が3,050万円というものがあって、あとは皇族の身分を離れる方がどういうお立場かによって額が前後する。例えば、内親王なのか簡単に言えば女王なのか、天皇への近さによって違うわけです。
佐野  遠ければ、皇族でももっと額の安い方もいらっしゃる。
宮内庁 一番近い所では高円宮内庁様の三女絢子女王という方が守谷慧という方とご結婚されましたけれど、その方の時にはもっと少ない。あの方は女王というお立場なんですね。内親王ではなくて女王。これは天皇からの近さですね、何親等という、天皇から四親等以下(三親等以下の言い間違い?:取材者)は王、女王とするということがあるものですから。
佐野  それが適応されるのは何親等までなんですか。
宮内庁 皇族はみんな適応されます。そもそも皇族であれば皇族を離れる時には。皇族を離れるというのは基本女性皇族ですよね。


◎[参考動画]眞子さま「結婚」再延期を発表 小室圭さんと意思は変わらず(FNN 2020/11/13)

◆皇室でLGBTが発生したら!? 快活に笑って答えてもらった

佐野  仮に皇族で同性愛の方がいたら、皇族を離れるとなったら今の時代、ややこしね。
宮内庁 ああ、今は想定されてないんで。そういうことが実際にあれば考えなきゃいけないんでしょうけれど。
佐野  皇族で同性愛になったらちょっと困るね、宮内庁さんもね。
宮内庁 ハハハ、宮内庁なのか政府なのか。
佐野  ヨーロッパとかではあるじゃないですか、結構。
宮内庁 そうですね。普通にあるって言ったらおかしいですけれどね。
佐野  普通にあるって言ったらおかしいけれど、ないわけじゃないから。その時になって、この人と結婚認めるか認めないかといったら、またややこしい話になりますね。
宮内庁 そうですね。

◆祝福されない結婚と認識している宮内庁職員

佐野  ごめんなさい。お尋ねしたかったのはですね、額は結婚が決まった後に皇室経済会議で決まる。いずれにしてもそれは歳費から出されるわけですね。
宮内庁 国家予算ですね。
佐野  その国家予算から支出される根拠というのは皇室典範なんですか?
宮内庁 皇室経済法です。皇室経済法があって経済法施行法というのがあります。
佐野  週刊誌程度の知識しかないんですけれど、こういう人にお金を持っていってもいいのかしら。
宮内庁 こういう前例というのも変ですけれど、普通は皆さん祝福されてですね……
佐野  だいたい言っては何ですけれど、家柄もいい方が、宮内庁さんとも齟齬なくですね。
宮内庁 良好な関係とでも言いますかね。
佐野  皆さんが「よかったですね」というようなことが。
宮内庁 はい。
佐野  しかも一時金の中には「品位を保つために」という文言がありますね。
宮内庁 皇族であった者が皇族を離れたあとに品位保持のためにとなっています。
佐野  法律の文言なんですね。これは普通の人間にはちょっと理解しにくい概念ですね。
宮内庁 それはあるかもしれませんね。
佐野  貧乏人でも頑張ってる人もいっぱいいるわけですよね。その人たちに品位があるかないかということはわからないですけれども、品位を付けようと思ったらお金が必要だということが根拠になってお金が出るわけでしょ。ということは、お金がない人間は品位が保てないということの逆説的な意味も包含しますよね。
宮内庁 うーん。
佐野  品位があろうがなかろうが、もう別にいいんじゃないですか?結婚されたあと。
宮内庁 ふふふ、まぁそうですけれど。私がどうのこうのと言うことじゃないですけれど。
佐野  私は一納税者として申し上げているんですけれども、彼ら彼女らの品位のために私の税金が使われるということにはちょっとこれ違和感を感じざるを得ないですよね。
宮内庁 なるほど。はい。


◎[参考動画]秋篠宮さま 眞子さまの結婚「認める」(ANN 2020/11/30)

◆1億5,000万円出費への疑問に、同意する!宮内庁職員

佐野  だって結婚後の品位を保つために税金で保証してもらえる人なんてどこにもいないでしょ、皇族以外は。
宮内庁 そうですね。
佐野  私は品位のない人間だと自分で思ってますから、もうちょっと品位のある人間になりたいなと日々努力しています。こういうケースで、額がどうかはわからないけれど、1億5,000万って庶民にとっては小さな額ではない。今、電話でご担当いただいている方にしたってね。
宮内庁 当然当然そうです、はい。
佐野  で相手はあれでしょ、お母ちゃんが訳わからない、髪の毛を茶色く染めて、金を詐取してるかどうかわからないような、そういう相手の所に税金持ってくかもわからないという話でしょ、簡単に言ったら。
宮内庁 はい。
佐野  これ、宮内庁さんも困ってるんじゃないの?
宮内庁 私なんかはこうやって皆さんからの意見を伺って、上にあげている立場なんですが、実際に今回のことについての宮内庁の公式な見解は何なんですかと言われても、あんまりはっきり出てこないというか、われわれも聞かされていない。
佐野  出せないからでしょう。
宮内庁 まぁそういうことなんでしょうかね。
佐野  そんなに簡単に認められると逆に肩透かしなんですけれど(笑)。

◆「正直言ってうちの役所ってわかりにくいんです」

宮内庁 正直言ってうちの役所ってそういうところがあってなかなかわかりにくいんですね、こういうことが起きても。われわれこうやって電話を受けていますけれども、なかなか質問に答えられる材料がないんですよね、正直に言いましてね。
佐野  ちなみに宮内庁の職員の方というのは、公務員試験を受けて?
宮内庁 はい、公務員試験を受けてです。
佐野  一般の省庁ですと自分が志望したり、省庁の方から引っ張られたりということがあると思うんですけれど。
宮内庁 合格者名簿に名前が載って、自分が志望したり役所から声が掛かったりということです。
佐野  やはり他の省庁と同じなんですね。
宮内庁 私なんかは昔でいう初級試験、今だったら三種ですかね。だいたいうちの役所は変わっているところは、課長とか部長とか上の人たちは各省庁からの出向の方が多くて、プロパーの人は少ないんです。ちょっと特異な所ですよね。天皇陛下とかのお側付きの侍従とかっていうのも各省庁からの出向となっています。
佐野  侍従という方とか宮内庁内にいらっしゃる方は公務員の方もいらっしゃるけど、そうじゃなくてずっと家柄で継いでらっしゃる方もいらっしゃるでしょ。
宮内庁 そういう人は今はもうあまりいないですね。侍従っていうのは特別職で。
佐野  侍従はそうだけれども、侍従ではなくてお側でお世話なさる方、特に女性でお世話なさる方というのは?

