どんな大事件も時が過ぎれば、人々の記憶から消え去っていく。ここで取り上げる光市母子殺害事件も例外ではない。私が2015年に事件現場を訪ねたところ、被害者一家と加害者が暮らしていた社宅アパートは取り壊され、跡地は広大な空き地となっていた。周辺の住民たちに話を聞いても、事件は着々と風化している様子がうかがえた。

◆ 現場の社宅があった場所は広大な空き地に

事件が起きたのは、今から18年以上前に遡る。1999年4月のある日、山口県光市にある新日鉄(現在は新日鉄住金)の社宅アパートの本村洋さん宅で、妻の弥生さん(当時23)と生後11カ月の長女・夕夏ちゃんが殺害されているのを、会社から帰宅した本村さんが発見。ほどなく逮捕された犯人の福田(現在の姓は大月)孝行は、被害者一家と同じ社宅アパートで暮らしていた当時まだ18歳1カ月の少年だった。

福田はその後、成人同様に刑事裁判を受けたが、まだ赤ん坊の夕夏ちゃんまで殺害し、弥生さんを殺害後に死姦しているなど犯行内容は凄まじく、裁判では死刑適用の可否が争点になった。結果、福田は2012年2月に最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、裁判中も「死姦は死者復活の儀式だった」と証言するなど特異な言動を見せ、メディアも凄絶な報道合戦を繰り広げたものだった。

私がこの事件の現場を訪ねたのは、福田の死刑が確定してから約3年の月日が流れた2015年2月のことだ。この時、すでに現場の社宅アパートの建物は大半が取り壊され、広大な空き地になっていた。「管理地」と書かれた不動産会社の大きな看板が立てられていたが、雑草が伸び放題で、きちんと管理されているようには思えなかった。

事件現場の社宅アパートは取り壊され、広大な空き地になっていた

◆ 「今のこの町はゴーストタウン」

現場跡地の通り向かいの家の住人女性はため息まじりに話した。

「社宅は老朽化したために取り壊したそうですが、風の強い日には、伸び放題の草木の種などが飛んでくるんで、迷惑なんですよ」

一方、近所で書店を営む男性はこう語った。

「社宅があった当時は本村さんがよく花を手向けに来ていたけど、最近は見かけないね。現場のアパートがなくなり、花を手向けようにも手向ける場所がないんだけどね」

愛する妻と娘の生命を奪われた本村さんは福田の裁判中、メディアを通じて再三、死刑を望む気持ちを訴えていた。しかし、現在は再婚し、新たな家庭を築いていると伝えられている。別の町で幸せに暮らしているのだろう。

福田は弥生さんと夕夏ちゃんを殺害後、盗んだ金を使ってゲームセンターで遊んでいたとされるが、その店も今は取り壊されて存在しない。福田は裁判において、弥生さんや夕夏ちゃんに対する殺意を否定しており、現在もその主張を維持して広島高裁に再審請求中だが、事件は現在ほとんど報じられることもなく、着実に風化している印象だ。

現場界隈の店舗はほとんど閉店しており、町全体もうら寂しい雰囲気だ。前出の書店を営む男性は「事件の時は多くのマスコミが取材に来たけど、今のこの町はゴーストタウンだね」とつぶやくように言ったが、町が廃れゆくと共に世間の人々も事件のことを忘れ去っていくのだろう。男性と話しながら、私はふとそう思った。

町はうら寂しい雰囲気。地元の男性は「ゴーストタウン」と言った

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

アテネオリンピックの開催が間近に迫っていた2004年8月、兵庫県加古川市で一夜のうちに隣近所の7人を骨すき包丁や金づちで惨殺する事件を起こした男がいた。名は藤城康孝(当時48)。裁判では2015年に死刑が確定している。確定判決によると、藤城やその家族は長年、隣家の伯母一家らから見下されており、藤城は復讐のために凶行に及んだとされている。

しかし、事件から10年余りを経た2015年9月、現場を訪ねたところ、私は藤城の犯行動機が復讐だったという話には疑問を感じずにはいられなかった。

藤城が使っていたプレハブ小屋

◆今も犯人を恐れる地元の人たち

JR宝殿駅前で借りたレンタル自転車をこぐこと約15分。田園地帯と住宅が混在した田舎町の一角に、藤城康孝(61)がパン作りをしていたというプレハブ小屋はあった。 

その白いプレハブ小屋は入口の周辺に草が生い茂り、長いこと誰も出入りしていないのは一目でわかる状態だ。同じ敷地内には、かつて藤城が生まれ育った家が建っていたが、今は影も形もなく、その代わりに家の残骸らしき多数の石材が積み重ねられていた。

東隣の広々とした敷地には、かつて藤城の伯母一家が住んでいた大きな家があったが、今は跡形もなく消え失せ、多数の太陽光パネルが並べられていた。一方、プレハブ小屋とは細い道路を挟んだ西側にある更地は雑草が伸び放題だ。この更地にもかつては、藤城とは血縁関係のない同姓の家族が住む家が建っていたが、その面影すら窺えなかった。

私がこの日、この地を訪ねた目的は、この数カ月前に裁判が終結して死刑が確定した藤城の実像を知りたいと思ったためだ。だが、案の定というべきか、地元で藤城のことを積極的に語りたがる人はいなかった。

藤城のプレハブ小屋があった北側の家から中年男性が出てきたのを見つけ、取材に来たことを説明して話を聞こうとしたところ、男性はぎょっとした顔になり、「も、もう関わりたくないんでっ。すみませんけど」とすぐさま家に引っ込んでしまった。

藤城の家から少し離れた民家の前にいた初老の女性は、「あの事件の時は、うちの息子の家も壁が焼けて、修理が大変だったんですよ」と淡々と話した。藤城は7人を殺害したのち、自分の家に火を放って燃やしてしまったのだが、この女性の息子の家は藤城の家の近くにあり、被害をうけたのだという。

