私は、刑罰の重さというのは、刑罰を科される人間の主観で決まるものだと思っている。というのも、たとえば同じ無期懲役判決でも、被告人が20歳の場合と80歳の場合では、明らかに重さが違う。20歳の被告人が無期懲役判決を受ければ人生の大半を獄中生活に費やすことになるが、80歳の被告人が無期懲役判決を受けたとしても、ものの数年で寿命のために服役を終える可能性も小さくないからだ。

死刑にしたって、被告人が20歳か、80歳かではずいぶん重みが違うし、被告人が重い病で余命いくばくもなく、安楽死を望んでいるような場合、死刑には刑罰としての意味がほとんどない。たまに現れる「死刑になりたくて人を殺した」という殺人者に対しては、死刑は国家が自殺志願者の自殺を手伝うような意味合いすら持ってしまう。

こうしたことから、私は「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考えるわけだが、そんな私がこれまでに会った様々な殺人犯の中で「最も重い刑罰」を受けた人物だと位置づけている男がいる。昨年暮れに最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した大阪ドラム缶遺体事件の犯人、鈴木勝明死刑囚(50)だ。

◆面会室では、とうとうと「冤罪」を訴えてきたが……

「ラジオで自分に関する報道を聞いていると、ありもしないことばかり言っています。警察はひどいですからね。殺人の証拠がないから、ぼくが最初に窃盗で逮捕された時から(自白させようと)殺人のことばかり聞いてくるんです」

2014年の秋、大阪拘置所の面会室。透明なアクリル板越しに向かい合うと、鈴木死刑囚は私に対し、とうとうと「冤罪」を訴えた。鈴木死刑囚は当時、すでに一審・大阪地裁堺支部の裁判員裁判で死刑判決を受けていたが、裁判では無実を主張しており、大阪高裁に控訴中だった。

鈴木死刑囚の犯行とされる大阪ドラム缶遺体事件の内容はおおよそ次のようなものである。

2004年暮れに失踪した大阪の会社社長・浅井建治さん(失跡当時74)と妻・きよさん(同73)の遺体と車が府内の貸ガレージで見つかったのは2009年秋のこと。ドラム缶に入れられた2人の遺体は激しく損傷しており、きよさんのほうは足を切断されていた。

大阪府警は捜査の結果、同11月、当時建設作業員だった鈴木死刑囚が建治さんの車などを盗んだとして窃盗容疑で逮捕。さらに同12月、きよさんの腕時計も盗んでいたとして再び窃盗容疑で逮捕する。そして翌年12月、ついに「本命」の強盗殺人の容疑で鈴木死刑囚を逮捕したのである。

これに対し、裁判で「冤罪」を訴え続ける鈴木死刑囚だが、公判廷で示された事実関係を見る限り、その主張は苦しかった。

まず、鈴木死刑囚は浅井さん夫婦の失踪直後、遺体が見つかったガレージを賃貸していた。遺体が入っていたドラム缶には鈴木死刑囚の指掌紋やDNAが付着。さらに事件当時、鈴木死刑囚は無職で、消費者金融に約300万円の借金を抱えていたうえ、事件後に浅井家にあった高級時計を50万円で質入れして返済にあてていたのだ。

一方、鈴木死刑囚は裁判で「闇金業者の2人の男に脅され、死体遺棄を手伝っただけだ」と主張していたが、その2人の実名すら特定できない……。

そんな苦しい冤罪主張を続ける鈴木死刑囚の実像をこの目で確かめたく、私は取材依頼の手紙を出したうえで面会に訪ねたのだが、鈴木死刑囚は面会中、私の目をあまり見ようとしなかった。捜査や裁判、マスコミに対する批判は口からどんどん出てきたが、終始うつむき加減で、おどおどした話し方なのも気になった。

それでも、「事件をちゃんと伝えてくれるなら、色々話すことも考えます」と言うので、切手やハガキのほか、便箋や封筒も差し入れた。だが、それから5カ月以上も音沙汰なしの状態が続いたのだった。

◆死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかない

鈴木死刑囚からいつまで経っても連絡がこないので、私は2015年2月、「また面会に行きたい」と手紙で鈴木死刑囚に伝えた。すると、ようやく返事の手紙がきたが、それには「捜査機関が真犯人を隠し、私に押しつけた」という主張と共に、「面会はしんどいし、辛いから断る」という意向が書き綴られていた。

〈今は、面会は出来ないです…… また、気持ち変われば、手紙しますので…… 草々〉

最後はそんな弱々しい言葉で結ばれていた鈴木死刑囚の手紙。その文面からは、冤罪を訴え続ける「罪悪感」に苦しんでいる様子が窺えた。そしてこの時、私は改めて面会中の鈴木死刑囚のおどおどした様子を思い出し、確信したのだ。鈴木死刑囚は死刑が怖くて仕方がないのだろう――ということを。鈴木死刑囚は、本当はクロなのに無実を訴えることに罪悪感はあるが、死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかないのである。

私はこれまで、死刑判決を受けた被告人に20人近く会ってきたが、その中でも鈴木死刑囚は誰よりも死刑を恐れている雰囲気が顕著だった。「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考える私は、それゆえに鈴木死刑囚こそが過去に会った死刑囚の中でも「最も重い死刑」の判決を受けた人物だと思うのだ。

死刑が確定した今、鈴木死刑囚は大阪拘置所の獄中で日々眠れぬ夜を過ごしているはずだ。

鈴木勝明死刑囚が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

報道を通じて誰でも知っているような事件であっても、その実相は案外知られてないことが少なくない。その最たるものが、あのロス疑惑だ。

80年代に日本全国の注目を集めたこの事件では、妻を保険金目的で殺害した疑いをかけられた三浦和義さんが裁判で無罪判決を勝ち取ったが、洪水のような犯人視報道の影響で今も三浦さんのことをクロだと思っている人は少なくない。

しかし実を言うと、三浦さんの裁判では、検察官が「三浦さん以外の真犯人を目撃した証人」を隠していたことが明るみに出ているのである。

◆報道の影響で今もクロだと思い込んでいる人が多いが……

のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が起きたのは、1981年11月のことだった。輸入雑貨商だった三浦さんは妻の一美さんと共に仕事と旅行を兼ねて米国ロサンゼルスに滞在中、駐車場で2人組の男に銃撃され、金を奪われた。一美さんは頭を撃ち抜かれて意識不明の重体に陥り、三浦さんも足を撃たれて負傷。その後、一美さんは一年余りの入院生活を送ったが、回復しないままに亡くなった。

