◆ヤンガー秀樹時代

元・全日本ウェルター級2位.伊達秀騎(本名・鈴木秀樹/1970年5月、宮城県仙台市出身)はチャンピオンには届かなかったが、その叶わなかった夢をタイに向け、現地で正規のジムを構え、ムエタイ二大殿堂チャンピオンを誕生させたことは、タイ側から見た外国人初の快挙を成し遂げた。

フェアテックスジムでのミット蹴り(1991年7月)

鈴木秀樹は中学1年から器械体操を学んでいたが、通学中に「練習生募集中」の看板を見て興味本位に仙台青葉ジムを覗いた。

「丹下段平ジムみたいな掘っ立て小屋の窓から覗いてみたら、蹴ったら自分の脚を痛めそうなヘビーバッグが吊るしてあって、これは普段見る学校のクラブとは比べられない別世界と感じた」というキックボクシングという世界の最初の印象だった。

高校は体育科だったが新設校で、1年目はまだ体操部が無かったことや、兄がブルース・リーが好きだった影響で格闘技に興味があった鈴木秀樹は、運命に導かれるがまま仙台青葉ジムに足を運んだ。

器械体操で鍛えた体幹はバランス抜群の蹴りを備え、デビュー戦は高校2年になった1987年(昭和62年)6月25日、地元の宮城県スポーツセンターで高橋真(山木)に判定勝利。

ここで瀬戸幸一会長からジムの次期エースと期待できる選手に与える、歴代リングネーム“ヤンガー”を授けられた。初代はヤンガー石垣(後の轟勇作)、二代目はヤンガー舟木(後の船木鷹虎)に続く“ヤンガー秀樹”となった。しかし、素質は誰もが認めるも高校卒業時までに7戦2勝5敗。三代目ヤンガーを継承したが、連敗が続くことにプレッシャーを感じていたという。

◆伊達秀騎時代

「戦績も悪くなり、何か練習環境を変えなければと、東京でやろうと思ったのが切っ掛けです」という鈴木秀樹は、高校卒業後上京。親戚が居た板橋区に住むと、やがて近くにあった小国ジムを見つけ仮入門。当初はまだ仙台青葉ジム所属のまま試合出場して大村勝巳(SVG)にTKO勝利。特に難しい条件は無く、これで円満移籍した。

リングネームは自身で考えた、伊達秀騎に改名(以後文中、伊達秀騎)。出身地の英雄、伊達政宗から名前を肖った。

移籍初戦は勝山恭次(SVG)に判定負け。それまでにも判定に納得いかないことが多かった為、リスクを伴うが倒すスタイルに移行。2連続KO勝利するが、1992年(平成4年)10月、全日本ライト級挑戦者決定トーナメントで杉田健一(正心館)に顎を打ち抜かれKO負けしてしまう。

ダメージ回復の休養と自分を見つめ直す為にブランクを作るが、空手大会出場やパンチの技術を学ぶ為、プロボクシング転向を試み、沖ジムに入門を果たしていた。自分のパンチはどこまで通用するか、当初は真剣にプロボクシングデビューを志し、プロテストは無事合格を果たすが、キックボクシングへの情熱を拭いきれず、デビュー戦を前に、お世話になりながらも感謝の気持ちを持って沖ジムを後にした。
後のキックボクシング復帰は1994年6月、仙台興行で日本人キラーだったジャルワット・オーエンジャイ(タイ)にKO勝利して再起を飾る。

ここから全日本ウェルター級挑戦者決定トーナメント出場となるが、松浦信次(東京北星)にKO負けする大失態。大飛躍のチャンスを落としたことは周囲にとっても大きな落胆だった。

アナン会長のゲーオ・サムリットジムで調整(1993年9月)

ジャルワット・オーエンジャイ戦、仙台での復帰戦をKO勝利(1994年6月25日)

王座挑戦へのトーナメント、松浦信次戦は悔しい敗戦となる(1994年9月23日)

◆ムエタイ修行で人生転換

伊達秀騎が初めてタイ修行したのは1990年5月、バンコク・ドンムアン空港から発つ飛行機の真下で、騒音が酷い地域にある名門ムアンスリンジムだった。練習以外もキツい環境で、通気性の悪い倉庫のような選手の宿舎。初めてタイ修行に行く者にとって、文化や生活環境の違いは耐え難い状況だっただろう。

もう行きたくないと思っていたというタイだったが、1991年7月、「同門の高津さんに付き合う形で一緒に行きました」と言う、ジムで先輩から勧められていたフェアテックスジムに赴いた。トレーナーを務める伝説のチャンピオンと言われるアピデ・シッヒランさん宅にホームステイする形で修行し、1ヶ月ほど我が子のように慕って貰ったことから一転、タイとムエタイに惚れ込んでいき、後々の運命を変える人生の分岐点となる修行であった。

タイでの初試合は1993年9月のバンヤイシティースタジアム。それまでフェアテックスジムでの修行だったが、層の薄い重量級では試合は組まれ難いものの、逆に選手が足りない事態も起こり、後々深い縁となるゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から声が掛かり試合出場した。

「逆転KO勝ちでしたが、試合が盛り上がると、インターバル中にもギャンブラーからチップをくれて、興行一座のドサ周りみたいな感じが面白くて、タイでの試合にハマりました」とムエタイ初試合の印象を語る。

1994年10月には、メコン河を挟んだラオスとの国境となる街、ノンカイでの試合はKOで敗れたが、タイ全土にテレビ生中継され、倒しに行く姿勢で相手を苦しめた試合内容を評価されたことで再戦が決まり、翌年1月、チェンマイでもタイ全土にテレビ生中継の中、敗れるが大激戦となり、アナン氏からより一層信頼される存在となっていた。

当時、日本で大事な試合に敗れ、更に団体は分裂を起こし、目指していた目標は消え、モチベーションも低下する中、タイで仕事をしながら現役を続けられるのではと考えた伊達秀騎は日本のリングを去った。

アナン会長が冗談を言いながらバンテージを巻くリラックスした試合前(1994年10月18日)

[左]ノンカイでの試合、タイ全土に放映されるサーティット戦(1994年10月18日)/[右]チェンマイで再戦、バックヒジ打ちでサーティットを苦しめる(1995年1月29日)

1996年10月、心機一転タイに移住し、人材紹介会社に就職した。

しかし、タイでも仕事を任せられれば徐々にジムに向かう時間が無くなるのは当然だった。それでもアナン氏から試合のオファーが来ると断らずに受けていた。まだ26?27才で、現役時代の厳しいトレーニングの貯金で動けていた身体だったが、移住1年程経った時期、ラジャダムナンスタジアムでの試合で3ラウンドTKO負けの頬骨陥没骨折。全身麻酔で手術を受けて8日間入院。今でも頬骨にボルトが入っているという。舐めてはいけない本場ムエタイの仕打ちだった。

怪我は癒えた後々、現役に悔いを残さない想いをもって挑んだラジャダムナンスタジアム・ミドル級1位の強豪にKO負け。これでリング上では全てをやり終えた伊達秀騎だった。

同スタジアム、激戦に持ち込む伊達秀騎(1995年6月)

サムローンスタジアムでワイクルー(戦いの舞い)を舞う伊達秀騎(1995年6月)

◆タイビジネスの恩人

その後、30歳を目前にして起業。ムエタイや撮影のコーディネート、ムエタイ日本語情報誌の発行などを興し、2002年2月、バンコク中心部スクムビット地区に目標としていたイングラムジムを設立した。

2004年にブアカーオ・ポー・プラムックを来日させると、K-1 MAX初出場で優勝。その後、サガッペット・イングラムジム(タイ)をルンピニースタジアム・ライト級、ジョイシー・イングラムジム(ブラジル)は欧米人初のラジャダムナンスタジアム・ウェルター級の二大殿堂スタジアムでチャンピオンを輩出する日本人としては初の快挙を成し遂げた。

しかしムエタイ業界に限らず、どこも競争が激しい世界。ルンピニースタジアムのプロモーター傘下では、あらぬ嫌がらせも受けたという。そんなことはよくある業界内特有のしがらみで、ラジャダムナンスタジアムに移ることもあった。

しかし、ルンピニースタジアムに出場していた弟子のダーウサミン・イングラムジム(後のWPMF世界スーパーフライ級チャンピオン)が、前座ながら白熱した試合で、チャンピオンやランカーを差し置いて月間最優秀試合賞を獲得し、本気になって選手を輩出していれば外国人でも認めてくれるのだと、イングラムジムの名前が認められてきたと思ったという。

ここまで這い上がって来れたのは、アナン会長との縁で、試合オファーには出来る限り応じた為、ジム運営やビジネス面では多くのバックアップをしてくれた恩人だという。アナン氏自身も苦労人から這い上がり、多くの強豪選手を輩出し、タイ国ムエスポーツ協会監査役員になるなど実績高い人物だった。そのサクセスストーリーを間近で見てきた伊達秀騎の成功があるのだろう。

2020年初頭は、スポンサーだった日本企業のバックアップで、BTS(バンコク高架鉄道)エカマイ駅近くの800平米もの好物件を見つけジムを移転し、オープン当初は順調だったが、コロナ禍が直撃し3月には政府からタイ全土に営業禁止の通告が出され苦境に陥り、9月末を持ってジム閉鎖に至ってしまった。

その後、ムエタイ界の重鎮達からは、新たなジム開設を勧められているが、現在はどのような形で再開可能かをいろいろと模索している状況という。

2015年には結婚し、翌年長女が生まれて現在4歳。もう言葉が話せるのは当然として、日本語、英語もある程度話せるという。生き甲斐は我が妻と娘いう伊達秀騎。もうとっくの昔に“ビジネスマン鈴木秀樹”に戻っているが、2021年は新たなビジネス展開を見せてくれるだろう。

国家が絡むビッグイベント記者会見に並ぶ、前列左から伊達秀騎、アナン会長、ブンソン大佐(タイ国ムエスポーツ協会副総裁) (2017年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

◆よくある入門動機

赤土公彦(1967年6月29日大阪市出身)は時代の変わり目に突如現れた期待の新星。中学2年生の時、父親の仕事の都合で東京の小岩に転居してきたが、後に喧嘩でボクシングを習っている奴にボッコボコにされ、もっと強い競技を習って見返そうと、地元のキックボクシング西川ジムに足を踏み入れた。1983年(昭和58年)、高校入学したばかりの頃だった。

