一般のバックパーカーではない旅。貧乏旅行としては大差無い中、旅先でいろいろな人と出会います。そこで起きたこと、感じたこと。やっぱり懐かしく、人生の良い経験となった旅でした。

◆出発前に

「ラオス行ったらマールボロ買って来てくれ」というヒベ。傘と蚊帳を含む僧衣一式だけでもかなりの量。「荷物が重いから」と断る。更に修行に直接は関係ない一眼レフNikonFM2とフラッシュを持つからより重くなるのである。それで、カメラのモータードライブは置いていくことにしました。でも予備バッテリー(電池)は多めに、ついでにコンパクトカメラ、コニカ“ビッグミニ”も持ちます。

フアランポーン駅(バンコク中央駅)発20時30分の寝台列車に乗る予定で、ペッブリーから「昼2時のバスに乗る」と言ってた藤川さんが昼飯時に「昼1時に出るぞ」と言う。「ちょっと早いだろ」と思うが、早い分にはゆとりがあっていい。

毎日の黄衣の纏いも慣れてくるも、旅立ち前に力んで締め過ぎたか、何かしっくり来ないので、出際にコップくんに手伝って貰って背中を叩かれ「行って来い!」と送り出しを受けて出発。

ドーム型フアランポーン駅の外観(1988年当時)

◆旅の起点、フアランポーン駅でのこと

バンコクのサイタイマイバスターミナルに15時30分頃に着き、P・O.7(エアコン市内バス7番)でフアランポーン駅へ向かいます。ここでも席を譲られたことに内心は感謝。17時10分頃到着。

早く出ておいて「なんや3時間もあるやないか!」と私に文句言う藤川さん。「何で俺に言うんだ?アンタが仕切ってるんだろうが!」と言いたい想い。でもそんなゆとりがあれば、何もしないでいても結構楽しいフアランポーン駅構内の眺め。

フアランポーン駅切符売り場(1988年当時)

過去何度も訪れた駅に、黄衣を纏ってここに来るとは不思議な時間の流れだと思う。

電池買ってきて、懐中電灯に入れようとする藤川さん。点かないので、何で点かないのか、私に寄こしてくる。よく見ると新品の証明、電池の+極と-極を覆うカバー紙を破ってないではないか。日本の電池は2本や4本セット以上でパッケージで覆われているが、タイの電池は+極と-極にカバー紙が付いている。電池の入れ方も知らんのか、このジジイ。剥いて電池入れて点くの確認して、渡してやるとニヤッと笑って受け取る藤川さん。

暇なので藤川さんは一人でまたその辺を散歩に行きます。そして、18時になるとタイの恒例、国歌吹奏が始まりました。行き交う人々は皆立ち止まり、座っている人は全員起立。

“ハッ”と我に返り、さて困った。比丘はどうすればいいのか。座っていた私は一瞬立ち上がろうと前かがみになるが、一か八か座ったままで居ました。そしてすぐ周りの様子を伺うも、誰も私を怪訝な目で見る者は居らず、見て見ぬフリではない、皆ごく自然な立ち姿。終わって2~3分もすると藤川さんが戻って来ました。
「国歌吹奏の時、どうしてました?」と聞くと、
「ワシもわからんで、ウロウロ歩いとったわ、ワッハッハッハ!」

寺から出ると、うっかり比丘の振舞いに困ることが起こるものだ。勉強不足でした(後に分かったこと、比丘は立たなくてもよい)。

列車入線してから小さいパックのミルク4つ、ポラリス(ミネラルウォーター)を小さいの2つ買っておきます。ミルクは腹持ちがいいから空腹を凌げるのです。しかし比丘たる者が、“タイ版キヨスク”で飲み物を買うのは気が引けました。

フアランポーン駅構内は鉄道独特の雰囲気があっていいモンです(1988年当時)

フアランポーン駅構内、何もしなくても居るだけで楽しい旅の前兆(1988年当時)

◆旅先での多くの藤川さんの名言集となる会話のひとつ

フアランポーン駅に入ってから纏いを一般的なホーム・クルム(寺の外に出る纏い方)に変えた藤川さん。これは「巡礼に向いた纏い方」だという。私はホーム・マンコンのまま。こちらは「寺に留まる者の纏い方ではないか」という藤川さん。勝手に変えることは寺の規律違反になりますが、まあ「寺の連中は誰も見ておらんから構わん」らしい。

藤川さんは会社社長のままの一時僧時代に纏ったのが、このホーム・クルムの纏いでした。

ドムアン空港を過ぎた辺りで、寝台準備にやって来た乗務員のオジサン。寝るには早いが、藤川さんと一緒に居るとまた説教話が始まるのは仕方ない。ただ煩い説教話ばかりではない。旅に出ると解放的になり、朗らかになるバンコク行った時のよう。

寝台車の昼の様子(イメージ画像、1988年のマレーシアに向かう列車内)

藤川さんの金持ち時代のこぼれ話。

「ビザ取りにマレーシア行った時、国境越えるから入国カード書くやろ、同じ目的の日本人の女の子居ったら“ワシ英語よう分からんから入国カード書いてくれへんか”て言うて書いて貰うて、“2~3日の滞在費出してやるから一緒に過ごさへんけ?”て言うてビザ受け取るまで一緒に観光でもして楽しい旅にするんや、お前も還俗したらやってみい!」

私も還俗してマレーシアに行く機会があればやってみよう。いや、私にそんなナンパ術出来そうにないな、やっぱり!

一般的には早いが21:00過ぎにベッドに入ります。

列車内、寝る前は暑く、カーテンを開けていたが、夜中から寒くなりだす。コーンケーン過ぎた辺りはかなり寒い。

私は安い上の寝台、窓が無いので外の様子は分かりませんが、車体にビュービュー吹き付ける風の音はまるで吹雪のような強い風。南国でそれは無いが、12月は寒い時期に当たる。北へ向かうと寒くなるのは肌で感じるところ。首元に風が入ると鼻が詰まるので黄色い手拭いを襟巻き代わりに巻いておきました。

朝4時ぐらいから目が冴えてもう眠れない。6時を回るとノンカイ手前までにどんどん下車する客が多い。

「腹減ったなあ、飯食いたいなあ」と思うが、一般乗客は注文した朝食は運ばれるも、我々は注文する訳にいきません。バーツ(お鉢)はバッグに仕舞ってあるし、車内での托鉢は出来ないことはないかもしれないが聞いたことはないし、寄進を受ける雰囲気でもない。

寝台を上るのも降りるのもサボン(下衣)が気になるものだ。スカート穿いているようなものだから、高いところ上る女性は大変だなあと思う。

藤川さんは起きてから黄衣を纏い直すも、私は下手で時間が掛かる。ホーム・マンコンは巻き付けてから裏表引っくり返す手間があり、通路やデッキでは邪魔になるし、纏い直しはしないつもりで、なるべく崩れないように寝ていても、やっぱりかなり乱れてしまう。それを誤魔化す程度の直しで、終着駅のノンカイに7時22分に到着。

◆ここから自分らで歩く本当の巡礼の旅!

さてここからどうなるのか未知の世界。改札を出るとぞろぞろと、三輪タクシーの運ちゃんが寄って来て比丘であろうと遠慮なく客引きします。「鬱陶しいなあ」とは思うし、藤川さんも無視して進む。客引きが着いて来なくなる頃、駅前の屋台がありました。入ろうとしたら「開店前です」と断られるが、まあ仕方ない。そんな時どこからか、比丘数名の読経が聞こえます。朝のニーモンの様子でした。

そのまま歩いて向かった寺は、ワット(寺)・ミーチャイ・トゥン。駅から7~8分歩いたところにありました。藤川さんがかつて訪れたことのあるお寺のようで、少し安心感はあるところ、これから訪問の儀式、「泊めてください」とお願いしなければなりません。プレッシャーから来る旅疲れとお腹も減ってきて、早く落ち着きたい気持ち。難なく受け入れてくれること願ってこれから門を潜ります。

タイ東北、最北端となる路線の行き止まり、ワット・ミーチャイ・トゥンの側道から見た風景(1994年12月現地撮影、旧ノンカイ駅周辺)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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プミポン国王肖像画が掲げられた門の前

ラオスへ向かう準備も整い、前日までにも変化ある日々がありました。その前日にはまたひとつ仕事が入ってしまいます。

◆和尚さんからの思いやり!

12月3日は2日後に備えたプミポン国王誕生日の為、門の前に肖像画飾り付けがありました。毎年この時期はタイ国内、至るところでこんな光景が見られます。和尚さん指示の下、綺麗に差し障り無く飾り付けるよう働かされる比丘達。キチンと建て付けないと見栄っ張りの和尚さんが煩い。そんな合間を狙って、ようやく仕上がったビザ申請書類と手紙持って和尚さんにお願いし、了承のサインを書いて貰います。するとプリントミスに気付く和尚さん。
「ケーオを呼べ!」とデックワットに呼びに行かせ、更なる修正が必要になりました。特に問題ない些細な箇所でも、和尚さんにとっては許せない表記だった様子。
ラオス行きには藤川さんが伴うことや、外国人にとってのビザの必要性を出来る限り、単純なタイ語で書いた手紙を渡し、その場で読んで貰いました。本当に理解されたとは思えない、がしかし、
「ラオス行くならこれ持って行け、あった方がいいだろ!」と束ねたお札を1000バーツほど与えてくれたのでした。有難い配慮に感謝でした。部屋に戻って数えてみると、100バーツ5枚、他、20バーツ紙幣と10バーツ紙幣がいっぱい。計990バーツ。10バーツ足りないのは、縁起を担いだ“9”という数字に拘ったものと推測できました。タイでは9がラッキーナンバーです。もしかして、この前の撮影代のつもりなのかなとも思う。

これで出発7日前に書類を完成。こういう期限ある書類を揃えるにはタイ人を挟むと思いっきり遅くなるのが過去の体験談。「明日でいいものは今日やらなくてもいいだろ!」という気質の国民である。後はのんびり出発を待つだけ。予想より早く進んだこと、皆に感謝でした。

