出し遅れの告発に水をさすつもりはない。むしろ拍手喝采したい気持ちである。「そんなに嫌だったら何故その時に言わなかったのか」というデヴィ夫人の逆ギレ的批判もまた大いに結構。

 

在りし日のジャニー喜多川

死して尚、賛否両論渦巻くのは天才の証明であると言えるだろう。ジャニー喜多川は天才であったと確認しておきたい。むろん天才が常に正しいとは誰も思ってはいないという前提があっての話であるが。

天才とは時代の常識を覆すことで存在の意義を誇示する人間であり、狂人と紙一重とよく評されるように危険人物である例は枚挙にいとまがない。

彼(彼女)の人生は、正常な市民生活を営むという選択とは無縁である。異常性愛お手のもの。W不倫なんてまだまだ甘い。トリプル不倫か、いっそ無差別不倫でも行けそうな気迫をむき出しにして、モラリストと対立することになる。

ジャニー喜多川の場合、従来の完全無欠なヒーローとは違った新種の《あまり強そうではない、つまり強靭な体力と精神力を見せつけない、要するに女性的、あるいは中性的な、優しさを内に秘めた》美男子像を大量に輩出することで、昭和の後半から日本の大衆にリアルな感動を提供し続けた。その功績は決して過小に評価してはならないだろう。

彼等ジャニーズ事務所出身の俳優兼歌手たちがいなかったら、日本の芸能界から生み出される映画やテレビドラマ、音楽シーンは随分と淋しいものになっていたとは思う。

むろん彼等のうちの誰一人も「桃太郎侍」を演じることは出来なかったし、演じても以前にチラ見したテレビドラマ『華麗なる一族』の木村拓哉も(はるか以前にやはりテレビドラマとして放映された同作品で、同じ役を演じた加山雄三と比べてしまうと)私の目には全くサマになっていなかった。

しかし、その割に原作者の山崎豊子はベタ褒めだったし、女性ファンには好評だったと聞く。そこには性別と世代の違いから生じる美意識の混乱という他はない現象が表れている。ひと口に言えばアイドルの多様化。

いつの時代にも色々なタイプのアイドルがいてそれぞれの好みにあったファンが、彼(彼女)を追いかけてはいた。ただ多様化と言って悪いならバラエティーに富だ大量のアイドル群を増産し続けたのがジャニーズ事務所であることは認めなければならない。

ある時、電車の中で2人の女性が語り合っていたのを思い出す。20代の後半と思われる女性が、熱っぽく語っていた。

「私の青春は嵐だったわ」

嵐の何たるかを知らなかった私は、彼女の青春は嵐のように荒れ狂い、乱れまくっていたのだろうかと想像したのだが、実は違っていた。

彼女の話相手であった年配の女性が次のように語ったのだ。

「そうねえ。私の青春は田原俊彦だったわね」

突出したアイドルがファンの青春に忘れられぬ感情的な発作の痕跡を残すのはよくある話だが、何世代にも渡って青春の通過儀礼を司るアイドルが同じ出所から生み出されたという実績を「伝統芸能」と称されるべきだと考えるのは私だけではないだろう。前時代から伝統芸能の大先輩として国家にまで認知されている歌舞伎もまた男色文化の典型であり、長らく歌舞伎座の2階の客席は「ハッテン場」と称されるゲイの交流場所として知られていた。

今回のジャニー喜多川による「性加害」問題等、歌舞伎の世界では日常茶飯事だったであろうと想像がつく。(つづく)

本稿は『季節』2023年秋号掲載(2023年9月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家、舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

鹿砦社編集部編『ジャニーズ帝国 60年の興亡』A5判 320ページ 定価1980円(税込み)

【主な内容】
Ⅰ 苦境に立たされるジャニーズ
  2023年はジャニーズ帝国崩壊の歴史的一年となった!
  文春以前(1990年代後半)の鹿砦社のジャニーズ告発出版
  文春vsジャニーズ裁判の記録(当時の記事復刻)
 [資料 国会議事録]国会で論議されたジャニーズの児童虐待

Ⅱ ジャニーズ60年史 その誕生、栄華、そして……
1 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
2 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
3 SMAP時代前期 1993-2003
4 SMAP時代後期 2004-2008
5 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014
6 世代交代、そしてジュリー時代へ 2015-2019
7 揺らぎ始めたジャニーズ 2020-2023

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◆大村藩の謎は板坂家の謎

そろそろ本題に入る。前述したとおり江戸時代の初期から大村藩の御典医であった板坂家初代の板坂卜庵という人物、いったい何者だったのか。言語学者だった叔父の板坂元が調査したところ、何と「徳川家康から当時は超高級品だった朝鮮人参を直々に拝受、その時着ていた上下(かみしも)の肩衣を脱ぎ、包んで持ち帰った」という嘘か本当か判らないような話が残っていたそうである。

要するに徳川家康に仕えていたのだがすぐに大村藩に出向したわけで、叔父は「多分、監視役も兼ねていたんだろう」と推測していた。それってほとんど忍者のような存在だったってこと?と私は勘繰ってしまった。

大村喜前の棄教と禁教は全国に先駆けて実行されたが、先代の大村純忠が日本初のキリシタン大名として知られていた史実と照らし合わせると、キリスト教への対応は真逆だが、親子とも変わり身の早さが目に付くのが何となくいかがわしい。

「喜前の突然の棄教の理由として、キリスト教が幕府により厳しく取り締まられることを、喜前は見越していたと考えられます。いち早い禁教政策のおかげで全国禁教令を問題なく乗り切りましたが、多くの潜伏キリシタンを生み出すことになり、後に「郡崩(こおりくず)れ」という潜伏キリシタンが大量発覚する重大事件がおこる要因を作りました」(大村市立資料館特別展『解大藩書─大村藩を解く』)

こういう状況だったのなら、幕府側が禁教政策を実施されているか、いつまた藩主の気が変わってキリスト教を容認することになるのではないか。そもそも大村喜前の棄教は偽装では……といった疑念にかられるのは当然だろう。監視役が必要だったという説にも頷ける。

それにしても私の先祖が、その昔、江戸から長崎大村の地まで派遣された『公儀隠密渡り鳥』であったとは、嗚呼……。

◆その日、歴史館にて

長い間、故意に興味の対象から外していた家系という縦軸の共同体が、いきなり私を呼び寄せているような気がして、行ってみた。

コロナ禍まだ治らぬ折り、国論を2分した「ぼったくられ5輪」に対する憤懣も、原発事故や放射能に関する問題は封印されたかのような世相への反発も胸に秘めたまま、遠隔地への移動は現実からの逃避かとも思えたが、現実を解明する鍵は過去にある、現在は過去の結末であるという自説に基づいての旅路だった。

