◆財務省・福田淳一事務次官の居直り「辞任」劇

女性ならずとも、誰もが事態の推移に憤慨し、はらわたが煮えくり返るのを感じているのではないだろうか。財務省・福田淳一事務次官の居直り「辞任」劇である。週刊誌にみっともないセクハラ会話「何カップなの? 胸に触っていい?」「やめてください」「好きになったので、抱きしめていい?」「手を縛っていい?」「いやです」「キスしていい?」「ダメ」などをすっぱ抜かれ、いさぎよく認めるどころか「自分の声かどうか、録音なのでわからない」「あんなひどい会話をした記憶はない」などと言い逃れる。そのいっぽうでは「全体をみてくれ、あれはセクハラではない」と、なかば女性記者との会話をみとめているのだ。ここはもう、錯乱しているとしか言いようがない。

◎[参考動画]“胸触っていい?”「財務省トップ」のセクハラ音声(デイリー新潮 2018/04/12公開)

そして挙句の果てに「マスコミ取材がこういう状態なので、業務を遂行できない(お前らのせいで仕事にならん!)」と、職を投げ出したのである。みずからのセクハラ疑惑で報道騒動を起こしておきながら「お前らのせいで仕事ができない」のである。辞任は懲戒ではなく普通退職なので、多額の退職金が支払われる。そして「引き続き裁判で訴えるつもりだ」などと、訴訟を匂わせながらの会見も、おそらく民事裁判には踏み切れないだろう。ようするに、取材から逃げて事件を曖昧化することで、みずからの世間知らずな「プライド」を守りきったのだ。一般人になったからといって、セクハラの事実が消えるわけではないのを、思い知るべきであろう。

◎[参考動画]女性記者へのセクハラ疑惑の福田次官辞任会見(東京新聞2018/04/18公開)

◆世界に恥をさらした財務省

それにしても問題なのは、財務省の世間の常識と感覚からおよそかけ離れた人権意識である。誰の耳にも明らかな「事実認識」のために、セクハラ被害者に名乗り出るようもとめ、しかもその相談先が財務省の顧問弁護士事務所なのである。顧問弁護士が雇い主である財務省に忠実であろうとすれば、被害者を誤動するか、もみ消す方向に導くにちがいない。いや、そもそもセクハラの恥辱と恐怖で傷ついている被害者に「名乗り出るのがそれほど苦痛なことか?」(矢野康治官房長の国会答弁)、「相手のある話でしょ。むこうが出てこないと、福田にも人権はある」(麻生財務大臣)などと言い放つありさまだ。省庁の中の省庁、財務省が世界に日本の恥をさらしていることに、まだ気づいている様子はない。「何が何だかわからない」「異常な事態だ」(放送局の取材に答えた財務省幹部)というのだから――。野田聖子総務大臣(女性活躍担当大臣・男女共同参画特命担当)の「財務省は国際的な人権感覚をわかっていない」という批判に耳を傾けるべきであろう。

◆米山隆一新潟県知事は辞める必要はあったのか?

いっぽう、米山隆一新潟県知事は女性との交際が問題だと週刊誌に書かれ、金銭のやり取りがあったと辞任した。この辞任劇については、ちょっと不思議な気がする。米山知事は独身なのである。女性との付き合いは、いわば婚活ではないだろうか。

東大医学部で医師免許を取得するいっぽうで、司法試験にも合格する秀才であって、モテないのも不思議なことだが、ネットで知り合った女性と会っていたという。その場で「わたしを好きになってくれ」と気持ちをこめて金銭を渡したことから、売買春の疑義が飛び出したというわけだ。おカネを出すからホテルに行こうと呼びかけたわけではない。いったい何が問題だったのだろうか。そもそも婚姻制度とは性生活の安定であり、経済システムとしては買売春と変わるところがない。セックスと経済的な結びつきでによって、夫婦は成立しているのだから。

◎[参考動画]「歓心を買うため」“買春”報道で米山知事が辞職願(ANNnewsCH 2018/04/18公開)

たしかに政治家は清廉潔白を求められるかもしれないが、米山氏は女性にカネを渡して「おれの女になれ」と言ったわけではない様子だ。くり返すが、彼は独身である。不倫でもないのだ。問題があるとしたら、相手の女性に男がいて、強請りのようなシチュエーションになったのは想像に難くない。それならば被害者的な側面すらあるではないか。

おなじく女性問題でミソをつけたエリートで、いっぽうは自分の罪を押し隠し「一般人」になることでマスコミと世間の追及から逃れようとする財務省のトップ。かたや選挙に4度も落ちた苦労人で、原発再稼働に待ったをかけた政治家の下半身問題でのあまりにも不思議な潔さ。デジ鹿の読者のみなさんは、これらの事態に何を感じただろうか。

◎[参考動画]新潟県 米山知事が辞職 会見の中身は(PRIDE OF NIIGATA 2018/04/18公開)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する

『NO NUKES voice』15号 米山隆一新潟県知事講演録=原子力政策と地域の未来を問う

◆国民の4分の1が開港に反対だった

管制塔占拠――開港阻止は、あまねく国民に三里塚空港の問題点を伝えた。議会は実力による開港阻止を批判し、ほぼ全会一致で暴力的反対運動を退けるために成田治安立法を決議した(青島幸男議員が反対)が、マスコミによると国民の4分の1が農地を空港にすることに反対だった。問答無用の土地収用、地域社会・共同体の破壊につながる空港が本当に必要なのか、国民的な議論が沸き起こった。空港問題を国民に知らしめただけで、3.26闘争の意義は大きかったといえよう。

戦前・戦後をつうじて、反政府の大衆運動がまがりなりにも警察権力に勝った、初めての闘争でもあった。岸内閣を倒した名高い60年安保闘争も、警備当局を驚嘆させた10.8羽田闘争(佐藤ベトナム訪問阻止)、東大闘争をはじめとする諸大学の全共闘運動も、「具体的な勝利」の地平を切りひらいたものではない。60年代後期の大学闘争では佐藤政府の介入で反故にされたものの、9.30断交で理事会を辞任させ、諸要求を勝ち取った日大闘争が唯一のものであろう。その意味では、60年代・70年代闘争のうっ憤を晴らす快挙だった。


◎[参考動画]1978.3.26 三里塚 成田闘争 管制塔占領事件(rosamour909 2010年5月13日公開)

◆財界による和解調停 ── 桜田武の手紙

いっぽうで、政治的な駆け引きもはじまった。地域的とはいえ、改造トラックやダンプカーが機動隊を蹂躙し、鉄筋コンクリートの要塞からは鉄筋弾が飛びかう。そして管制塔が占拠されたことで、和解への道がさぐられた。それは政府においても、空港反対派においても同様だった。闘争には妥結という果実が必要であり、相互絶滅にいたる闘争の展望を語る者は、おそらく共産主義革命という究極目標を措定したのにほかならない。いや、共産主義革命を標榜する者たちにおいてすら、革命のための陣地を確保すること。すなわち勝ち取った地平を、交渉において確約させることが必要だった。それは具体的には、三里塚空港二期工事の凍結という確約にほかならない。

最初にうごいたのは政府ではなく、財界と労働界だった。

総評の富塚三夫事務局長と福永健司運輸大臣が会い、話し合いの糸口を探ろうとした。それはしかし、とりあえず反対同盟内の社会党員と話をつなごうとする、形ばかりのものにしかならなかった。

 

桜田武=元日経連名誉会長、元日清紡績社長(1904年3月17日生~1985年4月29日没)

本気で和解――休戦協定への糸口をさぐっていたのは、財界人と影響力のある組合活動家である。財界からの接触をうけた長崎造船労組の西村卓司は、反対同盟の幹部に接触し、戸村一作委員長との面談を希望した。そのさい、西村は反対同盟の強硬派(絶対反対派)の幹部と会って、戸村との会見を取りようとしたのだ。西村は総評労働運動の最左派に位置する老練な活動家で、役回りとしてはこの人しかなかった。財界側は日経連専務理事(当時)の桜田武だった。

桜田武の手紙はこんな書き出しで始まる。

「西村卓司様                 桜田武

先般は御面識の儀を得て小生としても心おきなく意見を申し上げ、又戸村さんはじめ皆様のご意見を承はる事が出来大変に有難く且うれしく存じ候。其後福永健司大臣と一夕懇談仕りご要望の点等傳えて進言仕り候も思ふに任せず残念に存じ候。要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じ……」