相変わらずの真面目なコップくん、カメラは未知の世界でも興味を示す

◆ケーオさんの人柄

そんなノンビリした平和な中にも、日々変わった出来事が起きています。私がタイで出家することを知っている友達のひとりから届いた郵便物をコップくんが持って来てくれました。中身は「月刊カメラマン」が2冊(2ヶ月分)。私が注文した訳ではなく、印刷関係の運送業をやっている人で、日本でも余りもので手に入る本を持って来てくれる人でした。

そのカメラ雑誌に興味を示すケーオさんとコップくん。幾つかの特集されたカメラに目を付け、「幾らするんだ?」と言われ、「3万バーツ!」と彼ら世代の4ヶ月分以上の給料に相当する値段を言うと、お手上げの表情。そして撮影モデルの雛形あきこが載っているものだから日本の女性にも興味を示します。ムエタイジムに居る時などはひどいものだった。日本の週刊誌のグラビアに、水着の女性タレントが載っていると「幾らだ?」と言い出すボクサーがほとんど。ここでの“幾らだ”というのは「幾ら払えばヤレるんだ!」という意味。

タイの雑誌は女優・タレントが載る場合はキチンとした身なりで、肌を露出した若い女性が載っていれば風俗嬢と思うらしい。勿論一概には言えない話だが。

ケーオさんらはカメラ雑誌と理解した上で「これは誰だ? 日本の女の子はこんなに綺麗なのか?」と笑う程度。

寺で生まれた犬

◆犬も歩けば車に撥ねられる!

そんなケーオさんはまた違った一面を見せる日がありました。寺には野良犬が入って来ることが多い場です。この寺で生まれた犬もいます。どこからか行き着いた犬は片足が折れたままだったり、片目が潰れていたり、やせ細った気の弱い犬もいました。なぜ寺に住み着くのか。それは車が入ってくることは少ない安全地帯。怪我をしている犬はほとんどが車に撥ねられた犬。尚且つ、托鉢から出た残飯にあり付けるからでしょう。しかし、人間の都合で出来た社会など分からない犬は時折、人に殴られるような痛い目に遭うこともしばしば。寺には鶏も放し飼いされており、犬が襲うことも有り得ます。

そんなある日、前片足が無い犬を、棒で可愛そうなほど殴りつけるケーオさん。犬は逃げ、クティの裏側まで来ると、身を隠すように溝に隠れました。ケーオさんは角材を肩に担ぎ、ゆっくり歩いて犬を探し追って来ました。犬はケーオさんに見つかると怯え吠えだす。そこへ角材を振りかざすと、犬は精一杯の威嚇から声が擦れた吠え方に変わる。それは「勘弁してくれ!」と言うような吠え方。犬にも感情があって、人に訴えかけることが出来ると改めて感じ取れる様子でした。

殴ると見せかけて止めると、犬は覚悟を決めたように「キャー!」と言うように喚き、フェイントかけて殴りつけると“ギャイーン”と吠え、溝から逃げ出すところを背中へ更に角材で殴りつける正にイジメ。2階の藤川さんと目があったケーオさんは苦笑いする。この犬は“ここはヤバイ”と寺から逃げ出したか、その後、見かけなくなりました。

過去にもこの犬へのイジメを見たことあるらしい藤川さんは「あの犬はやめといてやれ」と言ったらしいが、ケーオさんは容赦しなかった。ケーオさんは過去に何があったのだろう。頭も良いし優しさもある。しかし捕虜収容所にでも入れられるように家族から出家させられた背景にはやっぱり捻くれた人生があったのだろうか。

どこの寺もこんな怖い感じの犬がたむろする(イメージ画像、この犬は飼われている。撮影は2017年)

◆ラオス行き前日のお仕事!

旅立ちの前日の朝、洗濯中、ある女性信者さんと息子さんらしい中学生ぐらいの男の子が寄って来ました。旦那さんは警察官らしく、息子2人に娘さんも1人いる優しそうな女性でした。

「日本で何やってるの? どうして比丘になったの?」といつものよくある問いかけに、
「日本でカメラマンやっています!」とまたハッタリ込めた話が進むと、私が葬儀を撮影した話をどこかで聞いて来たらしく、そしてこの日行なわれる夜の葬式撮影頼まれてしまいました。読経の出来ない分を撮影で補おうと快く受けると、読経に匹敵する光栄なことだからか、えらい喜びよう。

その夜は約束どおり葬儀を撮りに葬儀場に入り、撮っていたら和尚さんに「椅子に座れ」と促されてしまいました。ちょっと比丘らしからぬ振舞いだったかもしれないと思うも、私は構わず撮り続けたら、和尚さんが挨拶でマイクを持った際、私のことを「日本人だから許してやってくれ!」と言ってるみたいで、親族から少々笑いが起きるお葬式。
「そうそう許してくれ、俺は生臭坊主だから頼まれた仕事は務めさせてくれ」と呟く私。

明日からラオスに向かうので、ここまで撮影した2本のフィルムは、朝会った依頼された女性の旦那さんに渡しました。そして撮影料ではなく、お布施として300バーツを“さりげなく”受取りました。

比丘の旅の必需品、就寝用の傘と蚊帳

◆仏陀のことば!

この日の昼には銀行に行って来た藤川さんに、ラオスの旅に備えて5万円分12500バーツを両替して貰い、「ラオス行ったらどんなところで寝かされるか分からんぞ!」と蚊帳吊るす紐も一緒に渡されました。

旅先では野宿があるかもしれない。戒律厳格な修行寺に泊まるかもしれない。食事出来ない日もあるかもしれない。全く違う方向へ進路転換する事態も起こるかもしれない不安が過ぎると、出家前のように怖気付きます。まだ何も起きてもいない先のことに何をネガティブに嘆いているのか。

これはお釈迦様が説いた愚か者の考え方なのです。未熟者にはそういう不安が過ぎる旅の前日でした。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

やがて還俗する4僧とメーオを含む5僧の朝の読経

懺悔の儀式、まず先輩僧と後輩僧が組んで行なうのが基本

立場を交替で行なう懺悔

寺に入って1ヶ月が経過。それなりに悩み、真新しい発見があり、今度は信者さんから撮影を頼まれたり、寺の生活に対応力が付いてきたのも確かな手応えでした。

◆ブンくんらの還俗!

11月30日は3僧の還俗式。朝4時30分から読経があると聞いていたので、私もいつもより早く起き、皆の様子を伺い撮影に入りました。今日の3僧の他、近々還俗するトゥムくんも参加。先輩僧として4僧の懺悔に立ち会うメーオくんも加わり、5僧が読経と懺悔の儀式を行ないました。

私は托鉢に向かうも、還俗する3僧はクティに残り還俗式の準備に掛かります。その後、朝食前に3僧の還俗式が始まりました。還俗式と言っても得度式のような半日掛けるような儀式は無く、和尚さんと還俗者だけの問答で終わる数分のことで、3僧が和尚さんの前に座り、形式的な流れながら、還俗を願い出る言葉と認める和尚さん。

その後、部屋に戻って黄衣を解くと、もう黄衣を纏うことは許されない俗人に生まれ変わります。新たな旅立ちとなる白いシャツを着て、元の俗社会に居た時のジーパンを穿き、和尚さんの元へ戻って最後の挨拶。時間にして10分程度。あっけなく終わるのが還俗式でした。黄衣を脱いだ3人は初々しい姿。いい日旅立ちとなった彼らはこれからどういう人生を歩むのだろう。短い間だったが、“同窓生”として絆を深めた仲を忘れないでいてやりたいと思う。

懺悔の儀式。全員でやる場合はあちこちに広がります

この日還俗する3僧と立ち会ったメーオの4僧で撮影

還俗式に入り、和尚さんの前に向かう3僧

再び和尚さんのもとへ戻るが、今度は俗人として一段低い位置に座ります

聖水を掛けられ、今後も仏教徒として教えを守り、務めを果たしていくことを誓って終了

還俗したばかりの3名を撮る

部屋に戻って黄衣を解き、私服姿となったブンくん

◆ブンくんの部屋に引っ越す!

朝の雑用を終えると、今度は私の部屋引越しが始まりました。ブンくんが居た部屋は藤川さんの部屋と同じ広さ。陽射しが入り暑い。外は道路工事が始まっており、土埃が舞い、部屋まで入ってくる厄介さ。元の部屋は広く涼しく、葬儀場が見えて比丘の動きが分かりやすかったのに、今度は周りの様子が見え難く聞こえ難いが、一人部屋の魅力は捨てられない。部屋の左隣はやがて還俗するトゥムくん。右隣はアムヌアイさん。皆が私の部屋に出入りし、ブンくんが残していく物を貰おうと集まる心理は、鬱陶しいが仕方ないか。黄衣やバーツは誰も手を付けず、ブンくんが「使っていいからね」と私に置き土産を頂きました。還俗した者は恩返しに数日寺に残り、比丘のお世話をしていくそうで、今日はまだ寺でのブンくんの姿を見ていました。

◆藤川さんの長話!

