托鉢準備するブントゥーン

托鉢からの帰り道、餌の匂いに敏感な犬も日常の姿

◆いちばん撮りたかった托鉢

田舎道を歩くような托鉢が絵になる風景だった。私も比丘として一度歩いた道。頭陀袋は持たずバーツ(お鉢)を抱えて歩く比丘達。主に一握りの炊いたもち米がサイバーツされていく。

翌朝には別ルートを行く3人組の托鉢にお供した。こちらはサイバーツされた後、短い読経をして立ち去っていた。これは経文を覚えていないといけない。こういうところが巡礼先で出くわした場合、出来ないでは済まない事態に陥ってしまうだろう。数日見ていたが、もう一度、比丘として托鉢で歩いてみたくなる田舎道だった。

そしてお寺に寄進にやって来る信者さんの姿。老人から若い女性までやって来る。生活に根付いた習慣、私も信者さんに混じって新たな寺の在り方が見られる姿であった。

◆カンペーンと歩いたビエンチャンの街

スリランカから来たナンマラタナさんのビザ申請に付き合った他、サーマネーン(少年僧)とも外出。ワンナーくんとシーポーンくんとパトゥーサイ(凱旋門)に行ったり、ビザの受取りに行く時には、カンペーンくんが「俺も行っていい?」と言うので了解すると、すぐ水浴びして黄衣を纏うのを待って一緒に街に出た。

一緒に行動するのは初めてだったが、何とも気さくな奴だった。言葉が丁寧で年上を敬う姿勢が伺われ、領事館で待たされたり、長距離を歩いても「ボーペンヤンドーク(マイペンライ=大丈夫)」と言って暑い中でも我慢強く待ち、私が何を撮りたいかを察する配慮があり、アナンさんに似た感性を持っていた。ムエタイボクサーのような風貌もあり、スポーツマンではないが何かやらせればトップに立てるだろう体幹があるように見えた。

博物館に行くと、タイ軍に壊されたラオスの仏像を見る。展示物を説明してくれたが、私が無知で追いつけない感じだ。

徳を積む信者さん、喜捨を受けるカンペーン

信者さんの待ち構える位置はカーブ気味

読経して立ち去る3人の比丘とネーン

比丘を待つ御婦人の祈り

◆オカマのおじさん!

毎日、ワット・チェンウェーに寄進に来ていたオカマのオッサン、それは見てすぐ分かるそんな雰囲気の存在。やたら優しい眼差しで寄って来るようになり、夕方、カーオトム屋でも出会ったりして奢ってくれたので仲良く話は続けたが、やっぱり寄られると気持ち悪いオッサンだ。

そんな今回の旅行者としての旅で、ノンカイ、ビエンチャンのお寺の滞在で改めて意識したのは、ブンミー和尚さんやワット・ミーチャイターのプラマート和尚さんの様子。なよっとしていて優しいがちょっと変。以前、藤川さんが一時僧時代のことを言っていたことだが、寝ていてキンタマ握られたというのも不思議ではない。
私も警戒していたが、必要以上の異常な接近は無かった。それにしてもワット・ミーチャイ・ターの石橋正次似のスアさんもリップクリームを、女性が口紅塗るように鏡見ながら指でなく顔を横に振るように塗っていたし、やっぱり真面目に何年も修行すると男性ホルモンのバランスが崩れ、精力が衰えるのかなとは思う。タイはオカマの多い国ではあるが、因果関係は分からない。ラオスも似たものなのだろう。

托鉢から帰って足を洗うワンナー

他の逞しい比丘達はどんな意識で過ごしているのだろうか。下品な奴でなくても還俗したら「どこの女郎屋へ行く」とか、ごく自然に言う奴もいたが、大概は還俗ありきの修行で、健全な男として向かうのだろう。

かつて藤川さんが巡礼の旅をした際、タイ北部のある寺で展示された女性ミイラの遺体を目撃した話では、

「そこには若い美女の写真と、『私はかつて美人とモテはやされ、多くの男性から告白され、結婚を申し込まれましたが、今はこの有様です』と書かれた文言が掲げられておって、若い比丘が性欲を抑えられなくなった時、姿形ボロボロのミイラとなった遺体の横で一晩過ごすことを勧められるんや。人間は目ヤニや鼻糞、耳糞、糞尿など、九つの穴から臭い汚物を出す生き物や。牛や豚や人間も一皮剥がせば似た内臓を持っておって、死んでしまえば悪臭放つ物体。美女も同じ物体。そこで寝かされれば無駄な欲求に嫌気が差してしまうらしいで」

という話を聞かされたことがある。

美女は綺麗だなあ。でも誰もがやがて歳を取るのである。この世のものは不動のものなど無く、全てが変化していく物質世界。不老不死など有り得ない諸行無常のこの世の姿を考えるようになった。けど美女はいいよなあ。修行しても男は懲りないのである。

綺麗なお姉さんも仏教徒の務めにやって来る

◆ブンミー和尚の優しさ

こんな田舎道を歩く絵葉書になりそうな托鉢を見て、再び興味が沸いてしまった不純な動機。帰る前日に、「また将来、得度してみたい」とブンミー和尚さんにも相談してみた。まずラオスに来ての再出家は無いと思うが、その反応と可能性を探ってみたかったのだ。

ところが、今迄の人達とちょっと反応が違った。「自分が出家したペッブリーの寺は下品な奴ばかりで、ノンカイとこのラオスでの寺は皆、品が良くて優秀だ」と本音ではあったが言ってみると、ブンミー和尚さんの謙遜だが「お世辞を言わなくていい」と言われるし、「品のいい寺で再出家してみたい」という希望には「何の為に再出家するのか、再出家したい理由はそれだけか?やったら還俗はしないことだ。」と言葉は丁寧だが、やや不信感を持っているような応え方だった。

私はブンミー和尚さんの優しさから親近感が沸いた結果の相談だったが「マズイこと言ってしまったなあ」と思ったが、まあ仕方無い。正論を言われているのだ。
翌朝、なぜかブンミー和尚さんが私が帰り支度する部屋にやって来た。

昨日言ったことがキツいと思ったのか、急に軽く肩を抱き寄せ、ほんの5秒ほどだが「お前が帰ってもずっと忘れないよ、またいつでも来なさい」と優しく言い出す。「オオ、これが藤川さんも気持ち悪がった抱擁か」と思うも「ヤメロや!」と突き放すことが出来ない。

帰り際には三拝して泊めて貰った御礼を言うが、ブンミー和尚さんはサーイシン(木綿の白糸)を右腕に巻いてくれて、更に額にインド人がやるような指でチョンと白い液を塗られて短い読経をしてくれた。有難いことだったが、額の白いモンは要らんなあと思ってしまう。けど嫌がることも失礼で、寺出るまでは我慢しようと思う。

ワンプラの日、寺へ寄進に訪れる信者さんの姿

比丘の朝食準備に掛かるワンプラの日の寺

◆ビエンチャンでまた逢う日まで

でもまた来よう。ビエンチャンは何も無いがその静けさと昭和30年代のような田舎道の佇まいがいい。今回はお腹壊しての不完全な別れ際とはならないよう気をつけていた。

最後は笑顔で何言ったか分からなくなるほど皆にキチンと挨拶を済ませた。カンペーンくんらには「今度会う時は語学優秀なビジネスマンとなって私より金持ちになっているかもしれないな」と言っておだてておく。努力家の彼らは謙遜していたが、アジアの奥地に居ても有り得る話である。

ナンマラタナさんと一緒にサパーンミタパープからタイへ渡る国境越えも問題なく終わり、ノンカイに戻ってすぐ、トゥクトゥクに乗ってワット・ミーチャイ・ターに向かった。

旅の最後となる滞在先、早速迎えてくれたのは、わんぱく坊主のバーレーくんだった。

首都だが田舎らしさが漂うビエンチャンの朝

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

スリランカ僧のナンマラタナさんと、メコン河沿いを歩く

◆3度目のビエンチャン

親しくなったブントゥーン(左)とワンナー(中央)と

殺されるんじゃないかと大袈裟にも思った前回より余裕あるビエンチャンの入口に立つと、そこへ予想どおりタクシー運転手が群がって来た。

「ワット・チェンウェーを知っているか」と聞くと、「知ってる知ってる、乗れ!」と言う運ちゃん。「幾らだ?」と聞くと「100バーツ!」。この前より安いじゃないか、じゃあ行こう。

今回は呑気な30分あまりの乗車で、あの托鉢で歩いた集落に入った。もうワット・チェンウェーは目の前。ここまで来て道に迷った人のいい運ちゃんはその辺で人に聞こうとするが、私は「もういいよ、この辺分かるから!」と言って降りた。
2ヶ月半ぶりのワット・チェンウェー。前回はお腹壊したままのお別れだったから、去り際がカッコ悪かった。今回はカッコ良く過ごしたい。まだ受け入れてくれるかは分からないが、また泊めてくれる期待を持って門を潜るところであった。

シーポーン(左)、ワンナーとパトゥーサイまで来た

◆ワット・チェンウェーでの再会

境内を掃き掃除していたのは英語の学習熱心なあの英語ネーンだった。歩いて来る私を一瞬、「誰だこいつ!」といった目で見て、掃除を続けようとするが、ほんの2秒後、再び私を見て笑顔になった。この間(ま)はやっぱり面白い。何人目だろう。姿が変わったことに気付かず、間が出来てしまうのである。もう喜びが顔に溢れる互いの接近。

「還俗したんだね!和尚さん居るよ!」と言ってサーラー(講堂)へ引っ張るように招き入れてくれた。ブンミー和尚さんはネーン達3人ほどに勉強を教えているのか、テーブルの上に教科書を広げるようにしてネーン達に話し掛けていた。

