高笑いする会話が多くの支援者を引き寄せた「オモロイ坊主」藤川さん

◆仏門に関わった仲

これまでに仏門に関わった人や藤川さんと関わった人とどれだけ出会っただろうか。どこかで何らかの原因があり結果がある。人生は因果応報である。

2007年夏頃、加山至という人から突然メールが届いた。誰かはすぐに分かった。加山氏が御自身の名前の検索から藤川さんのオモロイ坊主を囲む会ホームページの、私の仏門日記に辿り着いたようだった。

加山至さんは由井太氏と1989年4月にTBSの新世界紀行「アジア秘奥三国探検」で、バンコクのワット・パクナムで渋井修氏の指導を受けて出家し旅に出た人である。

私が出家に興味を深めた番組で、当時の旅の様子を聞きたかった私はお会いさせて頂きたいと申し出て対面に至った。そして当時の番組の進行、旅の様子の大変貴重なお話を伺うことが出来た上、テレビの中のスターに出会った嬉しい想い。加山至(芸名=加山到)氏は役者が本業で、度々ドラマにも登場し、舞台演劇出演とその稽古を続ける日々が多い人であった。

そしてお二人の師匠となる渋井修さんは藤川さんの師匠でもある。1990年頃より、タイからカンボジアに渡った渋井修さんは比丘として、ポルポト派に虐殺された人々の霊を慰めながら、在籍する寺で現地の子供達に日本語を教えて居られる様子だったが、後々には還俗されたという藤川さんの話だった。

各々が進む道もそれぞれだが、我々もそんな遠くて近い縁がある仲であった。

歩け歩け、疲れを引きずる巡礼の途中、左が加山至氏、右が由井太氏

◆サネガン・ソー・パッシンは可哀想な死に方やった

サネガン氏との出会いは立嶋篤史選手と一緒に

藤川さんの支援者は出家後、タイに於いても日本人会をはじめ、年を追うごとに多くの人脈が広がっていた。キックボクシングとは立嶋篤史くんと出会うまで何の縁も無い藤川さんだが、支援者に導かれて訪れた、バンコク・スクンビット通りで“居酒屋まり子”を経営するオーナーさんとの出会いがあった。このまり子さんは日本でヌードダンサーとして生計を立て、ベトナムの戦争時代に米軍キャンプで踊ってからアジア各地を回ってタイへ渡り、ムエタイボクサー、サネガン・ソー・パッシン氏と知り合い、互いが再婚に至った人だった。

サネガン氏は日本系(TBS系)キックボクシングで、沢村忠や富山勝治と荒っぽいファイトを全国ネットで盛り上げた知る人ぞ知るチンピラボクサー。日本でも目黒界隈で事件を起こしたエピソードも多い。その風貌と日本で稼げた恩があるせいか、水商売に苦戦する日本人のまり子さんを支える用心棒にもなり、持ちつ持たれつ助け合う仲となっていた。大酒飲みで肝臓を悪くしたらしいが、評判悪いサネガン氏を診ようとする病院は無く、行く先の町医者や病院で門前払いを受け、最後に訪れた病院のドアノブに手を掛けたまま倒れ、そこで息絶えたという。

そんな事情を知った藤川さんから聴いた話だったが、サネガン氏にはタイ人の本妻との間に息子が二人居て、まり子さんのお店を手伝うこと多いという。私が沢村忠vsサネガンのビデオを藤川さんに渡したことがあるが、そのビデオをまり子さんのお店で観て、二人の息子は腹を抱えて笑っていたという。私はまり子さんも二人の息子さんも会ったことは無いが、藤川さんによると、「父親によく似た人相悪い二人やったが、悪い評判も無い真面目ないい子やったで!」と笑う。

私も一度だけ、1993年8月にバンコクで知人の結婚披露宴でサネガン氏に会ったことがあるが、人相は悪いが、すでに目が優しくなった笑顔で接してくれた想い出がある。しかしその3年後に永眠されていた。また改めてジックリお会いして日本での試合のこと聴きたかったが、すでに遅かったのだった。

日々、読経する姿の藤川さん(左)(2003.3.11~21)

◆早死にの運命!?

「このワシの身体は誰のもんや?、お前の身体は誰のもんや?、お前のもんか?、お前が死んだら、その身体はどうなるんや?、土に還る訳やろ、つまりは地球のもんやろ、ワシらはこの地球から栄養を摂った身体を借りて今生きとる訳や、そんな諸行無常の世の中、いつかは返す時が来る訳やな、みんな平等に与えられた命や、それを全うして人生のゴールを目指さんとイカンのや。こんないろいろ仏教のお経の中に書かれとるんや、それをひとつひとつ読み解いて関西弁にしたら漫才のネタみたいなオモロイこと書いてあるで。『山に登ったら岩肌に足をぶつけて血が流れて痛かった』とかごく当たり前のような文言も、それは即ち御釈迦様も血の通った普通の人間だった訳で、その2500年前に生きた人間として今、生きている人への導きとなる仏教は、葬式で亡くなった人を送るお経だけやないんやで!」

そんな藤川さんのいろいろな声が頭を過ぎる。いろいろなことを教えてくれた(勝手に喋ってたこと多いが)このジジィは小学校以降、クラスで1~2位のトップクラスを取って来ただけあって感性や探究心は良くも悪くも高いレベルにある。地上げ屋で荒稼ぎ、酒と女遊びに欲しい物は何でも手に入れた日々から人間は欲が尽きないことを知り、唆されて一時出家に導かれると今度は仏陀の生き方に惚れ込み、仏教専門書を読み漁る日々。尚且つ、地上げ屋時代の営業力も発揮する支援者の拡大技。何でも欲張って人の150年分の知識や欲求を詰め込み過ぎたから早死にしたのかとさえ思う。

私はこんな生き方真似出来ない。運が良ければ、せいぜい藤川さんよりのんびり長生きすることしか勝れないだろう。

日々、托鉢に向かう神聖な時間

◆藤川さんの最終章

この「タイで三日坊主!」は当初から仏教の在り方や御釈迦様の残した教えを説く高度なものではありませんでした。三日坊主の私は寺に居ても藤川さんと正反対。その貪欲な学習はしておらず、出家前も還俗後も現在も相変わらず三日坊主です。それでも今後、私の経験談や藤川さんの発言と活動を通じて、修行寺や学問寺の敷居の高い寺ではない、タイの一般的お寺の様子を感じ、タイで出家してみたい人が居れば参考になる程度として捉えて頂ければ幸いです。それは藤川さんが望む、私への依頼でもありました。

「お前の文章読んで一人でも出家に興味持って、出家してみたい人が居れば、それはまた仏教の発展に繋がるんやからな。ワシの悪口でもええから思いっきり書け!」とも言われており、そんな機会をデジタル鹿砦社通信さんに導いて頂き、再び寄稿となってものの、私の出家体験談から藤川さんの活動へ、論点ズレする纏まりのない展開になって行き過ぎたので、この辺で「タイで三日坊主!」は終止符を打つことにします。

最後に、ザ・ドリフターズの志村けんさんの突然の訃報に誰もが驚いたことでしょう。

人生はいつ終止符がやってくるか分からない。志村さんが残した功績は計り知れない大きいものでしたが、まだまだ動けるはずだった身体でやり残したことは沢山あることでしょう。我々もこのように突然の人生の終止符がいつ訪れるか分からない日々を、悔いの無いよう送らねばならないというのが藤川さんが語って来た、これまで大勢の人々への贈る言葉でもあります。

今後、藤川さんの残した足跡から新たな展開が見られた場合は、また機会を与えて頂ければ拾ってみたいと思います。これまで長く諄い物語にお付き合い頂き有難うございました。[完]

夕方のリラックスした姿での会話はオモロイ坊主そのものだった(2003.3.11~21)

◎[カテゴリーリンク]私の内なるタイとムエタイ──タイで三日坊主!

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆観光ビザ時代

藤川さんがタイに渡ったのは、バブルが弾けるかなり前からではあるが、まだ観光ビザで何度も訪れていた頃まで遡る。

「昔、観光ビザで何回もタイと日本を往復しとった時、パスポートはハンコだらけで帰国の際、『あんたはもうタイに入国出来んぞ!』と言われたんやが、パスポートとズボンをワザと一緒に洗濯してボロボロにしてまた申請に行く訳や、『すんまへん、ズボンのポケットにパスポート入れといたの忘れて洗濯してもうたら、こんなんなってしもうたんや、新しいの作ってくれへんけ?』って言うて再申請や。それ使こうてまたタイ行った。それが通用した時代まではよかったが、コンピューターで記録が残るようになってからは出来へんようになった!」と、こんな程度のことは平気でやったであろう。

そんな日本タイ往来を繰り返していた頃、娘夫婦がタイに来て会う事になった時、「ホテルロビーで待ち合わせしたんやが、たまたまワシが遊び通うクラブの派手な格好のホステスどもが居って『藤川社長~!』て叫びながら寄って来て抱き着かれた時は娘亭主の手前、恥ずかしかったなあ。どんな時も恐ろしいとか恥ずかしいとか思うたこと無いが、あれだけは恥ずかしかった!」という意外な弱点も笑いながら話してくれたことがあった。そんな一方、家族に見せられない中では、

「タイではいちばんの高級ホテルは娼婦の連れ込み禁止やが、7人ほど普通の宿泊客のように装って連れて入って全員裸で居らせて乱交パーティー。ルームサービスを頼んで、ボーイが料理を運んで来た時、女がそのまんまドアー越しに出てしもうて見つかってもうた。即刻出入り禁止になった!」

バブルや日本円の力に物を言わせていた行為だったが、それが自分の力と勘違いしている頃だったという。

◆バブルの陰で

「バブルの頃は土地転がしで皆やりたい放題やった。ワシの口座預かり持っとる銀行員がワシの名義で土地買うて来て、その土地売って、「藤川さん、土地売れましたさかいに、5000万円、口座に入れときましたで!」と言いおって、銀行員が土地の売買やっとったんやからなあ。クラブ連れて行って飲ませると「藤川さん、おおきに!」とか言いよるけど、「どんどん飲めや、お前が稼いだ金やないかい!」といった感じで、このバブル弾けて景気悪うしたこの張本人の、不動産業者やら銀行員やら政治家やら、誰も謝った奴も責任取った奴も逮捕された奴も居らんし、後々も普通に生活しとるし、反省の色も無い。滅茶苦茶な時代やった!」といった現実的な話。

