中国武漢での新型コロナウイルスによる肺炎流行で、在留邦人の緊急帰国(希望者)となった。政府チャーター便での帰国である。往路は中国への支援策として、マスク2万枚、防護服50セットが運ばれたという。まだ正体のよくわからない新型ウイルスが発生した緊急時に、日本政府の対応はひさしぶりに頼もしいと感じさせた。


◎[参考動画]武漢からの帰国便 到着後の乗客への対応は?(2020/01/29)

と思っていたところ、チャーター便の搭乗料が8万円(正規料金を徴収予定)だという。帰国希望者とはいえ、災害のような流行病からの退避に、8万円もの搭乗料を取るというのだ。帰国した人々は診断を受けたうえで発熱や病状がない場合も、政府が借りたホテルに2週間収容されることとなった。これも宿泊費を徴収するのであろう。ネットでは「8万円払えない人は帰国できなかったのか?」という声が挙がっている。じっさいに、武漢で乗り込む前に「払えない人は帰国できないのか」と揉めたという。

てっきり「邦人保護」として行われていると思っていたら、そうではなかったのだ。外務省は「平常時の帰国支援であって、邦人保護では今回のような大量のケースは想定していない」「内戦や武力攻撃などとは異なる」との見解だという。ちなみに邦人保護費は年間351億円である。

それにしても、安倍総理主催の「桜を見る会」では、2014年度は3,005万円、2015年度は3,841万円、2018年度に5,229万円、2019年度は5,519万円の国家予算を使っている(参加無料)。今回の武漢からの帰国希望者は600人と言われているので、「桜を見る会」よりも安い4,800万円である。これをみただけで、この国の運営が政権のためには血税をジャブジャブ使い、疫病の災禍に見舞われた国民には自腹を強いる。血も涙もないものだということがわかる。

さすがに、この冷酷きわまりない政府の措置には与党内からも批判の声が挙がっている。

自民党の二階俊博幹事長は「突然の災難だ。財政的な問題はあるが、惜しんでばかりではいけない。本人だけに負担させるのではなく国を挙げて対応するのは当然だ」と強調した。公明党の山口那津男代表も党の中央幹事会で「緊急事態でやむを得ず帰国を余儀なくされた方々だ。政府が負担すべきだ」と語っている。当然の反応であろう。

そもそも集団帰国(チャーター便)は、武漢の閉鎖という中国当局の措置によって、帰国ができなくなった邦人を保護するものだ。集団で動くことで、ウイルスの拡散を防ぎ、帰国後も一定の隔離をもって疫病のコントロールをするためである。その防疫政策の費用を、国民個人に自腹で負担しろと政府外務省は言っているのだ。


◎[参考動画]チャーター機費「政府が負担を」8万円の請求方針に

◆1億円でどんちゃん騒ぎも

かつて、中東で邦人がイスラムゲリラの人質になったとき、外務省の職員がチャーター便で現地に飛んだことがある。そのときの予算は1億円。現地のホテルのフロアを借り切ったというのだから、派遣されたのは数十人だったのだろう。紛争地域の近くに行くのだからご苦労なこととは思うが、ホテルで連日どんちゃん騒ぎをしていたという。いうまでもなく「邦人保護費」から出されているはずだ。そのうえ、派遣の実効性は疑わしかった(関係者談)などを聞くと、とくに外務畑の予算は「機密費」をふくめて、お手盛りなのだろうと想像がつく。

この季節、中国旅行(4泊5日、東方航空使用の往復旅費込み)は8万円ていどである。民間航空機(全日空)の運賃が下げられないというのなら、どうして政府専用機を使わないのか。ここにも総理が招待する「上級国民」とその他の国民(平民)という扱いがあるのだから、この政権のもとでの日本には身分制があるということになる。


◎[参考動画]チャーター機乗客検査拒否に安倍首相「大変残念」 2便以降は確かな形で

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

年明けから横浜地裁で公判が始まった相模原知的障害者施設殺傷事件の植松聖(29)に対する裁判員裁判。マスコミは連日、競うように公判の様子を報道しており、知的障害者19人が殺害され、他にも26人が負傷した大事件は再び社会の注目を集めている。

だが、報道の量は多いわりに、世間にまったく伝えられていない重要なことが1つある――。

◆筆者が面会室で植松から聞いた答えは・・・

「意思の疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」

2016年7月、犯行後に警察に自首した植松は、そう供述し、社会を激怒させた。そして起訴後、横浜拘置支所でマスコミの面会取材を受けるようになると、マスコミは判で押したように植松が面会室で「身勝手な主張」をしていると報じた。これは植松にとって、決して喜ばしいことではないだろう。

しかし、植松は裁判員裁判の公判が始まって以降も以前と変わらず、マスコミの面会取材を受け続けている。なぜ、批判的に報じられるばかりなのに、マスコミの面会取材を受け続けるのか。筆者が以前、横浜拘置支所で植松と面会した際に聞き出した答えはこうだ。

「私は、マスコミの取材を受けることにより、自分の主張を広めたいと考えているのです」

マスコミ報道により「身勝手」な人間であるように印象づけられた植松だが、実際に会って話してみると、実は「独善的」と評したほうが適当な人物だ。なぜなら、自分のしたことを正しいと本気で信じているからだ。だからこそ、自分の主張を広めるため、犯行後は死刑になることを覚悟のうえで警察に自首し、マスコミの面会取材を受けようとしたのだ。

植松は、筆者の目を見すえ、真顔でこう言った。

「私も死は怖いですが、自分の生命を犠牲にしてでも、やらないといけないと思ったんです」

筆者は植松の考えに賛同するわけではないが、植松がマスコミを通じて自分の主張を広めることに文字通り、生命を賭けているのは間違いない。このことは当然、筆者だけでなく、植松に面会取材したマスコミの記者たちも気づいているはずだ。それなのになぜ、「植松聖が面会取材を受ける理由」を伝える報道が見当たらないのだろうか。

マスコミが植松の面会取材に殺到している現状は、ある意味、植松の狙い通りだと言っていい。面会取材をしているマスコミの記者たちがそのことを世間の人たちに知られたくないと思うのもわかる。しかし、植松聖という特異な殺人犯の実像を正しく伝えるためには、「植松聖が面会取材を受ける理由」も欠かせない情報であるはずだ。

植松の裁判員裁判が行われている横浜地裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆政治組織への業態変化で生き延びる

三代目山口組の組織拡大が、変化する時代のニーズに合致した組織経営にあったのは、それでも例外的な成功であった。大半の極道組織は大規模な組織に系列として吸収されるか、地場にとどまって今日でも小規模な生業を維持している。

戦後の極道組織が山口組のような組織体質の刷新もなく、それでも今日まで生き延びてきた理由は、くり返しになるが政治組織への業態変化をあげておく必要があるだろう。極道業界の今後の命運を暗示するキイワードでもある。

三代目山口組が近代的な産業組織を胎内に熟成させつつあったころ、日本は高度経済成長前夜の動乱期にあったことはすでにこの連載で書いたとおり。社会的な混乱の要因は、共産主義革命の胎動である。1950年代の共産党武装闘争を経験した中には、軍隊経験のある人は当時の火炎瓶闘争や拳銃での武装を述懐して、あんなチャチな武器を使った戦争ごっこで、圧倒的な米軍に支えられた国家権力が転覆するとは、どうしても思えなかったと言う人もいるが、本気だった人も大勢いたのである。

◆鉄道雪だるま闘争──武装蜂起して九州を極東革命の拠点にする

九州で鉄道雪だるま闘争を経験した老練な左翼活動家の話によれば、朝鮮戦争が勃発したときは本気で革命が起きると思っていたのだという。マッカーサーの仁川上陸で中国の義勇軍が参加する前のことだが、やがて朝鮮半島から駆逐されたアメリカ軍が小倉に逃げてきて、それを追って金日成の人民軍が九州に渡ってくる。まるで古代大和政権の時代にもどったような戦争観だが、考えているほうは本気なのである。

そうなれば在日朝鮮人をふくむ日本の共産主義勢力は国際共産主義者の任務として、九州で武装蜂起して極東革命の拠点にする、などということが数カ月後には確実にやってくると、本気で計画されていたらしい。

このときおこなわれた鉄道雪だるま闘争というのは、ストライキの拠点に列車に乗ったオルグ団を派遣し、そこで入れ代わりに運転士を貨車に乗せて、次々と拠点を確保していく戦術で、中津や門司、鳥栖の各機関区をそうなめにして列車ストを拡大するのである。今ほど道路が整備されていないので、当時は鉄路を支配する力がものを言う。