皆の視線が私に向き、やがて笑顔に変わった。すぐ三拝し、またビザの申請の為に来たことを告げた。

「ホテルに泊まって居るのか?」と言われて、「今、サパーン・ミタパープ(タイ・ラオス友好橋)を渡って来たばかりです」と言うと「じゃあ、ここに泊まっていきなさい」と言ってくれたのは想定内。そこからは想定外の親切さに驚くばかり。12月に来た時はまた増築中だったクティ2階の部屋に案内されると、それはエアコンの効く部屋だった。トイレ水浴び場は共同だが、温水の出るシャワーもあった。

「前回泊まった外の木造小屋でいいですよ」と言ったが、「あんな粗末なところは申し訳ないから行かなくていい」と言われる。そう言えばお爺さん比丘が居ない。「あのお爺さんは?」と聞くと、「もう居ないんだ」とだけ言われて、どうしたのかは言ってくれなかった。病気がちであったし、亡くなられたのかなと思う。

寺にタンブンに来ていた老婆と息子さん

◆スリランカのお坊さんと歩く

滞在中、外国から来たと見える比丘がやって来た。スリランカのお坊さんで、バンコクのサイタイマイバスターミナルに近い寺に在籍して居て、やっぱりビザ取得の為に来た、タイ語は完璧の“ナンマラタナ”という名前で38歳。過去、シンガポールやマレーシアにビザ取得申請に行き、今回はビエンチャンに来てみたという。ノンカイ駅から真っ直ぐ歩くと、ワット・ミーチャイ・ターがあってそこで泊めて貰い、このチェンウェー寺を紹介されたという。何だ、俺達と似た道じゃないか。藤川さんが歩いた道は外国人比丘の定着したラオスへの道かもしれないな。

このナンマラタナさんのビザ申請をお手伝いし、ノンカイへ帰る日も一緒に向かったが、去り際に持っていた着替え用の黄衣をブンミー和尚さんに渡して行った。捧げるというより、極力荷物を減らそうと見える動きだった。比丘の巡礼とはこんなものだろう。必要なものは現地調達。要らないものは置いていく。私なんか旅する度に荷物が増えていった。そこは藤川さんも言っていたが、「旅もそうやが、暮らしも生活必需品だけあればええやろ」と言った言葉が思い出される。

「過去に拘るから荷物が増えるし、それに纏わる悩みも増える訳や、全部置いていけば拘りも無くなるし、楽なもんや」「お金持ちは土地建物、高級車いっぱい持っておっても、あの世までは持って行けんのやぞ。これらを守る為に所得誤魔化したり、余計に維持費が掛かったり、欲が尽きん疲れる人生で気の毒やなあ」と御自身も金にまみれて女遊びに没頭した人生を送っても、まだ欲が尽きなかった悟りを語っていたが、私も上京して狭いアパート暮らしして、新たに買った電化製品、本やカメラ類が増えていき、やがて荷物に溢れ、広い部屋に引っ越す。それらの財産があるからそこから動けなくなり、それらを失いたくない欲望が生まれ、守りたいと悩みが増える。こんなものに縛られて生きて居るのが我々一般人なのだろう。

でも、思い出のビデオや写真、絶対捨てられないんだよなあ。今でも記念に黄衣やバーツまで持って帰ろうとするこの愚かな私。変わらないだろうなあこの性格。それに対するナンマラタナさんの所持品の少ないこと。ノンカイへ渡る際でも托鉢にでも行くぐらいの格好だった姿に、そんな人生の身軽さを感じた。

ここでも記念写真、ナンマラタナさん(左)を加えて

若い先生だがしっかりした授業だった

◆寺の仲間たち

ここで修行する若い比丘やネーンに、今回はしっかり名前を聞いてみた。英語暗記に熱心なのが“ワンナー”という名前で、一緒に学校に通っていたのが“シーポーン”。二人とも英語塾に通っていて、授業にも着いて行って覗かせて貰った。

貧乏そうな幼い女の子が窓から覗いていたが、お構いなしに授業が続けられた若い先生。

昔、私が小学1年生の頃、担任の先生が言っていた、「終戦後に幼い女の子が窓から授業を覗いて居たことがあった」という、そんな思い出を教えてくれた話が蘇えった。女の子は人恋しく授業に引き寄せられたのだろうか。

英語塾もお邪魔させて貰った授業風景

夕食はケーンを連れて歩いた日々

私の小学校の頃も木造のボロボロの校舎だった。そんな日本の昔ながらの木の机もここでは当たり前の存在。

ネーンも一般の学生に混ざって授業を受ける。英語は日本の中学生レベルかな。そんな文法を教わっていた。

私といちばん友達のように接してくれた、“カンペーン”という名のネーンはやがて20歳だが、比丘に移っても学生の間だけ仏門生活を続けるようだった。

今回、カンペーンには街中を一緒に歩いてくれて観光名所を案内してくれた。

カーオトム屋から見たタイ側に沈む夕陽

カンペーンと一緒にいた比丘の“ブントゥーン”も、若くて貪欲な勉強熱心さで読経も上手い奴だった。

幼い男の子はこの寺でブンミー和尚さんが預かっている子で“ケーン”という名前。4歳の時にこの寺に来て、今9歳だという。デックワットというよりはブンミー和尚さんの子供のように扱われているが、当然ながら本当の子ではない。

その辺の事情は詳しくは分からなかったが、ある日、ある人物が寺に預けられていったような様子が伺えた。

比丘らは午後の食事は無いから、ケーンとは夕方の食事に何度か外食に連れて行った。メコン河沿いにあるカーオトムの店は何度も通うと、店に入ると注文しなくても「いつものやつ!」といった感じで“カーオトム”が出てきた。

タイで言うクイティオ(うどん)だが、ここでしか味わえない味。凄く美味いとまでいかないが、これは日本に帰ってから絶対また食べたくなるぞと思う独特の味。

また寺にタンブンに来る近所の親子の信者さんは高齢の母親と暮らす43歳のオカマのオモロイおっさんで、今回はなかなかオモロイキャラクターが揃うビエンチャンの旅となっていた。

カーオトム屋の通り、この道が延々続くメコン河沿い

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

ブンカーンののどかな風景

ブンカーンで見たお寺のひとつ、ワット・シーソーポン

◆ブンカーンに到着

ブンカーンへの寄り道は仏門とは関係ないが、過去に藤川さんが語った話題の中には、やや関連してくる人間模様があった。

ノンカイの都市部から昼頃出発した暑くて窮屈なバスは、だんだん人里寂しくなるような田舎道を通って、2時間近く掛かってブンカーンに着いた。今、横浜で出稼ぎ労働しているプット(仮称)という友達に5年前に連れられて来たバスターミナル広場に到着すると、見覚えある小さな時計台があって間違い無く着いたことが認識できた。

すると、地元民とは見えないのであろう私に近づくトゥクトゥクの運ちゃん。私が先に「この辺にホテルはあるか?」と聞くと「ある!」と応えられた。ならば泊まるところの心配は無さそうだ。ホテルに行くと思ってトゥクトゥクを出そうとした運ちゃんに「この辺に郵便局はあるか?」と尋ねた。「あるがどうした?」と言う運ちゃんに「そこに行ってくれ!」と指示。

プットのお姉さんが勤めるのがその郵便局であるはずだった。郵便局は日本の田舎の古い木造の郵便局とさほど変わらない造りの局内で、窓口でお客さんの応対をしていた職員の顔を見てすぐプットのお姉さんと分かった。次に並んだ私と対面となり、プットから送られていた手紙にあるお姉さんの名前を尋ね、私の身分を明かすと、5年前に私が訪れたことを思い出して笑顔になって、すぐ窓口の内側に招いてくれた。

ここはタイの田舎の郵便局。日本のような警備上の仕切り線は緩い。旦那さんもここに勤めていて、早速「今日は泊まって行け!」と言ってくれた。先日に続き“そう言って欲しかったよ”と心で思いつつお世話になることにした。

夕方4時30分まで勤務と言うので近くを散策。メコン河沿いを歩くと、ノンカイ都市部から見る対岸とあまり変わらないのがラオスの風景。近くのお寺も2ヶ所覗いて見た。小奇麗で静かな佇まい。「ここで再び出家できたら誰にもバレずに過ごせるなあ」といった悪知恵も頭を過ぎってしまう。そこは私の知り合いの誰もが、とてもここまで来る縁は無いだろうと思える人里離れた静かな集落なのである。

ブンカーンから見た対岸ラオス

時計台があるブンカーン中心部、懐かしい風景となった

◆家族の心配

夜はこのプットの家でしっかり御馳走になった。飲めぬビールも一杯だけ付き合い、家族は他にプットとソックリの妹さんと、前回来た時はまだ2歳ぐらいだった女の子も大きくなっていた(親戚のオジサンや子供も出入りして、もう記憶が曖昧で家族構成は分からない)。

プットが日本でどんな環境で仕事しているか、ただ元気にしているかという、どこの国の親兄弟も同じような心配。手紙のやり取りや国際電話は来るので、様子が分からない訳ではないが、私が持って行ったわずかながらの写真と、直接知るその暮らしの様子を話してやると興味津々に聴き入り、辻褄合う話に置かれている環境は安心できるものと喜んで貰えた。

もし私の両親が、私がタイで出家したことを知ろうものなら、安心できる環境か、ちゃんと帰って来られるのか、その様子を詳しく知る者を探して食い入るように聴くだろう。もしそんな事態に陥っていたとしたら応えてくれるのは高津くんと春原さんしかいないな。そんな親が思う心配を考えてしまった。無事にタイの旅を終えようとしている今、帰国後は実家に行かねばならないとも思ってしまう、この一家に促されるような思いだった。

ブンカーンの広い大地

お寺ふたつめ、ワット・ブップラーソン

◆貧困の国とは!?