この手紙を受けた西村は、開港阻止闘争の主力党派だった第四インターの政治局員・今野求に電話を入れた。会合したのは成田現地だった。そこで話されたのは、桜田武と土光経団連会長ほか、財界のトップが交渉に出席するので、戸村一作委員長の出席をお願いしたいと。戸村委員長の説得には時間がかかった。戸村委員長は清廉の士であり、裏交渉などという「政治」が嫌いな人である。

 

戸村一作=三里塚芝山連合空港反対同盟委員長(1909年5月29日生~1979年11月2日没)

最後は「戸村さん、2月の要塞戦を含め3.26闘争で若者たちが何百人も逮捕され、大怪我した者、死にそうな者もいる。管制塔は破壊されて、3月30日の開港は粉砕された。この後、敵の大将と掛け合って5月20日開港を止めるのは戸村さんあなたがやって下さい!」という言葉が決定的だったという(「3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末」柘植洋三)。

財界側は桜田武(日本経済団体連合会専務理事)・土光敏夫(日本経済団体連合会頭)・中山素平(興業銀行頭取)・今里廣記(日経連広報委員長)・秦野章(参議院議員)・五島昇(日本商工会議所会頭)。このうち二人は海外だったが、国際電話で直結されていた。当時の財界のフルスタッフがそろっていたわけである。

桜田武が発言した。

「そもそも、成田問題がこのようにこじれているのは、政府の12年にわたる不誠実に問題がある。成田はこのまま開港しても、天皇陛下が外国に行幸される際に使えるものではない。三池問題など戦後の大問題は、最後はわれわれ財界が始末を付けてきた。暗礁に乗り上げている成田問題も我々が、打開策を政府に提案したい」これに対して戸村委員長は、席上の相手を見据えて「話し合いなど必要ない、実力闘争あるのみ」と、政府の理不尽を糾弾した。

 

戸村一作『わが十字架・三里塚―自己変革論』(1974年教文館)

会談は二回行われ、以下のことが合意された。

・政府は予定している5月20日開港を一年間延期する。
・一年間の休戦をする。その間、双方は共に実力行動を留保する。
・その間に双方の合意がなければ、一年後には戦闘再開。
・財界はこの条件を福田内閣に受け入れさせるために、運輸大臣に会見する。

財界としては、反対派との交渉のイニシアチブを握ることで福田総理の退陣をもとめ、空港問題の暫定的な解決をはかろうとする意図があった。それは膠着した空港問題の解決をはかるとともに、財界の存在感を世間にしめそうとするものでもあった。

いっぽう三里塚現地では、30をこえる支援党派・団体が共同声明を発表し、5月20日の出直し開港が強行されれば、3.26を上まわる闘いで粉砕すると警告した。5月10日のことである。そして同じ時刻に、戸村委員長が福永運輸大臣と会っているとの情報が入った。戸村・福永会談をセットしたのは、千葉日報の社長と自民党の成田空港建設促進委員長だった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚空港・開港阻止決戦 1978.3.26 包囲・突入・占拠(anzen bund 2014年2月16日公開)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

3月27日の朝は、無線でのやり取りで始まった。「要塞のみなさんに、各紙の一面記事を見せたいものです」「900の部隊が横堀合宿所前に集結しています。みんな生き生きとしています」などと、管制塔占拠の快挙に快哉をあげる。そのいっぽうで「900の部隊が集結」というのは、要塞からの脱出を900人で援護する準備はできているよ、という意味である。そして「南120メートル」という符丁を会話のなかに差しはさむ。要塞から120メートル南の脱出地点を、確保してくれという意味である。

◆放水を浴びたときは息ができなくなりそうで怖かった

 

『戦旗派コレクション』より

その日は、汗ばむほど暑かった。ガス弾が間断なく撃ち込まれて、ガスの飛散をふせぐために溜めた水のなかで弾けた。ガス弾はロケット花火と同じで、火薬の推進力で飛んでくる。なかには落下せずに裏の杉林に達してしまい、杉のほそい葉に引っかかったまま燃え尽きるのもあった。思いがけなく赤い炎をやどした針葉樹が、何とも美しく感じられた。かつて東峰十字路戦闘(機動隊3人が殉職)のときに、高校生で参加した友人が「ふしぎなことだけど、乱闘のさなかに赤い花を見たよ。そこだけ平穏で、風になびく花びらが綺麗だった」と語っていたのを思い出した。騒擾のさなかにも、人は静寂を意識するものだ。

暑いから放水でも来ればと思っていたが、夕刻になって放水を浴びたときは息ができなくなりそうで怖かった記憶がある。100メートルはあろうかという大型クレーンは、すでに完成してわれわれの眼前に四角い防護網(鉄製のネット)を垂らしている。10メートル四方はあっただろうか、その防護網が最後に何のために使われるのか、まだわたしたちは気づいていなかった。

◆首の近くでガス弾が破裂した

夕刻に本格的な戦闘になった。首の近くでガス弾が破裂したので、わたしはいったん3階の風呂場に行って水で流してもらった。なぜか発電機が止まっていて、換気扇が使えないから2階あたりまで催涙ガスがしのび込んでいた。昼過ぎのことだったか、突然真顔になって「外に出て、重機を壊しにいく」と言い出した人がいた。あれは軽いパニック障害だと思う。要塞の一階はトンネルから掘り出した土で埋まっているから、もうトンネルいがいに外には出られないのだ。やがて夕陽が地平線ちかくに落ちたころ、ブルドーザーが整地をはじめた。まもなく重機が前進してくるはずだ。

そしていよいよ放水がはじまった。要塞の縁には工事用の鉄パイプを立てて、べニア板を縛り付けてあったから、そこで放水が跳ねる。水しぶきで何も見えなくなったとき、クレーンがいきなりガーンと下りてきた。組み立てられた大型クレーンではなく、ユンボのクレーンだった。左右にうごいて、鉄パイプをなぎ払う。直系5センチ以上の鉄パイプが、飴のように折れ曲がるのには驚いた。クレーンに火焔瓶を投げつけては、放水がそれを消す。割った火炎瓶に火を点けて、機動隊員が乗り込んでくるのに備える。しかし、どうやって乗り込んでくるつもりだ。その答えはまもなく、おどろくべき現実の光景となった。大型クレーンの先に垂らしてあった防護網が要塞の上に水平に倒されたのだ。そのときは気づかなかったが、下敷きになってしまった仲間もいた。

◆土を掻き、残土を後方におくる

「全員、地下二階までおりろ!」という指揮者の声で、わたしたちは階下に殺到した。5人が鉄塔に登っていくのを見た。その5人のうち2人は洋弓を持っていたので、殺人未遂が罪名に加わることになるが、さいわいにも執行猶予付きの判決だった。わたしのほうは残念ながら火炎瓶は何本も投げられなかったが、投石やガス弾を避けるのに必死で、それなりにからだが動いていたのだろう。地下トンネルに入ったときは、もうこれで逮捕されてもいいやという気分になっていた。溜まっていた疲れからか、ラグビーの試合を終わったような爽快感。じっさいには、脱出は困難だろうと誰もが思っていた。山狩りで発見された感触はなかったものの、トンネルがどこまで達しているのか、はなはだ不安なのである。私たちは東側の短いトンネルに向かい、大所帯の第四インターが南の長いトンネルに向かった。

「出られそうか?」全身をつかって土を掻き、残土を後方におくる。やがて風が入ってきた。先頭のひとりが出ようとしたとき、機動隊の声がした。「いたぞ!」脱出戦術は読まれていたのだ。しかし指揮系統の乱れか不徹底か、すぐに踏み込んでは来ない。そればかりか、トンネルの前で茫然としている機動隊員の姿が、夕刊の記事になっていたのを、のちに知った。

◆父親ほどの年輩の機動隊員に逮捕された

わたしたちは南側の長いトンネルに向かった。そこには、インターの部隊がまだ疲れた表情でいるのだった。やはり土手までは達していなかったのだ。やがてわたしたちを襲ったのは、酸欠という恐怖だった。「はぁはあ」と激しく息を吸わないと、息ができない。秋葉哲さんの「もういいから、上に向かって掘りなさい。空気を入れなさい」という指示で、スコップを上に向けた。すぐに穴が開いて、ちょうど機動隊の靴が見えた。上から「反同(反対同盟の警察用語)か?」と誰何された。引き上げられて、顔面を鉄甲でかるく一発。わたしは父親ほどの年輩の機動隊員(専門職ではなく、地方から動員された管区機動隊)に逮捕された。「だいじょうぶか」と言われたのを覚えている。最初の脱出失敗が8時ごろだとして、最終的に逮捕されたのは翌日(午前1時ごろ)になっていたから、5時間ちかくも土と格闘していたことになる。千葉刑務所内の拘置所に連行された翌朝は、まぶしいほどの陽光のなかに桜が満開だった。

