◆捨て切れない情熱

諸々角界を賑わせたが功績大きい朝青龍氏と具志堅用高氏はV13を果たした人(2009年10月20日)

近年、引退する選手も居れば、ブランクを経て再起する選手も居て、負け続けてランクが下がっても戦い続ける選手が居たり、50歳を超えてデビューしたり、何度も復帰したり、昔から見れば考えられないような選手層が存在するプロのキックボクシング競技である。

昔のプロボクシングやキックボクシングでは、頂点を極め、年齢も30歳を超えた上で王座陥落すると、引退濃厚となる場合がほとんどだった。

そこで引退を宣言していなくても、ある程度ブランクを作れば引退同様とした空気が流れる。しかしそこから再起する場合、「俺はまだ終わっていない!」「まだ若い者には負けない!」といったそんな想いは叶わず、無残に散っていくベテランは多かった。

二度奇跡の奪還で日本中に感動を呼んだ輪島功一氏とキックの伝説の人、藤本勲氏(2009年10月20日)

◆待ち構える現実

プロボクシングでは頂点を極めた選手が、ランクがどんどん下がっても延々と戦える競技ではないが、今も現役を貫く辰吉丈一郎がいる。2008年には最終試合から5年経過。規定によりJBCに引退扱いとされて以降、自身にとっての日本での輝かしい世界奪還は叶わぬ夢となった。

すでに30歳を超えてから世界王座陥落し、奇跡と言われた返り咲きを2度果たし、陥落の度に引退を勧められながら勝機ある自身を信じ、再起した輪島功一。思うように動けなかったのが最後の挑戦でのエディ・ガソ戦で、最後は無様な姿を晒すことになった。栄光のチャンピオンの多くが経験した最後に迎える厳しい現実だった。

復帰戦で若い嵯峨収に苦戦した松本聖氏(右)だが、伝統目黒の強くて上手いチャンピオンだった(1985年9月21日)

タイでも名声を轟かせる功績を残した藤原敏男氏、現在も有名(1983年6月17日)

キックボクシングが低迷期から再び軌道に乗り出した1985年、元・東洋フェザー級チャンピオンだった松本聖が再起に乗り出し2年ぶりのリングに上がると、かつての名チャンピオンのオーラは衰えぬも、若いランカーに苦戦の引分けに終わった。たかが2年でも、それまでと違った業界の上向きで選手が活気を増した時代に差し掛かった時期だった。

元・ムエタイ殿堂チャンピオンの藤原敏男も引退から4年半経った頃、かつての後輩のじれったい試合を見て、リング上で復帰宣言したことがあった。業界を後押ししたい想いがあったのだろう。実現しなかったが、すでにテンカウントゴングに送られた立場、周囲の意向があったと思われる。

自分たちの時代に無かったK-1やRIZIN、KNOCK OUTなどの地上波全国ネット放送される場合もある大舞台で、「俺も戦いたかった!」と思う元・キックボクサーは当然ながら多く存在する。

WBCムエタイで、インターナショナル王座まで駆け上がったテヨン(=中川勝志/キング)は、2016年7月の試合を最後に眼疾患の影響で現役を退いたが、治療の成果で回復し、かつて自身が倒した相手が「KNOCK OUT」に出場している姿を見て、「俺もあのリングで戦いたい!」と復帰が頭を過ぎったという。

選手としての気持ちは捨てきれない当時24歳という若さがあったが、仕事や妻子ある家庭のこと、任されているジム運営を考え、後も一般社会人として全うすることに専念している様子。テヨンの場合は自ら心のブレーキを掛けるというパターンであった。

◆強制執行

テヨンの最後の試合となったインターナショナル王座獲得も返上、これも運命の選択肢(2016年7月23日)

大相撲は言うまでもないが、現在の規定では引退(廃業含む)したら復帰はできない。

プロボクシングは引退後の復帰は可能だが、規定のライセンス取得と、プロモーターに必要とされる存在でなければ試合を組んで貰えない厳しさがある。

過去に幾つかあった、引退テンカウントゴングに送られた元・選手が数年後に復帰した例があるが、観衆の前でテンカウントゴングに送られてからの復帰は疑問視され易いだろう。

ならば引退テンカウントゴングはやらなければ復帰は問題無いとなってしまうが、辰吉丈一郎と同様に、年齢制限と最終試合から5年経過で引退扱いとする区切りは必要だろう。

しかしそれは確立したプロボクシングだからこそ出来るJBCルールであり、団体乱立の上、制約の無いフリーのプロモーションでやっていく方が楽とも言えるキックボクシングでは徹底は難しい。

ある元・チャンピオンの言葉だが、「引退式は結婚式に共通する部分、それはどちらも新たな人生の出発点である!」という。

「結婚式に高い御祝儀出したのに1年足らずで離婚とは何事だ!」と招待客が嘆く有名芸能人の離婚と、キックボクサーの復帰は比較にならないが、盛大に引退セレモニーが行われる名選手の後援会等から贈られる御祝儀はそこそこ高額になるようで、「復帰してもう一回引退式やりたいな!」と冗談を言われたが、引退テンカウントゴングは常識的には一度のみだろう(勇退や追悼は別物)。

◆花の命は短くて

かつての隆盛を極めた1990年代までのムエタイは「花の命は短くて」と言われるほどチャンピオンの座に居られる時間は短かった。それは地方から次々と若い素質有る選手がバンコクへ押し寄せ、選りすぐりの中から勝ち上がった者が挑んでくる勢いが延々止まないことで、若くしてのベテランはどんどん第一線級から脱落していった。

日本はそんな勢力は無い競技人口の中、現役を退いた選手の中にも「復帰する気は無いが、しようと思えば出来るなあ!」と、現役時代より体調がいいと思ったという選手も多い。

だがそれは、「強かった頃の己だけの時間が止まっている錯覚だ!」という声も聞かれた。現役の引き際は納得いく形でカッコよく去ることは難しい。飛鳥信也氏のように、その時対戦可能な最強の相手にブッ倒されての完全燃焼がいちばんカッコいいかもしれない。

6月19日、引退試合を勝利で締め括った後、引退テンカウントゴングに送られたばかりの北川ハチマキ和裕(2021年6月19日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆キックの貴公子

選手コールを受ける松本聖(イメージ画像)

松本聖(まつもとさとる/1953年12月16日、鳥取県出身/目黒)は沢村忠、富山勝治に次ぐ、日本キックボクシング協会系最後のエース格に上り詰めた選手だ。

スロースターターで独自の悲壮感を漂わせながら、忍耐と強打で勝利を導き、後々語り継がれる多くの名勝負を残した。

1972年(昭和47年)春、鳥取県の地元の高校を卒業するとすぐに上京。

キックの名門、憧れの聖地だった目黒ジムに入門した。

当時は入門者が後を絶たない中でジムは溢れかえり、その中では松本聖は無口で社交性も無く、存在感は薄かったと藤本勲(当時トレーナー)氏が語る。

だが練習には毎日通い、受ける指導の素直さ根気強さで成長は早く、同年12月、19歳になってすぐデビュー戦を迎えた。

一見、弱々しくもパンチは強く、勝利を導く試合運びは上手かった。

色白の二枚目で女性ファンも増えたことは、すでにスター候補生だったと言うのは藤本氏。

テレビ放映ではTBSの石川顕アナウンサーから「キックの貴公子」と呼ばれ、更に存在感を増した。

ローキックでのKOも多い松本聖(イメージ画像)

◆松本頼み

デビューから勝ち進むとランキングはジワジワ上昇し、3年後には日本フェザー級1位に定着。チャンピオンは同門の大先輩・亀谷長保だった為、長らく待たされた王座挑戦は、1977年(昭和52年)1月3日、2度のノックダウンを奪われ判定負け。翌年も正月決戦で再挑戦。第1ラウンドに亀谷からパンチでノックダウンを奪うも第3ラウンドに逆転のKO負け。亀谷にブッ倒された衝撃は放送席に白目をむいての失神状態だった。

亀谷長保がライト級に転級後の同年10月、松本聖は日本フェザー級王座決定戦で、河原武司(横須賀中央)に判定勝利し、念願のチャンピオンとなったことで松本の役割はより重大となっていった。

翌年(1979年) 1月、野本健治(横須賀中央)を4ラウンドKOで破り初防衛後、10年半続いていたTBSテレビのゴールデンタイム放映は4月から深夜放送に移行し、そして打ち切りへと業界低迷期へ突入していく中、野口プロモーション・野口修氏は成長著しい松本を起死回生のビッグマッチに起用していった。

野口氏が東洋と日本王座活性化を図り、同年5月、松本は東洋フェザー級王座決定戦に出場。タイの現役ランカーのジョッキー・シットバンカイに圧倒される展開も、右ストレート一発で逆転KOし、日本から東洋への飛躍となった。


玉城荒次郎の勢いに苦戦も狙いすました右ストレートでKO(1983年1月7日)

赤コーナーに立つ姿も定着した松本聖(イメージ画像)