タイで最も貧困のタイ東北部から日本へ出稼ぎに来る“じゃぱゆきさん”といった女性の話題が続いた1990年代でもあったが、フィリピンボクサーやタイボクサーによる不法就労が増えた時代でもあった。

「日本で稼いだお金を持ってタイの田舎に帰り、両親に捧げる。生活苦だった両親や幼い兄弟達が潤い、進学できたり、車やバイク、電化製品が買え、家も建て替えることが出来た。」といった貧困の中での親孝行物語が本に書かれたり、テレビなどの報道で語られたりして、藤川さんは「ワシはそんなもん信じとらん」と言っていたものだった。

私も比丘の姿でバンコクに出た時、藤川さんが町田さんや小林さんに話していたのが、「イサーン(タイ東北部)の人は本当に貧しいんか? 自然に適った風通しのいい高床式住居があるのに出稼ぎした奴らによって綺麗で密閉された日本式住居が増えて、その結果エアコンが必要になるやろ。我々日本人の高度経済成長で作り上げた文明が彼らを羨ましがらせて、本来の幸せを壊して来たんやないか? 毎朝、坊主(比丘)に寄進する飯は、貧乏な家でも一人の一日分は用意できる訳や。これが本当の貧しさか?」と言っていた話が蘇える。

このブンカーンの街を歩いてみても、それなりに雑貨屋や市場はあり、友達の家で頂いた料理は、私がお客さんだからそう振舞ったのかもしれないが、アナンさんの家と変わらない質と量があり、家は木造の古そうな家だが広く、犬も飼われていて貧乏とは言えない中流家庭であった。

プットはなぜ出稼ぎ労働することになったのだろうか。以前、「仕事が無いから」とは言っていたが、バンコクでのムエタイ関係のビジネスを辞めた後、グレード低くなる暮らしはできないプライドがあったのかもしれない。

藤川さんが言っていた、「出稼ぎしたお金で“まず両親を楽させる”という奴は、ほんの2~3パーセントや。他は“まず自分が贅沢したい”為の出稼ぎ労働者、バンコクに出ておる娼婦も同んなじやな」。

私が比丘であった期間、お金を払って食事したことは一度も無かった(飲み物は買ったが)。タイは貧富の格差が広がり、干ばつで農作物が育たないタイ東北部では貧困が続くと言われた1990年代前半に、「本当の意味では貧困ではない」というのが、藤川さんの考え方で、“本当の幸せとは何か”を説いていたのも長き比丘生活での課題だった。藤川さんと会わなくなってからいろいろ思い出すが、各地を歩いた藤川さんの話は信憑性があるものばかりだった。

ブンカーンの映画館

◆三度ラオスへ渡る

この地にも暫くのんびり過ごしてみたい気もあったが、ひとつ役目も果たしたところで他人の家に意味無く長居も出来ないから、もうラオスに渡ることにした(後に考えればこの地域からラオスに渡る道は無かったかなと思うが、当時は限られたルートしか分からなかった)。

旦那さんにバスターミナルまで送られる中、「今度来た時は4~5日泊まって行け!」と言ってくれた。「じゃあ今からもう暫く居ていい?」と思っても口には出さずも、こんな僻地はお寺も含めていいもんだった。

またバスに乗ってノンカイ都市部へ戻り、トゥクトゥクに乗って、そのままタイ・ラオス友好橋へ向かった。あまり遅くなってはいけない。ホテルには極力泊まらないケチケチ旅行だから、行く先は前回訪れたワット・チェンウェーなのである。

3度目の国境越えであるが、職員かただのオバサンか分からぬ人達の指で示す方向へ行って、タイ出国手続きを経てバスに乗り、橋を越えればラオス入国手続きを経てタクシーの運ちゃんに群がられることになる。もうすっかり慣れた感じもあるビエンチャンに三度渡ったところだった。

プットの家の近く、ラオスと似た風景だった

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新月刊『紙の爆弾』5・6月合併号【特集】現代日本の10大事態

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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私と一緒にメコン河を眺めるオジサンと若者の比丘二人

クティでテレビを見ている、人懐っこいネーン達

◆再びワット・ミーチャイ・ターの門を潜る

再出家の望みを絶たれ、カメラマンとしての撮影でもなく、横浜の友達の実家があるブンカーンに行くことも含め、貧乏旅行者として、もう一度行きたかったノンカイの寺に着いた。ここからは単なる旅日記である。

門を潜ったところで、私をチラッと見た一人の比丘がそのままクティに入って行った。過去に比丘として来た者が還俗してここに立っているとは思わなかったのだろう。サーラー(講堂・葬儀場)の方では朝食が終わる頃か、読経が聞こえて来た。

先程の比丘がまたすぐ出て来たと思ったら、私を思い出してくれたようで、「オオ、還俗したのか、今着いたのか!」と笑顔で問い掛けてくれて、「もうすぐ皆が戻って来るからちょっと待っていてくれ」と言われ、やがて読経が終わると皆が戻って来た。

プラマート和尚さんも石橋正次似のスアさんも一瞬の間(ま)を置いて私に気付き、笑顔になった。私はワイ(合掌)を繰り返し挨拶するのみ。

船着場から上ってくるトゥン和尚さん達

そしてプラマート和尚さんが「二階へ上がれ!」と私を招き入れてくれた。以前、本堂で仏陀像と撮ったプラマート和尚さんの四ツ切ほどに伸ばしたパネルを渡すとじっくり見つめ喜んでくれて、「暫く泊まっていけ!」と言って頂き、“そう言って欲しかったよ”と心で呟きながら感謝。お言葉に甘えてここに泊めて貰おう。

プラマート和尚さんから2月初めにあった寺の祭りの写真を見せてくれた。信者さんが撮ったようだが上手い撮り方だ。比丘が歩く列の中に藤川さんも澄ました顔で写っていて、順調そうな旅の途中であることが伺える。

◆もう一方のトゥン寺にも立寄る

以前、ネイトさんが剃髪した腰掛け台に寝転んでいると、カメラ持ったままウトウト眠ってしまい、10分ほどで目覚めるとすぐ横には小さいネーン達が座っていた。

この何でもなさそうな砂利道は茨の道

「還俗したの? このカメラ幾らしたの? 覗いていい?」と人懐っこく、興味津々に我も我もとカメラに群がる。落としやしないかとヒヤヒヤだ。以前、私が比丘で居た頃は懐いていなかった彼らが今、何かと話し掛けてくる。俗人となった私の方が近づき易いのだろうか。純粋な彼らは可愛いもんだった。

更にメコン河を眺めていると土手下の船着場に船が到着。ここに船が着くのは初めて見たなあ。地元住民の乗客に混じり3名の比丘が階段を上って来たと思ったら、お隣のワット・ミーチャイ・トゥンの比丘達で、トゥン和尚さんも居た。目が合って間(ま)を置いて笑顔になり、「オオ、キミか! 元気か?」と覚えていてくれたようで嬉しい。

後から追いかけ、托鉢の帰り道に歩いたワット・ミーチャイ・トゥンへの痛い路地にも向かってみた。裸足で少し歩いてみよう。「ア痛タッタタタタッ痛!」やっぱり歩けない。5歩で諦めた。ペッブリーの痛かった路地でも藤川さんが、「スパンブリーの寺なんかに行ったらこんな道ばっかりで托鉢は一列で速歩きやぞ、一人だけノロノロ歩きなんか出来へんぞ!」と言われたが、やっぱり修行の足りなさを実感する。この砂利は茨の道だ。

境内に入ると幾人かの比丘が、しゃがんで井戸端会議をしていた。私が近づいて行くと、「誰だ?こいつは!」といった警戒の顔つきからやがて思い出し、笑顔に変わった。やっぱりこの間が面白い。「覚えてる?」と聞くと皆が「覚えてるよ!」と社交辞令的だが、笑顔が本音を語っている。クティに戻っていた先程のトゥン和尚さんに、以前撮った写真を渡すとやっぱり喜んでくれた。撮られる機会が少ないのだ。和尚さんが見終わるのを待って、皆が寄って集る。比丘も一般人もムエタイボクサーも本能のままの動きは同じ。皆に喜ばれて嬉しい。

ミーチャイ・トゥン側の比丘達を撮る

◆朝の読経と托鉢を見つめる

泊めて貰ったミーチャイ・ター側のプラマート和尚さんの部屋で、翌朝は4時前に目が覚めた。お互い様ながら、鼾が煩かったプラマート和尚さんも起きると早速、外の鐘を鳴らしに行った。「カランカランカラン・・・」と十秒ぐらい静寂な早朝の境内に響き渡る。これで比丘やネーン達の一日が始まる。

以前、藤川さんは私とネイトさんに「朝、仏陀の前に行く時は顔洗ってから行けよ!」と忠告されたことがあった。仏陀像は銅などの建造物でしかないが、生きていた時代のお釈迦様に接する気持ちで毎朝、接しなければならないだろう。それは修行の身でなくても理解できるマナーだった。

やがて4時からその本堂で読経が始まる。前回来た時と同じ状況。プラマート和尚さんが座ってマイクを持つと、濁声でいきなり始まった。

本堂の内と外を見ていると眠そうなネーン達は毎度の小走りでやって来る姿が垣間見れた。例え遅刻しようが、こんな早朝から集まる習慣が仏教徒としての心を育んでいくのだろう。私はその様子が見える出入り口付近のある後方に座っていた。プラマート和尚さんが、私が今でも壇上に座っているのではないかと思ったか、途中振り返って私を見た。

「俗人が上がんねえよ、それぐらい分かるよ!」と小さく呟く。

40分ほどの読経が終わると退散。クティに戻るとプラマート和尚さんはまた眠ってしまった。

ネイトさんがペッブリーに来た時、「プラマート和尚さんは毛糸のパンツ穿いているんですよ!」と言っていたが、それは戒律違反でも、意外と羽目を外すお茶目な生活リズムで、普通の人間らしさがある和尚さんだとも思う。サボン(下衣)を捲ってやりたかったが、そんな大人げないこと出来ないので、パンツを穿いている姿は確認できなかった。

