あなたは、台湾に行ったことがあるだろうか。そして、日本統治下や国民党戒厳令下の歴史や、「原住民」の人々のことを知っているか。

酒井充子監督 1969年、山口県生まれ。大学卒業後、メーカー勤務ののち新聞記者となる。台湾の日本語世代が日本への様々な思いを語る初監督作品『台湾人生』が2009年に公開された。以後、『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(2013年)、『台湾アイデンティティー』(2013年)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(2014年)を制作。著書に『台湾人生』(2010年、文藝春秋)がある。現在、故郷・周南市と台東縣の懸け橋となるべく奮闘中 (撮影:小林蓮実)

2017年7月22日土曜日より、酒井充子監督ドキュメンタリー台湾3部作最終章『台湾萬歳』が、ポレポレ東中野ほか全国順次公開となる。それにともない、筆者は先日、台湾の台東縣を訪れたが、このことは次週以降に譲る。

本作は、日本統治時代の愛国教育の徹底や戦後の国民党の戒厳令下などを描き出した『台湾人生』、台湾で生まれ育つも時代に翻弄されざるをえなかったそれぞれの生き様をとらえた『台湾アイデンティティー』に続くもの。戦争を体験しながらも漁師として生きてきた張旺仔さん、同様に漁師だが戦後生まれの「原住民」アミ族のオヤウさん夫妻、パイワン族の父とブヌン族の母の間に生まれた中学校の歴史教師でシンガーソングライターのカトゥさんらが登場する。カメラは彼らの語り、衣食住などの生活、「歌い・踊り・祈る」姿を追う。

九州より少々小さい国土の台湾。先日、本作と台湾のことをより深く理解したいと考え、酒井監督へのインタビューをおこなった。

◆「張さんの地球」から描く、困難を経て現在の台湾があることの喜び

—— 酒井監督は、蔡明亮監督『愛情萬歳』をご覧になって台北を訪れ、侯孝賢監督『悲情城市』のロケ地をめぐっていた際に流ちょうな日本語でおじいさんに話しかけられたことを機に台湾への関心を深めたとお聞きしています。映画製作自体は、どのようなタイミングで決心されましたか。

酒井 『愛情萬歳』を1998年の夏に観て、その舞台となっていた台北に立ちたい・そこに行きたいと感じました。軽い気持ちで台湾へ向かったのです。私は現地でよく道を聞かれるほど台湾の人に見えるようなのですが、『悲情城市』の舞台である九份から台北に向かうバスを待っている際、遠くからトコトコと歩いてきたおじいさんに「日本からいらしたんですか」と流ちょうな日本語で話しかけられました。私は当時住んでいた「北海道から来ました」と答え、その後、おじいさんの幼少期に日本人教師にかわいがられたという思い出、再会の希望の話を聞かせてもらったのです。98年で戦後53年が経過しており、私は日本人の先生を思い続ける台湾人が存在することに衝撃を受け、歴史をきちんと知りたいと考えました。このたった1度の訪台で2000年、「台湾の映画を作る」と決意して新聞記者を辞めたのです。

—— 大変な決意と行動力ですね。では、3部作の構想は、いつからでしょうか。

酒井 制作を進めるうち、なし崩し的なものですね。台湾の日本語世代のおじいさんやおばあさんと出会って話を聴き、この声を届けたい、そのためにまずはこの1本(『台湾人生』)を完成させたいと考えました。また、白色テロ(民主化運動などに対する強権的な弾圧のこと。ここでは、中国で共産党との内戦に敗れた国民党が台湾に本拠地を移し、49〜87年の38年間にわたり戒厳令を敷いた時代の暴力的な直接行動を指す)や戒厳令下のことをもっと聴きたいと考えて『台湾アイデンティティー』を制作し、その最中にプロデューサーが「もう1本作って3部でしょう」と口にしたことが現実化しました。ただし、過去2作はインタビュー中心でしたが、今回は極力インタビューを控え、「生活を撮る」ことを意識した点が異なります。それにより、現在の台湾の時間が見えてくるのではないかと考えたのです。

—— 日本統治下や国民党戒厳令下のことは、徐々に知っていったのですか。現在、台湾といえば「親日」というイメージをもつくらいの人がほとんどかもしれませんが。

酒井 台湾の歴史について勉強しながら、映画を作っていきました。一般的には、日本が統治していたことすら知らない人も多いかもしれませんね。「親日」といっても、この2文字では語り尽くせませんし、何文字あっても足りません。表面的なことは身近に感じられますが、それだけではない、複雑なのです。

—— 『台湾人生』のラストに現場の人間同士の交流を見て胸を打たれ、『台湾アイデンティティー』にその発展を見ました。そしてルーツを辿りながら、『台湾萬歳』は「原住民」と地に足のついた生活者へと至ったのだと考えたのですが、個人的には繰り返し観るほど社会派の文脈中心では語りづらく、張さんの魅力あってこそのヒューマンドラマであり、タイトルから監督の台湾に対する愛と祈りとを受け取ったのです。そこで、監督ご自身が本作で伝えたかったことは、どのようなことでしょうか。

酒井 そうですね。いろいろなことがあったけれど、今の台湾があることの喜びでしょうか。そして、作り手が用いれば陳腐な表現になってしまうかもしれませんが、「人間賛歌」ですよね。

©『台湾萬歳』マクザム/太秦

—— では、監督にとって、張さんの魅力のポイントは、どこにあるでしょうか。

酒井 私は現役で働いている日本語世代を台湾の南側に求めていました。彼の第一印象は、あの笑顔と、下着のようなラフなシャツ1枚の姿だったからわかった働いてきた人ならではの胸板の厚さ。初対面から、運動の代わりのように、なんてことのない畑を愛してこまめに世話をしていて、惹かれましたね。私は山口県出身ですが、同郷の香月泰男という画家を愛しています。彼は『シベリヤ・シリーズ』を手がけ、花・野菜・果物・ヨーロッパの風景なども題材にしています。そして、『〈私の〉地球』という作品があり、出身地でありシベリヤから戻った後に過ごした大津郡三隅町(現・長門市)の家と森の半径数百メートルに手を描き、周囲にシベリヤ(日本軍捕虜の強制労働の地)、ホロンバイル(彼の通過した地)、インパール(日本軍の無謀な作戦で敗北を喫した地)、ガダルカナル(日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した地)、サンフランシスコ(平和条約が締結された地)という地名を書きこんでいます。私は張さんの畑を目にした際、「ここは張さんの地球だ!」と感じました。そして、スタッフに香月泰男のことを話して「張さんの地球を撮りたい」と伝えたら、「わかった」と即答してもらえたのです。そして、5回、計100日の訪台で、最初の2回は1カ月ずつ成功鎮に戸建てを借り、私とスタッフ2人との合宿状態で撮影をおこないました。ただし、毎日カメラをまわすのでなく、張さんの話を聴きながらお茶を飲み、バナナをいただくような日も多くありましたね。

◆屈せず幾度でも立ち上がる台湾の人々の歴史と現在の姿

—— 私は活動家でもあり、ほしいものを獲得できることがある台湾・香港・韓国などの運動や社会をうらやましくも思っていました。先日、別件の取材で、LGBT関連法などの面からも進んでいることも知りました。でも、今回の訪台で、同行の仲間と「どこの社会も変えることの困難は同じだ」「台湾は正式な国として認められていないからこそ国際標準を目指さなければならない」などという会話も交わしたのです。酒井監督は、台湾の現在の社会について、どのようにお考えになりますでしょうか。

