◆一般人の非英雄的反体制的言論活動

昔も今も、人間が考えたりやることは同じなのだなぁ……。あらためてそう思わされたのが、高井ホアン著「戦前不敬発言大全」(合同会社パブリブ刊・2019年)である。

国民を監視して弾圧し続けた特高警察(特別高等警察)による「特高月報」に掲載されている、一般市民による天皇批判や反戦的言動の記録をまとめた本だ。

日中全面戦争が始まった1937(昭和12)年から太平洋戦争末期の1944(昭和19)年まで、つまり戦前というよりは戦中の庶民のホンネがのぞける。

本書の帯には、「天皇の批判を投書や怪文書でコッソリ表明……犠牲を顧みる一般市民の非英雄的反体制的言論活動」とあるように、一般人の不敬表現や反戦表現をチェックした記録だ。

特高による監視弾圧活動は、たとえば共産党や宗教団体や労働運動にかかわる人に関しては、ある程度記録され、書籍等にもなっている。

ところが、組織とのかかわりが不明か、あるいは無関係の一般人・普通人の言動が記録されているのは珍しい。

◆戦中の“匿名掲示板”を見る思い

どんな言論表現活動かというと……。

「早く米国の基地にしてほしい」
「天皇陛下はユダヤ財閥の傀儡だぞ」
「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」

などというありさまだ。なんだか今はやりの謀略論的な内容も記載されている。もう少し見てみよう。

《五月二十三日大阪市南区鰻谷中之町(心斎橋筋)の公衆便所内壁窓横手に鉛筆を以て「戦争反対」「天皇ヲ殺セ」と落書きしあるを発見す(捜査中)》特高月報 昭和13年5月号

あまりにストレートな表現だ。

《昭和15年12月 大阪市東成区北生野町一ノ五六 浜野三五郎(36)(中略)「何んだ天皇陛下も我々も一緒じゃないか機関銃でパチパチやってしまえ」と不敬言辞を弄す。(二月十九日不敬罪として検事局へ送致》(特高月報 昭和16年2月号)

住所氏名年齢などが記載されて送致されたりしている事件も記載されているが、匿名の落書きもまた多い。

《五月十三日南海鉄道高野線北野田駅構内便所に鉛筆にて「生めよ殖やせよ陛下のように 下手な鉄砲数打ちゃあたる」と落書きしあるを発見す。(大阪府)(捜査中)》(特高月報 昭和16年5月号)

ちなみに本書は第1巻であり、第2巻『戦前反戦発言大全』と合わせ1184ページに約1000の発言が収録されている。

全般を通してみると、まるで巨大掲示板のようだ。あるいは、ツイッター、フェイスブック、匿名ユーチューバーを彷彿させるところもあり、遠い昔のこととは思えない。

およそ80年前の庶民と現代に生きるわれわれとの時間の隔たりが感じられず、つい最近の出来事のかのような錯覚にさえ陥る。

高井ホアンさんの著書『戦前不敬発言大全』(左)と『戦前反戦発言大全』(右)(共にパブリブ刊)

◆希望と絶望が同時に

現在でも、政権批判やマスコミ批判、御用文化人などを揶揄したり、SNSが普及したことによってさまざまな試みが見られる。

かつても、素朴な怒りや疑問を表現した膨大な人々がいる。本書のページをめくっていくと、人々の息遣いや温かみすら感じてくる。

ひどい時代でも、まっとうで反骨心ある人々が少なからずいたことに希望を持てる。しかし彼らは組織化されず、その言論は広がることはなかった。

では、現在のSNSの言論表現はどうだろうか。何かを生み出すことはできているだろうか。もちろん、戦前戦中に比べれば直接的な弾圧法規は激減しているし、インターネットの発達により量的拡大はしているが……。

本書に描かれた戦中巨大掲示板を知ることで、現在とこれからの社会をどう考えればいいのだろう?

高井ホアンさん

◆25歳で本書を著わした高井ホアンとは?

著者の経歴を知って驚いた。

高井ホアンは1994年生まれの27歳。本書を世に出したのは、まだ25歳だった。

著者プロフィールによれば、日本人とパラグアイ人とのハーフで、「小学校時代より『社会』『歴史』科目しか取り柄のない非国民ハーフとして育つ」とある。

彼がどのような思いで本書を執筆し、SNS全盛の現代をどうとらえているのだろうか。本人を招いて講演会を企画した。

………………………………………………………………………………………………

◎第139回草の実アカデミー◎
2021年9月18日(土)
「消されなかった戦中の“匿名掲示板”から今を考える」
講師:高井ホアン氏(作家・ライター)
日時:9月18日(土)
13時30分開場、14時開始、16時30分終了
場所:雑司ヶ谷地域文化創造館 第3会議室
https://www.mapion.co.jp/m2/35.71971291,139.71364947,16/poi=21330448165
交通:JR目白駅徒歩10分、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷駅」2番出口直結
資料代:500円
主催:草の実アカデミー
【申し込み】(定員18名)
フルネームと「9月18日参加」と書いて下記のメールアドレスに送信してください。
kusanomi@notnet.jp

★★★感染防止対策にご協力を★★★
・受付の名簿に必要事項をお書きください。
・会場入りの際は手洗いかアルコール消毒をお願いします。
・会場内ではマスク着用をお願いします。
・暑くても窓を開けて換気をするのでご了承ください。

………………………………………………………………………………………………

▼林 克明(はやし まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

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菅が政権を放り投げ、皇室のどなたかが結婚をするという。たぶんテレビは大いに取り上げ、知ったかぶりの出たがりに、いいたい放題いわせているのだろう。自称評論家やタレント、コメンテーターからどうでもいい人までが、なにか一大事でも起きたように大騒ぎしている姿が目に浮かぶ。

◆すべて限りなく希薄で非本質的な言説である

そういう雰囲気に水をかけるようで申し訳ないが、わたしは自民党の総裁が誰であろうがまったく、皆目、関心はない。天皇制に「無条件」で反対するわたしは、皇室内の出来事にも興味はない。結婚でも離婚でも好きになさればよい。好きになさればよいが、何をなさってもわたしは制度としての天皇制には賛成できないので、興味はない。差別に反対する立場から、天皇制は廃止されるべきだと考える。

この二つの出来事において象徴的なように、ほとんどのニュースは非本質的であり、報道することで非報道当事者が属する組織や制度が補完される作用を持つ、これが今日メディアの特性ではないかと思う。

だからわたしは、従前から開催に反対してきた、東京五輪がはじまる前に「東京五輪については一切発信しない」と自分としてはごく自然に判断し、実際東京五輪をまったく目にもしなかった。だから感想もない。あんな馬鹿げたことは、大会期間中にどんなドラマが生まれようが、誰がメダルを取ろうが、やるべきではなかったのだ。それについて、あれこれ枝葉末節な議論があるようだが、それらはすべて限りなく希薄で非本質的な言説である。

◆東京五輪強行開催という罪深い所業

東京だけではなく全国に広まった「自宅療養」と言い換えられた「医療から見捨てられた」ひとびとの惨状はどうだ。この地獄図絵は決して医療関係者の判断ミスや、非協力によって引き起こされた事態ではない。逆だ。政府が片一方では「学校の運動会の自粛」を求めながら、「世界的大運動会を開く」という、大矛盾を演じた結果に他ならない。「県をまたぐ移動の自粛」を求めながら海外から10万ともいわれる数のひとびとがやってきた。

日本初の「ラムダ株」が持ち込まれたのは海外からやってきた五輪関係者によってであったが、それが報道されたのは東京五輪終了後のことだ。実に罪深い所業ではないか。

こういった事態が発生することは、容易に想像ができた。たとえば他府県の警察からの警備要員として東京に派遣された警察官の中では、複数のクラスターが発生した。偶然にもわたしが目にした兵庫県警の機動隊車両に乗車して東京に向かった兵庫県警の警察官の中でもクラスターがあったようだ。

こういう馬鹿なことを強行した責任者である日本政府ならびにその最高権者である首相は、どう考えても、ただ批判の対象であり、それ以上でも以下でもない。

◆災害、貧困、コロナ禍という生活に密着した課題をどうするか

自民党の総裁選の前にはいつだって「派閥がどうの」、「誰々が引っ付いた」、「誰かが切られた」と各メディアは競い合って報じる。でも自民党総裁選挙は、自民党員以外には選挙権がないのだから、ほとんどの国民には関係ない。

