《4月のことば》まいにち 元気よく きげんよく (鹿砦社カレンダー2020より/龍一郎・揮毫)

4月になりました。

新型コロナウィルス騒ぎで、1月から3月まで、あっというまに過ぎてしまいました。

まさに「1月は去(い)ぬ、2月は逃げる、3月は去る」でした。

この打撃は大きく、例えばここ甲子園では、例年なら全国から高校野球ファンが集い、これが済めばプロ野球ファンが集い賑わうのですが、今年は商店、飲食店、旅館:ホテルの経営者のみなさんは頭を抱えておられます。

今後、コロナの終息が遅れれば、経済的な打撃は計り知れません。

この期に及んで、オリンピックを延期するか中止するかの議論自体ナンセンスです。

元々世界に向かって大嘘をついて開催権を取得したわけですから、こんな呪われたオリンピックなど即刻中止すべきでしょう。日本が敗戦から再興する過程で開いた1964年の東京オリンピックとは意味が全然違います。

ここまで来たら、オリンピックに費やす資金を、福島や、大災害の被災地の復旧・復興に投入すべきでしょう。常識的に考えて、そうではないでしょうか。

本来なら、年度初めで、若いみなさんは進学、就職で、私たちも気分一新して出発する季節なのですが、「元気よく、きげんよく」過ごして行こうではありませんか!
 

タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年4月号

『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

会場には、若き頃と最近の佐野さんの遺影が掲げられた

佐野茂樹という古い伝説的な革命家が亡くなり、偲ぶ会(3月22日)に出席してきました。会場は京都・キエフで、ここは歌手・加藤登紀子さんの実家が経営され、今はお兄さんが社長です。

登紀子さんのお連れ合いは、ご存知、藤本敏夫(元反帝全学連委員長)さんで、寮(同志社大学此春〔ししゅん〕寮)の大先輩です。この方も伝説的な方です(蛇足ながら、藤本さんはここ甲子園出身で、鳴尾高校から同志社の新聞学専攻に進まれました。この界隈出身の著名人としては、芦田愛菜、あいみょんらがいます。そうそう、私に手錠を掛けた神戸地検の宮本健志検事もこのあたりの出身)。

久し振りに本宅的なロシア料理を味わった

キエフは、寮関係の集まりや、同志社関係の集まりにもよく使われてきました。私のいた寮の学生も、藤本さんや、藤本さんの片腕で店長を務めていた寮の先輩の村上正和さんの縁で、よくアルバイトしていました。

佐野さんは、60年安保闘争で国会前で亡くなった樺(かんば)美智子さんと、神戸高校の同級生とのこと、佐野さんは京大、樺さんは東大(1浪して1957年入学)ですが、共に新左翼の始まりといわれる「ブント」を起ち上げたメンバーです。

1956年に京大入学ということで、すぐに学生運動に飛び込み、60年安保闘争の際の全学連主流派、これを支えたブントの幹部として歴史的な闘いの先頭に立ちます。佐野さんは58年には全学連副委員長に就き、樺さんは東大文学部学友会副委員長という要職にありました。

佐野さんの著書『帝国主義を攻囲せよ!』

樺さんが佐野さんに淡い恋心を抱いていたということは、当時のブントのトップ・島成郎(故人。精神科医。沖縄に渡り離島医療の先駆け)さんの著書にも記され、“公然の秘密”のようでした。この世代の方々が、ずいぶん出席されていました。

その後、ブント再建(第2次ブント)で議長に就任、60年代後半の学園闘争、70年安保―沖縄闘争を指導しました。

第2次ブントは、70年を前に分裂するのですが、京都では、同志社、京大を中心に、いわば“赤ヘルノンセクト”の学生運動は健在で、私たち同志社大学全学闘は京大C戦線(レーニン研。70年末に結成)と共闘し、「全京都学生連合会」(京学連)の旗の下、70年代初頭の沖縄―三里塚―学費闘争を闘いました。

数としては同大8、京大1、その他1という按配でした。人数としては同大が圧倒的に多かったのですが、京大は、まさに少数精鋭で、リーダーの吉国恒夫(故人。専修大学教授)さん、行動隊長にしてオルガナイザーの片岡卓三(現在医者)さんを中心に、理論的にも他の追随を許しませんでした。同大には卓越した理論家はいなくて(苦笑)、C戦線の機関誌から“密輸入”したりしていました。