そんな悲劇に見舞われた三浦さんは当初、重体の妻にけなげに尽くす「美談の人」としてマスコミに取り上げられていたが、1984年になり、事態が一変する。週刊文春が同年1月から始めた「疑惑の銃弾」という連載で、三浦さんが一美さんの死により1億5000万円を超す保険金を受け取っていた事実を指摘し、銃撃事件は三浦さんが保険金目的で敢行した自作自演の妻殺害事件である疑いを報道。これに他のマスコミも一斉に追随し、三浦さんは妻を殺害した疑いを連日、大々的に報道されるようになったのだ。

三浦さんはその後、妻殺害の容疑で逮捕され、一貫して無実を訴えながら一審・東京地裁では無期懲役判決を受けた。しかし、二審・東京高裁で逆転無罪判決を受け、2003年に最高裁が検察の上告を退け、無罪が確定する。元々、めぼしい証拠は何もなく、第一審の有罪判決も三浦さんが「氏名不詳者」に妻を銃撃させたとする無理な筋書きだったから、無罪判決は当然の結果ともいえた。それでもなお、今も三浦さんのことをクロだと思い込んでいる人が多いのは、膨大な犯人視報道の影響に他ならない。

だが、先にも述べたように、実際には、検察官はこの事件で、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人を隠していたのである。

◆真犯人の目撃証人を調べていたのは公判担当検事だった……

日刊スポーツ2008年2月24日付

裁判当時、三浦さんを支援していた男性によると、その目撃証人は、事件現場の駐車場で働いていた男性Sさん。弁護側は控訴審段階に現地で雇った探偵の調査により、Sさんの存在を知ったという。

「Sさんは『日本の捜査当局の調べも受け、犯人が現場から車で逃げ去るところなどを目撃したことを話した』と明かしてくれたので、弁護側は当然、検察官にSさんの調書の開示を求めましたが、検察官はそのような調書の存在を頑なに認めませんでした。しかし、裁判官がSさんを公判に召喚することを示唆し、検察官はようやく調書を開示したのです」(男性)

こうして、三浦さん以外の真犯人を目撃した証人の存在が公判廷で明るみに出たのだが、それと共に重大な事実が発覚したという。

「調書の存在を認めなかった公判担当の検察官自身がこのSさんの調書の作成者だったのです。裁判官はこれをきっかけに検察側に不信感を抱き、裁判の流れは一気に逆転無罪へと傾きました」(同)

このことを知っているか否かで、三浦さんやロス疑惑という事件に関する印象はずいぶん違うはずだ。私はかねてよりこの事実を知っているので、三浦さんのことは当然シロだと思っているし、ロス疑惑はマスコミや捜査機関によるデッチ上げの事件だと思っている。

◆三浦さんの死亡時にも卑怯な物言いをした山田弘司元検事

ロス疑惑の捜査、公判を担当した頃の山田弘司検事(1988年発行の「司法大観」より)

ところで、この証拠を隠していた検事については、許しがたいことが他にもある。というのも、三浦さんは2008年にサイパンを旅行中、日本で無罪確定した殺人の容疑で米国捜査当局に逮捕され、移送されたロス市警で非業の死を遂げたが、その時にこの検事はマスコミに対し、次のようなコメントを寄せていたのだ。

「日本での無罪判決に、釈然としない思いの人がいるのも事実。もう一度、実質的に審理されれば、有罪、無罪の結論はどうだろうと、理由が示されて、納得する人も、もう少し多くなるだろうと思っていた」(朝日新聞東京本社版08年10月12日朝刊)

「20年近く戦った相手だが、こういう事態となり、広い意味での『友人』だったという感じがした。ご冥福をお祈りしたい」(読売新聞西部本社版08年10月12日朝刊)

死んだ三浦さんが反論できないからこその卑怯な物言いである。

この検事の名は、山田弘司(こうじ)氏。三浦さんの公判を担当後は東京高検公安部長、函館地検検事正などを経て、最高検公判部長だった04年9月、58歳で辞職。その後しばらく杉並公証役場で公証人として働いており、このコメントを発したのもその頃だ。

私はこの6年後、山田氏のもとを訪ね、この三浦さんに対する卑怯な物言いや、真犯人に関する目撃証言を隠していたことに関して追及したが、山田氏は曖昧な言葉でごまかそうとするばかりで、自分の犯した過ちに誠実に向き合おうとする様子は見受けられなかった。

こういう人間が出世するのが検察という組織なのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

捜査機関が被告人に有利な証拠を隠す「証拠隠し」は、冤罪が起きる原因の1つとして批判されてきた。私が過去に取材した様々な冤罪事件を振り返っても、捜査機関による「証拠隠し」の疑いが浮き彫りになった事件はいくつもある。

中でも印象深いのは、10年余り前に東広島市の短期賃貸アパートで会社員の女性が探偵業者の男性に暴行され、死亡したとされる事件だ。私は取材の結果、この事件を冤罪だと確信するに至ったが、取材の過程では「別の真犯人」の存在を示す証拠を警察、検察が隠している疑いも浮上しているのだ。

◆短期賃貸アパートで見つかった遺体

東広島駅近くの短期賃貸アパートで被害女性(当時33)の遺体が見つかり、事件が発覚したのは2007年のゴールデンウィーク中のことだった。遺体はバスルームで発見されたが、服は着たままで、水をはった浴槽に頭から突っ込んでいた。顔面や頭部に鈍器で殴られた跡が多数あり、上唇が裂けるなどした無残な状態だったという。

被害女性の遺体が見つかった短期賃貸アパート

女性は事件発覚の少し前、現場の短期賃貸アパートを契約していたが、そのことは一緒に暮らす家族すら知らないことだった。ただ、事件後に女性の携帯電話がなくなっており、警察は当初から顔見知りによる殺人事件だと疑っていたようだ。そして事件発覚から約2週間後、1人の男性が殺人の容疑で検挙される。広島市でコンビニを経営しつつ、副業で探偵業を営んでいた飯田眞史さんという男性(同51)だ。

なぜ、飯田さんは疑われたのか。事情はおおよそ次の通りだ。

被害女性は事件前、妻子ある男性と不倫関係にあったのだが、そのことが男性の妻にばれ、トラブルになっていた。そして事件発覚の10日余り前、電話帳で探偵業を営む飯田さんの存在を知り、相談にのってもらっていたという。

