キックボクシング 2024年を振り返る 堀田春樹

2024年もキックボクシング界の話題は豊富でした。選手の活躍も各々ありましたが、各団体単位でも時代の流れと共に諸々の動きがありました。世間一般には注目されない小さな出来事でも、振り返っておきたい2024年の話題を纏めました。

◆全日本キックボクシング協会の初陣興行

2023年春に新日本キックボクシング協会から離脱した稲城ジム栗芝貴代表が同年8月1日、全日本キックボクシング協会を設立。原点回帰を掲げ、今年(2024年)3月16日に初陣興行を行ないました。12月28日までに計4回の興行では大半が新人戦で、正に一から始まった新団体でした。

1月20日の設立記者会見で栗芝貴代表は、「三年で全日本キックボクシング協会の名前を全国に轟かせる。三年でスター選手作る。後楽園ホールを満員にして、この三年で作り上げていくのが僕の責任と思っています。」と語りました。

デビュー戦からメインイベンターを目指す自覚を持たせ、試合をアグレッシブな展開に導いて新人にも大きい成長も見られました。

9月6日には初のタイトルマッチ、全日本スーパーフェザー級王座決定戦を行ない、瀬川琉(稲城)が仁琉丸(ウルブズスクワッド)を倒して最初のチャンピオン誕生となりました。二人はすでに新日本キックボクシング協会での戦歴ある選手でしたが、今後は各階級で全日本キックボクシング協会からデビューした選手らが王座を争っていくことでしょう。

2025年は設立から3年目。初陣興行から2年目。まだ全国どころか格闘技界にも存在感は薄い現在。2025年はどこまで浮上することが出来るか、まだまだ険しい道程が続きます。

令和の全日本キックボクシング協会初陣興行出場選手と栗芝貴代表(2024.1.20)

◆新日本キックボクシング協会の変化と江幡塁引退

新日本キックボクシング協会の一時代を担った江幡ツインズの塁が、前年2月に患った脳腫瘍の影響からドクターストップによる引退に踏み切りました。

選手として引退も、「新日本キックボクシング協会から世界を獲れるような強さ、そして自覚を持った選手を輩出していけるように力を尽くしていきます!」と昨年10月のリング上で語ったとおり、後進の指導には今後も続けて行く模様。

その一年前の時点では、「選手を諦めていない」という語りから、復帰して現役続行かと期待しましたが今後、願わくばプロモーターとして興行を担っていけば、また新日本キックボクシング協会の再浮上もあるかもしれない僅かな可能性も期待したいものです。

その新日本キックボクシング協会は選手層の薄さが表れる中、外国人選手によるメインイベンター起用や、Mixed Martial Arts(MMA)の試合もテスト的に開催されました。

今後、どのように進展していくかは未定ながら動向が注目されます。

江幡塁、清々しい引退式にて、愛娘と一緒に(2024.10.6)

◆武田幸三の一年

2023年10月にニュージャパンキックボクシング連盟に加盟し、主力プロモーターとして団体を率いる存在となった武田幸三氏。「NJKFをトップ団体に引き上げる」と宣言し、以前から掲げていた“CHALLENGER”というコンセプトの下、ここまで計6度の興行を前日計量と記者会見から盛り上げ、それまでのNJKF色をすっかり変えてしまい、以前のNJKFに無いインパクトある興行が続きました。

「本気でトップ狙って本気でトップの団体にしようと思っています。」と語った武田幸三氏。一年を経過した今後、更に世間にどれだけ選手の存在感、NJKFの存在感が訴えらるかが期待されるところでしょう。

武田幸三、NJKFでの所信表明演説(2023.11.12)

◆長江国政さん永眠

昭和の全日本キックボクシング協会隆盛期で、一時代を築いた長江国政さんが6月11日に肺癌の為、永眠されました。すでに述べた部分ではありますが、2018年頃から神経性の難病との戦いが続いていましたが、難病の悪化とは直接の関係は無い模様で、煙草を吸う姿を何度も見たことありますが、こんな影響もあったのかもしれません。

キックボクシングの主力関係者の訃報が聞かれること多くなった近年、それまではキックボクシング生誕から関わって来た選手、興行関係者が若かったことに尽きるでしょう。競技そのものが新興格闘技だった為、二十代で活躍した名選手らも今や七十代以降に突入している時代です。でもその七十代でジム復興や立ち上げも計画している若々しいレジェンドも居て、今後もどう展開するか注目したいところです。

長江国政メモリー、会場での展示にて(2024.7.28)

◆2025年に何を期待するか

各団体の興行の少なさ。ランキングの層の薄さが見られる各団体。過去には統一に向けた動きや、団体統一は目指さなくても、一定の団体が集まる統一チャンピオン制定がありました。

現在のNKBも初期は4団体が集まったものでした。WBCムエタイ日本統一ランキングも立ち上げから活発だった時期もありました。いずれも現在も継続されていますが、キックボクシング界を先頭切って率いるほどの注目度はありません。

近年の選手が目指すものはONE Championnship、KNOCK OUT、RIZINといったリングで勝負することへ方向転換されている現在です。本来の活性化した日本タイトルには至らないのか。そこに既存の団体の纏まりに希望を持ちたいところで、武田幸三氏や全日本キックボクシング協会の飛躍に期待が掛かります。

私が関わる独断による団体編の纏まりの無い語りとなり、他にも日本キックボクシング連盟やジャパンキックボクシング協会の活動もありますが、次回は選手編で2024年に勝ち負け関係無く、各団体の目立った選手の動向を拾ってみようと思います。

令和の全日本キックボクシング協会最初のチャンピオンは瀬川琉(2024.9.6)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

中学の同級生・有田正博君のこと  鹿砦社代表 松岡利康

中学校の同級生、有田正博君が11月いっぱいで店を閉め引退するという地元紙・熊本日日新聞の記事を、同紙の元記者のH君が送ってくれた。実際には諸事情で延期、12月15日に閉店した。

店を閉めることは、今年初め同窓会で帰郷した際に本人から聞いていた。その時は10月いっぱいで、ということだった。前出熊本日日新聞で1カ月インタビュー記事を連載するなど地元熊本ではちょっとした有名人だ。

熊本日日新聞2024年11月20日

有田君とは、中学3年の時に転校してきて一緒だった。卒業してからずっと別の人生を送り音信が途絶えていたが、偶然に、こちらは高校の同級生で、ライフワークとして島唄野外ライブ「琉球の風」を始めた東濱弘憲君(故人)の追悼本『島唄よ、風になれ! ── 東濱弘憲と「琉球の風」』(鹿砦社刊)の校正の過程で「有田正博」という名が出て来てピンときて前出H君(当時熊本日日新聞記者)に調べてもらったところ中学の同級生の有田君その人だった。