◆縁故採用はいまでもある!

宮内庁 例えば侍従に対応する女性の女官というのがおりまして、この辺は縁故採用みたいな、女官は侍従と同じで特別職なんですね。あと、奥の女性職員、こういう職名は今はあまり外に対しては使わないんですが、女嬬とか雑仕とかこういう職員が身の回りのお部屋のお掃除をしたり洗濯をしたりという人はいますね。
佐野  そういう方は一般の試験で入ってくるわけではなく、ずっとお家柄で繋がっていたりとか。
宮内庁 いや、今はそうでもないですよね。あとは宮内庁中三殿という皇室の宮内庁中祭祀を司っている場所があるんです。これは皇室の私的な行為として今はなさっているのですが、そこに勤めている、例えば掌典であるとか女性の内掌典という、こういう人は公務員ではなくて、例えば天皇家のポケットマネーというんでしょうか、内廷費というのが年額で支給されているのですが、そういうところからその人たちの給与は支払われている。
佐野  そうですね。それは言ってみたら、向こう側の世界みたいなところがあるわけですよね。
宮内庁 そうですね。ちょっとわれわれとは全く違う世界です。
佐野  知りえないと言うことはないけれど、ちょっと違うルールで動いているところがあるわけですよね。
宮内庁 はい、そうです。
佐野  ありがとうございます。1億5,000万円というのはまだ決まってはいないけれども……。
宮内庁 これまでの慣例でだいたいこのくらいとか、たしか1億4千万円と書いている紙面もあったと思いますけれども、それは何かというと清子様の1割引きで1億4千万みたいなことを言われている。
佐野  1割引き、魚屋の閉店直前の割引みたいな言い方やね。
宮内庁 へへへへへ、それはですね、清子様は結婚する時に、平成の、ですから今の上皇様のお子様だった。眞子さまは秋篠宮内庁様のお子様であって、今の天皇は伯父様であって、そこらへんの違いで1割引きになるんじゃなかという、そういう判断です。
佐野  私は強い批判をしようと思ってお電話しているわけではなくて、教えていただこうと思ってお電話しているのですが、結構うるさい電話が掛かってくるんじゃないでしょうか。
宮内庁 はい。さっきもお宅様がおっしゃったように、小室さんの側にいろいろクリアにならない部分がありまして、こういう方の所に国民が納得していないのにどうしても結婚したいって言うんだったら「もう一時金は辞退してください」とか、「一切皇室とか関わらないでください」とか、そういう意見多いですよね。
佐野  そちらの方がむしろ多いということですね。
宮内庁 はい。ああいうお宅が皇室と縁続きになるのは許せないです、とか。要するにこれはずうっと親戚関係みたいなものが続くことになるわけですからね。
佐野  皇室を離れても小室さんという方は、言い方が悪いですが、利用できますもんね。
宮内庁 そうなんです、そういうことも言われるんです。眞子さまが何かの広告塔みたいなことにされて利用されて、金儲けの種にされるんじゃないのかとかですね。
佐野  少なくとも血族関係ではそういう関係ができるわけですからね。
宮内庁 これまでいろいろ週刊誌で言われてることを見てるととても許せないという方が多いですね。
佐野  今たくさん広報でお電話とか苦情とかいろいろあると思うんですけれども、受けていらっしゃって、なかなかお尋ねするのは難しいと思いますが、率直なところどうお考えになりますか、この件につきまして。
宮内庁 これはちょっと私の私見を申し上げるのはちょっとなんとも……。
佐野  お話伺っていると、だいぶ「かなわないな」というようなニュアンスが伝わってくるんですけれど。
宮内庁 これは仕事ですから。これも仕方ないとは思いますけれど、電話くださる方の中にも、単純に怒ってこられるというよりは、皇室のことを慮って、例えば眞子さまのことを心配してとか、そういう方もいらっしゃるので、それは真摯にお伺いしなきゃいけないなと思います。そういう感じはします。
佐野  ただその相手の方が週刊誌だけでなくて、実際金銭問題がまだクリアにならないから、それははっきりしてくださいというようなことを誰がおっしゃっていたのかな。
宮内庁 それは宮内庁の長官ですね。
佐野  宮内庁の長官が言うということは、宮内庁も疑念があるということでしょう。ああいうようなことをおっしゃることはないでしょう。
宮内庁 そういうものを少しでもクリアにしなきゃいけなんじゃないかということだったと私は推測するんですが、長官がおっしゃったことなんでね。
佐野  困ってらっしゃるというのは事実でしょう。大昔の明仁さんが美智子さんと結婚した時には、あんまりそういう話はなかったと思うんですね。
宮内庁 「みっちーブーム」とか。
佐野  テレビが売れたり、そういう感覚は今の話にはなさそうな気がするんですけれども。
宮内庁 それはそういう感じではとてもないと思います。われわれは職員で仕事ですから、淡々とご意見はご意見で伺って、というところですね。
佐野  やっぱり否定的な意見を言ってくる人が多いということですね。
宮内庁 はい、その方が多いです。
佐野  ありがとうございます。お忙しい中お邪魔いたしました。失礼いたします。
宮内庁 いえ、失礼いたします。

誠に誠実かつ正直ご回答いただけた、当該職員に頭の下がる思いである。質疑の内容については読者のご判断に委ねたい。


◎[参考動画]眞子さまと小室圭さん お二人のこれまで(ANN 2020/11/30)

▼佐野 宇(さの・さかい) http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=34

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

明治元年(1868年)のニューヨークタイムスは「北部日本が新しい帝を選んだので、現在の日本には二人の帝がいる」(10月18日)と報じている。根拠のない報道ではない。この「北部日本」とは言うまでもなく、徳川家主戦派を中心とする奥羽列藩同盟である。

1月の徳川慶喜追討令によって、賊軍とされた徳川家が帝としたのは東武皇帝、すなわち日光輪王寺能久親王(日光宮)だった。天下にふたりの天皇が並び立ったのである。国を二分する勢力が両帝をいただくのは、南北朝時代いらいのことである。

