◆寺の堅苦しさは無くなり

ついにやって来たタムケーウ寺と藤川さんとの再会。お坊さんになったなら大人しく、真面目一辺倒の会話をするだろうという想定をいきなり裏切ってくれた藤川さん。大声で話し大声で笑ったバンコクのM&K食堂を経営していた頃と何も変わらないではないか。でもそれが堅苦しさをほぐす安心感を私に与えてくれるのでした。こんなんでもやっていけるのだと。藤川さんを通じて和尚さんにもお会いし、楽観的に捉えてしまう出家の道へ繋がりました。

トイレ、水周り掃除をする藤川さん

他の比丘も率先して清掃する者もいる

◆トイレ掃除は修行の一環

お喋りに付き合い、午後3時を回り、藤川さんは日課というトイレ掃除を始めました。洗濯洗剤と便器ブラシ、竹ぼうきを使って水浴びスペースとなるホンナーム(水の部屋=トイレとシャワー)を掃除。寺のクティにトイレは3箇所ほどあり、それを1時間ほど掛けて丁寧に掃除していきます。

トイレは外から入れるので、サンダル掃きで皆が利用します。常に泥汚れが溜まるトイレ。寺を訪れた俗人も使えるので一概に言えませんが、便器やその周辺はいつもタバコの吸殻が落ちており、仏門の世界でもモラルが欠落した寺の裏側が見られる場所でもあります。

藤川さんは寺に居る日で、立て続けに葬儀等が無い限りは毎日トイレ掃除をこなす様子。和尚さんや先輩比丘からそういう任務を命ぜられている訳ではなく、率先してやっているのでした。「毎日掃除しても翌日にはしっかり汚れとる。自分がやってきた若い頃のヤンチャな喧嘩や法律違反スレスレの建設営業、地上げ屋など人を騙したり脅したり、一日二日掃除しただけでは罪は消えんほどの悪行があったんや。お釈迦さんはそれをトイレの汚れで毎日教えてくださってはる、という思いで掃除するんや」と言う藤川さん。

そんな真面目な姿を見て、これが地上げ屋をやっていた人かと思うほど、変わりように驚くばかり、かつての不良や不動産屋仲間が見れば同じように思うことでしょう。トイレ掃除するのは藤川さんだけ。「他の奴は寝てるもんも居るし、勉強しとるもんも居る。皆、好き勝手に何かやっとるけど、これが誰も干渉せん寺の姿。修行は己でやるもんやから。これが葬儀やニーモン(比丘を招いて葬儀や結婚式、建築完成祝いなどでの寄進)が無い日はのんびりした一日や」という藤川さんの話しでした。

瞑想する藤川さん

◆蚊避け線香!?

部屋に戻ると藤川さんのもうひとつの日課の一人読経が始まりました。今は本当の修行の身、日々お経を覚えているようで、仏陀の像の前で、その教科書となる経文を読みながらの読経を30分ほど続けた後、更に30分ほどの瞑想。

そうして夕方になると当然ながらイヤな蚊が出て来ます。生きものを殺すことが禁じられている戒律があるので、蚊は殺さないはずと思っていると、ここまで修行の顔を見せていた藤川さんは蚊取り線香を三つ出し、頭と尻尾にそれぞれ火を点け、部屋の隅々に置かれました。計6本点けたに等しい煙。やがて部屋中真っ白の煙だらけ。燃え尽きるまで3時間ほど掛かったかと思いますが、「蚊取り線香使っていいんですか?」と聞いても、「追い払ったんや、これで朝まで蚊は出て来えへん、蚊はこの部屋を避けて、しばらくすると左隣の部屋に集まってとなりの坊主が“パチン”と蚊を叩く音が聞こえるんや、時々嘆いとるわ、ワッハッハッハ!」と笑う藤川さん。この論点ずらしがオモロかった。

◆牛乳の力

比丘は午後食事をしてはならない戒律の下、藤川さんは当然何も食べていませんが、私には「寺の外に屋台があるけど、今日は食わんでもええやろ、牛乳でも飲んどき!」と言い、冷蔵庫から托鉢で寄進された紙パックの牛乳を出してくれました。
これが一本でも意外とお腹いっぱいになるもので、屋台に行く気も無くなり、「これは自分で空腹をごまかせるなあ」と何やら安心してしまう牛乳の力。贅沢な日々を送っているからデニーズなどでステーキやハンバーグ定食やパフェなど腹一杯食べたくなるもので、質素に暮らせば夜は小食で充分なような、藤川さんの勝手気ままな言い分に呑まれているのか、そんな気がしてしまうこの夜でした。

◆興味津々、覗き部屋!

ふと気が付けば、比丘の部屋には壁にところどころ穴が開いており、壁が劣化している訳ではなく、お互いが隣の部屋を覗けるようになっているのでした。つまり、一人で居ては隠れて何でも出来る。エロ本見ることもオナニーすることも、午後にお菓子を食べることも出来てしまう、それをさせない抑止力的覗き穴がところどころにあるのでした。

テレビや冷蔵庫を所有していても、修行の一環と認められれば必需品と拡大解釈されるものの、寺の外でも中でも至るところから厳しい目で見ているのが寺の日常であることが分かります。

その隣の部屋の穴から覗いたのがデックワット。すぐ藤川さんが「オイ、こっち来い」と呼び、こちらの部屋に来させたところ、この寺から小学校に通う男の子。親元を離れ、寺に居住しながら比丘の世話をすることで日々の生活費はタダ。日常生活に不自由はない寺でのデックワット生活の様子。しかし欲しいものが手に入るような贅沢はできないのは想像に難しくないところです。

夜も9時を過ぎ、朝も早いので寝る準備に入り、板の間に薄いタオルケットと古い黄衣の余りものを借り、硬い床の上で寝ることになります。こんな寝床はムエタイジムでも同じだったので苦痛ではありませんでした。ただ寝る前に、右隣の副住職の部屋からムエタイ中継が聞こえてきました。寺とはどういうところなのか。テレビは見れるし、蚊は殺せるし、牛乳は飲めるし、そんな自由奔放な寺の環境を見た一日。この日は安心しきって眠ってしまいましたが、節々に厳しさも垣間見れる寺であることもわかりました。

明日は、タイに居ながら身近で見ることが滅多に無かった托鉢に同行します。

デックワットを呼んで御挨拶

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

お喋りと高笑いがお得意の藤川清弘さん、反面、厳しい面構えにもなります

◆藤川さんの思惑の始まり!

郵便受けから薄っぺらい封書を見つけた私は早速開けてみました。切れたと思った縁は切れておらず、ワープロで打たれた文字は、字が下手だからという理由も書かれた、大胆さが表れている内容でした。

「私の事覚えておられますか、バンコックでレストラン、スーパーをしている、と言うよりは、していた藤川です。その節は色々とありがとうございました。
 戦勝会を盛大に行ないたいと、思っていたのに何も出来ず本当に残念です。御免なさい。
 私、10月10日にブアット(出家)し、現在、ペッブリー県のワットタムケーウで坊主の修業をしています。前にも話していたと思いますが、前に一度出家した時から、いつかもう一度出家して、今度は一生仏門で過ごそうと決心しておりました。本当は、もう少し金を貯めてからと思っていたのですが、ある人から、なぜ出家を考えている人が金にこだわるのか?、と聞かれ、自分自身に問いかけた結果、やはりこの人の言うとおりだと気付き、出家するならパンサー(安居期間)が良いと思い、和尚様に相談して急遽出家致しました。前回は、一つの経験として軽い気持ちで出家したのですが、今回は、一生を仏と共に過ごそうと決心しているので、お釈迦様の教えに従い、正式に離婚し、家も店も捨て、身軽な身体になって寺に入りました・・・。」(一部抜粋)2536年(仏暦/西暦1993年)10月17日付

アッシーの試合後、お店で客の居ないテーブルの椅子に座って煙草を吸いながら、遠くを見つめて何か考えているような姿を、バイクタクシーに乗って通過する時、見たことがありました。あの時、すでに再出家のことを考えていたのかもしれません。

それにしても決断の早いこと。レストランに隣接するM&Kというコンビニエンスストアーも藤川さんの経営店で、すべてを妻に権利を渡し、今後の幾らかの活動資金だけ持って、知り合いの弁護士の兄が比丘を務めるタムケーウ寺を紹介されて、この寺で出家されたようでした。

タムケーウ寺正門

タムケーウ寺後門、牛が飼われる広い敷地です

◆再会を目指して!