有田君は一時東濱君のブティックで働いていて、これが閉店するや、その後独立し海外に行ったりしてファッションの勉強をして名を挙げた。一番有名なのは、まだ無名だったPaul Smith(ポール・スミス)と出会い、日本に持ってきたことだろう。Paul Smithは今や世界的ブランドとなった。

熊本日日新聞2016年6月8日

H君の取り計らいで、実に40数年ぶりに再会した。……

その後、有田君の店が私の一族の墓が近くに在るということもあり帰郷するごとに立ち寄って歓談したり食事と共にしてきた。

有田君(左)らと旧交をあたためる

それにしても、中学の同級生と高校の同級生との関係と私との関係など因縁を感じる。

Paul Smithさんは義理堅い男のようで、このライセンスを日本に上陸するや有田君に渡した。このライセンスもあり有田君は一時ビル3つ所有し釣り三昧の日々を送ったという。そんなこともあり妻子から三行半を突きつけられ離婚、ビル3つとPaul Smithのライセンスを潔く渡し、ゼロから出発したという。一時は東京の青山にも店を出したこともあった。

中学校の時にはそんな大それた男とは思わなかったが、引退かあ、本来なら私もその予定だったが、コロナのお蔭でもうひと踏ん張りしないといけなくなった。
時は過ぎ行く ── 人は老いていく。

閉店後電話した。「お疲れ様! よか人生だったね」と言い、「祝 人生勝利!」の文字の刻印を入れたクリスタル置き時計を贈った。

(松岡利康)

DUELから駆け上がるチャンピオンへの道! 堀田春樹

計量は前日の昼12時よりVALLELYジムにて、カード変更はありましたが、出場者は体調万全で全員が計量をクリアーしました。

メインイベントと位置付けられた赤平大治vs大岩竜世戦は大岩が辛うじて勝利。
悠vs明夢も期待される中の勝利を導けない厚い壁。

女子としてのメイン位置、齋藤千種が祥子JSKを破り王座獲得。

◎DUEL.32 / 12月8日(日)GENスポーツパレス18:00~20:50
主催:VALLELYジム / 認定:NJKF

戦績はプログラムを参照し、この日の結果を加えています。

◆第11試合 56.5kg契約3回戦

NJKFフェザー級7位.赤平大治(VERTEX/ 56.3kg)8戦5勝(3KO)2敗1分
        VS
大岩竜世(KANALOA/ 56.4kg)6戦4勝2敗
勝者:大岩竜世 / 判定1-2
主審:マット(テーチャカリン・チューワタナ)
副審:松田29-30. 中山30-29. 多賀谷29-30

初回、両者のローキックとパンチ中心の牽制で様子見。赤平大治がパンチをややヒットすると、大岩竜世も返していく。第2ラウンドも両者、パンチと蹴りで激しくなるが怯まぬ前進で、どちらも主導権支配には至らない展開。第3ラウンドには首相撲も加わった攻防。多彩にアグレッシブな展開は続くが差は付き難く、ジャッジ三者揃ったラウンドは無い僅差だった。

リング上のコメントでは「僅差だったんですけど、勝つことが出来て良かったです。来年もっと勝ち進んで行って王者に近付けるよう頑張る年にします。」とマイクで語った。

リングを下りてから「本当僅差で勝ったとは思わんかったですけど、結果勝ちで次に繋がって良かったです。赤平選手はパンチで来ると思って警戒していたんですけど、やっぱり貰っちゃいました。蹴りで返した感じで、結果は勝てたんですけど反省しています。」と語り、リング上で語ったとおり、来年も勝ち進んで王座に迫ることを宣言した。

攻勢を導きたい両者、大岩竜世がローキックで攻める

パンチの見映え良かったのは赤平大治だが攻勢を維持出来ず

◆第10試合 フライ級3回戦

NJKFフライ級7位.悠(=吉仲悠/VALLELY/ 50.8kg)11戦4勝(2KO)5敗2分
        VS
NJKFフライ級10位.明夢(新興ムエタイ/ 50.45kg)13戦4勝(1KO)6敗3分
引分け 三者三様
主審:椎名利一
副審:松田29-29. マット30-29. 多賀谷29-30

パンチと蹴り、やや前進は悠。明夢も蹴り返し、一進一退の差が付かない攻防。第2ラウンドもパンチ、ローキックとアグレッシブな展開。明夢が悠をコーナーに追い詰め、ヒザ蹴りが効果的で、第3ラウンドも首相撲は明夢が攻勢も悠のパンチで前進も効果的。初回はジャッジ三者とも互角。第2ラウンドは2-1に分かれる採点、第3ラウンドには悠に付けるジャッジは一人。採点では難しい見極めだった様子。

明夢陣営坂上顕二会長は「作戦どおりだったんですけど、勝ったかなという印象もドローも仕方ないところですね。」という声。

悠陣営米田貴志会長は「前回勝ってる相手だったんですけど、悠の悪いところが出て、ちょっと躊躇したり、ブチ切れて行く気迫が足りなかったかな。相手を飲み込むような力強さがあれば勝てたでしょう。」と精神的な部分を語られました。

明夢のミドルキックが悠にヒットも怯まぬ攻防戦が続いた

明夢のミドルキックにパンチを合わせる悠

◆第9試合 女子ミネルヴァ・ピン級(100LBS)王座決定戦3回戦 (撫子王座返上による)

1位.斎藤千種(白山道場/1985.10.25新潟県出身/ 45.4→45.35kg)10戦6勝4敗
        VS
2位.祥子JSK(治政館/1983.12.3埼玉県出身/ 44.9 kg)28戦8勝19敗1分
勝者:斎藤千種(新チャンピオン) / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:松田30-28. マット30-29. 椎名30-28

蹴りとパンチの様子見からサウスポーの斎藤千種の左ストレートがヒット。斎藤千種が自分の距離を掴んだ流れで、祥子は蹴りたくても蹴れない、蹴ってもクリーンヒットし難い距離感があった。斎藤はこの自分の距離感で左ストレートを多発。しっかりダメージを与えるには至らずも、攻勢を維持して判定勝利。王座獲得となった。

