1月26日、大阪・十三のライブハウス「GABU」で、高橋樺子(はなこ)さん(UTADAMA MUSIC)の新曲「さっちゃんの聴診器」の発売を記念したライブが行われた。満員の会場に現れた高橋樺子さんは、大好きだという真っ赤なドレスで「さっちゃんの聴診器」を歌い上げた。

高橋樺子さん

 

高橋樺子シングルCD「さっちゃんの聴診器」2023年01月26日発売 ¥1,000(税込)レーベル:UTADAMA MUSIC

高橋さんは、2007年、関西歌謡大賞でグランプリを受賞したことから、その後、審査委員長を務めた作詞家・もず唱平さんに弟子入り、2011年3月11日の東北大震災と原発事故の翌年、被災地復興支援ソング「がんばれ援歌」(作詞:もず唱平 作曲:岡千秋、三山敏)でデビュー。

もず唱平さんには、実は、一昨年、鹿砦社発行の反原発雑誌『NO NUKES voice』(現『季節』/28号=2021年6月発行)でインタビューさせて頂いた。

もずさんの父親・潔さんは、広島の「旧陸軍被服支廠(ししょう)」の現場監督で働いていたが、8月6日の原爆投下で二次被害にあい、その後原爆症を患われた。

しかし、父親が一生原爆手帳を受けなかったため、治療費などが嵩み、生活が苦しい時期もあったという。そうしたことから、次第に父親とは疎遠になっていく一方で、もずさんは反戦・平和への思いを強くしていった。そんな思いが高橋さんの熱心な復興支援活動などにつながっているのだろう。

もずさんにインタビューした際には、高橋さん、マネージャーの保田ゆうこさんから、震災後、何度も支援物資を被災地に運んだり、被災地で歌った思い出、広島に原爆を投下したB29の出撃地であるテニアン島、サイパン、グアムなど戦跡巡りなどに行かせて貰ったという貴重なお話もお聞きした。

そんな高橋さんは2015年、戦後70年の年に、もずさんが父親から聞いた原爆の体験をもとにした「母さん生きて」(作詞・もず唱平 作曲・鈴木潔)を、平和を訴える祈念歌としてリリースした。

それから7年ぶりの新曲となる「さっちゃんの聴診器」、高橋さんは、新曲にかける思いをこう語った。

さっちゃんとは、大阪の西成区でお医者さんをやっておりまして、いろいろ調べていきますと、研修時代は沖縄にいて、その後、大阪の西成にきて、路上生活者も多い釜ヶ崎という地域で、医師として、労働者の身体だけではなく、心にも寄り添う、献身的に社会貢献活動をされておりました。その矢島祥子さんのことを、私の師匠である、作詞家のもず唱平先生がドキュメンタリーとして、この作品に書きあげ、曲は、矢島祥子さんのお兄さんである敏さんに付けて頂きました。高橋樺子は、これまで『平和』をテーマに歌ってきましたが、今回、新たなスタイルの平和を、この『さっちゃんの聴診器』で沢山の方に聞いて頂き応援して頂きたいと思う曲です。

高橋樺子さん

◆「釜ヶ崎人情」が繋げた縁

もず唱平さんが「さっちゃんの聴診器」を書くきっかけとなったのが、もずさんが作った「釜ヶ崎人情」だった。もずさんの「釜ヶ崎人情」は、釜ヶ崎のカラオケのある居酒屋では「カマニン入れてや」といわれるほど、労働者に親しまれ良く歌われる曲だ。もずさんは、作詞家としてこの曲を初めて作るとき、何度も何度も釜ヶ崎に通い、飲み屋で労働者に話を聞いたという。その「釜ヶ崎人情」が、矢島敏さんともずさんを繋げていった。

「さっちゃんの聴診器」のモデルとなったのは、矢島敏さんの妹・祥子さんで、2007年4月から、西成区の鶴見橋商店街にある診療所で内科医として勤務しはじめた。その傍ら、ボランティアで野宿者支援活動に非常に熱心に取り組んでいた。給料、ボーナスを惜しみなく、野宿者らへの寝袋の購入費などに費やしたという。

しかし、2009年11月16日、西成区内の木津川の千本松渡船場で遺体で発見された。まだ34歳の若さだった。西成警察署は、当初「過労による自死」と断定した。

しかし、共に医師である群馬県の両親が、祥子さんの遺体の状態、痕跡などから、何者かに殺害されたのではないかと疑い、「事件として捜査してほしい」と訴え続け、その後ようやく自殺、事件の両面で捜査すると約束してくれた。ただ残念なことにその後捜査は進んでいない。

両親、敏ちゃんら兄弟は、毎月祥子さんが行方不明になった14日、祥子さんが勤務していた診療所のある鶴見橋商店街で、情報提供を求めるチラシ配りを支援者らと続けている。その前後、釜ヶ崎の居酒屋・難波屋や社会福祉法人「ピースクラブ」でライブを行ってきた。ライブの冒頭、支援者らと必ず歌う曲が「釜ヶ崎人情」だった。

2018年8月7日、NHKが、そうした情宣活動やライブ活動など、遺族や支援者らの活動を取材し、ドキュメンタリー「さっちゃんは生きたかった~大阪釜ヶ崎 女性医師変死事件~」が制作され、放映された、その番組を偶然自宅で見ておられたもずさん、「自分の作った曲が歌われている……」と驚かれると同時に、何かできないかと、遺族に連絡を取り、敏ちゃんらのライブにやってこられた。