 

『戦旗派コレクション』より

◆脱出トンネルも無駄ではなかった

思い返してみると、要塞からの脱出トンネルも無駄ではありませんでした。というのも、公判廷で二人目の裁判長(刑事事件は嫌いだと公言する、民事畑のやさしい人でした)は被告人質問で「あなたがたは要塞に残ったけれども、外に脱出した人もいたのでしょう?」と丁寧にも言ってくれたのだ。わたしたちは、運わるく脱出できなかったのではないかと―――。対するに検察官は、わたしたちのほかに誰も脱出した者はいなかったとの立証を詰めない甘さにも気づいていなかった。つまり裁判長のわたしたちへの同情の念を払しょくしないまま、論告求刑を終えたのである。これはマヌケというほかはない。反対同盟3幹部が相い被告ということもあって、前述した殺人未遂の要件を課せられた5人も執行猶予付きの判決だった。ドジな検察にはすいませんが、めでたし♪

わたしの三月要塞戦の物語は、ここまでにします。その後の三里塚闘争が和戦両様をたどりながら、どんなふうに変化していったのか。とくに話し合い路線の帰趨をたどってみたい。(つづく)


◎[参考動画]NARITA STRUGGLE 1978 成田空港管制塔占拠 Part 2

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

最新『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

 

『戦旗派コレクション』より

わたしたちが要塞に入ったのは、3月の上旬だった。横堀の団結小屋に集合して、そこから水田の畔をたどるように、靴を泥濘にとられながら要塞の裏手の土手を駆けのぼった。要塞に入ったとき、反対同盟のI・S氏(青年行動隊)から「政府と公団は3月30日に開港を祝して、500人ほど政財界の人間を集めてパーティーを開こうとしているらしい。それに一泡吹かしてやろうじゃないか」という目的を告げられた。そのために、要塞から東と南に抜け穴を掘って脱出路にする。あるいは長期籠城ができるようなら、その穴を補給路にする計画を告げられた。ようするに、要塞に引きつけた機動隊を地下道で翻弄する長期戦を視野に入れたもの。逮捕されない戦いをする、というものだ。てっきり逮捕覚悟と思っていたものが、脱出できる計画だったのだ。これは嬉しかった。一か月近くも前に要塞に入れられたのは、そういう妙味のある計画だったのである。

◆三里塚の大地にトンネルを掘る

翌日から、短いほうは東に50メートルほど、南に向けては100メートル以上のトンネルが掘りはじめられた。要塞は2階が居住空間で、3階にはガソリン入りのドラム缶が置いてあった。発電機をつかった電気なので、ときおり蛍光灯が消えたり点いたりでグローブ球がスパークする。ガソリンに引火しないかとヒヤヒヤしたものだ。反対同盟の幹部(北原事務局長・石井武実行役員・秋葉哲救対部長)の3氏は3階の特別室だった。2月要塞戦では内田行動隊長以下、最先頭で闘っていたが、それは鉄骨だけのスケルトン状態だったからで、コンクリートを打った要塞では、文字どおりたてこもるしかなかった。したがって、反対同盟幹部の活躍はほとんどなかった。それはそれで、何となし士気を削ぐような印象がしたものだ。その幹部たちが入ってきた頃には、トンネルはおおむね完成していた。

それにしても、厳寒のなかを剥き出しの鉄塔で悲惨なたたかいを強いられた2月要塞戦にくらべると、わたしたちの3月要塞戦は恵まれていたというか、申しわけないほど好待遇だった。三食休憩付きの二交代勤務のうえ、バス・トイレ付、コックと栄養士も居たのだから。そしてあまり使えなかったものの、火炎瓶用のガソリンや鉄パイプ、鉄筋弾にブロック片と武器もよりどりみどり。2月要塞が補給のないガダルカナルやインパール作戦ならば、われわれは潤沢な武器と兵糧を備えたマレー攻略部隊のようなものだった。たとえが悪くて、すみません……。

トンネルの掘削はけっこう愉しかった。三里塚の土は黒いビロードのように細かく、いわゆる肥えた土壌である。ところが、いったん表土をくぐると、関東ローム層はやわらかい赤土だった。小ぶりの鍬だったと思うが、サクサクと一時間もすれば50センチは掘り進んだような記憶がある。ときおりバサッと落盤してヒヤリとする。ヒヤリとするのはそのたびに壁に這わせてある電灯が一緒に落ちてしまうからだ。安物の電灯だったのか、よく切れてしまった。消える前の煌々と明るくなる瞬間がはかない。どのくらいで土手に達しただろうか。50メートルのトンネルはすぐに堀止めとなった。完全に貫通してしまうと、警察の事前捜査で発見されてしまう。

 

『戦旗派コレクション』より

◆三里塚・野戦の夜空

鉄塔が運び込まれたのは、3・26の何日前だったかハッキリおぼえていない。要塞の下で何台ものクルマを連ね、警備している機動隊や私服刑事にむけてヘッドライトを照射しながらの搬入だった。そして3月25日の昼から、航空法違反49条の構成要件とされる鉄塔の組み立てがはじまった。のちに起訴状で知ったことだが、2月要塞戦(連載第2回)の採証で立ち入り捜査をしようとしたところ、火炎瓶が現認されたので取り締まりに入った、ということになっていた。「火炎瓶を現認したので、これより取り締まりを行なう」という警告は確かに聴いた。ヘリコプターが接近していたから、おそらく写真を撮っていたはずだ。ということは、警察は航空法49条での立件に自信を持っていなかったのであろう。

ともあれ、これで警備当局には立ち入り調査・取り締まりの名分ができたのだった。その夜、まず目隠し用に立てていた竹のバリケードが、装甲車によって一本ずつ押し倒された。それを待っていたかのように、こっちも応戦する。武器はY字型に鉄パイプを溶接した大型パチンコから鉄筋の矢、腕に装着してつかうパチンコ、ブロック片、そして火炎瓶である。鉄筋の矢は威力がすさまじく、直進して着弾すると「ドコン!」と装甲車の防護壁が音を立てる。一瞬、装甲車が動きを止めて「おおっ、当たった」「動かないぞ」。一説には、装甲車の装甲版に突き刺さったともいう。しかし、矢のダメージで動きを止めたわけではなかった。装甲車の内部では「被弾しました」「異状ないか?」「ありませんツ!」などという会話があったかどうかは知らない。そしてガス弾がバンバン飛んできた。夜空に花火のように火薬の弧を描きながら、鉄塔にコキンと当たって落下してくる。きな臭い嫌な匂いで、涙がでてくる。その夜は15分ほどの戦闘で終了した。

◆要塞西側は機動隊車両で埋め尽くされていた

 

『戦旗派コレクション』より

翌3月26日、三里塚第一公園で全国集会が開かれる予定だ。わたしたちのたてこもる要塞の西側は、門前市をなすがごとき機動隊車両で埋め尽くされていた。集会後はカンパニアデモじゃなくて、こっちまで攻めてきてくれよと思ったものだ。というのも、100メートルはあろうかと思われるクレーンが、わたしたちの眼前で組み立てられているのだ。やがて、あれが要塞からの攻撃を防御する防護板を吊るし、機動隊の接近を容易にするであろうことは想像がついた。

