「戦争トラウマ」を描いた映画『父と家族とわたしのこと』

尾﨑美代子

3月28日(土)、十三の七芸で上映が始まった『父と家族とわたしのこと』を観てきました。父や祖父が戦争で見ず知らずの罪もない人たちを殺害しなければならないという、過酷な戦闘現場で精神をやられ、復員後アルコール中毒や家族への暴力などさまざまな形ででてくる「戦争トラウマ」を描いた映画。

映画には、藤岡美千代さん、市原和彦さん、佐藤ゆなさん(仮名)という3人の方が登場する。藤岡さん、市原さんはお父さんに、30代の佐藤さんは、祖父の虐待を受けた実の母親に「支配」で複雑性PTSDを抱えている。

実は私は藤岡さんのパートナーさんは知っていたが藤岡さんとは会ったことがなかった。でもフェイスブックではいつも笑ってるイメージだった。そのフェイスブックで藤岡さんが復員兵のお父さんから受けた暴力で苦しめられてきたこと、そのお父さんが亡くなった時、思わず「万歳!」したことを知った。戦争トラウマは、「野火」や「ほかげ」など戦争作品を撮った塚本晋也監督の作品でも触れられている。しかし、現実がこんなにむごいとは……。

ネタバレになるのでここいらで止めておく。実は私は藤岡さんのそんな話を聞きたくて、一度私の店で話してもらったことがあるし、「ルポ 戦争トラウマ」も読ませてもらった。しかし、映画になるとまた違った迫力があった。

藤岡美千代さんと島田監督。美千代さん、お父さんの写真と共に登壇

市原さん、佐藤さんからもこれでもかこれでもかと辛い告白が続く。市原さんの父親は皆で旅行に行くバスの中、酒が入ると突然母親に「この淫売女!」と叫び暴行したという。佐藤さんは、母親の歪んだ「支配下」に置かれ、時には母親の性器を触らせられたりしたという。が、しかし監督は、そんな辛い当事者の告白を相手が話したいときにしか聞かなかったという。そんな優しい監督だからこそ、こんなに素晴らしい作品が撮れたのだと思う。これでもかこれでもかと辛い告白は続くが映画はこれだけでは終わらない。自分が被害者なら、加害者のことをしらなくてはならない。これは、私が冤罪だけでなく、実際にあった凶悪事件を追い続ける理由と同じだ。人間、「オギャー」と産まれたときは誰も犯罪者、殺人鬼ではなかったのだもの。彼・彼女を凶悪な犯人にさせた背景には、社会的な政治的なものがあるはず。私はそれをさぐりたいといつも思っている。

藤岡さんら3人も次の一歩として、そうしてきた。市原さんも父親の軍歴を取り寄せた。父親は満州鉄道の仕事をしていたため、日本人全員を日本へ返し、自分は最後に日本へ戻ってきた。そのため帰国がほかの人よりうんと遅かった。母親は父の生死も知らされぬなか、一時期別の男性と暮らしていた。その事実が父親の脳裏にこびりついて、酒が入るたび、母親を「淫売女」するようになったのだろう。「仕方ないですよね」。そうつぶやく市原さん。市原さんはそうして、父と住んでいた故郷を訪ねる旅にでる。

藤岡さんの故郷を訪ねる旅、更には父親が最後にいたロシアを訪ねる旅で、表情がどんどん変わっていくのがわかる。

映画終了後の島田陽磨督とのトークショーで、藤岡さんはロシアへ行った時の話をされて、帰りの汽車から見えた白樺の木々が兵士に見えたという。延々と並ぶ兵士たちのような白樺の木々を見ながら、初めて嗚咽をもらした藤岡さん、そして絞り出すように出たひとこと。それは内緒。

島田監督のお話。ロシアで訪れた小さな村、でも既に何人もの若者がウクライナで亡くなっている。僻地から戦争に駆り出される人が多い(と、聞こえたような)。島田監督は3.11後の福島を撮った「生きて、生きて、生きろ」も撮った。戦争も原発もいつも弱い者に一層矛盾を押し付ける気がする
「胡桃澤さん、来てるでしょ」と美千代さんのムチャぶりでステージに上げさせられた劇作家で精神科医の胡桃澤伸さん

この映画を一人でも多くの方に見て欲しい。世界中で痛ましい紛争が続き、毎日大量の人たちが殺されている今だからこそ、私たちは二度と戦争に加担してはならない……そんな思いを強く心に刻んで欲しい。

この映画、配給会社を入れず独自に宣伝活動をやっているとのこと。チラシ配布や自主上映などで映画を広めるお手伝いをしたい。

『父と家族とわたしのこと』https://chichito.ndn-news.co.jp/

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

野田正彰著『過ぎし日の映え』、注文殺到! やはり腐っても朝日、影響力は大きいことを、あらためて実感!

鹿砦社代表 松岡利康

野田正彰著『過ぎし日の映え』が2月22日付けの朝日新聞の野田先生インタビュー記事の冒頭で引用され、この5日間(2・24~3・2の営業日)で200冊超の注文が殺到しています! 

