あつっぽく講演する芝田さん

講演レジメ(全員に配布)

このかんたびたびお伝えしてきましたように、11月12日、京都の同志社大学今出川キャンパスで、「70年安保・学生運動、そして児童文学……過ぎ越し45年を振り返り いま生きてあることの意味を問う」と題し、私の先輩にして児童文学作家の芝田勝茂さんの講演会が開催されました。講演の内容は、別紙のレジメに沿って話されました。

学友会倶楽部は、全学自治組織「学友会」解散後、OBの、いわば親睦組織として発足し、毎年今の時期に大学の行事としてなされるホームカミングデーで講演会を開いてきました。今回で5回目となりますが、単にゲストを招いて講演していただくだけでなく、1年に1度ではありますが、集まって、学生時代から培ってきた志を確認し、お互いの現在の活動を知り、また励まし合うということだと私なりに理解しています。

代表は、1964年度生の堀清明さん。堀さんはかつて大きな事故に遭いお体が不自由な中で頑張ってこられ、また今年は2カ月余り入院され、退院されたのは講演会の1週間前でした。かつて「若きボリシェビキ」(古い!)の時代は、人一倍過激で怖い方だったと聞きます。

そのように先輩が頑張っているのに、後輩が安閑としているわけにはいかないでしょう。

ということで、今年は私の発案で、学生時代直属の先輩だった芝田勝茂さんをお呼びすることになりました。

お呼びするに際し、実に37年ぶりに再会しいろいろ話しました。懐かしさと共に、お互いに生き延びてきたことを喜び合いました。

芝田さんは、1971年の三里塚闘争で逮捕され、長い裁判闘争を抱え、生活面含め苦労されながら児童文学の作品を書き続けてこられました。今回、私(たち)の求めに応じ、「初めてで最後」の学生時代の話をされました。一時期、共に活動したこともあり、当時を想起し、ほろっとするところもありました。

ところが、11・12が近づいてくるにしたがい、「はたしてどれだけの方が参加してくれるだろうか」との強迫観念にさいなまれました。宣伝・広報活動にも最大限努めました。同日、10・8羽田闘争50周年記念集会など複数のイベントが重なり、参加者が分散することも懸念されました。実際に、「10・8記念集会に行くよ」と言った方も何人かおられました。ええい、たとえ実行委員だけだったとしても、われわれのできる最大限の取り計らいで芝田さんをお迎えしようと腹を括りました。

そんなこんなで当日朝まで眠れない日が続きました──。

しかし、それは杞憂でした! 当日、会場には続々と参加者が押し寄せてくれました。涙が出そうでした。実行委員も含め100人ほどの参加者でした。10・8記念集会などとバッティングしなかったらなあ……と思いましたが、そんなことを言っていても仕方がありません。

私が最初の挨拶と司会・進行を努めさせていただきました。

開会の挨拶をする松岡

芝田さんのお話は、学生時代の体験から始まりましたので、肯けることばかりでした。やはり学生時代に共に議論し共に行動したことは身に付いています。

芝田さんにしろ、3年前に遙かアメリカからお招きした矢谷暢一郎さん(現・ニューヨーク州立大学教授、学生時代は学友会委員長)にしろ、人一倍の苦労をされました。おふたりに共通しているのは逮捕・勾留、有罪判決を受けたということです。そのご苦労が今に結実しています。私も逮捕・勾留、有罪判決を受け、それなりの苦労はしましたが、それがいいほうに結実しているかどうかはわかりません(苦笑)。

この日、芝田さんの単行本未収録の短編小説3篇を小冊子にし、レジメと共に参加者全員にお配りし喜んでいただきました。また、「S・Kさん」として再三再四くどいほど登場する『遙かなる一九七〇年代‐京都』の完成を目指しました。元々、長年かけて準備してきていたものですが、だらだらしてなかなか進捗しませんでした。ここは、11・12に向けて完成させようと、共著者の垣沼真一さんと意を引き締め編集作業に努めました。なんとか間に合い11月1日に完成し、署名したものを直接芝田さんにお渡しすることができました(奥付の発行日は11月12日)。

この本の底流には、芝田さんの思想が在ります。それは、
「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だといったんだ、だってそうだろう、革命は戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」(本書第三章「創作 夕陽の部隊」より)
という言葉に凝縮されています。

この作品について芝田さんは直前のフェイスブック(11月7日)で、
「……1973年にノートに殴り書きされた『夕陽の部隊』は、暗黒の闇がすぐそこに来ている刻に、一群の若者たちが得体の知れない怪物と闘う話だ。彼らの論理は、確実な敗北を前にして、ひとはいかに生きるのかという、ある種の美学にすぎないように思える。現世に、なにがしかの獲物の分け前を求めるのではなく、夕陽の金色の残照に、どのように煌めくのかという、それだけのために、醜怪の極に向かって突っこんでいく、最後の突撃隊。だが、『敵』とはいったい、誰のことなのだろう?……主人公の青年が、その後に辿り着いたところ、そこでどんなことがあったのかをも含めて、今の若い方々にも聞いていただければ、と思う。決してノスタルジーを語るつもりはない。それらのすべてが、『今』に意味を持っているのかを、わたしも知りたい」
と書かれています(『夕陽の部隊』は『遙かなる一九七〇年代‐京都』に再録されています)。

荒井由美の時代の名曲「いちご白書をもう一度」(1975年)からも42年経ちました。世に出たのは、芝田さんや私が失意のなか京都を離れる頃です。月日の経つのは速いものです。〈われわれの「いちご白書をもう一度」〉を歌いたい──。 

最後になりますが、私の無理を聞き入れ「初めてで最後の講演」をしていただいた芝田さん、本講演の実行委員のみなさん方、会場に足を運んでいただいた皆様方に、心よりお礼申し上げます。

多くの方々で埋め尽くされた会場

(松岡利康)

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』定価=本体2800円+税

藤川僧と春原さん (1994.6.29)

 
初対面となる私の知人との紹介が続く藤川さんの旅の途中、私以外の世話人も同様に藤川さんに紹介され友達の輪が広まったことでしょう。これが藤川さんの思惑で、延々続いていくのです。

◆春原さんと御対面!

11時少々回って巣鴨駅改札で御対面。春原さんは「初めまして、春原(すのはら)と申します」と比丘に対するには上手くないワイ(合掌)をして御挨拶。

「話は聞いとるよ、ほな行こか!」と予定していた方向の、とげぬき地蔵商店街へ歩き出す藤川さん。先行く藤川さんの後方で、「言うの忘れてましたけど、比丘は挨拶を返さないので悪く思わないでください」と後ろを歩く間に春原さんに伝えました。

私がタイのお寺で藤川さんと再会した時も、昨日の習志野ジム宿舎での朝の挨拶も、藤川さんはちゃんとした挨拶を返していません。私も最初は違和感がありましたが、比丘は俗人に対し、挨拶を返す必要が無いので、その事情を聞いて初めて理解しました。それは一般的に正しくないかもしれませんが、そういう仕来りの下、仏門の日常があると把握しておかねばなりません。

「ああそうなんだ、聞いておいて良かった」と春原さん。

藤川さんは歩きながら春原さんに気さくに話しかけ、「普段どんな所行っとるん?辰吉は眼悪うしたやろ、まだ試合はやれるんか?」と、春原さんの仕事に合わせた会話を続けてとげぬき地蔵尊近くのレストランを見つけ、早速入りました。

11時開店の様子でサラリーマン客はまだ居らず、お参りに来てたおばちゃんたちが数人いる程度の空席が目立ちました。“3名様”を呼ばれてテーブルに着き、藤川さんは「何でもええから注文して!」と自分からメニューを見ず、我々が気を利かせステーキや中華、焼き魚類の定食を3人前、刺身の盛り合わせを1皿注文。合計で4000円ぐらい。

さて誰が払ったでしょう?いちばん年上の藤川さん、二人の仲介役の私、この場でいちばん金持ち春原さん、あるいは割り勘! あるいは……!?

藤川僧と春原さん (1994.6.29)

◆日本のレストランで見た仏教の習慣!

