当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ危機が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう4カ月も続き、長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争もそうだったのでしょうか。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今年になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

PP&M(Peter, Paul & Mary)

 

忌野清志郎

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発さ加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツや、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナ危機に見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ危機のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われないようになることを心より祈ります。

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった 
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年夏号(NO NUKES voice改題 通巻32号)

前回本通信で鈴木伸哉との会話を公表した。鈴木は重ねて「自分とは関係ない」、「この書き込みが自分のものであると証明しろ」と繰り返した。取材班キャップ田所は、情報の出所がリンチ被害者M君であり、それ故、鈴木の会社だけではなく、携帯電話の番号や自宅住所も知りえたし、アカウントについても同様であると「証明」した。それでも鈴木はひたすら「証明しろ」、「証明しろ」を繰り返したので、本日は「leny φ(^▽^)ノ#鶴橋安寧! (@LenyIza )」が鈴木のアカウントであることを、言葉ではなく過去の関係人物とのやり取りを示すことにより、誰の目にもわかるように再度「証明」する(本来このような無益な作業は不要と考えるが、鈴木が要求するので仕方なく時間を割く)。

以下はかつてカウンターであったが、リンチ事件を契機にカウンターの手法に疑問を持ち、現在は距離を置いている三輪吾郎さんからご提供いただいた情報である。実名で勇気ある「証明」を行っていただいた三輪さんに感謝したい。

まず紹介するのは、あるイベントで作成したチラシが余ったため、大阪市内居住の三輪さんが鈴木の会社まで残部を送付した際のやり取りだ。

三輪さんの自宅から鈴木の会社へ宅急便を送る相談がなされていることがわかる。この時期2人の間には、何のわだかまりもなく、むしろ一定の信頼関係があったと、このやり取りからは推認される。ところがM君リンチ事件後、鈴木の態度は一変し、三輪さんとも以下のやり取りを残している。

三輪さんと鈴木がこの時点ではもう決裂しており、鈴木が「神戸の時に俺の電話番号教えたよな?」と凄んでいる。が、実はそれ以前に鈴木は三輪さんに自分の名刺を渡し、会社の住所などを教えていたのだ。でなければ、最初に紹介した荷物の送付を行えない。

さて、鈴木は自らと自らの勤務先を限りなく特定させる書き込みをいくつも残している。

鈴木の勤務する会社はホームページによれば、1996年の設立であり、この書き込みと符合する。

そして今は敢えて名前は出さないが、鈴木は自身の勤務する会社の名前が判明する書き込みを複数行っている。

ここで鈴木が名前を挙げている会社と鈴木が勤務する会社が隣接していることは、Googleストリートビューではっきり目視できるので、関心がおありの方はご確認を。

ちなみに、これら書き込みは鈴木自身の手によるもの(誰でも見ることができる公開情報)であり、それを取材班のサイバー班が保存したものである。そして、

と鈴木は前職が大和証券であることを明かしている。土井定包氏は大和証券の会長を務めた人物である。

さらに、リンチ被害者M君ともかなり懇意な時期があり、以下の書き込みが残っている。

写っているのは、リンチ被害者M君で、「普段、硬派っぽい人ほど甘いものが好きな気がする。まっ、自分も好きやけど…*それにしても、めっちゃ嬉しそうな」とまるで恋人同士かと勘違いしそうなコメントを添えている。

その後、李信恵らによる集団リンチ事件によって鈴木と被害者M君の仲が決裂した後、この写真をコラージュした卑劣かつ非人間的が画像も何者かから発信されている(リンチ関連本第5弾『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアに掲載)。これが鈴木によるものとの噂があり、このことについても「警告書」では真偽のほどを鈴木に求めている。回答がないが、「関係ない」と言うのなら、そう回答すればいいではないか?

もうこれ以上の言葉は必要あるまい。鈴木伸哉がツイッターアカウント「leny φ(^▽^)ノ#鶴橋安寧! (@LenyIza )」の発信者であることに争いはないだろう。

鹿砦社は金銭保証を求めているわけではない。前回警告した通り、鈴木が、「leny φ(^▽^)ノ#鶴橋安寧! (@LenyIza )」というアカウントがみずからのものと潔く認め、誠実な謝罪をすれば、これ以上の追及や、鈴木が電話で自ら求めた「裁判所」などに持ち込むつもりはない。

だが、本日が最終期限である。本日23:59までに、鹿砦社代表・松岡宛メール(matsuoka@rokusaisha.com)、あるいは書面(ファックス0798-49-5309)、そのほか形のある方法で鹿砦社に謝罪の意を明らかにするように要求する。これは本当の最後通告である。

《関連過去記事カテゴリー》
 しばき隊リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

『週刊金曜日』6月3日号に植村隆社長が、沖縄を訪れ沖縄人民党の創設者、瀬長亀次郎を扱かったドキュメント映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』『サンマデモクラシー』を観、また瀬長を記念する「不屈館」の訪問記が掲載されていました。

 

琉球大学での革マル派学生死亡事件を報じる『朝日新聞』1971年6月19日夕刊。事件が起きた6月18日は、6月17日に返還協定が調印された直後で、以後の批准阻止闘争の準備の大事な時期に起きた。

本土返還の前年、沖縄決戦(返還協定調印‐批准阻止闘争)が沖縄-「本土」ともに盛り上がっていた1971年、瀬長率いる沖縄人民党の学生組織「民青」(みんせい)のゲバ部隊(「ゲバ民」と呼ばれました)が、革マル派の拠点、琉球大学の寮に夜襲を掛け、革マル派のリーダーを殺しています。私も沖縄闘争を自分なりに必死に闘っていたのでショックでよく覚えています。革マル派の機関紙『解放』では数ページ大きく写真入りで報じていた記憶が残っています。返還協定調印阻止闘争、秋からの批准阻止闘争と続く中で、その最前線の現地・沖縄で起きた事件――闘いの後退はやむなしで、べつに革マル派を支持するわけではありませんが、「何をやってくれたんだ」と思いました。

アメリカでは共産党は非合法化され、当時、米国領だった沖縄でもそうでした。なので、人民党が共産党と、名は違えど一体の組織として活動していました。本土併合後、沖縄人民党は正式に日本共産党に合流し、瀬長は副委員長として厚遇されています。

この事件後、革マル派は代々木の共産党本部に抗議行動を掛けています。沖縄人民党=日本共産党と見なしていたからです。

当時の沖縄人民党のトップは瀬長亀次郎でした。瀬長はこの殺人事件をどう扱ったのでしょうか? 民青の暴力による最初の死者ですから、おそらく人民党内では上へ下への混乱があったものと想像でき、トップの瀬長は苦慮したはずです。当時の民青は、口では「暴力反対」と言いながら、実際には新左翼系の運動や組織への暴力はひどかったです。私の体験で言うと、70年師走、某ノーベル賞受賞者の甥っこの先輩は、医者も見放すほどの瀕死の重傷を負いましたし、私自身も71年5月、民青の精鋭部隊から襲撃を受け病院送りとなりました。

