《10月のことば》あるがままで いいんだよ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

「あるがまま」でいることは、実は難しいことです。若い時には、格好つけたり粋がったりしました。必要以上に背伸びしたりもしました。みなさん、そんな経験ないですか?

齢を重ね、酸いも甘いも経験し、もう格好つけることにも粋がったりすることにも背伸びすることにも疲れました。

肩の力を抜いて自然体で生きてゆこう。「あるがまま」に──。

月日の経つのは速いもので、今年のカレンダーも、あと3枚となりました。ここ3年近くコロナ禍との闘いでした。これだけ長期化するとは思ってもいませんでした。税金や社会保険、公的融資等の猶予措置も終わり、挫けるケースも出始めています。励まし合い支え合って、この難局を乗り越えていきましょう!

来年のカレンダーの制作も進んでいます。書家・龍一郎も、ここ数年連れ合いやご母堂、さらには師と仰ぐ中村哲医師を亡くしたり、みずからも大病で病に伏し今も闘っている中で心血を注いで揮毫しています。『紙の爆弾』や『季節』の定期購読者の方々には12月発行の号と共にお届けいたします。ご期待ください! 未だ定期購読を申し込まれていない方は今すぐお申し込みください。

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

藤井正美はしばき隊/カウンターの中心メンバーとして鹿砦社に入り込み、在籍3年間で勤務時間の大半を私や従業員にわからないように業務とは無関係のツイッターやメールに勤しんでいたことが発覚しました(ツイッターは退社前、メールは退社後)。退社後詳細に分析し、その悪質性から、当然ながら給与返還を求め提訴したわけですが、一審の大阪地裁は私たちの請求にゼロ回答、逆に藤井が反訴した部分で鹿砦社に賠償金11万円を課しました。おかしいと思いませんか? 〈常識〉があれば誰しもおかしいと思うでしょう。

直近に藤井代理人・神原元弁護士に懲戒問題が起こったりしていますが、ちょっと前に起きた本件と類似の問題として兵庫県加古川市の職員が8年間に、やはり勤務時間中にSNSを閲覧したとして給与返還させられています。これについては準備書面にも盛り込みましたが、下記のように少し申し述べておきます。――

顔出しで街頭演説する藤井正美

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

本件と類似した事件として、前回準備書面提出締切直前に、「勤務中に私的なネット閲覧1654時間、市職員が給与475万円を返還」と2022年7月28日付け読売新聞オンラインが報じ、この記事の写しを裁判所に提出しました。

その後、兵庫県加古川市役所にも確認し事実と判明しました。加古川市役所の職員は「8年間、早朝や通常勤務中に846回(計1654時間)、公用パソコンで業務と無関係のインターネットを閲覧」(読売オンライン記事より)しました。

一方、鹿砦社に在職した3年間に藤井はツイッター1万8535回、1235時間(1tw当たり4分換算)、メールは数えきれないほど膨大で費やした時間も計り知れません。更にはツイッターのダイレクトメールも、これは発掘できませんでしたが、かなりの量だと推察されます。加古川市役所の職員は政治的目的はなかったと推察しますが、藤井は政治的目的を持って大学・団体・企業に恫喝さえ行っています。こうした藤井の所業を説明し、更に一審判決で鹿砦社の主張が全く認められず、逆に賠償金を課せられたと申し述べたところ非常に驚いていました。

この加古川市当局の判断こそ〈社会通念〉にも〈一般常識〉にも適うものです。一審裁判所(大阪地裁)は、なぜこうした判断ができなかったのか、大いに疑問です。司法には〈常識〉もなければ「良識の府」としての矜持もないのか、と疑念を禁じ得ず本件控訴に至った次第す。鹿砦社の主張はシンプルであり、司法に〈社会通念〉や〈常識〉に従った判断を求めるということにすぎません。

ここでは賛否はともかく、施行から10年余り経つ「裁判員裁判制度」が導入されたのは、端的に言えば、司法に市民感覚を採り入れるという主旨だったと思料します。仮に本件訴訟を、一般から選ばれた裁判員が審理すれば、おそらく控訴人の主張が100%近く認められると確信します。

本控訴審にあって大阪高裁には加古川市役所と同様〈社会通念〉や〈常識〉に従った判断を下すよう強く求めるものです。われわれは決して無理や無茶を言っているのではありません。再三繰り返しますが、控訴人・鹿砦社は〈社会通念〉や〈常識〉に従った判断を大阪高裁に求めます。大阪高裁は、われわれ、つまり鹿砦社だけではなく、日本の中小企業主の主張に虚心に耳を傾けていただきたいと思います。今後SNSが更に拡がることは想像に難くありませんが、本件一審判決が確定すれば、世の中小企業は立ち行かなくなります。よって、〈社会通念〉や〈常識〉を著しく欠いた一審判決の破棄を強く求めるものです。

勤務時間中に藤井が発信したツイートのほんの一部

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

*参考までに読売新聞オンライン2022年7月28日の記事を引用しておきます。

 勤務中に私的なネット閲覧1654時間、市職員が給与475万円を返還

 兵庫県加古川市は27日、勤務中に私的にインターネットを閲覧してその間の給与や手当を不当に受け取ったとして上下水道局の男性主査(48)を停職6か月、公金10万円を紛失した課の責任者だった都市計画部の男性主幹(55)を戒告にするなど計4人を懲戒処分、7人を口頭厳重注意にした。

 市の発表では、男性主査は、農林水産課や市街地整備課員だった2014年4月~今年3月の8年間、早朝や通常勤務中に846回(計1654時間)、公用パソコンで業務と無関係のインターネットを閲覧。主査は6月、給与475万5957円と利息分の全額を市に返還した。

 さらに当時の上司だった都市計画部主幹(56)を減給10分の1(3か月)、環境部主幹(57)を同(1か月)、当時の都市計画部長2人を口頭厳重注意とした。

 また、男性主幹が課長を務めていた債権管理課では今年3月9日、窓口で8人から納付された139万1817円のうち10万円を紛失。窓口の職員が高額の現金を機器で数えずに受け取り、未施錠の金庫やロッカーに保管するなど管理が不適切だった。主幹は6月、利息分を含めて弁済。当時の税務部長ら3人と、窓口職員2人は口頭厳重注意とした。