おばさん店員さんによって運ばれて来るお盆に載った定食をまず春原さんに「このお盆のまま藤川さんに手渡ししてください。テーブルに置いたままでいいですから」と最初から手渡しの儀式をお伝えしました。

「比丘は勝手に食べ物に手を付けてはならず、俗人から手渡しされたものしか手を付けてはならないので、今後、藤川さんや私に対し、タイで同様の機会があるかもしれないので、覚えておいてください」と生意気にも少し年上の春原さんに指導する私でした。

「面倒な儀式でしょ! つい忘れると藤川さんは小声で“オイオイ”と呼んだりヒジで突くんですよ、腹立つときは放っておいてやろうかと思いますよ」と私が言うと、ひとつひとつの発言によく笑ってくれる春原さん。

食事中突然、厨房からひとりの大学生風の女の子がやってきました。ミャンマーから来ている留学生で、このお店でアルバイトをしていて「料理をタンブンさせてください」と言う留学生。この子の支払いによる喜捨です。

それを受け入れた藤川さんは「手を出して!」と言って、留学生の手の平に、仏陀のお守りをポトンと落とし授けました。ワイをして感謝する留学生。彼女にとって徳を積む機会となったのです。個人の信心深さによりますが、これは珍しいことではなく、日本では徳を積む機会の無い信心深い東南アジア系の仏教徒は、黄衣を纏った比丘を見つけるとどこだろうと進んで喜捨に向かいます。周りのお客さんは不思議そうな表情。

1時間も喋っていると昼を回り、サラリーマンを主に満席になってきて、春原さんが「喫茶店に移動しますか」と言って立ち上がりレジに向かいました。比丘を除く我々2人分の代金を払おうとすると「あの子が払いましたよ」と厨房を指差すレジのおばさん。

春原さんが「お坊さんには喜捨でいいけど、我々は一般人だから」と言っても「全部お坊さんへのタンブンですから御心配なく」と厨房からさっきの留学生が笑顔で応えました。春原さんと私は「申し訳ない、我々の分まで」と恐縮ながら、留学生に“我々流”に御礼を言って出て来ました。

店を出た後、藤川さんが「あの子、時給800円ぐらいかな、飯代が4000円ぐらいやったやろ、ワシらの為にあの子は5時間ぐらいタダ働きや、申し訳ないと思うやろ、4000円言うたらタイでは一般的な2~3日分の日当やな(1994年当時)、そやから一層修行して世間に還元していかなならんのや、回りまわってあの子にも還っていくんやから」と言う言葉が重かった。“奢り”ではない、この留学生の信心深さに責任を感じる我々でした。

藤川僧と春原さん (1994.6.29)

巣鴨駅前にて。私と藤川さんのツーショットを春原さんに撮って貰う(1994.6.28 撮影=春原俊樹)

◆経験値で仏教を諭す!

喫茶店に場所を移し、もっと雑談続ける我々。藤川さんの話は人としての真っ当な生き方論ではなく、己の経験話。俗人の頃、一時出家の頃、現在と波乱万丈の話は尽きません。

「好き勝手生きてきたワシのような生臭坊主、絶対悟りの境地に達することないやろうと思うんや、何でか言うと、今だに夜中眼っとっても裸で寝とる女に喰らい付いていく夢見ますんや、ハッハッハッハ!」。

「お坊さんと言っても男ですからねえ」と春原さんも納得の大笑い。

「藤川さんはこんな感じで手紙でも面白いこと書いてくれるんですよ」と私が言うと、藤川さんは「こいつなあ、“面白い手紙期待してます”って書いてよこすんやけど、ワシはタイのお寺で、吉本の芸人の修行しとるんやないんやで! 仏道の修行しとるんやで、敵わんな、ワッハッハッハ!」とまた笑わす。

春原さんには「比丘が人前で大笑いしたり、長話ししてはダメですよ」と駄目出しをして欲しかったところ、こんな話聞いていれば春原さんは笑ってばかりで凄く楽しそう。

「寺の様子見るのが楽しみになってきました。もちろん藤川さんも凄い真剣になるんでしょうけど、そんなギャップも見たい」と、ボクサーの試合とプライベートの違いを覗くようにビジネス魂が出る春原さん。

私が「今日、春原さんに来て頂いたのは、私の得度式の撮影をお願いしているので、なるべく撮りやすく出来るよう前もって藤川さんにお会いして頂きたかったんです。月の上旬は春原さんが忙しいので、私は10月中旬以降に寺に入って得度式は月末までにお願いするかと思います。」と藤川さんにお願いすると、
「お前、どうせ仕事も無うて暇なんやろ、10月なんて言うとらんと来月頭にでも来い!」と人のプライド傷付けるようなことを言う。しかしよく喋るなあ、アッシーへ、練習生へ、春原さんへ。「もう京都へ行ってくれ!」とは私のひとりごと。

◆最後の準備へ!

出会いから合計3時間ぐらい話し充分仲良くなった頃、春原さんはそろそろ編集部へ向かう時間です。藤川さんは娘さん夫婦が居る故郷の京都へ向かう為、我々は東京駅へ、春原さんは「今日は凄い楽しかったです。ありがとうございました。ではまたタイでお会いしましょう、お気をつけてお寺まで帰ってください」と手を振って職場へ向かわれました。藤川さんに飲み物だけ渡し新幹線に押し込み、ようやく解放。あとは10月に向け、アパートの家賃や旅の予算を蓄えに最後の準備に掛かります。藤川さんは日本滞在期間、京都で同様に友達の輪を広げていることでしょう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』12月号!

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

10ヶ月ぶりの対話。藤川僧と立嶋篤史(1994.6.27)

本当に東京に来やがった藤川のオッサン。だんだん私の言葉使いが汚くなったのもこの頃から。まあ私の出家に関わるお願い参りの御奉仕であり、お付き合いはしたものの、好き勝手言うジジィに、この頃から心の中で「藤川クソジジィ」と呼んでいる私でした。まだ御本人には「藤川さん」と呼んでいましたが……。

◆ アッシーと再会!

習志野ジムに着くと中へ藤川さんを御案内。先に来てジムを開けていた、このジムでトレーナーを務めるメオパーとサッカセームレックというタイ選手2名は、さすがに信心深く跪いてワイ(合掌)をしました。やがて他の練習生や樫村謙次会長もやって来ました。前もって会長に連絡をお願いしておいたアッシーも後からジムに到着、ドアーを開け入って来ると二人はどちらがともなくニッコリ笑顔で10ヶ月ぶりとなる再会。アッシーとしてはもう忘れかかっていたかもしれないが、会うことが出来なかったタイでの試合後、そんな空間を埋めるような捲くし立てる会話が続きます。

この1年間で藤川さんはまた坊主に戻る人生の節目、アッシーはあれから5連勝中の日本ではトップの立場。もちろん本人はトップのつもりはなく最高峰へ向けてのまだ低い通過点でも、キック界は彼に注目の時期でした。“対話”を1時間ぐらい続けた二人。一般的ではないアッシー特有の立場に対する苦言や激励となる説法は何だったか、藤川さんのお店の時同様、私は居るだけでほとんど聞いてなかったですが、キック界初の“年俸1200万円”のアッシーに対し、若くしてトップにのぼった人間がその後どうやって生きていくか、そんなクドい説法をしたのかもしれません。

嫌な顔はせず笑顔も溢しながら対話を続けたアッシーくん、こんなクソ坊主に付き合ってくれて有難う。心新たに今後のキック生活に役立ってくれればいいと思いつつ写真を撮り、少し練習風景を見た後、メオパーに「今日は泊まっていけ」と誘われ、習志野ジム宿舎となる近くの2Kアパートへ移りました。明日昼近く11時頃に巣鴨で春原さんと会う予定で、私にとっては自分のアパートまで一旦帰るより、ここに泊めてもらった方が大助かり。

アパートに移動中、藤川さんが「アッシーは以前タイで話し合った時と少し感じが違ったなあ、タイで会った時の方が素直で純粋な感じを受けたんやが」。

私は「それはタイで羽目外してた時と、普段キツイ練習するジムに来るのとでは接し方が違いますよ。今日は来客者の藤川さんとの対面でもあるし、来月は試合が控えた身ですからジムに来るのは気持ちが違いますよ」。

藤川さんは「そうか、まあワシの思い過ごしならそれでいいんやが。とにかくまた落ち着いたら、また来年会うとしたらどう成長しとるか楽しみやな」。

次回はゆっくりと、再会約束もしたようでした。

初のツーショット、残念ながら俗人時代のツーショットは無い。髪ある藤川さんを撮っておけばよかった(1994.6.27)

◆ タイ人の習慣

メオパーらは夕食の準備に掛かります。なかなか器用で調理が上手いタイ風料理。藤川さんが居る前で我々の食事が用意され「ハルキもこっち来い!」と食卓に招きます。藤川さんは片隅でお茶だけ差し出されて飲みながら座って見ているだけ。
メオパーもサッカセームレックも、ここに泊まっている17歳の練習生も普通に夕食を摂ります。私はちょっと藤川さんを気にしつつも、腹減ってるので遠慮なく頂きました。

藤川さんには目もくれず、「御代わりあるぞ、いっぱい食え!」と練習生と私に勧めるメオパー。比丘がいても何も遠慮はしません。藤川さんにとってはタイでは入る機会のない“湯舟に浸かる”風呂も使わせて貰い、寝床は三畳間にひとつだけベッドがあり、メオパーはそこを藤川さんに譲りました。

翌朝、メオパーとサッカセームレックはムエタイ関連の仕事の為、アパートを出て行きます(彼らは興行ビザで来日し、試合とトレーナー業をメインに務めています)。その前にメオパーは藤川さんのベッド脇に朝食を用意し、「これから仕事に行ってきます。ごゆっくりしていってください。この先良い旅になりますように」と言ってサッカセームレックと二人でワイして仕事に向かったそうで、私はちょっと遅れて目覚めて朝食を摂る藤川さんに「おはようございます」と挨拶し、「ウン」としか言わない返答の後、そのメオパーらの様子を聞きました。

朝食後、「それに比べてお前は何や、昨晩ワシの前で堂々と飯食いやがったな、冷たいやっちゃなあ、覚えてろ、ヘッヘッヘッヘ!」と、冗談ではあるが、私を困らせるのが趣味になってきた藤川さん、意地悪いクソ坊主である。

ここに泊まっていた17歳の練習生は学生だったかアルバイトしていたか忘れましたが、この日は休日でアパートに残っていました。それをいいことにまた説法を始めた藤川さん。まだ喋り足りなくてストレス発散しているのが見え見えです。身に成る話であっても、聴かされる方は鬱陶しいことこの上ない為、長居しては彼が気の毒と察し、早々に出かける準備を済ませ、私が練習生に御礼を言って藤川さんとこのアパートを出発。