先祖が大村藩でどんな役割を果たしのか、そんなことは調べても判るはずはない。ただ先祖がどこに住んでいたのか、そこはどんな場所だったのかが判ればいい。そこからきっと伝わって来るものがある……と霊感豊かな私は予測していたのだった。

写真提供=小滝勝

写真提供=小滝勝

そしてその通りになった。

市の中心地にあった大村市立史料館に足を踏み入れてから、数分後に私はその場所に行き着いたのだ。その場所、と言っても、史料館内の最も目立つ展示室に設置されていた城下町の立体的な復元図面内の話だが、百を超える武家屋敷の中に板坂俊道という名前が記された札が置かれていた。

この人は江戸時代の最後を飾った14代目、祖父の先代板坂立栄の父親にあたる板坂家の13代目である。この図面は江戸時代末期の状態を復元したものだものなのだろう。

しかし、江戸時代の末期と言えば、大村藩は長州藩と同盟を結び、倒幕運動に加担している。秋田の角舘にまで出兵して徳川の残党を討伐する戦いにまで決起している。

大村藩を監視するために徳川幕府から派遣された初代の子孫たちは、幕末にはどのようにふるまったのか、気になるところであるが、立体図面をじっと眺めていると何となく判ってしまうことがある。

板坂の邸の前には広い河川敷があり、河川敷はそのまま砂浜に連なっている。江戸時代の板坂家の人々は屋敷を出て河に沿った道を海辺まで歩き、左折して海を眺めながら登城したのだろう。

250年を経て、大村の地が故郷となった人々には初代の思惑はもはや風化していたに違いない。

ただこの立体図面を見て、あらためて感じるのは復元されているのは城と家臣の武家屋敷のみで、農家はもちろん町民の家も全くないことだった。そこには当時の農民や町民、つまり一般民衆にとって、城はあまりにも遠い異次元の世界であり、民意は決して支配者には届かないという過去の「現実」が示されていた。

長崎の原爆による惨禍も、隣県の原発に対する反感もそこからは感じられない。当たり前だ。しかし人間には支配する者と支配される者の2種類がある。その結果が原爆や原発であり、あらゆる争いごとが利権の奪い合いに過ぎないことが感じられると、今はただ沈黙するしかないのだろうか。(おわり)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩
〈3〉大村藩の謎は板坂家の謎

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2024年春号 能登大震災と13年後の福島 地震列島に原発は不適切

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◆滅びゆく家系の末端で

長崎の板坂家の跡を継いだ男性が軍医となって戦地で死亡した後、未亡人となった女性は大村に住み続けたようだが、何故か板坂の名を棄てて旧姓に戻ったため、長崎の板坂家は消滅した。

軍医の死は戦死としては扱われないのだろうか。彼が靖国神社に祀られているという話は聞かない。

父が江戸時代から続いた医師の家系に終止符を打って家を出たのは、南京での受難の思い出と共に軍医になった従兄への複雑な思いがあったのではないかと想像がつく。

「とにかく自分は子供の頃から、軍隊やら戦争やらにアレルギー反応があったんや」

とある時、父は私に言った。そう言った時の淋しそうな横顔が忘れられない。

『大村藩の医療史』によれば初代の板坂卜庵(ぼくあん)という人物以降、14代目になる祖父の先代板坂立栄なる御方まで、江戸時代から続いた大村藩の御殿医(大名お抱えの医者)に連なる家系が、私を守って断絶することが100%確実になった今、父が抱いた感慨が脳裏に伝わってくる。

父は自由人だった。

「医者にはならない」と祖父に告げた時、父は祖父の手でボコボコにされて気絶してしまったそうだが、もし父が親の意向に従って医者になるような人だったら、ボコボコにされる役目は私が演じなければならなかったかも。

家系を背負う重圧に対する鬱陶しさは、自分がその家系にふさわしくないという先入観を抱いていた私のようなコンプレックス・マニアには、幼少の頃からすでにやりきれない精神的苦痛となってつきまとっていた。

幸い家からの離反、家族との決別がトレンディーであった時代が青春期であったので、何の苦もなく家系等意識の外に追いやることは出来たのだが……。

もちろん私が家系から遠ざかった理由は他にもある。もしかしたらこちらの方が重かったような気もする。その理由は大村藩である。

◆暗い過去を秘めた大村藩

今でこそ長崎は遠い昔の「異国情緒」を残したレトロな地方都市として粋な観光地の雰囲気も漂わせてはいるが、元々は大村家の領内にあった場末の漁村にすぎなかったという。長崎を貿易港として開港したのは、後に日本で初めてのキリシタン大名と呼ばれた大村純忠という人物だが、本当に彼がキリスト教にかぶれたのか、南蛮貿易を独占したいための方策だったのか判然とはしない。

なにしろ当時のキリスト教は貿易とセットで世界を支配しようとする布教活動を行っていたと思える節(ふし)が多々ある。はっきり言って「八紘一宇」(世界を一つの家とすること。太平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いた標語=『広辞苑』)や「一帯一路」(中国共産党による新たな「覇権主義」)と似たようなものだろう。最近では織田信長はイエズス会に殺されたという説まで出現して、歴史(過去)は進化するものだと痛感する。

今風に言えば陰謀論だが、ことの真相はともかく大村純忠の所業は、結果だけ見れば滅茶苦茶だった。自分自身がキリスト教徒になるだけでなく、家臣はもちろん領民全部にキリスト教徒となることを強制し、仏教徒であった父純前の位牌を焼却、領内の神社や寺院を次々に破壊したという。主としてポルトガルから来日した宣教師たちが純忠にしつこく進言した結果であることも確認されている。

驚くべき事実は、にわかクリスチャンであるはずの信者の手で、虐殺された僧侶もいるという……この時代のクリスチャンはテロリストと化したのだった。

即ち急激な時代の変化に過剰な反応を示す軽薄な人々による同調圧力は、決して今に始まったことではなくむしろこの国の伝統芸能と考えるべきなのかもしれない。
大村純忠のキリスト教への転向が、利権目当てであったという疑惑は今さら解明する術もない昔話だが、純忠の死後豊臣秀吉のバテレン追放令、徳川幕府の禁教令に順応した純忠の息子喜前はあっさり棄教、キリスト教に対する禁教令を発布することになる。

