背格好だけ違って皆同じに見える比丘の顔触れから、遠慮なく本音で喋る時期に入り、仲良い奴にも癖があり、性格悪そうな奴にも賢い判断がある、そんな自然な振舞いがいろいろな場面で見えて来ました。

ベテランのアムヌアイさんは三輪自転車トゥクトゥクの運ちゃんと雑談(1994.11.22)

◆春原さんからの激励

11月18日、春原さんから得度式で撮って貰った写真が届きました。中の手紙には大きな字で、「ワッハッハッハ、何を弱気な!」

出家した間もない頃、「藤川ジジィが無視しやがって」とか「黄衣の纏いが下手糞過ぎて托鉢中に解けそうになって情けない、もう辞めたい」など心境を愚痴を溢して書いた春原さんへの手紙の返事がこれでした。

「誰も真似できないような仏門に自ら飛び込み、日々の苦労はあっても坊主修行を続けている姿に、私は情けないとは思いません」

「もう慣れている頃だと思うので、何も心配していませんが、頑張って話題豊富な修行を送ってください。期待しています」と呑気なことを書いて寄こしやがって。

でもこんな手紙に背中を押されるような元気を貰いました。ボクサーが真のファンに「応援してるよ、頑張って!」と励まされるのは、こんな涙が出るほど嬉しい心境なのかと思います。

皆の写っている写真をそれぞれに渡すと、やっぱり笑顔で受け取ってくれて大変喜ばれました。和尚さんも性格の悪い奴も、ブンくんもコップくんもみんな見せ合って笑う賑やかさ。それは小学校の頃に、年度末に撮った学級集合写真を貰ってみんなで笑って見ているような光景でした。

◆寺の内側で起きている個性的な比丘らのこと

ちょっと悪賢いヒベ(左)、すでに還俗したインド(右)(1994.11.5)

ヒベという奴は普段から不良ぽく、卑猥な言葉らしい“ヒベ”を連発して言っていたので、品の無いこいつを「ヒベ」とちょっとだけ小声で呼んでやりました。

性格は優しいがヒベ並みに品の無い奴がパノムという奴。
「オーイ、ハルキ!“オメ○”って何だ? キヨヒロ(藤川さん)から聞いたんだけど!」と、庭でデッカイ声で呼びやがる。

「それは“ヒー”のことだよ。日本語では“オ○ンコ”って言うんだ」と言ってやったら、更にデッカイ声で「オマ○コ!」よ呼びやがる。

「みっともないからやめろ!」と言っても、「マイペンライ!タイ人しか居ないから、誰も分からない!」・・・!?

パノム(左)、ティック(中央)、ルース(右)。この3名もやがて還俗します(1994.11.5)

近くには山の上にナコーン・キーリーというケーブルカーで上がる観光地がある。この辺を日本人女性が歩く可能性もあるから止めて欲しかった。

初めてタイに来た日本人女性が、神聖なるお寺のお坊さんから“オマン○”なんて聞こえたら、タイ・テーラワーダ仏教の権威が崩れるではないか。

更にパノムは夜遅くに「腹減った、ラーメン無いか?」と私の部屋にやって来たことがある。

「オイ、今食うんじゃないだろうな、明日の朝食えよ!」と言って托鉢でサイバーツされたカップ麺を渡すと、隠すように持っていったパノム。夜食ったら戒律違反である。比丘の中にはこういう体たらくな奴も居るのかと思う。ケーオさんは心が病んでいるようだ。

藤川さんにこの寺を紹介したのがバンコクにいる知り合い弁護士で、この方の末弟に当たるのがケーオさんらしく、他の兄弟と違い、複雑な思春期を過ごしたケーオさんはちょっと問題あって、お坊さんにでもさせておくしかない事情の下、この寺で出家させたという、藤川さんは元から縁あるお坊さんなのでした。

話せば面白い奴で頭も良い。機械イジリが好きで和尚さん所有の車をメンテナンスしたり、秘書的存在でタイプライターで文字を打っていることも多いケーオさん。私もストロボが発光しなくなった時、こんなタイの田舎の寺に居ては修理は無理と諦めていたところ、ケーオさんが「ちょっと貸してみい!」と持って行ったら翌日までにしっかり直して、ちゃんと撮影に同調する問題無い修理をしてくれた、器用な人なのである。

アムヌアイさんは誰もやらない3K仕事をやる真面目な優しい奴。これも藤川さんから聞いた印象で、「毎日、牛の糞を捨てに平気で運んどるが、ケーオのような要領の良さは無いな。仕事は何でも出来そうやが鈍感なタイプやな」

「メーオは、学の無い奴で還俗しても他に就職先なんか無いやろうな。ペッブリーから出たことも無いらしいし、坊主やっとるしかないんちゃうか!」
当たらずと雖も遠からずの藤川さんの意見でありました。

ズル賢いケーオさん(左)、ワット・マハタートの高僧(中央)、やがて還俗するブイ(右)(1994.11.27)

◆比丘達の試験!

21日の午後はペッブリー県でいちばん大きい寺のワット・マハタートへ皆が試験に行った様子。新人僧はパンサー明けに全国の寺で行なわれる仏教試験を受けることが義務付けられており、合格すると初めて一人前の比丘となるそうである。

翌22日も試験。疲れた表情で帰って来る仲間達。「難しかった」「たぶん落ちた」と言う奴が多い。古い比丘や藤川さんは試験は無い。私はパンサー経験無い上、新入りなので、全く声は掛からず。

試験に向かうティック(左)、ブン(中央)、テーク(右)(1994.11.22)

◆初めての一人托鉢!

26日は一人托鉢。昨日から藤川さんはナコンパノムへ旅立っています。何しに行ったのかは分からない。普段から寺では話さないから仕方ない。

いつも最後に立ち寄る砂利路地で、御飯と惣菜の他、お菓子を必ず入れてくれるおばさんに英語で声掛けられ、私がタイ語でたどたどしく応えるので、日本人と知られてしまう。するとその向かいの家の、身体に障害があって手が震えるオジサンに、
「このお坊さんも日本人なんだってさあ!」と教えてしまう始末。藤川さんを日本人と知っているのに、私も日本人だと今迄知らなかったのかなと意外に思う。

お菓子おばさんには「いつ還俗するの? もう一僧はどうしたの?どうして比丘になったの?」と聞かれても、適当に都合のいい返答しつつ、気さくな会話が出来る仲となれました。オジサンの家には年頃の綺麗な娘さんが2人居て、日々入れ替わり出て来ること多い中、この日は後から娘さん2人とも出て来て、その娘さんにも伝えてしまうお菓子おばさん。短パン姿で、太ももが綺麗でつい見て見ぬフリをしてしまう。もう下手な黄衣の纏いも痛い石コロも忘れてしまう、こんな楽しい托鉢でいいのだろうか。

ここに来るまでにも結構声掛けられ、別の路地で、元横綱琴桜に似たおばさんにも「今日はひとりなの?いつまで比丘やるの?還俗したら何やるの?」と聞かれたり、目が合えば微笑んでくれるオバサンも居て、普段は眼力ある藤川では声掛け難いのか、私一人の今日はちょっとした人気者でした。

こんな日が29日朝まで続き、ようやく帰ってきた藤川さん。翌日にまた二人托鉢になると、途端に以前どおりの無言の托鉢に戻りました。

◆ラオス行きの最終準備

藤川さんはどこへ行くにもバンコクを経由することになるので、先日の旅行代理店に立ち寄り、預けてあるパスポートを受け取っています。そのラオス行きのビザが取れたパスポート差し出されて、「あと300バーツや!」と言う。

「300バーツぐらい奢れよ、日本でどれだけ奢ってやったことか!」と思うが、行って来てくれたのだから仕方ないか。

ラオスに行く日までに、まだ準備しなければならない、和尚さんのサインが要る申請書類の作成の為、和尚さんに相談しなければならないことが幾つかありました。またいつもの調子で「ダーイ!」と言ってくれるでしょうか。

煙突は火葬で使われます。叫べば結構響く境内(1994.11.22)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

デーンの頭を剃るラス、眺めるトゥム。剃髪は互いに剃り合うコミュニケーションの場でもあります

寺に戻ってまた続く修行の日々。と言っても修行とは程遠い、単なるノラリクラリと送るお坊さん生活でありました。

◆托鉢も楽しい!?

今日も藤川さんの後について托鉢が始まる。1件目の信者さんは初めて出会う17歳ぐらいで凄く可愛い女の子。例えればアグネス・ラムのような。向かい合うともう手の届きそうな近い距離。比丘の身分でウキウキ気分になってしまう。なんと不謹慎な。もちろん顔には出さない。日々出会う信者さんの顔触れも覚え、こんな邪念が頭を過ぎるほど余裕が出て来た私。

坊主仲間だったインドくん(私が勝手に付けた名前、インド人みたいな顔)がバイクでスレ違う。「こいつも還俗したんだ」と気付く。しばらくしてそのインドくんが先の道で待ち構えていて寄進する側となっていました。ニコッと笑ってやると、「ハルキはいつ還俗するの?」と言われ、「とりあえず年明けまで!」と言うとニコッとワイ(合掌)を返してくれました。

◆衝撃の遺体

今日も暇な日で、この日は私の得度式前日に剃髪してくれたアムヌアイさんに付いてちょっと賢い上品グループに加わってみました。彼らもやること無い日は、溜まり場となる本堂脇のベンチでコップくんらも集まり井戸端会議。そこにはガキっぽい話は無く、どことなく大人の会話を感じる比丘達。

やがてアムヌアイさんは寺に入って来た霊柩車を葬儀場脇の霊安室へ誘導。付いて行くと、遺体置き場の冷凍室から一体運ばれて行きました。初めて見た遺体。紫色のコチンコチンに固まったマネキン人形のようでした。こんな姿になったら人も牛も豚も大差は無く、単なる肉塊。ここに至るまでの、この人の人生はどんなだったろうとフッと考えてしまう。この遺体は他の寺で火葬されるようでした。