この日光宮能久親王は、伏見宮家の邦家親王の第九子である。日光宮とは、家康存命時の幕府黎明期に、後水尾天皇の第三子・守澄法親王が輪王寺の門跡となっていらい、東叡山寛永寺に従待してきた宮家である。徳川家が朝敵にされた場合のことを考えて、家康は皇室の血脈を確保していたのだ、徳川家の行く末をみすえた家康の深謀遠慮が、かたちの上では実ったことになる。もとは天海大僧正の献策であったという。

当初、日光宮能久親王の役割は、寛永寺に謹慎中の徳川慶喜を助命することだった。3月に官軍が駐屯する駿府におもむいて、東征大総督の有栖川熾仁親王・西郷隆盛らと面談したが、慶喜の助命こそ容れられたが、東征の中止は拒否されている。京都にいき参内する希望も拒否された。

もともと、薩長には徳川家を赦免する気などなかった。孝明天皇が徳川中心の攘夷を構想し、越前の山内容堂が道すじをつくった公議政体(天皇を元首に、徳川家を首班とする連合政権)も、薩長の徳川打倒の念願のまえには形をなさなかった。すでに王政復古のクーデター(小御所会議)が決行され、16歳の天皇や公卿の意志とは無関係に、徳川討伐は進行していたのである。

東北方面ではさしあたり、京都所司代を藩主松平容保が務めていた会津藩、および江戸警護役を務めた庄内藩の処分が問題となった。新撰組(会津藩管理下)および新徴組(庄内藩)の京都・江戸市中での乱暴が問題とされたのだ。そして当然のことながら、東北におけるこの問題の政治調停(仙台藩の斡旋)は不調に終わる。薩長軍には最初から和平の発想はなかったのだ。

たとえば長州の奇兵隊出身の参謀・世良修蔵(もとは周防島の農民)などは、仙台藩主伊達慶邦を罵倒して会津攻めを強要し、そこに交渉の余地はなかった。これを奥羽諸藩の藩士たちは「官軍とは名ばかりで、草賊の酋長である」と評したという。その後、東北諸藩は敵であるという密書が見つかったことから、世良は仙台藩士に斬殺されている。それというのも、わが国に共通語のなかった当時のことである。長州人と東北人の交渉ごとでは、ほとんど会話にならなかったのではないかと推察される。

いずれにしても薩長の会津征伐は既定方針であり、調停に行き詰まった奥羽各藩は4月にいたって建白書と盟約書を起草し、5月には31藩からなる奥羽越列藩同盟が成立した。東北地方がまるっと、新政府に叛旗をひるがえしたのである。追い詰められた鼠が、猫に牙を剥いたのである。

そのころ日光宮能久親王は江戸にあって、薩長軍と彰義隊(幕府残党)の上野戦争をまぢかに観戦していた。合戦は十時間ほどで彰義隊の敗北となり、いよいよ寛永寺の黒門が破られる。薩長軍が乱入するその寸前に、日光宮は浅草にのがれていた。その後、幕府軍艦の長鯨丸で仙台にいたり、「御所」のある白石城に入った。
仙台藩士の佐藤信(赤痢菌発見者・志賀潔の実父)が記録した「戊辰紀事」には「錦旗を青天に飄し、仇討ちし恥辱をそそぎすみやかに仏敵、朝敵を退治したいと思う」との、日光宮の書き置きが記されている。

◆なぜ天皇ではなく、皇帝だったのか

日光宮が皇帝として即位したのは、この年の6月15日である。家康の思惑どおり、徳川家を護る帝となったのである。

「東武皇帝閣僚名簿」には「東武皇帝諱睦運(むつとき)」とある。即位とともに、元号は「慶応四年(明治元年)」から「大政元年」に改元された。これらの史実は「蜂須賀家史料」「旧仙台藩士資料」「菊池容斎史料」などに明らかで、法制史家の瀧川政二郎(法博)が最初に発表したものである(昭和25年「日本歴史解禁」)。

日光宮東武皇帝は7月に入ると、「世情静謐天下泰平」の祈祷をおこない、仙台城で令旨を発する。

「賊は久しく兇悪を懐き残暴をほしいままにしている。大義を明らかにして、これを遠近の各方面に説いて回り、あらゆる力を尽くし、速やかに兇逆の主魁を滅ぼし、それをもって上は幼主の憂悩を解放し、下は百姓の塗炭を救うべきである」などと。

しかるに令旨には「幼主」とあり、奥羽越公議府が「日光宮は今上の叔父である」と海外諸国への令旨で公言したとおり、正統の帝を名乗ってはいない。皇帝として皇位を主張するならば、京都の帝(明治天皇)は廃帝とするべきではなかったか。

奥羽越列藩同盟が瓦解への道をあゆむのは、この不徹底によるものだった。令旨が発せられた7月には、はやくも秋田藩が同盟から脱落した。もともと秋田藩は関ヶ原の合戦において、上杉氏に内応していた疑いから、茨城の地から移封された佐竹氏である。薩長両藩とおなじく、徳川打倒の念願がその底流にあった。

秋田藩兵が仙台勢を襲撃した翌日には、弘前藩が同盟から離脱した。8月に入ると、仙台藩の内部も「抗戦派」と「降伏派」に分裂し、九月にはあっけなく降伏した。徹底抗戦した会津若松城も九月には落城。月末までには、優勢だった庄内藩も降伏した。

北白川宮能久親王

さて、東武皇帝はどうなったか。彼は京都伏見宮邸に謹慎させられていた。翌々年、罪をゆるされてドイツに留学。帰朝ののちは、亡き弟が継いでいた北白川宮を相続し、北白川宮能久親王として新政府に迎えられた。宮様将軍である。明治28年には台湾におもむき、台湾征討近衛師団を指揮したが、マラリアを罹患して薨去、享年48であった。贈陸軍大将。

それにしても、いったんは皇帝を名乗り令旨を発した者に、何とも寛大な処置である。同時代の世界では、67年にメキシコ皇帝マキシミリアン一世が、軍の反乱で銃殺されている。68年にはスペイン女王イザベル二世が、やはり軍部の反乱でフランスに亡命。レオポルト・ホーフェンツォレルコのスペイン王位継承をめぐり、プロイセンとナポレオン三世が対立し、70年に普仏戦争に発展している。ために、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)はプロイセン軍の捕虜になっている。

