煙草の副流煙をめぐる隣人トラブル。はからずもこの社会問題をクローズアップした横浜副流煙裁判を、若手の映画監督がドラマ化した。タイトルは、『窓』。主演は西村まさ彦。映画は12月から劇場公開される。

この映画は、本ウェブサイトでも報じてきた横浜副流煙裁判に材を取ったフィクションである。しかし、近年、深刻になっている新世代公害-化学物質過敏症が誘発する隣人トラブルを、ノンフィクション以上にリアルに描いている。それは、住民のだれもが巻き込まれかねない隣人トラブルの地獄絵にほかならない。

化学物質は形もなければ匂いもないが、刻々と自然環境や生活環境を蝕んでいる。浸食は静止することがない。米国のCAS(ケミカル・アブストラクト・サービス)が登録する新生化学物質の件数は、1日に優に1万件を超えるという。もちろんこれらの化学物質のすべてが有害とは限らないが、複合汚染を引き起こすことで、深刻な被害を与えることもある。副流煙に含まれる化学物資も、数ある汚染源のひとつである。身近な存在であるがゆえに、横浜副流煙裁判にも、注目が集まって来たのである。


◎[参考動画]映画 [窓] MADO 予告篇

麻王監督の父親である藤井将登さんは、横浜副流煙事件の法廷に立たされた当事者である。編曲や作曲をてがけるミュージシャンだ。2017年11月、自宅マンションの音楽室で吸っていた煙草が原因で、「受動喫煙症」(化学物質過敏症の一種)などに罹患したとして、隣人から4500万円を請求される裁判を起こされた。警察の取り調べも受けた。

しかし、喫煙本数は、日に2、3本程度。しかも、音楽室が防音構造になっているので煙は外部にもれない。念のために禁煙をしてみたが、それでも隣人から苦情を言われた。風向きも調査してみたが、原告宅が風上になることがほとんどだった。上階の斜め上にある原告宅に音楽室の副流煙が届くはずがなかった。だれが見ても「冤罪」だった。

麻王監督は、そのことに衝撃を受けて、父親が提訴された直後から、事件を映画化する構想を練り始めたのである。そしてそれまで勤務していた東北新社を退職して、映画作品の制作に着手した。

「私は実家から独り立ちしているため、裁判の当事者では無いながらも、事の経緯を程近い距離で見てきており、また化学物質過敏症についても独自に調べつつ、この問題と自分なりに向き合ってきました」

「果たして、自らの窓が開いているだろうか。相手が自ら窓を開けられるような環境があるだろうか。社会の窓が開かれていかれているだろうか。どこか他人事で、自身の窓を閉ざしていないだろうか」(麻王、「制作支援プロジェクトのウェブサイト」)

化学物質過敏症の診断は困難を極める。汚染源となる化学物質の種類があまりにも多く、原因物質の特定が難しいからだ。代表的なものとしては、イソシアネート があるが、日本ではほとんど規制の対象にはなっていない。米国などでは猛毒としての認識がすでに定着していて、厳しく規制されている。

化学物質過敏症の正体が不透明なために、診断も「問診」と患者の「自己申告」を重視する傾向が顕著になっている。原告は、みずからの体調不良の原因を藤井将登さんの副流煙と断定して、専門医に自己申告した。それを受けて、医師は藤井さんを「犯人」として事実摘示した診断書を交付した。それを根拠に原告は、弁護士を動かし、警察を動かし、あげくの果てに4500万円の金銭を請求したのである。

かりに医師が、現場へ足を運んで事実を確認していれば、この事件は起きなかった。禁煙撲滅運動の政策的な目的で、結論先にありきの診断書を交付した疑惑があるのだ。少なくとも横浜地裁は、そのような認定を下した。もちろん原告の訴えも退けた。

その意味では、問診や患者の「自己申告」を重視して、診断書を交付した医師に最大の責任がある。原告家族も、ある意味ではずさんな医療の被害者なのである。有害化学物質を厳しく規制するなど、科学的な視点で環境問題に対峙してこなかった行政にも問題がある。

『窓』は、新世代公害が引き起こした複雑な群像を描いている。

制作支援プロジェクトは、現在、クラウドファンディンで上映資金などを集めている。同プロジェクトのウェブサイトへは次のURLでアクセスできる。

※横浜副流煙裁判は、2020年10月に被告・藤井将登さんの勝訴で終了した。現在、藤井さん夫妻は、元原告と診断書を作成した医師に対して「反スラップ訴訟」を起こしている。事件は、横浜地裁で継続している。

映画 [窓] MADO 制作支援プロジェクト

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

先に8月6日について、もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

今回はその余話といいますか、またはウクライナ危機に触発されて思い出した反戦歌についての続きといいますか、思い出したことを書き記してみます。

8月6日広島の悲劇について次の3つの曲を思い出します。

〈1〉矢沢永吉 『Flash in Japan』

私はこの曲を聴いてショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『Flash in Japan』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛)。時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
治せるのか
俺たちは皆あの光を見たのか
雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
稜線を照らし 視界を消し去った
戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いのか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか
彼らに何と言えばよいのか
子供たちよ聞いてくれ
俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
君たちは再出発してくれ
朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
いくつか変わったこともある
いつも忘れないでいてほしい
戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いのか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか

〈2〉美空ひばり 『一本の鉛筆』

ガラッと変わって、次は昭和の歌の女王・美空ひばりの『一本の鉛筆』です。これはひばりが1974年、第1回広島平和音楽祭に招かれたのを機に作られ、そこで披露された記念すべき一曲です。意外と知られていません。作詞は映画監督の松山善三、作曲・佐藤勝。裏面は『八月五日の夜だった』。

ひばりが広島の原爆で被爆したわけではありませんが、父親が戦争に召集され母親が苦労していたのを見て育ち、みずからも空襲に遭い、彼女なりに戦争を嫌悪し思う所があったようです。

「あなたに 聞いてもらいたい」
「一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く」
「一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと 私は書く」
「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」

「ザラ紙」とは今では死語ですが、私たちの世代では、これを日々1000枚1包で買い「ガリ版」に「鉄筆」で「ロウ原紙」に原稿を書き「謄写版」で印刷しチラシを作ったものです。ザラ紙と共にガリ版も鉄筆もロウ原紙も謄写版も今はなく死語です。

ひばりは、主催者が用意した冷房付きの部屋を断り、「あの時、広島の人たちはもっと熱かったよね」と言って、ずっと猛暑下のステージ脇にいたとのエピソードがあります。この時の映像が残っていました。


◎[参考動画]美空ひばり ひとすじの道+一本の鉛筆

ひばりはこれから15年後の1988年の第15回同音楽祭に、一人で歩けないような病状で点滴を打ちながら駆けつけ、観客の前では笑顔を絶やさなかったそうです。翌1989年にひばりは亡くなりました。音楽祭自体も20回目の1993年で終了となりました。諸事情はあるでしょうが、ひばりの遺志を継いで続けて欲しかったところです。