あたかも国民に選挙権があるかのごとき、まったく失当な情報流布が昔からなされてきたし、いまも続いているのだろう。国政選挙で政党を選ぶための情報提供であれば、各種の細かな情報にも有権者のために意義はあるのかもしれないが、自民党の代表は、わたしたちが投票で選ぶものではないじゃないか。

そして、こういう物言いをすると「そんなこと言ってると政治が好き勝手するよ」と言われるかもしれないが、自民党総裁など、誰がやっても同じなのだと最近は切に感じる。違いがあるとすれば菅のように裏では相当ひどいことができても、人前では一人前に主語述語がかみ合った演説をすることができるかできないか(演技力)と、自民党内の力学をうまく調整する力があるかないか程度(党内政治力学)の違いだろう。

演技がうまいと国民は騙されやすい。今世紀に入ってからでは、小泉純一郎がその筆頭だろう。党内力学に長けていた官房長官時代の菅は、自民党全国の選挙資金を握り、選挙の際、安倍以上に自民党議員の操作には力を持っていたそうだ。

そんなことわたしたちの生活に関係あるだろうか。毎年襲ってくる水害への備えや、生理用品も買えないほどの貧困問題、そして命にかかわるコロナ対策をはじめとした医療問題こそわたしたちが直面していて、注視すべき生活密着の課題ではないだろうか。いずれも皇室の方々とは無縁なはなしばかりであるが。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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年内に、劇的な「大団円」を迎えることになりそうだ。9月1日の読売新聞のスクープ、眞子内親王が年内結婚へ! である。秋篠宮家と宮内庁のリークであろう。

ついに眞子内親王と小室圭氏が、みずからの意志で結婚へとすすみ、皇室を離脱したうえでアメリカに移住するというのだ。弁護士試験への合格が前提だが、小室圭氏のニューヨークでの法律事務所への就職も決まっているという。メディアのバッシングや国民の猛反対を押し切って、ふたりの愛は「皇族スキャンダル」から「世紀の大恋愛」へと花ひらくことになりそうだ。

報道によれば、眞子内親王は一時金の財源が税金で、小室さんの母親をめぐる「金銭トラブル」への批判もあることから、受け取ることを辞退する考えを持っているという。宮内庁や政府は眞子さまの考えを踏まえ、一時金の額を減らすことや、特例で辞退することができるかどうかなどを検討するという。

※[参照記事]「眞子内親王の結婚の行方 皇室の不協和こそ、天皇制崩壊の序曲」(2021年4月13日)

4月に小室圭氏が文書(借金問題の事実関係)を発表したとき、眞子内親王がその相談に乗っていたことが、4月9日に行われた加地隆治皇嗣職大夫の会見によって明らかにされた。文書の発表が小室氏の独断ではなく、眞子内親王の意向でもあるというものだ。このことについて、苦言を呈するオピニオンは少なくなかった。

「本来ならば天皇家は民間の金銭の争いなどとは最も距離を置かねばならない立場だ。その眞子さまが、小室家と元婚約者男性のトラブルのリングに乱入し、一緒になって70代の元婚約者を追い込んだも同然だ。」(ネット報道)という指摘がなされたものだ。 

皇室制度に詳しい小田部雄次静岡福祉大学名誉教授も、眞子さまへの失望を口にした。

「国民に寄り添い、その幸せを願うはずの皇族である眞子さまが、恋人と一緒になって一般の人を相手に圧力をかけてしまったという事実は重い」

「眞子さまが、自ら望んで伝えたいと願ったとは思いたくない。仮に眞子さまが、恋人の対応は自分が主導したと伝えることで、国民が黙ると考えているのならば、それほどおごった考えは皇族としてあるまじきことです」

眞子内親王は「おごった考え」から、自分たちの危機を突破しようとしたのだろうか。そうではない。借金があるから皇族との結婚は許さないという、小室氏への不当なバッシング(低所得者差別)を回避し、ただひたすら望みを遂げたいという思いであろう。それがゆるされないのが皇族ならば、皇籍を捨ててでも結婚に突き進む。皇族も人間なのである。じつに自然な成りゆきではないか。

自民党の伊吹文明は法律論に踏み込んで、ふたりの結婚そのものに疑義をとなえた。

「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

伊吹は「皇族は日本人・人間であるが、国民ではない」と明言するのだ。それでは、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。国民の権利の源泉は、基本的人権である。

つまり人間だから、自由に生きる権利があり、それは職業の選択の自由・婚姻の自由をも包摂する。伊吹は憲法の理解を「基本的人権」ではなく「日本国と日本国民の統合の象徴」に限定してしまっているから、その矛盾を矛盾として突き出せずに、皇族は国民ではないが大和民族・日本民族だと、摩訶不思議なことを言いだすのだ。

◆皇室・皇族という「矛盾」

そしてじつに、この「矛盾」にこそ、天皇制(皇室文化と政治の結合)が崩壊する根拠がある。ふつうの人間に「皇族」という型を押しつける「矛盾」は、あまりにも無理がありすぎる。したがって、小田部雄次の言う「皇族としてあるまじきこと」を、かれら彼女らはしばしばするのだ。

皇籍離脱を口にしたのは、眞子内親王だけではない。

三笠宮寛仁(ともひと)親王は、アルコール依存による酒乱、別居、母娘の疎遠など、いわば一般庶民の家庭にある家族崩壊を国民の前に見せてきた。寛仁親王の「皇籍離脱宣言」は、まさにふつうの家庭と皇族という看板の「矛盾」を露呈させたものなのだ。

ほかにも皇族のなかでは、高円宮承子(たかまどのみやつぐこ)女王という、破天荒で魅力的な存在がある。ヤンキーと評される彼女にとって、皇籍は「矛盾」であろうか。はた目には「矛盾」をも呑み込んで、豪快に生きているように見える。平成上皇の「御言葉」(退位宣言)もまた、天皇制の「矛盾」にほかならない。

胸には蜥蜴のタトゥー、学習院時代から「スケバン」的な風貌が周囲を驚かせ、イギリス留学中は奔放な性生活を暴露された高円宮承子。じつは日本ユニセフ協会の常勤の嘱託職員でもあり、語学に堪能な彼女は皇族外交に欠かせない存在でもあるという。

◆皇室の民主化が天皇制を崩壊にみちびく

2017年の婚約発表、それに対するリアクションとして借金問題が報じられていらい、小室家の借金問題は国民の婚約反対運動にまで発展してきた。

たとえば小室圭は貧乏人のくせに不相応な学歴を形成(国立音大付属からカナディアン・インターナショナル、ICU進学)し、もともと玉の輿をねらっていたのだと。結婚を匂わせて、高齢の元婚約者から400万円をせしめた。あるいは亡父の遺族年金を強奪した、などなど。およそふつうの家庭なら、どこでもありそうな話がメディアの好餌にされてきたのだ。

だがそれも、わが皇室の戦後史をひもとくならば、まさに「ふつうの」バッシングだったことがわかる。正田美智子(上皇后)が明仁皇太子に嫁ぐときも、猛烈な反対運動、旧華族や皇族による反対、宮内庁の侍従や女官たちによる陰湿な美智子イジメがあった。

その意味では、皇族皇室の民主化というファクターが、一歩づつ、そして確実に天皇制を変質せしめ、崩壊へとすすむ序曲でもあるのだ。その第一の扉はひらかれた。快哉。

※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈38〉世紀の華燭の陰で──皇后・旧華族による美智子妃イジメ」(2021年8月27日)
※[参照記事]「天皇制はどこからやって来たのか〈39〉香淳皇后の美智子妃イジメ」(2021年8月29日)


◎[参考動画]眞子さま結婚へ……内定から4年 なぜ今? 秋篠宮さまは(ANN 2021年9月1日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆暴露小説の衝撃

1963年(昭和38年)のことである。雑誌『平凡』に掲載された小山いと子のノンフィクション小説「美智子さま」に対して、宮内庁が「事実に反する」として猛抗議する事件があった。けっきょく、この小説は掲載差し止めとなった。