王座獲得後の7月30日、東洋チャンピオンとしてタイ国ラジャダムナンスタジアムに乗り込むと、当時のランカーでムエタイの英雄と言われた、パデッスック・ピサヌラチャンに左ミドルキックで圧倒され2ラウンドKO負け。パデッスックはこの年、タイのプミポン国王から直々にムエタイNo.1(最優秀選手)の称号を与えられるほどの名選手だった。本場で惨敗ではあるが、松本にとってキック人生最も栄誉ある経験を残した。

同年秋、キック黄金期へ再浮上を目指す初のトーナメント企画、500万円争奪オープントーナメントが中量級(63.0kg~58.0kg)枠で行なわれ、松本は初戦で亀谷長保と対戦。雪辱を果たすチャンスと見えた3度目の対戦は、立場逆転した勢いで圧倒的松本有利の声が多かった。しかし亀谷の意地のパンチの猛攻で松本は1ラウンドKO負け。結局松本は先輩亀谷には一度も勝てなかったが、下降線を辿ることなく、亀谷から勝ちへの貪欲さを学んでいった。

東洋王座はタイ人選手に2度防衛。1980年6月28日には樫尾茂(大拳)の挑戦も退けて3度防衛とここまでは短い試合間隔でのタイトル歴とビッグマッチを残していた。

ここからキック低迷期を上昇に導くチャンピオンの責任を背負って戦い続け、1982年(昭和57年)の1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級に出場し、苦戦しながらも決勝に進出。酒寄晃(渡辺)との事実上の国内フェザー級頂上決戦では、キック史上に残る名勝負を展開。第1ラウンドに3度のノックダウンを奪われながら、ひたすら反撃のチャンスを待ち、第5ラウンド逆転KOでフェザー級域国内最強の座を手に入れ、年間最高試合に値する激戦を残した。

業界はせっかくのオープントーナメントでの上昇気運も終了と共に再び沈静化に戻ってしまい、松本聖もスーツ姿で会場には姿を見せるが、燃え尽きたかのようにリングに上がることは無くなり、時代の変わり目に立った松本の活躍は見られなくなってしまった。

しぶとい小池忍にノックダウンを奪い返されつつ、圧倒の判定勝利(1983年2月5日)

◆強打の秘訣

松本聖の強打の特徴は手首のスナップにあった。中学時代から器械体操での鉄棒運動で自然と握力が強化されたという。当たる瞬間、手首のスナップを利かした衝撃が多くのKO勝利を生んだ。“スナップを利かせたパンチ”とは実際に他のパンチより効くのか素人には分からないが、当時、別団体のあるジム会長が「松本のパンチはこう打つんだよ!」と若い選手を見本に、アゴに軽く手首のスナップを利かせて打って見せてくれたことがあった。確かに松本氏のパンチは拳を小さく捻るという印象だった。

松本聖と対戦したうちの一人、玉城荒次郎(横須賀中央)氏は、試合の3ヶ月後に「ほんのこの前まで頭の奥が痛かったの取れなかったよ」と語っていた。

また野口ジムのトレーナーは、「松本の打ち方はボクシングの七不思議だな、何であんな打ち方であんな威力出るんだ?」と語ったり、松本聖とスパーリングやった経験がある鴇稔之(目黒/格闘群雄伝No.1)氏は、「ヘッドギアー越しにストレート喰らって、スパー終わって見たら、額に凄いコブができていてびっくりしたのは今でもよく覚えています。松本さんのパンチは豪快さは無く、コンパクトに打つから見た目では凄さは分からないですね!」と語る。

酒寄晃と対峙する松本(1983年3月19日)

ラッシングパワー、酒寄晃とは名勝負となった(1983年3月19日)

1984年(昭和59年)11月、統合団体設立による定期興行の充実により、キック業界が息を吹き返した翌年夏、松本聖が目黒ジムで練習する姿が見られた。

31歳となったが、その動きは悪くなく強打は健在。再起へ確信が持てたのだろう。周囲の要望に応え、2年半ぶりの復帰戦を行なったが、嵯峨収(ニシカワ)と凡戦の引分け。ムエタイスタイルで打ち合いに出て来ないタイプにはやり難さはあったかもしれないが、本番では松本聖の強打は不発。かつての輝きは見られなかった。団体は移り、すでに東洋の松本ではなく、時代が大きく流れた感もあったのも事実。豪勢な引退式に送られることはなく、静かな去り際だったが、観る側が手に汗握る「松本の試合が観たい!」と言う声は絶えることはなかった。

酒寄晃の強打を凌ぎ、ローキックとパンチで逆転KOに至った松本聖(1983年3月19日)

激闘を終えて、国内フェザー級頂点に立った松本聖(1983年3月19日)

◆最後のエース格

日本系やTBS系とも言われた野口プロモーション主催興行は事実上1982年4月3日まで。このメインイベントを務めたのは松本聖だった。轟勇作(仙台青葉)に2ラウンドKO勝利した試合はテレビ東京で放映されていた。団体は移り変わり、後々も目黒ジムから多くのチャンピオンは誕生したが、野口プロモーションが育てた、一時代を担うエース格に成長したスターは松本聖までという区切りとなった。

生涯戦績を見れば日本人とは対戦が多いが、新人時代に村上正悟(西尾)に判定負けと、亀谷長保には3度、あと2人のタイ人との少ない敗戦を含め、63戦54勝(37KO)6敗3分の戦績を残した。

松本聖は引退前から大田区蒲田で妹さんとスナック(=チャンプ)を経営していたという関係者の話。チャンピオンベルトやパネルも飾ってあったとか。その後、松本聖氏は出身地、鳥取に帰郷された様子。

2005年4月に目黒ジムを継承した藤本ジムが元々の下目黒の聖地でジムを建替え、落成懇親会パーティーを開いた際、過去の目黒ジム出身者が集結。松本聖氏も姿を見せ、紹介されていたが、私(堀田)はあの独特の強いパンチの秘密を聞き逃してしまった。指導者となる道には進まなかったが、技術論を語らせればテレビ解説者として技量を発揮しそうな松本聖氏。そんなキックボクシングとの関わりを見てみたいものである。

ブランクを経ての再起は思うように動けなかった嵯峨収戦(1985年9月21日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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ジャパンキックボクシング協会の若き看板スター、モトヤスックと馬渡亮太が、いずれもちょっと効いてしまうノックダウン奪われ判定負けも、観衆に感動を与える激闘を残した。

緑川創は6月から毎月続く試合の中で、頑丈な身体での存在感示す勝利。

悠斗は学生キックからプロ転向後、NJKFランカーまで上がり、そこからプロボクシングに転向し、第42代日本ライトフライ級チャンピオンとなった選手。コロナ禍での興行が流れる事態やジム閉鎖などの諸事情を持ってキックボクシングに復帰し、6月12日に白幡裕星(橋本)に判定負け。今回の2戦目は見事、強打炸裂の勝利となった。

6月1日よりKIXジムがジャパンキックボクシング協会に加盟されたことが小泉猛協会代表より紹介があり、金川剛一氏が挨拶されました。

◎Challenger3 ~Beyond the limit~ / 8月22日(日)後楽園ホール17:30~20:10
主催:治政館ジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第7試合 70.0kg契約 5回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(=岡本基康/治政館/69.8kg)
     VS
緑川創(元・WKBA世界SW級C/RIKIX/70.0kg)
勝者:緑川創 / 判定0-3
主審:少白竜
副審:椎名46-50. 桜井46-50. 松田46-50 

モトヤスックは2018年5月13日デビューで、2020年1月5日、同門の先輩、政斗をTKOで下し、この協会のウェルター級王座戴冠。

緑川創は2004年6月12日デビュー。2009年5月31日に日本ウェルター級王座獲得。4度防衛後返上。2019年4月14日にWKBA世界スーパーウェルター級王座獲得。初防衛後、所属ジム消滅により団体離脱の為返上。

うっかり星を落とせない立場の両者。序盤からけん制での様子見から被弾するリスクを負いながら距離は縮まり、主にパンチでアゴやボディーへ強打を打ち込む両者。第3ラウンド、緑川がやや攻勢強め主導権奪ったかにみえるが、打ち続けないとモトヤスックはすぐにでも巻き返す技量あり、やや被弾していた緑川はうっすらと鼻血を流す。

緑川創とモトヤスックのパンチの交差

緑川が右ストレートでノックダウンを奪うとモトヤスックは辛うじて立ち上がる

第4ラウンド、モトヤスックが流れを変えようと一瞬のスキを突いて右ストレートで出ると一気に緑川をロープに追い詰めて連打を続け、緑川は一瞬腰が落ちかけるも切り抜ける。ここが経験値の差か、打ち合いの距離の中、緑川が右ストレートでモトヤスックはノックダウン。立ち上がるところ、一瞬ふらついて後退するが続行。もっとも苦しいラウンドとなった両者。

最終ラウンドもやや緑川ペースが続く中、蹴りが少ないパンチ中心の攻防。緑川が鼻血を激しく流すほど被弾もしている中、倒しに行くにはキツいのは確かで、勝ちを拾いに行く流れでも手数を出して終了。モトヤスックも逆転狙うヒジ打ちもパンチもすでに遅かった。