最近この時期になると当時の映像が放映されたりクミコらがカバーして歌ったりしていますが、隠れた名曲です。

〈3〉吉田拓郎 『夏休み』

この歌には諸説あります。私はてっきり原爆投下→終戦後の広島の情況を表現したものとばかり思っていましたし、今もそう思っています。拓郎自身もそうテレビで言っていたのを観たという人の情報(ネット情報ですが)もあります。「火のないところに煙は立たない」といいますが、反戦歌(あるいは反戦の気持ちを歌った)といわれるのには、なんらかの根拠があるわけで、どうなんでしょうか。

ところが、拓郎自身が公式サイトでこれを否定し鹿児島で過ごした少年時代のことを表現したのだというのです。しかしこれは拓郎の“照れ隠し”だと思います(と勝手に解釈)。拓郎は広島に原爆が落とされた翌年(1946年)に鹿児島で生まれここで幼少期を過ごし、原爆投下・終戦から10年後の1955年に母親の故郷・広島に移住、市内の被爆の中心地からさほど離れていない所で育ちました。おそらく戦後の焼け跡の酷さを少年時代、青年時代に日々目にし空気を吸って育ったはずです。まだ傷痍軍人が街角にいた時代です。大学を卒業し1970年にプロ歌手を目指し上京するまで広島で過ごしています。そこで見知ったことが拓郎の素地になっているはずです。

ここでちょっと寄り道。拓郎は1970年(私が大学に入った年でもあります)、上智大学全共闘プロデュースでアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作(つまり自費出版のことやね)します。今からは考えられませんが、これをほそぼそと手売りしていたらしいです。当時の社会情況と共に拓郎の想いが醸しだされる凄いタイトルですが、この中から『イメージの詩』をシングルカットし、これがデビュー曲となります。「たたかい続ける人の気持ちを誰もがわかっているなら たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」──ここに拓郎の原点があると思いますが、本人はどう思っているのでしょうか?

さて、拓郎の前の「フォークの神様」岡林信康の代表曲の一つ『友よ』は、牧師の息子で同志社大学神学部の岡林が賛美歌を元に作ったともいわれますが、「友よ、夜明け前の闇の中で 友よ、戦いの炎を燃やせ 夜明けは近い」というフレーズに私たちは感銘し、いろいろな集会で歌われました。この曲はそうではないんだと岡林自身が否定しているシーンを観たことがあります。つまるところ、歌は公にされることで作者の手を離れ社会性を持つということではないでしょうか。ちなみに、岡林は最近この曲を封印しているようです。『山谷ブルース』と共に岡林の代表作なのに残念ですが、名曲ですので、岡林の意とは別に(かつてほど頻繁ではないにしても)歌い継がれていくのではないか、と思います。

また、宮沢和史の『島唄』、宇崎竜童の『沖縄ベイ・ブルース』も、歌詞にはダイレクトに戦争や現在の米軍支配下の沖縄の情況を書いていませんし本人らもあれこれ説明するわけでもありませんが、戦争や現在の米軍支配下の沖縄の情況を表現していることは言うまでもありません。宮沢、宇崎のように黙っていれば値打ちがあるものを。

『夏休み』が反戦歌であるかないかは私にはわかりませんが、聴く者に原爆投下→終戦後の平和な、しかしいささか物悲しい情況を表現していることを感じさせることは確かなことです。初出は1971年に発売のアルバムに収められ、シングルカットは、ずっと先の1989年のことです。(松岡利康)


◎[参考動画]吉田拓郎『夏休み』

◎[リンク]松岡利康「今こそ反戦歌を!」 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

龍一郎・揮毫

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ危機が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう4カ月も続き、長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争もそうだったのでしょうか。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今年になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

PP&M(Peter, Paul & Mary)

 

忌野清志郎

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発さ加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツや、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナ危機に見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ危機のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われないようになることを心より祈ります。

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった 
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年夏号(NO NUKES voice改題 通巻32号)

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、もうすぐ沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみたいと思います。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や戦後も続くアメリか支配が明らかになり、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録しています)。

宮沢和史さん

宇崎竜童さん

 

知名定男さん

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前回の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。
【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

ネーネーズとHY

◆     ◆     ◆     ◆     ◆


◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

ネーネーズ6代目メンバーと松岡

◎[リンク]今こそ反戦歌を! 
◎[リンク]琉球の風~島から島へ~

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)

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この興行でもコロナ感染や濃厚接触者発生で、2試合の中止が発生しました。

昨年10月予定からコロナ禍影響で延期となっていたNKBライト級タイトルマッチ、髙橋一眞は今回3度目の防衛戦を判定勝利で棚橋賢二郎を退け、東京での最後の試合を飾りました。次回、7月31日(日)の大阪176BOXで引退興行開催予定です。

過去2018年12月8日に髙橋が2度目の防衛戦で、棚橋の強打を貰わない上手い試合運びで3ラウンドKO勝利。今回もスリルある“倒すか倒されるか”の攻防に期待が掛かりましたが、打ち合い少ない展開に声援禁止にもかかわらず、鋭い怒りの野次が飛びました。

今回で引退を宣言している藤野伸哉はヒザ蹴りで野村玲央を最終ラウンドで仕留める有終の美。

笹谷淳は試合運びの上手さでJUN DA LIONを倒して1年ぶりの勝利。

◎喝采シリーズ 1st / 2月19日(土)後楽園ホール17:30~20:40
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第11試合 NKBライト級タイトルマッチ 5回戦

Champ.髙橋一眞(真門/1994.9.7大阪府出身/61.2kg)     
VS
同級1位.棚橋賢二郎(拳心館/1987.11.2新潟県出身/60.9kg)
勝者:髙橋一眞 / 判定3-0
主審:前田仁
副審:鈴木50-48. 川上48-47. 佐藤49-48

打ち合いの距離では棚橋賢二郎の剛腕が怖い

髙橋一眞のローキック中心とした前進。棚橋はパンチは出さず、返しの軽いローキックで様子見の下がる一方。第2ラウンドに入って、高橋一眞は強めのローキックから高めの蹴りも見せるが棚橋は返してこない消極的戦法。高橋一眞が棚橋の強打を警戒しながら前進して誘いかけるが、棚橋が下がる展開は3ラウンドまで静かな流れが続いた。

第4ラウンド開始前には会場から「つまんねえんだよコノヤロー、サッサと倒せよコノヤロー!」と静かな会場に響く、周囲が緊張する語気強い野次が飛ぶ。“倒すか倒されるか”のキャッチフレーズを煽りながら、全く打ち合いに行かない想定外の展開にキレるのも分かる空気。ようやく棚橋が左ジャブを打ち、打撃の交錯が始まったが、高橋一眞はパンチの距離は避けたいところで、組み合ってヒザ蹴りに移り、棚橋はパンチを打ち込み難い展開も、やや手数増やし前進に転じた後半で判定に縺れ込んだ。