当時の国鉄小岩駅から3分ほど歩いたところにある雑居ビル5階の西川ジムは静かでガラーンとしたもの。毎度の謳い文句だが、キックボクシング界低迷期、興行を細々と続ける時代、どこのジムも閑散としたものだった。

しかし、高校一年生の赤土にとってはどうしても強くなりたいだけ。そこで見た、重く硬いサンドバッグを折るような、ベテランらしき足立秀夫の鋭い蹴りにもう一目惚れ。これは強くなれそうだとその場で入門した。

入門動機を聞いた西川純会長は「喧嘩で強くなるにはプロで20戦以上はしないとな!」と発破を掛けるが、これが後々まで強烈な印象として記憶に残り、志高く持つ動機付けとなったという。

ベテラン土田光太郎にはダブルノックダウンの末、判定負け(1985年11月22日)

10歳年上の坂巻公一をKOして王座戴冠(1986年9月20日)

◆キック界の復興の波に乗り

入門一年を経た1984年(昭和59年)9月23日、17歳でデビューを判定勝利した赤土の周囲には、「凄い先輩達だらけだった!」と言うとおりの西川純会長をはじめ、向山鉄也、足立秀夫といった激戦を経てきた先輩達だったが、入門生が滅多に入らない時期、赤土は先輩たちに厳しい指導を受けつつ、可愛がられる弟のような存在となった。

さらには業界の流れは赤土のデビューを後押しするように4団体統合による復興に一気に好転した時期だった。

しかし、デビュー翌年には同期のライバル、杉野隆之(市原)に判定負け、ベテランの土田光太郎(光)に判定負けも、1986年9月、日本フライ級チャンピオン、坂巻公一(君津)を倒し、19歳で王座に上り詰めた。

「高校三年の時、5戦3勝2敗のくせに卒業文集で『チャンピオンになります!』と宣言していたので、早期に巡ってきたチャンスのプレッシャーに潰されそうになりながら、向山先輩に江戸川の土手まで連れて行かれた坂道で、いつ終わるかも分からない過酷なダッシュを毎日、何十本と命ぜられた成果で勝てました。試合3日後に母校の文化祭があったのでチャンピオンベルトとテレビ放送のビデオを持って生徒皆に見てもらって、有言実行出来たとホッとしました」と当時を語る。

19歳で王座戴冠、当時は乱立少なく価値があった日本チャンピオンベルト(1986年9月20日)

タイ遠征、ノンタチャイジムで鍛える(1989年1月2日)

しかしそんな悠長に構えている場合ではなかった。静養のつもりで家で寛いでいると、向山先輩が訪れ、玄関で「公彦居るか!」と叫ぶとそのまま茶の間まで怒鳴り込んで来たという。

「赤土テメェ、チャンピオンになった自覚あんのか!これからが大変なんだぞ、何で練習に来ねえんだ!」と父親の前で本気で怒鳴られ、驚きつつも涙を流すほど嬉しかったという。

浮かれている場合ではないと自覚した赤土は挑戦者の気持ちを思い出し、初のタイ修行は心細い一人旅を経て、翌年3月、杉野隆之との再戦を闘志むき出しでノックダウンを奪い判定ながら同期対決に雪辱を果たした。

この1987年、復興した全日本キックボクシング連盟に移る事態が発生したが、更なる抜擢、WKA世界フライ級王座挑戦の機会を得た。

向山先輩からは「お前は今一番練習している選手だ、自信を持て!」と言われて不安は無かったと言うが、ミデール・モントーヤ(メキシコ)に僅差の判定で敗れ、慣れぬ2分制の12回戦、ヒジ打ちヒザ蹴り禁止の中での大善戦は周囲の高い評価を得た。

その後、イギリス、韓国、タイ等の国際戦を含め、全日本フライ級王座は宮野博美(光)、有光廣一郎(AKI)を退け、1990年1月、水越文雄(町田)に激闘の判定勝ちで3度目の防衛を果たすも、そこから1年半近いブランクを作ってしまった。フライ級でライバルは少なく、モチベーション低下が要因と思われた。

タイで2戦目、ランシットスタジアムに出場、緊張の試合前(1989年1月9日)

◆体調の異変

その頃、赤土に起きていたことは、「頭痛が頻繁に起こって、サンドバックを叩いても振動でフラっときて、初めて脳外科でCTスキャンを撮ったら先天性の陰があって、『もしボクシングだったらプロテスト受からないよ!』と言われてショックを受けました。そして、引退したらどうなるんだろうと考え出した頃、実家のタイル業を手伝い始めて、目標のバランスが難しくなってきた頃でした。」と語る。

脳疾患の為、暫く安静期間を過ごした赤土は、不完全燃焼のまま終わるわけにはいかないと、以前、日本チャンピオンになった直後、向山先輩に檄を飛ばされたことを思い出し、「あの頃のようにガムシャラにやってみよう!」と決意新たにした赤土は、目標を二階級制覇と定め、1991年(平成3年)4月、再起に備えタイ修行からやり直した。そして6月、自己初のメインエベンターでデンディー・ピサヌラチャン(タイ)に攻勢を許さず、3ラウンドKO勝ちし復活を遂げた。

ようやく勢いづくも同年9月、今度は初のKO負けを喫してしまう。勝っても負けてもKOの少白竜(谷山)の開始早々のパンチの突進で、第1ラウンド、あっという間に3度のダウンを奪われ、あっけなくKO負け。

「日本人に負ける気がしなかった慢心と、少白竜さんの強打を甘くみていた結果だと思います。」と反省。

ムエタイ戦士は蹴りの捌き、試合運びが上手く判定負け(1989年1月9日)

力を出し切れずにリングを降りる屈辱に、すぐに雪辱戦を申し入れると、翌1992年1月、全日本バンタム級王座決定戦として再戦が実現した。赤土もデビュー当時はジーパンをはいても48kgという貧弱な体から、この頃はフライ級には落ちないほど逞しい体に成長していた。相変わらず少白竜はKO狙って強打で突進して来るが、二の舞いは踏まずカウンターパンチで打ち勝ち、第1ラウンドKO勝ちで二階級を制覇した。 

そして休む間もなく、 期待された二大組織の交流マッチが開始された頃の同年3月、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)と対戦。

鴇稔之の手数と巧妙さにやや押される部分もあったが、互いの攻防は凄まじく、5ラウンドに右ストレートでダウンを奪うが1-0の優勢ドロー。お互いの名誉と誇りを懸けた、最後に出逢えたライバルと名勝負を展開。

この鴇稔之戦を引き際と考え、リングを遠ざかった後、1994年6月、立嶋篤史とエキシビジョンマッチを披露して引退式を行ない、現役を去った。

「立嶋君とは彼の新人の頃から何度かジムで会ってもメラメラと闘志を感じていたので、戦いたい相手の一人でもあった。」と言う。一度、フライ級で対戦の可能性がわずかにあった時期があるが夢物語に終わっていた。「終了ゴングの瞬間、現役への決別に後悔したくないと右ストレートを思い切り出しちゃいました。」という終了も、そこは心の内知る二人が交わす言葉の中で打ち解けた終了となった。

[写真左]少白竜に雪辱し2階級制覇(1992年1月25日)/[写真右]チャンピオン対決、鴇稔之戦は完全燃焼したラストファイト(1992年3月21日)

◆昭和が残したキックボクサー

赤土は過去のタイ修行で2試合こなしていた。1988年(昭和63年)2月、ルンピニースタジアムに出場したが判定負け。土曜の昼興行だったが、メインイベントで相手がBBTVのチャンピオンだということは試合終了後まで知らぬまま。タイ初戦からかなり強敵だったようだ。

2戦目は1989年(平成元年)1月、ランシットスタジアムに出場。ムエタイ独特の蹴り捌き、ポイント獲り戦法に突破口を見出せず判定負け。タイではいずれも敗れ、ムエタイの壁は厚かったという。

赤土は昭和の匂いを醸し出すキックボクサーだった。そこには西川純会長の教え、向山鉄也先輩の厳しさがあった。

堂々たるチャンピオンの存在感示した赤土公彦(1994年6月17日)

西川純会長からは「プロは練習をしているんだからスタミナはあって当たり前、そして根性もみんな有るんだ。だから技を磨いてそれを競い合うんだ!」という忠告や、「チャンピオンなんだからリングの上で喜ぶな、勝って当たり前という態度でいろ!」と注意されたことも忘れられないという。古い昭和時代の考え方だが、これが本来のキックボクサーたるものだろう。

赤土公彦は引退後、家業を継ぎ、タイル・石施工・左官など外構工事を請負う「KINGタイル」代表を務め、2005年に結婚。年子の息子さんを2人儲け、小学生時代からキックボクシングに興味を持っていたという2人は現在中学生。赤土は毎朝、仕事に行く前に自宅の前で指導もする。キック界で親子チャンピオンは向山鉄也さんと羅紗陀(竜一)親子が最初で、二組目が中川栄二とテヨン(勝志)親子、現在3番目を兄弟揃って達成出来ればと頑張っている。

終了間際に悔いを残さぬ右ストレートを立嶋篤史に打ち込む(1994年6月17日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆空手バカ一代からの運命

松田利彦(1960年1月21日、埼玉県狭山市出身)は高校2年の時、劇画「空手バカ一代」を読んで強い男に憧れ、極真空手を始めようとしたが、近所の貼り紙を見て、比較的自宅に近い添野道場(後の士道館)に入門した。この道場が単なる空手道場ではないことが、松田利彦の運命を変えていった。後にキックボクシング日本人現役チャンピオンとして、プロボクシングの世界王座に挑戦した男は、松田利彦以外には存在しない。

若かりし血気盛んな21歳の松田利彦(1981.6.17)

◆チャンピオンに君臨

身体が小さかった松田利彦は先輩から軽いクラスまで階級制があるキックボクシングを勧められ、1978年(昭和53年)1月、正式にキックボクシング部門に移った。同年11月のデビューから反射神経抜群の運動神経で勘も鋭い松田は、先手必勝の勝利を重ね9連勝。フライ級に出現した大天才と期待されていた。