本書は、著者の出身地の高知新聞に連載されたものを単行本化したものですが、地方紙のせいか、知られざる事実も多いです。特に、『夜と霧』の著者として有名なフランクルに会い、インタビューした記事内容は衝撃的でした。著者自身が驚いたそうです。「この本(『夜と霧』)では、すべてがアウシュヴィッツでの体験のように読める。ところが、私が移送の行程を順々に聞いていったとき、フランクルは、アウシュヴィッツにいたのは『3日2晩』と答えた。私は驚いて問い直したが、彼は続けて話した。」

あとは本書を読んでいただきたいが、驚いたのは野田先生だけではありません。”通説”とはまったく異なると感じました。2日間に及んだ、この「フランクルとの対話」だけでも本書の価値があります。池田香代子(新版『夜と霧』を翻訳。大学院生リンチ事件では「見ざる、言わざる、聞かざる」の姿勢を貫いた)、聞いとるか!?

もうひとつ付言しておきます。本書を読んで強い感銘を受けた、ある方は、なんと100冊お買い上げになり、友人、知人にプレゼントされました。有り難い話ですが、これほどまでに人を感銘させる本だということでしょう。

掛け値なしに一人でも多くの方に読んでいただきたい一冊です。

鹿砦社 https://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000782

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315959/

3月21日(土)大阪西成 ~差別に抗う~袖すりあうも集い処はなライブ 皆さんどうぞ聴きにきてください!

尾﨑美代子

今週土曜日、3月21日となりました。~差別に抗う~袖すりあうも集い処はなライブ。今回は尼ヶ崎のオヤジ人権バンド元「ドランカーズ」のギター、ボーカル担当の中島(なかしま)敏也、通称とっしゃんと、カオリンズの夢の共演。投げ銭、要オーダーとなります。

「ドランカーズ」と出会ったのは2011年の正月、釜ヶ崎の越冬闘争のステージで演奏したドランカーズが立ち呑み屋難波屋の奥で呑んでました。そこに、私たち「はなと愉快な仲間たち」が飲みに行きました。そこにはなに時折飲みに来ていた部落解放同盟の西岡智さんが居られ、紹介されたのがドランカーズでした。呑んでるうちに意気投合し、今度一緒にライブをしようとなり、決まったのが3月12日。前日、11日もはなで練習してました。テレビでは津波被害の報道が流れてて。心配しながらも、難波屋に行くと、ちょうどテレビからは「◯◯に何百体の遺体が流れつきました」とアナウンスが…。不安なまま迎えたライブでは……

前置きが長くなりました。ドランカーズは部落出身の人と在日の人の混合バンド。中島さんには新井英一さんの「清河への道」を歌って頂く予定です。カオリンズには、4・3事件の記憶について、キム・ヒャンリことかおりちゃんが作詞した「故郷の石ころ」を歌ってもらう予定。2組の曲はぜったいに心に染み入るはず。どうぞ聴きにきてください。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
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飯塚修三医師との出会いと西宮人物伝

鹿砦社代表 松岡利康

2年ほど前、突然に同市内で眼科医院を開いておられる飯塚修三医師からお手紙がありました。

西宮北口駅構内の書店で偶然『紙の爆弾』を見つけ、ぱらぱらとめくったら、雪印の牛肉偽装告発で有名な西宮冷蔵・水谷洋一社長の記事が掲載されているので買い、『紙爆』と鹿砦社に関心を持ち、調べられたとのことでした。飯塚医師と水谷さんとの関係については別途記事をお読みください。

数日後、先生が営む医院に伺い、いろいろ歓談させていただきました。真面目で博学な方でした。これを機に『紙の爆弾』を定期購読していただき、昨年7・12の『紙の爆弾』20周年、『季節』10周年をめぐる反転攻勢の集いにもご出席いただきました。

また、先生は西宮医師会の会報に連載を持たれており、西宮に縁のある人たちについて調べ書かれていました。西宮出身で私の大学の大先輩・藤本敏夫さん(故人)についても書かれています。

先生とその会報については、後日、あらためて申し述べたいと思いますが、今回は、7・12反転攻勢の集い・関西の記事と、西宮冷蔵・水谷洋一さんについての記事を転載させていただきます。

【追記】先に飯塚修三医師について記しましたが、飯塚医師は以前にも鹿砦社や、地元出身で私の大学寮の大先輩である藤本敏夫さん(故人)についても西宮医師会の会報に掲載されています。関心のある方はご一読ください。

◎鹿砦社 https://www.kaminobakudan.com/
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0GL5883YV/

「月夜釜合戦」に続く、釜ヶ崎の新たな映画「Ich war, ich bin, ich werde sein!」

尾﨑美代子

昨年12月27日、九条のシネ・ヌーヴォで2本の映画を観てきた。1本目は釜ヶ崎を題材にした佐藤零郎監督の「月夜釜合戦」、これはもう6回目位見た。止めとこうかと思ったが、2本目の「Ich war, ich bin, ich werde sein!」に繋げるにはやはり久々に観ておきたいなと。