同じく『佐藤政府を倒せ!』

吉国さんは、矢谷暢一郎さんと共に68年御堂筋突破デモを指導し共に逮捕・起訴されています(当時裁判官として、この判決文〔かなりの寛刑!〕を書かれた方で現在弁護士のA先生が、今、カウンターメンバーとの裁判で当社の代理人として神原元弁護士と一戦を交えています)。

このC戦線をバックで支えたのが佐野さんで、C戦線こそがブント解体後の学生運動や革命運動の未来を担うと考えられていた、と思います。吉国さんや片岡さん、他のメンバーらと交流し私もそう感じました。『帝国主義を攻囲せよ!』とか『佐藤政府を倒せ!』など佐野さんの著書やパンフレットも一知半解ながら熟読しました。

ところで、この通信をご覧の方には馴染み深い「カウンター大学院生リンチ事件」の被害者M君の父親がC戦線の当時のメンバーだということをM君から聞いていたのですが、複数の証言を得ることはできませんでしたので、確証がありませんでした。

その集会の呼びかけ人を務められた片岡卓三さんの号令一下、当時のC戦線のメンバーが数多く出席されていました。大体私と同じ70年入学でした。

樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑えまん』(三一新書)。われわれの世代の必読書だった

彼らにたずねると、みなさんM君の父親をご存知でした。「私たちはリンチされた息子の救済と支援活動をやって来た」と言うと、みなさん驚いていました。

C戦線(レーニン研)は、毛派(中国派)のグループと合体し全国党派を目指しマルクス主義青年同盟(マル青同)を結成しますが、これはあえなく崩壊します。片岡さんらは、この過程で離脱し、結成後すぐに内部抗争が起き、トップの吉国さんは「死刑宣告」を受け放逐されます(彼はその後、矢谷さん同様日本を離れ、アメリカ西海岸やジンバブエの大学に入学し、日本のジンバブエ研究の第一人者になります)。

他のメンバーも離脱し、各々の人生を歩み始めます。しかし、そこは“腐っても京大”、私たちと一緒に同大学費決戦で逮捕・起訴され、一念発起して一級建築士になったB君同様、弁護士になったりしています。組織が解体して司法試験を目指したCさんは、たった1科目しか取得しておらず再入学し30歳になって司法試験に合格、今は弁護士になっておられます。

また、もう一人のD弁護士は、15年前の私の逮捕事件で「憲法21条に則った、公正で慎重な審理を求める署名」に賛同人として署名をしてくれていました。あらためてお礼を申し上げました。

それにしても、まさか私たちが支援したリンチ被害者M君の父親が、学生時代に共闘していたとはビックリ仰天でした!

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(1/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(2/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(3/3)

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

1970年代初頭の京都の学生運動を記録した『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

15年前の2005年は、私たちにとって“特別の年”でした。この年の4月7日、『紙の爆弾』は創刊しました。

『紙の爆弾』創刊号(2005年5月号。4月7日発売)

そして、それからわずか3カ月後、あろうことか鹿砦社代表の私松岡が逮捕され、本社、松岡自宅、東京支社、関係先などに大掛かりな家宅捜索がなされ、さらには製本所、倉庫会社、大手取次3社、関西の主要書店3社などにも捜査が入りました。製本所、倉庫会社はともかく、普段は「表現の自由」「言論・出版の自由」という言葉を声高に叫ぶ大手取次や大型書店は、あっさり捜査に協力しました。少しは抵抗してほしかったな。

私は192日の長期勾留を強いられ、このかんに鹿砦社は機能停止、事務所閉鎖、壊滅的打撃を受けました。大晦日・正月を六甲の山の上(歴史的にも名のあるひよどり台)にある神戸拘置所で過ごしました。そうして、執行猶予付きながら懲役1年2カ月の有罪判決、民事でも600万円(一審は300万円、控訴審で2倍になりました)余りの賠償金が課されました。

そうした困難な情況でも、心ある多くの方々のご支援で『紙の爆弾』は、断続的ながら発行を続け、私の保釈後、鹿砦社は、自分で言うのも僭越ですが、奇跡的に復活することができました。正直、自分でも復活できるとは思ってもいませんでした。ただ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」と、懸命にもがき続けただけです。うまく「瀬」を摑むことができました。悪運が強いとしか言いようがありません。

