発生当初に大々的に報道された事件について、のちにわかった重大な事実が十分に報じられず、世間に知られずじまいになっている例は多い。12年近く前に起きた坂出3人殺害事件もそういうことがあった事件の1つだ。

◆報道が過熱し、被害者の父親を犯人視したメディアも・・・

2007年11月15日の夜、香川県坂出市で両親と暮らす5歳と3歳の姉妹が、隣で暮らす58歳の祖母A子さん方に泊まりに行き、翌朝までに3人揃って失踪した。A子さん方では、寝室のカーペットがL字に切り取られ、その下の畳には血が染み込んでいた。

警察は3人が犯罪に巻き込まれたとみて、捜査を展開した。マスコミも現地で熾烈な取材合戦を繰り広げた。そんな中、姉妹の父親がマスコミから確たる根拠もなく犯人視される報道被害も発生。若手女優がブログで男性を犯人扱いするようなことを書き、芸能活動の休止に追い込まれたりもした。

そんな事件で、容疑者として検挙されたのは、川崎政則という61歳の男だった。川崎は、A子さんの妹B子さんの夫だったが、B子さんが川崎に内緒でA子さんに繰り返し多額の金を貸したため、川崎家も借金生活に陥り、家庭が崩壊。さらに事件の少し前、B子さんは肺がんで亡くなっていた。そんな事情から、A子さんを恨んでいた川崎は、事件の日の深夜、A子さん宅に侵入し、持参した包丁で就寝中のA子さんを刺殺。さらに泊りに来ていた小さな姉妹も刺し殺したのだ。

川崎は3人を殺害後、車で遺体を運び出し、坂出港近くの空き地の土中に埋めていた。

被害者3人の遺体が埋められていた空き地

◆娘と曽孫2人を殺害された男性が裁判で情状証人に

川崎はその後、2009年に高松高裁で死刑判決を受け、控訴、上告も棄却されて2012年に死刑判決が確定した。そして2014年に収容先の大阪拘置所で死刑を執行された。この間、発生当初は大きな注目を集めた事件も、いつしか人々の記憶から消え去っていった。

私がこの事件を調べ直し、ある特異な出来事が起きていたのに気づいたのは、2017年のことだった。川崎に対する高松高裁の判決によると、被害者のA子さんの父親が控訴審の公判に弁護側の情状証人として出廷し、「寛大な処罰」を求めていたというのだ。これはつまり、川崎の死刑が回避されることを求めたに他ならない。

A子さんの父親は、A子さんと共に川崎に殺害された小さな姉妹の曽祖父でもある。親族を3人も殺された犯罪被害者遺族が、犯人の裁判で死刑回避を求めるというのは、極めて異例の出来事であるのは間違いないだろう。

そこで私は、A子さんの父親本人に話を聞いてみたいと思い、川崎の弁護人を探し当て、取材の仲介を依頼した。だが、複数いた弁護人の中でA子さんの父親と連絡を取り合っていた者はすでに亡くなっており、弁護人もA子さんの父親と連絡を取れない状態になっているとのことだった。A子さんの父親は、2017年の時点で生きていれば相当高齢のはずだから、そもそも存命かどうかも微妙だったが、こうして結局、私はA子さんの父親と会えなかったわけだ。

◆異例の出来事に関する報道は一切見当たらず

判決に示された事実関係を見ていくと、A子さんの父親は事件前、A子さんのことを批判する川崎を逆にしかったこともあったという。また、A子さんの父親から見ると、川崎は娘や曽孫たちを殺した犯人である一方で、殺された娘とは別の娘(B子さん)の夫でもあり、孫たちの父親でもあった。そのような複数の事情が重なり合い、川崎の死刑回避を求めるに至ったのではないかと私は推測したが・・・今となっては、真相を追及するのは難しい。

私は、新聞社各社の過去記事のデータベースを調べたが、A子さんの父親が控訴審の公判で川崎の死刑回避を求めたことを報じた記事は一切見当たらなかった。新聞各社がこの事実を知りながら、あえて報道しなかったのか、裁判を取材しておらず、この事実に気づかなかったのかはわからない。いずれにせよ、マスコミの事件報道は必ずしも事件の全体象や核心を伝えたものではないことを示す顕著な例ではあるだろう。

殺人事件の現場となったA子さん方。奥は、殺された姉妹の家

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全国各地で新旧様々な事件を取材している。最新作は編著「さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて」(Kindle)。

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刑務所の老人ホーム化が進んでいると言われる。ある報道によると、20年前に比べ、65歳以上の検挙者数は4倍以上となり、今や全国の刑務所の被収容者は5人に1人が60歳以上なのだという。

かくいう私もそういう現実に直面し、複雑な思いにとらわれたことがある。今から40年前に起きた「ロボトミー殺人事件」の犯人の“その後”を取材した時のことだ。

◆ロボトミー手術により人生が暗転

ロボトミー手術とは、昔行われていた精神外科の手術で、日本では主に統合失調症の患者に行われてきた。しかし、脳の前頭葉を切除するなど危険性が高く、てんかんや無気力などの重大な副作用を引き起こすため、現在は行われなくなっている。

桜庭章司が都内の病院で、このロボトミー手術を無断で施されたのは1964年11月のことだった。当時30代半ばだった桜庭は、著述業者として活躍していた男だが、粗暴な性格で、何度も暴力事件を起こしていたという。そして精神鑑定の結果、措置入院することになったのだが、病院が当初行った精神療法は効果が上がらなかった。そのため、病院側は桜庭の母親の同意を得て、ロボトミー手術を行ったのだという。