昨日のアッシーは藤川さんと言葉のキャッチボールをして対話となっていたものの、今日の17歳練習生は説法の問いかけに、「ハイ、ハイ、」とただうなずくだけ、どれだけ飽きて退屈で「いつまで続くんだろう」と思ったことだろう、ちょっとの時間ではあったが、せっかくの休日に申し訳ないことをしたなあと、私一人反省。

名トレーナーとスリーショット、左がサッカセームレック、右がメオパー(1994.6.27)

◆ 元営業マンの発想

今日がいちばん会って欲しい春原さんとの初対面。時間も若干早く、八千代台から巣鴨を通過し、池袋のビックカメラ辺りまで連れて見て周りました。

私は日頃の単なる買い物の街、藤川さんの目には「この辺の建物と土地は売るなら幾らかな!」なんて言い出す、さすが元地上げ屋の血が騒ぐ発想。しかし比丘の身で何たる発言か。

更に藤川さんは、「昔、関東大震災が起きて焼け野原になった時、この駅前周辺の土地に “この土地は○○の物”と書いた看板立てて復興前に自分の土地にしてしもうた奴が居って、いいかげんな役所の判断のまま今の池袋駅前の区画が決まったんや」と言い出す。「それ本当ですか?」と私。上岡龍太郎のウソかホントかわからん話に笑福亭鶴瓶が「そんな訳あらへんやろ!」と突っ込むようなネタに似た笑い話。

「お前ももし今度、関東大震災でこの周辺が崩壊したら真っ先にこの辺の土地に看板立てて有刺鉄線張って“ここは堀田の物”と書いて奪ってしまえ、一気に億万長者やぞ、ワッハッハッハ!」

まずこの時代の鉄筋高層ビルが建つ中、また関東大震災が起きてもそんなこと成り立たない。しかしそんな発想が浮かぶこと自体、私には無い知恵である。このジジィやっぱり凄い。

やがて11時頃に会う約束してあるワールドボクシングの春原さんと昼食を共にする為、巣鴨に戻りました。私の得度式の為、タイの寺に来て頂く訳ですが、こんな生臭坊主に春原さんはどんな駄目出しを入れてくれるのでしょう。何かワクワク感が沸いてくるのでした。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』12月号!

今や児童文学の世界で確かな地位を築かれた芝田勝茂さんは、私の学生時代の2年先輩にあたります。1970年代前半のことですので、遙か昔のことです。

芝田さんは1968年に同志社大学(文学部国文学専攻)に入学、この頃は、70年安保闘争、教育学園闘争華やかりし時代で、芝田さんも時代の渦に巻き込まれていきます。そうして70年に入学した私と出会い、一時期を共に過ごし、70年代初めに盛り上がった学費値上げ阻止闘争、沖縄-三里塚闘争を共に闘いました。

芝田さんは71年の三里塚闘争(成田空港反対闘争)で逮捕され、以後長い裁判闘争を強いられます。しかし、裁判と生活のために京都を離れ上京、働きながら徐々に児童文学の作品を書き始めます。そうして1981年『ドーム郡ものがたり』でデビュー、83年『虹へのさすらいの旅』で児童文芸新人賞を受賞、そして90年『ふるさとは、夏』で産経児童出版文化賞を受賞し、以降40点近くの作品を出版、児童文学作家としての地歩を固めていきます。

また、私も学費値上げ阻止闘争で逮捕-起訴され、裁判と生活に追われ、芝田さんともなし崩し的に連絡が途絶えていきました。最初の作品『ドーム郡ものがたり』の出版直後一度東京でお会いした記憶がありますが、学生時代以来会ったのはそれ一度でした。

今回、学生時代から45年、81年に一度会ってからも35年ほど経って、なにかの巡り合わせか、同志社大学が年に一度行うホームカミングデーに学友会倶楽部主催の講演会にお招きすることになり再会しました。これも運命でしょうか。

「学友会」とは、各学部自治会、サークル団体を統括する自治組織で、60年安保、70年安保という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとして全国の学生運動、反戦運動の拠点となり、同志社大学はその不抜のラジカリズムで一時代を築いたところです。残念ながら2004年に自主解散し、かつてそこに関わった者らで作られたのが「学友会倶楽部」です。いわば親睦組織のようなものですが、かつての記録集を出版したり、5年ほど前からホームカミングデーで講演会を行っています。

芝田さんは、当時運動に関わり逮捕-起訴された者のほとんどが身バレすれば社会的に不利益を蒙り生きにくくなることからそうであったように、出身大学名や学生時代の活動なども誰にも語らず過ごして来たそうです。

今回、学生時代のことを語るのは「最初で最後」だということですが、共に一時期を過ごしたこともあり、興味津々です。われわれにとっての「いちご白書をもういちど」といえるでしょうか。

この講演会に間に合わせるべく、私なりに当時のことを書き綴った『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』という300ページになる分厚い本を上梓しました。この底流となっているのは芝田さんと共に過ごした70年代初めの物語と記憶です。こちらもご購読よろしくお願いいたします。

なお、11・12芝田勝茂さん講演会ですが、入場料は無料、先着100名のご参加の方に、単行本に未収録の芝田さんの短編小説3篇を収めた小冊子を進呈いたします。貴重です(将来的にプレミアがつくかもしれません〔笑〕)。

11・12(日)芝田勝茂さん講演会(同志社大学学友会倶楽部主催)

芝田勝茂さん 略歴と著書

【11月4日刊行開始】渾身の〈政治的遺書〉!
松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』

黄衣で後楽園ホールへ。異次元の雰囲気(1994年6月27日)

◆アナンさんに相談から!

前年の11月(1993年、藤川さんが再出家した翌月)、私がタイでお世話になっているゲオサムリットジムのアナン会長は、日本の興行に招聘観戦され来日、数日の滞在の後、私と京成線に乗って成田空港へ見送る電車の中で、「俺、タイで出家してみようかと思うんだけど、どう思う?」と相談したことがありました。

アナンさんは「オオ、それはぜひやった方がいい。タイでは社会人として凄く意義あることだ。スラータニーのいい寺紹介するぞ!」といきなりの乗り気。

「いやいや、アナンの家の近くのM&Kやってた藤川のオッサンがペッブリーで再出家したんだけど、そこに誘われているんで行き先は決まっているんだけど」と言うと「藤川ってあの飯屋の? わかった、必ず得度式には出るからその時は言ってくれ」。

応援してくれる仲間が居ることは心強いものでした。

中央線に乗る藤川さん(1994年6月27日)

◆撮る側が撮られる側へ

そして翌年(1994年)3月に寺を見た後の帰国後、もうひとり相談したい人がいました。仕事で知り合い、タイが好きなことから一緒にタイ料理を食べに東京近郊のタイ料理店を何店も回っていた仲であったボクシング雑誌、ワールドボクシングの春原俊樹記者でした。

5月頃、都内も飽きてちょっと郊外の西武新宿線・久米川駅近くにあるタイ料理店に行ったときのことでした。

「俺、タイで出家してみようと思うんですけど、どう思います?」と言うと、春原さんは急に目をランランと輝かせ、「ウン、それはいい、やってやって、俺が得度式の写真撮るから!」。

私は、「実はそれをお願いしようと思ってたところで、撮って貰えますか?他に頼める人はいなくて、撮影が出来る人は春原さんぐらいしかいないのです。」と言うともう乗り気満々。業界仲間で、ある程度タイを知り、撮るコツが分かる人はこの人しかいませんでした。

そこで春原さんは、「よし、それを本にしよう」と言いだし、「ちょっとやめてくれ」と思える早過ぎの展開。

「無理です。今まで何でも三日坊主だった俺で、寺に居るだけので平凡な日々になります」と言っても、「何とかなる、日々細かく日記付けるだけで話題は溜まるし、タイトルはよし、“タイで三日坊主!”にしよう。二日で終わっても三ヶ月続いても“三日坊主”でいい」。

さすが雑誌を作る側の物書きは発想の展開が早い。

私 「来月、先輩僧の藤川さんが日本に来るんですけど、お会いになられますか?」
春原さん 「もちろん会わせてくれ、これで決まりだな。俺はせっかく行くんだからタイの世界チャンピオン取材も兼ねるようにする」
私 「それで、静かに誰にも知られずに出家したいので、誰にも言わないで欲しいんですけど」
春原さん 「えっ、それは無理だな、タイで動くにはどうしても青島律(ムエタイ関係コーディネーター)さんに頼らなければならないし、勝手に別行動なんかしたら、“何か変だぞ”と思われるよ……」

ここは妥協するしかなく、まずは得度式のカメラマンの確保完了。春原さんは「仕事は月の上旬が忙しいからそれを避けてくれ」と言うことから、ほぼ10月下旬の出家を予定しました。

総武線で電車を待つ。駅でこんな姿を見たら、異様な雰囲気でも、タイ人が寄って来て、ひざまずいてワイをし、お布施をする(1994年6月27日)

◆望みどおりいかぬ極秘の出家

6月下旬、藤川さんが予想どおり、安さ優先で選んだバングラデッシュ航空の早朝着でやって来ました。その朝早くに成田空港まで迎えに行くと、藤川さんより年輩の町田さんという知り合いの方が、タイから別便で先に到着し、藤川さんを待っておられた様子。

「何だ、俺来なくてもいいんじゃねえの」と思いながら成田空港で“3人”で朝食を摂り、一緒に池袋までリムジンバスで移動。

そのバスの中で藤川さんが、先日、タムケーウ寺に藤川さんを訪ねて町田さんが3人連れでやってきたときのことを話し出しました。

「その一人は堀田さんも知ってる若い女性やが、誰やと思う?? 教えねーよ! ヘッヘッヘッヘ!!」

その女性は、「先日も堀田さんと会ったらしいけど、“出家することは何も言ってくれなかった”と怒ってたぞ!」と脅かす藤川さん。

「ワシが“堀田さんが出家するときは責任持って連絡するから”と言っておいたぞ!!」と全く余計なことを……。

藤川さんは調子に乗って「コラッ、女たらし、あまり罪を作るなよ、出家しても救われないぞ。ワッハッハッハ!」と高笑い。

「リムジンバスだぞ、静かにしろ!」とイラつく私。

この女性、そんな滅多に会わないタイでの狭いムエタイ業界日本人関連のカメラマンであり、青島律さんとも知り合いでした。また一人、日本人に知られてしまっていた……すでに数日前に!