昨日改めて気づかされた点もあり、見て置いて良かったと思った。上映後レオ監督とプロデューサー梶井君のトークショー。会場は満席、補助席もでた。驚いたのは初めて見た人が結構いたこと。16ミリフィルムでの上映なので上映には映写機が必要なのだが、もっと広めて欲しい映画。

「月釜」の上映後は花束贈呈あり、フォトセッションあり、かつ2人が客と一緒に映る撮影ありでした。

休憩を挟み、2本目の「Ich war, ich bin, ich werde sein!(I Was, I Am, and I Will Be! イッヒ・ヴァール、イッヒ・ビン、イッヒ・ヴェルデ・ザイン)」の上映。この作品は、「月釜」で助監督だった板倉義之君が監督、編集した。2019年センターが閉鎖され、それまでも釜ヶ崎のあちこちで撮り続けていた板倉君とレオが、もう釜ヶ崎の人たちを撮れなくなるのでは、撮り始めたフィルムをこの作品にまとめた。釜ヶ崎を歩き、「あっあの人、気になる」と目星をつけた方にインタビューを申しこむ。レオがインタビューし、板倉君がカメラをまわす。

入場者全員にプレゼントされたポスターカードも素敵。友達がいないとハトと仲良くなったハトおじさんに群がってくるハトたち。
2番目の作品後のトークショーでは、冒頭、ビールが配られ(絶対こぼさず飲める人に?)「乾杯」が。

2人が映画のチラシを持ってきたときだ。私は普通に「へえ、山形の映画祭に応募したのね」と2人に聞いた。おとなしめの板倉君はそうでもないが、レオは「全く、ママはわかってないな」という顔をして、「あのですね。この映画祭には世界中のドキュメンタリー映画が1500もあつまるんです。その中から15の映画が選ばれ、上映されるんです」と説明した。「あらま、それは凄い」、私がそう言って驚くと、レオはまだまだあるんですとばかり、「本当は僕たちはこの映画をひとつ下のランクで応募したんです。

しかし、それを見た実行委の方々が『これはその上のランクでいくべきだ」といわゆる格上げされたというのだ。松竹梅とランクがあって、竹でいこうかなと応募したが、審査員たちが「これは松ランクでいくべきだ」と言ってくれたということか。

それもまたすごいではないか。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
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映画「生きし」のアフタートークで中村明監督とお話をさせて頂いた

尾﨑美代子

12月15日月曜日、十三シアターセブンで映画「生きし」のアフタートークで中村明監督とお話をさせて頂いた。数日前、埼玉の障害者団体「虹の会」の佐藤さんから「中村監督はスーパー猛毒ちんどん(佐藤さんら虹の会のスタッフと障害者の人たちで作るバンド、私たちは彼らを10年ほど前釜ヶ崎にお呼びした)の映画も撮ってくれましたよ」と連絡頂き、「あらま」と身近に感じていたところ、なんと前日はなライブに来て下さり、なお身近に感じていたところだった。

「生きし」は93年埼玉で起きた愛犬家連続殺人事件をモチーフにしている。主犯の関根(獄中で病死)と共に殺人、死体損壊などで逮捕され、死刑判決を受けた風間博子さんは現在3度目の再審請求中。その風間さんと娘、母親との関係、支援者との関係などを描いている。

上映後のアフタートークではわたしの方から監督に「なぜこの映画を撮ろうと考えたのか」とそのきっけかなどをお聞きした。監督はテレビ局勤務時、長野智子さんがキャクターを務めた報道番組では、東住吉事件の青木恵子さんの冤罪事件などにも関わってきた。映画「生きし」も冤罪・埼玉愛犬家連続殺人事件の冤罪犠牲者・風間博子さんと面会する中で、構想を練り、今回は外にいる娘さんを焦点に取り上げたという。私は映画の前半に出てくる、ちょっと怪しげな男性(風間さんと獄中結婚し、その後、覚せい剤使用で逮捕され、離婚した男性)についてお聞きした。その男性は実在した方だという。

その後、会場からの質問と続きました。この事件で風間さんは殺害は否定しているが、関根の死体損壊を足をもつなどして手伝った。それは関根に風間さんや連れ子の男の子が酷いDVを受けており、その恐怖から断りきれなかったからだ。

一番前の女性が、「長女さんらがDVを見たと証言したらいかがでしょうか」と聞いてきました。私からは、当時の長女は9歳、前日登壇した和歌山カレー事件林眞須美さんの長男は当時10歳だが、彼が言うことは信用されなかったと答えた。言いわすれたがそれどころか、2審で夫の健治さんが「保険金事件を主導したのは自分だ」と主張したが、それすら信用されなかった。

その後、知り合いの岡田有生さんが、グッドタイミングで再審法の質問をして下さった。私は監督の顔をチラリと見て「ガンガンしゃべってもいいですか?」と言ったつもりで、喋りだした。短い時間だったが、何故再審法が必要か、自民党稲田朋美がめっちゃ説得力あるしゃべりをしていたことなどに触れた。稲田の故郷福井県で39年前に起きた福井女子中学生殺害事件で服役した前川さんに再審無罪判決が下された。その前川さん自身が「立法事実」なのだと稲田はきっぱり訴えた。立法事実、この言葉を私は半年前、はんげんぱつ新聞編集長の末田さんにお聞きした。このことのためにこの法律を作る、あるいは改正しなくてはならないという事実だ。