ところが、手術以降、桜庭は原稿の執筆ができない状態に陥った。そればかりか、手術の後遺症により通常の社会生活すら営めなくなり、職も住まいも転々とし、人生に絶望するに至る。そして1979年9月、執刀医を殺害して自分も死のうと決意し、執刀医の自宅に押し入った。しかし、執刀医は不在だったため、その妻と義母を刺殺。裁判では、無期懲役判決を受けたのだった。

◆文字の大半が判読不能の手紙

私がそんな桜庭に関心を抱いたのは、2013年の夏頃だ。昔の事件について調べていたところ、宮城刑務所で服役中の桜庭が特異な国家賠償請求訴訟を起こしていたのを知ったのだ。

「体調不良で生きていても仕方がないにも関わらず、自殺する権利が認められずに精神的苦痛を被った」

桜庭はそう訴え、国に160万円の支払いなどを求めているとのことだった。

そこで、私は桜庭の現状を知りたく思い、取材依頼の手紙を出したのだが、返事はいっこうに届かなかった。だが、それから2年ほど過ぎた2015年の暮れ、別の取材で宮城刑務所を訪ねた折、売店から桜庭に封筒や便箋を差し入れたところ、意外な反応があった。桜庭から文字の大半が判読不能の手紙が届いたのだ。

文字の大半が判読不能な桜庭の手紙

便せん7枚の手紙から、かろうじて読めた文字をここに書き起こしてみよう。

「片岡健様」
「拝復」
「暗号的ナ文字トナリ」
「宜シク お願イイタシマス」
「お手紙ニアリ」
「以前ニ一度」
「正シクハ二度」
「片岡様カラノ 二回ニワタリ」

このようにかろうじて読める言葉だけを見ても、桜庭の手紙は伝えたいことがほとんどわからない。高齢に加え、おそらくロボトミー手術の後遺症も悪化したのだろう。この時点で80代後半の年齢になっていた桜庭は、生きているだけでも大変なほどの体調不良で、だからこそ自殺を希望するのだろうと思われた。

桜庭が服役していた宮城刑務所

◆返送されてきた年賀状

私は、その後も何度か桜庭に手紙を出してみたが、結局、2度と返事は届かなかった。そして2017年の正月明け、私が桜庭に出した年賀状が「あて所に尋ねあたりません」と返送されてきた。これはつまり、桜庭はもう宮城刑務所にいない、ということだ。

桜庭は、医療刑務所などに移されたのだろうか。それとも、ついに獄中で人生を終えたのだろうか。いずれにしても、老人ホーム化した全国各地の刑務所でも、桜庭ほど悲惨な老後を過ごした受刑者はそんなに多くはいないだろう。

桜庭とは直接対話できなかったが、これまで私が取材した様々な殺人犯の中でも、そういう事情から桜庭はとくに印象深い人物の1人だ。

なお、例の国家賠償請求訴訟は桜庭の敗訴に終わっている。

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どんな大事件も年月の経過と共に人々の記憶から風化する。それを私が強く感じたのが、昭和の有名冤罪の1つ、因島毒まんじゅう事件を取材した時だ。高度成長期、瀬戸内海の風光明媚な島で起きた毒殺事件として大きな注目を集めた事件だったのだが・・・。

「そういえば昔、この島でそんな事件があったねえ。でも、私はあの頃、小さかったけえ、詳しいことは知らんのんよ。もっと年増の人に聞いてみたほうがええかもね」

2015年3月、事件の舞台である因島(広島県)で、私は島の年配女性にそう言われた。「失礼ですが、おいくつですか?」と尋ねると、その女性は「65よ」と笑ったのだった。

有名冤罪の舞台になった因島。普段は風光明媚な島だ

◆家族5人の毒殺を自供しながら裁判で無罪に

因島で暮らす山本(仮名)という家族の家で5人の親族が「不審死」した疑惑が浮上したのは1961年1月のこと。捜査の結果、この家の次男・山本祥雄(当時31、仮名)がまんじゅうに毒を仕込み、家族を毒殺した容疑で広島県警に検挙された。そして幸男は取り調べに対し、5人全員を毒まんじゅうで殺害したと自供した。

もっとも、起訴に至ったのは結局、4歳の姪に対する殺人容疑だけ。さらに祥雄は裁判で、「自供したのは警察に拷問を受けたため」と無実を主張した。結果、祥雄は一審で懲役15年の判決を受けたが、1974年に二審の広島高裁で逆転無罪を宣告された。

私は裁判の記録を確認したが、たしかに物証は乏しく、そもそも本当に毒殺事件が存在したのかも疑わしいように思えた。肝心の祥雄の自白内容も曖昧だったから、無罪は妥当な結果だった。

だが、現地を訪ねてみると、冒頭の女性をはじめ、年配の島民も事件自体をほとんど知らないのだ。凶器のまんじゅうの購入先とされる店の経営者も「当時はうちも報道被害を受けたんで」と言葉少なに事件を語っただけだった。

犯行に使われたとされる「まんじゅう」と同じ商品は今も売られている(写真は一部修正しました)

◆日本中どこでも「毒まんじゅうの島」と言われた

そんな中、「そういう事件、あったねえ」と唯一、具体的な話を聞かせてくれたのが、さびれた日用品店の店先で話し込んでいた2人の老女だった。

「あの事件があった頃は日本中どこに行っても、因島から来たと言うと、『ああ、毒まんじゅうの島ね』と言われたんよ(笑)」(老女A)

