◆現役時代

鴇稔之(とき・としゆき/1963年5月3日生)は目黒ジムの、TBSテレビ放映時代末期の1980年1月、高校一年生の時に入門し、この老舗のジムで、創生期から多くのチャンピオンを輩出した歴史を間近で見て、先日亡くなった藤本勲会長と最も長く接してきた純粋なキックボクサーである。

王座初挑戦は21歳の時、武藤英男(伊原)と対戦は惜敗(1984.11.30)

防衛戦に臨む鴇稔之、リングに入場(1992.9.19)

1981年11月デビュー後、日本王座はフライ級で1度、バンタム級で3度目の挑戦で丹代進(早川)との王座決定戦を制し初獲得。菅原誠司(花澤)、三島真一(光)、船津勝人(治政館)らを相手に4度防衛。他、タイの大物プロモーター、ソンチャイ・ラタナスワン氏が率いる殿堂ランカーとの激闘に加え、日本フライ級チャンピオン.松田利彦(士道館)とのチャンピオン対決を制し、全日本バンタム級チャンピオン.赤土公彦(キング)との事実上の統一戦は引分けるも、いずれも名勝負を展開。1993年5月、室戸みさき(山木)に判定で敗れ、6年に渡る王座から陥落。減量がきつく、フェザー級転向も同年11月の初戦から挑戦者決定戦で再び室戸みさきと対戦し敗れ去った。ここに至るまで、鴇は左眼の疾患が原因で、相手の右フックでノックダウンすることが増えた結果、1994年(平成6年)11月、引退。

◆左眼の異変

1988年、アメリカ・カリフォルニア州遠征での試合の際、各州が義務付けるアスレチックコミッションの検診を受けた結果、眼圧が高いと診断され帰国後、日本で再検査を受けたところ、緑内障で左眼外側(耳側)の視野が狭いことが発覚。日常は右眼がカバーしたり、視線をずらすことで周囲はハッキリ見える為気付き難いという。相手の右フックでノックダウンすること増えたのはこのせいだった。

更に網膜裂孔を発症し、左眼はほぼ見えなかった。治療ではレーザーでの網膜修復や、眼玉を取り出して細かい部分まで再検査するといった聞けば怖くなるような手術は成功するも、後に網膜剥離も発症し、引退に導かれてしまった。眼疾患は無情な運命を迎えるものである。

[左写真]船津克人(治政館)と対峙する鴇稔之(1992.9.19)/[右写真]船津勝人との防衛戦、ハイキックが冴えた(1992.9.19)

[左写真]昭和の名レフェリー、李昌坤氏の勝者コールは何度受けたことか(1992.9.19)/[右写真]日本バンタム級チャンピオン.鴇稔之(目黒)、この時代の王座は価値があった(1992.9.19)

室戸みさき(山木)に敗れ王座陥落(1993.5.21)

目黒ジムで小野寺力とのスパーリングパートナーを務める(1995.4.25)

◆アマチュアムエタイへ進出

引退後は目黒ジムトレーナーとして選手を育てる側に回った。1990年代後半は後輩にあたる新妻聡、小野寺力らを指導し、幾人も日本のトップクラスに君臨させた。更に2011年には石井宏樹をラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級チャンピオンに育て上げた。

鴇稔之は引退前からアマチュアムエタイにも力を注いでおり、毎年のアジア大会には日本勢を率いて参加してきた実績がある。タイ国はムエタイをオリンピック競技種目に加わることを目標にしており、その道程は険しくも、アジアエリアに於いて実績を積み重ねている中、今年は3月開催予定だったアマチュアムエタイ世界大会が、残念ながらコロナウィルスの影響で開催10日前で中止。数々の世界的スポーツイベントが中止になって来た今年の不運であった。

2007年5月、鴇稔之は大田区蒲田にKickBoxジムを開設すると、更にプロ・アマチュアともに自ら選手を育てる環境を整え、現在プロに於いてはジャパンキックボクシング協会事務局長を務めている。

◆目黒ジム危機から聖地を守る

1966年(昭和41年)、日本で最初のキックボクシングジムとして誕生した目黒ジムは、キックの帝王・沢村忠が所属し、富山勝治、亀谷長保をはじめ、多くの名チャンピオンを生んで来たその歴史は長い。そしてその聖地となった目黒区下目黒にある目黒ジムだったが、過去に何度か目黒ジム存続の危機が襲っていた。鴇稔之はそのすべてを見て来た一人である。最初はデビュー前のことで、1981年6月、権之助坂の名物だったガラス張り目黒ジムは目黒雅叙園近くにあるプロボクシングの野口ジムに吸収される形で移転。ここは1950年にライオン野口こと、野口進氏が御自身所有の敷地に開設した本家のジムであった。

目黒ジムでトレーナーとして小野寺力を指導(1995.11.17)

更に鴇稔之が直接関わったものは引退後の1995年から目黒ジム存続の危機が続いていった。諸々の事情は省かせて頂くが、ジム建屋が抵当に入り、賃貸契約を結んで経営続行、本家だったボクシングの野口ジムは北千住へ移転した。

更に2003年、建屋は解体されマンション建設に移った。その地下に藤本ジム開設に導くことに成功し2005年4月、落成式を迎えた。この聖地を守ることに全力を尽くした藤本勲会長と鴇稔之だった。

目黒ジムでのミット持ちは定着した存在(1996.4.11)

新時代のスターが揃った中ではあるが、残念ながら藤本勲会長重病の為、2020年1月31日(練習日は30日が最後、31日は撤収日)をもって歴史と伝統の聖地の幕を閉じ、同所を手放すこととなった。そして5月5日早朝に訃報が入り、藤本会長は永眠。静かに家族葬が行われたが、鴇稔之は関係者を代表して特別に通夜に参列。藤本会長は眠っているような穏やかな表情だったという。亡くなる一週間前にも電話で「“コロナ騒ぎでジムの練習生は減ってないですか?”と心配してくれる優しい藤本会長でした」と語る。

聖地を離れても、今後も目黒ジムの歴史と伝統を受け継ぐことへ、所属選手は皆それぞれの道へ進みつつ想いは同じであろう。過去、目黒ジムから独立した選手が開設し、活動を続けるジムが10箇所程あるが、鴇稔之氏は目黒一門会としての興行も目指している。

目黒ジムで名トレーナーとなった鴇稔之(1996.4.11)

新築された藤本ジムの披露パーティーにて、選手を引き連れ御挨拶(2005.4.17)

◆野口修さんとの最後の会話は新スタジアム構想

鴇稔之は老舗に関わる人物との交流は深い。キックボクシング創設者、野口修氏は2016年3月30日に永眠されたが、最後までお付き合いがあったのは鴇稔之であった。その最後となった会話の中には野口修氏のキックボクシングスタジアム構想があった。

タイのルンピニースタジアム、ラジャダムナンスタジアムに匹敵するボクシング向きの会場を作り上げようじゃないかという構想だった。

「いいブレーンが集まってきているからやれるぞ!」という野口修氏の試算があり、生涯最後の仕事として立ち上がりかけたところで、野口修氏は肺気腫で亡くなられてしまった。

野口修氏の人生は若い頃からとてつもない大きな野望を持って挑んで来た人で、渋谷、新宿、丸ノ内等、日本の一等地を候補に挙げていた。実際にはそうはいかぬ一等地でなくても、やや郊外での可能性は残っているだろう。その野望を聴いていた鴇稔之。遺志を受け継ぐことは難しいが、タイのようなスタジアム王座は、協会や連盟等の実態の掴み難い組織でなく建設物として残るが故の、ここに集まる群衆が価値を高めていき、支配人が辞任や死去に至っても必ず後継者が受け継ぎ、王座の価値は続くだろう。それが格闘技の殿堂後楽園ホールに例えれば分かりやすく価値が高いと考えられるが、実際は無理な話で、新たに日本にキックボクシングスタジアムが建てられたら理想的と以前から明言している。

セコンド姿も定着した鴇稔之氏(2016.9.18)

チーフセコンドとしての姿、内田雅之にアドバイス(2018.1.7)

◆キックボクシングの真の組織作り

「キックボクシングは公的機関が管轄する下で運営されないと真の競技とはならない。スポーツ省(庁)が定めてくれるのが望ましいが、それはまだまだ無理でも、キックボクシングが誕生して50年以上経つのだから、業界一丸となって確固たる組織作りに動き出さなければならない。」

そんな理想を語る鴇稔之氏はジムを運営し、トレーナーとして強い選手を育てることが本業で、決してスタジアム建設や公的機関に働きかけることが使命ではない。しかし強い選手を育てても、日本エリアでも世界広域でも乱立した中の一つのチャンピオンとなってもそこでの最高峰とは言えず、世間から評価もされず稼ぐことも出来ない。そんな勿体無い競技人生となってしまうことへの改善策として、アマチュアとしてもオリンピックを目指せる環境を整備し、プロとしてもムエタイ二大殿堂に匹敵する日本のスタジアム建設や、公的機関が定めるライセンス制度に業界を導こうとしている人物なのである。そういう思想を持ってメジャー競技に導き、自らの教え子がこの頂点に立つことを目指し活躍する鴇稔之であった。