第4と5ラウンドを棚橋に付けたジャッジは一人。もう一人は第5ラウンドだけ棚橋へ。もう一人は互角だった。前半3ラウンドまでに手数少ないながらローキックで攻勢維持した高橋一眞のポイントを押さえたラウンドが勝利を導いた流れだった。

髙橋一眞のローキックは感度も効果的にヒットした

昔のテレビ放送席のような雰囲気でインタビューに応える高橋一眞

蹴りで攻勢を維持した藤野伸哉はヒザ蹴りで仕留めた

高橋一眞は26戦17勝(12KO)9敗。

棚橋賢二郎は18戦9勝(7KO)8敗1分。

◆第10試合 ライト級 5回戦

WMC日本スーパーフェザー級2位.藤野伸哉(RIKIX/1996.5.31東京都出身/61.15kg)
VS
NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/1990.3.27東京都出身/60.75kg)
勝者:藤野伸哉 / TKO 5R 1:37 /
主審:加賀美淳

両者は2018年6月16日に対戦、藤野がノックダウンを奪って3ラウンド判定勝利。

パンチで圧力掛ける野村。蹴りのテクニックでやや優っていった藤野は接近戦でヒザ蹴りもヒットさせスタミナを奪っていく流れ。

最終ラウンドには強烈なヒザ蹴りでスタンディングダウンを奪い、更に追い打ちのヒザ蹴りヒットさせたところで、苦しそうな野村は再びスタンディングダウンとなってレフェリーが試合ストップした。

藤野伸哉は23戦13勝(4KO)7敗3分。

野村玲央は20戦8勝(5KO)10敗2分。

藤野伸哉の応援団が引退の花道を飾る

◆第9試合 66.4kg契約3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/1975.3.17東京都出身/66.3kg)
     VS
NJKFウェルター級3位.JUN DA LION(E.S.G/1976.8.3埼玉県出身/65.8kg)
勝者:笹谷淳 / TKO 3R 0:45 /
主審:佐藤友章

第1ラウンド、蹴りの攻防は笹谷淳の蹴りから組み合っても圧し負けない展開が続いた。笹谷は左ストレートでプッシュ気味ながらノックダウンを奪う。

第2ラウンド以降も笹谷が組み合っての攻防の中、ヒジ打ちでJUNの額を切る。第3ラウンド、パンチから蹴りがボディーに入ると崩れ落ちたJUN。ダメージ見たレフェリーがノーカウントで試合を止めた。経験値が優った笹谷淳のTKO勝利。

笹谷淳が勢いを増した左ストレートでJUN DA LIONを追い詰める

◆第8試合 フェザー級3回戦

NKBフェザー級5位.矢吹翔太(team BRAVE FIST/1986.8.2沖縄県出身/57.0kg)
     VS
半澤信也(トイカツ/1981.4.28長野県出身/57.1kg)
勝者:矢吹翔太
主審:川上伸
副審:加賀美30-29. 前田30-29. 佐藤30-28

パンチで攻めたい半澤信也に対し、矢吹翔太は組み合っての攻防でスタミナを奪う流れ。決定打は無い流れも攻勢を維持した矢吹が判定勝利を掴む。

矢吹翔太が半澤信也の勢いを封じる展開で勝利を導く

◆第7試合 ミドル級3回戦

NKBミドル4位.釼田昌弘(テツ/1989.10.31鹿児島県出身/72.55kg)
     VS
スーパー・アンジ(KUNISNIPE旭/1999.10.28千葉県出身/72.1kg)
勝者:スーパー・アンジ / KO 2R 2:58 /
主審:鈴木義和

アンジはパワフルな圧力でパンチも蹴りも剱田昌弘を上回った。第2ラウンドに豪快な左ロングフックヒットでノックダウンを奪うと更にパンチの圧倒で2度目のダウンを奪い、更にパンチで圧倒したところで剱田がフラフラとなってレフェリーがストップし、3ノックダウンを奪う結果となった。

スーパー・アンジがパワフルに剱田昌弘を圧倒していく

◆第6試合 フェザー級3回戦

松山和弘(ReBORN経堂/2000.3.15宮崎県出身/58.15→57.6kg/+450g)
     VS
七海貴哉(G-1 TEAM TAKAGI/1997.4.17東京都出身/56.9kg)
勝者:七海貴哉 / KO 1R 2:43 / 2ノックダウン制によるストップ
主審:加賀美淳

松山和弘はウェイトオーバーにより減点1が課せられた。

パンチとローキックの攻防から七海のリズムが優っていく中、右ストレートでノックダウンを奪う。更にパンチで攻める中、松山は弱気な表情に変わる。七海がパンチで攻め続けた中、松山2度目のノックダウンとなって崩れ落ちた。

七海貴哉がパンチで圧倒していくと松山和弘は戦意喪失気味

◆第5試合 バンタム級3回戦(新人)

中島隆徳(GET OVER/2005.4.8愛知県/52.95kg)
     VS
安河内秀哉(RIKIX/2003.10.7東京都/53.4kg)
勝者:中島隆徳 / KO 2R 1:23 / カウント中のタオル投入による棄権
主審:佐藤友章

第1ラウンド開始早々に左ストレートでノックダウンを奪う中島が主導権を奪った展開で安河内は蹴りでやや持ち直したが、第2ラウンドに仕留められてしまった。

スピード感が優った中島隆徳は飛びヒザ蹴りも見せる勢い優る展開

◆第4試合 56.0kg契約3回戦(新人) 笠原秋澄欠場で翼出場

蒔田亮(TOKYO KICK WORKS/2000.6.23千葉県/55.6kg)
     VS
翼スリーツリー(ダイケンスリーツリー/1997.7.2山梨県/55.8kg)
勝者:蒔田亮 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:前田30-25. 川上30-25. 加賀美30-25

◆第3試合 女子57.0kg契約3回戦(2分制/新人)

寺西美緒(GET OVER/1995.11.27愛知県/56.8kg)
     VS
田中美宇(TESSAY/1994.7.30新潟県/56.2kg)
勝者:寺西美緒 / 判定2-0 (30-28. 30-28. 29-29)

◆第2試合 63.0kg契約3回戦(新人)

哲太(Team S.A.C/1997.11.26千葉県/62.5kg)
     VS
折戸アトム(PHOENIX/1982.3.1新潟県/62.95kg)
勝者:折戸アトム / 判定0-3 (28-30. 29-30. 28-30)

◆第1試合 59.0kg契約3回戦(新人)

合田努(TOKYO KICK WORKS/1989.5.18愛媛県/58.75kg)
     VS
古木誠也(G-1 TEAM TAKAGI/1996.11.10神奈川県/58.2kg)
勝者:古木誠也 / 判定0-3 (27-30. 28-30. 26-30)