懐かしそうに語る2人の老女はいずれも90歳。小学校からの同級生なのだという。

「山本さんの家は、今はうまくいっとんじゃないかね。働き者のムコさんをもろうてね。祥雄さんはもう亡くなったと思うけど、奥さんはまだ生きとったと思うよ」(老女B)

このように祥雄ら山本家の内部事情にも詳しい老女たち。だが、祥雄が裁判で無罪判決を受けたことについては、「さあ、どうだったんかねえ」とまるで知らない様子だった。

◆地元の人たちの記憶からも事件は風化

もしかして、祥雄は今も島では、「身内殺し」の汚名を着せられたままなのだろうか。

「どうなんじゃろうねえ。山本さんらはムコさんをもらう時に事件の話もしたんかねえ。そういう話を聞いたような気もするけど、私らくらいの年齢になると、聞いたことはそのまま忘れるんよ」(老女A)

地元でも忘れ去られた冤罪事件。事件が起きた当時、元号は昭和だったが、その次の平成も終わり、時代は令和へと移る。山本家の人々にとって、不幸な冤罪が過去のものになっていることを願う。

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〈片岡さん・・・私は死ぬまで、ココを出られませんヨ(本当に。)よわりましたです・・・。〉

今年3月、小松武史(52)から届いた手紙には、そんな弱気な言葉が綴られていた。獄中生活も20年近くになるから、精神的に落ち込むこともあるようだ。

事件が起きたのは1999年の10月だった。桶川市の女子大生・猪野詩織さん(当時21)が元交際相手の風俗店経営者・小松和人(同27)や配下の男たちから凄絶なストーカー被害を受けたうえ、JR桶川駅前で和人の部下の久保田祥史(同34)に刺殺された。

警察捜査は後手後手に回り、首謀者と思われていた和人が逃亡先の北海道で自殺。その後、「主犯」として逮捕されたのが、和人の兄である武史だった。

武史は消防隊員として働きながら、副業で和人の風俗店経営を手伝っていたとされる。裁判では、「弟・和人の意向を受け、久保田に猪野さんの殺害を依頼した」と認定され、無期懲役判決を受けた。そして現在も千葉刑務所で服役中だ。

だが、実を言うと、武史は逮捕されて以来、一貫して冤罪を訴え続けており、実は現在も再審請求を準備中だ。私が6年前、武史と手紙のやりとりを始めたのも、冤罪主張の当否を検証するためだった。

小松武史が服役している千葉刑務所

◆「弟思い」とみられていたが・・・

〈私は、かくすような事は、何もないので、ザックバランに何でも書いて下さい。どのような事にも答えたいと思っております〉

最初に武史から届いた手紙には、そう綴られていたが、実際、武史は聞かれたことに何でもよく答えた。そして意外な真相を口にした。

〈私と弟の関係ですが(略)私は当時より(前妻も)弟が大嫌いですし、死んでも私の恨み憎さは、まだ半分あります!〉

武史は、弟思いゆえ、和人を振った猪野さんの殺害を久保田に依頼したと考えられてきた。しかし、実際は和人が嫌いだったというのだ。

◆怒りのエネルギーで生きてきた

武史によると、実行犯の久保田は、本当は武史ではなく和人の意向をうけ、猪野さんを襲ったという。だが、久保田は和人に良くしてもらっており、反対に武史を嫌っていたため、「殺害は武史の依頼だった」と虚偽を供述。そのせいで冤罪に貶められたというのだ。

武史は手紙で、その怨みも連綿と綴ってきたこと。

〈全てを失い、冤罪とかゆうレベルではないと思いましたし、怒りを通りこし、当然、当時は生きていたくないと毎日思っていましたが…不名誉なまま終れないと考え、怒りのエネルギーで、今日まで生きて来てます〉

今年10月で桶川ストーカー殺人事件が発生して20年になる。ずいぶん長い年月が過ぎたが、事件はまだ多くの人が記憶しているはずだ。武史が再審請求に動くようなら、その動向はまた当欄でお伝えしたい。

猪野さんが刺殺された桶川駅前の現場

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犯罪報道では、加害者やその家族の誠意のない言動が批判的にクローズアップされることがある。だが、ああいう報道を額面通りに受け取っていいものか、私は疑問だ。たとえば、私が過去に取材した事件のなかには、こういうケースもあった──。

◆苦悩する父親

「贖罪というか……罪を償うのを父親として支援していくというか……見守っていきたいと思います」

2017年10月、福岡地裁の第5号法廷。息子の裁判員裁判に情状証人として出廷した大柄な父親は、たどたどしい口調でそう証言した。髪はぼさぼさで、目もうつろ。事件以来、相当苦悩してきたのだろう。

彼の息子ユキオ(仮名、事件当時19)が事件を起こしたのは2016年2月のこと。ユキオは当時、熊本の実家を離れ、福岡の予備校に通っていたのだが、予備校の女子同級生ミズキさん(仮名、事件当時19)を尾行し、路上で襲撃。ナイフで顔や頭をめった刺しにし、小型のオノで何度も頭部を殴り、殺害したのだ。

ユキオの犯行動機は、ミズキさんに交際を断られたうえ、周囲に言いふらされたと思い込んだことだとされた。だが、精神鑑定医によると、ユキオは社会的コミュニケーションが困難な「自閉症スペクトラム障害」だったという。この障害の影響でユキオはミズキさんに対し、被害妄想を抱いていたようだ。