トゥン和尚さんを先頭に10名あまりの列となる

街中方面に向かうミーチャイ寺の托鉢。こんな列になって歩いた日々

6時になると今度は誰かが鳴らす鐘の音によって、黄衣を纏いバーツを持った比丘やネーンが門の辺りに集まりだした。

かつて私も加わった一列縦隊の托鉢。カメラを持って付き纏うが、皆の失礼にならないように遠慮が出てしまう。ミーチャイ・トゥン側からやって来る比丘の列にこちら側の比丘が加わり、ひたすら歩いて寄進を受け、帰りは雑談しながらの帰路。私も会話に加わりながら歩いていると、野良犬の中の一匹が道路を渡りきれずに車に撥ねられた。

車はブレーキを掛けたが、犬も立ち往生したところでバンパーにぶつかった後、車輪に轢かれ、そのまま車は行ってしまう。犬は立ち上がるも、苦しいのかパニックになって吠えながら車道を走り回っていると、反対車線から来たトゥクトゥクにブレーキが掛かることなくまた轢かれ、フラつきながら弱々しい吠え方となって草村へ消えて行った。

その後、生きているかは分からない。ペッブリーの寺に居た片足無い犬たちも、こうやって車に轢かれた犬なのだろう。人から見れば野良犬は下等動物扱いで皆、助ける気は無い。

残酷なシーンを見てしまったが、悪いことしても寺にタンブン(徳を積む)すればバープ(罪悪)は消えると思っているタイ人も多いから、野良犬たちの運命は今後も変らないだろう。

折り返し地点。至るところにこんな犬がいる

こちらはノンカイ駅方面に向かった托鉢御一行

◆旅の寄り道

翌日、前回は行けなかったブンカーンに向かうことにした。

タイに来た資金の一部を貸してくれた友達の家族に会って、日本での元気な様子を撮った写真を見せて安心させてやろうと思う。

プラマート和尚さんには行き先を伝えておき、ター・サデット市場の少し先にあるボー・コー・ソー・バスターミナルから、長距離バスが出ていることを教えて貰い、同じメコン河沿いのブンカーンへ向かった。

更にはビエンチャンへ繋がる旅となっていく。

サイバーツされるのは一握りのもち米御飯

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

衝撃月刊『紙の爆弾』4月号!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆タイ滞在の最後に

ノンカイに行く予定は、せっかくだからラオスまで足を延ばすかもしれない。メコン河を挟むと向こう岸に行きたくなるような気がした。有効期限が残る現在のビザが勿体無いが、タイ滞在に必要なお金の工面が都合つく範囲で出来ることをやっておきたい。念の為、ラオスビザは申請しておいた。

ムエタイ関連の仕事があってノンカイ行きは3月初めとなった。今度は全くの一人旅。比丘だったら移動手段において大概のことは優遇されるが、立ち振る舞いに気をつけねばならない。俗人となってはすべて自由だが、何ごとも自力で乗り切らねばならない。今回はすでに一度訪れている土地ばかり。どうにもならない事態にはならないだろう。

再びノンカイにやって来た。ワット・ミーチャイ・ターの門

仏門に居た試合ブランクも問題無く勝利したグルークチャイ

◆グルークチャイの出家

出発前日にグルークチャイが「ハルキがまた出家するなら俺と一緒にナコーン・シータマラートでやるか」と言っていた。彼も近く出家するんだな。アナン奥さんにも「ハルキ、また出家したいならグルークチャイと一緒にやる?」と言われる。聞くところによると、グルークチャイが行く寺はタイ南部の彼らの出身地であるナコーン・シータマラートにある、戒律に厳格な少数派タマユットニカイ、私が行ったワット・タムケーウは庶民的で大多数派のマハーニカイで全く格式が違う。タマユットニカイの寺にヒベのような下品な奴はいないだろう。“ニカイ”とは“派”と捉える解釈が分かりやすい。

いずれも私がやる訳ないだろうと見切っての誘いだろう。得度式は本当に自力で問答に応えねばならない。そしておそらく、副住職か10パンサーを超える役職に着くベテラン比丘による面談がある。私は希望しても入れないだろう。人格品格語学力、とても太刀打ち出来ない。

以前、藤川さんが言っていた話に、
「タイ仏教は日本とは違った宗派があって、ひとつは森林派で原始仏教に近い形で、世俗との関係を出来るだけ避け、森に篭り、己の成仏の修行に励む所と、本当に仏教を学びたい僧の為、勉強に力を入れる寺がある。あとは我々が居るような街へ降りて来て、もっぱら日常の宗教活動を行なうだけの寺に分けられるんや。格式のある寺は、なかなか他所者を入れてくれんが、タイの仏教では日本と違ってどこで修行しようと一度出家してしまえば、どこの寺でも泊めてくれるし、修行させてくれるから自分の意志でどこでも行けばええ。その修行寺によっては、托鉢で受けた食材はバーツの中に全部空けて、混ぜて食べるところもある。修行僧は、その日の修行の為の命を保てばいいだけや。料理を味や目で楽しむといった贅沢は無視や。ワシらにしたら味が混ざって食えたもんじゃないはなあ」

剃った眉毛はまだ薄く、精悍な顔つきのグルークチャイ

格式高い寺には刑務所より厳しそうな環境もあるようだ。タマユットニカイにも格差はあると思うが、私ではこれらの厳しい寺には行きたくないと思ってしまう。今更ながら、アナンさん宅は格式高い一族であると感じ取れた。

その一族であるグルークチャイの出家は1週間ほどだったようだ。一日の様子を聞くと、朝4時に1時間程の読経があり、托鉢に向かい、朝食後9時に短めの読経と学習、昼食後は自由時間だが、夕方に掃除があり、終わってまた1時間弱の読経、更に就寝前の夜9時に短めの読経があるという。その内容は聞いただけでは把握できないが、私の居た寺とは厳しさが違う赴きである。グルークチャイは和尚さんから、雨季のパンサー明けまで務めるよう勧められたが、「試合があるので戻らねばなりません」と言って当初の予定どおり還俗したようだ。

帰って来たグルークチャイの頭髪は元々短髪だから、剃った後でも違和感は少ないが、眉毛が薄いことだけで怖い顔つきに見えた。試合が終わって数日後の出家。そして寺に居た約10日間に関係なく次の試合が組まれていた。彼ら殿堂スタジアムの第一線級選手は3週間から4週間の間隔で試合が組まれていたが、還俗後バンコクに戻って2週間後に試合。プロとしてのブランクは空かないのだった。

◆貧乏旅行者として

それに対して私の呑気な旅は、とりあえずカメラバッグを担いで出発。バーツと合体出来る大きめの頭陀袋は比丘にとっては便利な袋だったが、カメラバッグとしては不便だった。アナンさん宅を出て、ノンカイに到着するまでは仏門とは関係ない貧乏旅行者の旅である。

フアランポーン駅から乗った夜行列車は、やっぱり比丘の巡礼とは違う雰囲気。プレッシャーの無いのんびりした旅の中だった。向かいの席に若いスペイン人男性が座って「これからラオスやカンボジアを回って日本にも行く予定なんだけど、どこが面白いですか?」と問い掛けられた英語を何とか解読できたぐらいの苦労しかない。観光地を巡るだけなら感動の発見は少ないかもしれないな。私がタイに居て一般の観光客とは違った体験が出来たのは、当初からムエタイジムに長期滞在したこと。直接本音の選手や近隣住民と接する毎日だった。これは仏門でも同じだった。

このスペイン男性も日本のどこか田舎でホームスティでもして、農家や牧場の生活を体験すれば面白いと思うが、まず私は英語がほとんど出来ない。相手が日本語が出来るなら、藤川さんだったら次から次とお勧め話や勧められない話がドンドン出てくるだろう。今後も英語をしっかり勉強するとは思えない私ではあるが、言葉と社交性は大事だなあと思う。

終着、ノンカイ駅に朝7時20分に着いた。この日はなんとこの列車の窓越しまでトゥクトゥクの客引きがやって来た。スペイン人は「これからラオスに向かう」と言う。私は歩いて数分の寺に行くだけだからトゥクトゥクは無視する。でも運ちゃんらはとにかくしつこい。歩いて進むとトゥクトゥクの方から止まって問いかけてくる。「もうすぐそこの寺だ!」と何度言ったことか。前回着た時よりしつこいな。思えば前回は黄衣、今回はシャツとズボンだからこれが当たり前なのか。

再びノンカイ駅の最先端に立つ

◆反省を持ってワット・ミーチャイ・ターに向かう

ワット・ミーチャイ・トゥン側の看板とノンカイ駅最先端の路地入口

改めて思う、安易に出家などしてはいけなかった。「何も覚えなくていい」と言われても必要最低限の常識を知っていないと対応を間違え、寺に迷惑が掛かる。私の考えも甘かったが、導いてくれた藤川さんには感謝しなければならない。藤川さんに出会わなかったら、出家してノンカイにまで来ることはなかっただろう。寺で過ごす考え方が違っていたと思うが、このノンカイに来た時のようにもっと藤川さんとは笑い話がしたかったし、細かい注意をして欲しかった。

私の前に新たに日本人出家志願者が現れたら、私がやって欲しかったこと細かな指導をしてやりたいと思う。黄衣の纏い方、在家信者さんとの接し方、バスの乗り方、飛行機の乗り方、街で国歌吹奏に出くわした場合の対応、一人で食事しなければならない時、他所の寺に泊まりにお願いする時など、日常起こり得ることの対処法は教えておくべきだろう。

今回は比丘ではなく呑気な旅行者ながら、また寺に泊めて貰えるならば、プラマート和尚さんには今後のことも相談してみたい期待を持ってワット・ミーチャイ・ターの門を潜ることになる。