ここで息を吹き返した神社・お寺さん諸氏が今度はキリスト教徒を迫害するようになる。

キリシタンの長い受難の歴史が始まる。アホかと言いたくなるような変節だが、大村喜前の主体性のない生き様は、秀吉の九州侵攻に手を貸してその覇権先となり、バテレン追放令にもすんなりと同調し、更に元締めが徳川に移行すると、幕府が禁教令を発するのを察知していち早く大村藩全体にキリスト教を禁じる処置を取るというあざとさに示されるように、徹頭徹尾自己保身が優先課題になっている。

そのために住民同士が殺し合い、建造物を破壊するような混乱状態が生じても意に介さない政治姿勢には頭が下がる。しかし今の日本の現状に比べて、あながちひどい時代だったとも言い切れないのはどうしたものか。

すべての問題を選挙でどれだけ票を集められるかを基準に判断する政治家たちの自分の地位を守ることしか考えていないように見える姿は、まるで大村喜前そのものではないか。

もちろんそんな政治家に追従する大衆が悪いのだといえばそれまでの話ではあるが、安倍政権すら倒せなかったわれわれ日本の老害世代に、大村藩の殿様や領民を笑う資格はないということである。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩

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1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

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◆家系という負の遺産を背負って

1980年代の中頃まで、私の本籍地は長崎県の大村市だったが、実は敗戦後の大村にはすでに「板坂」を名乗る人は住んでいなかったという。

私の祖父は熊本医科大学を卒業して医師となり、何故か満州に渡って開業医として大成功したそうで、そこには骨肉の相続争いがあったらしいが、その種の史実には全く興味がないので割愛する。

更に満州から南京に転出した祖父は、南京でもまた奇跡的な成功に恵まれて大邸宅に住んでいたという話である。しかしその話に、疑問を感じないではいられない。

満州の撫順にあった祖父の病院に、戦場で重傷を負った陸軍の軍人がかつぎ込まれた時の逸話が、戦後出版された当該元軍人の回想録に記されていた。

「板坂光君(私の父である)という少年が庭先で遊ぶ声で目を醒ました」

腕か脚を切断するほどの手術の後、麻酔から覚めた時のことを書き記した文章だったと記憶する。この部分だけ読めば単にノスタルジーをかきたてられるエピソードだが、この当時の満州では日本人の医者は中国人の患者を診察しなかったという秘話など耳にすると、さもありなんと思えてしまうのが悲しい。

さて問題はこの時「板坂光君(私の父である)という少年」が何歳だったのかということなのだが、陸軍の軍人が負傷して祖父の病院にかつぎ込まれたのは満州事変の発端となった柳条湖事件(1931年)以降のことであろう。父は十代半ばだったと思われる。

父の出生地が撫順であり、1918年の生まれであることを考えれば、祖父が満州に渡ったのは、満州事変より十数年も前だったことになる。その後、満州から南京に移転したのがいつだったのかは判らないが、交通の便も悪く、社会情勢も安定していない南京市内にわざわざ移り住み、しかも広大な邸宅に居を構えることが出来たのは何故なのだろうか。

そして当然と言えば当然の結果ではあるが、1937年の上海事変の際、中国全土で盛り上がった抗日気運に乗って、祖父の邸宅は蒋介石の軍隊に襲われ、家族はすべてを失って無一文で帰国しなければならなくなった。

その間の経緯については、祖父も父も私には何も話してはくれなかった。思い出したくもないということなのだろうか。2人の死後、叔母にあたる女性から「子供たちまで庭に引きずり出され、銃を突きつけられた時には殺されると思った」と当時を回想する話を聞かされた。相当に緊迫した状況だったようだ。

しかしここでも私には疑問に思えることがある。関東軍が満州で事を起す十数年前、まだ満蒙への開拓移民団さえ組織されていない時代に本土を離れて満州に赴き、開業医として成功していた。にも拘らず、満州国がようやく成立し日本の植民地国家となるのかと思えた頃、逆に日本人にとっては未知の領域に等しい南京をハイリスクな旅の目的地に選んだ理由が判らない。

まるで日本軍の侵略コースを先取りしたかのような道程が何を意味するのか……まさか軍の要請に従ったとは思いたくないが、在留邦人が危険な目に遭っていることを口実に軍が出動するのは侵略者の常套手段である。

祖父の一家が南京から追放された数日後、その報復であるかのように南京は日本軍機による無差別爆撃を受け、4か月後には日本軍は南京を占領した。そして南京大虐殺が始まる。

祖父一家は侵略の口実を作るための囮だったのかとも思える。当時の南京で祖父と同じ目にあった日本人は大勢いたはずだが、彼等に対する迫害が日中戦争を正当化する理由のひとつになったことは確かだろう。(つづく)

本稿は『季節』2022年春号掲載(2022年3月11日発売号)掲載の同名記事を本通信用に再編集した全3回の連載記事です。

◎板坂 剛 長崎・大村紀行 キリシタン弾圧・原爆の惨禍 そして原発への複雑な思い[全3回]
〈1〉家系という負の遺産を背負って
〈2〉暗い過去を秘めた大村藩

▼板坂 剛(いたさか・ごう)さん(作家/舞踊家)
1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

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横浜副流煙事件の「反訴」で、被告A妻(3人の被告のひとり)の本人尋問が行なわれる公算が強くなった。しかし、A家の山田弁護士は、A妻の体調不良を理由として出廷できない旨を主張している。最終的に尋問が実現するかどうかは不透明で、3月11日に原告と被告の間で裁判の進行協議が行われる。

副流煙の発生源と決めつけられた音楽室と、「被害者」宅の距離を示す現場写真

裁判では、作田医師が被告3人のために作成した診断書が争点になっている。これら3通の診断書は患者が自己申告した病状に重きを置いて、化学物質過敏症、あるいは「受動喫煙症」の病名が付された。それを根拠として、約4500万円を請求する前訴が提起されたのである。従って診断書が間違っていれば、提訴の根拠もなかったことになる。

つまり診断書の作成プロセスが問題になっているのだ。言葉を返ると、患者の希望に応じて作成した診断書に効力はあるかという問題である。

この「反訴」の発端は、2017年の秋にさかのぼる。

横浜市青葉区のすすき野団地に住むミュージシャン藤井将登さんは、自室で煙草を吸っていたところ、副流煙が原因で、化学物質過敏所に罹患したとして、上階の斜め上に住むAさん一家(A夫、A妻、A娘)から、約4500万円の損害賠償請求を受けた。しかし、将登さんが喫煙していた部屋は、防音構造が施されている音楽室で、煙は外部にもれない。しかも、喫煙量は1日に2、3本程度だった。さらに将登さんは留守がちだった。A家が主張する副流煙の発生源に十分な根拠がなかった。