◆極道組織を日米安保賛成の「国民運動」に参加させた政治家たち

このほかにも集団で警察署を襲い(菅生事件のようなデッチあげとされるものも多い))、署長以下をつるしあげて一般刑事犯をふくめた拘置されている人を解放する、とかの戦術も盛んだった。港湾労働者や炭鉱労働者も例外ではなくて、三代目山口組の組織する労働組合が革命に対抗する勢力として期待された理由がここにある。

鉄道関係ではのちに下山事件(国鉄総裁の轢死事件)や三鷹事件(無人列車の暴走)などの謀略で、組合員が大量に処分されたり共産党関係者が逮捕されたりということもあったが、GHQと日本政府にとっては60年安保にいたる過程は国家存亡の危機と感じられていた時代である。

そこで、政治家たちは左翼の暴力に対抗する手段として、極道組織を日米安保賛成の国民運動に参加させたのである。国民運動といえば聞こえはよいが、その実態は全学連のデモ隊に武器を満載したトラックで突っ込むだとか、労働者や市民の集会を攪乱するなどの手段であって、各所で流血の武装衝突も起こっている。

極道の各組織が神棚の天照大神、八幡大菩薩、春日大明神などの御符のほかに、国家主義のスローガンを掲げるようになったのは、じつはこれが四度目である。最初は明治の初期に身分制度が攪乱された騒擾の時期で、これは士族の不満分子を背景に藩閥政府への反乱(自由民権運動)や、いっぽうでは明治政府にしたがう勢力も少なくなかった(清水の次郎長)。

大正期の一時期にモダニズムの流行に乗って政治的右翼に看板替えをした、今日の生業の原型ともいうべき総会屋ふうのヤクザ組織があらわれたのが第二の時期。第三は、太平洋戦争にさいして大日本国粋会に組織されたときである。

もともと、お上の傍若無人な言動や弾圧には靡かない反権力を体質としていた任侠道の気風は、これで半分骨を失ったことになる。だが、今回は前の三度のゆきががりとは明らかに違う。戦後世界はすでに、米ソという国際的な体制間の矛盾を背景にした政治世界である。国家の庇護と要請にもとづいて、左右の衝突の渦中に身を晒すことになったのだった。いらい、極道と右翼は同じ名刺に印刷された二足の草鞋を履くことになるのである。

◆国家は民間暴力を承認しない

しかしながら、極道が国家体制の内側にいる時期は、それほど長くは続かなかった。

大資本や政治家としても、戦後の混乱期には極道の暴力を利用してきたが、高度成長が軌道にのり市民社会が成熟してくると、いつまでも凶暴な番犬を飼っているわけにはいかない。大衆消費社会が社会の隅々まで浸透して、あまねく家庭に冷蔵庫や洗濯機、電話、テレビをもたらし、アメリカ風の生活をもとめる富裕層はマイカーやエアコン、カラーテレビまで持っている時代がやって来た。もはや民衆が飢えて闇市をさまよった戦後ではない。

いつもワシントンの意向を気にしているとはいえ、すでに独立国家として軍隊なのかそれとも違うのかよくわからないが、とにかく国家防衛のための武装組織も拡充し、治安警察力にいたっては世界に誇るものがあるという時代に、独自の論理で好き勝手なことをする連中がいては困るのである。

1960年代後半から70年代の左翼の過激派壊滅作戦と同時平行しておこなわれたのが、暴力団壊滅のための頂上作戦だった。爾来、ヤクザは蛇蝎のごとく排斥される。いわく、ヤクザは市民の敵、極道は人間のクズ。いっぽうで東映の任侠映画で人気を博しながらも、任侠団体が暴力団という蔑称でさげすまれるようになったのもこの時期である。

◆「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲である

話は急転するが、山口組の後継をめぐる組織同士の抗争もあって、いよいよ先進国としての体裁を考える為政者は断をくだした。恐喝や脅しをすればすぐにパクる(逮捕する)という暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が1991年(平成3年)に成立。1999年(平成11年)にはオウム真理教の破壊活動防止法適用に失敗したあとを受けて、組織犯罪処罰法(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)という新法が成立した。これも極道組織への適用を射程にいれてのものである。

法の整備と同時に、新たな頂上作戦がこのところ極道組織を襲っている。五代目山口組の宅見勝若頭が殺害された事件(1997年8月)ころから、組幹部を護衛する組員の携帯している拳銃を理由に、これまで左翼組織にしか適用してこなかった共謀共同正犯を罪状として、若頭補佐クラスの幹部をたてつづけに検挙・指名手配して動きを封じようとしている。さらには民法上の使用者責任。そして2011年から各自治体で施行された暴排条例において、反社会的勢力としてのヤクザの排除は法的な完成をきわめた。それを完成と呼ぶのは、ほとんど憲法違反の条例だからである。これ以上の法の逸脱は限界であろう。

過去がどうであれ何であれ、自分たちの存立のために邪魔なものは切り捨てるのが国家の持つ、唯一性の原理なのだ。それは安倍総理の「ケチって火炎瓶事件」などに顕著である。しかしながら、政治家とヤクザは切っても切れない関係にある。選挙という膨大な民衆を相手にする以上、清濁併せ呑む度量がなければ政権は握れない。その意味では自民党が政権与党である根源的な理由(ヤクザとの付き合い)を破棄しようとする「反社会勢力」なる虚構は、自民党を崩壊させる序曲だと指摘しておこう。

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

住宅が殺人事件の現場になった場合、その後にたどる運命は主に2つある。1つは事故物件として空き家、空き部屋のままで残るパターン。もう1つは建物が取り壊され、更地になったり駐車場になったりして生まれ変わるパターンだ。

そんな中、2014年に承諾殺人事件の現場となった松江市の住宅は、その後、特異な運命をたどっていた。現場の「半分」だけが消えてしまったのだ。

◆現場は2階建てのアパート風の物件だったが・・・

この事件の犯人である女子大生(18)が逮捕されたのは、同年4月3日のこと。名古屋市で暮らしていた女子大生はこの2日前、母親に「インターネットで知り合った人に会いに行く」とだけ告げ、家を出た。母親はその夜、女子大生から「その男性と松江市で心中する」との連絡を受けたという。

事件発生当初の報道の映像では、2階建てだったが・・・(フジテレビ「ニュースJAPAN」より)

そこで母親は翌朝、娘が話していた松江市内の空き家まで駆けつけた。すると、2階の部屋では5個の七輪で練炭が燃やされており、そのかたわらで男性(31)の遺体と共に座っている娘を見つけたのだという。

警察の調べに対し、女子大生は「男性に殺してくれと頼まれ、首を絞めて殺した」と供述。承諾殺人の容疑で逮捕されたという。現場は、殺害された男性の祖父が所有する建物で、男性は失業や離婚の悩みから、インターネットで知り合った女子大生に「殺して欲しい」と求めたようだ。

筆者がこの怪事件の現場を訪ねたのは、事件発生から3年近く経った2017年の初めのことだった。テレビニュースの映像で観た現場は、2階建てのアパート風の物件だったが、その変わりようは凄まじかった。建物はその場にそのまま存在しているのだが、2階部分だけがそっくり消えているのだ。

おそらく建物の持ち主である遺族が被害男性の悲惨な死に耐えかねて、2階だけを取り壊してしまったのだろうが・・・。男性は殺されたとはいえ、自ら望んでのことだから、遺族としては怒りの持って行き場もなかったはずだ。本当にやり切れない思いだろう。

事件後、現場となった2階の部屋のみが取り壊されていた

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

本欄1月14日、15日付の「ポピュリズムの必要――政治家・山本太郎をめぐって」について、田所敏夫さんから「政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び」という反論(1月16日)をいただいた。「回答をお待ちする」とあるので、返答したい。

※本稿を寄稿したあとに「天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異」という再反論の記事が掲載(1月24日)されたので、少し長くなるが2回目の「反論」については、後段で扱わせていただいた。いずれにせよ拙文に望外の反応いただき、田所さんには感謝しかない。

 

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

◆論軸を逸らしてはいけない

わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる。これは論考を成すうえでの基本作法、議論の原則から外れている。論軸を逸らすことは、論点を曖昧にするばかりか、議論そのものの生産性を阻害するものだと指摘しておこう。

論じられている中でも、個々の政治家の演説力を論じた部分は、あまり興味をそそられなかった。なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない。ただし「元号批判」「自衛隊の予算削減」や「日米安保」に絡めた「左翼」の基準については議論に面白みがある。せっかくなので後段で取り上げたい。

まず、立論の矛盾および論証がない点について。

《そもそも、政治家が個人の言説を前面に押し立てて、どこか支配的(独裁的)な言説を振りかざすのは、選挙運動においてはふつうのことである。(中略)したがって、あらゆる政治家は大衆の前において、独裁者のごとく振る舞うのだ》(横山)という「テーゼの大部分にわたしも異議はない」と田所氏は表明されている。にもかかわらず、山本太郎の「独裁体質」は批判するのだ。以下、引用しておこう。
「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。

言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ。

「異議はない」と同意された上記の「テーゼ」と、どの地点で評価が変わってしまうのだろうか? 横山が云う「独裁(テーゼ)」は良くても、山本太郎の「独裁体質」が危険だというのは矛盾である。

また、田所さんは同じく「異議はない」とした上記の引用につづけて、
「わたしが危険性を感じるのは、むしろこのテーゼが無効化された現在の状況を前提とした議論である。」というのだが、その中身がまったく展開されていない。なぜ「(横山の)テーゼが無効化され」て「現在の状況」があり、それを「前提とし」なければならないのか、これではよくわからない。

◆「左翼」である必要はあるのか?

