先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、もうすぐ沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみたいと思います。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や戦後も続くアメリか支配が明らかになり、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録しています)。

宮沢和史さん

宇崎竜童さん

 

知名定男さん

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前回の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。
【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

ネーネーズとHY

◆     ◆     ◆     ◆     ◆


◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

ネーネーズ6代目メンバーと松岡

◎[リンク]今こそ反戦歌を! 
◎[リンク]琉球の風~島から島へ~

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

人と人の出会いというのは、時に不思議なことがあります。

新谷英治関西大学教授との出会いは、新谷教授が偶然に「西宮ゼミ」にわざわざ京都から参加されて以来のお付き合いです。もう何年になるでしょうか。

新谷教授は、ことのほか沖縄に関心を持たれ私的にたびたび沖縄、特に離島を訪れておられます。「西宮ゼミ」(隔月5期30回開きました)では、沖縄関係の企画はありませんでしたので、何のテーマで参加されたのか、覚えていません。

関西大学での講義後、宮原知子さんと

その後、郷里・熊本で高校の同級生・東濱弘憲君(故人)が、いわばライフワークとして始めた島唄野外イベント「琉球の風」に、私たち鹿砦社が協賛し資金的にも援助していることを申し上げると、これに関心を持たれ、3度でしたか一緒に熊本まで赴いたこともあります。一家で来られたこともあったかな。

この縁もあって、新谷教授の引きで関西大学で2年間非常勤講師を務めさせていただきました。テーマは「人間の尊厳のために~人権と出版」で小出裕章さん、浅野健一さんとの共同講座でした。私は、①Paix2の活動、②「名誉毀損」事件、それに③「琉球の風」を採り上げました。動画も交え有意義なものでした。2年目には、私も調子に乗って、この講義を取ってくれた約150人全員に書籍を配布し(タダだよ、タダ!)、最終講義には事前告知なしにPaix2に来ていただきミニコンサートを行いました。手前味噌ながら、学生諸君の記憶に残った講義になったと自負しています。

この講義を、先の冬季オリンピックで、メダルには届かなかったものの4位入賞した宮原知子さんも取ってくれました。宮原選手は、直前まで怪我で長期休養してましたので万全であればメダルを獲得していたものと思います。若い学生との交流など想い出深いものとなりました。こういう機会を与えてくださった新谷教授に心から感謝いたします。

左から小出裕章さん、松岡、新谷教授

朝日新聞3月28日朝刊

平良さん講演会案内

ところで、新谷教授は異色の方や話題の方を外部から招き講義や学内イベントを意欲的になされ、昨年秋、沖縄テレビのキャスター・平良(たいら)いずみさんを招いて講演会をやるというので、先の講義以来久しぶりに関大を訪れました。

この時、平良さんは自らが制作したドキュメント『菜の花の沖縄日記』が2つの賞を獲り話題になっており和気藹々としたイベントでした。

その後、『菜の花の沖縄日記』は映画化され『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』になり、3月28日の朝日新聞を開いて平良さんが「放送ウーマン賞」を受賞したという記事を発見しました。素直に喜びたいと思います。

さて、沖縄といえば、前出の「琉球の風」、これを始めた高校の同級生(3年の時に同じクラス)・東濱弘憲君を思い出しますが、彼の店で乞われて大手百貨店を辞め一時働き、これが閉店後独立し、日本に、当時はまだ無名だったPaul Smithという人気ブランドを持ってきた有田正博君は中学の同級生(3年の時に同じクラス)でした。

この話には驚きました。これを知ったのは、「琉球の風」の記録集『島唄よ、風になれ!』の出版の過程で、記事の中に「有田正博」という名前を発見したことでした。

この記事を書いた、当時地元・熊日新聞記者だった星原克也さん(今は熊日新聞を退社し小さな焼酎バーを営んでいます)の手を煩わせ、中学を卒業して以来40数年ぶりに再会を果たすことができました。今では帰郷するたびに会っています。

 

坂本菜の花・著『菜の花の沖縄日記』(書影クリックでamazon.comへ)

有田君は、くだんのPaul Smithで(これだけではありませんが)大儲けし一時はビル3つ取得し、2年余り釣り三昧の生活をしていたそうで、さすがにお連れ合いや娘さんから三行半を突き付けられ離婚、ビル3つとPaul Smithのライセンス一切を渡したといいます。「お前は熊本の嵐寛寿郎か!?」と言ったところです(往年の時代劇スター・嵐寛寿郎は、数度結婚‐離婚を繰り返していますが、そのたびごとに財産全てを妻に渡したといわれます)。中学の頃のイメージでは、こんなに剛毅には思えませんでしたが、人は見かけによらぬものです)。

有田君は熊本の有名人らしく、地元・熊日新聞でその半生を1カ月連載で語っています。日経新聞の『私の履歴書』のようなものですね。

さらに物語は展開します。私は同志社大学の此春寮(ししゅんりょう)という小さな寮に居たことは、これまで何度も書き記していますが、この寮の先輩・石渕博人さん(1967年度生。私は70年度生)は、卒業後郷里・熊本で長年、熊本では著名な某高校の教師をされていていました。

今は無事定年まで勤め、悠々自適の老後を過ごされていますが、昨年7月、此春寮の同窓会で数年ぶりに再会し、「いちど熊本で飲もうや」ということになり、本年1月24日、帰郷した際に実現しました。

 

田尻久子・著『橙書店にて』(書影クリックでamazon.comへ)

待ち合わせ場所は、市内繁華街にある「橙(だいだい)書店」というカフェ&書店でした。「先輩はなんでここを指定したのか?」と思っていましたが、教え子の女性が経営されているということでした。

そして意気揚々と、この店を営む店主の田尻久子さんを紹介してくれました。驚いたことに田尻さんは東濱、有田両君をよくご存知で、仕事前によくコーヒーを飲みに来ていたということを聞き、これまたビックリです。先輩の石渕さんも大層驚いておられました。有田君が田尻さんを紹介してくれるのはわからんでもありません。京都の大学の寮の先輩が教え子として紹介してくれ、その田尻さんが東濱、有田両君をご存知とは、これも奇妙な縁です。人の繋がりが不思議なのか、熊本という地が狭いのか……。

橙書店は、熊本のリベラルな方々が集まる拠点のようになっているそうですが、同じ出版に関わっている私は、出版の領域が異なることもあり、失礼ながら橙書店は存じ上げませんでした。

作家の村上春樹さんが来られイベントを行ったことや、谷川俊太郎さんや黒田征太郎さんらも来店されたり、全国的にも知る人ぞ知る存在になっているようです。田尻さんご自身著書も3冊あり、そうした活動で「サントリー地域文化賞」も受賞されたこともあるとのことです。

……と、くだんの石渕さんから手紙が届きました。熊日新聞のコピーが同封され、田尻さんが「熊日出版文化賞」を受賞されたと、教え子が受賞したことを自慢げに書かれていました。

