◆奇跡の運命

人には皆、奇跡がある。いろいろな人との出会いがあって、その縁がまた先に繋がっていく。そんな導かれた縁の繋がりで、その時代の皆さんの御陰で私は勝ち上がることが出来たのです。これは正に奇跡的な運命なのです(富山勝治談)。

アメリカの帰り、寄り道したハワイで撮った沢村忠さんとのツーショット

試合後の放送席でも竹を割ったような性格で多くを語っていた元・東洋ウェルター級チャンピオンの富山勝治さん。問われればしっかり応える姿は、こんな私ども素人相手の質問にもその姿勢は変わらなかった。

富山勝治大飛躍となった1972年(昭和47年)2月19日の花形満戦。そこから全国区の富山となってからの数々の試練。その都度立ち上がってきた不撓不屈の精神。かつて寺内大吉さんが語られた「人間性の勝利」があった。

富山勝治は子供の頃から気性が激しく、よく喧嘩沙汰になったというのは、腕白少年ならよくある話だが、進路についてはお袋さんが心配していて、「勉強しなくていいから学校だけは行きなさい!」と言われていたという。

そんな中学生時代に先輩の内田新一郎さんに気に入って頂き、「ウチの空手部に来い!」と誘われたことから1967年(昭和42年)4月、延岡商業高校へ入学した。内田新一郎氏はこの空手部主将、背は小さい人だがもの凄く喧嘩が強く、学校一の悪と言われるほどだったが、「この人の御陰で今があるんですよ!」と言うほど人生を変えた最初の転機だった。

空手部の顧問は甲斐和年さん。「鹿児島大学出身の先生で凄い人だったね。今の空手とは鍛えようが違う本物の武道だった。」という中で鍛えられた富山勝治は3年生までに基礎をしっかり学んだ御陰で二段まで取得、九州の高校選手権で優勝と実力発揮していった。

1967年(昭和42年)3月、高校卒業とともに佐世保の海上自衛隊入隊。卒業後は就職するところが無く、「父親が海軍上がりだったから俺は船乗りになりたかったが、半年間、家を留守にするような船の仕事では家庭が不安定になるからと『お前は自衛隊に行ったらどうだ!』と勧められて海上自衛隊に入隊しました。」と、小さい頃から口にすることはあった自衛隊の存在ではあった。

「まあそんな道しか無かったよ、勉強してないんだから!」。

九州は仕事が少なく、ヤクザか警察官か自衛隊と言われた。大手は八幡製鉄所、九州電力、旭化成があったが、勉強できない奴には縁の無い世界だった。

半年間、佐世保で教育隊に入るが、就職先が無かった悪い奴ばっかり来ていたという。喧嘩の絶えない自衛隊だった。

佐世保の米軍基地では常々空手の試合に出ていて、その時の上司・森嶋日出春(当時一等海尉)が、「お前なら沢村に勝てるぞ!」と言う語りかけからキックボクシング人生へ舵が切られた。

「今、東京ではキックボクシングというのをやっているからお前も東京に上れ!」と言われたが、「父親との約束で3年間は自衛隊を勤める!」ということで、3年満期で辞めて上京した。

[左]1978年10月のプログラム表紙より。[右]1979年2月9日プログラム表紙

◆キックボクシングを続けられた奇跡

1970年(昭和45年)3月31日、海上自衛隊を満期退職すると、その日の内に上京。知り合いに紹介して貰った渋谷のアパートに住み、導かれたとおり目黒ジムに入門。

練習と仕事の両立へ、新聞広告で見た神田青果市場で雇われると、朝5時に起きて1時間ロードワークした後、市場に向かった。夕方練習して、夜は割烹店で皿洗いのアルバイトもやっていたことがあったという。

「店の親父さんに可愛がられて、『チャンピオンに成れよ!』と応援してくれて、他の従業員には普通の飯だったけど、俺にはトンカツとか豪華なものを食わせてくれたなこと思い出すよ!」

「他に道路のライン引き工事の仕事もやったこともある。俺は引けないから道路のゴミを取り除く仕事。石ころなんかあってはライン引けないから、延々2キロメートルほど蜂起で掃いたな。」

「お世話になった人多くて可愛がられたけど、そういう風に可愛がって貰わないと上に行けない社会。親父の教育が良かったから、どこに行っても目上の人には可愛がられたね。」

1981年5月9日プログラム表紙。負けた試合がポスターやプログラムになったのは初めてという

◆私も関門海峡渡れんよ!