田所さんの山本太郎評は、どうやら「左翼」であるか否かになっているようだ。以下、引用する。

「横山さんと私の決定的な違いであるが、わたしは山本太郎氏を『左翼』とは見做さない。」

この「左翼」という言葉に、思わずドキリとしてしまった。わたしは確かに「日本の左派にもようやく、大衆を扇動できる政治家(ポピュリスト)が登場した」と山本太郎をと評している。「左翼」と定義していると取られたのは不覚(失敗)である。わたし自身が相対的に「左派」であるという自覚はあっても「左翼」ではないと意識しているからだ。そして政策の評価と人物評に、左翼であるか否かはおよそ関係がないと考える。

60年代には「進歩的」「変革」「革新」と「左翼」は同義で、「右翼」と「反動」「封建的」「保守」が同義だった。しかし、いまや「サヨク」は「パヨク」「ブサヨ」として、ネトウヨに侮蔑されている。あながち、いわれがない蔑称でもなくて、何にでも反対する内容のなさが一般大衆からも、底を見すかされていると言えなくもない。これは右派(右翼ではなく保守)が新自由主義のもとに「改革路線」を標榜するようになっていらい、旧来の左派が「守旧派」「既得権墨守」とみなされるようになったことと無関係ではない。いずれにしても、胸を張って「わたしは左翼だ」という人々は、いまやごく少数なのではないか。

田所さんは「左翼」をこう定義するという。

「《左翼とは、政治においては通常、『より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層』を指すとされる。『左翼』は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す》といったところであろう。」

すいぶんと振れ幅の広い定義だが、せっかく「左翼とは何か」というテーマをいただいたので、今回のテーマに沿って議論をすすめよう。

田所さんは云う。

「山本太郎氏が立ち上げた、あの新党の名称のどこに『左翼』のエッセンスがみられるのだろうか。既成政党のなかで、もっとも反動的な名称ではないのか。」

なるほど、令和という言葉には、令(命令や法律)と和(共同体・親和性)のなかに、反動的な統制国家を標榜するかのような印象がある。漢語学的な問題点、あるいは歴史的な不吉さも指摘されてきたが、ここでは踏み込まない。田所さんも論証されていないのだから。

元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。

たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる。

個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい。少なくとも文献史学のうえで、元号および天皇制が「被差別」と関連付けられるものは、政治権力の恣意性・身分政策のなかにしか存在しない。それも伝統的な位階制や職能制を離れた、武家政権独自の身分政策なのである。むしろ古代いらいの天皇制(公地公民制)を壊すことで、中世の摂関支配(荘園制)および封建的な身分制(差別)が成立したのだ。

いまも天皇制とは無関係に、むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)を否定するかのように、レイシズム(排外主義)とナショナリズム(国家主義・民族主義)の「国民分断」が跋扈している。民族排外主義から天皇を排撃すらするネットの書き込みも少なくない。たとえば、

「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0
明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇
日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)

「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)

便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが、昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた。

それはともかく、国民の意識レベルでの天皇制(皇室と政治の結合)を問題にするのならば、天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう。したがって個人的に元号を口にしない、書かないということが論説・論考にならないのは前回指摘したとおりだ。

◆「左翼」は軍備を否定しない

もうひとつは「いくらでも削れる防衛費と日米安保に『左翼』であれば言及するのではないか」(田所氏)という指摘である。山本太郎は自衛隊の存在を、災害救護に必要という観点から是認している。わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう。

ところで「左翼」が防衛費と日米安保に言及するのは、まったく別の理由である。

左翼にとって日米安保は国家権力の一部を軍事的にアメリカが補完している、まさに権力問題としての打倒対象なのだ。わたしは「左翼」ではないので、むしろ「新右翼」のように、アメリカは沖縄と日本から出ていけ、日米安保を打破して日本の独立を、と考えている立場だ。わたしと同じような立場の「左翼」は少なくないが、まさに左翼という幅の広さを「防衛費削減」一般で括れないことを、そのことは示している。

そのうえで、ずばり核心部から説き起こそう。共産主義を標榜する左翼の大半は「軍隊を堅持する」立場なのである。自衛隊(帝国主義軍隊)の防衛費を削減要求することはあっても、革命政権をにぎれば「ブルジョアジーを警護する専門的な軍隊を廃止し、全住民の武装」をもって革命の成果を防衛する。

ロベスピエールが国民議会の外にその力を頼み、マルクスを有頂天(『フランスの内乱』)にさせたコミューンおよび国民軍である。レーニン政権の労兵ソビエトおよび赤軍である。その意図するところは、選ばれた特権的な職業軍人ではなく、国民皆兵(および志願制)の人民軍である。女性や子供も武器を取るという意味では、戦前の徴兵制よりも徹底した軍事国家であろう。これが共産主義者の軍事に対する態度なのである。日本共産党も95年までは、綱領的に自衛隊の解体とそれに代わる武装自衛組織、を謳っていた。つまり「中立・武装・自衛」だったのだ。※なし崩し的に「非武装中立・自衛隊の活用」に移行した。

新左翼系では「共産主義突撃隊」「赤軍」(ブント)や「革命軍」(革労協両派・中核派)、反日武装戦線(各部隊)という組織が作られ、実際に武装闘争が行なわれた。100人もの反革命敵対分子を「殲滅(殺戮)」したことから、革命政権下の軍事独裁、反革命の処刑を否定しないであろう。そのことこそ、わたしが「左翼」をやめた契機である。前回も少しふれたが「戦犯天皇処刑」や「反革命分子を処刑」しながら、死刑廃止運動には賛成するなどというご都合主義。ある意味では「自衛隊の予算増強には反対」し「革命軍を組織する」に通底する左翼のご都合主義こそ、批判されなければならないのではないか。もはや革命戦争の時代ではない。

◆天皇制を論じることこそ必要である

1月24日の「反論」は、もっぱら天皇制をめぐるのものとなっている。わたしは田所さんが天皇制を踏み込んで批判していないから、オピニオンになっていないと指摘したのである。くり返しになる部分もあるが、簡潔にまとめておきたい。

田所さんは「わたしはその党名(れいわ新撰組=引用者注)を書くことができない」という。

これでは「天皇制および元号が嫌い」という表明以外の何ものでもないのではないだろうか。『鹿砦社通信』は個人的なサイトではないのだから「書くことができない」では読み手は困る。

「《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見」であるならば、もっと踏み込んで論じるべきであろう。と、わたしは田所さんの執筆姿勢に不満を感じるのだ。その姿勢は、どうやら天皇制廃止が不可能だから、ということらしい。どうしてそんなにペシミズムになるのだろうか。

書くことは人を勇気づけることである。たとえば文学においては、それが死をめぐるテーマであっても生きることへの賛美がなければ、作品は光彩を放たない。政権や政治家を批判する記事においても、読む者の意識を喚起する正義への情熱、あるいは人間愛の視点がなければ賛意を得られないものだ。この点において、田所さんの天皇制をめぐる寡黙は残念である。

田所さんは云う。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

その理由は、
「天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている『理由なき精神性』を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。」

天皇制には勝てない、と結論ありきのようだ。

「天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。」

わたしは持ち得ていると思うし、大いに議論できると思う。この島国の住民の内面にベッタリと染みついている、わたしに言わせれば「支配されたがる精神性」を打ち破る議論は、わが国の長い歴史の中で支配者が逆転した歴史を考えれば、大いに可能だと考える。廃仏毀釈と戦前の国教化を通じて、近代天皇制が国家神道(皇室祭祀と国家儀典の結合)としてわが国民の精神を支配したのは、まだ150年ほどの実績しかないのだから。この点については、天皇史として稿を改めたいが、簡単に触れておこう。