一人部屋となってウキウキしていると、時間の経つのは早いもの。夕方頃、外で洗濯していると藤川さんから声が掛かりました。

「ケーオに書類頼んだか?和尚が何も分かっていないから文書にせい、内容を教えるから来い!」と言われて藤川さんの部屋に向かうも、それから想定外の事態に至りました。移った部屋にはまだブンくんも覗きに来ているだろうし、話したいこともあって部屋に戻りたいが戻れず、そこから延々藤川さんの話が続くのでした。

「ビザというもの、何の為にラオス行くかも、バンコクに行ったのも和尚も副住職もケーオも何も分かっとらんぞ。そういう事情を和尚宛に文書にしておけ。そうしておけば後々“知らん”では済まされんから!」

そんなことはもう準備していたし、普通立ち話で2分で済む話。しかしそこから延々続く説教話。私の日々を見ての苦言、藤川さんの生き様となる大林組、不動産業、タイでのビジネスを経験してきた話、笑い話もない中、その他もう何を言われたか覚えていないぐらい延々続きます。

ほんの数日前もナコンパノムへ行った際、立ち寄ったバンコクで先日のような知人に散々喋って来ただろうに、何をまた私にここで鬱憤晴らしする必要があろうか。説教とは言えない、単なるストレス発散である。お陰で私はストレス溜まるだけ。夕方6時過ぎから延々続く中、1回トイレに行かせて貰った以外、12時過ぎまで喋っていた藤川さん。止まらないのである。こちらは頷くだけ、対話になっていないのだ。気付けよ、明石家さんまか、アンタは(心の訴え)。その間、何も飲まずに、冷蔵庫に飲み物を持っているくせに何も出してくれなかった。この喋り出したら止まらない人間の思考回路はどうなっているのだろうかと思う。

12時を回って眠くなったか、ようやく話を終えてくれた藤川さん。最後に部屋を出る時に「少々“ヤケド”してもいいから還俗したら思い切ったことをやってみい」と忠告だけは記憶に残る。修行中は藤川さんを師匠と位置付けていた為、頭に来ることはいっぱいあって、時々私もキレるが、極力逆らうことはしませんでした。
クティ内は皆眠りに付いて静まり返った暗い中、移ったばかりの部屋へ向かう。還俗したブンくんはどこで寝ていることやら。待っていたとしたら申し訳ないところ。

◆ビザというもの──難航する書類作成!

私と藤川さんは仏門で227の戒律を守り、修行する比丘の身である。しかし我々は所詮日本人。戒律以前に日本の法律、国際ルールを守らねばならない。タイでは観光ビザは60日(延長含め90日)、ノンイミグレントビザは3ヶ月滞在できますが、この期間を超えて滞在すると不法滞在となります。その為、期限前に国外に一旦出なければなりません。タイ周辺国に出るには、ノービザで行ける国がマレーシア、ビザが要る国がミャンマー、ラオス、カンボジアだったと思いますが、日本へ一旦帰国することも一つの手です。この辺の事情が、ウチの寺の和尚さんはどこまで分かっているか。時期が来ると毎度、タイ滞在ビザ取得の為にタイ国外へ出る苦労を、分かっていないだろうと藤川さんは感じられるのでしょう。

そんな不安を持ちつつ、ラオスのタイ領事館に提出する寺在籍証明書作成をケーオさんに頼みます。

「我々外国人はビザというものが必要で、比丘であってもタイに滞在する外国人なのです……」とまで説明すると、「分かってるよ、不法滞在になってしまうことは。ビザが要るんだろ、だからラオスに行くと。マイペンライ!書類は作ってやる。いつ行くんだ?」
と話は早かった。期限が迫ってもなかなか慌てないのがタイ人。せかす意味で「バンコクの友達に先に渡すから早目がいい」とウソをつく。戒律違反のウソである。

このケーオさんは前に述べたとおり、元々勘が良く、すぐに動く人だった。パスポートと比丘手帳を持って行き、手が空くと部屋に戻って必要事項をタイプライターで打ってすぐ持って来てくれました。しかし各所日付が間違っています。出家前のタイ入国日は必要無く、得度した日と申請日が間違っている。やること早いが打ち間違いが多く、その都度、修正液塗って打ち直し、また修正液。それが折り目となると乾いた修正液がヒビ割れする始末。ここを「マイペンライ!」で済まそうとする一般的タイ人でなく、「やり直そう!」と白紙から打ち直してくれるケーオさん。

面倒な作業を繰り返し時間を掛けて寺在籍証明書完成。これを持って和尚さんのサインを貰いに、ラオスに行く必要性を話しつつ文書にしたものを渡しますが、分かってくれるでしょうか。分からなくても書類にサインさえ貰えばいいので、極力機嫌の良い手の空く頃を狙ってお願いに向かいます。ラオスに向かう、いい日旅立ちも間近に迫りました。

移った部屋の外は道路工事中。土埃が舞う。数年後にはこの広い土地が商店広がる住宅街となる

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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葬儀で並ぶ8僧、ベテランほど上座側に座ります

◆藤川さんもデックワットも居ない理想の一人部屋が近くなる

滑舌よく読経するコップくん

仲のいい奴ほど還俗者が増えていく11月下旬、私の存在感が違った形で表れました。

寺の行事に振り回されながら、その様子に変化が見られる中、11月20日過ぎた頃のある日、「明日の朝は6時から9僧でニーモン(比丘を招く寄進)に行くから托鉢は行かなくていい」と前日にアムヌアイさんから言われるも、「私が行っても仕方ないだろうに」と思い、「読経出来ないからメンバーに入れないで欲しい」と言っても「日本人比丘に来て欲しい」のだと。それは藤川さんのことを指して言っているんじゃないかと思うも、私も含むのだという。

1台の車の固い荷台に比丘がギュウギュウ詰めに乗って向かった先は、観光地風のレストランがある土産物売店のようなところ。お店開きのお清めのようなニーモンでした。そこで読経後、食事になるのかと思ったら仕出し弁当のような料理を差し出され、持ち帰るだけ。特に日本人比丘が必要とは思えないのに、私をメンバーに含む意図は、和尚さんが企む客寄せパンダとなって、「ウチの寺は国際的じゃ、日本人比丘が二人も居る!」と言っているのだろうか。それに加え、「メンバーに入れてやってるんだから、さっさとお経覚えろよ!」とプレッシャー掛けられているのかもしれません。

午後はアムヌアイさんに着いて2人で広い境内の水撒きも続け、夕方の疲れてくる頃、境内にリヤカー式カキ氷屋がやって来ると、アムヌアイさんが奢ってくれて休息。結構体力回復するもんだ。身体が軽くなった感じ。けどカキ氷にアイスクリームが掛かったものを、比丘が午後、食べていいのだろうかと思う。

葬儀が終わって寛ぐ、左からイアットさん、アムヌアイさん、コップくん

女性から寄進を受ける際は、パー・プラケーン(黄色い布)を通して受け取ります

翌朝は竹の筒に入ったカーオラーム(蒸した餅米の甘いお菓子)売りが来て、みんな寄って集って買って食べていたが、そんなもの食ったら昼飯食えんだろうに。でも美味そうで私も欲しかった。物売りが寺に入って来るのは、比丘相手の商売にもなり、木陰で休息する場でもあるのです。人力三輪タクシーも同様。そのまま比丘が利用して外出することもありました。

またある日の朝は、アイスパン屋が来ました。コッペパンにナイフで縦に切れ目を入れ、アイスクリームを挟んで練乳が掛けられたような冷たく甘いパンである。これも結構上手い。若い比丘は続々買って食べる者多かった。

その日は私がブンくんに奢ってやりました。ブンは30日に還俗する奴。短い間だったが、彼にはいちばん世話になり、黄衣の纏い方やそれぞれの呼び方、分からないこと聞けば、大体は教えてくれて、覚えた方がいいという日々行なうお経や、葬式で使うお経の範囲を読経本に記入してくれた奴。この部屋が空いたら私がこの部屋に入ることを相談すると、ブンくんも賛成。今迄の部屋はデックワットが出入りする共同部屋。サイバーツされた信者さんの心がこもったお菓子や果物を、高校生デックワットが勝手に持って行くのでどうも落ち着かなかった。小学生デックワットは性格いいが、やっぱり何かと一人部屋がいいのである。

この日は8僧、招かれる葬儀のスケールによって人数も違ってきます

聖水を注ぐ親族のおばあさん達

◆葬式カメラマン!

25日にアムヌアイさんがやって来て、「ハルキはカメラマンだろ?葬儀を撮れないか?」と言われ、和尚さんが「頼んでみてくれ」と言ったらしく、私は葬儀を撮る“カメラマン”となりました。翌日もアムヌアイさんが「今日も頼む!」と言って来たり、和尚さんがいきなり部屋をノックして「オーイ、撮ってくれんか!」と言う日もあるほど。と言っても当然“プロカメラマン”ではなく、黄衣を纏った修行僧に変わりはない。日本では僧侶が副業を持つことは可能だが、タイ仏教では許されません。

部屋で準備して葬儀場に向かう際は、心はカメラマンに戻り、一眼レフカメラを構える。カメラなんて持ったこと無い奴らが、「あれ撮れこれ撮れ!」と煩いが、そういう素人意見は無視していちばん前まで行って記者会見でも撮るようにカメラを構える。元々、撮影は上手くはない上、信者さんのいる手前、比丘として振舞いに気を付けながらシャッターを押す。比丘の役目を果たしていない私が、寺の役に立っていることに、少し安堵の気持ちが沸いていました。

この連日の葬儀の重なりで、クティのホーチャンペーンにもお婆さんの遺体が運ばれて来て、後日ここで葬儀だという。遺体に寄り添っていた娘さんらしい人が去り際に急に泣き出し、送り人となる人生の節目を見ること多いこの数日。

翌日もこの遺体のある棺桶の前で普通に朝食。身近にこんな遺体があっても怖くも気持ち悪くもないが、朝早く起きてトイレに行く際はまだ暗く静まり返ったクティに棺桶がある。そこを横切る際に、ややビビッてしまう自分が居る。ただ手を合わせて通り過ぎるのみ。

連日の葬儀の中、数日前に還俗したラスくんとパノムくんが訪れました。ジーンズ姿で現れると、ずいぶん変わった人相と人格に見えます。ラスくんは「パンサー3回経験したんだ」と言う。私が3月に藤川さんを尋ねて来た時のこと覚えてるようだった。他の一時僧に混じっていると気が付かなかったがベテラン比丘だったのだ。
パノムは私の部屋に来て、「還俗してから女買いに行って来たぞ、ハルキは還俗したらどこの店行くんだ?」と言い出すアホである。「オレはなあ、バンコクの1000バーツする高級店だ!!」と負けずに自慢だけするも何か虚しい。

男性から寄進を受ける際は、普通に手渡しされます

葬儀の1シーン、親族関係の方々

◆和尚さんと取引き

後日、写真屋さんに行って、葬儀撮影フィルムを同時プリントではなく、現像後にスリーブ上にチェックを入れて「これプリントして!」とお店のオバサンにフィルムを差し出すと、「手出しちゃダメでしょ!」と窘められる始末。フィルムをジッと凝視していると比丘の立場をすっかり忘れ、女性に手渡しする行為に発展。うっかりしてしまった。オバサンも笑っていたが、こんなことも起こる比丘の日常です。

プリントした写真は約100枚。買ったアルバムに入れて和尚さんに差し出すと、その量に驚き「いっぱい撮ったな、幾らだった?」と言う和尚さん。経費は出してくれようとした様子ながら、そんなものすべてタダ(無料)渡しである。

その代わり、お願い事を立て続けに三つ言わせて貰いました。30日のブンくんら3人の還俗式を撮ること。空室となるブンくんの部屋に移ること。ビザ取得の為、寺在住証明書類に和尚さんのサインが要ること。いつもの簡単な「ダーイ」ではない、ちょっと“間”があるものの、「分かった、許可してやろう!」と言う返事。

「キヨヒロは旅が趣味で、ハルキはカメラが趣味か!」とでも思ったろうか。写真代は日々のタンブンで受けたお布施を使ったまでである。

◆続く還俗者!