それにもかかわらず原告(「反訴裁判の被告」)は、将登さんの煙草が原因で、化学物質過敏症になったと主張し、高額な金銭を請求したのだ。

裁判所はA家の訴えを棄却した。控訴審でも、A家の訴えは一切認められなかった。

将登さんは勝訴の確定を受けて、2022年3月にA家が起こした裁判はスラップに該当するとして、損害賠償裁判を起こした。これが現在進行している「反訴」である。この裁判の原告には、将登さんの他に、妻の敦子さんも加わった。さらに3人の診断書を交付した作田医師については、被告に加えた。

裁判は順調に進み、証人調べの人選の段階に入った。藤井さん側は、A夫の尋問を求めたが、A夫の山田弁護士は体調不良を理由に出廷はできないと主張した。しかし、藤井敦子さんは、A夫が戸外を歩いている場面をビデオに撮影して、山田弁護士の主張が事実に基づかない旨を主張した。

しかし、平田裁判官は山田弁護士の意見を重視して、A夫の尋問は行わない決定を下した。

これに怒った将登さん側は、平田裁判官に対する忌避を申し立てた。忌避の審理には、上級裁判所での審理も含めて、約1年を要した。結局、忌避そのものは認められなかったが、平田裁判官はA夫の尋問を決めた。

山田弁護士は、やはりA夫の尋問は難しい旨を説明した。医師の診断書も提出した。そこで藤井さんの側は、代案としてA妻の尋問を求めたのである。平田裁判長は、判断に迷ったようだが、最終的にそれを認めた。

こうしてA妻の尋問が実現する公算が高くなったが、山田弁護士はA妻の体調不良を理由に、出廷できないと主張している。既に述べたように、裁判の進行協議は3月11日に行われる。

作田学医師が交付したA妻の診断書。根拠なく副流煙の発生源を特定している

※このところ一部の市民団体が化学物質過敏症の患者数を誇張して報じている。化学物質が人体に有害な影響を及ぼすことは、紛れもない科学的な事実で、規制も必要だが、実際の患者数については慎重に検討しなければならない。誇張があってはならない。横浜副流煙事件のような「冤罪」を生む可能性があるからだ。

たとえば市民団体代表の加藤やすこ氏は、「あたらしい年は香害のないきれいな空気で過ごしたい」(『週刊金曜日』2月9日)の中で、化学物質による被害の実態について次のように述べている。

香害に関する情報発信などを行うフェイスブック「香害をなくそう」は、2022年に移香で困っていることについてWEBアンケートを実施した。

回答者600人のうち、「家の中に入る人や、近隣からの移香や残留で、家の中が汚染される」は、90.9%で、「外出先の空間や人から移香して汚染される」は90.0%……

有病率を明記しているわけではないが、香による被害を殊更に強調している。数値に客観性があるのか否かを慎重に検討しなければならない。

この件については、別稿を準備している。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

黒薮哲哉『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』(鹿砦社)

おばんです。ちょっと言わせてください。あのですね、大阪万博をこのまま強行すれば、東京五輪の時以上の過労死者や自殺者がでますよ。新国立競技場の現場で若い現場監督が自殺したではないですか? 現場監督は、大きな現場の全体を把握してないと勤まらない。店に来る職人さんが少し大きな現場に入ると、監督が良いか悪いか、よくわかると言います。今日ある場所でコンクリ打ちするからミキサー車が入るというのに、入る予定のゲート付近に、ほかの業者が資材を山積みしているなんてことがあるそうです。「何やってんだ!ミキサー車来てるぞ、早く片づけろ!」と怒鳴り声が飛ぶわけです。

これは福島第一原発の収束・廃炉作業の現場を知るなすびさん(被ばく労働ネットワーク)も言ってました。福一の現場ではそれこそ毎日多種多様な作業が行われています。ある工事を行う作業員が現場にいくと、別の作業をやっている人たちがいて、自分たちはそれが終わるまで、被ばくしながら待たなくてはならないとか……。

広い現場の全体を把握できる人間がいないということです。しかも万博の現場、なかで作業が遅れているのを見せたくないためか、周囲をぐるりを囲む大屋根が先にできましたが、そうすると、中の工事に資材を搬入するなどの作業がやりにくい、やりにくい。違いますか?

◆ゼネコンの人間は、コンクリ打ったり、鉄骨組んだりできません

あと、万博の建設現場に中に入るゲートが少ないですね。以前、大阪の堺市で大きな電気関係の工場現場があったのですが、誰も行きたがらない。何故かというと、現場へ入るゲートが一本しかないため、行き帰り、とくに早く帰りたい帰り道、ゲートが混んで混んでなかなか出れないらしい。職人さんはキツイ仕事終えて早く一杯やりたいので、現場から戻るのに何時間もかかる現場はいきたがらない。
 
あと、皆さん、万博は大手ゼネコンが請け負うから、優先的に仕事が進むはずと考えていませんか? ゼネコンの竹中、大林に勤める人間がとつぜんコンクリ打ったり、鉄骨組んだりできませんよ。現場で働くのは下請けの作業員、その人数は限られていますよ。その人たちを奪い合うわけですよ。

さっき言ったように、キツイ仕事終わったら早く帰りたい、いっぱい飲みたい、風呂浸かってゆっくり休みたいと思うのが普通でしょう。だって人間だもの……(相田みつお風)。

誰が、帰りに何時間もかかる現場に行きたいと思いますか? 例えば、釜ヶ崎で、手に専門職をもたず、穴掘りなど土工の仕事しかできない人でも、当然ですが、労働者としての「誇り」があります。

阿倍野ハルカスの現場に穴掘りの土工さんとして入った人でも(失礼な言い方ですが、この人たちがいないと現場は始まらない)、「ママ、あのハルカス造ったの、俺だぜ」と自慢するのです。

それが、造っても半年ほどで解体する万博の現場に、「おれ、すごいだろう」と自慢して入れる人はどれくらいいますか? それなら、「能登に行って仮設住宅作って、えらい喜ばれたわ」という現場の方がナンボやりがいがあることか?

だから万博の現場に人は集まりません。首に縄着けて引っ張っていくのなら話は別ですが……。それでも金借りた、昔親方に世話になったなどの理由で現場に行かざるを得ない人、めっちゃ大変ですわ。私だったら単価が多少安くても能登の片づけ作業、解体作業そして仮設住宅造りにいきますわ。

だって、人として、人のためになることをやりたいじゃないか(相田みつお風)。


◎[参考動画]【万博間に合う?】「手が足りない」「めっちゃ急かされる」建設作業員たちの本音 工期遅れで残業やむを得ない状況も…大阪・関西万博の会場建設の現状(MBS NEWS 2024/02/11)

▼尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

尾﨑美代子著『日本の冤罪』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

◎鹿砦社HP https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000733

広島市長、教育勅語引用の抗議に反論 『使い方とかけ離れた議論』」と1月19日付の朝日新聞の記事を目にした。

見出しだけではさっぱり意味が分からない。まさか「平和都市」を標榜する原爆被爆地の市長が、21世紀に「教育勅語」を真顔で持ち出すことなどはあるまい、とは思ったが時代が時代であるので、真相がわからない。広島市役所に電話をしてことの次第を聞いた。

◆広島市長は「温故知新」の解説例として「教育勅語」を利用した?