《取材戦記》

髙橋一眞の引退理由は「デビューして10年。満足いくまで戦えたからです。デビューから6連勝(6KO)で天狗だった頃、初めての敗戦の悔しさ、フェザー級のベルトを獲り損ねた悔しさ、連敗から抜け出せず諦めそうになったこと。チャンピオンになり一つの夢が叶ったこと、三兄弟で三階級を制覇したこと。KNOCK OUTに参戦出来た嬉しさ。世界最高峰王者、ヨードレックペットと戦えたこと。思い返せばいろんな思い出が蘇って来ます。ほんとに幸せな10年間でした。残る試合を自分らしい試合をして燃え尽きたいと思います(主催者発表インタビュー、一部引用)」。

試合直後のマイクアピールでは「棚橋選手はパワーあるしパンチ強いしビビったあ~!」と本音を漏らした髙橋一眞。

試合展開については緊張のあまりか、前半の手数少ない戦略や攻防も、野次が飛んだことも覚えていないと言う。健闘を称えに控室を訪れた高橋一眞は、ローキックの攻防について打ち明けていた両者。高橋は引退を宣言しているが「まだ3度目の対戦も有り得るから効いたところはバラすなよ」と言いたいところだった。

デビューから6連勝したこ頃は確かに太々しさが表れていた高橋一眞。3連敗から立ち直った頃がメインイベンターとした風格が感じられたものである。引退まであと一試合、“倒すか倒されるか”に全力で挑んで貰いたい。

セミファイナル出場の藤野伸哉も今回が引退最終試合。

引退試合に際し、NO KICK NO LIFEがホームリングでRIKIXジム所属である藤野伸哉に対し、しっかり5回戦が設定。5回戦だから展開出来たテクニックでのTKO勝利は感動的でもありました。

藤野伸哉は公認会計士講座講師として将来設計あっての引退となる模様です。

「日本キック連盟でのテンカウントゴングに送られるのか」と意外な感じもしたところで、記念贈呈品も無い、シンプルな引退テンカウントゴングが打ち鳴らされました。

若くしての引退は復帰したくなる気持ちが高くなる可能性もあるだけに、高橋一眞と藤野伸哉には、数年経った頃に徐々に復帰を誘いかけたら面白いかもしれません。

次回、日本キックボクシング連盟興行「喝采シリーズvol.2」は4月23日(土)に後楽園ホールにて開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

広告を挟めば無料から楽しめる『YouTube』、テレビ的に観ることが可能な『AbemaTV』など、インターネット上で鑑賞できる動画には多種存在する。筆者もTV自体はかなり昔に処分して以来、持っていないが、映画、報道、K-POPや韓流ドラマ、DIYを扱ったものなど、さまざまに楽しんでいる。

そのようななか、断続的に利用しているのが『Netflix(ネットフリックス)』だ。今回、最近、話題の2作品について触れてみたい。

◆貧困の問題にまっすぐに向き合ったヒリヒリするような人間ドラマ『イカゲーム』

まず、2021年9月より配信されている、韓国発「サバイバルドラマ」が『イカゲーム(오징어 게임)』。多重債務者や貧困にあえぐ456人が人生を逆転するため、命がけでだるまさんが転んだや型抜き、綱引きや綱渡り、ビー玉や飛び石といった子どもの遊びがモチーフとなっているゲームに参加する。最後まで勝ち残った1人には456億ウォンの賞金が支払われるが、1つひとつのゲームに負ければその場で死ぬことになるのだ。


◎[参考動画]『イカゲーム』予告編 – Netflix

監督・演出・脚本はファン・ドンヒョク。出演はイ・ジョンジェ、パク・ヘス、ウィ・ハジュン、カン・セビョクほか。複数の媒体で監督は背景を説明しているようだが、エンタメ業界紙『The Hollywood Reporter(THR)』の記事(https://hollywoodreporter.jp/interviews/1234/)を引用しておく。「脚本を手に資金集めをしていた時に、全く上手くいかず、漫画喫茶でひたすら過ごしている時期がありあました。そこで、『LIAR GAME』『賭博黙示録カイジ』『バトル・ロワイアル』などのサバイバル系のものや、自分自身も経済的に困窮していた為、借金を抱える主人公が生死を賭けた戦いに挑む様な作品に夢中になりました。本当にそんなゲームがあれば絶対参加して、今の状況から抜け出して大金を手にしたいと考えて没頭していたんです。そんな時にふと思ったんです。『監督なんだからそんな映画を作ってしまえばいいんじゃないか』と」。本作が全世界で公開されると、11月、94か国でランキング1位を獲得。シーズン2の制作も明らかになっている。

わたしが感じたことは、貧困の問題に対し、ある種まっすぐに向き合っているということだ。国内でもおそらく韓国でも、差別的な視線やバッシングはあるだろう。しかし本作では、きれいごとではすまされない現状と、そのいっぽうで人間性や1人ひとりの人間ドラマが描かれている。グロ映像が苦手な人には向かないが、10?20年前くらいには国内でもこのようなヒリヒリするドラマ映画が多数あり、個人的によく観ていた。このような作品が世界で鑑賞されたのは、やはり格差が拡大し、正直者がバカをみるような世界となり、資本主義の限界が露呈し始めたからではないかと考えている。ちなみに、脱北者の女性も登場し、ゲームのなかで特殊な友情を育む。思い入れが強くなった登場人物がゲームに負けたりして命を落とすシーンでは、涙も流してしまうだろう。

◆意味が深い作品だからこそ真摯に対応して手本を示してほしい『新聞記者』の問題

次に注目されたのが、『新聞記者』。19年公開の映画も話題になったが、東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者による同名の著作(角川書店)を原案に、財務省の公文書改ざん事件をモチーフにした社会派ドラマだ。Netflixでシリーズ化され、映画と同様に藤井道人(なおひと)監督が手がけ、やはり全世界で配信された。キャスティングがなかなか絶妙で、米倉涼子さん、綾野剛さん、吉岡秀隆さん、寺島しのぶさん、吹越満さん、田口トモロヲさん、大倉孝二さん、萩原聖人さん、ユースケ・サンタマリアさん、佐野史郎さんなどが名を連ねる。


◎[参考動画]『新聞記者』 予告編 – Netflix

1月18日に『日刊ゲンダイ』(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/300079)は、「Netflix『新聞記者』海外でも高評価 現実と同じ不祥事描写に安倍夫妻“真っ青”』と題し、「海外でも上位に食い込み、香港と台湾の『今日の~』で9位にランクイン(17日時点)。英紙ガーディアンはレビューに星5つ中3つを付け、〈日本が国民の無関心によって不正の沼にはまろうとしつつある国だと示している〉と評価した」と記す。実際に、安倍夫妻が真っ青になったという事実をつかんだという話ではないようだが。