初めてもずさんがライブに訪れた日のことを、敏ちゃんはこう話している。

「今日会場にもずさんという方が来られていると聞き、すぐにネットでググり、びっくりしました」。

その後もずさんは、祥子さんの故郷・群馬県で行われた偲ぶ会などにも参加し、遺族のために、何かできることはないかと考え、祥子さんのための歌を作ろうと考えた。

「曲を作るのはあなたしかいないんだ」と作曲を頼まれた兄・敏さん。こうして、もず唱平作詞、矢島敏作曲の「さっちゃんの聴診器」が生まれた。

矢島祥子さんの兄、敏さん(左から二番目)率いる「夜明けのさっちゃんズ」と高橋樺子さん

もずさんは、昨年11月に行われた偲ぶ会でこう話されていた。

昔、新谷のり子さんが歌った『フランシーヌの場合』(1969年)という曲が流行りました。『フランシーヌの場合は、あまりもお馬鹿さん……」と始まる歌を聞いて、多くの人が「フランシーヌって誰?」と思ったと思います。『さっちゃんの聴診器』も同じように『さっちゃんて誰?』と関心を持ってもらえるきっかけになればとの思いで作りました」。『もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かのために」。曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。そして若くして亡くなった矢島祥子さんに思いをはせて頂きたい。

「さっちゃんの聴診器」を作詞されたもず唱平さん(右)が、歌に込めた思いを語る

◆沖縄に移住し、新たな音楽活動、そしてラブ&ピースの活動を!

今回の新曲発表ライブのサブタイトルに「私、沖縄に移住しました」とある。そうです。もずさんが温かい場所で作詞活動を行いたいと、昨年事務所を沖縄に移したことをきっかけに、高橋さん、マネージャーの保田さんらも沖縄に移住し、新たなレーベル「UTADAMAMUSIC」を立ちあげた。

「言霊」にかけた「UTADAMA」(歌霊)では、沖縄の島唄と本土のやまとうたの「混血」ソングを目指したいという。その第一弾の「さっちゃんの聴診器」。

「もっと生きたかった この町に もっと生きたかった 誰かの為に……。」

曲のはじめに繰り返されるこのフレーズ、ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたい。一緒に口ずさんで頂きたい。

そして34歳の若さで無念の死を遂げた矢島祥子さんのことを少しでも知って欲しい!

「さっちゃんの聴診器」(作詞=もも唱平/作曲=矢島敏/編曲=竜宮嵐)


◎[参考動画]高橋樺子 ”さっちゃんの聴診器” ~short ver~

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

汚染水放出のトリチウム濃度について東電は「海洋放出の場合」 「海水中のトリチウムの告示濃度限度(水1リットル中6万ベクレル)に対して、 「地下水バイパス」及び「サブドレン水」(原発建屋周囲の地下水汲み上げ井戸)の運用基準(水1リットル中1500ベクレル)を参考に検討する、としている。

一見、法令上の規制値から40分の1に下げているので安全と思われるかもしれないが、それは誤解だ。

放射性物質による公衆の年間被曝制限値は1ミリシーベルトと定められている。

1500ベクレルとは、現在も放出されているサブドレン水及び地下水バイパスの排出運用に基づき設定された値である。これ以外にも放射性物質が漏出している福島第一原発では、法定基準値で排出したら他の放射性物質との合計で1ミリシーベルトを超えることから、トリチウムについては1500ベクレルとした。

事故によりさまざまな放射性物質を拡散させる福島第一原発では、排水中にトリチウム以外にもセシウムやスト097ロンチウムなどの放射性物質が含まれることから、それらが混在していても全体として公衆への被曝線量が法定基準内に収まるよう2012年に設定されたのである。

サブドレンとは、建屋周りの地下水を汲み上げて排水することで建屋などへ流入する地下水を低減させるために使用する井戸。地下水バイパスとは原発の上流側の海抜35メートルの高台に12本の井戸を設け、地下水を連続して汲
み上げ排水する設備だ。

アルプスで処理した水も、ストロンチウムやセシウムが全部なくなるわけではないし、その他の放射性物質も残留するとして、その値が告示濃度以下であっても環境への影響、人体への影響を抑えるために設定されている。現在は排水中のトリチウムが1500ベクレルを超えることは認められないことから、サンプリングで超えた場合はすべてタンクに貯蔵される。このことから東電はそれを目安として排出する
ことにしている。

一般の原発では存在しない1500ベクレル/リットルという基準を定めなければならないほど、福島第一原発の環境は汚染されていることを示している。

貯蔵すればトリチウムの総量は減る海洋放出について全国漁業協同組合連合会(全漁連)は、反対の意志を変えていない。県漁連と国・東電との間では「関係者の理解なしには放出をしない」ことを文書により約束している。

国も東電も反故にすることはしないという。しかし一方で海洋放出に関する「説明会」が1000回以上開催されており、既成事実化しようとしている。放射性物質は常に「減衰を待つ」ことが基本だ。