そもそも皇統は、万世一系ではない。いわゆる「欠史8代」は、神武いらい9代の天皇が神話的存在であることを教えている。神武東征の事績は倭国の移動を暗喩させる以外は、ほぼ完全に神話であり、以後の8代には執政の記録がないからである。10代崇神帝において、初めて税制や疫病対策などの事績が見える。崇神帝は邪馬台国卑弥呼の時代にかさなる。従って日本の紀元(皇紀)はせいぜい1800年といったところだ。以後、16代の仁徳帝、26代継体帝において王朝交代があったとされている。血統も変わっているだろう。じつはその時代、天皇は豪族連合の長にすぎなかった。卑弥呼が豪族連合に選ばれた史実に明らかだ。

じっさいに天皇親政(天皇制)が行なわれたのは、乙巳の変(大化の改新)による天智帝の時代から、孝謙(称徳)女帝までであって、光仁帝以降の天皇は、ほぼ全面的に藤原氏の摂関政治のお飾りとなった。後三条帝による院政の開始は、わが国にしかない二重権力をもたらしたが、鎌倉幕府の成立(承久の変)で院政も崩壊する。爾後、天皇が執政を振るうのは、後醍醐帝の建武の中興が20年あるだけだ。明治維新はしたがって、古代王権いらいの天皇の復権だったのだ。

今回、田所さんにおいても皇統および天皇制について、具体的な論証があったのでこれは評価したい。しかし、英国との比較で天皇制を特別視するのは誤っている。

「英国王室の長(おさ)は『王』(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ『神』(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。」

近代の社会契約説によって、英国王室は国民との契約(信頼がその実質)で成り立っているが、即位に当たっては神の聖油をうける「王権神授説」の残滓を残している。日本の天皇が神と同衾してその皇統継承を承認されるように、英国のKingもGodの代理なのである。宗教的祭司でかつ王であることは、しかし「アルカーナ(秘密・奥義)」というわけではない。所詮はナショナリズムを掻き立てる神話(日本の「記紀」英国の「アーサー王伝説」)にすぎない。

そして皇位継承の神事も、明治時代に復刻された古代儀式であって、そもそも天皇は仏教徒である。※参考図書『天皇は今でも仏教徒である』(島田裕巳、サンガ新書)。われわれ一般国民も戦前までは、死ねば「神仏」になれた。わたしの家は神道なので、父親の霊璽は「横山隆牛の神」である。そもそも唯一神(超越存在)のキリスト教と汎(多)神論の神道を、同じレベルでは論じられない。

麻生太郎の「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」という単一民族であるという妄言も、ほかならぬ平成天皇自身が否定している。

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」(日韓ワールドカップサッカーを前に、韓国との所縁にふれた平成天皇発言)。「一つの王朝」ではないことも、上述したとおりだ。

昭和天皇は大元帥として太平洋戦争の指導(上奏と下問)を行ない、その戦争責任を問われるべき史実がある。平成天皇において山本太郎や白井聡、内田樹らをして護憲派の最後の砦と思わせるような政治的態度を示していることについて、運動内部の議論もある。これはまた、別の機会に紹介しよう。わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである。

「こと天皇制に限っては、『横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃない』」からこそ、元号を書かないとか論説を回避するとかのネガティブな構えではダメだと思うのである。まさに、
「『寓話』が不文律あるいは強制として『国是』とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに『知らせる』ところからはじめるほか、手立てはない」のである。田所さんの研鑽に期待したい。

[関連記事]
◎横山茂彦-新元号「令和」には「法令の下に国民を従わせる」という意味もある
◎田所敏夫-私の山本太郎観──優れた能力を有するからこそ、山本太郎は「独裁」と紙一重の危険性を孕んでいる政治家である
◎横山茂彦-ポピュリズムの必要 ── 政治家・山本太郎をめぐって
◎田所敏夫-政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び──横山茂彦さんの反論への反論
◎横山茂彦-天皇制(皇室と政治の結合)は如何にして終わらせられるか
◎田所敏夫-天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

以下は、北朝鮮へ旅立つ前、藤川さんから直接聴いた話、帰られてから聴いた話の他、オモロイ坊主を囲む会ホームページの藤川さんの言葉、TBS報道特集で放映された内容を引用した部分があります(2004年12月5日放送)。

◆藤川さん、北京から平壌に入る!

「あの北朝鮮の政治体制の中でも仏教があるというが、お坊さんが修行しているとは信じられへん。お寺の和尚に会ってみて『御釈迦様と金総書記はどっちが偉いと思う?』と聞いてみたい。苦労してビザを取って北朝鮮に行く以上、何か掴んで帰りたい。どこかに宗教心を垣間見ることができるはずや!」という藤川さんらしい探究心。

他にも会ってみたい人物もいた。1970年3月に起こった日本航空機、よど号ハイジャック事件。北朝鮮に残っているその実行犯と会う。

日本からの直行便は無い。一般的には北京経由で平壌に渡るしかない。

2004年11月16日、平壌空港に到着。久保田弘信カメラマンと2人で入国後、そこから“2人”の通訳兼案内役に迎えられ、パスポートと携帯電話、航空券を預けなければならなかった(3人で行っていたら3人の案内役)。車に乗せられ向かったのは宿泊するホテル。車窓から見る平壌の街並みは陰気で静か、灯りも暗く寂しいといった印象だったという。

◆よど号ハイジャック実行犯にも説教してしまう藤川さん!

比丘は剃髪から何日かだいたい分かるもの(2003.3.18)

到着した日の夜、ホテルのロビーに尋ねて来た、よど号ハイジャック実行犯の小西隆裕氏と若林盛亮氏の二人とホテルにあるカフェで対面。この方々は日本の支援者の仲介で、予め藤川さんの北朝鮮訪問を聞いて対面が予定されていた。元々は彼らと同じ実行犯、田中義三氏がタイで別事件で収監中に、タイの日本人ジャーナリストの依頼で藤川さんが面会に行ってから交流が始まり、平壌で小西氏らとの対面に繋がったもの。

そこでは、彼らはこの先のことどう考えているのか。率直に聞いて説教してしまう藤川さん。

穏やかに喋る普通のオジサンの小西氏は、「日本に帰るにしても決着付けなければならないことがある。(日本側が我々のこと)北朝鮮のスパイだとか、そういうことはやってないんだから!」等、言い分はいろいろあるところ、藤川さんは、「言いたいことあるんやったらさっさと帰って言え。ここに居って歳取って、あと5~6年はもの凄い貴重になるぞ。若い時の5~6年と違ってこれからの1年1年は大きい意味がある。小西さんが自分の主張を堂々と述べて、反対する奴に論陣を張ってやるだけやったと思って死にたかったら、やっぱり北朝鮮に居る1年2年は勿体無い。その有意義な1年2年の為に他のこと捨ててでも帰るべきやぞ!」

この映像の藤川さんの語り口には普段からの喋る癖があった。ツバ飛ばして喋る本気で説得している藤川さんの姿があった。だんだん熱くなり、いつもの放っておいたら止まらない調子だった。まるで2人の師匠かのような振る舞い。

「人間には帰巣本能がある!」と前々から言っていた藤川さん。

「難しいこと考えんと帰りたいと思うたら帰ればええのに。裁判受けて、田中義三の場合は7年(?)なんやから、あいつらも7~8年やろうから、さっさと帰って来ればええのになあ!」と老いていく時間を小西氏より三つ年上の我が身に置き換え惜しく思ったのだろう。

仏陀像に拝む藤川さん(2000.12.6)

◆中学校での決められた見学セット!

観光メニューとして、まず連れて行かれたのは、主体思想塔。そして故・金日成主席の生家。ガイドによって展示されている写真等の歴史のマニュアル化された説明を受ける。軍事境界線の板門店も訪れてコンクリートで仕切られた韓国側との国境の境目に立った。

「人間の悲しさと哀れさ情けなさを表した国境というものは大嫌いや!」と幾つもの国境線を見てきた藤川さんの率直な感想だろう。

更に中学校を見学。教室で着飾った少女たちが出迎えた。御琴の披露、歌声は見事なもの。

「見てて涙が出てきた。あの子ら喜び組の姉ちゃんと同じ顔(表情)やんか。ホンマかわいそうやった!」と映像の中で語っていた藤川さん。

国の支配下で動かされているマニュアル化された、本来の子供の姿ではない少女達に、映像からも同様に見えてくる。

別の画面で、男の子達がサッカーをして遊んでいる姿を久保田カメラマンが遠くから捉えていた。「こっちの方が本物の子供ぽいっていう感じですね!」という久保田氏。正にどこの国にもあるような子供達がボールを追う自然な姿があった。

◆金日成主席像の前で!