《関連過去記事カテゴリー》
しばき隊リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

【お断り】先に公開しました、神原元弁護士懲戒事案に対する記事について、神奈川県弁護士会綱紀委員会の9月13日付け「議決書」を閲読し、誤認と、これに基づく、誤解を生じさせる表現がありましたので、加筆・修正させていただきました。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

その三百代言能力で、リンチ被害者の大学院生(当時)M君や、彼を支援する私たちを苦しめてきた、「しばき隊」顧問(代理人)弁護士・神原元弁護士に対し遂に神奈川県弁護士会綱紀委員会は、神原弁護士の暴言を「品位を失うべき非行」に該当するとし懲戒問題の次の段階である「懲戒委員会の審査を求め」、「審査を開始」いたしました。神原弁護士に対しては、これまで何度となく懲戒請求は出されてきましたが、その都度棄却されてきた中で画期的な判断です。

「議決」の「主文」は、
「対象弁護士につき、懲戒委員会に事案の審査を求めることを相当と認める。」
です(詳細は「議決書」をお読みください)。

早速、当の「女性スペースを守る会」はツイッターを発信し、「議決書」や「懲戒請求書」などを、そのnoteにアップしています。意見の対立する相手を簡単に「●●」(「殺す」という意味)と言い放ち、「ヘイト団体」「ファシスト団体」と公言する、自称「人権派」弁護士の真の姿が今後明らかになるでしょう。再三再四の懲戒請求に、さすがに今回は弁護士会も業を煮やしたものと推察いたします。

「女性スペースを守る会」のツイッターの一部

弁護士の懲戒については、当該弁護士が所属している弁護士会が懲戒に値するか、否かを審査するという制度的な問題が、近年著しく顕在化してきました。また、懲戒請求を行った人物を、懲戒請求された弁護士が提訴し、損害賠償金を支払えとする判決(和解)も出されており、考えさせられることの多い問題です。

かつて橋下徹弁護士が、光市殺人事件被告人の弁護団に懲戒を呼びかける旨の発言をテレビで行い、弁護団は大変な数の懲戒請求に苦しめられたことがありました。当の橋下弁護士は「自分は懲戒に時間をかける価値がないと思ったからしなかった」と鉄面皮で語っていました。

このように弁護士の世界には、私たちの常識とは異なる規範があるのでしょうか。

いずれにせよ「正義は暴走してよい」と語ってなんの痛痒も感じなかった神原元弁護士は、『正義を振りかざす「極端な人」の正体』(山口真一・著、光文社新書)という本がありますが、このタイトル通りの人物です。

よもやの弁護士会の議決に動転する神原弁護士

来週22日(木)午前11時から、大阪高裁(第3民事部、別館8階84号法廷)で、しばき隊の中心的活動家として鹿砦社社内でやりたい放題やってきた藤井正美に対する訴訟の控訴審に、彼女の代理人でもある神原弁護士が出廷します。関西近辺の方はぜひ傍聴お願いいたします。

【追記】

仄聞するところによりますと、神原弁護士は「綱紀委員会で審査相当になったからと言って、懲戒が決まったわけではないですよ! 処分ナシも充分にありえます!」とみずからおっしゃっています。果たしてそうでしょうか? さっそく日弁連に確かめました。

2020年1月から12月まで、全国の弁護士会綱紀委員会で(懲戒委員会の)「審査相当」と判断されたのは66件、その後の「懲戒委員会」で「懲戒は相当ではない」と判断されたのは、「1件」だそうです(綱紀委員会で「審査相当」と判断された事案を「懲戒委員会」が「戒告」、「業務停止」、「退会命令」、「除名」と処分を決めるのが手続きです)。66分の1、1.5%だけが処分から免れている、これが現実です。

この数字を見る限り、綱紀委員会で「審査相当」と判断されたのであれば、何らかの懲戒処分が下ることが濃厚と考えるのが、妥当な判断であろうと思えます。すなわち、神原弁護士の懲戒処分決定は濃厚であるということです。

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

9月に入りました。酷暑と新型コロナ禍再爆発で大変だった今夏も、まだ暑さは残るとはいえ少しは秋の訪れを感じさせる季節となりました。

岸田政権は、安倍前首相暗殺後の混乱に乗じ原発再稼働、さらには原発新規建設まで口に出し始めました。とんでもない話で、断固粉砕しなければなりません。

さて、本年より『NO NUKES voice』を改題、全面リニューアルし『季節』として再出発いたしました。今号で3号目となりますが、多くの皆様方にご支援いただき、まずまずの船出でした。ありがとうございました。

本誌は(2014年8月の旧『NO NUKES voice』)創刊から8年が経ちました。同時に2011年3・11から11年余りが経ちました。

創刊したのはいいとしても、以後1号たりとも黒字にならず赤字を重ね、鹿砦社の他の分野の書籍の利益を回すことで継続してきました。しかし、昨今の新型コロナ禍による打撃は想定以上に大きく、会社も急激な業績悪化で、昨年末には休刊の危機に追い込まれました。そうした情況下、小出裕章さん、樋口英明さん、井戸謙一さんはじめ多くの先生方、読者の皆様の物心両面にわたるご支援と叱咤激励は、私たちに勇気を与え奮起せざるをえない闘志を惹起させました。また、苦渋の想いで部数を減らしたり工夫に努め今号もお届けすることができました。次号以降も、多くの皆様方に支えられ必ず継続していくことを決意しお約束いたします。
 
改題・リニューアルした『季節』の前途は荒海です。しかし私たちは、被災された方々、故郷を追われた皆様方に寄り添い(皆様のご苦労に比べればなんのことはありません)、なにがなんでも寄稿者や読者の皆様方と共に乗り切ってまいります! あらためて、今後ともよろしくご支援お願い申し上げます。チラシを同封させていただきましたので、知人・友人の方へ本誌の販促、定期購読(新規、前倒し更新、複数年申し込み)、書籍や本誌バックナンバーなどの直販などをお勧めください。

末筆ながら、コロナ禍長期化と、急激な物価高など社会情勢の悪化の中、皆様方のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