先の2つの映画には果たしてその場面は出て来るのか(未見ですが、おそらく出てきていないでしょう)。映画の制作過程で、調べるうちにこの事件はきっと資料に出て来るはずですが、2人の監督は、この事件をどう考えたのでしょうか。見過ごしたのでしょうか? 私はいつも言うのですが、人の評価は、光が当たる部分だけでなく、影の部分も清濁併せて見ないと正確にはできないと思います。当たり前の話です。

瀬長を評価する場合も、その革マル派襲撃殺人事件をも含め評価すべきでしょう。植村隆社長にも機会あればぜひお聞きしたいものです。

瀬長亀次郎の一面を美化し過大評価するのは、もうそろそろやめたほうがいいでしょう。

事件から51年後の『週刊金曜日』2022年6月3日号の植村隆社長の沖縄訪問記。元『朝日新聞』記者の植村社長は一流のジャーナリストとされるが、ジャーナリストであれば、カメジローの影の部分をも調べて欲しい。

最新刊! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

13日発売!〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年夏号(NO NUKES voice改題 通巻32号)

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前回(6月7日)、鹿砦社代表・松岡の怒りの記事でご紹介した通り、「警告書」を送り回答を求めた鈴木伸哉からは回答期限を過ぎても返信がなかった。そこで仕方なく取材班は鈴木に電話で意向を聞くことにした。ことは鹿砦社の名誉毀損に関わることだけに、曖昧にすることはできない。

6月1日正午過ぎ(一般的な企業の昼休み時間)鈴木の携帯電話に電話をかけたが鈴木は出なかったので、仕方なく同日午後鈴木が勤務する会社に電話をかけた。

◆自分と関係なければ「関係ありませんよ」と回答すればよいものを、やましさ故に逃げまくる鈴木

田所敏夫(以下、田所) お世話になっております私株式会社エスエル出版の田所と申しますが、鈴木様いらっしゃいますでしょうか。

電話受けた社員 今電話中なんですけれども。

田所 よろしかったらこのまま待たせていただいてよろしいでしょうか。

電話受けた社員 それではこのまま少々お待ちください。

(1分半ほど保留音)

鈴木伸哉(以下、鈴木) はい。お電話変わりました鈴木です。

田所 お世話になります。私、株式会社エスエル出版の田所と申しますが、お世話になっております。

鈴木 はい。

田所 恐れ入ります。鈴木様宛に5月6日付けで、株式会社鹿砦社から「警告書」を送付させていただいたのですが。

鈴木 それがどうしました。はい。

田所 私は取材班の田所と申しますが

(遮って)

鈴木 そういうのはお断りしているんで。

田所 「警告書」をお受け取りいただいたという記録がこちらの手元にあるのですが。

鈴木 それはもう弁護士の方に送っていますので。

田所 一点だけお尋ねしたいのですけれども、鈴木様は「企業ゴロ」という言葉でですね

鈴木 ちょっと営業中なんですけれども。そういうのは書面で送っていただけますか?

田所 ですから「警告書」をお送りしたんですね。

鈴木 あなたの名前で送ってきてないでしょ?

田所 ですから鹿砦社の代表取締役松岡の名前でお送りしております。

鈴木 いや、それはあなたが送ったんですか?

田所 私は株式会社鹿砦社特別取材班キャップの田所と申します。

鈴木 いや、それね、はっきりいって文書以外で受け付けしていないんで。

田所 それは鈴木様のご事情ですけれども

(遮って)

鈴木 あなたが取材したいんでしたら、取材したいと連絡するのが社会常識でしょ?

田所 取材をしたいのではありません。取材ではなく「10日以内に書面で明確な説明をお願いいたします」とお願いしたんです。お願いをしたのですがお答えを頂けないので

(遮って)

鈴木 はい、お断りします。

田所 お答えは頂けないということでしょうか。

鈴木 そうです。

田所 お答えは頂けないわけですね。

◆自分が書き込んだ証拠を「裁判所で出せ」と発言する鈴木は民事提訴を望むのか?

鈴木 はい。はっきり言って因果関係もわからないことにお答えできませんよ。

田所 鈴木様が書き込まれたものに……。

(遮って)

鈴木 私が書きこんだと、どういう根拠でおっしゃっているんですか。

田所 鈴木様がLenyというアカウントを使っていらっしゃる……。

鈴木 その根拠をお示しください。

田所 鈴木様の複数のお知り合いの方から、これは鈴木様のアカウントであると確認を取っております。

鈴木 いや、あのね、僕、複数の友人て知らないんですよ。まず根拠をちゃんと示して、それからお問い合わせください。

田所 はい。かつては李信恵さんも認めていらっしゃいました。

眼鏡はかけていないが鈴木伸哉と金良平、李信恵。李信恵のツイッター(2015年12月27日)に掲載されたもの

鈴木 いや、そういう話は聞いてません。ですからそれも書面で何月何日に……

田所 すいません、お尋ねしているのはこちらなんです。

鈴木 こちらは根拠を示しなさいと言っているんです。

田所 ですから鈴木様が「芸能プロダクションに寄生して小銭稼ぎをしている極左崩れの企業ゴロ」などと……。

(遮って)

鈴木 ですからそのように私が書きこんだという根拠を示しなさい、と言っているんですよ。

田所 それはあなたが勝手に求めているだけのことです。

鈴木 違います。あなたが私に聞くんでしたら、まず根拠を示してから聞きなさいと。

田所 根拠は、あなたの情報をリンチ被害者のM君から聞いたからです。

鈴木 関係ないです。ちゃんと書き込んだという根拠を、法的にちゃんと示しなさい。

田所 その必要はないです。なぜならば、あなたがたくさん違法な行為を書いているからです。

鈴木 関係ないです、まず示しなさいと言っているの。

田所 「反社出版社」とは「反社会的出版社」を示す言葉ですね。

鈴木 あのね、社会常識なさすぎです。まずその書き込みを私が書いたっていう根拠を示しなさいと言ってるの。裁判所を通してちゃんとそれを私が書いたと示せばいいんですよ。

田所 裁判所を通して示す? そんなことはどうやってやるんですか?

鈴木 なんでもいいですけど法的に示しなさいと言ってるんですよ。

田所 ということは、「訴訟を起こしてくれ」ということですか?

鈴木 そんなことを言ってるんじゃない。

田所 あなた、今「裁判所を通して」とおっしゃったじゃないですか。

鈴木 まずね、その書き込みを私がしたっていう証拠を示してから話が進むんですよ。

田所 では、なぜ私があなたの携帯電話の番号を知っているんですか?