この人にはもう一度会わねばならない。「この出家姿を追うだけでもいい写真が撮れる」そう考えた私は、なるべく早いうちに藤川さんが居る寺を訪問することを計画。自分が出家するチャンスも今しかないだろう。仕事は元々たいしたこともしていないし、やるなら今やっておいた方がいいと考え、藤川さんと手紙のやりとりをして、翌年(1994年)3月、寺の様子見と前準備の為、短期予定でタイに渡りました。

藤川さんは、「前に言ったとおり、日本で体験できない良い人生の勉強になると思います。一度、寺に来て和尚さんに会ってみてください。いきなり来て突然の出家できる訳ではないので、出家の何ヶ月か前に顔合わせしておいた方がいいでしょう。出家するには親(身元引受人)がいないと出来ませんが、我々にはタイでは親がいないので私の親代わりになってくれた弁護士も紹介します」という返答。

出家は確定した訳ではないが、すべてはここからレールを敷かれた上を走ればそのまま出家に至るだけ。まだ「俺に出来るんかいな」と半信半疑ではありましたが。

タムケーウ寺和尚さん

◆風格ある黄衣姿の藤川さん

藤川さんの案内どおり、バンコクの南部行きのサイタイマイバスターミナルから青いエアコンツアーバスに乗って2時間。終点手前で降りるので、車掌さんに「タムケーウ寺に行きたいので最寄のバスターミナルに着いたら教えてください」と告げておいて、着いたところから軽四輪のソーンテーオ(トラックの荷台を長椅子に替えた乗り合いバス、軽四輪から大型車まで有り)に乗って5分で観光地ナコーン・キリーがある山の麓、タムケーウ寺に着きました。

広い境内に圧倒されるタイ仏教の格式の重み。本堂やサーラー(講堂や葬儀場)が並び、静かで神聖な空間を漂わせる中、クティ前にいた比丘に「藤川清弘という日本人比丘はいますか?」とタイ語にして尋ねるとすぐ理解してくれて、2階の窓に向かって「キヨサーン!」となかなか気さくなお坊さんで日本語で呼んでくれました。

窓から覗く藤川さん。「上がって来て!」と招かれ、クティ2階の藤川さんの部屋の前へ。部屋から出てきた藤川さんは、剃った頭にこげ茶色系の黄衣を纏い、俗人の頃とは全く違う風格ある姿に変身。私の「こんにちは、御無沙汰しています!」の挨拶には応えず、「どうぞ中に入って!」と部屋に招き入れてくれました。ここまでに充分タイ仏教寺の雰囲気に呑まれていた私でした。

何でも揃っていた藤川さんの部屋

部屋に入ると……!

藤川さんの部屋は4畳半よりやや広め、6畳は無いぐらい。そこにテレビはある、冷蔵庫はある、ワープロはある、私が送った立嶋篤史出場の試合ポスターは貼ってある、これがタイ仏教の比丘の部屋とは思えない神聖さを覆す近代設備の整った部屋。この日はホテルなども予約は取らず直接の訪問で、藤川さんから早速の「泊まっていけや!」の一言でこの狭い部屋での宿泊が決定。

そして、口から先に産まれてきたかのように捲くし立てて喋り始めた藤川さん。元々喋り好きだけあって普段話せぬ日本語を待ってたかのようにツバ飛ばしながらよう喋るし、よう笑う。周囲に丸聞こえの高笑いである。

かつてラーブリー県で出会った日本人比丘は口数少なく、堅い話しかしない真面目なお坊さんでした。そんな比丘イメージを崩してしまう藤川さんの黄衣を纏った今の姿。喋る相手ができたと言わんばかりの“泊まって行けや”誘いであったのは後々に分かることでした。

捲くし立てる話も一旦中断して、和尚さんのところへ連れて行かれ、和尚さんと初対面。タイ人のように上手くはない、ワイ(合掌)して御挨拶。

和尚さんはニコニコと「そうかそうか、よく来たな、遠慮なくゆっくりして行きなさい」とおおらかに温かく迎えてくれました。藤川さんが言う和尚さんの前評判は「ここの和尚は見栄っ張りでふんぞり返って偉そうに話すから見とき!」と言い、和尚としての立場もあると思いますが、そんな背伸びある雰囲気の和尚さんでありました。

「今度来た時、出家させて貰えますか?」と尋ねると「ダーイ(いいよ)!」と言ういとも簡単なお許し。先に話はついていることでしたが、和尚さんからの直接の承諾でまた確実さが一歩前進。

初期段階として、出家に向けて前準備が整っていきました。この後、神聖なる仏教寺のイメージが崩れる藤川さんの日課を見ていくことになりますが、その中身は真剣で、奥深い修行であることを徐々に実感していくのでした。

5ヶ月ぶりの再会(1994年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

◆三帰依再び!

ムエタイ以外でタイで出来る伝統文化って何だろう。そんな思い付きから、あの黄衣を纏って歩いてみたいという安易な妄想を描いてしまった若い頃。

しかし何の信仰心も無く無宗教で育った私は、日頃、両手を合わせる時は、学校給食の「いただきます!」と、苦しい時の神頼みしかありませんでした。成績最悪だった私は、地元の評判悪い私立の仏教系高校に辛うじて受かり、そこで毎朝合掌して唱えさせられたのが、

「ブッダン・サラナン・ガッチャーミー、ダンマン・サラナン・ガッチャーミー、サンガン・サラナン・ガッチャーミー」で、この意味は習ったはずも全く覚えておらず、卒業後の人生、全く頭に過ぎらぬほど、三帰依などすっかり忘れていました。

藤川清弘氏の著作。人物像はここにあり!

子供の頃からキックボクシングを観ていなければ、あの千葉にあるジムに行かなければ、そこであのタイ選手に会わなければ、そのタイ選手のバンコクのジムに居候しなければ、その近くで藤川清弘氏が日本料理の幟旗を立てなければ、その店へ行こうと日本人選手に誘われなければ……、これらのどこかで運命がほんのちょっとでもズレていれば、藤川氏と出会うこと無く、私は出家には至っていなかっただろうと思うのです。

対する藤川氏も波乱万丈の人生を送り、タイで事業を始めた人でした。この人もどこかで運命がちょっと違った方向に行っていれば、あそこであの時期にお店を開くことはなかったでしょう。いろいろな原因が結果となって現れ、それが次の原因となって次の結果を生んで続いていくことを“因果応報”と言います。

そして高校卒業後15年も経ってこの三帰依を再び唱える時が来てしまったのです。もしかしたら、あの嫌で嫌で仕方なかった高校に通った日々が原点だったのでしょうか。

◆幟に釣られた我々!

そんな運命に導かれるまで呑気に生きていた私は、1993年7月、バンコクのタリンチャン地区にあるムエタイのゲオサムリットジム宿舎となるアナン会長宅に居候していました。アナンさんは以前、キックボクシングの習志野ジムでトレーナーをしていた選手で、そこで偶然知り合った仲でした。そのアナン宅のある集落からすぐ出た小道に「たこやき」「やきそば」といった露店の幟旗が5本ほど立った、日本料理店であることを察する、オープンカフェ風の小奇麗なお店があるのを何度か通りかかった際、目撃していました。私はタイに来てまで日本料理は食べたくなかったので、一度も立ち寄ったことはありませんでした。それまでは……。

イメージ画像、実物とは関係ありません。オープンカフェ風レストラン!

タイの日本料理店がお客を釣る手段として用いる幟旗のイメージ画像。写真はタイ現地のものではありませんがこんな感じです

日本人の心を知り、適切に指導できるアナンさんのところへ、日本人キックボクサーが修行にやって来るのは当然の流れで、私が来てから2週間後にやって来たのが当時、日本のキックボクシングトップクラスにいた立嶋篤史選手でした。彼とはデビュー前から知り合いで、以前にもバンコクの別のジムでも一緒に過ごしたことある気兼ねない仲間内でした。

ジムが練習休みのある日曜日、アッシー(=立嶋篤史)から「あの日本料理の店行ってみましょうよ」と誘われる運命へ。彼は元々タイ料理が苦手で、これより5年前のムエタイジムで出会った新人の頃は、味付け海苔とフリカケとインスタント味噌汁を日本から持って来て、これだけで白飯を食べていたほど。その後、タイ料理はほぼ克服していましたが、近くに日本料理店があれば、彼の本能が赴くのは当然のことでした。私は付き合いがてら見学目的で一緒に行くことになりました。

店に入ると、テーブルに着いていたオーナーらしきゴツイ顔のオッサンが、「あんたら日本人やろ、どこに泊っとるんや!」。いきなり関西弁で遠慮ない問いかけをしてくるのが藤川清弘(当時51歳)氏でした。アッシーも活発な青年で意気投合し、藤川さんのツバ飛ばしながらよく喋る関西弁との上手く噛み合う会話が続き、ほとんど喋らない私は聞き役に回る程度でした。日本料理のメニューをお願いすると、藤川さんは「日本料理なんかあらへんで!」とあっさり。我々は「幟に書いてあるのはメニューに無いんですか?」と聞くと、藤川さんは「幟は客釣りや、タイ人には珍しい旗やろ、ワッハッハッハッハ!」。我々も引っ掛かったことに笑ってしまいました。

◆仏門の話題が出た!

アッシーはバンコクでの試合が決まり、減量も始まり、藤川さんの店に行くのは私だけになっていました。従業員の女の子とも仲良くなり、そちらの方が楽しみな日々。それまでの藤川さんとの雑談も、京都で地上げ屋やってたビジネス話から仏門の話がチラッと出た頃でした。

「ワシなあ、今年の1月から6月まで坊主やっとったんや」と見せてくれたのが、巡礼先で撮ったと見える黄衣を纏った坊主頭の藤川さん。このお店での姿はポロシャツにスラックス。髪は短めの七三分け。地上げ屋やってた人とは思えぬ比丘姿でした。

「ワシなあ、もう3~4年したらもう一回坊主やろうと思とるんや、今度は還俗はせんで、一生仏門に居るつもりや、堀田さんも短期でええからやってみたらどうや、日本では絶対に体験できへん良い人生の勉強になるで、得度式かて口移しで教えてくれるし、経文も覚えんでええ、ワシの時もそうやった!」

そんな言葉を掛けられて、過去にラーブリー県で会った品ある日本人僧や、以前付き合っていた彼女の弟の得度式での姿と、TBSの新世界紀行で見た日本の若者二人が出家した姿、それらが一気に頭を過ぎると、あんな姿で歩いてみたいという、お調子者の自分も挑戦してみたい気になりました。

とりあえずそんな縁だけ繋いでおこうと「僕もやりたくなったら誘ってくれますか、藤川さんの居る寺で」と言うと藤川さんは、「ええよ、面倒見てあげる、何も難しく考えんでええから!」と前向き対応。先はわからない簡単な口約束でした。3~4年後なんて仕事が忙しくなってタイには来られないかもしれない。機会あってもその時はビビッて怖気ずくかもしれない。でもまだ起きてもいない先のことは考えず、また雑談に店を訪れる日が続きました。

◆祝勝会もお別れ会も無く!