トリチウムの半減期は12.3年で、初期値が850兆ベクレルでも2052年時点で約90兆ベクレルに減る。さらに、濃縮すれば体積を大幅に削減できる。

123年経てば1000分の1になるので問題はさらに解決しやすくなる。

トリチウムの量を減らすには、時間経過を待つのが最も効率的だ。地元をはじめ多くの人々が求めているのは100年以上の長期保管だ。

これについて経産省は「2011年12月から30~40年での廃止措置終了時においては、アルプス処理水についても処分を終えていることが必要」としている。そして「貯蔵継続は廃止措置終了まで(注:最長2052年まで)の期間内で検討することが適当」と期限を切る。

東京電力は4月12日に海洋放出の関連費用が4年で計430億円に上る見通しだと明らかにした。これだけの費用を掛ければ、数年で新しく地下式のタンクで備蓄することは可能だ。地上タンクもなくすことができ、防災上も有利である。

肝心の廃炉が40年以内に完了する見通しは、まったくない。この前提で検討を進めること自体が全体をミスリードさせている。考え方を変える必要がある。ありもしないゴールを想定して汚染水放出を正当化することなど許されない。(完)

◎山崎久隆《特別寄稿》福島第一原発からの「汚染水海洋放出」に反対する
〈1〉放出にいかなる理由があるのか 
〈2〉「汚染水対策」は最初から失敗 
〈3〉「1500ベクレル」の根拠 

本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日)掲載の「福島第一原発からの『汚染水海洋放出』に反対する」を本ブログ用の再編集した全3回の連載記事です。

▼山崎久隆(やまざき・ひさたか)
たんぽぽ舎共同代表。1959年富山県生まれ。脱原発東電株主運動、東電株主代表訴訟に参加。反原発運動のひろば「たんぽぽ舎」設立時からのメンバー。湾岸戦争時、米英軍が使った劣化ウラン弾による健康被害や劣化ウラン廃絶の運動に参加。福島第一原発事故に対し、全原発の停止と廃炉、原子力からの撤退を求める活動に参加。著書に『隠して核武装する日本』(影書房 2007年/増補新版 2013年)、『福島原発多重人災 東電の責任を問う』(日本評論社 2012年)、『原発を再稼働させてはいけない4つの理由』(合同出版 2012年)、『核時代の神話と虚像』(明石書店 2015年)等多数。

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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

東電は「どのような処分方法であっても、法令上の要求を遵守することはもちろんのこと、風評被害の抑制に取り組む」(市民団体の質問への回答より)としているが、その処分方法は国の小委員会でも「大気放出」 「海洋放出」の2つしか議論されていない。地元の漁協などへの反対意見に対しても「放出」前提の対策のみで話が進んでいる。国も東電も放出以外の方法を検討していない。

2012年想定で、 2021年度末の段階では汚染水の新たな発生はなくなり、建屋内部の滞留水もデブリの冷却用に注入される日量5トンから6トン(3基合計で20トン程度)に留まるとされていた。

これは、凍土遮水壁や建屋及び周囲の土地の雨水浸入防止措置で、新たな水の流れ込みを押さえることで達成できるとしていた。

ところが、2017年頃になって、地下水や雨水の侵入防止がうまくいかないことが顕在化し、結局、当時最大でも80万立方メートル(現状の6割程度)で留まるはずが、今も増え続けている。

浸水防止の失敗が、汚染水増加を食い止められない事態を生んだ。2021年中には1日平均150立方メートルも浸入する状況になっている。

凍土壁が地下水を十分食い止めきれず、随所に漏れがあること、特に下部(底の部分)はもともと止められていないこと、建屋の損傷部や敷地の土壌部(舗装さえ完了していない)からの雨水浸入が止められないことが原因だ。

最初から、恒設の止水壁を地下に造り、 「地下ダム」を構築すると共に地上部をチェルノブイリ原発のドームのような構造物で覆うなどしていれば、汚染水の増加は防ぐことができたし、そうした主張や提案は市民から東電にも国にもされていたのに採用しなかった。また、その責任を指摘し追及する人もほとんどいない。

今からでも、これら対策を最優先にし、汚染水の発生量をゼロにする対策を構築すべきだ。

◆「放出基準値」の異常

申請されている放出方法では、汚染水は1日当たり最大約500立方メートルを排出する計画で、 「1500ベクレル/リットル」の濃度まで海水で薄めて流すという。その総量は「トリチウムで年間22兆ベクレル」で、原発が稼働していた時の管理目標値を使う。

原発の時代の管理目標値を、どうして廃炉になった原発で使えるのか、その法的根拠は何かが疑問だ。

さらに福島第一原発が実際に稼働していた時代には、年間放出量実績は平均約2兆ベクレル程度だった。実績として管理目標値の10分の1に抑えていたとも言える。ところが今度は原発でさえない(即ち経済的なメリットも何もない)施設から年間22兆ベクレルを放出するという。

40年かけて毎年22兆ベクレル放出の場合、開始時点では汚染水は総量137万トンほど、さらに毎日130トン程度溜まり続けるために、全体量はすぐに大きく減らない。現状の風景の約1000基のタンク群はそのまま。目に見えてタンクが減りはじめるのは2040年頃以降である。