土地の売買では、「バブルの頃の土地売った金の受け渡しを現金でやったある時、100万円ずつ入った封筒を何千万円とか入って来る訳やが、いちいち数えておれんで、確認は封筒から1万円札100枚の束をちょっと引っ張り出してまた中に戻すだけ。すると1枚でも足りんと微妙にスカスカするような感覚が指に残るわけや。そういうのだけ数え直して、あとは封筒単位で何百万、何千万と数えるだけやった。数万円ぐらいは足りんこともあったかもしれんが、桁から言うたら微々たるもんやからそのまんま構わず取引きしとった。」

世間の常識からは桁外れの金額を扱った時代、その後、「娘の居る前で、一般サラリーマン級の相手と物の値段の話になると『ウチのお父ちゃんは金銭感覚狂うとるから、高い買い物の相手したらアカンで!』と忠告するようになった!」と笑っていた。

まだ五十代前半頃、元気にいろいろな所へ出向いた藤川さん

◆親孝行物語の裏側

これが最も現実的なタイ人の姿かもしれないが、タイの最も貧しいイサーン(東北地方)の家庭に育った女の子が、貧しい両親や弟妹を養う為にバンコクや日本に出稼ぎに来て、娼婦となって稼いだお金で両親にキレイな家を建ててやり、電化製品が揃った便利な生活をさせてやる親孝行物語。そんな単行本を藤川さんに見せると、

「ワシはその類いの話は信用せえへんで。ワシは実際にこの目で現実を見て来たが、バンコク、チェンマイ、プーケット、そして日本で、売春婦と呼ばれる少女やジャパユキさんと呼ばれる若い女の子と付き合い、名古屋では彼女らの泊っているマンションで、15~16人の女の子の生活を覗いたこともあるが、中には実際に貧しくて家族の生活の為、また親が無学な為、無理やり売られて来た子もいたが、大半は贅沢がしたくて綺麗な服が着たくて、あるいは纏まったお金を掴む手段としてその道に入ったというのがほとんどや。実際彼女らは明るく楽しそうでジメジメした暗いところは少ない。タイ人の仕事に関する一般的な考えを見ていても、女が身体を売って金を稼ぐのも甲斐性の一つだという面もある。とりあえずしんどい思いをせずに、綺麗な恰好して楽に稼げる職業に憧れる傾向が強いんや。実際、北部タイやパークイサーン(東北地方)にも行き、彼女達の実家に行ってみると、彼女からの仕送りの金で家を建て替え、テレビや冷蔵庫などの電化製品を買い、親たちは仕事もせんと酒を飲み博打をやって居る。そしてそれを見た他の親は娘に売春婦になることを勧める始末で、村の若い男達は彼女達が村へ帰って来ると先を争って稼いだ金を目当てに結婚を申し込む始末。むしろ問題は彼女達からピンハネをする組織の方で、そちらの問題を解決するべきや!」というジャーナリスト級の体験談。新たに真実本でも書けばと思うほどである。

こんな出会いもあった。左は習志野ジム・樫村謙次会長。覚えていないだろうなあ!

◆キックボクシングの冷静な未来予想

私の関わる業界にも触れたことがあった。一般論でもあるが、
「キックボクシングは国民の関心が低く、裾野が広がらん。野球やサッカーには少年野球、少年サッカーがあってその大きな裾野があるやろ。ボクシングは世界が相手で、そこまでの道が通じるが、キックはそうはいかん。昭和40年代のキックブームの頃、小学校では、野蛮で禁止されたキックの真似事。これじゃあ裾野が広まる訳が無い。格闘技はハングリースポーツで、強くなれば普通の世界では得られない稼ぎが出来てこそ裾野が広がる。ボクシングも最近の日本にかつての勢いが無いのは他にもっと稼げるものがナンボでもあるからやろ。キックはメジャーになることなく一部のお遊びで終わるやろな。そして時代は観るだけでなく、自分らも出来る参加できるスポーツへと進んで行くんではないんかなあ。」

これが25年前の一般社会人目線での意見。現在、誰でも出来るとまでは言えないが、キックに限って言えば、ジュニアキックからオヤジキックまで、参加しようと思えば女性でもちょっと鍛えて参加し、またはボクササイズでも鍛えられる、藤川さんの予想は近い線を行っている感じではあった。

相手の都合を考えないつまらん長話は藤川さんの怨念が原稿に乗り移ったか、鬱陶しくて聴いてあげられなかった分、出家後の坊主目線の話題を、もう少々だけ触れておきたいと思います。

小国ジム・斎藤京二会長とのツーショット。覚えていないだろうなあ!

※写真はイメージ画像です。画像は文面と直接の関係はありません。

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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◆原点に返った回想

いちばん穏やかな年齢に入った頃か、藤川さんの自然な笑顔(2000年筆者撮影)

藤川さんが亡くなって7年が経った2017年5月に旅行代理店の知人に誘われ、タイを訪れることになった。それがこのテーマ、「タイで三日坊主!」の回想となる旅でもあり、当時にそのレポート掲載済みである。短い日程では行けないと思えたラオスまで足を延ばすことが出来、藤川さんと歩いた旅を思い出す時間だった。藤川さん絡みの訪ねる地域は多くなるが、いずれは数週間の時間を掛けてペッブリーの古巣を含め、ノンカイ・ビエンチャンをまたゆっくり訪ねてみたいものである。

◆藤川さんと出会った最初のお店、M&K

藤川さんの若い頃やタイに渡るまでの生き方は、私が直接関わったものは全く無い。藤川さんのビジネスの片鱗を見たのは、わずかにアナンさんのジムの近くで経営していたM&Kミニマートとレストラン(食堂)のみ。

画像は2年程前、タイでムエタイ・イングラムジムを経営している伊達秀騎くんが撮って来てくれた、元・藤川さんのお店である。ここが1993年に藤川さんと出会った運命のレストランであった。

私の記憶と合致しない風景だったが、改めて見直してみると思い出してきた。今は誰も寄り付かない不気味な様相だが、当時は風通し良い明るい雰囲気だった。少々改築されているかもしれないが、この右側の段差の上にあるフェンスのフロアーは、ここにテーブルと椅子が並べられていたレストラン。奥が調理場である。隣接する左側の建屋はタイ語の看板が出ているが、「M&Kミニマート」と書かれたコンビニエンスストアー。当時、三十代ほどの女性一人がレジでお客さんと接していた。

ここの道路を挟んだ対角線上にも別業者のコンビニエンスストアーがあるが、美容室が隣接し、オバサン店長と二人の若い女の子が店員として居た。この店の前は集落から大通りに出るに便利なバイクタクシー乗り場があるところで周囲は人の往来が多い。その反面、M&Kミニマートは一人店員でやや通りからの目が遠く、藤川さんが出家する為、権利を明け渡した後、この女性店員さんが強盗に襲われナイフで首を切られたらしい。命に別状は無かったが、この経営体制で置いて来てしまったことに藤川さんは「この女性には可哀想なことをした!」と悔やんでいたことがあった。その後は新たな展開もすることなく空き家となっていたようだ。

廃墟となった元・藤川さんのお店M&Kミニマート(1998年伊達秀騎撮影)

◆男の更年期?!

それから一年後の私が出家の為、寺に入る一ヶ月前頃の藤川さんからの手紙は、過去を振り返る反省の書き殴りがあった。当時は何も気に留めなかったが、これは誰もが通過する悩み多き50歳代の男性が直面するものかもしれない。

「最近、真剣に考え込んでいることがあるんです。“俺、今までの人生で何か無償で真剣に打ち込んだことがあっただろうか”ということです。子供の頃の勉強、あれも本当に何かを学びたいという真剣なものじゃなく、ただ良い成績を取れば親や先生から褒められるし、友達からも一目置いて貰えた。仕事も頑張れば収入が増え、欲しいものが手に入り、好きなことが出来るから。恋も結婚も本当に何の損得無しに相手に惚れ、“彼女を幸せにしてやりたい”といったものじゃなく、ただ女が欲しかっただけ。子育ても本当は子供のことなど考えていなかったのではないか、いつも周りの目を気にし、恰好付けて生きてきたのではなかろうか。人間としてやらなければならない最低限のことすら何もしないで、ただ周りの目と自分の欲望の為だけに生きてきたのではないか。考えれば考えるほど自己嫌悪に打ちのめされます。人に宗教のこと、仏教のこと語る資格は俺には無い。なぜなら宗教とは人間が人間らしく生きていく為の指標だと、最近分かってきたからです。夜寝る前に自分の部屋で一人座禅を組み瞑想しても、このことが頭の周りを巡り、過去の行ない、あの時はどうだったか、やはり間違っていた。この時はどうだったか、やはり自分の欲望だけでやっている、あれもこれも、やっぱり人間として恥ずべき行ないだった。本当に自分が恥ずかしくなってきます。それなら現在はどうだ、やっぱり駄目人間だ。私に人を責める、ましてや教える資格など無い。自分の心を鍛え直す、それが精一杯で、それも充分果たすことさえ出来ず墜ちていくのではと焦っています。」

比丘の日々の懺悔は、在家者でもいずれ誰にでも訪れる行為(2000年筆者撮影)

数少ない藤川さんとのツーショット(1997年春原俊樹撮影)

2020年の今、私がこの頃の藤川さんの年齢を超える歳となり、人生を振り返ると似たような感情になることがあって、1994年当時の藤川さんの心理が読めてくる気がした。一般的には結婚し子供が生まれ成人し、親の手から離れて行く頃のこの年齢になると、心にポッカリ穴が空いて自分を見つめ直す時間が増えると、他人より学歴があって裕福な人生を送っていても、或いは忙しく働いてもギリギリの生活であっても、或いは仕事もしないで借金抱えながら何をやっても三日坊主な人生を送っていても、もう先が見えてきて取り返しのつかない歳になった今、過去出来なかったことや間違っていた行為を悔やむ反省の時期を迎えるのだろうか。これが男の更年期障害なのかは分からない。