「アッシーが勝ったら祝勝会やろう」と言ってた藤川さん。アッシーは見事にKO勝ちしたものの、試合直後は日本とタイの雑誌取材等に追われ、すぐに店に訪れることは出来ませんでした。

試合翌日、私だけ訪れると「勝ったんか、たいしたもんやなあ、でも来れんのか、何でや~!?」とガッカリした様子の藤川さん。知り合って間もない関係だけに後回しになるのも仕方無いことでした。それはわずか5日間ほどのことでしたが、その後二人で訪れると、お店から藤川さんの姿が見えなくなっていました。

店の女の子に聞いても「社長はどこに行ったのか、いつ帰るのか分かりません」という返答。いつ行っても状況は変わらず、アッシーは先に帰国し、2週間ほどして私も帰国日になり、「もう藤川さんに会うことは無さそうだな。口約束はあくまで確約では無いし、祝勝会はもしかして御自身のお別れ会のつもりだったのかな」と頭を過ぎりながら、私は帰国の途についたのでした。

やがて2ヶ月ほど経ち、郵便受けに藤川さんからの手紙が届いていました。そう言えば名刺を渡していたなと思い出し、ここから切っても切れない恐ろしい腐れ縁の始まりとなっていくのでした。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』10月号!【特集】安倍政権とは何だったのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

いっしょに寝そべって撮りたくなるユニークさを誘います

サーラケーウクーの世にも奇妙な石像たち

国境を越え、入国手続きを済ませてタイ領土に戻ると安堵感がありました。タイの方が慣れた土地、まだ広くて静かなノンカイに居ることが幸せな気分でした。

「ビエンチャンの街はどうでした?」と大阪弁オジさんに感想を聞かれ、率直に「楽しかったです!」が本音であり大雑把過ぎる返答をし、ビエンチャン談議もそこそこにノンカイの見所を教わって出発準備。

そこでオジさんに呼ばれた隣の店で休憩中のトゥクトゥクの色黒の運ちゃん。観光地3箇所と最後にミーチャイター寺を巡ってノンカイ駅前に戻って来るコースをお願いしてくれました。

◆ノンカイで寺巡り

願い事、占いも人気のポーチャイ寺、祈る女性が奇麗だと見とれてしまいます

聖水を掛けられる願掛け、有難さが増します

最初に向かった先は、サーラー・ケーオ・クー(ケーク寺)、ビエンチャンにあるブッタパークと同じような形でノンカイにも造ったらしく、仏教とヒンズー教が入り混じったと言われる、多くの奇妙な石像が立ち並び、見応えある寺の庭園でした。

写真を撮るなら何を主役に撮るか、彼女や友人が一緒なら、人と多くの石像をどう捉えるかなど撮影のいい勉強になる、そんな利用価値ある広い庭園です。

2番目に向かったのが、ポーチャイ寺。ここも大きな寺で観光スポットとして女性が多い賑やかな寺でした。願掛けや運勢を占う者、比丘から説法を受ける者多く本堂が広いので、仏陀像の前に長く座って我人生の在り方を心で問いかけてみるのも心安らぐ場所でしょう。

◆過去を振り返るノンカイの街

3番目に向かったのはメコン河沿いにあるターサデット市場で、メコン河沿いから対岸のビエンチャンを眺めたことで両岸から眺める目的も果たせ、運気を上げる充実の時間でした。河沿いにあるラムドゥアン寺に近寄ると、掃き掃除をしていたネーンに「上まで上がっていいですよ」と誘われ、高い本堂の最上部に上がって眺めるメコン河もいい眺め。この寺もいいなあと、“隣の芝は青く見える”状態でした。

ノンカイには幾つか市場があり、このターサデット市場は広い敷地で22年前、ビエンチャンで知り合ったアメリカ人青年がこの市場で簡易湯沸かし器を買っていましたが、古く懐かしい電化製品も日用品も何でも揃う市場です。

平日の昼では人通りが少ないですが、夜や日曜日は賑わう市場です

多くの仏陀像が売られるお店、タイにはまった者は仏像には興味をそそられます

ターサデットは船着場でもあり他の箇所でも、“矢切の渡し”のような船の発着場がありますが、観光客は出入国手続きのあるところしか乗ることはできません。でもそんな矢切の渡しで国境越えを経験したいものです。

昔、托鉢で歩いた懐かしい道をトゥクトゥクで走り、一昨日に続き、ミーチャイター寺へ訪問。

本堂が開いていたので勝手に入り、一人で三拝。朝4時と夕方6時に始まる読経に藤川僧と加わった数日や、先のアメリカ青年をここで出家させた記憶が蘇りました。「あれから22年だぞ」と時間の大切さを実感させる仏陀の目線でした。

この日は和尚さんのお兄さんという俗人のお寺の世話人と偶然対面。タイ人は信頼ある友人は皆、兄弟みたいな呼び方をするので、和尚さんとは血縁関係は無さそうな風貌。この日も念の為、この寺で撮った昔の写真を持って行ったので、この兄さんに見せながら22年前のことを話してみました。

「和尚は明日戻るけど来るかい?」と言われても、私らは明朝の列車でバンコクに帰らねばなりません。「じゃあまた来てくれ、和尚に伝えておくから」と、わずかな信頼関係を作って、同行友人から奪ったマイルドセブンをプレゼントし、この寺を後にしました。

ミーチャイター寺本堂、壁画は仏陀の一生。ここでの思い出も蘇ります

どこの屋台でもこんな光景が日常的

ノンカイ駅に佇む地域犬

プラットホームに入って来ても追い払われないのどかな田舎の駅、馴れたものです

この道路を挟んだ向かい側の路地の奥に“ミーチャイトゥン寺”があり、今は改築されて建物の造りが変わり、ミーチャイトゥン寺と気が付かぬほど。色黒運ちゃんがなぜか機転が利いて最後に立ち寄ってくれましたが、この寺は22年前、比丘としてノンカイに来た際の最初にお世話になった寺でした。より交流が深まったミーチャイター寺から比べれば記憶から外れてしまいましたが、いずれまた来なければならないと誓って最後の訪問地を去りました。

◆再び煩わしいバンコクへ

「ノンカイ観光はどうでした?」と大阪弁オジさんに聞かれて、率直に「楽しかったです!」と本音であり大雑把過ぎる、同じこと繰り返す返答をした後、雑談に花を咲かせる飲み会状態。この店では簡単なバミー(ラーメン)や炒め物など5種類だけのメニューをやっているという大阪弁オジさんの奥さんが切盛りする屋台で、ノンカイ・ビエンチャンの旅では最後の晩餐となりました。ビエンチャンで使ったトゥクトゥクやタクシー値段は「ちょっとボラレとるね!」というオジさんの率直な回答。ちょっとどころではなかったかもしれません。

翌日早朝は、6時40分に駅に入り、列車の到着を待ちました。前日、ノンカイ駅で列車乗車券を買っておきましたが、早朝7時発なのに窓口で「明日は6時30分までに来なさい」と言われ、その意味深く考えず見過ごしていましたが、バンコクからやって来る寝台列車が折り返して行くのだと思って、6時45分頃到着した寝台列車の切り離しや清掃を待ち、乗車できるタイミングを見計らっていたら、なんとトゥクトゥクの昨日の色黒運ちゃんが突然やって来て、「君ら、この列車じゃないぞ、向こうの列車だ」と言われ慌てました。

知らなかったら乗り過ごすところでした。日本と違い低いプラットホームで、通常は線路を渡れるものの、手前に列車がいては2番線に行くには大回りになるので、車掌さんに頼んでくれて両側のドアーを開け、2番線の列車に導いてくれました。乗車券窓口での「6時30分までに来い」と言う意味がこの時初めて分かる、鈍感な我々。

「色黒運ちゃんには感謝する、ビエンチャンのタクシー運ちゃんよりいいオジちゃんだ、また会いましょう」と簡単な御礼を言って笑顔で別れました。この色黒運ちゃんもまた使ってやりたいオジちゃんです。

この地で生きるトゥクトゥク色黒おじさん。また思い出の仲となりました

◆バンコクでムエタイ関係者との最後の晩餐

列車はやや定刻遅れの17時20分にバンコク・フアランポーン駅に着き、最終宿泊地、スクンビット通りのホテルへ、早速の煩わしい渋滞を避け地下鉄で移動は大成功。夜はムエタイ関係者と旅最後の晩餐となりました。