しかし、1月26日付の『文春オンライン』(https://bunshun.jp/articles/-/51663)によれば、プロデューサーの河村光庸氏が2021年末、森友事件の遺族に謝罪していたことが『週刊文春』の記事によって判明。「公文書改ざんを強いられた末に自殺した近畿財務局職員・赤木俊夫さんの妻、赤木雅子さんと面会し、謝罪していた」という。また、「赤木俊夫さんを診ていた精神科医に責任があるかのような河村氏の物言いなど、いくつかの点に不信感を抱いた赤木さんは“財務省に散々真実を歪められてきたのに、また真実を歪められかねない”と協力を拒否」とのことだ。さらに、「2020年8月以降、一方的に話し合いを打ち切り、翌年の配信直前になって急に連絡してきた河村氏に、赤木さんは不信感を強め、こう語ったという。『夫と私は大きな組織に人生を滅茶苦茶にされたけれど、今、あの時と同じ気持ちです。ドラマ版のあらすじを見たら私たちの現実そのままじゃないですか。だいたい最初は望月さんの紹介でお会いしたのだから、すべてのきっかけは彼女です。なぜ彼女はこの場に来ないのですか』 河村氏はこう返すのが精一杯だった。『望月さんには何度も同席するよう頼んだんですが、「会社の上層部に、もう一切かかわるなと止められている」と』」とも記されている。

そのうえ、遺族から借りた遺書を含む資料を返していないという疑惑も持ち上がった。このような状況に対し、『はてなブックマーク』には、「メディアにとって仮パクは当然のことよ。得ダネ関係は他所に資料が渡らないように積極的に仮パクするよ。俺も業界関係の取材受けたとき渡した資料未だに戻ってこないから 探してると返答あってからもう6年経つ」というような反応も寄せられた。

2月8日、望月衣塑子記者はTwitterで、「週刊誌報道について取材でお借りした資料は全て返却しており、週刊誌にも会社からその旨回答しています。遺書は元々お借りしていません。1年半前の週刊誌報道後、本件は会社対応となり、取材は別の記者が担当しています。ドラマの内容には関与していません。」とつぶやいた。しかし、これに対しても、「文春報道から2週間かけてこの回答。借用書がなかったのなら「返したことにするしかない」と決めたとしか思えないね。あれだけ森友に粘着してて、それで押し切るんだな。東京新聞も含め。」というようなコメントが人気を集めていた。

私は取材・執筆をする側が、勇気をふるって行動する被害者を応援しないどころか邪魔をするようなことをおこなうことは誤りだと考えている。新聞などの報道の現場に携わるわけでもないため、批判でなく支援になればとの思いがある場合、原稿内容が妨げとならないか、力となるかを確認してもらっている。そのうえで、問題提起として強い個所が削除になったり、わかりづらい内容になったとしても、当事者の思いを優先するよう心がけているつもりだ。

個人的には、望月記者を信じたい気持ちもある。また、ドラマだからこそ、わかりやすく、広く問題が伝わるという面ももちろんあるだろう。エンターテインメントの力というものも信じている。だが、本作はフィクションであるとうたってはいても、明らかに事実をとりあげているのだ。そして、会社の意向、ドラマ化に携わる側の意向、金のからみなどによって、真実がゆがめられることはよくある。私自身も取材を受け、意をくみ取ってくれて感心したこともあったが、おもしろおかしくされて怒りに震え、びっしりと赤字を入れて原稿を戻したこともある。

いずれにせよ、事実を正直に公開し、関係者は遺族に対して心からの謝罪をしたうえで今後の対応に関する希望を聞き、疑惑を残さずに、この問題を解決してほしい。東京新聞のことも監督のことも信じたい。問題を追及する側だからこそ、真摯に対応し、手本を示してほしいのだ。

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性・オルタナティブ・環境 アクティビスト。月刊誌『紙の爆弾』202年2月号に「北海道新幹線延伸に伴う掘削土 生活も水も汚染する有害重金属」、3月号に「北海道新幹線トンネル有害残土問題 汚染される北斗の自然・水・生活」寄稿。読者のリクエストに応じ、札幌まで足を伸ばしたものなので、ご一読いただけたらうれしい。全国の環境破壊や地域搾取について調べ続けていると、共通の仕組がわかってくる。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

◆重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」

『抵抗と絶望の狭間』には、重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」が収録されている。書下ろしの力作である。

手紙のあてさきの遠山美枝子さんは、連合赤軍事件で亡くなられた女性活動家で、重信さんの明治大学での親友でもあった。いい文章だと思う。わたしは明るく華やかな、そして内省のある重信さんの文体が好きだ。今回の文章にもその一端はあるものの、やはり哀しみをもって読むしかない。

 

日活花の十代3人娘(別冊『近代映画』1964年6月上旬号)

あまり知られていないことだが、当時の明大の二部文学部には女優の松原智恵子さんが在籍していて、やはり学生運動に参加していた。

その松原智恵子は、吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、中でもブロマイドの売り上げは1位だったという。明治大学では重信房子、遠山美枝子とあわせて「明大ブント三人娘」ということになるが、ビラの受け取りも断トツだったという(重信さんの友人談)。学生運動に参加していたのは、おそらく西郷輝彦と交際していた時期とかさなる。

亡くなった人はどこか美化されるもので、遠山美枝子も美人活動家だったと言われている。一般に流布しているのは、バセドー氏病が持病の永田洋子に責め殺されたというイメージがつよい。それも山に指輪(夫のT氏からではなく、母親から渡されたもので、困ったときはそれをおカネに替えて帰宅できるように着けていた)をしてきたことを批判されたことで、美人だから殺されたという印象になっているのではないか。

じっさいには「素敵な女性だったけど、重信房子の引き立て役みたいなものだった」というのが、加藤登紀子事務所の女性秘書の個人的な感想だ。今回、彼女の学生時代の写真(一般にネットで拾えるものは、警察の逮捕写真)を見て、素敵な女性という印象がえられた。

◆共産同赤軍派と日本共産党革命左派

さて、その連合赤軍である。今年で結成から50年となる。結論的な部分から、簡単に解説しておこう。まずは赤軍派である。本書の副読本として予習的に読んでいただければ幸いである。

69年7月6日の明大和泉校舎で起きたブント(共産主義者同盟)の党内クーデターによって、赤軍フラクは中央委員会で除名処分を受けた。※この7.6事件については、書評(その4)で詳しく触れることにしたい。

除名されて共産同の分派となった赤軍派は、秋の大阪戦争・東京戦争の不発後、公安当局の猛烈な弾圧をうける。そこで、国際根拠地論(政治亡命)が検討されるいっぽう、本格的な武装闘争(爆弾闘争)に着手する。幹部の一部が70年3月に日航機(よど号)をハイジャックして北朝鮮に、その他の幹部もあいついで逮捕される。そして71年2月に、重信房子がアラブへ飛ぶ。