韓国料理を頂く藤川さん、北朝鮮でも食欲旺盛だったろう(2003.8.23)

観光マニュアルの中には、「万寿台の金日成主席像の前では外国人観光者も一礼しなければならない。」と決められているという。

「ワシは御釈迦様の弟子や、サンガ(上座部仏教)では御釈迦様が一番偉い存在で、サンガ以外の在家者に対し頭は下げない。タイ国王が来てもワシらは頭下げることは無い。そやからここでも頭下げるつもりはない!」

そんな発言をしていた藤川さん。実際に万寿台大記念碑に通訳兼案内役に連れられていくと、その主張を曲げなかったという。

すると、「案内人が『頼むから頭下げてくれ!』と次第に泣きそうになっていき、やがて兵隊がこっちに気付き、寄って来よる気配を感じたから、同行者にも迷惑掛かるから金日成主席像に向かって頭を下げてやった!」と言う。拘留に発展するほど意地を張る必要は無い。臨機応変に捉えなければならない。そんな解釈もあったかもしれない。“事無きを得た”、そんな感じだろうか。

タイでも日本でも北朝鮮でも唱える経文は同じ(2000.12.6)

◆この旅の最大の目的、北朝鮮の寺訪問!

滞在中、7つの寺に訪問したという。

ある寺の御堂を開けて貰うと仏像があり、そこでテーラワーダ仏教のパーリー語による読経をした藤川さん。北朝鮮となった国の寺でテーラワーダ仏教の黄衣を纏った比丘が、読経したのは過去に存在するだろうか。

藤川さんの「タイでは仏教は政治と離れていて、タイ国王が来ても、タイの首相が来てもお坊さんは挨拶しないが、ここではどうや?」

「ここも同じ、私達も同じです。」と笑顔で応える住職。

別の寺でも質問。

御釈迦様は好きですか?

「はい!」

一番聞きたかったこと、「貴方の心の中では御釈迦様と将軍(金正日総書記)様はどっちが偉いと思う?」と問うと、
「私達の将軍様が一番偉いです!」とハッキリ応える住職。

藤川さんは「李氏朝鮮以前は仏教の国やったのに、無くなってしまうのは格好悪いから無理に作ってあるという感じやな!」と語る。

訪朝前から答えは分かっているようなものだっただろう。ただ、通訳は入るが、実際に北朝鮮の寺の住職に尋ねて言葉を交わし、生の声から経験値や価値観、感情を読み取れて北朝鮮に来た甲斐はあっただろう。

そんな中のまた違う寺に向かった藤川さん。平壌の中心部から西に十三キロほど離れた龍岳山の法雲庵という寺には住職は居らず、70歳くらいのオバハンが管理人として常駐。藤川さんが本堂らしき建物の中で仏像に向かってお経を唱えると、後ろで管理人のオバハンが泣いていたという。

一通り読経し終わると、そのオバハンが「お坊さん、ずっとここに居てください。この寺には長いことお坊さん(僧侶)が居ません。お坊さん(藤川さん)の食事や洗濯の御世話は私がやります!」と泣きついて来たという。

藤川さんは「仏教を信じている人間がこの国にもいる。心の奥底には宗教を大切にする気持ちが残っている。人々の心の底にも仏陀は生きている!」と確信。涙を流しながらいつまでも手を振って見送ってくれたオバハンには後ろ髪を引かれる思いがしたという(髪無いが!)。

◆北朝鮮では終始、通訳兼案内役が付いていた!

四国八十八箇所巡礼を歩き、北朝鮮へ向かう勢いもまだまだ逞しい(2004.5.28)

「通訳兼案内役に高層ホテルの窓から『お前の家はどこや!』と聞いたら、『あそこだ!』と指差したのは、ホテルから数分で歩いて行ける距離にあるところや。でも帰らずにワシの隣の部屋に泊まりよる。ホテルの部屋には噂どおりの大鏡があった。そこで裸で踊ってやったけどな。ちょっとその辺を散歩でもしようかと思うて部屋を出ると、隣の部屋からその通訳兼案内役も出て来て言いよった。『どこ行くんですか?』と。常に監視して付き纏う彼ら。いろいろなところ行ったけど、直接現地の人と触れられるような場所はスッと避けさせる。ホンマに国の中身を見せよらへん。マニュアル国家やな、ワシら外国人に対しては!」

(でもそんな藤川さんらはどこかの床屋に入っている。藤川さんの頭は剃髪間もなく、訪朝時も薄っすらと毛が生えている程度だったが、ある寺の訪問からすっかりツルツルになっていた。その久保田氏が録ったと見える床屋映像もどこかの放映で見たのだが、わずかな記憶しかない私。)

そんな旅を終えてパスポートと航空券を返して貰って11月23日、北京へ戻られた。
やっぱり“精神的にドッと疲れた”という感じだろう。

私(堀田)が行かなかったのは、持病によって皆の足を引っ張ったかもしれないこと、旅費35万円は高過ぎたこと、あと私の両親は、私が何度もタイに行ったことは知っているが、行く度に心配させない為、「タイに行く!」とは言ったことはない。でもたまに電話があると「なるべく外国には行かんでくれや!」という心配が多かった。それが、北朝鮮の話は全くしていないし、誰からも私の親にはそんな連絡する奴はいないが、「北朝鮮なんか絶対行くなよ!」と何か察したかのように言われてしまった。タイでも暴動があったりと、たまたまそんな言葉が出てしまったのだろうが、これが直接、行かないことに決断させたものだった。仕事として決まっていたら何が何でも行っていただろう。でも単なる観光で行って帰って来れなくなったら、とんでもない騒動だっただろう。藤川さんもTBSから「下手なこと言ったら拘留されてタイへ帰れないぞ、拉致されるぞ!」と脅かされていたようだが、そんな覚悟は出来ている藤川さん。「ナンなら北朝鮮の寺でも修行は出来る!」と考えているのだから、同行者となった久保田氏はアフガニスタンより怖かったであろう。北京から日本へ無事帰り、諸々の関係者に旅の報告を終え、タイの寺へ戻られた藤川さん。次なる挑戦に準備を進めていた。

※北朝鮮の旅関係の画像は一切無いため、藤川さんのイメージ画像として、やや関連する普段の姿を集めています。以上は2000年以降、北朝鮮に向かうまでのもの。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

江戸期いらいの博徒が戦後にいたって一変したのは、そのまま戦後社会の変容を映し出しているといえよう。

最初に戦後の闇市を取り仕切ったのは、伝統的な極道の流れではなかった。愚連隊とか特攻隊崩れとかの血気盛んな連中が、無秩序な闇市を取り仕切ることで警察組織の代用をはたしたのである。盗みやかっさらいの横行するアンダーグラウンドの市場には警察力が必要だったが、その警察は闇市を取り締まり、取り締まった戦果を自分の懐に入れることはあっても、飢えた民衆の必要を満たしてくれるわけではなかった。そこで私設の警察組織が、闇市の庇護者として設立されたのである。
どんな商売も市場がある以上は、需要がなければ存立しえない。

遠く農村から列車に乗って闇市に米を売りにきた女性が、乱暴者から商品たる米を奪われたとしよう。警察に届けても面倒をみてくれないどころか、闇米はすべて没収されて、へたをすれば彼女自身も逮捕されてしまうのである。そこで市場を取り仕切る愚連隊の親分にすがって、米を取り戻してもらうことになるのだが、そのついでに少しばかり上納金を差し出すことに何の不思議もない。必要経費ともいうべき、当然の手間賃である。

ときには愚連隊同士の縄張りやイザコザで拳銃を乱射されたり、取り締まりの警察隊との銃撃戦もある異常な時代だったが、日常的なトラブルは彼女がしたように必要経費で処理され、それで食いぶちが満たされれば何の問題もないのである。商売のトラブルが市を成り立たせなくなったのでは、人々は飢えて死ぬしかない。当時の日本人の食料は、そのほとんどが闇市の食料で賄われていたのだから。

こうして闇市を支配していた愚連隊を、やがて伝統的な博徒組織が吸収していく。
実力を持った若い集団が、いろいろと能書きやしきたりなど伝統文化を持つ集団に合流して、本格的に極道の代紋を背負うことになったのである。戦争で国家とともに滅びかけていた博徒集団にしてみれば、これで新しい職域への進出と若々しい血を入れることになった。