1982年5月、全日本フライ級チャンピオン、高橋宏(東金)と対戦。デビュー前から、「お前を倒すのはこの俺だ!」と目標としていた相手だったが、第1ラウンドに2度のダウンを奪われ大差の判定負け。チャンピオンとの大きな壁は簡単には打ち破れない現実に撥ね返されるも、スランプに陥る松田ではなかった。雪辱に向け動き出しところへ、同年11月、業界が総力を結集して開催された1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場が決まった。周囲は優勝候補の一人として注目する中、初戦にベテランの元・日本フライ級チャンピオン、ミッキー鈴木(目黒)にKO勝利。年を跨いだ1983年1月の準々決勝では得辰男(渡辺)にKO勝利するも右拳骨折する負傷が響き、2月の準決勝で丹代進(東海)に2-1の判定負け。

松田利彦vs得辰男。オープントーナメント準々決勝、得辰男を倒す(1983.1.7)

準決勝で丹代進に敗れる(1983.2.5)

優勝の夢は消えるも、怪我が癒える頃の同年5月28日には、早くもオープントーナメント52kg級決勝を制したタイガー大久保(北東京キング)と対戦の機会を得て、第2ラウンドKO勝利で事実上のフライ級軽量域最強という立場となった。

しかし、チャンピオンの称号が無い松田に王座奪取のチャンスが与えられた。翌年の1984年1月、新格闘術日本フライ級王座決定戦で松井正夫(千葉)に第2ラウンドKO勝利し王座獲得。それは取って付けたに過ぎない王座ではあったが、低迷するキックボクシング界の分裂が続いた他団体でも価値は似たものだった。

実績を高めた同年5月、WKA世界フライ級チャンピオンに上り詰めていた高橋宏とノンタイトル戦ながら悲願の再戦に漕ぎ付けた。試合は互角に進んだ最終ラウンド終了1秒前に松田が打った左フックでノックダウンを奪うとレフェリーはカウントするが、ゴングに救われたのか救われないのか、ノックダウンは有効か無効か、ノックアウトなのか判定なのか、試合直後は説明も無く裁定が曖昧な判定勝利で終わった。

このモヤモヤした因縁に終止符を打つべく1985年1月3日に再々戦、第4ラウンドに執念のパンチで高橋を倒すKO勝利し、完全決着を付けた。

頂点に立つタイガー大久保を倒す(1983.5.28)

◆プロボクシングへ

団体分裂が続いたキックボクシング界だったが、この時期、最も大きな転換期に入っていた。前年11月に4団体が統合し設立された日本キックボクシング連盟(後にMA日本)に、士道館は加わっていなかったが、統合団体を設立した石川勝将氏も当時、別団体ながら松田利彦を高く評価していた。

しかし、ここで松田に転機となったのはプロボクシング転向。日本のプロボクシングは確立した組織で分裂は無いこともないが、新組織のIBF日本から士道館へ松田の出場打診が入ってきたのだった。士道館率いる添野義二館長は空手家であり、1969年(昭和44年)にキックボクシングに転身した経歴を持つが故に、他格闘技に臨める体制を持った道場であったことが、たまたまこの時代に生きた松田の運命を導いていた。

パンチにも自信を持つ松田は出場を決意。1986年(昭和61年)8月18日、奈良でのデビュー戦はいきなりIBF日本フライ級王座決定戦。ここで内田幹朗(大阪島田)に5ラウンドKO勝利し、初代チャンピオンとなった。同年暮れの王座戴冠第1戦目は両角浩にノックアウト負けする不覚をとったが、翌年4月19日に両角浩との防衛戦は世界挑戦権を懸けての再戦。2度ノックダウンを奪われる苦戦も見せたが、逆転ノックアウトで初防衛成功。

世界戦で敗北、崔漱煥に倒される(1987.7.5 スポーツライフ社刊、マーシャルアーツより引用)

更には5月14日に後楽園ホールでキックボクシングの試合(APKF興行)に出場。パンチ重視の戦略もナラワット(タイ)に距離を取られ引分けに終わる。そして7月5日には韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦した。さすがに世界の壁は厚く、崔漱煥のパンチはガードを突き破ってくる今迄に無い重さだったという。特攻精神の反撃虚しく第4ラウンドKOに敗れたが、「試合前の国歌吹奏は大舞台に立っている今迄に無い責任感緊張感に武者震いした。」と語っている。

◆キックボクシング一本へ

後に、IBF日本フライ級王座2度目の防衛戦にも敗れ、置き土産のようにベルトを手放しキックボクシング一本へ戻ったが、当然キックボクシング界は松田利彦を待っていた。興行の少ない士道館が、充実した定期興行が続くメジャー団体のマーシャルアーツ(MA)日本キックボクシング連盟に加盟。待ち望まれた松田の参入だった。

1988年(昭和63年)4月2日、両国国技館での初の格闘技の祭典で、松田は過去の実績からいきなり日本フライ級王座決定戦で林田俊彦(花澤)と対戦するも、ボクシングの距離感が染み付いた意外な苦戦での引分け。延長戦でなりふり構わずパンチで圧力を掛けポイントを獲って勝者扱いながら王座を獲得。

林田のローキックを地味にも幾らか貰っており、「蹴りってこんなに痛いものか!」と改めて思ったという松田は再び蹴りの勘を磨き始めた。

しかし、王座獲得後の初戦は格下に手こずる苦戦の判定勝ち。周囲の期待も落ち気味だったが、松田は「俺はまだ終わっていない。冗談じゃねえ!」と奮起。同年7月の初防衛戦では蘇ったような先手を打つ蹴りで神代遼(グレードワン)を圧倒、最後はパンチを的確に打ち込みKO勝利し最強復活の意地を示した。

ラストマッチは1989年(平成元年)7月、第2回目となる格闘技の祭典で、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)とのチャンピオン対決だった。中盤に右フックでダウンを奪いながらもラストラウンドに打ち込まれてロープダウンを奪われ、逆転を許してしまう激戦で判定負けだったが最後の大舞台で名勝負を残した。以前から減量もきつく、バンタム級転向も考えていたものの、この年の春から、MA日本キックボクシング連盟は突然の代表辞任による活動休止が長引く中で、松田は30歳を迎える1990年1月、現役生活に区切りをつけ、引退式を行ないリングを去った。

1995年には士道館の先輩から不足していたキックボクシングのレフェリーを勧められ、新たな分野に挑むことになった。理屈に合わないことが無い限り、勧められれば受けるのが松田利彦。それでマッチメイクされる試合は全て受けて来た前向きさ。その上手くやって当たり前、下手すれば叩かれる難しさがあるレフェリー裁きも、卒なくこなす姿は評判がいい。

ジャッジを務める松田利彦、41歳(2001.11.9)

◆知られぬ歴史

プロボクシングとプロキックボクシングで日本チャンピオンになった選手は、後にバンタム級で田中小兵太(田中信一/山木)が居る。JBC管轄下の日本タイトルとIBF日本タイトルでは比べるまでもない格差があり、キックボクシングの日本タイトルと呼べるものは乱立の度合いと業界自体の低迷や隆盛で時代の格差はあるが、松田利彦と田中小兵太はMA日本タイトルを獲得。1987年当時では存在価値の低かったIBFも、後に設立されたWBOと共に勢力を伸ばし、JBCが主要4団体として承認する時代となった。あの時代とは比べられないが、キックボクサー松田利彦がプロボクシング世界王座に挑戦した事実は今も語り草となっている。

今やベテランレフェリー松田利彦。右はモトヤスック(2019.11.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

◆沖縄から生まれた名キックボクサー

長浜勇(ながはま・いさむ/市原/1957年11月16日沖縄県出身)の本名は、長浜真博(まさひろ)。デビュー当時に市原ジムの玉村哲勇会長の名前から一字頂き、“勇”をリングネームとした。

長浜勇は、昭和50年代のキックボクシング界の底知れぬ低迷期から復興時代への変わり目に、向山鉄也と共に業界を牽引した代表的存在で、団体が分かれている中では最も統一に近い時代の日本ライト級チャンピオンである。

1985年1月、日本ライト級チャンピオンとなった長浜勇(1985.1.6)

◆地道に進んだ新人時代

長浜勇は高校3年生の時、アマチュアボクシングで沖縄と九州大会で準優勝。推薦で大学進学の道もあったが、両親への学費の負担を考えて進学はしなかった。一旦地元で就職したが、1979年(昭和54年)初春、21歳で上京し、千葉県市原市の土木関係の会社に転職。

そこで先輩に市原ジム所属選手が居たことが長浜勇の運命を決定付けた。先輩に勧められてジムを見学すると、「こんなところにもジムがあるんだなあ、いいなあこの汗臭い雰囲気!」と戦う本能や、沖縄にいた時、テレビで同郷の亀谷長保(目黒)の活躍が頭を過ぎり入門を決意した。

1979年4月、長浜は入門わずか1ヶ月あまりでデビューした。仕事の合間を縫って練習に通ったのは10日間ほど。選手は少なく、誰かが教えてくれるといった環境も無く、蹴りなんて全く素人のまま。しかし、玉村会長は大胆にも試合を組み、「蹴らなくていいからパンチだけで行け!」と言うのみ。そんないい加減な時代でもあったが、アマチュアボクシングの経験を活かし、そのパンチだけでノックアウト勝利した。

市原ジムの独身選手はジムのほんの近くでアパートか平屋の借家暮らし。長浜勇はそんな借家で夏は全ての窓開けっぱなしで寝ていた。そんなある日、観ていたテレビはキックボクシング。

当時は深夜放送に移ったが、まだTBSで週一回の放映があった時代。同じ日にデビューした目黒ジム所属選手は放映されたのに、長浜勇はせっかくのKO勝利も放映が無くて残念だったという。

いずれはもっと勝ち上がってテレビに映ることを目指しながらも、テレビレギュラー放映は打ち切られ、キック業界は興行が激減していった頃だった。

その後、市原で就職した会社は辞め、玉村会長が興していた、同じ土木専門の玉村興業で働くことになった。それはジムでの練習に向かう時間の融通を利かせる為ではあったが、器用な長浜勇はやがて現場監督に昇格し、後々であるが現場から離れられない時間が増えていった。残業の上、家に帰っても受け持つ幾つかの工事現場の翌日の派遣人員配置や、生コンクリートをどの現場にどれぐらい発注するかといった業務等で電話しまくり。ジムに行って練習する時間など無かった。「それでどうやって勝てるのか!」という不安はあったが、人の見ていないところで練習するというのは事実だった。例え30分でもジムへ行って集中してサンドバッグを打込む。そんな話を本人からチラッと聞いたことがあった。