その鴇稔之氏にこの格闘群雄伝の今後の価値も導く第一回掲載に選出し、御登場頂いた次第でありました(敬称略あり)。

高橋勝治のセコンドに付く鴇稔之(2019.3.3)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆物件探し回った時代

コロナの影響は政府から要請された自粛で各ジムは閑散とした日々。家賃と光熱費は嵩むばかり。優遇されるジムもあるかと思うが、練習生は減り、経営が難しなるばかりだ。

ニシカワジム、オープニングパーティーでは藤原敏男さんスパーリングで御登場(1983年)

元々、コロナとは関係なく、キックボクシングジムの開設は簡単なものではなかった。それは加盟団体に認可を受けなければならないといったものだけでなく、不動産物件が少ないことにもある。その上、リングやサンドバッグなどの設備費用も必要となる。

現在のキングジムの前身、ニシカワジムは1981年(昭和56年)開設当初、他のジムでの間借りや路上(路地)練習、夜の市場の空きスペースを借りるなどを経て、1982年12月、当時国鉄小岩駅近くの雑居ビルの一室を借り、リングもある設備揃ったジムを構えた。昭和の時代、キックボクシングジムに貸す条件は厳しく、西川純会長の苦労が伺えたものだった。

設備整ったニシカワジム、ここからデビューした赤土公彦は大きく飛躍した(1983年)

平成に入り、所属の向山鉄也氏が引退後、会長となってキングジムへ移行も、当初は都営新宿線一之江駅からやや離れたところに借りられたのは、トイレも無いバラック小屋。2007年2月には江東区の都営新宿線大島駅近くのビル2階に開設され、設立披露パーティーで公開されたジムは、今迄より遥かにグレードアップしたジム設備であった。

キングジムの新装開店は賑やかなオープニングだった(2007年)

OGUNIジムが板橋区中台にあった頃のジム、当時の選手は想い出深いだろう(1992年)

現在のOGUNIジムは現・会長の斎藤京二氏が現役時代の1983年(昭和58年)に開設し、路地や公園、他のジムでの間借り練習を経て、1986年10月、後援会会長(当時小国ジム会長)が探し回ってくれた末に建てられた、板橋区中台の狭い道の分かれ目、三角地帯の二階建てバラック小屋でスタート。

都営三田線志村三丁目駅から15分ほど歩き、初めて行くには分かり難い道だった。リングは無く、それでも「雨露凌げて遠慮なく動ける環境が整って有難い」と当時の選手が語っていたほど、揶揄されることなく居場所があることは有難いことだっただろう。1995年(平成7年)に現在の池袋本町のビルに移ってからはリングも整い、JR池袋駅からは商店街を通り、やや歩くが山手線主要駅周辺となれば練習生は大幅に増えたという、やはり立地条件は重要なことが伺える。

◆キックボクシングという競技は肩身が狭い!

ある、某ジム会長は、「木造の狭い古い自宅の1階を改良してジムとしてきましたが、老朽化で床に穴が開いたり、シャワーのお湯が出なくなったり、住宅密集地で夜8時頃に終了しなければならないという条件があり、かなり不便でした。次には小学校や区の体育館を借りるも、子供たちの空手指導をするという条件で借りた手前、プロ選手が練習に専念したくてもキックボクシング練習だと使用不可になるので、子供達の空手の練習時間と同時にキックの練習をしました。空手は社会的に認知された競技で低年齢層の裾野まで広く、キックボクシングは危険、野蛮的イメージが強く、認知されない昭和の時代でした。」と語り、またある某ジム会長は、「ジム探しは苦労しましたね。 物件はあっても当時、ガチンコファイトクラブが流行っていて、こいつらもガラが悪いと思われたんではないでしょうか。家主さんからOKもらったのに、契約前に急に断られたり。ボクシングとか格闘技する人間は不良みたいな感じと思われていたでしょう。」と語ってくれた。

キックボクシングは世間との認識のズレがあるなあと思ったものだった。私(堀田)がこの業界にすんなり馴染めたのも、選手やジム会長、トレーナーさん達が皆、一般の人と変わらぬ穏やかな人達だったからであるのだが。

市原ジム、男の汗がムンムンする昭和のキックらしさがあった(1983年)

市原ジムは草木が室内に伸びてくる自然さが良かった(1983年)

◆物件探しは楽になったか

現在、練馬区大泉学園駅前にあるクロスポイント大泉ジムは雑居ビルの2階にあるが、1階は賃貸物件を仲介する不動産屋さん。以前、店員さんが「2階の音や響きは伝わってくることがあるが、もう慣れました」と笑っていた。階下に店舗を構えるお店としては、業務に影響するような事態は無いが、これが生活空間となると騒音や響きは気になることだろう。

昭和の時代から練馬区に住んでいた私は、当初一番近いキックボクシングのジムと言えば所沢の士道館、次はかなり遠いが目黒ジムだった。主に千葉方面にキックボクシングジムが多いと思ったことがあるが、地元の選手に「土地が安いからだよ!」と簡単な理屈であった。

現在も昔も、物件はどの鉄道沿線でも駅近は家賃が高い、僻地は練習生が集まり難いといった現象は当然だろう。飲食店や美容室、雑貨屋など、どの業種も物件探しは苦労するところだが、不動産業者は良い物件はなるべくイメージの良い業種に貸したいと見られ、物件が空いていても、キックボクシングは激しい運動による振動や壁や床の傷み、叫び音が煩い、汗臭くなるとか、「ヤクザ者の類が出入りするのでは?」などのイメージがあり、なかなか借りることが難しい場合も多いが、昔のような扉を開けただけでカビ臭い風通しの悪いジムや、鬼のスパルタ指導となるジムも極めて少なく(厳しいことは確かだが)、冷暖房完備、女性専用シャワールーム更衣室などの環境が整い、女性が気軽に練習出来る等、イメージが良くなって来た分、土地柄にもよるが、借り難さは少なくなってきているかもしれない。

一般クラスのボクシング教室、地道な活動がジムを支え、会員との絆も深る(2007年)

◆苦しい経営

ジム設備は揃っても経営が苦しい場合は多い。あるボクシングジムトレーナーさんは、知り合いのジムオープンのお手伝いに始まり、そのジムが事情あって閉鎖が決まると、そこの会員さんから「新たにジムをオープンして欲しい」と頼まれ、その会員さんが探してくれた物件でジムオープンするも、何年も赤字経営が続いたが、3年掛けて地道にボクシングのフィットネスクラブ的コーチを続け、ようやく会員さんが増えて安定し始めた。

そんな頃に東日本大震災で外出を控える会員が増え、電力削減等でのジム練習時間短縮で会員が著しく減って収入が大幅に減少の経験もあるが、会員さんの協力でジム運営をいろいろな策を練って続け、なんとか徐々に回復してきたところで、今年はコロナウイルス蔓延影響で再び経営危機を迎えた。今は東日本大震災の経験を活かし、禍を転じて福と為す状態という。

コロナによる自粛の影響でジム閉鎖したという話は今のところ聞かれないが、今後もそんな事態に至らないよう、各ジム会長やトレーナーさんとまた後楽園ホールで再会したいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆修行の癒し

タイに修行に行った選手が日々、ムエタイジムでの厳しい練習や暑さ不潔さ、むさ苦しい男集団生活、ものの考え方の違う土地での住み難さに耐える中、タイ選手との友情も芽生え、修行の成果と想い出を持って帰国する。その修行を活かし、日本での試合で勝利する、とは行かぬ場合も多いが、ムエタイ修行は人生に於いて貴重な経験だろう。

そのタイ遠征に於いて、恋愛に至る出会いも少なくない。昭和のある時期はキックボクサーとタイ人女性との結婚が小さなブームのような現象さえあったものだった。

より海外へ渡り易くなった後々には正確な数値は分からないが、過去のカップル誕生にはいろいろなエピソードがあっただろう。

向山鉄也氏、息子さんは羅紗陀(向山竜一/元WBCムエタイ日本ライト級チャンピオン)(1985.1.6)

単純な例だが、朝、ロードワーク中にジムの近くの住宅地に住む、通学中の女の子と目と目が合う。そんな自然な出会いから必死でタイ語も覚えて声を掛け、お喋りに発展する。そんな日々、通りすがりに手を振って微笑んでくれる。その笑顔に心奪われていく。死ぬような苦しいムエタイ修行に対する微笑みの国の美女は、日本人女性とは違った清々しい優しさに癒されるのである(と、勘違いするのである)。

◆羨ましい仲

そんな数々の出会いの中、現在一番円満な家庭のひとつと思うのが、元・日本ウェルター級チャンピオン、現・キングジム会長の向山鉄也氏の家庭である。

こちらの奥様は、来日当時は片言の日本語だったが、いつの日か写真の用で私に電話が掛かってきて「向山の妻です!」と聴こえてきても「この人、向山さんの奥さんとは違うんじゃないの?」と思うほどタイ語訛りが全く無い、日本の標準語の発音が完璧。