2022年9月
季節編集委員会代表兼編集長 小島 卓
株式会社鹿砦社 代表取締役 松岡利康

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

〈原発なき社会〉を求めて集う不屈の〈脱原発〉季刊誌
『季節』2022年秋号
NO NUKES voice 改題 通巻33号
紙の爆弾 2022年10月号増刊
2022年9月11日発行 
A5判/132ページ(巻頭グラビア4ページ+本文128ページ)
定価:770円(本体700円)

主要目次
[コラム]樋口英明(元裁判官)
株主代表訴訟東京地裁判決と国家賠償訴訟最高裁判決
小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
[報告]原発が原爆になる
[コラム]戦争に落ちていこうとするこの国
[講演]3・11福島原発事故から11年
脱炭素・原発再稼働・小型原発を問う
[講演]広瀬隆(作家)
二酸化炭素地球温暖化説は根拠のまったくないデマである〈中編〉
[講演]小山美砂(毎日新聞大阪社会部記者)
疑わしきは救済する──「黒い雨」訴訟と核被害への視座
[インタビュー]井戸謙一(311子ども甲状腺がん裁判弁護団長)
福島第一原発事故と甲状腺がんの因果関係を証明する
[報告]漆原牧久(「脱被ばく実現ネット」ボランティア)
311子ども甲状腺がん裁判を傍聴して
山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表、東電株主代表訴訟原告)
[報告①]東京地裁で東電元経営陣に一三兆円余の賠償金を命じる判決
原発を動かし続ける電力会社経営陣への警告
[報告②]電力逼迫を利用した原発推進政策の問題点
[報告]鈴木博喜(『民の声新聞』発行人)
そこに民主主義はない
福島第一原発「汚染水」海洋放出強行
[報告]森松明希子(東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表)
原発事故避難者に国連「指導原則」に則った人権保護を!
[報告]伊達信夫(原発事故広域避難者団体役員)
「原発事故避難者」はどこにいるのか?
[映画評]細谷修平(メディア研究者)
シュウくんの反核・反戦映画日誌〈2〉
原子爆弾と夢想の力──『太陽を盗んだ男』を観る
[報告]板坂 剛(作家/舞踊家)
何故、今さら重信房子なのか?
[報告]山田悦子(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈17〉今日における日本人の原罪
[報告]三上 治(「経産省前テントひろば」スタッフ)
とめどなく出てくる統一教会汚染と国葬
[報告]佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
原爆・原発・統一教会~天網恢々、疎にして漏らさず!~
[書評]大今 歩(高校講師・農業)
福島の小児甲状腺がん検査は本当に「過剰診断」なのか
『福島の甲状腺検査と過剰診断』(あけび書房)
[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
虚構の「電力逼迫」発表にまどわされない!
本命の原発再稼働に反対し、言論と大衆行動で闘う
《全国》柳田 真(たんぽぽ舎共同代表)
「原発の過酷事故は我が国の存立を危うくする」=東電株主代表訴訟判決文
《六ヶ所村》山田清彦(核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団事務局長)
高レベル放射性廃液の冷却不能トラブル
《福島》けしば誠一(杉並区議会議員/反原発自治体議員・市民連盟事務局長)
福島の実態を全国に配信し 原発を止める闘いを強めます
《東京電力》佐々木敏彦(東京電力本店前合同抗議実行委員会)
電力危機を煽る岸田政権・原発推進派に抗して、原発再稼働の動きを阻止しよう
《東海第二》志田文広(東海第二原発いらない!首都圏ネットワーク)
東海第二原発いらない!-茨城県知事へ要望書、日本原電へ申入書を提出
《関西電力》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
老朽原発・美浜3号機を廃炉に! 過酷事故が起こる前に 電気は足りている
《伊方原発》秦 左子(伊方から原発をなくす会)
私たちは「原発いらん!」と叫び続ける
伊方原発3号機再稼働絶対反対!
《規制委》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
一二〇〇件のパブコメ反対意見を無視して海洋投棄認可、規制委緊急抗議行動
《読書案内》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)
日野行介『調査報道記者 ── 国策の闇を暴く仕事』
[反原発川柳]乱鬼龍

私たちは唯一の脱原発情報誌『季節』を応援しています!

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《9月のことば》秋桜がきげんよく咲いている 幸せそうにゆれている(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

9月になりました。

ここ甲子園では高校野球が終わると、暑さの中にも涼風が吹き、一気に秋に向かいます。時の経つのは速いもので、今年も3分の2が過ぎたことになります。

一昨年からずっと新型コロナと、これによって惹き起こされた経営上の打撃に苦しみながら過ごしてきました。私たちだけではありません。皆様方のうち多くの方々もそうでしょう。知人の中には店を閉じた人もいます。

もう秋桜(コスモス)が咲く季節かあ、今年も残り3分の1、木枯しの吹く季節が来るまでに、しっかり身支度したい。──

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

8月26日、「反差別」の旗手と持て囃される李信恵が久しぶりに鹿砦社や関係者らについてツイートしています。本欄でもお馴染みの「はなママ」こと尾崎美代子さんも批判の俎上に上げられています。自分らに批判的な意見は全て「デマ」という語彙しか言えず、なにを今更……という感がしないでもありませんので、黙って見過ごすのも大人の対応でしょうが、齢70を過ぎても瞬間湯沸かし器は相変わらずで、かのリンチ事件に対して真摯な反省もなく自分への批判者への非難に終始する李信恵に怒りを覚えました。被害者の大学院生(当時)M君は、今に至るまでリンチの恐怖、PTSDに苦しんでいることを、李信恵よ、判っているのか!? あなたに「反差別」や「人権」という崇高な言葉を語ってほしくはない!! それと真逆の人間性を持った人種だから。

李信恵は突如鹿砦社らに非難ツイートを始めた

李信恵ら5人によってリンチされた直後のM君

私(たち)が大学院生M君リンチ事件(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)の支援に関わったのは、マスメディアから「反差別」の旗手と持て囃される李信恵が、2014年師走、大阪最大の歓楽街・北新地で、彼女の取り巻き4名と共に「日本酒に換算して一升近く飲んだ」とみずから言うほど泥酔し、酒の勢いで、大学院生M君に対し激しいリンチを加え、この被害の酷さ、そして、これが1年以上も隠蔽されてきたことに驚き、この青年を何とか支援すべきだと素朴に感じたことから始まりました。

事実関係を知るにつれ、激しいリンチを加えられながら、1年以上も放置され、挙句李信恵ら加害者らが開き直ったという怒りも、私(たち)が動き出す動因の一つとなりました。この判断は、人間として絶対間違っていなかったと今でも思います。

この事件に対しては、多くの人たちが、何を怖れたのか、沈黙したり言葉を濁したり隠蔽したりしました。あなた方は、それでも人間か!? と言いたいと思います。血の通った人間なら、リンチ直後の写真を見たり、リンチの最中の音声データを聴いたりするだけで、怒りを覚えないのでしょうか!? 