帰りの列車の中で振り返ったこの10日間のタイ・ラオスの旅では、ペッブリーでの得度式に出会い、行かないつもりだったビエンチャンに渡り、予定より2日間を費やした為、昔バンコクでお世話になった人のところやサムットソンクラーム県のお寺へ行けず、更に再会したい人も増え、もう一度行かねばならないところかなり増えた旅となりました。

「またお会いしましょう」と何人に言ってきたことか、この先また“22年後”にならないよう急ぎたいものです。その頃は生きてても長旅は無理かもしれません。

今回は過去に比丘として訪れた街を再訪問しただけの単純な旅でしたが、ノンカイへ向かう列車の中で、「途中下車したらどうなるだろう」と頭を過ぎるも、過去に訪れた地方都市を通過しました。過去にはムエタイ選手が、試合が終わってロッブリー県への里帰りに同行したことや、試合取材で訪れた地方都市などを再訪問するムエタイ絡みの旅も機会あればしてみたいと思います。

単なる日記形式の羅列でしたが、この旅で偶然出会った地元の人達との触れ合いが強烈に記憶に残る楽しさがありました。これから、現在のこんな出会いに繋がった22年前のタイで出家した物語に移りたいと思いますが、興味御座いましたらお付き合いくださいませ。

夕陽のメコン河、対岸からやって来る船、見ていて飽きない風景です

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき最新刊『紙の爆弾』10月号!【特集】安倍政権とは何だったのか

9月15日発売『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

トゥクトゥク後方から見たビエンチャンの街

かつてお世話になったチェンウェー寺を後にし、優雅なメコン河沿いを歩いて、名残惜しくもトゥクトゥクに乗って観光地巡りのひとつ、シーサケット寺に向かいました。バンコクと違った静寂な空気に酔っていられるのも今のうちです。

シーサケット寺はラオス最古と言われる寺院で、その歴史は何も学習していませんが、ここも22年前にチェンウェー寺の少年僧に連れて来て貰った、そんな思い出が意識に残りました。

◆ラオスのタクシードライバー“荒勢運ちゃん”と市内観光

タラーサーオショッピングモールは覚えやすい、待ち合わせにもいい場所。近隣に市場もあります

街中で売られる焼きバナナのお兄さん

更にここから歩いてタラーサーオ市場へ向かう途中、街中に高いビルは無く、バンコクとは大きく違う人の少なさでした。この辺を散策した後、夕暮れになり他の観光巡りは明朝に回し、トゥクトゥク集団から少し離れたところに小奇麗なタクシーが止まっていて、ちょっと強面な元関脇・荒勢みたいな運転手でしたが、これに乗ってホテルに戻りました。

このタクシーの“荒勢運ちゃん”が「ラオスに来たらまた呼んでくれ」と名刺をくれ、「機会があればまた」と言いつつ、これっきりになるであろう荒勢運ちゃんと別れました。

翌日、ノンカイに戻る前に予定に残った観光地に向う為に出発準備。チェックアウトは12時なので、それまでに戻る予定で昨日乗ったタクシーを呼んで観光巡りを提案した友人。

二度と会わないだろうと思った昨日の荒勢運ちゃんの名刺の番号に電話し、「今、空いているならとりあえず来てくれ、話はそれから」と言って切りました。

早速10分ほどでやってきた荒勢運ちゃん。意外な再会をしてしまったこのオッサンにもう友達感覚で、パトゥーサイ(凱旋門)、シームアン寺、タラーサーオ市場を巡ってホテルに戻ってくるコースをお願いするとすぐ了承。昨日より笑顔が増えた荒勢運ちゃん。

◆鳥を逃がして徳を積む

パトゥーサイ(凱旋門)も以前、少年僧に連れて来て貰ったことがある門。フランスの凱旋門を真似て建てられたと言われるモダンな建物です。「30分ほどで戻ります」と言ったのに最上部で物想いに耽り1時間ほど経ってしまいました。

アヌサワリー(記念碑)パトゥーサイ(凱旋門・勝利の門)資金難で未完成のままの営業だそうで

パトゥーサイ(凱旋門・勝利の門)最上部から見たビエンチャンの風景

次に行ったのがシームアン寺。若い女性に人気ある寺らしく、賑やかな境内、華やかな仏像や動物像が目立ちました。比丘に幸運のバーシー(糸)を巻いてもらう願掛けはなかなか効き目ありそうです。

女性が訪れるシームアン寺で、幸運を呼ぶバーシー(糸)を巻いてもらう参拝女性

シームアン寺の幸運を呼ぶドラ。マレットで三回叩くそうです

寺の外には、鳥を逃がして徳を積む善行を売り物とするお店もあり、これは逃がしてもやがて戻ってくると言われる習性のいい雀で、商売上手い善行。

最後に土産物物色にタラーサーオ市場ショッピングモールを散策してホテルに帰りました。これで荒勢運ちゃんともお別れです。今度こそ本当に、「またラオスに来たら呼んでくれ、タクシー運転手はずっと続けているから」と言われて昨日と同様に「またお会いできること願っています」といい加減なこと言って別れました。やっぱり縁は無さそうですけど。

鳥を放してやる善行で徳を積む行為もラオスでは古くからの習わしです

徳を積む為の鳥を掴もうとして一匹逃げましたが、何の心配も無く次を捕まえていました

国境越えのバスの正面から、ひび割れも気にしない日々の営業

◆空気が読める荒勢運ちゃんとサパーンミタパープ(友好橋)を渡る

ホテルに戻ると部屋のドアーは開いていて室内清掃がほぼ終わっている感じ。しかし不快な点がひとつ。私はアトピーで少々腕を引っ掻いてしまうのですが、シーツに少々血が付いているのにそのシーツは替えずにベッドメーキングが終わっていました。次の客にこのまま使わせるのか、私らが連泊と思っているのか、「なんと大雑把なホテルだろうか」と思ってしまいました。しかし理不尽な想いはタイでもいっぱいして来ましたし、日本の常識で愚痴っていても仕方無いと妥協。

12時を回る前にチェックアウトし、外に止まっているトゥクトゥクにサパーンミタパープ(友好橋)まで交渉すると、「500バーツ!」と言ってくる(100バーツ=約300円)。昨日今日と市内をだいたい100~200バーツで済んできたのに、あまりの高値に苛立った友人。「さっきのタクシー呼びましょう」そういう友人に、これで最後と別れたばかりの荒勢運ちゃんをまた呼ぶことになり、「もう一回来てくれますか?」と電話しました。3度目の利用となる荒勢運ちゃん。「彼にとって名刺の効果は凄く効いただろうな」と言いつつ待っていると、

「あっ!タラーサーオ市場のバス乗り場に行くんじゃなくてサパーンミタパープ(友好橋)だよな。あの橋からタラーサーオまでバスで30分ぐらい掛かったんだから20kmぐらいあるな。500バーツはそんなべらぼうな高値じゃなかった!トゥクトゥクの運ちゃんに悪いことしたなあ。」と後悔しつつ、せっかく呼んだタクシー荒勢運ちゃんを待ちました。

何の因果か、「また呼んじゃいました。サパーンミタパープまでお願いします。」
笑っている運ちゃん。「これで本当の最後」と内心思って乗り込みました。
サパーンミタパープに向かう途中、荒勢運ちゃんに「他に観光はしたの?」と聞かれ、

「観光は無いですが、チェンウェー寺を知っていますか?」と聞き返すと運ちゃんは、

「ああ知っている、中まで入ったことは無いが。」と応えられ、そこで「あの寺、私が坊主やってた頃、ビザ申請の為にビエンチャン来た時、泊めて貰った寺なんですよ、昨日22年ぶりに寺を訪れたんですが、いろいろ世話になった当時の比丘は誰もいませんでした。和尚が代わったかもわかりませんでした。」と言うと、「俺が聞いて来てやろうか、今から行くか?」

一瞬迷いつつも、「先を急ぐので今回は諦めます。今度ラオスに来た時、当時の写真を持って来るので、当時の比丘やデックワット(寺小僧)らの居場所など手掛かり掴めたら、車で一緒に尋ねに行ってくれますか?勿論ビジネスとして」とやる気を誘うと、「わかった、ぜひ連絡してくれ」と願うことは伝わり、協力者を準備しておけば心強いものだと感じました。

ただこの荒勢運ちゃん、会って丸1日足らずのドライバーと客の関係です。信頼関係が保てるかは全く分からず、ただ効率的に稼げるなら損なビジネスではないはず。こちらの負担は大きいものの、空気の読める荒勢運ちゃんは利用価値はありそうでした。

しかし「果たしてまたラオスに来ることがあるだろうか」という可能性低い中、実際必要無い旅でも、新たな出会いが次の旅を面白くさせるかもしれないのです。
藤川(かつての先輩僧)さんが導いてくれた運命なのか。いつも私に「前向きな行動せえよ」とくどいこと言っていました。藤川さんはいつも活発に、ある時は厚かましく人を頼り、その新たな出会いから更に旅を重ねた巡礼の旅の知恵を持った僧生活でした。私と藤川さんも不思議な運の積み重ねでの出会いでしたから、そんな思想まで潜在意識の中で身に付いたのかもしれません。そんなこと考えている間に国境のサパーンミタパープが見えてきました。

二度と会うことは無いだろうと思ってた荒勢運ちゃんとやっと本当の別れがやってきました。「またぜひお会いしましょう。連絡します」と腐れ縁になるかもしれない予感を残し、握手して別れ、イミグレーションに向かいました。