◆飛躍の軌跡

トップスターへの出発点となったのは1982年(昭和57年)10月3日の有馬敏(大拳)戦だった。

かつてジムの大先輩・須田康徳と名勝負を展開した元・日本ライト級チャンピオン相手に、パンチだけに頼らず、蹴られても前に出て蹴り返し、引分けに持ち込む大善戦だった。

そこから上り調子。翌月から始まった1000万円争奪オープントーナメント62kg級へ出場すると、長浜勇は初戦で三井清志郎(目黒)、準々決勝で砂田克彦(東海)にKOで勝ち上がり、準決勝で予想された先輩、須田康徳と対戦。

世間は決勝戦を須田康徳vs藤原敏男(黒崎)と予測しており、長浜勇自身もそう考える一人だった。それまで須田先輩から多くの指導を受け、尊敬し敬意を表しつつも、普段は仲のいいジムメイト。

「須田さんに怪我でもさせて藤原戦に支障をきたしてはいけない!」と一度は辞退を申し入れたが、玉村会長はこれを許さなかった。先輩であろうと引きずり下ろさねばならないプロの世界だった。長浜勇は心機一転、須田康徳戦に全力で挑み3ラウンド終了TKOに下す。

大先輩、須田康徳を下す大波乱(1983.2.5)

一方の準決勝、藤原敏男は足立秀夫(西川)を倒すも、そのリング上でまさかの引退宣言。決勝戦の3月19日、長浜勇が勝者扱いで優勝が決定。日本中量級のトップに立った新スター誕生だった。

決勝戦の相手、藤原敏男と対面(1983.3.19)

その後も日本人キラーだったバンモット・ルークバンコー(タイ)に5ラウンドKO勝利し、過去2度敗れているライバル足立秀夫を2ラウンドKO勝利で上り調子だったが、ここで一旦、その足を掬われる結果を招く。藤原敏男が引退した後、どうしても避けて通れない相手がその藤原敏男の後輩で、藤原にKO勝利したことがある斎藤京二だった。怪我でオープントーナメントは欠場したが、優勝候補の一人の強豪だった。

過去2敗、ライバルの足立秀夫に雪辱果たす(1984.1.5)

1984年5月26日、その斎藤京二に2ラウンドKO負けを喫してしまった長浜勇。頂点に立った者が崩れ落ち、またまた混沌としていく日本のライト級。そんなキック業界も底知れぬ低迷の中、まさかの統合団体の話が持ち上がったのが同年10月初旬で、11月30日にその画期的日本キックボクシング連盟(後にMA日本と二分)設立記念興行に移っていった。

足を掬われた斎藤京二戦(1984.5.26)

集中力でサンドバッグ打ち、パンチ力は最強(1984.10.5)

撮影の為に気合入れる長浜勇、ミット持つのはサマになっていない素人の私(1984.10.7)

過去のチャンピオン経験者が優先された王座決定戦。

1985年1月6日には日本ライト級王座決定戦に出場した長浜勇は、旧・日本ナックモエ・ライト級チャンピオン、タイガー岡内(岡内)を1ラウンドKOで下し、初代チャンピオンとなった。この後、挑戦者決定戦を勝ち上がって来たのが斎藤京二。因縁の厄介な相手が初防衛戦の予定だったが、斎藤京二は前哨戦で三井清志郎(目黒)に頬骨陥没するKO負けを喫してしまう。

タイガー岡内を倒し、日本ライト級王座獲得(1985.1.6)

同年7月19日、長浜勇の初防衛戦はその代打となった三井清志郎(目黒)戦。過去、長浜に敗れている三井は雪辱に燃えていたが、長浜は冷静沈着。三井の蹴ってくるところへパンチを合わせ主導権を握ると3ラウンドKO勝利。これで難敵をまず一人退けたが、あの当時の日本ライト級は強豪ひしめくランキングだった。後に控える斎藤京二、甲斐栄二、飛鳥信也、須田康徳、越川豊。これらをすべて退けることなど無理だっただろう。

三井清志郎を倒し初防衛(1985.7.19)

◆ピークに陰り、そして引退

1986年(昭和61年)1月2日、2度目の防衛戦で甲斐栄二(ニシカワ)の甲斐の豪腕パンチで左頬骨を陥没するKO負け。やはり来た試練。左の頬骨に固定する針金が飛び出したままの状態が3週間続いた。

復帰戦は同年7月13日、フェザー級から上がってきた不破龍雄(活殺龍)との対戦で、思わぬ苦戦をしてしまう。重いパンチで圧力を掛け、ローキックでスリップ気味ながらノックダウンを奪ったところまでは楽勝ムードだったが、いきなり猛反撃してきた不破のパンチを食らってペースを乱してしまう。今迄に無い乱れたパンチと蹴り。強豪ひしめくライト級で再び王座を狙うには、かなり厳しい境地に陥った辛勝だった。

不破龍雄に大苦戦(1986.7.13)

しかし、まだ長浜勇の活躍が欲しいMA日本キック連盟は翌年1月、石川勝将代表が企画した、本場に挑むルンピニー・スタジアム出場枠に選ばれ、当時、話題の中心人物だった竹山晴友(大沢)と共にタイへ渡った。結果は判定負けながら、初の本場のリングで堂々たる積極的ファイトを見せた。同年4月18日、朴宙鉉(韓国)にKO勝利し、石川勝将代表から「越川豊(東金)とやらないか?」と問われ、着実に上位進出していたその存在があったが、土木業が拡大化してきた背景と、すでに妻子ある守るべき家庭を持っていたこともあり、密かに引退を決意していた。

1988年9月、地元の市原臨海体育館で行なわれた先輩・須田康徳の引退興行は、市原ジムの集大成で時代の一区切りとなった須田と二度目の対決。初回、長浜は須田の強打に三度のダウンを奪われ、最後はダブルノックダウンに当たるが、当時のルールにより3ノックダウン優先のKO負け。互いがガツガツと打ち合った密度の濃い一戦だった。そして長浜勇も須田康徳戦をラストファイトとして締め括った。

長浜勇は引退前に、婚約していた沖縄の同級生と結婚し、後に3人の娘さんの父親となった。長浜勇は普段お酒はあまり飲まないが、仲間内の宴会では飲み過ぎて酔えば暴れて起こしたハプニングは計り知れない。そんな暴れん坊は“市原ジム出入り禁止”なんて事態にも一時的にあったようだが、根は優しく市原ジムのムードメーカーでもあった。還暦を超えた今、お孫さんを可愛がるその姿を見に行きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23

引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆目指すは名門黒崎道場

佐藤正男(さとう・まさお/山形県酒田市出身/1963年3月12日生)は幼少期から格闘技に興味を示し、黒崎道場に入門後も人知れず探究心を持って格闘人生を歩んだ。

小柄だが強かったマーノーイ・サクナリンにKO勝利(1991.10.19)

小学1年生で中国拳法を習い、高校1年生で極真空手を始めた。20歳で大道塾総本部(宮城県仙台市)入門。しかし大道塾だけの修行ならば、同期らとの差は簡単には付かないだろうと考えた佐藤正男は大道塾と平行して、キックボクシング仙台青葉ジムにも入門し、通い始めた。

初めてのキックボクシングの練習は、アマチュアとは違うマンツーマンの指導と僅かなフォームの矯正も徹底していて、プロへの道を強く意識することとなった。仙台青葉ジムはヤンガー舟木など名選手が揃う大手ではあるが、東京で勝負したかった佐藤正男は、「やはり、ラジャダムナン王座に上りつめた藤原敏男が所属した黒崎道場しかない!」と考え、21歳となったばかりの1984年(昭和59年)3月末に上京。4月1日、新格闘術・黒崎道場入門。

そこはやはりプロの世界。「しばらく通い始めて、ミット打ちミット蹴りサンドバッグ打ちも、初級同然だった!」という。

そしてまた思い立ったらすぐ行動に出る佐藤正男。「やはりキックボクシングとしては、パンチに関しては幾ら頑張ってみても、黒崎先生には大変申し訳ないが、全盛のトーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランの様なパンチの技術、連打やその強さを百分の一たりとも習得することなど無理だろう!」と自問自答。

不破龍雄にはヒジで切られて流血の惜敗(1992.4.25)

◆デビュー戦に向けた練習

そして、黒崎代表には内緒で帝拳ジムへも入門。そこでは当時トレーナーであった元・世界ジュニアライト級チャンピオン、小林弘氏の指導を受ける機会を得た。周りを見ればKOキング浜田剛史は居る、穂積秀一は居る、それに他のジムから続々と出稽古に来る日本・世界ランカーらとのスパーリング等を連日目の当たりにして、
「パンチの技術は拳法、空手、キックと比べれば雲泥の差。プロボクシングとはこんなにも凄いのか!」という率直な感想。

そして、黒崎道場入門から1年近く経った頃には格段に進歩。黒崎代表も、さすがに何百人と指導していた経験で、“進歩の過程が他の奴とはちょっと違うな”と気付いた様子で、「お前、格段と上手くなったな、何でだ?」と聞かれて、「先生の指導を基本にボクシングやキックのビデオ等を繰り返し見て、自分なりに研究しました!」と言うと、「ああそうか!」と納得させてしまった。

打撃だけで飽き足らない佐藤正男は、その頃まで喧嘩では一度も負けたことがなかったと言うが、体の大きな奴に組まれたりすると押される場合があって、組技の重要性を認識。そこで文京区春日の講道館に入門。

「乱取りでは、初段クラス程度ならば力でなんとかねじ伏せた事もあったものの、三段クラスになると全く歯が立たなかった。柔道ってこんなにも強いものだったのか!」という新たな経験値となった。 それまでにボクシングやキックをわずかでも習得した佐藤正男には、空手は空手、柔道は柔道、ボクシングはボクシング、それぞれの競技の対比は強い弱いではない、全く別個性を持った競技なのだと体験をもって感じていた。

その中で、黒崎道場で行なう筋トレなどをはるかに超える圧倒的なパワーの必要性をも痛感していた佐藤は、近くのウェイトトレーニングセンターにも通い始め、このパワーアップトレーニングは何年も継続し、講道館での柔道は黒帯を取得。

あらゆる技術をマスターした佐藤正男のキックボクシングプロデビュー戦は1986年(昭和61年)6月28日、堂々たる試合運びで2ラウンドKO勝利を飾った。

選手入場シーン、不破との戦いに挑む前のリング下(1993.4.17)