このリンチ事件にどう対応するかで、いくら著名な学者やジャーナリストでも、その真価が問われると思っています。ふだん「暴力反対」とか口にしても、その暴力が集団リンチという形で現実に起き、これを知ったら、どう対応するのか? 口で「暴力反対」と言うのなら、それ相応に対応しろ! 

「日本酒に換算して1升近く飲んだ」ことをみずから認めた李信恵。「1升飲んだ」ことは、普通の感覚では泥酔の類に入る

私たちは、地を這うような調査・取材を行い継続し、これまで6冊の出版物にまとめ世に問いました。これらの本に記述したことが「デマ」だとは言わせません。マスメディアは全く無視したことで、残念ながら広く波及したとはいえませんが、少なからずの方々に事件を知り理解していただくことができました。李信恵の人間性の鍍金(メッキ)は少しは剥げたかなと思っています。

いちおう私のコメントは簡単にして、李信恵が鹿砦社を訴えた訴訟の控訴審で、李信恵が大学院生M君リンチ事件に連座していることを断じた大阪高裁の確定判決文(2021年7月27日判決言渡 大阪高裁第2民事部 令和3年(ネ)第380号)を挙げておきましょう。賠償金110万円の支払いは課されましたが、一審判決一部変更(減額)され以下の判決を得たことは収穫で、いわば<敗北における勝利>と私なりに総括しています。──

前田朗東京造形大教授によるリンチ事件に対するコメント。3回続いた。回を重ねるうちに私たちとは意見の違いも出てきたが、前田教授の指摘は「デマ」ではなく耳を傾けるべきだ。前田教授は、李信恵の反ヘイト裁判に意見書を書き、その弁護団や支持者とも親交があったが、リンチ事件については聞いていなかったようで、その怒りがこの論文を書かせたと思われる。ここでは(一)(二)のみを掲載した

同上

◇    ◇     ◇     ◇     ◇

リンチについて尋ねた人には激しく恫喝

「被控訴人(注:李信恵)は、M(注:リンチ被害者。判決文では本名)が本件店舗に到着した際、最初にその胸倉を掴み、金とMが本件店舗の外に出た後、聞こえてきた物音から喧嘩になっている可能性を認識しながら、飲酒を続け、本件店舗に戻ってきたMが金からの暴行を受けて相当程度負傷していることを認識した後も、『殺されるなら入ったらいいんちゃう。』と述べただけで、警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去ったことが認められる。この間、(李)普鉉(注:直接の加害者の一人)や伊藤(注:大介。リンチの現場に居合わせた者。のちに暴力事件を2度起こし逮捕、一審で有罪判決を受けている)は金(注:良平。最も暴行を働いた者)に対し暴力を振るわないよう求める発言をしているが、被控訴人が暴力を否定するような発言をしたことは一度もなく、被控訴人は、遅くともMが一度本件店舗内に戻った時点では、Mが金から暴行を受けた事実を認識していながら、殺されなければよいという態度を示しただけで、本件店舗外に出て金の暴行を制止し、又は他人に依頼して制止させようとすることもなく、本件店舗内で飲酒を続けていた。このような被控訴人の言動は、当時、被控訴人が金による暴行を容認していたことを推認させるものであるということができる(被控訴人の司法警察員に対する平成27年9月18日付け供述調書中には、男同士の喧嘩であり女の自分は止めに入ることができず、ただ店内にいることしかできなかった旨の供述部分があるが、被控訴人は、本件店舗内に戻ったMの様子から、Mが一方的に殴られていたことが明らかになった後も、伊藤など本件店舗内の他の男性に対し本件店舗外の様子をみたり、暴力を制止させたりするよう依頼することはしていない。)。」(同判決文7ページ~8ページ)

傍聴人が描いてくれたイラストにもイチャモン。特徴を掴んでよく描かれていると思うけど

「被控訴人の本件傷害事件当日における言動は、暴行を受けているMをまのあたりにしながら、これを容認していたと評価されてもやむを得ないものであったから、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪や補償を申し出ることがあっても不自然ではない。」(同11ページ~12ページ)

「被控訴人は、本件傷害事件と全く関係がなかったのに控訴人(注:鹿砦社)により一方的に虚偽の事実をねつ造されたわけではなく、むしろ、前記認定した事実からは、被控訴人は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対して胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間である金がMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。本件において控訴人の被控訴人に対する名誉毀損の不法行為が成立するのは、被控訴人による暴行が胸倉を掴んだだけでMの顔面を殴打する態様のものではなかったこと、また法的には暴行を共謀した事実までは認められないということによるものにすぎず、本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜していながら、金によるMに対する暴行については、これを容認していたという道義的批判を免れない性質のものである。」(同11ページ~12ページ)【注】被害者名は判決では本名ですが、ここでは「M」と表記。

◇    ◇     ◇     ◇     ◇

李信恵ら加害者らは、師走の寒空の下に激しいリンチで半殺しの状態のM君を一人放置し立ち去り(李信恵に人権の一欠片もない証拠だ!)、M君は必死でタクシーを拾い幸い自宅まで帰り着くことができました。異変に気づいたタクシーの運転手は料金を受け取らなかったそうです。(文中敬称略)

6冊のリンチ事件関連本。リンチ事件真相究明と共に現代の「反差別」運動の虚妄と問題点を解明

同上

世間は猛暑とコロナ第7波で大騒ぎしているさなかの7月18日、ある未知の後輩学生から突然に長文のメールがあった。

私が2017年に垣沼真一さん(京都大学OB)と共に出版した『遙かなる一九七〇年代‐京都』を読んだという。今時、学生でこんな本を読む者もいるのだと感心し長文のメールを読んだ。まずは、長文だが、以下そのまま掲載しておこう。──

◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

松岡利康 様

はじめまして。私は現同志社大学文学部英文学科五回生のO・Sと申します。御社関西編集室宛のメールアドレスに、御社代表個人へのメールをお送りする非礼をお詫びいたします。

まず、端的にご用件をお伝えいたします。

京都にて、我々現役の大学生とどうかお話頂けないでしょうか?