藤城の死刑が確定したことについて、どう思うかと聞くと、女性はしみじみとこう言った。

「死刑が決まって良かったです。無期になったら、どうしようかと心配でしたから」

判決が無期懲役ならば、いつか仮釈放されることもありえると思い、女性は地元に藤城が戻ってくる可能性を恐れていたのだろう。私は女性の話を聞きながら、2年前、藤城と面会した日のことを思い出していた。

藤城に殺害された伯母一家が暮らしていた家の跡地。多数の太陽光パネルが並んでいる

◆犯人は「いじめ被害」を切々と訴えてきたが……

2013年9月、大阪拘置所の面会室。アクリル板越しに向かい合った藤城はTシャツに短パン、サンダル履きというラフな格好だった。身長は160センチあるかないかというほど小柄で、衣服に包まれていない両の手足は骨と皮しかないほどにやせ細っている。報道の写真では険しい顔つきをしていたが、目の前の藤城は憑き物が落ちたように穏やかな表情で、一夜に7人を惨殺した凶悪犯にはとても見えない人物だった。

そんな藤城は取材のために訪ねた初対面の私に対し、拘置所の職員たちから「いじめ」を受けているのだと切々と訴えてきた。

「弁当を買いますやろ。職員がそれを(小窓から)房に入れる時、上下や横に揺するんで、中身がどっちかに寄ってるねん」

「わしが(房内の)トイレで用便しよったら、房の前の廊下を何度も行ったり来たりして、ジ~と見てくるんや」

「わしは病気の後遺症で言葉がちゃんとしゃべれへんのやけど、『そんなしゃべり方しかできんのか』と言われるねん」

本人が言うように、たしかに藤城は滑舌が悪かった。しかし、それを差し引いても、藤城の話は意味がわかりにくかった。本人は、「弁護士にいじめのことを相談する手紙を書いたら、職員らに逆恨みされて、余計ひどいことになっとるんですわ」と真顔で言うのだが、どんないじめを受けているのかという具体的なイメージが全然湧いてこなかった。

藤城は「もう2年近くもこういう状態が続いてるんや」というのだが、私には藤城が訴える「いじめ被害」は妄想としか思えなかった。実際、藤城は複数の精神鑑定医から妄想性障害に陥っていると判定されているのだが、実際に本人と会ってみると、その妄想性障害は事前に想像していたより重篤であるように思えた。

そして私はこの時、裁判で藤城の犯行動機が「長年、被害者らから自分や家族を見下されていたこと」への恨みだったかのように認定されていることに疑問を抱いたのだ。

◆完全責任能力が認められて死刑になったが……

裁判記録によると、藤城は幼少のころから短気で、些細なことにカッとなって興奮しやすい性格だったという。けいれんや意識障害などが発作的に起きる脳の病気「てんかん」という持病があり、そのために表出性言語障害にも陥っていたことが人格形成にも影響を与えていたという。

そんな藤城は小学校の低学年のころには、自分にいやがらせをした相手を包丁を持って追いかけていたとされる。高校のころには、因縁をつけてきた同級生を刃物で刺したこともあったという。

そんな物騒な男に対し、近所の人たちがあからさまに見下すような態度をとったりするだろうか。こういう藤城のような男に対しては、むしろ周囲の人たちは刺激しないように細心の注意を払うのが普通ではないだろうか。

藤城は伯母の一家から見張られたり、西隣で暮らす同姓の一家の人たちから陰口を言われたと認識していたとされる。しかし、拘置所で面会した際、藤城から非現実的ないじめ被害を訴えられた私には、それらはすべて藤城の妄想だったように思えてならない。

実際、現場を訪ねた際、地元の人たちが藤城のことをいまだに恐れている様子だったこともこの見方を裏づけていると思える。藤城に殺害された被害者たちが藤城にいやがらせをするような怖いもの知らずだったとは到底思い難い。

藤城に会った際、私はこの男が本当に完全責任能力を有しているのかと疑問に思ったが、裁判では結局、完全責任能力があると認められ、死刑になった。しかし、裁判官たちが藤城を死刑にするため、被害者たちから見下されていたという藤城の妄想を事実だと認めてしまったのだとしたら、被害者たちも浮かばれないだろう。

藤城に殺害された西隣の一家の家も今はもうない

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

1999年の夏から翌2000年にかけてマスコミで大々的に報道され、世間の耳目を集めた本庄保険金殺人事件。2件の保険金殺人と1件の保険金殺人未遂の罪に問われ、2008年に死刑確定した元金融業者の八木茂死刑囚(67)は一貫して無実を訴え、さいたま地裁に再審請求中だ。冤罪の疑いを指摘する声がまださほど多くない事件だが、実は事件現場を訪ねだけでも八木死刑囚に対する死刑判決の有罪認定に疑問を抱かせる事実が散見される――。

◆「人間養豚場」から逃げ出さなかったというストーリーの違和感

確定判決によると、八木死刑囚は95年6月、保険をかけていた元工員の男性(当時45)にトリカブトを摂取させて殺害し、保険金3億円をだまし取った。さらに98年から99年にかけて、やはり保険をかけていた元パチンコ店従業員の男性(同61)と元塗装工の男性(同38)を連日、大量の風邪薬と酒を飲ませ続ける手口で殺害したとされた。八木死刑囚は逮捕以来、一貫して無実を訴えていたが、共犯者とされた愛人女性3人がこれらの容疑をいずれも認めていたことが決め手となり、有罪、死刑とされたのだ。