トゥクトゥクの客引きは相変わらず煩いが、乗る側は便利で助かる地元の足

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆持って帰って来た黄衣

汗染みで臭くなってはいけないから洗っておきたい。しかし、アナンさん宅でこの黄衣をドーンと干していいものか。そんなの一般家庭で見たこと無い。黄衣は広げれば横幅250センチ、縦170センチある大風呂敷のようなもの。シャツやパンツを干すのとは違い毛布を干すほどの場所を奪う。上衣、下衣でかなりの場所を使ったが、かなり目立つ。

「まあ仕方無い、今日だけだ」と思うが、こんな黄衣をアナンさんが見つけると「何だ、持って帰って来てたのか?」と語気強く言われた。

私は「自分が使ったものは欲しかったから、また出家する人が居たら纏い方を教えてやろうと思ったんだ!」と素直に応えたが、何とも不可解な表情を浮かべたアナンさんだった。実はこれが後々の大問題だった。

疎い私は、なかなか気付かなかったことだが、その後もアナンさん宅に居て、どうも奥さんの様子がおかしいことに薄々気付いていく。

御飯時に声掛けられない、笑顔が無い、これは常ではなく冗談も言ってくれるから深刻には受け止めなかった。

敬虔な仏教徒のアナンさん。寺との繋がりは長い。1995年1月撮影

◆アナンさんの本音

そんなある日、どうも異様な空気が続くことが気掛かりで、アナンさんに尋ねてみた。

「俺、ここに居て何か間違ったことしているかな?しているならハッキリ言って欲しい!」と言うと、堰を切ったように「ハルキ、何でチーウォン(黄衣)とバーツ(お鉢)を持って帰って来たんだ? これは寺に置いて来るものなんだ。出家の記念品じゃないぞ! これが一般家庭にあるのはバープ(罰当たりなこと)なんだ! それから“もう一度出家したい”なんて言ってるが、出家は何度もやるもんじゃない。皆、社会人として一人前の男になる為に一度は出家するが、それで務めは果たし終えるんだ。二度目をやる者は、一時出家と違って藤川さんみたいに生涯を仏門で過ごす決意がいるんだ!!」

ハンマーで頭を打ちぬかれたようなショックだった。

アナンさんの言葉は正論だろう。黄衣やバーツを堂々と持って帰るなんて、俺は何と愚かなことをやってしまったのか。知らないことは大胆なことを平気でやってしまうものだなあ。記念に欲しいから分かっていても持って来たと思うが、見つからないよう隠して持って来ただろう。

それにしても誰も「それはダメだよ!」とは言ってくれなかった。こういうところはタイ人って他人に無関心なのである。人のやることを詮索しない。「チョークディーナ!」と言った挨拶の裏返しは、「黄衣、持って行っちゃったけど、日本人だからしょうがねえな!」だったかもしれない。

「藤川さん、こういうことを教えておいてくれよ」とまた人のせいにして嘆く。
更にアナンさんは「こういう物があるから、不吉な想いをしているのがオクサン(妻)なんだ。家族が事故にあったり選手が試合で怪我したり、何か悪いことが起きると悩んで元気を無くしている。」

そんなこと気が付かなかった。不機嫌そうに見えたのはそういうことだったのか。奥さんはアナンさんと友人関係にある私には直接言えなかったのだろう。日本人からみれば些細な問題も、生まれた時から敬虔な仏教徒の下で育てばそういう心が育つもの。逆にほぼ無宗教で育った私の方が常識知らずで異常なのかもしれない。
「とりあえず、このチーウォンとバーツは近くの寺に預けに行く!」と言うアナンさん。

それはもう返って来ないと悟った私は、「分かった、これを日本人の友達に預けに行くけどいいか?」と問うと、「この家から無くなればそれでいい」と応えられた。つまり、優しく柔軟に対処してくれたのだ。何が何でも「これは仏門の物、寺に返す」と言った意味ではない。私に逃げ道を作ってくれたのだ。

そしてまず、奥さんに謝った。
「ゴメンね奥さん、俺、何も知らなかったから、とんでもないことをしていた」と言うなり、「マイペンライ!」と笑顔で応える奥さん。大問題だったのに解決すればマイペンライ。こういうところは大らかなタイ人気質。こちらの家庭は上品な家柄だが、一般的なタイ人は時間にルーズだったり、約束守らなかったり、人の物勝手に使っても言い訳したり、イライラすること多いタイ人との付き合いに対し、こちらが間違ったことした際も“マイペンライ”にはずいぶん救われて来たものだ。

◆古き仲間

早速、私は思い当たる友人関係を思い浮かべる。出家前に春原さんと一緒に飯食った、青島さん、薬師寺さん、しかし急には連絡も取れない。いきなり持って現れても迷惑だろう。

次に、10年程前、私が初めてタイに来た頃の、かつてお世話になった空港近くのチャイバダンジム所属の選手が頭を過ぎる。立嶋篤史がタイデビューしたジムだ。比丘として列車に乗って、ノンカイとの行き帰りに空港近くを通った際も思い出した、駄菓子屋の可愛い子がいる集落にある。悩んでいる暇は無い。預かってくれるかどうかも分からないまま、とりあえず黄衣類を持ってアナンさん宅を出た。

日本のリングにも何度か上がったチャンリットさん。1990年5月撮影

チャイバダンジムはすでに閉鎖されているが、このジムに居たチャンリットという選手はほんの20メートル程先に住む女学生と結婚し、その家に住んでいる。何度か試合兼トレーナーで来日経験があり、習志野ジムとチャイバダンジムでは立嶋篤史の兄貴分トレーナーの一人だった。私とも長い付き合いで、お願いするのはこのチャンリットさんしかいなかったのである。

早速訪問すると、ほぼ家に居ること多いはずのチャンリットさんは、やっぱり娘さんと遊んで居た。娘さんは4歳で可愛い盛りだ。ほのぼのした親子の戯れに水を指すように早速、これまでの経緯を話した。

「分かった預かるよ!」。チャンリットさんは悩むことなくそう言ってくれてホッとした。

「確かに持って帰ってはいけない物だけどな!」と付け加えられたことはちょっと心が痛い。このチャンリットさんも敬虔な仏教徒だ。なぜこんな罰当たりな頼みを聞いてくれたかは、長い付き合いの中、持ちつ持たれつ助け合えた仲だったから。私がまだタイに慣れない頃、タクシーに乗る際、日本人と見るなり高値を吹っ掛けて来る運ちゃんに相場の値に抑える値段交渉や、取材の為、遠いジムまで連れて行ってくれたこともあった。また日本では私らが結構お世話をしてあげたから恩を返そうと思ったのだろう。しみじみと感じた恩だった。そして奥さんには内緒にするようお願いした。アナンさん宅にしても奥さんを悩ますことになってはいけなかったのである。そして、還俗直後に買ったカバンに黄衣とバーツを入れてガムテープで雁字搦めに封印し、“ハルキの日本へ持って帰る機材とフィルム”ということにして預かって貰った。

4歳の娘さんと戯れるチャンリットさん、優しいお父さんになった。1995年2月撮影

◆絶たれた一時再出家の今後

藤川さんに「再出家はもう一回やったら、足洗えんようなるぞ」と言われた意味もようやく分かった。鈍感だったなあ。また一時的再出家は絶たれたようなものだが仕方無い。

後日、日本に帰る前にもう一度、ノンカイに行ってみよう。今の私ではなく、将来、藤川さんと同じように、生涯を仏門で過ごす出家を目指すかもしれない。それと新たに日本人出家志願者が現れたら、そこで修行させて貰えるか交流を深めておこう。今後の展開は分からないが、修行ではない今、暫く旅を楽しんでみようと思う。

黄衣を干せるのはお寺の中だけ。一般家庭では見られぬ光景。1994年12月撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

私の役割だった掃き掃除をコップくんがやっていた

◆ジムの仲間との再会

バンコクに到着し、以前からお世話になっているアナンさん宅へ向かう帰路、周辺が比丘として旅に出た時と違う風景に見えた。それは寺に向かう日の憂鬱な気分で渡った同じ風景だが、帰路の中で見ると爽やかに見えるものだった。

アナンさんの家に着くと、奥さんが「ハルキが帰って来たよ~!」と大声でアナンさんや伊達秀騎くんを呼び、アナンさんは「いい顔になったなあ!」と冷やかしながら迎え入れてくれた。日本風に言えば「お帰り~!修行はどうだった?」といった感じで皆に歓迎されるのは心地良いものだ。その笑顔の優しい眼差しは心がよく表れていた。

伊達くんは正月に、ランニング中に足を挫いたらしく、片足引きずる歩き方。
「アホ、何やっとんねん!」藤川さんがジム会長だったら凄く怒りそうだ。しかし、アナンさんの顔を潰すことなく、チェンマイに向かう姿勢だけでもたいした責任感だった。

◆午後の食事

夕方は奥さんが選手らと共に私も夕食に招いてくれた。還俗して9時間経ち、3ヶ月前と変わらぬジム仲間の雰囲気に馴染み、これまで夢でも見ていたかのような時間の経過を感じていた。

午後に食事を摂るなんて、罰当たりなことをしているような錯覚に陥るが、過去の仲間の還俗した日はどうしていたのだろう。その日の朝はまだ比丘だったのだから、律儀に戒律を守る一日を過ごしたのかもしれない。

「こんなこと教えておいてくれよ、藤川さん!」と呟く。でもこの辺は各々の心構え次第なのかもしれない。

翌朝起きると6時ぐらい。もう比丘ではないんだ。自由に朝寝坊できる。昨日の今頃は托鉢に向かっていたんだなあ。今日の信者さんたちは私が現れないことをどう思っているだろうか。お菓子オバサンには還俗を伝えていたが、この還俗した姿を見せておけば良かったかなと思う。そんな仕来りなど無いが、本当はすぐに帰ってはいけない、寺への恩返しの一環の中にこんな触れ合いの礼儀もあるのだろう。