27日の朝は、小太りのブイくんが還俗。飯を食う同じ輪を囲んだメガネのブンくんと同じ気心知れた奴だった。

そう言えばブイが、「ハルキがキヨヒロ(藤川さん)と話してるの見たこと無いけど話すことあるのか」と言われたことがありました。無視された日々だったから周囲からはそう見えるのだろう。こうして私の出家後、6僧が還俗して行きました。後日、更に5僧ほどが続くのでした。

寂しさが増す中、気になるのは近づくラオスのこと。相変わらずの黄衣の纏いの下手さ、足の痛い裸足の托鉢は、それらがあまり気にならなくなった頃でした。そして葬儀カメラマンやったことから、また新たな注文を受けてしまいます。

数日前に還俗したラスくん(左)、パノムくん(右)が寺に遊びに来ました

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』6月号安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

背格好だけ違って皆同じに見える比丘の顔触れから、遠慮なく本音で喋る時期に入り、仲良い奴にも癖があり、性格悪そうな奴にも賢い判断がある、そんな自然な振舞いがいろいろな場面で見えて来ました。

ベテランのアムヌアイさんは三輪自転車トゥクトゥクの運ちゃんと雑談(1994.11.22)

◆春原さんからの激励

11月18日、春原さんから得度式で撮って貰った写真が届きました。中の手紙には大きな字で、「ワッハッハッハ、何を弱気な!」

出家した間もない頃、「藤川ジジィが無視しやがって」とか「黄衣の纏いが下手糞過ぎて托鉢中に解けそうになって情けない、もう辞めたい」など心境を愚痴を溢して書いた春原さんへの手紙の返事がこれでした。

「誰も真似できないような仏門に自ら飛び込み、日々の苦労はあっても坊主修行を続けている姿に、私は情けないとは思いません」

「もう慣れている頃だと思うので、何も心配していませんが、頑張って話題豊富な修行を送ってください。期待しています」と呑気なことを書いて寄こしやがって。

でもこんな手紙に背中を押されるような元気を貰いました。ボクサーが真のファンに「応援してるよ、頑張って!」と励まされるのは、こんな涙が出るほど嬉しい心境なのかと思います。

皆の写っている写真をそれぞれに渡すと、やっぱり笑顔で受け取ってくれて大変喜ばれました。和尚さんも性格の悪い奴も、ブンくんもコップくんもみんな見せ合って笑う賑やかさ。それは小学校の頃に、年度末に撮った学級集合写真を貰ってみんなで笑って見ているような光景でした。

◆寺の内側で起きている個性的な比丘らのこと

ちょっと悪賢いヒベ(左)、すでに還俗したインド(右)(1994.11.5)

ヒベという奴は普段から不良ぽく、卑猥な言葉らしい“ヒベ”を連発して言っていたので、品の無いこいつを「ヒベ」とちょっとだけ小声で呼んでやりました。

性格は優しいがヒベ並みに品の無い奴がパノムという奴。
「オーイ、ハルキ!“オメ○”って何だ? キヨヒロ(藤川さん)から聞いたんだけど!」と、庭でデッカイ声で呼びやがる。

「それは“ヒー”のことだよ。日本語では“オ○ンコ”って言うんだ」と言ってやったら、更にデッカイ声で「オマ○コ!」よ呼びやがる。

「みっともないからやめろ!」と言っても、「マイペンライ!タイ人しか居ないから、誰も分からない!」・・・!?

パノム(左)、ティック(中央)、ルース(右)。この3名もやがて還俗します(1994.11.5)

近くには山の上にナコーン・キーリーというケーブルカーで上がる観光地がある。この辺を日本人女性が歩く可能性もあるから止めて欲しかった。

初めてタイに来た日本人女性が、神聖なるお寺のお坊さんから“オマン○”なんて聞こえたら、タイ・テーラワーダ仏教の権威が崩れるではないか。

更にパノムは夜遅くに「腹減った、ラーメン無いか?」と私の部屋にやって来たことがある。

「オイ、今食うんじゃないだろうな、明日の朝食えよ!」と言って托鉢でサイバーツされたカップ麺を渡すと、隠すように持っていったパノム。夜食ったら戒律違反である。比丘の中にはこういう体たらくな奴も居るのかと思う。ケーオさんは心が病んでいるようだ。

藤川さんにこの寺を紹介したのがバンコクにいる知り合い弁護士で、この方の末弟に当たるのがケーオさんらしく、他の兄弟と違い、複雑な思春期を過ごしたケーオさんはちょっと問題あって、お坊さんにでもさせておくしかない事情の下、この寺で出家させたという、藤川さんは元から縁あるお坊さんなのでした。

話せば面白い奴で頭も良い。機械イジリが好きで和尚さん所有の車をメンテナンスしたり、秘書的存在でタイプライターで文字を打っていることも多いケーオさん。私もストロボが発光しなくなった時、こんなタイの田舎の寺に居ては修理は無理と諦めていたところ、ケーオさんが「ちょっと貸してみい!」と持って行ったら翌日までにしっかり直して、ちゃんと撮影に同調する問題無い修理をしてくれた、器用な人なのである。

アムヌアイさんは誰もやらない3K仕事をやる真面目な優しい奴。これも藤川さんから聞いた印象で、「毎日、牛の糞を捨てに平気で運んどるが、ケーオのような要領の良さは無いな。仕事は何でも出来そうやが鈍感なタイプやな」

「メーオは、学の無い奴で還俗しても他に就職先なんか無いやろうな。ペッブリーから出たことも無いらしいし、坊主やっとるしかないんちゃうか!」
当たらずと雖も遠からずの藤川さんの意見でありました。

ズル賢いケーオさん(左)、ワット・マハタートの高僧(中央)、やがて還俗するブイ(右)(1994.11.27)

◆比丘達の試験!

21日の午後はペッブリー県でいちばん大きい寺のワット・マハタートへ皆が試験に行った様子。新人僧はパンサー明けに全国の寺で行なわれる仏教試験を受けることが義務付けられており、合格すると初めて一人前の比丘となるそうである。

翌22日も試験。疲れた表情で帰って来る仲間達。「難しかった」「たぶん落ちた」と言う奴が多い。古い比丘や藤川さんは試験は無い。私はパンサー経験無い上、新入りなので、全く声は掛からず。

試験に向かうティック(左)、ブン(中央)、テーク(右)(1994.11.22)

◆初めての一人托鉢!

26日は一人托鉢。昨日から藤川さんはナコンパノムへ旅立っています。何しに行ったのかは分からない。普段から寺では話さないから仕方ない。

いつも最後に立ち寄る砂利路地で、御飯と惣菜の他、お菓子を必ず入れてくれるおばさんに英語で声掛けられ、私がタイ語でたどたどしく応えるので、日本人と知られてしまう。するとその向かいの家の、身体に障害があって手が震えるオジサンに、
「このお坊さんも日本人なんだってさあ!」と教えてしまう始末。藤川さんを日本人と知っているのに、私も日本人だと今迄知らなかったのかなと意外に思う。

お菓子おばさんには「いつ還俗するの? もう一僧はどうしたの?どうして比丘になったの?」と聞かれても、適当に都合のいい返答しつつ、気さくな会話が出来る仲となれました。オジサンの家には年頃の綺麗な娘さんが2人居て、日々入れ替わり出て来ること多い中、この日は後から娘さん2人とも出て来て、その娘さんにも伝えてしまうお菓子おばさん。短パン姿で、太ももが綺麗でつい見て見ぬフリをしてしまう。もう下手な黄衣の纏いも痛い石コロも忘れてしまう、こんな楽しい托鉢でいいのだろうか。

ここに来るまでにも結構声掛けられ、別の路地で、元横綱琴桜に似たおばさんにも「今日はひとりなの?いつまで比丘やるの?還俗したら何やるの?」と聞かれたり、目が合えば微笑んでくれるオバサンも居て、普段は眼力ある藤川では声掛け難いのか、私一人の今日はちょっとした人気者でした。

こんな日が29日朝まで続き、ようやく帰ってきた藤川さん。翌日にまた二人托鉢になると、途端に以前どおりの無言の托鉢に戻りました。

◆ラオス行きの最終準備

藤川さんはどこへ行くにもバンコクを経由することになるので、先日の旅行代理店に立ち寄り、預けてあるパスポートを受け取っています。そのラオス行きのビザが取れたパスポート差し出されて、「あと300バーツや!」と言う。

「300バーツぐらい奢れよ、日本でどれだけ奢ってやったことか!」と思うが、行って来てくれたのだから仕方ないか。

ラオスに行く日までに、まだ準備しなければならない、和尚さんのサインが要る申請書類の作成の為、和尚さんに相談しなければならないことが幾つかありました。またいつもの調子で「ダーイ!」と言ってくれるでしょうか。

煙突は火葬で使われます。叫べば結構響く境内(1994.11.22)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

デーンの頭を剃るラス、眺めるトゥム。剃髪は互いに剃り合うコミュニケーションの場でもあります

寺に戻ってまた続く修行の日々。と言っても修行とは程遠い、単なるノラリクラリと送るお坊さん生活でありました。

◆托鉢も楽しい!?