じつはこれも、あまり知られていないことだが、赤軍派の国際根拠地はキューバへの渡航、およびアメリカでブラックパンサーなどの左翼と合流して、世界革命戦争を「攻撃的につくり出す」ことだった。じっさいキューバには、ボランティアをふくむ多くの学生が渡っている(のちに強制送還)。元赤軍フラクの藤本敏夫が関与していたキューバ協会がその窓口だった。

主要な活動家が海外に出て、獄中に捕らわれるか指名手配となった赤軍派は、日共革命左派(京浜安保共闘)と接触するようになる。そのとき、赤軍派の指導者は森恒夫、革命左派の指導者は永田洋子となっていた。二人とも、組織の指導経験はきわめて浅い。

革命左派は、ブントML派とマル戦派の元幹部がつくった「警鐘」グループが、日本共産党左派神奈川県委員会(毛沢東派)と合同し、その後分裂した組織である。革命左派は70年12月に交番を襲撃し、一名が射殺されている。その後、銃砲店に押し入って猟銃を強奪する(71年2月)。

いっぽう、赤軍派は複数の銀行強盗によって、多額の資金を獲得していた。銃を手に入れた革命左派、資金を手にした赤軍派は、相互の利害から武装闘争という一点で、結びつきを強めることになるのだ。

そして革命左派が、山岳ベースからの脱落者2名を処刑する。これもあまり知られていないことだが、それ以前に革命左派は内部の論争からスパイではないかとされる女性労働者(実際にはスパイではなかった)の処刑を検討していた。脱落者2名の処刑は、ある意味で必然的な成りゆきだったのだ。

いっぽう、赤軍派はM作戦の部隊に帯同していた女性シンパの処刑を決定したものの、成し遂げないまま組織から追放するにとどまっていた。この時点では指導者の森恒夫は、女性シンパを殺さなかったことにホッとし、革命左派の処刑に憤っていた。だが、それが彼の負い目となるのだ。

◆山岳ベース事件

ほぼ全員が指名手配され、山岳を拠点にするしかなくなった赤軍派と革命左派は、獄中指導部の反対を押し切って組織合同をはかる。ここに赤軍派の爆弾と資金、革命左派の銃が結びついた。連合赤軍の結成である。

山を拠点に武装訓練をかさね、爆弾闘争では果たせない「敵を銃でせん滅する」戦いをめざす。

だが、その訓練の過程で「兵士と銃の高次な結合」すなわち「共産主義化」が課題とされた。その方法は、自分の活動を総括(反省)し、共産主義の兵士へと高めるというものだった。しかし総括は告白(告解)であり、総括が成しとげられる規準は、指導者の森恒夫と永田洋子による恣意的なものにすぎないのだ。

ある者は総括の態度を批判され、ささいな過去の瑕疵を「総括できていない」と批判された。そして「総括を支援」する暴力が行使される。

もちろん疑問を抱く者もいた。
「こんなことをやってもいいのか?」(植垣康博)
「党建設のためだ。しかたがないだろう」(坂東国男)
この党建設、軍建設という呪縛が、連合赤軍を奈落へと導くのだ。

リンチのすえに、酷寒のなかで食事を与えられず、餓死もしくは凍死した者は「敗北死」とされた。殺人ではなく「総括できずに敗北した」と、政治的に評価された。かくして、12名の同志が山中で殺されたのである。その後の銃撃戦(あさま山荘事件)は国民の注目を集め、平均視聴率50%(最大90%)を記録した。銃撃戦によって、警官に2名の殉職者、民間人1名が犠牲となった。

毎日新聞(1972年2月28日夕刊)

 

毎日新聞(1972年3月10日夕刊)

◆長崎浩さんの視点──左翼反対派からの脱却

この連合赤軍問題を、ふたつの論攷から読み解いていこう。

「『何が何だかわからないうちに(小熊英二)』彼ら全員を追い立てていたものがあった。私はここであえて連合赤軍と事件の政治的な過去物語を提示しておきたい。彼らの上に跳梁していたのは党という観念であった」

連合赤軍を呪縛したものが「党」であると、「連合赤軍事件──何が何だか分からないうちに」で長崎浩さんは云う。

まずは、長崎さんの妖艶なともいうべき文体を愉しみながら、政治的論理の山脈に分け入るのがよい。

上記の「過去物語」とは、共産主義者同盟(再建準備委員会=情況派)の自己批判にまつわることである。その自己批判とは「連合赤軍派事件に対する共産主義者同盟の自己批判──暴力・党・粛清について」(ローテ第14号)なのだ。当時、ブント右派とされた情況派が、その機関紙上で連合赤軍事件を「自己批判」したのだ。これが「党の態度」なのであろうか。

その要旨は、大衆の暴力に依拠する事業である革命を、連合赤軍は武器と兵士の問題に矮小化した。党と革命を二重写し(混同)する組織論・革命論の伝統が、リンチ(共産党・革マル派・連合赤軍)をもたらした。というものだ。

唯銃主義・党共同体主義と批判された論調の、きわめてラディカルなものであろう。そして新左翼運動の終焉を告げるものでもあったとする。ほどなく、長崎浩とその同志たちは、ブントを解消して地方党へと越境する(「遠方から」)。

私党論をベースにした長崎さんの党概念は、初めて読む人には難解かもしれないので、簡単に解説しておこう。

新左翼(ブント)は、共産党と社民にたいする左翼反対派であるとともに、大衆運動の担い手であった。この左翼反対派とは、社共に代わる革命党建設である。いっぽう、大衆運動の担い手としてのブントは、組織建設に拘泥しない。いわば大衆運動がすべて、ということになる。このブントの伝統が掘り崩された(大衆を裏切った)以上、新左翼は終焉しなければならないというのである。

いっぽう、社共に対する左翼反対派だった新左翼が、唯一の党として立ち現れてくるのが70・71年だった。内ゲバの時代の始まりである。長崎さん流にいえば、多重の左翼反対派の「革命の独占と孤独」である。いまなお革命(批評)家である長崎さんは、その出口をもしめしている。

「左翼反対派の革命の独占と孤独とを、叛乱の大衆政治同盟の同志たちを媒介にして、叛乱へと解放しなければならない」この「大衆政治同盟」とは、任意の固有の党であり、「同志たち」とは大衆のことである。フロイトの『文化への不満』からの引用(連赤事件への適用)がじつに秀逸なのだが、本書を買ってからのお楽しみにしてください。

◆党至上主義と批判の自由

「破防法から五十年、いま、思うこと」の松尾眞さんは、わたしが大学に入った当時の中核派の全学連委員長である。

すでに全共闘世代としてベテランの活動家で、71年の沖縄決戦で「機動隊の命はあと三日!」と劇画的なアジテーションをして、破防法で逮捕されたのは有名な話だ。当時の風貌は黒縁メガネに端正な顔で、いまの白井聡さんによく似ていた。白井さんと初めて会ったとき、おっ、松尾眞さん。と思ったものだ。