鈴木 それはうちの電話番号は警察署にも届けていますから。

田所 今は会社にお電話をかけているわけです。

鈴木 私の名前は会社のホームページにも書いてありますからね。

田所 違います。私は鈴木さんの携帯電話の番号を知っているわけです。なぜ私が鈴木さんの携帯電話の番号を知っているんですか?

鈴木 それは知りませんよ。

田所 あなたのことを知っている人が教えてくださったから、私は知っているのです。

鈴木 だからその人が、誰がいつ私の書き込みが関係あると、証明したのか、まず示せと言っているんですよ。

田所 ですからリンチ被害者のM君がまだあなたと仲が良かった頃に、あなたがLenyというアカウントを使って書き込みを行っていた時代から、知っているわけです。これで充分でしょ!

鈴木 だったらM君がそれをちゃんと示して……。

田所 必要ありません。この際私はM君のことを問題にしているのではありません。

鈴木 関係ありません、あなたはまずね……。

田所 逃げていますね。

鈴木 あなたがちゃんと証明してからじゃないと話が進まないんですよ。

田所 M君はあなたの電話番号も自宅の住所も知っていますよ。

鈴木 M君は関係ないでしょ。あなたが示さないといけない。

田所 このアカウントが鈴木さんのものであるとわかればはっきりするじゃないですか。

鈴木 証明したらいいじゃないですか。

田所 すでにしていますよ。M君はあなたの会社を知っていたし、あなたのアカウントも住所も自宅の電話番号も知っているということですよ。あなたが散々誹謗中傷している被害者が知っているわけです。

鈴木 関係ないんじゃないですか。

田所 関係ありますよ。あなたの論理は全く破綻しています。破綻している以上におたくは会社ですよ。一般の学生さんなどと鈴木さんは違いますよ。鈴木さんはB(会社名。今回はあえて名を秘す)という立派な会社の取締役をなさっているわけでしょ。

鈴木 それと書き込みと何の関係もないじゃないですか。

田所 そういった立場の方が特定の出版社を「不法に小銭稼ぎをしている極左崩れが社長の反社出版社」という書き込み方をされると、これは明らかに名誉毀損ですよ。

鈴木 だから、まずそれを書いたのが私だということを証明しなさい、と言っているの。

田所 それは出来ていると言っているんです。

鈴木 出来ているんであればそれをまず示したらいいじゃん。

田所 今、言葉で示したでしょ。M君が私にあなたの携帯電話を教えてくれたから、私はあなたの携帯電話もあなたの住所も知っているわけですよ。

鈴木 それ脅しですか。

田所 は? この書き込みとあなたの関連性がどうあるかを示せとあなたが言うから、それを証明しただけですよ。

鈴木 あの、営業妨害なんですけど。

田所 あなたの求めに応じて証拠を申し上げたのです。

鈴木 あの、10分以上かかわっているんですけどね、営業妨害ですよ。

田所 こちらにとっては名誉毀損なんですけど。

鈴木 何で業務中にこんな関係のない電話してくるんですか。

田所 こちらの業務にかかわることで「反社出版社」と書かれ業務に関わりますから。

鈴木 関係ないです。まず示しなさいと言っているでしょ。関係ない所に電話してきて。

田所 関係、大ありですよ。

鈴木 業務妨害で、えーっとエスエルの田所さんですか。電話番号は何番です?

田所 鹿砦社特別取材班キャップの田所です。

鈴木 電話番号は?

田所 私の携帯番号表示されていませんか?

鈴木 いや、言ってください。

田所 それこそお調べいただいたら結構ですよ。鹿砦社の電話番号はオープンにしていますから。

鈴木 じゃあ株式会社エスエルっていう所の電話番号は?

田所 株式会社鹿砦社。

鈴木 関係ないでしょ。

田所 関係は鹿砦社とエスエル出版は親会社─子会社の関係なんです。

鈴木 どちらが親会社なんですか?

田所 調べなさい、そんなことくらい。

鈴木 あなたは自分のことをまず……。

田所 私は田所敏夫と言います。知っているでしょ。しばき隊の中心人物で私の名前知らない人間一人もいませんから。

鈴木 俺は知らないです。

田所 M君の裁判の時、傍聴券抽選前にあなたの隣にいたのが私ですよ。眼鏡かけて来られていましたね。私はあなたの顔も知っています。

鈴木 とりあえず営業妨害なんで御社の方に連絡行くと思いますけども。

田所 はい結構です。

鈴木 もうこれで切りますんで。

◆鈴木への最後通告

身に覚えのある悪行の数々が世間に披歴してしまったら……。鈴木の恐怖感は手に取るように分かった。そして繰り返し根拠を説明しても、話を逸らす鈴木。

だが読者には勘違いしないでほしい。取材班は鈴木への民事提訴も視野に数年間、鈴木の発信を観察、証拠を保存し続けてきた。何もなければ忙しい中このようなつまらぬ人物に時間を割きたくはなかったが、ここへ来て鈴木の発信がまたしてもエスカレートしているので、仕方なくアクションを起こさざるを得なかったのである。

そして、鈴木は前述のとおり「書き込みと自分の関係」に拘っていた。そこで、続報では誰の目にも明らかな証拠をお伝えする。すでに複数の協力者から公開をご快諾頂いている。

鈴木よ、われわれは「企業ゴロ」ではないから、われわれが求めているのは金銭ではない。鹿砦社やリンチ被害者M君を誹謗中傷したことへの真摯な謝罪があれば、これ以上の追撃は行わない。しかし、書面で尋ねた事項への公然たる「無視」、ならびに「営業妨害」を持ち出しての卑怯な逃げを続けるのであれば、われわれは、追及を続けなければならない。

有り余る証拠と複数の対処手段はすでに検討済みである。鹿砦社に公式に謝罪する最後のチャンスは次回、この原稿が掲載された日の23:59までだ。

《関連過去記事カテゴリー》
しばき隊リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

鈴木伸哉という人物は、「カウンター/しばき隊」の中心メンバーとして、ハンドルネーム「Leny φ(^▽^)ノ#鶴橋安寧! (@LenyIza )」名で、李信恵らによる集団リンチ事件の隠蔽と被害者M君への攻撃/セカンドリンチについても先頭に立って蠢動した悪質極まりない人物です。オモテの顔としては資本金3億円もの優良企業の役員(取締役)ですが、ウラではSNSを悪用して随分と非道な言動、M君への人格攻撃、鹿砦社への侮辱、名誉毀損攻撃などを行ってきていました。この人にとって「人権」とは何なんでしょうか?