ヨーロッパ・ハプスブルク家の王権支配をめぐって、あるいはパリコミューンのプロレタリア革命の胎動によって、かの地は激動期を迎えていたのだ。アメリカもまた、血で血を洗う南北戦争のさなかだった。

ところが、日本では旧政権たる徳川慶喜は殺されなかったし、徳川家にくみした東武皇帝も朝廷に迎え入れられたのだ。なんと穏和的で、親和性のある政治風土であろうか。ただし、下々の者たちが悲惨な末期をあゆんだのは史実である。明治維新が「血の革命」であるのは、まごうことなき事実だ。

ところで、孝明天皇に暗殺説があるように、幕末のわが朝の政局も穏やかならぬシーンをくぐっている。明治天皇が殺されたという説があるのをご存知だろうか。歴史マニアでも一笑に付せないのが、この暗殺説の厄介なところだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

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◆三位一体論と部落解放運動

前回(11月12日)は被差別部落の起源をめぐる、井上清の功績とその後あきらかになった部落前史(古代・中世)を探究してみた。さまざまな職種の流民のほか、朝廷に結び付いていた職人集団の姿も明らかになった。それはしかし、近代の部落差別といかに結びついているのだろうか。

井上清の近代史における功績は、部落差別の根拠を明らかにした「三位一体論」であろう。部落差別は「身分」「職業」「地域」という、三つの要件で構成されているというものだ。

まずは身分である。明治4年(1871)の太政官布告(解放令=「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」)で穢多解放が行なわれた。しかし百姓層の反発が大きく、明治政府は「新市民」という属性を戸籍(明治5年の壬申戸籍=現在は閲覧不可)に記すことで、身分制を温存したのである。

これらの史実から、差別意識は権力の恣意性だけではなく、民衆の意識にこそ根ざすものだといえよう。人間は差別をしたがる動物なのだ。明治中期の戸籍から「新市民」という属性は取り払われたが、在地の固定性において差別はながらく温存される。

つぎに職業である。部落民の職業は屠殺業や精肉販売業、皮革産業などに集中的で、とくに屠殺業が職業差別を受けてきた。屠殺はもともと、自家消費として各家庭でも行なわれていた(公道で死んだ牛馬を解体する権利が、穢多の特権だった)が、近代において産業化されたことで、部落差別とは相対的に独自の職業差別となっていく。すなわち屠場労働者への差別である。しかるに職業差別は清掃労働者に対するものなどもあり、これらと部落差別を同一線上で理解するのは誤りである。あくまでも部落差別は、身分差別であるとここでは指摘しておこう。

最後は地域である。部落民はその血統においてではなく、地域そのものが差別の対象になっている。70年代後半に「特殊部落地名総鑑」という書物が出版され、部落解放同盟はきびしくこれを糾弾した。部落民が自身を被差別部落出身であると宣言する「部落民宣言」は、差別に対する血の叫びとして尊重されなければならない。

そのいっぽうで、部落出身者の出自をあばくことは明確な差別行為である。同和地区が近代化され、公共住宅の家賃が極端に抑えられることなどから混住化が進んでいる。そこから部落の「解消」がもたらされるわけだが、だからこそ出自を掘り繰り返す差別も後を絶たないのである。

いずれにしても、職業や地域差による「貧困」が同和行政で「解消」されても、国民の意識の中に身分差別が温存されているかぎり、部落差別はなくならない。そうであればこそ、あらゆる機会をとらえて差別行為や差別を助長する言辞を告発し、部落差別の本質(人為性)を認識すること。そして糾弾する※ことで、社会に人権意識を広めてゆく。部落解放運動の基本はこれである。まずはここを押さえた上で、部落問題を考えていかなければならない。※糾弾権は部落民に固有の権利である。

◆表現の自由と差別

差別が表象するのは、出版・報道などの言語空間においてである。編集者や著者がナーバスになる分野といえるかもしれない。

必要なのは上述したとおり、部落差別が歴史的に形成された謂れのない差別であり、重大な人権侵害であることの認識である。そしてそれは、けっして隠蔽するようなものではなく、イデオロギー闘争として差別意識を克服する必要があることが強調されなければならない。日本のような差別的な社会の反映として、部落差別・差別意識は再生産されるからだ。

したがって、単に差別語を「使わなければよい」ということでは、けっしてないのだ。むしろ差別を助長させる言葉が文脈に顕われるのを契機に、差別と向かい合うことが肝要なのである。だから記事の文章表現においても、部落差別を想起させる言葉の使用があっても、それが部落解放の視点に立っているかどうか、ということになる。たいせつなのは「視点」であり、被差別大衆に寄り添う態度・思想である。

差別にかかわる文言を「使用禁止用語」などとして、内容を抜きに回避することこそ、差別問題を聖域化することで温存するものと言わねばならない。

◆近代における差別の構造

わたしは「日本のような差別的な社会の反映として、部落差別・差別意識は再生産される」と明確に書いた。現在ではレイシズムとして在日外国人へのヘイトクライムが横行し、コロナ禍においては感染者や医療関係者への差別、不寛容な排除の言説が行なわれている。

一部の保守派は「日本の民度は高い」などと自賛するが、これら差別の蔓延は日本社会があいかわらず、差別社会であることを冷厳に物語っているのだ。近代合理主義の定着が遅れた日本においてこそ、差別の因習は甚だしく残存しているという見方もできる。

たとえば、文化人類学的な視野から日本人は農耕社会であるがゆえに、共同体の横並び意識がある。したがって、異物や異化されたものを賤視する。あるいは劣った者を異化することで、横並びの選別意識を持っているなどと、その差別意識が解説されることがある。かならずしも間違いではないが、近代の資本制は地域共同体をほぼ解体し、その代わりに経済における差別の構造をもたらしたのだ。アトム化された諸個人においてなお、差別意識は払しょくできていない事実があるのだ。

その意味では、部落差別を封建遺制にすぎないとする安直さは批判されてしかるべきである。とりわけ、近代化と経済的な均等化において解消される、とする日本共産党の立場は決定的に誤っているといえよう。

なぜならば、部落差別ほかのあらゆる差別が景気の安全弁として機能するからだ。季節工や派遣労働者の使い捨てが、安倍政権のもとで激的に増した格差の増大を思い起こしてほしい。現代に残された部落差別は結婚差別だとされるが、経済における差別の再生産も甚だしいものがある。