酒井 日本統治などは歴史的な事実であり、それを知ることは大切なことです。また、日本が台湾に学ぶべきこともあります。LGBT法や脱原発などの「超最先端」をアピールし、時代を先取りしていく国の立ち位置などですよね。台湾は、世界保健機関(WHO)総会に2009年よりオブザーバー参加してきましたが、17年、中国の圧力で参加が認められませんでした。そのようなことが起こっても台湾はめげることはありませんし、独自のスタンスを示し続けなければなりません。また、末端の声が、国を代表する声になりうる状況ですが、先日、台湾移民を取り上げたドキュメンタリー『海の彼方』の黄胤毓監督は「抵抗すべきことが多くあり、為政者に立ち向かう声が大きくならざるをえない」という旨のことを語っていました。韓国も台湾も80年代に民主化運動が起こり、自らの手で自由を勝ち取ります。日本の戦後、アメリカとの関係などをかんがみれば、大きな違いがあるでしょう。

—— 韓国とアメリカとの関係は、日米関係と似たところはありますが、たしかに大きく異なりますね。とにかく、このような記録には時間的な制限があるとは思いますが、もっと台湾のことも知ることで、日本人が「棄てた」台湾の人々への支援や、原住民の人々・独立についての支援、日本から足を運ぶ人の拡大などにつなげていきたいとも「夢想」しています。

酒井 『台湾人生』に登場してくれた5人のうち4人の方が亡くなり、同様の証言を撮影できるのもあと5〜10年間でしょう。原住民族の村もさまざまです。カトゥさんのブヌン族の村には一体感があり、精神的な豊かさに魅力を感じました。いっぽうで、村全体の佇まいからさびしさや貧しさが伝わる村も多くあります。原住民に対する助成金もありますが、それに頼ってしまうような現状もあって私は、それは大きな課題ではないかと考えています。『台湾人生』のタリグさんによる「名前が日本人や中国人に変わっても、自分が原住民であることを忘れてはならない」「原住民がいなければ今の台湾はない」という言葉が無意識に私の中に残り、それが『台湾萬歳』に結びついたのでしょう。実は、台湾でまだ行ったことのない場所を対象とする次回作の構想もあります。

—— それでは最後に、読者に伝えたいメッセージはありますか。

酒井 とにかく「台湾に行ってください」と伝えたいですね。特に、台湾の人口に比し、原住民の割合は2.3%ですが、台東縣ではそれが3割強にのぼります。『台湾人生』にご登場いただいた唯一の生存者であり、二二八紀念館(1947年に国民党の専売局闇タバコ摘発隊が台湾人女性に暴行を加え、これに抗議した群衆に摘発隊が発砲して1人を殺害。これに対し、2月28日に抗議デモがおこなわれたが憲兵隊による一斉掃射で多数の市民が死傷し、政府関連施設や中国人に対する抗議行動や襲撃事件が全島に拡大した「二二八事件」を伝える場所)でボランティア解説員を務めていた蕭錦文さんは現在引退していますが、会えることもあるかもしれません。そして、『台湾萬歳』はぜひ、笑いながら観てください。

◎台湾3部作最終章『台湾萬歳』http://taiwan-banzai.com/
 7月22日(土)よりポレポレ東中野にて公開ほか全国順次


[参考動画]映画『台湾萬歳』予告編(CINRA NET 2017年6月2日公開)

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)
1972年、千葉県生まれ。大学卒業後、広告代理店・制作会社、サポート校、編集プロダクションを経てフリーライター、エディターとなる。『紙の爆弾』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『労働情報』などに寄稿。映画評・監督インタビュー執筆、映画パンフレット制作・寄稿、イベント司会なども手がける。ドキュメンタリーや60〜70年代の邦画を好む。また、労働や女性などに関する社会運動に携わる。小林蓮実Facebook 

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◆すでに治安維持法より広範囲な共謀罪の犯罪対象

6月15日に成立し7月11日施行された共謀罪だが、北から南まで日本全国で同法廃止へ向けての取り組みがなされている。

犯罪を実行していなくても計画段階で逮捕したり家宅捜査できるのが共謀罪だ。犯罪を「計画した」「合意した」と判定する権限を100パーセント持つのは、警察などの捜査機関だから、警察全権委任法といっていい。

反対者を弾圧した戦前戦中の治安維持法ですら、当初は共産主義者取締などに対象が限定されており、しだいに拡大されて、絵を描く人や俳句の会まで弾圧された。それに対して共謀罪は、277(数え方によっては316)の犯罪に共謀罪がつくので、最初から広範囲の市民に網をかけるものだ。

◆とんでもない危機に、とんでもなくフザけた演劇

すでに法律は施行され、監視が始まっている。戦後日本の最大の危機と言っても過言ではない状況なのだが、このとんでもない危機に、とんでもなくフザけた演劇が上映される。

社会派ブラックコメディを世に放ち続けてきた劇団チャリT企画の『キョーボーですよ!』(作・演出、楢原拓)がそれだ。実は、強行採決直前の6月9日~6月13日に、東京都新宿区の「新宿眼下画廊 スペース地下」で上演されたので筆者は初日に観に行った。

共謀罪をめぐる国会内での与野党の攻防や反対運動がピークに達する時期と上演期間がぴったりと一致してしまったので、リアルな感覚が迫ってきた。この作品が、入場料無料で7月18日に再上演される。

7月18日早稲田大で無料再演決定!『キョーボーですよ!』 

『キョーボーですよ!』上映会のチラシ

今回は、劇団「チャリT企画]と[早大有志の会]のコラボ企画だ。

7月18日(火)18:30開演(18:00開場)
18:30~早大・梅森直之教授 講演「キョーボーですか?」
19:10~劇団チャリT企画 公演「キョーボーですよ!」
早稲田大学小野記念講堂
入場無料(全席自由200席)
詳細は http://www.chari-t.com/pc/information.html
劇団ホームページ http://chari-t.com/kyobodesuyo/

◆「びっくりするほど簡単にあなたも今日から犯罪者」

いったいどのような内容なのか。

《平凡な市民サークルが突然わけもわからずテロ集団と認定され、テロの実行を共謀したとしてメンバーが逮捕されてしまう。そして、ものすごく不当な扱いを受けたあげく、しまいにはメンバー全員に「処分」が下される。

知らなかったでは逃げられない異常な事態。
果たして彼らの運命や如何に?
“今日もあなたを誰かが見ている”》
(以上、同劇団のチラシより)

“今日もあなたを誰かが見ている”

このあらすじは、共謀罪法案の核心を突いている。本人には、犯罪を計画した覚えもなければ、合意・賛同した覚えがまったくなくても、あるいはそう主張しても通用しない。

仮に犯罪計画に一度でも合意(暗黙の合意、目配せでも合意したとされる可能性あり)してしまったら、あとになって「そんなの危ないから止めた」と思って実際に何もしなくても、罪は成立してしまう、ということになっている。

だれかが警察に通報して「こんなことが話されていました」と言えば、犯罪の計画や合意があったとされかねない。そして通報した密告者は、罪を免じられる。したがって、疑いを掛けられた者が助かる方法は密告しかないのである。

本作は、以上のような共謀罪の本質がしっかりと盛り込まれている。人の弱みに付け込んで供述させる警察のやり方、取調べ方法など、おそらくこんなことになるだろうな、と思わせる内容がちりばめられているのだ。
 