最後に「でも元々、この年まで刑務所に入ることなく、人に殺されることなく、人様と同じ空気を吸わせて生かさせて頂いているだけで吉本の漫才のようなものです。そしてこんな男でも、一人前のことを言い、大きな顔で生きられるのだと安心してください。」と藤川さんらしく、「俺みたいになるな!」と言っているような文言で締め括っていた。

刑務所に入ることは無かったが、やんちゃな思春期を送り、少年鑑別所送りにもなったことがある藤川さん。知り合った当時、私が練馬区に住んでいると知ると、すぐさま出た言葉が「練馬少年鑑別所の在る所やな!」と反応は早かった。

少年鑑別所は「過去と向き合う場所」という捉え方があるらしい。そういう施設と似た場所がお寺かもしれない。そんなこともすでに触れたかもしれないが、私もラオスの旅の時、藤川さんに「今は過去を見つめ直す時なんや!」と言われたが、藤川さん自身も出家した一年後辺りは、その時期を迎えていたのだろう。

◆堅気の人生

そんな藤川さんの出家前か、やんちゃな若い頃に付き合いがあったという、後に堅気になった元ヤクザと偶然、京都の喫茶店で会った際、「右手の薬指小指の第一関節が切られて無くなっておったが、『藤川はん、真面目に仕事しようと思うても、指二本無いとハンマーもしっかり握れまへんのや、もうこれだけで出来るはずの仕事が出来んようなってしまうんや、アンタはヤクザにならんで良かったなあ!』と言われたことあるが、指ツメられるというのは、痛いだけや無うて生きていく術も奪われるいうことや!」という取り返し付かない人生もあるのだろう。

まだ続く藤川さんが残した言葉。長い年月の間に記憶に残っている会話は多い。興味津々だった話、鬱陶しい話、何気なく聴いていたことも多いが、「タイで三日坊主!」を書いてきた中で、なかなか組み込めなかった印象的なところを仏教とも無縁ではない話は活かしておきたいと思います。

◎[カテゴリーリンク]私の内なるタイとムエタイ──タイで三日坊主!

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆別れの時

藤川さんが新大久保に住居を構えて直ぐ、新宿区の住民登録を済ませていた。日本で暮らせば付き纏ういろいろな問題がある中、生活費は支援者の施しだけで賄えているのか、タイ同様に御布施という生計の足しにしている活動はあっただろうが、確定申告はどうしているのか。更には「身分証明書代わりに免許証の再発行を出来んか?」と願い出ていたと思うが、タイで出家して既に免許証は失効しているから、結局これはダメだっただろう。

日本に住めば金銭的、老化進む先行き不透明な日々の中、癌を患ってしまった運命。入院生活を拒否したのは莫大な治療費が掛かることは確実で、御布施や支援の賄いでは追い付かない。周囲に迷惑を掛けるのを避けたかっただろう。それでも「痛いのだけは嫌だ、これだけは何とかして欲しい!」とお医者さんに懇願していた声は聴いたことがあった。

2010年2月24日の夜遅く、最近どうしているかなと、いつも覗いていた藤川さんの「オモロイ坊主を囲む会」のブログを開くと、衝撃が走った。

「藤川和尚、永眠!」

えっ、永眠!? しまった! これが悔いが残るというものか。もっと早く会いに行ってやればよかった。

「もう長ごうないんや!」の声が響く。

オモロイ坊主を囲む会の管理人に聞いてみると、「2月19日の夕方、体調は前々から悪いからその様子に大きな変化は無かったが、急に意識不明となって倒れて救急車で病院へ運ばれるも昏睡状態続き、24日未明に永眠。脳内出血だった!」という。まだ2月下旬の活動予定が残る中、支援者誰もがそんな急に逝くとは思わなかっただろう。

オモロイ坊主を囲む会のブログで衝撃が走った画面

◆藤川さんは御釈迦様のもとへ!

翌25日には火葬だけであったが、大勢の人が訪れたようだった。タイの寺に居た頃、藤川さんは「生前葬を済ませた!」とも聞いていたが、遺言で葬儀告別式は行わないとのことだった。

結局、私は仕事もあって行けなかったが、冥福を祈って送り出したいと想うところだった。

胃癌、帯状疱疹の悪化で、この一年はかなり辛い様子だったらしい。それでも高笑い響かせながら全国行脚を続けていたであろう藤川さん。 ミクシイで繋がった全国の友達は1000人近くになっていた。

遺骨は、後の4月4日に八王子にあるタイのお寺、ワッパー・プッタランシーへ納骨され、生前、藤川さんが言っていたとおりの希望で、御釈迦様(仏陀)が最後の旅となったインドの地域にあるガンジス河へ散骨の予定という。

これで御釈迦様のもとへ行くかのような話を藤川さんから聴いたことがあり、「骨はインドのガンジス河に流してくれるように孫(?)に頼んだ。親戚一同の反対に合って年長者の力に圧されないように公証役場で遺言も書いた!」と言っていたが、お孫さんにお願いしたのかは私の記憶が曖昧だが、法的にも有効な遺言を残したのも藤川さんらしい手回しであった。

◆道連れ!?

藤川さんが亡くなった後、一緒に寺で過ごした日々やラオスに向かった旅を想い出しては、黄衣を纏ってあんな冒険できたのも藤川さんのお陰だなあと想い返したり、時折、「お前の親はまだ居るんか、会いに行ってやれよ、来てくれるだけで嬉しいんやぞ、今のうちやぞ!」とはよく言われたことや、いろいろな触れ合いを想い返す日々が続いた3月20日の夕方、石川の私の実家から電話が入った。

「父ちゃん死んだぞ!」と言う母親の泣き声。

「藤川ジジィ、俺の親父を引っ張りやがった、この野郎!」と有り得ないこと怒っても仕方無いが、そんな因縁があるような気がしてならなかった。そこからはもう4年ほど会っていなかった親父のことで頭がいっぱい。私の親父は老衰。最終的には心不全によるものと思うが、母親も気付かぬ間に眠ったように楽に逝ったようだ。
藤川さんの納骨式や偲ぶ会も4月初旬に予定されていたが、私は仕事や実家のことでいっぱいになり、精神的にもそちらへ向かう余裕は無くなっていた。

これで藤川さんとこの世のお付き合いは完全に終わった。

京都の地上げ屋がバブルが弾ける前に、「このまま好景気が続く訳が無い。もう天井が見えとる。やがて不動産価格の下落が起きる!」と赤字に転じる前に全てを売り飛ばし、こんな好景気の恩恵に支えられた金儲けではなく、自分の本当の実力を試そうとタイで勝負しようと考え、新たなビジネスを始めたのが1991年春。その2年後にアナンさんのムエタイのジムの近くに開店した日本料理店で私との出会いから長い付き合いが始まったものだ。

リングサイドで試合を見つめる春原さん、選手からも記者としての評判は良かった(2003年10月13日撮影)

◆続く道連れ!?

藤川さんが北朝鮮に行く前辺りの頃、私の仕事の一つであった出版社のスポーツ部門が消えた為、ボクシング興行は滅多に行かなくなった。それでも別ルートで入った取材や、立ち見チケットを買っての観戦で後楽園ホールに行くと、リングサイドの春原俊樹さんとはカメラの話にもなるが、藤川さんの話になることがほとんどだった。そして会うこともほとんど無くなっていた2014年1月。春原さんが出版社を退社したという情報が入った。ボクシングビート(旧・ワールドボクシング)の記者を辞めたという。

安いながらも私と同じNikonD90程度のカメラを買って試合を撮ったり取材に向かったり、仕事熱心な人だったが、こんなボクシング好きな人が記者辞めるなんて、おかしいなとは思ったが、また藤川さんの想い出話でもしようか、また以前のようにタイ料理に誘ってみようかと思っていた矢先、3月30日午後、埼玉県内の入院先の病院で亡くなったという知らせが知人記者から入った。 春原さんは胃癌で療養中だったらしい。

そして「藤川さんよ、春原さんまで引っ張るのか!」という切ない想い。ちょっと強引なこじつけだが、深く関わった人が同じ胃癌で逝くのは不思議な因縁である。
春原さんが撮ってくれた私の得度式のフィルムと写真は永遠の宝物である。改めて感謝を述べたい。

後々の2017年に私が「タイで三日坊主!」を書く為に、当時のフィルムと写真を探し、日記を読み返し、記憶に残っている会話とテレビに映った冒険を参考にし、ここ2年あまりはずっと頭に藤川さんの声が聞こえてくるほどの存在があった。こんな風に藤川さんは多くの人々の心に今も生き続けているのだろう。散々振り回されたのに、もっと昼飯食わせに会いに行ってやればよかったと悔いが残る。もっと話を聞いておけばよかったと。

藤川さんの最後の誘いを無下にし、親父の最期を看取れぬまま、更に春原さんも最期の姿は見せたくなかっただろうと思うが、皆、最期の言葉無き別れとなった。

藤川さんが言っていた万物流転。「この世に在るあらゆるものは、絶え間なく変化して止まない。エベレストにしても富士山にしても少しずつ変化している。不変のものは何一つ無い。新しく生まれたものは必ず劣化して滅びていく。これが諸行無常や!」と言い続けた。これが現実。やれる時にやっておかないと時は流れ、万物は変化して取り戻せなくなるだけ。そんな諄かった藤川さんの話が何度も頭を過ぎる。本当に姿無き腐れ縁が今も続いているのである。

藤川さんにはミャンマーに連れて行って欲しかった。胃癌を患い、杖を突いて歩いている時点でそれは無理と思ったが、藤川さんが歩いた軌跡を、今後、機会があれば歩いてみたいと思うこの頃である。

毎度、異様な組み合わせの昼食会だった今は亡き二人

私が撮った藤川さんの日本で暮らす画像はあまり無いので、こちらのブログを御覧ください。

◎オモロイ坊主を囲む会 http://omoroibouzu.blog35.fc2.com/

◎[カテゴリーリンク]私の内なるタイとムエタイ──タイで三日坊主!