部落差別および部落民の存在を経済学用語では、景気循環における相対的過剰人口の停滞的形態という。以下に、わかりやすく解説しよう。

◆競争と排除が生み出す差別

同和対策審議会答申にもとづく同和対策事業特別措置法、およびそれを継承した地域改善対策特別措置法が2002年に終了し、被差別部落をとりまく経済的環境は改善したとされる。冒頭の節で述べたとおり、同和地区における公共住宅の賃貸料の逓減による混住が進んだ。公共工事における同和対策事業枠によって、部落出身の事業者の優遇や、事業そのものによる地域環境の改善が行なわれてきた。

しかしその一方で、隠然たる差別が土木建設関連業や回収業などで行なわれているのも事実だ。そのひとつが警察による「暴力団排除条例」である。土木建設業界が暴力団組織と密接な関係にあるのは、公共事業における地元対策費(予算外の予算)によるものだが、暴力団のフロント企業と分かちがたい業者の中には部落出身者のものも少なくない。これらを一括りに排除することで、部落民の中小企業が排除される。じつは暴排条例そのものが暴力団の排除を謳いながら、同和対策事業つぶしを狙ったものでもあるのだ。

そして景気の低迷は業者間の競争を生み、競争者たちが「あのオヤジのとこは同和でっせ」と情報を流すことで、部落出身者たちを排除する。これも隠然たる差別であろう。景気循環が排除しやすい人々を競争において差別し、資本の超過利潤を生みだす労働力として、好況期には労働市場に取り込む。資本の運動は差別を必要としているのだ。

◆結婚差別および「部落の解消」

最後は問題提起である。

21世紀まで残された差別の典型として、結婚差別があるとされている。被差別地域を出てもなお、部落出身者であることを暴露される。意識的に差別を助長している人々が存在する※のも事実である。※鳥取ループなど。

それにしても、個人の血統血脈において部落出身者であることは、子々孫々まで束縛されるのだろうか。同和対策特措法が終了し、人権擁護法がそれに代わってからも、部落問題が終了したわけではない。部落出身者は部落を出てからも、出身者として差別されなければならないのだろうか。

そんな疑問を提起したのは、橋下徹元大阪(元市長)府知事の存在である。橋下氏(東京生まれ)の実家は自身が広言しているとおり東大阪八尾市の出身であり、大阪市淀川区に転じてからも同和地区で育った人だ。その橋下氏の職業は弁護士であり、出身地域から転出している。これをもって、彼の中から部落は「解消した」とは言えないだろうか。井上清の三位一体説でいえば、もはや部落差別の根拠は成立しない。

八尾市に近い同和地区で、その部落出身の娘さんが結婚差別によって自殺に追い込まれたという。その部落は同和事業対象地域(諸税の減免・公共施設の優遇・住宅料金の減免など)であることを行政に返上し、それをもって被差別部落であることを「解消」したのである。※これは筆者が現地取材で知ったことだ。

同和事業によって職業差別がなくなり、経済環境がととのった地域からも転出したのであれば、残された差別は「血統」「血脈」ということになる。この血のつながりを差別の根拠にするのは、もはや執拗な差別主義というほかにないだろう。そうであるならば部落の「解消権」というものが、果たして積極的に存在するべきなのだろうか。これが現在の疑問である。(終わり)

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造
〈前編〉  〈後編〉

◎参考URL 部落問題資料室(部落解放同盟中央本部HP)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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◆内親王が文書を発表

宮内庁は11月13日に、秋篠宮家の長女眞子内親王(29)と小室圭氏(29)の結婚について、内親王の気持ちをまとめた文書を公表した。

このなかで、眞子内親王は「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と強い意志を記している。しかしながら、結婚の儀の予定は「現在、具体的なものをお知らせすることは難しい状況」としている。


◎[参考動画]眞子さま お気持ちを発表 結婚は「必要な選択」(ANNnewsCH 2020年11月13日)

これを受けて、秋篠宮家および天皇陛下、上皇陛下ともに、内親王の意志を認めている(尊重して静かに見守る)という。これで今年に予定されていた婚儀は、来年以降となることが確実となった。文面は以下のとおりだ。

「一昨年の2月7日に、私と小室圭さんの結婚とそれに関わる諸行事を、皇室にとって重要な一連のお儀式が滞りなく終了したあとの本年に延期することをお知らせいたしました。新型コロナウイルスの影響が続く中ではありますが、11月8日に立皇嗣の礼が終わった今、両親の理解を得たうえで、あらためて私たちの気持ちをお伝えいたしたく思います。前回は、行事や結婚後の生活について十分な準備を行う時間的余裕がないことが延期の理由である旨をお伝えいたしました。それから今日までの間、私たちは、自分たちの結婚およびその後の生活がどうあるべきかを今一度考えるとともに、さまざまなことを話し合いながら過ごしてまいりました。私たちの気持ちを思いやり、温かく見守ってくださっている方々がいらっしゃいますことを、心よりありがたく思っております。一方で、私たち2人がこの結婚に関してどのように考えているのかが伝わらない状況が長く続き、心配されている方々もいらっしゃると思います。また、さまざまな理由からこの結婚について否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております。しかし、私たちにとっては、お互いこそが幸せなときも不幸せなときも寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です。今後の予定などについては、今の時点で具体的なものをお知らせすることは難しい状況ですが、結婚に向けて私たちそれぞれが自身の家族とも相談をしながら進んでまいりたいと思っております。このたび私がこの文書を公表するにあたり、天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下にご報告を申し上げました。天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下が私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっていることに深く感謝申し上げております」

いっぽう、ニューヨークのフォーダム大学に留学中の小室圭氏は、10月5日に29歳の誕生日を迎えた。2018年8月に渡米し、ニューヨーク州の弁護士資格の取得を目指す小室氏は、来年の夏には卒業の見込みである。現在は3年にわたる留学の最終年ということになる。

小室氏は成績も上位に入り、論文が法律専門誌に掲載されるという快挙も達成している。すなわち、ニューヨーク州弁護士会のビジネス法部門が刊行する『NY Business Law Journal』(19年夏号)に、学生ながら論文が掲載されたのである。査読のある論文が専門誌に掲載されるということは、たとえば小室氏が大学院の博士課程の単位を取得した場合、博士論文を執筆する資格が得られるのだ。弁護士資格はもちろんのこと、アメリカの法学界に位置を占めることも可能なのである。