熊本日日新聞2月27日朝刊

ここまで来ると、自分で言うのも僭越ながら、なにか神がかったものを感じさせますが、人と人の出会いと繋がりというものは不思議なものです。

最近私と出会った2人の女性に幸運が続きました。かの新谷教授は「松岡さんは福の神ですよ」と仰っていましたが、あながち否定はしません(苦笑)。

東濱君が多くのミュージシャンの協力を得て開催した「琉球の風」

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

8月28日、大阪市北区のライブハウス「バナナホール」で、大阪では初となる新しいメンバー(6代目)による「ネーネーズ」のライブが行われた。8月10日に4人のメンバーが揃ったばかりの「お披露目ライブ」。東京(25日)、名古屋(27日)に次いで、新メンバーによるツアーは「バナナホール」で、満員の観客に迎えられた。私も鹿砦社代表・松岡と連れ立って駆けつけた。

「ネーネーズ」のみなさん(といっても新メンバーが3名なので、上原渚さんとだけだが)と鹿砦社は、昨年台風で中止になったが、鹿砦社代表・松岡の高校の同級生・東濱弘憲さん(故人)がライフワークとして始め、意気に感じた鹿砦社もこれに協賛し熊本で10回(実質9回)行われた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」でご縁があり、実は4月に上原さん以外のメンバーお二人が「卒業」された同じく「バナナホール」でのライブでもお目にかかっていた。

第5代のメンバーの「卒業ライブ」では、本番前に特別にインタビューをお許しいただいた。その時はみなさんインタビュー中から、涙が止まらず、お伝えするのが、やや心苦しかった。貴重な時間は記録としてではなく、記憶として留めさせていただくこととした(独り占めの贅沢をお許しいただきたい)。

ライブ前の6代目メンバーと鹿砦社代表・松岡

鹿砦社代表・松岡からのプレゼント

今回も4月同様、リハーサル終了後、ライブ開始までの間に、取材・インタビューの時間を頂いた(お忙しい中貴重な時間を割いていただいた、メンバーのみなさん、知名社長、ありがとうございました!)。リハーサルはほとんどメークなしで、楽曲の出だしのタイミングや、モニタースピーカーのバランスのチェックが行われるだけで、若いながら新しいメンバーの、落ち着きぶりが印象的だった。

リハーサルが終了しインタビューに入る前に、気遣いの男・松岡がこの日のために注文していたクリスタルの豪華な置時計(新生ネーネーズスタートを祝す刻印入り)と『島唄よ、風になれ!』(特別限定紀念版)を4人全員にプレゼントすると、硬かった表情が緩み、予想外のことにみなさん驚き喜んでくださった。

舞台上では落ち着いている新メンバーであるが、近くでお会いしてお話を伺うと、やはり10代、「新鮮さ」が際立つ。「取材慣れ」していない言葉と表情。こちらのピンボケな質問に、何とか答えようと一生懸命になって頂いている姿が、とても印象的だった。

仲里はるひさん(19才)、宜野湾市出身、沖縄県立芸大
与那覇琉音さん(16才)、名古屋市出身、高校生
小浜 凛さん(17才)、名護市出身、高校生

リハーサルで、新メンバーの中もっとも存在感を感じた仲里はるひさんは、幼少時より、お爺様から三線を習っていたそうだ。大学で舞台製作の勉強をしている。

仲里はるひさん

小濱凛さん(左)と与那覇琉音さん(右)は共に高校生

小浜凛さんも三線を早くに始め、「いずれこの道に進みたい」と希望していたそうだ。名護市出身ながら高校は、那覇の高校に進学し、「ネーネーズ」がいつもライブを行う、国際通りのライブハウス『島唄』でアルバイトをしていた。黙っているとおとなしそうに見える小浜凛さんだが、ライブが始まってからの落ち着きと存在感からは、ただならぬ才能を発揮していた。

与那覇琉音さんは、中学生まで名古屋に住んでいた。沖縄出身のご両親のもとに生まれた彼女は、やはり幼少時より三線の練習に励むだけでなく、「ネーネーズ」の名古屋でのライブにご両親に連れられ、何度も通ってファンになった。そして沖縄の伝統文化が学びたく、高校進学で沖縄にやってきた。

一方、新メンバーを迎える上原渚さんは、「10代のメンバーを迎えて、新鮮です。私自身は変わっていないけど、メンバーを育てることや、自分自身のこと(上原さんは妊娠7か月だ)。やることがいっぱいです」と余裕の表情だ。

威風堂々の上原渚さん

新しいメンバーに目標を質問した。「お客さんに元気や感動や『頑張ろう』と思っていただけるような、心を伝えたいです」(与那覇琉音さん)。「初代『ネーネーズ』を超えたい、という気持ちがあります」(小浜凛さん)。

10代の二人から、大きな答えが返ってきた。

大阪には「ネーネーズ」の実質的なファンクラブのような方々がいる。下手をすると、新メンバーが生まれる前からのコアなファンも少なくない。5代目のメンバーをして「大阪のお客さんは特別です。こっちより力が入っている」と言わしめた浪速のファンは、数だけでも4月よりかなり多く、満席だった。そして、「ネーネーズ」を長年聞きなれた方々やわたしたちを、6代目のメンバーは、予想以上の完成度と伸びしろへの期待で、「これがまだ正式結成ひと月未満の人たちのハーモニーか」と、事前のちょっとした不安を払しょくしてくれた。

「黄金(こがね)で心を捨てないで。黄金の花はいつか散る。ほんとうの花を咲かせてね」――名曲『黄金の花』で、この日のライブを締め括った。まさに「お披露目」の10代の3人は、一度も間違わず、ソロの曲の時も、堂々と歌ってくれた。

あと数か月したら、産休に入らなければいけない上原渚さんも、きっと安心して若い3人に不在の期間を任せられるだろう。それほどに泰然としたライブであった。

新生「ネーネーズ」、関西のファンの前に初登場!

◎ネーネーズ便り https://nenes.ti-da.net/

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

「風よ吹け吹け 雲よ飛べ 越すに越されぬ田原坂
仰げば光る天守閣 涙をためて ふりかえる ふりかえる ふるさとよ」(『火の国旅情』より)
https://www.youtube.com/watch?v=fP5zuOacZA0

 

熊本県人会総会にラストはみなで「火の国旅情」を歌う

この歌は、1970年代半ばのもので、一般的にはさほど流行らなかったが、関西の熊本県人会総会では最後に必ず出席者全員で歌うことになっているほど、熊本出身者にとっては大切な歌となっている。35番まである長い歌で、高橋ジョージらTHE虎舞竜の『ロード』のようだ。実際に歌われるのはそのうちの3番ほどだ。

ここに出てくる天守閣とは熊本城の天守閣のことだが、これは西南の役で焼き討ちされ消失、今のものは1960年に再建されたもので、いわばレプリカである。なので、消失を免れた江戸時代からある小さな宇土櫓や、「武者返し」といわれる石垣は文化財になっているが、天守閣はなってはいない。

しかし、熊本市民、県民にとっては象徴的な建物である。熊本市出身の私は少年期、城内には何度も何度も行き、天守閣にも幾度となく上った。18歳で故郷を離れてからは、帰郷する際には必ずといっていいほど熊本城に行き天守閣に上り市内を一望した。

3年前の4月14日と16日の2度にわたり震度7の熊本地震から3年を迎えた。天守閣や石垣が大きな被害を蒙ったことは大ショックだった。今は再建工事中で、城内には入れない。一日も早い復旧を願う。