◆渡辺ジムへ移籍

黒崎道場は目黒ジムに対抗する業界トップクラスの名門だったが、藤原敏男が引退した1983年(昭和58年)春には実質閉鎖されたジムだった。しかし名門だけに入門希望者は絶えなかった。そこで黒崎氏は若者を受け入れる鍛錬の場は残されたが、佐藤正男の入門当時は、黒崎代表から「望むなら幾らでも試合に出してやる。」と言われたが、現実的には自主興行は無く、入門後4年間でたったの3試合のみ。

そんな時期、夜は黒崎道場に通い、夕方迄の時間や日曜・祝日は可能な限り、帝拳ジム、講道館、ウェイトトレーニング、あとは重労働の仕事(体力を使う職種で入社10人中10人辞める程の会社)という目まぐるしい生活。

更にはムエタイにも興味を示し、休暇が取れる程度の短期間ながらタイに渡り、当時、ディーゼルノイやチャムアペットなどスーパースター級が揃っていたハーパランジムで修行。日本のジムとは別世界の、行なうもの全てが斬新な練習で本場の強さを実感した。

20代前半、黒崎道場入門からの4~5年は試合は少なかったが、自身最も過酷なスケジュールで駆け抜けた時期だった。

ここでプロ生活の分岐点。経緯は省くが、実戦を積みたかった佐藤正男は黒崎健時代表に相談し、日本キックボクシング連盟の渡辺ジムに移籍することが決まり、黒崎健時氏と渡辺信久会長が対面することになった。

黒崎健時氏は「佐藤正男は藤原敏男と同じく21歳で私の所へ来た。何とか形を作ってやりたかったが、ジムそのものを閉鎖した後だったから、5年居たが何も残してやれなかった。その正男が君の所へ行きたいと申し出て来た。正式に移籍させたいので正男のこと、どうか宜しくお願いします!」と渡辺会長に頭を下げられたという。

あの“鬼の黒崎”が自身より若輩者に頭を下げるとは。渡辺会長も恐縮することしきり。目の当たりにした佐藤正男は黒崎代表に対し、黒崎道場出身として恥じないキックボクシング人生を送る誓いを告げるのだった。

そして渡辺信久会長にしても責任重大。

「佐藤、覚悟を決めて送り出されてここに来たなら、そのつもりでしっかりやれよ、こっちもそのつもりで教えてやる。多少勝ち続けたとしてもこの世界、戦積・キャリアがないとナメられるぞ!」と聞かされた。

この渡辺ジム移籍は1988年(昭和63年)5月20日。そんな試合に飢えている佐藤正男は、「交流する他団体興行を含め、可能ならばすべての興行に出場させて欲しい!」と嘆願すると、「それは面白い!」と渡辺会長はニンマリ。

◆エース格に君臨

移籍後、豪快に2連勝(2KO)した。移籍3戦目は同年12月16日、初の5回戦で、ベテランの日本キック連盟ライト級1位、元木浩二(伊原)と対戦。渡辺会長も伊原会長も、「この佐藤、キャリアこそ少ないが、あの黒崎道場に4年居て、渡辺ジム移籍後の2戦も圧倒的な勝利だった、元木浩二との対戦は面白いかも!」と思ったのかもしれない。

周囲は「佐藤は元木とやるのはまだ早い!」と言われていたが、1ラウンド後半、佐藤正男が速攻のパンチで3度のダウンを奪ってノックアウト勝利。移籍後、早くもトップクラスに立つ存在となった。

[写真左]一流戦士は体幹が強い、ルーラウィー・サラウィティーにローキックで攻められる(1992.10.10)/[写真右]ルーラウィーに蹴って出ても力及ばず(1992.10.10)

ツーショットでアクシデント(1992.10.10)

その後、ムエタイ戦士との対戦も増えていった。元・ムエタイ3階級制覇のケンカート・シッサーイトーン(タイ)と対戦するも判定負け。

結局移籍後は3年間で20戦程やり、諸々の経緯を経て1991年(平成3年)4月27日、日本キック連盟ライト級チャンピオン、酒井敏文(平戸)に挑戦。判定勝利し初のタイトル獲得。

日本キックボクシング連盟でエース格となった王座獲得後第1戦目では、シームアン・シンスワングン(元・ムエタイランカー)と対戦するが、ハイキック食らったノックダウンで判定負け。

1992年10月、元・タイ国BBTV(タイ7ch)フェザー級チャンピオン、 ルーラウィー・サラウィティーと対戦し、これも重い蹴りとバランス良い組み技に苦しめられ判定負け。本場ムエタイの強さと奥深さを改めて痛感させられる戦いが続いたが、「皆、体幹のバランス良く、当たり前のように強かった。俺が人生を懸けて挑んだムエタイはこんなにも凄いものか、目指した最高峰がとてつもない険しい山だったことに嬉しくさえなった!」と語る。

ラストファイトは1993年4月17日、前年にヒジ打ちで切られて敗れた不破龍雄(北心)にパワーで押し切る雪辱の判定勝利。1994年4月9日、豪勢な引退式を行なった。

不破龍雄と対峙する佐藤正男(1993.4.17)

[写真左]雪辱果たした佐藤正男、パワーで押し切った(1993.4.17)/[写真右]結果的に最後の勝利でのファイティングポーズとなった(1993.4.17)

8年の現役生活で約30戦、日本キックボクシング連盟は他団体から比べれば地味な興行が続く中ではあったが、佐藤正男はここまで人知れずも中身の濃い選手生活だった。

そして数々の格闘技を体験した経験値からトレーナーとしての実力も発揮。渡辺ジムから相原将人、小野瀬邦英ら後輩達のチャンピオン6名の誕生に貢献した。

2011年5月7日には、引退前から日本キックボクシング連盟を後援する会社との縁で知り合った女性と長いお付き合いの末、一般的には難しい靖国神社本殿で結婚式を挙げた。

そんな格闘技人生の中ではジム移籍の経緯、帝拳ジム、大道塾、講道館での存在感、靖国神社でのエピソードも話題が尽きない佐藤正男。また触れることがあれば第2弾を書き綴りたいものである。

引退式が行われた日は後輩の相原将人がフライ級チャンピオンとなった(1994.4.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆デビュー戦は負ければいい!

石井宏樹(いしい・ひろき/1979年1月16日生)は名門・目黒ジムから生まれた念願のムエタイ殿堂チャンピオン。4度目の挑戦でキックボクシングの聖地から打倒ムエタイを果たした。その因果応報は周りから愛された結果、現在も注目される存在感が続いている。

デビュー戦を控えて藤本コーチの指導を受ける(1996.1.8)

デビュー戦は藤田純にKO勝利(1996.1.28)

15歳の春、高校入学すると同時に目黒ジム入門。デビューが近い1995年暮、当時トレーナーの藤本勲氏が言った。「こいつは天才、ムエタイのチャンピオンになるよ!」

17歳直前、機敏に動く石井宏樹。蹴りが速い。デビュー前から小野寺力のような動き。藤本トレーナーが言う意味が分かる気がした。入門前は何をやっていたのか尋ねてみると、「中学時代は、野球と卓球をやっていました!」と語る。速い球を追うことで反射神経を養ったのだろう。

目黒ジムに入った切っ掛けは、「家が近くて、昔、親父がボクシングやってた影響で、子供の頃に手を引っ張られてガラス張りの目黒ジムまで観に行かされていました。その後、中学に入る頃から太りだしたので高校に入ったタイミングでダイエットがてら入門しました!」

家が近い、お父さんがボクシング経験あり、ガラス張りの目黒ジム、これはもう運命の導きしかない。

そんな頃、「デビュー戦は負ければいい!」という当時の目黒ジム、野口和子代表の声も聞かれた。「この子は今のうちに負けの辛さを味わった方がいい。でも必ず這い上がってくるよ!」と読めたからだった。

1996年1月28日、そのデビュー戦は3ラウンドKO勝利。しかしその後判定で2連敗。周囲からは予想できた試練だが、当の本人にとってはかなり辛いものだったようだ。

日本ライト級チャンピオンベルトを巻いて披露(2000.1.23)

鷹山真吾(尚武会)を倒して日本ライト級王座獲得(2000.1.23)

石井宏樹は後々、「デビュー戦をKO勝利し、このまま連勝街道だと調子に乗っていた矢先に連敗しました。 技術的な反省よりも、完全にプロの世界や人生を舐めていましたね。 鼻っ柱を折られた結果となってプロの世界は辞めようと思いました。

そんな中、当時憧れだった小野寺力先輩に、“辞めるのは簡単だ、もう一度死ぬ気でやってみたら”と声をかけて頂き、その言葉が有難く、絶対諦めないで続けようと決心しました!」と語っていた。

次なる試練はKO率の低さ。

「連敗後は判定勝利が続き、何でも出来るけど一発が無い、“器用貧乏だ”と言われていた時期はとても悩みました。自分には“これ!”といった必殺技は持ってないので、攻防を進める中で今相手が何をやられたら嫌なのか考えながら、そこを突いて行くスタイルで倒して行きました!」

研究を重ねる努力。それは長い年月を要するものだった。

◆ムエタイの壁

判定勝利が続く中、2000年1月23日に日本ライト級王座挑戦。チャンピオンだった鷹山真吾(尚武会)を豪快に倒し、ようやく二つ目のKO勝ち。初のチャンピオンベルトを巻いた。

順調に防衛を重ね、2005年8月22日に国立代々木第2体育館に於いて、念願のタイ国ラジャダムナン系ライト級王座に挑戦。チャンピオンのジャルンチャイ・チョー・ラチャダーゴンには僅差の判定負けで王座奪取は成らず。しかしこの僅差が厄介な壁となるムエタイの難しさ。

2007年7月までに日本ライト級王座は8度防衛まで伸ばした後、スーパーライト級での頂点目指し返上。

2008年3月9日、ラジャダムナン王座再挑戦。階級上げた慣れぬ体格差があったか、チャンピオンのシンマニー・ソー・シーソンポンに判定負け。

更にタイ選手に4連勝(3KO)した後、2010年3月22日には現地、ラジャダムナンスタジアムで3度目の挑戦となるスーパーライト級王座決定戦に出場。ヨードクンポン・F・Aグループに僅差の判定負け。キックルールなら優勢な印象も、ムエタイの壁が立ちはだかる厳しさだった。