松岡逮捕を報じる朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日朝刊

一方、弾圧の張本人、本件事件の責任者で当時の神戸地検特別刑事部長・大坪弘道検事は、大阪地検特捜部長に栄転、しかし厚労省郵便不正事件証拠隠滅に連座し逮捕され有罪、失脚しました。また、主任検事で松岡に手錠を掛けた宮本健志検事(地元甲子園出身!)は深夜に泥酔し暴れ拘束され、戒告・降格処分を受けました。

大坪弘道逮捕を報じる朝日新聞2010年10月2日朝刊

岡田和生逮捕を報じるロイター電子版2018年8月6日付け

さらに、松岡を刑事告訴し、賠償請求3億円もの巨額訴訟を起こした、警察癒着企業にして大手パチンコ企業アルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)の創業者社長(当時)岡田和生氏も海外で逮捕、みずからが作り育てた会社からも放逐されました。

まさに因果応報、人をハメた者は、必ずやみずからもハメられるという恰好の証左です。こうしたことを想起すると、この事件が、よからぬ輩に仕組まれたものだということが判るでしょう。
 
私たちは、『紙の爆弾』創刊(4月7日)─出版弾圧(7月12日)に至る過程で絶望的に地獄に落とされましたが、そうした攻撃や弾圧に打ち勝ち、『紙の爆弾』を継続発行し、さらに強くなり出版活動を持続しています。これほどの事態を乗り越えたのですから、もう何も怖くはありません。

『紙の爆弾』は、来月4月7日発売号(5月号)で創刊15周年を迎えますが、別冊「2005年に何が起きたのか?」を付けます。お支えいただいた皆様方に感謝し、死滅したジャーナリズムの中で、存在感のある出版活動を継続してゆくことを、あらためて決意するものです。共に闘いましょう!

『紙の爆弾』創刊―出版弾圧15周年を記念して、昨年の鹿砦社創業50周年に続き、今回は東京だけですが6月6日(土)に記念集会を予定しています(午後3時から、於・スペースたんぽぽ)。今から日程を調整され、ぜひともご参加お願いいたします。この種の記念集会は、これ以後しばらくはやらないつもりですので、特に昨年の集会に参加されなかった方のご参加をお願いする次第です。

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◆月刊『紙の爆弾』(定価600円/税込)は全国の書店にて発売していますが、なるべく定期購読をお願いいたします。1年(12号)分6600円(1号分お得)を郵便振替(01100-9-48334 口座名=株式会社鹿砦社)にて、お名前、ご住所、×号からを明記しご送金ください。お申し込みの方には特製ブックカバーを贈呈いたします。また、毎年12月には魂の書家・龍一郎揮毫によるカレンダーを送ります。

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創刊─出版弾圧15周年!! いまこそタブーなき言論を!月刊『紙の爆弾』2020年4月号

『NO NUKES voice』Vol.23 総力特集〈3・11〉から9年 終わらない福島第一原発事故

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《3月のことば》故郷の桜は美しく咲いているだろうか(2020鹿砦社カレンダーより/龍一郎・揮毫)

今年は年頭から新型コロナウィルスと呼ばれる感染病で瞬く間に2カ月が過ぎました。

今の時期は確定申告で、ライターさんらも慌しい日々を過ごし税務署も1年で一番混雑していますが、コロナウィルス騒ぎで1カ月延期されました。

コンサートや集会なども延期になっています。

先日は歌謡曲番組が観客なしで生放映されていました。

こんな具合で果たしてオリンピックは開かれるのでしょうか? はなはだ疑問です。

元々、福島は「アンダーコントロール」されているので大丈夫、大丈夫と国際的に大嘘をついてまでやらないといけないのか、と疑問に思っていましたが、あらためてそう思います。

もうすぐ3・11──福島の原発が爆発事故を起こし9年が経とうとしています。

福島にはどういう桜が咲くのでしょうか?

また、私の、あなたの故郷では、どういう桜が咲くのでしょうか?