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆タイから日本へ

ペッブリー県のワット・タムケーウから、1997年春、サムットソンクラーム県のワット・ポムケーウに移った藤川さんはその後、旅がし易くなっただろう。活動が幅広くなり、多くの出会いを重ねることが出来た。

藤川さんの活動を知らぬ者からは、単に人の金で遊び回っているように捉えられがちだが、タイ国内はもとより四国八十八箇所お遍路の旅や、ミャンマーに出向いてメッティーラに行き着いたこと。北朝鮮に渡るまで成し得た活動は多かった。

これまで私とネイトさんを出家に導き(実質、他2名)、数々の人を説法してきた藤川さん。やがてアジアの旅も一段落ついたところで、「人間には帰巣本能がある!」と言ったことも当てはまるのか、やがて、出家する為に京都に捨てて(残して)きた日本の娘一家のことがことが気になりだしたようだ。まだお釈迦様が歩いたシルクロードの旅を残しながらも、「いつでも何があっても飛んで行けるところに居た方がいい!」という結論に達し、比丘のまま帰国を決意。

在籍するワット・ポムケーウの和尚さんから「出家者と在家者の関係が成り立たない日本で生きていけるのか!」と心配されながらも、「やれるだけやって見させてください!」と願い出て、2006年10月26日、正式帰国。住居は新大久保駅から歩いて5分程の、支援者が用意してくれたアパートへ入居。藤川清弘庵となった。

新大久保駅近くを歩く藤川さん(2007年5月24日)

◆新大久保から活動開始

ここでは前々から計画していた「悩める日本人を救いたい!」という想いがあったことから“悩み相談室”なるものを開き、破天荒な人生を送った藤川さんの生き様をテレビやインターネットで知った相談者が藤川庵に訪れること多くなった。またオモロイ坊主を囲む会などから発信されるパソコンでの人生相談も、タイに居た時からメールが入るようになっていた。すでにフジテレビのスーパーニュースの取材も舞い込んでおり、夜の新宿と渋谷の街へ向かった。

新宿歌舞伎町にタムロする若者。そこへ黄衣を纏ったオッサンが現れれば、いつも以上に違和感ある存在となった。道を歩いて若者に声を掛けようと近づけば皆に避けられ、「みんな逃げよるやないかい!」と言葉を漏らす。道路脇でダンボール敷いて寝ようとしているホームレスのオッサンには「ここで寝るんか? 風邪引くなよ!」と声掛けるが、まともな返事は無い。渋谷センター街の地べたに座り込んでいるカラフルなメイクの女子高生に「素顔が見えへんやんけ!」と声掛ければ「ブッ殺すぞテメー!」と野次られた。日本に着いて、新宿を眺め歓楽街を歩いて、「何に飢えとるか言うたら、心に飢えとるな、今の日本は。悩むというより、何をしたらいいんか(どう生きたらいいのか)分からんのちゃうか?」という感想。

京都に住む娘さんとお孫さんにも再会。幼かった4歳の男の子は高校生になっていた。娘さんは父親らしい生き方には納得していて、藤川さんの「出家の為に京都に捨ててきた」というわだかまりも解けたような親子だった。元々仲が悪い訳ではなく、私が出家する前も藤川さんの托鉢姿を撮った写真を「娘に送るからパネルにしてくれ!」と頼まれたこともあった。タイからも日々こんな黄衣姿で頑張っている証を見せたかったのだろう(タイの寺から帰国まで、夜の歓楽街、娘さんとの再会までが放送の内容)。

支援者に支えられ、新大久保生活が続いた藤川さん。ある日、新大久保駅に向かう途中の路上でツッパリ兄ちゃんと肩がぶつかって因縁つけられたという。脅されてもビクともしない藤川さんだが、少々の説教を言ったところでボディブローを一発喰らい、“ウッ”と一瞬後退り。若者は走って逃げて行ったが、下手な素人パンチ、効いたパンチではなかった。藤川さんも「ワシの若い頃と同じやな!」という。あの若者もこの先行きが何も分からない、ツッパルだけしかない幼稚な存在だろうと。

藤川庵でオモロイ説法する藤川さん(2007年5月24日)

◆やがて体調に異変が

日本に移ってからもミクシィを使って多くの出会いあり、オモロイ坊主の説法へ各地へ向かうこと増え、インドのヨガを源流に持つヴィパッサナー瞑想も実践して勧めるなど、充実した日々を送っていたようだった。もう私は会いに行くことは滅多に無かったが、その翌年(2007年5月)、仏門での私と藤川さんの絡みに興味を持っていた私の友達を連れて、新大久保の藤川庵へ向かった。狭い部屋ながら生活必需品が揃ったタイの寺の部屋のような感じだった。そこでも笑いを誘いながら人の身になった指導をしてくれる藤川さん。言葉に落ち着きが増し、以前の喋りだしたら止まらない鬱陶しさは消えていた。

その後(2009年5月)、新宿での待ち合わせで、一度だけ昼飯に呼び出されたことがあったが、その時は黄衣は纏わず、肌色系の羽織物を着て杖を突いていた。老化で右膝が痛くなってきたのだという。黄衣を纏わないことは戒律違反。寒い日本に来たり、北朝鮮に渡った時は靴下を履いたり、シャツやモモヒキを穿き、毛糸の帽子を被ったりもしていたが、これも戒律違反。寒い時期は仕方ないと思うが、これ以外はしっかり戒律を守ってきた藤川さん。

そんな羽織物姿で「小便横丁行こう!」という。思い出横丁のことを小便横丁と呼ぶ藤川さん。その由縁は想像に難しくない終戦後の飲み屋街の環境だろう。

向かう途中、「ワシの母親は早うに呆けてしもうたからな。ワシも歩けんようになったら終わりやと思うで、呆けんように無理してでも歩くようにしとるんや!」と言い、以前より明らかに歩くスピードは落ちていた。

◆深刻化する病状

私と最後の昼食となった日の藤川さんの姿(2009年5月9日)

前年(2008年7月)には尿路結石破砕手術を受けていた。タイでの寄進から得る食生活は栄養が偏りがちだろうと思う。「タイは生野菜を食べる習慣が無いから果物で補うしかない!」と言っていたこともあった。

小便横丁で昼食を摂る藤川さんの手が、やたらデカく見えた。「手、デカくなっていませんか?」と聞くと、「全身浮腫んどるんや!」と言う。次第に老化からくる免疫力の衰えがあるのだろうか、帯状疱疹も患っていた。腕や背中に発疹ができ始め、それが黄衣が擦れると凄く痛いのだという。だから極力痛みを抑えられる羽織物に替えていたのだ。俗人時代から抱える糖尿病も影響していたかもしれない。

更には胃癌を発病した藤川さん。胃の内側でなく、胃壁の中に出来る腫瘍ですぐには見つかり難くかった進行癌だという(と言う解釈だったと思う)。

もしかしたら、藤川さんは何らかの身体の異変に気付き、医療を受け易い日本に帰ろうと思ったのではないか、そんな想いも過ぎった私であった。タイも医療は発達した国であるが、主要都市の大病院に限るだろう。

そんな状況でも、手術や抗ガン剤などの治療で入院生活に縛られることを拒みながら「あと1~2年の命を貰えんか!」と医者に懇願した藤川さん。まだまだやり残した仕事があるのだろう。

2010年1月末、連絡も少なくなった藤川さんから珍しく私に電話が入った。「また近いうちに会えんけ? もう長うないんや!」という弱々しい発言。

私はすぐに空く日は無く、「また暇になったら行きますよ!」と冷たい言い分を残して電話を切ってしまった。毎度の一方的な要求には何度も応じて来たし、体調は悪くても、そんな切羽詰まった状況とは思わず、もう少し暖かくなったら行って来ようと思っていたところだったが、これが最後の会話となってしまったのだった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆心変わりする人

2003年5月の藤川さんが一時帰国の際、連れて来たソムサックさん。後々、還俗したという。任されていた小さな寺の住職も別の比丘に引き継いだようだが、実質投げ出したようなものだったとか。「一番信頼できる比丘や!」と藤川さんが言っていた彼は、どんな心の移り変わりがあっただろうか。新宿の歓楽街を裕福そうに歩く人々を見て、修行が馬鹿馬鹿しくなったのだろうか。肌の露出度高い胸元、ミニスカートで歩く若い女の子を見てムラムラしたのだろうか。30歳過ぎ、特に手に技術の無い男が、これから何をして生きていくのだろう。長きに渡って築き上げた地位、プライド捨て、楽な方へ心変わりする者がいることも自然なことなのだろう。

橋の欄干で佇む藤川さん

◆ビジネスの裏側!

“心変わり”から思い出し、過去に触れなかった悪巧みに変貌する話だが、まだ私が出家に至る前の1994年6月、藤川さんを成田空港に送る際の京成電車の中、私が、
「立嶋篤史は来月、全日本の王座防衛戦で、9月にムエタイランカーとやってこれに勝ったら11月にムエタイ王座挑戦の予定らしいです!」と言ったところで、藤川さんは、
「お前は9月のランカーとやる試合、篤史はどれぐらい勝つ可能性あると思う?」と問う。

私は「それはかなり難しいでしょうね、でも全く勝てない訳ではないなあ!」と言うと、
藤川さんは「ワシは篤史がほぼ100パーセント勝つと思うで! それで11月のチャンピオンに挑戦は、お前は篤史が勝つ可能性はどれぐらいやと思う?」ときた。

そこで、意味深なツッコミに気が付くが私は、
「これはほぼ無理かなあ、撥ね返されそう!」と言うとまた藤川さんは、
「これもワシは篤史がほぼ100パーセント勝つと思うで!」とニヤニヤ笑って言う。

ちょっと苛立った私は「それは八百長ということですか?それは篤史は絶対受けないし、連盟側もやらないですよ。今はファンも目が肥えていて見破るし、惨敗でもその現実を見せるのが今の時代ですよ!」と言い返すも、藤川さんはまた勝ち誇ったように笑いながら、
「お前はビジネスを知らんな!ワシはキックはテレビで観た沢村しか知らんし、そんな業界のことも何も知らんで!そやけどな、ビジネスちゅうモンはどの世界も裏があるんやぞ。篤史は受けんでも、タイの一流のボクサーは人の目を欺くプロ中のプロやからな、2~3年遊んで暮らせるぐらいの金積んだらアッサリ受けるぞ!」

