言論について考えると、答えが見つかりにくい問題が色々あることに気づく。しかし、それらの多くは「戦争」あるいは「冤罪」を念頭において考えると、わりとあっさりと答えが見つかることだ。

たとえば、事件報道において、逮捕された被疑者の実名を報じることの是非について。被疑者は実名を報道されると、「逮捕された」「犯罪の嫌疑をかけられた」という不名誉な情報が社会に広まり、大きな不利益を被る恐れがある。

だが、「冤罪」を念頭に考えると、やはり逮捕された被疑者の実名は報道されないといけないとわかる。なぜなら、事件と無関係の第三者は、被疑者の実名がわからなければ、起訴された場合に裁判を傍聴できないし、不起訴になった場合に本人のもとを訪ね、事実関係を確認することもできないからだ。

これはつまり、被疑者の実名が捜査当局によって伏せられると、報道関係者などの第三者が被疑者が冤罪である可能性を検証することが著しく困難になるということだ。

では、犯罪被害者を傷つけるような報道、いわゆるセカンドレイプにあたるような報道の是非についてはどうか。セカンドレイプは絶対にあってはいけないことであるように言われがちだが、「冤罪」を念頭に考えると、そうとは言い切れないことがわかる。

たとえば、痴漢や強姦など性犯罪の多くは、被疑者が無実を訴えた場合、被害を訴える女性の証言の信用性が有罪・無罪を分ける重要なポイントになる。つまり、あらゆる犯罪被害者の中でも、もっとも扱いを慎重にせねばならないと言われがちな性犯罪被害者については、むしろその証言の信用性が慎重に検証されなければならない。そうすれば、性犯罪被害者をセカンドレイプ被害に遭わせることは不可避だが、それもやむをえないということだ。

そして最後に、どんなに劣悪な表現についても、表現の自由が保障されなければいけないのか否かについて。漫画やアニメの過激な性表現などに関し、この問題はしばしば議論されるが、これも「戦争」を念頭において考えると、すぐに答えが出る。

かつて戦時下において、日本国民の大多数が財産はもちろん、生命すらも国に捧げ、戦争に勝つために努力している中、「この戦争は間違っている」とか「こんな戦争は早くやめるべきだ」などと声をあげるような言論は、これ以上ないほど「劣悪な表現」だった。そういうこと言う者は「非国民」と呼ばれ、どんな制裁を受けても仕方がない者だとされていた。

よって、どんなに劣悪な表現でも、表現の自由が保障されなければいけないのは当然のことだ。

◎片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。YouTubeで『片岡健のチャンネル』を配信中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

言論について、突き詰めて考えると、世の中に存在するすべてのものに存在意義が認められることに気づく。というより、絶対的に悪とみられがちなものについても、むしろ存在意義を否定するのは難しい。

たとえば、「いじめ」。学校で「いじめ」に遭っていた子供や、大人社会の「いじめ」である上司のパワハラに遭っていた会社員が自殺したというニュースを目にしたら、たいていの人は怒りに震えるだろう。私自身もそうだ。「いじめ」とは、絶対悪であるというのが一般的な道徳感だ。

だが、言論について深く考えると、「いじめ」にも存在意義を認めざるをえない。なぜなら、「いじめ」は、言論の権力監視効果を支えるものの1つであるからだ。

実例を挙げると、10年ほど前に社会の注目を集めた郵便不正事件をめぐる大阪地検特捜部検事の証拠改ざん事件。当時、この検事の犯罪行為が朝日新聞の一面でスクープされると、検察の上層部は大慌てで当該検事を逮捕し、さらにその上司たちまで捜査対象にしたうえで逮捕に踏み切った。

検察の上層部があのような態度をとったのは、朝日新聞の報道をうけ、証拠改ざんという身内の犯罪行為を放置できないと考えたからではない。朝日新聞の影響力を恐れたからである。すなわち、彼らは朝日新聞の報道をうけ、自分たちの立場が危うくなるばかりか、ひいては自分たちの家族も近隣の人から「いじめ」に遭うなどの被害を受けることを想像し、それを回避しようとしたのである。