あと、この数年再審無罪判決がだされ、再審法改正が盛り上がって超党派の議員連盟が作られ、法案を提出してきた。そこに「このままだとヤバイ」とチャチャ入れてきたのが、法務省が進める法制審だ。「それじゃダメ」。稲田もきっぱりそう言ってた。井戸謙一弁護士は「検察、裁判所が冤罪を作ってきた。それを統括する法務省が再審法改正を主導するのはおかしい」と非難していたと話した。それに私は「泥棒が戸締まりに気をつけて」というようなものと、付け加えた。

更に埼玉愛犬殺人事件の再審請求では、事件を主導したのが風間さんではなく、亡くなった関根の方だとそれを証明するある人の調書を出させることが大事だとも、多分早口で喋った。全ての証拠を出させるべきだ。冤罪について話だしたら、止まらなくなる。監督すみません。

中村監督は大阪滞在中、2回もはなに来て下さった。一人で釜ヶ崎のあちこちを散策され、釜ヶ崎にも関心を持ってくださった。またひとつ、つながりができそうだ。

◎「生きし」HP https://ikisi-movie.com/

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

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60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか? ──市民運動の狭間から

高橋幸子(市民運動家)

堀さん、吉田さんたちが尽力されてきた同志社大学学友倶楽部がこのたび松岡さんの裁量で再び起き上がる日にカンパイを重ねます。参加がかなわず残念ですが、自分にとっても力強い支えをいただく思いでいます。在宅参加の気分で松岡さんにお便りしますが、雑な走り書きです。お時間がなければ読み飛ばしてください。

私は1963年度生。60年安保と70年安保のハザマにあたる「谷間の世代」です。入学当初は、自主管理を勝ち取る「学館闘争」の最中、大詰めでした。新館に入って学友会は向かいのボックス、私はDSB(同志社学生放送局)の報道課に属していました。

今、目に焼き付くのはなんたってデモだ!! 昨今、観光ブームで祇園祭の四条河原町とか八坂さんの石段下がテレビに映るとチラチラあの風景、ジグザグデモの元気が蘇ります。ついでながら若い頃、何かで読んだ「古代都市は観光ブームと健康ブームで崩壊した」という幻の一文が思い浮かびます。最近アメリカ大統領が来日会談。カメラを向ける野次馬?の報道で、まず耳に聞こえたのは「日韓会談反対」の声。反対といえば、「産学共同」「エンタープライズ原潜寄港」「家族帝国主義」「市電・市営バスの値上げ」などに反対が続きました。ジグザグデモは(とうに承知の松岡さんに言うのもなんですが、(笑))、路上蛇行するヘビのうねりからスネーク・ダンスとも呼ばれたようで、歩く、走る、広がる、集結してつながるなど、いわば自由の象徴の一つ。問題意識はそれぞれに多種多様、同時に問題の根は一つ、という連帯を感じます。そしてあの四条河原町の交差点で、がっちりとスクラムを組んで前に突入する、激しいジグザグがありました。

学友会OBの集まりで挨拶する高橋幸子さん

卒業したあと、学生運動にはいろいろな方向があったことを知り、さまざまな活動をした人と追々知り合いました。ハンセン病回復者とともに「交流(むすび)の家」建設から始まった運動は、同じゼミの人も多く参加して、60年近く今も続いています。公教育の「君が代」強制に反対する裁判では、学生のころ釜ヶ崎に通って闘争した人、労働組合の活動家たちとも組みました。公害の浮上で「水俣」へ向かう友、「三里塚」の闘い(強制撤去の問題は今も続きます)、「狭山裁判」や「べ平連」に参加する人、暮らしを問う「婦人民主クラブ」や「ウーマン・リブ」の闘い、21世紀に入って特に潮目が変わった其地問題で沖縄に行って移住した友もいます。が、いずれも若い頃、根拠の一つは学生運動が確かな火種となり、燃えていると感じます(もちろん壮年期に突然迫った問題がふりかかり、当事者になった人が起ち上がる力強さは凄いと思いますが)。学生時代から、みかんの農薬問題に取り組んだ人がのちに起ち上げた「市民環境研究所」活動に私は今、属しています(ただいま参加がほぼできず心苦しいのですが)。思えば古代より!?日本神話やギリシャ神話にも出てくる人間の問題として、その根は一つ。とどのつまり私、自分への問いかけを思います。

1992年、自衛隊がカンボジアへ初の海外派遣に行くという大きな曲がり角を迎え、「自衛官人権ホットライン」という電話相談運動の呼びかけ人の一人になりました。自衛官を自衛隊というかたまりで見るのではなく、釣りが好きな人とか二人の子どもがいる、とか暮らしから同じ市民として見る、それが土壌の基本です。「企業戦士の方がもっときついのに、なぜ自衛官なんだ」と当時、からかうような抗議の電話も入りました。旧日本軍隊と今の自衛隊はどこが違って、どこが同じなのか、及ばぬながら考え合いました。