少々自分で剃ってみるルースくん

◆満月の前日

明日は満月の日で、その前日は剃髪する日と決められています。決まった儀式として、全員読経して静粛にやるのかと思っていたら、夕方4時半過ぎから賑やかに、笑いもこぼれながら水場のあるところなら、あっちこっちで始まりました。私は得度式の前の日に剃髪して貰ってから半月あまり経った頃。他のみんなはほぼ一ヶ月である。私は撮影目的を持ってクティ下で、こんな時だけあつかましくも「先にやってくれ」と名乗り出ました。普段、言葉や態度が悪く、性格悪いなあと思っていたヒベという奴が意外と快くやってくれるも、私の頭はデコボコでやり難いのか、すぐにパンサー3年目のベテラン、ラスくんに代わり最後までやってくれました。やっぱり上手い奴の剃り味は気持ちいいモンである。私はあと何回剃髪するのだろうか。

私は終わるとサッと水浴びしてカメラを持ち、比丘は走ってはいけないのに突っ走り、葬儀場の方でも和気藹々と剃髪が進む中、ブンくんやコップくんらがやっていたので撮ろうとすると和尚さんが「みっともないところを撮るな!」と叱られてしまいました。

「何がみっともないのか」と、そこは日本人感覚で文句言いたくもなるも、黄衣を纏っていない姿は“みっともない”と言う解釈もあるでしょう。和尚さんの言うことでもあるし、そこは大人しく引き下がっておいて、クティ下に戻って他の者をしっかり撮り終えました。これこそ旅の思い出。今撮っておかねば後で絶対後悔する。ブンくんらは撮れなかったが次の機会を狙おう。それにしても誰も嫌がらなかったではないか。比丘として間違っているかもしれないが、時折カメラマン意識に戻ってしまいます。

今日の“調髪”はほぼタダ。カミソリ代のみ。もちろん皆、エイズ感染防止策で使い回しはしません。

他の比丘にいたずらされたパノムの頭を剃るラス。和尚さん居ないところで、こんな姿にすることもあり

新しい仏塔完成行事で参列した後、カメラを向けるとキチンと立つケーオさん(左)とアムヌアイさん(右)。皆の兄貴的存在の二人

◆いつか我が身も、最後の送り出し

この翌日の午前中にまた葬儀の準備に行かされると、葬儀する遺体が股間にガーゼを当てた程度の裸で置かれていました。本物の遺体、40歳ぐらいの刺青しているオッサン。ピストルで撃たれたようでした。親族が入れ替わり見に来る。小さい5歳ぐらいの女の子が笑いながら遺体を覗いたり、母親らしき人の間をスキップ気味に行ったり来たり、それがやがて事態を把握したのか本気で泣き出してしまいました。ピストルで撃たれた胸と貫通した背中の傷を縫っている検視官? 側頭部にも傷がありました。寝ているような、すぐ起き上がりそうな遺体。私はそんな遺体をしばらく眺めていました。ほんの2~3日前まで普通の生活をしていただろうに、ほんの数秒の出来事でこんな姿になってしまうです。

以前、藤川さんから頂いた手紙に、「葬式では歳取った自然死が少なく、事故で亡くなられた方が多いのです。交通事故、水の事故、殺人など。ピストルで撃たれた遺体もあり、身元不明で葬式ができない遺体もあります。お釈迦様の無常の教えが実感として分かってきます。本当に真実は今この瞬間だけ、それ故今この一瞬一瞬を大事に生きていくしか確かなことはないのです。」

そんな遺体が置かれた葬儀場に親族の方がリポビタンDを持って来て比丘に配ってくれました。見てるだけでくれるなんて恐縮でした。そんな場でちょっと麻痺していた認識。“くれる”のではなく、これもタンブンです。

葬儀後、藤川さんが、「今日の葬儀はいつもとちょっと違った殺伐とした雰囲気やったねえ、何で死んだか聞いたか?、警察に賭博の現場見つかって逃げて、追われて胸撃たれてもまだ意識あって、自分のピストルで頭撃って自決したんや!」と言う。タイでは法規制はあれど、個人でピストルを持てる国なのです。噂だけでなく、実際に発砲事件が多いことでそれが証明されている現実でした。

葬儀後、親族がお布施を配りにやって来ました。私は内心、「毎度あり~」といった気分でしたが、すぐに藤川さんの言葉を思い出しました。

「坊主がお金を受け取る時は、あっさりと当たり前のように受け取るもんや。坊主が葬式に行って『毎度ありがとうございます。また宜しくお願いします』など言って、お布施を受け取ってみい、殺されるぞ(例えの表現)! お布施とは何となく差し出し、何となく受け取るもんや。間違っても『ありがとう』なんて言うなよ。知らない顔して当たり前のように受け取れよ、その方が有難味があるんやから!」
お布施といった徳を積む行為に応えることはそういうものなのです。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)

◆諸行無常を実感

これも過去、藤川さんに説かれた言葉で、
「明日は必ずやってくるモンか?各々に“必ずやって来る”とは言えんのとちゃうか?平和な日常でも、明日もこの命があるとは限らへんのやからな!」

そんな話を聞きながら、その時は漠然とその意味を理解していました。

先日の冷凍された遺体といい、今日の葬儀の遺体といい、死因は何にせよ、日々人は死んでいくもので、来世へ最後の送り出しをするのがお寺の役目。一方で、日々新しい命が産まれている。

順々に我が身も送られる日が近づいている。諸行無常の教えが実感として分かってくるのがお寺に暮らす我々比丘なのでした。

これまでノラリクラリ無駄な日々を送ってきたことは勿体無いこと。今やるべきことを先延ばしせず今やらねば。日本に帰ったら無駄の無い日々を送れるだろうか。三日坊主の私に──。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)。当然、ベテラン比丘が前に並びます。要請される人数によっては他の寺から呼ばれたり、我々も向かったりします

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

藤川さんとは比丘になって初のツーショット

◆外泊先の朝

バンコクでの用は簡単に済んだのに藤川さんのついでの用が多いこと。

初外泊先のワット・タートゥトーンで目覚めると、いつもの習慣のせいか、まだ5時ぐらい。その後あまり眠れない。

起きてから藤川さんに言われたのは、
「お前、鼾(いびき)凄いな、寝て5分程で鼾搔いてたぞ、お陰で眠れんかった!」と言われ、初めて鼾を指摘された、高校1年の入学早々の研修先での同級生の同じ苦情を思い出しました。親父も鼾が凄かったので、私も同じなのだろうと思い、他所の家には極力泊まらないようにしていたのです。

底が開くようになっている頭陀袋とバーツ(鉢)

「托鉢は行かなくていいよ」と昨日このクティに泊めてくれた偉いお坊さんに言われていたので、ゆっくり過ごし、藤川さんと部屋の掃除だけ二人でやりました。

その托鉢に行っていないので、朝食は呼ばれない覚悟もしたところ、8時頃、この寺の比丘数名から「オーイ、こっち来て!」と声が掛かりました。ここの寺の比丘はウチの寺の倍ぐらい多いが、食事は同じような雰囲気で、食材も多く「遠慮は要らないよ」と他所から来た者を差別することもなく、グループが幾つかに分かれ皆で輪を囲む食事でした。

食事後は出発準備して、このクティのデックワットに鍵を返して寺を出ました。昨日の偉いお坊さんには会うことなく、そこは藤川さんが「分かっとるから気にせんでいい」と言うまで。さすがにいつものお泊りパターンの様子。滞在時間は短かい中、新鮮な味わいがあった寺でした。

◆またも寄り道──ソー・ソー・トー(泰日経済技術振興協会)を訪ねる

バーツに頭陀袋を被せるとこんなショルダーバッグ風になります

また市内バスに乗るも、そのまま帰る訳でなく、藤川さんが目指すスクンビット通りソイ29で降り、ソー・ソー・トー(泰日経済技術振興協会)に寄り道しました。
「カンチャナ先生に会いに行くんや!」とは聞いていましたが、日本人会の主婦らしい女性が7名ほどに迎え入れてくれました。

話し合いは、日本人会として、タイに住む日本人各々が抱える社会問題を語り合うパーティーに、藤川さんの人生経験値と比丘としての意見を語って頂きたいというもので、「今後、度々あるパーティーに藤川さんを招く場合の配慮」について話していましたが、私は関係ないので、ただ側で聞いているだけ。

ニーモン(他所へ招いての寄進・喜捨)として招かれるなど、如何なる場合も戒律は守るのは当たり前で、午後は食事は摂れません。

「どう言うたらいいやろなあ!」と頭搔きながら悩む藤川さん。藤川さんは内心行きたがる。女性たちは“比丘を誘い難い”が藤川さんには来て欲しい。しかし食事を伴うので朝しか招待できない。でもパーティーは午後でなければ皆さんの都合が悪い。

「食事などの接待はしなくていいから」と言っても誘う方は気を使うものでしょう。

藤川さんの説法が、日本人会の皆さんの救いになるならば、比丘としての役目は果たします。しかし、こんなところがウチの寺の和尚さんからみれば、“遊びに行っている”と映るのかもしれません。

1時間程の結論出ない会話の後、皆さんそれぞれの主婦業等がある為、我々も御挨拶して此処を出ました。

◆またもタカリ!