この「猛抗議」は、初夜のことを暴露された美智子妃の「怒り」によるものと解釈されているが、そうではないだろう。

問題となったのは、秩父宮妃(勢津子)、高松宮妃(喜久子)が、美智子妃に好意を持っていない、というくだりだった。また、美智子妃が結婚報告で伊勢神宮に行かれた時、祭主の北白川房子さんが美智子さまに「敵意と侮蔑を含んだ絶望的な冷たい顔をした」という箇所である。

これらは周知のものであって、事実であったからこそ宮内庁官僚の怒りに触れたのである。そしてそのソースの出所が、口の軽い東宮侍従だったことから、内部粛清の意味合いもあった。

入江相政日記から引いておこう。婚約段階のことで、すでにこの連載でも触れてきた。

「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからんというようなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃勢津子)と喜久君様(高松宮妃喜久子)を招んでお訴えになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子(勢津子の母)という顔ぶれで田島さん(道治・前宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいわれた由。」

「御婚儀の馬車について良子皇后のときは馬4頭だったのに、美智子さまのときには馬6頭にすることに、良子皇后は不満を表明された」と記録されている(1959年3月12日)。

昭和天皇の意向もあって、美智子妃の入内は滞りなく行なわれたものの、実家の正田家へのバッシング、一連の儀式での謀略(前回掲載)は目を覆うものがあった。その発信源は皇后良子および、それに追随する宮中女官、昭和天皇の侍従たちであった。

とりわけ皇后良子においては、気に入らない嫁であれば、おのずと態度にも顕われようというものだ。ふたたび入江日記から引用しよう。

「美智子妃殿下に拝謁。終りに皇后さまは一体どうお考えか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか等、おたずね。」(『入江相政日記』1967年11月13日)

これは侍従長をつうじて、天皇皇后に美智子妃が態度を表明したものにほかならない。昭和天皇への直訴にも近いものだ。平民だからというだけではない。

婚約時から成婚後も終わらない。美智子妃の国民的な人気こそが、皇后良子には気に入らない最大のものだったのである。

常磐会(女子学習院OG会)の関係者によると、写真集を出すなど。皇室にはふさわしからぬ振る舞いが皇后の怒りを招いていたという。

その証言によると、皇后が美智子妃にむかって「皇族は芸能人ではありません!」と、直接叱りつけたこともあったという。

そのとき、美智子妃はムッとした表情のまま、しかし聞く耳をもたなかったとされている。そして美智子妃は返すように、良子皇后の還暦の祝いを欠席したというのだ。かなりの嫁姑バトルだ。

『写真集 美智子さま 和の着こなし』(2016年週刊朝日編集部)

◆ミッチーブーム

そもそも皇族のアイドル化路線は、昭和天皇が敷いたものだった。男子を手元で育てる、ネオファミリーの先取りともいうべき核家族路線は、明仁皇太子が昭和天皇から示唆されたものと言われている。

だが、それもこれも平民出身皇太子妃美智子がいなけれな、始まらないものだったのである。一般国民にとって、旧皇族出身や旧華族出身の妃殿下では距離が大きすぎる。

選りすぐれば、ある意味でどこにでもいる才媛で、誰もがみとめる美女。そして旧皇族や旧華族いじょうの気品と気配り、やさしさを感じさせる女性。そんな女性皇族を国民に親しませてアイドル化する。それが美智子妃だったのだ。思いがけなくも、美智子妃は国民的な「ミッチーブーム」を引き起こす。

皇室の私生活をメディアが報じるようになったのは、映像ではTBSの「皇室アルバム」(1959年~)を嚆矢とする。

50年以上の長寿番組であり、フジテレビの「皇室ご一家」(1979年~)、日本テレビの「皇室日記」(1996年~)は、その後追い番組だが、後追い番組が定着したことこそ、このコンテンツが象徴天皇制に見事にフィットするものである証左だ。戦前は、一般国民が「天皇陛下の御姿を拝し奉る」ことすら出来なかったのだから。
この番組が始まる契機は、まさにミッチーブームだった。番組の制作は各局の宮内庁担当だったが、当初は手探りの状態で、皇族が一人も登場しない回もあった。

やがてレギュラー番組化するなかで、宮内庁の職員(侍従職内舎人ら)も関与するところとなり、陛下(昭和天皇)の「御意向」も反映されている。が、その「御意向」は、日ごろ会えない皇族の様子を知りたいというものが多かったという(関係者)。天皇陛下も楽しみにしている番組、ということで人気番組になる。そのメインコンテンツは、言うまでもなく皇太子夫妻とその子供たちであった。

そして、このような皇室アイドル化路線に、隠然と反対していたのが良子皇后なのである。

『美智子さまの60年 皇室スタイル全史 素敵な装い完全版』(2018年別冊宝島編集部)

◆テレビ画像に「無視」が公然と

国民の前に、皇后良子と美智子妃の「バトル」が印象付けられたのは、1975年の天皇訪米のときのことだった。出発の挨拶のときに、皇后が美智子妃を「無視」したのである。

公式の場で挨拶を交わさないばかりか、わざと「無視をする」ということは、そのまま存在を認めないのに等しい。皇族にとって「挨拶」とは、最重要の「仕事」「公務」なのだから。

皇室ジャーナリストの渡邉みどりは、このようにふり返っている。

「羽田空港で待機する特別機のタラップの脇には皇太子ご夫妻(現・天皇、皇后両陛下)、常陸宮ご夫妻、秩父宮妃、高松宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻、そして三木首相ご夫妻の順に並んでおられました。昭和天皇、香淳皇后がいよいよ機内にお入りになるとき、おふた方は、宮様方のごあいさつに対し丁寧に返礼をなさいます。」

「特に昭和天皇は美智子さまにお辞儀をされた後、皇太子殿下に『あとをよろしく頼みますよ』というように深く頭を下げられ、皇太子さまも父君に『お元気で』といったご様子で最敬礼なさいました。」

「次の瞬間、モニターを見ていた私は、ぎくりとしました。」

「数歩遅れた香淳皇后は常陸宮さまにゆっくりとお辞儀をなさったあと、美智子さまの前を、すっと通り過ぎて皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。モニターの画面に映る映像は、後ろ姿でしたが、素通りされたのははっきりわかりました。香淳皇后は手に、つい先ほど美智子さまから贈られたカトレアの花束をお持ちでした。そのまま、美智子さまにも、深々とお辞儀をなさるとばかり思っていましたのに。」

「この『天皇訪米』の一部始終の映像はテレビで日本中に放送されたのです。私自身その時は、昭和天皇の訪米という歴史的なニュースを無事に中継することで、頭がいっぱいでした。昭和天皇と香淳皇后がご出発したあと、思わずスタッフと顔を見合わせて、『お気の毒に』とつぶやきました。」

浜尾実元東宮侍従も、当時のことをこう語っている。

「私もテレビを見ていて驚きました。東宮侍従をしていたころ、美智子さまのお供で吹上御所に行った時など何か皇后さまの態度がよそよそしいことは感じたことがありました。それは美智子さまの人間性というより、そのご出身(平民)が美智子さまを孤立させることになっていたんだと思います。ただ、あのお見送りの時は人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました」

だが、このような「無視」や「直言」をものともせず、美智子妃はある意味で淡々と、皇太子明仁とともに新しい皇室像を作り上げてゆく。

そればかりか、昭和天皇亡き後は、いわゆる「平成流」という流れをつくり出し、宮内庁官僚や女官たちと対立を深めてゆく。ために、週刊誌メディアへの情報のタレコミで、猛烈なバッシングを浴びるようになるのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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正田美智子(平成上皇后)は日清製粉の令嬢だった。日清製粉は祖父正田貞一郎が創業者の中心人物であり、正田一族を中核とする企業と言ってさしつかえない。その意味では創業者の三男を父に持つ正田美智子は、生まれついてのお嬢様だった。

とはいえ、彼女は平民である。皇太子明仁との婚儀に、香淳皇后(良子皇后)や秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮(柳原愛子の親族)らが反対したことは、本連載〈35〉に書いたとおりだ。

学習院在学中の北白川肇子

もともとは、北白川肇子(はつこ=島津肇子)が皇太子妃候補として有力視されていた。

明仁の立太子に前後して、肇子は「お妃候補」として世間の注目を浴びている。1951年7月29日の読売新聞は「皇太子妃候補の令嬢たち」という特集記事で、肇子ら旧皇族の少女たちを紹介している。さらに1954年1月1日の読売新聞の「東宮妃今年中に選考委」という記事でも、肇子の名が報じられた。