仮にあの大阪地検特捜部検事の証拠改ざんを報じたのが、朝日新聞ほど影響力のない小さなメディアであれば、検察の上層部は当該検事をあのように大慌てで逮捕したり、上司たちを捜査対象にすることはなかったろう。実際、私はこれまで、同程度以上の検察の不祥事をいくつも見てきたが、検察はあの程度の不祥事であれば、大手の報道機関に大きく報道されない限り、平気で放置しておくのが一般的だ。

こうして考えると、新聞やテレビ、週刊誌などで目にした報道について、もれなく鵜呑みにし、脊髄反射的に怒りの声をあげる人々、すなわち「メディアリテラシーの低い人」たちにも存在意義が認められることがわかる。そういう人たちが相当数存在しなければ、権力者たちにとって報道機関は何ら恐れる相手ではなくなり、すなわち、報道の権力監視効果は極めて乏しいものになってしまうからだ。

言論について、突き詰めて考えると、そもそも言論とは決して美しいものではないこともわかる。

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▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。YouTubeで『片岡健のチャンネル』を配信中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

テレビから引っ張りだこだったアメリカの有名大学准教授の男性が、「(高齢者は)集団自決みたいなことをすればいいんじゃないか」という発言により炎上し、この男性がテレビに出るたびにネット上で「テレビに出すな」という声が渦巻く事態となっている。この騒動には、実は言論の本質がよく現れている。

この騒動を深掘りして考えるうえで、まず踏まえておかねばならないのは、そもそも、テレビで高齢者をいじったり、貶めたりする発言は「笑いを取る手法の1つ」として社会に許容されてきたということだ。

最たる例は、世界的な映画監督としても知られる大物芸人だろう。この大物芸人が80年代、「赤信号 バァさん 盾にわたりましょう」などと高齢者を徹底的にこき下ろしたギャグにより一時代を築いたことは、筆者と同じ50代以上の年齢の人ならたいていご記憶のはずである。

また、「ジジイ」「ババア」という毒舌トークで人気を集めたウルトラマンシリーズ出演俳優や、舞台では中高年をいじって笑いをとり、著書も次々に上梓してきた毒舌漫談家なども長く人気者であり続けてきた。この現実に照らせば、「高齢者が集団自決」程度の発言が今さら物議を醸すのは、バランス的におかしい。

だが、こうした「毒舌お笑い市場」の現況をよく見ると、はたと気づくことがある。高齢者をいじるなど不謹慎なことや、反教育的なことを言って笑いをとるのは、かつては芸人の独断場だった。しかし現在、そのようなやり方で笑いをとる芸人はテレビでほとんど見かけなくなっているのである。

現在、テレビで物議を醸す発言をして炎上するのは、もっぱら弁護士や小説家、元IT起業家、インターネット上の巨大掲示板の創設者、国際政治学者など、テレビが本業でない人ばかりだ。「集団自決」発言で物議を醸したアメリカの有名大学の准教授の男性もまたしかりである。

つまり現在、テレビで物議を醸す発言ができるのは、テレビに出ることが本業の人ではなく、テレビは副業や趣味、遊びで出ている人だということだ。芸人のようにテレビに出ることが本業もしくは主要な収入源である人は、コンプライアンスが厳しい現在、テレビで物議を醸す発言はできないわけである。

この事実が示しているのは、要するにテレビに出るなどして発信力を持ち、自分の言いたいことを言おうと思えば、言論以外の活動で生きていける経済力が必要だということだ。言論自体で生計をたてようと思えば、生活の糧を失わないようにするために言論が委縮せざるをえないからである。

本気で言論活動をするなら、まず経済力を整えないといけない。「集団自決」発言で炎上し、テレビに出るたびにネット上で多くの人に批判されながら、何事もなかったようにテレビに出続けるアメリカの有名大学の准教授の男性の存在がそのことをはからずも証明している。