そのキングジム所属の元・WBCムエタイ・インターナショナル・スーパーライト級チャンピオン、テヨン選手は千葉(センバ)ジムの元・日本ムエタイ・ミドル級チャンピオン、中川栄一氏の次男(中川勝志)だが、中川栄一氏もタイ遠征でタイ人女性と恋愛結婚した人。昭和の終わり頃、私はたまたまタイで幾度か二人の様子を見かける機会があったが、仲睦まじく、この二人は絶対上手くいくと確信できたものだった。

◆縮まらぬ意識

他にもお似合いカップルを見たり聞いたりしてきた反面、恋愛はしたが結婚には至らなかったケースも、更には結婚はしたが、短期で離婚に至ったケースもあった。

私の知人範疇から外れるが、有名なところでは、タイの英雄、元・WBA世界ジュニアバンタム級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーが日本人女性と結婚したり、元・WBC世界ストロー級チャンピオン.ナパ・キャットワンチャイが井岡弘樹と王座を懸けて戦っていた頃も、ナパはチェッカーズの郁弥似の甘いマスクで人気が出て、日本女性がタイまで追っかけて行ったという、ボクサーとしての実力とは別の、アイドル型人気という現象も時代が変わったものだった。

その国際結婚も恋愛も、次第に心がズレていくのは日本人とは違う気質、文化、習慣、学問の深さの違い。彼女がカップラーメンすら作れないといった些細なことから感情のもつれもあったり、旦那が必死で稼いできた安月給から、将来やイザという時に蓄えたお金を「こんなにあるんだからいいじゃないの!」と躊躇いなくタイの実家へ送ってしまう奥様。

あくまでも相手にもよるが、価値観の違いや育った環境の違う国際結婚は難しいものである。

世界王座19度防衛のカオサイ・ギャラクシー氏(左)。人気No.1ナパ・キャットワンチャイ氏(右)

現在は、はまっこムエタイジム会長のユタポン前田氏(1992.10.10)

◆無知な人の話

キックボクサーに限らず、自然な流れの一般旅行者、ビジネスマンも同じような恋愛に進む日本人男性は多い。

私がムエタイ選手のビザ申請の為、日本大使館を訪れたある日、日本の小金持ち風50代ほどのオッサンが、いかにも水商売系の女の子を連れて窓口で、「この子、日本に連れて帰りたいんやけど、何を用意したらいいん?」と問い掛けても、そんな胡散臭い出会いの相談に、親切なアドバイスされる訳もなく、「どこ行ったら教えてくれるの?」と怒りに近い口調で厚い防弾ガラス越しのインターホンで訴えていたが、要件が違えばサッサと通話を切って去ってしまう大使館員。

公務員のふてぶてしい連中には私もラオスのタイ領事館でも味わっているが、この時はこの旅行者男性が無知過ぎると思ったものだ。

1980年代以降は日本で不法滞在、不法就労者が増えていた時代で、一試合のみの短期滞在予定プロボクシング世界チャンピオンでさえ書類審査が難しかった時代に、特に若い一般女性のビザ取得は不可能と言えるほど難しいものだった(現在は経済格差が縮まり、かなり緩和されています)。

そんな他人事を話している私もタイ人女性に惚れた一人である。付き合った女性の中には一方的にフッた私の罪があった。甲斐性無い私に結婚は無理だった。

伊達秀騎(左)、チャイナロン・ゲオサムリット(右)(1995.6.10)

そんな過去の、様々な過ちを反省する私的な思いで、その後、出家に至った理由の一つがあった(こんな志で出家するものではない)。

それも三日で挫けそうだったのだが、還俗し生まれ変わった後、人を不幸にすることは無かったが、無知で甲斐性無いのは変わらない私である。

◆逆パターン

キックボクシング関係者の中では昭和の時代から、渡航が増えた平成の時代にも国際結婚に至った夫婦を見かけることが多かった。タイ女性をお嫁さんに迎えるだけでなく、日本人女性がムエタイボクサーを迎えるパターンもあった。

業界では有名どころ、はまっこムエタイジムを経営するユタポン前田さんもその一家。私が来日のお手伝いをしたチャイナロンというムエタイボクサーも日本で結婚し円満に暮らしている。

1997年にタイへビジネスで渡って、現在バンコク中心部でムエタイジムを経営している、「タイで三日坊主!」にも登場した伊達秀騎氏も現地でタイ女性と結婚し、一女を儲け円満に暮らしている。どこの国からであろうと文化の違いを乗り越えた家庭は今後も末永く幸せを貫いて頂きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年7月号【特集第3弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

高笑いする会話が多くの支援者を引き寄せた「オモロイ坊主」藤川さん

◆仏門に関わった仲

これまでに仏門に関わった人や藤川さんと関わった人とどれだけ出会っただろうか。どこかで何らかの原因があり結果がある。人生は因果応報である。

2007年夏頃、加山至という人から突然メールが届いた。誰かはすぐに分かった。加山氏が御自身の名前の検索から藤川さんのオモロイ坊主を囲む会ホームページの、私の仏門日記に辿り着いたようだった。

加山至さんは由井太氏と1989年4月にTBSの新世界紀行「アジア秘奥三国探検」で、バンコクのワット・パクナムで渋井修氏の指導を受けて出家し旅に出た人である。

私が出家に興味を深めた番組で、当時の旅の様子を聞きたかった私はお会いさせて頂きたいと申し出て対面に至った。そして当時の番組の進行、旅の様子の大変貴重なお話を伺うことが出来た上、テレビの中のスターに出会った嬉しい想い。加山至(芸名=加山到)氏は役者が本業で、度々ドラマにも登場し、舞台演劇出演とその稽古を続ける日々が多い人であった。

そしてお二人の師匠となる渋井修さんは藤川さんの師匠でもある。1990年頃より、タイからカンボジアに渡った渋井修さんは比丘として、ポルポト派に虐殺された人々の霊を慰めながら、在籍する寺で現地の子供達に日本語を教えて居られる様子だったが、後々には還俗されたという藤川さんの話だった。

各々が進む道もそれぞれだが、我々もそんな遠くて近い縁がある仲であった。

歩け歩け、疲れを引きずる巡礼の途中、左が加山至氏、右が由井太氏

◆サネガン・ソー・パッシンは可哀想な死に方やった

サネガン氏との出会いは立嶋篤史選手と一緒に

藤川さんの支援者は出家後、タイに於いても日本人会をはじめ、年を追うごとに多くの人脈が広がっていた。キックボクシングとは立嶋篤史くんと出会うまで何の縁も無い藤川さんだが、支援者に導かれて訪れた、バンコク・スクンビット通りで“居酒屋まり子”を経営するオーナーさんとの出会いがあった。このまり子さんは日本でヌードダンサーとして生計を立て、ベトナムの戦争時代に米軍キャンプで踊ってからアジア各地を回ってタイへ渡り、ムエタイボクサー、サネガン・ソー・パッシン氏と知り合い、互いが再婚に至った人だった。

サネガン氏は日本系(TBS系)キックボクシングで、沢村忠や富山勝治と荒っぽいファイトを全国ネットで盛り上げた知る人ぞ知るチンピラボクサー。日本でも目黒界隈で事件を起こしたエピソードも多い。その風貌と日本で稼げた恩があるせいか、水商売に苦戦する日本人のまり子さんを支える用心棒にもなり、持ちつ持たれつ助け合う仲となっていた。大酒飲みで肝臓を悪くしたらしいが、評判悪いサネガン氏を診ようとする病院は無く、行く先の町医者や病院で門前払いを受け、最後に訪れた病院のドアノブに手を掛けたまま倒れ、そこで息絶えたという。

そんな事情を知った藤川さんから聴いた話だったが、サネガン氏にはタイ人の本妻との間に息子が二人居て、まり子さんのお店を手伝うこと多いという。私が沢村忠vsサネガンのビデオを藤川さんに渡したことがあるが、そのビデオをまり子さんのお店で観て、二人の息子は腹を抱えて笑っていたという。私はまり子さんも二人の息子さんも会ったことは無いが、藤川さんによると、「父親によく似た人相悪い二人やったが、悪い評判も無い真面目ないい子やったで!」と笑う。

私も一度だけ、1993年8月にバンコクで知人の結婚披露宴でサネガン氏に会ったことがあるが、人相は悪いが、すでに目が優しくなった笑顔で接してくれた想い出がある。しかしその3年後に永眠されていた。また改めてジックリお会いして日本での試合のこと聴きたかったが、すでに遅かったのだった。

日々、読経する姿の藤川さん(左)(2003.3.11~21)

◆早死にの運命!?