望郷の念が高まれば、私はいつでも帰郷できますが、福島から離れ見知らぬ土地で暮らす方々は、すぐに帰郷できるわけではありません。

3・11は否が応でもやって来ます。

私たちは、福島の現状を忘れずに、しかと見据え、故郷の桜に想いをめぐらしていきたい。

そして、地震で崩れ落ちようとしつつも踏ん張り再建の途にある故郷・熊本城の桜はどう咲くのだろうか──。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋

〈原発なき社会〉をもとめて『NO NUKES voice』22号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)

2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

松岡 ご苦労様です。われわれが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間では「しばき隊リンチ事件」と呼ばれる、大学院生M君に対するリンチ事件で、ようやく確定判決で認められた賠償金が、金良平氏の代理人に就任した神原元弁護士からM君の代理人大川弁護士に振り込まれました。当初の代理人は別の弁護士でしたが、今年になり、なぜか代理人が交替しましたけど、まずはこの事件の一つの区切りといえるでしょうから、きょうは皆さんの意見や感想も聞かせてください。

A  ともかく、お疲れさまでした、が正直なところですわ。判決内容はともかく賠償金が支払われへんのちゃうか、って本気で心配しよりましたよってに。

B  難しいですよね。これで法的には一応終わったわけですよね? 私は本質的なところでは何も終わってはいないと思っていますが……。

C  M君の事件はね。でも鹿砦社は対李信恵第2訴訟(李信恵氏が原告となった進行中の裁判、第1訴訟は鹿砦社が原告、李信恵氏が被告で既に鹿砦社の勝訴が確定。第2訴訟は第1訴訟の反訴として提起されたが、取り下げ、あらためて別訴として提訴された)と、対藤井正美訴訟を抱えているから、終わりとはいえないよ。

D  長かったですよね。誰が管理してるのか知らないけど「支援会」の活動には頭が下がりました。

松岡 支援会は私が責任を持つ形で、少人数で運営しています。口座は既に閉鎖しましたので、遠からず会計報告ができるでしょう。

B  結局「支援会」のメンバーは最後まで僕らにも秘密でしたね。

松岡 秘密主義じゃないですよ。最低限の人数で動かしただけです。お金が絡む問題でもあり、口座は大川弁護士に管理していただいていたことをTwitterでも公表していました。いまだに会計報告をしないで少なからずの方々から首を傾げられている、どこぞの支援会と違い、私たちは1円のお金も飲食には使っていませんし、厳密に管理してきました。また、鹿砦社はM君裁判とは別に、李信恵氏や藤井正美らと訴訟を行っていますが、こちらにはもちろんですが、1円も使っていません。鹿砦社関係は鹿砦社の資金から裁判費用を出しています。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

C  これまで5冊だったっけ? この事件に関して出した本。最後にまとめみたいなことは必要だと思うな。

松岡 そうですね。今は緊急出版をいくつか抱えてきましたので後手になりましたが、早い時期に取り掛かりたいところです。

A  何年になるんやろ? まだ最初の頃、僕30歳やったもん。

B  もうすぐ4年やね。Aは突撃で下手ばかり打ってた(笑)。

A  そんなん、いきなり「国会議員Aのコメントとって来い!」言われても、東京の地理も知らん大阪人にできるもんちゃいますよ。

C  30歳超えてなにを甘っちょろいこと言ってるんだ!って怒ったよな、俺。

B  新聞や出版の経験があるのにね。たしかにAの詰めはいまだに甘いわ。

A  ……。

D  結局、僕らが問いたかったことが世の中に訴求したかどうか、その点は気になりますね。

C  最後はいつもそこで頭悩ますよね。でも、事実関係は確実でどこのマスコミも切り込まないアングルを維持したから、それは重要なことだったと思うね。おそらく、われわれがやらなかったら闇に葬られていたんじゃないかな。だってそうだろう、われわれが知ったのは事件から1年余り経っていたからね。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

B  そうですよね。不思議なのは後追いがまったくなかったことですね。世間で「リベラル」と言われている人で応援してくれた人といえば……?

A  元読売新聞記者の山口正紀さんくらい違います? あとは黒藪哲哉さんくらいやろか? 先頃亡くなった、『週刊金曜日』発行人だった北村肇さんら、ほんの一握りの方々ですよね。山口さんにしろ黒藪さんにしろ、当初はご存知なく、関心持たれたのは、われわれが資料を添えて説明してからですよね。『週刊金曜日』内部ではささやかれていて、北村さんは少しご存知のようでしたが、事件が起きた大阪と、遠く離れている東京では、事件に対するスタンスも温度差があって、われわれが事件を知って深刻になったのとはまた違う感じだったようです。

D  逆に想定外の「義絶」が相次ぎました。

C  そうそう。田所さんの「辛淑玉への決別」(田所敏夫「辛淑玉さんへの決別状」)にはじまり、社長の鈴木邦男への義絶(松岡利康「【公開書簡】鈴木邦男さんへの手紙」)へと。

A  社長の鈴木さんとの仲違いは、業界では話題になりました。

C  ちゃんと言葉をつかえ!「仲違い」じゃない!「義絶」だ、A!