同時期もう一つ、情報公開運動を発足して、先細りながら35年近く、今も続いています。発足当時は「官官接待」など見た目も派手な不法公金。全国集会も盛り上がりましたが、いま問題は絶妙に隠れて、ますます埋もれたりして、「メディアを通じて成り立つ社会」の急速な発展、その誘導、向かう先を案じます。

そうだ、同志社学館ホールにジェーン・フォンダが見えた日、かぶりつきの席で見たというか、目の前で会いました。小柄で華奢な人、でもその迫力・魅力の残像は今も新鮮です。しかし当時、ベトナム戦争の現状はアメリカでも報道されながら、反戦の世論は盛り上がらず、世論とは何か?を考え続けてきました。

私は新聞学専攻です(今はメディア学科?)。「新聞学原稿」や「放送概論」、「社会思想史」や「社会統計(アンケート)論」などの授業があったかと思いますが、強く残るのは「世論・宣伝」です。世論には必ず虚像が入る。私たちは虚像の現実から免れない。国家が「反共」を作って「文明進歩」の旗の下に現実を屈折させ、虚像のモデルを作っていかに市民に押し付けてくるか。屈折を知れば、実態に近寄れるが、それも丸っぽい私たちの考え、一人一人の暮らし、生の声の実態ではない、という問いかけです。

百貨店の労働ストライキが1、2年前ニュースになり、「街の声」として「こんな暴力行為は過激なテロです。すぐ取り締まってほしい」といった(ストライキを知らない?)若い人の声が取り上げられ、驚きました。報道記者一人一人は現場で踏ん張る人もいると思いつつ、選択された「街の声」の奥向こう、その行方を考えます。このたびアメリカNYにマムダム市政が誕生しましたが、今後の世論、その行方も気になります。

「同時代の日本には“ピンとこない一方幕末期には“ピンとくる”ものを感じる」という若い友人から先日、新刊『列島哲学史』(野口良平著)が届きました。中国、インド、ヨーロッパ、米国という強大文明、その辺境にある日本列島で幕末期の世界像はたぶん最大級に揺らいだだろう。幕末の密教(優等生)と顕教(劣等生)が現在は逆転している例題も追跡されて、ただいまノロノロゆっくり読んでいるところですが、日本のメディアでは今、クマ出没の被害が大きなニュースになっています。その折々、同じゼミだった藤本敏夫さんの「自然王国」里山文化の重要性を訴え、壮大にして具体的な「里山運動」の提唱、構想が思い重なりました。

テレビで大谷選手などの米リーグを見れば、ふと、60年安保の首相の姿が思い浮かびます。集結した抗議デモに向かって「野球観戦に大勢が一体して集まっている。あの“声なき声”が安保に賛成している」といったような発言をしました。だから今も野球観戦に惑うのではなく、見るのは私の自由ですが、いま「自由ほど高くつく」時代を思います。旅行も与えられたパックで行くと便利で安い。自由は当時、高値にして買う時代です(家で観るテレビ観戦はひとまずタダ?いや「タダほど高いものはない」とも言いますが)。ともあれ岸首相の「声なき声」にピンと来て、60年安保から生まれたのが「声なき声の会」のデモでした。

65年を経て戦争もさらに文明化、言葉(政治用語)のすり替えも進歩しています。「平和」とは防衛(費)、「抑止力」を宣伝して武器を作る、売る、買う競争。武器を売り歩いた首相が「わが法治国家は~」を連発しました。数々の「戦争法」に取り囲まれる今を思います。(コロナまでですが)あの四条河原町コースをデモると、歩道の観光客(?)からカメラがパチパチ向けられ、デモが風物詩みた~い!! でも自分と同じ市民として誘ってみたら、デモの輪へ面白そうに若い人が二人三人寄って入り、ふと一瞬、現代版「声なき声の会」かと妄想がちらつきました。

先を歩いた人がどこでつまずいたか、どこで弾圧されたか。あるいはどんな虚像を見たか、どう「転向」したか。しないで立ったのか。前の時代は、次の時代がどう闘うか?によって位置づけられ、先人の転んだ地点が次の世代の出発点ともいいます。しかし私は転んだ覚えもないのに「いつのまにか骨折」。老いて圧迫骨折。イテテテ~と背中をさすりながらお便りしました。ご勘弁ください。

60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?──ニューヨークから 

矢谷暢一郎(アルフレッド州立大学〔ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校〕心理学名誉教授)

◎このかん連続して記述してきた11・9同志社大学ホームカミングデーの集いにお二人の先輩からメッセージが寄せられましたので掲載いたします。一人目は元学友会委員長・矢谷暢一郎さんです。(松岡)