池袋周辺散策後、私は午後から仕事もあるので、その後は町田さんにお任せしてお先に失礼しました。

町田さんと都内を歩く藤川さん。奇妙なものを見るかのような周囲の視線など気にしない黄衣の藤川さん(1994年6月24日)

◆修行の前哨戦

日を改めて3日後の朝、宿泊している巣鴨のアジア文化会館へ、コンビニで買った朝食用おにぎり、サンドイッチを持って藤川さんを訪ねました。タイのテーラワーダ仏教の比丘が、一般のホテルに泊まることは戒律上難しいところがあります。止むを得ない場合は仕方ありませんが、極力質素な宿を選ばなくてはいけません。そんな条件で選んだのが、泰日経済技術振興協会関連のアジア文化会館ドーミトリーだったようです。

「お前の知り合いでタイ関係やタイに関心がある者に会わせてくれ、これからムエタイ修行に向かう選手でもいい」これが藤川さんの手紙で要求されていたお願い。
私は「立嶋篤史に会いに行きますか?」と言うと、藤川さんは、「おう、そうやそうや、そうしよう。もう一遍会ってみたかったんや」で決定。

その前に行っておきましょう、後楽園ホールへ。平日の昼だったので、何も催し物はありません。後楽園ホール5階は事務所は開いていますが、この階の他のフロアーは誰もいませんでした。

事務員を見つけたとことで「ちょっとホールを覗かせてくれませんか。こちらタイのお坊さんなのですが、おそらくもう二度と来れないのでちょっとだけ見てすぐ帰りますから。」と言うと、「真っ暗だけどいい?」覗くだけならと了解してくださり、入り口のロビー正面の右側客席階段を上がったところで会場内を見渡しました。リングは設置してあり、廊下側の蛍光灯照明が入り込むので、会場内は見渡せました。

「あの赤コーナーが立嶋が立つ位置ですよ」と言うと藤川さんは、「そうか、篤史もこんなところでドツキ合いしとるんか…!」その場に立っていたのは、ほんの1分ほど。迷惑にならぬよう早々に後楽園ホール事務所で御礼を言って後にしました。いろいろな因果応報が始まったこの聖地に、藤川さんも立ってみて欲しかっただけの私のわがままでした。

夕方にかけ京成八千代台駅から徒歩10分(当時)の習志野ジムへ向かいました。「ここでアナンさんに会わなければ藤川さんとも会うこと無かったろうになあ」と思いながら、並んで歩く藤川さんが鬱陶しくも思えた遠い道程。

これからアッシーと会い、もうしばらく鬱陶しいこのオッサンと東京近郊を歩くことになります。お願い参りはなかなか面倒な修行の前哨戦。すべて藤川さんの思惑どおり、カモとなっている私でした。

後楽園ホール。藤川さんが立った位置(撮影は2017年9月24日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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朝の読経

まだ暗い道を進む藤川さん

早くから喜捨の為待つ信者さん

小さい頃からこの習慣が身に付いていく、教育ともなる喜捨

来世に向けて徳を積むおばあさん

 

◆朝の読経とビンタバーツ(托鉢)の準備

翌朝、目覚めたのは4時頃でした。眠れそうにないと思った枕の違う寝床でも一回も起きずに朝を迎えました。静まり返ったクティ内に対し、外には元気に鶏が何羽も鳴いています。田舎らしさというか、お寺らしさというか、自然が作り出す朝の賑わいが心地いい目覚まし時計となりました。

これから読経があるということで藤川さんはホームドーン(儀式用纏い)に黄衣を纏い、クティ内の読経の場に向かいました。揃った比丘は7僧。この寺は和尚さんを含めて8僧というなかなか少ない在住比丘でしたが、これがパンサー(安居期)には若い出家者が30僧ほど増えるという賑やかさだそうで、それぐらいがこの広い敷地の寺らしいと思いました。読経は30分ほど続き、これが終わってゆっくりビンタバーツ(托鉢)の準備に向かいます。

◆比丘と俗人の神聖な触れ合い

藤川さんは黄衣をホームクルム(外出用)に纏い直し、バーツ(鉢)と頭陀袋を持って裸足になって5時30分頃寺を出ました。外はまだ真っ暗。藤川さんの裸足の擦る足音が「サラサラサラ」と静かに響く中、月が明るく照らしていました。その暗闇の中、すぐに現れた信者さん。おひつに入れた湯気が立つ炊き立て御飯をしゃもじで掬ってバーツに入れ、ビニールに入ったオカズを頭陀袋に入れ、ワイ(合掌)をする10秒ほどの儀式が済んで何も言わず静かに立ち去る藤川さん。日本人的感覚では、乞食に食べ物を恵んでやるような行為も、その意味合いが全く違う、正に神聖な瞬間でした。

寺の路地を出て大通りを歩く間にも、次々と信者さんが待つ道の端に止まり、サイバーツ(鉢に寄進するものを入れる行為)を受け先に進みます。また別の路地に入り家の前でテーブルを出して比丘を待つ信者さんもいます。カメラを向けフラッシュを焚くと一瞬驚いた様子も見せつつ、ニコッと笑ってくれる人ばかり。私も緊張の撮影でしたが、皆がおおらかな人達でした。中には「日本人ですか?」と尋ねてくれる人もいて、軽く挨拶しては先に無言で歩く藤川さんを追いかけました。陽が昇り空が明るくなった頃、寺に戻ります。ほぼ1時間ほど歩いた道程でした。結構な運動量であることにも驚くほどでした。

水を溜めた足洗い場で足を洗い部屋に戻りました。正気に返ったように笑顔で「こんなもんです!」と普通の会話に戻り、托鉢の様子を見せ終えた藤川さん。バーツにはかなりの御飯と頭陀袋にも数々のオカズが入っていました。蓮の花を渡した信者さんもいました。それらを一旦比丘の食事の場となる“ホーチャンペーン”と言われる高めの台座に集められ、デックワット(寺小僧)によって食器に移されていきます。

昨夜会った男の子も率先して働いています。比丘の食事となる前に俗人であるデックワットから比丘に再度手渡しがされます。この儀式が無いと比丘は食事をしてはいけません。比丘の朝食の間はデックワットは何もせず待ち、食事後、デックワットが残り物や食器を集めて去り、その場で読経が5分ほど行なわれ終了。

デックワットは集めた残り物やタライにいっぱいある白米と、オカズもまだ手を付けてない袋に入ったもの、それらを持って別室で自分たちの朝食となります。寄進はかなり多かったことを表すほど山盛りありました。私も和尚さんに「一緒に食べなさい」と呼んでくださり、デックワットと一緒に朝食となりました。決して粗末なものではなく、バンコクの屋台やムエタイのジムで食べていたものと同じ。仲間が居れば輪を囲んで食べる楽しさもありました。これって今の日本人にはなかなか無い習慣だと感じるところでした。いや、昔の日本にもあったのです。一家団欒の輪を囲み、同じオカズに箸を付けることに家族の触れ合いや温かみがあるのでした。

「寺には何かある、一般人には無い何かある。これを体験させる為に、タイには軍隊の他に、社会人として常識を覚える通過儀礼として出家制度があるのでは」とおぼろげながら感じるのでした。

慌てて門から出て来てサンダルを脱ぎ捨て喜捨した信者さん

裸足で無言で重くなったバーツと頭陀袋を持って寺に帰る藤川さん

◆外泊理由に使われた私!