敗れた祥子は「ちょっと距離感が遠かったですね。もっとガンガン来られると思っていたので、相手がパンチで来るところに蹴りを合わせる練習をして来たので、こっちが出るのを待ってる感じで警戒してたので、ちょっと駆引きし過ぎちゃったかなと思います」

距離の掴み方は斎藤千種の方が上手かった流れについて、「その辺が敗因という中でも手数で行かなきゃいけないのに、それが出来なかったという反省はありますね」と語られました。

全試合後のインタビューで、齋藤千種選手は見付けられずでした。

祥子が蹴れば齋藤千種のパンチが襲って来る

祥子の蹴りに合わせて齋藤千種の距離感掴んだ左ストレートヒット

ピン級王座獲得した齋藤千種、感動の言葉とファンへ感謝を述べる

◆第8試合 フライ級3回戦

NJKFフライ級8位.大久保貴宏(京都野口/ 50.8kg)6戦4勝2敗
        VS
渡部蕾(クロスポイント大泉/ 50.5kg)2戦2勝
勝者:渡部蕾 / 判定0-3
主審:多賀谷敏朗
副審:中山28-30. マット28-29. 椎名28-30

◆第7試合 スーパーバンタム級3回戦

古山和樹(エス/ 54.7kg)4戦2勝2敗
     VS
ミツル(AX/ 54.8kg)1戦1敗
勝者:古山和樹 / 判定2-0
主審:松田利彦
副審:中山29-28. 多賀谷29-29. 椎名29-28

◆第6試合 フェザー級3回戦

伊達(GRABS/ 56.35kg)2戦2勝(1KO)
      VS
山本龍平(拳粋会宮越道場/ 56.75kg)2戦2敗
勝者:伊達(赤コーナー) / TKO 3ラウンド 2分56秒
主審:マット(テーチャカリン・チューワタナ)

アグレッシブな攻防も伊達が圧し気味に主導権を支配。第3ラウンドには更にパンチとローキック中心に攻勢を強めてカウンターの左フックでノックダウンを奪うとレフェリーがノーカウントで試合をヅトップ。伊達がTKO勝利。

伊達がパンチでKOのタイミングを掴んで行く(KOシーンはレフェリーが被り)

◆第5試合 フライ級3回戦

植田琥斗(E.S.G/ 49.75kg)2戦1勝1敗
      VS
煌(KANALOA/ 50.65kg)3戦1勝(1KO)2敗
勝者:煌(青コーナー) / TKO 2ラウンド 2分16秒
主審:椎名利一

初回に煌の右ローキックで植田琥斗が軽いノックダウン。まだ動ける左脚ではあったが、すでに弱点を晒したか、徐々に攻められ第2ラウンドにも煌の右ローキックでノックダウンを喫した植田琥斗。明らかにダメージある左脚を狙われ、ローキックでノックダウンするとレフェリーがノーカウントで試合をストップした。

煌が初回からローキックで植田琥斗にダメージを与えて行きTKOに繋げた

◆第4試合 女子ミネルヴァ 45.0kg契約3回戦(2分制)

金子杏奈(ウエストスポーツ/ 44.5kg/代打) 友菜(Team ImmortaL)怪我により欠場
VS
港町なぎさ(ワイルドシーサー前橋元総社/ 43.15kg)1戦1勝
勝者:港町なぎさ / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:マット27-30. 椎名28-29. 松田29-30

◆第3試合 女子ミネルヴァ47.5kg契約3回戦(2分制)

KANA(Bombo Freely/ 46.65kg)2戦2勝
        VS
DJナックルハンマーyokko(team Almerrick/ 47.3kg)5戦5敗
勝者:KANA / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:マット30-26. 椎名30-26. 松田30-26

◆第2試合 女子ミネルヴァ56.0kg契約3回戦(2分制)

MIO LaReyna(TEAM REY DE REYES/ 55.7kg)5戦5敗
        VS
妃芽奈(ワイルドシーサー高崎/ 54.9kg)1戦1勝
勝者:妃芽奈 / 判定0-3
主審:多賀谷敏朗
副審:マット27-30. 椎名26-30. 中山27-30

◆第1試合 49.0kg契約3回戦

赤土剛琉(D-BLAZE/ 48.75kg)2戦2敗
       VS
庄司翔依斗(拳之会/ 47.0kg)1戦1勝
勝者:庄司翔依斗 / 判定0-3
主審:松田利彦
副審:多賀谷28-29. 椎名28-29. 中山28-29

赤土剛琉はややスロースターターか、攻めの勢いは庄司翔依斗。初回は庄司がリード。第2ラウンドは赤土が蹴りと組み合ってもやや優勢気味でリード。第3ラウンドには庄司もパンチと蹴りで巻き返して僅差で判定勝利。各ラウンド、ジャッジ三者とも揃っていた。

赤土剛琉と庄司翔依斗の攻防、圧して出た庄司がわずかに優った

《取材戦記》

元・全日本フライ級、バンタム級チャンピオン、赤土公彦さんの御子息、次男の剛琉くんがプロ2戦目を行ないました。デビュー戦は9月に別興行で行われている模様です。この日は手数で圧され判定負けでしたが、父親そっくりの風貌と攻めのスタイルも似たところがありました。タイで試合も重ねて経験を積んでおり、10月5日にはタイ国ラジャダムナンスタジアムで1ラウンドKO勝利し、現地戦績は3戦2勝(1KO)1敗。

この日相手の庄司翔依斗はアマチュア経験を経てのデビュー戦のようでしたが、剛琉にとってタイでの経験は自信を持ち過ぎると、帰国後の試合でのリズムが噛み合わなくなるパターンも多く、過去の名チャンピオンも陥るスランプだったりします。今後、壁を打ち破る浮上が期待されます。

赤土氏の御子息、長男は公亮。2023年3月26日プロデビューで国内3戦2勝1分。タイ現地試合は2戦1勝1敗。兄弟ともデビュー当時の目付き鋭い公彦父さんソックリである。過去、親子二代チャンピオンは何組か誕生しているが、向山鉄也前キングジム会長に続いて赤土公彦氏も狙っている快挙は実現に至るか。

庄司翔依斗はNJKFスーパーバンタム級6位、庄司理玖斗の弟で、こちらも兄弟でチャンピオンを目指す関西期待の星。キックボクシングに限らず、兄弟選手が多い時代です。

第1試合の話だけになってしまいましたが、メインイベント、セミファイナルの僅差の結果ながら、赤平大治、大岩竜世、悠、明夢らも2025年にどこまで駆け上がるか期待されます。

NJKFの2025年関東エリア本興行は現在、

2月2日(日)後楽園ホール、4月27日(日)後楽園ホール、5月11日(日)PITジム興行、

6月8日(日)後楽園ホール、9月28日(日)後楽園ホール、11月30日(日)後楽園ホールが予定されています。他、2月9日(日)DUEL興行、3月16日(日)女子ミネルヴァ興行

関西で3月16日(日)誠至会興行、4月20日(日)拳之会興行、7月20日(日)誠至会興行の興行予定が入っています。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

《急報》三島由紀夫×板坂剛 11月30日(土)新宿ガルロチにて、鬼才・板坂剛の脚本演出による、三島由紀夫生誕100年記念創作フラメンコ『班女』を初公演!