A  あっ、すいません。

B  相変わらず詰め甘いな。

D  「踏み絵を踏ますな」という人もいたけど、そうじゃなかったですよね。「これ見てどうも思いませんか?」が僕らの原点。

松岡 最初に事件直後のM君の写真を見た時、単純に「これは酷い」と思いました。これが私の出発点でした。すぐに田所さんに連絡し、「これは黙っていたらアカン」と一致しました。まさか、こんなにたくさんのライターさんにお世話になって、5冊も出版することになろうとは思いませんでした。

B  社長を動かしてる動機ってなんなんでしょうか?

松岡 今も言ったように「これは酷いな」という単純なことですよ。もう少し込み入った事情もないわけではありませんが、そのあたりに興味のある人は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を読んでください。

A  読みました。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の死体洗いの話、びっくりでしたわ。

松岡 Aさんは私の原稿も読んでくれましたか?

A  はぁ。読んだんですけど、ちょっと難しくて……。

C  しっかりしろよ!

松岡 私は学生運動や社会運動内部で繰り返されてきた暴力の問題、いわゆる内ゲバやね。それを長年考えてきていて、かつて作家の高橋和巳先生らが警鐘を鳴らしたのに軽視され、多くの犠牲者を出しました。「まだこんなことやってるんだ!」という義憤もあったね。いわゆる内ゲバでは、私の行った大学では2人亡くなっていますし、亡くなりはしませんでしたが、あるノーベル賞作家の甥っ子の先輩が、一時意識不明になったり。なによりも私も「ゲバ民」と言われた共産党の集団に襲撃され病院送りになったことなどが悪夢のように甦ってきたりしてね。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の後のほうに掲載している長文の拙稿(草稿)は、そうしたことについて、私なりに考え、書き連ねたわけです。

B  ともかく最後にまとめの、もう一本出すということですね。

D  新たな取材予定があるんだったら、社長早めにお願いします。

松岡 それは秘密です。

一同  えっ! まだあるんですか!

松岡 当たり前じゃないか。冒頭に述べたように、賠償金が払われ訴訟実務としては終結しただけで、本質的な問題は、まだ何も終わっていないんでね。特に、普段は元気がいいのに、この事件について質問したり取材すると、沈黙したり逃げたり開き直ったり隠蔽に加担したり豹変したり……「人間としてどうなの?」と言わざるをえない、いわゆる「知識人」の狡さに対しては徹底的に追及、弾劾しなくてはなりません。私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」と侮辱した徒輩がいましたが、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地がありまっせ!

D  社長、若手使ってくださいね。俺もうフットワーク効かないし。

松岡 心配しないでください。無理は言いますから(笑)。この件だけでなく数々の直撃取材を成功させたHT君のような根性が欲しいよね。

B  これだから鹿砦社は……。

C  そうそう、忘れないように。M君から取材班にも「くれぐれもよろしく」ってメッセージありましたよね。

C  M君もこれを区切りに新しい未来を切り開いてほしいね。

B  きっといいことありますよ。

松岡 そう思います。自分で言うのも僭越ですが、何度も地獄に落とされたながらも浮上した私のように、人生、悪いことばかりではなく、きっと良いことがあるよ。M君も、国立大学の博士課程まで進んだ秀才だし、研究課題も、日本では珍しい分野なので、彼が必要とされることがきっと来ると私は信じています。アントニオ猪木じゃないけど、「苦しみの中から立ち上がれ!」と言いたいね。皆さん、あと少しよろしくお願いします。

A  社長、次あるんだったら、ちょっと前借りできまへんやろか?

松岡 それではAさんにはもうお願いしません。

A  キツー。

B  Aよ、HT君のように前借りできるくらいに仕事しろよ。

A  あっ忘れとった。こんなんあるんですけど。

C  お前なんで今まで出さなかったんだ! これ超ド級の資料じゃないか!

B  おいおい! また大騒ぎだぞ!