なぜ今回私が松岡様にこのようなお願いをするに至ったのか、少々長くなりますがお話いたします。

私は2017年の春、同志社大学文学部に入学いたしました。自由さ、待ち受けているであろう混沌さ、知的な雰囲気に胸を膨らませ門をくぐりました。

しかし、私はすぐに失望させられました。同志社大学の現状はそうした私の希望を打ち砕いて余りあるものでした。

一例を挙げると、同志社大学今出川キャンパスでは、現在自転車に乗って入構することも許されません。乗って入ろうものなら、構内に数多く、過剰に配備された警備員に怒鳴られ、制止され、そして酷いときには応援を呼ばれ取り囲まれます。今の同志社ではまず、身体の管理が徹底されているのです。自主的に自転車を降り、規則を内面化し歩く。「自分の身体=大学の定めたナンセンスな規則。」こうした等式を背負い、同志社生はキャンパスを歩いているのです。自ら主体性を放棄している、とも言えます。

また、大量の警備員の配備による抑圧的な管理もますます進行しています。ビラを配るとそそくさとやってきて内容を確認され、貼れば5分もしないうちに剥がされ、そして職員へ通報が行われます。私もキャンパスの建物に大量にビラを貼っていたのですが、貼ったところから剥がされ、職員を呼ばれ、またしても取り囲まれました。キャンパスという学生のための空間でありながら、何をしても「目」としての警備員が監視の目を光らせ、大学当局への通報が行われる。ある意味「自浄」作用が高度に機能していると言えるでしょう。そこには同志社の掲げる良心教育など見る影もありません。

私はそうした現状は間違っていると思ってきました。烏丸キャンパス横には交番が隣接しています。隣接というのは不正確で、なんと同志社大学が警察に敷地を貸与しているのです。もう、自由な大学など見る影もありません。あるのは、無味乾燥な抜け殻のような学生と、退廃した精神だけです。そして、これは同志社大学に限った話ではありません。

(京都府警察本部への同志社大学用地(烏丸キャンパス)一部貸与について;https://www.doshisha.ac.jp/information/overview/president/question/answer43.html

隣の京大においても事態は深刻です。私が入学した2017年当時はまだ百万遍に立て看板があったのですが、2018年頃から京都市の景観条例を理由に、大学当局による撤去が始まりました。そして歴史と由緒ある自治寮たる吉田寮も廃寮の危機に立たされています。毎年行われていた時計台占拠という催し(学生が時計台に登るというイベント)も当局による弾圧で中止になりました。学生が時計台に登るだけであるのに、事前に情報を察知していた大学側が機動隊まで呼んでおり、上空には警察のヘリまで飛んでいた、というほどです。

私も最初は自転車から降りず、禁止されていた原付での乗り入れを行おうとしたり、ビラを貼ったり、封鎖されたドアをこじ開けようとしましたが、結局今は嫌々ながらもチャリから降り、ビラを貼ったりせずおかしいと思うことがあってもやり過ごすようになってしまいました。もう少しで卒業することだし、目を瞑ろう。息を止めてやり過ごせば、そのうち忘れて楽になる。そう、自分を騙していました。そう、つまりヘタレなのです。

しかし、やはり私は今の大学、特に同志社大学の形は間違っていると思います。そして学生の手によって、徐々に変えられるべきだと思います。ただ、私も含め、何かを変えようとサークルを作ったり、運動をしたりしている学生の多くは、「どうやって運動すればいいのか分からない」「周りに共感してくれる仲間がいない」というの想いを、少なからず抱えているものだと思います。私はこのまま終わっていく大学を見ていられません。このまま見てみぬ振りをして卒業なぞしたくない。どうにかしたい。そう思っていたときに私は、やはり先輩方から学ぶのが一番良いであろうと思い、色々と調べていくうちに松岡様の『遥かなる一九七〇年代ー京都 学生運動解体期の物語と記憶』に出会いました。衝撃でした。学生の魂の熱がこんなにも渦巻いていた時代があったのかと。こんなにも、社会を本気で変えようとしていたのかと。そして、今は死にかけている同志社大学がこんなにも激動の渦の中にあったのかと。熱気と狂気と、そして魂。松岡様は2004年の「甲子園村だより」にて、何度も75年以降の後輩の方々の不始末を嘆いておられました。2022年の我々など松岡様の目にどのように映るのであろうか、恐縮の極みでございますが、70年代の空気、歴史、運動、そしてその精神をどうか学ばせていただきたく存じます。

グレーゾーンが廃され、拠点が失われ、学生の身体から離れてしまった、大学。それを我々の手の内に取り戻したいのです。私も大学内に拠点を造ることは一旦諦めてしまったのですが、学外にそうした場を造ることはできました。京都市北区紫野南舟岡町85-2 2階にある元スナックの居抜きを借りて「デカい穴」という場所を造りました。イベントスペース兼バーのような場所です。そこでは夜な夜な学生が自由に集まり、闊達に日々色々な話をしています。私は、この場所からもっと波を広げたい。松岡様には「デカい穴」にお越し頂き、そこに集まった学生とお話し頂きたいのです。

前置きが長くなりましたが、今回はそうした想いでこうしたメールをお送りいたしました。

往復の交通費、飲食代(料理は無いので中華の出前になります)は当方が負担させていただきます。また謝礼として僅かではございますが金1万5000円をお支払いいたします。その他、もしご要望等ございましたらご遠慮なくお申し付けください。形式は座談会を予定しており、はじめに松岡様に自己紹介と70年代の様子、ご自身の活動歴をお話いただき、その後学生達とお話頂ければ、と思います。時間は開店時間の19時から、長くはありますが23時頃までを予定いたしております。もし終電の都合等で早めに切り上げられたい場合は仰っしゃてください。またご宿泊をご希望の場合は近隣のホテルを手配いたしますのでお申しつけください。

再三とはなりますが、私は心より、強く、松岡様とお話することを望んでおります。そして松岡様と現役の学生が言葉を交わすことには大いなる意義があると、そう確信いたしております。このままではもう本当に大学と、若者文化は終焉を迎えるように思います。我々学生と松岡様との出会いがそうした現状を打破する契機となれば、と願っております。

ご検討いただけますと幸いです。

◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

O・S君からのメールには心打たれたので、その全文そのまま掲載した。なにか胸が熱くなった。私も学生の頃、不躾にも、名のある知識人に突然手紙を書いて講演をお願いしたことが少なからずあった。当時は、多くの知識人が、こうした学生からの依頼には、交通費+薄謝で喜んで応じた時代でもあった。今はどうだろうか?