再建工事中の熊本城

歳を取ると、なぜか望郷意識が高まるもので、若い頃は「こぎゃん(こんな)田舎は一日一刻も早く出たい」という気持ちが強かったが、今は故郷に帰り旧友と毎日楽しく飲み交わしたりして愉快に過ごしたいと思うようになった。実際には、会社の経営もあるので、それを放って故郷に引き揚げることはできないのだが……。

ということで、なにか用がないと戻れないが、このかんは1年に2度、つまり4月の高校の同窓会と9月の「琉球の風」に合わせて帰郷してきた。

その前後に、彼岸には帰郷できないので、お寺さんに行き挨拶と墓参りをすることにしていた。

◆まずは墓参り

熊本は城下町なので、下級侍の流れを汲む、わが松岡家の菩提寺も市内中心から少し離れた所にある。中学の同級生の有田正博君(後述)らが作った若者のファッション街「シャワー通り」と風俗街に隣接している。徳川時代からある、このお寺も、熊本地震では大きな被害を受け、本堂、山門、塀などが全壊した。境内にある墓も大半が倒壊していたが、その前年秋に従妹と費用を出し合って新しくした松岡家の墓は、石材店がしっかりした仕事をしてくれたお蔭で、びくともしなかった。

まずはお寺さんにご挨拶済ませ、お墓の掃除、ろうそくと線香を灯す。若い時には気づかなかったが、心が休まる。

 

9回目の「琉球の風~島から島へ~」(2017年9月24日熊本フードパル)

◆「琉球の風」のご苦労様会で一献傾ける

高校の同級生で沖縄与那国島にルーツを持つ東濱弘憲君(故人)が、まさにライフワークとして始めた島唄野外コンサート「琉球の風」に、私たち鹿砦社も途中から協賛企業として参画した。これには、東濱君の想いに応え、沖縄島唄の大御所・知名定男先生を総合プロデューサーとして、著名なミュージシャンが数多く参加してくれた。

宮沢和史(BOOM)さんはまだ得体のしれないイベントに第1回からレギュラーとしてほぼ全回参加していただき、宇崎竜童、BEGIN、ネーネーズ、かりゆし58、夏川りみ、南こうせつ……錚々たる方々が薄謝で集ってくださった。

東京、大阪などの大都会ならともかく、熊本のような地方都市では採算分岐点の2000人余りの観客を集めることは難しい。本来なら昨年が10回目だったが、残念ながら台風で中止となった。なんとしても10回はやるというのが東濱君との約束だったのだが自然の猛威には勝てない。

 

第10回「琉球の風」中止のため急遽ミニライブで歌うネーネーズ。もうすぐ2人が卒業

この季節(9月の最終日曜日)、いつも台風に悩まされ、しかし、9回までは運良く台風も避けてくれた。

これだけでも奇跡的なことだが、最後は、事前に沖縄から来ていたミュージシャン(知名先生、BEGINの島袋優さん、ネーネーズら)と夜が更けるまでミニライブと余興を行った。これはこれで楽しかったですがね。

その「ご苦労様会」として、今回の帰郷で一席設けさせていただいた。最大のスポンサーで女子サッカーを不遇の時代から支えてきたことで有名な黒糖ドーナツ棒を熊本を代表する人気商品に育て上げた「フジバンビ」の吉田高成会長も、仕事先の八代市からわざわざ駆けつけてくださった。

 

『ONE PIECE』の著者・尾田栄一郎氏が「薔薇亭」に贈ってくれた筆画

委員長の山田高広さん、超ベストセラー『ONE PIECE』の著者・尾田栄一郎氏が学生時代アルバイトしていて、海上レストラン「バラティエ」のモデルになったことでファンの間では有名な高級ステーキハウス「薔薇亭」店主で、私と高校3年間共に学んだ松藤春夫君、若者ファションの街「シャワー通り」を作り若者ブランド「Paul Smith」を日本に最初に持ってきたことで有名な有田正博君らも来てくれた。Paul Smithさんがまだ有名になる前にニューヨークの展示会で知り合い意気投合、その場で30万円を投じ彼の商品を買い付けたことが最初とされる。

有田君は、中学3年の時に家庭の事情で八代市から転校してきたが、中学を卒業して以来ご無沙汰していたところ、「琉球の風」の第5回までの記録集『島唄よ、風になれ!』を製作中に、東濱君が作ったメンズショップで働いていたことが判り、元地元新聞記者の取り計らいで再会、実に40数年振りだった。爾来、帰郷するごとに一献傾ける機会を持つようにしている。

彼はPaul Smithの販売権を得たこと、そして何よりも彼自身の才覚で大ブレイクしたそうで、一時はビルを3つ持ち釣り三昧の日々を送ったというが、さすがに妻子に三行半を突き付けられ離婚、この際、ビル3つとPaul Smithの販売権を全て妻子に渡し、自分はゼロから再出発したという。何度も結婚―離婚を繰り返し、離婚するごとに全財産を妻に渡したという、往年の名時代劇俳優・嵐寛寿郎の現代版だ。

失礼な言い方だが、中学の時のイメージからすると、こんな剛毅な男とは思えない。今でも彼の熱烈なファンが多いらしく、自前のブランドを作り、妻子の店の斜向かいで店を構えている。

有田正博君の記事(2016年6月8日付熊本日日新聞)

「琉球の風」ご苦労様会。写真右から「フジバンビ」の吉田高成会長、筆者、ステーキハウス「薔薇亭」店主の松藤春夫君、「Paul Smith」を日本に最初に持ってきたことで有名な有田正博君

◆高校の同窓会で旧友と再会した!

そうして、次は高校の同窓会だ。今年は趣向を変えて、同級生が灯篭祭りで有名な山鹿市の温泉街で土産物屋をやっているということで、温泉旅館でやることになった。

われわれの母校は当時、熊本商科大学付属高校といって新設校だった。通称「商付(しょうふ)」で男子校だった。われわれが第9期、未だ歴史も浅い開校から一桁の時代だ。その後、熊本商科大学が学部を増やし熊本学園大学に名称を変更し熊本学園大学付属高校と名を変えている。通称「学付(がくふ)」、今は男女共学になっている。同窓会の名は「紫紺会」と言う。

当時は、公立校に落ちた者の受け皿として設立され、新設校ということでレベルも低かったが、今では東大・京大にも合格するようにまでレベルアップしているようだ。

一昨年、関西の同窓会を久しぶりにやったところ、読売新聞大阪本社社長として赴任してきたばかりの溝口烈君(先輩‐後輩の関係から「君」付けで呼ぶ、「さん」や「氏」では変ですよね?)も出席してくれた。前任は、東京本社専務である。読売の社長というから、どんなコワモテかと想像していたところ、予想に反し物腰の柔らかい男だった。私も外部からはコワモテと思われているようだが、実際は軟派な男で、これと同じだな(苦笑)。