わずか24時間に満たない寺滞在でしたが、「俺にも出来るぞ」という安心感を得て、和尚さんに、しっかりワイをして下手なタイ語で御挨拶して寺を後にしました・・・。

となるなずだったのですが、「ワシも行くぞ!」と黄衣を纏って準備していた藤川さん。バンコクにはソーソートー(泰日経済技術振興協会)といったタイ文化と交流を持つ日本人会や、度々お泊りの世話になる旅の中継点の、スクンビット通りの寺があるので、藤川さんは何かと用を作ってはバンコクに向かうこと多いようでした。でも何やら遠出外泊にはあまりいい顔しない和尚さんらしく、私を見送るという丁度いい理由付けにして着いて行こうと思っていたようで、笑ってしまうような何ともセコい藤川さんの考え。これでバスに乗ってバンコクまで一緒。お喋り相手に利用したり、外出理由に利用したり、だんだん藤川さんの思惑が見えてきたような言動。これが今後も続くとはまだ深くは考えていない寺様子見の旅となりました。

ぎこちない挨拶をする私に、藤川さん流に見ると、和尚さんは寛大な心を見せようとしているのか、「いいからもっと気楽に居なさい。出家の時も何も心配しないで気楽に来なさい」という何とも優しい対応でした。

寺を出る前に、この寺の世話人となる、藤川さんの出家の際に親代わりとなってくれた弁護士さんが居ると言うので、この方にも御挨拶に行きました。もうこんな親代わりは慣れっこのようで、弁護士というより小学校の先生のような何も不安の無い普通の優しいオジサンでした。副住職さんにもお会いし、藤川さんが率先して私のこと喋ってしまうので、改めて自己紹介は軽めに、「得度式の際にはお世話になります」とお願いして寺を後にしました。

◆最後の前哨戦に向けて!

私はまたこの寺に来る日までに、やらなければならない問題が山積みでした。経文は覚えなくてもいいと言われてもある程度、得度式の流れを汲んでおかねばなりません。長旅の予算も必要です。住んでいるアパートをどうするかも問題でした。貧乏生活をしている私はそれがいちばん問題で、それらを解決してから寺に向かうことになります。

これで頓挫しないことを誓って一旦帰国となるところ、「6月頃、日本に帰るから東京で宜しく頼むわ」と藤川さんにお願いされてしまう別れ際。何か厄介なお荷物になりそうな嫌な予感を受けながら了解し、アナン会長の居るムエタイジムに戻って数日お世話になってから帰国しました。これから日本で、頼らなければならない幾人かの友人、知人に出家することを伝えなければいけません。その人物とこれから会うことになります。

朝食後は短い読経で締め括ります

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

元プロレタリア青年同盟・元国鉄下請労働者の中川憲一さん © 2017 三里塚のイカロス製作委員会

人の心や尊厳と、それを守るための闘争の手段とを問うような映画上映&トークと集会が開催された。わたしは、9月30日にドキュメンタリー映画『三里塚のイカロス』を観て監督と出演の方のトークを聴き、10月1日には「『エルサレム! 今、ハンダラ少年は何処に?』第2次インティファーダ17周年 10.1パレスチナ連帯集会」に参加したのだ。

◆ 「命をかけてカヌーに乗る権利があるが、心通わせる運動がしたい」という思い

『三里塚のイカロス』の代島治彦監督は、大津幸四郎監督とともに手がけた前作『三里塚に生きる』後の2013年、辺田部落の農民の妻となったHさんの自殺に対して『不条理』を感じ、強い憤りを覚えたことが本作制作のきっかけとなったという。『三里塚に生きる』を観て「運動は『魂の救済』へと向かわねばならない」と考え、大津幸四郎さんが撮影を担当していた小川伸介監督『日本解放戦線・三里塚の夏』なども観ていたわたしは、『三里塚に生きる』の映画評を雑誌に寄稿し、新作の完成も心待ちにしていた。

© 2017 三里塚のイカロス製作委員会

『三里塚に生きる』は三里塚芝山連合空港反対同盟に参加した農民を中心に描いていたが、『三里塚のイカロス』では支援の活動家が主に取り上げられている。その中で、Hさん同様、農民の妻となった女性たちも多く登場するのだ。

作品パンフレットでは、反対同盟事務局次長の島寛征さんは、1967年の「強制外郭測量阻止闘争」で、機動隊が「座り込みをしている反対同盟の農民を蹴飛ばしたり、ぶん殴ったりし」た、と語っている。共産党はスクラムを解いて歌を歌ったが、68年の「三里塚空港実力粉砕現地総決起集会」では新左翼はすでにヘルメットにゲバ棒で武装していた。『三里塚の夏』では、「三里塚空港粉砕全国総決起集会」で反対同盟の青年行動隊もカマと竹槍をもって武装する姿が映し出されている。ただし、反対同盟の中には葛藤があった。

『三里塚に生きる』では、機動隊3人が死亡した東峰十字路事件を経て、青年行動隊リーダー・三ノ宮文男さんが自殺した当時を仲間が振り返る。パンフで島さんは、「『ここで生きていこう』という運動に死人が出る。少なくとも農民は、この頃から闘争の矛盾に気づきはじめます」という。その後、援農と妻たちの話題に移り、産直の「ワンパック」運動にも触れている。ちなみにわたしたちは以前、四ツ谷の「自由と生存の家」でここの野菜を含めて送ってもらい、販売して得た収入を「自由と生存の家」に暮らす人々にカンパするなどしており、現地のイベントにも参加していた時期があった。そこには運動とは無関係に父親とともに移住してきた青年が、農的な暮らしに精を出す姿もあり、希望を感じたものだ。

ところで本作では、空港が開港され、移転を余儀なくされた際に悩み苦しむ元支援の妻たちの思いも拾い上げられる。そしてHさんが移転を苦に鬱病を発症し、亡くなってしまう。そのような中、話し合いでの「秘密交渉」による前進が試みられるが、読売新聞の報道によって事実は「ねじ曲げられ」、反対同盟幹部(の一部)と新左翼党派から「秘密交渉」を試みた人々が自己批判を迫られる。中核派では「三里塚で主流派になり、日本の革命的左翼全体の主流派にならければならない」という意図が持ち上がり、生活と命が踏みにじられていく。結果、反対同盟において「永続闘争」は否定され、終息の仕方が話し合われるようになる。パンフで島さんは、「時代は変わっても政府と住民のいざこざは今後もどんどん起きる訳ですよ」「砂川米軍基地拡張反対闘争からはじまって、いまの沖縄の米軍基地問題まで、そこで生きる住民が一番損をしている訳ですよ。三里塚はどうかっていうと(中略)闘争の犠牲を代償にしたことで、その後は農業を持続できる体制ができたり、地元での仕事が増えたり、住民はあまり損をしない形になったと思う。」とも語っているのだ。そして沖縄の辺野古では、三里塚を教訓に、非暴力が貫かれていると代島監督はいう。

上映後、出演者である元第四インター・平田誠剛さんと代島監督のトークがあった。そこで平田さんはまず、「みんなそれぞれ傷を持っていたりするが、わたしと同じように、終わっていない、続いていると聞き、それがうれしかった」と、監督に感謝の言葉とともに述べた。また、「中核のやり方を統制し、反対運動を続けていくのは難しかった。それはわたしたちの責任だろうと思う。第四インターだけでなく、わたし個人も、関わった人も」とも口にする。さらに、「わたしは福島に生き続ける。今は、ほとんどいわき市にいて、三里塚闘争の経験を生かしながら、単なる類推でなく人々の共感、ともに歩む生き方を、恥ずかしいけどしているかなと感じている。(このことをカメラの前で語らなかったのは)いうべきことにあらずと思っていたから。代島監督は埴谷雄高の(4兄弟が窮極の「革命」について語る)『死霊』を読み直しているといっていたが、わたしはドフトエフスキーの(無神論的革命思想の「悪霊」に憑かれた人々の破滅を描く)『悪霊』を再読している。19世紀に限らず、今だって人間に起こりうること。わたしはあまりこのようなことを改めていいたくないが、それぞれ(このようなことを)抱えているとわかっていなければいけないと思う。逃げずに踏みとどまり、『おもしろい』闘いを続けたい」「三里塚の経験があって、焦らなくなった。心通じ合える瞬間みたいなものがあり、それだけでも十分と思うこともある。支援として、福島に尽くし足りないわたしが悪い」「俺たちは命をかけてカヌーに乗る権利があるし、これからも生きていく。第4インターはトロツキストで、後ろから弾が飛んでくることがわかっても、ともに闘う戦線をつくり、反撃しない思想。だが、わたしは立派なトロツキストでない。パクられた仲間のほとんど字を書けない母親の手紙に泣いた。俺たちが継ぐものはそういうものであり、そのようにやりたい」などとも語った。

農民の方々や支援に参加していた方の複雑な思いはあるだろうし、わたしは近隣の出身なので地元の人々が現在抱く思いも聞いている。いずれにせよ、現在、社会運動に携わっている立場として、闘争の意味をさまざまな視点から問い直す作品は意義深い。また、個人的には大友良英さんのファン歴も長く、ドキュメンタリー映画のコアをこのように音楽で表現できる人はほかになかなかいないだろう。

元革共同(革命的共産主義者同盟)中核派政治局員の岸宏一さん © 2017 三里塚のイカロス製作委員会

◆ 尊厳と「存在」とをかけた闘いを、誰が断罪できるのか

そして、たまたま翌日に開催されたのが、「『エルサレム! 今、ハンダラ少年は何処に?』第2次インティファーダ17周年 10.1パレスチナ連帯集会」だ。近年、この連帯集会にも参加しているのだが、今回は「ハンダラ少年」が取り上げられた。ハンダラとは、1975-87年頃、ナジ・アル=アリによって描かれた、パレスチナ難民を描写したイラストの登場人物。「正義と自己決定のためのパレスチナ人民の闘争の強力な象徴」であり、「難民キャンプの子供のように素足で、わたし(ナジ・アル=アリ)を『間違い』から守るアイコン」「彼の手は、アメリカの方法による解決策に対する拒絶反応として、背中に隠されている」。ナジ・アル=アリは10歳の時にレバノンの難民キャンプに収容され、ハンダラ少年も10歳として描かれており、パレスチナに自由と尊厳とが取り戻されるまで成長することも振り返ることもない。