事件現場。ユキオはこのあたりで被害者を襲撃した

◆莫大な被害弁償

父親は、熊本からユキオの裁判に毎回傍聴に来ていたが、傍聴席ではいつも小さなメモ張に顔を近づけ、ひたすらメモをとっていた。そして証言台の前に座ると、体を小さくし、謝罪した。

「人の生命を奪ったら生命で償うしかないので、私も死んでしまおうかと思ったこともありました。しかし親なら、生きて息子を見守っていかないといけないと思うようになりました」

弁護人から「被害弁償はどうするのか」と聞かれると、父親はこう答えた。

「家を売り、退職金をあて、生きている限り、償っていきたいと思います」

父親はこの時点で被害者の両親に2500万円を払ったという。そのうえでさらに被害弁償をするというのだから、気が遠くなりそうだ。

さらに父親は「妻は事件後、精神病院に通院するようになりました」と明かした。事件により加害者家族の人生もボロボロになったのだ。

◆遺族に一礼もしなかった父親

ただ、父親は証言を終え、傍聴席に戻る際、遺族席のそばを通り過ぎながら、一礼もしなかった。その様子が気になった私は休廷の際、事情を父親に確認したのだが……。

── 批判するわけではないのですが、ご遺族のそばを通る際、素通りされていましたね。

「お話することはないです」

── ご遺族に頭でも下げないと息子さんに不利になるとは思われなかったですか?

「そんな余裕ないですよ」

父親はそう言い残し、足早に去って行った。法廷では、相当緊張していたのだろう。

重大事件では、おそらく多くの加害者家族は冷静ではいられない。それゆえに、余裕がないからこその言動が、不誠実な態度に見えることもあるのではないか。私は、この父親を知って以来、そう思うようになった。

一方、「自閉症スペクトラム障害」と診断された息子のユキオは裁判中、法廷ではずっと無表情だった。懲役20年の重い刑を受けたが、今後立ち直れるか心配だ。

裁判が行われた福岡地裁

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死刑は怖いですか──。私が過去、死刑判決を受けた殺人犯に面会した際にしばしば試みた質問だ。そんな中、もっとも変わった答えをしたのが、小泉毅(57)だった。

「死刑がまったく怖くないと言えば、嘘になります。しかし、私は生まれ変われると思っているんですよ」

2013年の春、東京拘置所の面会室でのことだ。そう語る小泉の穏やかな笑顔が今も忘れられない。

◆殺人動機は「愛犬のかたき討ち」

小泉は2008年11月、埼玉と東京で旧厚生省の事務次官経験者の自宅2軒を相次いで襲撃し、2人を刺殺、1人に重傷を負わせた。そしてほどなく警察に自首すると、「子供の頃に保健所で殺処分にされたチロ(飼い犬)のかたき討ちだった」と意外過ぎる犯行動機を告白し、世間を驚かせた。

私が面会に通うようになった頃、小泉は最高裁に上告中だったが、すでに一、二審共に死刑判決を受けていた。報道では、小泉は坊主頭で、無精ひげを生やし、武骨そうな男に思えたが、実際の小泉は小柄で、色白のおとなしそうな男だった。

事件が起きた当時、「なぜ、愛犬のかたき討ちで旧厚生省の事務次官経験者を狙ったのか」と訝る声もあったが、小泉は「保健所を管轄するのが厚生省(現・厚生労働省)だから、そのトップを狙ったんです」と理路整然と説明した。精神障害の疑いは無さそうだった。

そんな小泉は、裁判でも「私が殺したのは、人間ではなくマモノです」と述べて無罪を主張するなど、死刑を本気で回避しようとする様子は皆無。その理由が、「生まれ変われる」と思っているからだったのだ。

◆生まれ変われると思う根拠は「超ひも理論」

では、生まれ変われると思う根拠とは?

小泉は「物理学の『超ひも理論』に基づく考えなんですよ」と言い、後日、手紙でこう解説してくれた。

小泉から届いた2013年5月5日消印の手紙

〈我々1人1人の存在、分子1つ1つの存在、原子1コ1コの存在、クォークやレプトン1コ1コの存在は、我々の住む宇宙よりもはるかに大きなもの、即ち、我々の宇宙が漂っている無限に広がる次元という大きな海の中のどこかに常に記録されていると、私は考えています。だから、この記録されているものを我々の宇宙にダウンロードすれば、私は生まれ変わることができるのです!〉(2013年5月5日消印の手紙より)

学生時代に理科が苦手だった私には理解不能だったが、小泉は国立の佐賀大学理学部で学んだ秀才だ。それなりの科学的根拠がある話なのだろう。

「死刑になっても生まれ変わり、またマモノを殺します」と語っていた小泉は、その後、死刑が確定したが、今も死刑執行されず、東京拘置所に収容されている。

小泉が収容されている東京拘置所

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タブーなきスキャンダリズム・マガジン『紙の爆弾』5・6月合併号【特集】現代日本の10大事態

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重大事件の発生当初に「有力証拠」が見つかったように報道され、それがその後に被告人の裁判でガセネタだとわかることは珍しくない。だが、たまに逆のパターンもある。事件発生当初に報道された「有力証拠」は確かに実在するのに、検察官が自分たちの主張の立証に邪魔になるため、裁判では隠ぺいしてしまうパターンだ。

当欄で何度も冤罪の疑いを伝えてきた、あの「今市事件」でもまさにそういうことが起きている。

◆今見ても興味深い2005年の読売新聞のスクープ

2005年12月1日、栃木県今市市(現在は日光市)で小1の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が下校中に失踪し、茨城県の山中で遺体となって見つかった今市事件。2014年に逮捕された台湾出身の男性・勝又拓哉氏(36)は、裁判で一、二審共に有罪(無期懲役)とされたが、本人は無実を訴えており、有力な証拠もないことなどから冤罪を疑う声が非常に多くなっている。