松岡 これはびっくりしました。使えますね。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

《2月のことば》 踏まれてのびる 麦の強さよ(2020鹿砦社カレンダーより/龍一郎・揮毫)

2月になりました。1月はあっというまに終わってしまいました。今年も12分の1が過ぎました。

「1月は去(い)ぬ、2月は逃げる、3月は去る」といわれますが、何もしないうちに2月、3月が過ぎてしまわないようにしたいものです。

今月の言葉にあるように、私たちは幾度となく「踏まれて」来ました。

それでも強く生き抜けるように頑張ってきたのかどうかわかりませんが、「麦」のように、なんとか生き延びてきました。ありがたいことです。

昨年は私たちの会社・鹿砦社創業50周年でした。多くの方々に祝っていただきました。感謝と共に気持ちを引き締めました。

私的な話になりますが、本日2月1日は、私にとって三大記念日の一つです。それからもう48年が経ちました(このことについては別の日に述べます)。

あと2年でそれも50年になります。少なくともそれまでは頑張り、元気でその50周年を迎えたいと考えています。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

本通信でお伝えしていますとおり、鹿砦社は昨年創業50周年を迎え、東京と西宮で記念の集会を開きました。両会場ともに多くの方々にお越しいただき、成功裡に楽しい時間を過ごすことができました。Paix2(ぺぺ)はお忙しいスケジュールの中、東京、西宮両方の集会に駆け付けて、ライブを披露してくださいました。

Paix2は2000年の鳥取刑務所を皮切りに、全国すべての刑務所や矯正施設を訪問しつくし、ついにこの日「堀の中」でのコンサートも今回の横浜刑務所で500回目を迎えました。横浜市港南区にある横浜刑務所でのPaix2のコンサートは4回目(前回は2016年)。

17日から、暖冬だった今冬の気候が嘘のように、全国を寒気が襲いました。私たちはメディアでは唯一、コンサート当日だけでなく、前日の準備段階から密着取材を行いました。

以下はスタッフによる取材記録です。

《コンサートの前日、17日14:30過ぎに片山マネージャーが運転する、1トン近くに及ぶ音響機材とmegumi(めぐみ)さん、manami(まなみ)さんを乗せたワゴンが横浜刑務所に到着した。

今回の会場は機材の搬入に、踊り場を含めて30段の階段を上らなければならない。横浜刑務所職員の方々のご協力を得ながら、「歌手」であるお二人も機材運び、設営に寸分も無駄のない準備に取り掛かる。体の丈夫な若い男性でも、下手をしたら腰を痛めるような重量の機材を、ピンクの軍手に掌を包んだ、megumi(めぐみ)さんが慣れた手つきで会場の講堂に運んでゆく。

写真撮影だけしていると、目前でキビキビ動く皆さんの姿に、撮影ばかりしているのが心苦しくなった。比較的小さなケースなら私でも運べると思い手を出したら、片山マネージャーが「怪我しますよ。やめたほうがいいですよ」と声を掛けてくださった。的確なアドバイスだった。手を出した箱は、一見大きくはなかったが、写真撮影の専門家ではない取材者がカメラを片手にバランスをとれる重さではなかった。

講堂の中に持参した音響機材一式を運び入れたら、休むまもなくミキサーやアンプ、スピーカーの設営に取り掛かる。

「プリズン・コンサート」を聴く会場には800席近い椅子が既に並べられている。椅子の設置は入所者の方々が担当されたと、刑務所の方から伺った。ステージにはやはり入所している方々が作成された「500回記念公演Paix2」の大きな看板が目を引く。正面から見ただけではわかりにくいが、文字の部分が発泡スチロールのようなもので立体的に作られていて、お二人も感激されていた。

音響機材のセッティングが終わると、早速リハーサルだ。モニタースピーカ―の音声やバランスを確かめながら、会場最後尾のブースで音響をコントロールする、片山マネージャーと舞台上のお二人との間で細かいチェックが続く。

リハーサルが終わり、講堂をあとにしたのは17:30頃だった。18日は7:30から最終のチェックを行い、その後コンサートを聴かれる入所者の方々が順次会場に入り着席して開演を待つ。

今回の500回記念「プリズン・コンサート」にはテレビ局2社のほかに、15名のマスコミ関係者が集まった。横浜刑務所の担当者の方々は、制約が多い刑務所内の取材ではあるが、取材に最大限のご配慮をいただいた。取材についての注意点が説明され、講堂内の待合室に取材者一同が通された。

9:30予定通り、ステージの幕が開き500回目のプリズンコンサートが始まった。刑務所での撮影は、入所している方々のプライバシーへの配慮が最優先されるので、入所者の方々の姿はご紹介できない。