読売の評価はともかく、われわれの母校も、読売の専務、大阪本社社長を生み出すほどにまでなったか、と正直感慨深いものがあった。

ところで、今回の同窓会で最も嬉しかったのはHM君と実に40数年ぶりに再会できたことだ。彼は台湾・中国大陸に渡り、一時は死亡説まで流れたので、私が生きている間には会えないだろうと思っていた。本人に言わせると台湾・大陸を駆け巡り約30年頑張ったという。1年半ほど前に熊本に帰ったそうだ。寡黙でニヒルなイメージがあったが、けっこう能弁な男に変わっていた。仕事がそう変えたのか、久しぶりに日本に帰ってきて話したいことが一杯あるのか――。

高校を卒業し、大学に向かうために、当時は寝台列車に乗って行った。HM君は他数人と見送りに熊本駅に来てくれた。その後、彼は東京のH大学に入り、もう言ってもいいだろうが、私同様、当時の学生の多くがそうだったように学生運動に走った。彼の性格と地方出身者ということから、ラジカルに闘ったと想像する。逮捕の噂も耳にした。現在のH大の総長も一時共に活動していたとのことだ。しばらくして首都圏では人気があったブント叛旗派という党派に入り、1971年秋、当時沖縄返還協定批准阻止闘争で私も東京で活動していたところ、H大学の学園祭でバッタリ遭遇した。「なんばしよっとね?」と、叛旗派が根城にしていた教室だったかボックスだったかに連れて行かれ、幹部と思しき人物にオルグられた。彼はこのことを忘れていた。

その後、卒業してから私は大阪市内に出て働き始めた。75~76年頃だったか、叛旗派が解体し、展望を失ったHM君は熊本に帰るということで、大阪に途中下車し、曽根崎のスナックで飲んだ。当時出始めたばかりのカラオケ(カセットの時代だったですね)で彼は『五番街のマリー』を歌った。そのことを言うと「よう覚えとるね」と言った。このことも忘れていた。そして一晩私のアパートに泊まり熊本に帰って行った――それ以来の再会だ。

有田君との再会といいHM君との再会といい、なにか不思議なものを感じる。私たちも先が見えている世代、これからどれだけ旧友らと再会できるか、若い時には同窓会というと小バカにしてきたが、機会があれば、できるだけ足を運びたい。8月には4年ぶりに中学の同窓会があるという。もちろん万難を排し出席する。航空券もホテルも予約済みだ。

熊本商科大学付属高校(現・熊本学園大学付属高校)「紫紺会」9期同窓会

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

 

実行委員長の山田高広さん

「残念だったですね」、「せっかくやったのにね。台風じゃ仕方ないわ」異口同音に台風24号の直撃を受けた九州・熊本で9月30日に開催が予定されていた「琉球の風 島から島へ FINAL」の中止を惜しむ声が聞こえた。

実行委員会ではギリギリのタイミングまで開催の可否の判断を待ち、いったんは「開催」をアナウンスするも、諸般の事情から直後に「中止」を決断した。実行委員長の山田高広さんは「きつかったですよ、本当に」と「中止」決断に至るご苦労が並大抵ではなかったことを語っておられた。

「琉球の風」には沖縄在住のミュージシャンと、本州はじめ熊本から見れば、北の方向からやってくるミュージシャンたちも参加する。沖縄から参加するミュージシャンたちはすでに9月27日から熊本入りしており、30日を迎えたが、他の地域から参加予定のミュージシャンたちには28日に「中止」決定が伝えられた。

本来であれば「打ち上げ」の場となるはずの熊本市内某所で、9月30日夕刻に関係者だけの「ミニ琉球の風」が開かれた。例年は本番のステージで活躍したミュージシャンのほとんどが参加するので、スタッフの方々の中には打ち上げに参加できない方もいるが、今年は多くの関係者スタッフの皆さんが会場を埋めた。

知名定男さんを囲んで

打ち上げというには本格的な「ミニ琉球の風」。本番で司会の予定だったはミーチュウさんと岩清水愛さんが揃い、「それでは第10回琉球の風をただいまから行います!」と元気の良い開会宣言からはじまった。この日はネーネーズ、新良幸人、島袋優、下地イサム、知名定男さんらがソロやセッションを繰り広げた。

中止になろうが、なるまいが、今年是非この人にお話を聞きたい、と事前から私的には期待していた人がいる。BEGINの島袋優さんだ。島袋さんはBEGINとしての活躍はもちろん、他のミュージシャンに楽曲を提供したり、例年「琉球の風」では大物であるにもかかわらず、気楽に誰とでもセッションに応じていた。ベテランなのにステージ上でのMCはどこかシャイで、偉そうにするところが全くない(実は酔っているためだったのではないかとも思われるが……)。

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BIGINの島袋優さん

島袋優さんにお話を伺った。

── 「琉球の風」に島袋さんは何回出演していただいたのでしょうか?

島袋 何回でしょかね。細かいことは覚えていないんですけど、BEGINで2回でて、それ以外に数回出ているのでたぶん5回くらいじゃないでしょうか。

── 27日から来られて、きょうはあいにくステージは中止でしたけれども、他のミュージシャンの方と数日間過ごされて、どんなことを感じていらっしゃいますか。

島袋 きょうはできなかったけど、俺が大尊敬する定男さん。しかもちょっとキュートな知名定男に「優、お前俺がこういうことを企画しているからやれ」っていわれて、それから始まったんです。中止になっても定男さんと亡き東濱さんと山田さん(実行委員長)の気持ちが絶対に残っているんですよ。こうやって飲んでで僕らいいんだろうか、とも思うんですけど、じゃないとダメだなと思ったんですよ。初日から定男さんと飲み、2日目はキヨサク(MONGOL800)と飲み、みたいな。イベントが無くなったのは凄く残念です。とくにお客さんに対して申し訳ない。でもうまく言えないんですけど「なにかもう一回お前たち考えろ」って言ってくれてるのかもな、という気はなんとなくしています。俺たちは知名定男さんっていう大先輩に甘えていて。それを「もう少し楽させてあげろや」って言われているのかなとか、いろんなことを考えますね。でもね、正直なことを言ったら多くを語れません。俺は付いていくだけです。熊本の皆さんの沖縄の音楽に対する熱意とかは、年々感じていました。だから仲良くなっていくしこうやって毎年熊本で「琉球の風」という名前でやってくれているのは凄いと思います。

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知名定男さん

お名前が何度も登場した知名定男さんは、昨年大腸がんの手術を受けてからのご参加で、体調もいまひとつ優れないご様子だったが、今年は常に泡盛の入ったグラスを片手に「いやーもう元気になったよ。去年が嘘みたい」とふっくらしたお腹周りが体調の良さを伺わせていた。

ミュージシャンではなくても沖縄には酒に強い人が多い。そして私の知る限り、ミュージシャンの飲み方は豪快である。だから沖縄のミュージシャンの宴はなかなか終わりを迎えはしない。そのためであろうか、あるいは偶然か。30日晴天であれば行われる予定であった「琉球の風」にはたしかに「FINAL」の文字がったが、宴(?)の中では「きょうは残念だった」と皆が口にしたけども「『琉球の風』が終わってしまって残念だ」、「いいイベントだったのにね」と過去形で振り返る言葉を耳にした記憶がない。わたしの勘違いかもしれないが「これで最後」という雰囲気がどこにも感じられなかった。

 

ネーネーズの皆さん

もちろん「FINAL」だったのだから、これで今までの「琉球の風」は終焉を迎える。しかしまた新しい風が琉球から吹いてこないとは限らない。ミュージシャンたちはお世辞ではなく、このイベントを楽しんでいた。島袋優さんのお話にも「これでおしまい」のニュアンスはなかった。

10年も非営利目的でボランタリーに運営にかかわって来られたスタッフの方々には、ただただ頭が下がる思いで、「お疲れ様でした」と申し上げるほかない。けれども「琉球の風」で初めて訪れて出会った熊本の人々の個性豊かさと力強さからは、また何か新しいものが産まれてくるのではないか、との予感を禁じ得ない。

雨天中止で残念ではあったが、それゆえに発見もあった第10回「琉球の風」であった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

「琉球の風2018 FINAL」幻の記念グッズセットをデジ鹿読者にプレゼントします!