踏ん張りのラストラウンドの攻防

武田幸三賞(MVP)を受取る緑川創。10年前に観たかった武田と緑川の対戦

◆第6試合 56.0kg契約 5回戦

馬渡亮太(治政館/56.0kg)
      VS
WBCムエタイ日本スーパーバンタム級1位.一航(=大田一航/新興ムエタイ/55.9kg)
勝者:一航 / 判定0-2
主審:椎名利一
副審:松田48-48. 桜井48-49. 少白竜47-49

馬渡亮太は今年1月10日にクン・ナムイサン・ショウブカイ(タイ)とのWMOインターナショナル・スーパーバンタム級王座決定戦に勝利し王座獲得。

序盤の様子見は馬渡がバランスいい蹴りでけん制、やや受け身でも相手をよく見て蹴り返す一航。第3ラウンドには接近した隙に右ヒジ打ちを側頭部にヒットさせ、ノックダウンを奪った一航。馬渡はちょっと足にくるダメージを負う。

一航の右ヒジ打ちが馬渡亮太にヒット

手応えあったか、一航が勝利を確信

ここから被弾することを避け、ダメージ回復を図る。ガードを高く上げる馬渡にボディーブローを叩き込み、一航は攻撃力増して前に出る、立場逆転したラウンドとなった。

第4ラウンド、互角の攻防ながら、馬渡はロープを背にする展開だが、蹴りのヒットはやや優る。第5ラウンドも両者力を振り絞る攻防で終了。全体を通せば、やや押された場面があった一航に、ラウンド制ではこんな失点もある微妙な採点で、一人のジャッジは引分けと付けているが、ノックダウンを奪った一航の勝利は僅差ながら妥当なところ。

鼻血を流しながら反撃に転じる馬渡亮太

追い気味に一航が攻めて出る終盤

◆第5試合 51.0kg契約3回戦

JKAフライ級1位.細田昇吾(ビクトリー/50.8kg)
     VS
NJKFフライ級4位.悠斗(=高橋悠斗/東京町田金子/51.0kg)
勝者:悠斗 / TKO 2R 2:39 / カウント中のレフェリーストップ 
主審:松田利彦

パンチを狙うスタイルの悠斗。キックボクサーとしての試合勘は鈍っていない様子で蹴りを織り交ぜ、素早い踏み込みでパンチに繋いでいく。重そうな悠斗のパンチを避ける細田は距離を取りつつ蹴りでリズムを掴んでいく。

悠斗が追い、細田がロープ際に詰まったところで逃がさなかった悠斗。右フックを被せると細田はロープにもたれ掛かりながら崩れるようにノックダウン。プロボクサー経験者のパンチはやはり重く、細田はフラつきながらカウント中にレフェリーに止められた。

悠斗は速いステップで踏み込み、重いパンチを振るった

ロープ際で逃げ遅れた細田昇吾、悠斗の右フックに沈む

◆第4試合 58.5kg契約3回戦

眞斗(KIX/58.0kg)vs大翔(WSR・F荒川/58.35kg)
勝者:大翔 / TKO 2R 0:27

大翔の左ヒジ打ちによる眞斗の眉間をカット後、続けて左ハイキックヒットによるノックダウンのカウント中、ドクターチェックに入り、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ

◆第3試合 55.0kg契約3回戦

樹(治政館/54.6kg)vs中島大翔(GETOVER/54.8kg)
引分け 0-0 (29-29. 29-29. 29-29) 

◆第2試合 バンタム級3回戦

西原茉生(治政館/53.35kg)vs中島隆徳(GET OVER/52.75kg)
勝者:西原茉生 / 判定2-0 (29-29. 30-28. 29-28) 

◆第1試合 女子ピン級3回戦(2分制)

女子ミネルヴァ・ピン級6位.藤原乃愛(ROCK ON/44.95kg)
     VS     
世莉JSK(治政館/45.2kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

《取材戦記》

メインイベント、19歳と34歳の対戦は、昭和の時代なら十代でチャンピオンになったら将来有望でもまだ新鋭の域と見られ、30歳を超えれば現役選手は少ない時代だった。

そんな年の差対決は、上がって来る者を叩き潰す、ロートルには引導を渡すといった厳しさの中、蹴りは少なく重いパンチが交錯する両者は、それぞれの立場で負けられない意地が表れていた。モトヤスックのラッシュを受けたときは「ヤバッ!」と思ったという緑川。勝因は「大人の意地です!」という当初の「大人の魅力と厳しさで勝つ!」を経験値で貫いた勝利となった。

馬渡亮太は2019年11月30日にNJKFに於いて、S-1ジャパン55kg級トーナメント決勝戦で大田拓真に敗れており、大田兄弟にはいずれも敗れてしまう結果となってしまったが、馬渡と大田一航は、2001年生まれで一学年違いの同い年。大田拓真は1999年生まれで、これから何度も戦う可能性があるライバル関係は続くだろう。

馬渡亮太は9月20日、ジャパンキック・イノベーションで出場が決まり、またもベテランの兵となる、数々の王座戴冠している宮元啓介(橋本)との対戦が予定されています。

今回のメインイベントとセミファイナルは5回戦だから見ることが出来た攻防と技量の名勝負。3回戦制で力を余らせての終了では本来のキックボクシングではないだろう。

ジャパンキックボクシング協会次回興行は11月21日(日)後楽園ホールに於いて、ビクトリージム主催でKickInsist.11が開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆柔道の達人

甲斐栄二(かいえいじ/1959年8月19日、新潟県佐渡ヶ島出身)は柔道で鍛えたパワーとテクニックで独特のKOパターンを確立し、そのハードパンチは上位を倒す厄介な存在として注目を集めた。

試合ポスター用に撮られたベルト姿(1986年5月25日)

甲斐は「現役時代はそれほど練習した方ではなかったよ!」と謙遜するが、その基礎となったのが学生時代の柔道。全国高等学校総合体育大会の新潟代表にもなった技術が、キックボクシングでの飛躍に大いに役立っていた。

柔道では「山下泰裕さんとも対戦したことがあるけど、あっと言う間に投げられた!」と笑って言う。

キックボクシングとの出会いは、柔道整復師の資格を取得するため、高校卒業後に仙台の専門学校に通っていた時に「キックボクシングをやりたい!」と言う友人に誘われ、仙台青葉ジムに見学を同行した。瀬戸幸一会長に「キミもやってみないか?」と言われ、興味を持ったことからすぐに入門した。

◆脅威の存在

甲斐栄二は1979年(昭和54年)1月デビュー。4戦目でランク入り。1981年1月にはノンタイトル戦ながら早くもWKA世界ライト級チャンピオン、長江国政(ミツオカ)と対戦。同年5月25日には宮城県で全日本フェザー級チャンピオン、酒寄晃(渡辺)にタイトル初挑戦。いずれも判定で敗れたが、当時の名チャンピオンと対戦する機会に恵まれ、将来を嘱望されていた。

1983年には二人の元・日本ライト級チャンピオン、須田康徳(市原)と千葉昌要(目黒)を右アッパーで次々とKO。この後も甲斐の実力はチャンピオンクラスをKOする脅威の存在となりながら業界は最低迷期。同時期、酒寄晃と再戦もあったが激闘となりながら惜しくも倒された。甲斐に限らず、どの選手も目標定まらず、モチベーションを持続させるのも難しい時代だった。

酒寄晃には今一歩及ばずも強打は唸った(1983年9月10日)

甲斐はビジネスの都合もあって上京。半ば引退状態の中、業界低迷期を脱した時期の1985年7月、ニシカワジムに移籍した甲斐は再び開花。復帰戦ではブランクは関係無いと言える鋭い動きを見せ、越川豊(東金)をまたも右の強打でぐらつかせ、連打で倒した。

甲斐の強打で越川豊をKO(1985年7月19日)

須田康徳には勝利寸前も逆転KO負け(1985年9月21日)

1986年1月には日本ライト級タイトルマッチ、チャンピオンの長浜勇(市原)に挑戦し、頬骨を陥没させる強打でKOし王座奪取。相変わらずのハードパンチャーの脅威を示した。

しかし、追う者から追われる者へ立場が変わるとハードパンチも研究され苦戦が続いた。

同年7月、斉藤京二(小国)との初防衛戦は、やはり狙いを定めさせず、サウスポースタイルに切り替えて来た斉藤を捕らえきれずドロー。11月の再戦では一瞬のタイミングのズレに斉藤の左フックを食って4ラウンドKO負けして王座を奪われた。これで引退を決意したが、翌1987年7月、全日本キックボクシング連盟復興興行に際して国際戦出場を要請され、ロニー・グリーン(イギリス)と対戦も1ラウンドKO負け。9年間の充実したキック人生に幕を下ろした。

◆ハードパンチャーの原点

甲斐栄二は30戦19勝9敗2分のうち、17KO勝利はすべてパンチによるもの。ハイキックも多用したが、蹴りのKO勝ちはひとつもなかった。名ハードパンチャーも「一度はハイキックでKOしてみたかった!」と唯一の心残りを語っていた。