講演で中東近現代史研究家の藤田進先生は(アメリカなどによる国際連合の決議を経て分割され)イスラエルに侵略されるパレスチナの情況を語り、「最後に譲れないものは、人間の尊厳、物質的なものよりもプライド」と強調した。尊厳がなくなると人間は存在できなくなる。物理的に破壊されても、(パレスチナの暮らしに根づき平和や生命の象徴とされてきた)オリーブの木は生えて、抵抗運動がまた始まり、人間としてのプライドが強く打ち出されるものだともいう。

ナジ・アル=アリは絵を描き続け、1987年頃から93年頃まで続いた第1次インティファーダ(抵抗運動・民衆蜂起)がヨルダン川西岸とガザ地区で始まった頃にあたる87年に暗殺されたが、犯人は逮捕されていない。彼の本を監修した(『パレスチナに生まれて』いそっぷ社)藤田先生は、「ハンダラ少年はパレスチナだけでなく全アラブ社会、全イスラム社会、そして世界へと広がり、多くの人を惹きつけている」と説明する。パレスチナでは虐殺が繰り返され、ハンダラ少年は背中だけで顔を見せないが、その後ろ姿は抑圧された人々にエールを送り続けるのだ。そして、彼は常に事態を見つめており、ノーコメント。「そのハンダラ少年の見つめるディテールが、この絵を見るものの現実・置かれている事態・苦しみとつながる。抵抗の眼差しが描かれているのだ」とも藤田先生はいう。そして、パレスチナのあちこちに、ハンダラを描いた子どもたちの落書きがあるそうだ。

たとえばオイルの絵では、石油を入れるブリキ缶を伸ばしたものを用いた掘っ立て小屋が建てられている。藤田先生は、「国連の金で難民収容の家を造られているが、最初はテントで、その後に泥造りのものになる。ただし、狭くて不潔で住み心地が悪いため、たとえ劣悪で貧弱なものしか造れずとも人々は改造を試みるのだ。いっぽう、湾岸産油国はリッチ。そしてここに描かれた夫婦は、故郷の土地やオリーブ、暮らしのことを語り合っているのだろう。レバノンにイスラエルが侵攻してPLO(パレスチナ解放機構)の拠点だったベイルートの難民キャンプがつぶされ、国際政治による大弾圧の時期の中での思いが想像される」と説明する。

ナジ・アル=アリがハンダラ少年を描いたオイルの絵(撮影=小林蓮実)

イスラエル軍がパレスチナ人に住宅をダイナマイトで破壊した現場で配布した警告ビラについて説明する藤田進先生(撮影=小林蓮実)

また、第1次インティファーダの終わり頃、93年に突然、オスロ合意(イスラエルとPLO間の協定だが、2006年のイスラエルによるガザ地区・レバノン侵攻で事実上崩壊)が結ばれ、一方的にパレスチナの平和が「強行」される。その際に、イスラエル軍がパレスチナ人に住宅をダイナマイトで破壊した現場で配布した警告ビラも紹介。ビラには、「この家は住人の1人がテロリスト協力者のため破壊された。つまり報復攻撃だ。テロリストと協力者は破壊と絶望を増すだけであり、このようにならないように気をつけろ」という旨のことが書かれている。藤田先生は、「アメリカの圧倒的な支援を受け、最新鋭の、通常兵器でなく戦略兵器を住民弾圧に用いるイスラエルの軍事力と、抵抗グループのそれとの非対称。抵抗メンバーなどは、トイレにも行かせてもらえず、垂れ流しの中、人間としての尊厳を奪われ、怒りと抵抗が起こっている」と語るのだ。

そして、「第2次大戦後、国際連合ができ、対立があっても、人間の自由と尊厳のために維持せねばならないものがあるという、平和のロジックを世界は共有した。イスラエルをつくったユダヤ人にも生活があり、家庭を築いており、土地が必要であることをパレスチナ人は否定できない。だからこそ、話し合いを始めることがパレスチナ人の大きな念願。イスラム、アラブ社会では、宗教が違っても、隣人同士としての関係をつくるという考えが根本にあった。アラブの関係を動揺させるアメリカのやり方に対しても、違和感が世界に広がり始めたのだ。そして、イスラエルの将来に絶望する人々はイスラエルから外へ出ている」とも加えた。

会場からの「神風特攻隊と抵抗運動の共通点」などに関する質問に答え、現地で活動していた足立正生さんは、「神風特攻隊とリッダ闘争(パレスチナ解放のための日本人青年による決死の闘争)とは、180°異なる。そうでない後者は人間の尊厳を求める側から、虐殺と困難を強いられた側からの個人的な決起。国家テロこそなくさないかぎり、人道主義も人権もへったくれもない。人民や民衆を弾圧する政治こそがテロだ。生き延びるかの抵抗の闘いはテロではない。占領と抵抗抜きにして、『暴力』を否定できるのか。それは、尊厳の一部ではないか」と問いかける。

ほかにもいくつか質問があり、藤田先生も、「アメリカのバックアップを受けてユダヤ人だけの国を造ろうとすれば、アラブ全土を治めないかぎり安心しない主体となる。ただし、そのイスラエルの中にも、共存を考える人が現れている。だからこそ、アラブとユダヤ人の共存の話し合いに舵をきるべきだ。まずは、イスラエル内の左翼や民主主義者との対話を構築せねばならない。また、リッダ闘争は政治と武力闘争を力尽くで押さえ込まれた『お手上げ状態』から起こった。ルサンチマンに近い武力の闘争だ。神風特攻隊は、天皇制国家・国民国家から起こったものだが、アラブの自爆はパトリオット、自分の故郷を思う気持ちから起こっているもの。生活空間を守るための最後の手段として選択されており、女性の救急隊員などですら『自爆テロ』をおこなう。占領に抵抗する『暴力』を、はっきりと批判したり断じきれるのか。冷静では考えられないことだ。非暴力とは別に、人間の尊厳を蹂躙するものに対して激しく闘う心、リスペクトの闘いがイスラム世界にある。これをさせないためには、軍事力でなく、彼らが求める話し合いに応じることだ」と繰り返す。

また、サラームという言葉は平和と訳されるが、「宗教は違っても人間同士共存すべきだというイスラムの論理。人間のダメさ加減をアッラーの教えを忠実に守ることで乗り越えるというもの、そういった意味でアッラーの奴隷になるということ」と説明した。

撮影=小林蓮実

最後に、「世界から支援されているという意識が生まれ、現在、強力に非暴力抵抗活動が進められている」という意見が会場からあったが、足立さんは「それが民衆の抵抗の抑圧に使われており、現在も自爆攻撃はある」と口にしたのだ。

力をもたない側、尊厳を奪われている側は、命をすでに奪われていることと同じ状態にさらされる。そんな人々の最後の選択としての抵抗運動の形。国内などでは理解も得られず有効でない方法かもしれないが、リッダ闘争に参加した岡本公三さんを支援するオリオンの会では、「秋葉原事件」は抵抗運動かどうかという議論がなされたことがあった。答えは出ていなかったが、事件当時わたしは、彼は化け物ではないし理解できると考えたものだ。無差別殺傷を肯定はできないが、それは自分だったかもしれないと、これにかぎらずさまざまなときに考える。

わたしたちの、そして世界の人々の尊厳のために、いろいろな問題に対して対話を実現させること。そのために自分は何ができるのだろうか。そんなことをいつも思う。

◎『三里塚のイカロス』オフィシャルサイト http://www.moviola.jp/sanrizuka_icarus/
横浜シネマリンにて上映中。10/21(土)より名古屋シネマテーク、フォーラム仙台、メルパ岡山で公開。ほか全国順次公開予定

◎JAPAC blog(Japan Palestine Project Center)http://japac.blog.fc2.com/


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編(moviolaeiga 2017年7月24日公開)


◎[参考動画]証言で紡ぐ成田空港反対闘争~「三里塚のイカロス」代島監督インタビュー(OPTVstaff 2017年9月6日公開)

▼ 小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター、労働運動等アクティビスト。
○『紙の爆弾』11月号 特集「小池百合子で本当にいいのか」
「『追悼文見送り』でも隠せない 関東大震災 朝鮮人虐殺の〝真実〟」寄稿。
○現代用語の基礎知識 臨時増刊号ニュース解体新書(自由国民社)
「従軍慰安婦問題」「靖国神社参拝」「中東の覇権争い」「嫌韓と親韓」を執筆。

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

◆寺の堅苦しさは無くなり

ついにやって来たタムケーウ寺と藤川さんとの再会。お坊さんになったなら大人しく、真面目一辺倒の会話をするだろうという想定をいきなり裏切ってくれた藤川さん。大声で話し大声で笑ったバンコクのM&K食堂を経営していた頃と何も変わらないではないか。でもそれが堅苦しさをほぐす安心感を私に与えてくれるのでした。こんなんでもやっていけるのだと。藤川さんを通じて和尚さんにもお会いし、楽観的に捉えてしまう出家の道へ繋がりました。