また導かれるまま無事国境を越え、ノンカイへ戻って来ました。時間が無いので、寝台列車でバンコクへ戻る計画もあった中、「ノンカイの街はほとんど観光していないのでもう一泊しましょう」と友人に勧められ、ノンカイ駅前のホテルへ再度泊まることになりました。空き部屋は問題無い時期で無事チェックイン後、駅前の屋台の大阪弁オジさんのもとへビエンチャン談義に花を咲かせに行き、ここから最後の旅、ノンカイ観光へ移っていきます。

国境越えのバスの中から。ラオス・ビエンチャンからタイのノンカイへ戻る

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

ビエンチャン。メコン河沿いのアート

日本を出る前、「スケジュール的に今回はラオスまで行くのは無理だな」と納得して日本を立った私。ビエンチャンの寺も行きたいが、また次の機会にと思っていました。ところが、ノンカイに行くに当たって「せっかく行くんだからラオスまで足を延ばしましょう」と同行の知人に勧められて、バンコクにも用を残しており、「時間があれば行きましょう」と曖昧にしたものの、ノンカイに着いてからラオスへ行くことを決心。

そんな気にさせたのは、ノンカイに着いてミーチャイター寺から見たメコン河でした。夕景の対岸に手招きされたような、行かないと悔いが残るような、向こうにいい女が居るような、そんな単純な動機でした。そうなるともう時間が足りなくなっていきます。早速翌朝、国境の橋を渡ることになりました。

◆サパーン・ミタパープを渡る

ノンカイに着いたその日に泊まったホテルはノンカイ駅前にあり、その夜、同行の友人が駅前の屋台の連なるひとつの店にビールを買いに行ったところ、店主が日本人男性で「いっしょに飲みませんか」と誘われ、私も同行することになりました。

このお店の主は、この地に移り住んだ波乱万丈の人生がある、大阪弁で気さくに話す年輩のオジさん。こんな偶然の出会いも旅の面白さです。翌日私達がラオスに行くことを話すと、サパーン・ミタパープ(タイ・ラオス友好橋)を渡る手順を丁寧に教えてくれる有難さ。国境越えは緊張あっても難しい関門ではなく、必要な手順を覚えておくだけでした。今は列車も走る橋ですが、1日2往復しかなく、大多数派は専用バスでの国境越えになります。

翌朝出発、タイ側出国手続きを済ませ、橋を渡るだけのマイクロバスに乗り、1kmほどの橋を渡りきるとラオス入国手続きがあり難なく通過。

ノンカイから乗った国境越えバス内

国境越えの真ん中。サパーン・ミタパープ(タイ・ラオス友好橋)から見たメコン河。左がビエンチャン、右がノンカイ

道に迷えば同業者に聞くのが一番

ラオス入国後も、ノンカイのオジさんが言っていた「タラーサーオ市場行きのバス乗り場が入管出た右側にあって、手を振って招く運転手らが居るから」と言っていたとおりに、その方向に絵に描いたように手を振るオッサンがいました。

導かれたその古いバスに急いで乗ると、30分ほど乗っている間に地元の客も少年僧も自然な感じで乗り降りする当たり前の日常。ラオスは右側通行で乗降口も右側であることもタイとは違う異国に来た感じを受けました。

◆トゥクトゥクはオバさんドライバー

タラーサーオ市場に着く直前に、「バスはもう間もなく着くよ、降りたらこっちだよ」と車掌のような振舞いを見せたお兄さん。なんとバスに乗っている時から客引きをしていた油断ならないトゥクトゥクの兄さん。振り切って先を進み、導かれるまま乗ったトゥクトゥクはオバさんドライバー。でもすでに客として荷台席に別のオバさんが乗っており、乗り合いタクシー状況。相場もわからないのでほどほどの100バーツで成立。目的地のホテルまで、この時はタイバーツで払いましたが、タイバーツとラオスキープのレート換算が咄嗟にはできない状況でした。大雑把ですが、100バーツ=約300円=約25000キープ。市場で見た1キログラム10000キープのランブータンは約40バーツ=約120円。「10000キープ」なんて書いてあると何かボッタクられているような錯覚を受けてしまいます。

道に迷いながらホテルまで送ってくれたオバさんドライバー

タラーサーオ市場

市場のランブータンは1kgで10000キープ(約120円)

市場で食べたクイティオ(うどん)

言ったとおりのホテルに辿り着けないオバさんドライバー。こちらも慣れない土地で初めて行くホテル。同じこと何度も聞かれても困る。「客を不安にするなよ」と思うところ、他の運ちゃんに尋ねながらもようやく到着すると、「良く頑張ったね」と、逆に褒め言葉が出てしまいました。

滞在日数も少ないので荷物を置いて早速外出を試み、行き当りばったりながら再びタラーサーオ市場へ向かいました。どの方向に降りたかわからぬまま、雑貨市場に入ると、観光客向け土産物や隣接する生鮮食料品の市場には屋台もあり、そのひとつでクイティオを注文。人懐っこいオバさんたちがニコニコしながら話しかけてくれるところは、首都ではあるが田舎風の穏やかさが安らぎを与えてくれます。そんな穏やかな市場が一気に停電しました。外光が入るのでそんな暗くはないものの、そんな「またか」といった日常茶飯事に笑っている市場の人達。10分ほどで復旧すると拍手が起こる目出度さ。

◆22年ぶりに訪れた寺チェンウェー寺

さて、私がラオスに来た目的のひとつながら、もうその存在は無いかもしれない覚悟をして、チェンウェー寺に行くことにしました。この寺は私が比丘の時、ノンカイのミーチャイター寺の和尚さんに紹介されて、ラオスに来て泊めて頂いた寺でした。

トゥクトゥク運ちゃんにチェンウェー寺まで頼むと、すぐ理解され早速向かいました。存在はしている様子。メコン河に近づくと古い屋敷が立ち並ぶ集落に入り、かすかな記憶にある風景と合致していきました。そして運ちゃんが指差した先に寺があり、チェンウェー寺に到着。

22年ぶりに訪れた寺は以前と変わらず静かで比丘も少なそうな雰囲気。サーラー(講堂=読経の場)の外で掃き掃除をしていたネーン(少年僧)に「和尚さんはいますか?」と尋ねると「今、和尚はいません。」と言われ、葬儀や得度式といった数時間で戻れる様子ではなく、「まさかインドネシアですか?」と尋ねても「わかりません」という回答。

私が昔、比丘としてこの寺に来たことがあると伝えても信じて貰えないのか、些細なことしか掴めない状況でした。当時の若い比丘たちも当然ながら今は全くいない様子。ここで会ったネーンも22年前はまだ生まれていない訳で、昔のことを尋ねるにも限界があり、そもそも私がラオス語無視してのタイ語が通じていないところも多々ありました。

ラオスには行かないと思い、持って来なかった当時の彼らの写真。言葉は通じなくても写真で分かる情報はかなり多かったはず、と悔やんでいる場合ではない。「まだこの寺が存在していることが分かっただけでもよかった」と思って、ネーンに「また近いうち改めて来ます。またお会いしましょう。お元気で!」と言い、寺にもワイ(合掌)してメコン河に向かいました。

22年ぶりのチェンウェー寺の門。外観だけは昔のまんま

チェンウェー寺のサーラー(講堂=読経の場)

◆ビエンチャンのメコン河沿いを歩く

観光地ではないこの寺には興味無かったか、友人は早々に寺を出て先を進んでおり、追いかけつつメコン河沿いを歩き、対岸のノンカイを眺めました。

ビエンチャンのメコン河沿いの道も舗装され、ビアガーデン風レストランもあり、新しいホテルも建ち、かなり変わってしまいました。少々歩けばまた舗装の無い道がありますが、昔の河沿いは河が見えないほど木々が生い茂っているところもあったのです。

メコン河の流れのように、人生の流れも緩やかに変化していて、この旅だけではない、残された人生の時間も迫っていることに気付かされる想い。

そんな教えを授けるようなメコン河を、ノンカイとビエンチャンの両岸から眺めることによって運気を上げるパワースポットとして、「メコン河はまた見に行きたい」と今後もここを目指して来ることでしょう。しかし、「ここはオッサン同士で来るべきではない、夫婦であったり、若い彼女連れて来るべきところでもある」と勝手に心に誓って歩きました。

物思いに耽る時間も勿体無いところ、帰国日は近くて滞在時間は少なくなりつつなる中、出来る範疇でここから更に一般的観光名所へ移って行きました。旅はまだ続きます。

ビエンチャン。対岸はノンカイ、心安らぐ風景

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

フアランポーン駅からこの列車に乗ってノンカイへ向かいます

二等列車の雰囲気、まあまあいい席です

得度式を見届けた後、その日のうちにバンコクに戻ると、早速の渋滞に巻き込まれました。バンコクでタクシーに乗れば昔と違いメーターが使われますが、それを使わず、値段交渉で高値を言ってくる運転手もいます。それはボッタクリと狙いがちょっとだけ違い、渋滞に巻き込まれたら時間のロスのみでメーターはさほど上がらず、利益に繋がらない様子です。それでやたら高速道路を使いたがり、当然、高速料金は乗客持ちですが、その方が利益率が上がるようです。

◆ラオス国境の街、ノンカイへ

ノンカイ行き列車で注文した弁当カオパット(焼飯)

