◆逆境にたち向かう天皇たち

わが皇統は政治的衰退の中でたびたび、英明で剛胆な帝を輩出してきた。古代王朝が崩壊したあとの天皇は、平安期には摂関家藤原氏に、鎌倉期には武家政権の伸長に圧迫された。南北騒乱後の室町期には経済的な逼塞に、そして江戸期にいたると形式的な権能すらも奪われた。

にもかかわらず、豪腕な君子はあらわれるのだ。たといその権能が武家の権勢に虐げられたものであろうと、傑出した人物はかならず業績を残す。平安後期に後三条帝が貴族との戦いのすえに、院政を確立する過程をわれわれは見てきた。鎌倉末期には後醍醐帝の建武の中興に、武家から政権を奪還するこころみを知る。衰退いちじるしい江戸期においても、霊元帝が朝儀を復興させるめざましさに出会う。

京都御所

霊元天皇を語るまえに、その父・後水尾天皇にいたるまで、戦乱期の天皇たちの労苦をたどってみよう。南北合一朝の後小松天皇いらい、朝廷は室町幕府という公武政権のもとで衰亡してきた。後小松から二代後の後花園天皇の時代になっても、南朝の残党が内裏を襲撃して神器を奪う事件が起きている。そして応仁・文明の大乱が京都を焼きつくす。後土御門・後柏原・後奈良の三代にいたり、即位や葬儀の費用も幕府に頼るほど、皇室財政は窮乏する。

武家の戦乱によって荒廃した京都と朝廷を救うのは、やはり武家の権勢であった。織田信長、豊臣秀吉の天下平定の過程で、天皇は戦国大名の調停者としての地位を確立するのだ。足利義満いらいの幕府「院政」からの、それは相対的な独立性をもたらすものだったともいえよう。

戦国大名間の調停という独自性を獲得した正親町天皇、後陽成天皇をへて、後水尾天皇は即位した。すでに徳川幕府は大御所家康、二代将軍秀忠の時代で、豊臣家を滅ぼす計画に入っていた頃である。後陽成天皇が家康との不和から潰瘍をわずらったすえに譲位、弱冠15歳の即位であった。その当代および院としての「治世」は、戦国末期から霊元帝が即位するまで、70年の歳月をかさねている。晩年に造営した修学院離宮にみられるよう、学問と芸術を愛したことでも知られる。

その生涯は、禁中並公家諸法度をもって禁裏を統制する徳川幕府との戦いだった。後述する徳川和子の入内にかかる公卿の処分、紫衣事件など幕府との軋轢のうちに、突然の退位をもってその意志をしめした。徳川家の血をひく娘・明正帝をへて、その意志は息子たちに引きつがれる。嫡男の後光明帝は天才の名をほしいままにした俊英で、十代で儒学に精通する。そして久しく行なわれていない朝儀の復活に取り組んだが、22歳の若さで亡くなる。

弟の後西帝は識仁親王(霊元天皇=後水尾天皇の十九皇子)への中継ぎとしての即位だったが、在位中に火災や地震にみまわれた。とくに明暦の大火にさいして、幕府はこれを天皇の不行状によるものと断じた。ために後西帝は、十歳の霊元帝に譲位する。何という言いがかりであろうか。江戸で起きた火災の責任を、京都の天皇が取らなければならなかったのだ。実際の失火元であった老中阿倍忠秋はその非を問われないばかりか、日蓮宗妙本寺に責任が帰せられている。

霊元天皇の業績として数えられる大嘗祭の復活は、33歳で朝仁親王(東山天皇)に譲位してからのものだが、それこそが院政を敷いた深謀遠慮によるものといえる。というのも、院は朝廷の法体系の枠組みの外側にあり、したがって禁中並公家諸法度による幕府の統制が効かないのである。平安期の摂関政治との戦いとは、また違った意味で江戸期の院政は独自性をもっていた。幕府は院政を認めない方針を通告するが、霊元上皇はこれを黙殺した。

在位中の霊元帝は、後水尾法皇の遺命で決定していた第一皇子(済深法親王)を強引に出家させ、それに反対した小倉実起を佐渡に流刑にする小倉事件を起すなど、荒っぽい行動をためらわなかった。親幕派の左大臣近衛基熙を関白にさせないためには、右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓人事を行なっている。また、若いころには側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こし、これを諌める公卿を勅勘の処分にする。武家伝奏正親町実豊を排除するなど、やりたい放題である。

この時期の歴代天皇にみられるのは、後光明天皇のごとき儒教や朱子学への傾倒、あるいは神仏分離を唱える垂加神道への接近であろう。霊元天皇が一条冬経を関白にしたのも、冬経が垂加神道派だったからである。ライバルの近衛基熙はといえば、神仏習合を唱える吉田神道を支持していた。江戸期の朝廷において古神道への回帰志向が顕著になるのは、徳川幕府の仏教優先政策への反発ともいえる。やがてそれは、幕府も奨励する儒教と結びついた国学として、幕末の尊皇思想に結実していくのだ。

いよいよ近代の天皇を語るところまで歩を進めたわれわれは、その前に二人の女帝を記憶にとどめるべきであろう。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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ここまで六人・八代の古代女帝を紹介してきた。女性天皇は江戸期の明正帝(興子・一〇九代)と後桜町帝(智子・一一七代)をふくめて「八人・十代」ということになっている。

神功皇后(じんぐうこうごう)(歌川国芳『名高百勇伝』より)

ところが飛鳥王朝以前にさかのぼると、あと二人の女帝を歴代の史書はみとめているのだ。その一人は有名な神功(じんぐう)皇后である。この連載の08回「朝鮮半島からの血が皇統を形づくっている」でもふれた仲哀帝の皇后であり、応神帝の母親ということになっている。

「歴代の史学はみとめている」と、ことわったのは「記紀」の神話的な部分がその典拠だからである。神話的な記述をどこまで史実とするかは、同時代の文献や伝承・記録で証明する以外にないので、関連記事のない神功皇后の実在性はとぼしいと言わざるをえない。

いちおう触れておくと、「日本書紀」であるという説もある「王年代紀」に、彼女の即位が記録されている。この「王年代紀」が中国に伝わり、痘代の「新唐書」(列伝一四五東夷日本)と「宋史」(列伝二五〇)にも記述されている。中国に記録が伝わったのは、十世紀末のことである。

だが、中国の史書にあるから史実だと言えないのは、出典が神話世界に仮託されたものだからだ。神功皇后のモデルは卑弥呼説、朝鮮出兵の陣(九州)で亡くなった斉明女帝(皇極天皇)とする説(直木孝次郎)がある。じっさいに江戸時代まで、神功皇后は天皇という扱いだった。

もうひとり、一般の人はほとんど知らない「幻の女帝」がいるのだ。ふつうの歴史解説本には載っていない。いや、幻の女帝というのは語弊があるだろう。その女帝は実在性がきわめて高いうえに、同じ「日本書紀」の記述とはいえ具体的な(粉飾されない)エピソードの持ち主なのだ。その名を飯豊(いいとよ)天皇という。

皇極(こうぎょく)天皇

◆女帝は処女でなければならなかった

「日本書紀」の清寧天皇時代の記録に、飯豊女帝は「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」とある。飯豊青皇女は第一七代履中天皇(405年没)の娘とされている(「記紀」)から、清寧帝の時代には、少なくとも74歳になっているはず(このあたりが古代天皇史のいい加減なところで、やたらと天皇たちが長寿)だが、彼女は初めて「女の道を知る」(日本書紀)のだ。70歳をこえて「初体験」をしたというのだ。女は骨になるまで、とはよく言ったものだ。

別伝では履中帝の息子(市辺押磐皇子)の娘という記述があり、その場合は「70代で初体験」ではなくなる。20歳前後(雄略時代・清寧時代で27年間)ということになるから、記事の真実性が増す。