上記写真のエコバッグ(版画=名嘉睦稔、題字=龍一郎、鹿砦社提供)とシート、パンフレットは
毎回「琉球の風」の会場で先着1000名様にプレゼントしている記念グッズセットです。
今回は台風24号接近で無念の開催中止となったため、幻の記念グッズとなりました。
そこでデジタル鹿砦社通信の読者の方々にプレゼントさせていただきます。
ご希望の方は「琉球の風グッズ希望」と明記の上、郵便番号・住所・氏名を記載し、
下記メールアドレスにお申し込みください。
matsuoka@rokusaisha.com
10月10日までにお申し込みの方には全員、送料無料にて発送いたします!
(鹿砦社代表・松岡利康)

第1回~5回までの記録『島唄よ、風になれ!~「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定記念版(DVD映像付き)。こちらもぜひご購読お願いいたします。

『くまもと元気ばい新聞』(地元の熊本日日新聞発行)

熊本での島唄野外ライブ「琉球の風」は今年で10回を迎え、しかしこれがラストになります(泣)。

今年も錚々たるアーティストの方々が参集されます。第1回からほぼ常連の宮沢和史さん、島袋優(BEGIN)さん、ロックの大御所・宇崎竜童さん(『沖縄ベイブルース』最高!)、『涙そうそう』の夏川りみさん、私のイチオシ『黄金(こがね)の花』のネーネーズ、きよさくさん(モンパチ)、登場すれば一気に盛り上がるかりゆし58、そして大御所で総合プロデューサーの知名定男さん……わくわくしまっせ! それも午後1時から午後7時過ぎまでの長丁場、値打ちありまっせ!

『琉球の風2018』9月30日(日)フードパル熊本

一部の方はご存知ですが、この「琉球の風」は私の高校の同級生の東濱弘憲君(故人)が、みずからの出自を自覚し開始したものです。

当初は赤字続きで、宇崎竜童さんBEGINらが出演した第3回になってようやく黒字、宇崎さんにささやかな出演料を振り込もうと現実行委員長の山田高広さんが「銀行口座を教えてください」と電話したところ、内情を知る宇崎さんは「教えません」と受け取りを固辞されたといいます。まさにロッカーだね! 宇崎さんは今年も駆けつけてくださいます。

10回まではやりたいという東濱君の遺志で、今年がその10回目を迎えます。残念ながら、諸事情で、今回でラストとなります。若い世代が東濱君、山田さんらの志を継いで持続してくれることを願っています。

ありし日の東濱君(右)と2011年の「琉球の風」会場で

「素朴で純情な人たちよ きれいな目をした人たちよ 黄金(こがね)でその目を汚さないで 黄金の花はいつか散る」(『黄金の花』より)

この歌は、故筑紫哲也氏の『NEWS23』のバックグラウンドミュージックとして使われた(筑紫氏らしい)そうですが、作詞は、森進一が歌いレコード大賞を受賞した『襟裳岬』や、吉田拓郎のヒット曲『旅の宿』などを手掛けた岡本おさみ氏(故人)です。作曲は知名定男さん。かりゆし58の真悟君も、ステージの傍らで聴きながら涙ぐんでいたのを私は見ていますし記録映像にも残っていました。かりゆしの『アンマー』も泣けますけどね。

「琉球の風2018」にぜひ参集し、いろいろあった今年の夏の終わりの一日を楽しく過ごそうではありませんか!

◎『琉球の風2018』HP http://edgeearth.net/ryu9_kaze/
9月30日(日)12:00 開場 / 13:00 開演 フードパル熊本

第1回~5回までの記録『島唄よ、風になれ!~「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定記念版(DVD映像付き)。こちらのほうもぜひご購読お願いいたします。会場でも販売します。記念として、書家・龍一郎が即興で揮毫し贈呈いたします。

1年に1日だけ熊本市の一角が沖縄(琉球)になる日がある。ことしで10回目を迎える「琉球の風~島から島へ~」が開催される9月30日だ。そして熊本だけでなく各地からのファンを獲得した「琉球の風」は今年で最終回を迎える。

『琉球の風2018』9月30日(日)フードパル熊本

「10回に何とか到達しようと頑張ってきました。一応これが区切りです。是非皆さんお越しになってください」

実行委員会委員長の山田高広さんの言葉だ。山田さんをはじめ「琉球の風」運営スタッフは全員がボランティアだ。そして、沖縄(琉球)のトップミュージシャンだけでなく、宇崎竜童、宮沢和史といった超豪華メンバーが集う、稀有のイベントも今年が最後だ。

◆「こんなにピースフルな場所はそうないです」(宮沢和史さん)

宮沢和史さん(「琉球の風」2017より)

2008年、故東濱弘憲さんが自分のルーツへの想いを形にするイベントとして第1回の「琉球の風」が開催された。東濱さんは鹿砦社代表の松岡と同級生だったが、第1回が開催されたときに、まだ鹿砦社は「琉球の風」にはかかわっていなかった。その後東濱さんが体調を崩し、「琉球の風」」運営が難しくなるなかで鹿砦社もスポンサーとしてお手伝いさせていただくようになる。

東濱さんが亡くなったあと、「琉球の風」を開催するか、どのように運営するかについては度々関係者のあいだで議論があったという。それはそうだろう。年々知名度は上がり、コンスタントに一流ミュージシャンが参加するとはいえ、運営の母体を担うのは、ほかに正業を持った方ばかりなのだから。

宇崎竜童さん(「琉球の風」2017より)

「琉球の風」は観客にとって、そして参加するミュージシャンにとっては「こんなにピースフルな場所はそうないです」(宮沢和史さん)の言葉に集約されるように、琉球音楽祭典として、楽しみに満ちた場所であるが、その準備に奔走する方々の献身的なご尽力たるや、筆舌に尽くしがたい。

この10年の間には熊本大地震もあり、開催地が被災地になったこともあった。それでも「こんな時だからこそ」と実行委員の皆さんは、みずからが被災しながら、仕事をもちながら「琉球の風」を吹かせ続けた。並大抵の意志ではない。

そして、実は観客だけではなく、参加ミュージシャンがとてつもなく楽しんでいるのが「琉球の風」の特徴だろう。誰もが同じ大部屋の楽屋の中では、オープニング前から笑い声が絶えない。泡盛やビールを注入しながら登場を待つミュージシャンの姿も。