そんな今市事件が起きたばかりだった2005年12月5日、読売新聞が東京本社版の朝刊1面で、今見ても興味深い次のようなスクープ記事を掲載していた。

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女児乗せた白いワゴン
栃木・小1殺害
日光道の料金所
ビデオ記録 運転席に男
両県警特定急ぐ

当初は“白いセダン”ではなく、“白いワゴン”が疑われていた(読売新聞東京本社版2005年12月5日朝刊1面)

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この記事によると、有希ちゃんが下校中に行方不明になった後、現場近くにある有料道路「日光宇都宮道路」の大沢インターチェンジ入口の料金所のビデオカメラに、有希ちゃんとみられる女児と男の乗った「白いワゴン車」が映っていたという。

では、なぜこの記事が今見ても興味深いのか。それは、勝又氏が当時乗っていた車は、「白いワゴン車」ではなく、「白いセダン車」だからである。

さらに読売新聞はその後も、《日光道ICの白いワゴン 午後3~5時通過》(同12月6日朝刊1面)、《「白い箱型の車見た」 一緒に下校の女児 別れた直後に》(同12月20日朝刊39面)などと、白いワゴン車が犯人のものであることを示唆する情報を次々に報道。また、朝日新聞も同年12月11日の東京本社版朝刊39面で、「『栃木』ナンバーの白いワゴンを2日朝に(遺体遺棄)現場付近で見た」という内容の目撃証言が捜査本部に寄せられたことを報じている。

つまり、これらの報道が事実なら、「有希ちゃんが行方不明になった現場」と「有希ちゃんの遺体が遺棄されていた現場」の両方で、犯行時間帯と近接する時間に、犯人が運転していた可能性がある「白いワゴン車」を目撃した証人が存在するわけだ。

◆栃木県警は目撃証言に関する証拠を「廃棄済み」

「別の真犯人」が存在する可能性を示す警察の情報募集のポスター。原本は警察が廃棄していた

そして実を言うと、この「白いワゴン車」の目撃証言は実在するものであると確かな「証拠」によって裏づけられている。

ここに掲載した、「懸賞金上限額500万円」と書かれたポスターがそれだ。今市事件は2005年に発生して以来、2014年に勝又氏が逮捕されるまで長く「未解決」の状態が続いていたが、これはその時期、栃木・茨城両県警の合同捜査本部が町中に張り出していた情報募集のポスターだ。

このポスターは原本ではなく、ネット上に浮遊していたものだが、「現場付近で目撃された不審車両です」として「白いセダン車」と「白いワゴン車」が両方紹介されている。先に述べたように勝又氏が事件当時に乗っていた車は「白いセダン車」なので、勝又氏が犯人だとしてもこのポスターの情報とは矛盾しない。しかし、「白いワゴン車」のほうが真犯人の車である可能性は、勝又氏の裁判の一、二審で一切検証されていないのだ。

そこで、私は過去に栃木県警が作成したこの事件の情報募集のポスターを全種類集めるべく、行政文書の開示請求を行ったのだが、栃木県警の回答は「廃棄済みである」の一言だけだった。これでは、栃木県警が別の真犯人の存在を示す証拠を隠滅した可能性を疑わざるを得ない。

勝又氏は現在、逆転無罪を勝ち取るために最高裁に上告中だ。最高裁で無罪判決が出るハードルは高いが、「白いワゴン車」が真犯人のものである可能性が検証されないまま、勝又氏の有罪が確定していいわけはない。

日光市(旧今市市)にある有希ちゃんのお墓

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

私は、刑罰の重さというのは、刑罰を科される人間の主観で決まるものだと思っている。というのも、たとえば同じ無期懲役判決でも、被告人が20歳の場合と80歳の場合では、明らかに重さが違う。20歳の被告人が無期懲役判決を受ければ人生の大半を獄中生活に費やすことになるが、80歳の被告人が無期懲役判決を受けたとしても、ものの数年で寿命のために服役を終える可能性も小さくないからだ。

死刑にしたって、被告人が20歳か、80歳かではずいぶん重みが違うし、被告人が重い病で余命いくばくもなく、安楽死を望んでいるような場合、死刑には刑罰としての意味がほとんどない。たまに現れる「死刑になりたくて人を殺した」という殺人者に対しては、死刑は国家が自殺志願者の自殺を手伝うような意味合いすら持ってしまう。

こうしたことから、私は「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考えるわけだが、そんな私がこれまでに会った様々な殺人犯の中で「最も重い刑罰」を受けた人物だと位置づけている男がいる。昨年暮れに最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した大阪ドラム缶遺体事件の犯人、鈴木勝明死刑囚(50)だ。

◆面会室では、とうとうと「冤罪」を訴えてきたが……

「ラジオで自分に関する報道を聞いていると、ありもしないことばかり言っています。警察はひどいですからね。殺人の証拠がないから、ぼくが最初に窃盗で逮捕された時から(自白させようと)殺人のことばかり聞いてくるんです」

2014年の秋、大阪拘置所の面会室。透明なアクリル板越しに向かい合うと、鈴木死刑囚は私に対し、とうとうと「冤罪」を訴えた。鈴木死刑囚は当時、すでに一審・大阪地裁堺支部の裁判員裁判で死刑判決を受けていたが、裁判では無実を主張しており、大阪高裁に控訴中だった。