東電はタンクの貯蔵限界を2023年秋とし、最長で24年1月まで貯蔵可能としている。その段階で137万トンを越えるという。しかしこれは放出開始時期を2023年春と仮定し、逆算して日量130トンの汚染水発生を推定した結果にすぎない。大型台風がひとつ襲来したり梅雨や秋の長雨でもあれば崩れてしまう。

建屋の止水を進めることが最も効果的なのだから、これを進めていけば少なくてもタンク容量から、放出時期を23年にする根拠はなくなる。単なるつじつま合わせでなく、対策と効果を正しく評価して、優先すべきことを明確にする必要がある。(つづく)

◎山崎久隆《特別寄稿》福島第一原発からの「汚染水海洋放出」に反対する
〈1〉放出にいかなる理由があるのか 
〈2〉「汚染水対策」は最初から失敗 
〈3〉「1500ベクレル」の根拠 

本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日)掲載の「福島第一原発からの『汚染水海洋放出』に反対する」を本ブログ用の再編集した全3回の連載記事です。

▼山崎久隆(やまざき・ひさたか)
たんぽぽ舎共同代表。1959年富山県生まれ。脱原発東電株主運動、東電株主代表訴訟に参加。反原発運動のひろば「たんぽぽ舎」設立時からのメンバー。湾岸戦争時、米英軍が使った劣化ウラン弾による健康被害や劣化ウラン廃絶の運動に参加。福島第一原発事故に対し、全原発の停止と廃炉、原子力からの撤退を求める活動に参加。著書に『隠して核武装する日本』(影書房 2007年/増補新版 2013年)、『福島原発多重人災 東電の責任を問う』(日本評論社 2012年)、『原発を再稼働させてはいけない4つの理由』(合同出版 2012年)、『核時代の神話と虚像』(明石書店 2015年)等多数。

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福島第一原発の事故から、早くも11年余の時が経過した。この間に何度か地震に遭遇したが、大きな被害は受けていない。この地域は常に巨大地震と津波の脅威が迫っているとされるところであり、重大事故を再発する潜在的な危険性は大きい。

発生した場合、爆発的な炉心溶融ではなく、炉心の真下にあるデブリの拡散と1000基を超える汚染水貯蔵タンクの倒壊のような、放射性物質の拡散事故が大きな被害をもたらす恐れがある。また、使用済燃料プールの冷却ができなくなり、燃料破損・溶融も懸念される。言い換えるならば、原子炉建屋の倒壊が最も危険である。

それに対する安全対策は最優先事項だ。しかし現状はそうなっていない。

政府は、2021年4月に福島第一原発のタンクに溜まり続けている「汚染水」約134万トンについて、 「海洋放出」で処分することを決定した。その理由として費用対効果と共に、汚染水タンクが地震で倒壊した場合の放射性物質大量拡散を防ぐためとしている。

しかし、海洋放出を始めたからといってすぐにタンクがなくなるわけではない。30~40年とされる「廃炉期間」の間に順次減っていく程度である。最初の数年は、見かけも減った印象などないし、地震のリスクも変わらずに存在し続ける。

福島県民や漁業関係者をはじめとして、強い反対の声を押し切ってまで強行する合理的な理由は見当たらない。また、東電は敷地をタンクが占領している状態で、廃炉に必要なデブリ取り出しの施設、設備が設置できないことを理由としている。しかしこれは合理的な敷地利用で対処可能であり、理由にはなっていない。

すでに規制委員会の審査がほぼ終わり、2022年6月には排水用地下トンネル本体工事着工、2023年春頃にも放出開始されるとされる。その最新の状況をお伝えする。

◆福島第一原発の「汚染水」とは何か

NHKは2021年4月の関係閣僚会議での海洋放出決定以降、「汚染水」という表現をやめた。「風評被害を招く」との主張が国会でされたことが原因だ。

他の報道機関も「福島第一原発の貯蔵タンクの水」を「アルプス処理水」または「処理水」と呼ぶようになっている。なお、アルプスとは「ALPS・多核種処理設備」のことだが、以下「アルプス」と表記する。

しかし、どのように表現しても「流れ込んだ雨水と地下水と、冷却用の注水が溶け落ちた炉心いわゆるデブリに接触して汚染された水」を「多核種除去設備・アルプスで処理した水」であることに変わりはない。

最初の 「汚染」 を重視するか 「処理」を重視するかで、呼び方に違いがある。汚染の大小があるにしても、トリチウムなどの放射性物質が混じる水だ。「アルプス処理」をしてもトリチウムの量が1リットル当たり数百万ベクレルにも達するものもあるので「トリチウム汚染水」とも言える。しかしアルプスを通してもストロンチウムやセシウムなどは全部除去しきれないので「(放射能)汚染水」でもある。

現在貯蔵されているタンクの水は、そのまま薄めて海に流せるものは3割以下、残りは再度アルプスで処理して流すとしているから、国の基準でも現在の水は大半が汚染水であることに変わりはない。(つづく)

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〈1〉放出にいかなる理由があるのか 
〈2〉「汚染水対策」は最初から失敗 
〈3〉「1500ベクレル」の根拠 

本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日)掲載の「福島第一原発からの『汚染水海洋放出』に反対する」を本ブログ用の再編集した全3回の連載記事です。

▼山崎久隆(やまざき・ひさたか)
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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