◆世間の三島離れに抗して作り上げた創作フラメンコ『班女』 板坂 剛

世間の三島離れに抗して、三島文学を創作フラメンコとして舞台化してみたいと思い立ったのは1年も前のことではなかったが、もし、そういう機会があれば是非挑戦してみたいと思う作品は既に20年前からあった。

近代能楽集の『班女(はんじょ)』である。三島由紀夫の戯曲と言えば『黒蜥蜴』『サド公爵夫人』が有名だが、どちらも判りやす過ぎてつまらない。しかし、『班女』には観る者の主観によりどこに美を感じるかが違ってしまう面白さがあって、混乱した印象を受けてしまうが。そこがこの作品にどのようにでも脚色できる誘いの隙を与えているのを感じる。

偶然にも1998年にスペイン人のフラメンコ舞踊家トーマス・デ・マドリーという人が滋賀県草津に在住する阿部啓子というやはりフラメンコ舞踊家のリサイタルで、彼の脚本演出による『班女』を上演している。

トーマスがスペイン人でありながら三島文学の愛好家であったことには驚いたが、彼自身の創作フラメンコ作品に『班女』を選んだことにはもっと驚かされた。

実際に上演された『班女』を観て、当然自分とは随分解釈が違うと感じたものの、同じフラメンコの舞踏家としていつかこの作品を舞台に乗せてみようと思ってはいた。

そして2024年11月30日。かつてフラメンコの聖地と呼ばれた新宿のガルロチ(元エル・フラメンコ)で、ようやく私の『班女』を上演することが出来る。この作品に目をつけるのは三島文学愛好家の中でも「研究家」と呼ばれるべきレベルであるとの自負をこめて……

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

11月30日(土)新宿ガルロチにて 三島由紀夫生誕100年×鈴木邦男追悼 トークシンポジウムとフラメンコの夕べ

三島由紀夫生誕100年 鈴木邦男追悼
トークシンポジウムとフラメンコの夕べ

三島由紀夫が古典芸能作品を脚色した「近代能楽集」の中でも
異色の傑作として知られる『班女』(はんじょ)──。
フラメンコ舞踊家で三島由紀夫研究家でもある鬼才・板坂剛による脚本演出で、
スキャンダラスで斬新な新たな創作フラメンコ『班女』としてよみがえる。
板坂自ら「総決算」と呼ぶ本公演をお見逃しなく!

第1部 三島由紀夫生誕100年記念 創作フラメンコ『班女』
脚本・演出 板坂剛

第2部 鈴木邦男追悼 トークシンポジウム 
富岡幸一郎(文芸評論家)×木村三浩(一水会代表)×板坂剛

日時:11月30日(土)開演 19:00~(開場18:00~)

会場:地中海料理&ワイン Showレストラン「ガルロチ」
東京都新宿区新宿3-15-17 伊勢丹会館6F(JR新宿駅 徒歩5分)

入場料(いずれも1プレート・1ドリンク付)
一般席:6.500円
S席:8,000円(舞台最前列席)

お問合せ/お申し込み f0228kame@gmail.com
ショートメールでの受付 090-8876-4018

「香害」問題に新しい視点、横浜副流煙裁判をドラマ化した映画『窓』、ロサンゼルス日本映画祭2024〈JFFLA〉で上映 黒薮哲哉

横浜副流煙裁判をドラマ化した映画「窓」が、9月14日にロサンゼルス日本映画祭(Japan Film Festival Los Angeles 2024〈JFFLA〉)で上映される。

この映画は、煙草の副流煙が引き金となった隣人トラブルに材を取った作品で、ロンドンやパリの国際映画祭の最優秀長編映画賞など、国内外で数々の賞を受賞してきた。また、主演の西村まさ彦氏が最優秀主演男優賞を受けるなど高い評価を得てきた。

ロサンゼルスでの上映が決まったことで、「香害」が新しい視点から、禁煙ファシズムの発祥地である米国でもクローズアップされることになった。
 
既報してきたように、横浜副流煙裁判は、たばこの副流煙が原因で健康を害したとして、隣人が隣人に対して約4500万円の損害賠償を求めた事件である。舞台は、横浜市のマンモス団地。都会の砂漠。日常生活の中に潜んでいる事件だが、原告の訴えに根拠はなく、被告として法廷に立たされたミュージシャンの勝訴で終わった。


◎[参考動画]映画 [窓] MADO Trailer

映画『窓』は、「香害」について再考する上で重要な作品である。マスコミ報道が原因で、「香害」=化学物質過敏症の単眼的な概念が社会の隅々まで根を張っている。その結果、「香害」が持つもうひとつの顔は、ほとんど認識されていない。  もうひとつの顔とは、「香害」を訴えている人々の中に、かなりの割合で精神疾患の人々が混じっている実態である。医療に携わる人々に間でも、精神疾患の可能性を考慮せずに、患者の訴えを鵜のみにして、安易に「化学物質過敏症」の病名を付した診断書を交付している。それが予期せぬ隣人トラブルの引き金になっている。

『窓』は、初めてこの点に踏み込んだ作品である。化学物質過敏症をテーマとした映画としては、『いのちの林檎』が有名だが、『いのちの林檎』は化学物質過敏症で苦しんでいる人を単眼的に描いているだけで、精神疾患の問題には踏み込んでいない。と、いうよりも同作品が制作された時代には、化学物質過敏症と精神疾患を区別する科学の視点がまだ定着していなかったのである。

横浜副流煙裁判の中で、煙草の被害を訴えた原告側に、精神疾患の可能性が浮上したことで、「香害」の捉え方が多面性を帯びてくる。麻王監督は、この点に着目して事件をドラマ化したのである。複雑きわまりないテーマを、名演技と美しい映像で構成した。

※               ※               ※

 映画の上映に際して、麻王監督をはじめ、プロジューサーの藤村政樹氏、主演の西村まさ彦氏、それに実際に横浜副流煙事件の当事者となった藤井将登・敦子夫妻の5名が渡米する。

『窓』のエンディングで使われている曲は、ミュージシャンで事件の被告である藤井将登氏の作曲である。歌っているのは、小川美潮。何十年も前に誕生した曲だが、偶然に映画『窓』の世界と一致している。複雑な社会機構の中で、窓を閉じて、街を眺めるしか生きるすべがない弱者の悲しみが伝わってくる。


◎[参考動画]小川美潮「窓 ~ mado 2022 ~」―映画『[窓] MADO』 SIDE[B]

本稿は『メディア黒書』(2024年08月24日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

今こそ、鹿砦社の雑誌!!