◆チェンマイの寺に立寄る

1月27日の夜、いよいよ皆で貸切のバスではなくワゴン車でチェンマイで行なわれるムエタイ試合に向かった。途中、深夜に食事しようと屋台に寄った際、夜空の月を見て、「寺では次の剃髪まであと何日かなあ」なんてアナンさんに話しを振ってみる。

そこから「いずれまた、もう一回出家してみたいんだ」と続けて言うとアナンさんは、「何で?もう充分だよ!」と不思議そうに応えられた。確かにおかしい話だろう、我がままなのだから。

立寄ったチェンマイの寺にて。比丘からプラ(仏陀像)を受取るアナンさん

サーティットが必死で返してくるミドルキック

チェンマイに着くと、試合場は泊まるホテルの一角。大ホールが試合場となっていた。試合出場選手はホテルで休ませ、それ以外の者はアナンさんに誘われ、地元では有名なお寺に立ち寄り、お清めの読経を受ける機会を得た。

俗人に戻って初めての比丘との出会い。3日前まであちら側(仏門)の世界に居たんだなあと思いながら読経を聴く。若い比丘達の顔を見て勝手な発想ながら、この寺にも比丘の姿で来て、あちら側に座って若い比丘達に接してみたかったと思う。比丘の頃は旅など出たくなかったのに、還俗した後で改めて巡礼の旅がしたくなった。今頃遅いぞ、なんて鈍感だったのだろう。

伊達くんの試合は昨年10月、激闘で高評価を得たサーティット選手との再戦だが、怪我で足の踏ん張りが利かず、またも首相撲のヒザ蹴りにつかまり倒されてしまった。しかし、ロープに追い詰めアグレッシブにパンチとヒザ蹴りでサーティットを苦しめ、前回以上の善戦で試合の盛り上げはプロの業。これでまた呼ばれるだろう。
試合を撮りながらこの3ヶ月、「俺と伊達秀騎はどちらが厳しい日々を送っただろうか」と自問自答するが、比べようもないほど命懸けの戦いとは次元が違う。伊達くんと同等の厳しさを体験するには、山奥の厳しい学問寺で3年修行せねばならないだろう。

善戦敵わず敗れ去った伊達秀騎の控室

◆ネイトさんからの電話

帰国する伊達くんを見送り、還俗して1週間あまり経った2月3日の朝、アナンさんのジムにネイトさんから電話が入った。

「寺(ノンカイのワット・ミーチャイ・ター)は祭りの準備が大忙しで、仮に堀田さんが今すぐ再出家したくても、誰の志願であろうと暫くは得度式どころではないです。藤川さんはワット・タムケーウ(私と藤川さんが居た寺)の和尚さんとはその後、話し合って旅の許可はされたので、円満にコーンケーンとカンボジアは行く予定です。私の居る寺は祭りの後、大掛かりな後片付けがあるのですが、藤川さんが早くコーンケーンに行きたがって、“そんなモン手伝わんでもええ”と言ってるので困ります。堀田さん、ノンカイに遊びに来てください。コーンケーンにも一緒に行きませんか?」

テレフォンカード度数が残り少ないらしく、短い会話だったが、藤川ジジィめ、また勝手なこと言っているようだ。

もう藤川さんには会いたくないから遠慮しておくが、今改めて思えば、還俗していなかったらコーンケーンやカンボジアは行きたかったなあ。また今後、仮に再出家できたとして、今度は更に上のレベル、一人巡礼する度胸が自分に有るかは自信が無いが、過去に関わった人や縁あるお寺は訪ねてみたいものだ。

◆ワット・タムケーウへ最後の訪問

この電話の後、ペッブリーの出家したワット・タムケーウに、乗り慣れたリムジンバスに乗って、残っている私物を取りに向かった。和尚さんはいつもの場所に座って信者さんと話していて、私を見ると笑顔で迎え入れてくれ、「キヨヒロ(藤川)とは会っていないのか」と言われるも険しい表情ではない。チェンマイに行ってムエタイの撮影して来たことも話すと、また信者さんに私のこと自慢げに話し出す和尚さん。出家前のように部外者的立場となっては、こんな劣等性だったのにまた褒めてくれた。

私は使っていた部屋の掃除をして、サンくんには仏陀像と撮った写真を、前もって特別に四つ切ほどの板パネルにしたものをタンブンした。「うわっ、でっかい、けどキレイだ!」と驚きつつ凄く喜ばれて嬉しかった。

ワット・タムケーウを訪れて、左からケーオさん、私、巡礼中ミツーさん、偽高橋克実、先に還俗したブイくん

代わって左に副住職のヨーンさん、3番目にサンくんが加わる

ヒベにはラオスで買えなかったマールボーロをひとつ渡すと、「チェンマイでは女買ったのか?」とか「バンコクではどうだった?」とか相変わらず品が無い奴だった。

持ち帰る荷物は重く、ブンくんがくれた黄衣まで持って帰ろうとするガメツイ根性の私。

お守りとなった布切れ、今(2019年)でも持っている

外のベンチに居たかつての仲間達を最後に撮っておく。高橋克実似の比丘とは話す機会も少なかったが、幾つか撮れていた写真をあげると、手拭い用の黄布の一部を破き取り、お経らしき文字を書いて私に差し出してくれた。ワイ(合掌)をして受取る私。単なるボロ布でも、こういう手作りは魂がこもっていて嬉しいものだ。

夕方となると比丘達は幾らか暇で、「チョークディーナ(元気でな)!」と今回はタイ人がよく使う別れの言葉をたくさん掛けられた。皆が見守る中、「また来年、遊びに来ます、お元気で!」と挨拶して重い荷物を抱えて寺を後にする。もう暫くはここを訪れることはないと思うとまた切ない気持ちになってしまった。

呑気に帰ったその後もアナンさん宅にお世話になりながら、次のステップへ進む準備をしていたが、しかしその後、アナンさんからかなりショックな苦言を受けることになる。それは私の無知で我がままな心構えに問題があったのだった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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最後に撮ったスパープくん、勉強熱心な比丘だった

◆還俗式に臨む

静まり返ったクティで、9時を回わると和尚さんがホーム・サンカティを纏って現れた。私が自分の部屋から様子を伺っていると、「オーイ、こっち来い!」と笑顔で手招きしている。すぐ和尚さんの前に座り三拝するが、儀式っぽい雰囲気も無く還俗式は始まった。

和尚さんが短いお経を唱え、「私に続いて復唱しろ」と言う。いつまで経っても読経出来ない私だったから最後まで手取り足取りの口移しによる読経となった。

ここから還俗者が一人で願い出る経文で、「シッカン・パンチャッカーミ・キヒティ・マン・タレタ……」と続くが、ここだけは暗記したはずも途中で飛んでしまった。

そして「これで仏門との縁を切るぞ、比丘には戻れないぞ、いいな?」の問いに、「ハイ、いいです!」と応えると、和尚さんは私の肩に掛かっていたサンカティを肩から二の腕側に落とした。

先に捧げた白ワイシャツと腰巻(前もって渡しておいた着る物一式)を授けられ、「よし、着替えて来い!」と指示され、10メートル程ある自分の部屋に戻る。ここで黄衣を解けばもう比丘ではなくなる。まだ黄衣を纏っている今を噛み締めるように我が姿を振り返った。

そして一つずつサンカティを、上衣を下衣を内衣を脱いだ。窓は閉めたが、本来はここで腰巻が必要なのだろう。スッポンポンからパンツを穿いた。白ワイシャツを着た。ズボンを穿いた。ベルトを通した。夢から醒めたようなこの感触。物心ついた頃から30年あまり同じ動作をして来たのだ。忘れる訳は無いが、意外とすんなり手が動く。その手触りが妙に懐かしい。長期入院していたり刑務所に入っていたり、退院や出所の時、私服に着替える時もこんな感じかと思う。着替え終えると再び和尚さんのもとへ向かう。

「今度はこっちに座れ!」と一段低い方を指される。もう俗人側なのだ。和尚さんと同じ立ち位置ではない。

「今後も仏教徒として精進し、仏教発展の為に活動しなさい」という忠告を受け、聖水を掛けられ終了。寺ではカメラを持って歩き回り、比丘として間違った行為だったであろうことも謝った。和尚さんも「マイペンライ(気にするな)!」を繰り返し、相当不信感を持っただろうに最後は優しい和尚さんだった。

最後にペンダント型の仏陀像(お守り)を2個授かり、

「またいつでも遊びに来て泊まっていきなさい!」と言う言葉には涙が出そうになる。

「さあ、行っていいぞ!」と肩を軽くポンポンと叩いて笑顔で送り出してくださった。着替えも含め12~13分。あっけなく終わるのが還俗式である。

最近撮った寺の写真と春原さんから送られていた、特別に和尚さん用にとっておいたカレンダーをプレゼントし、この席を後にした。

手前はネーン(少年僧)で彼も比丘の輪には加われない

◆生まれ変わり

これで自由な身となった。すでに成人しているから新社会人ではないが、男として一人前となっての社会再デビューとなる。

比丘ではなくなった今、予定どおりバンコクに帰らねばならない。前日から持って帰る荷物を纏めていたが、やはりカメラ機材とフィルムが嵩む。更に黄衣もバーツも、ノンカイで使った蚊帳と傘も持って帰るつもりだった。その為、もうひとつカバンが必要だ。さて買いに行こう。靴下を穿き、クティ門で靴を履いて外に出た。靴の履き心地が懐かしい。風を切る心地良さが黄衣とは違って感じる。やっぱり清々しい気分だった。

バイクタクシーを拾って銀座に向かい、雑貨屋入ってカバンを選んでいると、店のオバサンがやたら親切に接客してくれた。白ワイシャツを着ているし、ほんのさっきまで比丘だったことを察したようだ。こういう還俗直後の、新たに社会に旅立つ者に接客できるのは、目出度いものに肖れて嬉しいものらしい。