1時間余りにわたり9曲を歌い上げたPaix2(ぺぺ)のお二人に、入所者代表のお二人から花束の贈呈があった。花束を手にした二人はアンコールに「日本酒で乾杯!」を歌い拍手の中コンサートは終了した。

コンサート終了後、別室にて横浜刑務所長より、Paix2(ぺぺ)のお二人と片山マネージャーのお三方に「感謝状」の贈呈が行われた。500回記念のこの日は横浜刑務所だけではなく、法務省の責任者の方も来賓として会場におられ、「感謝状」贈呈式にも来賓の方々が立ち会われた。二人だけではなく片山マネージャーにも感謝状を準備された石塚淳横浜刑務所所長は、「この活動はお二人だけではなく、事前の準備や移動など片山さんの存在なしには成立しなかったと考えますので、片山さんにも感謝状を準備しました」と配慮されたことを語った。「感謝状」は紙ではなく木製で、心のこもった贈呈式となった。》

鹿砦社はPaix2の偉業を称え、近く記念書籍を出版する予定です。その関係で当日は私もスタッフとして、会場に入ることができました。

横浜刑務所は重刑者が多いそうですが、見るからにコワモテの入所者700人を前に堂々と歌ったPaix2のお二人の表情には清々しさが垣間見れました。さすがに20年間500回という前人未到のプリズン・コンサートをやり抜いただけはあり、頭が下がります。日本にもいまだにこういう方がいるのは、まだ救いです。

横浜刑務所でのコンサートが終了したあとに、機材搬出を終えたPaix2と片山マネージャーに近くのレストランにお越しいただきました。どうしてもこの日をお祝いいたしたく駆けつけ、ささやかながら「プリズン・コンサート500回記念」と刻印した時計をプレゼントいたしました。

簡単に「500回」と言ってしまえばそれまでですが、取材者の報告にもある通り、体力的にも精神的にも、また経済的にも、とてつもなく大変な偉業です。誰でも知っている有名なタレントが、話題作りや人気取りに数回単身で慰問に訪れるのとはわけが違います。Paix2の二人と片山マネージャー、500回本当にお疲れ様でした!これからもご活躍を期待します! 

私たちも、ファン・クラブの強化・拡充を図るなど、後方から最大限のサポートを惜しみません。(ファン・クラブ入会はPaix2のサイトをご覧ください)

繰り返しになりますが、Paix2の偉業を近く鹿砦社は緊急出版する予定です。その中には、ここではお伝えできないエピソードや密着取材の写真も多数ご紹介する予定ですのでお楽しみに!(具体的には決まり次第お知らせいたします)

◎Paix2(ぺぺ)オフィシャルウェブサイト https://paix2.com/
◎Paix2(ぺぺ)関連記事 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=77

Paix2『逢えたらいいな―プリズン・コンサート300回達成への道のり』(特別記念限定版)

本日、かの阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災と記す)から25年を迎えました。「もう四半世紀か」──当地に居て震災を経験し、また以後の復旧・復興を当地に住みながら見てきた者として感慨深いものがあります。阪神大震災後、東日本大震災、熊本地震などを経験し、東日本大震災では原発事故を惹き起こし、私の故郷・熊本自身では100人以上の死者を出し少年時代から馴染んできた熊本城が壊れました。相次ぐ大地震発生を想起すると、地震はこの国の宿命であり、日頃から対策を怠っては成らないと思います。

誰が言ったのか、ここ阪神地方には地震は発生しない、あるいは熊本でも大きな地震はないという“神話”がありました。例えば熊本地震を見ても、近くに阿蘇山があり、雲仙があり、霧島など大きな活火山があるのに地震が発生しないと考えるほうがおかしいでしょう。

阪神大震災は、1995年1月17日早朝に起きました。午後から新刊書籍の東京で記者会見の予定でしたが、当然中止。この頃、いわゆる芸能暴露本がブレイクしようとしていた時期で、誰もが「松岡ももうアカンやろ」と、特に東京方面では囁かれていたとのことでした。「松岡ももうアカンやろ」という台詞は、10年後の2005年にも言われましたが、ははは、自分で言うのも僭越ですが、我ながら悪運が強いと感じます。

「鹿砦社通信」1998年8月10日号。この頃の「鹿砦社通信」は、ほぼ週刊でファックス通信だった

「鹿砦社通信」1998年8月17日号

「鹿砦社通信」1998年8月24日号

 