左から矢谷暢一郎さん、加藤登紀子さん、松岡鹿砦社代表

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第二期第一回目の「同志社大学学友会倶楽部ホーム・カミングデーの集い」に主催者の松岡利康さんから、この「集い」にアピールを頼まれてニューヨークからこのメールを送っている矢谷暢一郎です。50年以上も前の同志社の学生運動やサークル運動に活躍された人々も招いて、「60年代同志社ラジカリズムとは何だったのか?」をテーマに昔の話をしようじゃないか、という趣旨です。「昔の話をしよう」というのは、歌手の加藤登紀子さんの『時には昔の話を』の題名から来ていると推測しますが、彼女が歌い始めたのは1980年代の後半でした。40年近くも前の古い歌です。日本人で加藤登紀子さんを知らない人はそんなの多いとは思いませんが、歌を知っている人たちはもちろん今日の「集い」に刺激され歌を聴いてみたくなった、とりわけ若い人たちがこの古い歌を聴けば、80才を越した登紀子さんが、激動の1960年代ご自分を重ねた主人公が後に彼女の夫となるかつてのボーイフレンドと共に、貧しいながらもたくましく生き抜いてきた昔のことを思い出すような内容となっているのが判ります。

加藤登紀子さんの夫は2002年の夏7月31日肝臓ガンで倒れた藤本敏夫さんです。

藤本敏夫さんは1963年同志社大学文学部新聞学専攻に入学。新聞記者になる目標があって同志社の新聞学専攻に入ったのですが卒業していません。グーグって(グーグルして)みると中退となっています。彼は「鶴俊のゼミ」(鶴見俊輔の新聞学ゼミ)に入っていましたが、60年代後半京都府学生自治会連合(府学連)書記長としてアメリカのヴェトナム戦争に反対、日本政府の戦争加担政策に抗議する過激な学生運動を指導しました。新聞学卒業証書で身を立てたわけではありませんが、鶴見俊輔教授は藤本敏夫さんの思想、実績そして人物的価値を高く評価していました。

1922年生まれの鶴俊は日本の高校を卒業せず、中退です。16才の時リベラル派の衆議院議員・政治家だった明治18年生まれの父・鶴見祐輔の計らいでアメリカ留学、18歳の時アメリカの大学共通入学試験にパスして、ハーヴァード大学入学、1941年日本軍のアメリカ真珠湾攻撃で日米開戦、アメリカ在住の日本人は鶴見俊輔も含めてアメリカ政府・FBIによる逮捕・拘留となります。捕虜としてメリーランド州の拘置所に拘留されていたハーヴァード大学三回生の鶴俊は授業に出ることができず拘置所で後期の哲学の試験を受けますが不合格。しかし拘置所内で書き上げた卒業論文とそれまでの学業成績が良かったことで教授会の特例で卒業が認められた。多分政治家の父の計らいもあったでしょう、1942年6月に日米捕虜交換船グリップスホルム号に乗船、大西洋を南下、モザンピーク経由で8月に日本に帰国。第二次大戦中の軍属としての仕事やカリエスや結核にまつわる病気に苦しめられた私生活を説明するのは省きますが、戦後の進歩的な思想家たちや知識人たちの「転向」問題研究、丸山眞男、都留重人、鶴見和子、武田清子等7人と 思想の科学研究会創設や『思想の科学』創刊。1948年桑原武夫の推薦で京都大学の嘱託講師、1949年に京都大学人文科学研究所の助教授、1954年東京工業大学の助教授、60年日米安保条約の強行採決に抗議して東京都立大学人文学部の竹内好教授が辞職、竹内の大学人・知識人の心意気に賛同し、鶴俊も東京工業大学を辞職。翌年同志社大学文学部社会学科教授に就任。長くなった感じがしますが、「60年代同志社ラジカリズム」の前置き、イントロダクションを話し始めたところです。

「同志社のラジカリズム」は同志社のリベラリズムが長年存在していて、60年代後半の運動の中で生まれたものだというのが、わたしはの考えです。それ抜きにしては存在しようがありません。リベラリズムというのは、簡単に言えば、伝統的な権威や規範にとらわれず、進歩的で、個人の自由や権利を尊重する考えで、寛大で心が広く、他人の多様な意見や行動を受け入れ、偏見のない態度を示します。リベラルな同志社が臨済宗禅寺の総本山である相国寺と神道の皇居の御所の間に挟まれ位置していることに、日本海の隠岐の島の崎村から出てきた18歳の田舎者のわたしは、浄土真宗の家に生まれ育てられてきたこともあって驚嘆させられました。毎週水曜日のチャペル・アワーで、「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書)と神学教授から説教されると、大学入学前に言われてきた高等教育(higher education)の目的の「真理探究」が、キリスト教を土台にしイエス・キリストの言葉を通した神の教えが真理であると聴き、古い都の京都での新しい大学生活は新入生にとって誇り高くもあり、緊張に満ちたものでもありました。