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▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

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少年事件では、テレビ、新聞は通常、更生を目的とした少年法の趣旨を尊重し、被疑者の少年を匿名で報道する。ただ、例外的に裁判で死刑判決が確定した犯行時少年の被告人については、裁判が終結した段階で実名報道に変える社と匿名報道を維持する社にわかれる。

この際、前者は「死刑が確定することで更生、社会復帰に配慮する必要がなくなった」、後者は「今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れない」という具合にそれぞれ判断の根拠を表明するのが恒例だ。また、日弁連の会長や大学教授らの「有識者」も、一部報道機関が犯行時少年の被告人について死刑確定と共に実名報道したことに何らかの見解を表明するのが常だ。

だが、私はいつも繰り返されるこの光景をみていて、賛同できる意見に出会えたことがない。なぜなら、テレビ、新聞、有識者たちのいずれもが、死刑確定した犯行時少年の被告人本人にとって実名報道されることには不利益しかないと思い込み、それを前提に意見を述べているからだ。

実際には、犯行時の年齢に関係なく死刑囚にとって、実名報道されることに利益がないわけではない

たとえば、死刑囚は外部交通が厳しく制限され、親族や弁護人など一部の特別な人以外の人とは面会や手紙のやりとりができない。しかし、死刑囚に対しても、「本人の実名」と「収容先の刑事施設」が特定できれば、金品や切手などの差し入れは誰でも可能だ。収容施設内に売店があれば、飲食物も差し入れできる。死刑囚も実名が広く社会に知られていれば、こういう利益を受けられる可能性も高まるわけだ。

こんな話をすると、「死刑囚の実名がわかっても、差し入れなんかしたいと思う人間はそんなにいないだろう」と反論したくなる人もいるかもしれないが、その認識は正しくない。実際には、死刑囚になるような人に対し、判官びいき的な思いを抱き、あれこれと面倒をみてあげようとする人は決して少なくない。それは、とくに少年事件の場合に顕著だ。

その象徴的な事例が、男性4人を銃殺した永山則夫元死刑囚や、女性2人を強姦して殺害した小松川事件の李珍宇元死刑囚のケースだ。この2人は犯行時に少年でありながら死刑囚となったが、裁判中から(つまり、死刑確定前から)有名無名の多くの人に同情され、支援されていた。そんな2人に共通するのが、少年事件としては例外的に逮捕当初からメディアで実名も容貌も報道されていたことだ。

この2人はいずれも不遇な生育歴に同情が集まったが、彼らと一面識もない人はいくら彼らに同情しても、「本人の実名」がわからなければ、彼らに手紙を出したり、面会に訪ねたりすることはできない。彼らの実名が報道されていなければ、支援の輪は広がりにくかったはずだ。

私自身は死刑囚については、犯行時に少年だったか否かにかかわらず、原則、実名で報道すべきだという考えだ。国家に生きる権利を否定された人について、匿名で記号のように伝えるのはおかしいように思うからだ。いずれにしても、犯行時少年の死刑囚を実名で報じるべきか否かを考える際には、本人にとって実名報道には不利益しかないという前提が本当に成立しているか否かをまず疑ってみるべきだ。

※著者のメールアドレスはkataken@able.ocn.ne.jpです。本記事に異論・反論がある方は著者まで直接ご連絡ください。

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月刊『紙の爆弾』2023年3月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

大事なことの多くは、すでに小学生の頃に学校で教わっているように思うことがある。たとえば、犯罪報道をめぐって長年議論になってきた「被疑者の実名を報じるべきか否か」という問題についても、実は小学生の頃に社会の授業で教わった戦中の小林多喜二拷問死事件で答えが示されている。

プロレタリア文学の旗手と言われた多喜二は1933年2月、特高警察に逮捕され、築地署内で死亡した。特攻警察は当時、多喜二が亡くなった原因を「心臓麻痺」だと発表したが、本当は苛烈な拷問をうけたために死んだのだということは、今では誰もが知っている。そして、このような事件が起きたのは、官憲に批判的な小説を発表するなどしていた多喜二が特高警察に憎悪されていたからだというのが定説だ。