重信房子釈放の3日後、都内某所で行われた「リッダ闘争50周年記念集会」に寄せられた重信房子の「音声」からも、反省の気持ちは全く聞き取れなかっただけでなく、この時期既にウクライナからの避難民を積極的に受け入れている日本政府のダブルスタンダードぶりを告発する意見が述べられていた。

奇しくも同集会に寄せられたリッダ闘争の戦士岡本公三のアピールの中にも、全く同じ文章があった。

「日本では、ウクライナ戦争の避難民を歓迎しているようですが、他の難民はどうなっているのでしょうか。さらに言えばパレスチナの人々は、50年経った今もイスラエルに占領され抑圧されて、苦しい生活を送っています。この問題の解決には、まだまだ私たちみんなの努力がいるでしょう」

両者の主張は多くの日本人の胸を射る。ウクライナから来た人たちは、皆日本人の優しさに救われたと語ったそうだが、その優しさをこれまでパレスチナ人に対して示した日本人が、日本赤軍の戦士たち以外にどれだけいただろうか……と言い切ってしまうと左側の正論として処理されてしまうのが日本の現実である。


◎[参考動画]テルアビブ空港乱射事件から50年 岡本公三容疑者が記念集会参加(2022年5月撮影)


◎[参考動画]リッダ闘争50周年 5.30集会

リッダ闘争に関する日本に定着した「一般論」にも疑問が残る。常に「メディアは真実を伝えていない」と声高に叫び続ける左右の論客も、リッダ闘争の真相に関してはイスラエル側の発表を鵜呑みにしている感がある。

日本赤軍の三戦士が「死んだらオリオンの星になる」との誓いを交わし、決死の覚悟でリッダ空港の管制塔を占拠すべく、空港に到着したところ、情報を入手して待ち受けていたイスラエル軍の兵士たちが一般の乗客もろとも無差別に銃を乱射して多くの死傷者を出してしまったというのが真相だという。

アラブの民衆にとっては、結果的に一般の乗客を巻き添えにしたことよりも、わざわざアジアの東の果てからイスラエルという戦後世界体制の矛盾の集約点に乗り込んで行った日本赤軍の行動に「目醒めさせられた」との感慨を抱いたことの方が重かったようだ。


◎[参考動画]1972 Lod Airport Massacre Revisited

「リッダ空港闘争50年記念日本集会」にPFLPより寄せられたメッセージには、次のように記されていた。

「リッダ闘争の英雄たちは、彼らの血でこの真実に光を灯し、決して素直に聞こうとしない世界に、パレスチナの地で独自の方法で実行することで世界に事実を示し、解放戦士の戦いに否応なく耳を傾けさせた。
 不正義に対する抵抗闘争の象徴を打ち立て、わが民衆を恥じ入らせた(※「恥じ入らせた」に太字)。英雄・岡本公三に敬意を表する」(太字=筆者)。

冒険の人を「恥じ入らせた」ほど画期的な闘争だったのだ。リッダ闘争以後、中東を訪れた日本人は皆アラブの人々から「日本赤軍にはいったい何万人の兵士がいるんだ」と訊かれ、「50人ぐらいかな」と答えると「そんなわけないだろう」と詰問されたという。

とんでもない過大評価だが、そこまで強烈なインパクトを残した闘争を偉業という以外に適切な表現はないだろう。重信房子もリッダ闘争に関しては謝罪していない。天才は常に「善悪の彼岸」にいるのだから。

 

岡本公三(左)とファイティング原田(右)

天才は論じるものではなく
感じるものである。

……そんな結論に私は達してしまった。単なる偶然と言えばそれまでだが、私は初めて岡本公三の顔写真を見た時、ファイティング原田に似ているなと思った。

もう60年前のことだが、若干19歳の身でタイのポーン・キングピッチを破って世界フライ級チャンピオンになった彼こそはまぎれもなく「革命児」だった。打たれても打たれても前へ前へと突き進む笹崎ジムの闘争スタイル自体が、当時としては革命的だったが、未成年にしてその斬新な戦法を完璧に修得したこの男も天才だったと言えるだろう。

ただ容姿が似ているというだけではない。岡本公三にファイティング原田と同じ心意気を感じたと言ったら、ジャンルが違うと笑われるだろうか。岡本公三と共にリッダ闘争に身を投じた奥平剛士(重信房子の夫)が書き残した手記に、彼らの心情が代弁されている。

 奥平剛士
 これが俺の名だ
 まだ何もしていない。
 何もせずに 生きるために
 多くの対価を支払った
 思想的な健全さのために
 別な健全さを浪費しつつあるのだ
 時間との競争にきわどい差をつけつつ
 生にしがみついている
 天よ 我に仕事を与えよ

世の中には極少数の天才と大多数の凡人が存在するのだが「まだ何もしていない」自分を責めるのが天才の特性である。「何かをしなければならない」という使命感によって、彼は凡人であることを拒否し、天に向かって「我に仕事を与えよ」と願う……崇高な理念に殉ずる快感が天才には必要なのである。

それを「傲慢」「特権意識」と批判するのは凡人の自由だし、批判されても仕方がない天才もいることはいる。

20世紀最高の天才は誰かと言えば、私はためらうことなくアドルフ・ヒトラーの名前をあげるのだが、この人を善人だったと思う人は世界中に一人もいない。いたら相当な変質者だろうが、しかしヒトラーやナチスに関する研究書や評伝は戦後70年を過ぎて尚、現在に至るまで夥しい数量出版され続けている。ソックリな俳優を起用した映画も作られていて、これがまたなかなかの優れモノだ。