時間はお昼前11時頃、外に出て「さて昼飯どうしようか、食わんとこうか、面倒臭いし!」と言う藤川さん。

私もガツガツ食い意地張りたくないので「そうしましょうかあ」と力無く言うと、それを読んだか、「そや、町田さんに飯食わせて貰おう!」と言ってソイ27の昨日の町田さんのところへ向かうことに。

ロビーの女性に町田さんを呼んで貰うと、町田さんは仕事があるので、昨日一緒に居た小林さんが連れて行ってくれることになりました。

私は「また迷惑かけるなあ」と思いつつも、温厚な小林さんは嫌な顔することなく、逆に喜んでホイホイと近くのレストランへ誘ってくれました。11時20分頃、カオパット(炒飯)、トムヤムスープ、カイチアオ(卵焼き)を注文され、12時回る前にアイスクリームまで出される豪華さ。腹減った時に“食う物無い”とか、“食ってはいけない”というのは本当に苦しいもので、この日は我々から「飯食わしてくれへんか?」と実質の“タカリ”に行っているようなもので、私としては申し訳ない気持ちは大きいところでした。

メガネのフレームがガタつくのでネジ修理を頼んだ藤川さんは、こんな感じ(イメージ画像、3月に撮った時計の修理です)

タンブンしてくれた小林さんはタイ生活が長く、「ワシは3日に1回ぐらい正露丸飲んでるよ!タイで日々屋台で飯食ってたら何食わされているか分からんからな、寄生虫発生の恐れもあるから飲んでおいた方がいいよ!」という、私も過去、長くタイに居ながらはあまり深く考えなかった有難い忠告。

食事後は藤川さんのガタつくメガネのフレーム修理をメガネ屋へ寄って頼むと、此処もお店側のタンブンで無料。何から何までタンブン尽くし。この後、小林さんにバス停まで見送られて、また市内バスでサイタイマイバスターミナルへ向かい、寺入りした日と同じ、ペッブリー行き高速バスで寺へ帰りました。

◆バンコクは楽しかった!

バンコクに居た間に藤川さんに言われた、ウチの寺の若い比丘の程度低い連中のこと思うと、こんな馬鹿どもと付き合うのが馬鹿馬鹿しくなる自分も馬鹿な私。門まで辿り着くと何となく虚しい気持ち。

そんな仲間の一人メーオくんがクティの入口に居て、ニッコリ話しかけて来ました。「どこ行って来たの?」とは聞かれるも、「クルンテープ(バンコク)だよ、以前遊んだことあるパッポンの前も通ったよ」と言ってやるも、こいつ行ったこと無いのか、あまりウケはしなかった。

振り返ればバンコクではいろいろな人と出会って楽しかった。市内バスに乗ってすぐさま席を譲られること3回。やっぱり比丘は一般人より位が高いことを実感し、そこに胡坐(あぐら)を搔いていてはいけないことも肝に銘じ、より修行しなければいけない立場であることも実感しました。なのに新米比丘の私が、やがて還俗していくことを考えると、やっぱり罪なことしているように思うのでした。

思えば友達多いことは大事なこと。カモにされるとムカつきますが、藤川さんが行った先で飯を食わせてくれる友達がいるのも実際には私も助かった話でした。

厳密に言えば比丘は、お金で対価を払う行為はやってはいけないので物を買って食べることは出来ません。そういう場合にデックワットにお金を渡して連れて歩き、必要とするものはデックワットが買って手渡しされたものを戴くことになりますが、そこまで徹底するのは現在の文明社会では無理なので、やるのは厳格な修行寺だけになります。そういう金銭に触れる事態を極力回避する為にも藤川さんは「飯食わせてくれ!」といった、知人をカモにする場合も多いのでしょう。特に日本へ帰国の際は、頼れる人が多いと助かるのも確かでしょう。

でも私としては、昨日の佐藤夫人と今日の小林さんには、還俗したら御礼に伺おうと思うほど。その行為は俗人に戻っても、テラワーダ(南方上座)仏教として間違っているかもしれませんが、日本人として恩返ししなくてはと思うところでした。

さて、翌日の満月の日を迎えると2回目の剃髪があり、そんな寺にも慣れた頃、ラオス行きも視野に入れ、また違った日々の風景が見えて来ます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

ビザの用件も第一段階は終わって、予定どおりワット・タートゥトーンにお泊り準備をして、藤川さんのお遊び相手をしてくれる、お知り合いのマンションに向かいます。

携帯電話を持つ人が少なかった時代でも持っていた藤川さん。町田さんに連絡しているのか、段取りは早い

タートゥトーン寺入口(昨年、訪れた寺でもあります)

◆藤川さんから接近!

ワット・タートゥトーンは広い。サーラー(葬儀場・講堂)がいっぱいあって迷子になる広さ。それに比例する葬儀の多いこと。改めて人は日々死んでいくのが実感されます。

藤川さんが旅に出る場合のバンコク起点となるお寺だけあって慣れたもの。和尚さんにお会いせずとも、我々が泊めて貰うクティの一人の比丘にお会いして部屋に案内して貰いました。

このお坊さん、30代半ばぐらいで若いがキャリア長く、結構位の高い比丘なんだとか。でも低姿勢で、逆に藤川さんに気遣いながら「自由に使ってください」と言い、どこかに行ってしまいました。年輩というだけでキャリア浅い藤川さんの方が偉い感じ。

部屋に入ってから重い荷物(バーツや黄衣一式が主)を降ろすと、藤川さんはここから私の出家前のように、高笑いも出るほど朗らかに話します。それだけで嬉しく、これが私が当初から想定していた触れ合いある寺生活だったのです。

昼の、東急デパートで車の中で話していたことは、ウチの寺の若い坊主らのこと。
「奴らは中卒程度の田舎者やぞ、世間知らずばっかりや、日本の教育も問題はあるけど、ワシら日本人はアジアの他の国から比べて、教育制度がしっかりした環境で育ったんやから、そんなお前が奴らに舐められとったらアカンぞ!」
そんな話の続きで、「メガネのブンは性格ええかもしれんが、先行き何も考えとらん生ぬるい奴やぞ、コップらの将来見据えた頭ええ奴らと話しとる方がええんちゃうか?」

デックワットを含め、いい奴も居れば、頭悪い奴、性格悪い奴も見えてきたこの頃、頭に入れておくべき忠告でありました。

しばらく話してから「外行こう」と言う藤川さん。また数分かけてマンコンに纏って外に出ると待っていた藤川さんが、
「今、サーラーで日本人の葬式やっとるが、日本式とタイ式に分けてやるらしいぞ、日本から僧侶やら高級な喪服着た、ええ格好の日本人が何人も居って、金持ちらしい葬式やな!」と嫌味な言い方で葬儀の様子を話してくれました。

◆元ビジネス仲間多い藤川さん!

その葬儀は覗かず、道路を渡って市内バスに乗ってバンコク中心部方向へ向かいました。「どこに行くんですか?」と聞くと、
「町田さんのマンション行くんや!」と応えます。6月に成田空港で藤川さんを迎えた町田さんとの再会になります。

10分ほど走ったところのソイ(路地)27の向かい側で降り、道路渡ってソイに入ったところのマンションのロビーの椅子に座っていたのは、町田さんと小林さんという年輩の方と女性1人で皆、藤川さんとバンコクでの元ビジネス仲間。年寄りの雑談は日本とアジアの経済の話、戦争の歴史、成人病の話。

「ベトナムはタイ以上のスピードで発展するやろうなあ!」
「イサーン(タイ東北部)の人は本当に貧しいんか? 自然に適った風通しのいい高床式があるのに出稼ぎした奴らによって密閉された日本式住居が増えて、その結果エアコンが必要になるやろ。文明が幸せを壊しているんじゃないか?」

藤川さんは糖尿病を患っていても、「比丘になって朝昼だけの食事で体重が10kg減って逆に調子は良く、今迄いかに無駄なものが身体に付いていたか分かる」と言い、「我々はいかに無駄に食べ過ぎているかだな」と応える町田さんたち。
若年者の私はほぼ聴いているだけでも勉強になる話でした。

バンコクでビジネスを展開した仲、左から小林さん、藤川僧、町田さん(撮ったのはこの翌日です)

◆夜も更ける頃、早く帰らねば!

藤川さん達は話が尽きないが、夜9時になる頃、寺に帰るには比丘がうろつく時間ではない。やって来たバスに乗ると、すぐにドアー寄りの席を譲られ、乗客は「こんな時間に比丘が乗ってくると思わなかっただろうな」と思うと恐縮してしまいます。

寺が近くなったところで藤川さんに促され立ち上がるも、バスは交差点手前の信号待ちで停車。何を思ったか、藤川さんはそこでブザーを押してしまいました。いつもながら運転手さんがドアーを開けます。
「なんで押すんですか!」とまた私は語気強めて言ってしまいました。

バンコクでバスに乗り慣れた人には分かる、ブザーを押すタイミング。誰も降りないのでドアーは閉められました。ああ恥ずかしい、でも藤川さんは涼しい顔。

日本もタイも路線バスは基本的に停留所しか乗り降りはできません。昔ながらの扉開きっぱなしのバスは、止まっていればどこでも乗降可能ですが、電動式ドアーバスは信号待ちでも運転手がドアーを開け、大概は降ろしてくれます。停留所で降りる場合はそのちょっと手前でブザーを押さねばなりません。そこで一緒に数人の乗客も降りました。

「寺の門入ったら纏いを右肩出し(ロットライ)にせなアカンのや!」といきなり言う藤川さん。私は時間が掛かるので面倒なところ、なぜかいつも気が付いて助けてくれる人が現れます。ここでも通りがかりのオジサンが慣れた手付きで手伝ってくれました。そんな困った新米比丘を助けるのもタンブンなのでしょう。

◆続く藤川さんの忠告!