多くの先生方が応じてくださった。一番印象的だったのは、在野の哲学者・田中吉六先生だった。田中先生は、初期マルクス、とりわけ主体性論の研究で有名で、岩波文庫版のマルクス『経哲草稿』を東大の城塚登教授と訳したり、『主体的唯物論への途』『史的唯物論の成立』などの名著を遺しておられる。学費値上げ阻止闘争や、沖縄、三里塚闘争の後、その闘いの総括作業に呻吟していた過程でそれら2冊の本に出会い感銘を受け講演をお願いしたのである。

田中先生は、東京・清瀬の古びた市営住宅に一人暮らしし、肉体労働をしながら独自の哲学を極められていた。「この人こそ真の知識人だ」と感じた。京都から何度も伺い、ようやく承諾していただいた時の喜びは今でも忘れることはできない。当時の学生会館ホールに多くの学生らが参集してくれた。このことを思い出した。ちなみに残念ながら『主体的唯物論への途』は現在では入手困難だが、『史的唯物論の成立』はなぜかこぶし書房から復刻され購読できる。

それにしてもだ、私がいた時代から50年経ち、リベラルな学風で鳴らした同志社の体たらくは一体何だ! 私たちはこんな大学にするために身を挺して闘ったのではない。詰まるところ、1960年代後半から爆発した学園闘争で提起された大学改革は、この真意が捻じ曲げられ、悪い方向に改悪されたといってもいいだろう。

「産学共同」もそうだ。当時は「産学共同」とは、学問(大学)が産業と「共同」するとはなにごとか、と悪いイメージで批判されたが、今では大学と産業界が「共同」することが当たり前のように語られている。企業が大学に施設を寄付することも多くなった。大学の真の価値は、キャンパスが綺麗だとか施設がいいということではない。今の同志社のキャンパスを歩くと、確かに綺麗だし施設も整っているようだ。だが、違和感がある。かつてのキャンパスの生きた学生臭さといったものは希薄な感がした。

私は知識人などではないが、出版した本を読んで長いメールをくれ、当時の話をしてほしいという。それも同志社の後輩学生だ──嬉しいではないか。「いいですよ、ただし学生諸君から謝礼や交通費をもらうつもりはないよ」と、『大暗黒時代の大学』の著書もある田所敏夫さんと共に8月11日、伺うことにした。

O・S君が開いたお店は、時代を忘れるような雰囲気だった。かつては、こんな店がどこかしこにあったよなあ。「時代遅れの酒場」といった雰囲気だ。夏休みでお盆前ということもあり、それでも10数人が集まってくれた。

O・S君が読んでくれた『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』(現在品切れ)

私たちが『遙かなる一九七〇年代─京都』以来、1年に1冊のペースで出してきた『一九七〇年 端境期の時代』など数冊を送り、事前に読んでおくように伝えておいたが、私の話はこれに沿ったものだ。自覚はなかったが、みずからの体験を中心に2時間近く話したようだ。

私は、「抵抗するということ」について、私が1970年に同志社に入学し、当時の同志社は抵抗、反戦、反権力の空気が満ち溢れ、その砦だった。その同志社で活動したこと、同志社は、60年、70年の二つの安保闘争の中心を担い、その後、私たちの時代になって学費闘争、三里塚闘争、沖縄闘争でも果敢に闘ったことを、体験を交え話した。75年3月に京都を離れ、大阪の小さな会社に勤め、学費闘争の裁判を抱え、御堂筋の四季の移ろいを眺めながら悶々とした日々を過ごしたこと、そうした中で友人と自らの闘いを総括するために『季節』という小冊子を始め、これがのちに出版の世界に入るきっかけになったことなどを話した。

しかし、私が同志社を去って以後の70年代後半、私たちの時代には和気藹々だった同志社も、私が参加していた全学闘(全学闘争委員会)が放逐されたり、私たちの拠点で藤本敏夫さん(故人)もいた寮が深夜に襲われ寮生がリンチされたりして退職直前の寮母さん(故人。学費闘争で逮捕された私の身元引受人。戦前から母子で務め学徒出陣の学生を見送ったりした)を苦しめたり、遂には、その戦闘性で全国的にも有名だった学友会の解散に至った。こうしたことが私を苦しめた。それは同志社のみならず、社会情勢もそうで、混沌の時代に入って行き、私たちの時代の連合赤軍事件、そうして多くの優秀な活動家を死に至らしめた内ゲバなどで学生運動・反戦運動が解体していったことは痛苦に反省すべきだ、と述べ、ひとまず私の話を終えた。

こののち参加者の学生諸君と忌憚のない座談会となった。とても初めて会った者同士とは思えないような和やかな雰囲気だった。気分が乗った私たちは、田所さんが飲み代として1万円、私が中華料理代として1万円をカンパした。当初は、飲食代は学生諸君が負担するということだったが、なんのことはない、私と田所さんがカンパすることになった(苦笑)。そうして真夏の京都の夜はふけていったのである──。

2022年8月11日,京都「デカい穴」で

*お店の名は「デカい穴」で、所在地等は次の通りです。
「デカい穴」
〒603-8225 京都市北区紫野南舟岡町85-2 2階
080-9125-7050 太田さん
webサイト https://kissadekaiana.wixsite.com/-site
位置情報  https://goo.gl/maps/zUXjbqxyyx3ySkr97

田所敏夫著『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社刊。発売中)