とにかくアジテーションがうまくて、全学連委員長の座を堀内日出光さんに譲ったあとは、北小路敏さんに代わって、革共同代表として演説をすることが多かった。破防法で下獄の後、学究活動に入られ、大学教員をへて現在は地方議員である。

ちなみに、当時の革マル派全学連委員長は長谷さんという東大の方で、こちらも指導者としては迫力があった。京大同学会の委員長が市田良彦(神戸大教授)、浅田彰(ニューアカの先駆者)と、優秀な人たちが学生運動の指導部にいた時代である。

さてその松尾さんが、自分の経歴と共に「党組織至上性」を、内ゲバが発生する問題点として抽出されている。もともと無党派の活動家で、京大全共闘の指導部になっていたことは、森毅さんの『ボクの京大物語』で知っていたが、中核派にオルグされる経緯は意外だった。一本釣りなのである。

その松尾さんが、獄中で何を考え、どういう契機から学究活動に入られたのかは知らない。京都精華大学の人文修士課程の論文は「非権力志向連帯社会」だったという。

山村暮らしから得られたエコロジーと地域復興へのこころみ。そして議員活動をつうじて痛感した、批判の自由・言論の自由。じつに面白く読んだ。

関西の革共同の分派のひとたちが、レーニン主義(本多延嘉さん=中核派書記長)の路線から決別したという。ブント系では荒岱介さんの系譜の組織が、ネットワークとして存続しつつも、事実上の党派解散をしている。党に代わる何ものかの組織形態を、発見する世紀に入っているのだといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

いよいよ29日(月曜日)発売!

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

『抵抗と絶望の狭間』(鹿砦社)の書評の第二弾である。

71年は学園闘争の残り火、爆弾闘争の季節であると同時に、東映と日活がポルノ路線へと舵を切った年でもあった。

高部務さんの「一九七一年 新宿」(作家・ノンフィクションライター。著書に『馬鹿な奴ら──ベトナム戦争と新宿』)によれば、東映が7月に『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)でピンク映画へ路線転換した。主演女優は、のちに東映スケバン映画で一世を風靡する池玲子である。

それから四カ月遅れて、日活がロマンポルノ路線をスタートさせる。第一弾は『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)と『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)である。

左から『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、主演女優池玲子)、『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)、『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)

高部さんの記事には、70年代のピンク映画、ポルノ映画の裏舞台があますところなく紹介されている。

爾来、ポルノ映画はレンタルのアダルトビデオが普及する80年代初期まで、エロス文化の王道として君臨したものだ。やはり71年は戦後文化の転換点だったといえるのだろう。

わたしの記憶では、『イージー・ライダー』の日本公開が70年で、その洋画ブームの時期にスクリーンでバストの露出がOKになったと思う。ついでフランス製の性風俗ドキュメント映画『パリエロチカNo.1』の公開があって、思春期のわれわれはフランスのエロスに驚いたものだ。そして海外ポルノの浸食。

その意味では海外作品によって、71年のポルノ路線は道がひらけていたというべきであろう。68年公開の『卒業』(ダスティン・ホフマン主演)では、アン・バンクロフト(恋人の母親)の色っぽいシーンがコラージュのようになっていたものだ。

引用したのはDVDのパッケージだが、映画館のポスターや看板(手描き)はバスト露出がなく、公序良俗が守られていたようだ。

◆SM小説の黎明

板坂剛さんの「一九七一年の転換」によれば、三島由紀夫が団鬼六の『花と蛇』を絶賛したという。覆面作家沼昭三の『家畜人ヤプー』を激賞した三島なら、当然の評価であろう。羞恥と悦楽に苦悶する美女、緊縛という肉刑は三島にとってど真ん中の素材であっただろう。

 

団鬼六『花と蛇』(主演女優谷ナオミ)

その団鬼六は教員時代に、63年ごろからSM小説を書きはじめ、70年には芳賀書店から『天保女草紙耽美館』を、71年には同じく芳賀書店から『団鬼六SM映画作品集 1-2 耽美館』を出版している。ちなみに芳賀書店は、小山弘健やいいだもも、滝田修ら新左翼系の書籍を出版していた版元で、新左翼とエロスの親和性の高さを、何となく反映しているような気がする。

したがって団鬼六は、もう71年には谷ナオミ主演映画の原作者として、確固たる地位を占めていたことになる。じつは谷ナオミのデビュー前から、彼女を買っていたという。

その谷ナオミと吉永小百合を、板坂さんは「この時代の二大女優」だと評している。わたしもそれには賛成だ。ちなみに、谷ナオミの芸名は、谷崎潤一郎の「谷」と彼の作品『痴人の愛』のヒロイン「ナオミ」との組み合わせとされる。いかにも60・70年代らしい、文芸エロスである。

板坂さんによれば、全共闘世代の大半がサユリスト(吉永小百合ファン)だったという。三島は『潮騒』に出演した吉永小百合を「清純なピチピチした生活美の発見」と評し、戦前の薄幸な肺病型の美人との対比を強調している(本文での引用)。ここに板坂さんは「一九七一年の転換」をみるのだが、非常に興味深いのは、吉永小百合と谷ナオミの類似点である。それは女優としては陽と陰でありながら、純真無垢な目つき顔つきだという。

 

吉永小百合

なるほど、吉永小百合の清廉な健康美にたいして、谷ナオミは大きな乳房に象徴される肉体美であろう。そして純真無垢というのはおそらく「穢される美」なのではないだろうか。

吉永小百合を穢すものは、スクリーンに描かれる社会的かつ日常生活の困難であり、谷ナオミを穢すのはサディズムとマゾヒズムの凌辱である。

とくに谷ナオミの場合、高貴な財閥夫人が凌辱される被虐の美は、いかにも戦後的なロマンだが、そこに若々しい戦後日本の欲望と活力を見ることができる。ハードなSM小説が読まれなくなり、男たちがむき出しの欲望をなくした今は、日本の衰退期なのかもしれない。むしろコロナ禍の不況は吉永小百合的な、日常生活の困難があたらしい女優をもとめるのかもしれない。

ところで、吉永小百合と谷ナオミの両者を分けるのは、バストの大きさだと板坂さんは指摘する(笑)。女優でありながら早稲田の文学部を卒業した知性派の吉永小百合と、肉体派という表現が最もふさわしい谷ナオミのどちらが、みなさんは記憶に残っているでありましょうか。また、若い人たちはどう感じますか?