いっぽう、本集会に先立つ午前中に菱田小学校跡地で別の集会が開かれたのを、わたしたち要塞籠城組が知るよしもなかった。「おい、あれは俺ら(味方)なのか?」という誰かの声で、赤ヘル軍団が菱田から東峰方面に、山林のなかを進撃するのに気づいたのだった。その行軍は陸続という表現がふさわしい、おりからの陽光にヘルメットの赤がまぶしかった。つぎに「おいあそこ、いったい何をやってるんだろうなぁ?」という声で、管制塔の方角に目を凝らしてみた。ヘリコプターが管制塔に近づいて、何かしているようだがよくはわからない。そのときは、そんなことよりも眼前の戦闘、といっても1キロほど離れているはずだが、赤ヘルと機動隊の激突に目を奪われていた。飛びかう火炎瓶、鉄パイプを振るっての死闘。まさに特等席からの「観戦」だった。炎は北東からの風にあおられて、草原を舐めるようにわれわれの眼下に達した。機動隊員が盾で炎を消そうとするが、もはや燃えるにまかせるしかない。「おいツ、く、空港のなかで炎があがっているぞ!」それは本当だった。黒煙がもうもうと上がり、破られた第9ゲートの向こうで空港が燃えている。5ゲート方面でもデモ隊がフェンスに肉迫し、火炎瓶が投じられている。

やがて、激突で逮捕された学生たちが、野っぱらを連行されてくるのが見えた。わたしたちが事態を知ったのは、二階に降りてからだった。ラジオの臨時ニュースは管制塔が占拠されたことを報じていた。「あれって、管制官を吊り上げてたんだな」と、ようやく管制塔の異様な風景に得心したのだった。のちに「管制塔に赤旗がひるがえった」と呼ばれる日のことである。その夜、わたしたちを包囲している機動隊が部分的に撤収した。「おい、機動隊が帰っていくぞ」「ホントだ!」それが全軍であれば、われわれは機動隊を退却させたことになるが、そうではなかった。(つづく)


◎[参考動画]NARITA STRUGGLE 1978 成田空港管制塔占拠 Part 1

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

多士済々の登壇者たち

 

集会冒頭で上映された『三里塚のイカロス』

管制塔占拠闘争から40年目をむかえた3月25日、連合会館で集会がひらかれた。参加したのは300人ほどだが、わたしをふくめて初老をむかえた元被告たち、三里塚闘争の歴史に興味を持っているという若い人の参加もあった。

◆映画『三里塚のイカロス』に感謝

冒頭に『三里塚のイカロス』が上映された。この映画では、加瀬勉さん(農民活動家)のインタビューをはじめ、第四インターの初期の現地闘争団の活動家、元中核派の三里塚闘争責任者(昨年雪山スキーで逝去)、支援嫁たち、土地買収を担当した公団職員(反対派に自宅を爆破され重傷を負う)に話を聞くかたちで、三里塚闘争の重たい陰の側面に光があてられている。反対同盟の3・8分裂をめぐる内ゲバについても触れられている。あるいは部落の共同体をのこすために、部落決議で移転に応じた辺田部落の支援嫁の自殺も、この映画のモチーフだったという。ちなみに、その女性は筆者の相被告(三月要塞戦)でもある。インタビューはたびたび、離着陸するジェット機の騒音にさえぎられる。観る者に、いやでも三里塚の現実が伝わってくる。まさに三里塚の過去と現在に向き合った、重厚な作品といえるだろう。この映画を撮った監督(代島治彦)とスタッフに感謝したい。

◆反対同盟の柳川秀夫さんの言葉

反対同盟の柳川秀夫さんからは「元被告の皆さんは、三里塚闘争で人生が変わったと思います。たとえ人生が変わっても、こうして会えているのだから、それはそれで納得のいく人生を歩んできたのではないでしょうか」と、自身も納得のいく生き方をつづけたいと語られた。そして三里塚闘争が歩んできた足跡を振り返りながら、「腹いっぱいではなく、腹八分目で生きていく社会、不自由なく持続できる社会に作り変えていく内容があるのではないか。そのための運動を持続していきたい」と提案された。哲学が感じられる話だった。

反対同盟の柳川秀夫代表

 

廃港要求宣言の会の鎌田慧さん(ジャーナリスト)は、当時をふりかえって「第2第3の管制塔占拠をという掛け声はあったが、あれは二度も三度もできるものではなかった。開港にむけた情勢が煮詰まり、反対運動が高揚したところに、ある種の必然性をもってやり遂げられたもので、管制塔占拠をしなくても廃港にできる運動を模索するべきだと感じていた」と語られた。そして持続的に社会のあり方を変えていく運動の質があれば、三里塚闘争の半世紀およぶ歴史は無駄にはならないし、伝えていかなければならないと述べた。

 

まさにその世代をこえた伝承が、木の根ペンションで行われていることが、ビデオで報告された。すなわち、木の根風車あとに造られたプール付きの木の根ペンションが再開され、若者の音楽を中心にイベントが開かれていることだ。その担い手は、現地闘争団のメンバーを親に持つ若者(大森武徳さん)である。幼いころから現地闘争を目にしてきた彼は、自分よりも若い世代にも伝えていきたいと語っていた。大森さんは有機農業をひろめることを、営農のテーマにしているという。

主催者でもある管制塔被告団の平田誠剛さんの挨拶、現地に住んで現闘を継続している山崎宏の第3滑走路計画の解説、清井弁護士からの発言につづいて、支援嫁のひとりである石井紀子さんのメッセージが代読された。

◆三里塚闘争に女性が継続して参加できない側面があった事実

メッセージで印象的だったのは、彼女自身がリブの出張所として三里塚に来たつもりだったが、それはじつに困難な道だった。今回「女性の発言者がいないので」という理由で参加を要請されたが、どうしてほかに女性の参加者がいないのか、と疑問が提起された。もちろん集会に女性参加者はいたが、三里塚闘争には女性が継続して参加できない側面があったのは事実である。このあたりは深く切開されなければならない、日本の社会運動全体の問題であろう。

遺影は、新山幸男さん(右・第四インター)、原勲さん(左・プロ青同)

◆あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった

 

全国で空港反対運動を持続している反空連などの発言のあと、管制塔被告団が壇上に上がった。その後の人生の歩みや現在が語られ、なるほど多士済々の彼らならではの管制塔占拠なのだなと思わせるが、壇上からは「われわれは、あの日各所で闘っていた、みなさんの一部にすぎないのです」という発言があった。そう、あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった。政府と農民の非妥協のたたかいが、最終的にのぼり詰めた先。78年3月の開港阻止闘争そのものが、管制塔占拠という歴史的な勝利をもたらしたのだと思う。

レセプションでは、わたしも三月要塞戦被告団として発言させていただいた。ほかに5・8(岩山大鉄塔破壊にたいする野戦)被告団、2月要塞戦被告団、第8ゲート被告団、第9ゲート被告団からも発言があった。それぞれが戦友会という雰囲気である。この連載でもふれるが、厳寒のなかで闘われた2月要塞戦にくらべて、わたしたちは用意周到な準備(バストイレ・三食付き・二交代でベッド就寝・大量の火炎瓶と鉄筋弾・鉄筋矢など)に加えて、脱出(補給)用のトンネルまであったのだ。

 

そこで、二次会では「3・26で管制塔を破壊したあとに、なぜわれわれは脱出しなかったのか」という議論になった。管制塔が占拠された夜、横堀要塞を包囲していた機動隊は一時的に、大挙して撤退していた。おそらく政府高官や官僚が事件後の視察に来たので、機動隊の警備状態をみせるために、一時撤退したのではないだろうか。しかしわれわれには、トンネルからの撤収は最後の段階まで持ち越された。撤退は議論にすらならなかったのである。

議論にできなかったのは、おそらく管制塔占拠・空港突入が赤ヘル三派(第四インター日本支部・プロ青同=共産主義労働者党・共産同戦旗派主流派)だったから、中核派(4名)はぜったいに要塞からの撤退に反対するだろうと思われる。ここで逮捕者を出さなければ、かれらは開港阻止闘争でまるっきり何もしなかったことになるからだ。事実、彼らは機動隊が突入するや、鉄塔に登って抗戦した(第四インターも1名が鉄塔に残った)。撤退のイニシアチブを反対同盟3幹部も取ろうとはしなかった。管制塔を破壊して開港阻止闘争に勝ったのだから、逃げも隠れもしまいという空気があったのも確かだった。いまこうして闘争記を書けるのも、あのとき逮捕されたからだと考えると、撤退の議論は懐旧をみたす酒の肴なのかもしれないと思う。冒頭に紹介した柳川秀夫さんの言葉ではないが、われわれは三里塚闘争で逮捕され英雄(一部の社会運動だけでの英雄ですが)になったことに、こころから納得しているのだ。

当時のヘルメット姿で物販する元被告たち

▼ 横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

ブログ『野次馬雑記』より

 

ブログ『野次馬雑記』より

横堀要塞建設は1977年の12月にはじまった。ちょうど三ノ宮さんの畑は野球のグラウンドのような広さの正方形で、その北端の杉林に面した場所に要塞は造られた。地下一階、地上三階の鉄筋コンクリート造りである。だが、明けて78年1月段階では、まだ2階と3階は骨組みのままだった。要塞を建てている「グラウンド」の反対側、要塞をバックスクリーンのあるスコアボード棟に見たてるなら、ベンチの位置にある作業小屋で暖をとりながら、中島みゆきの曲を聴いた記憶がある。荒井由実(ユーミン)の曲も新鮮な時代だった。2月6日、未完成の要塞の最上階部分に20メートルの鉄塔が建てられたのだ。滑走路(未完の横風用)の延長に建てられる鉄塔の高さが航空法49条に違反するとの警告は何度も受けていた。未完成にもかかわらず、大量の火炎瓶が運び込まれたのだ。その意図は何だったのか?