先に8月6日について、もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

今回はその余話といいますか、またはウクライナ危機に触発されて思い出した反戦歌についての続きといいますか、思い出したことを書き記してみます。

8月6日広島の悲劇について次の3つの曲を思い出します。

〈1〉矢沢永吉 『Flash in Japan』

私はこの曲を聴いてショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『Flash in Japan』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛)。時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
治せるのか
俺たちは皆あの光を見たのか
雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
稜線を照らし 視界を消し去った
戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いのか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか
彼らに何と言えばよいのか
子供たちよ聞いてくれ
俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
君たちは再出発してくれ
朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
いくつか変わったこともある
いつも忘れないでいてほしい
戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いのか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか
あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
それともまた日本で光るのか
雨は熱いか これで終わるのか
それともまた日本で光るのか

〈2〉美空ひばり 『一本の鉛筆』

ガラッと変わって、次は昭和の歌の女王・美空ひばりの『一本の鉛筆』です。これはひばりが1974年、第1回広島平和音楽祭に招かれたのを機に作られ、そこで披露された記念すべき一曲です。意外と知られていません。作詞は映画監督の松山善三、作曲・佐藤勝。裏面は『八月五日の夜だった』。

ひばりが広島の原爆で被爆したわけではありませんが、父親が戦争に召集され母親が苦労していたのを見て育ち、みずからも空襲に遭い、彼女なりに戦争を嫌悪し思う所があったようです。

「あなたに 聞いてもらいたい」
「一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く」
「一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと 私は書く」
「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」

「ザラ紙」とは今では死語ですが、私たちの世代では、これを日々1000枚1包で買い「ガリ版」に「鉄筆」で「ロウ原紙」に原稿を書き「謄写版」で印刷しチラシを作ったものです。ザラ紙と共にガリ版も鉄筆もロウ原紙も謄写版も今はなく死語です。

ひばりは、主催者が用意した冷房付きの部屋を断り、「あの時、広島の人たちはもっと熱かったよね」と言って、ずっと猛暑下のステージ脇にいたとのエピソードがあります。この時の映像が残っていました。


◎[参考動画]美空ひばり ひとすじの道+一本の鉛筆

ひばりはこれから15年後の1988年の第15回同音楽祭に、一人で歩けないような病状で点滴を打ちながら駆けつけ、観客の前では笑顔を絶やさなかったそうです。翌1989年にひばりは亡くなりました。音楽祭自体も20回目の1993年で終了となりました。諸事情はあるでしょうが、ひばりの遺志を継いで続けて欲しかったところです。

最近この時期になると当時の映像が放映されたりクミコらがカバーして歌ったりしていますが、隠れた名曲です。

〈3〉吉田拓郎 『夏休み』

この歌には諸説あります。私はてっきり原爆投下→終戦後の広島の情況を表現したものとばかり思っていましたし、今もそう思っています。拓郎自身もそうテレビで言っていたのを観たという人の情報(ネット情報ですが)もあります。「火のないところに煙は立たない」といいますが、反戦歌(あるいは反戦の気持ちを歌った)といわれるのには、なんらかの根拠があるわけで、どうなんでしょうか。

ところが、拓郎自身が公式サイトでこれを否定し鹿児島で過ごした少年時代のことを表現したのだというのです。しかしこれは拓郎の“照れ隠し”だと思います(と勝手に解釈)。拓郎は広島に原爆が落とされた翌年(1946年)に鹿児島で生まれここで幼少期を過ごし、原爆投下・終戦から10年後の1955年に母親の故郷・広島に移住、市内の被爆の中心地からさほど離れていない所で育ちました。おそらく戦後の焼け跡の酷さを少年時代、青年時代に日々目にし空気を吸って育ったはずです。まだ傷痍軍人が街角にいた時代です。大学を卒業し1970年にプロ歌手を目指し上京するまで広島で過ごしています。そこで見知ったことが拓郎の素地になっているはずです。

ここでちょっと寄り道。拓郎は1970年(私が大学に入った年でもあります)、上智大学全共闘プロデュースでアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作(つまり自費出版のことやね)します。今からは考えられませんが、これをほそぼそと手売りしていたらしいです。当時の社会情況と共に拓郎の想いが醸しだされる凄いタイトルですが、この中から『イメージの詩』をシングルカットし、これがデビュー曲となります。「たたかい続ける人の気持ちを誰もがわかっているなら たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」──ここに拓郎の原点があると思いますが、本人はどう思っているのでしょうか?

さて、拓郎の前の「フォークの神様」岡林信康の代表曲の一つ『友よ』は、牧師の息子で同志社大学神学部の岡林が賛美歌を元に作ったともいわれますが、「友よ、夜明け前の闇の中で 友よ、戦いの炎を燃やせ 夜明けは近い」というフレーズに私たちは感銘し、いろいろな集会で歌われました。この曲はそうではないんだと岡林自身が否定しているシーンを観たことがあります。つまるところ、歌は公にされることで作者の手を離れ社会性を持つということではないでしょうか。ちなみに、岡林は最近この曲を封印しているようです。『山谷ブルース』と共に岡林の代表作なのに残念ですが、名曲ですので、岡林の意とは別に(かつてほど頻繁ではないにしても)歌い継がれていくのではないか、と思います。

また、宮沢和史の『島唄』、宇崎竜童の『沖縄ベイ・ブルース』も、歌詞にはダイレクトに戦争や現在の米軍支配下の沖縄の情況を書いていませんし本人らもあれこれ説明するわけでもありませんが、戦争や現在の米軍支配下の沖縄の情況を表現していることは言うまでもありません。宮沢、宇崎のように黙っていれば値打ちがあるものを。

『夏休み』が反戦歌であるかないかは私にはわかりませんが、聴く者に原爆投下→終戦後の平和な、しかしいささか物悲しい情況を表現していることを感じさせることは確かなことです。初出は1971年に発売のアルバムに収められ、シングルカットは、ずっと先の1989年のことです。(松岡利康)


◎[参考動画]吉田拓郎『夏休み』

◎[リンク]松岡利康「今こそ反戦歌を!」 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

龍一郎・揮毫

私たちの世代、つまり戦後生まれの、一時流行った言葉で言えば「戦争を知らない子供たち」(当時、なぜか非常に違和感があった)にとって8月6日ヒロシマ、9日ナガサキは、戦後教育の柱の一つであったと思う。賛否は別として、これによって私たちは反戦/非戦意識を植え付けられたといえる。

昨日の、広島被爆二世である田所敏夫さんの言に続き、私なりに8月6日につき想うことを記しておきたい。

大学に入った1970年8月6日、帰省の途中に広島に立ち寄った。私の故郷・熊本に近い同じ九州の長崎には修学旅行などで何度か行ったことがあるが、広島は初めてだった。今は移転したようだが、広島大学の青雲寮に泊めてもらった。当時は、夏休みに旅行やヒッチハイクに出れば大学の寮にタダで(あるいは格安に)泊めてもらうのが常だった。今はどうかな? 