「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交(まぐはい)したまふ、人に謂りて曰く『一女の道を知りぬ、また安(いづく)にぞ異(け)なるべけむ、終(つい)に男に交はむことを願(ほり)せじ』とのたまう(※ここに夫有りといえること未だ詳らかならず=日本書紀編者注)」

「わたくし、初体験をして女になりましたが、どこか違うのではないかと感じました。また男とやりたいと願ってはいません」と訳してみた。初体験を語るとは、かなり明け透けな性格だったことがうかがえる。

文中に角刺宮(つのさしのみや)とあるのは、奈良県葛城市の忍海に実在する(現在は角刺神社=近鉄忍海駅下車徒歩4分)飯豊皇女の居住地である。

「日本書紀」の編者はおそらく、飯豊皇女が帝位を嘱望される存在だから、彼女がセックスをしたことに愕き、この記事を残したのであろう。帝位に就く女性は、独身でなければならなかったはずだからだ(卑弥呼・孝謙女帝などの例)。

そこで「※夫有りといえることは未だ詳らかならず」とあるのは、「彼女がセックスをしたからといって、その相手が夫になったとは限らない」なぜならば「彼女はもう逢わないと言っている」というふうな文意と注釈になる。なので、皇位に就くのに差し障りはない、ということだろう。古代においても、女系天皇は敬遠されていたのだ。

女性天皇は六人・八代の古代女帝に江戸期の明正帝(興子・109代)と後桜町帝(智子・117代)を加えて「八人・十代」ということになっているのだが……

◆第二四代天皇、飯豊女帝

いっぽう「陸奥国風土記」には「飯豊青尊が物部氏に御幣を奉納させた」とあり、飯豊青皇女が「尊(みこと)」すなわち天皇になったことを示唆している。飯豊女帝の即位の事情は、ハッキリしている。第二二代の清寧天皇が亡くなり、皇太子候補だった二人の皇子(大脚皇子=仁賢天皇と来目皇子=顕宗天皇)がお互に譲り合ったので、やむなく立てられた女帝と記録にある。

「日本書紀」における即位の記述は、顕宗天皇の「即位前紀」に「天皇の姉飯豊忍海角刺宮に臨朝秉政(りんちょうへいせい=ミカドマツリゴト)したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称(なの)りたまふ」とあり、上述の「陸奥風土記」を裏づけている。

平安時代の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、室町時代の「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されている。いずれも女性天皇(女帝)という記録である。

明治維新後、昭和20年までは宮内省において「歴代天皇の代数にはふくめないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。戦後、宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。これは「不即位天皇」としての扱いである。

宮内庁が「不即位天皇」にしようと、史実は別物である。飯豊青皇女、すなわち飯豊女帝の即位と執政は疑いない。したがって、わが国の女帝の数を「九人・十一代」としても差しつかえないのだ。日本史の新常識が、またひとつ増えた。

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その事件の発端は、伊勢神宮の神官が慶雲を見たことにはじまる。

神官の尾張守は平城京の方角の空に、五色の瑞雲が浮かぶのを目撃した。五色の瑞雲とはおそらく、夕日に映えた雲の変色であろう。彼はその雲を絵に描いて、道鏡の腹心である習宣阿曽麻呂(すげのあそまろ)に伝えさせた。道鏡から善政の吉兆だと、これを見せられた女帝はおおいに喜んだ。

この道鏡と女帝は、よく男女の関係とみなされてきたが、史料的な裏付けがあるわけではない。宣命にのこる女帝の言葉、道鏡への賛美を挙げておこう。

「この禅師の行を見るに、居たりて浄く、仏の御法(みのり)を嗣ぎ隆(ひろ)めむと念(おも)はしまし、朕も導き護ります己が師」

道鏡は、わたしの偉大な仏の道の師である、というのだ。修行をおこない、徳を積むことこそ天子(帝)の進むべき途だと、女帝はこころの底から考えていたのであろう。

女帝が喜ぶのを見て、道鏡は習宣阿曽麻呂に命じた。宇佐神宮に行って、何か吉兆がないか問い合わせてほしいと。

なぜ宇佐神宮だったのだろうか。宇佐神宮は地方の神社ながら、そのころ八幡神の神託で売り出し中だった。大仏鋳造にさいして、聖武帝が新羅に銅と金をもとめようとしたところ、神託をもってこれを諌めたことがあった。ちょうど武蔵と陸奥で銅山と金山が発見され、宇佐神宮はおおいに面目をほどこしたのである。

その後、奈良の大仏が完成したおりに、大神杜女(おおがみもりめ)という尼僧が入京して八幡神を勧進した(石清水八幡宮)。なぜ大神杜女が尼僧なのかというと、彼女は宇佐神宮の禰宜でもあった。古代神道が仏教を受容した結果、神仏習合が行なわれていたからだ。その宇佐神宮では大神氏と宇佐氏が、それぞれ弥勒信仰と観音信仰の神宮寺を建てて派閥抗争をくり広げていたのだ。 ※「天皇はどこからやって来たのか〈07〉廃仏毀釈──そのとき、日本人の宗教は失われた」を参照。

そこにやって来たのが、道鏡の使者・習宣阿曽麻呂である。大神杜女はその求めをおもんぱかり、道鏡を帝位にとの偽託をもって応えたのだ。都でくり広げられている事態、すなわち道鏡を中心とした仏教勢力(吉備真備・道鏡の腹心である円興・基信ら)と藤原氏の政争を知っている大神杜女にとって、これは宇佐神宮を牛耳る上でも中央政界に進出する上でも、格好の政治テーマだった。

そこで「法王(道鏡)を帝位に就けよ」との八幡神の神託をねつ造する。

ところが、その目論見は察知されていた。女帝と道鏡を除かんとする藤原氏の謀略網が、待ちかまえていたのである。神託を手にした習宣阿曽麻呂が大宰府で上奏の手続きをしようとしたところ、半年も待たされることになった。太宰司の第弐(副長官)は藤原田麻呂で、弟の藤原百川から依頼されて神託を留め置いたのである。

というのも、大神杜女には藤原仲麻呂が健在のころ、橘諸兄一派の僧侶に誘われて厭魅(呪詛)に参加して追放された前科がある。呪詛は律令においては大罪である。そんな尼僧がたくらむことは、およそ底が知れているというわけだ。

しかし、謀略家の藤原百川は神託の写しをとった上で、習宣阿曽麻呂を平城京に帰還させた。つぎなる謀略が練られていたのであろう。

習宣阿曽麻呂が奏上した神託をきいて、愕いたのは道鏡だった。せいぜい吉兆があったという報告があればと思っていたところ、自分を帝位にとの神託がくだったのだ。女帝もこれを喜んだが、確認のために勅使を下向させることになった。女帝の侍僧・和気広虫の弟、和気清麻呂が宇佐に行くことになった。

こののちはご周知のとおり、宇佐八幡神は僧形で姿をあらわし「開闢いらい、臣下の者が帝位に就いた例はない。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇族を立てよ」とぞ、のたまへり。

道鏡は下野に左遷され、女帝は急速に求心力をうしなった。

◆太陽を堕した藤原氏の陰謀

じつはこの第二の神託は、藤原氏が大神杜女にねじ込んだものだった。その見返りは、宇佐氏に対抗できる宇佐神宮の宮司の地位だった。とばっちりを受けたのは和気清麻呂で、女帝の怒りを買って「別部穢麻呂」と改名されたうえ、大隅に流罪となった。清麻呂が復権するのは女帝の死後、桓武帝のもとで平安遷都の造都大夫となったときだ。

平安期に成立した『日本紀略』には、藤原氏が女帝の宣命を偽造したとの記述があり、だとすれば女帝は密殺された可能性が高い。その宣命には、藤原氏に近い白壁王を皇嗣にすると記されているからだ。

陰謀の理由も方法も、もはや明らかであろう。

藤原氏は聖武天皇いらいの大仏建立をはじめとする仏教政策、とりわけ全国で行なわれている国分寺・国分尼寺などの公共事業が民びとを苦しめ、国家財政を傾けさせている現実を肯んじえなかったのだ。そしてみずから経営する荘園禁止の法令を、一刻もはやく覆したかったのである。そのためには道鏡以下の仏教勢力の排除、そして女帝の退陣が何としても必要だったのだ。