今日も藤川さんの後について托鉢が始まる。1件目の信者さんは初めて出会う17歳ぐらいで凄く可愛い女の子。例えればアグネス・ラムのような。向かい合うともう手の届きそうな近い距離。比丘の身分でウキウキ気分になってしまう。なんと不謹慎な。もちろん顔には出さない。日々出会う信者さんの顔触れも覚え、こんな邪念が頭を過ぎるほど余裕が出て来た私。

坊主仲間だったインドくん(私が勝手に付けた名前、インド人みたいな顔)がバイクでスレ違う。「こいつも還俗したんだ」と気付く。しばらくしてそのインドくんが先の道で待ち構えていて寄進する側となっていました。ニコッと笑ってやると、「ハルキはいつ還俗するの?」と言われ、「とりあえず年明けまで!」と言うとニコッとワイ(合掌)を返してくれました。

◆衝撃の遺体

今日も暇な日で、この日は私の得度式前日に剃髪してくれたアムヌアイさんに付いてちょっと賢い上品グループに加わってみました。彼らもやること無い日は、溜まり場となる本堂脇のベンチでコップくんらも集まり井戸端会議。そこにはガキっぽい話は無く、どことなく大人の会話を感じる比丘達。

やがてアムヌアイさんは寺に入って来た霊柩車を葬儀場脇の霊安室へ誘導。付いて行くと、遺体置き場の冷凍室から一体運ばれて行きました。初めて見た遺体。紫色のコチンコチンに固まったマネキン人形のようでした。こんな姿になったら人も牛も豚も大差は無く、単なる肉塊。ここに至るまでの、この人の人生はどんなだったろうとフッと考えてしまう。この遺体は他の寺で火葬されるようでした。

少々自分で剃ってみるルースくん

◆満月の前日

明日は満月の日で、その前日は剃髪する日と決められています。決まった儀式として、全員読経して静粛にやるのかと思っていたら、夕方4時半過ぎから賑やかに、笑いもこぼれながら水場のあるところなら、あっちこっちで始まりました。私は得度式の前の日に剃髪して貰ってから半月あまり経った頃。他のみんなはほぼ一ヶ月である。私は撮影目的を持ってクティ下で、こんな時だけあつかましくも「先にやってくれ」と名乗り出ました。普段、言葉や態度が悪く、性格悪いなあと思っていたヒベという奴が意外と快くやってくれるも、私の頭はデコボコでやり難いのか、すぐにパンサー3年目のベテラン、ラスくんに代わり最後までやってくれました。やっぱり上手い奴の剃り味は気持ちいいモンである。私はあと何回剃髪するのだろうか。

私は終わるとサッと水浴びしてカメラを持ち、比丘は走ってはいけないのに突っ走り、葬儀場の方でも和気藹々と剃髪が進む中、ブンくんやコップくんらがやっていたので撮ろうとすると和尚さんが「みっともないところを撮るな!」と叱られてしまいました。

「何がみっともないのか」と、そこは日本人感覚で文句言いたくもなるも、黄衣を纏っていない姿は“みっともない”と言う解釈もあるでしょう。和尚さんの言うことでもあるし、そこは大人しく引き下がっておいて、クティ下に戻って他の者をしっかり撮り終えました。これこそ旅の思い出。今撮っておかねば後で絶対後悔する。ブンくんらは撮れなかったが次の機会を狙おう。それにしても誰も嫌がらなかったではないか。比丘として間違っているかもしれないが、時折カメラマン意識に戻ってしまいます。

今日の“調髪”はほぼタダ。カミソリ代のみ。もちろん皆、エイズ感染防止策で使い回しはしません。

他の比丘にいたずらされたパノムの頭を剃るラス。和尚さん居ないところで、こんな姿にすることもあり

新しい仏塔完成行事で参列した後、カメラを向けるとキチンと立つケーオさん(左)とアムヌアイさん(右)。皆の兄貴的存在の二人

◆いつか我が身も、最後の送り出し

この翌日の午前中にまた葬儀の準備に行かされると、葬儀する遺体が股間にガーゼを当てた程度の裸で置かれていました。本物の遺体、40歳ぐらいの刺青しているオッサン。ピストルで撃たれたようでした。親族が入れ替わり見に来る。小さい5歳ぐらいの女の子が笑いながら遺体を覗いたり、母親らしき人の間をスキップ気味に行ったり来たり、それがやがて事態を把握したのか本気で泣き出してしまいました。ピストルで撃たれた胸と貫通した背中の傷を縫っている検視官? 側頭部にも傷がありました。寝ているような、すぐ起き上がりそうな遺体。私はそんな遺体をしばらく眺めていました。ほんの2~3日前まで普通の生活をしていただろうに、ほんの数秒の出来事でこんな姿になってしまうです。

以前、藤川さんから頂いた手紙に、「葬式では歳取った自然死が少なく、事故で亡くなられた方が多いのです。交通事故、水の事故、殺人など。ピストルで撃たれた遺体もあり、身元不明で葬式ができない遺体もあります。お釈迦様の無常の教えが実感として分かってきます。本当に真実は今この瞬間だけ、それ故今この一瞬一瞬を大事に生きていくしか確かなことはないのです。」

そんな遺体が置かれた葬儀場に親族の方がリポビタンDを持って来て比丘に配ってくれました。見てるだけでくれるなんて恐縮でした。そんな場でちょっと麻痺していた認識。“くれる”のではなく、これもタンブンです。

葬儀後、藤川さんが、「今日の葬儀はいつもとちょっと違った殺伐とした雰囲気やったねえ、何で死んだか聞いたか?、警察に賭博の現場見つかって逃げて、追われて胸撃たれてもまだ意識あって、自分のピストルで頭撃って自決したんや!」と言う。タイでは法規制はあれど、個人でピストルを持てる国なのです。噂だけでなく、実際に発砲事件が多いことでそれが証明されている現実でした。

葬儀後、親族がお布施を配りにやって来ました。私は内心、「毎度あり~」といった気分でしたが、すぐに藤川さんの言葉を思い出しました。

「坊主がお金を受け取る時は、あっさりと当たり前のように受け取るもんや。坊主が葬式に行って『毎度ありがとうございます。また宜しくお願いします』など言って、お布施を受け取ってみい、殺されるぞ(例えの表現)! お布施とは何となく差し出し、何となく受け取るもんや。間違っても『ありがとう』なんて言うなよ。知らない顔して当たり前のように受け取れよ、その方が有難味があるんやから!」
お布施といった徳を積む行為に応えることはそういうものなのです。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)

◆諸行無常を実感

これも過去、藤川さんに説かれた言葉で、
「明日は必ずやってくるモンか?各々に“必ずやって来る”とは言えんのとちゃうか?平和な日常でも、明日もこの命があるとは限らへんのやからな!」

そんな話を聞きながら、その時は漠然とその意味を理解していました。

先日の冷凍された遺体といい、今日の葬儀の遺体といい、死因は何にせよ、日々人は死んでいくもので、来世へ最後の送り出しをするのがお寺の役目。一方で、日々新しい命が産まれている。

順々に我が身も送られる日が近づいている。諸行無常の教えが実感として分かってくるのがお寺に暮らす我々比丘なのでした。

これまでノラリクラリ無駄な日々を送ってきたことは勿体無いこと。今やるべきことを先延ばしせず今やらねば。日本に帰ったら無駄の無い日々を送れるだろうか。三日坊主の私に──。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)。当然、ベテラン比丘が前に並びます。要請される人数によっては他の寺から呼ばれたり、我々も向かったりします

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

藤川さんとは比丘になって初のツーショット

◆外泊先の朝

バンコクでの用は簡単に済んだのに藤川さんのついでの用が多いこと。

初外泊先のワット・タートゥトーンで目覚めると、いつもの習慣のせいか、まだ5時ぐらい。その後あまり眠れない。

起きてから藤川さんに言われたのは、
「お前、鼾(いびき)凄いな、寝て5分程で鼾搔いてたぞ、お陰で眠れんかった!」と言われ、初めて鼾を指摘された、高校1年の入学早々の研修先での同級生の同じ苦情を思い出しました。親父も鼾が凄かったので、私も同じなのだろうと思い、他所の家には極力泊まらないようにしていたのです。

底が開くようになっている頭陀袋とバーツ(鉢)

「托鉢は行かなくていいよ」と昨日このクティに泊めてくれた偉いお坊さんに言われていたので、ゆっくり過ごし、藤川さんと部屋の掃除だけ二人でやりました。

その托鉢に行っていないので、朝食は呼ばれない覚悟もしたところ、8時頃、この寺の比丘数名から「オーイ、こっち来て!」と声が掛かりました。ここの寺の比丘はウチの寺の倍ぐらい多いが、食事は同じような雰囲気で、食材も多く「遠慮は要らないよ」と他所から来た者を差別することもなく、グループが幾つかに分かれ皆で輪を囲む食事でした。

食事後は出発準備して、このクティのデックワットに鍵を返して寺を出ました。昨日の偉いお坊さんには会うことなく、そこは藤川さんが「分かっとるから気にせんでいい」と言うまで。さすがにいつものお泊りパターンの様子。滞在時間は短かい中、新鮮な味わいがあった寺でした。