当時の日記をみると、旧華族社会や宮内庁の侍従、女官たちのあいだでは、肇子が皇太子妃になるものと思われていた。

◆日本の旧公家社会

敗戦で皇室・皇族の縮小がはかられ、華族制度が廃止されてからも、日本の公家社会は生きのこった。表向きは一般社団法人霞会館として、霞が関ビル34階が所在地となっている。650家740人(当主)が会員で、年に4回の会合のほか各家間の親睦交際で、そのコミュニティを保っている。かれらの間ではふつうに「〇〇公爵のお嬢様」「□□子爵家のご長男」などという言葉が交わされるのだ。

ほかに旧公家(江戸時代以前)で構成される堂上家は「堂上会」として京都に拠点を置き、こちらは御所清涼殿に昇殿できる家格(公卿)にかぎられる。よく京都人が「天皇さんはいま、東京に行かれてはります」というのは、京都こそ公家社会のメッカであり、朝廷は京都御所にあるという意味だが、その実体はこの堂上会ということになる。

政治権力と結びついている「天皇制」を解体する契機があるとすれば、天皇が本来の居場所である京都に帰るときであろう。そのさいの皇室は、皇室御物や歴代天皇が庇護してきた神社仏閣およびその宝物とともに、文化的な存在になるであろう。天皇制を廃止するからといって、タリバンのように仏像を破壊するような主張が、現在の日本国民を占めるとは思えない。反日武装戦線の敗北や皇室ゲリラの衰退がそれを物語っている。

現実的には、以下のようなことが想像できよう。

本朝のながい歴史に照らして、天皇という存在は御所に逼塞して学問に打ち込む。そして政治には口を出さない。国事行為も政府がすべて引き受ける。どうしても位階が欲しい人には、歴代の天皇たちがやってきたように、高い値段で買っていただけばよい。明治いらいの伝統にすぎない叙勲(勲章)も、続けたければ有料にする。これがふさわしいのである。

神社仏閣・宝物・天皇陵墓(発掘が学問的利益になる)などの皇室文化というものに価値があるとすれば、最低限の生活を文部科学省が保証し、百害あって国民的な利益のない宮内庁は廃止してしまう。それがいいと思う。

1959年に成婚。世紀の婚姻で「ミッチーブーム」が起こされた

◆アイドル化こそ民主化の第一歩だった

さて、昭和30年代にもどろう。

北白川肇子嬢の世評もよく、婚約は時間の問題と思われていた。だが、戦後すぐに皇室をアイドル化することで「象徴」へとシフトした天皇制は、閉鎖的な公家社会の維持よりも、国民に開かれることを望んでいた。それが正田美智子の入内にほかならない。これには皇太子の側近、小泉信三(教育掛)の暗躍があったとされる。

1959年に成婚。世紀の婚姻は国民的な「ミッチーブーム」を生み、1964年の東京五輪とともに、高度経済成長の起爆剤となった。馬車と騎馬のパレードまで行なった主役は、あきらかに皇太子妃美智子であり、明仁皇太子は刺身のツマにすぎなかった。

人々の前でも物おじせず、堂々たる体躯に誰もがみとめる美貌。語学に堪能であり、聖心女子大時代にはプレジデント(自治会委員長)を務めた才媛。そんな女性が国民的な祝福を得て「プリンセス・ミチコ」となったのである。この時期に生まれた女性には「美智子」という名前が多い。

そのような社会現象になるほど、開かれた皇室の第一歩は成功した。戦争犯罪の血にまみれた昭和天皇さえ、この時期には神々しく感じられたという。

◆世紀の成婚の陰で

皇室に入る美智子に仕える女官長は、秩父宮勢津子の母松平信子が推挙した、勢津子の遠縁にあたる牧野純子である。前述のとおり勢津子と信子は、美智子の入内に猛反対した母子だ。

ちなみに松平信子は、女子学習院のOG会である常磐会の会長である。常磐会は、明治いらい皇族妃や元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあった。この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子に対する反対運動が起きていたのだ。陰湿な陰謀さえはかられた。

それは、皇太子妃決定の記者会見でのことだった。正田美智子はVネックに七分袖のオフホワイトのドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いだった。ところが、ドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までしか届いていなかったのだ。

「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」

会見後、早くも宮中からクレームが入る。しかし、である。この手袋は正田家が用意したものではなく、東宮御所から届けられたものだったのだ。わざわざ届けられたものにもかかわらず、ひじの隠れる手袋でなかったということは、何らかの意図が働いていたというしかない。この手袋事件は、美智子妃イジメの第一幕ともいうべき出来事だった。

成婚後も隠然と、かえって陰湿な嫌がらせ・イジメとなって、それは顕われた。こういう証言もある。

「信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじまぬ関係で、美智子さまは東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったそうです」(宮内庁関係者)

思わぬクレームが入った美智子妃のドレス姿

イジメの第二弾は、成婚報告で訪れた伊勢神宮でのことだった。このときも美智子妃は白いアフタヌーンドレスで、正装の皇太子(燕尾服を着用)に合わせたものだった。一見して、ロイヤルカップルにふさわしい姿である。だが、これに思わぬクレームが入ったのだ。美智子妃(写真)のドレスのスカートが膨らんでいるのは判るであろうか? このフレアをふくらませるパニエがけしからん、伊勢神宮の参拝には馴染まないスカートだというのだ。

なぜ皇族の女性に相談しなかったのか、ということが問題にされた。いや、相談できるはずがなかった。この日の衣裳も、じつは宮内庁および女官たちが準備したものだったのだ。美智子妃は嵌められたのである。

誰かが、わたしを陥れようとしている? いや、美智子妃が疑心暗鬼になることはなかった。皇太子明仁との仲はむつまじく、懐妊をもってその立場は盤石なものになったからだ。

歓呼にこたえて車窓を開けた美智子妃を、にらみつける(?)牧野純子女官長

そして「国母」となった美智子妃は、思いきった行動に出る。

第一子浩宮が誕生し、そのお披露目に外出したときのことである。クルマの窓を開けて、国民の歓声と報道陣の写真撮影に応えようとする美智子妃を、となりに同乗している牧野女官長がにらみつけている(?)。これこそ、天真爛漫で美貌の皇太子妃が、守旧勢力の嫌がらせの中で、国民に訴えるように見せた笑顔である。

というのも、ここまでの道は極めてきびしく、とりわけ実家の正田家が守旧派からの、陰湿な攻撃を受けていたからだ。

「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」と語るのは、美智子妃の母堂・正田富美子である。亡き富美子は何も言わなかったが、凶器が郵送されてきたり、家を燃やすなどの嫌がらせ電話が掛かってきたという。ほんの一部とはいえ、皇室の敵・国民の敵と言わんばかりの反対運動が起きる。

今日のわれわれは、秋篠宮家の眞子内親王の恋人の母親に借金があることをもって、ふさわしくない。借金問題を解決してから、という世評を知っている。

本人たちの意志よりも「貧乏人のぶんざいで無理な学歴づくりをするのが怪しからん」という、それは変化の時代の憤懣ではないだろうか。もともと島国で育まれた日本人の国民性は、差別的なものなのである。

昭和30年代の日本はまさに、平民のぶんざいで皇室に嫁ごうなどと、許すことで出来ん! 畏れ多いことをする、非常識な一家。だったのである。

しかし美智子妃イジメの陰湿さ、激しさはまだ序の口だった。すなわちイジメの源泉が、夫の母親である光淳皇后・良子だったからだ。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆戦史は歴史観か、それとも史料になるのか

年々、新たになるのは古代史や中世史だけではなく、現代史においてもその中核である日中・太平洋戦争史でも同じようだ。今年の終戦特集番組はそれを実感させた。

 

『不死身の特攻兵(1)生キトシ生ケル者タチヘ』(原作=鴻上尚史、漫画=東直輝、講談社ヤンマガKCスペシャル2018年)

個人的なことだが、父親が予科練(海軍飛行予科練習生)だったので、本棚は戦史もので埋まっていた。軍歌のレコードもあって、聴かされているうちに覚えてしまい、昭和元禄の時代に軍隊にあこがれる少年時代であった。そういうわたしが学生運動にのめり込んだのだから不思議な気もするが、じつは両者は命がけという意味で通底している。