『FMラルース999日の奇跡』※画像クリックするとアマゾンへリンクされます

ところで、ここ西宮という都市(まち)は地味で、甲子園球場がありながら、それもなかなか知られていません。

同様に、阪神大震災で、西宮で1100人余りの死者が出たことは、これまた全く知られていません。1100人といえば、熊本地震の10倍以上です。阪神大震災は神戸のイメージが強く、西宮や芦屋で多くの死者が出たことは等閑視されているようです。ためしに阪神大震災の死者数を都市別に挙げておくと(兵庫県発表)、

総6,402人
〔内訳〕
神戸市 4,564人
西宮市 1,126人
芦屋市  443人
宝塚市  117人
淡路島   62人
尼崎市   49人
その他  103人

神戸は広いので死者が多いのは当然といえば当然でしょうが、区毎に見ていくと、
東灘区 1,469人
灘区   933人
中央区  243人
兵庫区  554人
長田区  919人
須磨区  399人
垂水区   25人
西区    9人
北区    13人

 

『心の糸』※画像をクリックするとyoutube動画にリンクされます

となっています。

つまり、1つの行政区で比較すると、西宮市は東灘区に次いで2番目となっています。

西宮にしろ芦屋、宝塚にしろ狭い都市(まち)なのに犠牲者が多いことがわかりますが、実際に震災直後、車で見て回ると、芦屋、宝塚の被害の密度が濃いことが感じられました。

いまだに思い出すのは、甲子園球場の周囲の公園には数年間仮設住宅がありましたが、華やかな高校野球が報じられながらも近くの仮設で猛暑のさなか暮らす方々のことは、さほど報じられることはありませんでした。

いや、この年の高校野球の開会式で、犠牲者に黙祷することはありませんでした。私の記憶に間違いがあるのなら指摘していただきたいと思います。

もう一つ忘れられていることがあります。

「阪神・淡路災AID SONG」として、長山洋子、藤あや子、坂本冬美、香西かおり、伍代夏子といった、当代きっての5人の歌手がレコード会社の壁を越えた「共同企画」として歌った曲で、今聴いても名曲です。彼女らがテレビで歌っているのを視たのは、たった2回で、地元で誰に聞いても全く知られていません。これだけ5人の人気女性歌手が歌っていながら、さほど話題にならず、この25年間知られることなく忘れ去られようとしています。

みなさん、今一度この曲をお聴きください。そうして、25年前の震災直後の情況を想起しましょう。そしてこの25年の、私たち一人ひとりの歩みを──。


◎[参考動画]心の糸 演歌五人組

現在、当地・阪神地方において、仮設住宅一掃を急くあまり高齢者をコンクリートの塊(いわゆる復興団地)に押し込め孤独死が報じられることはあるものの、全般的には復旧・復興は、かなり進んだと見ていいでしょう。

熊本も復旧は順調に進んでいるようです。

福島はじめ東北はどうでしょうか?──この問いに答えるに私は躊躇せざるをえません。早9年が経とうとしているのに、です。阪神地方や熊本と違うのはなぜでしょうか? ハッキリ申し上げさせていただくと、やはり放射能の影響が大きいと思います。放射能防御服を着て復旧作業に専念できるわけがありません。阪神地方や熊本では、それも必要なく、Tシャツ1枚で復旧作業をやっています。福島ではいつになったらTシャツ1枚で復旧作業ができる日が来るのでしょうか?

震災のみならず、この国は、台風、大雨など自然災害に襲われ、その地では壊滅的打撃を蒙った地域も数多くあります。近年では、本当に自然災害が多い国です。こんな国に原発ははなから設置してはなりません。

私は、へたな右翼・民族派よりも遙かにこの国を愛しています。原発は決して「アンダーコントロール」されていませんし、この国にたびたび訪れる大きな台風や大雨などの自然災害も「アンダーコントロール」できていません。

私はここ甲子園で25年の月日を過ごし震災復興を見てきました。遠くからではありますが、福島の復旧・復興を、少なくとも同じ年月(あと16年)は見ていきたいと思っています。3年前の熊本地震で崩れた、少年時代に何度となく行った故郷・熊本城の再建も──。

「風よ吹け吹け 雲よ飛べ 越すに越されぬ田原坂
 仰げば光る天守閣 涙を拭いて 振り返る振り返る故郷よ」(『火の国旅情』)
 
 

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