では、現場で散見される有罪認定に疑問を抱かせる事実とは何か。第一の疑問は、被害者とされる男性たちが暮らしていた家から浮上した。

というのも、この事件が話題になった当初、週刊誌では、八木死刑囚が債務者の男性たちに「人間養豚場」と称するプレハブ建築のような劣悪な住居をあてがい、愛人女性と偽装結婚させて保険に加入させると、まるで真綿を締めるようにアルコール漬けにし、身体を徐々に蝕ませていたように報道されていた。だが、その「人間養豚場」の建物を確認するために現地を訪ねたところ、それが八木死刑囚の愛人女性が営んでいたパブと同じ敷地内にあったのだが、本当に何の変哲もない普通のプレハブ小屋なのだ。

八木死刑囚の裁判でも「被害者」とされる男性たちは生命の危機に瀕するまで八木死刑囚の愛人の営むパブや小料理屋で飲食していたとされるが、彼らは別に「人間養豚場」と呼ばれるプレハブ小屋に閉じ込められていたわけではない。建物を見る限り、男性たちは身の危険を感じればいくらでも逃げれたように思え、裁判で認定されたストーリーはどうもしっくりこないのだ。

「人間養豚場」と呼ばれたプレハブ小屋

◆トリカブト採取現場界隈の人たちの不可解な反応

第二の疑問は、八木死刑囚が凶器のトリカブトを採取した現場とされる長野県・八ヶ岳の美濃戸という場所を訪ねた時に浮上した。共犯者とされる愛人女性の1人によると、八木死刑囚と一緒にトリカブトを採取するために美濃戸を訪ねた際、大量のトリカブトを見つけた八木死刑囚は「俺は美濃戸が気に入った。美濃戸は宝の山だ」などと発言していたそうだ。そしてたしかにこのあたりはトリカブトが多く自生していた。

だが、このあたりで聞き込みをしてみても、八木死刑囚が美濃戸にトリカブトを採取に来たという話を知っている人が誰もいないのだ。八木死刑囚がトリカブトを採取している場面を目撃したという人物が誰もいないとしても、警察が捜査に来ていれば、そういう話は広まりそうなものである。このことには、何とも不可解な思いにさせられた。

ちなみに八木死刑囚が逮捕された当時の報道では、八木死刑囚の「関係各所」からトリカブトが発見されたという報道もあったが、裁判ではデマだったことが明らかになっている。犯行を自白した3人の愛人女性についても、自白内容は過酷な取り調べで植えつけられた「偽りの記憶」であるとする心理学鑑定の結果もあり、八木死刑囚がクロだと示す証拠は意外に乏しい。

再審請求の行く末を注目する価値はあると思う。

八木死刑囚のトリカブトの採取現場とされる美濃戸

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された「飯塚事件」では、一貫して無実を訴えながら2008年に死刑執行された久間三千年氏(享年70)について、足利事件同様のDNA型鑑定のミスによる冤罪だった疑いが根強く指摘されている。現在は福岡高裁(岡田信裁判長)で再審請求即時抗告審が行われているが、その実質的な審理も終わり、福岡高裁が再審の可否をどのように判断するのかに注目が集まっている。

私は過去、この飯塚事件の関係現場を何度か訪ねて回ったが、中でも印象深かったのは、被害者の女児たちのランドセルや衣服など遺留品が遺棄されていた現場だった。久間氏の裁判では、ある人物がこのあたりで久間氏やその車を目撃したかのような証言をしており、有罪の根拠の1つにされている。しかし、現場を一度でも訪ねてみれば、この目撃証言には微塵の信用性も認められないことがすぐわかるのだ。

このカーブの脇の山中に女児2人の遺留品が遺棄されていた

◆不自然なほど詳細な証言

その目撃証言は一体どんなものなのかを見る前に、まずは事実関係を整理しておこう。

福岡地裁が宣告した確定死刑判決によると、久間氏は1992年2月20日朝、登校中の小1の女児2人を車で連れ去って殺害し、2人の遺体を「八丁峠」と呼ばれる峠道脇の山中に遺棄したとされた。そして遺体遺棄現場から八丁峠を数キロ上方に進んだあたりで、女児2人のランドセルや衣服、下着をやはり道路脇の山中に遺棄したとされている。問題の目撃証人は地元の森林組合で働いていた男性だが、その男性は事件当日の午前11時頃、このあたりを車で通過した際に目撃した人物とその車について、次のような証言をしている(長いので、読み飛ばして頂いても構わない)。

〈軽四輪貨物自動車を運転して国道三二二号線を通って八丁峠を下りながら組合事務所に戻る途中、八丁苑キャンプ場事務所の手前約二〇〇メートル付近の反対車線の道路上に紺色ワンボックスタイプの自動車が対向して停車しており、その助手席横付近の路肩から車の前の方に中年の男が歩いてくるのをその約61.3メートル手前で発見した。その瞬間、男は路肩で足を滑らせたように前のめりに倒れて両手を前についた。右自動車の停車していた場所がカーブであったことや、男の様子を見て、「何をしているのだろう、変だな。」という気持ちで、停車している車の方を見ながらその横を通り過ぎ、更に振り返って見たところ、車の前に出ようとしていたはずの男が車の左後ろ付近の路肩で道路側に背を向けて立っているのが見えた。男は、四〇代の中年位で、カッターシャツに茶色のベストを着ており、髪の毛は長めで前の方が禿げているようだった。また、停車していた自動車は、紺色ワンボックスタイプで、後輪は、前輪よりも小さく、ダブルタイヤだった。後輪の車軸部分は、中の方にへこんでおり、車軸の周囲(円周)は黒かった。リアウインドー(バックドアのガラス)及びサイドリアウインドーには色付きのフィルムが貼ってあった。車体の横の部分にカラーのラインはなかったが、サイドモールはあったように思う。型式は古いと思う。ダブルタイヤだったので、マツダの車だと思っていた〉(確定死刑判決より引用。原文ママ)