◆炸裂する板坂節

前回の書評が長くなりすぎた関係で、扱えなかった板坂剛さんの対談シリーズは今回も健在だ。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の日大闘争左右対決は、両者が高校時代の同窓生だったこともあって「話はもういいから、外に出て決着をつけようか」など、とくに秀逸だったが、今回は相手が民青だった人である。面白さ爆裂にならないはずがない。

この元民青氏は6.11(最初の右翼との激突)の現場にいて、全共闘のバリケードづくりをともに担いながら、なぜか闘争の渦中に民青に転じるという異例の経歴をもっている。しかも父親の会社を継いで、社長として人生を乗りきってきたという。

マジメな話もしている。ちょっと引用しよう。

S 「僕の価値観からすれば、日大全共闘は正しいと評価するけど、東大全共闘は間違っていたと評価する。従って日大が東大に行ったことは間違っていたという方程式が、僕の頭の中では成立しているんだ」
板坂「一応筋は通っているね。もう今後は日大も東大もひっくるめて『全共闘運動はああだったこうだった』っていう論じ方はやめて欲しい」

視点はともかく、これはわたしも正しいと思う。雑誌で日大闘争の特集をやったさいに、元日大生から言われたものだ。「三派系の学生は六大学が主流だから、地方出身者が多いでしょう。日大全共闘は、そうじゃないんです。日大は東京の学生が多いですからね、慶応や一橋、東京四大学の入試で落ちた人たちが、日大全共闘には多いんですよ」

おそらく地方出身者(六大学+中大)には、この「東京四大学」が何のことなのか、わからないであろう。旧制7年制高校、もしくは財閥系の大学。ということになる。具体的には、武蔵大学(東武財閥)、成蹊大学(三菱財閥)、成城大学(地元財閥)、そして学習院大学(旧華族系)の四大学である。この四大学は野球にかぎらず、年に一度の体育会の対抗戦をやっている。※関西では甲南大学が旧制7年制で、東京四大学と提携した学生募集活動を行なっている。

この四大学には入れなかったが、すこし裕福な家庭の子弟が入学したのが日本大学なのである。そして、そのあまりにもマスプロで劣悪な教育施設(教室に募集人員が入りきれない)に愕き、憤懣をかかえていたところに、不正問題(使途不明金)が発覚したのだ。

最初はひとにぎりの活動家たちの蹶起に、ふつうの学生が賛同してこれに参加した。どちらかというと、秩序派のむしろ右翼的な発想を持っていた学生たちが参加したからこそ、地をゆるがす巨万のデモが実現されたのである。

いっぽう、東大闘争の発端は医学部の処分問題であり、医学部の主流派はブント(社学同)。駒場はフロント(社会主義学生戦線)が教養部自治会の執行部、そして文学部自治会が革マル派。駒場反帝学評(社青同解放派)も勢力を持っていた。ようするに、最初から党派活動家による闘いだったのだ。

全共闘運動は全国に波及したが、バリケード闘争は日大闘争と東大闘争の真似事にすぎない。したがって、雑誌のキャッチを「全共闘運動とは日大闘争のことである」に決めたのだった。その位相は、板坂さんとSさんの論調にも顕われているといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
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◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 

『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 

「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)

『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 

キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
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フィギュアスケート元五輪代表の織田信成氏(34)が一昨年(2019年)11月、「モラルハラスメントを受けた」などと主張し、関西大学アイススケート部の濱田美栄コーチ(61)を相手に1000万円の損害賠償などを求めて大阪地裁に起こしていた訴訟で、気になる動きがあった。

織田氏がこの紛争に関する自身の主張を伝えるなどした出版社1社と新聞社4社に対し、「訴訟告知」を行ったのだ。あまり報道されていない話のようなので、ここで紹介したい。

織田の主張を伝えた週刊新潮2019年10月31日号 ※修正は筆者による

◆濱田コーチも反訴して反撃

まず、この訴訟の経緯を簡単にまとめておく。

織田氏は日本を代表するフィギュアスケーターの1人だが、かたや濱田コーチも宮原知子選手や紀平梨花選手ら多くのトップフィギュアスケーターを育てた有名な指導者だ。織田氏がこの濱田氏からモラルハラスメントを受けたと主張しているのは、2017年4月から2019年9月まで母校の関大でアイススケート部監督を務めた時期のことだ。

織田氏の主張によると、当時、濱田コーチは自分の指導に意見した織田氏に対し、「あなたの考えは間違っている!と激怒し、それ以来、織田氏を無視するようになった。さらに「監督に就任して偉そうになった」「勝手に物事を決める」などと真実と異なる噂を流布するように。織田氏はそのせいで40度を超える熱が出て、動悸、目眩、吐き気などの体調不良に陥ったため、選手を指導できなくなり、監督を辞任せざるをえなかったという。

一方、訴訟が始まると、濱田コーチが「織田氏へのモラハラは事実無根だ」と主張。そのうえで、織田氏がブログや週刊誌のインタビュー、提訴時の会見でモラハラを受けたと主張したせいで名誉を棄損されたとして、織田氏に対して330万円の損害賠償を求め、反訴したのだ。

そんな訴訟は今年3月、デイリースポーツで「双方が和解に向かっている」と報じられた。しかし、濱田コーチが「自分が織田氏にモラハラや嫌がらせをしたことは証拠上明らかになっていない」と謝罪を拒否。そのうえで、「自分は織田氏のせいでマスコミに追われ、街中でも後ろ指を指されるなどした」と主張し、和解の条件として織田氏が自分に謝罪することを求めた。そのため、和解は成立しなかったのだ。

◆「訴訟告知」は敗訴した場合に備えた措置

こうして訴訟が続く中、織田氏の代理人弁護士が講じた措置が出版社1社と新聞社4社への「訴訟告知」だった。モラハラ被害に関する織田氏の主張を伝えた週刊新潮、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞の発行元各社に対し、書面で次のような告知を行ったのだ。

「週刊誌や新聞の記事については、編集、発行を担った出版社、新聞社が不法行為責任を負うべきだ。織田氏の主張を伝えた週刊誌や新聞の記事により、織田氏が濱田コーチへの損害賠償を強いられた場合、織田氏は発行元の出版社と新聞社に対し、訴訟を提起せざるをえない」(告知内容の要旨)

つまり、織田氏が敗訴した場合、今度は織田氏が出版社や新聞社相手に訴訟を起こすことになる可能性を伝えたというわけだ。

もっとも、新聞各紙は織田氏が提訴時に会見で主張したことを伝えただけで、織田氏から責任を追及される筋合いがあるかは疑問だ。一方、織田氏の代理人弁護士によると、週刊新潮は織田氏が濱田コーチのことを「関大の女帝」と呼んでいるかのように書くなど、記事中に編集部が創作した表現を数多く使用していたという。それが事実なら、織田氏が「あの記事の内容について、自分に責任はない」と主張したくなる気持ちもわからないでもない。

訴訟告知を受けた各社はどのように対応しているのか。織田氏の代理人弁護士はこう説明した。

「訴訟告知に対し、何か対応してきた社はありません。それぞれ検討されたうえでのことと思うので、各社のことを無責任だと思うことはありません。我々は、粛々と裁判を進めるだけです」

フィギュアスケート界の有名人同士の訴訟は、はた目には不毛な争いが続いているように見える。早く解決して欲しいと他人事ながら思う。

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

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