警察が捜査を進める中、被害女性の携帯電話の発着信履歴や東広島市内のファミレスの防犯カメラ映像などから飯田さんが事件当日も被害女性と会っていたことが判明。さらに現場アパートの室内から飯田さんのDNAも検出され、警察は飯田さんを容疑者と特定したのだ。

飯田さんは逮捕後、事件当日に被害女性と会い、現場アパートに立ち入ったことは認めつつ、殺人の容疑は一貫して否認した。飯田さんによると、被害女性が家族にも告げずに短期賃貸アパートを契約したのも飯田さんの助言だったという。

「被害女性は、不倫相手の妻から慰謝料のほか、印鑑登録証明書の提出を求められており、印鑑登録証明書に記載された住民票の住所から不倫相手の妻に自宅を知られるのを嫌がっていました。そこで短期賃貸アパートを契約し、住民票の住所を一時的に移せば、印鑑登録証明書に記載される住所は短期賃貸アパートのものになると助言したところ、被害女性はその通りにしたのです。そして私は事件当日もアパートの室内で、被害女性に示談書の書き方を教えてあげていたのです」(飯田さんの主張の要旨)

しかし、飯田さんはこのような言い分を警察、検察に信じてもらえずに起訴され、裁判でも広島地裁の第一審では懲役20年の有罪判決を受ける。広島高裁の控訴審では、犯行時の殺意が否定され、傷害致死罪が適用されて懲役10年に減刑されたが、上告審でも無実の訴えを退けられ、懲役10年が確定。現在も山口刑務所で服役生活を強いられている。

飯田さんが服役している山口刑務所

◆被告人には一見怪しい事実があるにはあったが・・・

私がこの事件を取材したきっかけは、獄中の飯田さんから冤罪を訴える手紙をもらったことだった。飯田さんは当時、広島高裁に控訴中だったが、調べたところ、飯田さんには怪しいところが色々あるにはあった。だが、よく検討すると、色々ある一見怪しい事実は、飯田さんが犯人であることを何ら裏づけていないのだ。

たとえば、飯田さんは事件の数日後、埼玉で暮らす不倫相手の女性に現金書留で100万円を送っており、このお金について「事件当日に被害女性から預かったものだが、(不倫相手の女性には)車の購入資金として送った。被害女性には、あとで自分の預金から返せばいいと思った」と説明していた。これなどはかなり怪しさを感じさせる事実だが、よくよく調べてみると、飯田さんは金を送った不倫相手の女性に口止めなどはしておらず、金の送り方も現金書留を使っているなど非常に無防備で、犯人らしからぬ点が散見されるのだ。

また、現場アパートの室内から飯田さんのDNAが検出されたという話については、鑑定資料が血痕なのか、ツバなど血痕以外のものなのかで争いがあるのだが、いずれにしてもきわめて微量のDNAがテレビのスイッチに付着していただけのことだった。飯田さんは事件当日、被害女性に示談書の書き方を教えるためにアパートに立ち入ったことを認めており、このDNAはその時に遺留したと考えても何らおかしくない。

そもそも、飯田さんは被害女性と事件の10日余り前に知り合ったばかりで、被害女性の顔面や頭部を執拗に攻撃し、殺害しなければならない動機があったとも思いがたかった。そんなこんなで私はこの事件について、次第に冤罪の心証を抱くに至ったのだ。

そして取材を進める中、期せずして浮上してきたのが、捜査機関による重大な「証拠隠し」の疑いだ。それはすなわち、飯田さんとは別の真犯人が存在することを示す事実がありながら、警察、検察が握りつぶしたのではないかという疑惑である。

逮捕によって閉店に追い込まれた飯田さんのコンビニ

◆警察が「複数犯」を前提に「黒い車」を探していた謎

「警察はなぜだか、飯田さんの共犯者を探していました」「そういえば刑事が話を聞きにきた時、『あれは一人ではできない犯行なのだ』と言っていました」

私の取材に対し、飯田さんの周囲の人たちは異口同音にそう言った。つまり、警察は飯田さんを容疑者と特定しながら、この事件を複数犯の犯行だと思っていたということだ。

一体なぜなのか。謎を解く鍵は次のような証言だ。

「刑事から『飯田に黒い車を貸さなかったか?』と聞かれたので、貸してないと答えたら、その刑事、今度は『あなた以外で誰か飯田に黒い車を貸せるような人はいないか?』と聞いてきたのです。とにかく刑事は『黒い車』にこだわっていましたね」

これは飯田さんの知人男性から得られた証言だが、同様の証言は他でも複数得られた。これはつまり、警察が何らかの証拠に基づき、この事件は複数犯によるもので、犯行には黒い車が使われたと考えていたということだ。ちなみに飯田さんが乗っていた車の色は「白のスカイライン」である。

私は、おそらく事件現場周辺の「防犯カメラ」の映像などを根拠に、警察は犯人が複数存在し、犯行に黒い車を使っていたと断定していたのだろうとにらんでいる。そこで実際、事件現場周辺でそのような防犯カメラの映像を警察に任意提出した会社などがなかったか探してみたが、残念ながら現時点で見つけられていない。

私は今後もこの事件の取材は続けるつもりなので、もしも気になる情報をお持ちの方がいれば、下記の私のメールアドレスまでご一報頂けたら幸いだ。

kataken@able.ocn.ne.jp
※メール送信の際、@は半角にしてください。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

1月7日発売 2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

私はこれまで数多くの殺人犯を取材してきたが、取材させてもらった人物がのちに殺人犯になったという経験も1度ある。木原武士(事件当時42)という人物で、2003年に起きたフリーライター殺人事件の主犯格である。木原とは20年近く前に一度会っただけだが、その時のことは今も忘れがたい。

被害者の染谷悟さん(筆名=柏原蔵書)の著書『歌舞伎町アンダーグラウンド』(ベストセラーズ2003年)

◆インタビュー取材のために訪ねたが……

この事件の被害者・染谷悟さん(同38)は、柏原蔵書(くらがき)という筆名で「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著書があるフリーのライターだった。2003年9月、その刺殺体が東京湾で見つかり、ほどなく都内で鍵会社を経営する木原が2人の共犯者と共に検挙された。主犯格の木原は裁判で2006年に懲役16年の判決が確定したが、染谷さんを殺害した動機は、染谷さんが自分を誹謗する本を出版する計画だと聞いたことなどだとされる。