「このワシの身体は誰のもんや?、お前の身体は誰のもんや?、お前のもんか?、お前が死んだら、その身体はどうなるんや?、土に還る訳やろ、つまりは地球のもんやろ、ワシらはこの地球から栄養を摂った身体を借りて今生きとる訳や、そんな諸行無常の世の中、いつかは返す時が来る訳やな、みんな平等に与えられた命や、それを全うして人生のゴールを目指さんとイカンのや。こんないろいろ仏教のお経の中に書かれとるんや、それをひとつひとつ読み解いて関西弁にしたら漫才のネタみたいなオモロイこと書いてあるで。『山に登ったら岩肌に足をぶつけて血が流れて痛かった』とかごく当たり前のような文言も、それは即ち御釈迦様も血の通った普通の人間だった訳で、その2500年前に生きた人間として今、生きている人への導きとなる仏教は、葬式で亡くなった人を送るお経だけやないんやで!」

そんな藤川さんのいろいろな声が頭を過ぎる。いろいろなことを教えてくれた(勝手に喋ってたこと多いが)このジジィは小学校以降、クラスで1~2位のトップクラスを取って来ただけあって感性や探究心は良くも悪くも高いレベルにある。地上げ屋で荒稼ぎ、酒と女遊びに欲しい物は何でも手に入れた日々から人間は欲が尽きないことを知り、唆されて一時出家に導かれると今度は仏陀の生き方に惚れ込み、仏教専門書を読み漁る日々。尚且つ、地上げ屋時代の営業力も発揮する支援者の拡大技。何でも欲張って人の150年分の知識や欲求を詰め込み過ぎたから早死にしたのかとさえ思う。

私はこんな生き方真似出来ない。運が良ければ、せいぜい藤川さんよりのんびり長生きすることしか勝れないだろう。

日々、托鉢に向かう神聖な時間

◆藤川さんの最終章

この「タイで三日坊主!」は当初から仏教の在り方や御釈迦様の残した教えを説く高度なものではありませんでした。三日坊主の私は寺に居ても藤川さんと正反対。その貪欲な学習はしておらず、出家前も還俗後も現在も相変わらず三日坊主です。それでも今後、私の経験談や藤川さんの発言と活動を通じて、修行寺や学問寺の敷居の高い寺ではない、タイの一般的お寺の様子を感じ、タイで出家してみたい人が居れば参考になる程度として捉えて頂ければ幸いです。それは藤川さんが望む、私への依頼でもありました。

「お前の文章読んで一人でも出家に興味持って、出家してみたい人が居れば、それはまた仏教の発展に繋がるんやからな。ワシの悪口でもええから思いっきり書け!」とも言われており、そんな機会をデジタル鹿砦社通信さんに導いて頂き、再び寄稿となってものの、私の出家体験談から藤川さんの活動へ、論点ズレする纏まりのない展開になって行き過ぎたので、この辺で「タイで三日坊主!」は終止符を打つことにします。

最後に、ザ・ドリフターズの志村けんさんの突然の訃報に誰もが驚いたことでしょう。

人生はいつ終止符がやってくるか分からない。志村さんが残した功績は計り知れない大きいものでしたが、まだまだ動けるはずだった身体でやり残したことは沢山あることでしょう。我々もこのように突然の人生の終止符がいつ訪れるか分からない日々を、悔いの無いよう送らねばならないというのが藤川さんが語って来た、これまで大勢の人々への贈る言葉でもあります。

今後、藤川さんの残した足跡から新たな展開が見られた場合は、また機会を与えて頂ければ拾ってみたいと思います。これまで長く諄い物語にお付き合い頂き有難うございました。[完]

夕方のリラックスした姿での会話はオモロイ坊主そのものだった(2003.3.11~21)

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆観光ビザ時代

藤川さんがタイに渡ったのは、バブルが弾けるかなり前からではあるが、まだ観光ビザで何度も訪れていた頃まで遡る。

「昔、観光ビザで何回もタイと日本を往復しとった時、パスポートはハンコだらけで帰国の際、『あんたはもうタイに入国出来んぞ!』と言われたんやが、パスポートとズボンをワザと一緒に洗濯してボロボロにしてまた申請に行く訳や、『すんまへん、ズボンのポケットにパスポート入れといたの忘れて洗濯してもうたら、こんなんなってしもうたんや、新しいの作ってくれへんけ?』って言うて再申請や。それ使こうてまたタイ行った。それが通用した時代まではよかったが、コンピューターで記録が残るようになってからは出来へんようになった!」と、こんな程度のことは平気でやったであろう。

そんな日本タイ往来を繰り返していた頃、娘夫婦がタイに来て会う事になった時、「ホテルロビーで待ち合わせしたんやが、たまたまワシが遊び通うクラブの派手な格好のホステスどもが居って『藤川社長~!』て叫びながら寄って来て抱き着かれた時は娘亭主の手前、恥ずかしかったなあ。どんな時も恐ろしいとか恥ずかしいとか思うたこと無いが、あれだけは恥ずかしかった!」という意外な弱点も笑いながら話してくれたことがあった。そんな一方、家族に見せられない中では、

「タイではいちばんの高級ホテルは娼婦の連れ込み禁止やが、7人ほど普通の宿泊客のように装って連れて入って全員裸で居らせて乱交パーティー。ルームサービスを頼んで、ボーイが料理を運んで来た時、女がそのまんまドアー越しに出てしもうて見つかってもうた。即刻出入り禁止になった!」

バブルや日本円の力に物を言わせていた行為だったが、それが自分の力と勘違いしている頃だったという。

◆バブルの陰で

「バブルの頃は土地転がしで皆やりたい放題やった。ワシの口座預かり持っとる銀行員がワシの名義で土地買うて来て、その土地売って、「藤川さん、土地売れましたさかいに、5000万円、口座に入れときましたで!」と言いおって、銀行員が土地の売買やっとったんやからなあ。クラブ連れて行って飲ませると「藤川さん、おおきに!」とか言いよるけど、「どんどん飲めや、お前が稼いだ金やないかい!」といった感じで、このバブル弾けて景気悪うしたこの張本人の、不動産業者やら銀行員やら政治家やら、誰も謝った奴も責任取った奴も逮捕された奴も居らんし、後々も普通に生活しとるし、反省の色も無い。滅茶苦茶な時代やった!」といった現実的な話。

土地の売買では、「バブルの頃の土地売った金の受け渡しを現金でやったある時、100万円ずつ入った封筒を何千万円とか入って来る訳やが、いちいち数えておれんで、確認は封筒から1万円札100枚の束をちょっと引っ張り出してまた中に戻すだけ。すると1枚でも足りんと微妙にスカスカするような感覚が指に残るわけや。そういうのだけ数え直して、あとは封筒単位で何百万、何千万と数えるだけやった。数万円ぐらいは足りんこともあったかもしれんが、桁から言うたら微々たるもんやからそのまんま構わず取引きしとった。」

世間の常識からは桁外れの金額を扱った時代、その後、「娘の居る前で、一般サラリーマン級の相手と物の値段の話になると『ウチのお父ちゃんは金銭感覚狂うとるから、高い買い物の相手したらアカンで!』と忠告するようになった!」と笑っていた。

まだ五十代前半頃、元気にいろいろな所へ出向いた藤川さん

◆親孝行物語の裏側

これが最も現実的なタイ人の姿かもしれないが、タイの最も貧しいイサーン(東北地方)の家庭に育った女の子が、貧しい両親や弟妹を養う為にバンコクや日本に出稼ぎに来て、娼婦となって稼いだお金で両親にキレイな家を建ててやり、電化製品が揃った便利な生活をさせてやる親孝行物語。そんな単行本を藤川さんに見せると、

「ワシはその類いの話は信用せえへんで。ワシは実際にこの目で現実を見て来たが、バンコク、チェンマイ、プーケット、そして日本で、売春婦と呼ばれる少女やジャパユキさんと呼ばれる若い女の子と付き合い、名古屋では彼女らの泊っているマンションで、15~16人の女の子の生活を覗いたこともあるが、中には実際に貧しくて家族の生活の為、また親が無学な為、無理やり売られて来た子もいたが、大半は贅沢がしたくて綺麗な服が着たくて、あるいは纏まったお金を掴む手段としてその道に入ったというのがほとんどや。実際彼女らは明るく楽しそうでジメジメした暗いところは少ない。タイ人の仕事に関する一般的な考えを見ていても、女が身体を売って金を稼ぐのも甲斐性の一つだという面もある。とりあえずしんどい思いをせずに、綺麗な恰好して楽に稼げる職業に憧れる傾向が強いんや。実際、北部タイやパークイサーン(東北地方)にも行き、彼女達の実家に行ってみると、彼女からの仕送りの金で家を建て替え、テレビや冷蔵庫などの電化製品を買い、親たちは仕事もせんと酒を飲み博打をやって居る。そしてそれを見た他の親は娘に売春婦になることを勧める始末で、村の若い男達は彼女達が村へ帰って来ると先を争って稼いだ金を目当てに結婚を申し込む始末。むしろ問題は彼女達からピンハネをする組織の方で、そちらの問題を解決するべきや!」というジャーナリスト級の体験談。新たに真実本でも書けばと思うほどである。

こんな出会いもあった。左は習志野ジム・樫村謙次会長。覚えていないだろうなあ!