わたしの大学の先輩でもあるYさんのブログ『野次馬雑記』に転載されている、管制塔占拠闘争にかかわったH氏の手記(https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/)を読んでも、2月要塞戦の明確な意図は書かれていない。鉄塔が滑走路の延長上の妨害物とはいえ、まだ完成はおろか用地の買収すら目途が立っていないのである。航空法49条に本当に抵触するのか否か、あるいは当該である千葉県警と警視庁(警察庁)の判断がどうなるのか、それはおそらく本番の開港阻止決戦の計画にかかわる前哨戦だったはずだ。同時にそれは、戦術の検証にもなるはずだった。

ブログ『野次馬雑記』より

 

「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて

 

3.25集会で上映される映画『三里塚のイカロス』

事実、東京と千葉をむすぶ京葉道路に配置されたレポ(偵察役)は、警視庁から重機と機動隊のカマボコ(輸送車)が派遣されるのを現認している。ぎゃくにいえば、千葉県警はこの段階での取り締まりをためらったのであろう。いずれにしても、サイは投げられた。

要塞にたてこもった40人ほどの支援は、現闘の責任者クラスが多かった。反対同盟からは内田寛一行動隊長、婦人行動隊長の長谷川タケさん、小川むつさん(副行動隊長)、辺田の石井英祐さん、横堀の熱田一さん(のちに熱田派代表)、木の根の小川源さんの6名の幹部である。緒戦から火炎瓶が降りそそぎ、ガソリンの炎に包まれた毛布が落ちてくる。そんな光景がテレビ画面に報じられて興奮したものだ。わたしは党派の事務所に呼び出されて、そのまま労働者が運転するクルマで現地に運ばれた。空港付近に着いたときには、ヘリコプターのサーチライトに照射された要塞の鉄塔が夜空に、鮮明に浮き上がっていた。黒い針葉樹林のむこう。真冬の暗い夜空に、そこだけが切り取られたような、明るいステージに見えたものだ。

闘争現場はしかし、悲惨をきわめるものだった。凍てつくような極寒の夜空に、放水と催涙弾が飛びかう。鉄塔上では4人の支援活動家が抵抗をつづけていた。要塞を遠くのぞむ「グラウンド」に機動隊と対峙しながら、われわれはジュラルミンの盾と揉み合ういがいに何もできないのだ。まる24時間以上も激闘に耐え、飲まず食わず不眠不休で闘っている要塞戦士たち……。

ビニール袋に入れていたと思われるライターで、火炎瓶に着火して鉄塔下に炎が炸裂したときは驚いたものだ。そのかん、ゲートに火焔瓶が投げられた報が届いて、支援のデモ隊から喝采が上がるなど。夜を徹して対峙戦がつづいた。やがて夜が明けて、反対同盟の要請で鉄塔に登っていた戦士たちは投降した。不眠だったわたしたちも団結小屋からのクルマに収容されて、その行程で幻を見た記憶がある。夜明けの風景にあらわれた立木が、怪獣のように見えたのだった。あの怪獣は、何だったのだろうか。

3月1日の現地集会は、北総台地特有の赤風が吹きすさぶ中で開かれた。そしてこの時に、わたしは要塞戦への参加を示唆されたのだった。学内での運動に行き詰まりを感じていた矢先のことで、しばらく拘置所にでも行って資本論を本気で読んでみるか、などと軽く考えるいっぽう、のっぴきならないことになったなとも思ったものだ。そして反対同盟農民の闘いに呼応する決意を固めては、憶しがちな心を鼓舞するのだった。のちに暴力団取材でヒットマンたちの憶する心境を知って、似たようなものだなと思ったことがある。(つづく)


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

本来ならば開港から40年目とするべきところですが、三里塚闘争の歴史に思いをはせながら、表題を「開港阻止闘争から40年目」にしてみました。というのも、当時わたし自身が開港阻止闘争をたたかい、逮捕されて拘留一年を体験した現役学生だったからです。いまだに鮮明な記憶をまじえながら、成田空港・三里塚・芝山の地の過去と現在を、連載でお伝えしよう。多くの犠牲のうえに造られた空港であれば、犠牲者への鎮魂の記となる。

 

成田空港第三滑走路=C滑走路(3500メートル)の建設計画レイアウト(※2010年時計画図ではC滑走路は3200メートルと記されている)

◆40年ぶりに新たな空港拡張計画

つい先日のことである。開港から40年目の3月13日に、成田空港は第三滑走路(C滑走路・3500メートル)の建設が「空港機能強化策」として決定された。国土交通省(国)・千葉県・NAA(成田国際空港会社)・地元九市町村の4者の合意によるものだ。わたしと同じ世代なら、運輸省や空港公団と言い換えたほうがピンとくるのではないだろうか。計画は何度も見直されてきたが、今後10年をかけて年間発着回数が30万回から50万回に増加する計画だという。空港の拡張によって移転を余儀なくされるのは、150戸におよぶとされている。往時のような激しい反対運動はないものの、完成までは困難な道が予想される。そして農民・住民の苦悩はつづいている。

 

3.25集会ネット応援団が主催する「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて開催

三里塚芝山連合空港反対同盟(旧北原派)、三里塚芝山連合空港反対同盟・大地共有化委員会Ⅱ(柳川秀夫代表)も空港反対の旗を降ろしたわけではない。三里塚闘争は伝説ではなく、いまも継続しているのだ。反対同盟員の土地収用(借地の耕作権)をめぐる訴訟を中心に、法廷闘争が繰り広げられている。きたる3月25日には東京の連合会館で開港阻止闘争40周年のイベント(柳川派)も企画されているが、ここでは三里塚を知らない若い人たちのために、あるいは往時を知っている人たちの懐旧を満たすように、闘争の歴史を振り返ってゆこう。

 

1966年6月23日付毎日新聞(wikipedia「三里塚闘争」項より)

 

成田国際空港周辺の地区(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆闘争の黎明期

三里塚(成田)に空港建設が決まったのは、1966年のことである。国際化時代に相応して、羽田にかわる国際空港を検討していた政府運輸省は、いくつかの案(浦安・霞ヶ浦・木更津沖など)が立ち消えたあとに、冨里・八街(成田よりも千葉市・東京近い)にターゲットをしぼったが、地元農民の圧倒的な反対に遭う。そこで運輸省は皇室の御料牧場があり、大半が戦後の開拓農である三里塚・芝山を空港建設地に選んだのである。

だが、ここ三里塚・芝山でも農民の反対運動が沸騰し、66年8月には三里塚芝山連合空港反対同盟(1200戸・1500人)が結成された。なおかつ67年には共産党に代わって三派全学連が支援に参加することで、空港反対運動は先鋭化した。翌年にはベトナム反戦、全共闘運動がピークを迎え、青年学生層は三里塚闘争に参加することにより、学園や街頭での戦術を過激化させていった。いわば学生運動・反戦運動の過激化は、三里塚での戦術の高度化がもたらしたものだと、取り締まり当局を悩ませたものだった。のちに赤軍派や爆弾闘争に参加する学生の多くが、三里塚闘争で戦争なみの「野戦」を体験している。ちなみに、いまは穏健な物腰の某出版社の社長も、同志社に入って間もなく三里塚に足を運んでいる(『遥かなる一九七〇年代京都』鹿砦社刊)。かつて三里塚こそ「過激派」学生の源泉であり、反体制運動の聖地だったのだ。

 

当初の新東京国際空港計画案(運輸省『昭和39年度運輸白書』より)