とまあ、この程度のことはたいていの人が小学校の社会の授業で習って知っているはずだ。しかし、少し深掘りして考えると、この事件は、被疑者の実名を報道することに意義があることを示した事例だとわかる。仮に多喜二が当時、実名報道されておらず、「どこの誰だかわからない人が特高警察に逮捕され、亡くなった」という程度でしか事件が世に知られていなければ、この事件はさして社会の関心を集めず、すぐに忘れ去られただろうと考えられるからだ。

実際には、この事件で被疑者として逮捕され、獄中で亡くなった人物は「官憲に批判的な小説を発表するなどしていた小林多喜二」であることが実名報道により社会に周知されている。だからこそ、90年経った今も事件を知る人の誰もが「多喜二が心臓麻痺で死んだという特高警察の発表は嘘だ」「特高警察は多喜二の言論活動を憎悪し、拷問により殺したのだ」と認識できているのである。

こうしてこの事件をもとに考えてみると、被疑者の実名を報道することには、権力による言論弾圧を未然に防いだり、未然に防げなくても記録として後世に伝えることを可能にするという意義があると認められるだろう。

こういう話を聞き、「戦中や戦前ならともかく、今は小林多喜二の拷問死事件のようなことは起きないだろう」と思う人もいそうだが、たしかにそうかもしれない。しかし、そもそも、今、小林多喜二の拷問死事件のようなことが起きないのは、事件当時に被疑者の小林多喜二が実名報道されたことにより、多喜二が死んだ原因が「特高警察による拷問」だったことが現在まで語り継がれているおかげだと思う。

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被疑者や被告人は裁判で有罪が確定するまで無罪として扱わないといけないという「無罪推定の原則」については、人権問題の「有識者」たちは絶対的に遵守すべきものであるように言いがちだ。しかし実際には、むしろ被疑者・被告人の人権を守るために「無罪推定の原則」を無視すべきケースが少なくない。それは私がこれまで事件関係の取材や執筆を行ってきた経験上、断言できることである。

たとえば、冤罪事件に関する報道では、捜査官による証拠捏造や取り調べ中の暴力を告発しなければならない場合がある。これは、捜査の過程で犯罪を行った捜査官が裁判を受けてすらいないのに、有罪扱いすることに他ならない。

さらに冤罪報道では、検察側の証人や被害者とされている人物について、偽証や虚偽告訴の疑いを指摘せざるえない場合も少なくない。これも私人を有罪扱いした報道だと言える。

また、冤罪の疑いはまったくなくとも、罪を犯した経緯に同情すべき余地がある被疑者・被告人は少なくない。歴史的に有名な事件から1つ例を挙げると、刑法から「尊属殺人罪」がなくすきっかけになった1968年の「栃木実父殺害事件」がそうだ。

この事件の犯人の女性が実父を殺害した背景には、少女時代から実父の近親相姦により5人の子供を出産し、大人になっても実父から暴力により夫婦同然の強いられていたという事情があったとされる。そのような同情すべき特段の事情を社会に伝えるためには、前提としてこの女性が実父を殺した容疑について有罪扱いすることが不可欠だ。

実際、女性は最高裁で執行猶予付きの有罪判決(懲役2年6月)を受けて確定したが、裁判中から女性を有罪扱いしたうえで、実父を殺害した同情すべき事情が報じられていた。このような報道について、「無罪推定の原則」に反していることを理由に批判する人はあまりいないだろう。

さらに最近の事例でいえば、安部晋三元首相を銃殺した山上徹也被告も裁判前から有罪扱いされたことにより人権が守られているケースだと言える。山上被告は重大事件の犯人としては、かつてないほど多くの人に同情され、一部で減刑を求める運動まで行われているが、これもひとえに山上被告を有罪扱いし、統一教会により人生をボロボロにされたことが犯行動機であることを伝えた報道の影響だからだ。