寺に帰る前、バイクタクシーに乗ってやって来たデーンくんと擦れ違った。「オッ、還俗したんだ!」といった笑顔だった。寺に帰っても何かと残り物を物色しに来る仲間達。

自分が使った毛布や枕なども記念に持って帰りたかったが、さすがに嵩張り過ぎる。これを当てにしている奴も居るから、この辺りはケチらずコップくんやサンくんにあげよう。

コップくんは「これからのカメラマンとしての活躍を願っているよ!」と和尚さんがくれたものと同じタイプの仏陀像をひとつ授けてくれた。

還俗して撮った食事シーン、もうこの輪には加われない

◆最後の御奉仕

昼食時は俗人となった私から仲間達へプラケーン(食事を捧げる)をして、もう身分は彼らより下に戻ったのだと実感する。比丘達のこの輪にはもう加われない寂しさもこみ上げて来た。そして後片付けを手伝って、以前から「仏陀像と写真撮りたい」と言っていた数名の比丘らに声掛けたが、「和尚さんが見てるから」と避ける者が多い。

やっぱり皆から見れば、和尚さんの前で行儀悪いことはしたくないんだなと感じるところだった。でも時間をズラし、和尚さんが席を外した隙を狙って何とか数名を撮ってあげた。

やがて寺を出る頃、私の隣の部屋だったアムヌアイさんにはお別れの挨拶をしておく。

「今迄ありがとうございました。最初に剃髪してくれたことは忘れません。いろいろ御指導ありがとうございました!」と言葉を掛けると、アムヌアイさんも送る側の顔となって、「日本に帰るのか?この寺のこと忘れんなよ、俺もハルキを忘れないからな!」と言葉を掛けてくれて送り出してくれた。学園ドラマのような、門の前に全員が並んで泣きながら手を振るといったシーンは無い。寝て居る者、外の作業に掛かって居る者、「じゃあな!」とだけ言う者。寺とはそんなモンである。

得度式の後、授かった得度証明書

◆寺を後にする

寺を出ればもう俗人というより完全なる一般日本人。重い荷物を抱え、トゥクトゥクを拾おうとするも、バイクタクシー兄ちゃんが「乗れ!」と言う。

「いや、荷物多いから」と言っても「大丈夫だ、乗れ!」で、バランス悪い中、バイクに跨った。ゆっくり走ってくれて、今朝まで托鉢で歩いた道を通り、エアコンバスターミナルへ到着。もうタンブンを受ける身ではないが、タダにしてくれた兄ちゃんに感謝。

着いた途端、出発寸前のバスの扉を開け、バスの若いキレイな女性車掌さんが、
「お兄さん、バンコク行くの?早く乗って!」と叫ぶ。

トランクに荷物を預ける間も無いまま、乗り口の高い段に居た車掌さんが、私の荷物を引っ張る。そのしゃがみ気味のミニスカートから見える太モモが至近距離で目に入ると、私の脳内は爆発寸前。「ウォオオオー!」と妄想が膨らみ、ムクムク股間も膨らみそうになる。

車内で買ったバス券も、サービスのコーラもパー・プラケーンを介する受け渡しも無く車掌さんと直接手が触れ合う。3ヶ月ぶりだなあ女性の肌。渡されたコーラの美味しいこと。開放感の中での爽やかさ。この味は一生忘れられない。

出発直前に乗って左側最前席に座らされたが、右側最前席には品のいい比丘2名が座っていた。年輩の比丘と若い後輩比丘のようだった。私も藤川さんとこのような感じに見えただろうか。私らは低俗な比丘だったが。

バンコクのサイタイマイバスターミナルに向かう中、車窓を眺めながら、「ナコーン・キーリーの女の子に会いに行くの忘れてた」と思い出す。でも還俗直後だし、開放感から羽目を外し過ぎないよう気を付けなければならないと思う。藤川さんから教わった幾多の説教と笑い話は忘れないように活かそうと思うところだった。

朝まではこの仲間と一緒だったが、もう今は違う立場

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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1月7日発売!月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

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藤川さんをこの寺に導いた人の親族との撮影がこの寺での最後となった藤川さん(1995年1月中旬)

私も撮って貰った仏陀像と共に

◆還俗前日

1月24日、藤川さんとネイトさんはバンコクへ旅立った。分岐点となった別れの朝、私は私の進む道の第一歩、バンコクでお世話になっているアナンさん宅へ電話する為、大通りにある公衆電話へ向かった。タイの電話事情は前に述べたとおり、街の公衆電話は壊れっぱなしのものが多い。今電話しておかねば後々予定が狂うかもしれないので、使える公衆電話見つけたら並んででも電話しようと思うが、一人順番待っていたお兄さんが笑顔で私に順番を譲ってくれた。これもタンブンだろう。私は修行とは関係ない、還俗後のムエタイの用で電話するので申し訳ない気分になる。黄衣を纏っているうちはこの比丘の身だから仕方無いか。

電話では「オオ、サバイディーマイ?(元気かあ)」と言うアナンさんの懐かしい声に出家した頃を思い出す。「明日還俗したらすぐ帰るから」と言うと、「還俗したら三日ほど残って寺のお世話していくものだが帰って来てもいいのか?」と言われる。そういえばそうだった。しかし、過去の仲間も半日か翌朝までしか残っている者はいなかったから「和尚さんには断ってある」と伝えると、とりあえずチェンマイ行きの貸し切りバスには私も乗せて貰えることになった。

電話を終え、寺へ帰ろうとした時、私の得度式で親代わりとなってくれたオジサンと偶然出会った。いつもの儀式で読経を先導する俗人側の人で、明日還俗することを伝えた。

「寺入りから得度式、日々の儀式、そして今日まで有難うございました」と御礼を言う。このオジサンの経歴を軽く聞くと、「ワット・タムケーウで出家して、14年ほど仏門生活を送り、還俗して15年経つんだ」と言っていた。読経は上手いし、私の得度式での先導もしっかり務めてくださった。有難かったと思う。

オジサンに「寺まで送ってやる」と言われて、乗っていたバイクに跨らせて貰らって寺に帰った。

寺ではこの日も特に葬儀も無く通常の一日。寺の周りの掃き掃除、足洗い場の水換え、我が部屋の片付けなど、いつも以上に念入りに行なう。要る物要らない物分けて、洗剤はいろいろ教えてくれたイアットさんにあげて、托鉢で受けたミロやお菓子はもう食べないからデックワットにあげた。ミロ飲んだ湯飲みカップなど一部の食器、儀式用の黄衣は藤川さんに返す物だが、もう会えないだろうから貰っておこう。

カティン祭で寄進された日用品セットの西洋皿は日々飯食った皿だが、日本に持って帰って、ボンカレーでも食べながら寺で使ったことを懐かしく振り返ろうと思う。
明日の還俗に際して、和尚さんに相談すると、「いつものように托鉢に行きなさい。朝食もいつもどおりに食べなさい。還俗式は9時にここでやるから」と和尚さんがいつも座る定位置を指す。ブンくんらが還俗した時と同じ場所である。
夜は引越しのように纏まった多くの荷物に囲まれながら、ここでの最後の就寝となった。

◆最後の托鉢

いつもどおり、目覚まし時計が4時30分に鳴った。この“ピピピピッ”を繰り返すアラームも耳に残ってしまう朝の音色となった。クティの下で歩き回るお寺の風物詩、鶏の鳴き声も毎朝の響きだった。

洗面を済ませて、いつもどおり5時30分に寺を出て、最後の朝は一人托鉢となった。お世話になったなあと思う常連の信者さんに、心の中でお別れを言う。施しを受けに歩く比丘の務めで、お世話したことになるのはこちら側だが、にわか僧の私には日本人流に考えてしまう。お菓子オバサンには「今日還俗します」と伝えた。明日から現れないから気にされてもいけないと思ってのことだった。前々から「還俗したらどうするの? 日本の地震は大丈夫? 貴方の田舎は? 御両親は?」なんて聞かれていたから、「震源地から遠いですから大丈夫です」とか「後日、チェンマイに仕事で向かいます」と話した。

比丘たる者が、還俗後のことなど寺の外で軽々しく言うものではないが、息子を見守るような目線のオバサンで、毎日御飯とは別に、修行の合間に寛げるようにと気持ちがこもったお菓子を余分にサイバーツしてくれていたような、そんな感情が読み取れて、我が身の事情も話していたのだった。

托鉢に野良犬と遭遇することは毎日だった。殴りつけてはいけません(撮影は出家前)

◆托鉢での出来事

裸足で歩くと痛かった足の裏もさほど気にならないほど慣れていた。そういえばタイの道路は汚いものだが、ガラスや金属片などが落ちていることは少ないと思った。朝方はいつも道路脇を掃いている清掃業者さんや子供を見たことあるし、托鉢僧の足下を考えた地域のボランティアかもしれない。

食べ物の匂いを嗅ぎ付けた、おとなしい野良犬が小走りに付いて来るのも日々の光景だった。しかしある日、唸り声を上げた野良犬2匹が後ろから追って来たことがあった。

“ヤバッ、噛まれる”と思ったところが、私を追い越し、前を歩く藤川さんの前に回り込み、藤川さんに向かって凄い勢いで吠えたことがあった。頭陀袋を振り回して追い払っていたが、ノンカイで藤川さんに聞いた話では、以前、藤川さんがこの煩い犬が鬱陶しく、思いっきり殴り付けたことがあるらしい。比丘が動物虐待である。それを覚えている犬も賢いものだ。

托鉢中に、道の向かい側で待つ年頃の可愛い女の子に「ピー、ニーモンカー!(寄進を受けてください)」と叫ぶ声で気が付き、うっかり見落としたことで申し訳なく苦笑いして近づくと、一緒に笑顔になった女の子たちにまた癒されたり、寺を出たばかりの朝、暗い空を見上げて歩くと星が綺麗で、我が地球も宇宙空間の星のひとつで、歩いている自分の地面から滑り落ち、宇宙に放り出されるような錯覚を起こし、心許無い足取りとなったこともあった。最初の頃は厳しい托鉢行だったが、余裕出てきてからは、いろいろオモロイことがあったなあと思う。