わたしが1965年に同志社に入学した時、社会学科新聞学専攻には鶴俊がおり、神学部には笠原芳光や竹中正夫が講義をし、わたしの専攻文学部英文科には斎藤勇教授、アーモスト大学で修士課程を終えたばかりの「三山」-岩山太次郎、秋山健、北山- 三人がアメリカから帰国したばかりで英語だけで授業を行う若手教授の「国際主義的」な華やかさがあり、翌66年には日本にカミュ、サルトルの実存主義を紹介した矢内原伊作が助教授として就任。秋には20世紀最大の思想・哲学・文学の実存主義を展開したサルトル、ボーヴォアールが訪日し、同志社での二人の講演で矢内原伊作が通訳を担当した。法学部には憲法学の第一人者で護憲活動を進める田畑忍、同志社卒での後に社会党の委員長を務める土井たか子、政治学科には岡本清一、数え上げれば時間が足らないほどの錚々たる教授達が同志社のキャンパスを自由・自治・平等・平和・護憲・民主主義擁護のリベラルで革新的な文化・校風を形成し、その環境の中で我々学生は大学生活を繰り広げたわけです。勿論、これらのリベラルな同志社精神や教育方針が、「一国の良心」たる人物を要請する目的で、1864年(元治元年)国禁を破って鎖国の日本を脱出し、アメリカのアーモスト大学で日本人初の理学士の学位を収得し、100年前の明治8年、京都に同志社英学校を創設した新島襄の歴史が基礎に在ります。

ヴェトナム反戦運動に参加したのは、ちょっとした事件がきっかけでした。二回生の春、小、中、高校と運動会のフォークダンス以外手も握ったこともないのに、誘われて女子学生とダンスパーテイに行くことになりました。今出川河原町から四条まで、市内何処まで乗っても15円の市電に乗って 四条河原町まで向かいました。すると、市電の横を学生100人ばかりの反戦デモが通りました。後でわかるのですが、鶴俊と作家の小田実が始めた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」だった、らしい。二列か三列のデモ隊を警備する京都府警の機動隊が、大人しく整列してヴェトナム戦争と日本政府の戦争加担に抗議するデモ隊の学生達にちょっかいだし、ちょっとしたイザコザを電車の中から見物していました。ところが、よく観ると学生たちに対してちょっかいだしているのは機動隊の方。「卑怯やないか」とカチンときて、文句言ってやろうと彼女を残して突然電車をおりました。機動隊をそばで見ると怖くなって、何も言えなくなり、引き返そうと電車を見ると彼女を積んだまま走り去っていた…。それから2、3週間して、明徳館前の反戦集会に行きヴェトナム反戦・日本政府戦争加担抗議デモに参加した。しばらくして、此春寮の藤本敏夫さんの部屋に呼ばれ、学友会・自治委員選挙に出るよう説得されました。アジテーションなどしたこともなかったが、英文科の上級生の横山たかこさんに付き添って選挙活動。当選して文学部自治委員。それまで執行部を握っていた共産党の学生組織、民主青年同盟(民青)の文学部自治委員数を抜き、「反民青」の新しい執行部となりました。60年安保闘争敗北で日本共産党や社会党から袂を分かった、後の三派全学連を指導する社学同、社青同、中核派などの事ですが、複雑でわたし自身にも解らないことばかりですから省きます。新しい執行部でわたしは文学部自治会書記長に選出されました。

ヴェトナム反戦運動がどんどん先鋭化する中、1967年10月8日、佐藤栄作首相のヴェトナム訪問を阻止する「羽田闘争」があり、そこで京都大学生の山﨑博昭さんは機動隊に撲殺され命を落とし、それは60年安保闘争の樺美智子さんの死と重なり、先鋭化した学生運動の参加者たちは党派ごとに赤ヘルメット、青ヘルメット、白ヘメットを被り、それは抵抗と防衛の象徴することになりますが、以来「平和と護憲」の先鋭化したラジカルな私達は「暴力学生」として否定的な取り扱いを受けるようになりました。因みに、誰が選んだのか知りませんが、同志社の学生運動は赤いヘルメットになっていました。

すぐ1968年1月アメリカ原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保寄港反対闘争に継続されます。佐世保に行く前に、神戸のアメリカ領事館への抗議行動があり、わたしは生まれて初めて逮捕され、三日間の留置所拘留となりました。出所の時に迎えに来たのは同志社大学学生課の田淵正孝(故人)さん一人でしたが、京都の北白川のレストランで、「出所祝い」(?)と美味い飯を食わせてくれました。田淵さんはそのあと同志社大学の総務部長となりましたが、同志社のリベラリズムを象徴している一例のようにも思います。

1968年は10月21日の国際反戦運動に象徴されるように、ヨーロッパ、北アメリカ、日本を含むアジアで、ヴェトナム反戦運動が燃えさかりました。この年の春の新学期に行われた全学部自治会選挙では、わたしは学友会中央委員長に選ばれ、全学学生大会で、10月21日同志社は全学ストライキを決議し、ヴェトナム反戦・国際反戦運動に加わりました。ヴェトナム反戦・国際反戦運動の盛り上がりは、翌69年の東大・日大を頂点とする各地の学園闘争に引き継がれていきましたが、それは権力との対決に於けるダイナミックで過激な「ラジカリズム」として変化・展開されました。羽田、佐世保、新宿、各地の街頭で、キャンパス内で、機動隊との対立、解体が進み、学生運動の終焉へと向かいました。