◎『紙の爆弾』 amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0D8PP3BNK/
◎『季節』 amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0DB1GZ5CM/

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2024年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉 鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

鎮魂(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。


◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない
だけど 野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
戦さで死んだ 悲しい父さん
私は あなたの娘です
20年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていてください 遙かな父さん
いわし雲飛ぶ 空の下
戦さ知らずに 20歳になって
嫁いで母に 母になるの
野に咲く花の 名前は知らない
だけど 野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】


◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年夏・秋合併号《創刊10周年記念特集》どうすれば日本は原発を止められるのか

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2024年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える 鹿砦社代表 松岡利康

八月の空は悲しい(龍一郎 揮毫)

今年も8月6日がやって来ました。── ここ甲子園では平和の象徴ともいえる夏の高校野球が明日7日から始まります。

今年は、ウクライナでの戦火に加えパレスチナでもイスラエルによる無慈悲な攻撃により戦火は収まるどころか拡大しています。日本にあっても、もはや?対岸の火事”ではありません。解決の糸口はあるのでしょうか、絶望的になります。ほとんどの日本人にとっては今に至るも‟対岸の火事”のように感じられます。果たしてこれでいいのでしょうか?

かつて1960年代後半から70年代にかけて(75年のベトナム戦争終結まで)全世界にベトナム反戦運動が拡がりました。これが和平への後押しになったことはいうまでもありません。今はどうか?

8月1日付けの本通信でも記しましたが、戦後79年、日本が曲りなりとも平和を維持できたのは、先の戦争の反省から、歴史の曲がり角にあった60年、70年の〈二つの安保闘争〉を中心として、これ以後も地道な抵抗運動があったからだと考えています。8月15日付けの本通信にて採り上げますが、私の従兄は異国で終戦を迎え必死で故郷熊本に戻り、その後大学生時代に60年安保闘争に参加しています。三里塚闘争はいまだに続いています。

異論もあろうかと思いますが、半世紀余り、時にみずから血を流し闘い、半世紀余り自分なりに社会の動向、反戦運動や社会運動の推移を見てきた上での感慨です。決して机上での平和談議ではありません。日本は、曲がりなりにも民主主義社会です(この規定にも異論はあるでしょうが、少なくとも独裁国家や専制国家ではありません)。まだ声は挙げれます。

大学に入った1970年、帰省の途中で広島に立ち寄りました。これまで長崎には何度か行っていましたが広島を訪れたのは初めてでした。8月6日に毎年広島で行われる抗議活動に参加し、その日は広島大学の寮に泊めていただきました。翌日は京都からやって来たべ平連の人たちと岩国の基地反対運動にも参加し右翼からの攻撃に広島大学の学生(中核派やね)らと一緒に対峙したことが、ついきのうのことのように蘇ります。もう54年かあ。この半世紀余りの間、日本の、そして世界の、言葉の真の意味での平和は維持されたのでしょうか ── もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

翌年1971年の8・6は歴代首相で初めて当時の佐藤栄作首相が広島の慰霊祭に出席するということで荒れました。いまだに記憶に残るのは、ある女子大生が体当たりで佐藤首相に抗議したことです。これは報道写真でも残っています。この年の夏は三里塚闘争で仲間が逮捕されたり9月に予定されている第二次強制収容阻止闘争や沖縄返還協定批准阻止闘争の準備などで広島には行けませんでしたが、報道で観て非常に感銘を受けました。

1971年8月6日の広島平和公園に来た佐藤栄作首相(当時)に抗議の体当たりをする女子学生

今回は、2年前にウクライナ危機に触発されて、若き日に接した反戦歌について書き記した文章に加筆し、この2年間、状況がまったく変わらず、それどころかますます泥沼化し悲劇が拡大している中で、あらためて加筆、再掲載してみました。ぜひお読みいただければ幸いです。

◆矢沢永吉 『FLASH IN JAPAN』

私はこの曲を聴いて大変ショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『FLASH IN JAPAN』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

ちなみに私たちの世代にはカリスマ的存在である秋田明大(日大全共闘代表)さんも被爆二世で、毎年8月6日に開かれる抗議集会には必ず実行委員に名を務められたり参加されています。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛。藤井敦子補訳)。私も時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
 治せるのか
 俺たちは皆あの光を見たのか
 雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
 稜線を照らし 視界を消し去った
 戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
 人々の群れが塔をなぎ倒し
 敵がどこに隠れているのか知っている
 兄妹たちは炎の中をはいつくばったが
 出口に届くことはなかった
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 彼らに何と言えばよいのか
 子供たちよ聞いてくれ
 俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
 君たちは再出発してくれ
 朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
 いくつか変わったこともある
 いつも忘れないでいてほしい
 戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか

◆忌野清志郎『花はどこへ行った』/ PP&M『Where Have All the Flowers Gone?』

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ戦争が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう2年半も続き、解決の糸口は見つからず、さらに長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争のように──。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

PP&M(Peter, Paul & Mary)

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから意訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発され加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

つい先日(7月8日)、京都のキエフ(登紀子さんの実家経営)で、私がいた大学の学生運動、および寮の大先輩・藤本敏夫さんの23回忌が開かれました。私とは世代が全く異なり直接の面識はなかったので迷ったのですが、先輩に勧められ、資料コピー係(この世代の常として紙の資料が多いんです)を務め出席させていただきました。

その際、登紀子さんに「今はなぜ『牢獄の炎』を歌わないのですか?」と尋ねましたところ、「あなた、なぜこの曲を知っているの?」と驚かれました。「大学に入ってすぐに先輩に勧められ買いました。私に言わせれば『百万本のバラ』もいいが、『牢獄の炎』や、さらには『美しき五月のパリ』も復活させていただきたく熱望します。

ちなみに藤本敏夫さんは、ここ甲子園の出身です(甲子園三番町。鹿砦社は八番町)。

さて、『花はどこへ行った』は、日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツ』や、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナやパレスチナに見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ戦争のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナやパレスチナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われなくなることを心より祈ります。


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった 
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

松本人志はやっぱり宇宙人だったのか?〈後編〉 板坂 剛(作家・舞踊家)

◆神聖な偶像がなぜ必要なのか?