広島市の代表番号に電話をかけ、問い合わせ内容を伝えたら、教育委センターに繋がれた。

── お待たせしました。広島市研修センターのキョウゴクと申します。

鹿野 お邪魔します。市長が職員の研修に「教育勅語」を使っていると報道で知りました。事実でしょうか。

── はい。

鹿野 どのように「教育勅語」を使っているか、教えて頂けますか。

── 研修の中でということですかね。

鹿野 はい。

── 市長としましては職員研修の中で、市長が大事にされている考えがありまして、それが「温故知新」という考え方なんですけど。それでまあ、先輩が作り上げたものや良いものはしっかりと受け止めて、後輩に繋ぐことが重要であるということともに、一つの事象の中に「良い点と悪い点」が混在していることもあるので、全体を捉えて「良い」とか「悪い」を判断するのではなく、中身をよく見てから、多面的に物事を捉えることが重要です、ということを説明する中で、その中で、教育に関する一例として「教育勅語」を紹介している、と伺っております。

鹿野 ということは「温故知新」を解説される例として「教育勅語」を利用されているということでしょうか。

── ええ。

鹿野 引用されている「教育勅語」を市長はどのように解釈なされているのでしょうか。

── 解釈をしているというのは……。市長としましては、まず「教育勅語」そのものを評価する、ということではないんですけども。また研修の中ではですね、「教育勅語」自体は国会において排除などが決議されたもの、とは紹介はしているのですが、そういったものであったとしても自ら検証をすること、考えてみることを通じて「温故知新」を極めることに繋がるのではないか、と考えているのが市長の思いの一つではあるんですよ(注:太字は筆者)。

鹿野 「教育勅語」はそれほど長い文章ではありませんが、どの部分を「温故知新」と関係あると考えて引用なさっているのでしょうか。

── どの部分をということですかね? 新人研修で引用している部分ですけども、

「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ……」

この部分を載せているという状況です。

鹿野 それは「温故知新」とは関係ない部分です。

── あ、あ、あ、貴重なご意見ありがとうございます。

鹿野 「爾臣民父母」からの部分は、父母に敬意をもって、兄弟仲良くして、という文章です。

── ええ。

鹿野 当該部分の言葉はそれ以外の解釈は出来ません。

── あ、ああ。貴重なご意見ありがとうございます。

鹿野 意見ではありません。日本語ですから。文字通りに理解すれば「温故知新」とはまったく関係がありません。

──  あの「教育勅語」自体を一例として取り上げるために、一部を抜粋してここに載せている、ということだと思うのですけども。

◆「良いものです」とか「悪いものです」と画一的にとらえて判断することではなくて……

鹿野 市長は「温故知新」を大切にしているので、それを説明する資料として「教育勅語」の一部を使っている。

──  いや、あのー、こちらがお伝えしたいのは「温故知新」の考え方が市長にとっては大切だということですけど、その中で一つの事象があった時に、その事象を、たとえば「良いものです」とか「悪いものです」と画一的にとらえて判断することではなくて、中身を自分の目で検証する行為。で、多面的に物事を考えることが重要だということを説明するということで、そういったことを受講者に伝えたいということで、例としてですね、一部抜粋という形ですが、全文を載せるということではなく抜粋して、「教育に関する勅語」を一例として紹介しているということです。

鹿野 市長は正しいかそうでないか「自分で検証しなさい」と研修対象者の方に語っている。

── ええ、そうですね。

鹿野 わたしは市長が語っていること(自分で検証する)を今しているのです。そもそも「温故知新」をどのように理解なさっていますか。

── 以前学んだことですとか過去、昔の事柄をもう一度調べ直したり、考え直すことによって、新しい道理とかそういった知識を深堀したり、とかですね、そういったことかなと思ううんですが。間違ってますでしょうか。

鹿野 「温故知新」四文字です。理解の幅はあるかもしれませんが、文字通り解釈をすれば、「故きを温ねて新しきを知る」との故事と解釈いたします。

── 文字通りの意味ということですね。

鹿野 「温故知新」を大切にしている市長が、先ほど聞いた部分を引用されたうえで、研修をなさっている。

── そうですね。講義をしているということです。

◆「教育勅語」は世界的に民主主義が勃興していている状況を、日本語にして民主主義を謳ったもの?

鹿野 引用された「教育勅語」が「温故知新」とどのように関連するのですか。

── どの部分が、ということですかね。

鹿野 引用されている箇所は「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟……」ですね。

── ええ、ええ。

鹿野 この部分のどこにも「故きを温ねて新しきを知る」部分は見当たらないのではないですか。

── あ、ああ、そういうご理解をされているということですね。

鹿野 いえ、理解ではなく文言だけを読んでです。この部分をどう理解すれば「故きを温ねて新しきを知る」を見いだせるのか分からない。

── 「教育勅語」は戦争が終わった後に、日本人を戦争に持ち込んでいく、という表現が正しいかどうか、あれなんですけども。そういった中で「教育に対する勅語」が戦争が終わった後に、国会において排除等が決議された過去のものということ、を伝えてはいるんですけども。その中で「教育勅語」の言葉の一部を引用しているんですが、抜粋してあるものと、その上に英訳も書いてあるんですよ。実際の資料の中には。市長としましては英訳文とですね、幕末から明治期にかけて世界的に民主主義が勃興していく時代にかけて、「教育勅語」を日本語に訳して漢文調にしたと、説明をしているのですが。(注:太字は筆者)

鹿野 ということは、「教育勅語」は世界的に民主主義が勃興していている状況を日本語にして、民主主義を謳ったものだと、取りあげられていらっしゃるのですか。

── うーん、そういう……どういったらいいでしょうか。

鹿野 あなたのおっしゃったことを復唱しているだけです。

── あの……お伺いしたいいですけれども、よろしいですか?

鹿野 はい。

── あなた様の希望としましては現在「教育に関する勅語」を広島市において新規職員採用研修で一部を引用している、という状況があるのですが、その引用を止めてほしいということですか?