同時に学生運動の急進性・ラジカリズムは「革命運動」とそれを指導する革命党の建設を巡る学生運動の指導者たちの論争、いわゆる党派・党内、三派セクトの学生運動の指導権争いともなったわけです。そして、60年安保後の日本共産党の指導部から離れた新左翼・三派全学連の指導部内の内ゲバを伴う党派闘争が起こったのは皆さんが承知している通りです。党派・党内闘争は、同志社の学生運動の「学友会委員長」としてどのように捉えるのか、今日のわたしには判らないとしか言いようがありません。

そもそも、70年安保闘争が三派の言う、「日本の労働者の社会主義・共産主義革命」の成熟があって方針を叫んでいるのか、わたしは疑問視していました。この革命論から、同志社のラジカリズムを語ることはわたしにはできません。

実は11年前に「学友会倶楽部のホームカミングデーの集い」がもたれました。主催者はわたしの前の1967年学友会中央委員長だった堀清明さんで、講演者に呼ばれたわたしはニューヨークから飛んできました。講演の後、質疑応答の際に、若い出席者から、「今日の学生運動が低調で活発でないのは,60年代終わりごろの内ゲバを伴ったあなた方世代の党派・党内闘争で、一般大衆を無視した行動ではなかったか?」というような発言でした。ズバリ的を射た質問だと直感したわたしは、沈黙したまま答えることができませんでした。沈み返った「良心館」のこの同じ会場で、「その通りです…」とぼそぼそ声を出すのが精一杯でした。「大学解体!」を叫んだ学園闘争末期のスローガンは、極めて「自己否定」的ではありましたが、哲学的な深さに対応したわたしが取り得た唯一の行動は、同志社を卒業しない、ことでした。

この辺のわたしの個人的な考え、行動は鹿砦社が出版してくれた『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年)と『ヤタニ・ケース:アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』(2023年)に載せてあります。

卒業証書を持たずに大きな青年が仕事を探すと、高度成長期の日本に在ってもなかなか大変な境遇でした。たまたま見つかって翌日出社すると、「先ほど、警察の人がいらっしゃって話を聞いたが、君を雇うわけにはいかんわ」と。運よく拾われて仕事に励んだら、学生時代に無理したことで結核と腎臓病に侵され、一年半の入院。退院したが、肉体労働は無理だと医者に言われ、受験生用にと部屋を借りて「私塾」を開くと、そこの家主が大阪府警の警察官だったり…。

日本で仕事をするのは無理だと、決心して日本脱出。1977年アメリカはユタ州の州立大学に「海外留学」しました。日本の大学は無理でも、まだ「解体されてないアメリカの大学に入るのは許される」と詭弁を弄してでした。わたし達の同志社創設者・新島襄の日本脱出ほど危険は無かったけれども。生まれ育てられた日本に31年間、アメリカで48年間暮らしてきました。同志社のリベラリズムに育てられたけれど、そのリベラリズムを纏ってアメリカに遣って来たわたしだったが、アメリカ政府から「undesirable alien」(アメリカに好ましくない異邦人)として今日でも「ブラックリスト」に載ったままです。とりわけ、トランプ大統領のアメリカではグリーンカード(Green Card:永住権を持つ労働許可証)持った外国人でも保証のない排外主義が2025年の今日吹き荒れています。

Ж下の写真は2013年のホームカミングデーで来日した際、講演がが終わった後、ライブで京都に来ていた加藤登紀子さんが祝ってくださった時のもの。左から矢谷、加藤、松岡。京都四条・キエフにて。

【筆者について】
1946年生まれ。島根県隠岐の島出身。1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指揮。1年半の病気療養などのため同大中退。77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得。85年以降、ニューヨーク州立大学等で教鞭を執る。86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。3年前に亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

※本稿は昨年同月同日付けの原稿に一部加筆、修正したものです。

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

一昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。

◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない 

だけど私に 父はいない

父を想えば あゝ荒野に 

赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦さで死んだ 悲しい父さん 

私は あなたの娘です

20年後の この故郷で 

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていてください 遙かな父さん 

いわし雲飛ぶ 空の下 

戦さ知らずに 20歳になって 

嫁いで母に 母になるの

野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 

この国が平和だとだれが決めたの

人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下 

夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

蒼いお月様が泣いております

忘れられないこともあります

愛を植えましょう この島へ

傷の癒えない人々へ

語り継がれていくために

二 

この国が平和だと誰が決めたの

汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを何故にこばむの

隣り合わせの軍人さんよ

蒼いお月様が泣いております

未だ終わらぬ過去があります

愛を植えましょう この島へ

歌を忘れぬ人々へ

いつか花咲くその日まで

三 

御月前たり泣ちや呉みそな

やがて笑ゆる節んあいびさ

情け知らさな この島の

歌やこの島の暮らしさみ

いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315258/

2025年8月4日付け神戸新聞