人生の分岐点となった名勝負、1972年2月19日の花形満との日本ウェルター級王座決定戦は、その前年6月26日に花形満との最初の対戦があった。それも花形満のパンチで3度ノックダウンしている富山勝治だが、左ハイキックで逆転ノックアウトしている好ファイトだった。そして迎えた王座決定戦。前年を上回る逆転の激闘で、富山勝治の名は全国に広まった。「50年経っても花形さんには感謝しています!」という熱い想いは変わらない。

「稲毛忠治へのリターンマッチ(3度目の対戦)の前、12月末にお袋が宮崎から来たんですよ。ある朝、お袋がリンゴ擦って俺のロードワークから帰って来るの待ってて飲ませてくれた後、『今度負けたら私も関門海峡渡れんよ!』と言われて、いや~、これはあんまり攻めてばかりではマズいな。パンチでもいいから勝たなきゃいけないな。という気持ちになってのあの試合でした。」

「勝つ為の試合。皆、勝つ為にリング上がっているけど、どうしても勝たなきゃいかん試合ってあるんですよ。それがヒットアンドアウェイという戦法。俺は本来ああゆう性格じゃないよ。アグレッシブにダァーっといく、そういう性格だから!」
そのアグレッシブさが出たのは最終第5ラウンド、蹴りからパンチ、ヒザ蹴りで稲毛を下がらせ、2-0の僅差ながら王座奪還した。KO負けをKO勝ちで返す、ファンの期待は叶わなかったが、何はともあれ苦節一年、逆境を乗り越えることが出来た。

◆沢村忠さんから託されたもの

「沢村さんから一回だけ褒められたことがある。
『富山くん、前から飛び上がって蹴るのも大変だが、キミはよく一回転して蹴れるな!』
これは沢村さんが俺を認めてくれた言葉だった。」

「その沢村さんから、現役最後の試合の後に譲り受けたものがあるんです。それは沢村さんが巻いていたチャンピオンベルト。『あとは頼むよ!』と、その意味は重く、それがメインイベンターを任された証だったんです!」

チューチャイ・ルークパンチャマを飛び後ろ蹴りでノックアウトして、TBSトップの森忠大さんに「やっと沢村を越えたな!」と言われてまずは第一歩目の責任を果たせた想い、スポーツニッポンのベテラン記者(布施さん)氏には、「富山くん、あなたの得意技は後ろ蹴りだから、ずっとやりなさい!」と励まされたのも自信に繋がった言葉だったという感謝の念は絶えない。

ここから更に日米対決へ新たなチャンピオンロードがあったが、後々TBS放送が打ち切られて、全国ネットから外れた時代に移った。

テレビで観れなくなって富山さんはその後どうなったか気になっていた全国の視聴者は多い。その後、主要ビッグマッチはテレビ朝日系に移ってからの日米大決戦だった。

「WKBA世界戦に至るまでは、もう闘争本能は無くなりつつあったな。メインイベンターとして戦い続けていたけど、ずっと維持するのは無理。30歳過ぎると気力も無くなっていく。野口修社長に「沢村忠が担った東洋王座から、富山は世界を担え!」と期待された世界戦で、沢村さんからの「あとは頼むよ!」とチャンピンベルトに託された責任があって精一杯頑張ったけど力及ばず、世界ベルトには手が届かなかった。」と、もう2年早く挑戦できていればと無念さは残る。

[左]1983年11月12日引退試合プログラム、関係者の語りが熱かった。[右]引退セレモニーでの語り「全国のキックボクシングファンの皆様……!」から始まった全国目線の語り口

引退試合、対戦者ロッキー藤丸に労われる

「がんがん石」新宿店の看板。綺麗なお店だったが、キック関係のオブジェは無かった

引退後はスパゲッティ屋「がんがん石」の継続と後援会などの支援で不動産業に進出したが、ビジネスでは上手くいったりいかなかったりでも、困った時は必ず助けてくれる兄弟とも言うべき仲間が居たという。

「私は自衛隊での上司の導きから始まって、沢村忠さんとの出会い、花形満戦があったように、いろいろな人に恵まれて今があると思います。」

「人間は心臓一つしか無いんだから。二つも三つもある訳じゃないから。死ぬときは一回のみ。悔いの無い日々を送って、その日その日の一日を乗り切ればいいんです。ジタバタしない。何があっても今日一日は乗り切る。そう思って頑張れば必ず奇跡は起こるといつも思っていますよ!」

現在、計画していることは「目黒ジムは何とか復活させたいんです!」という野望。

近年のキックボクシングの在り方について意見を求めると、
「今時の3回戦制なんて誰が決めたのか知らんが、あんなもん試合じゃないよ。アマチュアだね。プロ格闘技の意味が無いよ。キックボクシングは初期からの規定どおり3分の5回戦でやらなきゃ。復活しなきゃ面白くない。誰かが戻さなきゃ駄目ですよ!」

世間では忘れ去られようとしている昭和のキックボクシング。富山勝治さんが奇跡を起こすしかないかもしれない。

富山勝治さんの語り口はこれだけでは収まらない展開でした。

現役時代は理髪店には三日に一回。現在は毎日御自身で整髪、鏡越しにハサミでカットするとか。現在もプロ意識を持った語り口には感謝でした。またお会いする機会があれば諸々お尋ねしたいと思います。

TBSでは名コンビだった二人。「具志堅くんは今でも俺を立ててくれる、感謝を忘れない男ですよ」

今年9月24日の最新画像、藤原敏男さんと増沢潔さんと並ぶ、50年前に観たかったカードである

富山勝治さんが語る沢村忠さんとの出会い、花形満戦の想いは、舟木昭太郎トークショーに於いて語られた、2019年5月12日掲載、「元・東洋ウェルター級チャンピオン、富山勝治さん現る!」を御参照ください。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年11月号