◆ひそかに手に入れていた設計図

ところで当時の学生たちが三里塚で学んだ最大のものは、単なる過激化ではなく緻密な戦術ではなかっただろうか。反対同盟の農民たちは大雑把なようで、じつに緻密で巧みだった。戦術の工夫は先で触れるが、理念が先行する学生にはない現実性、具体性があった。負けても何かしら思想的な成果が残せればいいなどという、革命的敗北主義ではないのだ。たとえば68年に空港公団に押しかけたさいに、公団の分室事務所に忍び込んで空港の設計図を手に入れている。この設計図がのちに、管制塔占拠につながるのだから、偶然とはいえ結果からみると、農民たちの戦術は周到というほかない。

機動隊を前面に立てた外郭測量からはじまり、二度の土地収用阻止闘争(71年)は苛烈なものになった。農民たちが耕している土地はおろか、住居まで取り壊す土地収用である。もっとも、土地の接収は大金をチラつかせての切り崩しであり、買収である。土地の買収に応じた農民は、大黒柱を切り倒して家屋を倒壊させるのが習わしだった。条件派に転じた農家、ある日突然いなくなる農民たち。三里塚闘争の諸相は、そのほとんどが買収との闘いだったといえよう。それら農民の生活設計について、支援の学生・労働者ができるのも援農という物質的なものだった。思想や理念だけで運動ができる、学園や街頭での闘いは、そこでは何の保証も展望なかった。いっぽうで、反対同盟の農民を援農漬けにすることで、支援党派は三里塚闘争のイニシアティブを握ろうとする側面があったのも事実だ。それはそれで、のちに禍根を残すことになる。

◆熾烈な闘争で犠牲者も

第二次代執行(土地収用)が行なわれた71年9月16日、東峰十字路で警備の機動隊(神奈川県警)が襲撃され、警官3名が死亡、80名以上が重軽傷を負った。孤立した大隊編成(270名ほど)の機動隊に対して、700人ほどの反対派・支援学生が襲い掛かったものだ。襲撃したのは反対同盟の青年行動隊を中心に、社青同解放派、日中友好協会(正統)、共産同叛旗派、情況派、黒ヘルノンセクトなど、反中核派の支援党派、あるいは反荒(戦旗派)派のブント系だった。すでに三派全学連は分裂し、ブント(共産主義者同盟)も四分五裂の状態で、現地での行動もおのずとそれに規定されたものだった。

1972年になると、反対同盟はA滑走路の南端に岩山大鉄塔(60.6メートル)を建設し、空港公団の飛行検査を中止に追いやった。以降、鉄塔の共有化や戸村一作委員長の参院選挙出馬で運動の全国化をはかる。この時期、学園では内ゲバが死者を出す惨事をくり返していたが、三里塚闘争は全国住民運動の総本山という権威をもって、数多くの支援党派を統制していた(反対同盟を批判して、共闘関係を断たれた革マル派は除く)。こうして、70年代中盤までは膠着状態のまま推移していった。

成田空港「空と大地の歴史館」に展示されているヘルメット(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆岩山大鉄塔の撤去と火炎瓶

事態が動いたのは、福田内閣が「年内開港」を宣言してからだった。反対同盟は4月17日に大集会を準備し、2月、3月と段階的に決戦の準備を盛り上げていった。はたして、4月17日には1万7000人(警察発表9000人)を動員した。その矢先だった。5月の連休を前に、空港公団は航空法49条違反として、岩山大鉄塔を大型クレーンで撤去したのである。この年のゴールデンウィークの三里塚は戦場と化した。千代田農協周辺で機動隊と支援学生・労働者が激突し、火炎瓶取締罰則が施行(72年)されてから初めて公然集会で投げられた(ゲリラ的には何度も投げられているが、ソ連大使館に投げたマル青同が懲役3年の実刑を受けた)。

そしてこの過程で、臨時野戦病院を警備していた東山薫がガス弾の直撃を受けて死亡した。翌日、芝山町町長宅を警備していた機動隊が襲撃され、警官1名が死亡している。火炎瓶による襲撃だった。空港による犠牲者は、東峰十字路の警察官3名、その翌月に「この地に空港を持ってきた者を憎む」という遺言を残して自殺した三ノ宮文男(青年行動隊)をふくめて、6人目となった。合掌……。大鉄塔がなくなったことで、航空各社の完熟飛行が行なわれるようになる。開港阻止にむけた反対同盟は闘争の拠点として、横堀地区に鉄筋コンクリート造りの要塞を建設する。場所は自殺した三ノ宮文男の畑であった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚 成田闘争 岩山大鉄塔強制撤去 – 1977

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

山口組の分裂から2年半が経った。名古屋の弘道会を主流派とする六代目山口組(司忍組長・高山清司若頭)、そこから袂を別った神戸山口組(井上邦雄組長・入江禎副組長)。そして昨年の4月に、神戸山口組から離脱した仁侠山口組(織田絆誠代表)。三つの山口組が鼎立し、相互にしのぎを削っているのが現状だ。

◆分裂以後、死者5人、抗争事件100件超、逮捕者2000人超

六代目山口組の代紋“山菱”

組織犯罪対策法・暴対法・暴力団排除条例のもとで、かつてのような激しい抗争は影をひそめているものの、これまでに5人の死者をともなう100件以上の抗争事件が起きている。とはいえ317件の事件が発生し、双方に29人の死者を出した山一抗争(1984~1989年)に比べれば散発的であり、かつ大掛かりな襲撃計画によるものは少ない。市街地に監視カメラが設置され、24時間監視社会になっているのも、暴力団抗争の発生を抑制しているといえよう。

いっぽうで、山一抗争の逮捕者が560人だったのにたいして、今回の分裂抗争が始まってからの逮捕者は、じつに2000人以上である。ご苦労なことに、一人で何度も逮捕されている組員・親分も少なくない。ヤクザであることを隠してゴルフをした、親族名義でクルマを買ったなどの微罪(詐欺罪)で引っぱる。ほとんどが不起訴である。おそらく予算獲得のために、捜査当局が取り締まりの実績をつくっているのが実態であろう。今回の抗争では発射罪や銃刀法、殺人未遂に問われる拳銃はあまり使われず、クルマをバックで事務所に突入して器物破損事犯にとどめるなど、攻撃方法にも工夫が凝らされている。ヤクザである以上、基本的人権すら認めない改正暴対法と暴力団排除条例のもとで、抗争もままならないというのが現実なのである。

◆与党(主流派)が人事を独占し、他派閥は冷や飯に甘んじるしかない組織原理の無理

分裂そのものは、ある意味で当然のこととだった言える。昨日まで対等の兄弟分だった者たちが、明日からは絶対的な権力者である親分と、奴隷のように付き従う子分になるというのだから、組織原理にそもそも無理がある。組長を出した与党(主流派)が人事を独占し、後継候補にも自派の人間を据えると、他派閥は冷や飯に甘んじるしかない。

したがって、主流派になろうとすれば組織を割って出るしかないのだ。九州の道仁会(九州誠道会が分裂)、工藤會(内部粛清)など、武闘派の組織ほど分裂抗争に陥りやすい。組長の継承がすんなりといく関東(稲川会・住吉会・極東会)は、縄張りがしっかりと決められているからだという(『誰も書かなかったヤクザのタブー』タケナカシゲル、鹿砦社ライブラリー)。

もうひとつ、先代のカリスマ性が高いほど、スムースな継承は困難になるのではないか。

山口組の場合は、田岡一雄三代目が二代目山口登の逝去によって組長の座を得て、田岡のカリスマ的な力によって全国組織へと発展してきた。田岡のカリスマ性をかたちづくったものは、彼の親分としての非凡さ以上に、全国制覇という拡大戦略の成功によるものだ。田岡が三代目に就任したとき、組員はわずか33人にすぎなかったのだから、組織の拡大はそのまま田岡の権威につながった。

昭和30年代から全国でくり広げられたヤクザ抗争は、おなじ神戸を拠点とする山口組と本多会による、いわば覇権を競うものだった。本多会(大日本平和会)が消滅したあとはゼロサムゲームで、地方の小組織は吸収されるか連合するかで生き残りをはかり、山口組は巨大組織へとのぼりつめた。そこにはもはや、カリスマ的な権威ではなく執行部が官僚組織として立ち現れていた。五代目渡辺芳則は「わしが黙っていたほうが、うまくいくやろ」と、組織の実務を経済ヤクザの若頭・宅見勝らにまかせていた。その渡辺五代目が引退するとき、生前引退それ自体が山口組では初めてのことだったが、13名の直参組長たちが弘道会主導の六代目体制に叛旗をひるがえした。もっともそれは、反対派あぶり出しの陰謀だったとする説がつよい(『血別』太田守正、サイゾー刊)。