「ここで獲らなければ次はもう無いという覚悟と、現地で獲れば本物だという気持ちが強かったので、是が非でも勝ちたかった。ギャンブラーが自分に賭けてくれて、一生懸命応援してくれるのを感じ、武者震いしたのを覚えています!」

石井宏樹は、新日本キックボクシング協会が1999年から2003年迄、年一回行なっていたイベント「Fight to MuaiThai」で4度ラジャダムナンスタジアム出場しており、現地では全くの無名ではなかった。ここでは賭けが成立する存在感が大事。ギャンブラー達は石井宏樹のテクニックを覚えていたのだった。

ラジャダムナンスタジアム初登場は判定負け(2000.12.3)

◆思わぬ試練

善戦したラジャダムナンスタジアムでの挑戦で、2010年7月25日は再挑戦への道が与えられた査定試合で、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームに第2ラウンド、ヒジ打ちで倒され初のノックアウト負け。この結末は誰も予想しない力無く倒れる石井らしくない展開だった。これで石井は終わったと思われたムエタイ殿堂王座への道。

「相手のヒザ蹴りをモロに受け、その瞬間に小腸が破裂していたようです。 お腹は痛い感覚は無かったのですが、試合を続けている中、急激にスタミナも無くなり、ガードを上げる力も薄れて最後はヒジ打ちを貰い倒れてしまいました。 控室に帰っても何故負けたのかも分からず、その後、後楽園ホールを出て、応援して頂いた仲間に挨拶しに向かおうと思った時に、お腹に激痛が走り動けなくなり、そのまま病院に向かい緊急手術となりました。 “もう少し運ばれて来るのが遅かったら死んでいましたよ”と医者に言われました。 まさに九死に一生でした!」

藤本勲会長からは「また挑戦しよう。ラジャダムナンのベルトは俺らの夢だから!」と諦めないでずっとサポートしてくれたことが、気持ちがブレずに突き進めたという。

応援し続けてチャンスをくれた藤本勲会長とのツーショット(2011.10.2)

◆念願のムエタイ王座奪取!

その後3連勝(2KO)し、チャンスは4度びやって来た。2011年10月2日、後楽園ホールでのラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級王座決定戦で、アピサック・K・Tジムと対戦。判定だがノックアウトするより難しいと言われるテクニックで、現地審判団を唸らせ、越えられなかった壁を打ち破る勝利で王座獲得。

「今のままの練習ではタイのチャンピオンには勝てないと思い、初めてラジャダムナン王座に挑戦した時の対戦相手、ジャルンチャイを練習パートナーとして日本に呼んで貰い、二人三脚で4度目の挑戦に挑みました。彼なら僕の癖も知り、日本人がムエタイを破る方法も知っているのではないかという狙いでした。彼の指導で毎日朝晩と練習を積み重ねて行くうちに彼と一緒にいれば必ず勝てると言う確信が持てました!」

この勝利は評価が高かったが、まだ“防衛してこそ真のチャンピオン!”と言われる目黒ジムの掟があった。2012年3月11日、ゲーンファーン・ポー・プアンチョンの挑戦を受け、またも蹴りの技術と戦略で優って判定勝利で初防衛。外国人チャンピオンでは初の快挙だった。

2012年9月15日、プラーイノーイ・ポー・パオイン戦は、パンチで圧倒ノックアウトし2度目の防衛。残された課題は現地スタジアムでの防衛であった。

防衛後のリング上で「次はタイでやります!」とマイクで宣言した石井宏樹だが、プロモーターである伊原信一代表は「いずれ必ず現地で防衛戦やらせるから!」と言う約束の下、あと一回、日本での防衛戦を用意された2013年3月10日、残念ながらエークピカート・モー・クルンテープトンブリーにヒジ打ちを貰ってノックアウト負けで王座を失ってしまった。

4度目の挑戦で技術でアピサックに圧倒、念願のムエタイ王座獲得(2011.10.2)

◆受け継がれる完全燃焼

引退か再起か。石井宏樹はここで「現役はあと3戦!」と標準を定めた。

その最終試合となったのは、2014年2月11日、先輩の小野寺力氏が主催する大田区総合体育館での「NO KICK NO LIFE」興行。WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で、知名度抜群のチャンピオン、ゲーオ・フェテックスとの対戦となった。5ヶ月前には梅野源治も倒されている過去いちばんの強豪。

「小野寺さんに“ゲーオとやるか?”と言って頂いた時は“やります!”と即答しました。 そして目黒スタイルである、引退試合は最強の相手を迎える伝統を受け継ぎ、現役最後の集大成で悔いの残らない試合をする事だけを考え、守りに入らず自分から攻めに行った結果、第2ラウンド、カウンターの左ハイキックで散りました。 もう何もやり残したことはなく、現役生活何一つ悔いが残らず引退することが出来ました!」

最終試合はゲーオに倒される完全燃焼(2014.2.11)

目黒ジムの先輩、飛鳥信也氏から始まった最強相手に完全燃焼の引退試合は確実に継承されていた。

2014年12月14日には引退テンカウントゴングに送られリングを去り、RIKIXの百合ヶ丘支部と大岡山本部ジムで交互にトレーナーを務める日々となった。

引退セレモニーで感謝を述べる(2014.12.14)

多くの縁が繋がって来た結果、2015年2月11日から「NO KICK NO LIFE」興行でのテレビ解説者として起用され、再びファンの注目を浴びる立場で実力発揮(後にKNOCK OUT興行に移行)。

「まさか自分が引退後、解説者になるとは思ってなかったです!」という石井宏樹。

「現役の頃は他人の試合はほとんど見なくて、解説者というお仕事を頂いてから選手の試合をたくさん見て勉強するようになりました。 今でも喋るのは苦手ですが、元々人間観察は好きなので、解説は嫌いな仕事ではないですね!」

石井宏樹は元々頭の回転が速く、スラスラとトークが進む奴。選手の心理を読む分析力も抜群。キックボクシングを続けて来た因果は、今後もテレビ解説以外でも多くのメディアに登場するであろう名チャンピオン、石井宏樹である。

私生活では2008年に支援者の紹介で知り合った彼女と2016年に結婚し息子さんが誕生。やがて物心ついた頃、息子さんの手を引いてジムに通うのだろう。

解説者としてのデビュー戦は堂々たる語り口(2015.2.11)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆現役時代──1980年のデビュー以来、ノックアウト勝利を重ねた元ストリートファイター

元・日本ライト級1位.元木浩二(もとき・こうじ/1963年1月19日生)は、魅せられるノックアウト勝利を心掛け、その強面とは正反対の、社会貢献に人生を懸けたキックボクサーだった。

幼ない頃から自由奔放の腕白坊主で育ち、十代半ば頃までストリートファイトに明け暮れたが、元木浩二の場合は単なる荒くれ者とはその存在感が違っていた。

1978年(昭和53年)3月、中学を卒業すると、幼ない頃からテレビでキックボクシングを観て、強い憧れを抱いていた名門・目黒ジムの門を叩いた。

1980年1月、元木浩二は17歳になるまでに筋力トレーニングで鍛えた筋金入りの身体でバンタム級でデビューするとノックアウト勝利を重ね、ライト級まで階級を上げていったが、将来を嘱望されながら業界はテレビ放映が終わった低迷期に入り興行は激減。

各々の団体やジムがあらゆる手段で浮上を試みる中、1983年4月、ジムの先輩だった伊原信一氏が新たにジムを興すと、その伊原ジムへ移籍。同年9月、伊原氏が新日本キックボクシング協会を設立すると元木浩二は10月22日、設立記念興行にて、新日本ライト級1位、砂田克彦(東海)にノックアウト必至の一進一退の末、3ラウンドKO勝利。ランキング上位へ浮上した。

砂田克彦戦、攻められながら逆転に導いた(1983.10.22)

1984年11月には、統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟に吸収された後、翌年6月7日、なおも分裂騒動が起こった後だったが、タイガー岡内(岡内)に速攻の1ラウンドKO勝利。王座に手を掛けるトップ戦線に浮上した試合となった。

同年11月9日、日本キック連盟ライト級王座決定戦としてタイガー岡内と再戦することになったが、互いのノックアウト狙った激戦の末、疑念が残る僅差の判定で敗れ王座獲得は成らず。再挑戦のチャンスは訪れず、その後は世界大戦シリーズに於いて国際戦に出場、強力多彩な攻めで勝っても負けてもノックアウト必至の激闘を繰り返していた。

王座決定戦でタイガー岡内と再戦 (1985.11.9)

デビッド・トーマスとは激戦の末、敗れ去った(1986.10.18)

引退式でかつて対戦した佐藤正男から花束を贈られる(1990.10.19)

1989年、平成に入ると新たなライバルが出現。新格闘術連盟黒崎道場から移籍して来た佐藤正男(渡辺)がライト級上位に浮上してきた。年齢は同じでも、互いのデビュー時期は業界低迷期を跨いだ時代差があったが、佐藤正男とライト級トップ戦線を争い、元木浩二はコンディション調整失敗から意外にもノックアウトで敗れてしまう。

「佐藤は上位に挑む必死さがあった。俺は気持ちで負けていた。」と反省。これが時代の変わり目でもあった。

この時代は他団体の躍進もあって、元木浩二はあまりスポットライトを浴びる存在ではなかったが、KO率が高く、一つ一つの試合が信念を貫ぬくノックアウト狙いで、他団体チャンピオンとも戦わせてみたい存在だった。

◆父の教え

元木浩二はデビュー戦からファイトマネーの半分を交通遺児施設、老人ホーム、難病患者施設等へ寄付し、災害被災地への救援物資等の支援活動を行ない、現役引退後も1995年1月の阪神大震災、2011年3月の東日本大震災等にも、これらの活動を継続してきた。

デビュー当時はファイトマネーの半分といっても1万円にも満たなかったが、このボランティア活動は当時の目黒ジム会長やトレーナー、後の伊原ジムでも誰も知らないことだった。その元木浩二の強面に似合わぬボランティア精神は、幼い頃から自由奔放に育てられた中にも文武両道で厳しい教育方針の父親の存在があった。

「弱い者、困った者を見て見ぬふりするな、男たるもの常に弱者の見方を心掛けろ、持つ者が持たざる者に分け与える心を持て!」など、これらを当たり前のように叩き込まれて来た元木浩二は、その教えが本能から身に付いた人生。