でもネ。ヒトラーを打ち負かした側の指導者、チャーチルやルーズベルト、スターリンの評伝を、あなたは書店で見かけたことがありますか? そんなもの出したって売れるわけがないことを出版社が承知しているからですよ。

真の勝者は誰だったのか? 歴史って案外粋な判定を下すものだと今は思える。

そして今また山上徹也とかいう人物が元首相の安倍晋三を狙撃死亡させる事件が発生したおかげで、テロリズムが脚光を浴びているようだ。

犯行が選挙期間であったために、野党政治家までが「民主主義の否定だ」「テロはいけない」「暴力はいけない」と心にもないコメントを口にしていた。「安倍一強の長期政権を倒せなかった自分たちにも責任がある」ぐらい言えないのかと思った。

私自身、汚染水の海洋放出がいよいよさし迫っているにもかかわらず、いっこうに原発の問題を争点にしない野党には愛想が尽きて、選挙という国家事業に関心がなくなっていただけに、山上徹也の行為には内心忸怩たる思いを禁じ得なかったのは事実である。

日本赤軍がアラブの民衆を「恥じ入らせた」(「恥じ入らせた」に傍点)と同じ感性的反応の兆しがそこにはある。しかし、私はやはり山上徹也という人物に共感を抱くことは出来なかった。もし、彼が統一協会に家庭を破壊された恨みから凶行に及んだのではなく、福島の原発事故で避難を強いられ、避難先でイジメられた少年時代を過ごしたというトラウマをかかえ、社会からの疎外感に苦しんでいたというなら、民主党が廃炉にすると決めていた原発を「安全基準が満たされれば」という条件つきで再稼働に舵を切った首相を抹殺しようとする気持ちにも、同情の余地はあっただろう。

また、私とて勝共連合には不快な思いをさせられたことが何度もあるし、2・26事件の青年将校が1500名の兵を率いて行った義挙を、たった一人でやり遂げた行動力には脱帽すべきところがあり、長年心の友であったデューク東郷の面影も見えはする。

はっきり言って、これまで私の前で「安倍晋三を殺したい」と言った若者は一人や二人ではない。どこまで本気なのか疑わしい限りだったが、彼等の誰よりも山上徹也にはリアルな存在感があった。動機が忌わしい家庭の事情であったせいだろうか。

逆に三島由紀夫や重信房子から痛烈に感じられた「荒唐無稽」なまでの天才のロマンが全く感じられない。それにしても、やはり、今さら(未だに)重信房子に感じている私って、少しおかしいのかなあ、と正解のない問いを自分に向かって発し続けるしかない真夏の夜の私なのである。


◎[参考動画]安倍元首相銃撃事件 SPに取り押さえられた山上徹也容疑者 2022.7 大和西大寺駅前

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

昨年師走、旧友・白井順君と研究会をやっていた方から手紙が届き、白井君の死を知らされた。亡くなったのは8月6日で、急に連絡が取れなくなり皆で心配していたところ親族の方から知らされたという。毎号送っていた『紙の爆弾』もここのところ宛先不明で返送されてきていたので確認しようと思っていた矢先だった。ショックだった。

 

白井順編著『思想のデスマッチ』(エスエル出版会発行、鹿砦社発売。1986年。在庫僅か)

白井君とは、おそらく1979年だったと微かに記憶しているが、装幀家にして活字研究家である府川充男さんの紹介で知り合った。

府川さんは当時『同時代音楽』という雑誌を編集・発行されていて突然に送ってこられた。私たちが創刊した『季節』に第一次ブント(日本共産党から脱党し結成された、60年安保闘争の新左翼主流派)の資料を復録したことに気づかれ、偶然にも『同時代音楽』にも復録されていたからだ。

府川さんは編集者としても優秀で、右も左もわからず出版の世界に入ろうとしている私たちを見兼ねて装丁を引き受けていただき、編集や校正の基礎から教えていただいた。今でも思い出すが、府川さんがなされた校正紙は、まさに芸術品といえるもので、教えられることが多かった。

白井君は私よりも1歳年下ということもあり、ほとんどが私よりも年上で、錚々たる方々だったことで、年下ということや、彼の飾らない脱力系の人となりに自然と仲良くなった。それなりに学識もありながら決して威張ったり見下したりはしない男だった。

温厚で、彼が意見の対立で口角泡を飛ばして怒鳴り合っていることなど見たことがない。

印象的だったのは、『同時代音楽』に「愛の執念の経済学」という文を掲載し、「連載」という触れ込みだったが1、2回で頓挫したと思う。雑誌自体が休刊したからだ(その後府川さんは『リベルタン』という雑誌を創刊するが、これも創刊号が廃刊号になってしまった)。「愛の執念」とは、歌手・八代亜紀の初期のヒット曲である。それと「経済学」がどう結び付くか、けっこう難解な文だったと記憶がある。