鈴木死刑囚の犯行とされる大阪ドラム缶遺体事件の内容はおおよそ次のようなものである。

2004年暮れに失踪した大阪の会社社長・浅井建治さん(失跡当時74)と妻・きよさん(同73)の遺体と車が府内の貸ガレージで見つかったのは2009年秋のこと。ドラム缶に入れられた2人の遺体は激しく損傷しており、きよさんのほうは足を切断されていた。

大阪府警は捜査の結果、同11月、当時建設作業員だった鈴木死刑囚が建治さんの車などを盗んだとして窃盗容疑で逮捕。さらに同12月、きよさんの腕時計も盗んでいたとして再び窃盗容疑で逮捕する。そして翌年12月、ついに「本命」の強盗殺人の容疑で鈴木死刑囚を逮捕したのである。

これに対し、裁判で「冤罪」を訴え続ける鈴木死刑囚だが、公判廷で示された事実関係を見る限り、その主張は苦しかった。

まず、鈴木死刑囚は浅井さん夫婦の失踪直後、遺体が見つかったガレージを賃貸していた。遺体が入っていたドラム缶には鈴木死刑囚の指掌紋やDNAが付着。さらに事件当時、鈴木死刑囚は無職で、消費者金融に約300万円の借金を抱えていたうえ、事件後に浅井家にあった高級時計を50万円で質入れして返済にあてていたのだ。

一方、鈴木死刑囚は裁判で「闇金業者の2人の男に脅され、死体遺棄を手伝っただけだ」と主張していたが、その2人の実名すら特定できない……。

そんな苦しい冤罪主張を続ける鈴木死刑囚の実像をこの目で確かめたく、私は取材依頼の手紙を出したうえで面会に訪ねたのだが、鈴木死刑囚は面会中、私の目をあまり見ようとしなかった。捜査や裁判、マスコミに対する批判は口からどんどん出てきたが、終始うつむき加減で、おどおどした話し方なのも気になった。

それでも、「事件をちゃんと伝えてくれるなら、色々話すことも考えます」と言うので、切手やハガキのほか、便箋や封筒も差し入れた。だが、それから5カ月以上も音沙汰なしの状態が続いたのだった。

◆死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかない

鈴木死刑囚からいつまで経っても連絡がこないので、私は2015年2月、「また面会に行きたい」と手紙で鈴木死刑囚に伝えた。すると、ようやく返事の手紙がきたが、それには「捜査機関が真犯人を隠し、私に押しつけた」という主張と共に、「面会はしんどいし、辛いから断る」という意向が書き綴られていた。

〈今は、面会は出来ないです…… また、気持ち変われば、手紙しますので…… 草々〉

最後はそんな弱々しい言葉で結ばれていた鈴木死刑囚の手紙。その文面からは、冤罪を訴え続ける「罪悪感」に苦しんでいる様子が窺えた。そしてこの時、私は改めて面会中の鈴木死刑囚のおどおどした様子を思い出し、確信したのだ。鈴木死刑囚は死刑が怖くて仕方がないのだろう――ということを。鈴木死刑囚は、本当はクロなのに無実を訴えることに罪悪感はあるが、死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかないのである。

私はこれまで、死刑判決を受けた被告人に20人近く会ってきたが、その中でも鈴木死刑囚は誰よりも死刑を恐れている雰囲気が顕著だった。「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考える私は、それゆえに鈴木死刑囚こそが過去に会った死刑囚の中でも「最も重い死刑」の判決を受けた人物だと思うのだ。

死刑が確定した今、鈴木死刑囚は大阪拘置所の獄中で日々眠れぬ夜を過ごしているはずだ。

鈴木勝明死刑囚が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

報道を通じて誰でも知っているような事件であっても、その実相は案外知られてないことが少なくない。その最たるものが、あのロス疑惑だ。

80年代に日本全国の注目を集めたこの事件では、妻を保険金目的で殺害した疑いをかけられた三浦和義さんが裁判で無罪判決を勝ち取ったが、洪水のような犯人視報道の影響で今も三浦さんのことをクロだと思っている人は少なくない。

しかし実を言うと、三浦さんの裁判では、検察官が「三浦さん以外の真犯人を目撃した証人」を隠していたことが明るみに出ているのである。

◆報道の影響で今もクロだと思い込んでいる人が多いが……

のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が起きたのは、1981年11月のことだった。輸入雑貨商だった三浦さんは妻の一美さんと共に仕事と旅行を兼ねて米国ロサンゼルスに滞在中、駐車場で2人組の男に銃撃され、金を奪われた。一美さんは頭を撃ち抜かれて意識不明の重体に陥り、三浦さんも足を撃たれて負傷。その後、一美さんは一年余りの入院生活を送ったが、回復しないままに亡くなった。

そんな悲劇に見舞われた三浦さんは当初、重体の妻にけなげに尽くす「美談の人」としてマスコミに取り上げられていたが、1984年になり、事態が一変する。週刊文春が同年1月から始めた「疑惑の銃弾」という連載で、三浦さんが一美さんの死により1億5000万円を超す保険金を受け取っていた事実を指摘し、銃撃事件は三浦さんが保険金目的で敢行した自作自演の妻殺害事件である疑いを報道。これに他のマスコミも一斉に追随し、三浦さんは妻を殺害した疑いを連日、大々的に報道されるようになったのだ。