総合プロデューサーの知名定男さん(右)と鹿砦社松岡社長。東濱弘憲さんの遺影とともに(「琉球の風」2017より)

楽屋外、ステージ横テントがプロデューサー知名定男さんの定位置だ。知名さんは必ず東濱さんの遺影を机の上において、テントの下に腰掛けステージに上がるミュージシャンや、演奏を終えたミュージシャンに声をかける。

毎年幕が下りたあとの楽屋では興奮気味に「来年も必ず来ます!」、「初参加でしたが最高でした。沖縄でもこんなに楽しいイベントはないですよ」、「知名さん来年も呼んでください!」と声が飛ぶ。

場所を移しての打ち上げでは深夜に及ぶまでセッションや、これでもか、これでもかと、プロによる出しもの(遊び)が続く。そしてその後もさらなる場所へと流れてゆくミュージシャンたち。本当に心の底から楽しんでいる姿が見ている者にも心地よい。「こんな場所」はたしかに熊本にしかないだろう。

MONGOL800キヨサクさん(「琉球の風」2017より)

東濱さんの名前は「ひがしはま」と日本語では発音されるが、琉球の人たちは「あがりはま」と呼ぶ。ウチナーグチ(琉球語)では「東」は、太陽が上がる方向だから「あがり」で、「西」は太陽が沈む(入る)方向だから「いり」と発語される。「西表島」がどうして「いりおもてじま」なのかと疑問だったが、その謎も「琉球の風」に通う中で解けた。

◆芸術の世界で琉球はもう傍流ではない

BEGIN島袋優さん(「琉球の風」2017より)

琉球音楽は30年ほど前まで、まだ「民族音楽」扱いされる側面があった、とベテランのミュージシャンは口を揃える。その後「島唄」(THE BOOM)、「涙そうそう」(森山良子、楽曲提供はBEGIN)、「島人ぬ宝」(BEGIN)をはじめ、果ては安室奈美恵まで。琉球発の音楽やアーティストと、日本の間には境界線がなくなった(琉球音楽は日本発で世界に広がり受け入れらてさえいる)。芸術の世界で琉球はもう傍流ではない。そして「琉球の風」は東濱さんの想いをおそらくは超えて、日本で最大かつ楽しいイベントとして熊本に根付いた。

かりゆし58前川真悟さん(「琉球の風」2017より)

でも、「風」はどこからか吹いてきて、流れ去ってゆくものだ。無責任な観客のひとりとしては、このまま毎年「琉球の風」を続けて欲しいと正直念願するが、運営を担う方々のご苦労を知るにつけ、今年がファイナルである現実は受け入れざるを得ない。みなさん充分すぎるほど、たくさんの人たちを楽しませてくださった。熊本のひとの心意気には心底頭が下がる。

9・30フードパル熊本は、今年がファイナルであることを知っている観客が押しかけるだろう。第一回から参加しているミュージシャンも少なくない。彼らの「琉球の風」へ寄せる想いは並ではない。きっと9・30熊本の空は晴れ上がり、会場には歓喜の笑顔があふれるだろう。チケット販売や詳細は公式サイトでご確認頂きたい。

◎『琉球の風2018』HP http://edgeearth.net/ryu9_kaze/
9月30日(日)12:00 開場 / 13:00 開演 フードパル熊本

熊本に「琉球の風」が最後に吹く、今年。きっと何かが起こるだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

2月4日投開票が行われた沖縄県名護市長選挙で、現職の稲嶺進候補を新人の渡具知武豊氏が破り、自公政権(プラス維新)が後押しする市長が誕生した。稲嶺陣営は「オール沖縄」ら翁長知事らが支援し三選にのぞんだが、3400票ほどの差で落選した。私は公明党が渡具知氏支援を明確にして以来、稲嶺氏の再選が厳しいのではないか、と予想していたが、その通りの選挙結果となった。

 

2018年2月5日付沖縄タイムス社説

今回の選挙結果と、それに通じる構造は沖縄タイムス2月5日社説が述べているように、〈菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている〉と私も感じる。

前回の市長選と大きな違いは、公明党が自主投票から、今回は明確な国政与党候補の支持に回ったことだ。全国的には公明党の組織票は国政選挙ごとに得票を減らしているが、沖縄ではむしろ支持者を増している、という話を現地では耳にする。とりわけ、沖縄以外からの沖縄への移住者が生活になじめず、困惑の色をみせていると、すかさずオルグ(勧誘)にやってきて勢力を広げているらしい。この話はご自身が東京から沖縄に転居され、創価学会に入信したご本人の体験談として聞いたので間違いないだろう。

◆選挙結果と市民の態度

即座には思い出せないほど、米軍のヘリコプターやその部品落下が相次ぎ、米兵や軍属の犯罪が引き起こす犯罪の報道は、関西に住んでいても新聞紙上でしばしば目にする。

短絡的に名護市長選挙の結果を、「沖縄県民が辺野古基地建設を含め、米軍の駐留に肯定的に意見が変わった」と決めつけるのは大いなる間違いだ。たとえば名護市長選を前に、琉球新報社などが実施した電話世論調査から市民の態度は明白だ。

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画について、53.0%が「反対」、13.0%が「どちらかといえば反対」を選択し、66%を占めた。一方で「賛成」は10.5%、「どちらかといえば賛成」が17.8%と3割に満たない。

何度も、何度も選挙で「反対」の意思表示をしても、県議会で決議をしても、知事が東京に出向き、米国まで出向いても、いっこうに変化のない状況に、地元の人びとは疲れ切っているのが正直なところだろう。

2018年2月5日付琉球新報社説

そして、基地反対運動に熱心ではない、庶民の多くは基地問題について多くを語りたがらない。「もう疲れた。勘弁してくれ」と顔に書いてある。人口が6万人ほどの名護市がもっぱら、辺野古基地建設で注目を浴びるが、人々には日々の生活があり、沖縄の住民が、名護市の住民が他の地域の住民に比べて、政治にばかり頭を悩ませ、翻弄させられていなければならない状態自体が、惨いというべきだ。辺野古基地建設計画がなければ、名護市はこれほど注目されることもなかったろうし、市民の分断や苦悩も生じはしなかった。辺野古基地建設の罪はこのことに尽きるともいえる。

◆太田元知事時代への国権ネガティブキャンペーン

前述の通り、太田元知事は知事就任前に研究者だったこともあり、理詰めでなおかつ、行動的に米軍基地撤去に取り組んでいたが、その姿勢を自民党や政権中枢は「基地問題ばかりで、経済政策に無能」と決めつけキャンペーンをはった。

事実は逆だ。20世紀後半から沖縄は観光がけん引役となり毎年目覚ましく経済成長している。ここ4年間は毎年過去最高の観光客数を記録し、2016年度の入域観光客数は876万9,200人で、対前年度比で83万2,900 人、率にして10.5%の増加となり、4年連続で国内客・外国客ともに過去最高を更新した。外国客においては初の200万人台を記録した(沖縄県の集計)

こと「経済」にかんしては、沖縄は成長の真っただ中で、観光を中心に、まだ発展の余地がある(それが良いことがどうかは簡単には判断できないけれども)。

2016年度 沖縄県入域観光客統計概況(文化観光スポーツ部観光政策課2017年4月発表)