もちろんコメディだから笑いっぱなしなのだけれど、笑いながら胃の辺りに不快感を覚えた。夜遅めの食事を採り、朝起きたときに胃がもたれる、あの感覚である。

へたをすると、この演劇はブラックコメディとは言えなくなってしまうのではないか。あたかも近未来の現実をそのまま演じているように思えてしまうからだ。

◆安倍政権こそがブラックコメディ

チラシには小さな文字で「※料理番組ではありません」と笑いを誘うような文言が書いてある。「キョーボーですよ!」のタイトルは、料理番組の「チューボーですよ!」をもじってあるからだ。

だが、公式WEBサイトに掲載された出演者の内山奈々さんのインタビューがアップされている(インタビュアーは小劇場舞台制作団体BMGの長谷川雅也氏)のを見ると、やっぱり料理番組的ともいえる。

「チラシには『料理番組ではありません』と書かれてますが、料理番組と思っていただいてかまいません。どこにでもいる普通のおばちゃんが、『お前、包丁研いだだろ』と言われて捕まるような話です」

その言葉どおりの内容だと言っておこう。

今回の作品を制作した劇団チャリT企画は1998年に結成され、時事ネタや社会問題などの思いテーマをコメディとして世に送り出してきた。「ふざけた社会派」「バンカラ・ポップ」と彼ら自ら称する異色の劇団だ。

過去には、特定秘密保護法をテーマにした『それは秘密です』などを手掛けて注目された。特定秘密の内容はもちろん公開されず、「秘密は秘密」という法律そのものが「秘密は秘密」で一般人にはまったくわからないというマンガ的状況がよくわかる作品だった。

共謀罪でも、森友・加計学園疑獄でも、政府や自民党の対応を見ていると、国会内でブラックコメディを演じているかのようだ。それも、へたなシナリオ、ひどい演技である。

ろくでもない“永田町芝居”を見せられた後に、プロが演じる面白い芝居を観て、共謀罪廃止へ向けてのエネルギーとしていただきたい。


◎[参考動画]チャリT企画『キョーボーですよ!』ゲネプロダイジェスト(2017年6月9日公開)

▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)ほか。林克明twitter 

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クティ(僧宿舎)内。22年前、この壇上で日々の食事をしていました

献上される寄進物。私もこんなふうにバーツ(お鉢)と黄衣を買って来ました。贈ってくれる親族が居ないので自分で買うのです

和尚のアムヌアイさん。私、貫禄で負けそうです

タムケーウ寺の境内。寺の敷地内もこんな綺麗になりました

タムケーウ寺の憩いの場。バス停のような佇まい

なぜ22年もお世話になった寺に足が向かわなかったのだろう。今回、その寺に向かうことになった導きは何だったのだろう。藤川さんが導いたのか、ムエタイ絡みの友達の縁がそうさせたのか。

バンコクからペッブリー県に向かう朝、同行していた友人は仕事でシンガポールへ向かい、22年ぶりの出身寺に向かうのは私一人でした。

サイタイマイという南方行きバスターミナルにムエタイジム経営の友達に車で送って貰い、バスのチケットを買う。以前はエアコンの青色高級大型バスだったのに見渡すとワゴン車が並んだ乗り場しか見当たらない。経費節減でこんな運送手段に変わったのか。真相は分かりませんが係員に言われるがまま、この車に乗り込みました。いずれにしてもペッブリー県まで2時間ほど掛かります。

◆私が出家したタムケーウ寺

着いたところは、私が出家したタムケーウ寺の隣のバスターミナル。何も迷わず寺に着きますが、宿泊地を探してやや遠回り。すると周りをうろつく野良犬が唸りながら寄ってきます。何もしなければ咬まないまず。しかし煩いので、振り返ってカメラを向けると途端に逃げ出す。コンパクトカメラなのに怖いのか。以前、夜に絡まれた際はフラッシュ焚いてやったら途端にシッポ巻いて逃げたものでした。野良犬にフラッシュは効果的です。

私が寺に居た当時に寺の脇にローカル型(エアコン無し)長距離バスターミナルが新たに開設されましたが、今は無く、それとは違う位置にこの日に乗ったワゴン車型バスターミナルが開設されていました(エアコン高級バスはもっと離れた集落にターミナルがありました)。

昔は舗装の無い土埃のたつ路地と草の生える空地でしたが、今や立派な飲食店を含む団地が立ち並ぶ街となっていました。「お前が今度来た時は街の変貌に驚くぞ」と言っていた藤川氏の手紙を思い出す街並みでした。

プラ・ナコーン・キーリー(歴史公園)という観光地の山の麓にある、この寺の中も新たな仏塔が幾つか増え、寺の敷地内に舗装された歩道が引かれ、クティ(僧宿舎)も改築された綺麗さが目立ち、本堂周りも裸足で歩けば尖った地面に痛い思いをするザラつくコンクリート造りからタイル張りのような石畳に変化。これなら裸足で歩いても痛くないはず。お寺もお金が無ければ新たな建築物は建ちませんが、それなりに“儲かっている”と言ってはかなり語弊あるところ、信者さんが寄進する結果の発展をしていることが伺えました。

以前から藤川さんに教わり知っていたことですが、私の出家を認めて下さった以前の和尚さんは十数年前、ニーモン(信者さんの招きでの寄進)に向かう途中に交通事故で亡くなっており、今の和尚は私の初めての剃髪をしてくれた、当時の寺では中間管理職的なお坊さんで、現在51歳。厳しさある歳の取り方が表情に表れている貴乃花親方のような貫禄を感じました。

22年ぶりの再会ツーショット

◆笑って迎えてくれた和尚さんに感謝

笑顔で懐かしそうに迎え入れてくれましたが、最初に出た言葉が「よく来たな、もう嫁はもらったか?」。

「居ねえよ!」とは思えど、そんな目くじら立てることではなく、「居ない居ない、一人で居る自由奔放な人生だから」と言うと、「お前はホモか、ワッハッハッハ!」。

イラつく会話ではなく、「お前らこそホモ集団だろ、何十年も寺に居やがって!」とはギャグ的に思っても声には出していませんが、笑って迎えてくれた和尚さんに感謝でありました。

「今度、出家したいと言う友達を連れて来たら、この寺で出家させてくれますか?」と尋ねると、いとも簡単に「いいよ!」という返答。タイ人は先を読まず簡単に了解する民族であります。後になって「ダメダメ!」と言い出すこと当たり前なので再度交渉が必要です。

しかし、「で、いつ来るんだ?」とは気の早い展開。いやいや、その想定で聞いてみただけで実際に身近に出家志願者が居る訳ではない。しかしそんな心に悩みを持つ人生転機に、志願者がいつ現れてもおかしくない状況でもあるのです。そんな前準備的相談の訪問でもありました。

献上される寄進物。お坊さんに渡すグッズ数、15名分でしょうか

得度式を行なう本堂。懺悔の式もここで行ないました。懐かしい場所です

フェイスブックに夢中のメーオさん

◆また一人懐かしい僧侶と再会

そんな話は先延ばしとして、また一人懐かしい僧侶と再会。私より10歳若いお坊さんで22年前は23歳ぐらい。今は45歳と言う“メーオ”というニックネームで呼ばれていたお坊さん。まだ居たか、お互いハグまでした懐かしさでした。