私がそんな木原に取材させてもらったのは、事件の数年前のことで、たしか1998~1999年頃だった。当時はピッキング被害が続発していた時期で、木原は「防犯アドバイザー」のような形でマスコミに頻繁に登場し、ちょっとした有名人だった。当時20代後半だった私は月刊誌の仕事で、そんな木原の元に成功体験を語ってもらうインタビュー取材に訪ねたのだ。

だが、実を言うと私はこの時、木原のもとに取材に訪ねながら、結果的に何も取材せずに記事を書いてしまったのである。というのも、私はこの日、下調べをほとんどしておらず、木原に対して要領を得ない質問を繰り返した。そんな私に苛立っていた様子の木原はこう言って、過去に取材を受けた雑誌記事のコピーを差し出してきたのだ。

「これを見て、書いてよ。よく書けている記事だから」

本当にその記事をほぼ丸写しにする形で原稿を書いた私もいい加減なものだが、木原は逆らわないほうが無難そうに感じさせる人物だった。

◆面倒見や金離れは良さそうだが……

そんな感じで木原への「取材」は10分程度で終わり、1時間かそこら四方山話をしたのだが、木原からは若い頃に派手に儲けた話や派手に遊んだ話を色々聞かされた。そして適当に話を合わせていたら、木原は「君は27歳か。いいなあ」と、こんなことを言い出したのだった。

「君は今、何をやっても楽しいだろう。俺も27くらいの時はそうだった。30代半ばを過ぎると、いくらお金があっても感動できなくなるんだよ。今、俺が君と替われるんだったら替わりたいもん」

当時は金回りが良かったとされる木原が人生に少々退屈している様子が窺えた。

被害者の染谷さんは元々、木原と良好な関係で、木原から金を随分引っ張りながら裏切り行為を続けて殺害されたように伝えられている。振り返れば、たしかに木原は「面倒見や金離れが良さそう」「怒らせると怖そう」という両方の雰囲気を感じさせる人物で、事件後の報道は得心できるものが多かった。

私は今もたまにこの時の木原の様子を思い出すが、そのたびに下手なことはしないでよかったとつくづく思う。と同時に、46歳になった今の私は、私の若さを羨んだ木原の当時の気持ちがわかるようになった自分に気づくのだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

重大な問題の答えが目の前にわかりやすく示されていると、人は案外、その答えを素直に信じられないものである。「こんな重大な問題の答えが、まさかこんなにわかりやすく示されているとは……」と妙な疑心暗鬼に陥ってしまうからである。

私が取材している冤罪事件の中にも、そのような状況に陥っている事件がある。無実の人が死刑執行された疑いが根強く指摘されている、あの飯塚事件がそれである。

◆無罪の立証に苦労を強いられているが……

1992年に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が何者かに殺害された飯塚事件で、殺人罪などに問われた久間三千年さん(享年70)は、捜査段階から一貫して無実を訴えていた。しかし2006年に最高裁で死刑が確定し、2008年に収容先の福岡拘置所で死刑を執行された。久間さんは当時、再審請求を準備中だったという話は有名だ。

そんな久間さんが冤罪を疑われる一番の理由は、あの「足利事件」との共通性である。

1990年に栃木県足利市で4歳の女の子が殺害された足利事件では、当時は技術的に稚拙だった警察庁科学警察研究所(科警研)のDNA型鑑定のミスにより、無実の男性・菅家利和さんが犯人と誤認されて無期懲役判決を受けた。久間さんも菅家さんと同時期、科警研のほぼ同じメンバーが行ったDNA型鑑定を決め手に有罪とされているため、鑑定ミスによる冤罪を疑う声が後を絶たないわけだ。

だが、久間さんの場合、科警研がDNA型鑑定に必要な試料を全量消費しているため、菅家さんのように再鑑定で冤罪を証明することはできない。そのため、現在行われている再審可否の審理では、弁護側はDNA型鑑定の専門家に科警研の鑑定写真を解析してもらったり、血液型鑑定や目撃証言を再検証したりするなど、無罪を立証するために多角的なアプローチをせねばならず、大変な労力を費やしている状態だ。

だが、実を言うと、久間さんの裁判で示された科警研のDNA型鑑定が間違っていたことは、すでに実にわかりやすく示されている。というのも、科警研のDNA型鑑定では、①足利事件の犯人、②菅家さん、③飯塚事件の犯人、④久間さんの四者のDNA型がすべて「同一」と結論されていたのだ。

◆科警研のDNA型鑑定では久間氏も菅家氏も「16-26型」

順を追って説明すると、こういうことだ。

足利事件、飯塚事件共にDNA型鑑定は、当時主流だったMCT118型検査という手法で行われている。その結果、足利事件の犯人、菅家さん、飯塚事件の犯人、久間さんの四者のDNA型はいずれも「16-26型」と判定されていたのだ。

ちなみにこのDNA型の出現頻度は、菅家さんの一審判決文では0.83%、久間さんの一審判決文では0.0170(1.70%)とされている。10の20乗分の1の精度で個人識別できるといわれる現在のDNA型鑑定に比べると精度はかなり低い。しかし、当時のMCT118型検査が本当にこの程度の精度で個人識別できていたとすれば、別人である菅家さんと久間さんのDNA型が一致し、さらに足利事件と飯塚事件の両事件の犯人まで同じDNA型であるという偶然が起こりうるだろうか?

そんな偶然が起きるわけがなく、これ1つとっても科警研のDNA型鑑定が間違っていたことは明らかだ。実際、足利事件のDNA型鑑定のほうはすでに間違っていたことが証明されているが、飯塚事件のDNA型鑑定だけは間違っていなかったということも考え難いだろう。死刑執行された人が冤罪か否かという重大な問題の答えは、かくもわかりやすく示されているわけだ。

久間さんの再審可否の審理は現在、福岡高裁で行われており、近く決定が出るとみられている。冤罪死刑により奪われた久間さんの生命は戻ってこないが、せめて一日も早く再審が実現し、久間さんの名誉が回復されなければならない。

久間さんの再審可否の審理が行われている福岡高裁

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

鹿砦社新書刊行開始!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』(総理大臣研究会編)

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

社会の注目を集めた殺人事件の犯人が裁判中に奇異な言動をしたことが報道されると、「刑事責任能力が無い精神障害者を装うための詐病」ではないかと疑う声があちらこちらでわき上がる。また、そういう大量殺人犯が実際に刑事責任能力を否定され、無罪放免になることを心配する人も少なくない。