鹿野 いいえ。先ほど来申し上げている通り、お尋ねをしたくて電話しています。まったく意味が理解できない。だからわたしの疑問点をお尋ねしているだけです。

── 疑問を感じているということですか。

鹿野 わたしは、わからないのです。

── は、はあ。それは「教育に関する勅語」を一部引用している箇所が、「温故知新」に合う考え方ではないからわからないと。

鹿野 いいえ。「温故知新」を市長が大切にしていることも電話するまで知りませんでした。

── あ、あ、はい。繰り返しで申し訳ありませんが、あなた様がわからないと言われているのは、「教育勅語」を引用している部分について、なぜこの部分を引用していることが分からない、ということですか。

鹿野 先ほど仰った「教育勅語」は一度国会で排斥された歴史があること、及びわたしは「教育勅語」全文を暗記しております。その経緯を鑑みて「教育勅語」を、どのような意図で引用されどのような目的で研修でお使いになったか、それが知りたいのでお尋ねしています。

── 研修資料にそのように使っているとお伝えしました。

鹿野 はい。ただ市長が「温故知新」を大切にされているから、その資料にだと。

── はは、そこで「教育勅語」とどう繋がっているかが分からい、ということですか。

鹿野 そうです。

── (しばらく無言)

鹿野 いかがでしょうか。

(中略)

── この文(「教育勅語」)からは「温故知新」が読み取れないということですね。

鹿野 引用箇所として教えて頂いた部分に、日本語の解釈上「温故知新」に関わる文言はありません。

── こちらが引用している部分について「温故知新」に関わる部分はない?

鹿野 「こちら」ではなく、市長が引用しているのではないですか。

── ええ、そうです。(無言)

◆「教育勅語」の文章の全ての主語は「朕」ですから

鹿野 再度伺いますが「教育勅語」から引用している箇所に、「温故知新」と結びつく部分はありますか。

── 引用している部分が直接「温故知新」のものかどうかは解釈が、感じ方や捉え方はあると思うんですけど。「教育勅語」自体が過去に国会で排除等の決議がされたものであったとしても、それ自体をも自ら検証して考えるという行為が「温故知新」を極めてゆくことに繋がるんじゃないか、という思いを込めて説明をしていたんですけども(注:太字は筆者)。

ただ、引用箇所についてのご意見を今頂きましたので、それはこちらの職場の中でもでも共有はさせていただきたいと思います。

鹿野 はじめのお答えと違いますね。一度国会で排斥されたものであって、もう一度検証することによって「教育勅語」の正当性があると市長は考えていると。

── 自ら考えてみることが「温故知新」を極めることに繋がっているということで……・

鹿野 天皇の命令により人々を従わせた文言が、敗戦により国会で排斥された。「教育勅語」がです。その中にもう一度価値を見出せ、ということですね。

── いいえ「朕は」という部分は除いた部分で……(注:太字は筆者)。

鹿野 そのような解釈は無理です。この文章の全ての主語は「朕」ですから。

── ご意見ありがとうございます。

鹿野 意見ではありません。もう結構です。

※   ※   ※   ※

勅語(文部省より全国の諸学校に交付されたる教育に関する勅語)

まったく話にならない。「主語」の意味すら理解していない広島市役所の職員は、市長の行為にもかかわらず「教育勅語」を研修で用いることの正当性を、職務上の義務であるかのように、支離滅裂な回答を続けた。

まさか、とは思ったが広島市長は新人職員研修に、なんの躊躇もなく「教育勅語」を利用している。しかも調べてみると松井一実は広島市長に就任した翌年の2012年から昨年まで10年以上「教育勅語」を使い続けている。

わたしの問いに応じた教育センターの「キョウゴク」氏の言葉は、あたかも「教育勅語」の不当性を指摘することが不当であるかのように、不思議。不満気であった。キョウゴク氏の応対は新人職員研修が論理破綻した人間を創り上げることの証左と見るべきか。

「教育勅語」には評価すべき点などまったくない。なぜならば、本文でいくら美談が述べられようとも、この文章全体の主語が「朕(天皇)」だからである。天皇は私人や一般の公人、貴族とも違い、明治憲法上「不可侵」であり「神」扱いされていた存在だから(こんな基礎的な事実は繰り返す必要もないだろうが)天皇の発語は批判を許さない、絶対語だったのだ。

時代錯誤も甚だしい、皇国史観の片鱗(教育勅語)を平然と原爆を落とされた広島市長が使い続けるている。第二次世界大戦敗戦による「戦後」は、広島市においても広島市民みずからのの手(市長選挙)で蹂躙され、時代は既に「戦中」である。呆れてしまうが、呆れている場合か。

広島市長、松井一実が「教育勅語」を10年以上にわたり職員研修に利用している事実は、まず広島市民によって、最大級に指弾されなければならない。

◎[関連記事]これで「平和都市広島」を名乗れるのか? 新人研修に「教育勅語」を11年以上使用してきた松井一實市長にびっくり仰天!(さとうしゅういち)

▼鹿野健一 (しかの・けんいち)
1965年兵庫県西宮市生まれ。複数の企業と大学に勤務の後、現在はフリーライター。国際情勢・政治・教育・冤罪・原発などに関心を持つ。反原発季刊誌『季節』副編集長。単著『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。共著『オイこら!学校』(教育資料出版会)、『1970年端境期の時代』、『抵抗と絶望の狭間/1971年から連合赤軍へ』(鹿砦社)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2024年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2023年冬号

このたび小社では矢谷暢一郎・著『ヤタニ・ケース アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』を上梓いたしました。

矢谷さんは、尊敬する大学の先輩ですが、学生運動華やかりし時代のリーダーでした。その後、仲間の死、運動の解体、闘病を経、再起を期して夫婦で渡米 ── 70年代も終わりに近づいていました。

しかし、ある日突然に、オランダでの学会からの帰途、ケネディ空港で突然逮捕されます。事件から40年近く経ち、その顛末と総括とは?