かって親しくしていた宗教関係者の女性がしきりに「神は実在する」と口走っていた。「実在」という言葉が引っかかって、どうしてもこの女性との関係を持続出来なかった。

「宇宙人は実在する」とか「UFOは実在する」と言われればまだ納得しようという気分になれたかもしれないのだが……

しかし、「神は実在する」と言われても、目撃情報が全くないのだから判断することは出来ない。彼女はこうも言った。

「立派な建築物は優秀な設計者がいるから創られる。人間の体も同様で優れた創造者の設計でこれほど見事に完成されたのよ。その創造者が神なのですよ」

こういう理屈はジャーナリズムの世界では、裏づけが取れていない空論として排除される。が、宗教の世界、とりわけキリスト教の信者の間では、空論も正論として認められているようである。前述した私の交際相手の女性も生粋のクリスチャンだった。

ただ最近のキリスト教系の新団体では「神が実在するというのは間違いで、神は人それぞれの心の中にある神聖な領域への憧れの結晶です」と言い切る指導者もいらっしゃるようだ。これまでその種の映画や小説の中で用いられた「神の声を聞いた」等という表現も、「それは自分の内なる神聖に美化された自分の声を聞いた」ということらしい。

そういう言い方をしてくれれば、何となく理解出来る。また、宗教に救いを求める人々の気持ちも判らないではないと思える。そして、その気持ちは、UFO=宇宙人が実在すると信じたい人々のこだわりに通じるものがあるような気がするのである。

UFOが神と異なるのは、目撃情報がやたらに多いという点だが、人間が生存する次元を超えた「物体」に対して精神的に執着したいという人心を惑わすところは同じ。「執着したい」はやがて「帰依したい」となる。

UFOは当初、宇宙からの脅威という不安材料を与えて大衆を結束させる目的で設定されたが、やがてマニアックな人々の意識に導かれ、多くの人々のロマンの対象となっている。

神もまた権力者が支配の口実にして、神の意向が自分の意向であるかのようなプロパガンダを用いた末に、布教活動と商業と時には武力行使をセットにした事実上の侵略を可能にしたという意味で、統治の強力な要(かなめ)であった。

もちろん現在の形骸化した宗教では、教会は結婚式場として若いカップルを祝福する最適なスペースを提供しているわけで、神は1応幸福を求める人々の心の支えとして機能していることになる。

UFOも神も謎めいた一種の偶像として大衆的には定着していると言えるだろう。それもまた害のない帰依ではないかと思う。

では害のある帰依とは何か? 私はそれが松本人志やジャニー喜多川を独裁者の如く崇拝した支持者たちの異常な心理であると思う。

ファンには罪はない。誰が誰を好きになろうが、それは自由だ。また独裁者タイプの人は多くのファンを獲得する以前に、自分は特別な人間であり、偶像として人並みではない扱いを受けるべき大人物であるという自覚と自信を抱いているのも事実。その人たちが放つ特異なオーラは、庶民の目から見れば「神がかった人物」とも「宇宙人」とも見えるかもしれない。

スピリチュアルな世界にはまった人から見れば、なおさらである。足立区の中華料理店で出会った若者の言葉は彼なりの真実であったと言うべきだろう。

彼にも罪はない。彼を含めて鋭敏な感性の持ち主たちが望んでいたのは、偶像を発見する歓びであっただろう。その結果、彼等彼女たちに有害な事象が生じたとしても、それは自己責任というものと思えるが、まあそれにしても、パーティーで初めて会った若い女性に、アルコールが入った上でだとしても「俺の子供産めや」なんてよく言えるよナァ。やっぱりあの男、もしかしたら宇宙人かって、思いたくなる時もある。

そして、あの男。広末涼子とのW不倫で名を売ったカリスマ・シェフ。あいつも東スポの記者に向かって「うらやましいでしょう」と言ったそうだ。このカリスマの特権意識・優生思考。確かにうらやましい。

神も宇宙人もカリスマも所詮大衆の劣性思考に支えられて存在していると考えれば、いつか「うらやましい」が、「うらめしい」に転換することもあるという話である。

◆地震津波は神の怒りか?

能登半島で地震があった。北陸電力も原子力規制委員会も認めていなかった断層が見つかったって……。これをクリスチャンやスピリチュアル・マニアの方々は、何故「神の怒り」「宇宙人からの警告」と声高に叫ばないのだろうか? 

地球とて宇宙全体の無限の広がりの中では、ちっぽけな天体に過ぎない。そこでくり広げられる人間の様々な愚行から生じる問題(領土問題・環境問題・ワクチン禍・LGBT・差別・利権 etc)に、神がいつまでも沈黙を守るはずはないとは考えられないのか。

人智を超えた力を見出すのが宗教であり、精神世界であると思うのだが……。

かつて神戸に在住していたクリスチャンの知人が、個人的な事情で東京に転居した。その直後に阪神大震災が起こり、知人が住んでいた家は半壊したという。

その際の知人のコメントは、「神が私をお守り下さった」

自分の身を護るだけの信仰だったのかと問いたい。

本稿は『季節』2024年春号(2024年03月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した記事の後編です。

板坂 剛 松本人志はやっぱり宇宙人だったのか?(全2回)
〈前編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=49986
〈後編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=49990

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』

松本人志はやっぱり宇宙人だったのか?〈前編〉 板坂 剛(作家・舞踊家)

◆「あいつは宇宙人だ」と若者が叫んだ!