今や、マルクス経済学とか宇野経済学とかいっても知らない人のほうが多いだろうが、当時はまだ神通力を持っていた。哲学者・廣松渉先生(元東京大学教授。故人)も白井君を高く評価されていたが、白井君は修士を修了しているので、彼ほどの学識だったら、どこかの大学に潜り込むことは優に可能だったはずだ。しかし彼には出世欲とか、世俗での栄誉などとは無縁だった。家庭教師などアルバイトで最小限の収入を得ながら、自由に好きな分野の研究に勤しんでいた印象だ。

 

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都  学生運動解体期の物語と記憶』(鹿砦社。2017年。現在品切れ)

もう一つ思い出されるのは、2011年の東日本大震災の前々日だったか、かねてから病と闘っていた府川さんを一緒に見舞いに行ったことだろうか。府川さんは、かつては恐れを知らない強いイメージがあったが、この時の別人のような形相にもショックを受けた。病はこれほど人を変えるのか……。世界的なミュージシャン・坂本龍一は「府川軍団」の一員だった。

ここに来て、少なからずの知人や友人が黄泉の世界に旅立って行った。惜しい人ばかりである。晩年15年ほど密なお付き合いをさせていただいた山口正紀さんもそうだし、お連れ合いが広島被爆二世で若くして亡くなったことで反原発を信条とした納谷正基さん、『週刊金曜日』の社長(発行人)だった北村肇さん(私と同期)、そして白井君もそのひとりである。

「埋葬の日は、言葉もなく/立会う者もなかった、/憤激も悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった/空に向かって眼をあげ/きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。/「さよなら、太陽も海も信ずるにたりない」/Mよ、地下に眠るMよ、/きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」(鮎川信夫「死んだ男」より)

白井君がただ一度「デジタル鹿砦社通信」に寄稿してくれた一文を以下再録しておきたい。──

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

白井順「『同時代音楽』― 廣松渉研究会」の記憶
2018年1月13日付け「デジタル鹿砦社通信」より再録)

昨年(引用者注:2017年)出版された松岡利康+垣沼真一編著『遥かなる一九七〇年代―京都』を読んでいたら、巻末に、懐かしい『季節』誌の表紙画像が並んでいました。

『季節』5号、6号、7号(エスエル出版会発行、鹿砦社発売)

『季節』8号、9号、10号(エスエル出版会発行、鹿砦社発売)

 

『同時代音楽2-1』(ブロンズ社。1979年)

1980年代、5号、6号あたりから『季節』誌と関係ができていった、東京の「『同時代音楽』― 廣松渉研究会」について、以下、主に府川充男『ザ・一九六八』(白順社。2006年)から引用しながら思いだしてみます。

私がこの読書会に参加したのは「廣松渉研究会という名称」となってからのことでしたが、それまでの経緯を、府川氏から引用しておきましょう。

「高橋(順一)に遣ろうかと呼掛け、早大の運動仲間水谷洋一や更に白井順も加わって此酒場(「新宿三丁目の酒場セラヴィ」)を中心に行われた読書会が「廣松渉研究会」の前身である」(府川『ザ・一九六八』)

「高橋(順一)と早大時代の運動仲間水谷、音楽ライターの後藤美孝等に読書会でもしないかと持掛けた。/「何を遣ろうか」/「デカルトから遣り直したい」/そう言えば坂本龍一も交ぜろと言っていたのだが、スタジオ・ミュージシャンとして売れ出していた頃で結局一回も来なかった。慥か最初はハイデガー『存在と時間』で先ずは「読書会の勘」を取戻そうと云う事になった。続いてデカルト『方法序説』『省察』『哲学原理』等と併せて勁草思想学説全書の所雄章『デカルトI・II』や永井博『ライプニッツ』、岩崎武雄『カント』等を読んだ。取分け所雄章の『デカルトII』は現象学の先駆の如き存在としてデカルトを読込む可能性を示唆していて新鮮だった」(同上)。

1970年代にもなると、マルクス読みの作法にも変化があらわれてきていました。それまでマルクス読みの「異端」とされていた宇野弘蔵の「マルクス経済学」の方法や、「関係論」にもとづく「実体観」からマルクスを読み込んだ廣松渉の「物象化論」などが、むしろマルクス読みの主流となってくるなかで、からっとマルクスを読むことも可能となっていた。

一般に流通していたアドラツキー版を「”偽書”に等しい」とし、70年代、河出書房から訳書と原書の豪華箱入り2冊セットの廣松版『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』まで出版されていた時代でした。

 

府川充男『ザ・一九六八』(白順社。2006年)

「疎外論から物象化論へ」のフレーズで一世を風靡した廣松渉の、大風呂敷のゆえに年代を飛び越えたかのような「四肢的存在論」は、詩心を排除し徹底的に抽象化することでかえって、「曖昧な」現代世界も人類史上の他の諸世界と遜色ない「人間」世界とみなすことを可能にした。だからこそ「絵に描いたようなはっきりした世界」だけを特別あつかいしてきたそれまでの「疎外論」「人間主義」「主体性」などへの批判としても通用したのだろう。

もともと「学校の授業」などとは無関係に、当時のマルクス経済学の「宇野(弘蔵)理論」にハマっていた私は、いわば「武者修行・腕試し感覚」で法大の経済学専攻修士課程に在籍していました。廣松渉が東大教師になる前、一年間だけ法政にきていた時期とたまたま重なっていたので、『ドイツ・イデオロギー』を扱った哲学専攻の廣松ゼミの単位も取れたのでした。