ヘラヘラ笑いやがって、キックを舐めやがって、電車の中だけど怒鳴りたくなった。更には、
「タイのお寺もな、“県で一番偉い坊さん”とか崇められとる高僧居るやろ、あいつらに残りの人生食っていけるぐらいの金、1000万円ぐらい積んで、『この金やるから坊主辞めてみい!』なんて言うたら、いとも簡単に還俗しよるぞ!」

ビジネスの悪巧み、汚さを見てきた藤川さんの言葉も、この時はまともに聞けなかったが、私の脳裏にはしっかり留まり、その後のビジネスに於いての展開を見極めるには大いに役立ったのは確かだった。

◆インパール作戦から長い年月を経た影響

北朝鮮から帰った後は、藤川さんは度々訪れるミャンマーに出向いて、また新たな展開を見せていた。

2005年4月、藤川さんがミャンマーの女性、マ・ゲーンさんを連れて一時帰国。また気に入った人と旅したり、日本に連れて来たものだ。また心変わりしなければいいが。

藤川さんは「日本はいちばん安全な国や、犯罪も事故も他の国から比べれば極端に少ない!」と安心させていた矢先に起きた福知山線脱線事故。電車がマンションに突っ込み、グチャグチャに潰れる大惨事。早速マ・ゲーンさんは「日本は怖い!」と言葉漏らしたようだ。

彼女の滞在期間は2週間程度だったと思うが、高層ビルが立ち並ぶ空気の悪い都心ながら、ソムサックさんとは違った目線で、日本の平和は印象付いただろう。
マ・ゲーンさんはミャンマーの寺子屋で日本語を学び、「一度日本に行きたい!」と向上心持って日本語検定2級を見事合格。真面目な人格を藤川さんに認められ、ビザ取得に必要な手配をして貰い待望の初来日となった。それは日本とミャンマーの架け橋となる藤川さんのプロジェクトの一環で、残りの人生を懸けて取り組んでいる計画があった。

高田馬場で行く先へ電話する藤川さんとマ・ゲーンさん(2005年4月28日)

藤川さんが2000年暮れに立ち寄ったミャンマーのヤンゴンとマンダレーの中間にあるメッティーラという街は、太平洋戦争で多くの日本軍兵士と連合軍兵士、巻き添えを食ったミャンマー民間人の10万人以上の尊い命が奪われた地域。

大人になっても文盲も居るこの地域に日本語学校を作り、貧しい家庭の子供達に学問を受けさせ将来、この中から日本との架け橋になるビジネスマンが生まれれば、御釈迦様の教えの真の仏教を伝えていくことにも繋がる夢があった。

それは以前、藤川さんが俗人時代にインド・ミャンマー国境付近で見た、かつてのインパール作戦の失敗によって息絶えた日本軍兵士の遺骨を見たことが、後々の出家後、生涯仏門で過ごすことを決意し、この時のメッティーラでは日本軍兵士の生まれ変わりかと思わせるような、日本語で問い掛けて来るメッティーラの子供達の、日本人のような表情が藤川さんの心打ったのだった。

このメッティーラには日本企業や日本人慰霊碑があり、ビジネスマンや慰霊団がやって来ることから、現地の比丘が子供達に将来のビジネスチャンスを与えようと考え、教室とは言えぬ粗末な寺子屋で教材も揃わぬ中、英語や日本語を教える授業が開かれていた。

藤川さんがその現状を見て、充分な勉強が出来るよう設備を整えようと苦労して資金を掻き集め、ここに立派な日本語学校を立ち上げたのが、そこから1年あまりの2002年4月。貧乏でも明るく生きるミャンマーの子供達は、ここからどれだけ語学万能となって国際社会に巣立っていくだろうか。

◆藤川さんの次なる運命へ!

マ・ゲーンさんを連れた、この藤川さんの一時帰国では、昼前に私も呼ばれて久々に一緒に街を歩き、高田馬場にあるミャンマー料理店に誘われた。ラジオから流れるNHKアナウンサー風の男性の淡々とした声は、ミャンマーのニュースかと思ったらお経で、同じテーラワーダ仏教のお経も御国柄で発音が違うのだという。食事はお店側のタンブン(寄進)ですべてタダ。徳を積む店主の行為ながら、修行の足りない私は申し訳ない気持ちである。

ミャンマー料理店でタンブンする女性店主さん、藤川さんが脅しているのではない

昼食後、近くのミャンマー語教室にも訪れた。講師はマ・ヘーマーという来日9年目の大学教授も務める女性で、メッティーラの寺子屋で日本語を学んだ元生徒で、藤川さんとは同志の縁。

午後の授業に生徒さん一人がやって来てプライベートレッスンが始まり、私は見学させて貰ったが、ミャンマー語も難しいものだ。文字や文法には法則があって、コツを覚えれば初級のある程度はすんなりいくはず。中級に上がると私みたいな三日坊主は壁にぶち当たり挫折しやすいだろう。集中して聴く隣で、笑って雑談する藤川さんの声の大きいこと。授業中に全くデリカシーが無いオッサンだ。

その後も日本の支援者に協力を得ながら、タイ・ミャンマーを行き来する藤川さん。旅先で出会う人々とすぐ打ち解けて笑い合う人柄。私は北朝鮮には行かなかったが、ミャンマーには藤川さんと行ってみたいものだ。しかし、藤川さんはやがて日本移住を決意する展開に移っていくのだった。

ミャンマー語教室風景、講師はマ・ヘーマーさん

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

以下は、北朝鮮へ旅立つ前、藤川さんから直接聴いた話、帰られてから聴いた話の他、オモロイ坊主を囲む会ホームページの藤川さんの言葉、TBS報道特集で放映された内容を引用した部分があります(2004年12月5日放送)。

◆藤川さん、北京から平壌に入る!

「あの北朝鮮の政治体制の中でも仏教があるというが、お坊さんが修行しているとは信じられへん。お寺の和尚に会ってみて『御釈迦様と金総書記はどっちが偉いと思う?』と聞いてみたい。苦労してビザを取って北朝鮮に行く以上、何か掴んで帰りたい。どこかに宗教心を垣間見ることができるはずや!」という藤川さんらしい探究心。

他にも会ってみたい人物もいた。1970年3月に起こった日本航空機、よど号ハイジャック事件。北朝鮮に残っているその実行犯と会う。

日本からの直行便は無い。一般的には北京経由で平壌に渡るしかない。

2004年11月16日、平壌空港に到着。久保田弘信カメラマンと2人で入国後、そこから“2人”の通訳兼案内役に迎えられ、パスポートと携帯電話、航空券を預けなければならなかった(3人で行っていたら3人の案内役)。車に乗せられ向かったのは宿泊するホテル。車窓から見る平壌の街並みは陰気で静か、灯りも暗く寂しいといった印象だったという。

◆よど号ハイジャック実行犯にも説教してしまう藤川さん!

比丘は剃髪から何日かだいたい分かるもの(2003.3.18)

到着した日の夜、ホテルのロビーに尋ねて来た、よど号ハイジャック実行犯の小西隆裕氏と若林盛亮氏の二人とホテルにあるカフェで対面。この方々は日本の支援者の仲介で、予め藤川さんの北朝鮮訪問を聞いて対面が予定されていた。元々は彼らと同じ実行犯、田中義三氏がタイで別事件で収監中に、タイの日本人ジャーナリストの依頼で藤川さんが面会に行ってから交流が始まり、平壌で小西氏らとの対面に繋がったもの。

そこでは、彼らはこの先のことどう考えているのか。率直に聞いて説教してしまう藤川さん。

穏やかに喋る普通のオジサンの小西氏は、「日本に帰るにしても決着付けなければならないことがある。(日本側が我々のこと)北朝鮮のスパイだとか、そういうことはやってないんだから!」等、言い分はいろいろあるところ、藤川さんは、「言いたいことあるんやったらさっさと帰って言え。ここに居って歳取って、あと5~6年はもの凄い貴重になるぞ。若い時の5~6年と違ってこれからの1年1年は大きい意味がある。小西さんが自分の主張を堂々と述べて、反対する奴に論陣を張ってやるだけやったと思って死にたかったら、やっぱり北朝鮮に居る1年2年は勿体無い。その有意義な1年2年の為に他のこと捨ててでも帰るべきやぞ!」

この映像の藤川さんの語り口には普段からの喋る癖があった。ツバ飛ばして喋る本気で説得している藤川さんの姿があった。だんだん熱くなり、いつもの放っておいたら止まらない調子だった。まるで2人の師匠かのような振る舞い。

「人間には帰巣本能がある!」と前々から言っていた藤川さん。

「難しいこと考えんと帰りたいと思うたら帰ればええのに。裁判受けて、田中義三の場合は7年(?)なんやから、あいつらも7~8年やろうから、さっさと帰って来ればええのになあ!」と老いていく時間を小西氏より三つ年上の我が身に置き換え惜しく思ったのだろう。

仏陀像に拝む藤川さん(2000.12.6)

◆中学校での決められた見学セット!

観光メニューとして、まず連れて行かれたのは、主体思想塔。そして故・金日成主席の生家。ガイドによって展示されている写真等の歴史のマニュアル化された説明を受ける。軍事境界線の板門店も訪れてコンクリートで仕切られた韓国側との国境の境目に立った。

「人間の悲しさと哀れさ情けなさを表した国境というものは大嫌いや!」と幾つもの国境線を見てきた藤川さんの率直な感想だろう。

更に中学校を見学。教室で着飾った少女たちが出迎えた。御琴の披露、歌声は見事なもの。

「見てて涙が出てきた。あの子ら喜び組の姉ちゃんと同じ顔(表情)やんか。ホンマかわいそうやった!」と映像の中で語っていた藤川さん。

国の支配下で動かされているマニュアル化された、本来の子供の姿ではない少女達に、映像からも同様に見えてくる。

別の画面で、男の子達がサッカーをして遊んでいる姿を久保田カメラマンが遠くから捉えていた。「こっちの方が本物の子供ぽいっていう感じですね!」という久保田氏。正にどこの国にもあるような子供達がボールを追う自然な姿があった。

◆金日成主席像の前で!