おそらく多くの人が読み飛ばしただろうが、この目撃証人の証言内容が驚くほど詳細だったことは十分にわかったろう。しかし実際には、この目撃証人は急カーブが相次ぐ八丁峠の山道を車で下りながら、すれ違う際にせいぜい10秒程度、問題の人物や車を見ただけだった。それでいながら、これだけ詳細な証言ができたというのはあまりにも不自然だ。

遺体遺棄現場には小さな地蔵が祀られている

◆現場を車で走ってみたところ……

私は2015年3月、弁護団が現場で行った一般参加OKの実験に参加し、自分も目撃証人と同じように現場を車で走り、視認状況を確認したことがある。その際、遺留品遺棄現場あたりに停車していた車やそのかたわらにいた人物の存在こそ確認できたが、あまりに一瞬のことで、車や人物の特徴などほとんど覚えられなかった。そして私以外の多くの参加者たちも同様の感想だった。それゆえに私は、現場を一度でも訪ねてみれば、この目撃証言には微塵の信用性も認められないことがすぐわかる――と言ったのだ。

この目撃証人については、裁判中から捜査官の誘導により、久間さんの車を目撃したかのような証言をするようになった疑いが指摘されてきた。再審請求即時抗告審では、弁護側が捜査記録を再検証したことにより、捜査員があらかじめ久間さんの家を訪ねて車の特徴を確認したうえで目撃証人に事情聴取していた疑いも浮上している。ぜひとも再審が始まり、この目撃証言に関する警察、検察の捜査も再検証されて欲しいものである。

なお、私が目撃証人と同じように現場を車で走り、視認状況を確認した際の動画をここに紹介した。


◎[参考動画]飯塚事件 目撃証人の視認状況の実験(片岡健2015年03月07日公開)

3分10秒過ぎに出てくるのが「仮想の久間氏とその車」だが、読者の方々もこの動画を観れば、目撃証人の証言内容の詳細さがいかに不自然かが改めてよくわかるはずだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』9月号!さよなら安倍政権【保存版】不祥事まとめ25

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2004年に奈良市で起きた小1女児殺害事件は、犯人の男の異常性が社会を震撼させた。下校中に失踪した少女は、通っていた小学校から遠く離れた町の側溝で見つかったが、歯が数本抜かれた状態だった。さらに犯人から親族の携帯電話に「娘はもらった」「次は妹を狙う」などというメールが届いたが、メールには被害者の画像が添付されていた。

検挙された犯人の小林薫は、毎日新聞の販売員として働いていた男だが、幼女ポルノや女児の下着を多数所持していた小児性愛者で、小さな女の子に対する性犯罪の前科もあったという。

小林は奈良地裁で2006年9月、わいせつ目的で女児を誘拐し、自宅の浴室の湯船で溺死させたとして求刑通り死刑判決を受けたのち、自ら控訴を取り下げて死刑が確定。2013年2月に収容先の大阪拘置所において、44歳で死刑執行されている。

手前が小林の住んでいた部屋。ここで女児は命を奪われた

◆小林が住んでいたマンションは今……

私がそんな事件の関係現場を訪ね歩いたのは、昨年5月のことだった。

最初に訪ねたのは、JR王寺駅から徒歩7、8分の場所にある小林が住んでいたマンションだった。その3階建てのマンションは、小林が働いていた毎日新聞の販売所と隣接していたが、人が住んでいる気配はほとんど感じられなかった。小さな女の子が殺害された現場ということもあって入居者が集まらず、今は空き室が多いのかもしれない。

周囲の様子を見て回ると、マンションの近くには、〈不審者を!! 見たらその場で110番〉と書かれた、のぼり旗がはためいていた。過去に痛ましい殺人事件があった現場を歩いていると、こういう防犯を促すものをよく見かけるが、近所の人たちも2度とあのような悲劇があってはいけないとナーバスになっているのだろう。

小林が住んでいたマンション(奥)の近くには、防犯を促すのぼり旗

◆一体なぜ、こんな場所に……

小林が被害者の遺体を遺棄した平群町菊美台という町の側溝は、小林宅から北に5キロの場所にある。その側溝は、住宅街のかたわらに広がる田んぼ沿いの坂道にあったが、私はその場所を見て、少々違和感を覚えた。側溝は周囲から遮るものが何もなく、小さな女の子の遺体などを遺棄すれば、すぐに見つかってしまうことは明白な場所だったためだ。

小林はなぜ、こんな場所に遺体を遺棄したのか。犯行の発覚を防ぐために遺体は山の中に捨てようとか、埋めてしまおうとかという発想はなかったのだろうか。小林は親族に犯行を誇示するようなメールを送りつけるなど劇場犯的なところがあったから、あるいは遺体もあえて見つかりやすいように捨てたのだろうか・・・。私は色々考えさせられた。

小林は、控訴を取り下げて死刑が確定したが、その後、控訴の取下げは無効だと訴えたり、確定死刑判決には事実誤認があるとして再審請求を行ったりしている。再審請求では、「確定判決では、被害者を湯船に沈めて殺害したように認定されたが、本当は、わいせつ行為をしようと睡眠薬を飲ませて入浴させていたら、気づいた時には被害者が溺死していた」と訴えていたという。しかし、その主張が司法に認められることはなかった。

私は事件当時や裁判中、小林に直接取材する機会に恵まれなかった。もしも、そのような機会があれば、「なぜ、あんな場所に遺体を捨てたのか」ということを聞いてみたかった。

被害女児の遺体が遺棄されていた側溝

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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愚直に直球 タブーなし!最新刊『紙の爆弾』8月号! 安倍晋三 問われる「首相の資質」【特集】共謀罪を成立させた者たち

2005年12月に栃木県今市市(現・日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃんが何者かに連れ去られ、無残な刺殺体となって見つかった「今市事件」。殺人などの罪に問われた被告人の勝又拓哉氏(35)は昨年4月、宇都宮地裁の裁判員裁判で無実を訴えながら無期懲役判決を受けたが、捜査段階の自白以外にめぼしい証拠はなく、冤罪の疑いを指摘する声が少なくない。