「こいつは学も無いし、坊主やっているしか無いやろうなあ。還俗したところで就職先も無いやろうし」とは私がまだこの寺に居た頃の藤川さんの言葉。そんなことを思い出したのは、このメーオは数年前、一回還俗したことがあるという。たった5日で再出家したと言うメーオ。その理由を教えてはくれなかったが、藤川さんの言葉を思い出してしまうのでした。

しかし、こんなお坊さんは知能が低い訳ではありません。田舎では幼い頃に学校に行く機会が無かった者が多かったのです。今とはまた時代が違うので比べられないですが、メーオが持っていたのは“スマホ”。いとも簡単にフェイスブックを使いこなす。その中でも友達の多いこと。私は専門学校まで出ていても未だに使いこなせない。

外から見たクティ(僧宿舎)。藤川さんの部屋もここにありました

寺周辺でたまたま祭りの露店が並んだ店

◆「寺に泊まるか」とは誘われたが……

そんなクティの中で、早速翌日、得度式(出家式)を迎える青年が経文を暗記している姿を発見。これは撮って行こうと早速、得度式の撮影許可依頼をしました。ここでも「いいよ!」と誰もが言う簡単な了解。和尚は以前の私の撮影姿を見たことがあるお坊さん。どんな撮り方をするか、おおよそ想定出来たと思いますが、なかなか一般人として高僧の前をどこまで踏み込めるかは難しい問題があるのは承知の上でした。

その青年の親族が石鹸や歯ブラシなどの日用品を包んだ、寺での必需品を持って現れ仏壇に献上。といってもそんな僧侶グッズが街で売っている必需品であります。更に僧志願者に与える黄衣も同様に捧げていました。

僧志願者の若者は21歳で“ワサン”と言う名前でした。この得度式のため、過去に藤川氏が移籍したサムットソンクラーム県の寺に向かうことは中止として、スケジュールどおりにはいかないのがタイの常識ではありますが、機転を利かせて動く心構えで翌日の得度式に準備を整えました。

「寺に泊まるか」とは誘われましたが、寝る部屋も固い床に毛布一枚だったり、水浴びも想定も出来、懐かしい寺の造りの中ですが、先に近くにとったゲストハウスに戻ることにして、賑やかな寺周辺のターミナルや、たまたまお祭りの露店が連なっており、見て歩き食事もして、この日を終わりました。(つづく)

よそ者に吠えて向かってくるがカメラを向けると逃げる犬

◎ 私の内なるタイとムエタイ 〈1〉14年ぶりのタイで考えたこと

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』7月号!愚直に直球 タブーなし!【特集】アベ改憲策動の全貌

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

タートゥトーン寺の本堂。タイ街並みで必ず見れるお寺の佇まい

スクンビット通りの朝の露店。御飯のオカズとなる惣菜がビニール袋に入れられて売られています

エカマイ地区路地の露店。ぶっ掛け御飯のオカズとなる惣菜

エカマイ地区路地の露店。串焼き

BTS電車の車体、外からは中が見えない構造。プラットホームで写真を撮影していたら警官に怒られました

14年ぶりのタイ。17年ぶりのラジャダムナン・スタジアム。22年前に自分が出家したお寺を再訪し、ラオスへも足を延ばす旅──。ある旅行社関係から依頼があり、この5月、久々にタイへ出かけました。

ムエタイの試合とジムの様子、僧侶とお寺、歓楽街と売春婦、トゥクトゥク(サムロー)のボッタクリ、市場の賑わい、屋台の飯、市内バスと渋滞と排気ガス、買い物の値切り、チャオプラヤー河やメコン河の優雅な風景、街の野良犬野良猫、歩道橋の乞食……。タイを訪れるにあたり、思い出される景色には枚挙の暇がありません。

◆1993年、「オモロイ坊主」藤川清弘僧侶との出会い

1993年のことでした。ある偶然の導きから藤川清弘氏というタイ仏教の僧侶に出会いました。藤川氏はもともと京都で地上げ屋をやっていて、その後タイで事業を営み、51歳の時にタイで出家したという「オモロイ」経歴の持ち主でした。

私は、当時一時僧経験者だった藤川清弘氏と出会い、その後、タイ仏教のもと、ペッブリー県で再出家に至った藤川氏にお願いして、私自身も短期間出家したことがありました。その頃のお話は、いまから10年以上前に藤川氏のホームページ「オモロイ坊主を囲む会」で一度レポートしたこともありました。

藤川氏は2008年以降、胃癌を患い(それと直接的ではないようですが)、2010年2月に脳内出血で倒れ、永眠されています。

私の先導でタイ、ラオスを訪問するという今回の旅程を打診された時、当初それを受けるか否か躊躇しました。しかし、「悩んどらんと行ってみんかい!」と、藤川氏ならば、そう言うであろう言葉に背中を押されるかのように、14年ぶりのタイ行きを決心しました。その意味で今回の旅は、かつて私を指導してくれた藤川清弘氏と一緒に歩いた街並みを再び歩く旅でもありました(※藤川清弘氏との思い出は今後、別の機会に詳しく書かせていただきます)。

とはいえ、行きたくて指折り数えていた訳ではありません。夢にまで見たのとはむしろ逆でちょっと憂鬱。期待と不安がないまぜとなったままでの旅立ちでした。

◆エカマイ駅南側地区市場──早朝、市場に僧侶の托鉢姿を見に行くも……

タイでの滞在期間、ちょうどラジャダムナンスタジアムチャンピオンのT-98(=今村卓也)のムエタイ王座防衛戦も重なりました。試合は前回お伝えした通り、残念ながらT-98(今村卓也)は判定負けでムエタイ王座から陥落しましたが、それを取材することができました。

T-98取材当日の早朝、宿泊先のホテルから二つ先の駅、スクンビット通り“ソイ42”のBTS(高架鉄道)エカマイ駅南側地区にある市場に行きました。「僧侶が大勢、托鉢をする姿が見られる」といった同行者の誘いで行ってみたのですが、寝坊してしまい市場に着いたのは朝8時。すでに僧侶の托鉢時間は過ぎており、朝のラッシュの姿に変わっていました。

とはいえ、市場にはまだ賑わいが残っていて、旅行者が楽しめる風景が目白押しです。ソイと言われる路地には車が通る中、露店が連なります。衣料品も日用品も装飾品も並び、犬も寝転がる呑気さ。ぶっ掛け飯屋もあり、注文するがまま、御飯にオカズをのせてくれます。

エカマイ地区路地の露店。焼き鳥と焼きおにぎりでしょうか

エカマイ地区の路地の露店。ここで御飯に掛けて奥のテーブルで食べることもできます

次に訪れたのはエカマイ駅北側にあるタートゥトーン寺。ここはかつて藤川僧とバンコクに出た際、一泊だけさせて頂いた寺でした。しかし、その寺の面影の記憶が少なく、新築・増築された真新しい光景が目に入りました。かなり広い寺で22年前もどう歩き、どの辺りのクティ(僧宿舎)で泊まったかも全くわからなくなっていました。

タートゥトーン寺の本堂。読経の際は僧侶が壇上に座ります。一般人は低い後方の地べたに座ります

タートゥトーン寺側から見た至近距離にあるエカマイ駅。寺の門に迫る門より高い高架鉄道の駅、こんな時代となりました

◆言い値で乗ったトゥクトゥクもマイペンライ(大丈夫)