矢谷さんは、1年がかりで執筆に取り掛かられました。気持ち溢れ過ぎ、この勢いが筆致に表れています。

ぜひともご一読いただき、忌憚のないご批評、ご意見などお寄せいただければ幸いです。

(松岡利康)

▼著者紹介 矢谷暢一郎(やたに・ちょういちろう)1946年生まれ。島根県隠岐の島出身。1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指揮。1年半の病気療養などのため同大中退。77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得。85年以降、ニューヨーク州立大学等で教鞭を執る。86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。

11月20日発売

◎鹿砦社 https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000736
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315312/

筆者は10月16日、日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区、いわゆる呉製鉄所が9月を以て廃止となったことを受け、呉市民の皆様に取材をしました。

今回の取材では様々な世代の方に製鉄所廃止への受け止めや思いを自由に語っていただくことを主眼としています。筆者なりの考え方もありますが、基本的に聞き手に徹することにしています。

呉製鉄所の跡地利用問題ではいろいろな政治家がいろいろな提案をされています。病院船の基地、エネルギー基地、防災拠点……。ただ、やはり、一番大事なのは市民の思いではないのか?そういう考えから、取材に向かいました。

◆製鉄所の跡地利用、現時点では具体的に進む条件なく

写真左が谷本さん、右が筆者

最初に取材に伺ったのは谷本誠一・元市議です。今春の呉市議選では惜敗しましたが現在もあきらめずに政治活動を続けておられます。(写真左が谷本さん、右が筆者)

谷本元市議は、「多くの政治家が提案しているような案の実現は難しいだろう。解体後に更地にしたところで国が買い取ってくれるような話でないと、日本製鉄も乗りづらいのではないか?中央政府の官僚が本気で動くような案がでない会議理、実現は難しいのではないか?」と指摘。

「可能性があるとすれば、市の中心部にある自衛隊が製鉄所の跡地に移動し、自衛隊の跡地を住宅などにする程度だろうが、自衛隊側にメリットがなければ実現は難しい」との見立てでした。

呉市中心部の20代の市民は、「跡地利用はなかなか結論を出すのが難しいのでは?議論を盛り上げるにしても、解体に10年以上あるので、盛り上げのタイミングが難しい。」と指摘。

「跡地利用であるとすれば宇宙産業のようなものだろう。しかし、当面、産業振興策で跡地を当てにするようなやり方は難しいだろう。10年後には自分も年を取っている。待っていられない。産業振興については例えば、地元出身の若い人が、小規模でもいいからネットワークを作り、それを活かした起業を地元に帰ってするとか、そういうことの積み重ねが良いのではないのか?」と、跡地利用については、産業振興への過度の期待を戒めるご意見でした。

いずれにせよ、呉製鉄所跡地を産業振興に直ちに結びつけるような条件はないと感じました。

呉市史を手に筆者に説明される藤川清明さん(右)

◆日本・広島の野球興隆の地・旧呉工廠

呉駅前で印鑑会社を経営されている藤川清明さんは「製鉄所の廃止はショックだし、残念、一方で感慨深い」とのことです。

藤川さんは祖父の住田喜作さんが弟とともに製鉄所の前身の呉工廠水雷部で魚雷製造に携わっておられました。

「日清戦争中の1895年から第二次世界大戦直前の1940年の45年間、職工として勤め上げ、その間、仕事を頑張って海軍から東京での研修、さらには英国への留学もさせてもらった」とのことです。

旧海軍呉工廠は、大まかに言って造船を行う部門と、大砲や魚雷など兵器を作る部門(その中には鉄をつくる部門もあった)があり、喜作さんは兵器をつくる部門で仕事をされ、その場所は空襲で焼けた後、戦後には製鉄所になったからです。

また、戦前の呉工廠ではクラブ活動が盛んだったとのことです。野球部も工廠の各部門に5つもあったそうです。喜作さんが実は、工場内で野球を普及する中心だったとのことです。そして、喜作さんは従業員の子どもさんの間にも少年野球を普及させたとのことです。

タイガースの「代打ワシ」で有名な藤村冨美男。ミスターホークスの名投手・鶴岡一人。また、ジャイアンツで活躍し、引退後は、アンチ読売に燃えてカープやスワローズ、ライオンズの基礎を作った名遊撃手・広岡達朗らを呉は輩出しています。

喜作さんのような存在は、あまり表には出てこなかった歴史ですが、呉市史にそうした喜作さんの活躍が出ているそうです。

◆呉工廠~空襲~製鉄所を知りつくす佐藤康則さん

筆者ら広島瀬戸内新聞取材班にパワポで講義される佐藤康則さん

そして、呉工廠の学徒動員の生存者である佐藤康則さんにもお話を伺うことができました。(以下、同姓の筆者自身との混同を避けるため、康則さんと表記します。)

康則さんに造船所や製鉄所を見下ろすルートでご説明をいただいた後、ご自宅でパワーポイントによるお話を伺いました。

康則さんは、戦前からご家族で呉工廠を見下ろす場所に住んでおられました。呉第二中学校時代に動員され、3年生の時、1945年6月22日の空襲を体験したそうです。

1945年6月22日、海軍呉工廠に米軍のB29が「最初は蚊のような感じ」で現れ(小さな機影とブーンという音)たが、それがだんだん、「エンジンを4つ持った大型のB29」であることがわかったと康則さんは振り返ります。

B29は写真の赤の点線で囲んだ場所をピンポイントで攻撃

B29は右の写真の赤の点線で囲んだ場所をピンポイントで攻撃。このため、工場近くの康則さんの自宅も焼け残ったそうです。

康則さんは「大砲などを作っている部署は破壊しつつ、造船を行う部署は米軍が戦後に使うつもりだったのでは?」と推測しています。

康則さんは防空壕に避難して助かりました。小1時間続いた空襲が終わった後、外へ出てみると、女子挺身隊員が避難していた防空壕が水没してしまい、多数の隊員が溺れてしまいました。教官の指示で、ダメだろうと思いつつも女子挺身隊員らを引き上げて人工呼吸をしたが、もちろん、ほとんど助からなかったそうです。そして遺体は、トラックからはみ出て足が垂れ下がっていたのが印象に残ったそうです。

一方、そのころ、康則さんのお父さんはフィリピンの第103海軍工作所に赴任後、行方不明になりました。

フィリピンを攻め落とした日本軍は米軍基地をそのまま接収して、海軍工作所をつくりました。しかし、1944年12月に米軍の反攻により、逃避を余儀なくされました。だが、康則さんのお父さんは怪我をして山岳地帯でおそらく亡くなったのだろうとのことです。康則さん自身も戦後、何度も遺骨収集に行かれたそうです。

そうしたことから康則さんは、戦後は進学を勧められるも辞退し、英国軍でバイトをしたそうです。とかく、進駐軍と言えば米軍と決めつけがちです。しかし、呉は英国軍の管轄だったのです。康則さんは中学時代に学んだ英語を活かしてイギリス軍で5年間バイトした後、第二種大型免許を取得。日新製鋼に入社し、定年まで勤め上げられました。

退職後もパソコンの職業訓練を受け、その経験を活かし、92歳の現在もご自分でパワーポイントを使ったご講演をされるなど大活躍です。

康則さんには、製鉄所のみならず、旧海軍工廠全体を山の上からご説明いただいております。

戦艦大和も造った造船部門は当時を基本的に残したまま石川島播磨重工業を経由してジャパンマリンユナイテッドの造船所になっています。

戦前・戦中に兵器やその材料の鉄を作っていた区域は6月22日の空襲で完全に破壊されました。そこに1951年、日新製鋼が誘致され、2023年9月まで稼働していました。現在、解体作業が始まっています。