◆キックボクシングの冷静な未来予想

私の関わる業界にも触れたことがあった。一般論でもあるが、
「キックボクシングは国民の関心が低く、裾野が広がらん。野球やサッカーには少年野球、少年サッカーがあってその大きな裾野があるやろ。ボクシングは世界が相手で、そこまでの道が通じるが、キックはそうはいかん。昭和40年代のキックブームの頃、小学校では、野蛮で禁止されたキックの真似事。これじゃあ裾野が広まる訳が無い。格闘技はハングリースポーツで、強くなれば普通の世界では得られない稼ぎが出来てこそ裾野が広がる。ボクシングも最近の日本にかつての勢いが無いのは他にもっと稼げるものがナンボでもあるからやろ。キックはメジャーになることなく一部のお遊びで終わるやろな。そして時代は観るだけでなく、自分らも出来る参加できるスポーツへと進んで行くんではないんかなあ。」

これが25年前の一般社会人目線での意見。現在、誰でも出来るとまでは言えないが、キックに限って言えば、ジュニアキックからオヤジキックまで、参加しようと思えば女性でもちょっと鍛えて参加し、またはボクササイズでも鍛えられる、藤川さんの予想は近い線を行っている感じではあった。

相手の都合を考えないつまらん長話は藤川さんの怨念が原稿に乗り移ったか、鬱陶しくて聴いてあげられなかった分、出家後の坊主目線の話題を、もう少々だけ触れておきたいと思います。

小国ジム・斎藤京二会長とのツーショット。覚えていないだろうなあ!

※写真はイメージ画像です。画像は文面と直接の関係はありません。

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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また一人、キックボクシングの生き証人が逝ってしまった。

一見怖いイメージも元後輩の向山鉄也選手をからかうお茶目さもあった(1983年2月5日)

キックボクシングの老舗、目黒ジムに長く務め、藤本ジムに移行後、会長を務めて来られた藤本勲会長が5月5日午前3時過ぎに永眠されました。78歳でした。

2年ほど前から体調を崩し、興行にも姿を見せることも少なくなり、昨年12月興行に於いて勇退式を行ない、協会役員から外れ療養することになった藤本勲氏でした。それまでの病状を考え、今年1月31日には目黒区下目黒の藤本ジムも閉鎖されました。

勇退式の日、藤本会長から聞いた病状では過去、腎臓摘出や糖尿病があり、間質性肺炎、肝臓癌の疑いもあり検査中と言われていましたが、肺癌、胆嚢癌も併発していた様子でした。亡くなる一週間前には、ジムを経営する後輩達に電話で「コロナの影響で大変な時期だけどジムは大丈夫か!」と心配する様子だったということです。

こんなセコンド姿が毎週全国に映し出された時代があった。選手は富山勝治(1983年11月12日)

4年前にこのデジタル鹿砦社通信枠で「藤本勲物語、日本キックボクシング半世紀の生き証人」として拾わせて頂き、過去掲載と一部重複しますが、藤本勲氏の本名は藤本洋司。1942年(昭和17年)1月24日山口県生まれ、1967年(昭和42年)2月26日に、テレビ初の放映で同門の木下尊義との日本ヘビー級(三階級制67.5kg超/当時は全日本という名称)王座決定戦で、4ラウンドKO勝利で王座奪取。

後の東洋ヘビー級王座は奪取成らずも、1969年6月、東洋ミドル級(七階級制/正規の72.5kg以下)王座決定戦で、ポンピチット・ソー・サントーン(タイ)に判定勝利し東洋王座奪取。

1970年12月5日がラストファイト。51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績。引退後、キックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となり、54年に渡り、目黒の聖地で業界を見つめてきた最古参でした。

日本ライト級チャンピオン、飛鳥信也のセコンドに付く藤本トレーナー(1992年6月)

1998年7月、会長となった藤本勲氏は「死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と言う本音は、本当に身体が動く限り、癌で10kg痩せても踏ん張って来た様子が伺えます。

石井宏樹に続く2人目のムエタイ殿堂スタジアムチャンピオン誕生は成らなかったが、藤本氏自身がデビュー当時からジム運営に関わり、トレーナー、会長までを経て育てたチャンピオンは50名を上回ります。

元・日本ライト級チャンピオン.飛鳥信也氏の現役時代、担当トレーナーとなったのが藤本勲氏であり、飛鳥氏は、「どんな励ましの言葉よりも藤本会長がセコンドに居るだけで安心感を持って戦えました。そんな人格と経験値を持った人がセコンドに居る、“ジャブ、ロー”しか言わなくても、そこに居るだけで励みになり心強かった。」と語り、そんな言葉は最近の選手からも聞かれます。

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(=髙橋勝治)は2006年5月、19歳で藤本ジムからデビューし、「藤本勲会長の、身体で語る昔ながらの指導で、試合の時は何よりも気合の入る言葉で“ジャブ、ロー”を繰り返す。それが凄く心強いものでした(フェイスブックより引用)。」と語る。その存在感は他団体興行、他のジムには無い、キックボクシングの初の興行から全てを見て来た偉大な親父風でした。

日本ライト級ランカーだった元木浩二さんは、藤本会長の訃報を知り、「目黒ジム入門当時、偶然にも藤本さんが営業部長を勤めるカステラのナガサキ屋に就職しており、その影響で職場ではより一層皆に可愛がられ、1983年(昭和58年)、伊原ジムに移籍した後も、目黒ジムに遊びに行くと快く迎えてくれて、『ジム終わったら二人で焼肉でも行きませんか?』と誘うと嬉しそうに一緒に行ってくれました。今、僕に優しかった藤本さんの顔が想い浮かび、とても懐かしく、それ以上に哀しく涙が出てしまいます。」と懐かしそうに語っていました。

レフェリー・李昌坤さんの引退式で感謝状を渡した藤本代表(1996年2月)

目黒藤本ジムが改築完成した翌年の藤本会長(2006年1月5日))

改めて振り返るとテレビ放映時代の沢村忠をはじめ、多くの名チャンピオンから新人選手まで、藤本氏のセコンドに付く姿が、脇役ながらも全国に毎週映し出され、長身のメガネを掛けた二枚目のちょっとキザなお兄さん的印象は強い。それは一見怖い印象もありつつ、ジムでもナガサキ屋の店舗でも、ジョーク言っての対面販売が好きで、お茶目なエピソードも多い藤本会長なのでした。

現在、コロナウィルス蔓延問題も懸念される時期でもあり、親族の希望もあって通夜・葬儀告別式は親族のみで行われるということで、コロナ問題が落ち着いた頃、藤本会長を偲ぶ会などを予定されている様子です。昭和のキックボクシング同志といった面々が藤本会長を偲び集まることでしょう。

《取材戦記》

私もテレビで藤本会長の沢村忠、富山勝治など多くの選手のセコンドに付く姿を見て来た一人。1981年に上京して後楽園ホールで見た姿もテレビで見た姿と変わらなかった。

そして友達が目黒ジムに入門した縁で目黒ジムを訪問すると、藤本氏の対応が優しく、後のある日、さほどのお付き合いも無いのに中目黒にあるタイ料理店に誘ってしまうも、あっさりOKしてくれて飛鳥信也さんも連れてやって来られました。元木浩二さんの話にもあるように、誘われれば快くお付き合いしてくれたのは誰に対しても対等に向き合う、そんな人柄が皆に愛される親父さんであったことでしょう。

私もそこから次第に目黒ジムとの付き合いも深くなり、テレビで観た藤本さんと知人で居ることの不思議さと、今日まで選手が感じるセコンドのような存在感がありました。それは昔のことの分からないことがあれば藤本さんに聞けばいいという安心感。もう創生期のことは聴けない。また一人偉大な人が逝ってしまいました。御冥福をお祈り致します。

キックボクシング生誕50周年記念パーティーにて。左は御挨拶に立つ藤本会長。右はTBSで実況を務めた石川顕アナウンサーとの再会(2014年8月10日)

藤本会長勇退式で最後のリング登壇となった(2019年12月8日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年6月号 【特集】続「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

◆原点に返った回想

いちばん穏やかな年齢に入った頃か、藤川さんの自然な笑顔(2000年筆者撮影)

藤川さんが亡くなって7年が経った2017年5月に旅行代理店の知人に誘われ、タイを訪れることになった。それがこのテーマ、「タイで三日坊主!」の回想となる旅でもあり、当時にそのレポート掲載済みである。短い日程では行けないと思えたラオスまで足を延ばすことが出来、藤川さんと歩いた旅を思い出す時間だった。藤川さん絡みの訪ねる地域は多くなるが、いずれは数週間の時間を掛けてペッブリーの古巣を含め、ノンカイ・ビエンチャンをまたゆっくり訪ねてみたいものである。

◆藤川さんと出会った最初のお店、M&K

藤川さんの若い頃やタイに渡るまでの生き方は、私が直接関わったものは全く無い。藤川さんのビジネスの片鱗を見たのは、わずかにアナンさんのジムの近くで経営していたM&Kミニマートとレストラン(食堂)のみ。

画像は2年程前、タイでムエタイ・イングラムジムを経営している伊達秀騎くんが撮って来てくれた、元・藤川さんのお店である。ここが1993年に藤川さんと出会った運命のレストランであった。

私の記憶と合致しない風景だったが、改めて見直してみると思い出してきた。今は誰も寄り付かない不気味な様相だが、当時は風通し良い明るい雰囲気だった。少々改築されているかもしれないが、この右側の段差の上にあるフェンスのフロアーは、ここにテーブルと椅子が並べられていたレストラン。奥が調理場である。隣接する左側の建屋はタイ語の看板が出ているが、「M&Kミニマート」と書かれたコンビニエンスストアー。当時、三十代ほどの女性一人がレジでお客さんと接していた。

ここの道路を挟んだ対角線上にも別業者のコンビニエンスストアーがあるが、美容室が隣接し、オバサン店長と二人の若い女の子が店員として居た。この店の前は集落から大通りに出るに便利なバイクタクシー乗り場があるところで周囲は人の往来が多い。その反面、M&Kミニマートは一人店員でやや通りからの目が遠く、藤川さんが出家する為、権利を明け渡した後、この女性店員さんが強盗に襲われナイフで首を切られたらしい。命に別状は無かったが、この経営体制で置いて来てしまったことに藤川さんは「この女性には可哀想なことをした!」と悔やんでいたことがあった。その後は新たな展開もすることなく空き家となっていたようだ。

廃墟となった元・藤川さんのお店M&Kミニマート(1998年伊達秀騎撮影)

◆男の更年期?!