血気盛んな十代は荒くれ者だったが、弱い者イジメだけはしなかった。そんな心優しい元木浩二は、街での通りすがりに遭遇した、不良が弱者を脅すトラブルを目撃し、見て見ぬフリは出来ず仲裁に入ったことが幾度かあった。その一つでは乱闘に巻き込まれ、首の頸椎を損傷する重症を負ってしまった。救急車で運ばれ、潰れた頸椎に人工骨を入れる手術も受けるも神経障害が残り、杖を突いて歩く身体障害者となってしまい、それが原因で引退に導かれてしまうのだった。

昭和のキック同志会のステッカーデザイン

◆昭和のキック同志会発足

元木浩二は現役当時から世代を問わず、リングに上がった仲間達を飲み会に誘っていた。そこでは昭和の良き時代のキックボクシングの語らいから、自身がやりたいことへの話が進み、自然災害が多い日本の被災地への救援物資協力、義援金送付等の支援活動の想いを語り続けると賛同する仲間が増えていき、2009年に「昭和のキック同志会」を発足。

その後も昭和のキックボクシングに携わった者が中心に集って会食し、この参加費の一部を物資を送る資金として、その後も各被災地の救済に活動を継続している。

飲み会に集まる主なメンバーは、藤原敏男氏、渡嘉敷勝男氏、佐竹雅昭氏といった、そうそうたるチャンピオンクラスや、元木浩二と親交深いスポーツ選手と一般社会人含む大勢が参加している。

昭和のキック同志会パーティーでYAMATO氏のミニライブで盛り上がる (2017.11.18)

かつてのライバル佐藤正男と再会(2017.11.18)

◆続くボランティア

元木浩二は現在、かつて父親が興した建設とリフォーム業の後を継ぎ、株式会社ケーアップジャパンを立ち上げ代表取締役を務める日々。ボランティアではいろいろな現場を訪れたが、昨年の千葉県での台風15号に続き19号と災害をもたらした際は、詐欺業者が横行し、お年寄りが頼みもしないのに勝手に屋根に上がり破損した箇所の補修工事に掛かり、中には手抜き工事をしながら高額な修理費を要求、お年寄りは手に負えず従うままという事件が多発していた。

元木浩二は同志スタッフを引き連れ、無償で十数軒の屋根の修理に掛かったという。お年寄りからは感謝され、御礼金を差し出されても誠意を持って受け取らず、お年寄りを励まし、元気を与えて去って来るボランティアを貫いた。正に父親が教えた弱者への味方を心掛けた精神を受け継いだ行ないだった。

今年もすでに熊本豪雨災害が発生しているが、現地から「救援物資は足りているが、かなりの人手が必要になるかもしれない」と連絡を受けて、救援体制を準備しているという(7月6日時点)。また今後も被災各地へ物資を送る活動も続けていくという。

この昭和のキック同志会では、忘年会や花見の時期など、ある節目ごとに集う会を開いており、今年はコロナウイルス蔓延の影響で暫く遠ざかっているが、コロナ騒動が落ち着いた頃に再開予定。

こんな心優しい荒くれ者が居たのかと思うほど、強面で近づき難かった元木浩二の十代の荒くれ時代から取材を始めていればよかったと筆者は思う次第である。

昭和のキック同志会創始者、元木浩二の語り (2017.11.18)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆運命の目黒ジム入門

向山鉄也(さきやま・てつや/1956年11月27日生)は数々の打ち合いの名勝負で強烈なインパクトを残した昭和の名チャンピオンである。

決戦へ向けてのジムワーク(1983.1.30)

1978年(昭和53年)、電気職人としての仕事帰りに目黒駅に向かう途中、たまたま通りかかった権之助坂のガラス張り目黒ジムの練習風景が目に入り、気紛れにフッと扉を開けてしまったことから人生の運命は変わった。高校時代に空手の経験がある向山は戦う本能が蘇り、すぐに入門。翌年6月、22歳でデビュー。喧嘩スタイルで勝ち星を重ねるも、4戦目でガードガラ空きのアゴにカウンターパンチを受けて失神ノックアウト負けを喫した。負けて覚えるディフェンスの大切さ。それでも挫けることなく勝ち続け、デビュー1年後にはテレビ朝日の特番で放映された日米決戦のリングで、かつて富山勝治(目黒)を下したサミー・モントゴメリー(米国)と対戦も、パンチで額を切られて2ラウンドTKOで敗れたが、堂々たる戦いぶりには将来を嘱望されていた。

しかしこの時期はめっきり興行が減るキック界の低迷期に突入していたこともあり、強豪ひしめく中での戦いを求めて、単身タイに渡った。1981年から1982年にかけてムエタイランカーを打ち破り、1982年1月度のランキングでラジャダムナンスタジアム・ウェルター級8位にランクイン。自力で切り開いた本場の壁。あと2試合勝ち上がれば王座挑戦のところまで上り詰めていたが、あと少し手が届かなかった。
現地で国際式プロボクシングも経験し、ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのラクテー・ムアンスリン(国際式でも同級チャンピオン)を右ストレートで1ラウンドKO勝利している。向山が語るベストバウトのひとつだという。

合宿を行なった1983年元旦のロードワーク、江戸川の土手を走る(1983.1.1)

◆埋もれた存在から浮上

帰国前には元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏が興した西川ジムに移籍(厳密には自ら興したキングジムに在籍)し、帰国後、江戸川区北小岩のジム寄宿舎となる六畳一間のアパートに暮らし、テレビは持たず身軽な生活だった。日常は建設現場で電気配線を設置する職人として働きながら、キックブームが起きていた香港での試合に赴いていた。

西川純会長のミットを蹴る。新しいジムが出来た頃(1983.1.30)

独身時代の孤独な部屋はポスターだらけ、バンテージを巻きジムに向かう前(1983.1.30)

1982年(昭和57年)10月3日、閑散とする日本国内でも日本プロキック・ウェルター級王座決定戦で岩崎新吾(花澤)に1ラウンドKO勝利し王座獲得。初のチャンピオンとなったが、リングサイドに一社の報道関係者も来ない中では知名度は全く上がらなかった。しかしここから激闘の名勝負を残していくことで知名度、存在感は業界トップクラスに浮上していった。

1983年2月5日、業界が集結した1千万円争奪オープントーナメントの枠外ながら、他団体の日本ナックモエ・ウェルター級チャンピオン、レイモンド額賀(平戸)とのチャンピオン対決を迎えた。

しぶといファイトで定評あるベテラン、レイモンド額賀の顔面が向山鉄也のパンチ連打でボコボコに腫れあがり、普通ならすでに倒れているであろう状態から、しぶとく向かってくる額賀のヒザ蹴りで向山の鼻が“くの字”にひん曲げられた。カウンターパンチでダウンを奪った向山が判定勝ちしたが、内容は両者血みどろの凄絶な展開、向山が「最も疲れた」と語る一戦だった。

当時でも好カード、そして激闘となったレイモンド額賀戦(1983.2.5)

コーナーに帰った表情、しぶとい相手に次なる戦略を練る(1983.2.5)

両者は1985年1月6日に再戦。前年11月に4団体が統合されて設立された日本キックボクシング連盟の日本ウェルター級王座決定戦。前回に劣らぬ両者血を見る激闘の中、向山はガードも打ち破る強引なパンチとヒジ打ちの猛攻で、レイモンド額賀の額にはまたも大きなコブを作ったが、判定は三者三様のドロー。規定による延長戦で向山がパンチで滅多打ちにして額賀を戦意喪失に追い込みレフェリーストップ。この時代、最も統一に近い日本ウェルター級初代チャンピオンに認定された(公式記録は引分け)。マスコミも向山の過激なファイトをする存在として注目し始めた試合だった。

向山鉄也はこの前年に約1年間、アメリカ遠征もしていた。日本の低迷期とあって多くの強豪と頻繁に戦えない中では積極的に海外へ向かう冒険が必要だった。突然タイに行ったかと思えば次はアメリカに渡る風来坊で、1984年3月3日にミシガン州で、かつて富山勝治とWKBA世界ウェルター級王座を争い、KO勝利で王座獲得していたディーノ・ニューガルト(米国)に挑戦。これもパンチの打ち合いでダウンを奪い合う両者血みどろの戦いで12ラウンド2-1の判定で敗れている。

第2戦レイモンド額賀と乱闘寸前となった第4ラウンド終了後(1985.1.6)

ボコボコに殴り付けても倒れないレイモンド額賀との死闘(1985.1.6)

◆伝説の名勝負

1985年(昭和60年)11月にはヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝利で日本ウェルター級王座初防衛。翌年5月12日の2度目の防衛戦では、一時的ながらやっとテレビに映るまで復興したキックボクシングの目玉カードとして大役を任された向山鉄也の相手は、元・日本ライト級チャンピオンで名を馳せた須田康徳(市原)と死闘を繰り広げた。ノックアウトパンチを持つ両者の、蹴りがほとんどない打ち合いだった。一度ノックダウンを奪いながら須田康徳が底力を見せた逆転のノックダウンを奪われ、口が半開きの向山に、セコンドの西川会長がタオル投入を躊躇うほどのダメージを負いながら、向山はこの我慢比べを制し、第4ラウンドKO勝利。「もうこんな試合したくない」と語るほど疲れ、ダメージを負う激闘だった。この名勝負はこの年のMA日本キックボクシング連盟での年間最高試合となった。

ヤンガー舟木の挑戦を受けた第1戦(1985.11.22)

同年11月、向山鉄也はタイ国ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、パーヤップ・プレムチャイ(タイ)とノンタイトルで対戦。両者は過去、タイと香港で対戦し、向山は1敗1分。パーヤップの大木のような重い左ミドルキックを何十発と受け、向山の腕と右脇腹から背中までの広範囲にケロイド状にまで腫れ上がっていく中、第4ラウンドにパンチでスリップ気味ながらダウンを奪った。それに反発して勢い増すパーヤップにより激しく蹴られ、結果は2-0の僅差判定負け。内容的には惨敗ながら、逆に強い向山を印象付けた試合となり、この試合もテレビ東京で放映され、年間最高試合の候補に挙がっていた。

パーヤップ戦。蹴られても最後まで倒れなかった向山鉄也。これが強さを印象付けた(1986.11.24)