甲斐は元から右利きで、当然ながらジム入門後も右構えで基本を教えられた。しかし元々、柔道で鍛えられて来た経験はキックの右構えに違和感を感じていた。それは柔道の右構えは右手・右足が前に出るキックの左構えに相当したことだった。

斉藤京二第一戦は互いが警戒した中の引分け(1986年7月13日)

チャンピオンとしてリングに立つ甲斐栄二(1986年11月24日)

1983年に須田康徳(市原)を倒した時の甲斐は実績では劣り、勝利はフロックと言われた。余裕の表情のベテラン須田に、右構えからいきなり左にスイッチし、背負い投げを打つ要領で、右アッパーが須田のアゴを打ち抜くKO勝利を掴んだあの瞬発力は柔道仕込み。元々背負い投げが得意だった甲斐は、反則ながら時折、背負い投げも仕掛けたが、右構えでも左構えでも戦えるスイッチヒッターであった。1985年9月に須田と再戦した時も、強打でKO寸前のノックダウンを奪うも、須田の猛攻を受け逆転KO負けしたが、前回の勝利はフロックではないインパクトを与えた。

甲斐は「柔道は空手よりキックボクシングに向いているのではないか!」と語る。腕力と握力、肩と腰の強さ、どの角度からもパンチが打ちやすい柔軟さで戦える柔道の基本は有利だという。

甲斐は身長が162cmほど。「過去のライト級では、俺が一番背が低いチャンピオンだろうなあ!」と笑うが、柔道で培った技術をキックボクシングで最大限に活かし、身長差の影響も感じさなかった。

甲斐栄二の戦歴の中には、1981年に翼五郎(正武館)と引分けた試合があるが、甲斐は総合技ミックスマッチでの再戦を申し入れたという。翼五郎はプロレス好きで、投げを打ち、縺れた際には腕間接を絞めに来たり、足四の字固めを仕掛けたこともある話題に上る曲者だった。当時、総合系格闘競技は無く、一般的にも競技の範疇を超えており、当時所属した仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長も取り合ってくれなかったという。

タイ旅行の途中、ムエタイジムを訪れて、久々のサンドバッグ蹴り(1989年1月7日)

◆仲間内

一時ブランクを作り、上京後に復帰を目論んでいた頃、ニシカワジムに移籍する経緯があったが、西川純会長に現役を続ける場を与えてくれた恩は、後に甲斐栄二氏は「意地でもチャンピオンになって西川さんへ恩を返したいと思った!」と語っていた。最後のロニー・グリーン戦は引退を延ばし、最後の力を振り絞っての出場も西川会長への恩返しだっただろう。

ジムワークでは後輩に対し、怒鳴る厳しさはないが、技の一つ一つに「こうした方がいいよ!」など見本を見せて細かいアドバイスをしてくれる先輩だったという後輩達の声は多い。練習時間以外では明るい笑い声で周囲を和ますのが上手。ジム毎に独特のカラーがあるが、ここでは甲斐栄二氏がムードメーカーとなる存在だった。

当時、一緒に練習していた赤土公彦氏は「甲斐さんがスパーリング相手をして頂いたことがあるのですが、手加減してくれていたのに、ガツンとくる重いパンチで、瞼の上が内出血して青タンになったことがあり、やはり凄いキレのあるパンチと実感しました!」と語る他、「甲斐さんは踏み込みのスピードが凄く速くて、蹴りも凄く重いんです!」とその体幹の良さが垣間見られるようだった。

でも「ローキックはカットされると痛いから蹴らないよ!」と甲斐さん本人が笑って語っていたらしい。

引退後は現役時代から勤めていた市川市の不動産会社を受け継いで、社長となって責任ある立場で運営に携わっていた。

後進の指導など業界に残る様子は全く無かったが、後々に出身地の佐渡ヶ島へ里帰りされた模様。現在が現役時代だったら、甲斐栄二氏の柔道技を活かした総合格闘技系の試合出場を観たいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

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◆水道工事が運命

須田康徳(すだやすのり/1954年5月10日、千葉県市原市出身)は昭和のTBS系キックボクシング、最後のスター選手。そんなキャッチフレーズが似合う実力とカリスマ性が備わり、まだ団体乱立前の最も価値ある時代の日本ライト級チャンピオンまで上り詰めた。

沢村忠や藤原敏男といった全国に名を轟かす存在ではなかったが、デビューして5年超えの脂が乗りきる二十代後半を迎える頃は分裂が起こり、キックボクシング業界が最も低迷期に突入した時期だったことが悔やまれる。

水道工事店を営む家庭で育った須田康徳は、両親と兄二人と共に家業を営むが、市原ジムの玉村哲勇会長の玉村興業と業務提携で結び付くと、玉村会長はまだ21歳だった須田康徳の運動能力を見抜き、得意の言葉で上手く唆しプロデビューへ導いた。須田康徳にとってもテレビで観た沢村忠や亀谷長保に憧れた想いに惹かれ、1976年(昭和51年)9月、市原ジムに入門。

当時は誰とも喋ることは少なく、トレーナーの指示には首を縦に振るだけで黙々と練習する選手だったとトレーナーは言う。

入門2ヶ月後の11月には早くもデビュー。須田康徳は周囲も目を見張る呑み込みの早さでKOパターンを身に付けた。静かなモーションからの蹴りは意外な印象を与えるほど重い蹴りを持つ連系技として、ローキックからパンチ、右ストレートとアッパーは強烈だった。

スロースターターで早々にノックダウンすることはあったが、眼が覚めたかのような反撃は凄まじかった。“これが当たれば絶対倒せる”といった自信を持ったパンチで必ず立ち上がり、これが逆転劇の好きな日本のファンに感動を与えていった。

レイモンド額賀戦。劣勢から逆転狙う表情(1981.11.22)

レイモンド額賀のパンチは重かった(1981.11.22)

日本系(TBS系)の日本ライト級チャンピオンベルトを巻いた須田康徳(1984.10.7)

◆ピーク時は不運な時代

1978年1月3日には昭和52年度日本ライト級新人王獲得。デビューから13連勝すると「この頃が少し天狗になっていた。」と玉村会長は言う。1979年には早くも結婚したり、タイへ修行も行ったが、「河原武司(横須賀中央)に倒されて、ふて腐れてジムに来なくなった。でも放っておいても3ヶ月もすれば、またジムにやって来る。多かれ少なかれ皆そんな壁にぶつかるんだ。そしてタイ帰りの初戦は皆負けやすい。」と言う玉村会長。現地でチャンピオンらと練習するとムエタイを崇拝し過ぎて、本来の自分のスタイルを見失う。たった1~2ヶ月学んだ程度のムエタイ式にのんびり構えているから、そこを突かれて倒されるのだという。そんな経験も知的な須田は反省と弱点の克服は早かった。

1980年2月の500万円争奪オープントーナメント準決勝でライバルの日本ライト級チャンピオン、有馬敏(大拳)にノックダウンを奪い返してギリギリの判定勝利。同年6月に王座を賭けた再戦では引分けたが、12月の再挑戦では最終ラウンドにノックダウンを奪って判定勝ちし、念願の王座奪取となった。有馬敏越えはキック人生で最も過酷で充実した時期だっただろう。

オープントーナメント決勝での伊原信一(目黒)戦には判定で敗れたが、これがTBS放映での最後のビッグマッチでもあった。

翌1981年1月、テレビ朝日で特別番組を組まれた日本武道館での日米大決戦では、変則技の曲者、トニー・ロペス(米国)をパンチとローキックで翻弄し、4度のノックダウンを奪って大差判定勝ち。国際戦にも備えたチャンピオンとしての戦いで、これから最も輝く時代に入るはずだった。

その後、キックボクシング業界はテレビのレギュラー放映は復活成らず。目標の定まらない須田は引退を口にすることは無かったが、「全く練習しないまま試合に出るようになった。」と玉村会長は言う。団体乱立がより低迷に陥り、輝く舞台を用意してやれなかった玉村会長は煩くは言わなかった。それでも上手い試合運びでKOしてしまう天性の才能には恐れ入ったものだった。しかし強豪とぶつかるとなれば、そうはいかない。

「練習しないといっても、誰も居ない深夜にジムの灯りが点いていて、覗いてみると人の見ていないところではやっていたよ。全盛期には及ばないが須田さんほどの熟練者になると、新人の頃のガムシャラにやる練習とは内容が違ってくるよ!」とジムのすぐ近くに住む後輩の選手は言う。

1982年11月には業界が総力を結集した、1000万円争奪オープントーナメントはその豪華顔ぶれには須田も奮起した。元・ムエタイ殿堂チャンピオンの藤原敏男(黒崎)を倒せば超一流のレッテルが貼られることは王座以上の勲章。須田は初戦でヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝ち。準々決勝で千葉昌要(目黒)を激闘の逆転KOに葬り、準決勝戦では同門の後輩、長浜勇に3ラウンド終了TKOで敗れる意外な脱落で藤原敏男戦は夢となったが、藤原敏男も勝利後引退宣言して身を引き、時代の変わり目を感じた準決勝戦となった。