このケースでメディアが「無罪推定の原則」を遵守していたら、山上被告が犯行に至った経緯に統一教会の問題があることには当然触れられないから、今のように山上被告への同情が巻き起こることはなかったろう。
         
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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

昨年、映画界や芸能界を舞台に相次いだ性被害の告発には、1つの傾向が見て取れた。それは、性加害を告発された男性たちが、人間的に立派だと評価されるような活動をしていた最中にあったことである。

たとえば、『蜜月』という映画の監督は、性被害をテーマにしたこの作品の公開に先立ち、制作に真摯に取り組んだかのようなメッセージを公に向けて発信していた。ところが、この作品の公開直前、女優たちから次々に性加害を告発され、作品も上映中止に追い込まれた。

また、「名脇役」と呼ばれた俳優は近年、献血や骨髄バンクの啓発に関わるような公的な仕事をして、人間的な評価が高まっていた。そんな中、相次いで女優たちから性加害を告発され、活動を休止せざるをえなくなった。

さらに12月には、福島第一原発事故を題材にした新作を公演するはずだった劇作家が、公演直前に劇団の女優から性加害を告発されたうえ、裁判も起こされ、公演は中止となった。この劇作家もこの少し前、福島の双葉町に移住するなど原発問題への意識の高さをアピールしていた。

さて、これらの事例を挙げ、私が何を言いたいかというと、性被害者にとって、性加害者が人間的に立派だと評価を受けているのを見聞きすることは、セカンドレイプ的な言葉を浴びせられる以上に苦痛であり、憎悪や怒りの感情を抑え切れないのだろうということだ。だからこそ、そういうタイミングで彼女たちは沈黙を破り、性加害の告発に踏み切ったのではないかと思うのだ。

これはおそらく、性被害に遭ったことが無い人でも共有できる感覚だと思う。人間誰しも生きていれば、いじめやパワハラ、セクハラなど、特定の人物から何らかの理不尽な被害に遭うことはあるからだ。かくいう私も以前、ある人物から凄まじいパワハラに遭ったことがあるが、その人物が今もたまに人前で自分が立派な人間であるかのようなことを臆面もなく話しているのを見ると、怒りがぶり返してくるのを禁じ得ない。

こう考えてみると、公の場で特定の人物を立派な人間であるかのように褒めたり、好意的に評価するようなことを言ったりしただけでも、セカンドレイプ的な過ちを犯している可能性があるわけだ。褒めたり、好意的な評価をしたりした人物から理不尽な目に遭わされた被害者がどこかで見ているかもしれないからだ。

さらに突き詰めると、特定の誰かの幸せを祝福したり、特定の誰かと冗談を言って笑い合ったりしただけでも、セカンドレイプにあたる恐れはあるだろう。その「特定の誰か」から何らかのハラスメントに遭った被害者が存在すれば、その被害者はその「特定の誰か」が幸せそうにしていたり、楽しそうにしていたりする光景を目にしただけで苦痛を覚えることもありえるからだ。

結局、セカンドレイプ的な過ちを犯したくなければ、公の場で何も発言せず、誰とも関わらないくらいしか方法はおそらく無い。それがつまり、他者のセカンドレイプ的な言動について、何の迷いもなくセカンドレイプだと批判するような正義感の強い人たちこそ自戒する必要があると私が考える理由である。

◎[過去記事リンク]片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

個別具体的な冤罪事件について、冤罪であることをしっかり伝える記事を書こうと思えば、当事者に対するセカンドレイプ的なことも書かざるをえない場合が多い。こんな話をすると、被害を訴える女性の事実誤認で生まれることが多いと言われる痴漢冤罪を思い浮かべる人が多そうだが、私の経験では、何より殺人事件にそういうケースが多い。