韓国料理を頂く藤川さん、北朝鮮でも食欲旺盛だったろう(2003.8.23)

観光マニュアルの中には、「万寿台の金日成主席像の前では外国人観光者も一礼しなければならない。」と決められているという。

「ワシは御釈迦様の弟子や、サンガ(上座部仏教)では御釈迦様が一番偉い存在で、サンガ以外の在家者に対し頭は下げない。タイ国王が来てもワシらは頭下げることは無い。そやからここでも頭下げるつもりはない!」

そんな発言をしていた藤川さん。実際に万寿台大記念碑に通訳兼案内役に連れられていくと、その主張を曲げなかったという。

すると、「案内人が『頼むから頭下げてくれ!』と次第に泣きそうになっていき、やがて兵隊がこっちに気付き、寄って来よる気配を感じたから、同行者にも迷惑掛かるから金日成主席像に向かって頭を下げてやった!」と言う。拘留に発展するほど意地を張る必要は無い。臨機応変に捉えなければならない。そんな解釈もあったかもしれない。“事無きを得た”、そんな感じだろうか。

タイでも日本でも北朝鮮でも唱える経文は同じ(2000.12.6)

◆この旅の最大の目的、北朝鮮の寺訪問!

滞在中、7つの寺に訪問したという。

ある寺の御堂を開けて貰うと仏像があり、そこでテーラワーダ仏教のパーリー語による読経をした藤川さん。北朝鮮となった国の寺でテーラワーダ仏教の黄衣を纏った比丘が、読経したのは過去に存在するだろうか。

藤川さんの「タイでは仏教は政治と離れていて、タイ国王が来ても、タイの首相が来てもお坊さんは挨拶しないが、ここではどうや?」

「ここも同じ、私達も同じです。」と笑顔で応える住職。

別の寺でも質問。

御釈迦様は好きですか?

「はい!」

一番聞きたかったこと、「貴方の心の中では御釈迦様と将軍(金正日総書記)様はどっちが偉いと思う?」と問うと、
「私達の将軍様が一番偉いです!」とハッキリ応える住職。

藤川さんは「李氏朝鮮以前は仏教の国やったのに、無くなってしまうのは格好悪いから無理に作ってあるという感じやな!」と語る。

訪朝前から答えは分かっているようなものだっただろう。ただ、通訳は入るが、実際に北朝鮮の寺の住職に尋ねて言葉を交わし、生の声から経験値や価値観、感情を読み取れて北朝鮮に来た甲斐はあっただろう。

そんな中のまた違う寺に向かった藤川さん。平壌の中心部から西に十三キロほど離れた龍岳山の法雲庵という寺には住職は居らず、70歳くらいのオバハンが管理人として常駐。藤川さんが本堂らしき建物の中で仏像に向かってお経を唱えると、後ろで管理人のオバハンが泣いていたという。

一通り読経し終わると、そのオバハンが「お坊さん、ずっとここに居てください。この寺には長いことお坊さん(僧侶)が居ません。お坊さん(藤川さん)の食事や洗濯の御世話は私がやります!」と泣きついて来たという。

藤川さんは「仏教を信じている人間がこの国にもいる。心の奥底には宗教を大切にする気持ちが残っている。人々の心の底にも仏陀は生きている!」と確信。涙を流しながらいつまでも手を振って見送ってくれたオバハンには後ろ髪を引かれる思いがしたという(髪無いが!)。

◆北朝鮮では終始、通訳兼案内役が付いていた!

四国八十八箇所巡礼を歩き、北朝鮮へ向かう勢いもまだまだ逞しい(2004.5.28)

「通訳兼案内役に高層ホテルの窓から『お前の家はどこや!』と聞いたら、『あそこだ!』と指差したのは、ホテルから数分で歩いて行ける距離にあるところや。でも帰らずにワシの隣の部屋に泊まりよる。ホテルの部屋には噂どおりの大鏡があった。そこで裸で踊ってやったけどな。ちょっとその辺を散歩でもしようかと思うて部屋を出ると、隣の部屋からその通訳兼案内役も出て来て言いよった。『どこ行くんですか?』と。常に監視して付き纏う彼ら。いろいろなところ行ったけど、直接現地の人と触れられるような場所はスッと避けさせる。ホンマに国の中身を見せよらへん。マニュアル国家やな、ワシら外国人に対しては!」

(でもそんな藤川さんらはどこかの床屋に入っている。藤川さんの頭は剃髪間もなく、訪朝時も薄っすらと毛が生えている程度だったが、ある寺の訪問からすっかりツルツルになっていた。その久保田氏が録ったと見える床屋映像もどこかの放映で見たのだが、わずかな記憶しかない私。)

そんな旅を終えてパスポートと航空券を返して貰って11月23日、北京へ戻られた。
やっぱり“精神的にドッと疲れた”という感じだろう。

私(堀田)が行かなかったのは、持病によって皆の足を引っ張ったかもしれないこと、旅費35万円は高過ぎたこと、あと私の両親は、私が何度もタイに行ったことは知っているが、行く度に心配させない為、「タイに行く!」とは言ったことはない。でもたまに電話があると「なるべく外国には行かんでくれや!」という心配が多かった。それが、北朝鮮の話は全くしていないし、誰からも私の親にはそんな連絡する奴はいないが、「北朝鮮なんか絶対行くなよ!」と何か察したかのように言われてしまった。タイでも暴動があったりと、たまたまそんな言葉が出てしまったのだろうが、これが直接、行かないことに決断させたものだった。仕事として決まっていたら何が何でも行っていただろう。でも単なる観光で行って帰って来れなくなったら、とんでもない騒動だっただろう。藤川さんもTBSから「下手なこと言ったら拘留されてタイへ帰れないぞ、拉致されるぞ!」と脅かされていたようだが、そんな覚悟は出来ている藤川さん。「ナンなら北朝鮮の寺でも修行は出来る!」と考えているのだから、同行者となった久保田氏はアフガニスタンより怖かったであろう。北京から日本へ無事帰り、諸々の関係者に旅の報告を終え、タイの寺へ戻られた藤川さん。次なる挑戦に準備を進めていた。

※北朝鮮の旅関係の画像は一切無いため、藤川さんのイメージ画像として、やや関連する普段の姿を集めています。以上は2000年以降、北朝鮮に向かうまでのもの。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆一時帰国が頻繁に

藤川さんの四国八十八箇所礼所巡りから日本での活動が増えると当然、支援者も増えていった。陰気臭い仏教話も打ち消してしまうような京都弁丸出しの真面目で笑える説法。人気者にならない訳が無い。人生相談も増えたが、これをマスコミが追いかけ始めたことも当然の成り行きだった。

2003年5月3日、この時期は藤川さんが出版社に唆されて書く運命になった半生記本出版がメインの一時帰国。またも電話とメールで呼び出され、昼前に新宿駅中央線ホーム上で待ち合わせ。もう何度目の一時帰国か。毎度毎度遊びに来るのも布教活動も好きにやればいいが、“その度に御飯をアテにして俺を呼ぶなよ”と思う。

行ってみるとオモロイ坊主を囲む会の江頭紀子さんら、この前の飲み会で会った他2名も一緒に居るではないか。

「ナンだ、また俺来なくてもよかったじゃないか!」と愚痴ると藤川さんは「まあエエやろが!」と毎度の用意周到さ。私が呼ばれる理由の一つは戒律を把握しているからだろう。12時までに昼食のテーブルに着かねばならないという意識が働くからだ。

「連れてくる!」と言っていたとおり、ソムサックさんも初来日。新宿の土の香りが全くしないコンクリートの塊ビルの街並みを見て何と思っただろうか。ソムサックさんは大人しい性格で、「疲れましたか、新宿は人が多くて歩き難いですか?」と聞いても

「マイペンライ(大丈夫)!、マイミーパンハー(問題無い)!」と何の不平も言わず長い距離を歩いてくれたが、新宿をどう感じたか本音を聞きたいところだった。

そして新宿東口駅前から、私が適当に指差した吉野家がありそうな方向に導こうとしたら、もっと品の良い店探そうとするオモロイ坊主を囲む会の面々。これ、初めてムエタイ選手をトレーナーとして招聘したジム関係者に似ていた。“お客様”を持て成そうとしているのだ。

「こいつらただの乞食(比丘=食を乞う者)だ、その辺の吉野家でも思い出横丁でもいいんだ!」と言うも、そんな粗末な扱いする訳にいかない表情。そして時間が迫る中、「タイ時間で考えてくれてもエエで!」と言い出す藤川さん。2時間猶予が出来るが、そんな都合のいい戒律解釈は駄目だろう。それは無視して少々歩いて見つけた定食が揃った小奇麗なお店に入った。

ソムサックさんを連れて新宿を歩いた御一行(2003.5.3)

新宿を歩く異様な二名

◆仏陀の教えは伝わるか

この藤川さんの一時帰国で、「タイでオモロイ坊主になってもうた」が発行され、市ヶ谷辺りのビル一室を借りての出版記念座談会開催。ほぼ同時期に日本上座部仏教協会設立。もうこの頃は、ここに集まった30名程の“群集”には、藤川さんの何年も続けてきた地道な活動の成果が表れていた。

ここでは藤川さんが真の仏教、仏陀が説かれた教えを悩み多き日本人へ伝えていこうとしていた。悩み多き日本人とは誰を指すか。それは私でもあり、同じようにあらゆる地位で働く、ごく普通の日本人。日々何か理不尽なことが起こったり、上手くいかない仕事であったり、苦しい生活事情であったり、そんな中でも幸せとは何か、貧乏でも明るく暮らすアジアの奥地の人々の生き方を説いても都会に住むと気が付き難い、地位を持った人々。誰にも相談できず、自殺者が絶えない日本人。悩みを打ち明けたくても普通、誰もこんな宗教集団には寄り付かないものだが、今後どのように展開するだろうか。

◆新たな野望

この出版を迎えて、“やれやれ終わった”と思ったところで出版社から第2弾を要請された藤川さん。第1弾は自身の半生紀で、荒れた人生から仏陀に惚れ込み出家に至るまでの経緯。第2弾は出家後の話、「比丘藤川清弘が何を見て、何を学んだかを書け!」と言われたもの。タイトルも「オモロイ坊主のアジア托鉢行」に決まり、タイの寺に帰ってから、再び試練のワープロと向き合う執筆に入られた。アジア各地を廻った巡礼話。また苦労しながら支援者に頼り、半年掛けて何とか原稿完成に漕ぎ着け、2004年6月末の出版第2弾での一時帰国。