そんな鬱陶しいバンコクを離れ、この翌日からタイ東北部のラオス国境の街、ノンカイに向かいました。シンガポールに行っていた友人も合流しました。

前日のうちにバンコクのフアランポーン駅近くのホテルに泊まり、翌朝には友人が近くの寺を見に散歩に出掛けた様子です。

「大勢の托鉢僧が歩いていましたよ」という戻って来た友人の言葉。「しまった、俺も行けばよかった」と思ってもすでに遅し。早起きが苦手は損です。

ノンカイは私が比丘の時、ラオスへビザ申請に行くため、「オモロイ坊主」藤川清弘さんと立ち寄った街でした。その時泊めてもらったのがノンカイ駅近くのメコン河沿いにあるミーチャイター寺でした。

そこの和尚さんは藤川さんと私がラオスに渡る際に、ビエンチャンにある知人僧の寺に行って泊まれるよう紹介してくれて少々のお金を持たせてくれた和尚さんでした。そこが懐かしく、今回はただ立ち寄るだけですが、いろいろ想いが過ぎります。

ガイヤーン(焼鳥=鶏の炭火焼)を売りに来たちょっとオカマっぽい兄さん

◆快適な二等列車でノンカイへ

時間も迫り、8時20分発のノンカイ行き列車に乗るため、早めに駅に入りました。駅に着いてしばらくするとタイ国歌が流れました。毎朝8時の国家行事、歩いている人は立ち止まり、座っている人は起立し皆、直立不動になります。

比丘として藤川さんと一緒にノンカイに向かった日も、夕方6時に国歌が流れたことを思い出しました。比丘と俗人では立場違う、緊張感も異なる瞬間でもありました。

以前は夜行寝台一等列車で行きましたが、今回は二等列車。乗り込んだ車内を見ると、総武線快速のような粗末な座席の並び。「これは違うぞ」と察知し隣の車両へ、するとありました旅行者向きリクライニングシートの座席。さっきの“総武線”は3等車、ここは快適な二等車と納得。

やがて昼飯の注文を取りに来る列車乗務員かわからない立ち振舞いのお兄さん。終点ノンカイ到着は夕方5時30分頃の予定。長旅をのんびり風景を楽しみながら行くには快適な列車の旅でした。

外の風景はバンコクのドンムアン空港を過ぎると、この辺から都心を離れた田んぼや畑に山や川の自然が続きます。地域毎に物売りも乗って来て、賑やかに勧めてくるも、鳥の炭火焼やもち米御飯、あまり欲しいとは思えないものばかり。注文した弁当はチャーハンでしたが、作り置きらしさはあっても旅の中で食べれば美味しいものでした。

タイの車窓から、コーンケーンを過ぎた辺りでしょうか

ホントに誰とも出会わない新ノンカイ駅周辺

◆寺が見当たらない

午後を回ると、そろそろ到着後の事を想定しました。

「18時から読経があると思うので、荷物持ったまま寺に行きましょう」と友人に断り、予定より若干の遅れて17時50分頃ノンカイ到着。この終着駅近くにミーチャイター寺が“あるはず”でした。

列車を降りると小綺麗な駅の構内と駅前風景。建て替えられたと思うも、駅前通りも広くて綺麗な道。とりあえず寺のあるはずの方向へ向かいました。

「人通りが全く無く、車も少ないぞ」と思ってもまだ「こっちだ」と固定観念から覚めぬ愚かさ。

少々歩くと団地の前で、赤ちゃんを抱いた主婦と幼い子を連れた主婦が、どこの国でもあるような井戸端会議をしている姿を発見。「こんな佇まいっていいなあ」と思う光景でした。

早速道を聞き、「ミーチャイター寺はどこにありますか?」と聞いてもわからない様子で、「寺はこの辺には無いよ……」と言う不可解そうな表情。

「メコン河沿いにあるんですが……」と付け加えると、「ああ、あの寺ね!」と気付いてくれ、「方向が違うよ、もっとあっちの大通り……」と指差し表情豊かに、説明が気さくで私らを旅行者と思っていないような振舞い。

「地元民らしさが滲み出ている、いい奥さんだなあ」と思いつつ、御礼を行ってその場を去りました。

◆寺はちゃんとあった

「ここに住んでどれぐらいですか」とか「日本人に会ったことありますか」と聞いてみたいところ、人通りの少ない道で、どこの馬の骨かわからないオッサン二人が長居するところではない。それより私らは寺に行きたいのだ。すると、道端に止めた休憩中のトゥクトゥクの運ちゃんに声掛けられ、ミーチャイター寺を交渉。今度はすぐにわかってくれました。

乗ってみればスイカが幾つも雑に置かれた足のやり場の無い荷台席。運ちゃんは「マイペンライ(大丈夫、気にするな)」と言われても、これが何とも勝手気ままなタイらしさが出ている運ちゃんでした。

寺の方向が違う時点でやっと気付いた、“ノンカイ駅は移動した”ことである。なんて愚かな私。来る前にyahooで調べておけば済むことでした。トゥクトゥクが寺の方向に向かうとやがて脳裏に記憶が蘇りました。旧ノンカイ駅があってその前の道が人通り多い活気ある“ケーウ・ウォラウット通り”で、少々街中側に歩けばミーチャイター寺があります。そのとおりにトゥクトゥクは寺の門をくぐってクティ(僧宿舎)の前で止まりました。

「寺はちゃんとあった」と言うまでもない安堵感。やはりこの寺も20年も建てば改築され、綺麗なクティとなっていました。メコン河沿いにあるので、寺のすぐ横は川幅1kmほどあると言われる泥水の大きなメコン河です。そこは元は船着場となっていて、“ター”はそれを意味し“ミーチャイター”と呼ばれる寺なのです。以前は土手だった川沿いも、今やコンクリート敷きの歩道と柵があり綺麗になった分、自然が減った感じがしました。

ノンカイのミーチャイター寺本堂、私にとってだけ思い出深い寺

◆比丘として訪れた懐かしい寺

外に居たネーン(少年僧)に「和尚さんは居ますか? 和尚さんはこの僧ですか?」と22年前に撮った和尚さんの写真を見せると「ハイ、この僧です。でも和尚はインドネシアに行っているので今は留守です。6月1日に帰って来ます」と言われてガッカリ。

われわれは帰国日が迫っているのでひとつの箇所で長居は出来ない。恩返しもあってぜひ会いたかった和尚さんでしたが、和尚さんが以前と変わりないことだけ分かっただけでも次に繋がったと喜べるのでした。以前居た他の比丘は誰も居ない様子で、挨拶をメモ書きしたその写真をネーンに渡し、「22年前の日本人が尋ねて来たことを伝えてください」と伝言しました。

ホテルに行ってチェックイン後、夜の街を散策。市場が幾つかあるようで、そのひとつに導いてくれたトゥクトゥクの運ちゃん。賑やかな屋台が並ぶ街中でしたが、その日の晩飯をそこで摂りました。

寺巡りは単に私が比丘として訪れた懐かしい寺でしかありませんが、観光地では行かない土地巡りという視点も重要な目的でやって来たノンカイの街。翌日には、当初は予定になかった対岸のラオスに向かうことになります。

ノンカイ側から見たメコン河

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

得度式の前に、比丘にお布施を捧げる儀式

親族への出家の報告をするワサンくん

さて、ここからが得度式の本番です。本堂内に親族とともに全員が入ると、比丘(びく=僧侶)総勢が仏陀に三拝(三度拝礼)しました。そして親族から出家志願者のワサンくんへ黄衣(僧衣)を授け、そのまま比丘と同じ台座に上がり、和尚の前に座り、その黄衣を捧げます。式に入る前、本堂を三周歩いたのは、三帰依(仏・法・僧へ帰依)を意味します。

◆口伝で受け継がれる問答と説法

得度式においての説法の中では、パーリ語による経文どおりの問答で、簡単な指示や誘導に入る場合はタイ語が使われますが、出家志願者側からの出家願いの言葉、三帰依と二二七の戒の誓いの言葉、和尚や先輩比丘が「私に続け」と誘導してくれる口移し的な問答が続きます。

比丘側からの出家願いの言葉や、和尚側からの資格の確認、比丘の心構え、黄衣の三つの衣(上衣・下衣・大衣)の説明など、和尚からの説法を2時間近くに及ぶ、汗だくになりながら続く長い得度式となります。

形式的な流れでも、この “プロ”たちの行なう姿勢は真剣で、信仰心の薄い日本人が安易に立ち会うことは知らぬ間に、無知な行動を起こし、大迷惑を掛けていると察する状況でもありました。本来、親族や在家信者は比丘の上がる台座より後方で座って待つのが常識で、さすがに台座には上がってはならない一線は越えぬも、ここにいてはいけないであろう比丘の後ろにまで回って私はカメラを向けていました。

親族から出家者へ黄衣を授けているところ

出家を認めた上で捧げられた黄衣を授けています

実際、高僧の説法の場では「ここは下がれ!」とベテラン比丘に手で追い払われる仕草をされ、「やばっ、睨まれたな」と思うも、高僧の問答が終わると、また手招きで「また入っていいよ!」という仕草をくださり、「俺って経験者であるせいか、特例だろうな」と思いつつ、カメラマンの本能を抑え、なるべく謙虚に撮り続けました。