◆被害女性が売春をしていたことが冤罪報道に欠かせなかった東電OL事件

たとえば、無期懲役刑に服した無実のネパール人男性が2012年に再審で無罪判決を受けた東電OL殺害事件(発生は1997年)はその最たる例だ。

副業で売春をしていた東京電力の会社員の女性が、副業の接客に使っていた渋谷の賃貸アパートの一室で他殺体となって見つかったこの事件では、様々なメディアが競うように女性のプライバシーを暴き立てた。そのため、被害者へのセカンドレイプ的な報道が行われた顕著な事例として語り継がれている。

だが一方、ネパール人男性が犯人と誤認された原因は、現場アパートの一室で被害女性を買春し、使用済みのコンドームを残していたことだった。そのため、男性が冤罪であることを伝える報道をしようと思えば、被害女性が副業で売春をしており、現場の部屋は接客用に使っていたという事実を前提として伝えることが欠かせなかった。

また、2016年に再審で無罪判決が出た東住吉女児焼死事件(発生は1995年)も同様のケースだ。民家の火災で小学生の女の子が焼死したこの事件で、母親と内縁の夫の2人が保険金目的の放火殺人を行ったと誤認され、無期懲役判決を受けた原因の1つは、女の子の遺体に内縁の夫から性被害を受けた痕跡があったことだった。つまり、冤罪の原因をしっかり報道するには、まだ小学生だった女の子の性被害の情報まで伝える必要があるわけだ。

◆冤罪被害者を傷つけかねない情報が冤罪報道に欠かせない場合も……

一方、2020年に再審で無罪判決が出た湖東記念病院事件(発生は2003年)は、冤罪であることを報道するために冤罪被害者を傷つけかねない情報を伝える必要があったケースだ。看護助手をしていた冤罪被害者の女性は、入院患者の男性が病気など何らかの事情で亡くなったことについて、「人工呼吸器のチューブを外して殺害した」という虚偽の自白をし、懲役12年の判決を受けたが、虚偽の自白をした原因は取り調べ担当の男性刑事に恋心を寄せたことだった。

実は他ならぬ私自身が、この事件の再審が始まる前、女性が虚偽の自白をした原因が上記のようなことだと言及する記事を某ネットメディアで書いたところ、コメント欄に女性を誹謗する声が多数寄せられる想定外の事態となった。女性はそのことで私を悪くは言わなかったが、私は自分自身がセカンドレイプの原因にったように思え、しばらく心が重たかった。

このほかにも、殺人の冤罪には、当事者に対するセカンドレイプ的な情報も伝えなければ冤罪だと説明できない事件は枚挙にいとまがない。それに加え、私は自分自身が上記の湖東記念病院事件のような苦い経験があるため、セカンドレイプ的な内容に批判が集まる事件報道を見ても、無下に否定できないでる。

◎[過去記事リンク]片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

現在の日本の事件報道では、被疑者は逮捕された時から実名で報道される。その後、被疑者が起訴されずに釈放された場合は匿名で報道されるが、起訴されて「被告人」になった場合は実名で報道され続ける。このような被疑者・被告人の実名報道については、人権侵害だからやめるべきだという意見は根強い。

実際、私も重大事件の容疑で逮捕された人やその家族が、実名報道により大変な目に遭った実例にたくさん接してきたので、そういう意見は否定しがたい。が、これまでの取材経験を通じ、そういう報道被害の問題を踏まえてもなお、被疑者・被告人は原則、実名報道せざるをえないと考えるに至っている。被疑者・被告人の実名がわからなければ、事件を客観的に検証することがより困難になるからだ。

たとえば、冤罪の疑いがある事件の取材をするのに、被疑者・被告人の実名は不可欠な情報だ。裁判を取材するにしても、被告人の名前を知らなければ、裁判所に公判の日時を問い合わせることもできないからだ。

また、刑事施設に収容された被疑者・被告人に手紙を書いたり、面会に行ったりするのも被疑者・被告人の実名を知らなければ叶わない。これはすなわち、被疑者・被告人の実名を知らなければ、被疑者・被告人本人から直接、言い分を聞くこともできないということだ。