たとえば三派全学連と三島由紀夫へのシンパシーは、一見すると真逆に見えるが、三島研究を進めるにつれて、そうではなかったとわかる。自民党と既成左翼に対抗するという意味で、三島と三派および全共闘は共通しているのだ(東大全共闘と三島由紀夫の対話集会)。

つまり過激なことが好きで、戦争に興味があるのも、ミリタリズムへの憧れとともに、そこに人間の本質が劇的に顕われるからではないだろうか。およそ文学というものはその大半が、恋愛と戦争のためにある。

◆特攻は志願制ではなかった

戦史通には改めて驚くほどのことではないかもしれないが、テレ朝の「ラストメッセージ“不死身の特攻兵”佐々木友次伍長」は、戦前の日本人の死生観を考えるうえで興味深いものがあった。

その特攻隊は、陸軍の万朶隊という。日本陸軍は基地招集の単位で動くので、万朶隊は茨城県の鎌田教導飛行師団で編成され、フィリピンのルソン島リパへ進出した。そこで特攻隊であることを命じられ、岩本益臣大尉を先頭に猛特訓に励む。ときあたかもレイテ海戦で海軍が敗北し、フィリピンの攻防が激化していた。

最近の特集番組で明らかになったのは、特攻隊がかならずしも志願制ではなかったという事実だ。

従来、われわれの理解では部隊単位で各自に志願を問われ、全員が手を挙げて志願することで、特攻は志願者ばかりだった。と解説されてきたものだ。ところが、実態は「どうせ全員が志願するのだから、命令でいいだろう」というものだったようだ。

レイテ決戦のときの「敷島隊」の関行男中佐も「僕のような優秀なパイロットを殺すようでは、日本も終わりだ」と言い捨てたと明らかになっている。従来、敷島隊は「ぜひ、やらせてください」という隊員の反応(これも確かなのだろう)だけが伝わっていた。

 

大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫2018年)

さて、特攻を命じられた岩本隊長は、ふだんの温厚さをかなぐり捨てて、大いに荒れたが、部下には「大物(空母や戦艦)がいないなら、何度でもやり直せ。無駄死にはするな」と命じていた。特攻の覚悟はあったが、暗に通常攻撃を督励していたといえよう。

岩本は特攻機を改造もさせている。特攻機は爆弾をハンダ付けし、機体もろとも突入することで戦果が得られる。爆弾を内装する爆撃機仕様の場合は、起爆信管が機体の頭に突き出している。

その「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになったのだ。

これは番組では岩本の独断とされていたが、鉾田飛行師団司令の許可を得てあったのが史実だ。

だが、その岩本大尉は同僚の飛行隊長らとともに、陸軍第4航空軍司令部のあるマニラに行く途中に、米軍機に撃墜されてしまう。万朶隊の出撃を前に、司令部が宴会をやるので招いたというものだ。

クルマで来るように指示したのに、飛行機で来たからやられたとか、ゲリラがいるのでクルマで行ける行程ではなかったとか、これには諸説ある。

◆9回の特攻命令

雨に祟られた甲子園大会も、なんとか再開したが野球のことではない。

9回特攻を命じられたのは、下士官の佐々木友次伍長である。佐々木は岩本大尉の教えに忠実に、大物がいなかったから通常攻撃(爆弾投下)で戦果を挙げていた。つまり突入せずに帰還したのである。

ところが、大本営陸軍部は佐々木らの特攻で「戦艦を撃沈」(実際は上陸用揚陸艦に損害)と発表し、佐々木も軍神(戦死者)のひとりとされていた。軍神が還ってきたのである。

第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。

第4航空軍司令部にも帰還報告したところ、参謀の美濃部浩次少佐は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と命じた。

 

鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)

ようするに、天皇にも上奏した戦死なので「かならず死ぬように」というのだ。機体の故障、独断の通常攻撃、出撃するも敵艦視ず、また故障。という具合に、生きて還ること9回。正規の命令書に違反しているのだから軍規違反、敵前逃亡とおなじ軍法会議ものだが、なにしろ岩本大尉の「無駄死にするな」という命令も生きている。戦果も上げる(突入と発表される)から故郷では二度まで、軍神のための盛大な葬式が行なわれたという。詳しくは、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)を参照。
そうしているうちに、フィリピンの陸軍航空団もじり貧となり、第4航空軍の富永恭次中将が南方軍司令部に無断で台湾に撤退した。この富永中将は特攻隊員を送り出すときに「この富永も、最後の一機に乗って突入する」と明言していた人物である。

海軍の特攻創始者である大西瀧治郎は、敗戦翌日に介錯なしで自決。介錯なしの自決には、陸軍大臣阿南惟幾も。連合艦隊参謀長(終戦時は第5航空艦隊長官)の宇垣纏は、玉音放送後に17名の部下を道連れに特攻出撃して死んだ。

本当に特攻は有効だったのか、アメリカ海軍の記録では通常攻撃の被害のほうが大きかった。というデータがあり、従来これはカミカゼ攻撃の被害を軽微にしたがっているなどと解説されてきた。だが、海軍の扶桑部隊などの歴史を知ると、訓練不足の若年兵はともかく、ベテランパイロットによる通常(反復)攻撃のほうに軍配が上がりそうだ。ともあれ、特攻が将兵の自発的・志願制ではなく、日本人的な暗黙の強制だったことは明白となってきた。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)

今こそ鹿砦社の雑誌!

太平洋戦争の終盤、オーストラリアのカウラ第12戦争捕虜収容所には、日本人が1,104人いた。そのうち将校や入院患者以外が集団脱走「カウラ事件」を決行し、231名が死亡、負傷者も108名にのぼる。だが、これに対して戦後、生存者100人にアンケート調査を実施したところ、8割が本音としては脱走に反対していたことがわかっているのだ。

(C)瀬戸内海放送

ドキュメンタリー映画『カウラは忘れない』では、この、実は「自殺のための脱走事件」に触れ、捕虜を恥とする刷り込まれた文化に葛藤する生存者や周囲の人物の姿を描く。そして、近代戦史上最大とも言われる集団捕虜脱走事件の真実から私たちにさまざまな問いを投げかけている。

そこで、満田康弘(みつだやすひろ)監督に、作品の主旨や意図などを尋ねた。

(C)瀬戸内海放送

◆「小さなことでもいいので、自分の意思を通す場面を1つずつ増やしていくこと」

── 満田監督は、KSB瀬戸内海放送高松(岡山)本社にて報道・制作部門でニュース取材や番組制作に携わる立場から、日本軍1人ひとりの現場の姿を追うことを極めていらっしゃったのかなと考えましたが、本作を手がけるきっかけや流れをお伝えいただけますでしょうか。

満田 私の1作目は2016年のドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』で、1942年、日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に着手しました。2作目である『カウラは忘れない』は、このタイ側の拠点に陸軍通訳として勤務していた主人公・永瀬隆さんに教えていただいた話がもとになっています。1976年、彼はタイの元捕虜と日本軍関係者との和解と再会の事業を成功させました。でも、その裏面のように、日本人自身などが捕虜になることは軽蔑されるべきものとして捉えてきた歴史も当然あったのです。

── 『カウラは忘れない』では、複数の元捕虜の方々が登場しますが、特に印象に残った方がいらっしゃれば、教えてください。

満田 そうですね、やはり皆さん、印象的です。たとえば元陸軍伍長の山田雅美さんは、ガダルカナル島撤退作戦に参加の後、1943年、ニューギニア近海で輸送船が米軍の攻撃を受けて撃沈し、約1週間海上を漂流しました。でも、友軍に救助されて九死に一生を得、グッドイナフ島に上陸直後、オーストラリア兵に包囲されて捕虜になった方です。皆さん穏やかな表情ながら、大変厳しい状況のことを話してくれます。

元陸軍伍長の山田雅美さん(C)瀬戸内海放送

元海軍軍属の今井祐之介さんは43年、ニューギニア北部ウェワクで連合軍のすさまじい反攻を受けて撤退し、捕虜になりました。江戸っ子のインテリで、冷静。筋道を立てて分析をする方です。

元海軍軍属の今井祐之介さん(C)瀬戸内海放送

元陸軍上等兵の村上輝夫さんは中国戦線を経て、ニューブリテン島ラバウルの西端ツルブまで行軍。43年に米軍がツルブに上陸しましたが、彼はマラリアの高熱で苦しんでいたために戦闘には参加せず、ラバウルまで撤退途中に瀕死の状態で米軍の捕虜になった方です。純粋で、話しにくそうだったりして、生き残ったことへの憂いが全身から伝わってきます。