だが、私の取材経験上、現実はまったく逆である。私はこれまで犯人の刑事責任能力の有無や程度が問題になった様々な殺人事件を取材してきたが、精神障害者のふりをしているように思える殺人犯はただの1人もいなかった。むしろ、明らかに重篤な精神障害を患っている殺人犯たちがあっさりと完全責任能力が認められ、次々に死刑や無期懲役という厳罰を科せられているのが日本の刑事裁判の現実なのである。

その中でも印象深かった殺人犯の1人が「大坂パチンコ店放火殺人事件」の高見素直だった。

現場のパチンコ屋があったビルの1階は事件後、ドラッグストアに

◆『みひ』や『マーク』への復讐だった……

高見は41歳だった2009年7月、大阪市此花区の自宅近くにあるパチンコ店で店内にガソリンをまいて火を放ち、5人を焼死させ、他にも10人を負傷させた。そして山口県の岩国市まで逃亡し、岩国署に出頭して逮捕されたのだが、犯行に及んだ動機については当初、次のように語っていると報道されていた。

「仕事も金もなく、人生に嫌気が差した」「誰でもいいので殺したかった」(以上、朝日新聞社会面2009年7月7日朝刊)

「誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いる所を狙った」「やることをやったので、罰はきちんと受けようと思い、出頭を決めた。死刑しかないと思っている」(以上、読売新聞大阪本社版2009年7月8日夕刊)

こうした報道を見て、負け組の40男が起こした身勝手な事件だと思った人は多かったはずだ。だが、2年余りの月日を経て2011年9~10月に大阪地裁であった裁判員裁判で、高見は次のような「真相」を明かした。

「自分に起こる不都合なことは、自分に取り憑いた『みひ』という超能力者や、その背後にいる『マーク』という集団の嫌がらせにより起きています。世間の人たちもそれを知りながら見て見ぬふりをするので、復讐したのです」

重篤な精神障害を患っていることを疑わざるを得ない供述だが、このように高見が「超能力者の嫌がらせ」を訴えていることはほとんど報道されていない。そのせいもあり、当初はこの事件の取材に乗り出していなかった私がこのような高見の供述を知ったのはかなり遅い。高見がすでに一、二審共に死刑判決を受け、最高裁に上告していた頃、私はようやく一審判決を目にし、高見が法廷でこのような奇想天外な供述をしていたのを知ったのだ。

高見が出頭した岩国署

◆統合失調症だったと診断されても死刑

一、二審判決によると、高見は捜査段階から3度、精神鑑定を受けていた。その中には、高見が妄想型の統合失調症だと診断し、「善悪の判断をし、それに従って行動することは著しく困難だった」との見解を示した医師もいたという。

また、他の2人の医師も高見について、統合失調症だとは認めなかったものの、覚せい剤の使用に起因する精神病だと判定し、高見が「『みひ』や『マーク』のせいで、自分の生活がうまくいかない」という妄想を抱いていたのは認めていたという。

それでいながら高見は一、二審共に完全責任能力を認められ、死刑判決を受けていた。そのことを知った私は最高裁で、高見の上告審弁論が開かれた際に傍聴に赴いた。そこで弁護人が繰り広げた弁論は独特だった。

「いま、イスラム国が人質の首を斬り落とす場面の映像をユーチューブで見て、残虐だと思わない日本人はいません。それ同じで、いま、絞首刑が執行される場面の映像をユーチューブでアップすれば、残虐だと思わない日本人はいないはずです」

つまり、弁護人は絞首刑について、公務員による残虐な刑罰を禁じた憲法第36条に反すると主張したのだが、そのためにイスラム国を例に持ち出したのはわかりやすいといえばわかりやすかった。

◆「今もそばにいます」

そして弁護人は最後にこんなことを訴えた。

「先日、高見さんに接見した際、「『みひ』や『マーク』はどこにいますか?と尋ねてみたのです。すると、高見さんはこう答えました。『今もそばにいます』」

最高裁の法廷には被告人は出廷できないので、その場に高見はいなかった。そこで高見と実際に会い、本人の病状を確かめてみたいと思ったが、収容先の大阪拘置所で何度面会を申し込んでも、高見は一度も応じてくれなかった。ただ、弁護人の弁論を聞く限り、かなり重篤な精神障害を患っているのは確かだろう。

しかし結局、最高裁は2016年2月、犯行時の高見に完全責任能力があったと認め、上告を棄却して死刑を確定させた。「動機形成の過程には妄想が介在するが、それは一因に過ぎない」。それが最高裁の山崎敏充裁判長が示した見解だった。

このように重篤な精神障害者はどんどん刑事責任能力を認められ、厳罰を科されていく。それが日本の刑事裁判の現実なのである。

高見が死刑囚として収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

社会を騒がせた凶悪殺人事件の犯人と実際に会ったり、手紙のやりとりをしてみると、案外弱々しい人物だったり、礼儀正しい人物だったりすることが少なくない。数年前に何度か手紙のやりとりをした松戸女子大生殺害事件の犯人、竪山辰美(事件当時49)もそうだった。

もっとも、竪山の場合、大変礼儀正しい印象の手紙を書いてくる一方で、ある大きな「ズレ」を感じさせる人物でもあった。

◆「凶悪犯と思われても仕方ない」

「私の人物像は凶悪というほかないように描写されても仕方ないと思います。そう思われても仕方ない事件を起こしたのですから」

これは、現在は無期懲役囚となった竪山から4年ほど前に届いた手紙の一節だ。私が「報道などでは、あなたは凶悪というほかない人物であるように描写されているが、本当はどんな人物なのか取材させて欲しい」と手紙を出したところ、当時裁判中だった竪山は返事の手紙にこんな自省的なことを書いてきたのだ。

その手紙には、丁重な取材お断りの言葉が綴られ、私が手紙をやりとりするために送った切手シートが「お返し致します」と同封されていた。正直、この律儀さには感心したが、一方で竪山が凶悪殺人犯であるのもたしかだ。

竪山は2009年10月、千葉県松戸市で千葉大学4年生のA子さん(同21)が暮らすマンションの一室に押し入り、包丁で脅して現金5千円とキャッシュカードを奪ったのち、A子さんを刺殺。さらに証拠隠滅のために部屋に火を放った。