かくいう私も裁判員裁判の全公判を傍聴したほか、勝又氏本人をはじめとする関係者、関係現場への取材を重ね、この事件は冤罪だと確信するに至っている。当欄でも今年4月16日、警察が捜査段階に栃木県内のあちこちに貼り出していた情報提供募集のポスターに基づき、勝又氏の自白調書の内容に信ぴょう性など無いに等しいことを記事にした。

そして実を言うと、勝又氏の自白が嘘であることは、「ある現場」に一度でも行けば、一目瞭然なのだ。

◆明らかに嘘だった「わいせつ行為」

東武日光線の樅山駅から車で数分。県道15号線沿いにある2階建ての何の変哲もないアパートが、この事件では大変重要な現場の1つだ。勝又氏は事件当時、このアパートの2階の一室に住んでいたのだが、その自白調書によると、ここに有希ちゃんを連れ込み、わいせつ行為をしたことになっているからだ。

「私は、部屋の中で有希ちゃんを全裸にしたうえで自分も裸になり、デジタルビデオカメラで撮影しながら、有希ちゃんの顔にキスしたり、陰茎を有希ちゃんの尻にこすりつけたり、有希ちゃんに陰茎を握らせてしごかせて射精するなどしました」(自白調書の要旨)

この自白は一見、迫真性のある内容だが、客観的事実をもとに真偽を検証すれば、すぐに嘘だとわかる内容だ。というのも、勝又氏が本当にこれほど濃厚なわいせつ行為をはたらいたなら、有希ちゃんの体には当然、相当量のDNAが付着したはずだ。しかし事件後、有希ちゃんの遺体から勝又氏のDNA型は一切検出されていないのだ。

そして、わいせつ行為をした後のことに話が及ぶと、勝又氏の自白調書の内容はさらにわかりやすく不自然な内容になる。

◆「手足を縛った全裸の被害者を車まで運んだ」という不自然

「私は自宅アパートで有希ちゃんにわいせつ行為をした後、全裸の有希ちゃんの両手足をガムテープで縛って拘束し、ジャンパーをかぶせただけの姿で駐車場に停めていた車まで連れて行きました。そして有希ちゃんを助手席に乗せ、車で茨城県常陸大宮市の山中まで赴き、有希ちゃんを車から降ろしてサバイバルナイフでメッタ刺しにして殺害しました。それから、遺体を林の中に投棄したのです」(自白調書の要旨)

この自白が嘘であることは、現場に行けば一目瞭然だ。

勝又氏が当時暮らしていたのは、アパートの2階の奥の部屋だった。ここに掲載した写真で言うと、向かって左側の部屋である。勝又氏が自分の部屋から、車を停めていた地上の駐車場まで行くには外廊下を通り、さらに外階段で下に降りなければならない。勝又氏が自白内容通り、「両手足をガムテープで縛って拘束し、ジャンパーをかぶせただけの全裸の有希ちゃん」を自分の部屋から車まで連れて行くのは極めて困難であることは自明だろう。

勝又氏が住んでいたアパート。2階の左の部屋から、手足を縛られた全裸の女児を地上まで運べるだろうか?

有希ちゃんが手足を縛られているのであれば、地上の駐車場の車まで連れて行くにはダッコして運んだり、引きずっていくしかないはずだ。小1の女の子ゆえに体重は大したことがないとはいえ、そんなことが可能だろうか。仮に可能だとしても、勝又氏が本当に犯人ならば、いかに有希ちゃんを駐車場の車まで運んだかは重要なことなので詳細に供述するはずだが、勝又氏の自白にはそのあたりのことが一切出てこない。極めて不自然なことである。

その他にも勝又氏の自白調書の内容は、「有希ちゃんを殺害後に車で家に帰る際、手を洗うためにコンビニや公衆トイレに立ち寄った」と供述しながら、そのコンビニや公衆トイレが特定されていないなど不自然な点は枚挙にいとまがない。東京高裁で行われる控訴審の日程は現時点で未定だが、控訴審では公正な審判が下されることを私は強く願っている。

勝又氏が住んでいたアパートの外階段。ここを全裸の女児を連れて降りる犯人がいるだろうか?

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』8月号! 安倍晋三 問われる「首相の資質」【特集】共謀罪を成立させた者たち

夏祭りのカレーに何者かが猛毒のヒ素を混入し、67人がヒ素中毒にり患、うち4人が死亡した和歌山カレー事件。1998年7月25日の事件発生から19年になるが、近年は無実を訴え続ける林眞須美死刑囚(54)について、冤罪を疑う声が増えている。林死刑囚が再審請求後、京都大学の河合潤教授が弁護団の依頼により有罪の決め手とされていたヒ素の鑑定データを解析したところ、林死刑囚の自宅で見つかったヒ素と事件現場で見つかったヒ素が「異なる物」だという結果が出たことなどが原因だ。

一方、林死刑囚については、カレー事件以前にも夫や知人の男性らにヒ素や睡眠薬を飲ませ、保険金詐欺を繰り返していたという別件の疑惑もあり、こちらは今も冤罪を疑う声があまり聞かれない。だが、その別件の疑惑の現場を訪ねて回ったところ、驚くべきことがわかった――。

◆カレー事件以前の「23件」の疑惑とは……

まず、事実関係を整理しておこう。

検察官が裁判で示した起訴内容によると、林死刑囚はカレー事件以前、夫や知人男性2人に4回、死亡保険金目的でヒ素を飲ませる殺人未遂事件を起こしたとされていた。さらに検察官は第一審の論告求刑の際、林死刑囚が起訴された以外にも19回、夫や知人男性に死亡保険金目的でヒ素や睡眠薬を飲ませる「類似事実」に手を染めていたと主張した。結果、これら計23件(4件+19件)の事件のうち6件について、林死刑囚の犯行もしくは関与があった事件だと認定され、林死刑囚がカレー事件の犯人であることの状況証拠とされている。