夕方にはT-98の試合のため、ラジャダムナンスタジアムへ向かいました。しかし、、フアランポーン駅前でしつこいトゥクトゥク(サムロー=三輪タクシー)に言い寄られながら「行くにはトゥクトゥクが楽だな」と同行者と決心し交渉。

「100バーツで行ってやるがどうだ?」と言う運転手に、「100でも高いだろうな、昔なら50バーツかな」と一瞬思いました。とはいえ、現在の相場もよくわからない。なので、運転手の言い値でトゥクトゥクに乗り込みました。

というのも、他の運転手は「200バーツ!」と言って来た。これはさすがに高い。私が選んだトゥクトゥクの運転手も「いや、100でいいよ」と笑っていたほどです。「旅行者が値を吊り上げている」と言う現地滞在者の話も聞きますが、私は根っから交渉下手。「ちょっとぐらい許して」と思って、そのトゥクトゥクに乗りました。

運転は思った通りの昔ながらの暴走モード。慣れればそんなに荒れた運転ではないのですが、滅多に乗らないとやはりそう感じます。多少ボッタくられたかもしれませんが、笑顔で人のいい感じの運転手さんでした。

フアランポーン駅に陣取るトゥクトゥクの群れ。旅の気分を味わうにはこの乗り物が最高

ただし、かなりスピードを出す奴もいます

◆大らかなタイ時間のおかげで出会えた懐かしい友

ラジャダムナンスタジアムのチケット売場。観光客は案内係りに導かれることでしょう

ラジャダムナンスタジアムでは、タイの知人カメラマンの来るのが遅い、さすがおおらかタイ人。リングサイドには知らないカメラマンが一人。日本の早田寛カメラマンも現れ、協力的な雑談。

タイ知人のカメラマンがやってきたところで打ち合わせをしていると、先に居た知らないカメラマンから声が掛かりました。実はそのカメラマン、知らないどころか懐かしい友人カメラマンでした。気付かなかったのはお互いが歳を取ったからで、昔一緒にムエタイの写真を撮っていた仲間でした。懐かしいあまりいろいろ話しかけてくれ、いざリングサイドに入る頃はカメラマン皆が「大丈夫だ、ハルキはここに居ろ」と補助してくれる有難さ。

こんな形でT-98撮影は無事終わりました。やれやれ、ひとつの目的は達成。これで帰国してもいいと思ったところ、同行者である友人は当然ながら“本番はこれから”と「明日から宜しく!」と気合充分でした。(つづく)

ラジャダムナンスタジアム最終試合の背景。なかなか観易い構造のスタジアム

指で賭けを誘う賭け屋の迫力はいつも凄い。観光客には分かり難いです

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』7月号【特集】アベ改憲策動の全貌

4月28日に逝去した「浅草ロック座」のオーナーだった斎藤智恵子さん。その斎藤さんはいくつもの「伝説」を残している。通称「斎藤ママ」のレジェンドを知る、数少ない人のうちのひとり、神山典士氏にインタビューを敢行。天才、勝新太郎に20億円をポンと貸し、その勝プロの権利を活かして世界の北野武に映画『座頭市』を作らせた大立者は、一方でドラッグで逮捕された小向美奈子を救済する一面もあった。知られざる「浅草ロック座の女傑」斎藤ママの横顔が、神山氏の言葉からかいま見える。(聞き手・構成=ハイセーヤスダ)

 

浅草ロック座HPより

── 斎藤智恵子さんとは、どこで出会いました?
神山 俳優の勝新太郎さんが生きてる頃、浅草に“ママ”がいるって聞きました。よくわからずに「ママって何ですか?」って言ったら浅草にものすごい“大立者”のばあちゃんがいて(笑)。「実はさ、オレそのばあちゃんに世話になってるんだ」って勝さんが言ってたんですよ。それで会いに行ったのが1996年ですかね。そうしたら勝さんは、おそらくは、すでに入院してたのかなぁ……。ガンにかかっていました。最後に勝さんが言うには、「ママには次は300万円ぐらいの三味線を今までのお返しであげるんだ」って言っていまして、実際、プレゼントをしていたのですね。その三味線の写真もいただきました。そのあとでママに会いに行ったら「まぁ先生に三味線をいただいたの」と。勝さんのことを先生って言っていました。
── そんなことがあったのですか。それは借金を返せないかわりに、ということですよね。
神山 三味線ひとふりぐらいじゃね、全然、それまでお借りしていたお金のお返しにはほど遠いでしょう。(編集部注:勝新太郎氏は、テレビ『座頭市』の制作費を斎藤さんに約20億円ほど借金していたと報道されている)
── 一般には報道によると勝さんが斎藤さんに借りたお金は約20億と言われてますよね。
神山 正確には知りませんが、渋谷に持っていたホテルを売るくらいだから、大変な額ですよね。
── 神山さんは斎藤さんとの交流を雑誌『AERA』や『中央公論』で書いてらっしゃいますよね。
神山 そうです。書きました。それで勝さんが死んだ後、勝さんのことを拙書『アウトロー』に書く時にも斎藤さんに出てもらったし、それから斎藤ママのことも書きたいと思って中央公論が最初だったか、『AERA』が最初だったか何回も何回も書いていたんですよ。それで98年か99年ぐらいにアマゾンに行ったんですよ。

 

神山典士『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』(祥伝社黄金文庫2014年)

── アマゾンに?
神山 僕が『ライオンの夢』(現在は祥伝社黄金文庫『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』)という作品を書くときにアマゾンの取材をやってて、ものすごい居心地がよくて、向こうには100万人以上の日系人の世界がありました。現地では、移民の人たちがロック座の踊り子の本場の踊りとを見て喜ぶから「ママ一緒に行かない?」って言ったら「よし行こう」と言い出しまして。踊り子6人ぐらい連れて。あと着付けの人と髪結いとそれから照明とマネージャーと僕ら取材人が3人ついて映像もとったりなんかしながら行ったんですよ。
── 豪華な旅ですね。
神山 10日間ぐらいの旅で、ママだけファーストクラスで、自分たちはエコノミーなのでしたけど(笑)。サンパウロから始まって、前田さんのお墓があるアマゾンのベレン、南のポルトアレグロをまわりました。各地どこでも大盛況で、踊り子たちはホームステイもして、最後はみんな大泣きでしたね。
── 儲かってた時代ですよね。
神山 当時は儲かってたよね。
── まだ景気が上昇していた時代ですね。
神山 かつてのようにロック座が全国チェーンでもなく、全盛の頃ではないですけれども、ただまぁ斎藤さんの会社は不動産もありましたし、パチンコの換金所みたいなのもやっていましたし、芸者置屋もありましたし、ロック座もあの頃は仙台にもありましたからね。仙台、上山田、横浜などなどです。
── 斎藤さんとは死ぬまでお付き合いされてたんですか?
神山 そうです。晩年はもうお仕事から身を引いていました。でも半年に1回か2回は行くようにしてて、「お食事処」っていう彼女がやってる食堂がありまして、そこに行けば斎藤ママや関係者に会えましたから。
── 斎藤さんとの思い出で印象に残ることは?
神山 色々もちろんあるんですけど、踊り子達のことですね。踊り子のOG達と会うと、こう中に何人か幸せな結婚をした子もいるし、それからどこに行ったか分かんなくなっちゃった子も多いのですが、最後には寂しさを引きずって辞めていくでしょう。
── 踊り子がですか?
神山 そうです。
── 年齢もあって。
神山 年齢というかですね、やっぱ男関係とかね。そういう意味ではこう、斎藤ママは浅草ロック座でけっこう強固な“女軍団”を作ったのですが、最後まで残ったのは“古い踊り子”だけだったのです。
── 最後に斎藤さんに会われたのは?
神山 最後に会ったのは今年の1月でしたでしょうか。
── 何の用事でしたか?
神山 実は浅草あたり行くたびに顔出すんですよ。その日も夜9時くらいに行ったと思います。
── 小屋にですか?
神山 小屋というか「お食事処」ですよね。で、斎藤ママは麻雀やっててちょっと会っただけです。ママが経営していました『お食事処』はママの入院中に締めてしまい、働いていた人にとっては青天の霹靂で「何であそこは閉めたのっ?」て聞きました。
── 悲しいですね。私も行ったことあります。もう入れないんですか?
神山 もう入れませんね。お葬式の前から片付けやっていました。
── 斎藤さんのお葬式には行かれたんですか?
神山 行ってないんです。その2日前に自宅にご挨拶に 行きましたが、もう家に安置されてて、お焼香させていただきました。
── 斎藤さんが亡くなってから浅草自体行ってないですか?
神山 葬式終わった後は行っていません。
── 勝新太郎さんの死に目は遭ったんですか?
神山 遭っていません。
── 勝さんと斎藤さんとは最後まで仲良かったんですか?
神山 ええ、ママは(勝さんを)尊敬していましたから。勝さんの妻、玉緒さんも毎年正月3日に姿をみせていましたね。
── 斎藤さんのところに?
神山 新年会をやって、7階がものすごいどんちゃん騒ぎで、若山富三郎、玉緒、北野武……大御所たちがまぁやっぱりママの前では頭あがらなかったですね。
── 面白いですね。
神山 俳優の山城新伍も物まねのコロッケも来ていました。たけし軍団ももちろんです。
── 本日はありがとうございました。