トイレ、水周り掃除をする藤川さん

トイレ掃除する藤川さん

他の比丘も率先して清掃する者もいる

◆トイレ掃除は修行の一環

お喋りに付き合い、午後3時を回り、藤川さんは日課というトイレ掃除を始めました。洗濯洗剤と便器ブラシ、竹ぼうきを使って水浴びスペースとなるホンナーム(水の部屋=トイレとシャワー)を掃除。寺のクティにトイレは3箇所ほどあり、それを1時間ほど掛けて丁寧に掃除していきます。

トイレは外から入れるので、サンダル掃きで皆が利用します。常に泥汚れが溜まるトイレ。寺を訪れた俗人も使えるので一概に言えませんが、便器やその周辺はいつもタバコの吸殻が落ちており、仏門の世界でもモラルが欠落した寺の裏側が見られる場所でもあります。

藤川さんは寺に居る日で、立て続けに葬儀等が無い限りは毎日トイレ掃除をこなす様子。和尚さんや先輩比丘からそういう任務を命ぜられている訳ではなく、率先してやっているのでした。「毎日掃除しても翌日にはしっかり汚れとる。自分がやってきた若い頃のヤンチャな喧嘩や法律違反スレスレの建設営業、地上げ屋など人を騙したり脅したり、一日二日掃除しただけでは罪は消えんほどの悪行があったんや。お釈迦さんはそれをトイレの汚れで毎日教えてくださってはる、という思いで掃除するんや」と言う藤川さん。

そんな真面目な姿を見て、これが地上げ屋をやっていた人かと思うほど、変わりように驚くばかり、かつての不良や不動産屋仲間が見れば同じように思うことでしょう。トイレ掃除するのは藤川さんだけ。「他の奴は寝てるもんも居るし、勉強しとるもんも居る。皆、好き勝手に何かやっとるけど、これが誰も干渉せん寺の姿。修行は己でやるもんやから。これが葬儀やニーモン(比丘を招いて葬儀や結婚式、建築完成祝いなどでの寄進)が無い日はのんびりした一日や」という藤川さんの話しでした。

経文を覚える藤川さん

◆蚊避け線香!?

部屋に戻ると藤川さんのもうひとつの日課の一人読経が始まりました。今は本当の修行の身、日々お経を覚えているようで、仏陀の像の前で、その教科書となる経文を読みながらの読経を30分ほど続けた後、更に30分ほどの瞑想。

そうして夕方になると当然ながらイヤな蚊が出て来ます。生きものを殺すことが禁じられている戒律があるので、蚊は殺さないはずと思っていると、ここまで修行の顔を見せていた藤川さんは蚊取り線香を三つ出し、頭と尻尾にそれぞれ火を点け、部屋の隅々に置かれました。計6本点けたに等しい煙。やがて部屋中真っ白の煙だらけ。燃え尽きるまで3時間ほど掛かったかと思いますが、「蚊取り線香使っていいんですか?」と聞いても、「追い払ったんや、これで朝まで蚊は出て来えへん、蚊はこの部屋を避けて、しばらくすると左隣の部屋に集まってとなりの坊主が“パチン”と蚊を叩く音が聞こえるんや、時々嘆いとるわ、ワッハッハッハ!」と笑う藤川さん。この論点ずらしがオモロかった。

◆牛乳の力

比丘は午後食事をしてはならない戒律の下、藤川さんは当然何も食べていませんが、私には「寺の外に屋台があるけど、今日は食わんでもええやろ、牛乳でも飲んどき!」と言い、冷蔵庫から托鉢で寄進された紙パックの牛乳を出してくれました。
これが一本でも意外とお腹いっぱいになるもので、屋台に行く気も無くなり、「これは自分で空腹をごまかせるなあ」と何やら安心してしまう牛乳の力。贅沢な日々を送っているからデニーズなどでステーキやハンバーグ定食やパフェなど腹一杯食べたくなるもので、質素に暮らせば夜は小食で充分なような、藤川さんの勝手気ままな言い分に呑まれているのか、そんな気がしてしまうこの夜でした。

◆興味津々、覗き部屋!

ふと気が付けば、比丘の部屋には壁にところどころ穴が開いており、壁が劣化している訳ではなく、お互いが隣の部屋を覗けるようになっているのでした。つまり、一人で居ては隠れて何でも出来る。エロ本見ることもオナニーすることも、午後にお菓子を食べることも出来てしまう、それをさせない抑止力的覗き穴がところどころにあるのでした。

テレビや冷蔵庫を所有していても、修行の一環と認められれば必需品と拡大解釈されるものの、寺の外でも中でも至るところから厳しい目で見ているのが寺の日常であることが分かります。

その隣の部屋の穴から覗いたのがデックワット。すぐ藤川さんが「オイ、こっち来い」と呼び、こちらの部屋に来させたところ、この寺から小学校に通う男の子。親元を離れ、寺に居住しながら比丘の世話をすることで日々の生活費はタダ。日常生活に不自由はない寺でのデックワット生活の様子。しかし欲しいものが手に入るような贅沢はできないのは想像に難しくないところです。

夜も9時を過ぎ、朝も早いので寝る準備に入り、板の間に薄いタオルケットと古い黄衣の余りものを借り、硬い床の上で寝ることになります。こんな寝床はムエタイジムでも同じだったので苦痛ではありませんでした。ただ寝る前に、右隣の副住職の部屋からムエタイ中継が聞こえてきました。寺とはどういうところなのか。テレビは見れるし、蚊は殺せるし、牛乳は飲めるし、そんな自由奔放な寺の環境を見た一日。この日は安心しきって眠ってしまいましたが、節々に厳しさも垣間見れる寺であることもわかりました。

明日は、タイに居ながら身近で見ることが滅多に無かった托鉢に同行します。

デックワットを呼んで御挨拶

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

『NO NUKES voice』13号【創刊3周年記念総力特集】望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて

京都在住の読者の方から「サム(生)☆トゥッ(志)☆ソリ(歌)」公演のご案内を頂いた。チラシとDVDをお送りいただいたが、私は「サム☆トゥッ☆ソリ」の名前を目にするのも初めてだ。

韓国からやってくるグループなので、サムルノリを用いた楽団かなと、勝手に思い描きながらDVDを再生したら、全然違う。「サム☆トゥッ☆ソリ」は日本にはない「民衆歌謡」というジャンルの楽曲を奏で、歌うカルテットだ。「民衆歌謡」はチラシの説明によると、「韓国における音楽ジャンルの一つで韓国における民主化運動や労働運動、学生運動などの闘いの中から作られた歌」と解説されている。

◆ 日本にはない「民衆歌謡」

でも、肩に力が入っていて、背筋を伸ばして聴かないと、怒られるような堅苦しい雰囲気は微塵もない。昨年東京で行われた公演のダイジェスト映像からは、雰囲気としては日本の(このジャンルももう残っているのかどうか、不確かだが)「フォークソング」のコンサートを思わせる、ゆったりしながら、喜怒哀楽を歌う雰囲気が伝わってくる。

「サム☆トゥッ☆ソリ」が歌うのは、恋愛や演歌ではない。日本にはない「民衆歌謡」とは、民主化運動や、光州事件、学生運動などの中から生まれてきた闘争のうたの数々だ。そう考えればなぜ、いまこの国に「民衆歌謡」がないのかが、逆に理解させられる。運動の中から出てきた歌を、それほど政治に深いかかわりを持たない人びとでも、なんとなく耳にして知っている、そんな歌が韓国にはいくつもある。

もう20年近く前になるが、韓国人留学生たちと時々カラオケに遊びに行った。「この歌はね、光州事件の時にできた民衆の歌の歌なんですよ」、「これはね。虐殺されたデモに参加していた学生を追悼する歌です」と教えてもらった。いったいどどれくらいの「民衆歌謡」が現在もカラオケに収められているのか、最近の事情には疎いけれども、どうして韓国の「労働歌」や「学生運動」から生まれた歌はあるのに、この国の歌はないのだ、と驚くとともに少し不快になった記憶がある。国際的に歌われてきた「インターナショナル」や「ワルシャワ労働歌」の日本語版も見当たらない。楽曲一覧が載った分厚い冊子の後ろの方で、結構なページ数を占めるハングルの楽曲の中には「民衆歌謡」のメロディーが収められている。おかしいなと思った。

でも、この国で生まれ、この国に根付いた「労働歌」や「学生運動」の歌がそもそもあるのかどうかという、至極基本的な問答にすぐ突き当たった(もちろん運動展開の方法や文化背景の違いも無視はできないが)。それ以前に、いま(20年前にしても)「労働運動」や「学生運動」が「ある」といえるのかどうか。私が目にした光景だけからいえば、20年前、この国に「労働運動」や「学生運動」は皆無ではなかった。しかしそれはすでに圧倒的な劣勢だった。いまや法政大学や同志社大学を先頭に、かつて学生運動の一大拠点だった大学は、学内での集会やビラ配りを理由に学生を逮捕したり(法政大学)、大学敷地内に交番を設置し、学長が「戦争法」に賛成したり(同志社大学)、わずか半日のバリケードストライキを行った学生を退学処分としたり(京都大学)、この国の大学に「大学自治」などはもう実質、死滅している。

◆ この国のマスメディアはなぜ、お隣韓国の運動の姿を報道しないのか?