同時にこれは、邪馬台国いらいの女王による呪術的な政治を、律令政治の中から排除することにほかならない。高度な官僚制を確立しつつある律令政権が、女帝の勝手気ままな政策(神託)で混乱をきたすのは、男性政治家たちにとって困る事態だったのであろう。

孝謙(称徳)女帝の死をもって、絢爛たる古代女性天皇の時代は終焉した。実務に秀でた男性貴族たちの陰謀によって、女性は太陽であることを禁じられたのだ。

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孝謙女帝は、奈良の廬遮那大仏の建立で名高い、聖武天皇の実の娘である。母は藤原氏の光明子(光明皇后)、この方は貧民救済の悲田院で知られる。藤原氏から初めての后だった。

女帝の名は阿倍内親王、生まれながらにして帝になる皇女であった。しかし、彼女の幼少のころから、王朝は政変と疫病で再三にわたって揺れた。

長屋王(天武帝の孫)は光明子立后に反対する反藤原派だったが、厭魅(呪詛の罪)を誣告によって邸を包囲され、自害に追いこまれた。

最大の政敵を排除した藤原不比等の四人の息子たちは、いままさに全盛をきわめようとしていた。ところが、天然痘の流行がその栄華をはばんだ。四人ともあえなく病没してしまうのである。

長屋王事件から十年ほどのち、大和守から太宰の次官に左遷された藤原広嗣が、都の仏教勢力を批判した。

藤原氏一門の衰退に危機感を持ったのであろうか、同時にそれは仏教政策を推し進める聖武帝への批判と映った。追討軍が組織されると、広嗣も隼人の兵をあつめてこれに対抗する。叛乱は鎮圧され、藤原氏に代わって台頭したのが橘氏だった。

しかし、橘諸兄・奈良麻呂父子も、じつは大仏建立反対派だった。彼らも仏教勢力と対立することになる。このような政局の中で、聖武帝が逝去した。女性皇太子だった孝謙が即位して、父の遺業を継ぐことになったのだ。それを援けたのが、藤原の仲麻呂だった。ふたりは従兄妹同士である。男女の関係であったという説もある(女帝が仲麻呂邸田村第にしばしば宿泊)。

いっぽう、貴族たちの政争は終わらなかった。橘奈良麻呂が兵を動かそうとして、事前に鎮圧された。事件関係者はいちばん軽いはずの鞭打ちの刑で、無残にも打ち殺されている。ついで、孝謙女帝と蜜月の時期もあった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、謀反の嫌疑で都を追われて近江に逃れようとするところ、琵琶湖で妻子もろとも殺された。

いずれの反乱も、仏教勢力に対する政争であり、その意味では孝謙女帝の仏教政策に対する批判でもあった。じつはその背景にあったのは、荘園の認可にかかわる律令制の根本問題だったのだ。「天皇はどこからやって来たのか〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体」を参照。

聖武帝は生前、東大寺大仏(および国分寺・国分尼寺)建立のために、墾田永年私財法をみとめていた。荘園からの税収を期待したのである。律令制の根幹である公地公民制の土台を掘り崩してでも、大仏と国分寺の建立が聖武の仏教国家には必要だった。

ところが、孝謙女帝は天平神護元年(765年)に、墾田私有禁止太政官令を発して、荘園を禁止してしまったのだ。孝謙女帝の背後には、太政大臣禅師・法王となった弓削道鏡の存在があった。仲麻呂の乱を機に、孝謙は称徳帝として重祚する。仲麻呂とともに道鏡を批判していた、淳仁帝を廃したのである。これは火種となって、道鏡事件へとつながる。

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◆神戸山口組、二度目の分裂

神戸山口組の分裂が進んでいる。それも井上邦雄組長の出身母体である山健組およびその傘下の組が、そろって離脱するというのだ。すでに6月段階で獄中の中田浩司山健組組長から、離脱するとの意向がもたらされていたものだ。

この7月22日には、兵庫県高砂市内の喫茶店を借り切って、山健組の会合が開かれ、約二時間の話し合いののち「方向性が決まった」(参加した組長)となったという。参加者は20団体の組長で、それぞれが「一本独鈷(いっぽんどっこ)でやっていく」方向性だとされる。

織田絆誠(金禎紀)をはじめとする若手組長が、任侠山口組(現在は「絆會」)として離脱していらい、神戸山口組は二度目の分裂となりそうだ。離脱の理由は、任侠山口組のときと同じく、会費(上納金)をめぐってと観測されている。

◆高い会費がネックに

神戸山口組が六代目山口組から分裂したとき、100万円ちかい会費(上納金)と日用品の(本部からの)強制購入が負担になっているという理由だった。

分裂後の神戸山口組は、直参で月40万円から60万円とされていたという。コロナ禍でシノギもままならない中、会費以外にも盆暮れやイベントごとに支出を求められる。傘下組織にはかなりの負担になっていたようだ。そこで中田組長が会費減額を決めたところ、これに井上組長が異を唱えたのが実相だという。

ヤクザのシノギをめぐる、当局の締めつけは厳しい。フロント企業の公共事業からの締め出し。繁華街での用心棒代はもとより、組員直営の店への排除(暴力団お断りの店ステッカーなど、客への店の選別強要)も露骨なものがあった。さらにコロナ禍による繁華街の不況は組織の収益を直撃し、個々の組織の財政状態が組織離脱を決定的なものにしたようだ。

ところで、肝心の中田浩司山健組五代目は、昨年8月に起きた六代目山口組弘道会系の幹部銃撃に関与したとして、現在も拘留中の身だ。

警察関係者によると、「山健のトップ自らヒットマンとして報復に動いたと暴力団関係者は仰天しましたが、中田氏は否認を貫いています。本人は無罪を勝ち取り、数年で復帰できると自信を持っており、獄中から弁護士を通じて離脱の指示を出したとみられます」(文春オンライン、8月1日)だという。

◆「一本独鈷」という選択肢

山健組傘下の三次団体だとはいえ、約20団体がそろって離脱であれば、事実上の分裂ということになるが、関係者は「あくまでも個別の離脱です」と強調する。じつは「一本独鈷」というキーワードが事態を説明してくれそうだ。

というのも、暴排条例が施行されてから10年、指定暴力団は経済活動のみならず、組織運営でも身動きがとれない状態になっているからだ。そこで、一本独鈷(独立組織)となって指定から逃れる方法もないではない、という考えではないか。じっさいに、独立組織で非指定団体は少なくない。上部団体が指定を受けても、下部団体が独自に活動することも不可能ではない。

暴排条例の集中攻撃を受けた、北九州の工藤會の例で説明しよう。

本家およびその母体組織(田中組)の幹部(ナンバー3まで)が獄中に囚われ、実質的に本部機能が崩壊(工藤会館の売却など)し、傘下の組の事務所ものきなみに閉鎖命令。幹部会も公然とは開けない状態になっている。にもかかわらず、傘下の各組織は独自に活動を続けているのだ。

「個々バラバラですが、みんな元気にやっております。会議やら減ったぶんだけ、楽になっておりますね」(工藤會の二次団体の組長)という現状だ。

新たな抗争事件さえ起こさなければ、上部団体から離脱した組織が公然と活動できると、ヤクザ関係の弁護士は云う。非指定団体になる道だ。

工藤會の場合、事務所を使わずに活動継続できるのは、PCとスマホを駆使した活動方法を早くから取り入れていた(溝下三代目時代)からだという。

ただし、野村総裁・田上会長ら獄中幹部の公判は始まったものの、法曹関係者によると「元ヤクザが相手でも、一般人を対象にした殺傷事犯ですから、長期刑は避けられない」との観測である。えん罪事件の上高謙一組長が実刑だったこともあり、獄中の最高幹部が社会不在のままの状態は、ながく続きそうだ。