※斎藤智恵子さんのご冥福を祈ります。(ハイセーヤスダ)

▼神山典士(こうやま・のりお)
1960年埼玉県生まれ。川越高校を経て84年信州大学人文学部心理学科卒業。同年4月ISプレス入社、86年12月同社退社。87年1月上海倶楽部設立。90年5月株式会社ザ・バザール設立。96年『ライオンの夢 コンデコマ=前田光世伝』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞、2014年に起きた「平成のべートゥベン」の佐村河内守のゴーストを新垣隆がしていたことを『週刊文春』で暴き、大宅壮一ノンフィクション賞受賞、注目を浴びる。最新刊は7月10日発売の『成功する里山ビジネス ダウンシフトという選択』(角川新書)。公式ホームページ http://the-bazaar.net/

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論! 蹴論!」の管理人。

本日発売『紙の爆弾』7月号!【特集】アベ改憲策動の全貌

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

 

このブログは、マスコミ志望者が多く見ているようだ。その前提で、旅行記を少し展開しよう。少しでも参考になれば幸いだ。伊豆の熱川にある「熱川バナナワニ園」に行ってきた。おもえばこのテーマパークは、ワニと熱帯林を売り物にしていたが、小学館「マミィ」という母親向け月刊誌を作っていたときに、このテーマパークの売りが、「小学生でも乗れるオオオニバス、つまりでかい蓮だと書いた。このときに、自分は、蓮に乗る少年の写真をここから借りたはずだ。あれから24年がたち、伊豆の現地にて蓮やワニや、熱帯林を見てみると、「時間がたったのだなあ」と感慨にひたることができる。

まったく脈略がないが、いまは東南アジアへの移住がブームだという。年金が月に10万円しかもらえない。ならば、物価が3分の1か4分の1の台湾やタイ、もしくはベトナムやカンボジアなどで老後を暮らそう。そう考える人たちがもはや年間20万人を突破する時代となった。

 

 

ゴールデンウィークに入る直前、4月29日の「熱川バナナワニ園」は、家族連れが多く、ワニや熱帯のバナナを見にくる家族でごった返していた。

伊豆といえば、「伊豆の踊子」という川端康成の小説が有名だが、これは川端が本当に旅一座の女と出会った体験がもとになっている。最近はファンタジーノベルだの、ライトノベルだの頭の中で作ったような小説ばかりが書店にならんでいるが「実体験」に勝るものはない。

つまり、旅は「出かけた者勝ち」であり、伊豆であろうとタイだろうと、イギリスであろうとバングラディシュだろうと「見てきた人」が書いたものに勝るものはないのだ。

『原稿執筆入門』(竹俣一雄著)にはこう書いてある。1976年の本なので、表現がやや古い。

「ルポルタージュとは、報告文のことである。英語でいえば『レポート』または『リポート』、最近では『ルポ』と略されている。おまけに仏英チャンポンの「ルポライター」などという職業名が市民権を得ているようだ。この新しい職業名をもつ人たちの仕事の内容を考えてみると、べつに新しいものは何もない。「記者(新聞や放送などの)が書くものは、すべてルポルタージュである」といってもさしつかえはない。要するに、読者の代表として、かわりに見て(聞いて)くる報告である。ただ、新聞記者の場合、記者は読者の目となり、耳となるのだが、新聞社という機構の一部で、その代理者でもある。それに、新聞という媒体の特性が、制約を加える。ルポライターは、原則としてフリーランスである。新聞に原稿を載せるような場合、規制も若干ゆるい。最近の流行語?個性的?を売りものにすることができる。実際は、媒体側はその体質に合うライターを選択して書かせるので、それほどかけ離れた?個性的?なものを採用するわけでないが…。それでも、個性的であることは、やはり必要とされている。』(11章 ルポルタージュの心得)

話を「マミィ」の時代に戻す。その場合は、どうしても小学生の子供を持つ視座が必要だったので、「オオオニバスに子供がのれる」という事実を全面に出した。だが、実際に目にした『熱川バナナワニ園』の迫力は、寝ているのか死んでいるのかわからないまま集団で固まるワニたちと、生命力に満ち満ちている青いバナナの一連だ。

『原稿執筆入門』の竹俣氏は続ける。以下のポイントがルポをする上で重要だというのだ。

 

〈1〉 まず、虚心に見る。意識しないで見ているつもりでも、先入観が働いていることが多い。つとめて自分を出さないようにする。

〈2〉 自分の行動のすべてが、読者の興味になっていることを忘れてはならない。現場に臨んでからが勝負ではない。書こうと決心したときから勝負は始まっている。

〈3〉 読者の代理人であることを忘れはならない。専門的なことは専門家に聞きだすこと。(取材、文献、史料、資料を調べるなど怠ってはならない)

〈4〉 対象を反対側からも見てみる。一方から見たら、右や左、反対側に回ってみる。そして、書く立場を選択、決定する。通りいっぺんの観察だと見逃す点が多い。

〈5〉 周辺の状況を軽視してはならない。状況を描くことで対象が浮かびあがる。服装だけでも、どんな人間なのかその性格まで描くことができる。

〈6〉 想像力を働かせる。現場にいない(反対の立場)人の心理を推理すること。温かい思いやりを忘れては、けして完全なものはできない。

〈7〉 自分の意見、解釈は、前面に出さない。

僕としては、過去に表現と解説を逃げた「熱川バナナワニ園」の解説がまた巡ってきた。かつてと同じように、僕は熱帯性植物を語るすべをもたないが、ルポルタージュの基本に立ち返り、ふたたび表現をみつけたときにまたおもしろい植物を紹介しよう。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

 

昨年の秋、タイに行って来た。タイミングとしては、プーミポン国王(ラーマ9世)が10月13日に逝去して、まだ日が浅かったので、かなりの人の服装は黒かった。4割くらいは喪服だったのではないか。

タイで有名な観光スポットの「ワット・ポー」にも行ったし、かの有名なメコン川の水上バスにも揺られてみたが、一番の見所は、やはり早朝の朝6時からオープンしている「問屋街」だろうと思う。頭が切れる連中は、ここに来てTシャツやトレーナーを200円くらいで大量に買い付け、日本のオークションサイトで2000円くらいで売っている。まさに1800円の利ざやだ。これを練金術と呼ばずして、なんと呼ぶ?!