それから一年後の私が出家の為、寺に入る一ヶ月前頃の藤川さんからの手紙は、過去を振り返る反省の書き殴りがあった。当時は何も気に留めなかったが、これは誰もが通過する悩み多き50歳代の男性が直面するものかもしれない。

「最近、真剣に考え込んでいることがあるんです。“俺、今までの人生で何か無償で真剣に打ち込んだことがあっただろうか”ということです。子供の頃の勉強、あれも本当に何かを学びたいという真剣なものじゃなく、ただ良い成績を取れば親や先生から褒められるし、友達からも一目置いて貰えた。仕事も頑張れば収入が増え、欲しいものが手に入り、好きなことが出来るから。恋も結婚も本当に何の損得無しに相手に惚れ、“彼女を幸せにしてやりたい”といったものじゃなく、ただ女が欲しかっただけ。子育ても本当は子供のことなど考えていなかったのではないか、いつも周りの目を気にし、恰好付けて生きてきたのではなかろうか。人間としてやらなければならない最低限のことすら何もしないで、ただ周りの目と自分の欲望の為だけに生きてきたのではないか。考えれば考えるほど自己嫌悪に打ちのめされます。人に宗教のこと、仏教のこと語る資格は俺には無い。なぜなら宗教とは人間が人間らしく生きていく為の指標だと、最近分かってきたからです。夜寝る前に自分の部屋で一人座禅を組み瞑想しても、このことが頭の周りを巡り、過去の行ない、あの時はどうだったか、やはり間違っていた。この時はどうだったか、やはり自分の欲望だけでやっている、あれもこれも、やっぱり人間として恥ずべき行ないだった。本当に自分が恥ずかしくなってきます。それなら現在はどうだ、やっぱり駄目人間だ。私に人を責める、ましてや教える資格など無い。自分の心を鍛え直す、それが精一杯で、それも充分果たすことさえ出来ず墜ちていくのではと焦っています。」

比丘の日々の懺悔は、在家者でもいずれ誰にでも訪れる行為(2000年筆者撮影)

数少ない藤川さんとのツーショット(1997年春原俊樹撮影)

2020年の今、私がこの頃の藤川さんの年齢を超える歳となり、人生を振り返ると似たような感情になることがあって、1994年当時の藤川さんの心理が読めてくる気がした。一般的には結婚し子供が生まれ成人し、親の手から離れて行く頃のこの年齢になると、心にポッカリ穴が空いて自分を見つめ直す時間が増えると、他人より学歴があって裕福な人生を送っていても、或いは忙しく働いてもギリギリの生活であっても、或いは仕事もしないで借金抱えながら何をやっても三日坊主な人生を送っていても、もう先が見えてきて取り返しのつかない歳になった今、過去出来なかったことや間違っていた行為を悔やむ反省の時期を迎えるのだろうか。これが男の更年期障害なのかは分からない。

最後に「でも元々、この年まで刑務所に入ることなく、人に殺されることなく、人様と同じ空気を吸わせて生かさせて頂いているだけで吉本の漫才のようなものです。そしてこんな男でも、一人前のことを言い、大きな顔で生きられるのだと安心してください。」と藤川さんらしく、「俺みたいになるな!」と言っているような文言で締め括っていた。

刑務所に入ることは無かったが、やんちゃな思春期を送り、少年鑑別所送りにもなったことがある藤川さん。知り合った当時、私が練馬区に住んでいると知ると、すぐさま出た言葉が「練馬少年鑑別所の在る所やな!」と反応は早かった。

少年鑑別所は「過去と向き合う場所」という捉え方があるらしい。そういう施設と似た場所がお寺かもしれない。そんなこともすでに触れたかもしれないが、私もラオスの旅の時、藤川さんに「今は過去を見つめ直す時なんや!」と言われたが、藤川さん自身も出家した一年後辺りは、その時期を迎えていたのだろう。

◆堅気の人生

そんな藤川さんの出家前か、やんちゃな若い頃に付き合いがあったという、後に堅気になった元ヤクザと偶然、京都の喫茶店で会った際、「右手の薬指小指の第一関節が切られて無くなっておったが、『藤川はん、真面目に仕事しようと思うても、指二本無いとハンマーもしっかり握れまへんのや、もうこれだけで出来るはずの仕事が出来んようなってしまうんや、アンタはヤクザにならんで良かったなあ!』と言われたことあるが、指ツメられるというのは、痛いだけや無うて生きていく術も奪われるいうことや!」という取り返し付かない人生もあるのだろう。

まだ続く藤川さんが残した言葉。長い年月の間に記憶に残っている会話は多い。興味津々だった話、鬱陶しい話、何気なく聴いていたことも多いが、「タイで三日坊主!」を書いてきた中で、なかなか組み込めなかった印象的なところを仏教とも無縁ではない話は活かしておきたいと思います。

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

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◆安倍首相の緊急事態宣言後の経営難……

キックボクシングに限らず、多くの競技が先行き未定の興行中止や延期となり、ジムが自粛休業された所属選手は試合出場を目指して、今は出来る範囲でひたすら身体が鈍らないように自己練習に明け暮れる日々。

自粛休業も、賃貸で経営するジムは家賃・光熱費が大きな負担となってくるので、経営難に陥るジムも出てくることが懸念されています。

昭和50年代後半のキックボクシング低迷期、国内で興行予定が立たない団体と各ジムは、香港でのキックボクシングブームに乗って選手の遠征試合を重ねました。また時代を問わず、選手個人はタイへ修行に出掛け、たとえタイの田舎の無名なリングでも勧められれば臨んで出場していました。でも現在は、タイに入国も労働許可証を持った者のみと制限されている上、どこの国にも遠征することも難しい現状です。

◆原点に返ったストリート練習

選手によっては感染拡大前から危機を感じて地方の実家に帰省する選手もいたようです。 そこでロードワークや近所の公園でダッシュの走り込み等の基礎トレーニングをして、そんな練習風景を見た地元の小中学生が興味を示し、勿論、密集・密接を避けながら一緒に練習に参加して、思わぬコミュニケーションとキックボクシングの知名度アップにも繋がっている話がありました。

首都圏で自粛生活をするしかない選手も大半ですが、選手同士が公園や路地でキックミットを持ち合い、交替で蹴りの練習をするというジム設備を持てなかった時代のような原点に返っている話も聴かせて頂きました。

ストリートジムのイメージ画像(昔の実際の練習風景)(1981年12月27日撮影)

この新型コロナウイルスによる影響により、選手らはまた必ず近いうちに興行が再開されると信じ、ひたすら自分との闘いとなって、諸々の生活事情も重なって心折れて気持ちが引退に傾くか、怪我の回復と筋力アップに力を注ぐチャンスと考えた、何でもプラスに捉えるようにする心の持ち方が、今後の人生に大きく影響していくでしょう。

そんな今、ジムに於いてトレーニングを実践、それを撮影し、インターネット等で一般会員練習生に配信し、テレワーク型指導でトレーニングを促すジムもあるようで、今の時代にあった工夫も活かされているようです。

プロ野球やサッカーも開催が延期されていますが、格闘技においてはタイでよくある王宮前広場での興行のように、屋外で開催されれば密閉だけは避けられるので、屋内より開催され易いかもしれません。プロレスやキックボクシング創生期は、かつて駐車場や空き地を借りての興行も多く、「雲行き怪しい中、客席に席番貼り付ける作業しながら雨降らないこと祈りつつ、何とか乗り切った!」というある会長も居ましたが、そんな時代も懐かしいものです。

無観客となっても外部へ配信も出来る時代(2017年7月2日撮影)※スクリーンはイメージ

◆タイの現状

日本は規制が緩過ぎで感染者が増えている状況に対し、タイは下降線の様子です。
タイは実質軍事政権で、こういう緊急事態の際には統制がしっかり取れて、感染者がタイ全土で1日30人程まで下がり、当初の100人超えた頃から日毎に減っている模様。タイの非常事態宣言は4月30日まで規制が掛かっており、夜間は完全な外出禁止令が発令中、見つかれば逮捕されます。その後の延期は今のところ発表されていない様子(4月20日現在)。