◆またも寄り道──ソー・ソー・トー(泰日経済技術振興協会)を訪ねる

バーツに頭陀袋を被せるとこんなショルダーバッグ風になります

また市内バスに乗るも、そのまま帰る訳でなく、藤川さんが目指すスクンビット通りソイ29で降り、ソー・ソー・トー(泰日経済技術振興協会)に寄り道しました。
「カンチャナ先生に会いに行くんや!」とは聞いていましたが、日本人会の主婦らしい女性が7名ほどに迎え入れてくれました。

話し合いは、日本人会として、タイに住む日本人各々が抱える社会問題を語り合うパーティーに、藤川さんの人生経験値と比丘としての意見を語って頂きたいというもので、「今後、度々あるパーティーに藤川さんを招く場合の配慮」について話していましたが、私は関係ないので、ただ側で聞いているだけ。

ニーモン(他所へ招いての寄進・喜捨)として招かれるなど、如何なる場合も戒律は守るのは当たり前で、午後は食事は摂れません。

「どう言うたらいいやろなあ!」と頭搔きながら悩む藤川さん。藤川さんは内心行きたがる。女性たちは“比丘を誘い難い”が藤川さんには来て欲しい。しかし食事を伴うので朝しか招待できない。でもパーティーは午後でなければ皆さんの都合が悪い。

「食事などの接待はしなくていいから」と言っても誘う方は気を使うものでしょう。

藤川さんの説法が、日本人会の皆さんの救いになるならば、比丘としての役目は果たします。しかし、こんなところがウチの寺の和尚さんからみれば、“遊びに行っている”と映るのかもしれません。

1時間程の結論出ない会話の後、皆さんそれぞれの主婦業等がある為、我々も御挨拶して此処を出ました。

◆またもタカリ!

時間はお昼前11時頃、外に出て「さて昼飯どうしようか、食わんとこうか、面倒臭いし!」と言う藤川さん。

私もガツガツ食い意地張りたくないので「そうしましょうかあ」と力無く言うと、それを読んだか、「そや、町田さんに飯食わせて貰おう!」と言ってソイ27の昨日の町田さんのところへ向かうことに。

ロビーの女性に町田さんを呼んで貰うと、町田さんは仕事があるので、昨日一緒に居た小林さんが連れて行ってくれることになりました。

私は「また迷惑かけるなあ」と思いつつも、温厚な小林さんは嫌な顔することなく、逆に喜んでホイホイと近くのレストランへ誘ってくれました。11時20分頃、カオパット(炒飯)、トムヤムスープ、カイチアオ(卵焼き)を注文され、12時回る前にアイスクリームまで出される豪華さ。腹減った時に“食う物無い”とか、“食ってはいけない”というのは本当に苦しいもので、この日は我々から「飯食わしてくれへんか?」と実質の“タカリ”に行っているようなもので、私としては申し訳ない気持ちは大きいところでした。

メガネのフレームがガタつくのでネジ修理を頼んだ藤川さんは、こんな感じ(イメージ画像、3月に撮った時計の修理です)

タンブンしてくれた小林さんはタイ生活が長く、「ワシは3日に1回ぐらい正露丸飲んでるよ!タイで日々屋台で飯食ってたら何食わされているか分からんからな、寄生虫発生の恐れもあるから飲んでおいた方がいいよ!」という、私も過去、長くタイに居ながらはあまり深く考えなかった有難い忠告。

食事後は藤川さんのガタつくメガネのフレーム修理をメガネ屋へ寄って頼むと、此処もお店側のタンブンで無料。何から何までタンブン尽くし。この後、小林さんにバス停まで見送られて、また市内バスでサイタイマイバスターミナルへ向かい、寺入りした日と同じ、ペッブリー行き高速バスで寺へ帰りました。

◆バンコクは楽しかった!

バンコクに居た間に藤川さんに言われた、ウチの寺の若い比丘の程度低い連中のこと思うと、こんな馬鹿どもと付き合うのが馬鹿馬鹿しくなる自分も馬鹿な私。門まで辿り着くと何となく虚しい気持ち。

そんな仲間の一人メーオくんがクティの入口に居て、ニッコリ話しかけて来ました。「どこ行って来たの?」とは聞かれるも、「クルンテープ(バンコク)だよ、以前遊んだことあるパッポンの前も通ったよ」と言ってやるも、こいつ行ったこと無いのか、あまりウケはしなかった。

振り返ればバンコクではいろいろな人と出会って楽しかった。市内バスに乗ってすぐさま席を譲られること3回。やっぱり比丘は一般人より位が高いことを実感し、そこに胡坐(あぐら)を搔いていてはいけないことも肝に銘じ、より修行しなければいけない立場であることも実感しました。なのに新米比丘の私が、やがて還俗していくことを考えると、やっぱり罪なことしているように思うのでした。

思えば友達多いことは大事なこと。カモにされるとムカつきますが、藤川さんが行った先で飯を食わせてくれる友達がいるのも実際には私も助かった話でした。

厳密に言えば比丘は、お金で対価を払う行為はやってはいけないので物を買って食べることは出来ません。そういう場合にデックワットにお金を渡して連れて歩き、必要とするものはデックワットが買って手渡しされたものを戴くことになりますが、そこまで徹底するのは現在の文明社会では無理なので、やるのは厳格な修行寺だけになります。そういう金銭に触れる事態を極力回避する為にも藤川さんは「飯食わせてくれ!」といった、知人をカモにする場合も多いのでしょう。特に日本へ帰国の際は、頼れる人が多いと助かるのも確かでしょう。

でも私としては、昨日の佐藤夫人と今日の小林さんには、還俗したら御礼に伺おうと思うほど。その行為は俗人に戻っても、テラワーダ(南方上座)仏教として間違っているかもしれませんが、日本人として恩返ししなくてはと思うところでした。

さて、翌日の満月の日を迎えると2回目の剃髪があり、そんな寺にも慣れた頃、ラオス行きも視野に入れ、また違った日々の風景が見えて来ます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

ビザの用件も第一段階は終わって、予定どおりワット・タートゥトーンにお泊り準備をして、藤川さんのお遊び相手をしてくれる、お知り合いのマンションに向かいます。

携帯電話を持つ人が少なかった時代でも持っていた藤川さん。町田さんに連絡しているのか、段取りは早い

タートゥトーン寺入口(昨年、訪れた寺でもあります)

◆藤川さんから接近!

ワット・タートゥトーンは広い。サーラー(葬儀場・講堂)がいっぱいあって迷子になる広さ。それに比例する葬儀の多いこと。改めて人は日々死んでいくのが実感されます。

藤川さんが旅に出る場合のバンコク起点となるお寺だけあって慣れたもの。和尚さんにお会いせずとも、我々が泊めて貰うクティの一人の比丘にお会いして部屋に案内して貰いました。

このお坊さん、30代半ばぐらいで若いがキャリア長く、結構位の高い比丘なんだとか。でも低姿勢で、逆に藤川さんに気遣いながら「自由に使ってください」と言い、どこかに行ってしまいました。年輩というだけでキャリア浅い藤川さんの方が偉い感じ。

部屋に入ってから重い荷物(バーツや黄衣一式が主)を降ろすと、藤川さんはここから私の出家前のように、高笑いも出るほど朗らかに話します。それだけで嬉しく、これが私が当初から想定していた触れ合いある寺生活だったのです。

昼の、東急デパートで車の中で話していたことは、ウチの寺の若い坊主らのこと。
「奴らは中卒程度の田舎者やぞ、世間知らずばっかりや、日本の教育も問題はあるけど、ワシら日本人はアジアの他の国から比べて、教育制度がしっかりした環境で育ったんやから、そんなお前が奴らに舐められとったらアカンぞ!」
そんな話の続きで、「メガネのブンは性格ええかもしれんが、先行き何も考えとらん生ぬるい奴やぞ、コップらの将来見据えた頭ええ奴らと話しとる方がええんちゃうか?」

デックワットを含め、いい奴も居れば、頭悪い奴、性格悪い奴も見えてきたこの頃、頭に入れておくべき忠告でありました。

しばらく話してから「外行こう」と言う藤川さん。また数分かけてマンコンに纏って外に出ると待っていた藤川さんが、
「今、サーラーで日本人の葬式やっとるが、日本式とタイ式に分けてやるらしいぞ、日本から僧侶やら高級な喪服着た、ええ格好の日本人が何人も居って、金持ちらしい葬式やな!」と嫌味な言い方で葬儀の様子を話してくれました。

◆元ビジネス仲間多い藤川さん!

その葬儀は覗かず、道路を渡って市内バスに乗ってバンコク中心部方向へ向かいました。「どこに行くんですか?」と聞くと、
「町田さんのマンション行くんや!」と応えます。6月に成田空港で藤川さんを迎えた町田さんとの再会になります。

10分ほど走ったところのソイ(路地)27の向かい側で降り、道路渡ってソイに入ったところのマンションのロビーの椅子に座っていたのは、町田さんと小林さんという年輩の方と女性1人で皆、藤川さんとバンコクでの元ビジネス仲間。年寄りの雑談は日本とアジアの経済の話、戦争の歴史、成人病の話。

「ベトナムはタイ以上のスピードで発展するやろうなあ!」
「イサーン(タイ東北部)の人は本当に貧しいんか? 自然に適った風通しのいい高床式があるのに出稼ぎした奴らによって密閉された日本式住居が増えて、その結果エアコンが必要になるやろ。文明が幸せを壊しているんじゃないか?」

藤川さんは糖尿病を患っていても、「比丘になって朝昼だけの食事で体重が10kg減って逆に調子は良く、今迄いかに無駄なものが身体に付いていたか分かる」と言い、「我々はいかに無駄に食べ過ぎているかだな」と応える町田さんたち。
若年者の私はほぼ聴いているだけでも勉強になる話でした。

バンコクでビジネスを展開した仲、左から小林さん、藤川僧、町田さん(撮ったのはこの翌日です)

◆夜も更ける頃、早く帰らねば!