他方、韓国の大学を訪問した際、ある大学では「無期限バリケードストライキ」の最中だった。キャンパスの入り口に結構おしゃれな学生が見張りとして立っていて、最低限数の職員しか学内に入れない。私は通訳を兼ねて同行してくれた友人が、その筋では結構名前が通っていたらしく、「バリスト」を学生たちに笑顔で迎えてもらった。面会した職員の方は「何分こういう状態でして。お迎えするのにお恥ずかしいです」と言われたので「何をおっしゃっているんですか。学生が生き生きしている証拠です。韓国も国立大学の大学法人化など、日本の愚策同様の新自由主義政策を大学にも導入しようとされていますが、それは大いなる間違いです」と話したら、この日本人なにをいっているんだ、という呆れた表情が彼の目に明らかに浮かんだことが思い出される。

近いところでは朴槿恵を倒した民衆のデモは多い時にはソウルだけで100万人に達し、少子高齢化、格差の拡大などこの国同様の問題を抱えながらも韓国の労働運動はいまだ健在である。そういった姿がこの国のマスメディアで国民の目に触れることはほとんどない。中東やアラブ、欧州のデモは報道しても、お隣韓国の運動の姿をマスメディアは無視する。なぜか。

この国の政権やマスメディアは、韓国国民が決起している姿をこの国の人びとには見せたくないのだ。奴らはこの国の人びとが韓国の運動に影響されたら、学ばれたら困るのだ。

◆ 本コンサートチケットを5名の方にプレゼントします!

でも、見なくても聞けばわかる。11月16日(木)京都テルサホール、11月18日(土)滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで「サム☆トゥッ☆ソリ」のコンサートが行われる。料金は前売りが一般3,500円、学生・障がい者2,000円(当日は500円増)だ。お問い合わせは「サム・トゥッ・ソリの会」高田さん(Tel.090-4763-0751)もしくは京都音楽センター(Tel.075-822-3437)へ。

尚、デジタル鹿砦社通信読者5名の方に本コンサートのチケットをプレゼントします。チケットご希望の方は下記の田所のメールアドレスに、住所、氏名、年齢、電話番号を明記の上、お申し込みください。
tadokoro_toshio@yahoo.co.jp

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

「サム☆トゥッ☆ソリ」コンサート2017 11月16日(木)京都、11月18日(土)滋賀

「サム☆トゥッ☆ソリ」コンサート2017 11月16日(木)京都、11月18日(土)滋賀

最新刊『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか

政界再編に混乱、一喜一憂の声はあがる。ただし、わたしたちは学んでいる。安倍と小池は結びつていることを知っている。むしろ、「本当の」政策や思想の傾向が白日の下に晒された。やれることを1人ひとりがやるだけだ。

わたしは、この動きが始まる9月27日よりも前の週末に松原保監督ドキュメンタリー映画『被ばく牛と生きる』を観ており、これを書いているのは27日よりも後のことだ。希望の党の「原発ゼロ」を疑い、むしろ自民と希望で改憲が容易になることをおそれなければならないだろう。

さて、個人的に福島第一原発関連のドキュメンタリー、劇映画を20本くらい観ている気がする(数えていないのでそこまで多くはないかもしれないが)。もちろん、鹿砦社が『NO NUKES voice』を発刊し続けるように、映画もまた作られ続けているのだ。

映画『被ばく牛と生きる』より 「希望の牧場」の吉沢正巳さん © 2017 Power-I, Inc.

◆「経済的な価値が豊かさなのか」という監督の問い

2011年3月11日の福島第一原発の事故を受け、同年5月12日に「原発から半径20km圏内において生存している家畜が、当該家畜の所有者の同意を得て、苦痛を与えない方法(安楽死)によって処分されること」が原子力災害対策本部長である首相からの指示を受けた福島県知事より同県内の居住者に対して周知するよう指示され、12年4月5日に「生存している家畜及びその子孫(以下「対象家畜」という。)が捕獲され、その所有者が特定できない場合、その所有者が正当な理由なく一定期間内に対象家畜の引渡しを受けない場合その他対象か地区を処分する必要がある場合は、苦痛を与えない方法(安楽死)によって処分されること」などが同様に指示された。

20km圏内は11年4月22日に「警戒区域」とされた場所で、この地域の牛は11年3月11日には約3,500頭のうち1,700頭が死亡、1,800頭が「放れ牛」となったという予測が立てられていた。本作は、それでも牛を生かし続けることを決意した畜産農家の人々を5年間にわたって記録したものだ。

残された牛たちを集めて莫大なえさ代の負担や死体の処理までを覚悟する人、それを、寄付を通じて応援する人々、居住制限地域で暮らしながら牛の命を守る人、1日おきに60km離れた避難先の二本松市から通い続ける人、科学的な研究調査に取り組む人などが現れた。ただし、12年4月の発表では安楽死処分が839頭、捕獲が731頭となっている(いずれかの数値は正確でないかもしれない)。

監督は、「経済的な価値が豊かさなのか、それが幸福を生むのか」という疑問を投げかける。また、「反原発や動物愛護を声高に叫ぶのでなく、傾聴するドキュメンタリーとなった」とも語っているのだ。そして、命の尊さを主張し、牛を殺さずに研究対象として生かし、その研究の価値を認めて関係者に国家が予算を割くべきだと考えている。

◆「殺処分は証拠隠滅」という吉沢さんの叫び

原発関連で畜産農家や動物を描いた映画作品を、ほかにも何本か観た気がする。印象的だったのは、牛だけでなくダチョウ・猫・犬と人を描くことで人と大地の絆を描いたジル・ローラン監督ドキュメンタリー『残されし大地』、酪農家を描いた園子温監督劇映画『希望の国』などだろうか。

本作は、まず、わかりやすいナレーションの入り方などがテレビドキュメンタリー風だと感じながら観ていた。すると、松原監督はテレビ番組などを多く手がけてきた方だった。ナレーションは竹下景子さんだ。

心に残っているのは、「若い頃、政治活動をしたことがある」とナレーションで説明された吉沢正巳さんと、重大な決断をせざるをえないところまで追いこまれた柴開一さん。

吉沢さんは、300頭以上の牛を生かし続け、牧場名を「希望の牧場」に変更している。「希望の党」誕生に憤っている1人かもしれない。牧場の経営者は兄であり、代表(牧場長)ではあっても土地や牛に対する賠償金を受け取ることもできない。

渋谷のスクランブル交差点付近をはじめ全国を「決死救命を! 団結!」「原発爆発」などのメッセージ(プラカード)を掲げた宣伝カーでまわり、「被ばく牛の殺処分は、被災者に対する棄民政策」「浪江町では2度と米が作れない。償いを求めて闘いたいと思う。津波で爆発する原発のせいで、あそこはチェルノブイリになってしまった。わたしたちの無念をわかってください。原発なくてもやっていける。日本の安全について、みんなで考えよう」「牛は被曝の生きた『証人』。餓死・殺処分の目にあったたくさんの牛、街を追い出された人々のこと、命を見捨てた無念を、東京のみなさんにわかってほしい」と繰り返す。

そして、「殺処分は証拠隠滅」「仮設住宅でくたばった人、棄民だろ!」という。埼玉県に避難した鵜沼久江さんは、「吉沢さんに助けていただけなかったら殺処分されていた。できれば埼玉で、自分で育てたいが、それができないから悔しいね」とつぶやく。

映画『被ばく牛と生きる』より © 2017 Power-I, Inc.

その後、牛に斑点が現れる。この牛を経産省前テントひろばで見かけたことがあるような気もするが、記憶が定かでない。

映画『被ばく牛と生きる』より © 2017 Power-I, Inc.

そういえば、わたしが3.11の1年後に向けて二本松市に拠点を移した大堀相馬焼協同組合を取材した際には、「どこの媒体に真実を話しても書いてもらえない、書けるか」と繰り返しいわれ、わたしも意地になって憤りのメッセージを細かく拾い上げたということがあったのを想起した。また、3.11直後の被災地ボランティアでは、原発の影響の規模(範囲)がわからず、現場に入ってしまえばなし崩し的にかなりの無茶をする人はいたし、金が入れば問題も囁かれた。そんなことも改めて思い出した。

◆では、わたしたちは、どのような選択をし、行動をとるのか

故郷を奪われ、あたりまえにあった生活を奪われる。3.11前には2度と戻らない。その悲痛な叫びを少しずつでも理解したい。そのような気持ちがある。事実をより明確にし、国家や企業の責任を認めて十分に対応し、命と研究のことを真剣に検討し、汚染土壌を詰めたフレコンバッグの処理や廃炉の問題に対しても現実的に対処していかなければ未来はない。わたしたちは、情報や知識を収集し、よく見極め、今日も1歩1歩進まなければならないだろう(疲れたら休みながら、助け合いながら)。

ところで本作の話題に戻ると、わたしだったら、たとえば吉沢さんと柴さんの日常もできるだけとらえ、この2人(家族)に絞り込んで取材したいと考えそうだ。今度、監督にインタビューが可能になるかもしれないので、広く多くの方をカメラにおさめたこと、反原発以上に伝えたかったことなどについて、深くたずねてみたい。


『被ばく牛と生きる Nuclear Cattle』オフィシャルサイト(2017年10月28日より東京・ポレポレ東中野にてロードショー)
 
▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター、労働運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『教育と文化』『労働情報』などに寄稿。
◎『neoneo』での著者記事
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