ところが、実際には、夫の健治氏は裁判で「ヒ素は保険金を騙し取るために自分で飲んでいた」と証言し、自分は被害者ではなく、妻である林死刑囚と一緒に保険金詐欺を繰り返していただけだと訴えた。さらに裁判では、林死刑囚にヒ素や睡眠薬を飲まされたかのように証言した知人男性らが林死刑囚や健治氏と保険金詐欺の共犯関係に会ったことが判明。この知人男性らは保険金詐欺の罪を一切問われていないことなどから、検察側と司法取引的なことをして林死刑囚に不利な証言をしている疑いが浮上していた。

私はこうした疑惑を検証する取材の一環して、林死刑囚が知人男性らにヒ素や睡眠薬を飲まさせたとされる「現場」を訪ねて回った。すると驚かされたのが、検察官の主張通りなら殺人未遂事件が起きたはずの現場で、警察や検察が捜査に訪れた形跡が一切見受けられなかったことである。

◆殺人現場の人たちの意外過ぎる反応

たとえば、検察官の論告求刑によると、林死刑囚は98年5月、大阪府狭山市にある近畿大学医学部付属病院内の食堂で知人の会社社長の男性に対し、睡眠薬を混入させたアイスコーヒーを飲ませ、帰宅の際に車で自損事故を起こさせたとされていた。それが本当ならば、警察や検察は当然、この食堂を訪ね、現場検証をしたり、従業員に事情聴取をしたりしているはずだ。ところが、私がこの食堂を訪ね、カレー事件の発生当時から勤めている女性従業員を見つけて話を聞いたところ、彼女は素っ気なくこう言うのだ。

「そういうの(事情聴取など)は、病院のほうでやっていたみたいですよ」

つまり、捜査には、組織として病院の代表が対応しただけ。殺人未遂事件の現場である食堂の従業員らに、捜査機関は何も話を聞いていないようなのだ。

近畿大学医学部付属病院内の食堂。ここで林死刑囚は知人男性に睡眠薬入りのアイスコーヒーを飲ませたとされたが……

また、検察官の論告求刑によると、林死刑囚は同年7月にもこの会社社長の男性に対し、和歌山市内の「A」という喫茶店で睡眠薬入りのコーヒーを飲ませ、そのために男性が店を出たところで意識を消失し、怪我をする事件があったとされた。ここでも運良く、カレー事件発生当時から勤めているウエイトレスに出会うことができたのだが───。

「ウチでそんな事件があったことになってんの?」

やはり彼女も自分の店でそんな事件があったことにされているとは、まったく知らないようなのだ。私が「警察は捜査に来なかったのですか?」と尋ねると、女性は「来てへんって」と少し怒ったように言った。彼女が何かを隠している様子は微塵も感じられなかった。

さらに検察官の論告求刑によると、林死刑囚は97年9月、大阪府岸和田市の岸和田競輪場に健治らと出掛けた際、当時林家に居候していた知人男性に対し、睡眠薬を入れたコーラを飲ませ、意識を消失させるなどしたとされていた。ところが2008年10月、私が同競輪場に電話取材したところ、同競輪場の参事を務める藤井宗孝氏はこう述べた。

「うちで、そのような事件があったという“噂”になっているんでしょうか?」

“噂”ではなく、“検察”が“裁判”で岸和田競輪場でそのような事件があったと言っているのだと私は伝えた。しかし、藤井氏は、「はあ、裁判で……私はこちらに来て5年になりますが、そのような事件があったと聞いたことはありませんが……」と戸惑うばかり。藤井氏は親切な人で、この時点で同競輪場に9年務めている職員や、23年務めている警備員にも事実関係を確認してくれたが、同競輪場で林死刑囚がそのような事件を起こしたとか、警察が捜査にやってきたという話は「誰も知らない」とのことだった。

林死刑囚が知人男性に睡眠薬入りのコーラを飲ませた現場とされている岸和田競輪の特別観覧席

◆ヒ素を飲まされたとされる夫はかく語りき

では、これらの事実から一体、どんな真相を読み解けばいいのだろうか。私には、健治の次のような言葉が真相を言い当てているように思える。

「Dさん(会社社長の男性)やI(林家に居候していた男性)には、ワシら夫婦は裏切られたわけやけど、ワシはあの2人を恨み切れないんですよ。Dさんは酒を飲むとタチが悪いけど、普段は仏さんのようなエエ男でしたし、Iはワシらによく尽くしてくれましたから。あの2人もワシらを裏切ったのは、そうせざるをえない状況に追い込まれていたからだと思うし、今は本人たちも罪悪感に苦しんでいるのではないかと思うんです」

林死刑囚はカレー事件だけでなく、カレー事件以前に夫や知人男性らにヒ素や睡眠薬を飲ませていた疑惑についても無実を訴え続けている。真相が明らかになる日はくるだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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全国に未解決の殺人事件はあまたある。その中でも4年前に千葉県習志野市で起きた女性殺害事件は、特異な経過をたどった事件として印象深い。

現場は、習志野市茜浜1丁目の遊歩道脇の緑地帯。女性が仰向け状態で倒れ、死んでいるのを清掃員が発見したのは2013年6月24日の朝だった。千葉県警の調べにより、ほどなく女性は派遣社員の廣畑かをりさん(当時47)と判明。解剖の結果、死因は首を圧迫されたことによる窒息死の可能性が高いと判定され、財布から金を抜き取られているのもわかった。こうした状況から千葉県警は行きずりの強盗殺人の可能性を疑い、捜査を展開したと伝えられている。