これまで私たちは、M君支援(主にM君によるリンチ加害者や野間易通らに対する裁判闘争)、真相究明の調査/取材、鹿砦社自体の裁判闘争(リンチに連座したことが判決でも認定された李信恵や、鹿砦社に入り込み「獅子身中の虫」になり仕事そっちのけで就業規則に定められた「仕事をすべき」時間の多くをTwitterや企業恫喝メールなどに費やした藤井正美に対するもの)、それらの対応に追われ、正直なところ鈴木伸哉にまで手が回りませんでした。私たちが「M君リンチ事件」に関わり出した当初から悪質な発信が目立ちで、鈴木も提訴対象の候補に挙がったほどでしたが、多忙な本業や諸々の事情で、提訴までには至りませんでした。

しかしながら、鈴木は懲りることなく、つい最近まで鹿砦社に対し「企業ゴロ」や「反社出版社」などと誹謗中傷を繰り返していることが判明しました。鹿砦社はタブーを恐れない出版社ですが、間違っても「企業ゴロ」や「反社出版社」ではありません。名のある企業の取締役である鈴木のこれらの発信を業務遂行上も看過できなくなりました。

いやしくも創業50年余りの歴史を持つ出版社の代表として、このような侮蔑発信には黙っているわけにはいきません。

そこで、5月6日付けで鈴木宛の「警告書」を配達証明郵便で自宅と役員を務める会社に送付しました。双方とも配達証明が送られてきました(自宅5月7日、会社5月9日)。

lenyこと鈴木伸哉への「警告書」lenyこと鈴木伸哉への「警告書」。最後に記した「リンチ被害者に対する更なる人格破壊を行うコラージュ」は、以前にFBから注意を受けましたのでアップを差し控えました。リンチ関連本5弾『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアに掲載したものです。

 

lenyこと鈴木伸哉への「警告書」を郵送した際の配達証明

さらに、資本金3億円の企業の役員を務める者が、長年そうした非道な行為に手を染めていることから、鈴木が役員を務める会社(現時点では、あえて名を秘しますが、今後の態度次第では公にし、その管理責任を弾劾します)の代表宛てにも、鈴木宛ての「警告書」や資料などを同封し「通知書」を送付いたしました。これも配達済みの記録があります。見ていないなどとは言わせません。

鈴木宛ての「警告書」の内容は画像の通りですが、鈴木、及び鈴木が役員を務める会社の代表共に書面が届いてから10日以内に回答するよう求めました。

ところが、2人から何の回答も連絡もありませんでした。無視か?

致し方なく、6月1日、回答はどうなっているのか問い質そうと、取材班が、くだんの鈴木に対して電話で直撃取材を敢行しました。最初は一般的な企業の昼休み時間である12時過ぎに、鈴木の携帯に電話を掛けましたが鈴木は携帯電話には出ませんでした。そこで、やむなく会社に電話しました。取材内容の詳細は続編でご紹介いたします。

リンチ事件に関して直撃取材するのは久しぶりですが、音声データを聴くと、電話の向こうから動揺している鈴木の様子が感じられました。Twitterでの勢いはどこに行ったのか、慌てふためいているようでした。Twitterでの大言壮語は虚勢か? 本質はチキンか?

一部だけご紹介しますと、鈴木は、あろうことか、鈴木みずからが発信した悪質ツイートが「自身が発したものではない」かのように弁解しました。見苦しい限りです。ハンドルネーム「Leny φ(^▽^)ノ#鶴橋安寧! (@LenyIza )」が鈴木だということは少なからずの証人がいますし、かつ証拠もあり、まさに“公知の事実”です。今回、複数の元カウンターのメンバーにこのことを知らせたところ、みな呆れていましたし、新たな証拠資料も提供してくれました。

鈴木は、返答に窮し、そのハンドルネームが鈴木であると「誰がいつ言ったのか答えなさい」などと逃げの一手でした。みずからが発信したツイートや発言でしょう、責任を持って堂々と答えてほしいものです。

Lenyこと鈴木伸哉による悪質ツイートの一部。左は2019年4月18日記載、右は2022年4月11日記載のもの

 

Lenyこと鈴木伸哉による悪質ツイートの一部。左は2022年2月11日記載、右は2022年4月15日記載のもの

「カウンター/しばき隊」(あるいは、この流れを汲む者)の人間の特徴として、付和雷同して一人の弱そうな人間を攻撃するのは得意ですが、逆にみずからが取材されたり直撃されたりすると全く弱いです。有田芳生参院議員、師岡康子弁護士、岸政彦立命館大学教授兼作家、中川敬(ミュージシャン。ソウル・フラワー・ユニオン)ら……逃げ回ったり弁解したり見苦しい限りです。彼らは世間では、いちおう「知識人」とか「リベラル」とされ社会的地位も認められている人々ですが、その欺瞞は態度から歴然としています。私たちが身分を隠さず、直接取材した際に彼らが見せる醜態と、ふだん言っていることとの乖離には絶望します。

私たちは、この大学院生(当時)リンチ事件について、どう振る舞うかで、その人の人間性が問われると考えてきました。これは今も変わりません。リンチ発生から1年余りのちに、私たちが知り、具体的にゼロからの真相究明と被害者支援に動き出すまで、世間にはおおっぴらにはなりませんでした。

その最大の理由はマスメディアが一切報じなかったからです。M君はマスメディアにも、かつての「仲間」と思っていた人物らにも、必死に訴えたということですが、ことごとく黙殺されました。それどころか鈴木伸哉をはじめとする「カウンター」運動に関わる者らにも激しくバッシングされ、「エル金は友達」運動に典型なように村八分(これは現代社会では法的にも禁じられており差別行為です)にまで直面させられましたリンチ事件発生は2014年師走、私たちが知ったのは2016年3月初めです。実に1年2カ月余り経っていました。その間、M君や少数の友人らがマスコミや学者、知識人に必死に訴えて来ましたが、その声は届きませんでした。それどころか、驚くことに「カウンター」内外でも、後に判明したのですが、鹿砦社の内部に入り込んだ人物(藤井正美)らによって隠蔽活動が行われていたのです。自分の足元、社内でも隠蔽工作が行われていたことは大ショックでした。

現在の日本社会にあって、「反社」、あるいは「企業ゴロ」と称されることは、時に致命的となります。小企業である鹿砦社にはより深刻な影響を与えます。鈴木には、何を根拠に鹿砦社を「反社」、あるいは「企業ゴロ」と断じているのかを問い質しているのですが、回答がありません。この無回答は単なる「返答拒否」では済まない「名誉毀損への説明責任放棄」です。

鈴木に自分の発言への自信があれば、堂々と回答すればいいではないですか。無回答ということであれば、私たちの指摘や主張を認めたことになりますが、それでいいんですね?