藤川さん達は話が尽きないが、夜9時になる頃、寺に帰るには比丘がうろつく時間ではない。やって来たバスに乗ると、すぐにドアー寄りの席を譲られ、乗客は「こんな時間に比丘が乗ってくると思わなかっただろうな」と思うと恐縮してしまいます。

寺が近くなったところで藤川さんに促され立ち上がるも、バスは交差点手前の信号待ちで停車。何を思ったか、藤川さんはそこでブザーを押してしまいました。いつもながら運転手さんがドアーを開けます。
「なんで押すんですか!」とまた私は語気強めて言ってしまいました。

バンコクでバスに乗り慣れた人には分かる、ブザーを押すタイミング。誰も降りないのでドアーは閉められました。ああ恥ずかしい、でも藤川さんは涼しい顔。

日本もタイも路線バスは基本的に停留所しか乗り降りはできません。昔ながらの扉開きっぱなしのバスは、止まっていればどこでも乗降可能ですが、電動式ドアーバスは信号待ちでも運転手がドアーを開け、大概は降ろしてくれます。停留所で降りる場合はそのちょっと手前でブザーを押さねばなりません。そこで一緒に数人の乗客も降りました。

「寺の門入ったら纏いを右肩出し(ロットライ)にせなアカンのや!」といきなり言う藤川さん。私は時間が掛かるので面倒なところ、なぜかいつも気が付いて助けてくれる人が現れます。ここでも通りがかりのオジサンが慣れた手付きで手伝ってくれました。そんな困った新米比丘を助けるのもタンブンなのでしょう。

◆続く藤川さんの忠告!

寺のクティに帰って水浴びして、藤川さんと12時ぐらいまで横になって話していました。

私が借金してタイに来ていることを薄々知っている藤川さんは、
「お前は来年、年収500万円無いと今の仕事やっとる意味無いぞ!」
「今、親が死んだら葬式出せるか?」と耳の痛いことを言います。

藤川さんは中学1年生の頃、盲腸炎で苦しんだ時、父親が腕組んで悩んでいたと言います。

医者が父親に手術する承諾を求めているのに、「金無いからなあ~」の繰り返し。医者は呆れ怒り手術の手配に踏み切ったという。「父親は毎日酒喰らって暴れて“アル中”と言われる日々で、全く金無かったからな」と言う藤川さん。

「だから俺は自分の娘が骨折した時、金かき集めて女房に“金の心配はするな”と言うた。父親として責任あると思うたからな」
「父親と母親と兄弟末っ子の3回あった葬式はみなワシが出した。兄弟末っ子の健が自殺した時は兄弟6人も居って、誰もそれまでに健が苦しんでいたことに気が付いてやれんかった。母親がボケてて“健ちゃんに頼っていた”と聞くし、それらが辛かったな」

そして私に「結局は金や!」と言い、
「1000万円稼ぐ奴より2000万円稼ぐ奴の方が甲斐性あるんやぞ!」と言う藤川さん。
決して「金があれば何でも出来る、何でも買える、女も自由にヤレる、そんな好き勝手な人生を送れる」と言っているのではない。バブル期に地上げ屋やって、そう思って生きてきた藤川さんが、人間はどこまでいっても欲が尽きないことに気付き、幸せとは何か、一時出家前に疑問に思い、愚かな我が身に気付いて、改めて再出家に至っている現在でした。

独身でも30歳越えた男が、結婚して妻子を養う甲斐性はあって当たり前。だから「金持ちになれ」ではなく、「甲斐性ある人間になれ」とだけ言いたい藤川さんなのでした。

藤川さんは散々喋っておいて、「もう寝よか!」と言って電気を消されました。
「私の人生は甘いなあ」と思える対称的な藤川さんの人生。バスのブザー押したぐらいで怒っている私の心の狭いこと。そこまで考えるに至る前に、疲れて眠りに着いてしまいました。明日はまた世間知らずの居るペッブリーの寺へ帰ります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

バスを降りる藤川さん(イメージ写真)

バンコク行きは、俗人時代とは違った街の風景が見えてきます。出会う人や藤川さんの態度。そしてラオス行きの“未知との遭遇”が迫ってくる現実にはまだ早いも、その準備に緊張感が増していきます。

◆初外泊・出発の朝!

バンコクに向かう14日の朝は、いつもどおりに托鉢を終えて、使ったばかりのバーツ(鉢)を底面が開く大きい頭陀袋にセットしていると、予定時刻より早く「オイ、行くぞ!」と藤川さんが叫び慌てさせられ、まだ他の比丘が托鉢から帰って来る姿を見ながらの出発。

「どこ行くの!何しに行くの?」と呼び止める仲間に「ちょっとバンコクへ!」と応えながらバスターミナルに向かい、寺に来た時と同じ青い高速エアコンバスで8時ちょうど発に乗車。運賃は100バーツ。比丘は2割引になります。比丘は専用席となる運転席の後ろ。車掌さんは比較的若い美人。スタイルも比較的綺麗。“比較的”と言うのは、そんなベッピンさんはほとんど居ませんが、バンコクのボロく安い市内バスは、とんでもないデブやオバサン車掌が多い中、市内エアコンバスや長距離高速バスには、綺麗どころが比較的多いということです。

バンコクを歩く藤川さん(イメージ写真)

窓側で堂々と股開き気味に座る藤川さんは相変わらず何も話さない姿勢で、なるべくこんなジジィとくっ付きたくないので少々離れようとすると私の座り方はより窮屈になります。でも目の前の運転席との敷居となる車掌席に座ったり立ったりの車掌さんの“比較的”魅力的なお尻が視界に入り避けつつチラ見。ムラムラする気分。脳から振り払うことなかなか難しい。

◆久々のバンコク!

2時間かけて、かつて通ったサイタイマイバスターミナルに到着すると、「知り合いが車で迎えに来るんや!」と突然言う藤川さん。「何? いきなり!」と思うが、今日1日お手伝いしてくれるらしく、我々だけで移動するよりは心強い。

そして10時30分頃、佐藤という30代ほどの綺麗な女性と運転手の若い男性が車でやって来ました。バンコクの日本長期信用銀行に勤務している藤川さんの知人の奥さんと助手のタンくんで、また藤川さんの思惑にはまった犠牲者(と思った私)でした。

佐藤夫人とはお互い日本人なので御挨拶を済ませ、ここから藤川さんの用で、スリウォン通りに向かいます。車中、藤川さんは本領発揮、よく喋り、私を無視してきた日々と正反対に舌好調。佐藤夫人も優しく陽気な方で調子を合わせてくれていました、まだこの頃は。

パッポン通り入口(イメージ写真)

そしてスリウォン通りに入ると有名な歓楽街、パッポンの前で降り、車を駐車場に止めに行っている間、我々はかつて遊んだパッポン通りの入口で待ちます。比丘がこんなところで“立ちんぼ”なんて何とも恥ずかしい。

◆昼食はタンブン(寄進)された寿司!

藤川さんの幾つかの用は、郵便局へ行って郵便出し、バンコク銀行でお金を下すこと、タイ航空事務所へ行って、藤川さんが25日頃行く予定というナコンパノム行きチケットを購入。郵便出しは佐藤さんに任せ、その間にバンコク銀行へ。そこでは警備員さんが親切に優先的に窓口に誘導してくれて早く終わる有難さ。

その後、佐藤夫人に昼食に誘われた先は日本の座敷風の寿司屋。握り寿司、ロールキャベツ、鯖の味噌煮、最後にデザート。私や春原さんが藤川さんに捧げたように運転手のタンくんが私に料理を手渡してくれます。佐藤夫人は藤川さんが敷いた“パー・プラケーン”という黄色い布の上に置いて貰い、女性からは間接的に受け取ります。毎度の食事前の儀式です。

朝は食べてないからお腹は空いていました。久々に食べる寿司は美味しく、屋台のぶっ掛け御飯でいいのに、日本料理に招待してくれたのは日本人としての気遣いだったのでしょう。

ここは佐藤夫人のタンブン。藤川さんの知り合いというだけで私はタダ食いである。比丘は御礼を言う必要は無いが、日本人として御礼は言いたい気持ちが残ります。

パッポン通り、昼間でも比丘が歩くのは不自然。夜はネオン輝く賑やかさ(イメージ写真)

◆ラオス行き最初の準備!

その後、ルンピニースタジアム近くの旅行代理店へ向かって、ラオスビザ取得を依頼。一人1500バーツ(約7500円)。ビザは単なる観光ビザだが大丈夫なのか。でも前に聞いたとおり、難しい申請は代理店が問題無くやってくれるらしい。パスポートと写真預けると「28日に仕上がります」と言われ、「本当にビザ取れるのか?この代理店大丈夫か?」という不安は残るも藤川さんは使い慣れていて疑う様子は無い。

そして次はフアランポーン駅(バンコク中央駅)へ向かうはずも、その前にマーブンクローン(東急デパート共同)へ向かいます。

それは「携帯電話のバッテリー買うて来てくれへん?」と突然進路変更を頼んだ藤川さん。佐藤さんは一瞬間を置いて「いいですよ~!」と優しく応えてくれたものの、この一瞬の間が「この人相当疲れているぞ」と私は感じたのです。ここまで引っ張り回されるとは思わなかったでしょう。何から何まで頼む藤川さん。「ちょっとは遠慮しろよ!」と怒りすら感じるところでした。

比丘はデパートの中は入れないので、佐藤さんとタンくんが買いに向かい、我々は車の中で待ち、今日はいっぱい喋ってストレスが発散したのか、藤川さんとは40分ぐらい寺での若い比丘らのことを、以前のような笑いある表情で会話が続きました。出家してから初めて心晴れる会話でした。

この後、最後の大きな仕事、ラオス国境のノンカイ行きの切符を購入。過去何度か行ったバンコク中央駅も迷う構内。でも頻繁に旅に出る藤川さんはサッサと事務所のような方へ入って行き、ここでも比丘パワー発揮し、優先的に扱って貰えました。ノンカイへ12月10日出発で12月20日帰りの寝台列車の往復切符。寝台上段は208+208=416バーツ。下段は238+238=476バーツ。合計416+476=892バーツ。500バーツずつ出し、私が1000バーツ紙幣で払って、おつりを小銭で8バーツ貰って車に戻りました。さて、おつりが100バーツ足りないこと気付く。

藤川さん「お前、頭悪いなあ、1000から892引いたら幾つやあ?」とまた自信満々にボロクソに言い出す。
私「108です!」と言うと
藤川さん「何でやぁ~、8やろぉ・・・! あ、そうか108か!」
私「だから最初から108だと言ってるだろうが! 俺の頭悪いせいにしやがって!!」と、逆切れしてしまいました。心通じる会話の後で、私もちょっと調子に乗ってしまったか。私も釣銭を深く考えず受取り「しまったやられた!」と思うも駅員さんも勘違いだったでしょう。

◆負担掛け過ぎのタンブン!