◆反対派が画策する「なりふり構わない“強行策”」

いずれににても、メディアによる小室氏の母親の「400万円の借金問題」が障壁になっていた婚儀は、皇室全体の理解を得られたことになる。

既報のとおり、秋篠宮家においては、11月8日に「立皇嗣(りっこうし)の礼」が無事に終わり、眞子内親王の動静が注目されるところとなっていた。

というのも、今年9月に紀子妃は誕生日の文書に「長女の気持ちをできる限り尊重したいと思っております」と記し、眞子内親王の気持ちに大きく歩み寄っていたからだ。

しかしながら、小室氏との結婚にたいしての秋篠宮夫妻の考えは、あまり変わっていないという観測もある。つまり否定的なものがあるというのだ。

「たしかに紀子さまは、コロナ禍のステイホーム期間を利用し、眞子さまとの親子関係改善に努められてきました。紀子さまが呼びかけられた防護服づくりのボランティアや専門家とのオンライン懇談に、眞子さまも参加されたのです。その結果、一時は“対話拒否”状態だった眞子さまもだんだんと耳をかたむけるようになられたのですが、これも紀子さまの作戦といえます。儀式の延期により “結婚宣言”を先延ばしにしつつ、眞子さまが小室さんとの結婚を諦めるよう、紀子さまは地道な説得を続けてこられたのです」(宮内庁関係者、11月13日「女性自身」オンライン)。

こうしたコメントを、秋篠宮夫妻の真意と取るのか、宮内庁の「空気」と読むのかは難しいところだ。宮内庁関係者はこう続けている。

「眞子さまの小室さんを思うお気持ちは、紀子さまが想像されていた以上に揺るぎないものだったのです。紀子さまは9月の文書で、眞子さまとの対話は『共感したり意見が違ったりすることもあります』と語られていますが、その後、どんなに対話を重ねても“意見の違い”は埋まらなかったのです。むしろ、紀子さまの露骨ともいえる引き延ばし策に気づかれた眞子さまは、不信感を強めていらっしゃいます。眞子さまは小室さんとの結婚という悲願をかなえるため、なりふり構わない“強行策”を準備されているようです」(前出)。

思わせぶりなコメントだが、根拠はないでもない。

女性皇族の結婚はそもそも私的な事柄であって、「納采の儀」や「告期の儀」も宮家の私的な行事である。男性皇族の結婚とは違って、皇室会議にはかる必要もないのだ。

つまり「なりふり構わない“強行策”」とは、本通信で何度か指摘してきたとおり、皇族離脱をもって自由結婚をすることにほかならない。

だが、今回の秋篠宮夫妻が眞子内親王の意志を尊重することをもって、二人の自由恋愛結婚は何はばかることなく実現されるのだ。上記の宮内庁関係者の「なりふり構わない“強行策”」なる「杞憂」こそが、婚儀反対派の代弁にほかならないことを、ここから先の婚儀手続きの進行は明らかにすることだろう。

そして「ふたりの愛」は宮内庁内部の守旧派、皇室ジャーナリズム内部の墨守派に「勝った」のだと指摘しておこう。

この「愛の勝利」は皇室および皇族をいっそう民主化し、天皇制そのものが激変する可能性を胎動させる。敬宮愛子内親王が天皇に即位する可能性、悠仁親王にたいする秋篠宮家の自由主義教育に批判的な勢力の、おびえる姿が見えるようだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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◆被差別部落の歴史、起源を学ぶということ

部落差別が謂(いわ)れのない差別であること、人為的なつくられた身分制の残滓であることを知るには、その起源を知る必要がある。そしてこれも前提になることだが、部落差別は顕在化することでその本質が明らかになり、差別に反対する人権意識をもって、はじめて差別をなくす地点に立つことができる。そのためにも、部落の起源と歴史を学ぶことが必要なのである。

『紙の爆弾』9月号において、差別を助長する表現があったと、部落解放同盟から指摘された。※詳細は同誌11月号、および本通信2020年10月7日《月刊『紙の爆弾』11月号、本日発売! 9月号の記事に対して解放同盟から「差別を助長する」と指摘された「士農工商ルポライター稼業」について検証記事の連載開始! 鹿砦社代表 松岡利康」》参照

解放同盟の指摘、指導とは別個に、本通信においても表現にたずさわる者として大いに議論することが求められるであろう。差別は差別的な社会の反映であり、われわれ一人ひとりも、そこから自由ではないからだ。まさに差別は、われわれの意識の中にこそある。そこで不肖ながら、多少は部落解放運動に関わった者として、議論の先鞭をつけることにしたい。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号より

月刊『紙の爆弾』2020年11月号より

◆被差別部落の起源はいつだったのか?

 

井上清『部落の歴史と解放理論』(1969年田畑書店)

わたしの世代(70年代後半に学生時代)は、部落問題の基本文献といえば井上清(日本史学・当時京大教授)の『部落の歴史と解放理論』(田畑書店)だった。

井上清は講座派マルクス主義(戦前の共産党系)の学者だが、思想的には中国派と目されていた。したがって、共産党中央とは政治見解を同じくせず、政治的には部落解放同盟に近かった。全共闘運動、三派系全学連を支持したことでも知られる。

その歴史観は階級闘争史観であり、部落の起源を近世権力(豊臣秀吉・徳川家康)の政策に求めるものだった。もともと産業の分業過程で分化していた地域的な集団や職能集団、あるいは漂泊していた集団を、政治権力が戦略的に配置することで被差別部落が発生した、とするものだ。

国境防衛(区分)のいっぽうで、領主権力と農民一揆の相克を外化(外に転嫁する)する「階級闘争の沈め石」として、被差別部落が必要とされたとする。このあたりが階級闘争史観の真骨頂であろう。土地と民衆は一体であり、それゆえに土地の支配が身分制と結びつく。

それゆえに、部落の本質は政治権力によって人為的に作られたとするものだ。なるほど身分社会の形成は、武士と百姓の分離は秀吉の刀狩にはじまり、家康の儒教的統制によって完成する。この儒教的統制とは、世襲による身分の固定化である。したがって身分社会の完成は江戸時代の産物であり、このかぎりで井上理論は間違っていない。穢多身分の集団が牛馬の処理を専業とする、職能と身分、居住地の固定が行なわれたのだ。

 

柳田国男『被差別民とはなにか 非常民の民俗学』(2017年河出書房新社)