鈴木が役員を務める会社の代表者も無回答でした。会社の代表者にはまだ話は聞いていませんが、「反社」、あるいは「企業ゴロ」などと決めつけられた会社の代表者としては、到底このままで済ませることはできません。私たちの生き方は単純で回りくどくはありません。あくまでもストレートに明確な説明と謝罪を要求いたします。

鈴木のツイートについては、膨大な問題発信を確保しており現在整理しつつあります。SNSでの過激な発言が問題となり、侮辱罪の強化が議論されています。こういうことで法律が強化されるのはよしとしませんが、それほどまでに社会問題化しているということです。

私たちの会社・鹿砦社は「企業ゴロ」でも「反社出版社」でも断じてありません。鈴木よ、みずからの発言には〈責任〉を持て! ただそれだけのことです。(文中敬称略)

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伊藤大介という人は、神奈川県で不動産業を営み、「カウンター/しばき隊」と称される「反差別」運動体のスポンサーであり、中心人物です。

 

M君リンチ事件直前、酔っておどける加害者の面々。左から李信恵、金良平、伊藤大介

伊藤は、標記の大学院生リンチ事件に連座し、被害者M君が訴えた民事訴訟で、一審で損害賠償を認められましたが、控訴審では運良く賠償を免れています。

だからといって、リンチに連座したという道義的責任が免れるものではありません。瀕死の重傷を負って倒れているM君を、救急車も呼ばず放置し立ち去っています。

「歴史は繰り返す」とはよく言ったもので、伊藤は、鹿砦社vs李信恵の訴訟の証人尋問の日(2020年11月24日)、傍聴に駆けつけ、その後、またしても泥酔し深夜(11月25日未明)、極右活動家・荒巻靖彦を呼び出し暴行、傷害事件を起こし逮捕、勾留の後起訴され公判が続いていました。

伊藤は、他にも暴力事件を起こし起訴され、2件併合しての公判が続き、その判決が昨6月3日、横浜地裁で言い渡されました。

結果は有罪、罰金20万円を言い渡されました。相手がネトウヨだからか、いささか軽いと思われます。

思うに、伊藤はさんざん暴力を振るって立て続けに暴行・傷害事件を起こしていますが、よほど野蛮な人のようです。

しかし、よーく見ると彼(だけでなく、カウンター/しばき隊)の暴力は権力に向かわず、いわば弱い者いじめの類いです。

伊藤逮捕を報じる2020年12月8日付け産経新聞(大阪版)

ハンドルネーム「肥モン」という人が傍聴記を書かれていますので、一部転載させていただきます。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

大阪市北区堂山町傷害被疑事件及び茅ヶ崎市民文化会館暴行被疑事件判決宣告 1 

2022年6月4日 04:28

傍聴人及び傍聴希望者の顔ぶれ

令和4年6月3日、横浜地方裁判所で大阪市北区堂山町傷害被疑事件と茅ヶ崎市民文化会館暴行被疑事件の判決宣告が行われました。

横浜地方裁判所の開廷表には15時から16時とありましたが、死刑判決などの重い量刑を宣告するわけでもないので理由を朗読することはないだろうと考えていました。

傍聴希望者には李信恵さんをはじめ、ハンドルネーム「モジャ」さんなどの姿があり、当選した傍聴希望者に混じって神奈川新聞川崎総局編集委員の石橋学さんが報道記者先に座り、もう一席設けられた報道記者席も報道関係者が座るというものでした。なお、傍聴希望者かどうかわかりませんが、神奈川県の名札を付けた人物がいたことを付け加えておきます。

異動により構成が変わった裁判所

今回は横浜地方裁判所の裁判官の構成が変わっていました。右陪席であった中山登裁判官が4月1日付け人事異動で検事として法務省に出向し、代わって福岡高等裁判所の判事であった倉知泰久裁判官が4月1日付けで右陪席となっていました。中山登検事がどのような職務に就くかはわかりませんが、仮に東京法務局訟務部付け検事となったとすれば、国が被告となった行政裁判などで国側の指定代理人として答弁書などの準備書面の作成に携わることとなります。

判決主文

奥山豪裁判長は、伊藤大介被告人と北島直樹被告人を呼び、証人席で規律するように命じ、二人の被告人は証人席で並んで起立していました。その二人に対し、奥山豪裁判長は次のとおり判決主文を朗読しました。

主文

北島直樹被告人を罰金10万円の刑に処する。
伊藤大介被告人を罰金20万円の刑に処する。
支払いができない場合、1日5000円で労役場に留置する。
訴訟費用は伊藤大介被告人の負担とする。

判決理由~事件の概要~

この判決宣告の傍聴券が当選した私は、傍聴席の前に座るか後ろに座るかで迷っていました。元レイシストをしばき隊をはじめとするしばき界隈はとにかく法廷でのマナーが悪く、男組の故添田充啓元被告人と木本拓史元被告人の公判では、裁判長に向かって「聞こえませーん」と叫んだ傍聴人がいたほどです。

裁判所が判決宣告の法廷を1時間確保したのは、1時間単位で法廷を確保するのが原則で判決主文のみを述べて判決宣告を終わるのではないかと考えた私の予想は大きく外れ、奥山豪裁判長は判決理由の朗読に入りました。

「令和2年9月23日公訴が提起された事件は、被告人北島直樹と被告人伊藤大介が渡辺賢一50歳の背後から腕で掴み、渡辺賢一を突いて階段から転落させたとして公訴を提起されたものである。

伊藤大介被告人は、令和2年11月25日午前1時20分から1時32分にかけて、大阪市北区堂山町8番13号付近において、荒巻靖彦56歳が刃渡り10.5センチの折り畳みナイフを示したため、大川直樹が荒巻を抑えつけ、なおも荒巻が抵抗したため、伊藤が荒巻の顔面を複数回殴り、さらに荒巻の顔面や頭部を殴ったり蹴ったりしたとして公訴を提起されたものである。」(以下略)

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《6月のことば》雨の日も笑顔 (鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

日々報じられるウクライナ危機とコロナ禍── とても笑顔でいられません。ひょっとしたら今年は時代の転換点かもしれません。かのべトナム戦争終結以後、これほどまでにワールドワイドな戦争とパンデミックがあったでしょうか? 

それにしても、これを揮毫した書家・龍一郎はいつも笑顔でいます。3年前の秋、母校・同志社大学での講演会、早朝お母様が亡くなりながら、福岡から京都に駆けつけ、あたかも何もなかったかのようににこにこ笑いながら平然と講演と即興での揮毫をやり通しました。さすがにプロです。また、自身は一昨年大病に倒れ長く入院、さらに昨年には連れ合いを亡くしながらも、このカレンダーを製作してくれました。その間には、師ともいうべき中村哲氏の不慮の死に遭っています。こうした中でも、彼が笑顔を絶やさないのはなぜなのか? 