◆抗争がない時代とは、ヤクザが喧嘩で出世できない時代である

六代目山口組から袂を別った神戸山口組の井上邦雄組長

整備された巨大組織と規約(綱領)のもとで、秀でた人材がかならずしも組織の上位ポストに就けるわけではない。かつては武闘派でなければ人心を得るのは難しかった。対立組織の親分のタマを取り(つまり殺害し)、長い懲役を勤めた出獄後に、晴れて一家をかまえるというのがヤクザの出世の階段だった。その意味では、抗争なき時代にこそ分裂が始まったのである。それはヤクザの分散の時代と言い換えるべきかもしれない。

抗争がない時代とはつまり、ヤクザが喧嘩で出世できない時代である。そこで事業力に秀でた親分が幅をきかせ、月会費(上納金)を納められない親分は引退するしかない。まさに六代目山口組の分裂は、毎月85~100万円の会費と物品(ミネラルウォーターやトイレットペーパーなど)の押し売りへの不満からだった。そして月会費を30万円以下と定めた神戸山口組においても、実態は70万~80万であったという。この集金路線ともいうべき運営に叛旗をひるがえした仁侠山口組は、直系組長で10万円だという。ようするに、この分裂抗争は矮小化していえば、上納金をめぐる組織運営のちがいということになる。ということは大義のある仁侠道ではなく、自分が可愛いだけの経済道か金融道による分裂なのである。三代目田岡一雄はかつて、こう語った「わたしはうどん一杯でも、子分にカネを出させたことはありません」と。カリスマ親分はまた、清廉の士でもあったのだ。

◆史上初めて山口組トップに在日韓国人が立った仁侠山口組の組織形態

神戸山口組から離脱した仁侠山口組の織田絆誠代表

それでも、今回の分裂抗争でわずかに積極的なものがあるとすれば、神戸を割って出た仁侠山口組の組織形態であろう。代表の織田絆誠(よしのり)は、金禎紀が本名の在日韓国人である。伝説的な柳川次郎(梁元鍚)柳川組組長をはじめ、現役でも橋本弘文(姜弘文)極心連合会長、正木年男(朴年男)正木組組長など歴代幹部の多くに在日韓国人がいる山口組には、日本人でなければトップになれない不文律があるという。分派とはいえ、山口組のトップに在日韓国人が立ったのは史上初めてである。そして織田は組長ではなく代表としてのトップであり、仁侠玉口組では親分子分の杯を交わしていない。いわば、連合組織の代表なのである。組員の服装や髪の色も自由であるというから、その組織体質は準暴力団指定された関東連合のようなものかもしれない。若手の組員には織田の信奉者が多いという。たとえば仁侠山口組が事務所ビルを定例会に使っている古川組では、古川恵一総裁をのぞく組員全員が、それまでの親分(古川総裁)をみかぎって仁侠山口組に合流している。カリスマ性を際立たせている織田絆誠(50歳)とは、どんな人物なのだろう。

◆組織再編のキーパーソンとしての織田絆誠・仁侠山口組代表

織田絆誠は18歳で老舗博徒の酒梅組系に入門し、19歳のときに政治結社「日韓同志会」を組織している。酒梅を脱退後に一本独鈷の天誠会を結成し、22歳で四代目山口組内倉本組に入った。波谷組との抗争で懲役12年。その後、山口組の主流派である健竜会(渡辺芳則の出身団体)で井上邦雄の盃を受けている。実力・功績・系譜ともに十分の経歴である。

その織田が昨年9月に神戸山口組の菱川龍己組員に襲撃され、ボディガードのひとりが射殺されている。8月に織田が記者会見を開いて神戸山口組を批判していることから、神戸の組織的な犯行であるのは疑いない。あるいは神戸山口組による脅しだったが、偶発的にボディガードが殺されたのではないかと、暴力団ジャーナリストたちの見方が分かれるところだった。しかし、今年3月8日に菱川容疑者の逃走を助けた女性が逮捕されたことで、計画的な襲撃・逃走だったことが明らかになった。襲撃グループが軽機関銃と思われる武器を携行していたことからも、偶発説はありえない。菱川容疑者の足どりが注目されるところだ。

もうひとつ、織田代表に注目が集まるのは、彼が仁侠山口組を過渡的なものと考えているからだ。何のための過渡的な組織かというと、六代目山口組への復帰である。織田代表が語るところでは、六代目山口組は獄中の高山清司弘道会会長の意向で、再統合もありうると言う。もっとも高山は、即座にこの話を拒絶したという(ジャーナリストの言)。分裂による組織の弱体化を期待する捜査当局にとっては迷惑な話かもしれないが、抗争事件による思いがけない事故に巻き込まれるよりは、再統合のほうがマシである。カリスマなき時代に、若きカリスマの資質をもった織田絆誠は、まちがいなく組織再編のキーパーソンといえよう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)ヤクザ取材歴20年の著者による「とっておき」の話。安倍晋三の腹心は、ヤクザの系列会社に票を束ねてもらっていた/九州に進出しないと確約した山口組の念書が存在する/ヤクザを食いものにする芸能人たち他

 

日販のネットルート送品(web-Bookセンター)

わたしが雑誌を編集している出版社に、突如として大量の注文票が入ってきた。いずれも大手取次会社である日販(日本出版販売)のNET集品(北区王子事業所)だった。注文の数が半端ではないのだ。注文は過去の在庫品数十点におよぶばかりか、それぞれが複数の冊数なのである。注文は本体価格で総計、じつに30万円以上におよんだ。月に10万円もいけばいい既刊の注文が3倍にもおよんだのは、わずか3日ほどの出来事である。担当者は在庫を倉庫から取り寄せるのに苦労したという。

これが「薄利多売」(社長談)の鹿砦社なら不思議ではないかもしれないが、その版元の本は、本体価格が3000円以上の人文系の専門書ばかりなのだ。売れない本ばかり出しているように見えるが、大学の研究者たちの講義での教科書採用を見込んだ殿様商売的な出版事業を行なっている版元である。春の教科書採用品いがいに、こんなに注文が来るのは珍しいことだ。この現象は、いったい何なのだろうか?

ここで一般の読者のために、出版社と取次の関係をあらためて解説しておこう。周知のとおり、出版社が新刊を出すと、本は取次会社をつうじて書店(本屋さん)に配本される。これをパターン配本という。いっぽう本の注文は一般の読者が書店で依頼し、書店から出版社に注文書が出される。電話やFAXで注文をすることも少なくない。これはネット販売でも同じで、ネット販売書店(アマゾンや楽天ブックス、e-honなど)から出版社に、日販などの取次会社を通して注文票が送られ、そのルートでネットへの出荷が行なわれてきた。

ちなみに、出版社は取次に正味(本体価格の)67~73%ほどで本を納品し、書店の取り分は15%前後である。これが雑誌ならば出版社の正味が63~65%で、書店の利益がすこしは多くなる。いずれにしても、頑張って本や雑誌を10万円分売っても、書店は15000円ほどしか儲からない仕組みなのだ。本が売れなくなった昨今、個人経営の書店が廃業するのは仕方がないことなのかもしれない。出版不況は出版社も取次会社も同様である。

書店で本が売れなくなった理由は、巷間に言われている活字離れだけではない。かつて5万店といわれた書店が2万店を切るようになった現在、ネット販売と電子書籍が本の売り上げの2~3割を占めるようになったといわれている。パソコンで注文すれば本屋に行く時間も節約できるし、最大手のアマゾンは中古市場のオークションでもあるから、何よりも本を安く買える。かく言うわたしも、手っ取り早く目的の本を手に入れるために、書店に足を向けるよりもアマゾンを使ってきた。書店の品揃えの悪さも一因なのだが、ネットで注文するほうがラクなのである。
じつはそのアマゾンが、上記した日販と揉めていたのだ。冒頭に紹介した日販からの大量注文の謎も、そこにあった。

 

 