ぼく自身は、タイへの憧れは強い。自身、近年は海外取材を増やして英語やタイ語もテキストを購入し、鋭意、習得に取り組んでいるが、さすがに50歳をすぎると頭に入ってこないのが悲しい。

ところで、日本からタイへの直接投資額は世界でも群を抜いており、タイ投資委員会(BOI)によれば2016年1月から9月期は317.4億バーツ(185件)で2位のシンガポール(266.5億バーツ)以下を大きく引き離している。この状況下、日本人ビジネスマンは多数、タイにやってくると確信し、彼等の役にたつ情報をより多く配信したいが、いかんせん媒体は少ない。

さて、タイの人たちはおしなべて「親日的」だが、最近じゃあこの親日的なムードに水を差す詐欺が増えているという。それが「タイ風俗不動産詐欺」だ。

「リッチそうな旅行客を見つけては『ゴーゴーバーの物件が近く空きますよ。倒産した会社の物件なので、200万円という破格の値段で買い取れます』と甘い言葉で囁く。そして、契約してしまい、いざ営業しようという段になって、本物のゴーゴーバーのオーナーが登場し、『お前、俺の店で何をしてくれるんだ』と問い詰める。本物のオーナーが絡んでいるのがポイントです」(タイにいる日本人ジャーナリスト)

それでも、タイは観光で食っている国だから、ツーリストポリスに駆け込んで「タイの詐欺師に○○かもられた」と申告すれば、何割かは戻ってくる可能性が高い。観光立国とはそういうことだ。

夜になるとまたタイは別な顔を見せる。夜は金もちが遊びに顔をだす。まるで夜行性の昆虫のごとくだ。

 

 

バンコク市内では、さまざまなセレブが遊んでいるといわれており、ナイトマーケットでは雑貨からつまみ、伝統工芸品などさまざまなものがところ狭しと並んでいるが、スリにも気をつけたほうがいいだろう。観光客は、タイでは「カモ」なのだ。

だがそのことをさしひいても、タイは美しい街だし、物価は日本の3分の1だ。リタイヤして住みたい国の上位に常に食い込むというこの国に、いまいちど行ってみたいと思う。

政治的には、プーミポン国王が亡くなり、安定しないのではないか、と囁かれているようだ。この国はいつの時代も軍隊の政治と民衆の政治がぶつかり合い、前国王が調停に入っておさめてきた。

タイの人たちにとって「戦争で一度も侵略されていない」のは誇りであり、国力が伸びてきた原因のひとつ。周辺のベトナムやミャンマーは、常に戦争で疲弊してきたから。いずれにしても、タイの魅力はまだつきない、紹介しきれないところは、また別の機会に語る。

◎ラオスからタイへの旅[1]「ラオスに何があるのですか?」

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

『紙の爆弾』最新号!森友、都教委、防衛省、ケイダッシュ等今月も愚直にタブーなし!

 

東京タワーを右手に桜田通りを北上し、飯倉交差点、つまりは右折すれば東京タワーにたどり着くその交差点を過ぎるとき、左手奥に見える異様な建造物。都心のタクシードライバーは、これに関する知識をきっと用意している。好奇心旺盛な乗客がそれを目にすれば「あれはなんだ!」と質問するに違いないからだ。

霊友会釈迦殿(れいゆうかいしゃかでん)は、その名の通り宗教法人霊友会の本部施設であり、同会ホームページによれば「釈尊との心の会話を交わす場として建立」され、そこでは「在家のつどい、妙一会お花まつり、節分会など、さまざまな行事が行われている」とのことだ。「特徴ある釈迦殿の外観は“合掌”をイメージしています」とも記されている。

竣工は1975年(昭和50年)。延床面積は25,720㎡。地下6階、地上3階の鉄筋コンクリート造。設計施工は竹中工務店。同社設計部の岩崎堅一と絹川正が設計を担当した。岩崎堅一は、有楽町センタービルディング(通称“有楽町マリオン”)や横浜市大倉山記念館といった大規模な設計に携わる建築家であり、受賞歴も多い。また、武蔵工業大学(現東京都市大学)工学部建築学科教授を経て現在は名誉教授を務めるなど、若手育成にも関係する人物だ。

この建造物の特徴として、まずはその“巨大”さを挙げるべきだろう。「ピラミッドの巨大さは、ただ体積が大きいのみならず、それがほとんど実用性を感じ得ない“モニュメント”であることによってより強く感じられるのだ」という話を聞いたことがあるが、釈迦殿についても同じことが言えるのではないか。私がこれを指して“建造物”と呼ばざるを得ないあたりからもその巨大さを感じ取ってもらうこともできるかもしれない。

 

造りとしては、大屋根を支持する28本の柱が目を引く。それらは道を形づくっており、したがって参道の役割を果たしている。柱や床材には御影石(花崗岩)が用いられており、ピカピカに磨かれた石の重みがダイナミックで荘厳な空間を支えている。御影石もその種類によってずいぶん趣が違うものだが、ここに用いられているのは中国の山東省を産地とする“中国マホガニー”もしくは米国サウスダコタ州の“ダコタマホガニー”ではないだろうか。いずれも安価なものではない。参道空間の天井は低く、また装飾はシンプルに統一されており、どこかミニマルな思想を感じさせる。これは、重い扉を押し開けた先にあるメインホールとのコントラストを生むための構造であり、法悦への導入だろう。

実は10年ほど前にもここを訪れたことがあるのだが、そのときの道連れ、自称“B級映画ハンター”によれば「宗教団体はとにかく信者を集めなきゃいけないから、まずはヴィジュアルで攻めてくる」のだという。なるほどそんなものなのか知らん。

 

▼[撮影・文]大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
Facebook : https://m.facebook.com/omiyakohei
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Instagram : http://instagram.com/omiya_kohei

『紙の爆弾』タブーなし!の愚直なスキャンダルマガジン

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

 

『第8回世界盆栽大会 in さいたま』に行ってきた。開催していたのが4月28日から30日までと限定されていたにも関わらず、世界中から「盆栽フリーク」が大挙してやってきて、歩くのも混乱が生じるほどの好評だった。

盆栽は、中国で生まれ、日本へは遣隋使・遣唐使に始まる中国の先進文化導入のプロセスでもたらされたと考えられている。

中唐の詩人、白楽天は、洛陽に構えた住宅につき、その住宅のなかに盆花を暖室に入れるという詩句を挟んで、当時の呼称と冬の激寒からの保護法を観察したとされる。また、鎌倉時代には、『西行物語絵巻』の中で、方丈(僧侶の居住棟)の縁先を飾る盆山(石付き盆栽の呼称)をうつしとどめたことは場所としての寺院、様式としての石付きの二面で、盆栽が登場した由来を雄弁に語っている。