もう遠い昔の話だが、たまたま独りで立ち寄った足立区の中華料理店で、店内に設置されたテレビの画面に突然松本人志の姿が現れた時、私より先に食事をすませてビールを飲んでいた若い男が叫んだ。

「あいつは宇宙人だ」

驚いて彼の方を見ると、目が合った私に向かって、また同じトーンの声が発せられた。

「あいつは宇宙人なんだよ。判るんだ、俺には」

そう言われてテレビの画面に見入ると、大写しになった松本人志の顔は、バルタン星人とまでは言わないが、確かに地球上の生態系から生まれた人間のものとは思えない奇怪な形相を呈していた。

十数分後、私の隣の席に移動してきたその若い男は、自分はあるスピリチュアルな団体に属して「人類の中には、実は他の星のシステムから地球に来た訪問者が潜んでいる」と教えられ、ネイティブな地球人と宇宙人のまま人間に化身した生物と識別する能力を身につけることが出来たという。

「そんな馬鹿な」と反論しなかったのは、論より証拠、松本人志の顔が宇宙人にしか見えなかったからである。

若い男はこうも言った。

「あいつ(松本人志)はきっと大物になるよ。お笑い芸人として第一人者になるだろうな」

当時の松本人志はまだ第一人者にはほど遠い存在だったのではないかと(お笑いの世界には無知な私だが)思っていた。そんな人材をいきなり「きっと大物になる」と評されても納得は出来なかったが、今はあの時の彼の見立ては正しかったと思うしかない。

あの時以降、地球上に宇宙人が既に棲みついているという説もちらほらと耳にすることがある。人間の皮をかぶった彼等は大変優秀で、どの分野でもトップに立つ実力者になるとも聞いた。

肯定も否定も出来なかったが、いつか松本人志が自作自演したにもかかわらず、全く不評で興業的にも大失敗だったというワケの判らないSM映画(『R100』)を観た時、なるほど宇宙人ならこういうモノを創るだろうと思った。

監督として彼自身が試写室で完成された作品を鑑賞し、同席していたスタッフや映画評論家らしき人物が「もうダメ」と棄てゼリフを残して退席した後も、一人で興奮状態に陥っている場面が、彼の正体を表現していると思える作品だったのだ。好意的に解釈しても「天才の自爆」悪く言えば「単なる独りよがり」でしかなく、はっきり言って駄作である。

『R100』(監督=松本人志/製作=吉本興業/2013年10月5日公開)より

 
『R100』(監督=松本人志/製作=吉本興業/2013年10月5日公開)より

特にSM映画という前宣伝に煽られたその種のマニア諸氏には、さぞ期待外れであっただろう。主役のパッとしない男性がスタイル抜群の半裸の美女に暴力的に虐げられる場面もあることはあったが、恐らく松本人志にはマゾヒストとしての素質は皆無に等しいと思わせるほど、どの場面もつまらな過ぎた。

更に後半SM映画ならぬSF映画的な展開になると殆どの観客は試写室の場面での映画評論家らしい人物のように「もうダメ」と言い棄てて退席したくなったことと思われる。(ちなみにこの人物の最後のセリフは「(こんな映画)公開すんなよ」であったと記憶する)

しかし、私はむしろ後半のSFもどきのあり得ないシュール・レアリズムに、宇宙人的なセンスを感じて少しばかり感動した。たかがお笑い芸人が、もしかしたら宇宙人かという荒唐無稽な妄想を抱かせる……。スピリチュアルの世界は奥深いと言わなければならない。

◆宇宙人が心配する地球の惨禍
 
ここで話を持ち出すのは却って信憑性を欠くことになると思うが、敢えて書く。あの福島原発の事故の前後、原発附近の上空にUFOが頻繁に出没したというニュースを覚えてる人はいらっしゃるだろうか。

当然フェイク・ニュースとして扱われてしまったようだが、UFOキャッチャー(ゲームの達人ではない)を自認する知人が、確かに原発事故の際、異常な数のUFOが出現したのは事実だと自信を持って語っていた。

また彼はUFOに乗って地球にやって来る宇宙人の多くは、将来地球の住人になるつもりでその時のために下見に来ていると断言していた。従って宇宙人が地球人を攻撃することはなく、むしろ平和に共存する方法を模索しているのだという。

そういうわけで地球上で地震や戦争等の惨禍が起きた際には、心配した宇宙人がUFOに乗って現場を視察することになっているらしい。珍説と笑って黙殺すべきかもしれない。

しかしここ数年、海外で戦争が続発している状態の中でUFOに関する話題がまたチラホラとメディアの片隅に登場しているが、その出所が大半アメリカであるところが気になる。なにしろ謀略が大好物の国である。周期的に大衆の不安をかきたて抑止力(軍事力)を強化する伝統的な国策は建国以来のもので、決して自分たちに危害を与える存在ではなかった北米大陸の原住民を凶暴な「土人」と決めつけて虐げ、社会から排除した。

1960年代、テレビで放映されていたアメリカの西部劇で、白人のガンマンたちが「土人」という言葉を口にするのを何度も聞いた。もちろん邦訳の吹き替えで、実際に俳優が何と言っていたかは判らない。ただストーリーの展開と彼等がそのセリフを口にした時の表情から、相当に差別的な発言があったのだろうと想像出来る。

当時、名画と称された西部劇の劇場用映画の中で、白人が乗った駅馬車が「インディアン」の集団に襲撃され、駆けつけた騎兵隊に救出されるという場面が、そのままテレビにも流用され、何度となく放映されたのを記憶している。

元々先住民であったにもかかわらず「インディアン」は盗賊、白人の開拓者はロマンチスト、騎兵隊は正義の味方と公的に定められているような構成だった。こういう常識が大衆に浸透している国だから、UFOも地球人類に対する潜在的驚異と位置づけて世界中の人々に緊張感を与えようとするのだろう。

数々のUFO目撃談、どうもアメリカの自作自演のような気がしてならない。そう考えると原発事故の際に出現した多数のUFOは、当時福島沖に展開していた米空母ドナルド・レーガンから発進した偵察用のドローンではないかと疑いたくもなる。東日本大震災当時は、一般の市民にとって「ドローンって何?」という程度の認識しかなかったと思うが、米軍ではとっくに兵器として活用することを前提にした開発研究が行われていたはずである。

ただ原発の上空に現れたUFOが、地球上の惨禍を心配して飛来した宇宙人の運航する物体であるという説も私は棄てきれない。そっちの方が気持ちが安らぐのだ。

地球人が醜い争いに没頭したり、自然災害に苦しんでる様子を観察していると思うと、いつか地球人になって生きて行こうという彼等の意欲を損なうには忍びないという自制心が働くではないか。

そして思う。宇宙人だのUFOだのという観念的事実が、たとえ完全な夢想だとしても、そこにはアメリカ軍とその背後にいる産軍共同体の思惑とは真逆に、不安がいっぱいの現実からの救済を求める民衆の願望を感じるのである。(つづく)

本稿は『季節』2024年春号(2024年03月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した記事の前編です。