三浦さんはその後、妻殺害の容疑で逮捕され、一貫して無実を訴えながら一審・東京地裁では無期懲役判決を受けた。しかし、二審・東京高裁で逆転無罪判決を受け、2003年に最高裁が検察の上告を退け、無罪が確定する。元々、めぼしい証拠は何もなく、第一審の有罪判決も三浦さんが「氏名不詳者」に妻を銃撃させたとする無理な筋書きだったから、無罪判決は当然の結果ともいえた。それでもなお、今も三浦さんのことをクロだと思い込んでいる人が多いのは、膨大な犯人視報道の影響に他ならない。

だが、先にも述べたように、実際には、検察官はこの事件で、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人を隠していたのである。

◆真犯人の目撃証人を調べていたのは公判担当検事だった……

日刊スポーツ2008年2月24日付

裁判当時、三浦さんを支援していた男性によると、その目撃証人は、事件現場の駐車場で働いていた男性Sさん。弁護側は控訴審段階に現地で雇った探偵の調査により、Sさんの存在を知ったという。

「Sさんは『日本の捜査当局の調べも受け、犯人が現場から車で逃げ去るところなどを目撃したことを話した』と明かしてくれたので、弁護側は当然、検察官にSさんの調書の開示を求めましたが、検察官はそのような調書の存在を頑なに認めませんでした。しかし、裁判官がSさんを公判に召喚することを示唆し、検察官はようやく調書を開示したのです」(男性)

こうして、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人の存在が公判廷で明るみに出たのだが、それと共に重大な事実が発覚したという。

「調書の存在を認めなかった公判担当の検察官自身がこのSさんの調書の作成者だったのです。裁判官はこれをきっかけに検察側に不信感を抱き、裁判の流れは一気に逆転無罪へと傾きました」(同)

このことを知っているか否かで、三浦さんやロス疑惑という事件に関する印象はずいぶん違うはずだ。私はかねてよりこの事実を知っているので、三浦さんのことは当然シロだと思っているし、ロス疑惑はマスコミや捜査機関によるデッチ上げの事件だと思っている。

◆三浦さんの死亡時にも卑怯な物言いをした山田弘司元検事

ロス疑惑の捜査、公判を担当した頃の山田弘司検事(1988年発行の「司法大観」より)

ところで、この証拠を隠していた検事については、許しがたいことが他にもある。というのも、三浦さんは2008年にサイパンを旅行中、日本で無罪確定した殺人の容疑で米国捜査当局に逮捕され、移送されたロス市警で非業の死を遂げたが、その時にこの検事はマスコミに対し、次のようなコメントを寄せていたのだ。

「日本での無罪判決に、釈然としない思いの人がいるのも事実。もう一度、実質的に審理されれば、有罪、無罪の結論はどうだろうと、理由が示されて、納得する人も、もう少し多くなるだろうと思っていた」(朝日新聞東京本社版08年10月12日朝刊)

「20年近く戦った相手だが、こういう事態となり、広い意味での『友人』だったという感じがした。ご冥福をお祈りしたい」(読売新聞西部本社版08年10月12日朝刊)

死んだ三浦さんが反論できないからこその卑怯な物言いである。

この検事の名は、山田弘司(こうじ)氏。三浦さんの公判を担当後は東京高検公安部長、函館地検検事正などを経て、最高検公判部長だった04年9月、58歳で辞職。その後しばらく杉並公証役場で公証人として働いており、このコメントを発したのもその頃だ。

私はこの6年後、山田氏のもとを訪ね、この三浦さんに対する卑怯な物言いや、真犯人に関する目撃証言を隠していたことに関して追及したが、山田氏は曖昧な言葉でごまかそうとするばかりで、自分の犯した過ちに誠実に向き合おうとする様子は見受けられなかった。

こういう人間が出世するのが検察という組織なのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

捜査機関が被告人に有利な証拠を隠す「証拠隠し」は、冤罪が起きる原因の1つとして批判されてきた。私が過去に取材した様々な冤罪事件を振り返っても、捜査機関による「証拠隠し」の疑いが浮き彫りになった事件はいくつもある。

中でも印象深いのは、10年余り前に東広島市の短期賃貸アパートで会社員の女性が探偵業者の男性に暴行され、死亡したとされる事件だ。私は取材の結果、この事件を冤罪だと確信するに至ったが、取材の過程では「別の真犯人」の存在を示す証拠を警察、検察が隠している疑いも浮上しているのだ。

◆短期賃貸アパートで見つかった遺体

東広島駅近くの短期賃貸アパートで被害女性(当時33)の遺体が見つかり、事件が発覚したのは2007年のゴールデンウィーク中のことだった。遺体はバスルームで発見されたが、服は着たままで、水をはった浴槽に頭から突っ込んでいた。顔面や頭部に鈍器で殴られた跡が多数あり、上唇が裂けるなどした無残な状態だったという。

被害女性の遺体が見つかった短期賃貸アパート

女性は事件発覚の少し前、現場の短期賃貸アパートを契約していたが、そのことは一緒に暮らす家族すら知らないことだった。ただ、事件後に女性の携帯電話がなくなっており、警察は当初から顔見知りによる殺人事件だと疑っていたようだ。そして事件発覚から約2週間後、1人の男性が殺人の容疑で検挙される。広島市でコンビニを経営しつつ、副業で探偵業を営んでいた飯田眞史さんという男性(同51)だ。

なぜ、飯田さんは疑われたのか。事情はおおよそ次の通りだ。

被害女性は事件前、妻子ある男性と不倫関係にあったのだが、そのことが男性の妻にばれ、トラブルになっていた。そして事件発覚の10日余り前、電話帳で探偵業を営む飯田さんの存在を知り、相談にのってもらっていたという。