寺のクティに帰って水浴びして、藤川さんと12時ぐらいまで横になって話していました。

私が借金してタイに来ていることを薄々知っている藤川さんは、
「お前は来年、年収500万円無いと今の仕事やっとる意味無いぞ!」
「今、親が死んだら葬式出せるか?」と耳の痛いことを言います。

藤川さんは中学1年生の頃、盲腸炎で苦しんだ時、父親が腕組んで悩んでいたと言います。

医者が父親に手術する承諾を求めているのに、「金無いからなあ~」の繰り返し。医者は呆れ怒り手術の手配に踏み切ったという。「父親は毎日酒喰らって暴れて“アル中”と言われる日々で、全く金無かったからな」と言う藤川さん。

「だから俺は自分の娘が骨折した時、金かき集めて女房に“金の心配はするな”と言うた。父親として責任あると思うたからな」
「父親と母親と兄弟末っ子の3回あった葬式はみなワシが出した。兄弟末っ子の健が自殺した時は兄弟6人も居って、誰もそれまでに健が苦しんでいたことに気が付いてやれんかった。母親がボケてて“健ちゃんに頼っていた”と聞くし、それらが辛かったな」

そして私に「結局は金や!」と言い、
「1000万円稼ぐ奴より2000万円稼ぐ奴の方が甲斐性あるんやぞ!」と言う藤川さん。
決して「金があれば何でも出来る、何でも買える、女も自由にヤレる、そんな好き勝手な人生を送れる」と言っているのではない。バブル期に地上げ屋やって、そう思って生きてきた藤川さんが、人間はどこまでいっても欲が尽きないことに気付き、幸せとは何か、一時出家前に疑問に思い、愚かな我が身に気付いて、改めて再出家に至っている現在でした。

独身でも30歳越えた男が、結婚して妻子を養う甲斐性はあって当たり前。だから「金持ちになれ」ではなく、「甲斐性ある人間になれ」とだけ言いたい藤川さんなのでした。

藤川さんは散々喋っておいて、「もう寝よか!」と言って電気を消されました。
「私の人生は甘いなあ」と思える対称的な藤川さんの人生。バスのブザー押したぐらいで怒っている私の心の狭いこと。そこまで考えるに至る前に、疲れて眠りに着いてしまいました。明日はまた世間知らずの居るペッブリーの寺へ帰ります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

バスを降りる藤川さん(イメージ写真)

バンコク行きは、俗人時代とは違った街の風景が見えてきます。出会う人や藤川さんの態度。そしてラオス行きの“未知との遭遇”が迫ってくる現実にはまだ早いも、その準備に緊張感が増していきます。

◆初外泊・出発の朝!

バンコクに向かう14日の朝は、いつもどおりに托鉢を終えて、使ったばかりのバーツ(鉢)を底面が開く大きい頭陀袋にセットしていると、予定時刻より早く「オイ、行くぞ!」と藤川さんが叫び慌てさせられ、まだ他の比丘が托鉢から帰って来る姿を見ながらの出発。

「どこ行くの!何しに行くの?」と呼び止める仲間に「ちょっとバンコクへ!」と応えながらバスターミナルに向かい、寺に来た時と同じ青い高速エアコンバスで8時ちょうど発に乗車。運賃は100バーツ。比丘は2割引になります。比丘は専用席となる運転席の後ろ。車掌さんは比較的若い美人。スタイルも比較的綺麗。“比較的”と言うのは、そんなベッピンさんはほとんど居ませんが、バンコクのボロく安い市内バスは、とんでもないデブやオバサン車掌が多い中、市内エアコンバスや長距離高速バスには、綺麗どころが比較的多いということです。

バンコクを歩く藤川さん(イメージ写真)

窓側で堂々と股開き気味に座る藤川さんは相変わらず何も話さない姿勢で、なるべくこんなジジィとくっ付きたくないので少々離れようとすると私の座り方はより窮屈になります。でも目の前の運転席との敷居となる車掌席に座ったり立ったりの車掌さんの“比較的”魅力的なお尻が視界に入り避けつつチラ見。ムラムラする気分。脳から振り払うことなかなか難しい。

◆久々のバンコク!

2時間かけて、かつて通ったサイタイマイバスターミナルに到着すると、「知り合いが車で迎えに来るんや!」と突然言う藤川さん。「何? いきなり!」と思うが、今日1日お手伝いしてくれるらしく、我々だけで移動するよりは心強い。

そして10時30分頃、佐藤という30代ほどの綺麗な女性と運転手の若い男性が車でやって来ました。バンコクの日本長期信用銀行に勤務している藤川さんの知人の奥さんと助手のタンくんで、また藤川さんの思惑にはまった犠牲者(と思った私)でした。

佐藤夫人とはお互い日本人なので御挨拶を済ませ、ここから藤川さんの用で、スリウォン通りに向かいます。車中、藤川さんは本領発揮、よく喋り、私を無視してきた日々と正反対に舌好調。佐藤夫人も優しく陽気な方で調子を合わせてくれていました、まだこの頃は。

パッポン通り入口(イメージ写真)

そしてスリウォン通りに入ると有名な歓楽街、パッポンの前で降り、車を駐車場に止めに行っている間、我々はかつて遊んだパッポン通りの入口で待ちます。比丘がこんなところで“立ちんぼ”なんて何とも恥ずかしい。

◆昼食はタンブン(寄進)された寿司!

藤川さんの幾つかの用は、郵便局へ行って郵便出し、バンコク銀行でお金を下すこと、タイ航空事務所へ行って、藤川さんが25日頃行く予定というナコンパノム行きチケットを購入。郵便出しは佐藤さんに任せ、その間にバンコク銀行へ。そこでは警備員さんが親切に優先的に窓口に誘導してくれて早く終わる有難さ。

その後、佐藤夫人に昼食に誘われた先は日本の座敷風の寿司屋。握り寿司、ロールキャベツ、鯖の味噌煮、最後にデザート。私や春原さんが藤川さんに捧げたように運転手のタンくんが私に料理を手渡してくれます。佐藤夫人は藤川さんが敷いた“パー・プラケーン”という黄色い布の上に置いて貰い、女性からは間接的に受け取ります。毎度の食事前の儀式です。

朝は食べてないからお腹は空いていました。久々に食べる寿司は美味しく、屋台のぶっ掛け御飯でいいのに、日本料理に招待してくれたのは日本人としての気遣いだったのでしょう。

ここは佐藤夫人のタンブン。藤川さんの知り合いというだけで私はタダ食いである。比丘は御礼を言う必要は無いが、日本人として御礼は言いたい気持ちが残ります。

パッポン通り、昼間でも比丘が歩くのは不自然。夜はネオン輝く賑やかさ(イメージ写真)

◆ラオス行き最初の準備!

その後、ルンピニースタジアム近くの旅行代理店へ向かって、ラオスビザ取得を依頼。一人1500バーツ(約7500円)。ビザは単なる観光ビザだが大丈夫なのか。でも前に聞いたとおり、難しい申請は代理店が問題無くやってくれるらしい。パスポートと写真預けると「28日に仕上がります」と言われ、「本当にビザ取れるのか?この代理店大丈夫か?」という不安は残るも藤川さんは使い慣れていて疑う様子は無い。

そして次はフアランポーン駅(バンコク中央駅)へ向かうはずも、その前にマーブンクローン(東急デパート共同)へ向かいます。

それは「携帯電話のバッテリー買うて来てくれへん?」と突然進路変更を頼んだ藤川さん。佐藤さんは一瞬間を置いて「いいですよ~!」と優しく応えてくれたものの、この一瞬の間が「この人相当疲れているぞ」と私は感じたのです。ここまで引っ張り回されるとは思わなかったでしょう。何から何まで頼む藤川さん。「ちょっとは遠慮しろよ!」と怒りすら感じるところでした。

比丘はデパートの中は入れないので、佐藤さんとタンくんが買いに向かい、我々は車の中で待ち、今日はいっぱい喋ってストレスが発散したのか、藤川さんとは40分ぐらい寺での若い比丘らのことを、以前のような笑いある表情で会話が続きました。出家してから初めて心晴れる会話でした。

この後、最後の大きな仕事、ラオス国境のノンカイ行きの切符を購入。過去何度か行ったバンコク中央駅も迷う構内。でも頻繁に旅に出る藤川さんはサッサと事務所のような方へ入って行き、ここでも比丘パワー発揮し、優先的に扱って貰えました。ノンカイへ12月10日出発で12月20日帰りの寝台列車の往復切符。寝台上段は208+208=416バーツ。下段は238+238=476バーツ。合計416+476=892バーツ。500バーツずつ出し、私が1000バーツ紙幣で払って、おつりを小銭で8バーツ貰って車に戻りました。さて、おつりが100バーツ足りないこと気付く。

藤川さん「お前、頭悪いなあ、1000から892引いたら幾つやあ?」とまた自信満々にボロクソに言い出す。
私「108です!」と言うと
藤川さん「何でやぁ~、8やろぉ・・・! あ、そうか108か!」
私「だから最初から108だと言ってるだろうが! 俺の頭悪いせいにしやがって!!」と、逆切れしてしまいました。心通じる会話の後で、私もちょっと調子に乗ってしまったか。私も釣銭を深く考えず受取り「しまったやられた!」と思うも駅員さんも勘違いだったでしょう。

◆負担掛け過ぎのタンブン!

最後の目的地、17時ぐらいにスクンビット通りのワット・タートゥトーンへ向かって貰うと、佐藤さんも「これでやっと帰れるわ~!」とホッとしたことでしょう。バンコクの街を1日動けば結構疲れるのです。

寺の門を潜って、ここで車を降り、佐藤夫人には日本人として御礼は言い、タンくんにはタイ語で「ポップカンマイナ!」と再会を願う言葉を掛け、「本当に御苦労様。こんな苦労はもうしないように、また藤川さんに頼まれたらウソついて断ってください」と小声で訴えお別れとなりました。

この日の何ヶ所も引っ張り回された苦労に佐藤夫人へ何の報酬もありません。私は釈然としない罪を感じ、巣鴨で出会ったミャンマーの留学生にタンブンされたように、またこの世に返す恩を増やしてしまいました。でも自分に何が出来るだろうか。
この後、初外泊となるワット・タートゥトーンのお坊さんに挨拶に向かいます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

賑やかにやって来た寄進者のお祭り行列

ビザ問題に突入していく中、ラオス行きが浮上、カティン祭が終わり、仲間の還俗も現れました。

◆カティン祭!