そんな事件は多数の捜査員が動員されながら、4年経った今も未解決。だが、この間には一度、被疑者が検挙されたことがある。

現場近くには多くの人が暮らす団地もあるが、有力な目撃情報はない

◆一度は被疑者が検挙されたが……

千葉県警が廣畑さん殺害の容疑で中国籍の男を逮捕――。事件発生から3年近く経った2016年3月初め、マスコミ各社は一斉にそう報じた。報道によると、被疑者の男は、別の窃盗事件の容疑で有罪判決をうけ、関東地方の刑務所に服役。現場に残されていた遺留物の鑑定の結果、男が事件に絡んでいる疑いが浮上したとのことだった。

そんな報道が出れば、事件は解決に向かったと誰が思う。しかし捜査の結果、千葉地検は「起訴に足る証拠が集まらなかった」と男を釈放し、不起訴に。男は中国に帰国し、事件は再び未解決の状態となり、今に至るわけである。

殺人の容疑で逮捕された被疑者が嫌疑不十分で不起訴になること自体が珍しいが、これほどの重大事件ともなると、警察は普通、検察に相談したうえで逮捕に踏み切るものである。そういう意味でもこの中国籍の男が不起訴となったのは特異なことだった。

現場の遊歩道。夜は暗く、死角になる場所も多い

◆暗く、死角になる場所も多い夜の遊歩道

派遣社員だった廣畑さんは事件当時、現場近くの食品加工会社で働いており、遺体で発見される前日も夜10時から出勤予定だったが、無断欠勤していた。そのため、廣畑さんは夜9時台に出勤していたところを犯人に襲われたとみられている。そこで私もちょうどそのくらいの時間に現場の遊歩道を歩いてみた。

すると、現場は暗いだけならまだしも、生け垣や公園など死角になる場所も多かった。この道を夜9時台に歩いていたとされる廣畑さんが突如、隠れていた犯人に襲われた場面が鮮明に想像できた。遺体が見つかった緑地帯には、花と水が供えられていたが、まだ花は新しく、遺族がこまめに訪れていることが窺えた。遺族は広畑さんの冥福を祈ると共に犯人が検挙されることも切実に願っていることだろう。

一方、千葉県警のホームページでは、様々な未解決事件に関する情報提供が求められているが(http://www.police.pref.chiba.jp/so1ka/safe-life_coop-vicious.html)、中国籍の男が逮捕されて以来、この事件に関しては情報提供が求められなくなっている。

おそらく千葉県警としては、自分たちが逮捕した中国籍の男こそが不起訴になろうとも犯人で間違いないという思いから、この事件の捜査は打ち切っているのだろう。これでは犯人が検挙される可能性はきわめて乏しいと言わざるをえず、廣畑さんや遺族が気の毒でならない。

遺体が見つかった緑地帯に手向けられた花。遺族がこまめに訪れていることが窺える

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

愚直に直球 タブーなし!最新刊『紙の爆弾』8月号! 安倍晋三 問われる「首相の資質」【特集】共謀罪を成立させた者たち

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

滋賀県米原市でこの事件が起きたのは8年前に遡る。2009年6月12日の朝、伊吹山のふもとを走る農道脇に設置された2つの汚水タンクの1つから作業員が被害者の女性A子さん(当時28)の遺体を発見。A子さんは2日前から行方不明になっており、家族が警察署に捜索願を出していた。

この事件が当初からセンセーショナルに報道されたのは、まず何よりA子さんの亡くなり方があまりに痛ましかったためである。A子さんの遺体は派遣社員として勤務していた大手メーカーの工場の作業着姿だったが、鈍器のようなもので頭部や顔面を頭蓋骨が陥没するほど乱打されており、両手の防御創を合わせると、30回以上も攻撃を受けていた。そして瀕死の状態で汚水タンクに突き落とされ、し尿を吸引して窒息死していたという。

加えて、容疑者として検挙された男性B氏(当時40)は、A子さんが勤める大手メーカーの正社員だったが、妻子がある身でありながら独身のA子さんと不倫関係にあった。そのために報道はいっそう過熱し、A子さんが事件前、B氏のDVを友人に訴えていたという疑惑も報じられるなどして事件は社会の耳目を集めたのだった。

B氏はその後、2013年2月に最高裁で上告を棄却され、懲役17年の判決が確定している。B氏は裁判で無実を訴えていたのだが、その訴えを正面から報じたメディアは皆無に近かった。

事件現場となった汚水タンク

◆裁判で浮かび上がっていた有罪を否定する事情

実を言うと、私はこの事件を取材し、B氏のことを冤罪だと確信している。B氏がA子さんを殺害した犯人であることを否定する様々な事情があるからだ。

まず、B氏の車の血痕の付着状況だ。B氏はA子さんが行方不明になった日、その直前まで自分の車でA子さんと一緒にいたのだが、車の左後輪ブレーキドラムの内側からA子さんの微量の血痕が検出されたことが有罪の大きな根拠の1つとされている。しかし、A子さんの遺体の状況からすると、犯人は返り血を浴びていることが濃厚であるにも関わらず、B氏の車の運転席やその周辺からは一切の血痕が検出されていなかったのだ。

一方、左後輪ブレーキドラムから検出されたA子さんの微量の血痕について、B氏は「A子さんがタイヤ交換をした際、足を怪我したことがあるので、その時のものではないか」と説明していたのだが、この説明はとくにおかしくない。こうしてみると、B氏の車の運転席やその周辺から血痕が一切検出されていないにも関わらず、左後輪ブレーキドラムの微量の血痕を有罪の根拠にするのは無理がある。

また、A子さんに対するB氏のDV疑惑については、たしかにA子さんは事件前、友人に「殴られ、首を絞められるなどしている」「このまま殺されるかもしれない」などと訴えていたようだ。しかし、裁判で明らかになったところでは、友人たちはA子さんのこのような訴えを深刻には受け止めておらず、A子さん自身も警察に相談するなどの対策を講じていなかった。むしろメールの履歴を見ると、A子さんはB氏に何か不満があれば、積極果敢に伝えており、B氏がA子さんに暴力をふるっていたような兆候は見受けられなかったという。