大井町のホテルに泊まる藤川さん、メール通信は当たり前、ミクシィもこなす(2004.7.7)

この出版に向けて、修行のように日々ワープロに向かって過去の旅話を書いていると、また沸々と新たな野望が沸いてきたという。

「今度は北朝鮮に行こうと思うんや。“北朝鮮にも仏教寺がある”って聞いて、ちゃんと仏教活動が成されておるのか見てみたいんや!」と言う好奇心旺盛さは止まらない。

すでに北朝鮮にルートを持つ知り合いには渡航出来るか相談し、あるルートから行ける見込みだという。「お前も行かんか? 北朝鮮に行ける滅多に無いチャンスやから行って内情を見ておいた方がいいぞ!」と私にも振ってきた。私の不甲斐無い人生を想ってビジネスチャンスを振ってくれたものだったが、何か不穏なムード漂う今迄に無い旅。決心するには覚悟要る話だった。

渋谷にて、黄衣の纏いを直す藤川さん(2004.7.12)

渋谷に似合わぬ黄衣姿、周りからは異様な人物に見られる

◆北朝鮮へ挑む藤川さん

その渡航手続きが進む3ヶ月後、この為の一時帰国。

10月7日に、四ツ谷辺りの公民館らしきビルの一角の八畳ほどの和室を2部屋借り切っての、オモロイ坊主を囲む座談会には、20名あまりが参加されていた。上座には北朝鮮渡航を控えた藤川さんを囲むように支援者が座り、襖を外した後方の部屋には、藤川さんの説法を聴きに来たような一般の人が座っていた。これに加え、NHKが異色な比丘の藤川さんを取材に来ていた。

この座談会では藤川さんを取り巻く支援者達が“先生”と呼んでいたが、藤川さんがこの周囲から祭り上げられた存在のように思えた。

私が違和感を覚え、「何が先生だ、こんなジジィ・・・!」と言ったところで、藤川さんが「お前がいちばんワシの正体知っとるからなあ、ワッハッハッハ!」と高笑いされたが、ここには藤川さんを崇拝して着いて行く信者さんが少々と、“このジジィを利用してやろう”というビジネス戦略を持つ者がやって来たのである。だが、藤川さんはそんなことはしっかり弁えていて、「皆はワシを利用すればエエんや、ワシも皆に助けて貰えたらやりたいこと出来る訳やから!」という持ちつ持たれつ行くことが思惑通りの確信犯。北朝鮮に行く機会を得たのも支援者に導かれてのものだった。

北朝鮮行きの話が人伝に広まれば、そこにマスコミ関係者が集まるのも思惑どおりだっただろう。

ここに参加したのがフォトジャーナリストの久保田弘信さん。藤川さんの北朝鮮行きに同行予定で、彼はアフガニスタンやイラクなどの戦場を取材してきた度胸据わった冒険家。今回、TBS報道特集から指名されたのも当然であった。

私は藤川さんから個人的に誘われていたが主要メンバーではない。

更に10日間ほどの北朝鮮の旅に個人で参加するには35万円ほど掛かるという。高いが何とか払える金額だったが、諸々考えた末、些細な事情であるが参加しないことにした。

この時の一時帰国では、私はこの座談会に呼ばれただけで、藤川さんから一度も“飯食わせろコール”は無かった。それだけ支援者による、空国(入国)から空港(出国)まで賄いが行き届いていたのだろう。あれだけタダ飯食わせに朝から遠出させた藤川さんから連絡が無いのは喜びたいところだが、もう私は必要なくなったかと寂しさすら感じてしまう矛盾した嫉妬心。

さて、藤川さんの見たいもの、試したいことは実現するか、更には報道関係者から要請された、よど号乗っ取り犯との対面も予定される中、藤川さんは久保田氏と翌月、北朝鮮へ向け出発した。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

◆藤川さんが四国八十八箇所御遍路の旅で味わったこと!

藤川さんの剃髪撮るのも巣鴨以来

2001年4月18日、藤川さん(藤川清弘和尚)は一時帰国、再会時に約束のプリペイド式携帯電話を渡すと、予定通り四国鳴門市一番礼所霊山寺へ、八十八箇所御遍路の旅が始まった。ここから約50日間の旅となる。私は一度も同行することは無かったが、後々旅の話を聞くと、札所での理不尽な想いを何度もする旅だったようで、これが今の日本のお寺か、慈悲の念など全く感じない住職が多かったという。

藤川さんは旅の資金はそこそこ持っているが、タイで出家した比丘として、極力戒律を守りながらの旅で、正に比丘(食を乞う者)として、お寺で食事の施しを願い出た時は、「文句言いながら無料うどん券を放り投げて来よった!」とか、また別の寺で「タイの寺で修行しとる藤川と言う者ですが、戒律で一般のホテルなどには泊まれないので、ここで一晩泊めてくださいませんか?」と願い出た時には「寺の外に通夜堂があるからそこで寝ろ!」と無愛想に言われて行って見ると、雨が降ったら水浸しになるような掘っ建て小屋で、夜はまだ少し寒い時期で冷たい床。

それでも寝る準備をしていると警察官が二人やって来て、「お前どこの人間や、不審者が居ると通報があった、パスポートを見せろ!」と怒鳴りつけてくる警察官だったという。

ワット・ポムケーウで藤川さんと再会、同僚の比丘と一緒に

朝の風景、藤川さんの托鉢を撮るのは4度目となった

藤川さんも気の強い元・地上げ屋、「ワシは日本人で許可を貰うてここに居るんや、お前なんかにパスポート見せる必要は無い!」と突っ撥ねたという。どうやら「そこで寝ろ!」と言った住職がすぐさま警察に「不審な者が居る!」と通報したようだった。黄色い袈裟を纏い、テーラワーダ仏教の身分証明書もパスポートも持った比丘を、そんな扱いをする住職が、四国八十八箇所の礼所のひとつにあるのか。

更には四国八十八箇所巡りで礼所の僧侶の態度に不愉快な想いをした一般の巡礼者もかなりの数に上るようだ(2001年当時の話)。

一方で藤川さんは、人から施しを受けた物しか食べてはならない戒律を極力守っていたが、日本に居てはそんな話は通用しない。止むを得ず、夜のうちにコンビニエンスストアーの前にタムロする若者に「ワシ、タイで坊主やっとるんやけど、戒律で自分から食べ物を買うたりは出来んのや、すまんけどお金預けるからオニギリとかパンとかでええから買うて来てくれへん?」と頼んだら「あっ、いいですよ~!」と嫌な顔もせず、すぐ買って来てくれたという。

田舎らしさがある托鉢にて

横柄な寺の住職より素直な若者に何度も出会い、親切な振舞いや、「オッちゃん頑張ってな!」と励ましてくれる声掛けには本当に心救われたようだ。

◆手紙が来ない

2002年、年明けぐらいから藤川さんから手紙が来なくなった。“これで縁が切れた”という訳がない。電子メールに替わっただけだった。藤川さんも初期的なノートパソコンを手に入れたようだ。この冬、寒いのに日本に来た時など、しつこいものだった。

携帯電話には留守電が入り、家の固定電話にも留守電が入り「藤川ですう、電話くださあい!」の他、携帯電話メールにも同様の文言、パソコンメールにも同様の文言、ミクシィにまで同じ文言が入っていた。

「これだけやっとけば“知りませんでした”とは言えんやろ!」さすがに元・地上げ屋、やることはしつこい。

托鉢と街の風景とともに

鶏に餌を与える比丘、寺に居るといろいろな小動物に出会える

寺の子猫たち、干した魚の朝食を与えられる

ムエタイジム経営には試練も多かった伊達秀騎

◆2003年3月、もう一度タイへ

私が再びタイに渡った目的は、伊達秀騎が始めたジムの様子を見ること、そして2年3ヶ月ぶりに藤川さんが修行するワット・ポムケーウへ訪れてみることなどがあった。

一週間の滞在の拠点は伊達秀騎が運営するイングラムジム。彼は2002年3月に計画どおりムエタイジムを開設していた。

バンコクのスクンビット通り、高架鉄道のプロンポン駅に近いエリアに在り、将来有望な選手も居て、まだ新しく広いジムだが、やがて引っ越さなければならない事情があって、バイクに乗って物件交渉に向かう伊達くんの姿があった。

藤川さんの寺は二度目の訪問なので迷うことなく到着。ジャーナリストの江頭紀子さんも訪れて来て、藤川さんが長年続けられて来られた仏陀の教えを説く活動が、次第にマスコミを巻き込む友達の輪を広げたものと感じた。

藤川さんと再会した途端にいつものマシンガントークが始まり、あるショックな話を聞かされた。

数週間前、我々の古巣のワット・タムケーウのアムヌアイさんが突然、藤川さんを尋ねて来たという。

日本人選手の修行の場となるムエタイジムも昔と比べ環境は良くなったものだ

夕食後の寛ぎの時間。こんな触れ合いが人を育てる。奥中央がアーリー、ギター持つのがダーウサミン、後の看板選手となる

交通事故で亡くなったワット・タムケーウの和尚さん、再会成らず

そこで言われたことは、ワット・タムケーウの和尚さんが交通事故で亡くなったというもの。車で外出する際、寺の世話人が運転する車が誤って横転し、車から投げ出された和尚さんは即死だったらしい。

そこでアムヌアイさんが藤川さんに申し入れたことは「ワット・タムケーウの和尚(住職)になってくれないか?」というものだった。和尚さんの死を悔やみながらも、さすがに断ったという。ビザの更新で外国に頻繁に出る為、寺を守れないのは明白。長く副住職を務めたヨーンさんも還俗した後で、他に長老と言える先輩は居ないアムヌアイさんは人生の決断の時だろうか。

更に藤川さんはやがて本を出版するという。字は汚い、文章は小学生の作文より下手、人様に聞かせられるような人生ではないからと断わり続けるも、出版社、執筆者から励まされ煽てられ続けると書かざるを得なくなって、四国御遍路が終わった辺りから少し書いては諦め、また励まされ、また進んでは旅の為ストップしつつも何とか書き上げ、後は執筆者に丸投げしたという。