多くのムエタイ選手やトレーナーは、田舎に帰省し農作業して、それが専門誌のFacebookに掲載されたりもしている模様で、山中慎介や佐藤洋太と対戦した元・WBC世界スーパーフライ級チャンピオン.スリヤン・ソー・ルンウィサイや、2年前、梅野源治の挑戦を退けた当時のルンピニー系ライト級チャンピオン.クラーブダム・ソー・ピヤックウタイもその話題の人です。

タイ社会がいろいろと厳しくなり、政府の支援金を受けられず、失望して自殺したというニュースもあるといいます。

タイの王宮前広場での観衆、密集・密接だが密閉だけは避けられている(2000年12月5日撮影)

◆中止・延期と目途が立たない再開見込み

日本は緊急事態宣言が発令され、プロボクシングも5月31日まで興行中止・延期が決定。更に後楽園ホールは政府の緊急事態宣言による要請で5月6日まで休館となり、その間に予定されたイベントは全て中止。

キックボクシング興行は無観客試合も自粛となり、3月末までは強行された興行も、今はどこも開催中止や延期に陥っています。

ジャパンキックボクシング協会は5月10日に後楽園ホールで予定された興行も中止決定。4月24日から、その5月10日枠に延期したREBELSも興行中止決定。

6月に入ると14日に後楽園ホールに於いて予定されるニュージャパンキックボクシング連盟興行、6月20日の日本キックボクシング連盟(NKB)興行、6月21日の市原臨海体育館でのジャパンキックボクシング協会興行等は今のところ、開催予定としていますが、まだ新型コロナウイルス感染影響の下降も終息も見込めないと判断する団体と各プロモーターは多く、今後も政府の要請によって6月以降も影響が出ることが予想されます。終息に2年は掛かるという専門家の話が事実とすれば経済への影響も懸念されるところ、今更遅いですが、タイのような迅速な対応が安倍首相と政府に求められています。

もう少し密接を避ければ開放的で暴動も避けられそう(2000年12月5日撮影)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆別れの時

藤川さんが新大久保に住居を構えて直ぐ、新宿区の住民登録を済ませていた。日本で暮らせば付き纏ういろいろな問題がある中、生活費は支援者の施しだけで賄えているのか、タイ同様に御布施という生計の足しにしている活動はあっただろうが、確定申告はどうしているのか。更には「身分証明書代わりに免許証の再発行を出来んか?」と願い出ていたと思うが、タイで出家して既に免許証は失効しているから、結局これはダメだっただろう。

日本に住めば金銭的、老化進む先行き不透明な日々の中、癌を患ってしまった運命。入院生活を拒否したのは莫大な治療費が掛かることは確実で、御布施や支援の賄いでは追い付かない。周囲に迷惑を掛けるのを避けたかっただろう。それでも「痛いのだけは嫌だ、これだけは何とかして欲しい!」とお医者さんに懇願していた声は聴いたことがあった。

2010年2月24日の夜遅く、最近どうしているかなと、いつも覗いていた藤川さんの「オモロイ坊主を囲む会」のブログを開くと、衝撃が走った。

「藤川和尚、永眠!」

えっ、永眠!? しまった! これが悔いが残るというものか。もっと早く会いに行ってやればよかった。

「もう長ごうないんや!」の声が響く。

オモロイ坊主を囲む会の管理人に聞いてみると、「2月19日の夕方、体調は前々から悪いからその様子に大きな変化は無かったが、急に意識不明となって倒れて救急車で病院へ運ばれるも昏睡状態続き、24日未明に永眠。脳内出血だった!」という。まだ2月下旬の活動予定が残る中、支援者誰もがそんな急に逝くとは思わなかっただろう。

オモロイ坊主を囲む会のブログで衝撃が走った画面

◆藤川さんは御釈迦様のもとへ!

翌25日には火葬だけであったが、大勢の人が訪れたようだった。タイの寺に居た頃、藤川さんは「生前葬を済ませた!」とも聞いていたが、遺言で葬儀告別式は行わないとのことだった。

結局、私は仕事もあって行けなかったが、冥福を祈って送り出したいと想うところだった。

胃癌、帯状疱疹の悪化で、この一年はかなり辛い様子だったらしい。それでも高笑い響かせながら全国行脚を続けていたであろう藤川さん。 ミクシイで繋がった全国の友達は1000人近くになっていた。

遺骨は、後の4月4日に八王子にあるタイのお寺、ワッパー・プッタランシーへ納骨され、生前、藤川さんが言っていたとおりの希望で、御釈迦様(仏陀)が最後の旅となったインドの地域にあるガンジス河へ散骨の予定という。

これで御釈迦様のもとへ行くかのような話を藤川さんから聴いたことがあり、「骨はインドのガンジス河に流してくれるように孫(?)に頼んだ。親戚一同の反対に合って年長者の力に圧されないように公証役場で遺言も書いた!」と言っていたが、お孫さんにお願いしたのかは私の記憶が曖昧だが、法的にも有効な遺言を残したのも藤川さんらしい手回しであった。

◆道連れ!?

藤川さんが亡くなった後、一緒に寺で過ごした日々やラオスに向かった旅を想い出しては、黄衣を纏ってあんな冒険できたのも藤川さんのお陰だなあと想い返したり、時折、「お前の親はまだ居るんか、会いに行ってやれよ、来てくれるだけで嬉しいんやぞ、今のうちやぞ!」とはよく言われたことや、いろいろな触れ合いを想い返す日々が続いた3月20日の夕方、石川の私の実家から電話が入った。

「父ちゃん死んだぞ!」と言う母親の泣き声。

「藤川ジジィ、俺の親父を引っ張りやがった、この野郎!」と有り得ないこと怒っても仕方無いが、そんな因縁があるような気がしてならなかった。そこからはもう4年ほど会っていなかった親父のことで頭がいっぱい。私の親父は老衰。最終的には心不全によるものと思うが、母親も気付かぬ間に眠ったように楽に逝ったようだ。
藤川さんの納骨式や偲ぶ会も4月初旬に予定されていたが、私は仕事や実家のことでいっぱいになり、精神的にもそちらへ向かう余裕は無くなっていた。

これで藤川さんとこの世のお付き合いは完全に終わった。

京都の地上げ屋がバブルが弾ける前に、「このまま好景気が続く訳が無い。もう天井が見えとる。やがて不動産価格の下落が起きる!」と赤字に転じる前に全てを売り飛ばし、こんな好景気の恩恵に支えられた金儲けではなく、自分の本当の実力を試そうとタイで勝負しようと考え、新たなビジネスを始めたのが1991年春。その2年後にアナンさんのムエタイのジムの近くに開店した日本料理店で私との出会いから長い付き合いが始まったものだ。

リングサイドで試合を見つめる春原さん、選手からも記者としての評判は良かった(2003年10月13日撮影)

◆続く道連れ!?

藤川さんが北朝鮮に行く前辺りの頃、私の仕事の一つであった出版社のスポーツ部門が消えた為、ボクシング興行は滅多に行かなくなった。それでも別ルートで入った取材や、立ち見チケットを買っての観戦で後楽園ホールに行くと、リングサイドの春原俊樹さんとはカメラの話にもなるが、藤川さんの話になることがほとんどだった。そして会うこともほとんど無くなっていた2014年1月。春原さんが出版社を退社したという情報が入った。ボクシングビート(旧・ワールドボクシング)の記者を辞めたという。

安いながらも私と同じNikonD90程度のカメラを買って試合を撮ったり取材に向かったり、仕事熱心な人だったが、こんなボクシング好きな人が記者辞めるなんて、おかしいなとは思ったが、また藤川さんの想い出話でもしようか、また以前のようにタイ料理に誘ってみようかと思っていた矢先、3月30日午後、埼玉県内の入院先の病院で亡くなったという知らせが知人記者から入った。 春原さんは胃癌で療養中だったらしい。

そして「藤川さんよ、春原さんまで引っ張るのか!」という切ない想い。ちょっと強引なこじつけだが、深く関わった人が同じ胃癌で逝くのは不思議な因縁である。
春原さんが撮ってくれた私の得度式のフィルムと写真は永遠の宝物である。改めて感謝を述べたい。

後々の2017年に私が「タイで三日坊主!」を書く為に、当時のフィルムと写真を探し、日記を読み返し、記憶に残っている会話とテレビに映った冒険を参考にし、ここ2年あまりはずっと頭に藤川さんの声が聞こえてくるほどの存在があった。こんな風に藤川さんは多くの人々の心に今も生き続けているのだろう。散々振り回されたのに、もっと昼飯食わせに会いに行ってやればよかったと悔いが残る。もっと話を聞いておけばよかったと。

藤川さんの最後の誘いを無下にし、親父の最期を看取れぬまま、更に春原さんも最期の姿は見せたくなかっただろうと思うが、皆、最期の言葉無き別れとなった。

藤川さんが言っていた万物流転。「この世に在るあらゆるものは、絶え間なく変化して止まない。エベレストにしても富士山にしても少しずつ変化している。不変のものは何一つ無い。新しく生まれたものは必ず劣化して滅びていく。これが諸行無常や!」と言い続けた。これが現実。やれる時にやっておかないと時は流れ、万物は変化して取り戻せなくなるだけ。そんな諄かった藤川さんの話が何度も頭を過ぎる。本当に姿無き腐れ縁が今も続いているのである。

藤川さんにはミャンマーに連れて行って欲しかった。胃癌を患い、杖を突いて歩いている時点でそれは無理と思ったが、藤川さんが歩いた軌跡を、今後、機会があれば歩いてみたいと思うこの頃である。

毎度、異様な組み合わせの昼食会だった今は亡き二人

私が撮った藤川さんの日本で暮らす画像はあまり無いので、こちらのブログを御覧ください。

◎オモロイ坊主を囲む会 http://omoroibouzu.blog35.fc2.com/

◎[カテゴリーリンク]私の内なるタイとムエタイ──タイで三日坊主!