龍一郎は人間が出来ています。私など齢七十を過ぎても未熟で、現在の情況を見て、到底にこにこ笑ってはおれません。核の使用を含む世界戦争の危機にたじろぎ、コロナには直撃されのたうちまわっています。どっちが先輩でどっちが後輩かわかりません。

龍一郎の笑顔の源は赴任したばかりの小学校で起きた「ゲルニカ事件」ではなかったか──「ゲルニカ事件」については、ここで説明するには長くなりますので、皆様方にはお調べいただくとして、この事件で彼は、全国津々浦々からの教師や父兄らの支援を受け、全国を講演行脚しみずからの想いと主張を訴えてまわりました。そして夜遅くまでの弁護団会議、敗訴、定年を遙かに前にした教職退職……波乱の人生でした。彼は別のところで「人生に無駄なものなどなにひとつない」と揮毫しています。魂の書家・龍一郎の笑顔の源はここにあるのではないか、と思っています。

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

齢70代に入り、さして誇るべき実績もない私の人生も末期に入りました。私をよく知る方はご存知ですが、思い返せば人に裏切られたり騙されたりが多かった人生でした。この期に及んでは、もう人に裏切られたくはありません。

ここ数年、ひょんな縁で、私たちが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間「しばき隊リンチ事件」とか呼ばれる事件の被害者M君支援と真相究明に関わってきました。6冊もの本にまとめ世に送り出し、決して多くはありませんが、少なからずの心ある方々に理解を得ています。

リンチ被害者M君は、リンチ加害者5人に対し民事訴訟を起こしましたが、この初期、弁護団に加わったのが橋本太地弁護士(大阪弁護士会)でした。ともかく問題のある言動が多く、やがて代理人を辞めていったのですが、その後も問題を起こしています。弁護団から去っても、まともになり本来の弁護士の仕事を懸命にやってくれたら、と蔭ながら応援していたのですが……。一番ショッキングだったのは依頼者と着手金返還を巡りトラブルを起こし「タヒね」(「死ね」という隠語。「死」の上部の「一」を取れば「タヒ」となる)懲戒事件でした。昨年初めのことで、大阪弁護士会は懲戒請求者の主張を認め弁護士として「品位を失うべき非行」として懲戒処分のうち一番軽い「戒告」処分に付したのでした(2021年3月1日付け)。

橋本弁護士は、
「金払わん奴は死ね!」
「弁護士報酬の踏み倒しを撲滅するために何ができるだろうか。」
「弁護士に金払わなくて平気な奴は人殺しと同じだよ。」
「弁護士費用を踏み倒す奴はタヒね!」
「金払う気ないなら法律事務所来るな!」
「金払わない依頼者に殺された弁護士は数知れず。」 (議決書より)

などとSNSで発信し、これに対し依頼者は懲戒を申し立て、昨年3月1日で懲戒処分を受けたのでした。私は、これで心から反省するのであればいいんじゃないか、と思いました。反省しなければ、これ以上の問題を起こしかねないですから。

しかし、橋本弁護士は日本弁護士連合会に処分取消の審査請求を起こし、同会は去る5月17日付けで逆転裁決を下しています。

橋本弁護士と知り合った頃、彼は精神的に病み、生きるの死ぬのと日々ツイートしていました。彼を激励するために、べつに恩着せがましく言うわけではありませんが、高級日本料理店に連れて行ったり北新地のそこそこ高級な飲み屋にも連れて行ったりしました。また、私は2年間、関西大学で非常勤講師を務めさせていただきましたが、そのうち各1回づつ彼にも講義してもらいました。私なりに彼へのエールのつもりでした。彼は1年目の自分の講義(音声)をSNSで発信し依頼の問い合わせが多数あったとのことでした。2年目の講義は映像にし、これもSNSで発信し、1年目より格段に多い問い合わせがあったそうです。

*橋本弁護士のTwitterでは、いまだにこの時の映像を流していますが、そういう経緯があったことを書き添えておきます。少しぐらい感謝してほしいものです。

しかし、彼は、そうした私の気持ちを踏みにじる言動を繰り返しました。ある取材班の一人は悩み血便を下したほどです。

橋本弁護士の処分取消審査請求、弁護士たるものが、そうした下劣な言葉を何度もSNSで発信し依頼者を傷つけた行為は決して許されることではなく、大阪弁護士会の懲戒処分は当然だと思っていました。しかし、日本弁護士連合会がなぜ逆転の裁決を下したのか、市井人としては到底理解できません。本人のためにもよくないと思います。変な理屈付けて、こんな甘いことやってるから弁護士たる者、「三百代言」などとバカにされるんじゃないでしょうか。依頼人(=懲戒請求者)は、次のように悔しさをツイートされています。お気持ちはよく理解できます。

「私はこの懲戒請求した本人です。私の所に日弁連からの議決書はまだ来ていません。それなのに、SNSで弁護士通して、こんなに議決書をシェアして喜ばれると、困ります。それに、着手金も返還してもらっていません。弁護士会は、もっと消費者を保護すべきだと思います。業界の需要が減りますよ。」

むべなるかなです。

ところが、くだんの審査請求の代理人に、かの神原元弁護士の名前があります。これは昨年の時点で情報提供があり知っていましたが、神原弁護士がどういうつもりで橋本弁護士の代理人に就いたのか、あるいは橋本弁護士がなぜ神原弁護士を代理人に選任したのか、非常に裏切られた気持ちです。いやしくも橋本弁護士は、私やリンチ被害者M君らが神原弁護士に立ち塞がれ、彼の手腕によって苦杯と屈辱を舐めてきたことを知っているはずです。

橋本弁護士は、まだ弁護団にいる時、「僕は弁護士として神原のような職業倫理のないやつは許せない」と意気込んでいたのは何だったのか?と思います。と言いつつ、裁判が終わった後で2人して喫茶店に行ったという証言もあり、これは橋本弁護士本人も認めているそうです。そうか、そうであれば合点がいきます。

橋本弁護士にしろ神原弁護士にしろ、彼らの人間性に義憤を覚えます。こうした人間性を持つのが弁護士なのか? こういう弁護士に依頼すれば、仮に「正義が勝つ」ことはあっても、あまり感心しません。

「もう人に騙されたり裏切られたりしないぞ」と肝に命じて来ましたが、藤井正美にはうまいこと社内に入り込まれ3年間雇いました。このかん、勤務時間中にやりたい放題やられました。3年間も気づかなかった馬鹿な社長です。また、藤井につながる「反原連」にも多額の資金を吸い取られ、ちょっと意見するや挙句一方的に絶縁されました(もちろんお金は返ってきません)。