◆比丘が纏う黄衣の意味──敬意と非暴力

比丘になることを許され、黄衣に着替える際は仏壇の後方に回り、先輩比丘が三僧居る中、真新しい黄衣を解き、新米比丘に纏わせてあげます。さすがベテラン比丘は手早く上手く折りたたみ巻き付けていきます。俗人のそれまでの人生では黄衣に触れる機会も無く、これを明日の朝から自分で纏わなければなりません。

儀式用纏い方が得度式で纏っている姿で肩掛け帯があり、「ホム・ドーン(HOM DONG)」と言います。外を歩く場合の纏いは両肩を覆う纏い方になり、「ホム・クルム(HOM KLUM)」と言います。通常、寺に居る場合は右肩を出す姿になり、「ホム・ロッライ(HOM LODLAI)」と言います。個々の比丘がよその寺に行った場合も寺に入る前に門の陰で右肩を出す纏いに変えなければいけません。この纏いは寺に入り、相手方に敬意を表する意味と、攻める意思は無いことを表す意味があるようです。

黄衣を纏った新米比丘は、誓いや教えを受ける為に再び台座に戻り、説法が続きます。最後に比丘総勢で三拝して得度式は終了。列席した20名近い比丘は出家志願者を認める立会人のような存在となります。誰も反対する比丘はいませんが、我が身の為に列席してくれたことに感謝の念が沸いてくるものです。

ここからワサン僧は立派な比丘として日々を送ることになります。“君”や“様”という敬称は比丘には使われません。日本語で言えば“僧”になります。

和尚との問答

問答は長く続きました

次に比丘となるべく、黄衣を身に着けるよう指示します

◆「解脱を達成した」と自ら話すことは虚言の罪

本来は得度式の経文はすべて覚えて挑まなければなりません。厳しい戒律を厳格に守ると言われるタマユットニカイ派の学問寺や瞑想寺など格式高い寺では厳しい得度式となり、御丁寧な口移し問答はありません。そんな格式高い寺はバンコクのパクナム寺が有名です。もうひとつが大多数派と言われるマハーニカイ派と言われ、比較的緩い日常になっています。

「タイ語が出来なくてもいい、経文を覚えなくてもいい」と言われて得度式を行なえる寺でも、比丘と認められた後は修行の身であることは同じで、重罪となる過ちは僧院から追い出されることになります。許されない罪は、性交、盗み、殺傷、虚言の四つで、虚言とは軽いものやジョークではなく、「解脱を達成した」などと多くの俗人に話すことであるそうです。

軽罪と言える範疇で、生き物を殺してはならないという戒律では、蚊を追い払っていても、俗人の居ない場所では蚊取り線香も焚き、腕にとまった蚊を“パチン”と叩く行為を、私も日々やっていました。それらの行為は懺悔という形で日々反省の儀式を行なわねばなりません。托鉢の際、気付かぬ間に歩いていて蟻を踏んで殺してしまった場合もあるかもしれません。そんな不可抗力な行ないまで懺悔がなされます。

本堂の裏に回って先輩僧にサボン(下衣)を着けてもらいます

儀式の場に戻って続く比丘としての問答

また問答は続きます

これはバーツ(鉢)である、その意味を教えていく、黄衣もひとつひとつ教えられました

これで全員比丘の立場で仏陀に報告の参拝

ワサン僧としての、はじめの一歩

◆比丘の品格

このテラワーダ仏教の比丘の立場は崇高で、国王に対しても頭を下げる必要はなく、人から挨拶をされても返す必要はありません。托鉢や読経の場など神聖な場所ではより一層静粛になります。街を歩けば俗人からの視線が違い、バスに乗れば席を譲られ、旅先の屋台で朝食を食べれば誰かがその飯代を払って行ってしまう。その人にとっては徳を積む機会になる訳です。

そういう立場である比丘になると俗人とその立場が違うことを認識するでしょう。その置かれた立場に恐縮し、より一層修行に励まなければ申し訳ない気持ちになるものです。俗人は“人間の私”に敬い崇めくのではなく、比丘の後ろに立つ仏陀に敬い崇めいており、仏陀の弟子の立場となるのが比丘なので、そこに比丘としての品格が伴わなければなりません。

ワサン僧は、おそらくは短期出家僧として還俗されるでしょうが、比丘の中には短期出家のつもりが30年以上になってしまった比丘もいます。私が再びこの寺を訪れた時、比丘としてのワサン僧と出会うことになったら、また互いの経験値を語り合いたい再会となるでしょう。

今回の得度式に立ち会った様子を中心に披露したもので、タイ仏教の在り方を説くには程遠く、私自身の勉強不足があること御容赦ください。

比丘となってまだ数日の新米僧はまだ纏い方がわからず、先輩僧に手伝ってもらっています

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!8月7日発売『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

朝食の儀式を経て食事です

托鉢で喜捨された品々

わずか一人の若者が出家するだけの得度式に、大勢の親族・知人が集まり、他の寺から身分の高い僧侶までやって来る格式高い儀式の始まり。

◆寺の朝──托鉢から帰ったばかりの比丘(僧侶)のバーツ(お鉢)

朝、7時半に剃髪が始まるという前日の予定で、すぐには始まらないだろうと思いつつ、予定どおり7時少し回って寺に入りました。

寺の様子は、托鉢から帰ったばかりの比丘(僧侶)のバーツ(お鉢)には喜捨された白い御飯、直接、しゃもじで掬い入れられたものや、市場などで売られている一般人朝食用のビニール袋に入った御飯(喜捨であっても可)だったり、オカズとなる炒め物などもビニールに入れられて売られていたものをバーツとともに、持ち歩く頭陀袋に喜捨されたりします。それがクティ(宿舎)の比丘の朝食の場となる台座に置かれていました。

剃髪に入る前のワサンくん

そこで短い読経が始まり比丘たちの朝食が始まります。得度式を控えるワサンくんの姿はまだ見当たらず、時間どおりいかないのは想定内でした。

「オーイ日本人、飯食え!」

写真を撮って、後は邪魔にならないよう下がっていたものの、やっぱり比丘から声が掛かりました。懐かしい比丘の食卓です。俗人は比丘と一緒に食事の場に座ることはできません。他の低い場所に俗人用の食事か、比丘の食事の後、その席に着くことになります。

「衛生的にどうなのか」と気にする者はおらず、私も過去にもこんな感じで比丘が箸を付けた残り物という形ですが、美味しく頂いたことが何度もありました。

主にデックワット(寺小僧)が比丘の身の回りの世話をして、食事の後片付けも行ないます。

◆剃髪はじまる──ここまで来たら後に戻れない

この後、ワサンくんの親族が下の階に集まって来た様子。

朝8時20分を回った頃、クティの玄関口に椅子が置かれ、そこにワサンくんが座りました。正に大相撲の断髪式のように剃髪は始まります。まずお父さんが髪にハサミを入れ、少々の髪を蓮の花の器に入れていく。すべての親族がハサミを入れるのに7~8分かかっていました。最後にこの寺のベテランの比丘がカミソリで剃り始めます。

まず父親がハサミを入れます

剃り味は心地意良くも、不安がつのります

親族が見守る中での剃髪が進みます

眉毛も剃ります

剃られている身としては、髪をカミソリですいているような心地よい振動と気持ち良さが漂います。しかし胸中は落ち着きが無く、「ここまで来たら後に戻れないんだ」という緊張感に襲われるでしょう。

剃髪も7~8分で終わりました。元々髪が短かったワサンくんですが、剃り終わると精悍さが増しました。この後、クティ階下でワサンくんと親族一同の朝食が始まりました。車で前もって親族が調理された食材やテーブルと椅子を運ばれており、賑やかにお祭り騒ぎとなっていました。

いろいろな料理がある中、私も誘われ食べたのがタイ特有の御粥。塩味やダシが効いていて美味しいのです。テーブルの周りには着色料満載のファンタが大量にありました。日本も昔、こんな多彩に赤や緑は無かったですが、こんなグレープとオレンジの濃い色鮮やかなファンタがあったものです。

◆蛇が脱皮して大人になる前の姿

出家者のワサンくんは白い衣に着替えており、この状態を人でも僧でもない、蛇が脱皮して大人になる前の姿を例え、人から僧へ移る前の姿となっています。

朝食後はゆっくりと次の儀式の準備に入りました。クティの読経の場にあたる台座で、僧志願者に仏門の作法を教える儀式が約1時間あまり続きました。寺によってや戒派によってや親族の財力によって、執り行なわれる得度式のやり方は違うので、行なわない場合もあるかと思います。

これが終わると出家の挨拶の親族に行ない、その親族との記念撮影が始まりました。みんな持つのは100%スマートフォンで、一眼レフカメラを持つのは本当にプロカメラマンしかいない状況で、この辺は日本のいろいろな儀式でも同じような状況です。

前日には自宅の敷地に、祝いに駆けつける親戚縁者や近所の知人など縁者さんへのもてなしの会場も造り、スピーカーで大音量の音楽を流し、歌い踊り飲んだり食ったりの大宴会となる場合もありますが、出家には親の財力が試される一大事業となり、これをやれる家、やれない家、または予算に関わらずやらない家もあるので、そんな家が貧乏とは言い切れません。

精悍な顔つきに変わりました

日本では結婚式でも葬式でもない出家に、考えられないぐらいの騒ぎですが、これが徳を積む行為となるので惜しみない儀式を親は行なうのでしょう。特に母親は出家できないので、息子を出家させることが最大の徳を積む行為となるので積極的に行ないます・・・、