◆初の名誉チャンピオン

1983年5月、須田康徳は足立秀夫(西川)を王座決定戦で倒し、日本プロキック・ライト級チャンピオンとなったが、団体乱立する中の箔を付けるに過ぎない王座。翌1984年夏、引退興行まで計画されたところ、11月に業界再建目指す四団体統合の日本キックボクシング連盟設立され(後にMA日本と枝分かれ)、ベテラン須田は再び奮起。引退どころか衰えぬ強打で存在感を示した。

ベテラン千葉昌要には劇的逆転KO勝利(1983.1.7)

強打の後輩、長浜勇に不覚を喫する(1983.2.5)

足立秀夫を倒して二つ目の王座獲得(1983.5.28)

中川栄二のしぶとさに手こずるも大差判定勝利(1983.9.18)

香港遠征が多かった時代、現地でも人気があった須田康徳(1983.11.17)

一度敗れている甲斐栄二に雪辱のKOへ結びつける(1985.9.21)

1986年5月、当時のMA日本キックボクシング連盟が仕掛けたテレビ東京での久々の放映復活に際したビッグカードを打ち出し、須田が日本ウェルター級タイトルマッチ、向山鉄也(ニシカワ)に挑戦する試合に起用された。ピークを過ぎた頃に一階級上の激戦の強者、向山との打ち合いは、さすがに過酷だった。一度はノックダウンを奪われ、右アッパーで逆転のダウンを奪ったものの、最後は打ちのめされた。
1987年7月、日本ライト級王座決定戦でも越川豊(東金)に判定で敗れたが、劣勢から逆転に導けない動きの悪さは以前には無かった寂しい姿だった。

「もう一度、須田康徳のチャンピオンベルトを巻いた姿が見たかった!」そんな声も多かった。MA日本キックボクシング連盟での二階級での挑戦は実らなかったが、過去の日本タイトルを含む実績は計り知れない重さがあり、その後も過酷な激戦を続けて来た功績を称えられ、同年11月には、同・連盟代表理事・石川勝将氏(=当時)より“名誉チャンピオン”の称号が贈られた。須田康徳の存在感やデビュー当時からの過程を知る石川代表の粋な計らいだっただろう。

1988年9月、須田は地元の市原臨海体育館で後輩の長浜勇との再戦で1ラウンドKO勝ち。借りを返す形で最後の花道を飾り、11月に後楽園ホールで引退式を行なった。

◆父子鷹成らず

マスコミが一人も来ない。そんな寂しい時代の1984年3月31日、千葉公園体育館で日本プロキック・フェザー級チャンピオン、葛城昇(習志野)との当時のチャンピオン対戦。

そんな激闘必至を迎える前の、朝の計量後に玉村会長から「飯食ったら俺の家の漏水工事やっておけよ、やんないとファイトマネー払わないぞ!」と脅しではないが、試合の日も働かされた須田康徳。会長宅で正味10分程度の水道工事だったが、工具を運び、慣れた手つきで早々に終わらせた姿はさすが職人。玉村会長は選手に強引な言いつけも多かったが、家族のような選手らとの、ゆとりのコミュニケーションであった(試合は互いの持ち味を発揮する激戦の末、須田康徳が僅差の判定勝利)。

葛城昇とはテクニック酷使の激闘で判定勝利(1984.3.31)

そんな須田康徳氏は、デビュー当時から大人しい人だったが、後に長浜勇(格闘群雄伝〈8〉)が入門後、やがてムードメーカーとなると須田氏もよく喋べり、冗談好きで子煩悩な一面が見られる御茶目な本性を表した様子だった。こんな温かい環境で戦って来れたことは幸せな現役生活だっただろう。

「将来は須田ジムを興せ!」と檄を飛ばす玉村会長の暗示には掛らずも、息子さんの悦朗くんをプロデビューさせた。彼は赤ん坊の頃からジム仲間に抱き抱えられ、いつも可愛がられる存在だった。1999年、18歳の時にリングに立ったが、残念ながら3戦程で辞めた様子。父子鷹とはならなかったが、須田康徳氏が育て上げる令和のスターや名誉あるチャンピオンと共に立つ姿が見たいコアなファンの夢は尽きない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

千葉市政100周年記念興行。千葉市は1921年(大正10年)1月に千葉町から千葉市となり、今年で100周年を迎えました。

千葉キック実行委員会は、千葉市制100周年を記念して千葉県民にキックボクシングの魅力を伝えたい有志で結成されたという発表です。

カード的には新人戦の興行ながら、若原二人の兄弟が話題の中心に、まだ十代の花澤一成や鴇田波琉、髙橋稀涼を含め、幼い頃からのアマチュア経験が活かされたベテランぶりを発揮されました。

◎千葉キック2021 / 7月25日(日) TKPガーデンシティ千葉16:30~18:38
主催:千葉キック2021実行委員会 / 協力:JAPAN KICKBOXING INNOVATION

◆プロ第5試合 54.5kg契約3回戦

若原聖(マスターズピット/2003.12.30千葉市出身/昨年8.23デビュー/54.1kg)
VS
ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI/2000.8.18白井市出身/54.35kg)
勝者:若原聖 / 判定3-0
主審:センチャイ・トーングライセーン
副審:北尻29-28. 大成29-28. 和田30-28

様子見の中、組み合っても離れても多彩な攻めが続く中、若原聖のハイキックがやや目立つ攻め。第2ラウンドにはタイミングを掴んだ若原聖の右ハイキックが顔面にヒットし、ナカムランチャイが鼻血を流す。

第3ラウンドには一旦ドクターチェックが入るが、骨折などの様子は無く続行。鼻血で呼吸が苦しそうなナカムランチャイは手数が落ちていくが、組んでのヒザ蹴り、ヒジ打ちを狙う。若原聖は勢い増して出て行く中、ハイキックを効果的に放つ。

最後はパンチの打ち合いも応じて終了。第2ラウンド以降は若原聖がポイントを抑えた僅差の判定ながら、内容的には主導権を奪って攻勢を保った若原聖はこれで5戦3勝2敗。ナカムランチャイは7戦2勝(2KO)5敗。

ナカムランチャイvs若原聖。ハイキックが度々ヒットし、試合を支配した若原聖

勢い付いた若原聖がナカムランチャイ・ケンタに右ストレートを打込む

勝利を得た若原聖、ラウンドガールのナギさん、エリカさんとスリーショット

◆プロ第4試合 50.0kg契約3回戦

若原快(マスターズピット/2005.8.16千葉市出身/本年5.9デビュー/49.2kg)
     VS
花澤一成(市原/2004.4.9市原市出身/デビュー戦/49.55kg)
勝者:花澤一成 / KO 2R 1:55 / 3ノックダウン
主審:神谷友和

序盤からスピード感のある蹴りとパンチの攻防で隙があれば倒しに行く姿勢が感じられる両者。第2ラウンドに入ると、花澤の左フックから右ストレートがクロスの中、花澤がクリーンヒット。

ノックダウンを奪った後、若原快の左ハイキックが空振りしたところを花澤は右ストレートで2度目のノックダウンを奪い、ロープに詰めたところで右の縦ヒジ打ちから左フックを被せると若原快は崩れ落ち、スリーノックダウンとなって終了。若原快は2戦1敗1分。

若原快と右ストレートの交錯した花澤一成

二度目のノックダウンとなった右ストレートヒット後、若原快が倒れ込む

市原ジム、小泉猛会長も喜ぶ花澤一成の勝利

鴇田波琉をコーナーに詰め、ヒザ蹴りを繰り出す髙橋稀涼

◆プロ第3試合 49.0kg契約3回戦

鴇田波琉(モリタ/デビュー戦/46.25kg)vs高橋稀涼(シリラックジャパン/48.8kg)

勝者:高橋稀涼 / KO 3R 2:48 / テンカウント
主審:和田良覚

減量の必要が無いほどナチュラルウェイトの鴇田は体格がやや小さい。

が、手数では負けずに前進しても、やや圧される展開が続く。

第3ラウンドには高橋が身体を浴びせていくようなヒジ打ちで鴇田が押し倒されるようにノックダウン。

更に高橋が勢いづくと、コーナーに詰めて叩き込むヒジ打ち。

一旦離れても飛びヒザ蹴り、更にコーナーに詰めパンチ連打。

追い詰めてパンチ連打で2度目のノックダウンを奪うと、鴇田は立ち上がるもテンカウントに当たるタイミングで試合を止められ終了。

高橋稀涼は2戦1勝1分となった。

体格差を利して猛攻掛けた髙橋稀涼の飛びヒザ蹴り

◆プロ第2試合 スーパーライト級3回戦(2分制) 両者共デビュー戦

ダイラン(拳伸/62.1kg)vs梅沢遼太郎(白山/62.75kg)
勝者:梅沢遼太郎 / 判定0-3
主審:北尻俊介
副審:神谷27-28. 和田26-29. センチャイ27-28