元陸軍上等兵の村上輝夫さん(C)瀬戸内海放送

元陸軍兵長の立花誠一郎さんは、鍛冶職人として修業後、43年、パラオを経てニューギニア北部ウェワクに上陸しました。44年、アイタペに連合軍が上陸し、洞窟に潜んでいたところを包囲されて投降、捕虜となりますが、ハンセン病と診断され、診療所脇のテントに隔離されてカウラ事件を迎えています。数奇な運命をくぐり抜けてきた、強く優しい方です。

元陸軍兵長の立花誠一郎さん(C)瀬戸内海放送

── 他の戦争証言に関するドキュメンタリーでも、日本兵の方の複雑な心境が伝わってきたりするものですね。本作でも、劇作家・坂手洋二さん率いる「燐光群」の演劇の後、オーストラリアの方のコメントが率直であるのと対照的であるように感じました。また、やはり日本兵はある種の死を選びます。これらについて、監督がお考え・お感じになったことをお聴かせください。

劇作家・坂手洋二さん(C)瀬戸内海放送

満田 日本人は状況に判断を合わせますね。本作では、食事・医療・娯楽が十分に与えられていた日本人捕虜が、投票によって集団脱走を決行し、「自殺」を選びます。投票とは本来、独立した個としての自らの意思を表明するものです。ところが、そのうえで自分の命がかかっている場面での投票で、彼らは周囲を忖度してしまいました。本来、集団脱走に賛成でも反対でもない人がほとんどだったが、大きな声に流されてしまったわけです。

戦後、民主的な制度を採り入れましたが、その投票時にも判断して投票する人は少なく、テレビのコメンテーターの意見や自らが所属する組織などに左右されがち。ワクチンの接種も同様で、周囲に合わせる傾向もみられます。

今回、登場する演劇もそうです。「馬鹿なことをやめろ」「命を大切にしよう」と言い出す人がいたとしても、結論は変わらない。悲しいことです。

── そして、まさに戦陣訓の一節「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」に象徴されるような、戦後に生まれた世代が皆一様に理解し得ないと口にする思いについて、どのようにお考え・お感じになりましたでしょうか。監督自身のご理解とともに、お伝えいただければ幸いです。

満田 やはり、日本人的という感じでしょうか。でも実は、戦陣訓を示達した陸軍大臣・東條英機自身は、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑されました。「虜囚の辱めを受け」てしまったわけです。

── 現在と未来とで引き継いでいくべき思いや、監督がお伝えになりたかったことなどをぜひ、教えていただけますでしょうか。

満田 せっかく命が助かったのに、死を選ぶ。このような酷い話はないと思うのです。この「カウラ事件」があまり日本で知られていないのは、日本人の問題点を見せつけられるからで、それを見たくないのではないかと思います。こんなことは二度と起きてほしくありません。そのために、1人ひとりが世の中をつくり、未来は自分の力で変えられると考えてほしいですね。差別やいじめも同様の構造にあって、それぞれの意思や自由を保障する制度を尊重すれば、もっと寛容な世の中になるのではないかと。

(C)瀬戸内海放送

── もう1つ重要なテーマとして、「平和」。「平和」といっても、個人的には権力に対して武装闘争が必要なことはあると考えています。国家権力が仕組む暴力であるところの「戦争」には反対ですが。この「戦争」と「平和」に関する監督の考えを、お伝えください。

満田 東條英機のように、権力をもつ人が、最も責任が重い。そのような考え方は当然、あると思います。ただし、その権力者を選ぶのは我々であり、それを支持するのも支持しないのも、すべて自分に返ってくるのです。また、権力者を打倒すれば、よいというものでもないでしょう。やわらかで寛容で、相手を責めるのでなく、自分の考えを伝える。そのようなことをしている個人が社会を動かしているのだと思います。

いっぽう、私が呆れるのは、「鬼畜米英」と皆で言っておきながら、終戦の3年後である1948年には「憧れのハワイ航路」という歌謡曲が発売され、その後ヒットしたこと。そのような流れに安易に乗るのでなく、「戦争と平和」についても根本の考えをもち、「平和の礎」について思いを馳せ、「大東亜共栄圏」が本当に正しいのかを自分の頭で考えなければなりません。現在でも、嫌韓本が書店に並ぶような状況について、考える必要があるはずです。

── ただし、時代や社会状況から完全に自由であることは困難なこと、この社会の人々の村八分をおそれて周囲に迎合しやすいとされる性質などについても、ご意見をお聞かせいただけますでしょうか。

満田 小さなことでもいいので、自分の意思を通す場面を1つずつ増やしていくことが重要でしょう。それしかありません。歴史学者・阿部謹也(あべきんや)氏は、日本にあるのは「世間」であり、西欧の「個人」を前提とした「社会」は近代以降に輸入された物だと『「世間」とは何か』(講談社現代新書)などで述べています。つまり、人間関係の中でいろんなことを決めていくのです。また、本作に登場する提灯を使い終われば、オーストラリアの人々は捨てます。でも、日本人は、そこに魂が宿ると考え、そのようなものを粗末にできません。そして、精霊流しや針供養をするわけですよね。そこも、とても興味深い。でも、キリスト教化が進む以前の12世紀頃までは、ヨーロッパも「世間」が中心で、小説でも名前のない多くの人物が登場します。その後は一神教となりますが、日本は現在でも、多神教・八百万の神で、アニミズム(さまざまなものに霊的存在を認めようとするおこない)。

(C)瀬戸内海放送

つまり、日本は現在でも、自立した個人があるという現在の西欧的な意識ではないと思います。日本人は流されやすい。ワクチンやオリンピックをみても、同様です。でも、きちんと事実・理屈を把握してそれを受け入れるための知恵をつける。論理的な生き方のようなものも身につける。行き過ぎたときにはバランスをとる。私は現時点では、そのようなことが大切なのではないかと考えています。

自由民権運動の指導者であった中江兆民は1901年(明治34年)に刊行された『一年有半』のなかで、「日本人は利害にはさといが、理義にくらい。流れに従うことを好んで、考えることを好まない」と記す。これが現在もなお真実であるかどうかはさておき、思い当たることがある人も多いかもしれない。暴走する政治や経済に関する報道を日々目にするにつけ、命や理義(道理と正義)を優先し、深く考えて選択することが今こそ必要だと感じる。


◎[参考動画]近代戦史上最大1104人に及ぶ日本人捕虜脱走事件の深層とは/映画『カウラは忘れない』予告編

【作品情報】
監 督  満田康弘
撮 影  山田 寛
音 楽  須江麻友
通 訳  スチュアート・ウォルトン/清水健
製 作  瀬戸内海放送
配 給  太秦
後 援  オーストラリア大使館
2021/日本/DCP/カラー/96分
公式サイト https://www.ksb.co.jp/cowra/
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8月7日(土)より東京:ポレポレ東中野、東京:東京都写真美術館ホールほか全国順次公開

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。映画評・監督インタビューなど映画関連としては、『neoneo』『週刊金曜日』『情況』『紙の爆弾』『デジタル鹿砦社通信』などに寄稿してきた。映画パンフレットの制作や映画イベントの司会なども。月刊『紙の爆弾』2021年9月号には巻頭「伊藤孝司さん写真展「平壌の人びと」から見えてくる〝世界?」、本文「朝鮮の真実(仮)」寄稿。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

前回は、皇太子明仁と美智子妃の婚姻がもたらした、平民出身妃殿下への皇族および旧華族の反発まで解説した。さらにここから、昭和・平成にいたる皇室と宮内庁を巻きこむ現代天皇制の矛盾を解読していきたいところだが、その前に戦前に立ちかえる必要がある。

昭和天皇を支配した女帝を紹介しなければ、現在の皇室がかかえる内部矛盾が、普遍的なものであることを明示し得ないからだ。

明治大帝いらいの天皇権力を、単に大日本帝国陸海軍の大元帥に措定してしまえば、その内実は軍隊をふくめた政治官僚組織と個人(天皇の個性)に、われわれの視点はかぎられる。それが立憲君主制としての天皇機関説であれ、王権の官僚的軍事独裁であれ、近代的な組織によるものだからだ。