警察が捜査を進める中、被害女性の携帯電話の発着信履歴や東広島市内のファミレスの防犯カメラ映像などから飯田さんが事件当日も被害女性と会っていたことが判明。さらに現場アパートの室内から飯田さんのDNAも検出され、警察は飯田さんを容疑者と特定したのだ。

飯田さんは逮捕後、事件当日に被害女性と会い、現場アパートに立ち入ったことは認めつつ、殺人の容疑は一貫して否認した。飯田さんによると、被害女性が家族にも告げずに短期賃貸アパートを契約したのも飯田さんの助言だったという。

「被害女性は、不倫相手の妻から慰謝料のほか、印鑑登録証明書の提出を求められており、印鑑登録証明書に記載された住民票の住所から不倫相手の妻に自宅を知られるのを嫌がっていました。そこで短期賃貸アパートを契約し、住民票の住所を一時的に移せば、印鑑登録証明書に記載される住所は短期賃貸アパートのものになると助言したところ、被害女性はその通りにしたのです。そして私は事件当日もアパートの室内で、被害女性に示談書の書き方を教えてあげていたのです」(飯田さんの主張の要旨)

しかし、飯田さんはこのような言い分を警察、検察に信じてもらえずに起訴され、裁判でも広島地裁の第一審では懲役20年の有罪判決を受ける。広島高裁の控訴審では、犯行時の殺意が否定され、傷害致死罪が適用されて懲役10年に減刑されたが、上告審でも無実の訴えを退けられ、懲役10年が確定。現在も山口刑務所で服役生活を強いられている。

飯田さんが服役している山口刑務所

◆被告人には一見怪しい事実があるにはあったが・・・

私がこの事件を取材したきっかけは、獄中の飯田さんから冤罪を訴える手紙をもらったことだった。飯田さんは当時、広島高裁に控訴中だったが、調べたところ、飯田さんには怪しいところが色々あるにはあった。だが、よく検討すると、色々ある一見怪しい事実は、飯田さんが犯人であることを何ら裏づけていないのだ。

たとえば、飯田さんは事件の数日後、埼玉で暮らす不倫相手の女性に現金書留で100万円を送っており、このお金について「事件当日に被害女性から預かったものだが、(不倫相手の女性には)車の購入資金として送った。被害女性には、あとで自分の預金から返せばいいと思った」と説明していた。これなどはかなり怪しさを感じさせる事実だが、よくよく調べてみると、飯田さんは金を送った不倫相手の女性に口止めなどはしておらず、金の送り方も現金書留を使っているなど非常に無防備で、犯人らしからぬ点が散見されるのだ。

また、現場アパートの室内から飯田さんのDNAが検出されたという話については、鑑定資料が血痕なのか、ツバなど血痕以外のものなのかで争いがあるのだが、いずれにしてもきわめて微量のDNAがテレビのスイッチに付着していただけのことだった。飯田さんは事件当日、被害女性に示談書の書き方を教えるためにアパートに立ち入ったことを認めており、このDNAはその時に遺留したと考えても何らおかしくない。

そもそも、飯田さんは被害女性と事件の10日余り前に知り合ったばかりで、被害女性の顔面や頭部を執拗に攻撃し、殺害しなければならない動機があったとも思いがたかった。そんなこんなで私はこの事件について、次第に冤罪の心証を抱くに至ったのだ。

そして取材を進める中、期せずして浮上してきたのが、捜査機関による重大な「証拠隠し」の疑いだ。それはすなわち、飯田さんとは別の真犯人が存在することを示す事実がありながら、警察、検察が握りつぶしたのではないかという疑惑である。

逮捕によって閉店に追い込まれた飯田さんのコンビニ

◆警察が「複数犯」を前提に「黒い車」を探していた謎

「警察はなぜだか、飯田さんの共犯者を探していました」「そういえば刑事が話を聞きにきた時、『あれは一人ではできない犯行なのだ』と言っていました」

私の取材に対し、飯田さんの周囲の人たちは異口同音にそう言った。つまり、警察は飯田さんを容疑者と特定しながら、この事件を複数犯の犯行だと思っていたということだ。

一体なぜなのか。謎を解く鍵は次のような証言だ。

「刑事から『飯田に黒い車を貸さなかったか?』と聞かれたので、貸してないと答えたら、その刑事、今度は『あなた以外で誰か飯田に黒い車を貸せるような人はいないか?』と聞いてきたのです。とにかく刑事は『黒い車』にこだわっていましたね」

これは飯田さんの知人男性から得られた証言だが、同様の証言は他でも複数得られた。これはつまり、警察が何らかの証拠に基づき、この事件は複数犯によるもので、犯行には黒い車が使われたと考えていたということだ。ちなみに飯田さんが乗っていた車の色は「白のスカイライン」である。

私は、おそらく事件現場周辺の「防犯カメラ」の映像などを根拠に、警察は犯人が複数存在し、犯行に黒い車を使っていたと断定していたのだろうとにらんでいる。そこで実際、事件現場周辺でそのような防犯カメラの映像を警察に任意提出した会社などがなかったか探してみたが、残念ながら現時点で見つけられていない。

私は今後もこの事件の取材は続けるつもりなので、もしも気になる情報をお持ちの方がいれば、下記の私のメールアドレスまでご一報頂けたら幸いだ。

kataken@able.ocn.ne.jp
※メール送信の際、@は半角にしてください。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

1月7日発売 2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

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