いずれにしても、改正暴対法・暴排条例のもとでのヤクザ組織の在りようは、昔ながらの一本独鈷というスタイルになりそうな気配だ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

著述業・編集者。2000年代に『アウトロー・ジャパン』編集長を務める。ヤクザ関連の著書・編集本に『任侠事始め』、『小倉の極道 謀略裁判』、『獄楽記』(太田出版)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)、『誰も書かなかったヤクザのタブー』(タケナカシゲル筆名、鹿砦社ライブラリー)など。

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タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

本能寺の変、黒幕説は以下のとおりである。

【かなり疑わしい】徳川家康・羽柴秀吉・足利義昭
【疑わしいが、本人たちにとって意味がない】イエズス会・朝廷(公卿たち)
【疑わしいが、その実力がない】津田宗及(堺商人)・島井宗室(博多商人)
【疑わしいが、黒幕である意味がない。むしろ前面に立ちたかったのでは?】本願寺教如・長宗我部元親・安国寺恵瓊
【誰でもいいからという説】濃姫(帰蝶)・森蘭丸

前回は徳川家康黒幕説、イエズス会黒幕説について検証してみた。家康説は興味深いが、あまりにも証拠が少ない。

NHK大河ドラマ・ガイド『麒麟がくる 前編(1)』

イエズス会説はルイス・フロイスの「日本史」を引用したとおり、明智光秀こそずる賢い悪魔の手先で偶像崇拝者というのが、イエズス会の光秀評だ。かれらが庇護者である織田信長を殺した黒幕というのは、したがって到底あり得ない。むしろ被害者となったかれらは動機においても、まちがいなくシロであるという結論だった。

◆魅力的な朝廷黒幕説

黒幕説でもっと魅力的なのが、朝廷説(正親町天皇および京都の公卿たち)であろう。この説は多くの歴史研究者や作家が取り組んできた。その有力な動機は、暦の編纂権をめぐってである。

信長は三島歴・尾張歴・そして朝廷が専権的な編纂権を持つ京歴(宣命歴)の矛盾を指摘していた。

すなわち宣命歴では、天正十一年の正月に続けて閏正月を入れるところ、尾張歴では、天正十年の十二月に続けて閏十二月を入れる形だったのである。信長は京歴ではなく、尾張歴でやるべきだと主張しはじめたのである。

朝廷側は「信長が歴問題に口出しをしてきた」と受け止めた。ようするに”時”を支配する天皇の大権を、信長が侵しはじめたとみたのである。

じっさいに、勧修寺晴豊は自身の日記である『日々記』の中で「十二月閏の事申し出、閏有るべきの由(よし)由され候(そうらふ)。いわれざる事なり。これ、信長無理なる事とおのおの申す事なり」と記している。

そして天正10年の上洛時は、別個に政治的な課題として三職推認問題が浮上していた。信長は右近衛大将を辞任してから、官職がない状態だった。何とかして信長を朝廷の政治の中にとどめたい公卿たちは、関白・征夷大将軍・太政大臣のうち、好きな官職を与えると提案していたのだ。このように、当時の信長と朝廷のあいだには、微妙な政治問題が横たわっていた。

何となく、朝廷が関与していそうな。もしも関与していたら、京都という街の公家文化・朝廷の伝統が、革命児たる信長を殺したという、ある種の魅力をもった仮説として読む者を惹き込むのだ。

事実、公卿の吉田兼見は、天正10年に記述した光秀に同情的な部分をすべてカットした日記「兼見卿記」の「正本」を作成している(別本が存在する)。変後に光秀と親しくした一切を、書き換えているのだ。だが、これだけでは確たる証拠とはいえない。そこで論者たちは、無理な読み込みをするのだ。

勧修寺晴豊の「天正十年夏記」には、以下の記述がある。

「六月十七日、天晴。早天済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候」

ふつうに訳せば、生け捕られて京都市中を引き回されている斎藤利三を見かけた晴豊が「かれは信長を討った談合衆(仲間)の武者である」と書いているのだが、朝廷黒幕論者はこれを「われわれと信長を討つために話し合った武士だ」と読み込むのである。黒幕説の文献史料は、これ以上でも以下でもない。京都が信長を殺したという、ロマンあふれる印象が残るばかりだ。

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◆将軍足利義昭黒幕説

これはいまなお、藤田達生が自説としている。おもな証拠になる史料としては、本能寺の変の10日後に紀州の武将、土橋重治に宛てて書いた光秀直筆の書状である。

「なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事」

「上意馳走申し付け」の上意は将軍義昭の意であり、相手に「その意を得られ、御馳走肝要」と感謝していることから、光秀の意志とはべつに、将軍家の意志が働いていることがうかがえる。

全体を訳してみよう。

「将軍を京都に迎えるためにご助力いただけることをお示し頂きありがたく存じます。将軍が京都に入られることにつきましては、既にご承諾しています。そのようにご理解されて、物事がうまく運ぶように努力されることが肝要です」

だがこの書状は、日付が6月12日と本能寺の変から10日も経過している。さらに義昭は、羽柴秀吉や柴田勝家にも上洛を支援するようもとめている。ようするに、支援の要請を乱発しているのだ。これでは「事前共謀」の黒幕の証拠とは言いがたい。

もっと決定的なのは、毛利家の庇護下にあった将軍義昭(備前の鞆に御所があった)が、秀吉の撤退(中国大返し)とともに毛利家を動かしていないことである。最も信頼できるはずの毛利家を動かせず、織田家臣団に自身の上洛への支援要請をしているようでは、とうてい上洛はおぼつかない。

将軍義昭は信長存命中も、上杉謙信や北条氏政、武田勝頼に内書を送っては上洛を援けよと支援をもとめているのだから。

◆茶人たちの暗躍

変の前日、本能寺では茶会が開かれている。たまたま、島井宗室(博多商人)が上洛していた。信長はその島井宗室が持っている楢柴肩衝を手に入れたかった。そのため、千宗易(利休)から島井宗室に連絡をさせた可能性があるのだ。

この仮定が正しければ、信長は安土城から38点の「大名物茶器」を運んでまで、楢柴肩衝の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、無防備な形で本能寺に入ってしまったことになる。

信長の茶頭(師匠)である今井宗久、津田宗及の二人は、その日は堺で徳川家康、穴山梅雪らの接待をしているので、長谷川宗仁が茶頭として茶会を取り仕切ったのではないかと考えられる。じつは千宗易(利休)だけが、その所在が明らかではない。それゆえ、千宗易(利休)から島井宗室に連絡をさせた可能性がある、と仮定したのである。慎重なる仕掛け人は、犯行現場に姿をあらわさない。

この茶会が信長を丸腰に近いかたちで呼び寄せるものだとしたら、本能寺の変の黒幕は堺の茶人たちということになる。動機はいろいろとこじつけられるが、信長の御茶湯御政道(茶器の召し上げ)をこころよく思わなかったとか、御しやすい光秀や秀吉に天下を賭けてみたという理屈も立つかもしれない。茶人たちにしかできない方法で、信長の武装解除が史実で実現したがゆえに、じゅうぶんに成り立つ黒幕説といえよう。しかしながら、かれらが光秀と謀議をはかった証拠は何もない。

◆補記

本願寺教如(信長の宿敵)・長宗我部元親(四国の覇者)・安国寺恵瓊(毛利家臣)らは交戦中か交戦前で、まさに信長を滅ぼしたい人々であろう。ただしこの人たちは、わざわざ黒幕になる必要もない、実力の持ち主である。変後に光秀と提携した形跡はない。

濃姫(帰蝶)・森蘭丸とかになると、もう誰でも黒幕になれます的なものだ。濃姫は結婚後の消息が史料になく、安土殿という本能寺の変後の記述がそうではないかと考えられる程度の存在感の希薄さ。森蘭は本能寺で死んだのだから、わざわざ黒幕に挙げる人の気が知れない。やはり本能寺の変のあとに二条御所で死んだ信長の嫡男・信忠を黒幕とする説もあることを付記しておこう。