月や星が綺麗に見える日も多かった。フィルムの付着ゴミか星か分からないが

◆還俗式に向けて

そんな托鉢から帰ると最後の務めも終わった達成感に対し、寂しさもこみ上げてきた。

托鉢後の食事もいつもどおりに進む。皆と輪を囲むのもこれで最後だ。

ヒベが「還俗したらすぐ帰るのか?」と問い掛けて来る。「うん!」と頷くもヒベは「礼儀知らずめ!」と不快感を持ったかもしれない。

ワット・マハタートから頻繁に訪れているベテラン比丘のポンさんにも「キヨヒロ(藤川)とカンボジア行くのか?」と聞かれ、「もう別々の道を歩んでいるから行きませんよ」と愛想良く応えたが、この先も藤川さんと一緒だろうと思われているのか、そんな親子のような関係に見えていたかもしれない。

朝食後、アムヌアイさんが気を遣ってくれて、還俗式に使うお盆や得度式でも使ったような飾り、ローソクなどを用意してくれた。

「仏陀像に三拝して、和尚さんに三拝してから還俗式は始まるから、そこで白ワイシャツと腰巻をお盆に載せて和尚さんに捧げるんだ」と言ってくれた。自分が着るシャツだから授けられることになるのだろう。最後の纏いとなるホーム・サンカティはキチンとした纏いへ、アムヌアイさんが手伝ってくれた。

そして誰も居なくなったクティ内。「忘れられているんじゃないか」と思うほどクティ内がガラ~ンと静まり返っていたが、みんな外のいつもの作業に掛かっていただけ。私は一人ホーム・サンカティに纏ったまま、その時を待つ。もうすぐ黄衣を脱ぐ秒読み段階に入った還俗式前だった。

中央がワット・マハタートのポンさん(撮影はまだ11月中旬)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

モノレールの中でのネイトさん

◆ネイトさんと托鉢

翌朝は、いつもどおり5時30分に藤川さんの部屋をノックする。「おはようございます」と返答してくれたのはネイトさん。若いだけに体力回復も早い。わがまま藤川ジジィが言ったように、3時間でも熟睡すれば、オロナミンCでも飲んだように元気ハツラツのようだ。

今日の托鉢は3人縦列。ネイトさんは私の後ろに着いた。暗闇の中、1件目の寄進者を見つけると「居た!」と小さな声を上げるネイトさん。「喋らんでいい」と心の中で呟く私。

常連の信者さん達の前に立つ。お菓子オバサンは私に「どこの国のお坊さん?」と聞かれ、「アメリカです。タイ語は完璧です!」と言った後、ネイトさんもタイ語で応えていた。そんないつもと違う顔に興味津々の信者さんが多かった。

朝方、托鉢に出る前、藤川さんもこの寺と決別する決心したような、「もしかしたらノンカイの寺に移るかもしれん」と言う。私は内心、「それは困る、また向こうで一緒かい」と先のことは分からないが、心で拒絶する。

でも朝食後、藤川さんの部屋の前で、和尚さんとネイトさんと藤川さんが談笑しているのが見えた。「お前も来い」と私を呼ぶ和尚さん。

日々やって来る信者さんの訪問もあり、和尚さんは定位置に戻ると、藤川さんとネイトさんはまた部屋に篭る。午後は街へ出て行った。旅に必要なものでも買いに行ったのだろう。

私はコップくんらと外で喋って居ると、和尚さんに呼び止められ、「朝方、アメリカ人とは何喋った? 言葉通じるのか」と言い出す。3ヶ国語ペラペラだったのは分かっているはずで、あの談笑は他愛も無い話ばかりで心の探り合いだったように伺えた。

寺から見える山の頂上

◆プラ・ナコーン・キリーを訪れる

ネイトさんらは意外と早く帰って来た様子だったが、ネイトさんが寺から見える山の上にある「ナコーン・キーリー」へ行こうと言う。15時40分を回った頃だったが、「えっ、今から?」と思う。陽が暮れる頃には閉門されると聞いていたからである。

今迄何回か、コップくんらにも誘われたことはあったが、一度も行っていなかった。「マズイな」と思いながら、彼らはいつもの作業に掛かっているし、こっそり行くことにした。境内のベンチに居た和尚さんに許可貰いに行くと「行って来い!」と予想どおり簡単に許された。

ノンカイに居た時の旅の途中のような外出。寺の隣となる敷地の “ロッラーンファイファー”と言われるモノレールに乗る為、切符を買おうとすると、窓口で「比丘はタダ」と言われる。他の客は居らず、我々比丘2僧と、その窓口から乗務員の若い可愛い女の子が2人も乗って来た。この状況はいいのかな。

この女の子らに「どこのお寺に居るの?」と聞かれて「すぐ隣のワット・タムケーウだよ、こちら(ネイトさん)は昨日ノンカイから来たばかりだよ」と言っている間に、ほんの2分ほどで頂上に到着。

「プラ・ナコーン・キーリー」と言う歴史公園。仏塔や寺などがあるが、ペッブリーの街の麓が眺められる絶景であった。帰りのモノレールが17時がラストだと言われていたので散策は少々のみ。この時は予備知識も無く、ネイトさんとの単なる散歩になってしまったが、デートコースには良い場所と思う。

帰りのモノレールも来る時と同じ乗務の女の子が乗っていた。「ワット・タムケーウは行ったことあるけど、お兄さんは見たこと無いよ、けど今度タンブンに行くよ」と言う女の子たち。私も会った覚えは無い。でも私は「明後日に還俗するんだけど、還俗したらまた来るよ」と言っておく。笑う仕草の可愛い子たち。こういう出会いは楽しいものだった。修行の合間のわずかな時間だが、藤川さんが居ないと女の子との出会いが多いなあ。

モノレールからの風景(1995年1月23日)

頂上にて仏塔を背景に(Photo by Nateさん)

◆運命の分岐点

ナコーン・キーリーでネイトさんに聞いた旅の予定は、翌日(1月24日)、バンコクへ行ってカンボジアの入国ビザを申請して、一旦この寺に戻った後、藤川さんと共にノンカイに帰り、2月初旬、ワット・ミーチャイ・ターの祭りに参加。その後、コーンケーンへ向かい、ビザ取得後の中旬以降カンボジアに向かうようだ。

ちょっと羨ましい気もするが、私も自分の予定を組んでしまった。還俗後にチェンマイでの伊達秀騎のムエタイ試合の取材態勢に入っていたが、ここが運命の分岐点だった。欲を捨て修行に専念し、「私も行かせてください」と言っていたら、私もカンボジアに行っていただろう。

「俺はノンカイの寺で再出家するんだ」という我がままも藤川さんとの決別を推していたようにも思う。

心の弱い人間は、迷いが生じ、楽な方へ誘われてしまうのだろうか。これは後々還俗後、しばらくして気付いたことであった。

ネイトさんも朝の和気藹々とした談笑は、勿論、本音での話し合いではなかったと言う。和尚さんに改めてのカンボジア行きの話はしなかったらしい。

◆別れの朝

翌朝の托鉢に出た時、寺の隣のバスターミナルの前に差し掛かると、藤川さんは「8時以降のバスの時間聞いて来てくれ」とネイトさんに頼む。もう寺を出た托鉢中と言える立ち位置で、こんな雑用に使われるネイトさん。これからも使われるだろう。特に英語圏では。バス時刻は8時、8時半と30分毎にバンコク行きが出ているようだった。

托鉢はいつもとほぼ同じ顔触れの信者さんの寄進を受けて帰って来た。藤川さんと二人の、ネイトさんも加わった三人体制は今日で最後である。そんな藤川さんの後姿も脳に焼き付けておく。こんな姿を約3ヶ月見て来たのだ。あまり話さなかったのに、それでもいろいろなことがあったなあと思う。1年半前は単なるオッサンだったのに。後ろのネイトさんも1ヶ月半前は単なる旅行者だったのに。この世のものは日々変化して行くのであろう。

朝食時、ホーチャンペーン(食事の壇上)でネイトさんには、ノンカイの寺の様子を教えてくれるように、私がバンコクでお世話になっているアナンさんのジム住所と電話番号を教えておく。「分かりました。連絡します。またノンカイでお会いしましょう!」と応えたネイトさん。

黄衣を纏い、旅の準備をしている藤川さんの部屋へ行くと、永遠か、一時的か分からないが、本当のお別れがやって来た。

「今迄お世話になりました。この格好でお会いするのは、もしかしたらこの先もあるかもしれませんが、比丘としても俗人としても、またお会いできる日には宜しくお願いします」

私の言うことに一つ一つ「ハイ、ハイ!」と応えながら旅の準備を進める。「また遊びに来いや!」と言う言葉は最後の思いやりのような温かみがあったが、もう比丘として見る厳しさは無く、寂しさを感じる贈る言葉に聴こえた。

「1週間後にもう一回だけ来て、借りている黄衣や食器類などお返しします」と言うと、「居らんかもしれん、ノンカイ行くかもしれんから」と言う藤川さん。それもここで会うことはもう無さそうな言い回しだった。

やがて出発準備が整い、後ろを振り返ることなく、ネイトさんと旅立たれた。藤川さんとの別れの頃などの写真は無いが、旅に出た時以外は撮れるものではない寺での藤川さんだった。

ここから私はまた新たな旅立ちがある。藤川ジジィに負けてはいられない。アナンさんのジムへ、チェンマイ行きの予定を聞く為、電話しに出掛ける今、私の人生、何度目かの分岐点となった朝だった。

ナコーン・キリーでのツーショット

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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