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』

ジャニーズよ 永遠なれ〈3〉真に許されない愚かしさとは 板坂 剛

ジャニー喜多川やカウアン君やデヴィ夫人のそれぞれの言動は、それぞれの必然性に基づいて行われたもので、驚嘆するほどの事象ではない。

驚くべきは7月23日に報道された国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会の人たちが、この件に関して調査のために来日し、さらにジャニーズ事務所も「再発防止特別チーム」を結成して真相を究明しようとしているというニュースだ。

 
在りし日のジャニー喜多川

再発防止って「加害者」がとっくに死んでいるのに何で再発防止のチェックが必要なのって聞きたいよね。国連もそんなことに人と時間を費やすなら、原発事故の再発防止のためのチェック機関を作ってほしい。

折しもアメリカではスリーマイル島事故後の初の新規原発がジョージア州で営業運転を開始するという。世界中で権力者のやりたい放題による災厄が多くの人民を苦しめている時に、死んだ人間のセクハラ疑惑なんか追求している場合じゃないだろう。

事故が起こらなくても原発で働く作業員は皆被曝していると、定期的に作業員の健康診断を行っていた医師が言っていた。その医師に対して電力会社の社員は診断の結果を絶対にマスコミには知られないようにと忠告したという。また、退職した作業員が1年後に白血病で死んだという話もよく聞かされたそうであるが、そういう事例のチェックは全く行われなかった。

日本の公的機関がそこまでやるとは期待もしていないが、それをやるのが国連ではないかと思う。

無名の作業員たちの生死にかかわる被害より、未成年のお尻の穴の被害の方が大事だろうかと問いたい。

お尻の穴と言えば、先頃鹿砦社から発行されたムック本。『人権と利権』の中で、少々気になる記述があったので書き添えておきたいと思う。

同書は大変に好評で売り切れ間近と聞いているが、編著者の森奈津子さんというバイ・セクシャルの女性と加賀奈々恵さんという埼玉県富士見市議の都の対談。

その中で森さんの次の発言に、つい首をかしげてしまった。

「松岡さんは、やっぱり女性スペースにトランス女性も入れるべきだとおっしゃっているんですけれど、ああいうゲイの方って、ゲイオンリーのイベント、例えばエッチなショーがあったり、あるいはゲイの方々が出会って性的な行為に及ぶハッテン場など、そういうところに『”体が女性のトランス男性”の皆様もどうぞ入ってきてください』とはおっしゃらないんですよね」

(注・ここに記されている「松岡さん」とは、一般社団法人フェアの代表理事の松岡宗嗣という人のことで、鹿砦社の社長、松岡利康とは関係ありません)

「ゲイは女性の体には興味がないので、いくら心が男性だと言っても体が女性の人が入って来られては困る、ということなんですね」

「一方では、ゲイをハッテン場に体が女性のトランス男性を入れないのに、女性にばかり強制をして、おかしいなと思うんです」

筆者は今は亡き『噂の真相』の岡留安則編集長の紹介で、かつて同性愛者に対する差別反対運動のリーダーとして一世を風靡していた「オカマの東郷健」が発行する『ザ・ゲイ』という雑誌の編集を受けおったことがあり、その関係で全国のゲイバーやハッテン場となった映画館を取材したことがあった。

そこでも目撃したことは、ゲイバーにも女性客が度々訪れるという事実、もちろん体が女性のトランス男性もお見えになっていた。

また、ハッテン場として有名なポルノ映画館では女装した男性が大モテで、の周囲には常に大勢のファンが群がっていた。男装した女性に関しても同様。

また、男性とのカップルで女性客も入れる映画館では自分の彼女を全裸にして性交までする男性もいたが、2人の周囲には男たちがスクリーンに背を向けて羨望の眼差しで男女のプレイを鑑賞し、2人が帰る時には「ありがとね。また来てね」と声をかける御仁にもいた。

つまり、彼等の中には本当は女性の方が好きなのに相手に恵まれず、風俗に行く金もないので仕方なくハッテン場に身を寄せている人も多くいるということである。
こういう人たちがトランス男性やトランス女性の参入を拒むということは考えられない。

女性が単独で入場することは許されない映画館も確かにあるが、それは映画館側が警察の介入を恐れてバリアーをはっているだけのことで、そこにたむろするゲイたちが女性を排除してるわけではない。

ハッテン場に集う人たちを統1された理念と美意識で結ばれた集合体だと思ったら大間違いなのだ。このへんは正確に把握してないと、同好諸氏に足元をすくわれる危険がありますのでご注意下さい。

それにしても純粋なハッテン場とも言えるジャニーズ事務所が、はたしてジュニアたちにとって有害な場所だったのか。歴史の査定を待つ他はないが、今なおジャニーズジュニアに熱い声援を送り続けている女性たちの姿に、どうしても原発再稼働を阻止するだけの民意を表明出来ずに流されてしまう大衆の「嫌なことは忘れる」「醜いことから目を背ける」集団心理が重なって見えるのはどうしたものだろうか。

8月4日の国連メンバーによる記者会見では、原発事故の被害者の方々についてのコメントもあったことを忘れなく。

愚か……という言葉を使いたくはない。1970年に「天皇陛下万歳」と叫んで自決した三島由紀夫の気持ちが判る。それがパロディーであるのなら、幾らでも叫んでいいだろう。ジャニーズよ、永遠なれ、と。

結局それは滅びの美学なのかもしれない。確かに男が皆ゲイになったら、その民族は滅びるしかないのだから。

笑える。

板坂 剛 ジャニーズよ 永遠なれ(全3回)
〈1〉死して尚、放たれる威光
〈2〉「性加害」という表現への疑問
〈3〉真に許されない愚かしさとは

本稿は『季節』2023年秋号掲載(2023年9月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』A5判 320ページ 定価1980円(税込み)

【主な内容】
Ⅰ 苦境に立たされるジャニーズ
  2023年はジャニーズ帝国崩壊の歴史的一年となった!
  文春以前(1990年代後半)の鹿砦社のジャニーズ告発出版
  文春vsジャニーズ裁判の記録(当時の記事復刻)
 [資料 国会議事録]国会で論議されたジャニーズの児童虐待

Ⅱ ジャニーズ60年史 その誕生、栄華、そして……
1 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
2 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
3 SMAP時代前期 1993-2003
4 SMAP時代後期 2004-2008
5 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014
6 世代交代、そしてジュリー時代へ 2015-2019
7 揺らぎ始めたジャニーズ 2020-2023

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315290/