初回にダイランが梅沢をニュートラルコーナーに詰め、パンチのラッシュでスタンディングダウンを奪うも、梅沢は組んでのヒザ蹴りでジワジワ巻き返す。ダイランはスタミナ切れ、パンチを振り回すしか突破口が無い展開。

最終ラウンドには梅沢が初回に詰められたニュートラルコーナーへ詰め、ヒザ蹴り連打しノックダウンを奪い返すと逆転の判定勝利へ導いた。

梅沢遼太郎が首相撲からのヒザ蹴りでダイランを圧倒

◆プロ第1試合 56.0kg契約3回戦

磨生(YSS/デビュー戦/55.55kg)vs蘭丸(team AKATSUKI/55.75kg)
勝者:蘭丸 / TKO 3R 1:53 / レフェリーストップ
主審:大成敦

蘭丸が初回からパンチ連打でスタンディングダウンを奪い、磨生が巻き返そうと出るも、蘭丸の勢いが撥ね返し、第2ラウンドにもパンチでノックダウンを奪い、最終ラウンドは連打でノーカウントのレフェリーストップ。大差の展開。蘭丸は2戦2勝(1KO)となった。

磨生vs蘭丸。蘭丸が蹴りで圧倒し勝利を掴む

◆アマチュア第3試合 49.0kg契約3回戦(2分制)
  
裕次郎(拳伸/48.65kg)vs健心(AX/47.35kg)
勝者:裕次郎 / 判定3-0 (29-28. 29-27. 29-28)

◆アマチュア第2試合 39.0kg契約3回戦(2分制) 

翔力(拳伸/37.9kg)vs好健(治政館江戸川/38.55kg)
勝者:好健 / 判定0-3 (29-30. 28-30. 28-30)

◆アマチュア第1試合 56.0kg契約3回戦(2分制)

成田煌(MIYABI/55.0kg)vs並木真也(香取/)
引分け 三者三様 (29-30. 29-29. 29-28)

秋山任成の欠場により並木真也が代打出場。

《取材戦記》

若原聖と快の兄弟は、5月9日の同会場での試合と今回の結果を含め、デビューから連勝とか無敗とはいかないプロの洗礼を浴びるかのような展開も、二人ともに3歳から極真空手を習い、幾多の優勝歴を持って、2016年にマスターズピットジムに通い始めてアマチュアキックに転向。末っ子が現在、小学三年生の光羅(=あきら)が居て、若原三兄弟として将来が期待されています。

KO負けした若原快には心身ともダメージの心配は無い様子。応援者は今回、デビューした5名のプロ選手と共に「千葉キック」の継続を見守っていくことも必要でしょう。少子化の時代に三兄弟選手が目立つ近年、若原三兄弟の将来が楽しみです。

「千葉キック」という言葉の響きには過去、千葉県内で行われた、スポットライトも入場テーマ曲も無い昭和のキックボクシング興行が思い起こされます。今回の初回興行は当然ながら古めかしい体育館ではなく、TKPガーデンシティ千葉という近代的なイベントホールでした。

昔から千葉県にキックボクシングジムが多かったのは、単に土地が安いからと言われますが、千葉中心部に限れば会場に行き着くまでにも、千葉みなと駅と千葉駅を結び、街中に進むタウンライナーが走っているなど、昭和の時代から比べれば当然ながら、あまり街に出ない引きこもりから見れば、目まぐるしい街の開発が感じられました。

「千葉キック2021」は、千葉県内にジムを構える有志で結成し、ゆくゆくは「千葉県キックボクシング協会」が発足される予定という。千葉キック2021実行委員会には、ジャパンキックボクシング・イノベーション理事長の成田善一氏(マスターズピットジム代表)をはじめ、レフェリーの大成敦氏(大成塾代表)、拳伸ジムの鮫島伸二代表、元・目黒藤本ジムで活躍した、モリタキックボクシングジム代表の森田亮二郎氏が名を連ねています。

まだ始まったばかりの千葉キック。将来性ある選手を抱え、ゆくゆくはビッグマッチ開催まで、今後の活動に期待したいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆マウスピースとは

ボクシングやキックボクシングの試合で、口に入れたり、外したりするものはマウスピースと言われ、パンチを食らった際、歯によって口の中が切れたり、歯が折れたり、脳への衝撃などを軽減する防具です。

アメフトやラグビーでもマウスピースが使われますが、歯を噛みしめることによる歯の磨り減りや抜けるなど咬合性外傷に繋がる恐れの軽減や予防の為に使用され、格闘技では顔面を殴られる直接的衝撃による負傷の軽減があり、よりマウスピースが重要視されてきました。

噛みしめると外そうにもなかなか外れない場合が多い。いずれも簡易型ではない、各々の歯型タイプが一般化したものでデザインも豊富(写真は梅沢武彦選手)

◆観戦で何気に目にするマウスピース

昔はマウスピースを嵌めなかったり、試合中に吐き出したりしても、そのまま続行されましたが、プロボクシングに於いては安全面が進化していく中で、世界機構を中心に「マウスピースは必ず嵌めなければならない」と明確にルール化されてきました。

それで試合中、マウスピースを落とした選手に対して、基本的には試合を中断してコーナーに戻り、セコンドにマウスピースを軽く洗わせて口に戻して再開という流れを組んでいます。故意に吐き出したりすると減点となるケースもあります。

日本ではなるべく試合を中断せず、レフェリーがマウスピースを拾って、その選手コーナーに投げて返し、セコンドに洗わせてレフェリーが受け取り、ブレイクのチャンスを伺ってマウスピースを嵌めるという流れを組んでいます。

キックボクシングに於いては、落とした時点ですぐ拾って選手の口に戻す行為を見ますが、なるべく中断しない手段ではあるものの、見た目にも衛生的に好ましくはありません。以前は単にコーナーへ投げ返すだけで、そのラウンド終了まではマウスピース無しで進行していました。

昭和のキックボクシングでは、ロッキー藤丸(西尾)選手がマウスピースを相手に投げつけてから殴りかかったシーンもあり、今ではボクシングでもキックボクシングでも、最低限でも注意はされるでしょう。

白いマウスピースは一般的、試合前の一コマ(写真は高橋亨汰選手)

◆選手の体験談

赤土公彦氏(西川/格闘群雄伝No.10)は、「最初にマウスピースの必要性を感じたのが、デビュー前に、ジムでの先輩とのマススパーリングで、ハイキックを貰って口の中を十数針縫う裂傷を負ってしまいました!」と衝撃を語ってくれました。

更に、「タイのルンピニースタジアムでの試合では劣勢だった為、最終第5ラウンドに何としても勝ちたいという思いで打ち合いに行くと、カウンターでヒジ打ちを貰って前歯が吹っ飛んでしまいました。最終ラウンドはマウスピースを付けずに向かったようで、マウスピースの必要性を強く感じた試合でした!」といった痛々しい想い出。

平成初期の某選手の話では、「第1ラウンドにノックダウンを喫した次のインターバルで、ダメージで意識がボーっとしたまま、セコンドがマウスピースを口に入れたくれたところが、上下逆に、更に反対向き(Uの字カーブしてる側を奥に)に入れてきて、そのまま第2ラウンドが始まり、何か違和感あるなと思った途端、集中力が落ちていて倒されてしまいました!」という傍から見れば笑えるエピソードや、
昭和時代にタイで試合した選手では、「マウスピースしなかったら、ヒジ打ち貰って下の歯(犬歯)が下唇を突き抜けて外に飛び出したまま試合続けていた!」といったエピソードもありました。

牙型模様は流行りのひとつ(写真は吏亜夢選手)

◆マウスピースの進化

昭和時代からキックボクシングでよく見た光景としては、アッパー食らって口からマウスピースが真上に吹っ飛んだり、息苦しさや相手への挑発で自ら吐き出し投げ落とすことがありました。それは殆んどが白く小さい簡易型マウスピースで、ジムで売っていたり、渋谷のセンタースポーツで買ったという選手も多かったでしょう。

1983年(昭和58年)に伊原信一氏がノックアウト勝利後、投げたマウスピースが撥ね返りながら私(堀田)の鞄にスッポリ入ったことがあり、それは歯型のマウスピースでした。その時代、向山鉄也選手(格闘群雄伝No.3)もジム練習時に歯型のマウスピースをしていたところも見たことがあり、外れ易い簡易型から、徐々に各々の歯型で作る、より安全確実なものが普及してきたものと考えられます。

平成初期のまた別の某選手はジム入門後、先輩に「マウスピース作って来い!」と言われて、指示通りのゴム製の、熱湯で軟らかくして、熱いのを我慢して口に入れ、噛んで型を作り上げるタイプで、あまりに熱いので「ちょっと冷ましてから噛みましたがダメでした!」と言うと、「冷ましたらダメだろ!」と怒られる苦労が付き纏うも、安価で作れる中では一般的なタイプでした。