しかし、われわれは官僚組織という形式、権力者の個性のほかに、もうひとつのファクターを視ることで、天皇制権力の真実のすがたにせまるべきではないだろうか。

そのもうひとつのファクターとは、皇室の中にある人間関係。すなわち天皇家の家族の肖像、わかりやすくいえば人間関係にほかならない。

◆近代天皇制権力を捉え返す

この連載では、昭和天皇の太平洋戦争における戦争指導の過剰さ、一転して戦局の悪化に直面すると投げ出してしまう、かれの個性のゆらぎを見てきた。

その感情の起伏に、家族というファクターが影響を与えていたとしたらどうだろう。天皇制研究に残されたフィールドが、そこにあるはずだ。

たとえば戦前の天皇制権力を「天皇制絶対権力」(講座派=君主制の近代的帝国主義)や「天皇制ボナパルティズム」(労農派=半封建制的国家独占資本主義に君臨する君主制)などと分析してきた。

これら左派研究者や共産主義運動の党派による分析が、それ自体として何ら国民的な議論に寄与しえなかったことを、戦前の反天皇制運動は教えている。戦後の運動もまた、単に「天皇制廃絶」を唱えることで、アイドル化した象徴天皇制の実体的な批判・国民的な議論に上せることはできなかった。

したがって、これまでの天皇制批判の限界を、われわれは皇室の人間関係のなかから確認できることになるかもしれない。

◆母親に頭が上がらなかった大元帥

いずれにしても、開戦当初からソ連もしくは中立国、バチカン法王庁を介した和平調停を前提にしていた昭和天皇において、そのオプションを後手に回らせたものがあったとしたら、太平洋戦争末期の沖縄・広島・長崎の災禍の原因も、そこにひとつのファクターがあったことになる。

その明確な原因が、ほかならぬ昭和天皇のマザーコンプレックスだったとしたら、愕かれる向きも多いのではないだろうか。そのマザコンの原因は、大正天皇皇后の貞明皇大后なのである。

貞明皇后

◆大日本帝国の国母として

貞明皇大后こと九条節子(さだこ)は、明治17年の生まれである。九条公爵家は平安後期いらい藤原一門の長者で、戦前の華族でも最上位(近衛・一条・二条・鷹司も五摂家藤原氏)といえよう。

節子は幼くして高円寺村の豪農に預けられ、農村育ちの健康さが評判だったという。彼女は野山を駆け回り、いつも日焼けしていたことから「黒姫」と呼ばれていたという。

学習院中等科在学中に皇太子妃候補となり、他の妃候補が健康面で不安視されるなか、満15歳で5歳年上の皇太子嘉仁親王(大正天皇)と婚約、結婚。翌年には迪宮裕仁親王(昭和天皇)を生んでいる。女子はいない。

爾後、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王を生み、国母として皇室に君臨する。とくに秩父宮を親しく接し、昭和天皇には厳しかった。

そのひとつは、2.26事件の時のことである。2.26の蹶起将校たちが、当時弘前の31連隊に大隊長を勤めていた秩父宮を当てにしていたのは知られるところだ(役割の具体性はない)。秩父宮は首謀者の西田税と陸軍士官学校の同期であり、蹶起将校たちと懇談することも多かったという。とくに第三連隊に所属していた頃は、首謀者の安藤輝三と親密だった。

その秩父宮は27日に上野に到着し、ただちに皇居に参内する。2.26将校たちのもとめる「天皇親政」を昭和天皇に具申し、ぎゃくに叱り飛ばされたのである。その後、秩父宮は貞明皇太后の御座所(大宮御所)に行き、そこで長い時間を過ごしている。秩父宮が皇太后から授かった策、あるいは非常時の「大権の趨勢」は何だったのであろうか。この事実は松本清張の未完の大作『神々の乱心』に詳しい。

2.26将校(とくに、皇居方面を担当した中橋基明)が宮城の諸問を押さえていたら、天皇と戒厳軍の連絡がとれず、クーデターは成功していたといわれる。そのさい彼らが掲げる「玉」が、秩父宮だったのだ。

貞明皇后が出産した3人の息子たち。 左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の光宮宣仁親王(高松宮)、次男の淳宮雍仁親王(秩父宮) (1906年頃撮影)

昭和天皇と秩父宮。この兄弟には、5.15事件を前後するころから、天皇親政をめぐる論争が絶えなかったという。すなわち、陸海軍大元帥として軍事政権を指導するべきという秩父宮と、あくまでもイギリス流の立憲君主として国務に臨む昭和天皇の、それは埋めがたい思想的相克であった。

戦争が始まると、昭和天皇との関係が、悪い方向に現出する。

太平洋戦争の戦況が悪化しても、貞明皇太后は昭和天皇が薦める疎開に応じなかったのである。そのために、昭和天皇も皇居に留まることになったのだ。昭和天皇が帝都に留まることで、最前線を指揮する気概が芽生えていたのだとしたら、戦争指導を煽ったのは貞明皇太后ということになるのかもしれない。

そればかりではない。戦勝祈願のために伊勢神宮に参拝するよう指示してもいる。すでに敗色が濃厚な時期である。昭和天皇の頭の中にあった「早期の講和工作」は、いつしか貞明皇太后の戦勝への熱望に感化され、かれもまた戦争指導に熱中し、あるいは敗戦に茫然として、なすすべを忘れたのであろうか。

◆昭和皇后をイジメる

貞明皇大后は姑として、嫁の香淳皇后良子(昭和皇后)には、何かにつけて厳しかったという。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女王)であった香淳皇后に対する、家柄の嫉妬(貞明皇大后は九条家の出身だが、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人々は感じていたという。

宮中で仕える女官たちがその衝突をまのあたりにしたのは、大正天皇崩御の数ヶ月前のこと。すでに摂政となっていた昭和皇太子夫妻が、療養先の葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。

皇太子妃良子(昭和皇后)が、姑である皇后節子(貞明皇太后)の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋を付けたまましぼったのだ。その結果、皇太子妃は手袋を濡らしてしまった。

「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、良子は何も言い返せず、ただ黙っているしかなかった。

幼いころから運動神経もすぐれ、頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后は、日ごろから目下の者を直接叱責することはなかった。それゆえ、この一件を目の前にした女官たちは驚いたという。

「お二人は、嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまったのだ。

そのいっぽうで、3人の弟宮の嫁たち。秩父宮・高松宮・三笠宮の各親王妃を、御所での食事や茶会を度々招いて可愛がった。とくに次男秩父宮の妃・勢津子はお気に入りだったらしく、毎年3月3日の桃の節句には、勢津子妃が実家からお輿入れしたときに持ち込んだ雛人形を宮邸に飾り、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であった。女子を生まなかった皇太后にとって、3人の親王妃は娘のような存在だったのであろうか。

明治天皇時代からの女官・山川三千子の『女官』には大正天皇の私生活、とりわけ貞明皇后との隙間風ともいえる裏話が明かされている。大正天皇崩御後の貞明皇太后があたかも、宮中において大権を振るったことも明らかだが、本稿のテーマから逸れるので参考資料として紹介しておくいにとどめる。山川のような女官たちもまた、天皇をめぐる人間関係の重要な位置を占めているのだといえよう。

いずれにしても、姑と嫁の普遍的な相克・桎梏は、近代天皇家にとって人間くさい逸話でありながら、やがて宮内省(宮内庁)や侍従、女官たちを巻きこんで、昭和・平成の時代まで持ち越されるのだ。まさに人間関係の渦巻く宮廷、愛憎が支配する禁裏である。

昭和天皇が動植物の観察・研究に没頭していくのも、家庭内紛争からの逃避がその動機のひとつではなかったのだろうか――。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆平民東宮妃

正田美智子は1957年(昭和32年)に、聖心女子大学の文学部外国文学科を首席で卒業した。在学中は合唱部や英語演劇部のほか、テニス部に所属していたという。スポーツと学業に秀でた、美貌の才媛という表現が似つかわしい。

卒業した年の8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会で、当時皇太子だった明仁親王と出会う。このときは美智子が明仁を負かしている(対戦はダブルス)。これがテニスコートの出会いとして知られ、その後もテニスを通して交際を深めた。

いったん、正田家に正規の婚儀申し込みがなされるも、正田家はこれを拒否。明仁親王の熱意によって、最終的に婚約が決まったという。

『入江相政日記』によれば、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者が正田美智子の入内に猛反対している。その意を受け、右翼を動かして結婚反対運動を起こそうとした者もいたという。