いっそのこと、浅井茶々(淀殿)黒幕説とかどうですかね。いちおう信長に父親を殺されていますし、その髑髏を酒器にされて酒宴もされてますからね。(完)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

坂本龍馬殺害犯(ほぼ解明)、邪馬台国の所在地(論争中)などとともに、日本史最大級の謎とされているのが、本能寺の変の真相である。その謎とは、明智光秀の動機(これは絶対に不明で、状況証拠として四国派遣軍指揮官からの解任が有力)および黒幕がいるのではないかというものだ。

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結論からいえば、いない。絶対に黒幕はいないと断言できるのだが、それだけ言ってしまえば面白くも何ともない。そこで、黒幕説の検証を愉しんでいこう。

いや、その検証の中から、新たな疑問や謎が提起できればさいわいである。

ざっと数件の黒幕説がある。光秀と結ぶ複合犯、光秀とは無関係の複合犯など、ちょっと無理なものまでふくめると、十数件にのぼる。

まず、黒幕ではないかとされる人物たちである。

【かなり疑わしい】
徳川家康・足利義昭

【疑わしいが、本人たちにとって意味がない】
イエズス会・朝廷(公卿たち)

【疑わしいが、その実力がない】
津田宗及(堺商人)・島井宗室(博多商人)らの茶人たち

【疑わしいが、黒幕である意味がない。むしろ前面に立ちたかったのでは?】
本願寺教如・長宗我部元親・安国寺恵瓊

【誰でもいいからという説】
濃姫(帰蝶)・森蘭丸

【阿吽の呼吸はあったかも説】
秀吉と家康、光秀の共謀説

このうち、徳川家康の関与説(黒幕説)は長らく信ぴょう性をもって唱えられてきた。

◆家康黒幕説の信ぴょう性

意外史観の八切止夫が『本能寺の変 光秀ではない』、最近では明智光秀の子孫と自称する明智憲三郎が『本能寺の変431年目の真実』で評判を呼んだ。織田信長が明智光秀に徳川家康殺害を命じたものの、却って光秀と家康が協力して本能寺の変を起こした(信長を殺した)というのだ。

明智氏は史料的には、家康殺害計画の史料上の裏付けとして『本城惣右衛門覚書』の「(本能寺の変直前に、光秀配下の兵卒が信長ではなく)家康を襲うのだと思っていた」という記述を挙げている。これが唯一の文献的な根拠である。

光秀と家康の謀議の場は、安土城だったとする。信長の監視下にある安土において、光秀と家康が二人きりで密談するのは、ほとんど不可能に近いかもしれないが、その内容は興味深い。信長が家康を本能寺に呼び寄せて殺そうとしているから、光秀としては家康を討つふりをして信長を殺す。

また、明智氏の説にはないが、この密議の背景に武田攻めのさいに光秀が謀議をはかり、それを穴山梅雪が知っていると家康が持ちかけていれば面白い。まもなく信長の知るところとなるので、信長の隙を衝いて殺しましょうとなった。その結果、穴山は伊賀越えのさいに服部半蔵の配下に殺された。家康は無事に三河へ帰り、出兵の準備に取り掛かるも、形成が不利とみて出馬をとりやめる。という顛末である。これに羽柴秀吉が一枚かんでいれば、中国大返しの謎も解けるというものだ。非常に面白い。が、史料的な根拠はなにもない。

家康黒幕説は、家康の息子(信康)と本妻(築山殿)が武田氏と通じているがゆえに、信長の命令で殺されたという軍記書の逸話がもとになっている。家康が信長に恨みを抱き、その気配を感じた信長が家康暗殺を決意。本能寺に呼び寄せて殺す、という筋書きである。

しかし、信康の死(家康が死に追いやる)は父子の派閥対立という説が有力である。織田家から嫁いだ徳姫が書状で、信康と築山殿の武田氏内通を告発したというのは「三河物語」の記述で、何らかの対立を嫁姑の人間関係に置き換えたのではないか。「信長公記」の「信康の処置は、家康の思うとおりに」という記述を信用したい。

◆秀吉黒幕説は、ありえない

ついで、家康と秀吉、光秀の三人が共謀していたという説も、壮大稀有な発想で面白いと思うが、ちょっとそれはない。

羽柴秀吉を黒幕とした場合、なぜ秀吉と光秀が共同して天下を治めなかったのか。少なくとも、柴田勝家および織田信長の息子たちを共同して駆逐しないかぎり、謀反人として織田家臣団に排撃されるのは目に見えている。史実は秀吉が光秀を、信長の息子たちとともに排撃したのである。秀吉が利を得たのは、光秀との謀議ではなく、光秀の変後の不手際(味方が集まらない)を衝いたに過ぎないのだ。

◆イエズス会はそんなに凄い団体だったのか?

イエズス会黒幕説は、民間研究者の立花京子(故人)が唱えた説である。この説が魅力的なのは、大航海時代に世界の大半を支配下においたイベリア両国(スペイン・ポルトガル)の国王・フェリペ2世がイエズス会の後ろ盾であり、スペイン無敵艦隊が精強を誇っていたことだ。

そんなに強大な勢力であれば、信長が不遜にも「余を神と崇めよ」という神を畏れぬ言動をおこなったとき、神の意志で罰をあたえた。ということも考えられないではない。鉄砲も大砲も、その玉薬である硝石も、イエズス会の支配地域からもたらされているのだから、かれらの力は凄まじい。と思いがちだが、さにあらず。

スペインのピサロがインカ帝国を征服したのは、軍事力(わずか180人)ではなく感染症だったことを考えれば、それほどのものではないことがわかる。
詳しくは「インカ帝国滅亡のなぞ」(本欄2020年5月7日)を参照して欲しい。

じっさいのイエズス会は、会士が全世界で1000人ほどのグループにすぎなかったのである。当時はプロテスタントの宗教改革運動がさかんで、カトリックの側から宗教改革でこれに対抗したのが、イエズス会に代表される流れだったのだ。スペインの無敵艦隊(自称にすぎない)も、本能寺の変の数年後にはイングランド海軍に惨敗している。

それよりも、日本のイエズス会が本能寺の変の結果、どうなったかが興味深いところだ。安土城かから追い出され、琵琶湖に逃れていたところを海賊まがいの漁民に囚われ、その挙句に明智光秀麾下の兵に助けられる。しかも無礼な扱いを受けて、散々な目に遭っているのだ。そもそもイエズス会は信長に庇護されていたのであって、明智光秀には批判的であった。以下、ルイス・フロイスの「日本史」から引用する。

「信長の宮廷に十兵衛明智殿と称する人物がいた。その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」という具合に、フロイスの光秀評は辛らつである。

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた」

やはり光秀は、能吏ではあったようだ。

「信長は奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、権威と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した」

「これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ案件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智はなんらかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいはその過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。ともかく彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な時期をひたすら窺っていたのである」

このあたりに、光秀の動機らしきものが観察されて興味ぶかい。フロイスの推察が正しいとすれば、光秀は信長の専横を大義名分にしたかったのかもしれない。

つぎは、本能寺の変後のことである。

「都の住人たちは、皆この事件が終結するのを待ち望んでおり、明智が家の中に隠れている者を思いのままに殺すことができるので、その残忍な性格に鑑みて、市街を掠奪し、ついで放火を命ずるのではないかと考えていた。我々が教会で抱いていた憂慮も、それに劣らぬほど大きかった」

「というのは、そのような市の人々と同様の恐怖に加え、明智は悪魔とその偶像の大いなる友であり、我らに対してはいたって冷淡であるばかりか、悪意をさえ抱いており、デウスのことについてなんの愛情も有していないことが判明していたから、今後どのようになるかまったく見当がつかなかったからである」