さいたまには「盆栽村」がある。これは、東京から被災して逃れてきた盆栽職人たちが作った村だ。かつて東京の団子坂(文京区千駄木)周辺には、江戸の大名屋敷などの庭造りをしていた植木職人が多く住んでいたとされる。

明治になってから盆栽専門の職人も登場。関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた盆栽業者が、壊滅した東京から離れ、盆栽育成に適した土壌を求めてこの地へ移ることになる。1925年には彼らの自治共同体として大宮盆栽村が生まれ、最盛期の1935年頃には約30の盆栽園が存在した。

 

 

 

 

大宮盆栽村は、いまも名品盆栽の聖地として知られ、日本だけでなく世界から多くの愛好家が訪れている。そうした縁から国際的な大会がさいたまで行われているのだが、今は「BONSAI」は、中国やタイ、ミャンマーやメキシコあたりで爆発的な人気を誇っている。

「盆栽を教えてくれる職人を講師として送って欲しい」という要請が、世界の各国から殺到しているのだ。だから実は「盆栽職人」になりたがる人たちは日本人よりも外国人のほうが多い。

盆栽村にちらばる園に行ってみるといい。外国人たちがさまざまな言語を駆使して、盆栽の手入れをしている。彼らは仕事で生計をたてるのだから必死だ。物見遊山で盆栽を見にきた私たちとはまったく真剣さがちがう。

 

さて、日本の盆栽は、幕末の開港をきっかけとして、世界規模で展開されていた植物探査(プラントハンティング)の波にのり、西欧に運ばれた。しかし、それらの奇異を誇示する姿は、盆栽になじみがなかったことを背景に「自然に反する奇異なもの」という印象をばらまいたようだ。しかし、それから日本では、美術盆栽、自然美盆栽へと向上し、西欧人も関心をしだいにもってきたので、ひとつの文化を形成した。

1964年、東京五輪と1970年の日本万国博覧会に際して来日した世界の人たちは、特設された盆栽水石の名品展を訪れて、帰国した将兵へのみやげ話として盆栽へのあこがれを語った。なお、その自慢げな話しの裏には、自分の国には存在していない日本的な芸術観への開眼が感動とともにこめられていただろうと推測できる。

会場では、盆栽が売られていたが、数十万円もする盆栽がつぎからつぎへと売られていた。

どうも「BONSAI」を世界遺産として登録する動きがあるらしいが、ぜひ実現してほしいし、日本文化が広がるきっかけになれば幸いである。

 

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして中道主義者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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宮沢和史さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

気取らない、威張らない、爽やか。元THE BOOMの宮沢和史さんだ。彼は昨年1年間体調不良で、ステージで歌う活動を「休養」していた。それでも震災後の昨年10月2日熊本で行われた「琉球の風」に駆けつけて「今日だけはどんなことがあっても歌わせてくださいと僕のほうからお願いしました!」と全国のファンには極秘(?)で「島唄」を熱唱してくれた。

一昨年は顔色がさえず、体が辛そうだった。本人曰く「ヘルニアで動くのも苦しい」状態だったそうだ。昨年はずいぶん元気になっていて、ご本人も「だいぶ元気になりましたよ。ステージで歌わないのが休養になったみたいですね」と明るく話してくれた。それでもまだ指のしびれがとれることはないとのことだった。

◆宮沢和史さんが「島唄」に込めた想い

4月1日付朝日新聞デジタルより

4月25日から防衛局による「辺野古の海破壊行動」が激化しているが、それに対するささやかな抗議として、宮沢さんの「島唄」にまつわる逸話をご紹介する。

以下は4月1日付の朝日新聞デジタルに掲載された記事からの抜粋だ。

沖縄の音階と三線(さんしん)を全国に広めた「島唄」。ラブソングのように聞こえる歌に込められた本当の意味は?

「THE BOOM」のボーカリスト、宮沢和史さん(51)は山梨県出身。沖縄音楽の魅力にとりつかれたきっかけは、1989年のデビューから間もない頃、土産にもらった沖縄民謡のカセットテープだった。 「バブルの空気に居心地の悪さを感じて、日本から世界へ発信できる音楽を探していたとき、大地につながりをもつ沖縄民謡に日本の原風景を感じたんです」

90年、アルバムのジャケット撮影のため、初めて沖縄の土を踏む。翌年には沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪れ、ひめゆり学徒隊生存者の話を聞いた。住民を集団自決に追いやったものに対してだけでなく、沖縄戦に無知だった自分自身にも腹が立った。人々が息絶えたガマ(洞窟)の中に自分もいるような恐怖を覚え、資料館の外へ出ると、さとうきびが静かに風に揺れていた。

宮沢さんは振り返る。「牧歌的な光景と、その下で行われた殺戮(さつりく)とのギャップが信じられなかった」伝えなければと思った。自分には音楽がある。「体験を話してくれた方に恥ずかしくない曲を作ろう」。そう考えて一気に書き上げたのが「島唄」だ。

「ウージ(さとうきび)の森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」。単純に恋の始まりと終わりを描いたとも取れる一節は、ガマの中で自決した二人の幼なじみの男女をイメージしているという。「レ」と「ラ」がない琉球音階で作られた曲の中で、このフレーズだけは通常の西洋音階にした。「何が誰がそんな状況に追い込んだのかを思うと、沖縄の音階はつけられなかった。ヤマトの音階にした」

◆今年も9月に熊本「琉球の風」で「島唄」を

私は沖縄の知人から聞いて、「島唄」に込められた意味を知ってはいたけれども、上の記事にある通り、宮沢さんご自身がそのことを語るようになったのは21世紀に入って以降で、それまではメロディー、歌詞ともに卓抜した名曲として世界にも広がっていた。

さて、肝心の「島唄」であるが下記が、ほぼ宮沢さんの意図に近いだろうと思う。巧みの技である。パッパラパーのバブル時代でもこの歌詞には抵抗を感じる人が多くはなかっただろう。しかし表の歌詞を翻せば、これはまがうことなき「反戦歌」だ。しかも琉球(沖縄戦)から、大日本帝国の暴虐を撃つ視点には勇気も要ったに違いない。だから宮沢さんは今も大枠で「島唄」の歌詞を語ることはあるけれども、この時代状況に対する発言は極めて慎重だ。それでいい。彼はこれだけ大きな仕事をやってのけたのだから、「島唄」をクースー(泡盛の古酒の意)のごとく、磨き上げていってほしい。今年も9月には熊本の「琉球の風」で「島唄」を聴くのが楽しみだ。

「島唄」を歌う宮沢さん(2016年10月2日熊本「琉球の風~島から島へ~2016」にて)

沖縄で続く中央政府の暴虐に対して「島唄」の歌詞を送る。

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
(1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い
(サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら
(サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
(でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
(平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ
(サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ
(海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

このまま永遠に夕凪を
(このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
(島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
(島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、
遥か遠い東の海の彼方にある神界“ニライカナイ” に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けてたもれ 私(わくぬ)の愛を
(島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)


◎[参考動画]島唄 本当の意味(kesigomuify2010年5月22日公開)

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』(「琉球の風」実行委員会=編)

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