アマゾン「e託」販売サービスの概要

最初にアマゾンから出版社に「e託」なる委託販売の案内があったのは、昨年(2017年)5月のことだった。それまでアマゾンは日販から本を仕入れて、おそらく販売マージンは15%前後で販売してきたはずだ。そのほかにも、上記したとおりアマゾンは中古市場でもあるので、古本屋からの出品から利益を得ていただろう。

すこし話はそれるが、このネットの中古市場が出版社にとっては難儀な問題でもあった。かりに新刊がアマゾンの在庫に10冊入ったとして、評判の本なら一両日で売切れてしまう。そこで、この本は売れるんだなと見込んだ古本屋がすぐに買い入れた新刊を、高値でアマゾンに出品してしまうのだ。その結果、定価のある新刊にもかかわらず、アマゾン市場では古本に高額のプレミアム価格が付いた状態になってしまうのである。したがって、新刊はアマゾンでは売れなくなる。そんな事情を汲んでかどうか、アマゾンは出版社に直の委託制度(e託)を持ちかけてきたのだろうと思われる。新刊を売りたければ、直の取り引きをしましょうよと。

昨年の6月末をもって、アマゾンは日販からの仕入れを終了して、出版各社と直の「e託」に移行するはずだった。しかし、少なくともわたしが知るところ「e託」の契約をしないまま、アマゾンは日販から仕入れていたはずだ。なぜならば、わたしが関わっている出版社は「e託」の契約をしていないのに、新刊がアマゾンに納品されていたのだから――。

それが急転直下、冒頭にのべた日販から大量注文があった数日後に、アマゾンから「e託の契約を是非」という電話があったのだ。ようするに、日販からはもう仕入れないのでe託で契約(年会費9000円)をして欲しいと。

したがって、日販が既刊を大量に注文してきたのも、アマゾンの動きに対応したものに違いない。日販はネット販売では「Honya Club」という販売サイトを持っているので、大量注文は自社販売でアマゾンに対抗するものと思われる。
読者にとってはアマゾンであれ日販であれ、安く本が手に入るのであればそれでいいだろう。いったん加入してしまえば、支払いもカードで決裁できるし、ネット販売は中古市場でもあるので価格が安い。

だがそのいっぽうで、アマゾンが持っている経済合理主義、あるいは新自由主義的な価格設定が、出版文化そのものをいとも簡単に突き崩してしまう危険性にも留意しなければならないだろう。売れるか売れないかだけのビジネスの基準を持ち込まれてしまえば、出版文化は成り立たない。たとえ今は売れなくても、本が読者を待つことを許容しなければ、出版文化はなくなってしまうのだから。アマゾンが出版文化を擁護する会社であり、なおかつ出版社との信頼関係を構築できるかどうか。わたしの知る限り、アマゾンの「e託」に躊躇している版元が多いのは、そんな理由であろう。

 

アマゾン「e託」販売サービスの年会費、仕入掛率

もうひとつの問題は、出版社の足元をみるかのような取引条件である。今回、アマゾンが出版社に提示した取引内容は、上記の年間9000円はともかくとして、本の正味が60%なのである。人文系の出版社には、後発でも68%のところもある。現状が62%(67%の正味に歩戻し5%=配本しただけでマージンが発生する。で62%)でも、これは受け容れやすいかにみえる。だが、どこまで下げられるか不安をぬぐえない。

たとえば数年前の記事をたどってみると、アマゾンは出版社との取り引きに大手取次よりも高率の正味を提示していた。甘言のようにも思える。それが一転して60%という低い正味になっているのだ。たしかに大手取次(いまやトーハン・日販しかない)も、ことあるごとに出版社の取引条件を改悪してきた。差別正味(大出版社を優遇する)にも問題はあった。お役所的な体質には、小出版社の経営者は辟易してきたはずだ。

しかしそれでも出版社ごとの事情に応じて、取次会社が支払い条件の便宜を払っていたことを、わたしたちは知っている。60%という正味を提示したアマゾンに、個別の条件を呑みこむ裁量の余地があるのかどうか。出版各社は見守っているのが現状ではないだろうか。差別正味や支払い保留で辛酸を舐めてきた出版社にとって、アマゾンに対する大手取次の対応も、ここは見極めたい気分なのではないだろうか。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

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10日(土)発売『NO NUKES voice』15号 総力特集〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

いよいよ2018年問題を迎え、大学の教育現場は存亡をかけた改革の試練、あるいは混乱に陥っている。この2018年問題とは、18歳年齢が減少に転じる大学の生き残りにむけた経営およびカリキュラム改革である。そしてその改革が臨時講師の雇い止め、共通科目のいわゆるリベラルアーツの削減として進行しているのだ。博士号を取っても就職できない高齢ポストドクター問題はおろか、いまや正教授すら解雇の対象となっている。

18歳人口は1992年に団塊ジュニアの205万人をピークに減少に転じ、2000年には志望者すべてが入れる全入時代に突入した。じつは90年代に大学は受験バブルを迎えて、学部の新設・定員枠の拡大をおこなっていた。一時的な定員増だったが、拡大した組織はおいそれと元にもどせるわけではない。大学の行政組織は任期の短い研究者の集団ゆえに長期計画に欠け、組織の改革は経営環境の変化に追いつけなかったのが実情である。

日本の大学どうする?~2018年問題(2013年10月23日付ブログ「これからは共同体の時代」)

2008年の1億2800万をピークに日本の人口が減少に転じるころには、18歳人口は120万人に減少していた。2014年には118万人となり、ここ数年は横ばいだった。事なかれ主義の大学経営陣も、さすがに危機感をもって改革に乗り出すのだが、その手法は学部の統廃合、環境学部、スポーツ学科など学生に人気のありそうな新学部、看護、観光など実学に即したものが目につく。

学生の減少とともに、郊外にキャンパスを移していた大学は都心部にもどってきた。関西では同志社が田辺から京都にもどり、東京では法政大学が市ヶ谷キャンパスの拡充を行なった。60年代の土地ころがしに失敗し、郊外移転を実現できなかった明治大学が人気になっているのをみて、都市型大学にもどしたというわけだ。その過程で肥大した組織が削減され、その削減が臨時講師の雇い止め、専任の解雇事件につながっているのだ。札幌学院大学の片山一義教授(労働経済論)が主催するサイト「全国国公私立大学の事件情報」には、のべ数百件の記事が掲載され、その少なからぬ事件が解雇問題なのである。

関東の主要私立大学志願者数推移(2016年06月24日付『サンデー毎日』2018年問題を生き残る大学は「こう変わる!」)

関西の主要私立大学志願者数推移(2016年06月24日付『サンデー毎日』2018年問題を生き残る大学は「こう変わる!」)

もうひとつ、独立法人化した国立大学もふくめて、各大学が経営の立て直しのために行なったのが、文部科学省官僚の天下りの受け入れである。予定調和的な教授会自治の上に、これまた名誉職的な理事会がルーチンワークをおこなっているだけでは、改革の大ナタは振るえるはずがない。そこで私学の多くが財界人を外部理事にまねき、元官僚に辣腕を振るわせ、よってもって補助金をにぎっている文部科学省との良好な関係を築こうとしたのだ。

この天下りは、一昨年らい国会でも文科官僚の再就職の斡旋が、組織的に行われているとして問題にされてきた。そしてこの天下り官僚たちが各地の私学で、まさに辣腕を振るうことで大学組織をズタズタにしているのだ。城西大学における創業者の水田一族の追放劇、梅光学院大学における反対派の追放による組織崩壊などは、氷山の一角にすぎない。「紙の爆弾」4月号では小特集が組まれる予定だという。

いっぽう、大学の2020年問題とは入試改革である。センター試験に代わって、大学共通試験と名を変えて行われる予定だが、その内容はマークシートを残しつつも、記述問題が大幅に導入されるようだ。そのために入試時期を前倒しにしなければ採点が追い付かない。文科省と高校側のつばぜり合いが行なわれている。また、英語は国が指定する民間検定に順次移行するとされている。AO入試の問題点と併せて、本格的な議論を呼ぶものとなるだろう。

大学問題では、2月26日に元大学職員でジャーナリストの田所敏夫氏の『暗黒時代の大学』(鹿砦社ライブラリー)が刊行された。大学改革および教育改革は、なおいっそう国民的な議論で検証されなければならない。大学の補助金は国民の税金であり、教育の行方はそのまま国家のゆくすえを決めるのだから。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

2月26日発売!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

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