「司祭たちは、信長の庇護や援助があってこそ今日の立場を得たのであるから、彼が放火を命じはしまいか、また教会の道具にはすばらしい品があるという評判から、兵士たちをして教会を襲撃させる意志がありはしまいかと、司祭たちの憂いは実に大きかった」

やがて、司祭たちの危惧は的中する。かれらは安土を逃れたあと、散々な目に遭うのだから。

そしてこれらの記述のなかにこそ、イエズス会が信長を裏切る黒幕ではないこと。光秀を「明智は悪魔とその偶像の大いなる友」つまり「仏教徒」である、と批判的に指摘していることを確認できるのだ。イエズス会は黒幕どころか、本能寺の変の犠牲者だったのである。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

自民党総裁選は両院議員総会での選出となり、事実上、菅義偉の選出が決まった。密室での総理誕生劇である。


◎[参考動画]“ポスト安倍”レース 菅氏 一気に本命に ライバルは


◎[参考動画]あっさりと“党員投票なし” 周到だった党執行部(2020年9月1日)

ふり返ってみれば、20年前に安倍晋三がここまで長期政権を担うと想像した人は少なかっただろう。いずれ総理総裁になるとは思われていたが、一次政権における「投げ出し」で底が見えたものだ。しかるに、周到な準備をへて安倍一強とまで言われる独裁体制を築いた。

何しろ、どんなスキャンダル(おもに政権の私物化)があっても、選挙に強い(ほかに居ない)ことで乗り切ってきた。政界名家の血筋であること、見てくれが他の政治家を圧倒していること、そして中身のない演説で人を酔わせる。これらが何か不可侵のものを作り出していた。無能にもかかわらずこの政治家に支配されたがる国民を生み出してきたのだ。

ファシズム体制が支配される国民の了解を要件としているのならば、ここ数年の日本はまぎれもなくその類型を体現してきたといえよう。その意味で、政権が生まれる過程である自民党総裁選に、われわれは注視しておく必要がある。いままた、安倍の意志が自民党総裁選を支配しつつあるからだ。


◎[参考動画]菅義偉 カジノ法案「国会での審議を見守っていく」(2016/12/07)


◎[参考動画]菅官房長官に竹中平蔵が問う!「政府の役割・民間の役割」~大阪万博・カジノIR・携帯料金見直し(2018年11月25日開催/グロービス経営大学院 東京校)

◆日本の男尊女卑を体現する 自民党の女性排除

今回の総裁選には、岸田文雄、石破茂、河野太郎、菅義偉、茂木敏充、野田聖子、西村康稔、下村博文、稲田朋美、小泉進次郎(以下、敬称略)の名が挙がっていた。

このうち、西村康稔、下村博文、稲田朋美の三氏は細田派(清和会)なので、立候補は無理だ。細田派は安倍晋三の出身母体であり、次期総裁は出さないと決めているからだ。

意欲満々の河野太郎も、麻生派が擁立するかどうかにかかっていたが、麻生が難色をしめして派閥の決定に従った。

小泉進次郎もまだ早い、経験不足との声が周辺に多く、早々に不出馬を宣言した。環境相として、かならずしも充分に任を果たしているとは言いがたい点も、本人がいちばん知っていた。

野田聖子の立候補表明は、これで3度目になるが、早くも1日に不出馬表明となった。女性候補が出るというだけでも、稲田朋美が言うとおり意味があるはずだった。残念ながら、野田が推薦者20名を集められる趨勢ではない。女性が指導的な責任ある位置にいない、あるいはその突出を妨げるのが、自民党の最大の問題点であろう。

とくに野田聖子は障がいのある子を高齢出産(卵子提供の胎外授精)し、困難な子育てを実践している人だ。障がい者福祉への視点、子育て社会福祉の視点からも、もっと責任のある立場での活躍が期待される。現在の夫である在日韓国人男性が、指定暴力団会津小鉄会昌山組の元組員であったことも、嫌韓社会の是正にはいいのではないかと思う。


◎[参考動画]「あなたに答える必要はありません」望月衣塑子(東京新聞記者)vs菅義偉内閣官房長官(2019年2月26日)

◆密室での総理誕生

岸田文雄、石破茂、菅義偉、茂木敏充の4人に絞り込まれたとみるべきだったが、9月1日の総務会の決定でまでに、立候補を公式に宣言したのは岸田と石破だけである。本命の菅義偉(多数の派閥が支援を内定)は、まだ出馬を宣言していない。

いや、安倍の後継をするのかというTV番組での質問に「まったく考えていません」を繰り返していたのだから、出馬宣言は「二枚舌」になると指摘しておきたい。すくなくとも、立候補にいたった経緯を詳細に説明するべきであろう。俺の好きなように勝手気ままにやる、昨日言ったことを明日はひっくり返す。というのでは、国民はついていけない。


◎[参考動画]“ポスト安倍”の誉れ高き? 菅さん 記者質問に何と(2019/04/08)


◎[参考動画]“令和おじさん”菅長官が思い「受け入れて頂いた」(2019/04/28)

最新の世論調査(共同通信8月31日)によれば、国民の総理にしたい政治家は以下のとおりだ。

石破茂   34.3%
菅義偉   14.3%
河野太郎  13.6%
小泉進次郎 10.1%
岸田文雄   7.5%

菅義偉は、わずか14.3%である。石破は34.3%、つまり3分の1以上だ。

したがって、民意は石破茂ということになる。民意に従わない自民党の密室政治という事実を、この先に起きる事態(政治危機)のときに思い起こしてみたいものだ。

石破はたしかに改憲派の軍備増強論者で、右派と見られがちな人だが、慎重な性格は信頼できる。まちがって、アメリカの戦争に巻き込まれるようなことはない。そして地方へのまなざし、弱者への視点という意味では安倍晋三とは好対照なのである。

その石破が総理になることを、安倍晋三は何よりも怖れているのだ。言うまでもなく、森友・加計疑惑の再調査、河井夫妻への一億円の検証など、旧悪が暴露されるのを怖れているのだ。


◎[参考動画]河井案里議員の豪華すぎる応援演説陣を学ぼう!【広島県】【自民党】(2019.7)


◎[参考動画]“鉄壁官房長官”に動揺?(2019/12/03)

◆地方3票を、郵送で事前選挙?

自民党の党則では、総裁選出が緊急を要するときは、両院総会で後任を選べる。この場合、有権者は党所属国会議員(394票)と都道府県連代表各3人(141票)で、100万人を超える一般党員は対象外となる。

総務会の決定では、党員投票を伴わない両院議員総会で実施する方針である。新型コロナウイルス渦、政治空白期間を短縮する必要があるいう理由だ。

これに対して、党内若手(百数十人が署名)からは広く党員も全員参加して選ぶべきだとの声が上がっていた。地方組織からの要望も、党大会での選出というものばかりだった。

ところが、総務会では地方委員会の「事前投票」(3票の行方を決める)が行なえるという答弁で、これら党大会開催の要求を退けたという。この事前投票は郵送なのだから、時間的には全党員の投票が可能なのではないか? けっきょく、二階俊博および安倍晋三の思惑(相互に院政と幹事長職留任)、そして麻生太郎がそれに乗るかたちで、全体を仕切ってしまったのだ。

そのもとに、各派閥が「岸田尚早論」「石破排除」で結束し、勝ち馬に乗ってポストを得る。安倍晋三の思惑どおり、菅義偉によるワンポイントリリーフが決まっていたと見るべきであろう。


◎[参考動画]菅長官「全国50カ所に」 世界レベルのホテル新設へ(2019/12/07)


◎[参考動画]追加費用の負担合意ない 菅氏、IOC見解を否定(2020/04/21)

◆最悪の人選となった

その菅義偉は2020年8月11日の本欄で明らかにしたとおり、苦労人にもかかわらず、いや、だからこその「努力しないやつは容赦しない」「粛々と」した冷淡さがぬぐいがたい。とりわけ、沖縄へのイジメに近い態度から、寛容さのない政治が危惧されるところだ。