最後の目的地、17時ぐらいにスクンビット通りのワット・タートゥトーンへ向かって貰うと、佐藤さんも「これでやっと帰れるわ~!」とホッとしたことでしょう。バンコクの街を1日動けば結構疲れるのです。

寺の門を潜って、ここで車を降り、佐藤夫人には日本人として御礼は言い、タンくんにはタイ語で「ポップカンマイナ!」と再会を願う言葉を掛け、「本当に御苦労様。こんな苦労はもうしないように、また藤川さんに頼まれたらウソついて断ってください」と小声で訴えお別れとなりました。

この日の何ヶ所も引っ張り回された苦労に佐藤夫人へ何の報酬もありません。私は釈然としない罪を感じ、巣鴨で出会ったミャンマーの留学生にタンブンされたように、またこの世に返す恩を増やしてしまいました。でも自分に何が出来るだろうか。
この後、初外泊となるワット・タートゥトーンのお坊さんに挨拶に向かいます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

賑やかにやって来た寄進者のお祭り行列

ビザ問題に突入していく中、ラオス行きが浮上、カティン祭が終わり、仲間の還俗も現れました。

◆カティン祭!

午前中、寺に得度式(私以外)の参列者のように、楽器吹奏隊と共に寄進者が踊ってやって来ました。聞いていたとおり、クリスマスツリーのような飾り木にお金(紙幣)を貼り付け、派手な衣装の女性たち中心に信者さんが本堂を回る行進。若い比丘達は私に「女の子撮れ!」と言う。今私はカメラマンではないが、本能的に出来るだけ接近しようと考えてしまいます。やはり今の立場としては無理があり、適当に撮るだけでも仕方ないところでした。

撮影を頼まれて集まった美女軍団

寄進された黄色い包みはこんな感じ(撮影は2017年のもの)

和尚さんとお話に来た常連の信者さんたち、皆、横座りです

お札のツリーを抱える美女

「あの木のお金、これだけあったらバンコクでどれだけ遊べるだろう」と考える比丘として不謹慎な私。

この賑やかな外から比丘は全員、クティに移動、昼食を含め、ホー・スワットモン(読経の場)に居ること多い1日。タイでは横座りが正座とされる座り方で、足を組み替えることは出来てもこれが長いとやっぱり足が痺れます。この祭りの読経は所々間が空くところはあるも1時間以上続き、唱えられない私は合掌を続けるのみ。

ところが足痺れよりキツイのが眠気。読経が子守唄となっています。舌噛んで堪えるも、足の痺れより眠気が勝ってしまうのだから、これこそ必死に堪える修行。長い読経が終わると信者さんは和尚さんのもとで身の上話をする者と徐々に帰る者、我々はイベントスタッフのような大道具・小道具の片付けをして、ようやく長い1日が終了……と思ったら、夜には本堂で、これまでの総合的な懺悔の儀式があり、また長い読経と和尚さんの説法が続きました。天井高い本堂で大勢の読経が響くと夜では不気味な響きがあります。やると思っていた二人組んでの懺悔の儀式は無く、出来ない私はホッとするところ。

藤川さんは一時僧時代に巡礼先の寺で、二人組んでの懺悔の儀式を突然やらされても出来ず、その場で教わってこなして、更に1日で覚えきって翌日にはちゃんとこなしたことがあるそうで、私がそこまで追い詰められることなく済んだのは、この寺の緩さなのでしょう。

◆ラオス行きが視野に!

観光ビザ延長申請に、もし滞在日数が残り3日しか無い状態で入国管理局に行って、延長を認めらなかった場合、唖然と途方に暮れるところだったでしょう。

改めてノンイミグレントビザ(留学)を取ることになったので、得度した寺の証明や、比丘であることを証明する、サンガ(僧組織)から認可を貰わなければなりません。

藤川さんにビザ問題を指摘された時点で日数には充分余裕があったので、選択肢がいろいろありました。還俗も一つの手段。「もう辞めたい」と弱気になっていたところで、藤川さんから「ラオスへ行くぞ!」と提案されました。

「マレーシアはイスラム教の多い国、仏教の寺は無いから、寺に泊まることも托鉢も出来ん。ラオスはタイと同じ仏教国やからラオスに行こう。社会主義国の仏教を見ておくのも勉強になるぞ。ただ、ラオスに入るにもビザが要るけど、バンコクのラオス領事館行ってビザ下りんかったら厄介やからな、面倒な手続きやってくれる旅行代理店に頼むから、来週バンコク行くぞ、アーチャーン(和尚)は“ハルキを3ヶ月は寺から外(外泊)に出すな”と言うとったけど、ビザ取らないかんのやから、しっかり言うとけよ!」と、私のビザ問題だから私が言うのは当然のところ、ちょっと和尚さんには言い難い相談でした。

これまで藤川さんは私を無視していたが無関心ではなかった。そしてラオスを視野に「もうちょっと頑張ろう!」と再度気合いを入れるのでした。

寄進者の方々でクティ内はいっぱいに

比丘尼と言われる尼さんたちも、タイ国家では未公認ながらしっかり根付いています

◆気難しい和尚さんの許可は!

暇な時間、街には一人で何度か出向いていました。撮影した証明写真を受け取りに、郵便を出しに、フィルム現像とプリント注文に。証明写真はケーオさんに渡し、比丘達を撮った写真は、なかなか撮られる機会が無いタイ人だけに、かなり喜ばれ、カメラ効果を発揮する私の存在でした。手紙は春原さんや、得度したことを知る友達に送っていました。

カティン祭が終わって2日後、洗濯しようと葬儀場近くの水汲み場に行くと、ワイシャツにジーパン姿の若者が先に黄衣を洗濯していました。誰かと思えば昨日まで黄衣纏っていたクンペーンくん(画像の青年)ではないか、還俗したんだ。何か自由の身になっている姿に羨ましくなりました。

そこへケーオさんが記載が済んだ比丘手帳を我々の分2冊持って現れ、「和尚のところへ行ってサイン貰って来い!」と言われました。早速、和尚さんの前に“二人”で行ってクンペーンくんは御丁寧に三拝しますが、私はいきなり本題へ。

「来週、バンコクに行かせてください……。タイに滞在するビザを取る為に、ラオスに行かねばなりません……なので、提出書類として必要なので、比丘証明書(手帳)にサインください!」。藤川さんに言われたことを回りくどく話し、「バンコクに行かせてください……」と言った後はあまり正確に伝わっていないような中、「ダーイ(いいよ)!」といとも簡単な許可。和尚さんは私がお願いすることはいつも簡単に「ダーイ!」ばかりでした。出家願いも「ダーイ!」、「写真屋行って来ます」と言っても「ダーイ(行って来い)」、「郵便出して来ます」と言えば「ダーイ(出して来い)」。

和尚さんから見れば、日本の観光客で信仰心も無いと見えた私はたいした存在ではなく、修行者であるべき藤川さんが頻繁に遠出願いに出ることには「こいつ、遊びに行ってるな?」と胡散臭く思っているような気がしてきました。

右が還俗前のクンペーンくん

手前の私服の男性は還俗したばかり、私は彼の黄衣姿を知りません

還俗したクンペーンくん、黄衣は洗って寺に帰します(サンガに戻す)(1994.11.7)

◆比丘手帳完成!

和尚さんのサインを貰うと今度は「ワット・ヨームに行け!」と言うケーオさん。この地域を代表する高僧の居る寺で、サンガの認可を貰ってこそ、比丘証明書(手帳)は完成となります。クンペーンくんは寺に乗って来ていたバイクで、私に「後ろに乗れ!」と言う。

私は「待て、俺は黄衣纏うのに時間掛かるんだ、ゴメン!」と言うとサッサと私に纏い付けてくれたクンペーンくん。さすがに速かった。そして、「腕から肩はここをこう締めるんだ!」と黄衣を掴みながらアドバイスしてくれ、よりコツが分かった気がしました。しっかり纏えば左腕はキツメの長袖ワイシャツ着たように肩から袖までがしっかり締まるのだ。「黄衣なんかクルクル丸めて巻き付けるだけや!」と藤川さんが言っていた意味が改めて分かる気持ち。

行った先のヨーム寺で、ここはクンペーンくんと共に私も高僧和尚さんの前でしっかり三拝。後はクンペーンくんが御丁寧にお願いしてくれて、手帳に貼られた証明写真の上に、このお寺のハンコが押され、この和尚さんのサインがされて、昔のパスポートのように、何とも頼りない感じはするものの、正式な比丘身分証明書完成となりました。クンペーンくんは試験の成績良かったのか、他の者より授かる証明証類が多いようで、還俗後の受取りになったようでした。

そして11月半ば、バンコクに向かう日がやって来ました。托鉢を済ませた後、藤川さん行きつけのバンコクの寺に泊まる準備をして出発します。それは初めての外泊。当然、托鉢の準備もして行きます。この黄衣を纏って歩くバンコクの街が楽しみでした。

一緒に修行した仲間と収まるクンペーンくん(1994.11.7)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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