米軍基地の問題は大前提として揺るぎないが、沖縄を訪れるたびに、どんどん日本の巨大資本が侵入していく様が目について仕方ない。また自分も観光客だから、こんなことを言えた義理ではないのだけれども、沖縄の観光客急増は確実に環境への悪影響をもたらしている。沖縄島(本島)を南北に走る国道58号線は、那覇市内ではしょっちゅう渋滞している。車のナンバーを見ると「わ」や「ね」(レンタカー)がやたら多く、交通事故を毎日のように見かける。海水浴場では日焼け止めを塗りたくった観光客が綺麗な海を汚す。

沖縄の人びとが潤うのは好ましいけれども、やみくもな経済成長で人の心を失い、人の住めないような街を溢れさせてしまった日本の過ちをおかさないで欲しい。言わずもがな「命どぅ宝」精神が沖縄にはあるが、それが「経済成長神話」に揺すられてはいないだろうか。基地存続派はかつて「経済基地依存論」を、それが破綻すると「経済テコ入れ支援策」を持って東京からやってくる。でも沖縄では、経済成長と反比例して平均年齢が下がっているじゃないか。

◆本当の花を咲かせる ── ネーネーズの「黄金の花」

毎年「琉球の風」に登場する「ネーネーズ」に「黄金(こがね)の花」という曲がある。作詞岡本おさみ、作曲知名定男の名曲だ。


◎[参考動画]黄金の花/NENES with DIG(2015年6月27日ライブハウス島唄にて)

黄金の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷 故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの

素朴で純情な人達よ
きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで
黄金の花はいつか散る

楽しく仕事をしてますか
寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか
悪い人には気をつけて

素朴で純情な人達よ
ことばの違う人たちよ
黄金で心を汚さないで
黄金の花はいつか散る

あなたの生まれたその国に
どんな花が咲きますか
神が与えた宝物
それはお金じゃないはずよ

素朴で純情な人達よ
本当の花を咲かせてね
黄金で心を捨てないで
黄金の花はいつか散る

黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね

命や心を大切にすれば、優先させるべき順列は、おのずから明らかではないか。戦争を前提とした米軍基地の存在など論外だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2018年もタブーなし!7日発売『紙の爆弾』3月号

『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点

宇崎竜童さん

比嘉真優子さん

 

昨日の本コラムでご紹介した順番とは異なるが、宇崎竜童さんと宮沢和史さんがステージで暴れる前に、ネーネーズ、キヨサク(MONGOL800)、比嘉真優子、HYはすでに演奏を終えていた。

まだ終演の夜7時までかなりの時間がある。この時刻でこれだけのミュージシャンの演奏を聴く現場の聴衆たちは、どうなっていただろうか。

おそらく、主催者の精密な「読み」に基づく会場全体を包む雰囲気の行方がぴったりと(あるいは狙い以上に)ヒットしたのだろう。例年会場を埋める聴衆は常連の演奏をどちらかと言えば穏やかに聞く。

内心ワクワクしながらも、会場全体が立ち上がって、飛んだり、跳ねたりとなることはあまりない。アップテンポの曲でも、渋い島唄でもどちらかといえば、踊りだす人もいるけれども、多くの方々は座って手拍子で聞いている。

◆キヨサク、HYらがステージに登場して

ところが、今年は16時前までにキヨサクと、HYがステージに登場した。キヨサクはウクレレ1本で「小さな恋のうた」を奏で、島袋優(BEGIN)とウクレレで共演した。南国調の涼しい風と聴衆が「ウズウズ」するのが手に取るようにわかる空気の下地を作った。

キヨサクさん(MONGOL800)

島袋優さん(BEGIN)

HYは登場するなり爆発的な勢いで演奏をはじめ、彼らを待つステージ近くのファンは大喜びで踊りだす。そこへ宇崎竜童と宮沢和史が続くとどうなるだろうか。これぞまさに「チャンプルー」の恐るべき導火線効果である。

HYとネーネーズのチャンプルー!

何かが起これば、即爆発する、いや爆発したい2000を超えるひとびとの熱がステージ付近にいるとはっきり体感できる。「チャンプルー」爆薬装填作戦は予想を超える。

どんなことが起きるのか。HYが演奏中の聴衆はこんな感じだが、

HYの新里英之さん&仲宗根泉さん

2時間後にはこうなる。

新里英之さんとかりゆし58のチャンプルー!

◆トリにまわったかりゆし58の全開

前川真悟さん(かりゆし58)

新屋行裕さん(かりゆし58)

宮平直樹さん(かりゆし58)

トリにまわったかりゆし58はそれまで登場したミュージシャンが織りなしてきた「限界値を超える」聴衆の期待を見事に何倍にもして、聴衆に投げ返す。ボーカル前川真悟は全開だ。

「ハイサーイ!沖縄の人による、沖縄の人の音楽が、熊本の人の、熊本の人による、熊本の人たちが喜ぶイベントにこうやって、「琉球の風」にきました、かりゆし58です。よろしくおねがいします!」

「沖縄からは、海を隔てて何千キロも離れてるのに、自分たちの生まれた町の旗を掲げて、こんなにも喜んでくださる熊本の人たちのパーティーです。誰一人awayにすることなく、兄弟たちのホームパーティーにしたいのですが、ライブをはじめてもよろしいでしょうか?」

この入りは完璧だ。問いかけに聴衆も大声で応える。もう前列だけでなく会場に座っていられる人はない。特段の事情のある方を覗いて聴衆オールスタンディング状態だ。

HYの新里英之を呼び入れて演じる「アンマー」でステージは聴衆を、聴衆はステージを互いに制圧(こういった物々しい言葉はふさわしくない「互いに固く肩を組んだ」と言い換えよう)した。

▼前川真悟の語りは「天才」だ!

「近所で生まれ育って、4人でやってるバンドで最初にギターとか楽器を弾き始めたのが、中学生のころだから、もう20年前になります。20年まがりなりにも音楽にぶら下がって生きてきました。そういう話からすると、いまステージの上には20年の4人分。80年分の時間が乗っかってるわけです。そこにさらに時間を積み重ねたいと思います。HYからヒデ! そしてきょう「琉球の風」に響いた音楽のほとんどを支えてくれたヨシロウ!ヒデもヨシロウも年齢が近いから、いまステージ上の時間が120年になりました。「琉球の風」を立ち上げて、親みたいに可愛がって育てた知名定男さんは50年歌って続けてます。きょうのステージ上に立った人たちの、音楽に注いだ時間を足したら、何百年、下手したら千年に手が伸びるくらいの時間がのっかってるわけです。それが1曲5分足らずの中に注ぎ込まれて、目に見えないまま、風と時間と、あなたの心にながれていく。それが音楽です。何百年分の積み重ねを1つの曲にまとめて、そしてミュージシャンに与えられたのは、ステージ上の20分が僕らの寿命です。今日あなた方からもらった、音楽の寿命をまっとうしたいと思います」

ラップ調の語りはトレーニングすればある程度うまくはなるが、基本才能だ。前川真悟の語りはあるの種「天才」を感じざるを得ない。

◆エンディングで「島唄」解禁!