◆田岡一雄がつくった戦後ヤクザ

人々の飢えがみたされて闇市が終焉すると、戦後復興の時代である。日本最大の広域暴力団とされる山口組の勢力を飛躍的に拡大したのは、一九五九年に勃発した朝鮮戦争だった。

港に入った船に一番乗りしたグループが積み荷の運搬を請け負うという、荒っぽい沖仲士の荷受け業界に初代のころから参入していた山口組は、斬新な組織論において他の組織の追随を許さなかった。旧来の極道組織の子分が子分をもうけて分立していく組織作りの方法を避け、山口組は表向きは会社組織として分社し、裏組織を一元的に統括した。表向きは近代的な企業でありながら、しかも普通の企業にはできない義理の親子の拘束性がある。この立役者が三代目山口組の袖主田岡一雄だった。

朝鮮戦争の拡大とともに港湾荷役は需要が増大し、規制緩和の機会を得た山口組は二次下請けの立場から一次下請けへの参入に成功する。海運局に掛け合って、下請けの枠組みを取り払わせてしまうのである。さらには、左翼の労働組合に対抗する労働組合を結成し、この力を背景に、彼の組織は左翼のみならず他の業者を圧倒したという。

事故が起これば船会社と交渉するのも山口組の労働組合なら、海運会社の仕事を最大業者として受けるのも山口組傘下の企業という具合に、彼らは神戸港の支配をテコに全国の港湾を掌握していく。

さらに、当時のエネルギー産業の基幹である炭鉱労働者の組織化に着手する。いわば職能組合とか産別労組の全国展開とまるで同じ組織づくりで、高度経済成長をもたらす労働力を支配し、今日の隆盛の礎になる全国組織の最初の骨格を作ったのである。

膨大な労働力(人集め)を必要とする大資本にしてみれば、労働者が左翼に牛耳られて革命騒動を起こされるよりは、山口組のほうがずっといいに決まっている。事実、あとでみるように共産党は朝鮮戦争に乗じて武装闘争の方針で動いていたし、革命前夜のような暴動が各地に生起していた。

それでなくても、沖仲士や炭鉱労働者は普通の社員では扱いにくいし、荒っぽい連中の喧嘩騒ぎや揉め事には困っているのだから、旧財閥系の御大も、ここはひとつ山口さんとこの力でなんとか、ということになったのは想像にかたくない。

組織が拡大していくためには、荒っぽい暴力も必要である。ここでは柳川組という武闘派組織が山口組の組織拡大を牽引したのだった。ちなみに柳川組は在日朝鮮人を主体とする組織で、のちにみる共産党の極左戦術を先頭でになったのが在日朝鮮人たちだったのを考えると、異郷に強制連行された彼らこそが、混乱期にたくましい生き方をしめしたことになるかもしれない。


◎[参考動画]「山口組三代目」(1973年08月11日公開)予告篇

つぎに三代目山口組組長田岡一雄が取り組んだのは、これも有名な話だが力道三のプロレス興行や美空ひばりのステージを取り仕切る芸能興行だった。朝鮮戦争の軍事特需をへて、戦後復興なった日本には、大衆消費社会の波がすぐそこまで来ていた。

隙間産業のような職域が時代の需要になったときに、正業を持たない極道組織が持てる組織力と荒っぽいが面倒な仕事に乗り出すのである。利権と暴力が衣の下から透けて見えるような、あやうい職域を仕切ることができるのは、目先の銭金よりも厳しく統制された組織であり、それを可能とする伝統的な作法と形式の力にほかならない。生き方の中に極道としてのプロフェッショナルの気風が充満していれば、もはや怖いものは何もない。組織に生きることが、彼らの正義であり世の中をみる尺度なのである。

これが通常の会社組織であれば、仕事の成否も労働者の去就も賃金をめぐる一点にしかない。業績がはかばかしくない企業からは、沈みかけた難破船から鼠が逃げ出すがごとく優秀な社員はいなくなってしまうし、有力な企業には有為な人材が集まるのが労働市場の原理である。

ところが極道の社会は利益集団でありながら、そこに擬制の血縁関係をつくり出すことによって成立している。破門か絶縁の処分をされないかぎり、親子の縁は切っても切れない。これが極道組織をプロフェッショナルの集団たらしめる原理である。

親が殺せといえば子は殺人犯になるのが正義であり、親が死ねといえば、まあこればかりはゴメンと逃げ出すかもしれないが、破門や絶縁の処分をされないかぎり子分であることに変わりがない。このようにして保存された親子の縁と義理、兄弟の絆が、戦後の保守政治にマッチしていた。自民党とその政府はヤクザを手の内に取り入れることで、選挙のみならず政争を生きのびることになるのだ。次回は自民党のヤクザへの接近と裏切りを、国家という原理から解説していこう。


◎[参考動画] プロレスリング日本選手権 “昭和の巌流島”(1954年12月22日)

【横山茂彦の不定期連載】
「反社会勢力」という虚構

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

わたしの山本太郎氏の評価に続き、横山茂彦さんから天皇制についてのお考えが示された。横山さんは、

《「わたしはその党名を書くことができない」と言う。(2019年12月17日本欄「私の山本太郎観」)なるほど、天皇制および元号を是認する政治観に同調できないというのは、言論人としては清廉潔癖であるかのように感じられる。しかし、清廉潔癖であることはオピニオンとはおよそ別ものであろう》

と、わたしの反射に近い反応を評されている。

 

『NO NUKES voice』Vol.22 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

わたしは、自分のいい加減さは自覚したうえで、横山さんがおっしゃっていることはその通りであろうか、と必ずしも同意はできない。あのとき「清廉潔白であろう」などと大げさに腹を決めて、「その党名を書くことができない」と表明したのではない。左派(横山さんの山本太郎氏評によれば)が何かを主張するのであれば、あの党名はあまりにも不適切すぎるのではないか、との疑問(なかば怒り)から、包み隠さずに気持ちを表明したまでである。そして、

《清廉潔白であることはオピニオンとはおおよそ別のものであろう》

との横山さんのご意見には、首肯できない。わたしは「清廉潔白」をもって自分の見解の正当性を訴求したのではない。塵のようなものであっても、意見は意見である。私見を表明することはそれで完結だ。わたしは、誰かに同調を求めたり、運動や行動の路線を領導しようとする意思など(当たり前すぎるが)持ち合わせていない。それは、わたしが本通信に掲載して頂いた、ほかの文章をお読みいただいてもお分かりいただけると思う。

《天皇制および元号を是認する政治観に同調できない》のが、わたしの意見(オピニオン)である。わたしの脊髄反射ともいうべき意見表明をとらえて、《清廉潔白であることは、オピニオンとはおよそ別ものであろう》と横山さんはご指摘なさるが、これには納得できない。だれがなにを考え発表しようがそれは個人の責任と自由に帰すことではないのだろうか。しかもわたしは脊髄反射のようにこの感覚を表明したけれども、けっして、わたしの人生史や、肉体史から離反した思いつきではない。表層的な「思想」といったものではなく、わたしにとっては、自分の経験も含め「体にうえつけられた」体験、いわば身体を伴った反応である。

横山さんは天皇制を擁護する立場ではなく、ご自身も「反天皇制デモ」に参加されたことがあるようだ。その上で、

《山本太郎や白井聡らに対して、天皇制を容認するのかという批判は、論者たちの「天皇制廃絶」を前提にしている。そうであれば、天皇制廃絶論者は天皇制を廃止するロードマップを提起しなければならない。天皇と元号について議論する、国民的な議論を経ない天皇制廃絶(憲法第一条改正)はありえないとわたしは思うが、そうではない道すじが果たしてあるのだろうか?》

と、ひとむかしまえの田原総一朗が、小選挙区制や自衛隊の海外派兵について「朝まで生テレビ」で野党議員に「対案を示せ!」と迫った光景を思い出させるような発問をされた。わたしの回答はこうだ。

「現在日本で天皇制を合法的に廃止するには改憲によるしかない。しかし、国民世論の大半が天皇制に融和的であるのことを鑑みると、改憲による天皇制廃止は事実上不可能だ」

こういうと、あっさり白旗を挙げたかのように誤解されるかもしれないが、そうではない。まず天皇制は憲法上(あるいは社会制度上)法的な位置づけを持ったものであるのはご承知の通りだ。そして(しかし)、天皇制は法律から離れてもこの島国の住民の内面にかなり深くべったりとしみついている「理由なき精神性」を孕むものでもある。仮に憲法における規定が変更あるいは削除されようとも、このメンタリティーには大きな変化は生じないのではないか、というのがわたしの推測だ。