値段は昔ながらの簡易型タイプが1000円以下の安価なものから、歯型を作るタイプは種類に寄り、ゴム製、シリコン製などもうちょっと高めの2000円以上。

歯科技工士さん作成、特殊技巧型

これより高級タイプは、歯科技工士さんに作って貰う手法で、値段は高いが(1万円以上)、造りがしっかりハマり、食いしばりや激しい衝撃にもズレ難く、口の中も切れない高い保護力があります。

最近は、パンチ食らってマウスピースが吹っ飛ぶシーンが少なくなり、無駄な打ち合いが少なくなったテクニシャンの増加と、ガッチリ歯型に合うマウスピースを作る普及があるでしょう。その為、インターバルでセコンドが外そうにもなかなか外れない光景もよく見られます。選手の口元を見ても色付きや牙型模様などハイカラなデザインも目立つようになりました。

マウスピースは、使うと汚れや臭いが発生します。歯ブラシで洗うことと、歯磨き粉使用は配合されている研磨剤がマウスピースの表面を傷つけ、細菌が入り易くなってしまうので、この辺は部分入れ歯洗浄法と同じく、ポリデントなどを使うのもいいのかもしれません(使用上の注意は要確認)。

リングコスチュームやトランクスと違い、目立つものではありませんが、こういった装備品にも進化が伺える近年のキックボクシングです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)

[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)

成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)

最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

YETI達朗は4月11日に新日本キックボクシング協会興行で、リカルド・ブラボ(伊原)に1ラウンドTKO負けして以来の試合は、またもTKO負けとなり3連敗。険しい復活の道程が続く。

S-1レディースジャパン・バンタム級チャンピオン.SAHOと対戦予定だったルスター・シッチョー(タイ)が、新型コロナウイルス陽性者の濃厚接触者と判断され活動が制限された為、来日不可能となり、当初予定のS-1世界戦は中止(6月7日発表)。

SAHOは大田拓真と一航の兄弟とエキシビジョンマッチ(1ラウンドずつ計2ラウンド)を披露。

女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメントのもう一つの準決勝は、9月19日(日)に梅尾メイ(B9)vs KOKOZ(LEGEND)が対戦。年内に4人トーナメントの決勝戦となります。

珍しい男女のチャンピオン同志のエキシビションマッチ、SAHOと大田拓真

◎NJKF 2021 2nd / 6月27日(日)後楽園ホール17:30~20:33
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF) / 認定:NJKF

◆第7試合 70.0㎏契約3回戦

YETI達朗(キング/69.95kg)
     VS
チャンスック・バーテックスジム(23歳/タイ/70.0kg) 
勝者 チャンスック / TKO 1R 2:23 / ヒジ打ちによる鼻骨骨折
主審:宮本和俊

YETI達朗は第4代WBCムエタイ日本スーパーウェルター級チャンピオン(2018.2.25獲得~2019.2.24陥落/防衛1回)。チャンスックは元・タイラットTVライト級チャンピオン。

チャンスックの右ミドルキックを受けるYETI達朗

初回、両者蹴りの探り合いから組み合う展開に移った後、チャンスックが左ヒジ打ちを振るってきた。それまでの攻防で相手の技量が解る曲者テクニシャンと言われる実力を見せたチャンスック。すぐにYETI達朗の鼻が“くの字” に曲がり、鼻血が勢いよく吹き出す。その鼻の脇も切れた上、レフェリーはドクターの勧告を受入れ試合をストップ。

右ミドルキックから1秒程でチャンスックの左ヒジ打ちがYETI達朗の顔面ヒット

◆第6試合 NJKFライト級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.鈴木翔也(2018.6.24獲得/OGUNI/61.0kg)
     VS               
挑戦者3位.吉田凜汰朗(VERTEX/61.2kg)
勝者:鈴木翔也 / 判定2-0
主審:少白竜
副審:多賀谷48-47. 竹村48-48. 宮本48-47

タイミングで吉田凛太朗の右ストレートがヒット、鈴木翔也はノックダウン

鈴木翔也がやや上回る蹴りとパンチの繋ぎ技で攻勢を続けながら、第4ラウンドに吉田の右ストレートで軽いノックダウンを喫してしまうもダメージはほぼ無く、第3ラウンドまでの公開採点がジャッジ2名が2点差、1名が1点差で鈴木優勢の採点。

これで吉田が有利となった訳ではなく、第5ラウンドは両者が懸命の打ち合い勝負に出て、鈴木が攻勢をかけたわずかな僅差で勝利を拾った形となった。鈴木翔也は引分け初防衛に続く、辛くも2度目の防衛。

打ち合いとなっても鈴木翔也は持ち前のしぶとさで前進

王座戴冠してのマイクアピールは格別、涙を浮かべての語りだった日下滉大

◆第5試合 NJKFスーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.久保田雄太(2019.6.2獲得/新興ムエタイ/55.65→55.25kg)
     VS
挑戦者1位.日下滉大(OGUNI/55.3kg)
勝者:日下滉大 / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:多賀谷47-50. 少白竜46-50. 宮本46-50

日下滉大が第8代チャンピオン。3年前に対戦時は日下滉大が判定勝利。今回も初回の様子見からパンチとローキック連係から日下がリズムを作っていく中、蹴りを受ける久保田は態勢を崩しバランスが悪い。

日下は勢い付くと飛び蹴りも見せ、後半はヒザ蹴りも加えて追い打ちをかけ、攻勢を保った日下が大差判定勝利で念願の王座獲得となった。

「新人時代は連勝し、王座は近いと思ったけど簡単には獲れないものだった。」と語った日下滉大。そんな反省を経た下積み努力を重ねての王座戴冠となった。バンタム級では3度の挑戦は実らず、スーパーバンタム級でようやく奪取となった。

まだ団体タイトルに過ぎない段階で、国内だけでもまだ上位があるチャンピオンの座。有名なビッグイベント興行に呼ばれるには、これからがより大変になる。

日下滉大が勢いづいて攻撃力が増していく中のハイキック

終盤は飛びヒザ蹴りも繰り出す日下滉大

◆第4試合 NJKFスーパーウェルター級暫定王座決定戦 5回戦

3位.Vic.YOSHI(OGUNI/69.65kg)vs 4位.佐野克海(拳之会/69.35kg) 
勝者:Vic.YOSHI / TKO 4R 1:26
主審:竹村光一

序盤は的確さの無い攻防からVic.YOSHIがやや攻勢に傾き、次第に佐野のスタミナ切れが目立っていく。第4ラウンドにボディーへヒザ蹴りから顔面にヒザ蹴りが入ると、レフェリーがスタンディングダウンをとり、カウント中のレフェリーストップとなった。

正規チャンピオンの匡志YAMATO (大和)が7月11日、名古屋での大和ジム興行で、上位王座のWBCムエタイ日本王座獲得すれば、Vic.YOSHIがNJKFの正規王座に昇格予定。匡志が獲得成らなければ、後にNJKF王座統一戦、正規チャンピオン匡志vs 暫定チャンピオン.Vic戦が行われる。

暫定ながら王座戴冠したVicYOSHI、佐野克海を倒す

◆第3試合 女子キック46.0kg契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級チャンピオン.Ayaka(健心塾/45.55kg)
     VS
同級3位.奥脇奈々(エイワ/45.75kg) 
勝者:Ayaka / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:多賀谷30-27. 竹村30-27. 少白竜30-27

◆第2試合 女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメント準決勝3回戦(2分制)

ミネルヴァ・スーパーフライ級1位IMARI(LEGEND/51.7kg)
     VS
同級2位.ルイ(クラミツ/52.05kg)
勝者:ルイ / 判定0-3
主審:宮本和俊
副審:中山29-30. 竹村29-30. 少白竜28-30

◆第1試合 フライ級3回戦

嵐(キング/50.6kg)vs 悠(GRABS/50.7kg)
勝者:嵐 / 判定3-0 (30-27. 30-28. 30-27)

《取材戦記》

YETI達朗は、「まだ戦える気持ちはありました」と言うも、レフェリーストップ(ドクター勧告による)となっては覆ることは無く、仕方無いところだった。昔はYETI達朗の師匠、キングジム向山鉄也会長が、鼻が“くの字”に曲がっても戦い続けたが、レフェリーが止めない時代でもあった。先月は額の陥没した試合もあり、脳震盪や裂傷だけではない早めのストップは、難しい見極めでもあります。

YETI達朗にTKO勝利したチャンスックは、元・タイラットTVライト級チャンピオンの肩書はあるも、ムエタイ二大殿堂から比べた下位組織のチャンピオンには、とてつもなく強者も居れば、箔付けに過ぎない三流以下も居て、見てみなければ実力が判らない選手が多いが、チャンスックはその技量を発揮し、存在感を示す。

国崇(拳之会/41歳)は4月24日(土)岡山での拳之会興行で、翔平(SHINE 沖縄)をヒジ打ちで下す勝利で100戦目を達成。戦績は100戦56勝(37KO)41敗3分。
昭和の時代は100戦超えは幾らか居ましたが、平成以降で100戦達成はおそらく国崇が最初でしょう。昭和の過密なスケジュールで怪我も完治しないまま5回戦を戦った藤原敏男さんらの時代とは環境が違うが、長く戦い続ける継続力は凄いものです。