ということを実際に見たり、または聞いたりしましたが、この日以前の、過去の儀式に於いてはそんな功徳を持ちつつ、まあドンチャン騒ぎが好きなタイ人たちでした。

そしてこれからがメインの得度式に移ります。比丘たちはすでに本堂に移り、出家者を待ちます。クティの外には親戚縁者が黄衣や花と供え物を持って、出家者のワサンくんが中心に立ち、サポーターが傘を持ってワサンくんを誘導します。先を歩くのは親戚関係の叔母さんたちが踊りながら前に進みます。

出家者を送る儀式を行なうことで、出席者が徳を積む機会となるので、多くの縁者さんが進んで得度式に参列されます。寺にある2ヶ所の仏塔に立ち寄り参拝し、本堂を3週して入り口に立ちます。本堂に入る前もやたら賑やかしく時間をかけ、花嫁が後ろ向きにブーケを投げるように、出家者も似たような形で後ろ向きに、細かく切り分けられた花を投げていましたが、後に聞いておくのも忘れたのですが、何の意味があるのか分かりませんでした。

そしてここからはワサンくんを先頭にゆっくり本堂へ入って行きます(その前に私が入っていましたが)……。

親族とともに本堂へ向かう祝いを踊りで表しています

寺の周りを歩くワサンくんと親族

◎私の内なるタイとムエタイ
〈1〉14年ぶりのタイで考えたこと
〈2〉 22年ぶりのペッブリー県、タムケーウ寺再訪

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!8月7日発売『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

クティ(僧宿舎)内。22年前、この壇上で日々の食事をしていました

献上される寄進物。私もこんなふうにバーツ(お鉢)と黄衣を買って来ました。贈ってくれる親族が居ないので自分で買うのです

和尚のアムヌアイさん。私、貫禄で負けそうです

タムケーウ寺の境内。寺の敷地内もこんな綺麗になりました

タムケーウ寺の憩いの場。バス停のような佇まい

なぜ22年もお世話になった寺に足が向かわなかったのだろう。今回、その寺に向かうことになった導きは何だったのだろう。藤川さんが導いたのか、ムエタイ絡みの友達の縁がそうさせたのか。

バンコクからペッブリー県に向かう朝、同行していた友人は仕事でシンガポールへ向かい、22年ぶりの出身寺に向かうのは私一人でした。

サイタイマイという南方行きバスターミナルにムエタイジム経営の友達に車で送って貰い、バスのチケットを買う。以前はエアコンの青色高級大型バスだったのに見渡すとワゴン車が並んだ乗り場しか見当たらない。経費節減でこんな運送手段に変わったのか。真相は分かりませんが係員に言われるがまま、この車に乗り込みました。いずれにしてもペッブリー県まで2時間ほど掛かります。

◆私が出家したタムケーウ寺

着いたところは、私が出家したタムケーウ寺の隣のバスターミナル。何も迷わず寺に着きますが、宿泊地を探してやや遠回り。すると周りをうろつく野良犬が唸りながら寄ってきます。何もしなければ咬まないまず。しかし煩いので、振り返ってカメラを向けると途端に逃げ出す。コンパクトカメラなのに怖いのか。以前、夜に絡まれた際はフラッシュ焚いてやったら途端にシッポ巻いて逃げたものでした。野良犬にフラッシュは効果的です。

私が寺に居た当時に寺の脇にローカル型(エアコン無し)長距離バスターミナルが新たに開設されましたが、今は無く、それとは違う位置にこの日に乗ったワゴン車型バスターミナルが開設されていました(エアコン高級バスはもっと離れた集落にターミナルがありました)。

昔は舗装の無い土埃のたつ路地と草の生える空地でしたが、今や立派な飲食店を含む団地が立ち並ぶ街となっていました。「お前が今度来た時は街の変貌に驚くぞ」と言っていた藤川氏の手紙を思い出す街並みでした。

プラ・ナコーン・キーリー(歴史公園)という観光地の山の麓にある、この寺の中も新たな仏塔が幾つか増え、寺の敷地内に舗装された歩道が引かれ、クティ(僧宿舎)も改築された綺麗さが目立ち、本堂周りも裸足で歩けば尖った地面に痛い思いをするザラつくコンクリート造りからタイル張りのような石畳に変化。これなら裸足で歩いても痛くないはず。お寺もお金が無ければ新たな建築物は建ちませんが、それなりに“儲かっている”と言ってはかなり語弊あるところ、信者さんが寄進する結果の発展をしていることが伺えました。

以前から藤川さんに教わり知っていたことですが、私の出家を認めて下さった以前の和尚さんは十数年前、ニーモン(信者さんの招きでの寄進)に向かう途中に交通事故で亡くなっており、今の和尚は私の初めての剃髪をしてくれた、当時の寺では中間管理職的なお坊さんで、現在51歳。厳しさある歳の取り方が表情に表れている貴乃花親方のような貫禄を感じました。

22年ぶりの再会ツーショット

◆笑って迎えてくれた和尚さんに感謝

笑顔で懐かしそうに迎え入れてくれましたが、最初に出た言葉が「よく来たな、もう嫁はもらったか?」。

「居ねえよ!」とは思えど、そんな目くじら立てることではなく、「居ない居ない、一人で居る自由奔放な人生だから」と言うと、「お前はホモか、ワッハッハッハ!」。

イラつく会話ではなく、「お前らこそホモ集団だろ、何十年も寺に居やがって!」とはギャグ的に思っても声には出していませんが、笑って迎えてくれた和尚さんに感謝でありました。

「今度、出家したいと言う友達を連れて来たら、この寺で出家させてくれますか?」と尋ねると、いとも簡単に「いいよ!」という返答。タイ人は先を読まず簡単に了解する民族であります。後になって「ダメダメ!」と言い出すこと当たり前なので再度交渉が必要です。

しかし、「で、いつ来るんだ?」とは気の早い展開。いやいや、その想定で聞いてみただけで実際に身近に出家志願者が居る訳ではない。しかしそんな心に悩みを持つ人生転機に、志願者がいつ現れてもおかしくない状況でもあるのです。そんな前準備的相談の訪問でもありました。

献上される寄進物。お坊さんに渡すグッズ数、15名分でしょうか

得度式を行なう本堂。懺悔の式もここで行ないました。懐かしい場所です

フェイスブックに夢中のメーオさん

◆また一人懐かしい僧侶と再会

そんな話は先延ばしとして、また一人懐かしい僧侶と再会。私より10歳若いお坊さんで22年前は23歳ぐらい。今は45歳と言う“メーオ”というニックネームで呼ばれていたお坊さん。まだ居たか、お互いハグまでした懐かしさでした。

「こいつは学も無いし、坊主やっているしか無いやろうなあ。還俗したところで就職先も無いやろうし」とは私がまだこの寺に居た頃の藤川さんの言葉。そんなことを思い出したのは、このメーオは数年前、一回還俗したことがあるという。たった5日で再出家したと言うメーオ。その理由を教えてはくれなかったが、藤川さんの言葉を思い出してしまうのでした。

しかし、こんなお坊さんは知能が低い訳ではありません。田舎では幼い頃に学校に行く機会が無かった者が多かったのです。今とはまた時代が違うので比べられないですが、メーオが持っていたのは“スマホ”。いとも簡単にフェイスブックを使いこなす。その中でも友達の多いこと。私は専門学校まで出ていても未だに使いこなせない。

外から見たクティ(僧宿舎)。藤川さんの部屋もここにありました

寺周辺でたまたま祭りの露店が並んだ店

◆「寺に泊まるか」とは誘われたが……

そんなクティの中で、早速翌日、得度式(出家式)を迎える青年が経文を暗記している姿を発見。これは撮って行こうと早速、得度式の撮影許可依頼をしました。ここでも「いいよ!」と誰もが言う簡単な了解。和尚は以前の私の撮影姿を見たことがあるお坊さん。どんな撮り方をするか、おおよそ想定出来たと思いますが、なかなか一般人として高僧の前をどこまで踏み込めるかは難しい問題があるのは承知の上でした。

その青年の親族が石鹸や歯ブラシなどの日用品を包んだ、寺での必需品を持って現れ仏壇に献上。といってもそんな僧侶グッズが街で売っている必需品であります。更に僧志願者に与える黄衣も同様に捧げていました。

僧志願者の若者は21歳で“ワサン”と言う名前でした。この得度式のため、過去に藤川氏が移籍したサムットソンクラーム県の寺に向かうことは中止として、スケジュールどおりにはいかないのがタイの常識ではありますが、機転を利かせて動く心構えで翌日の得度式に準備を整えました。

「寺に泊まるか」とは誘われましたが、寝る部屋も固い床に毛布一枚だったり、水浴びも想定も出来、懐かしい寺の造りの中ですが、先に近くにとったゲストハウスに戻ることにして、賑やかな寺周辺のターミナルや、たまたまお祭りの露店が連なっており、見て歩き食事もして、この日を終わりました。(つづく)

よそ者に吠えて向かってくるがカメラを向けると逃げる犬

◎ 私の内なるタイとムエタイ 〈1〉14年ぶりのタイで考えたこと

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』7月号!愚直に直球 タブーなし!【特集】アベ改憲策動の全貌

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

前の記事を読む »