本稿のテーマは、情勢の変化に即応してレポートします。


◎[参考動画]“ポスト安倍”総裁選には? 菅官房長官に聞く(2020/08/21)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

著述業・編集者。2000年代に『アウトロー・ジャパン』編集長を務める。ヤクザ関連の著書・編集本に『任侠事始め』、『小倉の極道 謀略裁判』、『獄楽記』(太田出版)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)、『誰も書かなかったヤクザのタブー』(タケナカシゲル筆名、鹿砦社ライブラリー)など。

安倍晋三までの62人を全網羅!! 総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

◆お坊ちゃま宰相は、やはりストレスに弱かった

予想された辞任劇だったが、まずはお疲れ様と申し上げておこう。そして、2期8年8か月におよぶ安倍政権というものが、国民と苦難をともにする指導者集団ではなく、危機において政権を投げ出す無責任な指導者に率いられた集団だったことに思いを致さずにはおれない。二度目の投げ出しである。

持病の潰瘍性大腸炎も、上部消化器系ほどではないが、ストレス性の発作疾患である。第1期においては、お友達内閣の辞任連鎖のはてに、参院選挙における敗北というストレスで政権を投げ出さざるをえなかった。今回は明らかに、コロナ防疫の失敗、その困難さゆえのストレスに負けたのだ。

世の中が好展開しているうちはいいが、いったん困難に向かうと、たちどころにストレスに負けてしまう。これでは政治家の価値はない。安倍晋三という人物は、まさに政治家の土性骨をもたない、お坊ちゃま政治家だったのである。

敗者を鞭打つのは憚られるところだが、何かしら仕事を成したと思っているようなら、その失政は指摘しておかなければならない。あるいはネトウヨ的に責任のない立場から安倍の失政を覆い隠し、何かしら偉業があったかのごとく褒めたたえる向きがあるなら、やはり世紀の失政を明確に批判しておくしかないであろう。


◎[参考動画]安倍首相が辞意表明 「職を辞することとした」 潰瘍性大腸炎が再発(毎日新聞)

◆何も成果がなかった7年8か月

なぜ、これほどまでの長期政権になったのかは、単に安倍が選挙に強いからにほかならない。

しかし、それは「よりましな政治家」「ほかにふさわしい人がいないから」「政治家として見栄えがする」に過ぎない。とにかく演説が無内容にもかかわらず、心地よくひびく、その意味では天才的なアジテーターだったからである。

その著書『美しい国へ』を読めば、その真骨頂はわかるというものだ。何も具体的な内容がないことを、よくここまでイメージで表現できるものだと。そして演説のレトリックにおいては、まさに天才的であった。何度、国会の答弁の場を演説会場にしてしまったことだろう。

政治はしかし、結果がすべてなのである。悪夢のような7年8カ月を検証しようではないか。

政権の最重要課題として、安倍総理は「憲法改正」「拉致問題」「北方領土問題」を掲げてきた。

このうち憲法改正は、辻本清美の「自衛隊が合憲か否かを、国民投票でやっていいんですか? かれらに国民が『違憲だ』とされてもいいんですか?」という、単純きわまりない質問で頓挫した。

そう、自民党の改憲草案および安倍私案は、自衛隊の合憲化にとって諸刃の剣なのである。小心者の安倍は、ついにルビコンを渡れなかった。

拉致問題はどうだろう。

安倍にとってこの問題は、政権獲得の原動力だったばかりではなく、やはり諸刃の剣だった。いったんは北朝鮮の対日大使をつうじて、二度にわたる調査団を派遣するも、結果が思わしくないとなると調査を凍結(ストックホルム合意を反故)してしまった。

拉致された日本人たちが「帰りたくない」と言ったのか、あるいは「全員死亡、未入国」(北朝鮮)が事実だったのか。家族会には何も伝えないまま、北朝鮮が一方的に「調査を中止した」と言いくるめてしまったのだ。調査団は自主的に帰国した。

「北朝鮮による拉致問題は、私の内閣で必ず解決いたします。拉致被害者を最後の1人まで取り戻し、全員が家族と抱き合える日まで、私は必ずやり遂げると国民の皆さまにお約束いします」というのは、嘘となったのである。

いま、家族会をはじめとする拉致問題支援者たちは、安倍の不実を批判しているという。総理の座を射止めた政治テーマにおいて、かれは総理の座を追われたのかもしれない。


◎[参考動画]横田滋さん死去うけ安倍総理「断腸の思い」(2020/06/05)

北方領土問題はどうか? 

この問題は2001年3月、森首相がプーチン大統領とイルクーツク声明を出した会談で、一定の結論は出ていたはずだ。2島(歯舞、色丹)を返し、残り2島(国後、択捉)を並行協議し、車の両輪でやっていくという路線である。安倍の路線も、これと同じだった。

いや、そもそも2島返還は1956年10月に日ソ両首脳が「平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す」と発表した日ソ共同宣言で、事実上決まっていることなのだ。あとは具体的な作業に入れば事足りるはずだった。

にもかかわらず、プーチンの「領有と主権は別物」などという言葉の詐術に翻弄され、何も作業に着手できなかったのだ。この課題では、むしろ問題の解決は後退したといえよう。


◎[参考動画]「2島返還」軸に 日ロ首脳が交渉加速で一致(2018/11/15)


◎[参考動画]北方領土2島引き渡す場合も 主権は交渉の考え(2018/11/16)

経済政策はどうだったか? 財務省の抵抗を排しながら、リフレ政策に打って出たものの、せっかく刷ったお札を消費市場に開放できなかった。消費こそが経済であることを、ようやく場違いきわまりないGoToトラベルキャンペーンで実現しようとしてみたものの、ぎゃくにコロナ禍を再拡大してしまった。

円安によって大企業の貿易黒字は拡大した結果、一般国民には無関係な株価は上昇した。これが最大の成果かもしれない。

そのいっぽうで、消費税の二度にわたる増税が消費を冷やし、結果的に可処分所得の低下を招いて景気の逓減をもたらした。

小泉政権いらいの労働市場の流動化、すなわち派遣労働者の増加で雇用市場は好転(名目上の有効求人倍率)したが、実質的には貧困層の拡大をもたらし、景気の鈍化を招いたのである。ようするに、アベノミクスは失敗だったのだ。


◎[参考動画]「アベノミクスは破綻では」民主、安倍総理を追及(2014/10/01)

アジア外交は最悪であった。

日韓関係はあたかも戦争前夜かのごとく、半導体材料の輸出規制によって、かえって韓国の国産化を招いてしまった。まともな首脳会談は行われないままだ。北朝鮮との関係は言うまでもなく、対中関係もトランプ外交に振り回されたまま、まともな首脳会談は行われなかった。

日本とアジア諸国のあいだに横たわる歴史観はともかく、首脳同士の信頼関係の欠如(韓国外交筋)が原因であれば、安倍外交の破綻がもたらしたものと言わねばならない。


◎[参考動画]関係改善は? 日韓首脳会談終え総理会見ノーカット(2019/12/24)

国内の諸政策では、安倍の個人的な友人関係・利害関係を優先する汚職が甚だしかった。森友・加計・桜を見る会など、政治の私物化である。そして、官僚に対しても、党内に対しても権力の一極集中を極めることで、政治と行政が硬直化する事態をまねいた。官僚の中から自殺者も出した。


◎[参考動画]森友文書改ざん問題 野党が初めて総理を直接追求(2018/03/19)


◎[参考動画]加計学園で安倍晋三が大興奮3/13福島みずほ:参院・予算委員会(2017/03/13)

ほぼ全面的に、安倍政権の7年8か月は無駄だった。失政の連続であったと言うべきであろう。

かつて、佐藤栄作は密約ぶくみながら「沖縄返還」を実現した。田中角栄は列島改造という政策を、銭まみれの大規模プロジェクトの林立というかたちで実現し、曲がりなりにも経済成長に寄与した。中曽根康弘は国鉄民営化を、小泉純一郎は郵政民営化を、曲がりなりにもやってのけた。しかるに、安倍晋三においては当初の公約、約束した課題を何もなしえなかったのだ。