強盗や強姦の前科があった竪山は当時、1カ月半前に服役を終えたばかり。出所後はA子さんを襲う前も強盗や強姦を繰り返していた。千葉地裁の裁判員裁判では2011年6月、「更生の可能性は著しく低い」と断じられて死刑判決を受けたが、それも当然のことだと思われた。

だが2年後、竪山は東京高裁の控訴審で、殺害された被害者が1人であることなどを根拠に無期懲役に減刑され、再び世間を驚かせる。私が竪山に取材依頼の手紙を送ったのはその頃だった。

竪山が裁判中に勾留されていた東京拘置所

◆「殺意については、冤罪という気持ち」

私は竪山が死刑を免れ、安堵しているだろうと思っていたが、手紙には冒頭のような律儀な言葉と共に裁判への不満も綴られていた。

「解剖結果の鑑定そのものが間違いであるという他の医師の鑑定書があるにもかかわらず、それを控訴審は証拠として取り上げず、証人尋問すら却下されたのです。死刑が問われる事案でありながら、あまりにもずさんな裁判であったと思っています」

竪山によると、A子さんに対して殺意はなく、誤って刺して死なせたのが真相という。そのため、控訴審判決で解剖医の鑑定を根拠に殺意を認定されたことが不満らしかった。それにしても、死刑判決に不満を言うならまだしも、死刑を回避した控訴審判決に不満を言うとは、死刑判決を望んでいた被害者遺族が聞いたら激怒するのは間違いないだろう。

その後、インターネット上で配信されていた竪山の裁判に関する記事を送ったら、この時も返事の手紙に丁寧なお礼が綴られていた。一方で、「私にしたら殺意については、冤罪という気持ちです」という恨み言が改めて綴られており、私は複雑な気持ちになった。

私はこれまで様々な凶悪事件の犯人と会ってきたが、その中に「悪人」だとしか思えないような人物はいなかった。しかし、善悪の基準が現代の一般的な日本人とズレているように思える人間はたまにいる。竪山はその代表的な人物の一人だ。

竪山に死刑が宣告された千葉地裁。その死刑判決は控訴審で破棄されたが……

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

福島県郡山市で暮らす元介護施設職員の60代の女性が、強盗殺人事件の裁判員を務めて急性ストレス障害に陥ったなどとして、国に慰謝料200万円を求める訴訟を福島地裁に起こしたのは2013年5月のこと。この国家賠償請求訴訟は2016年10月に最高裁で女性の敗訴が決まったが、女性がこの訴訟の中で訴えていた重大な事実はほとんど報道されないままだった。

それは、「死刑」という結論を出した裁判員裁判の杜撰な評議の内幕だ。

◆血だらけの首の肉の部分を思い出し……

問題の裁判員裁判は2013年3月、福島地裁郡山支部で行われた。強盗殺人などの罪に問われた被告人の髙橋明彦(48)は、2012年7月に会津美里町の民家に侵入して住人夫婦を殺害し、現金やキャッシュカードを盗んだとして死刑を宣告された。その後、2016年に最高裁で死刑確定している。

国賠訴訟における女性の訴えによると、その裁判員裁判の審理では、血の海に横たわる被害者らの遺体を見せられたり、ナイフで刺された妻が消防署に電話で助けを求める声が再生されたりした。そのせいで女性は急性ストレス障害に陥ったという。

「血だらけの首の肉の部分を思い出し、吐き気がするため、スーパーでは肉売り場を避けて通ります」

「今もフラッシュバックは続き、血の海で家族が首に包丁を突き立てて横たわり死んでいる夢を見ます」

「音楽を聴いていると、音楽の代わりに被害者の断末魔の声がお坊さんの読経と一緒に聞こえてきます」

このように女性が国賠訴訟で訴えた被害は悲惨極まりない。それに加えて女性が訴えていたのが、死刑が選択された裁判員裁判の評議の杜撰な内幕だった。

事件の現場となった会津美里町の集落

◆死刑という結論は最初から決まっていた

「死刑判決を下したことに間違いはなかったのか、反省と後悔と自責の念に押しつぶされそうです」

女性は国賠訴訟に提出した陳述書で、そう訴えた。この陳述書では、たとえば次のような唖然とする話が明かされている。

「評議の多くの時間は、永山基準に沿って行われましたが、永山基準に関する具体的な説明はありませんでした」

永山基準は、最高裁が1983年に永山則夫元死刑囚(1997年に死刑執行。享年48)に対する判決で示した死刑適用の判断基準。動機や犯行態様、殺害被害者数などの9項目を考慮し、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとする内容だ。

しかし、普段裁判に関心のない人がそんなことは知らないだろう。本当に永山基準に関する具体的説明もないまま、永山基準に沿って評議がされたのなら、話についていけない裁判員もいたかもしれない。

また、陳述書によると、評議の際に裁判員に渡された用紙に、「1―犯罪の性質」から「9―犯行後の情状」まで永山基準の9項目がプリントされていた。女性はこのうち、「前科」という項目に疑問を抱き、裁判長にこんな質問をしたという。

「被告人には前科がありませんが、削除すべきではないですか」

しかし裁判長は、「前科の有無に関係なく、これだけ残虐なことをしたのだから」と言ったという。女性は陳述書で、この時の気持ちをこう振り返っている。

「裁判長の回答を聞き、この事件の結論は最初から決まっていて、『死刑判決』という軌道の上を裁判員が脱線しないよう誘導しているだけの裁判なのだと確信しました」

それ以降、女性は質問しても無駄と悟り、疑問があっても一切、裁判長に質問しなかったという。

「今考えると、自分の考えは(死刑判決の)どこに反映されたかわからない」

女性は陳述書でそう吐露している。急性ストレス障害と診断した医師からは「殺人現場や遺体に関する記憶は時間が経てば薄れるが、死刑判決を下した自責の念は一生消えない」と告げられたという。

髙橋明彦死刑囚が収容されている仙台拘置所。ここで死刑執行される可能性がある

◆マスメディアは知りながら報道しなかった

さて、この女性が起こした国賠訴訟はテレビや新聞で大きく報道されている。しかし、報道では、女性が被害者の遺体や殺人現場を見せられて急性ストレス障害に陥ったと伝えられた一方で、この国賠訴訟の中で女性が評議の杜撰な内幕をここまで詳細に告発していたことは伝えられてこなかった。それゆえにこの女性の告発を知る人は少ないはずだ。