いっぽうで、被差別部落を主要な生産関係からの排除とする、経済的な形成理由も明白だ。近世権力は民衆の漂泊をゆるさず、上記のとおり戦略的に土地に縛り付ける「定住化」をうながした。漂泊していた集団が新たに定住化するには、しかし農業耕作に向かない劣悪な土地しか残されていない。おのずとその集団は貧窮するのだ。貧窮が差別につながるのは言うまでもない。この立論は柳田国男によるものだ。柳田は賤民の誕生を「漂泊か定住にある」とする(『所謂特殊部落ノ種類』)

ただし、職業の分化は古代にさかのぼる。律令により貴族階級の職階、およびそれに従属した職能集団(部民)の形成である。

中世には民衆の職業分化も、流動的な職能集団の中から発生してくる。流民的な芸能集団や工芸職人集団、あるいは神人と呼ばれる寺社に従属する集団。なかでも仏教全盛時代に牛馬の遺体の処理、すなわち穢れにかかわる職能が卑賎視されるのは自然なことだった。その意味で、部落の起源を中世にさかのぼるのは必然的であった。

これらの職能集団が江戸期に穢多あるいは非人として、百姓の身分外に置かれるようになるのだ。ちなみにここで言う「百姓」は、今日のわれわれが考える農民という意味ではない。百の姓すなわち民衆全体を指すのである。百の姓とは、さまざまな職業という謂いなのだ。つまり農民も商人も、そして手工業者も「百姓」なのである。

◆非人は特権層でもあった

ところで「士農工商」という言葉は、現在では近代(明治以降)の概念だとされている。少なくとも文献的には、江戸時代に「士農工商」は存在しないという。したがって「士農工商穢多非人」という定型概念も、明治以降のものであろう。

じつは江戸時代には、士分(武士)と百姓(一般民)の違いしかなかったのだ。人別帳外に公家や医師、神人、そして穢多・非人があった。この人別帳とは、宗門改め人別帳(宗門台帳)である。最初はキリシタン取り締まりの人別帳だったが、のちには徴税の根拠となり、現代の戸籍と考えてもいいだろう。

そしてその人別帳外の身分は、幕府によって別個に統制を受けていた(公家諸法度・寺院諸法度など)。

穢多・非人が江戸時代の産物でなければ、どこからやって来たのだろうか。穢多・非人の語源をさぐって、ふたたび中世へ、さらには古代へとさかのぼろう。

 

網野善彦『中世の非人と遊女』(2005年講談社学術文庫)

一般に非人は、非人頭(悲田院年寄・祇園社・興福寺・南宮大社など)が支配する非人小屋に属し、小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。いわば寺社に固有の集団だったのだ。神社に固有の「犬神人」と同義かは、よくわかっていない。

網野善彦の『中世の非人と遊女』(講談社学術文庫)によれば、非人の一部は寄人や神人として、朝廷に直属する特殊技能をもった職人集団でもあった。これを禁裏供御人(きんりくごにん)という。朝廷に商品を供給する職人だったのだ。

その意味では、一般の百姓(公民)とは区別されて、朝廷に仕える特権のいっぽう、それゆえに百姓から賤視(嫉妬?)される存在でもあった。この場合の賤視は、少なからず羨(うらや)みをふくんでいただろう。

非人はそのほかにも、罪をえて非人に落とされるものがあり、非人手下と呼ばれる。無宿の者は、野非人や無宿非人と呼ばれる。江戸時代は無宿そのものが罪であり、江戸市中に入ることは許されなかったのだ。

笹沢佐保の「木枯らし紋次郎」で、紋次郎が江戸に足を踏み入れてしまい、夕刻に各辻の木戸が閉まる前に脱出しようと焦るシーンがある。笹沢佐保は時代考証にすぐれた人で、無宿者が夜間の江戸市中に存在できないことを知っていたのだ。


◎[参考動画]木枯し紋次郎 食事シーン

◆「餌とり」が語源だった

さて、近世部落の起源とされるのは、非人(広義の意味)のうち、穢多と呼ばれる集団である。江戸期の穢多は身分制(儒教的世襲制)の外側にある存在で、上記の非人とは異なり幕府および領主権力の直接統制を受けていたとされる。かれらは検断(地方警察)や獄吏など、幕藩体制下の警察権の末端でもあった。

穢多が逃亡農民や古代被征服民という俗説もあるが、史料的な根拠にとぼしい。なかでも異民族(人種)説は部落解放同盟から批判され、ゆえに「部落人民」という表現ではなく「部落大衆」「被差別部落大衆」という表現が適切とされる。われわれ日本人全体が、古代からの先住民と渡来人の混在、混血した存在であると考えられているように、人種的には部落民も同じである。異民族説を採った場合、そもそも日本人とは何なのかということになる。上記のとおり、日本人も「異民族の雑種」である。それでは、穢多の語源は何なのだろうか。

 

辻本正教『ケガレ意識と部落差別を考える』(1999年解放出版社)

文献的には『名語記』(鎌倉期)に「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑたとなつく、如何」「ゑたは餌取也。ゑとりをゑたといへる也」と記されている。

同時代の『塵袋』には「根本は餌取と云ふへき歟。餌と云ふは、ししむら鷹の餌を云ふなるへし」とある。ようするに「餌とり」から「えとり」そして「えた」である。

この「餌とり」とは、律令制における雑戸(手工業の集団)のひとつ、兵部省の主鷹司(しゅようし)に属していたとされる。

つまり、もとは鷹などの餌を取る職種を意味していたのだ。それが転じて、殺生をする職業全般が穢多と呼ばれるようになったものだ。『塵袋』にあるとおり、狩猟文化と密接な関係を持つ人々を指して「えた」と呼ぶようになったのである。

そしてそれが、穢れが多い仕事をする「穢多」という漢字をあてたと考えられる。

穢多の語源については、別の考察もある。辻本正教は『ケガレ意識と部落差別を考える』(解放出版社)において、穢(え)は戉(まさかり)で肉を切るという意味で、「多」がその「肉」という意味であるとしている。

いずれにしても、古代・中世の穢多は職業分化に根ざすものといえよう。近世において、定住化による差別が顕在化する。人為的につくられた分断と反目、政治的に仕掛けられた差別というとらえ方を前提に、近代における差別構造を考えていこう。(つづく)