横山さんが疑問を投げかけるように、法的な正攻法では「国民的な議論」は必須である。その後に改憲を行うしか天皇制の法制度的変化は起こしえない。しかし、天皇制についての議論を行うことができる知的・情報的前提条件をわれわれは持ちえているだろうか。天皇制のような大きな問題をでなくともよい。もっと卑近で小さな諸課題にさえ、義務教育はもちろん、識者も、マスコミも正確な情報や史実を国民に伝えていないではないか。少し歴史を紐解けば、大マスコミが「まとも」であったためしなど、この国の歴史にはほぼ皆無だと、わたしは睨んでいる(あったとすれば記者やデスクの個的な勇気による産物だ)。それどころか、大マスコミの社長や幹部が「定期的に首相と食事をする」。これが直視すべき今日、日本の現実である。だからこそ「反天皇制デモ」は、主張が真っ当であるかどうかにかかわらず「国民的な議論のステージ」を作り出せていない、とわたしは感じる。

想像してほしい。仮に敗戦記念日や原爆投下の日、太平洋戦争開戦の日などに、当時の出来事(なかんずく天皇がどのような判断を示し、それにより軍部や国民がどのように行動したのか)が正確・詳細に伝えられるような状況であれば、可能な議論の範囲はかなり違うだろう。横山さんにもご記憶があろうと思うが、わたしたちが学生であったころ、さして社会問題に深い関心のない学生とのあいだにだって、「天皇制の是非」の議論は可能であった(蛇足ながら80年代中盤であっても「天皇制擁護派」は圧倒的に少数だった)。それは、直接ではないものの、ヒロヒトが導いた第二次大戦を経験した世代(親及び祖父母)からの、伝聞が経験としてあったからではないだろうか(わたしの場合広島での被爆2世という出自が、それを増幅させているのかもしれないが)。

教育と、報道、あるいは娯楽を徹底的に利用して「天皇制への恭順」は日々増強されている。天皇制に限らす社会的な問題の軽重を測定するバランスをとうのむかしに失った、情報産業が流布する天皇制への無批判な賞賛はもう飽和状態の域に達している。

頭の中が無垢でまじめな若者が、そのあたりの書店に入ってまず目に入るのはどのような書籍だろうか。読む価値のある社会学や哲学の古典に行き着くのは容易ではない。仮にそのような書籍を目指すのであれば、山済みのハウツー本と、嫌韓本の山を越えなければならない。そもそも大学生の半数が月に1冊の読書もしない時代にあって、与党が安心しきったから投票年齢の18歳への引き下げが、在野から強い要請もなかったにもかかわらず、実行されたのはなぜなのか。これらの事象は、いっけん天皇制と無関係に見えるかもしれないが、そうではないだろう。

つまり、時代は既に「ファシズム」の真っただ中である、というのがわたしの基本認識だ。思想的にはぺんぺん草も生えないような、のっぱらが、現代であると、しっかり「絶望」することからはじめるほかあるまい(「絶望」は必ずしも最終的な諦念を示すものではない「闇を直視せよ」という比喩である)。

戦前・戦中のように「神」とたてまつるわけではなく、敷居をずっと下げて、北野武やジャニーズのタレントやスポーツ選手を多用しながら(つまりそのファンも巻き込む効果を利用して)天皇の代替わり儀式が行われたプログラムは、過去の天皇制よりも、外見は一見ソフトなようであるが、じつは、より強固に「反論を封じる巧妙さ」も兼ねそろえた。そんな状況の中で「国民的な議論」を喚起することなどが、どうしたら可能だと横山さんはお考えなのだろうか。

《わたしはこの欄でもっぱら、皇室および天皇制の民主化・自由化によって政治と皇室の結びつき(天皇制)はかならず矛盾をきたし、崩壊する(政治と分離される)としてきた。たとえば、自由恋愛のために王冠を捨てた英国王・エドワード8世、今回、高位王室から自由の身を希望したヘンリー王子とメーガン妃による、王室自由化。日本では「紀元節」に反対して赤い宮様と呼ばれた三笠宮崇仁親王、あるいは皇室離脱を希望した三笠宮寬仁親王らの行動。そして現在進行形では眞子内親王と小室圭さんの恋愛が、その現実性を教えてくれる。矛盾をきたした文化としての天皇および皇室はやがて、京都において逼塞する(禁裏となる)のが正しいあり方だと思う。皇室を好きだとか、天皇が居てほしいというアイドル感情(これは当代だけではなく、歴代の天皇および宗教的タレントがそうであったように)を強制的に好き嫌いを否定することはできないのだから、強制的に皇室崇拝を廃絶することも困難だろう。40年以上も天皇制反対(かつては廃止)を唱えてきた、これはわたしの実感である》

横山さんは実例をあげて「希望」を示してくださる。わたしは全面的に反対ではない。日本の皇室においてもスキャンダル報道が許容される幅は、広がっているのだろう。だが、先輩に対して失礼千万ながら、わたしの正直な感想を述べさせていただければ、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」

である。

天皇制を語る際に英国王室が引き合いに出されることが頻繁にある。英国だけではなく「欧州にはいまだに貴族がいるではないか」という意見も聞く。だが、彼らの決定的なあやまちは、英国王室の長(おさ)は「王」(King)であり、天皇は憲法上の規定がどうあれ「神」(God)の側面を持つ皇帝(Emperor)であることだ。このアルカーナ(秘密・奥義)については、歴代の首相や大臣がしばしばその本音を発言し問題化してきた。つい先日も麻生太郎が「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」と本音を語った。麻生のいう「王朝」は天皇制にほかならず、天皇制は「神」と「皇帝」の性質を併せ持つ。そんなことは日本国憲法のどこにも書かれていないし、皇室典範をはじめ、すべての法律をひっくり返しても記述はない。つまり天皇制は憲法における定義とは他に、「神話」根拠にした「寓話」の性質を有しているのである。しかし「寓話」が不文律あるいは強制として「国是」とされている実態は無視はできない。まずその事実にすら気がつかない、あるいは知らないひとびとに「知らせる」ところからはじめるほか、手立てはない。

横山さんのいう、

《ついでに、天皇制があるから差別があるという、一見して当為を得ているかのような議論で、禁裏と被差別民の関係をじゅうぶんに論証しているものは、管見のかぎり存在しない》

は、天皇制と(象徴的には)被差別部落の関係を念頭におかれた論ではないかと思う。

わたしの主張はそうではない。単純に「生まれたときから『様』と呼ばれる人間がいる社会では、その逆の人が存在せざるを得ないのではないか」という極めて単純なことだ。身内で勝手に「様」と呼び合うのならいいだろう。けれども、権力により敬称を強制される人間が生まれる制度が、前近代的であるとわたしは批判しているのだ。『様』のほかには『様』と呼ばれない無数の人がいるであろう(このことだけでも充分に差別的である)。だからよその国の話ではあるが、中華人民共和国の侵略に対する、チベット民族抵抗の象徴として、以前は条件付きで留保していた、チベットにおけるダライ・ラマを筆頭とする「活仏」制度に対しても、わたしは容赦なく批判を加えるようになった(もっとも20年前以上から現在のダライ・ラマ本人は私的な会話で「活仏は私で終わりだ」と繰り返し述べていたけれども)。

もちろん、「好きな人が好き」というアイドル現象にくちばしを突っ込むつもりなどない。横山さんが構想するように、皇室が京都に帰って生活するもよし、廃絶されるもよしである。

しかし、最後にもう一度強調したい。こと天皇制に限っては、

「横山さん、天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ」と。

[関連記事]
◎田所敏夫-私の山本太郎観──優れた能力を有するからこそ、山本太郎は「独裁」と紙一重の危険性を孕んでいる政治家である
◎横山茂彦-ポピュリズムの必要 ── 政治家・山本太郎をめぐって
◎横山茂彦-天皇制(皇室と政治の結合)は如何にして終わらせられるか
◎田所敏夫-政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び──横山茂彦さんの反論への反論

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

カルロス・ゴーン氏の「逃亡」事件および、同氏による「日本の司法制度は人質司法」という批判をうけて、法務省がHPに「言い訳」のような見解を発表した
「我が国の刑事司法について,国内外からの様々なご指摘やご疑問にお答えします。http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/20200120QandA.html」がそれである。