「その完成出版に向けて5月にソムサック(仮称)を連れて日本に行くから宜しく!」と丸投げして待つだけの藤川さんは涼しい顔。ソムサックさんは、私が前回この寺に寄った際、泊めて貰った倉庫小屋の軒先の部屋に居た真面目な30代の比丘で、この2003年春には近くの海沿いの小さな掘っ建て小屋のような寺の住職になったという。

私の最初の剃髪をしてくれたワット・タムケーウのアムヌアイさん(撮影は1994年当時)

藤川さんもこのワット・ポムケーウに来た当初から、ソムサックさんは頼りになる存在で、「今迄でコイツが一番信頼できる坊主なんや!」と言い、「一度、日本に連れていってやりたくて、ワシの支援者らの前でテーラワーダ仏教について喋って貰おうと思うとるんや!」と言い、パスポート取得やビザ申請も進んでいるという。タイで生まれタイで育ち、仏門を中心とした人生のソムサックさんが見る東京の街はどんな風に映るのだろう。

通算4度目となる藤川さんの托鉢も撮影させて貰った。今回はメークロン駅ではない方向で、藤川さんの後を若い比丘が一人着いていた。出家10年を超える長老となって新米比丘を随えて貫禄充分であった。

◆切れるどころか深まる縁

実際はたいした用の無い旅だったが、この寺のクティの屋上で日光浴させて貰い、しっかり日焼けできた。藤川さんが私を誰も居ない屋上に誘ってくれたのは、実はこれが本当の渡タイ目的で、人に見せたくない皮膚疾患を持つ私の身体は強い紫外線によってキレイに治った。あまりやるべきではない手段だが、一気に治したい目的は達成できた旅となった。

ここで出会った江頭紀子さんには帰国後、「オモロイ坊主を囲む会」の飲み会に誘われた。

藤川さんのオモロイ説法にハマるタイプの似た者同士でオモロイ人達だった。これではまだまだ藤川さんとの縁は切れそうにないなあ。更にはこのメンバーを中心に日本上座部仏教協会設立へ向かう2003年春だった。

寺の屋上が旅のメインになるとは

クティの屋上から見る寺の風景

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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まだ陽が昇らぬ朝、寺を出る藤川さん

◆市場の中を列車が通るメークロンでの托鉢

ワット・ポムケーウを訪れた翌朝、藤川さんを待っていると、6時過ぎにその姿が現れた。

托鉢に付いて行く先はメークロン市場。ここは世界中から注目されている市場だと聞かされていたが、そこはテントが張られた中の、野菜や果物や魚が並べられたごく普通の市場だった。

足下を見れば線路が敷かれており、野菜などの食材は線路まではみ出て並べられ、すぐ先には国鉄メークロン駅が見え、やがて列車が通るとはとても思えないほどの市場の中で人が行き交っていた。

市場の中を歩く足下は線路

線路上でサイバーツを受ける藤川さん

市場の中の線路を歩く

他の寺の比丘も後ろに付く街中の托鉢

藤川さんは市場内を托鉢し、朝の静寂な道を歩いた過去と違いやや賑やかな、また信者さんが藤川さんに笑顔で話しかける光景もある市場らしい雰囲気も重なっていた。

市場の外まで廻りきると「もうすぐ列車が発車して、この辺ガラッと変わるから見ときぃ!」と言って私を残して先に寺に帰られた。

やがて駅の方からアナウンスが聴こえてくると、線路まで置かれていた野菜などの売り物は瞬く間に線路脇まで下げられ、突き出していたテント屋根は折り畳まれて引っ込められた。

列車は汽笛を上げながら迫って来る。

当然ながらスピードを上げられる区域では無く、人が速歩きする程度のスピードで、幅の狭い位置で通過を待つ人は身を屈めるように体勢を作るが、手を伸ばせば列車に触れるほどの距離。

出発間際の列車

この列車が倒れ掛かって来たら身体はペシャンコだなと分かる重量感。日本では許されない至近距離である。

2両編成の列車は汽笛を上げながら市場をギリギリ擦り抜けるように通過して行った。

通り過ぎた途端、テント屋根は引っ張り出され、せり出した屋根がまた重なり合うゴチャゴチャした市場に30秒足らずで何事も無かったかのように元に戻ってしまった。

舞台劇の場面入れ替えのような素早い光景だった。

このメークロン市場は見学ツアーも組まれている観光地でもあるようだ。

汽笛を上げながらゆっくり進んで来る列車

通過を待つ人はギリギリの位置

我に返ったように藤川さんを追って寺に戻ると、他の比丘達も帰って来る様子が伺え、托鉢でサイバーツ(お鉢に入れる寄進)された品々はサーラー(葬儀場・講堂)に運ばれ、白飯は一旦タライに集められ、頭陀袋に入れられた惣菜も一箇所に集められるのはどの寺も同じ。

日本で普通にビジネスに追われた生活を送って再びタイで托鉢に遭遇すると、「懐かしいなあ、俺もこんな風に托鉢に行って、寺でバーツを空けていたんだなあ!」と眠っていた脳が蘇えるように鮮明に思い出した。

この寺も4~5名のグループに分かれて短い読経の後、朝食となった。皆、無口に静まり返って食事が進む。時折、“カチン、コン、ススーッ”とあちこちで皿とスプーンが当たる音、惣菜が入れられたタライや容器が床に触れたり擦ったりする音が広いサーラーに響く。こんな些細な現象が妙に懐かしい。意識していなかったことも覚えているもんだなと思う。

食事が終わると短めの読経があり比丘達はその場を去る。そこでデックワット(寺小僧)に呼ばれて私も一緒に食事させて頂いた。

市場の外を歩く

読経して食事に入る比丘たち

◆イタズラの効果

朝食後、しばらくして本堂に移って30分ほどの読経があり、今日も覗かせて貰った。朝は葬式やニーモンなど無い限りは読経の時間となるようだ。後は自由な時間に入り、泊めて貰った倉庫の縁側で藤川さんとまたのんびり雑談に入ったり、昼寝をさせて貰った。

私が出家した年以降、毎年ねだられる古風ある日本の風景カレンダーは、主に春原さんが送ってくれていたが、今回はタイに来る前、1本だけ私がイタズラで7枚綴り(表紙と2ヶ月単位)のあるカレンダーを送っていた。それがある日の夕方、藤川さんが夕涼みをする境内のベンチで若い比丘らと雑談していたら、デックワットが筒状の郵便物を持って来たという。

静かな食事、食器などのわずかな音が響く

「カレンダーやとすぐ分かったから、“日本の風景でも見せたろ”と思うて皆の前で開けて見たら“ヘアヌード”やないか。慌てて『これはヤバイ、見たらアカン!』言うて丸めて部屋に持って帰ったけど、若い比丘らは一斉に静まり返って目がテンになっとったわ。そしたら夜遅くになって若い奴の一人がワシの部屋ノックしよった。

『何や?』言うたら、『すんません、あのカレンダー、貰えませんか?』と。

『ワシが持っておっても仕方無いからやってもええが、こんなモン見てどうするんや?』って言うても“ニヤッ・・・!”と笑うだけやった。あれ貰いに来るの勇気要ったやろうな!」

私の藤川さんへの恥かかせ狙いはあまり効果は無かったが、トンだ波紋が広がったようだ。奴らも修行の足りない未熟な連中だこと。

寺に帰れば犬が出迎えるのは日常のこと

和尚さん(手前)を先頭に読経が始まる

定位置は無く、徐々に集まる比丘たち

◆シルクロードへ向けて

ただ藤川さんの様子を伺いに来ただけの訪問だったのに、またこの雑談で興味深い話を持ち出された。

「来年4月頃に、四国御遍路八十八箇所の旅に出ようかと思うとるんや、旅に出るのにいろいろ準備せないかんモンがあるんやけど、お前、携帯電話準備してくれへんか?」

なんやかんやと言い包められて「OK~!」と言ってしまって後悔したのは帰りのバスの中だった。

“俺って悪徳商法に丸め込まれるタイプだなあ。人の優しさに付け込んで来るからタチが悪い。まあ、藤川クソジジィの為に、今回限りで言うこと聴いてやろう!”ってもう何回目だろう。

その寺から帰る際は、門まで見送ってくれて、「じゃあまた4月にな、頼むで!」と言うこと言えば“気が変わらん内に!”と言わんばかりに、早々に引き上げて行かれた。あのジジィめ。

この藤川さんの野望は、
「いずれは御釈迦様が歩いたシルクロードの道をワシも歩いてみたいんや。その予行演習として足腰を鍛える為に、四国八十八箇所の霊場を歩くことにしたんや。道中は乗り物を一切使わず、宿泊は寺か巡礼宿、民家、野宿で通して、食事も托鉢か仏心ある人から供養で賄おうと思って居る。一日でも二日でも一緒に歩いてくれる人があればと思うて、何時でも連絡取れるように携帯電話を持って歩きたいんや!」と言う。

雑談に入る藤川さんの野望ある眼力

そして私にも「一日でも付き合って写真撮ってくれたら有難いし、道中、テーラワーダ仏教の仏教の布教を兼ねて仏陀の教え、真の仏教を伝えながら歩こうと思う!」と計画しているという。

とにかく一箇所に留まるのが嫌いで新しいことにチャレンジしたがる藤川さん。歳を重ねてその勢いがより一層増してきた感じがする。私が四国まで付いて歩くのは難しいが。

◆伊達秀騎の次なる挑戦!

残りのバンコク滞在で幾つか用事を済ませ、最終日に泊めて貰ったのは伊達秀騎が住む高層マンション。3年前にタイに移り住み就職し、この頃は個人で事業を立ち上げていた。一階にガラス張りの伊達くんの事務所があり、4~5年前のキックボクサーとしての姿はすでに無く、ビジネスマンの風格抜群の姿があった。これからムエタイジムを始める計画があると言う。日本人がムエタイの本場で始めるムエタイジムは果たして上手くいくだろうか。チャンピオンには届かなかった伊達秀騎のタイでの難しい挑戦である。

私の周りには野望持った奴多いなあ。藤川さんと伊達くん。二人の挑戦は私にも刺激を与えてくれる存在である。

今回の旅は慌しく終わってみれば楽しい旅だった。また来たい。御世話になった寺やジムなど、まだ行かねばならないところもある。次はいつ来られるだろうか。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

11月7日発売 月刊『紙の爆弾』2019年12月号!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

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