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆タイから日本へ

ペッブリー県のワット・タムケーウから、1997年春、サムットソンクラーム県のワット・ポムケーウに移った藤川さんはその後、旅がし易くなっただろう。活動が幅広くなり、多くの出会いを重ねることが出来た。

藤川さんの活動を知らぬ者からは、単に人の金で遊び回っているように捉えられがちだが、タイ国内はもとより四国八十八箇所お遍路の旅や、ミャンマーに出向いてメッティーラに行き着いたこと。北朝鮮に渡るまで成し得た活動は多かった。

これまで私とネイトさんを出家に導き(実質、他2名)、数々の人を説法してきた藤川さん。やがてアジアの旅も一段落ついたところで、「人間には帰巣本能がある!」と言ったことも当てはまるのか、やがて、出家する為に京都に捨てて(残して)きた日本の娘一家のことがことが気になりだしたようだ。まだお釈迦様が歩いたシルクロードの旅を残しながらも、「いつでも何があっても飛んで行けるところに居た方がいい!」という結論に達し、比丘のまま帰国を決意。

在籍するワット・ポムケーウの和尚さんから「出家者と在家者の関係が成り立たない日本で生きていけるのか!」と心配されながらも、「やれるだけやって見させてください!」と願い出て、2006年10月26日、正式帰国。住居は新大久保駅から歩いて5分程の、支援者が用意してくれたアパートへ入居。藤川清弘庵となった。

新大久保駅近くを歩く藤川さん(2007年5月24日)

◆新大久保から活動開始

ここでは前々から計画していた「悩める日本人を救いたい!」という想いがあったことから“悩み相談室”なるものを開き、破天荒な人生を送った藤川さんの生き様をテレビやインターネットで知った相談者が藤川庵に訪れること多くなった。またオモロイ坊主を囲む会などから発信されるパソコンでの人生相談も、タイに居た時からメールが入るようになっていた。すでにフジテレビのスーパーニュースの取材も舞い込んでおり、夜の新宿と渋谷の街へ向かった。

新宿歌舞伎町にタムロする若者。そこへ黄衣を纏ったオッサンが現れれば、いつも以上に違和感ある存在となった。道を歩いて若者に声を掛けようと近づけば皆に避けられ、「みんな逃げよるやないかい!」と言葉を漏らす。道路脇でダンボール敷いて寝ようとしているホームレスのオッサンには「ここで寝るんか? 風邪引くなよ!」と声掛けるが、まともな返事は無い。渋谷センター街の地べたに座り込んでいるカラフルなメイクの女子高生に「素顔が見えへんやんけ!」と声掛ければ「ブッ殺すぞテメー!」と野次られた。日本に着いて、新宿を眺め歓楽街を歩いて、「何に飢えとるか言うたら、心に飢えとるな、今の日本は。悩むというより、何をしたらいいんか(どう生きたらいいのか)分からんのちゃうか?」という感想。

京都に住む娘さんとお孫さんにも再会。幼かった4歳の男の子は高校生になっていた。娘さんは父親らしい生き方には納得していて、藤川さんの「出家の為に京都に捨ててきた」というわだかまりも解けたような親子だった。元々仲が悪い訳ではなく、私が出家する前も藤川さんの托鉢姿を撮った写真を「娘に送るからパネルにしてくれ!」と頼まれたこともあった。タイからも日々こんな黄衣姿で頑張っている証を見せたかったのだろう(タイの寺から帰国まで、夜の歓楽街、娘さんとの再会までが放送の内容)。

支援者に支えられ、新大久保生活が続いた藤川さん。ある日、新大久保駅に向かう途中の路上でツッパリ兄ちゃんと肩がぶつかって因縁つけられたという。脅されてもビクともしない藤川さんだが、少々の説教を言ったところでボディブローを一発喰らい、“ウッ”と一瞬後退り。若者は走って逃げて行ったが、下手な素人パンチ、効いたパンチではなかった。藤川さんも「ワシの若い頃と同じやな!」という。あの若者もこの先行きが何も分からない、ツッパルだけしかない幼稚な存在だろうと。

藤川庵でオモロイ説法する藤川さん(2007年5月24日)

◆やがて体調に異変が

日本に移ってからもミクシィを使って多くの出会いあり、オモロイ坊主の説法へ各地へ向かうこと増え、インドのヨガを源流に持つヴィパッサナー瞑想も実践して勧めるなど、充実した日々を送っていたようだった。もう私は会いに行くことは滅多に無かったが、その翌年(2007年5月)、仏門での私と藤川さんの絡みに興味を持っていた私の友達を連れて、新大久保の藤川庵へ向かった。狭い部屋ながら生活必需品が揃ったタイの寺の部屋のような感じだった。そこでも笑いを誘いながら人の身になった指導をしてくれる藤川さん。言葉に落ち着きが増し、以前の喋りだしたら止まらない鬱陶しさは消えていた。

その後(2009年5月)、新宿での待ち合わせで、一度だけ昼飯に呼び出されたことがあったが、その時は黄衣は纏わず、肌色系の羽織物を着て杖を突いていた。老化で右膝が痛くなってきたのだという。黄衣を纏わないことは戒律違反。寒い日本に来たり、北朝鮮に渡った時は靴下を履いたり、シャツやモモヒキを穿き、毛糸の帽子を被ったりもしていたが、これも戒律違反。寒い時期は仕方ないと思うが、これ以外はしっかり戒律を守ってきた藤川さん。

そんな羽織物姿で「小便横丁行こう!」という。思い出横丁のことを小便横丁と呼ぶ藤川さん。その由縁は想像に難しくない終戦後の飲み屋街の環境だろう。

向かう途中、「ワシの母親は早うに呆けてしもうたからな。ワシも歩けんようになったら終わりやと思うで、呆けんように無理してでも歩くようにしとるんや!」と言い、以前より明らかに歩くスピードは落ちていた。

◆深刻化する病状

私と最後の昼食となった日の藤川さんの姿(2009年5月9日)

前年(2008年7月)には尿路結石破砕手術を受けていた。タイでの寄進から得る食生活は栄養が偏りがちだろうと思う。「タイは生野菜を食べる習慣が無いから果物で補うしかない!」と言っていたこともあった。

小便横丁で昼食を摂る藤川さんの手が、やたらデカく見えた。「手、デカくなっていませんか?」と聞くと、「全身浮腫んどるんや!」と言う。次第に老化からくる免疫力の衰えがあるのだろうか、帯状疱疹も患っていた。腕や背中に発疹ができ始め、それが黄衣が擦れると凄く痛いのだという。だから極力痛みを抑えられる羽織物に替えていたのだ。俗人時代から抱える糖尿病も影響していたかもしれない。

更には胃癌を発病した藤川さん。胃の内側でなく、胃壁の中に出来る腫瘍ですぐには見つかり難くかった進行癌だという(と言う解釈だったと思う)。

もしかしたら、藤川さんは何らかの身体の異変に気付き、医療を受け易い日本に帰ろうと思ったのではないか、そんな想いも過ぎった私であった。タイも医療は発達した国であるが、主要都市の大病院に限るだろう。

そんな状況でも、手術や抗ガン剤などの治療で入院生活に縛られることを拒みながら「あと1~2年の命を貰えんか!」と医者に懇願した藤川さん。まだまだやり残した仕事があるのだろう。

2010年1月末、連絡も少なくなった藤川さんから珍しく私に電話が入った。「また近いうちに会えんけ? もう長うないんや!」という弱々しい発言。

私はすぐに空く日は無く、「また暇になったら行きますよ!」と冷たい言い分を残して電話を切ってしまった。毎度の一方的な要求には何度も応じて来たし、体調は悪くても、そんな切羽詰まった状況とは思わず、もう少し暖かくなったら行って来ようと思っていたところだったが、これが最後の会話となってしまったのだった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年5月号 【特集】「新型コロナ危機」安倍失政から日本を守る 新型コロナによる経済被害は安倍首相が原因の人災である(藤井聡・京都大学大学院教授)他

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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