午前中、寺に得度式(私以外)の参列者のように、楽器吹奏隊と共に寄進者が踊ってやって来ました。聞いていたとおり、クリスマスツリーのような飾り木にお金(紙幣)を貼り付け、派手な衣装の女性たち中心に信者さんが本堂を回る行進。若い比丘達は私に「女の子撮れ!」と言う。今私はカメラマンではないが、本能的に出来るだけ接近しようと考えてしまいます。やはり今の立場としては無理があり、適当に撮るだけでも仕方ないところでした。

撮影を頼まれて集まった美女軍団

寄進された黄色い包みはこんな感じ(撮影は2017年のもの)

和尚さんとお話に来た常連の信者さんたち、皆、横座りです

お札のツリーを抱える美女

「あの木のお金、これだけあったらバンコクでどれだけ遊べるだろう」と考える比丘として不謹慎な私。

この賑やかな外から比丘は全員、クティに移動、昼食を含め、ホー・スワットモン(読経の場)に居ること多い1日。タイでは横座りが正座とされる座り方で、足を組み替えることは出来てもこれが長いとやっぱり足が痺れます。この祭りの読経は所々間が空くところはあるも1時間以上続き、唱えられない私は合掌を続けるのみ。

ところが足痺れよりキツイのが眠気。読経が子守唄となっています。舌噛んで堪えるも、足の痺れより眠気が勝ってしまうのだから、これこそ必死に堪える修行。長い読経が終わると信者さんは和尚さんのもとで身の上話をする者と徐々に帰る者、我々はイベントスタッフのような大道具・小道具の片付けをして、ようやく長い1日が終了……と思ったら、夜には本堂で、これまでの総合的な懺悔の儀式があり、また長い読経と和尚さんの説法が続きました。天井高い本堂で大勢の読経が響くと夜では不気味な響きがあります。やると思っていた二人組んでの懺悔の儀式は無く、出来ない私はホッとするところ。

藤川さんは一時僧時代に巡礼先の寺で、二人組んでの懺悔の儀式を突然やらされても出来ず、その場で教わってこなして、更に1日で覚えきって翌日にはちゃんとこなしたことがあるそうで、私がそこまで追い詰められることなく済んだのは、この寺の緩さなのでしょう。

◆ラオス行きが視野に!

観光ビザ延長申請に、もし滞在日数が残り3日しか無い状態で入国管理局に行って、延長を認めらなかった場合、唖然と途方に暮れるところだったでしょう。

改めてノンイミグレントビザ(留学)を取ることになったので、得度した寺の証明や、比丘であることを証明する、サンガ(僧組織)から認可を貰わなければなりません。

藤川さんにビザ問題を指摘された時点で日数には充分余裕があったので、選択肢がいろいろありました。還俗も一つの手段。「もう辞めたい」と弱気になっていたところで、藤川さんから「ラオスへ行くぞ!」と提案されました。

「マレーシアはイスラム教の多い国、仏教の寺は無いから、寺に泊まることも托鉢も出来ん。ラオスはタイと同じ仏教国やからラオスに行こう。社会主義国の仏教を見ておくのも勉強になるぞ。ただ、ラオスに入るにもビザが要るけど、バンコクのラオス領事館行ってビザ下りんかったら厄介やからな、面倒な手続きやってくれる旅行代理店に頼むから、来週バンコク行くぞ、アーチャーン(和尚)は“ハルキを3ヶ月は寺から外(外泊)に出すな”と言うとったけど、ビザ取らないかんのやから、しっかり言うとけよ!」と、私のビザ問題だから私が言うのは当然のところ、ちょっと和尚さんには言い難い相談でした。

これまで藤川さんは私を無視していたが無関心ではなかった。そしてラオスを視野に「もうちょっと頑張ろう!」と再度気合いを入れるのでした。

寄進者の方々でクティ内はいっぱいに

比丘尼と言われる尼さんたちも、タイ国家では未公認ながらしっかり根付いています

◆気難しい和尚さんの許可は!

暇な時間、街には一人で何度か出向いていました。撮影した証明写真を受け取りに、郵便を出しに、フィルム現像とプリント注文に。証明写真はケーオさんに渡し、比丘達を撮った写真は、なかなか撮られる機会が無いタイ人だけに、かなり喜ばれ、カメラ効果を発揮する私の存在でした。手紙は春原さんや、得度したことを知る友達に送っていました。

カティン祭が終わって2日後、洗濯しようと葬儀場近くの水汲み場に行くと、ワイシャツにジーパン姿の若者が先に黄衣を洗濯していました。誰かと思えば昨日まで黄衣纏っていたクンペーンくん(画像の青年)ではないか、還俗したんだ。何か自由の身になっている姿に羨ましくなりました。

そこへケーオさんが記載が済んだ比丘手帳を我々の分2冊持って現れ、「和尚のところへ行ってサイン貰って来い!」と言われました。早速、和尚さんの前に“二人”で行ってクンペーンくんは御丁寧に三拝しますが、私はいきなり本題へ。

「来週、バンコクに行かせてください……。タイに滞在するビザを取る為に、ラオスに行かねばなりません……なので、提出書類として必要なので、比丘証明書(手帳)にサインください!」。藤川さんに言われたことを回りくどく話し、「バンコクに行かせてください……」と言った後はあまり正確に伝わっていないような中、「ダーイ(いいよ)!」といとも簡単な許可。和尚さんは私がお願いすることはいつも簡単に「ダーイ!」ばかりでした。出家願いも「ダーイ!」、「写真屋行って来ます」と言っても「ダーイ(行って来い)」、「郵便出して来ます」と言えば「ダーイ(出して来い)」。

和尚さんから見れば、日本の観光客で信仰心も無いと見えた私はたいした存在ではなく、修行者であるべき藤川さんが頻繁に遠出願いに出ることには「こいつ、遊びに行ってるな?」と胡散臭く思っているような気がしてきました。

右が還俗前のクンペーンくん

手前の私服の男性は還俗したばかり、私は彼の黄衣姿を知りません

還俗したクンペーンくん、黄衣は洗って寺に帰します(サンガに戻す)(1994.11.7)

◆比丘手帳完成!

和尚さんのサインを貰うと今度は「ワット・ヨームに行け!」と言うケーオさん。この地域を代表する高僧の居る寺で、サンガの認可を貰ってこそ、比丘証明書(手帳)は完成となります。クンペーンくんは寺に乗って来ていたバイクで、私に「後ろに乗れ!」と言う。

私は「待て、俺は黄衣纏うのに時間掛かるんだ、ゴメン!」と言うとサッサと私に纏い付けてくれたクンペーンくん。さすがに速かった。そして、「腕から肩はここをこう締めるんだ!」と黄衣を掴みながらアドバイスしてくれ、よりコツが分かった気がしました。しっかり纏えば左腕はキツメの長袖ワイシャツ着たように肩から袖までがしっかり締まるのだ。「黄衣なんかクルクル丸めて巻き付けるだけや!」と藤川さんが言っていた意味が改めて分かる気持ち。

行った先のヨーム寺で、ここはクンペーンくんと共に私も高僧和尚さんの前でしっかり三拝。後はクンペーンくんが御丁寧にお願いしてくれて、手帳に貼られた証明写真の上に、このお寺のハンコが押され、この和尚さんのサインがされて、昔のパスポートのように、何とも頼りない感じはするものの、正式な比丘身分証明書完成となりました。クンペーンくんは試験の成績良かったのか、他の者より授かる証明証類が多いようで、還俗後の受取りになったようでした。

そして11月半ば、バンコクに向かう日がやって来ました。托鉢を済ませた後、藤川さん行きつけのバンコクの寺に泊まる準備をして出発します。それは初めての外泊。当然、托鉢の準備もして行きます。この黄衣を纏って歩くバンコクの街が楽しみでした。

一緒に修行した仲間と収まるクンペーンくん(1994.11.7)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

外出する為、黄衣を纏うブンくんたち。面倒そうだが、3分も掛からず纏い上げる

托鉢の苦戦、寺の様子、更に試練が襲ってきます。

◆六日坊主?!

朝4時に起きる日が続き、黄衣の纏いは練習はするものの、相変わらずコツが掴めず、下手なまま3日目の托鉢に出発。黄衣は何とか解けずに帰れた2日目と違い、この日はどうも調子が悪い。肩に掛けても掛けても緩くて落ちてくる纏い。寺に帰る最後の路地で、前を歩く藤川さんが遅い私を待ち構えるように立っていて、纏いが崩れた姿を見て、凄い怖い顔で何も言わず緩んだ纏いを引っ張り上げ肩に掛けてくれるも、寺の門を潜った途端、「こんなの見たこと無いわぃ!」と吐き捨てるように言われてしまいました。

昨日は、読んだままの、どこが表紙かわからないグチャグチャに畳んだバンコク週報(日本人紙)を、何も言わずに私の部屋にポンと投げ入れ、与えるというよりゴミを捨てていくような行為は2度目。前回の白衣とは意味合いは違うが、無視する藤川さんに怒りすら覚えていた私。去って行く後ろ姿を飛び前蹴り食らわそうかと、キレそうになるところを我慢するも、翌朝のこの纏いが乱れた托鉢では、もうそんな気持ちが萎えてしまいました。

托鉢4日日はワンプラで、かなりサイバーツ(寄進)が多かった托鉢で、重くなって傾くバーツを直そうと肩に手を回したところで、バーツの蓋を落としてしまいました。“バシャーン”、ステンレス製の蓋がコンクリートの地面に落ちたらどれだけ響くことか。藤川さんが驚いて振り向き、近くに居た信者さんも驚き、恥ずかしいやら情けないやら怖いやら。

寺へ帰ると「バーツの蓋落とすなんて聞いたことないぞ!」とまたキツく言われる始末。

更なる5日目、路地のデコボコ石で足の裏は痛くて仕方ない。藤川さんとの距離が開き、足下を見ながら追い付こうと前に進むと、軒先でサイバーツしようと待ち構えるオバサンを見逃してしまいました。通り過ぎてから気が付き、「まあ仕方ない、先を急ごう」と歩き始めると、その姿を藤川さんが見ていて、「一軒飛ばしたやろ、無視したことになるから、あのオバサンに対して凄い失礼なことしたんや、そう思わへん?」と言われ、認めるしかありませんでした。「あんた、歩くの速いんだよ!」と少し頭を過ぎるが、足下が気になって下ばかり見て歩いているから不注意だった。本当に心から反省でした。連日続く失態。托鉢5日目で「もう辞めたい」と涙が浮かぶ。ここで辞めれば六日坊主。ここで頑張ると言うより、ただ耐えるだけでした。

◆寺の作業!