暫定王座が幾つか誕生している現在。コロナウイルス蔓延の影響で、当初6月20日に名古屋で予定された大和ジム50周年記念興行は7月11日に延期され、WBCムエタイ日本スーパーウェルター級タイトルマッチがズレ込んだ為、暫定王座制定と二つのタイトルマッチ予定が絡み合っています。

次回興行は9月19日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.3rd」が行われます。ここでのタイトルマッチ予定はまだ確定してしていませんが、暫定王座が早く消えて欲しいところです。

100戦達成表彰額を持った国崇(=くにたか/藤原国崇)、表彰後役員に囲まれて撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

ジワジワと後半攻め優った北川ハチマキ和裕。勝者コールの瞬間は諸々の想いが脳裏を過ぎったか、その場で泣き崩れた。

応援団に見守られ、ラストファイトのリングに向かう北川ハチマキ和裕

15年戦えた感謝を語りだすと多くの想いが過ぎり、涙が止まらなくなった北川

北川ハチマキ和裕は、昨年6月の日本キックボクシング連盟興行で引退試合を予定していたが、新型コロナウイルスの影響により、この日まで延期されていた。

カーフキックを受けた蛇鬼将矢は左脚にダメージを負って控室から車椅子で車に移動し病院へ向かった。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 4th /
6月19日(土)後楽園ホール17:30~20:18
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第9試合 メインイベント 67.0kg契約 5回戦

NKBウェルター級チャンピオン.蛇鬼将矢(テツ/1989.5.31奈良県出身/66.75kg)
     VS
北川”ハチマキ”和裕(PHOENIX/1986.6.19埼玉県出身/66.8kg)
勝者:北川ハチマキ和裕 / 判定0-3
主審:前田仁
副審:仲47-50. 川上47-49. 鈴木46-50

北川”ハチマキ”和裕はREBELS-MUAYTHAIスーパーライト級、ライト級でどちらも初代の二階級制覇した元チャンピオン。

第1ラウンド、蛇鬼はパンチ主体に前に出る。北川が距離を取り、蹴り合っても攻防に差は無いが、北川の右のカーフキックが幾らかヒット。

第3ラウンドから北川のペースがジワジワ上がり、第4ラウンド以降は蛇鬼がパンチで北川を追う流れも接近すると北川が組み合ってペースをつかみ、ヒザ蹴りを繰り出す。カーフキックも続けるが、自身の脚も痛かった様子も主導権を完全支配した形で最終ラウンドを終え判定勝利。

北川ハチマキ和裕のカーフキックが度々ヒット、蛇鬼将矢はダメージが深かった

[左]ラストラウンドは北川ハチマキ和裕のペース、得意のヒザ蹴りで攻める [右]試合を終え、蛇鬼将矢から北川ハチマキ和裕へ労いの花束が贈られた

この5年間は体調面の問題から休養期間もあったが、2016年6月から全く勝てず7連敗。今回の試合前には、正直やりたくない、逃げたいと思ったという。

「でももう一回勝つところを見せたい、今まで一回も勝つところを見せられなかった人にも見せたいと思って戦った。今日は勝つところを見せられて本当に良かったです。」と公式戦最後の試合を終え、感謝の諸々の想いを涙を流しながら語った北川ハチマキ和裕。最後は引退テンカウントゴングが打ち鳴らされて、ここまで支えてくれたジムメイトと共に写真に収まり、公式戦39戦17勝(3KO)18敗4分の戦績を残し、リングを下りた。

かつて巻いたREBELSのチャンピオンベルト(現在封印)が山口元気代表より贈呈

◆第8試合 53.25kg契約3回戦

老沼隆斗(STRUGGLE/1998.8.4東京都出身/53.0kg)
     VS
NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館/1991.3.6埼玉県出身/53.1kg)
勝者:老沼隆斗 / 判定2-0
主審:佐藤友章
副審:鈴木29-29. 川上30-29. 前田30-28

老沼隆斗は元・REBELS-MUAYTHAIスーパーフライ級チャンピオン。
ゆっくり余裕を持ったアクションから鋭く前蹴り、後ろ蹴りなど多彩に蹴るテクニックで海老原のタイミングを狂わせる。海老原は押されながらも正攻法な蹴りパンチで応戦も、老沼のテクニックにポイントが流れ、僅差で老沼が判定勝利。

海老原に蹴り脚を取られても、回転して器用に後ろ蹴りを見せた老沼隆斗

多彩な動きの老沼隆斗に海老原竜二は正攻法のローキックをヒット

ちさとkissMeに、野村怜央の右ヒジ打ちがヒット

◆第7試合 62.75kg契約3回戦

NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/1990.3.27東京都出身/62.1kg)
    VS
ちさとkiss Me!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/62.7kg)
勝者:野村怜央 / 判定3-0
主審:仲俊光
副審:前田30-28. 川上29-28. 佐藤30-28

野村玲央が蹴りとパンチの的確差で優る展開。ちさとは押されながらも変則気味の攻めで、野村に勢い付かせない戦法で踏ん張り、振り分け難い採点はジャッジ三者一致しないラウンドはあるが、順当に野村怜央が判定勝利。

◆第6試合 フェザー級3回戦

鎌田政興(ケーアクティブ/56.85kg)vs 半澤信也(トイカツ/56.9kg)
勝者:半澤信也 / TKO 2R 0:15
主審:鈴木義和

初回の静かな展開から、第2ラウンド早々に半澤信也の軽く飛んでの左ヒザ蹴り一発で鎌田政興の顎にヒットさせ、あっさりノックダウン。ダメージは深そうですぐにレフェリーがストップした。すぐには立ち上がれなかった鎌田だったが、大きなダメージは無く、暫くして立ち上がって挨拶してリングを下りた。

半澤信也が軽く飛んで左ヒザが鎌田政興の顎にあっさりヒットし、あっけない幕切れ

◆第5試合 NKBバンタム級王座決定トーナメント予選3回戦

志門(テツ/53.3kg)vs 龍太郎(真門/53.25kg)
勝者:龍太郎 / 判定0-2
主審:川上伸
副審:佐藤29-30. 仲29-30. 前田30-30

龍太郎に比べ長身の志門がパンチと蹴りの距離感で押し気味の展開ながら、龍太郎はアグレッシブに手数を出し、わずかに的確差が優った僅差判定勝利となった。

◆第4試合 59.0kg契約3回戦

山本太一(ケーアクティブ/58.95kg)vs ガイヤーン・MFC(MFC/56.9kg)
勝者:山本太一 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:佐藤30-29. 前田30-29. 川上30-28

◆第3試合 54.5kg契約3回戦

森井翼(テツ/54.15kg)vs 湯本和真(トイカツ/54.1kg)
勝者:森井翼 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

◆第2試合 60.0kg契約3回戦

辻健太郎(TOKYO KICK WORKS/59.75kg)vs 源樹(リバティー/59.75kg)
引分け0-0 (29-29. 29-29. 29-29)

◆第1試合 64.5kg契約 3回戦

平田純一(ダムファイトジャパン/64.3kg)vs 折戸アトム(PHOENIX/64.35kg)
勝者:折戸アトム / 判定0-3 (28-30. 29-30. 28-30)

《取材戦記》

引退試合を行なった北川ハチマキ和裕は、主戦場をREBELS興行中心に活躍して来た中、7連敗しても戦う場があるのは、北川の実績と人柄の良さで、まだまだ必要な存在と導いてくれたプロモーターであり、そんな戦う場があるキックボクシング業界であることが幸いする。

所属するPHOENIXジムは、今時は多数存在するフリーのジムで、どこの団体・興行に出ようが受け入れられるなら活動は自由だが、頑固な仕来りの日本キックボクシング連盟で、加盟しない選手の引退式とは過去に無い引退セレモニーだった。それだけ若い世代が現場を仕切る時代になったものである。

試合後、控室を訪れると、蛇鬼将矢は左脚脹脛周辺を氷で冷やしていた。カーフキックは第1ラウンドから効いていたという。それを感じさせない蛇鬼の戦いぶりはさすがのチャンピオン。しかし観戦するプロ選手の目には、蛇鬼の脚が効いた様子が伺えた声もあった。

控室には車椅子が運ばれ、蛇鬼は病院に移動し、検査の結果は骨には異状なく軽傷で済んだ模様。

「インターバル中、相手陣営の様子を見ないで、自軍の選手の加療やアドバイスに集中し過ぎるセコンドをたまに見かける。」というリングサイド関係者の話を聞いたことがあります。相手陣営の打たれた箇所の加療、肩で大きく深呼吸をしている様子などからダメージやスタミナ切れを察することも出来るから、自軍陣営は相手陣営の様子も見ておくべきらしい。

私(堀田)も家に帰ってからパソコンに画像を取り込んで見て、改めてセコンドの動きに気付くことがある。速報を扱う媒体だったらこれでは遅いだろう。現場で気付くプロの目はやっぱり凄いのである。

次回、日本キックボクシング連盟興行は10月16日(日)後楽園ホールに於いて「必勝シリーズvol.5」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

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