広島にとって8月6日という日は特別の日だ。この日、集会があり、生協が出店を出しおにぎりなどを売っていた。翌日だったか、岩国で反基地集会があり右翼に囲まれ、べ平連や、そのあたりの新左翼の主流派・中核派と一緒に突破した記憶がある。

 

1971年8月6日、広島平和式典に出席・献花しようとする佐藤栄作首相に必死に抗議する女子大生(朝日新聞社提供)

翌年1971年8月6日、当時の佐藤栄作首相が広島を訪れ戦後初めて平和祈念式典に出席し献花するというので被爆二世らが作る「被青同(被爆者青年同盟)」が中心になり抗議行動を行った。これには行かなかった。7月下旬の三里塚闘争(7月26日。一、二番地点収容阻止闘争)で仲間が4人も逮捕・勾留されたことと、9月の同第二次強制収容阻止闘争の準備で京都にとどまっていたからだ。

この抗議行動でインパクトを与えたのが、東京の大学に通う女子学生が警備の背後から隙を衝き佐藤首相に体当たりして抗議し逮捕されたことだ。本人の供述では明治学院大学3回生ということだった。私は当時2回生でまだ20歳前だった。抗議行動では計85人が逮捕されたという。佐藤の兄はA級戦犯・岸信介であり60年安保改定を強行した。佐藤も70年安保改定を強行した。そうした佐藤の平和式典への出席や献花を拒絶する彼女や被青同の抗議行動はまったく正当である。

私は、この身を挺した抗議に非常にショックと感銘を受けた。最近は、若者がこのような抗議をすることも見なくなった。やろうと思えばやれないこともないだろうに。

先日、旧統一教会被害者で人生を狂わせられた青年が、旧統一教会と深い関係があった安倍晋三元首相を、こちらも警備の隙を衝き背後から銃撃した。安倍元首相は死亡した──。

人ひとりの命は、氏素性、身分を問わず平等に尊いものだ。人の死も平等である。この意味で冥福を祈りたい。ただ、安倍元首相のせいでみずから命を絶った赤木俊夫さんの死も、同じ位相で冥福を祈る。元首相の死が上で、平官僚の死が下などと考えるべきではない。安倍元首相の死が国葬にされようとし、逆に赤木さんの死が忘れられようとしている。人の死が同じ位相ならば、安倍を国葬にするのならば赤木さんも国葬にしなければならない。

 

安倍晋三家系図

ここで思い出さねばならない。安倍元首相の祖父は誰か? A級戦犯・岸信介である。安倍元首相の大伯父は誰か? 70年安保改定を強行突破させ日米同盟を強化し沖縄「返還」(併合といったほうが正しい)を貫徹、いまだに沖縄の大半を米軍基地で占領、ますます軍事力を強化し日本をアメリカの属国化とした佐藤栄作である。

三代に渡り首相を務め日本の政治を牛耳り、それらの背後で、どれだけ多くの善良な人たちが不遇の死を遂げたのか──。

岸・佐藤・安倍だけではない、彼らの周囲も複雑に繋がっており、日本の政治が彼らの蝟集する政党(自民党)の独裁によって進められてきた。

そう、人の命は尊いものであり平等である。その死は軽んじてはならない。そうであるならば、戦前からこの国の政治を牛耳り、この国を戦争に導き万余の善良な人たちに死を強いてきた岸・佐藤・安倍ら一族の〈戦争責任〉を今こそ問い直し、そして弾劾しなければならない。

なお、1971年に起きたことについては、私が精魂を込めて編纂した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を参照いただきたい。特に田所敏夫さんの「佐藤栄作とヒロシマ──一九七一年八月六日の抵抗に想う」は必読である。

(松岡利康)

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊) 
鹿砦社編集部=編 A5判 240頁 定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈1971年〉。
抵抗はまだ続いていた。
歴史の狭間に埋もれた1971年に何が起きたのか、
それから50年が経ち歴史となったなかで、どのような意味を持つのか。
さらに、年が明けるや人々を絶望に落とした連合赤軍事件……。
当時、若くして歴史の流れに立ち向かった者らによる証言!
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/

《8月のことば》今いる場所で希望の灯をともす(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

人はよく困った時には、苦しみから、その情況やその場所から逃げたいと考えます。
ある意味で致し方のないところです。

「隣の芝生やよく見える」と言いますが、老境に差し掛かった私の経験から言っても、実際には、そうでもありません。

「今いる場所」が、たとえ地獄であっても、逃げずに踏ん張り続けよう──そこに「希望の灯をともす」。

龍一郎が当社のイベントで揮毫した「誠」という字を道場のシンボルとされている、伝説の空手家・中村誠先生は、今年のカレンダーはひときわ素晴らしいとおっしゃっておられました。私も同感です。

揮毫した龍一郎は、このかん毎年、ご母堂、学生時代から苦労を共にしてきた妻、そして師と仰ぐ中村哲医師の死と、相次いで不幸に見舞われてきました。

そこを乗り越えてきた龍一郎だからこそ言える言葉が今年のカレンダーには表現されています。

今私(たち)は、長引くコロナ禍を主たる要因として苦境に喘いでいることを隠しませんが、逃げずに「今いる場所で希望の灯をともす」ように頑張っていきたい、と思う酷暑の日々です。

(松岡利康)

「誠」 *大会で掲げられた「誠」の旗。凄い迫力だ。

「中村哲」 *中村哲医師お別れ会の看板も龍一郎が揮毫した。

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