法務省HP「我が国の刑事司法について,国内外からの様々なご指摘やご疑問にお答えします」

ゴーン氏の記者会見がもっぱら、日本政府と日産関係者の陰謀よりも、日本の非人道的な人質司法に向けられたことから、国民と国際世論に訴えるかたちで公表されたものだ。

しかしその内容は、みずから基本的人権を欠いた「人質司法」であることを暴露するものになっている。具体的にみてゆこう。

Q3 日本の刑事司法は,「人質司法」ではないですか。
A3 日本の刑事司法制度は,身柄拘束によって自白を強要するものとはなっておらず,「人質司法」との批判は当たりません。

すべての場合を網羅したデータはないので、わたし個人の場合を挙げておこう。本欄でも連載した「40年目の三里塚開港阻止闘争」で明らかにしたとおり、わたしは三里塚闘争で逮捕され、1年間の未決拘留を受けている。1年間というのは、訴状と求釈明および冒頭意見陳述が終わり、公判が軌道に乗ったということをもって、保釈が許可されたからである。その間、2度の保釈許可と検察抗告による却下があった。

しかしながら、取り調べで自白した被告(同一犯罪)は、同じ罪名でありながら二か月ほどで保釈が許可になっている。つまり、自白をしないかぎり裁判が軌道に乗るまで保釈はしない、ということをこの事実は意味しているのだ。これが「人質司法」の実態である。一般に公安事件ではこの基準が現在も維持されている。ではなぜ、判決によらない刑罰とも言うべき1年間もの拘置が不法に行なわれるのか?

Q4 日本では,長期の身柄拘束が行われているのではないですか。
A4 日本では,どれだけ複雑・重大な事案で,多くの捜査を要する場合でも,一つの事件において,逮捕後,起訴・不起訴の判断までの身柄拘束期間は,最長でも23日間に制限されています。
 起訴された被告人の勾留についても,裁判所(裁判官)が証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認めた場合に限って認められ,裁判所(裁判官)の判断で,証拠隠滅のおそれがある場合などの除外事由に当たると認められない限り,保釈が許可される仕組みとなっています。

要するに、自白をしていないから「証拠隠滅のおそれがある」というのだ。それならば、冒頭手続きが終わって保釈したあとは、証拠隠滅をしないと言えるのだろうか? 捜査が終了したあと、単に書面の準備が整わないから1年もの期間拘置をつづけているのだろうか? 

そうではない。刑の先取りを行なうことで、長期の拘留に耐えられなくなった被告が「謝罪」「自白」あるいはその政治的な成果である「転向」することを強いているのである。そのいっぽうで、被告は裁判のための準備を十分に行なえない。被告の身体を拘束することで弁護権を奪い、裁判を検察側の有利に運ぶ、これを「人質司法」と言わずして何というのだろうか。

Q8 拘置所での生活環境はどのようなものですか。
A8 拘置所においては,被収容者の人権を尊重するため,居室の整備,食事の支給,医療,入浴などを適切に行っています。
 入浴については,被収容者の健康を保持し,施設の衛生の保持を図る観点から,1週間に2回以上実施しています。夏季などには,必要に応じて回数を増加させています。

1週間に2回の入浴を多いと感じるか、それとも少ないと感じるかは個人的な差があるかもしれないが、わたしは少ないと思う。夏場ならシャワーは毎日朝夕浴びるし、冬場は隔日入浴(週3~4日、しかも1日複数回)がふつうの生活だと思う。

拘置所といえば東京拘置所がよくマスコミに登場するが、全国に111カ所ある。そのうち、刑務所の管轄が99、独立した拘置所は6カ所である。未決拘置者の生活は、懲役労働がないだけで、房内処遇はほぼ禁固囚と同じなのだ。戦後に一部が改正されたとはいえ、その基本骨格は明治41年制定の監獄法である。けっして「証拠隠滅」の恐れがあるから、ちょっと留め置くよ。みたいなものではないのだ。

所内生活は命令と服従、点呼時には房内で正座して「〇〇です!」と答えさせられる。24時間房内に閉じ込められているのだから、懲役囚よりも処遇は厳しいといえよう。房を出られるのは1日15分の運動時間(運動場も独房)と面会時間、入浴の時だけである。歩くときは刑務官が「進め」「止まれ」と、命令して先導する。かように窮屈な処遇というのも、明治監獄法がそのまま生きているからだ。

刑務官に「〇〇しろ!」と命じられ、従わないなら「懲罰房」に入れられる処遇のどこに「被収容者の人権を尊重する」ものがあるというのだろうか。拘置所とは刑務所なのである。ゴーン氏ならずとも、まだ判決を受けていないのに、不当な刑罰を受けている。と感じるのは当たり前だろう。

だから、テレビのワイドショーでゴーン氏の逃亡を「悔しいですね。日本の司法がバカにされて」とかのたまわっている識者は、一度でいいから拘置されてみるといい。判決もないところで刑罰を受ける不思議に、きっと脱獄を考えたくなることだろう。

もうひとつ日本の司法の前近代性をあらわしたものに、ゴーン氏の身柄を取り戻せないことがある。ゴーン氏の身柄をレバノンが引き渡さない理由は、じつは日本に死刑制度があるからなのだ。日本が被疑者身柄引渡し条約を韓国とアメリカの2国しか結んでいない不思議を「島国だから、その必要がない」とか何とかいい加減なことを言っている論者もいるが、そうではない。

いまだに死刑制度がある前近代的な日本の司法制度に驚嘆し、日本で法を犯した自国の被疑者を引き渡さない。当然の人権感覚があるから、死刑存置国(アメリカ=過半数の州で廃止、韓国=事実上の死刑判決回避)しか相手にしてもらえないのだ。この点については、死刑廃止運動の動向とあわせて稿を改めたい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

『NO NUKES voice』22号 新年総力特集 2020年〈原発なき社会〉を求めて

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

加害者家族を主人公にした映画やドラマでは、加害者一家の家の建物や外壁に「人殺し!」などと心無い落書きがされている場面をよく見かける。公開中の映画「ひとよ」や1月19日スタートの新ドラマ「テセウスの船」にもそういうシーンがあるようだ。物語の作り手たちはおそらく1998年の和歌山カレー事件や2015年の川崎中1男子生徒殺害事件で被疑者一家の家がそういう目に遭わされていたのをイメージしているのだろう。

だが、実際には、マスコミ報道がよほど過熱し、世間の人たちが「加害者やその家族には、何をしてもかまわない」という異常な心理状態に陥らない限り、あそこまでのことはさすがに起こらない。器物損壊罪などの犯罪にあたることは誰でもわかるからだ。とくに加害者の家が持ち家ではなく、賃貸住宅である場合、ああいうことはまず起こらないのだが――。

重大事件の犯人の家は、実はまったく別の悲劇に見舞われているケースが少なくない。事故物件化し、いつまでも次の借り手が見つからないという悲劇だ。たとえば、北九州監禁殺人事件の松永太が借りていたマンションの部屋がそうだった。

◆20年近く経っても空き室のまま・・・

2002年に発覚した北九州監禁殺人事件は、尋常ならざる残虐性や猟奇性で社会を震撼させた。主犯の松永は、内妻の緒方純子と共に緒方の家族や知人の男性らをマンションの一室に監禁し、拷問と虐待でマインドコントロール下に置いたうえ、被害者同士で殺し合いをさせる手口により7人の生命を奪った。さらに死体はミキサーなどで分解したり、鍋で煮込んだりして完璧に解体させたうえ、海などに投棄させていたという。

そんな事件は2011年に松永の死刑判決、緒方の無期懲役判決が確定し、もうすっかり過去の事件になった印象だ。だが、私が2年前に北九州市の現地を訪ねたところ、「殺し合い」の現場となった5階建てマンションの一室は誰も住んでいなかった。事件発覚から20年近い年月が経過し、マンションは名前を変えていたが、次の借り手が見つからない状態が続いているわけだ。

室内に物が積み重ねられていた現場の部屋

マンション1階にある現場の部屋の集合郵便受けはチラシだらけで、部屋の玄関ドアの郵便受けはガームテープで塞がれていた。さらに外から部屋を見ると、窓越しに室内に物が積み重ねられているのが見え、物置のように使われているのではないかと想像させられた。事件とは無関係だった他の部屋も空き室が目立ち、大家が被った損害は相当なものだろう。

ここを訪ねると、「殺人事件の被害者は、殺された人だけではない」ということがよくわかる。

1階の集合郵便受けはチラシだらけに・・・

現場の部屋の玄関ドア。郵便受けはガムテープで塞がれていた

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

前の記事を読む »