かくいう私もこの女性の告発を知ったのは、すでに控訴審も終わっていた時期、仙台高裁で訴訟記録を閲覧したことによる。この時に驚いたのは、記録の末尾に綴じられた閲覧の申請書を見ると、テレビや新聞の記者たちがこぞってこの記録を閲覧していたことである。

つまり、テレビや新聞の記者たちは、女性が裁判員裁判で死刑判決が出るまでの杜撰な評議の内幕を告発していることを知りながら、報道を見合わせていたのである。

それはもしかすると、評議の内幕に関しては裁判員に守秘義務があることへの配慮なのかもしれない。しかし、裁判員経験者が評議の内幕を告発した国賠訴訟の記録が裁判所で「閲覧可能」の状態になっているということは、他ならぬ司法当局が裁判員裁判の評議の内幕を公開しているわけである。それを報道して悪いわけがない。

死刑判決が出た裁判員裁判において、評議がこれほど杜撰なものだったということは、むしろ報道しないほうが問題だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

〈私の人生は、一言でいって、幸せでした。さいたまにいた10年間を省けば、私はいつも色々な方から優しくされ、助けられて生きてきました。そして、さいたまにいた10年間も、人生に後悔や未練を残さない為に、やりたい事を好きなだけ、やってきたので、大変満足しています〉

これは、2008年に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人・小泉毅(54。現在は死刑囚として東京拘置所に収容中)が獄中で綴った計39枚に及ぶ手記の一節だ。これを書いた頃、小泉は裁判中だったが、1、2審共に死刑判決を受けており、そのまま死刑確定するのが確実な状況だった。そんな時期、小泉はなぜ、自分の人生が幸せだったと振り返ったのか。

犯行に及んだ経緯やその時々の考えが詳細に綴られた小泉の獄中手記

それをみる前に、まずは事件の経緯を簡単に振り返っておこう。

◆ 動機は「保健所で殺処分になった愛犬チロの仇討ち」

小泉が旧厚生省の事務次官宅を相次いで襲撃する事件を起こしたのは2008年11月のことだ。まずは17日夜、さいたま市南区の山口剛志さん(当時66)宅に押し入り、山口さんと妻の美和子さん(同61)を包丁で刺殺。続いて翌18日夜、東京都中野区の吉原健二さん(同76)宅に押し入り、1人で自宅にいた吉原さんの妻、靖子さん(同72)の胸などを包丁で刺して重傷を負わせた。

そんな事件は当初、年金制度に不満を持つ人物らによる「テロ」とみられたが、同22日に警視庁本庁に出頭して自首した小泉が明かした犯行動機は誰も予想できないものだった。

「チロちゃんの仇討ちをしたのです」

小泉によると、34年前、自宅で飼っていたチロという犬が野犬と間違われて保健所に連れていかれ、殺処分になったという。小泉はその恨みを晴らすため、犬の殺処分に関して定めた狂犬病予防法を管轄する厚生労働省の元トップを襲撃した――とのことだった。

そんな前代未聞の自白をめぐり、マスコミは当時、「本当にそんな理由で人の命を奪ったのか」と一斉に疑問を投げかけた。インターネット上では、小泉のことを頭のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ。

私はそんな小泉の実像が知りたく、裁判が上告審段階になった頃から東京拘置所に収容中の小泉と面会や手紙のやりとりを重ねた。そうした取材を通じ、小泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるものの、むしろ知的能力は高い人物だと思うようになっていった。

◆ 「仇討ち」に至る経緯と自首の理由

小泉は62年、山口県の柳井市で生まれた。愛犬チロが保健所で殺処分になる悲劇に見舞われたのは、中学入学直前の1974年春のことだった。その後、くしくも保健所の向かいにある県立柳井高校に進学したことが小泉の運命を大きく変えたようだ。

「高校時代の私は毎日、登下校の際に保険所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです。当初、仇討ちの相手と考えたのは政治家でしたが、大学入学後、日本の支配者が政治家ではなく官僚だと知りました。そして50歳まで普通に生き、人生にやり残したことがない状態にしたうえで、厚生事務次官経験者を狙った仇討ちを決行すると決めたのです」

実際に小泉が「仇討ち」を決行したのは46歳の時だ。小泉は当時、勤めていたコンピューター会社を辞め、ネットで株投資をして暮らしていた。計画を前倒ししたきっかけは05年12月、タクシーに接触された事故で左ヒザと右アキレス腱を負傷したことだという。

「私はこのケガにより体力に自信をなくし、『50歳になるまで待てない』と思い、仇討ちの時期を早めたのです」

そして小泉は国立国会図書館で歴代厚生事務次官たちの住所を調べ、その中から「住んでいたアパートから近い」などの理由で選んだ2人の家を襲撃した――。

では、なぜ、小泉は犯行後、自首したのか。小泉は理由をこう語った。

「私はチロちゃんの仇討ちは果たしました。次は裁判で無罪を主張することにより、保健所で苦しみながら殺された何百万、何千万の犬や猫の代弁者となり、“ペット虐殺行政”を批判しようと考えたのです」

小泉は裁判で「私が殺したのは、人間ではなくマモノとザコです」と主張し、無罪判決を求めているが、その狙いは“ペット虐殺行政”を批判することだったのだ。

と言われても、おそらくピンとこない人が少なくないだろう。しかし実をいうと、全国の動物愛護家の中には、この小泉の考えに共感した者が少なくなかったのである。

小泉が憎しみを募らせた柳井市の保健所

支援者たちは署名サイトでも小泉の減刑を求める署名を集めた

◆「小泉さんは革命者」

マスコミは黙殺したが、最高裁の判決が迫った頃、小泉を支援する動物愛護家たちが小泉の減刑を求める署名活動を行っており、集まった署名は1500筆を超えていた。14年6月、最高裁が小泉の上告を棄却し、死刑を事実上確定させた公判にも10人前後の支援者たちが傍聴に来ていたが、誰もが裁判の結果を心底悔しがっていた。

ある女性支援者は涙をポロポロこぼしながら、こう語っていた。

「小泉さんは革命者だと思います。将来、日本にも海外にあるような本格的なペットシェルター(飼い主に捨てられた動物を保護し、新たな飼い主を見つけるための施設)ができたら、私は“コイズミ館”と名づけたいと思います」