そこで、康則さんはずっと働いておられたわけです。英軍バイト時代を除き、戦中・戦後を通じて同じところで働いておられたわけです。正に生き字引です。康則さん、ありがとうございました。

[左]ジャパンマリンユナイテッド(JMU)の造船所。[中央]解体作業が始まった日新製鋼跡地。[右]佐藤康則さん(右)と筆者

筆者

この日は取材終了後、呉駅前でれいわ新選組・チーム広島の皆様とともに街宣を行いました。

筆者は外遊中の広島県の湯崎知事について「日本酒やカキの売り込みにフランスに行っているというが、三原産廃処分場から出ている汚染水は川や海へ流れ込む。これを放置していては意味がないのではないか?」と指摘。

また、「最近の湯崎さんは、県民の声を全く聴かないで大型事業を進めている。平川理恵教育長は、非正規の先生の待遇改善などを放置してお友達の企業やNPO、赤木かん子さんらを儲けさせてきた。」

「知事は、新たに大学を造ったが定員割れを起こしている。こんなことなら兵庫県のように既存の県立大学の学費を無料にした方が良かった」と批判。

「知事や教育長が好き放題している広島県政をあなたの手に取りもどすヒロシマ庶民革命を!」などとボルテージを上げました。

一方で「地方の庶民に最も優しい政策を打ち出しているのがれいわ新選組だ。国政では応援している。」と紹介しました。

また、パレスチナ情勢に関して「ハマスの行動は国際人道法に違反しているが根本にはイスラエルによる入植など、これまでのパレスチナへの侵略がある。まずは戦闘を止め、人道危機を回避すること、イスラエルに侵略を止めさせることだ。」

「欧米はイスラエルべったりで、イスラエルのネタニヤフ首相の暴走を加速してしまっているが、日本がこういう時に欧米にブレーキをかけないといけない。」
とボルテージを上げました。

広島瀬戸内新聞は呉製鉄所廃止を受けて呉市民の皆様に取材をさせていただいています。

090-3171-4437 hiroseto2004@yahoo.co.jp までご意見や情報をお寄せください。

あらゆる世代のいろいろな方のあらゆる角度からのご意見や情報をお待ちしております。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年11月号

このところテレビで大活躍している知識人らが次々とフェイスブックの広告に登場して、株式投資などを奨励している。たとえばジャーナリストの池上彰氏は、「リタイア層は現在ある資金を減らさずに運用することが最優先です」と呼びかけ、森永卓郎氏は「私は株で十分なお金を稼ぎ、父を最高の老人ホームに送り、そこで残りの人生を過ごしました」と自慢話を披露し、落合陽一氏は、「新しい時代に磨くべき能力とは何でしょうか。それは、ポートフォリオマネジメントと金融的投資能力です」と露骨に投資を呼び掛けている。

左から池上彰氏、森永卓郎氏、落合陽一氏

これらの人々による指南は、投資を活性化するという政府の金融政策と完全に一致している。自分の老後資金は、年金よりも自己責任で確保すべきだとする新自由主義の自己責任論の反映にほかならない。

識者を通じて投資がPRされる背景には、社会福祉制度が崩壊に近づいている事情がある。投資に消極的な人は、いずれ行き場を失いかねないという恐怖を喚起して投資に走らせる目的があるようだ。これはわたしに言わせれば、悪質なセールスと同じである。

それをテレビの常連が、ジャーナリストや評論家の肩書で展開しているのである。投資に走らなくても、安心して老後が送れる社会を構築するために自らの職能を活用しようという視点は何も感じられない。日本の社会制度の中に埋没しているのだ。

投資に失敗して、露頭に迷う層が出現する状況は、カジノにのめり込んで自殺に追い込まれる層が現れる状況に類似している。

◆「中国による謀略論」の愚

日本のテレビには、良識のある識者が登場することは根本的にはありえない。福島原発の汚染水問題にしても、真面目な顔で中国の陰謀論を展開する連中が後を絶たない。政治的な意図があって、中国は日本の水産物の輸入を全面的に禁止したのだと。そんなことを評論家の肩書で、真面目な顔をして言っているのだ。

しかし、汚染水の問題を考える際の大前提になるのは、汚染水そのものが人体に及ぼす影響である。放射性物質が海のプランクトンを汚染し、そのプランクトンを魚が食べ、さらにそれが人間の体内に入った場合にリスクがあるのかどうかが、議論の中心にならなくてはいけないのに、汚染水の「安全」を大前提にして、中国謀略論が前面に出ているのだ。

海水をくみ上げて放射性物質を測定するのも、愚の絶頂である。海水ではなく海底の土壌を調査しなければ何の意味もない。

先日、筆者は遺伝子について詳しいある識者と話す機会があった。この人は、原発反対運動に参加しているわけではないが、物事を純粋に評価するので、わたしは客観的な意見を知りたいときに指導を仰ぐ。汚染水については、次のようなコメントを頂いた。

「危険に決まっているでしょう。テレビに出ている人たちは、本当のアホですわ。何も分かっていない。中国が日本の魚を買おうが買うまいが、そんなことは中国の自由でしょう」

◆軍事大国・米国の裏の顔

ウクライナ戦争の報道についても、慶応義塾大学の廣瀬陽子氏らを筆頭にウクライナが善でロシアが悪という構図での評論が主流になっている。しかし、海外では決してそうではない。

むしろ米国主導のNATOによる東方への勢力拡張やウクライナ政府による人権侵害を問題にしているケースが多い。少なくとも非西側メディアはその傾向が強い。

わたしはウクライナの戦地を取材するまでもなく、この戦争は米国による他国への内政干渉の結果である可能性が高いと推測している。次に示すのは、太平洋戦争の後における米国によるラテンアメリカへの軍事介入とクーデターを示した地図である。

太平洋戦争の後における米国によるラテンアメリカ諸国への軍事介入とクーデターの発生年を示した地図

この地図を見るだけで、戦争国家としての米国の性質が理解できる。そこから米国が主導するウクライナ戦争の性質も推測できるのである。

日本のテレビがジャーナリズムとして機能しなくなって久しいが、このところ識者たちが、テレビを通じて国策に全面的に協力する傾向は一層露骨になっている。わたしは、最近、テレビよりもユーチューブの番組の方が相対的にレベルが高いように感じる。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉のタブーなき最新刊!『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

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