向山鉄也にとって最後のビッグマッチは、1987年7月15日の全日本キックボクシング(旧・岡村系)復興興行のメインエベント。タイ国ラジャダムナン系ウェルター級新チャンピオンとなっていたラクチャート・ソー・プラサートポン(タイ)戦での4ラウンドKO負け。パーヤップのような強い蹴りはないが、オールラウンドプレーヤーの上手さに翻弄され、パンチで倒された。

ピークを過ぎた頃で怪我も伴いブランクを作ったが、ラストファイトは1990年1月、全日本ウェルター級チャンピオン、船木鷹虎(=ヤンガー舟木/仙台青葉)に挑むも、かつて勝利した相手に1-0の優勢ながらの引分けで返り咲きは成らず、引退を決意した。

◆世代交代となっても伝説の人

引退後の1993年(平成5年)5月、向山鉄也は所属するニシカワジムを受け継ぐ形で、かつて自ら持っていたキングジムを復興させ、江戸川区一之江でバラック小屋のジムを開き、後進の指導に当たった。2007年2月には、それまでの不便な立地条件から江東区大島の都営新宿線大島駅近くのビル2階に新設されたジムは近代設備を整え、女性も入門しやすい広くて明るく綺麗なジムとなっている。

現役時代にタイ人女性と結婚した後は、風来坊といった生活から一転して落ち着いた家庭を持ち、一男二女を儲け、日々自らミットを持って後進の指導に当たっている。長男の竜一は羅紗陀というリングネームでWBCムエタイ日本スーパーフェザー級とライト級チャンピオンに育て、他、スーパーライト級でテヨン(=中川勝志)、スーパーウェルター級でYETI達朗、女子アトム級でPIRIKAをWBCムエタイ日本チャンピオンへ育て上げている。

令和の時代となっても、苦しい境地から踏ん張り激闘となった昭和の名勝負は伝説となって今後も語り継がれていくだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆飛鳥時代の始まり

飛鳥信也(あすか・のぶや/目黒/1958年8月11日生)の17年に渡るプロ現役生活は“青春の完全燃焼”だった。更に引退後の人生に於いては学生キックボクシングやキック版オヤジファイトに関わり、人生の完全燃焼を目指している。

本名は住野幾哉(すみのいくや)。リングネームは当時の目黒ジム、野口里野会長が名付けた。

1978年(昭和53年)8月12日、飛鳥信也は20歳でデビュー。目黒ジムに入門したのは、当時住んでいた八王子にあったキックボクシングジムは閉鎖された為、目黒ジムと目白ジムが視野に入った。そこで比較的近かったのが目黒ジムだった。

[左]川谷昇戦。MA日本vs全日本のライト級チャンピオン対決を制す(1992.6.27)。[右]敵地で目黒ジムの存在感を現した藤本会長とのツーショット(1992.6.27)

因縁の対決となった山崎道明との再戦(1992.11.13)

1988年(昭和63年)1月に越川豊(東金)を破り、日本ライト級王座を奪取。

飛鳥信也は22歳の時、駒沢大学に入学し、後にチャンピオンとなってから知名度は各大学に広まり、創価大学体育会から指導員を依頼されたり、各地からの講演も殺到した時期だった。

「青春を完全燃焼したか不完全燃焼で終わったかで、大いなる人生の分岐点がある。」それが飛鳥信也の持論だった。

同年9月、越川豊との再戦となる初防衛戦で敗れ王座は失ったが、飛鳥時代はここからが始まりだった。

1989年(平成元年)4月には、新日本プロレスの東京ドームでの興行で、かつての日本人キラー、ベニー・ユキーデ(米国)と対戦。

判定無しルールのドローながら唯一、ベニー・ユキーデに倒されなかった日本人となり、東京ドームで戦ったキックボクサー第1号として名を残すことになった。

1990年5月、日本ライト級王座決定戦で菅原忠幸(花澤)を破り王座に返り咲き、1992年6月には、全日本ライト級チャンピオンの川谷昇(岩本)との交流戦で事実上の頂上を制した。

ヘクター・ペーナと並ぶ。キックでは珍しかった調印式を開いた飛鳥信也(1993.11.26)

ヘクター・ペーナと対峙する飛鳥信也 再戦で(1994.5.17)

ヘクター・ペーナ再戦。蹴りでは優る飛鳥信也、米国選手が強いのはボクシング技術(1994.5.17)

◆メジャー化への挑戦

1993年(平成5年)11月、キックのメジャー化を視野に入れていた飛鳥信也は、WKBA世界スーパーライト級王座決定戦に漕ぎつけた。

指導している創価大学体育会キックボクシング部や後援会などイベントを支えてくれる仲間はいたが、自身が中心的に各スポーツ新聞社等10社以上に告知し、新宿京王プラザホテルで調印式、記者会見を開いた。

会見に現れたマスコミの格闘技専門誌以外では、共同通信と週刊プレイボーイだけだった。

イベントを一般紙にまで売り込んだのは、プロボクシング世界戦に迫る意気込みを表し、国内の組織統一を目指す風潮に逆行して、キックボクシング創始者、野口修氏が創設以来活動が乏しいWKBA(創設は1967年、キック生誕翌年)を活性化させ、世界の頂点を確固たるものへ創り上げ、日本選手がここに集まる業界にして国内を纏めようという狙いだった。

しかし試合は、ヘクター・ペーナ(米国)に判定負け。翌1994年5月、再戦に漕ぎつけたが、4ラウンドに3度ノックダウンした初のノックアウト負け。

目指した頂点に立つ夢は消えたことから引退が頭を過ぎったという。

それでも最後まで完全燃焼に拘り、1995年12月、17年間の現役生活集大成として最強の相手を選び、引退興行に力を注いだ。

相手はギルバート・バレンティーニ(オランダ)。名選手のラモン・デッカー(オランダ)にも勝っているハードパンチャーだった。

引退試合に向けて。目黒ジムで最後の追い込みをかける飛鳥信也(1995.11.28)

飛鳥信也は無謀と言われながらも倒す気でいたが、バレンティーニの圧力ある突進のパンチをかわせず、デビュー以来、初めての意識が飛ぶノックアウト負けを喫した。

それでも試合後には予定どおり引退式を行ない、グローブをそっとリング上のマットの上に置いて、テンカウントゴングを聴いた。これぞ完全燃焼の生き様だった。

[左]バレンティーニも強打の選手、凌げなかった飛鳥信也(1995.12.9)。[右]現役を完全燃焼してテンカウントゴングを聴く引退式(1995.12.9)

◆生涯現役のリングへ

時は流れ、キックボクシング界は分裂は繰り返す低空飛行も、競技人口は増加していく傾向があった。

それはムエタイがプロ・アマチュアともに国際化が進んでいたことに繋がっていた。

2018年7月(7月21日~30日)に全日本学生キックボクシング連盟は、タイ国パタヤ市で開催された34ケ国、約230名参加の第1回世界学生ムエタイ選手権大会に出場。4名の学生選手を率いて参加したナショナルチームリーダーは連盟常務理事を務める飛鳥信也。

日本勢は残念ながら全員初戦(一回戦)敗退となり、アマチュアと言えども世界の壁の高さを実感する大会となった。

その直後、飛鳥信也は、8月12日に開催される35歳以上の中高年世代を対象にしたアマチュアキックボクシングイベント「ナイスミドル」からオファーが入った。

最初は断ったが、それまで学生を指導したトレーニング量と、最初のプロデビューから丁度40周年となる同じ日。

誕生日も1日違い。「これはリングが俺を呼んでいる」と因縁を感じ出場を決意。
ナイスミドル.ライト級チャンピオン.HIDEJIN(48歳/新興ムエタイ)に判定負けし、翌年も同じ相手と対戦するが、またも判定負け。

「前年は30秒で息切れ、翌年は1分で息切れました。でも勘が戻って来た感じで、2020年も出場予定でしたが、今年はコロナ騒動で中止になってしまい、来年以降も出場を目指しています。プロ現役は37歳までやりましたが、 ナイスミドルでは生涯現役かもしれません。プロでやっていた頃は負けたらボロクソに言われましたが、ここでは負けても関係無い。更にプロ引退後、もう味わえなかったあの頃の緊張感を思い出すのがナイスミドルでした。勝つことが目的ではなく、リングに上がることが目的。戦う相手が居る、そのリングに向かうことが凄くいい緊張感なのです。」と意欲的に語る。

◆研究家としての完全燃焼へ

飛鳥信也氏は学生キックボクシングの指導を続けていくことによって指導の在り方へ探求心は増していき、プロ引退して15年後、2011年4月、スポーツマネージメントを学ぶ為、筑波大学大学院に入学し、学生アマチュアキックボクシング選手を対象としての研究を始めた。

2012年に、選手の心のケアに重点を置き、「スポーツ選手が励まされ勇気づけられた言葉はどのような言葉であったか」という研究結果を論文にしている。そこには選手の内面を変えてやることで、急成長するといったコーチングの在り方、錦織圭にマイケル・チャン(米国)コーチが付いてから急成長したことや、高橋尚子などのマラソンランナーを育てた小出義雄監督などのコーチングを分析し、飛鳥信也氏自身がキックボクサーとして体験し、長年コーチをして頂いた目黒ジム大先輩の藤本勲トレーナーを例に、「選手の個性、考え方、頑張りを見ているからアドバイスはほとんどされなくても、“ジャブ、ロー”だけでリズムを作らせる技がある、子供のすべてを知っている親父のような存在。人格の輝きと力量を持った人が、そこに居るだけで励みになり、エンパワーメントされました。現役時代の私にとってその存在が、藤本コーチでありました。」という存在感があった。

それはコーチ側の受容が選手の心のケアに繋がることであった。

このようなコーチングの重要性や、仲間や家族のどのような応援がどう影響するかなどの研究を続けている飛鳥信也氏。 昔ながらの鬼コーチと言われる逆らえない存在も少なくないキックボクシング界での指導方法や、他競技との比較など、なかなか面白い研究だろう。

更には飛鳥信也氏自身が「ナイスミドル」に出場したことや、アマチュア世界学生ムエタイ大会の出場選手の心の分析もデータの一つとして新たな研究を進めている。若い学生に囲まれた姿は若々しく、プロ現役選手のようであった。(本文中敬称略)

かつて戦った斎藤京二氏と再会。目黒ジム披露懇親会(2005.4.17)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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