小泉はこのように多くの人に愛された。それゆえに、手記で自分の人生を「幸せ」だったと綴ったのだ。

死刑確定後、東京拘置所は小泉の処遇を変え、私は小泉と面会や手紙のやりとりができなくなった。だが、小泉は今も幸せな気持ちで過ごしていると思う。


◎[参考動画]元厚生事務次官ら連続殺傷事件 「ほかにも殺害計画していた」(TOKYO MX 2008年11月24日公開)


◎[参考動画]1990年11月23日にテレビ朝日が報じた元厚生事務次官宅連続襲撃事件(AutumnSnakeArchive2009年2月16日公開)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

2009年に始まった裁判員裁判では、すでに30件を超す死刑判決が宣告されている。その中でも異様さが際立っていたのが、2011年に東京地裁であった裁判員裁判で無実を主張しながら完全黙秘した伊能和夫だ。伊能は2013年に東京高裁の控訴審で無期懲役に減刑され、2015年に最高裁で無期懲役が確定したが、控訴審以降も公判では一言も言葉を発さなかった。

しかし、私が裁判中に面会に訪ねたところ、実際の伊能はむしろ冗舌な男だった──。

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

◆無実の主張は本気?

事件の経緯から振り返っておく。

東京・南青山にあるマンションの1室で、住人の飲食店経営者の男性(同74)が首を刃物で切られ、死んでいるのが見つかったのは2009年11月のある日のことだった。そして翌年1月、警視庁が強盗殺人の容疑で検挙したのが当時59歳の伊能だった。伊能は88年に妻(同36)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

伊能はその後、裁判員裁判で無実を主張しながら死刑判決を受け、控訴審で無期懲役に減刑されたが、公判では一言も言葉を発せず、完全黙秘したというのはすでに述べた通りだ。私がそんな伊能の実像を知りたく、収容先の東京拘置所まで最初に面会に訪ねたのは、伊能が最高裁に上告していた2014年3月のことだった。

伊能はその日、紺色のスウェット上下という姿で面会室に現れた。白い頭髪を短く刈った小柄な人物だった。

お互い椅子に腰かけ、アクリル板越しに向かい合っても、伊能は宙を見たまま視線が定まらず、体をプルプルと震わせていた。顔はやせ、歯が何本も欠けており、眉毛も多くが抜け落ちていた。

「パーキンソン病なんです……」と伊能は言った。面会室での伊能はつぶやくような話し方をするため、声は聞き取りづらいが、その口からは言葉が次々に出てきた。

まず、単刀直入に裁判中の事件の犯人なのか否かを質問したところ、伊能は「全部やってないですから……自分は無罪ですから……」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです……」

「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています……」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いてます……」

私は正直、伊能の無罪主張や裁判批判はピンとこなかった。裁判では、現場マンションの被害者宅室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思いがたかったからだ。

ただ、伊能本人は本気で自分を無実だと思っているようにも感じられた。そこで、まずは手紙で事件の真相を教えてもらえないかと依頼すると、伊能は「1日に1枚か、2枚かなら・・・」と承諾してくれた。これをうけ、私が「では、便せんと封筒を差し入れておきます」と言うと、伊能はこんなことを言ってきたのだった。

「ついでに甘い物を・・・あと、お金も少し・・・今、3千円しかないんで・・・」

正直、金銭の要求に心の中がモヤッとしたが、私は面会を終えると、拘置所1階の売店から伊能に便せん、封筒と共にみかんの缶詰や現金2千円を差し入れた。しかしその後、待てど暮らせど、伊能から届くはずの手紙は届かなかった。

伊能が収容されていた東京拘置所

◆証拠は「全部偽物」

約7カ月後、私は再び伊能の面会に訪ねた。伊能はこの日、刑務官が押す車椅子で面会室に現れた。「体調が悪いんですか?」と聞くと、目は宙を見つめたままだが、「大丈夫。薬、もらってるから」と口元をほころばせた。この日は事件に関する疑問も率直にぶつけたが、伊能はよどみなく答えた。

── 裁判はその後どうですか?

「1審も2審も何もしゃべらんかったから、今は色々書いてます。何もかもが偽物の証拠やから」

── 伊能さんの靴に被害者の血がついていたそうですが?

「あんなのは偽物の証拠ですわ」

── 伊能さんの掌紋が現場で見つかったという話は?

「全部偽物の証拠ですわ」

── 現場近くの防犯カメラには伊能さんの姿が映っていたそうですが……。

「あんなのは全部人間が違うんです。1メートル80センチくらいあったり、1メートル50センチや60センチだったりするんですから」

── 事件直前に伊能さんが包丁を買っていたという話もありますが?

「買うわけない」

つまり伊能によると、有罪証拠は何もかもが捜査当局の捏造だというわけだ。「では、裁判で黙秘した理由は?」と尋ねると、伊能は「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言い切った。本気で自分を無実と思っているのか否かは今も断定しづらいが、罪悪感を覚えていないのは確かだと思えた。

そして面会時間が終了し、私が辞去しようとした時、伊能はこう言ってきた。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か」

さらに「大福餅があったら入れて」と付け加えられ、私はまた心の中がモヤッとしたが、ともかく現金1千円と大福餅、チョコパイを差し入れた。ただ、この日以来、伊能の面会に訪ねる意欲を失った。

◆初めて届いた手紙で「金一ぷう」を催促

伊能から初めて手紙が届いたのは約3カ月後、最高裁が控訴審の無期懲役判決を追認する決定をした今年2月のことだ。それには、再審請求をする意向や、息子や親戚たちが自分の味方になってくれているという真偽不明の話が綴られたうえで「案の定」なことが書かれていた。

〈金一ぷうを、ごかんぱしてください。たとえ1万円でも2万円でも、よろしいのですので。〉(原文ママ。以下同じ)

現金の差し入れを求めてきた伊能の手紙 (修正は筆者)

この図々しさにはあきれたが、手紙の末尾には〈親愛なる片岡様、ごかぞくの、お幸せと、ごけんこうを、心から、お祈りいたします。〉〈近々には、かならずや、片岡様との、ご面会が、ととのうよう心から、お待しております〉などと嘘くさいことが恥ずかしげもなく綴られており、苦笑させられた。殺人犯にこんなことを言うのは気が引けるが、愛嬌のある人物ではあった。

この時も現金1000円を同封し、「服役先が決まったら連絡して欲しい」と書いた手紙を伊能に送ったが、当然のごとく現在まで返事は届かない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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