そして、いよいよエンディングだ。ステージと観客席の間には照明や音響、そして安全確保のために柵が設けられている。通常、聴衆は座って舞台を眺めるので、その前を横切るときは、邪魔にならないよう、腰をかがめて小走りで駆け抜けるが、聴衆が総立ちになったから遠慮なくステージの前に立てるようになる。本人の出番ではあえて演奏しなかった「島唄」を宮沢和史のボーカルを皮切りに次々と、ミュージシャンが歌い継いでいく。

◆来年はいよいよ10回目。また熊本で会いましょう!

「今年は最高だね」、「今までで一番素晴らしかったよ」、「会う人会う人みんな、最高だって」。終演後、出演者と関係者のみで行われた懇親会の席であちこちから同じような声が聞かれた。全員がボランティアで構成される実行委員会。委員長の山田高広さんは前日から会場に泊まり込み、想像を超える激務の疲れを微塵も見せず笑顔が絶えない。

懇親会ではミュージシャンが、これでもかこれでもかとセッションや出し物を披露する。みんな知名さんの健康を祈っている。宴は続く。最後まで見届けようと時計を見たらもう日付が変わっていた。出演者のかなりは、さらに3次会に繰り出すという。「プロ」は違う。

この日を良い日和にしてくれた、天気の神様、音楽の神様、ボランティアという名で無償の笑顔を絶やさなかった人間という名の神様、そして聴衆というなによりの神様に感謝をして、熊本を後にした。

「琉球の風」来年はいよいよ第10回を迎える。また熊本で会いましょう!

▼田所敏夫(たどころ としお)[文・写真]
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

「琉球の風2017」記念エコバッグをデジ鹿読者10名様にプレゼント!
写真のエコバッグは毎回「琉球の風」の会場で先着1000名様にプレゼントしているものです(版画=名嘉睦稔、題字=龍一郎、鹿砦社提供)。少し余分がありますので、このデジタル鹿砦社通信をご覧になっている方10名様にプレゼントします。ご希望の方は私宛メールアドレス(matsuoka@rokusaisha.com)にお申し込みください。(鹿砦社代表・松岡利康)

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』通常版(「琉球の風」実行委員会=編)

◆「声が出るか、それだけが心配なんだけどね」(宇崎竜童)

オープニングでステージに勢ぞろいしたメンバーは笑顔で一度楽屋に引き上げた。あれ? 宇崎竜童さんの姿は見落としたのかな? あの印象深い姿、そばにいればきづかないはずはないのだが。しばらくしてもう一度楽屋を覗くと、宇崎さんはどなたかと打ち合わせをしている。やっぱり自分の見落としだったな。と思い直し、打ち合わせが終わった宇崎さんにご挨拶にうかがった。

「いやーきのうから体調が悪くてね。オープニングは勘弁してもらったんですよ。いまも薬飲んだんだけど……」と、相当に体調が悪いようだ。

「ステージだけはね。なんとかやりますよ。声が出るか、それだけが心配なんだけどね」

弱音を吐かない宇崎さんがここまで言うのだからかなりしんどいに違いない。

◆「きょう島唄は歌いません。腹に力が入らないと歌えないからね」(知名定男)

体調の話では、知名定男さんも3月に大腸がんの手術を受けてから、初めてのステージだった。この日の知名さんは一味も二味も違っていた。優しさと喜びの中に鬼気迫る歌声。知名さんお一人での演奏では「好きにならずにはいられない」も飛び出すし、宮沢和史さんのステージではセッションでデビュー曲を歌う。HY、ネーネーズその他のミュージシャンのバックで何度三線を弾いていたことだろうか。

オープニング前にお話を伺った時には、「きょう島唄は歌いません。島唄は腹に力が入らないと歌えないからね。手術のあと抗がん剤治療がようやく終わったんだけど、まだ本調子ではないですね。味覚が鈍っていて味がわからない。タバコだけはうまいんだよね」と話していた知名さん。「ご病気のことは記事にしてもいいですか」と伺うと「まあ、いいんじゃないですか」とお許しいただいていたが、なんのことはない。宮沢和史さんとのセッションのなかで自分から「今年は大腸がんになっちゃって」と暴露してしまっていた(それを聞いて心配するでもなく笑いで返した聴衆も見事だった)。

◆「2曲目、サングラスでいくから」(宇崎竜童)

宇崎さんは出番が近づくと、舞台のそでで発声練習を始めた。やはり声に不安があるのだろう。「1曲終わったらすぐ引き上げて、2曲目、サングラスでいくから」とスタッフに声をかけ、ステージに歩を進めていった。

宇崎さんは知名さんと異なり、一切体調のことは語らなかった。そして、そでから数メートルしか離れていないが観衆の声援に迎えられたステージの中央は「別世界」なのだろう。

宇崎さんは暴れまくった。例年歌う「沖縄ベイブルース」を封印して、あえてアップテンポの攻めの姿勢だ。高い音域の声も通っている。聴衆の中で宇崎さんの体調不良に気が付いた人はいなかっただろう。

◆「今年は元気になりましたよ。去年とは全然違います」(宮沢和史)

大御所2人と正反対に、昨年と別人のように元気になった人がいた。宮沢和史さんだ。毎年さして長い会話を交わすわけではないが、同世代として「50代の体の不調」について言葉を交わすのが、私的にはひそかな楽しみなのだが、良い意味で今年は完全に裏切られた。

顔を覚えていて下さった宮沢さんと握手をすると「今年は元気になりましたよ。去年とは全然違います」と好調ぶりを強調。こちらは順調に右肩下がりに年齢を感じる毎日、同年齢相哀れみながらも、必死で頑張る姿をお互いに確認しようと思っていたら、なんのことはない。念入りな準備運動を仕上げて上ったステージでは走り回る、飛ぶ、跳ねる。これじゃあ20代のThe Boomの時より元気じゃないか!

宮沢さんのこんなにはじけた姿は初めて見た。でも彼は「人物」だ。オープニングでは第一列に姿を見せればよさそうなものだが、さりげなく第一列から少し下がり、沖縄のミュージシャンを際立たせていた。事前リハーサルで決めていたのではなく、きっと宮沢さんの配慮だろう。楽曲のすばらしさもさることながら、人間として誠実で、立派な人だと会うたびに感銘を受ける。

「歌うのが結構ストレスになっていましたね」と去年語っていた宮沢さん。この日は幸せを全身で表現していた。そして彼は「琉球の風」をわがものとして愛していることが言葉の端々に伺えた。声の艶がさらに円熟味を増したように感じる。

艶や後ろ姿や高音の伸びが全盛期(35年ほど前)の沢田研二にどこか似ているような気がしたので、演奏が終わった宮沢さんに「もしお嫌いだったら失礼ですけど、沢田研二さんにちょっと雰囲気が似てきましたね」と無謀にも語り掛けたら、肩を引き寄せられ、「それって、いい意味ですよね?」といたずらっぽい目つきで聞かれた。「もちろん。いまの沢田研二さんじゃないですよ。全盛期のね」と返したら。背中をポンポンと叩かれた。宮沢和史、稀にみる好漢である。

▼田所敏夫(たどころ としお)[文・写真]
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

 

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