◎[参考動画]安倍総理 ゴルフ外交“珍プレー”(2019/05/20)

◆言葉に詰まった記者会見

予定されていた28日午後5時からの会見では、例によって記者クラブ幹事社からの質問につづき、個人(フリー)などからいくつか安倍の耳に痛い質問が飛んだ。

メディアとの関係で、記者クラブ優先の会見について、あるいは政治の私物化を批判されて目が宙をおよぐ。いつもは白髪をきちんと染めているのに、このかんはもはや、政権投げ出しの演出をしているかのような状態だった。

あまりにも長かった。国民とその生活に向き合わず、お友達に向き合う政治の私物化。まるで経済というものを知らず、沖縄の犠牲の上にある安全保障を、解釈改憲で危険極まりないものにしてしまった。そして当初の政策は、ついに果たされないままだった。さようなら、安倍晋三さん。


◎[参考動画]安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(2013/09/08)


◎[参考動画]Tokyo 2020(2016/08/22)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

新型コロナウイルスの影響で、撮影が行なえなかったNHK大河「麒麟がくる」の放送が再開される。人気の戦国大河だけに、歴史もの好きの視聴者は大歓迎であろう。ここ十数年、神がかり的な人気をほこる織田信長に謀反した明智光秀を主人公にしたところに、NHKの野心的な試みが評価できる。

◆歴史愛好家をガッカリさせるNHKのダメキャスティング

NHK大河ドラマ・ガイド『麒麟がくる 前編(1)』

だが、キャスティングには難がある。長谷川博己はキャリアも演技力も十分な俳優だが、演技巧者であるがゆえにこそ、主役級の華はないと言わざるをえない。彼は名わき役なのである。前半の斎藤道三役の本木雅弘の熱技に、まるっきり呑まれてしまったのが、その明白な証左と言えよう。

それにしても、このところNHKのキャスティングは、一年間の大河というごまかしの効かない主役ゆえに、ミスキャストが多いのだとわたしは思う。どうしても頭脳明晰で正義漢にあふれる、という主役の類型に合わせてしまうのだ。そこに無理がある。

たとえば「真田丸」真田信繁(幸村)役の堺雅人と真田信之役(幸村の兄)の大泉洋は、史実とはまったく逆の人物設定だった。

真田幸村といえば、当時の一次史料を知らない人でも、池波正太郎の「真田太平記」や一連の上州ものを読んだことがあればわかるとおり、寡黙で朴訥な人物である。小柄ながらなぜか強い武勇はともかく、高野山(流罪)で焼酎を国元に無心するような、寡黙な酒飲みのイメージである。それゆえにこそ大坂入城後、すぐに大野治長ら秀頼側近に主導権を握られてしまうのだ。

いっぽうの兄・真田信之こそが頭脳明晰な政治家で、それゆえに大坂の陣後も真田の名跡を後世に伝え得たのである。頭脳の兄・信之、勇猛の弟・幸村というのが歴史愛好者の常識なのだ。その意味でNHK「真田丸」は人物設定が180度ちがっていた。これでは歴史好きは白ける。

今回の明智光秀は、長谷川博己の生真面目きわまりない雰囲気とあいまって、将軍家復興という政治工作者たるイメージや謀反という悪意を感じさせない。まるでウラのない善人で、正義漢なのである。

これでは本能寺の変が、たとえば信長をよほどの悪逆な主君にしないかぎり、うまく描けないのではないだろうか。染谷将太の信長は神がかり的ではないだけに、いまのままでは単なる無能な殿というイメージになってしまう。無能な信長像というのは、NHK大河のみならず初めてではないか。

そもそも「麒麟(平和のシンボル?)がくる」ためには、悪逆の王(信長)を滅ぼさなければならない。という設定自体、当の光秀が秀吉に滅ぼされてしまうのだから、どだい無理があるというものだ。明智光秀は天海僧正だった説でも採らないかぎり、「戦乱のない世を」というテーマがけっして果たされないのは自明である。

長谷川博己の光秀はすこぶる有能、かつ計算高い雰囲気だが、それでは光秀の三日天下(じっさいには11日)の政治的無能ぶりを説明できない。したがって、本能寺の変そのものが、徳川家康および羽柴秀吉の謀略でないかぎり、みじめな着地になりそうな気がするのだ。

◆黒幕説を愉しもう

そこで視聴者の愉しみは、本能寺の変の「動機」および「黒幕説」ということになるわけである。

巷間、ワイド番組(歴史特集)の話題になっている「本能寺の動機説」は、どうでもいいだろう。本当の「動機」など、光秀がそれと書き残していない以上、だれにも確定することはできない。

唯一、細川藤孝に送った書状のなかに「この度の思い立ちは、他念はありません。五十日か百日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です」とある。これが文献史学における「光秀の動機」ということになる。

じっさい、細川氏を味方に誘うための書状ながら「動機」は「他念はありません」「自分は引退します」としているのだ。これが偽らざる心境だったのであろう。
たとえば信長への「怨恨説」(人質の母親を殺させた説・足蹴にされた説・領地召し上げ説)は、いずれもその史実ではない(一次史料にない、江戸時代の軍記書の記述)だからだ。

うざい上司に下剋上を突きつけるのが怨恨であるとするならば、それはいいのではないか。サラリーマンに限らず、誰もが感じているフラストレーションなのだから。

「野望説」もまた、どうでもいいかもしれない。主君を裏切る動機に、怨恨(うざい上司)野望(上司にとって代わる)はある意味で当然のことである。

直接の動機として、歴史学界のコンセンサスを得られているのは、信長の四国政策の変更である。重臣の斎藤利三が四国の長曾我部氏と結んでいた関係(縁戚)で、四国担当から外された光秀は公私ともに面目をうしなった。これがきっかけで、信長への謀反の決意をかためたのは想像に難くない。

それにしても主君を裏切るか、という問題だが、戦国時代にはけっして珍しい話ではない。ましてや、信長においては。

◆裏切られる信長

じつは信長に謀反した人物はといえば、ひとり光秀だけではない。じっさいに信長を裏切った男女は10人を下らないからだ。名前を列記しておこう。

織田勘十郎信行(信長の弟)
柴田勝家(信行の謀反に加担するが、許される)
林秀貞(同上。許されるも、のちに追放処分)
浅井長政(信長の義弟。朝倉氏と結んで反旗をひるがえす)
十五代将軍、足利義昭(信長追討の挙兵)
別所長治(三木城に籠城)
松永久秀(二度にわたり謀反)
荒木村重(本願寺に内応)
織田つや(信長の叔母。敵将の遠山景任と結婚)
樋口直房夫妻(木目峠の砦から逃亡し、秀吉に討ち取られる)

どうです。部下に裏切られまくりのバカ殿(あるいは嫌な上司)信長の実像が浮かび上がってくるではありませんか。

これほど大量の謀反人を出した戦国武将を、わたしは管見のかぎり信長以外に知らない。上杉謙信や武田信玄も家臣から謀反人(大熊朝秀、勝沼信元)を出しているが、自主的なものではなく相手方に調略されたものである(大熊は信玄に、勝沼は謙信および秩父藤田一門に)。

しかも松永久秀や荒木村重の謀反にさいして、信長は「いかなる理由か?」とその謀反の原因を理解できていないのだ。安国寺恵瓊が「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候(いずれは、高転びに滅ぶであろう)」と指摘していたとおり、家臣の気持ちがわからない人だったのだ。

したがって光秀に「怨恨」や「野望」は、大いにあったであろう。それはほかでもない、「怨恨」を突き払うように合戦にいどみ、おのれの「野望」を実現するものが戦国武将だからだ。

だが、黒幕説となると問題はちがってくる。そこには本人の「感情(怨恨や野望)」だけではない、第三者の具体的な関与と行動がなければならないからだ。そこで多数ある「黒幕説」を簡単に検証してみよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

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