事件現場の汚水タンクのある場所。昼間は走行中の車からもよく見える

◆一見有力な目撃証言は存在するが……

私は2010年に大津地裁でB氏の裁判員裁判が行われた頃、現場の汚水タンクがある場所を訪ねている。事件当日の夜10時30分頃、この場所をトラックで通過した運転手が「B氏の車と似た車」が汚水タンクのかたわらに停まっていたのを目撃したと証言し、この証言も有罪の根拠の1つとされている。

しかし、このトラック運転手の証言は、夜間に時速60キロくらいで走行中のもので、視認状況が良いとは言えないうえ、車種に関する証言内容の変遷も激しかった。そこで私も実際、この時間にレンタカーで汚水タンクがある場所を走ってみたのだが――。

結論から言うと、視認状況は思ったよりはるかに悪く、汚水タンクやその周辺の状況など何も見えなかった。昼間は目印になる汚水タンク脇の「ポイ捨て あカン!!」の大きな看板も闇の中に沈み、間近に迫るまで一切見えないほどだった。目撃証人の運転手は「B氏の車と似た車」について、「ヘッドライトを切った状態で停まっていた」と証言しているが、ヘッドライトを切っている車など通りすぎる際に到底見えないだろうと思わざるをえなかった。

B氏の裁判では、裁判官や裁判官が実際に汚水タンクがある場所まで足を運び、自分の目で現場の状況を確認するような検証は一切行われていない。そういう検証が行われていれば、私はトラック運転手の証言が有罪の根拠として裁判でまかり通ることはなかったろうと思えてならない。

控訴審段階で弁護側から提出された証拠によると、事件以前からインターネット上にA子さんを誹謗する書き込みが多数あったことも確認されており、B氏とは別の真犯人が存在しても何ら不思議はない。被害者やその遺族のためにも、B氏が犯人だということで片づけていい事件ではないと思う。

夜になると、走行中の車から現場の汚水タンクがある場所はまったく見えない。目撃者によると、実際には車はヘッドライトもつけていなかった

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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スーパーは当時と違うが、矢野さんは店の前で刺され、倒れていた

 

大阪府警もホームページ上で事件の情報提供を求めている

大阪府茨木市の阪急電鉄南茨木駅と隣接したスーパー「阪急共栄ストアー南茨木店」(当時)の前の歩道で、この店の店員・矢野愼さん(当時33)が血まみれで倒れているのを同僚が見つけたのは2001年5月1日の午前8時過ぎのこと。矢野さんは左胸を刃物で刺されており、病院に搬送されたが、ほどなく死亡が確認された。

目撃証言によると、矢野さんは刺される前、スーパーの2階の階段踊り場で白髪交じりの黒っぽいジャンパーを着た男ともみ合いになっていたという。警察は、男が開店準備中のスーパーに押し入り、金を盗もうとしたが、矢野さんに抵抗されたため、路上に連れ出して刺したとみていると伝えられている。矢野さんは責任感の強い人だったそうだから、強盗から店を守ろうとして生命を奪われたのかもしれない。

目撃者は複数いたようで、犯人の男は「年齢が30歳から50歳くらい」、「身長は165から170センチくらい」、「体格はがっちり型」などと絞り込まれたが、事件は16年経った今も未解決。遺族が私的に懸賞金200万円を用意して犯人検挙につながる情報を募り、大阪府警もホームページで情報提供を呼びかけ続けているが、有力な情報は得られない状態のようだ。

◆変わりゆく現場の様子

私がこの現場を訪ねたのは、2013年の夏のこと。店は事件当時の「阪急共栄ストアー南茨木店」から「阪急オアシス南茨木店」へと変わっており、地元の人たちによると、店の前の歩道も事件当時より拡張されて広くなっているとのことだった。

だが、矢野さんが犯人の男ともみ合っていた2階の階段踊り場はそのまま残されていた。その階段踊り場は南茨木駅と直結しており、これならば事件を目撃した人たちがいるのも納得だ。犯人はおそらく、さほど綿密な計画を立てずに成り行きで事件を起こしたのだろう。

矢野さんが犯人ともみ合っていたとされるスーパー2階の階段踊り場

犯人の逃走経路とされる陸橋

 

 

聞き込みをしてみると、スーパーの女性店員がこんなことを教えてくれた。

「私は当時、この店で働いていなかったんで、刺された人のことは知らないんですが、そこの陸橋のところに地蔵があるらしいですよ」

スーパーの建物の横には、線路の反対側に渡るための陸橋があるのだが、そこに行ってみると、金網で囲まれた陸橋のたもとのところに、たしかに小さな地蔵が設置されていた。矢野さんを悼むためのものだろう。地蔵の前には、水のつがれたグラスが供えられていたが、水は綺麗な状態で、矢野さんの死を悼む人がまめに水をかえていることが窺えた。

◆地蔵の設置場所は犯人の逃走経路

実は目撃証言などによると、犯人の男は矢野さんを刺した後、たもとにこの地蔵が設置された陸橋を通り、線路の反対側の駐輪場の方向に逃げていったとされている。私には、この地蔵は犯人が再びこの現場を通らないか、見つめ続けているようにも思えた。

2010年に刑事訴訟法が改正され、殺人の公訴時効は撤廃された。16年もの年月が過ぎてしまうと、警察としても犯人検挙につながる新たな有力情報を得るのは難しいだろうが、犯人は生きている限り、矢野さんを殺害した罪から決して逃れられることはない。

【参考】大阪府警もホームページ上でこの事件の情報提供を求めている。

陸橋の下に矢野さんを悼むために設置された地蔵

▼片岡健(かたおか けん)
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