翌1958年11月には、皇室会議で結婚が了承される。反対論を押し切ったのは、明仁の熱意とそれをうけた、昭和天皇の理解だったとされる。

本格的な皇室民主化は、全国巡幸とともに皇太子の成婚によって始まったのである。これが皇室アイドル化、開かれた象徴天皇制の基本路線となった。

◆宮中某重大事件

じつは昭和天皇自身が、皇后良子(ながこ)の入内に反対された経緯がある。良子の実家である久邇宮家には、島津家との血縁関係があり、島津家には色覚異常の血統があるというものだ。いわゆる「宮中某重大事件」である。

元老の山縣有朋らがうごいて、久邇宮家に婚約辞退をせまるなど、一時は婚儀が危ぶまれた。このとき、裕仁親王に倫理学を教えていた杉浦重剛が、人倫論を訴えて婚約破棄論に抵抗している。

「婚約破棄という人倫にもとることが行なわれれば、今まで親王に倫理を教えてきたのが無駄になり、また良子女王は自殺するか出家するしかなくなる」と訴えたのだ。

ちなみに杉浦が言うとおり「婚約破棄が人倫にもとる行為」であるならば、現在の眞子内親王と小室圭の婚約も、同等に扱われなければならないであろう。

けっきょく婚約破棄という事態は避けられ、この事件はかえって山縣有朋の失脚につながる。

三島由紀夫は『豊饒の海』第一巻『春の雪』において、綾倉聡子と洞院宮治典王(閑院宮載仁親王と閑院宮春仁王の父子をアナライズした人物)の婚約(勅許済み)を解消させることで、聡子を月修寺に入山させる。おそらく三島は宮中某重大事件における杉浦の発言を知ったうえで、ヒロインの聡子を出家させたのであろう。この禁忌の王朝物語が、全編のテーマになる。

じつは宮中某重大事件の後のことになるが、皇族との婚約を破棄された女子がいる。その婚約破棄をした皇族とは、ほかならぬ久邇宮良子(香淳皇后)の兄なのだ。現在の眞子内親王婚約問題とある意味でかさなる、婚約破棄事件の顛末を明らかにしておこう。

 

久邇宮朝融王(あさあきらおう)

◆久邇宮朝融王の婚約破棄事件

久邇宮朝融王(あさあきらおう)が婚約したのは、酒井伯爵家の菊子という女性である。まだ学習院の生徒だった菊子を朝融王が見染めたのである。

『牧野日記』には「大正六年御婚約」とあり、大正天皇の勅許で朝融王と酒井菊子の婚約は整った。

ところが、この婚約を久邇宮家が破棄したいと言い出したのだ。朝融王も父親の邦彦王も「絶対に菊子とは結婚しない」「させない」と言い張ったという。

邦彦王がその理由としてあげたのは「婚約の女には節操に関する疑あり。此疑ある以上は如何なることありても之を嫡長子の妃となすことを得ず」

ようするに、菊子に節操(処女ではない)疑惑があるというものだ。

『牧野日記』には次のように記録されている。

「此れは道徳上の問題たるは勿論、殿下には今日となりては直接御縁続きの事なれば、本件の取扱如何に依りては御立場に非常なる困難を来しては、実に容易ならざる義」「皇室の尊厳、御高徳の旺盛に依って統一を保つ事も相叶ふ次第なり。其皇室に於て人倫道徳を傷つける様の出来事は、極力之を避けざる可からず」

ようするに、良子の婚儀で皇太子殿下の縁戚となった久邇宮において、このような人倫・道徳にもとるような行為(婚約破棄)は極力避けるべきだと。宮内省の首脳陣の苦渋が読み取れる。

けっきょく、宮内省内で調査を重ねた結果、上記の「節操に関する疑」は「根拠なし」と結論づけている。

この結論をうけて、邦彦王は「酒井令嬢品行問題は全く取消」と、節操疑惑を取り下げる。

しかし「両者到底円満の共同生活見込なきに付、可然(しかるべく)大臣におゐて配慮頼む」と婚約破棄を繰り返すのであった(『牧野日記』)。

ようするに、振り上げた拳の落としどころに困り、宮内省で何とか処置してくれ。先方から申し出たように破談にしてくれ、というのだ。

破談交渉が続いているにも拘らず、この騒動は新聞にすっぱ抜かれた。最初に関係記事を掲載したのは9月6日付の『万朝報』だった。追いかけ記事が世間をにぎわせる。

しかも朝融王は、菊子との婚約破棄を正当化する目的で「菊子は不治の肺病なので結婚できない」と、裕仁親王に重大なウソをついていた。

裕仁親王(昭和天皇)は朝融王の不誠実さにあきれ果て、菊子に大いに同情したという。後にこれを忖度した近衛文麿らが奔走して、菊子と前田侯爵家との縁談をまとめている。

破談交渉ののち、宮内省はつぎのような発表をおこなった。

「朝融王殿下酒井菊子と御結婚のこと予て御内定の処、今回酒井家に於て本御結婚の将来を慮り辞退を申出たる趣を以て、宮家より御内定取消御聰済の儀願出られたるに就き、其手統を了せり」

ここに、宮家の体面をまもりつつ、酒井家の側から破談にさせるという、宮家およびその御曹司のわがままが、まかり通ったのである。

のちに酒井菊子は、裕仁親王の同情を忖度した近衛文麿らが尽力し、旧金沢藩主家の前田利為侯爵との縁談がまとめられ、大正14年2月7日に結婚式を挙げた。彼女は前田菊子として四人の子宝に恵まれ、戦後はマナーやエチケットに関する評論家として活躍し、1986年まで生きた。

いっぽうの朝融王は、伏見宮博恭王の三女・知子女王との縁談が成り、大正14年1月26日に婚儀の礼が執り行われた。しかし結婚後も朝融王の素行は悪く、侍女を妊娠させてしまう。戦後は事業に失敗し、親族を頼るも零落したという。

なぜ朝融王が酒井菊子に「節操の疑い」を生じたのかは、推して知るべしであろう。

◆仕掛けられた出会い

平成天皇皇后の「世紀の出会い」「テニスコートの出会い」に、仕掛けがあったのは言うまでもない。教育係の小泉信三だとする説もあるが、そうではない。現在では聖心女子大が、その窓口だったと考えられている。

というのも、テニスコートの出会いの前年度に、正田美智子は三島由紀夫と歌舞伎座観劇で見合いをしている(観劇ののち、井上という料亭で歓談)。このときの仲介者は不明だが、在学中だった聖心女子大の推薦(縁談許可)がなければ、そもそも成立しない。

けっきょく、平岡家(三島の実家)がわから断ったことになっているが、三島は母といっしょに聖心女子大の卒業式を見に行っている。本人は乗り気だったのだろう。祖母のなつが「商家の娘など」と反対したのが有力説だ。

そしてもうひとつは、天皇側近の動きである。

当時のお妃選び取材班で、元朝日新聞顧問の佐伯晋によれば「歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳」の努力があったという。

「民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果がお2人のご婚約・ご成婚だ」(JCASTニュース)。

こうして皇太子ご成婚は、正田美智子の名をとってミッチーブームを起こすほど、国民を熱狂に巻き込む。

だがその裏側には、隠然たる民間東宮妃反対運動があった。上述したとおり、ほかならぬ香淳皇后良子が反対の急先鋒であり、皇室そのものが賛否両論に揺れたのだ。

皇后良子は静岡県の御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き「東宮様の御縁談について、平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたという。

皇后とともに反対派にまわった、旧皇族の梨本伊都子の日記(婚約発表当日)を紹介しておこう。

「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」(11月27日)。

北白川肇子を東宮妃に推薦していた松平信子も、明仁が正田美智子との結婚を決めたことに「妃は華族すなわち学習院出身者に限る」という慣例を主張して反対した。

これらの反対派は昭和天皇の意向にしたがって、皇室会議の決定を了承したものの、隠然たる平民東宮妃反対派として宮中および旧公家社会に残存した。

そう、彼女たちとその末裔こそが、宮内庁の旧華族守旧派とともに、美智子妃を苦しめるのである。そんななかで昭和天皇裕仁は、生物学の研究に没頭してゆく。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

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