「ここでの生活は、自分の意志次第で、自分でしたいことを自由にやればいいのです。和尚様から“あれをせよ”とか、“こうしなさい”とか言われることはありません。戒律に触れる事をしなければ本当に自由です。勉強がしたければすれば良いし、瞑想がしたければすれば良いし、外の寺に行って学びたければ行けば良いし、ただ自分が何のために得度したのかを忘れなければそれで良いのだと思います。自力本願で誰も何も教えてくれません。」

これは私がまだタイに渡る前に藤川さんからの手紙に書いてあった一部です。しかし、私が感じた寺での生活は、まだ慣れていないにせよ、なかなか気が休まるものではありませんでした。

比丘となって托鉢2日目の朝、路地に出る前、藤川さんから「何かやらんと“あいつは怠け者だ”と言ってたぞ、タイ人は見ていないようで見てるぞ!」と苦言をされていました。しかし、何をやればいいのか分からないのです。

職人技発揮のコップくん、読経も完璧で天才肌

この日の朝食後、比丘たちの様子を見ていると、それぞれが自分の持ち場があるかのように幾つか散らばっていく姿が見受けられました。寺のクティ脇に公衆トイレを建設する職人さんが来ていて、その手伝いに加わるのがコップくんら元々職人だった比丘が作業。ケーオさんは得意の機械イジリで和尚さんの車のメンテナンス。アムヌアイさんは寺で放し飼いしている牛の糞運びなど。副住職のヨーンさんは葬儀場の整理。他に、仏塔建設が行なわれている場では資材運びを手伝っているメーオくんらのグループ。藤川さんはいつもの日課。

ブンくんら数名は本堂の木陰のベンチでお喋りをする比丘ら数名。私はいちばん気が合うブンくんらの不器用な面々の輪に加わりお喋りに徹しました。
「みんな普段何しているの? 何すればいいの?」と聞くと、「俺らはお喋りか昼寝だろうな!」と言う呑気な回答。

そんな時に和尚さんに呼ばれて、広い境内の空地のゴミ拾いを命ぜられました。特に技術の無い我々は、そんな雑用になる自然な成り行きでした。

葬儀と朝昼の食事以外、日々の読経など全く無く、何で比丘が肉体労働やってんだか。もっと仏門らしさがあるはずだったのに、私の“修行”の解釈が間違っているのでしょうか。

比丘の食事の輪に入ればこんな風景

ゴミ拾いや牛の糞しまつなど、率先してやるアムヌアイさん、私もアムヌアイさんに付いて動くことも多かった

◆パンサー明けの転換期!

「来月、5日過ぎたら還俗者が増えて部屋が空く」と藤川さん言っていたのは、私の寺入り初日のこと。

その11月5日はカティン祭があります。一時出家者が7月半ばのパンサー入り(三宝節記念日の翌日)前に出家し、この最も厳しくて重要な修行期間に入ると、パンサー明けまで還俗は認められず、パンサー明けの10月半ば(満月の日)を過ぎると徐々に還俗者が出てきます。私の寺入り前に、すでに還俗した者も居て、カティン祭を待って還俗する者のほうが多いのも事実のようです。

カティン祭とは、その年のパンサーが無事に終わったことを祝い、信者さんが比丘に黄衣や日用品を包んだ黄色い供え物を捧げるお祭りで、実際にはお寺の寄付金集めの行事らしく、クリスマスツリーのように飾り木にお金(紙幣)を吊るし、楽器の演奏者を先頭に寄進者一同が行列を作り、踊りながらお寺に寄進にやって来る、信者さんの徳を積む機会となります。

そのカティン祭でいつもの葬儀より高額のお布施を貰うと、これが最後のボーナスかのように還俗者が増えるというのが、当初の藤川さんの言葉の意味なのです。
そのカティン祭の為、前々日からクティ内が小学校の学芸会でもあるような飾り付けがされていきます。比丘が脚立に上って高いところへ飾り付ける。これも器用な奴が率先してやるので、皆が競い合ってやることはなく、井戸端会議のような集まりになっていました。それはそれで楽しいもの。藤川さんも笑いながら若い比丘と冗談言っているものの、私に対しては無関心状態が続いていました。

◆ビザ問題浮上!

その翌朝の托鉢の、寺を出たところでまた藤川さんが珍しく話しかけて来ました。

藤川さん「お前の今のビザは観光ビザか?」
   「そうです」
藤川さん「いつ入国したんや?」
   「10月15日です」
藤川さん「ビザ期限は12月半ばやな」
   「そうですが、バンコクの入国管理局へビザ延長に行く予定なので、30日延長出来て期限は1月半ばになります」
藤川さん「タイ法務省の宗教局に電話で聞いたら、“坊主は修行者で、明らかに観光ではないから延長は出来ん”と言われたぞ、どうするんや」
「えっ、本当ですか? どうしましょう」
藤川さん「そんなもん自分で考えんかい!」

さあ困った。托鉢中にビザ問題が頭を過ぎる。迂闊だった観光ビザの認識。でも早く教えてくれてよかった。私に気を掛けて宗教局へ電話してくれていたことには感謝でした。さて対策を考えなければなりません。藤川さんは助けてくれるでしょうか。

出家して4日ほど経った頃、いずれこの写真見て懐かしく思えるだろうかと思って撮った洗濯して干した黄衣

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

◆比丘となって2日目!

初の托鉢から帰って束の間、儀式用黄衣の纏い(ホム・ドーン)が出来なければ朝食が食べられません。昨日ちょっと習っただけではまだ下手糞。そんな焦る私を助けるように藤川さんがやって来て教えてくれました。ジグザグの蛇腹風に折り畳んだ黄衣を持って、「端を持って肩幅まで引っ張って、束になった方を左肩に乗せて……。アカンなあ、もう時間無い、やったるわ!」グチグチ言いながらまた幼子に着せるようにやってくれました。

ホー・チャンペーンでの食事は5僧ほどが輪を囲ったグループが5つあって、合掌して食べ始めます。食べ終わると座ったまま2列が向かい合うように並び、アヌモータナーウィティーという経文の序章部分を誰かが率先して先導し、朗読のような読経から副住職に繋がれ、続いて全員で1分程度の短い読経に入ります。

3月に来た時、藤川さんが「この経文だけは覚えておいて、お前が初日から先導して唱えてみい、みんな驚くぞ!」とは言われていたものの、やっぱり未熟者が初日から率先することは出来ませんでしたが、やっておけば先制クリーンヒットのような、どよめきがあったかもしれません。

◆相変わらずの不器用な纏い!

午前中は纏いの練習。また昼食時に儀式用纏いにしなければと悪戦苦闘していると、コップと言う名の比丘が何か察したか、部屋にやって来て「昼食時はこれじゃないよ、普通のホム・ロッライだよ」と教えてくれました。このコップくんは私の得度式で黄衣に着替えさせてくれた奴。ムエタイボクサーのような筋骨隆々で読経も上手く、勘が冴えてる奴でした。

午後はまた藤川さんと外出しなければいけません。また外出用(ホム・マンコン)に纏うものの、なかなか上手くいかない。20分も掛けて纏っていると、昼間の暑い部屋では汗だくで黄衣に汗が染み渡ります。そんな時に外のクティ下のベンチで若い比丘らが屯(たむろ)しており、私の部屋の窓に向かって「おーいハルキ、外で一緒に喋ろうよ!」なんて声掛けてくれる奴が居て、「誰だ、俺の名前を覚えたいい奴は!」と思いながら「いや、外出しなけりゃならない、ゴメン!」と謝りつつ外に出たついでに、纏った黄衣を「ちょっと見てくれ!」と彼らに見せ、藤川さんを待たせたまま応急処置的に強く巻き付けて貰い、「コップンカップ!」とタイ語で御礼を言って出発。ちょっと首周りがキツイがしっかり巻かれていることが心地良い。

◆街を歩く!

街を歩いて俗人の時と違うのは、比丘である私に敬いを感じる周囲の目線。おこがましいがそう感じ、それは“私”が敬われているのではなく、仏陀の弟子である比丘が敬われていること。行きかう人々は、至近距離に比丘が居ては、特に女性は一歩身を引く気遣いが見られます。そんな立場である私は、女性に接触しないよう気をつけ、女性をイヤラシイ目で見ないよう気をつけ、見たとしても周囲に気付かれないよう気をつけ、黄衣が解けないよう気をつけていると、もう挙動不審な歩き方でしたが、その辺をウロつく野良犬だけが私を見ても無視して行きました。

街に出た用事は、雑貨屋へ行って比丘手帳買って、写真屋に行って証明写真を撮ること。私はこの必要性をまだ分かっていませんでしたが、何でも早めに行動を起こす藤川さんに促されて行ったまででした。この撮影は藤川さんが先に、その纏った黄衣のまま撮影。しかし私は纏いが下手な為、黄衣を脱がされ、亀の甲羅のような、撮影用の黄衣を模った甲羅を付けて椅子とともに縛り付けられ、どこかの風俗店にいるような姿。ちょっと無理ある合成写真のような仕上がりになること想像付きました。

若い比丘たちのリーダー格存在のケーオさん

撮り終わると困ったのは黄衣をすぐには纏えないこと。纏いに20分掛かるのに写真屋さんで手間取っている訳にもいかない。意地悪いことに藤川さんは「早よせいよ!」と言って先に外に出てしまいます。「こんな時に助けろよ!」と日本語で口走ると、状況で察して助けてくれたのは撮影した写真屋の兄ちゃん。「得度したことありますか?」と聞くと、「あります!」と応えられ、さすが上手く速く、纏い付けてくれました。比丘として御礼は言えないので、「ありがとう!」と日本語で御礼を言って店を出ました。

寺に帰って、比丘手帳に必要事項を書いて貰う為、隣の部屋のケーオさんに頼みましたが、「3ヶ月経ったら書いてやるよ!」と言われて、普通は1パンサー(安居期)超えて一人前になってからということとは分かりつつも、「ビザの延長に入国管理局に行かないといけないから!」とパスポートを添えてお願いし、了承して頂きました。

◆仲間と打ち解け始める!