非常にやり切れない気分で、一気に書き連ねてきました。普通は他の人に一読してもらったり1日置いたりして掲載するのですが、今回は執筆即掲載しました。

まあ、人を見る目がないとみずからを恥じるしかありませんが、それでも私は残りのわずかな人生、人を信じたいと思っています。

尚、「裁決書」は2ページですが、このほかに「議決書」が9ページあります。ここでは「裁決書」のみを掲載します。

*朝日新聞5月26日朝刊に記事が出ましたので画像を追加しました。それにしても、SNSでの誹謗中傷が社会問題になり侮辱罪の強化が叫ばれる昨今、弁護士という特権階級だったら許されるのか、「死ね」「タヒね」というようなツイートが「表現の自由」だとする日弁連の頭の中は時代錯誤としか言いようがありません。

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5月15日、沖縄が日本に「返還」(併合)されて50年が経ちました。

50年前の5月15日、私はデモの中にいました。ビルの谷間に空しくこだまするシュピレヒコールが記憶に残っています。

1972年5月15日付けの『琉球新報』

1972年5月15日付けの『沖縄タイムス』

 

映画『沖縄決戦』ジャケット

事実上の沖縄決戦は前年の1971年でした。『沖縄決戦』という映画も作られ放映されました(監督・岡本喜八、脚本・新藤兼人、東宝。8月14日封切り。俳優も、小林桂樹、仲代達也、丹波哲郎、加山雄三、田中邦衛、大空真弓、酒井和歌子ら錚々たる布陣)。映画の中で、終戦間近、敗色濃い沖縄決戦直前、大本営は精鋭部隊の派遣をドタキャンし、その理由として「沖縄は本土のためにある。それを忘れるな」と語っていますが、ヤマトンチュのこの意識は「返還」後もずっと続き、今はどうでしょうか。

返還協定調印(6月)から批准(11月)まで沖縄現地、「本土」ともに激しい抵抗がなされました。翌72年は、連合赤軍事件があったりで、沖縄「返還」に対する抗議行動は、わずかにブント戦旗日向派が「5・13神田武装遊撃戦」を最後の火花のごとく実力闘争で闘ったことが記憶に残るぐらいです。同派は前年、精鋭の「共産主義武装宣伝隊」が権力中枢の外務省に突入を試みたことがありましたが、5・13は、権力の中枢とは程遠い御茶ノ水での闘いでした。かなりの数の逮捕者を出しましたが、それだけの逮捕者を出してまでもやるのなら、もっと権力中枢でやってほしかったところで残念です。

70年安保闘争が1970年その年の闘いではなく、67年羽田闘争から69年秋期決戦まで続き雌雄が決っしたように、沖縄決戦は、1971年に大きなうねりとなり闘われ敗北しました。

71年5・19沖縄返還協定調印阻止闘争(京都)

71年6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)

よく69年の闘いに敗北し、その後の反戦運動、社会運動、学生運動(以下それらをまとめて「運動」と略称します)がそこで終わったかのように記述されますが、70年にも闘いを続ける人たちはまだ多くいました。当時私も大学に入ったばかりで「遅れてきた青年」(大江健三郎の同名の小説のタイトル)でその運動に参加しました。今と違い学園には立看が林立し日々多くのビラが撒かれました。深夜喫茶などもあって、夜遅くまで喧々諤々の議論が交わされました。熱い季節はまだ続いていました。

1971年には、三里塚闘争も山場を迎え、また国公私立大の学費値上げ阻止闘争と連繋し沖縄闘争が闘われました。当時のドキュメント映像が時に放映されますが、みな真剣でひたむきな目をしています。この頃の時代の空気や闘いの記録、記憶は、昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』に、詳細な年表と共に、多くの執筆者が書き記している通りですので、未読の方はぜひご購読いただきたいと思います。

11・14沖縄返還協定批准阻止闘争(東京渋谷)

11・19沖縄返還協定批准阻止闘争(東京日比谷)

72年5・15偽善的「返還」にひとり気を吐いたブント戦旗日向派の72年5・13神田武装遊撃戦

◆盛り上がった運動に水を差した分裂と、死者を続出させた内ゲバ

1971年の運動は盛り上がりましたが、それに水を差したのは運動の分裂と、死者が続出した内ゲバだといえます。

運動の分裂としては、新左翼最大党派の一つブントが、いわゆる戦旗派(日向派)と連合派(関西派、さらぎ派、神奈川)に4・28沖縄デーでの日比谷公園でのゲバルトで分裂に決着、これが第二次ブント最後の分裂かと思いきや、以後も分裂や離合集散を繰り返しています。ブントは、60年安保前夜に結成、60年安保闘争を闘い、その後分裂し、ようやく66年に再建しましたが、以来毎年のように分裂してきました。なんのための再建だったのでしょうか。

また、対立はありつつも表面上は分裂を回避してきた新左翼系の統一運動体・全国全共闘(八派共闘)が、6月15日に大きく二つ(奪還派〔中核・第四インター〕と返還粉砕派〔解放派・フロント・ブント・プロ学同など〕)に分裂しました。

さらに沖縄の青年組織も、「沖縄青年委員会」(略称「沖青委」。中核派と共闘)と「沖縄青年同盟」(略称「沖青同」。解放派等と共闘)に分裂し、前者は皇居突入、後者は国会内で爆竹を鳴らすなどの抗議行動を行いました。

分裂はしつつも死者を出すまでもなく、各派、各組織ともに権力(当時の佐藤政府)に対して懸命に72年欺瞞的「返還」に抗議・抵抗しました。

71年4・28 ブントの内ゲバ(東京日比谷公園)

 

71年6・15 全国全共闘の分裂

ところが、中核vs革マル間の内ゲバが、70年に革マル派学生が1名亡くなった後も続き、71年には横浜国大寮で革マル派学生が中核派に襲撃され1名が死亡(10月)、革マル派も反撃し学費値上げ反対闘争を闘っていた関西大学のバリケードを深夜襲撃、そこにいた中核派の中心的活動家2名が亡くなっています(12月)。そのうち1名は面識があった人でした。

さらに、これはあまり知られていませんが、沖縄人民党(「返還」後に共産党に合流)民青が琉球大の寮で革マル派を襲撃、1名死亡させています(6月)。

この当時、沖縄人民党の党首は、ここ数年ヒーロー扱いされている瀬長亀次郎でした。私はよく言うのですが、瀬長を持ち上げる人たちは、その事件をどう考えるのか、教えていただきたいと思います。瀬長が、駐留米軍と闘ったことと共に、この死亡事件に対しどう対処したのかも併せて考えないと瀬長の総合的な評価はできないんじゃないでしょうか。

そうして決定的だったのは、72年3月に発覚した連合赤軍事件でした。この事件については、前出『抵抗と絶望の狭間』はじめ本年になって続々と刊行された書籍を参考にしてください。

沖縄人民党民青による革マル派襲撃1人死亡

◆沖縄は変わったのか?