捜査機関が誰かを逮捕し、その実名を公表する場合、公表先は通常、記者クラブに所属している報道機関だ。したがって、記者クラブ加盟社が被疑者の実名を報じなくても、記者クラブ加盟社自身が捜査機関のすることを充分に監視できれば、実名報道の必要はないと言えるかもしれない。

しかし、記者クラブ加盟社は捜査機関から様々な便宜を供与されているのに加え、そもそも、記者クラブ加盟社自身も常に完璧な報道ができるわけでもない。そう考えると、記者クラブ加盟社の報道を事後的に検証できる可能性を高めるためにも、記者クラブ加盟社に被疑者・被告人の実名を報道してもらわざるをえない。

要するに、刃物について、「人を傷つける道具になる」という理由でこの世から無くすわけにはいかないように、被疑者・被告人の実名報道も「被疑者・被告人の人権を侵害する」という理由で完全に否定することはできないということだ。実際にいくつか、世間の誰も冤罪だと気づいていないような冤罪事件の取材をしてみれば、それは理解できることである。

◎[過去記事リンク]片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

私はこれまで様々な事件や裁判、冤罪などを取材してきて、巷で流布する「言論に関する言論」を空論のように感じ、釈然としないことが少なからずあった。そこで、この場で個人的な経験に基づく個人的な「言論」論を開陳させて頂くことにした。広く共感を得るのは難しそうなことや、反感を買いそうなことも忌憚なく述べていきたいと思うので、異論・反論も遠慮なくお寄せ頂きたい。

◆「我々は暴力に屈しない。言論の自由を守る」と声高に宣言する人に嫌悪感を覚える理由

「暴力で“言論”を封じることはあってはならない」

報道機関や著名な言論人、政治家に対し、殺害予告などの暴力的な脅かしがなされたり、実際に暴力による攻撃が行われたりすると、こういうことを言う人が必ずあちこちに現れる。とくに新聞は紙面において、判で押したようにこのような意見を表明するのが常である。

たとえば最近だと、安倍晋三元首相が選挙演説中に銃殺された時がそうだった。毎年、朝日新聞阪神支局襲撃事件(発生は1987年)が起きた5月3日になると、社員である記者を射殺された朝日新聞はもちろん、他の新聞もこのような意見を表明するのが恒例だ。

私も暴力で“言論”を封じようとすることが悪いことだという意見に対しては、とくに異論はない。だが、新聞をはじめとする報道機関の人たちが、我こそは正義とばかりに「我々は暴力に屈しない。言論の自由を守る」などと声高に宣言する様子を目にすると、いつも嫌悪感を覚えずにいられない。

私には、そういう人たちは報道機関の報道が言論であると同時に「暴力の一種」であるという認識が欠如しているとしか思えないからだ。

私はこれまで、新聞をはじめとする報道機関の報道により回復不能の被害を受けた人たちを数えきれないほど見てきた。しかも、そういう報道が実際は誤報だった場合も、謝罪はもちろん訂正すらされずに放置されていることがほとんどだった。さらにそういう報道をした記者個人に取材を申し入れても、「個人では、取材を受けられないので、取材は会社の広報部に申し入れてくれ」と逃げてしまうのだ。

自分は会社に守られつつ、他者に対して、会社の力を使って言論という名の暴力をふるう。一方で、暴力で言論を封じようとする者を他人事のように批判するのは、どう考えても辻褄が合っていない。

私は、立派ではない人間が立派なことを言ってはいけないと思っているわけではない。私自身もまったく立派な人間ではないからだ。しかし、普段何らかの言論活動を行っている人間は、言論は「暴力の一種」である認識を常に心の片隅に置いておくべきだと思う。その認識が欠如しているように感じれる人の言葉は、まったく説得力を感じない。

◎[過去記事リンク]片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

※著者のメールアドレスはkataken@able.ocn.ne.jpです。本記事に異論・反論がある方は著者まで直接ご連絡ください。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

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