慌しい用も済んだところで次は洗濯。黄衣ではなく、これまで着ていた下着やズボンなどの衣類。本来、得度式を終えると、それまでの衣類は親族が持って帰るか、寺が預かるもの。しかしこの寺はかなり大雑把。白衣になってからは部屋に置きっぱなしでした。比丘の身分で洗ってもいいのか分からず、クティ下の洗い場で、先に黄衣を洗濯していた先程のコップくんに聞くと「大丈夫だよ、問題無い!」と場所を共有させてくれました。彼は元々、便所を作るような土建業の仕事をやっている職人の22歳。このパンサー入り前に出家したという話でした。

中央がコップ、勘が良く、読経が上手く、大工仕事も上手い奴

夕方以降、部屋に居ると若い比丘が2人、得体の知れない私に興味津々でやって来ました。カメラ(NikonFM2モータードライブ付き)を見て「これ幾らするの? 覗いていい?」という流れはムエタイジムでもあった話。メガネを掛けてニコニコした人懐っこいブンくんは、元々は学生だった様子でパンサー前に出家したコップくんと同じ一時出家者の22歳。「葬儀用の纏いは何て言うの? 托鉢に出る場合は? 寺に居る時の肩出す纏いは? タイ語できれいに書いてくれたら読めるから!」と聞いてメモ帳に書いて貰うと、他にも聞いたこといっぱい書いてくれる親切丁寧な奴でした。

もう一人のスパープくんは藤川さんの隣の部屋の奴。藤川さんの蚊取り線香の凄い煙を避けて、隣の部屋に集まる蚊の犠牲になっているのがこのスパープくん。と言うのは大袈裟な話として、スパープくんはムエタイジムにも居るような田舎者で、村社会で育った習慣から、自分の家も隣の家も自由に出入りして勝手に何でも使い、それが普通の環境で育った奴。私のカメラバッグを弄りだし、油断ならないところがあるが、決して悪気は無い。藤川さんの話では、彼は結構真面目にお経を覚える努力している奴で、他の奴より1年早く出家している23歳。こうして仲間が増えていくのは、何も分からない私を支えてくれるので心強くなれました。

物珍しさにやって来たメガネのブン(左)とスパープ(右)

◆藤川さん無視!

その反面、キツイこと言うだけの藤川さんは、昨夜から私には必要事項以外、無視状態となり、その距離は私の出家前とずいぶん掛け離れ、立嶋アッシーや春原さんと笑って話していた、あの朗らかさはどこへ行ってしまったのか。不安と怒りが次第に増してきた夜でした。

托鉢と写真屋しか行っていないのに目まぐるしい一日でしたが、私はこれまでの人生での三日坊主の怠け癖が出て、「黄衣纏いの練習は明日の朝でいいや」と思って夜10時頃寝ます。静けさの中でもクティの中はまだ蛍光灯は点いていて、どこかで誰かがまだざわついている様子は伺えるいつもの寺でした。

剃髪前と剃髪後と23年後にツーショット撮ったのはメーオだけ

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

◆三日坊主生活の始まり!

今、纏っているのは黄色い僧衣。俗人の時に身に着けていたものは一切無い。パンツも穿いていない。外に出る時はサンダル履き。頭を触ればやっぱり髪は無い。本当にお坊さんになったよ、どうしよう。

泣きそうにアナンさんらを見送った直後、そんな呑気に我が身を観察している時間は無く、一刻も早く黄衣の纏いを覚えなければならない時。

◆黄衣の纏いを覚える!

午後は葬儀が続く中、藤川さんの黄衣纏いの指導が始まりました。托鉢に行く場合の纏い、普段寺に居る場合の纏い、葬式用の纏いを教えてくれますが、とにかく難しいし、文句言いっぱなしの藤川さん。「よう見とけ!まず端と端持って巻いていくんや、アホ、強う締めんかい、解けてくるぞ!」語気強く、ひたすら貶すばかり。そんなこと言ってる間に葬儀が再開、「もう行かなあかん、葬儀用に戻すぞ、早よせい、あかんなあ違うやろ!」ほとんど父親に服を着せて貰っている幼児状態で式典用(ホム・サンカティ)に纏い、葬儀に向かいます。

新米の私は比丘の列席の後方に座り、ワイ(合掌)をして読経など全く出来ないまま。周囲はこの年のパンサー(安居期)に出家した比丘ばかり。しかし皆、見事に声に出して読経している姿に圧倒され、これから日々、使う経文だけは覚えなくてはいけないと思うところでした。

葬儀の一区切りで、クティ下のベンチでタバコを吸ってくつろいでいる比丘、自家用トラックの荷台に乗って外に向かう数名の比丘がいると思っていたら、サーラーからまた読経が聞こえてくる。油断していると立ち遅れる私。皆当てられた役割があるので、私以外誰も迷ってはいません。

黄衣を纏う練習は続く(1994.10.30 セルフタイマー撮影)

やがて藤川さんがやって来て「折り目合わせて畳んどけよ!」と言って出て行かれ、私の出番は終わりと悟り、何とか慌しい行事の1日は終わりました。しかし夕方以降は黄衣の纏い練習をしなくてはなりません。

その夜も藤川さんがやって来て教えてくれるも、昼間までと違って口数少なく、今迄なら京都弁でグチグチ言いそうなところが何も言わない。それは何か冷たく、「こんなことすぐ覚えんとあの若い奴らにバカにされるんとちゃうけ?」と言うことは言うが語気は静か。

黄衣を頭から被り、生地を引っ張ると頭が引っ張られて持って行かれる状態。剃った頭はツルツル滑るものではなく、ザラザラで生地が纏わりついてしまうのでした。傍から見れば笑えるような光景にも私は苛立ち、藤川さんは無視し、全く笑いが起きない。私の不器用さに呆れたのでしょうか。
「これだけは覚えんと明日からのビンタバーツ(托鉢)に行けんのとちゃうか? 明日の朝までに出来るようにしとけ!」と言って出て行った藤川さん。

時間は夜9時過ぎた頃。その後11時頃まで練習。ホム・マンコン(注釈:ホム・クルムとは型が違う)と言われる門外用の仕上がる形だけ分かるものの、その纏いは上手く出来ない。足下は雑、首周りも雑、全体はダブダブして締まりが無い。やり方だけは覚えたが、イライラするばかりでは集中力も落ちている。やめた、もう寝よう。

◆初めての托鉢!

カメラのさくらやで買った小さな目覚まし時計が、午前3時50分。“ピピピピッ”を連続繰り返される音で目が覚める。藤川さんの部屋をノックするのは5時25分。それまで練習するのだ。昨日、一回纏うまでに20分以上掛かっていた。今日はどうだろう。その為の早起き。コツが掴めぬまま何度も繰り返し、格好悪いが形だけは出来た。解けずに帰って来れるか不安ながら、もう時間だ、これで行こう。

藤川さんの部屋をノックする。中に入ると、「やり直せ」と言うかと思うも、「今日はその場凌ぎに、脇の下に輪ゴムで止めとけ、最悪でも全部バラけることは無いやろう」と言って黄衣を巻き寿司のように巻きつけて捻った部分を脇の下で輪ゴムで止めてくれました。

20分かけて何とか完成、格好悪いが2つある型のひとつ、ホム・マンコン。我が寺ではこれに決まっています(1994.10.30 セルフターマー撮影)

そうして私の初めての托鉢は出発。夜明け前の寺の鉄扉を開け玄関を出て、裸足で藤川さんを先頭にして歩き出します。足の裏が冷たいジャリ道の地面に触れると直接的に肌触りがわかる土や石ころの感触。やがてコンクリートの道に入るとまた違った硬い感触。小石を踏むと若干痛い。ガラスや尖った金属片が落ちていないかと前かがみに歩き、見た目は格好悪いことは分かる。

寺から大通りに出るまでに、一軒のサイバーツ(鉢に入れる寄進)を待つオジさんを発見。藤川さんが立ち止まりサイバーツを受けています。その次に私の番。バーツの蓋を開け、しゃもじで掬った炊いたばかりと分かる湯気が立つ御飯が入れられました。そしてビニールに入った惣菜を頭陀袋に入れられ、藤川さんは振り返って私のその姿を見届けてから歩き出しました。
「ワシらは信者さんの徳を積む機会を与えとるんやで、物を貰って居るのではないぞ!」と、そんな教えを以前から受けているので間違った振舞いはしないが、やっぱり真の仏教の下で育った訳ではない私は、貰っている感覚で頭を下げそうになってしまいます。

藤川さんの後ろを歩けばこんな感じ(イメージ画像)

藤川さんのサイバーツを後ろから見る(イメージ画像)

後ろで待つとこんな感じ(イメージ画像)

大通りを出て、例の銀座がある方向へ歩きます。藤川さんの歩くスピードが速く、ついていくのがやっとの思い。足下に気をつけ、信者さんを見落とさないよう気をつけ、黄衣が解けないよう気を付けていると、どこを歩いているのか分からなくなる道。3月に来た時も歩いた路地にも入ると、やたら痛いデコボコ石があり「痛テテ、痛テテ、この路地やめようや!」と言いたくなる痛さで前を全く見れない状態。

ところで何軒受けたろうか。寺に入る路地まで戻って来て、やっと寺が近い見たことある風景を把握する。寺に入って溜め水で足を洗って部屋に戻り、藤川さんはいつものコースを短縮などせず、約1時間経っていたことに、結構長く歩いたんだなと我ながら感心。

「ヤクルトとかオレンジジュースとか手元に残して他、全部ホー・チャンペーンの受け皿に空けろ」と藤川さんに言われて全て出し、バーツの御飯はタライに空け、洗面台でバーツを洗い、部屋に戻って中を拭いて壁に吊るします。これでビンタバーツ一通りが終了。後はデックワットが朝食準備に掛かります。

ビンタバーツは、信者さんにもお得意さんの比丘が居るのも自然な成り行きで、「あのお坊さんが来るのを待っている」といった信者さんも居ます。そんな中では、この日、信者さん皆普通に私にもサイバーツしてくれたことに安堵するところでした。

◆次なる試練!