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造
〈前編〉  〈後編〉

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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119代光格(こうかく)天皇は、近代の天皇権力を強く主張した天皇である。30年以上も在位し、退位後の院政をふくめると、幕末近くまで50年以上も権力を握っていた人物である。博学にして多才。朝儀再興にも尽くし、その事蹟は特筆にあたいする。

光格(こうかく)天皇

なかでも有名なのは、寛政の改革期に松平定信と争った尊号一件と呼ばれる事件であろう。自分の父親(閑院宮典仁親王)に太上天皇号の称号を贈位しようとしたところ、松平定信がそれに猛反対して争った事件である。父親の典仁親王が摂関家よりも位階において劣るため、天皇は群議をひらき参議以上40名のうち35名の賛意をえて、太上天皇号の贈位を強行した。皇位を経験しない皇族への贈位に、先例がないわけではなかった。

ところが、老中松平定信はこれを拒否した。議奏の中山愛親、武家伝奏の正親町公明を処分し、勤皇派の浪人を捕縛する事態に発展した。この事件の裏には、十一代将軍徳川家斉が実父・一橋治済に大御所号を与えようとしていた事情があり、治済と対立関係にある定信は贈位を拒否するしかなかったのだ。そして勤皇派の台頭を背景にした公武の対立が、徐々に煮詰まりつつあった。

光格天皇の行動の基底には、彼が傍系であったことが考えられる。閑院宮家からいきなり天皇家を継ぐことになった光格天皇は、血統としては傍系であって、後桃園天皇の養子になることで即位している。天皇としての立場も当初は微妙な位置にあり、そのことから自己のアイデンティティを持つために、天皇の権威を強く意識したのではないかと考えられる。

孝明(こうめい)天皇

◆孝明天皇と幕末の激流

その子・仁孝天皇もたいへんな勉強家で、朝儀の再興につとめ、漢風謚号の復活や学習所の設立を実現する。この学問所(のちに京都学習院)には、気鋭の尊皇攘夷派が集うことになる。そして仁孝天皇の崩御後、幕末のいっぽうの大立役者、孝明(こうめい)天皇の即位へといたる。

学究肌の祖父・光格天皇、実父・仁孝天皇にたいして、孝明帝は政治的かつ意志的な天皇であった。一貫して強行な攘夷論をとなえ、しかしその政治方針は佐幕・公武合体派だった。幕末動乱における孝明天皇の役割り、決定的なシーンをふり帰ってみよう。

ペリー来航に先立つ弘化3年(1846年)、孝明天皇は父帝崩御をうけて16歳で即位した。この年、アメリカの東インド艦隊司令官・ビッドルが来航したほか、フランス・オランダ・デンマークの船舶があいついで来航し、通商をもとめてきた。

16歳の孝明帝は幕府にたいして、対外情勢の報告と海防の強化をうながしている。まさに少壮気鋭の君子である。朝廷内部に口出しをする幕府に反発していた、歴代の天皇とはおよそ次元がちがう。国のすすむべき指針を、みずから口にしたのである。

いよいよペリー艦隊が来航すると、天皇はさらなる海防強化を幕府にもとめ、参勤交代の費用を国防費にあてるよう提案している。そして幕府がむすんだ日米和親条約には「開港は皇室の汚辱である」と、断固反対の意志をあらわす。老中堀田正睦の調印許諾の勅許を、天皇は断乎として拒否したのである。

けっきょく、幕府は大老井伊直弼が勅許を得ないまま欧米各国と通商条約をむすび、ここに日本は開国する。その一報をうけた孝明天皇は激昂した。もはや今の幕閣は頼りにならない。尊皇攘夷派の重鎮である水戸斉昭に、幕政改革の詔書を下賜するのだった(戊午の密勅)。ここにいたって、幕府と朝廷の外交方針をめぐる対立は極限にいたる。それは当然ながら、すさまじい反動をもたらした。

すなわち、幕藩体制が崩壊させかねない朝廷のうごきに激怒した井伊直弼による安政の大獄、尊皇攘夷派にたいする熾烈な弾圧がおこなわれたのである。そして日本は、局地的ながら、流血の内乱に陥った。

桜田門外の変によって井伊直弼が殺害されると、京都市中は尊皇攘夷派の活動が活発になり、それを弾圧する寺田屋事件(薩摩藩による粛清)。8月18日の政変による、長州派公卿の追放(七卿の都落ち)。さらには禁門の変において、長州勢を一掃する事態となる。尊皇攘夷をとなえる長州を、攘夷をねがう朝廷が排除するというアンビバレンツな事態は、ひとえに幕府との関係をめぐる落差である。そこに孝明天皇の悲劇があった。この「落差」については、くわしく後述する。

天皇は公武合体を促進するために、妹宮の和子内親王を14代将軍家茂に嫁さしめようとした。有栖川熾仁親王と婚約中であった和宮がこれを拒否すると、生まれたばかりの寿万宮をかわりに降嫁させるなどと、妹を相手にほとんど脅迫である。和宮の降嫁が実現しなければ自分は譲位する、和宮も尼寺に入れるなどと、無茶なことを言いつのっての縁組強行だった(「公武合体の悲劇」参照)。

しかしながら、幕府とともに攘夷を決行するという天皇の政治指針は、開国・倒幕の情勢に押しつぶされていく。諸外国の艦隊が大坂湾にすがたを見せると、さすがに通商条約の勅許を出さざるをえなかった。慶応2年には薩長同盟が成立し、世論は「開国」「倒幕」へと傾いていくのである。

孝明天皇と薩長の「落差」を解説しておこう。近代的な改革・開明性を評価される明治維新は、じつは毛利藩(長州)と島津藩(薩州)による徳川家打倒の私闘でもあった。関ヶ原の合戦いらい、徳川家の幕藩体制のまえに雌伏すること268年。倒幕は薩長両藩の長年の念願であり、ゆるがせにできない既定方針だったのだ。

天皇は形勢逆転をはかって、一橋慶喜(水戸出身)を将軍に擁立するが、その直後に天然痘に罹患した。いったん快方に向かうものの、激しい下痢と嘔吐にみまわれてしまう。記録には「御九穴より御脱血」とある。この突然の死には暗殺説があり、長州藩士たちによるものとも、岩倉具視らの差し金によるものともいわれる。いずれも明確な証拠があるわけではないが、傍証および証言はすくなくないので後述する。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

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鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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