沖縄が「本土」に「返還」(併合)されて50年、果たして沖縄は変わったのでしょうか?「本土」との往来は自由になったとはいえ、相変わらず米軍の基地が、沖縄本島のかなりの面積を占め、米軍関連の事故や事件もなくなってはいません。観光産業が基幹産業で、国家的に抜本的な産業振興策もあまり聞かれませんし経済的にも恵まれているとはいえません。

50年前の私たちのスローガンに「沖縄の侵略前線基地化阻止!」がありました。当時沖縄は、ベトナム戦争のまさに最前線でした。では、ベトナム戦争が終わったからといって、米軍基地が沖縄からなくなったでしょうか。いわずもがなです。今はアジア支配への最前線、日米安保体制の要であり続けています。沖縄に米軍基地がなくなれば、どれほど美しい島になるでしょうか。基地に働くみなさんの生活はどうする? 政府がきちんとした経済政策を採ればいいだけの話です。沖縄県は「返還」以来、いわゆる「革新」知事が長かったこともあるのか、自民党政府も、お金が要る経済政策はおざなりだったのではないでしょうか。

沖縄の民意は基地反対! 辺野古新基地を問う県民投票の結果を報じる『琉球新報』

同じく『沖縄タイムズ』

「返還」直前の70年12月、米兵の乱暴狼藉が続き、日米両政府への不満が一挙に爆発したのが、70年12月の「コザ暴動」でした。一時「騒乱罪」が適用されようとしましたが不起訴になりました。当時のコザ(現在の沖縄市)は『あめりか通り』(ネーネーズ)という歌になっているように繁栄していたようですが(当時行ったことはありませんので記録や語りで察するしかありませんが)、今は閑散としています。数年前に一度行って驚いた次第です。「これがあの『コザ暴動』が起きた街か」と感じたことを覚えています。

私が生まれ育った熊本は沖縄の方々が多い街でした。一時は30万人といわれたそうです。なぜ鹿児島ではなく熊本かといえば、沖縄は島津藩に支配され苛められたからでしょう。中学校、高校の裏手の市営住宅には沖縄出身の方々が多く住んでいて友人も少なからずいました。今住んでいる関西も、その規模は熊本を遙かに凌ぐものです。60年代からの高度成長期、西宮の隣の尼崎は阪神工業地帯の中心として鉄鋼、造船で栄え、特に多く、(これはあらためて調べようと思いますが)沖縄県人会で市議を出していたという話を聞いたことがあります(実際に沖縄をルーツにする市議はいるので、このことを言うのでしょうか?)。いつしか尼崎から基幹産業の鉄鋼、造船はなくなり(と同時に公害もなくなりましたが)、今はパチンコと風俗の街になったとさえ揶揄され残念ですが……。

そうしたことの悲哀を歌ったのがネーネーズの『黄金(こがね)の花』(作詞・岡本おさみ、作曲・知名定男。1994年)で、知名先生も一時は尼崎に住んでおられたそうです。

「家族を故郷、故郷に置いて泣き泣き、出てきたの」――当時(今もそうでしょうが)沖縄には産業らしい産業はなく、多くの方々が、いわば出稼ぎに、主に関西に出てこられたようです。当時は船で移動していましたから東京よりも近い関西ということになったのでしょう。大阪大正区や港区には「リトル・オキナワ」と呼ばれる地域もあります。

「黄金で心を汚さないで 黄金の花はいつか散る」
「黄金で心を捨てないで 本当の花を咲かせてね」

涙が出るような歌詞です。先に書いた「琉球の風」で、ネーネーズのこの歌を聴いていた「かりゆし58」の前川真悟君が涙ぐんでいた映像が残っていますが、聴く者すべてに感動を与える曲です。

ちなみに、作詞の岡本おさみは鳥取出身で、『島唄』の宮沢和史、『さとうきび畑』『涙そうそう』の森山良子、後述する『沖縄ベイ・ブルース』の阿木燿子・宇崎竜童夫妻もヤマトンチュであり、特に山梨県出身の宮沢和史は『島唄』を発表した当初、かなり拒絶されたそうですが、そのひたむきさに知名先生は「いとおしくなった」と仰っていました。

◆これからも沖縄・奄美と共に

これからの日本は、どう転ぼうが沖縄を度外視してはやっていくことはできません。また、忘れられがちな奄美も含めて考えていかないといけないでしょう。ちなみに、沖縄と奄美は対抗意識があるようで、例えば、沖縄は「島唄」、奄美は「シマ歌」ですし(かつて奄美出身の歌者を招きライブを行い、そのフライヤーの原稿が「シマ歌」となっていたので「島唄」と直したところ校正で「シマ歌」と修正され教えていただきました)、沖縄は「泡盛」、奄美は「黒糖焼酎」ですしね。

1971年の沖縄返還協定調印→批准阻止闘争が、60年代後半の闘いに匹敵するほど盛り上がりつつも、運動の分裂や内ゲバの激化を大きな要因の一つとして敗北し、中途半端な形で「返還」(併合)がなされてしまいました。私たちヤマトンチュは、50年余り前の当時、沖縄「返還」(併合)の本質的な意味を理解するに十分ではなく、ともかく「返還」はよかったんだという意識がなかったか? いろいろ反省すべきことが多く、「返還」50年ということで、先のGWに考えながら塞ぎ込んでしまいました。

最後に『沖縄ベイ・ブルース』(作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。1976年)の一部を挙げておきます。阿木・宇崎夫妻が「返還」から5年も経たないのに、沖縄の現状を鋭く見つめていたことに驚きます。ここでいう「約束」とは「核抜き・本土なみ」ということですが、いまだにこの「約束」は履行されていません。――

「♪約束はとうに過ぎて 影ばかり震えてるの
今すぐ旅立てるよう 手荷物はまとめてあるわ」

「アーン アーン 聞き違いなの 教えてよ
アーン アーン 待ちぼうけ残して
青い鳥が逃げた」

「約束はオウム返し 唇に乗せてみるの
窓からの月の光 心の壁突き抜けるよ」

「アーン アーン 勘違いなの 教えてよ
アーン アーン 忘れた顔をして
青い鳥が逃げた」

(文中、一部を除き敬称略。また、半世紀も前の話なので記憶違い等があればご指摘ください)

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、もうすぐ沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみたいと思います。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や戦後も続くアメリか支配が明らかになり、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録しています)。

宮沢和史さん

宇崎竜童さん

 

知名定男さん

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前回の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。
【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

ネーネーズとHY

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◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

ネーネーズ6代目メンバーと松岡

◎[リンク]今こそ反戦歌を! 
◎[リンク]琉球の風~島から島へ~

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