他の比丘も帰って来る中、気が付けばお腹が空いている状態。午後食事を摂ってはならない戒律の下、昨日のお昼以来の食事が待っていました。しかし、ここから次の難問が待ち構えています。朝の読経も短いながらこなさなければいけません。朝食の時も葬儀用同様の黄衣の纏い方があり、これをこなしてから朝食に向かうことになります。修行が始まっていることをようやく実感する最初の朝でした。

※注01=托鉢撮影は出家前の3月にタイに渡った際の撮影です。比丘となっては托鉢中は撮れません。(筆者)

※注02=23年も経って、当時の記憶や日記の記録、今の時代の文明の利器、インターネットで調べるなどで、改めて理解することもあり、黄衣の纏いの種類と呼び方に細かく違いがあるようでした。主には3種類の纏い方があり、またその中でも纏い方の呼び方が違う部分があります。今後の「タイで三日坊主」の中では、分かる範囲でなるべく正しい表記で書かせて頂きます。(筆者)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

左は春原俊樹記者(ワールドボクシング)、右はキックボクシング全日本ライト級3位の高津広行(小国)、いずれも当時

先頭からゲオサムリットジム会長アナンさん、私、アナンさんの奥さん、高津くん

◆人生特別な日の朝!

朝起きて頭を触って改めて気が付く、やっぱり昨日の出来事は夢ではなかったと。やっぱり本当に髪が無かった現実の朝でした。そんな朝、私が朝起きるのが早いからか、デックワットは昨日の夜は私の部屋には来ませんでした。

◆アナンさんらを迎える!

7時20分頃、比丘の朝食中に部屋の窓から外を覗くと1台の車が止まっており、アナンさんらが到着した様子。最初に降りた高津くんと目が合うと互いが笑顔になる。こんなところまで所属選手でもない私の為に、アナンさん夫妻も来てくれたことには本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。積んできた寄進する料理を運び、和尚さんに挨拶に行ったアナン夫妻。私の手を煩わせない気遣いがあって、案内しなくても場所だけ示せば勝手に行ってくれる、どこの寺でも造りなどすぐ分かる慣れたものでした。

比丘の食事が終る頃、隣の部屋の秘書的存在のケーオさんに呼ばれて履歴調査となりました。このお坊さんは若い一時僧たちのお兄さん的存在。私が初めて寺を訪れた3月に藤川さんを「キヨさ~ん!」と呼んでくれたのがこのケーオさん。

「名前は、出身は、生年月日は、両親の名前は、日本で何してる?」など、得度証明書に書かれる項目と、得度出家者をサンガ(僧組織)に届ける義務がある為の簡単な面接でした。終わって部屋に戻ると、すでに春原さんが来てタバコを吸っていました。

「春原さん朝飯食ってないでしょ、一緒に食いましょう!」とまず、昨日春原さんは和尚さんと会えなかったので和尚さんのもとへ行って紹介すると「朝食まだなら、一緒に食べなさい」と予想どおり言われ、デックワットのいる部屋へ向かい一緒に朝食を摂りました。

「朝の托鉢でサイバーツ(寄進)された食材ですよ、比丘が箸を付けてないものもありますから頂いてください」と言うも春原さんは何も気にせず、どの惣菜も召し上がってくれました。

いつの間にか居なくなっていたアナンさんらは外に食事に行き、部屋に戻ると高津くんも戻って来て、出番まで春原さんと高津くんとお話して待機。9時半になってアナンさんが私らを呼び、いよいよ出陣となりました。

なんと寂しい本堂を周る我々(2017年、ワサン氏の得度式と比べて寂し過ぎ)

本堂に入る前の経文。黄色いシャツの人が親代わりとなってくれた先導者

◆人生最後のイベント、得度式!

私にとってこれが人生最後のイベントとなるだろう。今後結婚式などしないし、残るは葬式か。それがあっても自分は見れないが。

クティ内のホー・スワットモン(読経の場)に備えてあった黄衣とバーツ(お鉢)と、式に備える花などの供え物をアナンさんと奥さんと高津くんが持ち、アナンさんを先頭に全員裸足でボート(本堂)へ向かいます。ここに来て、参列者を募らなかったことを悔いました。

「春原さん以外誰も来なくていい」なんて言ってはいけなかった。こんな遠いペッブリーまで、日本の彼らを含め誰も来なかったかもしれないが、過去、タイで知り合った数々の人に出家することを伝えていたらどれぐらい集まっただろうか。私が出家することより徳を積む機会に喜んでいたでしょう。日本人なら「何の祭りか知らないけど酒が飲めるぞ!」といったノリでしょうか。

本堂に入る前に周りを右回りに3周歩きます。三帰依(仏・法・僧へ帰依)を意味するこの3周も、全く分からないまま、ただ小石を踏んでは「痛いなあ、アナンさんゆっくり歩いてよ」と心で呟きながら、“サラサラ”と4人だけの寂しい足音が響き、ようやく3周。ところどころで春原さんのシャッター音が響いていました。

先導してくれる親代わりとなってくれた弁護士の先導者に導かれて経文を唱え本堂に入ります。大きな仏陀像の下にある比丘が座る台座には17僧が待機しており、私が先導者の指示に従って前に進みます。同時にサーラー(葬儀場)では葬式が行なわれており、和尚さんは御挨拶で少々遅れる様子。

少々ざわめきがあった本堂内も、和尚さんが入って来ると空気が変わり、比丘たちも緊張感が増しました。私は先導者の指示のもと和尚さんの前に座り、問答が始まりました。

本堂で待ち構える17僧の比丘たち

「すべては口移しでやるからお経は覚えなくてもいい」と言われていたものの、「本当に大丈夫かな」と就職の面接のような緊張感が走ります。そして黄衣とバーツを掲げ、出家願いの経文、やっぱり出て来た高校時代に唱えた「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、サンガン・サラナン・ガッチャーミ(我、佛に帰依し奉る、我、法に帰依し奉る、我、僧に帰依し奉る)」。これだけは口移しでなくても唱えられた三帰依でした。「これは鉢である、これは上衣である、これは重衣である、これは下衣である」を指され、その意味も話されているであろう和尚の言葉。ひとつひとつの問いに分かっていなくても「アーマ・バンテー(仰せのとおりです)」と応える私。

副住職のヨーンさんに導かれ、口元を指差し、経文を唱える言葉を見て聞いて真似して唱えること何十回と続く。順番も意味も覚えていないが式は続き、ある時全員の笑いが起きる。何かウケ狙いを言ったなこの和尚。「戒律だからな、オナニーするなよ」とでも言ったのだろうか、藤川さんもアナンさんも声が響く笑いでした。

「もっと前に出ろ」とケツ叩く副住職のヨーンさん

何はともあれ一応厳格な儀式は進み、最後に比丘全員によって読経が続きました。
「この言葉も常識もわからんトロい日本人を比丘にして大丈夫か?」と大雑把に言えばこのような審議と採決があり、その全ては無言の満場一致で決まる出来レースで、得度式は終了しました。

再び黄衣を授けられ受け取る私

三拝する私、因みに仏像の手前、和尚さんの左側に座る、和尚さんと同じ色の僧衣を纏うのがケーオさん

重要なことを言っているのかもしれないが、返事するのみ

バーツを受け取り、供え物を受け取り

再び問答

副住職による誓いの問答

アナンさんと記念写真

高津くんとの記念写真

◆アナンさんらを見送る!

得度式が終わったのは11時少々過ぎ。サーラーでの葬儀も一時休息に入ったようで、昼食はこちらに移動。今朝まで比丘の後に朝食を摂っていた私は、まだ後手に回っていると、昨日ツーショット撮ったメーオが「もう立場は同じだからこっちに入れ!」とケツを叩いて輪に入れてくれました。昼食は葬儀を出している親族の寄進でワンプラのように多くの惣菜が並んでいます。アナンさんが持って来た食材もどこかに並んでいます。せっかく持って来てくれたものだから私が手を付けたかったところ、アナンさんらのタンブンは充分果たしているので気にする必要はありませんでした。

その後、アナンさんらも他の信者さんとサーラーの脇で昼食に入り、春原さんを一緒の車に誘ってくれてバンコクに帰る時間となりました。

藤川さんは「高津くんもやったらどうや!」と誘うことを忘れない。満更でもなさそうに笑っていた高津くん。「鬱陶しい藤川さんのもとでは止めとけ!」と心で呟く私。

皆がクティの前の車に向かうと私は「俺も帰る!」と駄々こねて泣きだしそう。幼稚園の頃、母親に泣きついて一緒に帰ろうとしたあの幼い頃と同じ胸中。それをしなかったのは、大人だから我慢出来たというものではなく、泣いて駄々こねるなんて恥ずかしいこと出来ないだけでした。「これで立派な大人だ、しっかり学んで来い!」と、ただひたすら応援してくれるアナンさんらに御礼を言って見送るのみ。春原さんには「フィルムは大切に預かっておいてね!」ということだけは忘れない目ざとい私。高津くんはまた来月試合が控えているのに、その気遣いも出来ず、最後は慌しく一同を見送りました。

この後、午後も葬儀は続き、合間を縫って藤川さんの厳しい黄衣纏いの指導が始まります。

※写真は春原俊樹氏(ワールドボクシング=当時)撮影(御本人が写っているもの以外)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」
  
  
  
  
  
  

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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