法政時代の「マル経」専攻の友人たちのなかには高校時代に府川氏のグループだったひとも何人かいました。しかし、もともと音楽マニアだった私は『音楽全書』(『同時代音楽』の前身に相当する)誌の巻末にあった「廣松渉研究会の参加者募集」の呼びかけをみて、参加したのでした。新宿の喫茶店『プリンス』の地下、多いときには隔週くらいの読書会だったと記憶しています。

「途中から白井順も参加してきて、デカルト以前の中世的世界像の輪郭を辿る為にアレクサンドル・コイレ『コスモスの崩壊』等も繙いた。第三世界論の議論になった時には湯浅赳男『民族問題の史的展開』『第三世界の経済構造』、いいだもも『現代社会主義再考』等を題材にした。此読書会は軈て廣松渉研究会という名称となる。何しろ、我々にとって廣松渉の著作は60年代の彼此(アレコレ)への強力な解毒剤であった。『マルクス主義の地平』『世界の共同主観的存在構造』『事的世界観の前哨』『資本論の哲学』等の読書会を次々と遣ったと記憶している」(同上)。

「此読書会は軈て廣松渉研究会という名称となる。何しろ、我々にとって廣松渉の著作は60年代の彼此(アレコレ)への強力な解毒剤であった」(府川充男「「六八年革命」を遶る断章」、さらぎ徳二編著『革命ロシアの崩壊と挫折の根因を問う』)。

70年代の、廣松のこの感覚での受容のされかたは、なかなか対象化されていません(かろうじて、70年代を区切りに「廣松さんの場合は個人のアイデンティティから人々を解放したし、山口(昌男)さんの場合は共同体の持っている価値とか規範の重みから人々を解放した」という大澤真幸『戦後の思想空間』があったし、最近岩波文庫化(2017)された『世界の共同主観的存在構造』への熊野純彦による「解説」も、同じ熊野じしんによる「講談社学術文庫」版(1991)への解説と比較すると変わってきているとはおもいますが)。

詩心ゼロの文体。立ち位置の必然性のなさ。読者にうっとり感情移入させない主人公設定(学知的立場?)。少なくとも私にとっては廣松のこの部分こそが画期的だったのです。

▼白井 順
1952年生れ。法政大学大学院(修士)修了後、高橋順一、府川充男、坂本龍一などと共に「廣松渉研究会」に参加。著書に『思想のデスマッチ』(エスエル出版会)など。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆

[引用者注]

当時のエスエル出版会は松岡と駒見俊道(故人)が創業し、単独取次口座開設ができず、鹿砦社を発売元としていた。その後(1988年)、鹿砦社の経営を松岡が引き継ぎ本店所在地を兵庫県西宮に移転する。長年「エスエル出版会発行、鹿砦社発売」と表記していたが、1994年頃から鹿砦社単独の表記にする。そのため一時エスエル出版会は休眠状態となるが、『紙の爆弾』創刊後に雑誌の独立性を堅持するために復活、鹿砦社と一定の距離を置くことになった。中川志大が代表取締役となり本店も東京に移転し現在に至り、『紙の爆弾』は、「エスエル出版会発行、鹿砦社発売」である。

また、当時の『季節』は思想史・運動史専門誌であり、現在反原発雑誌として発行されている『季節』とは主旨が異なるが、かつて一世を風靡した『宝島』がリニューアルする毎に主旨を変えたことと同じと考えられたい。

あまりの素人っぽい造本に見かねて府川さんは5号から装丁も引き受けてくれた。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

◆出所前夜の恐れ

20年という不当に長い刑期を終えて、重信房子が出所する日が近づくにつれ、私の精神状態は少しばかり不安定になっていた。

出所後は「謝罪と療養に専念する」なんて弱気なコメントを本人が口にしているという情報を耳にしてしまったからだ。マスコミを通じて大衆向けに流布された公式見解とは思えば、これは警察にフェイントをかけるニセ情報、と解釈すればすんだ類の話だが、どうもそうではなかったようで、支援者たちから伝わって来るのは重信房子が本音で「謝罪と療養」の余生を過そうとしているという……当惑せざるを得ない「噂の真相」だった。

およそファンの心理として、憧れの対象であるアイドルに「謝罪」なんかされたらイメージダウンどころの騒ぎじゃない。アイドルはファンの絶対的な精神の規範であるべきで、その絶対性をアイドル自らが否定する「謝罪」という行為は、ファンに対する裏切りであるとも言えるのだ。

では、重信房子の「謝罪」が精神的に不安定な状態を作り出すことを恐れた私は、重信房子のファンだったのかと自問すればそうだったとしか言いようがない。ただし隠れファンと言うべきだったかもしれない。

重信房子

「謝罪と療養」発言で逆に自分が彼女のファンであったことに気づかされたような気もしている。ファンの心理はファンでない人たちから見れば子供っぽい過剰な美意識に過ぎないだろうが、実はそこから生じるエネルギーが人間の精神力の中では最も純粋で無限の熱量を秘めていることを、私は既に幾度となく感受している。

思い起こせば1969年2月、東大安田講堂での徹底抗戦に呼応して「神田解放区」の市街戦を貫徹した翌月に、さて母校日大のバリケードは解除され流れ者となったわれら日大全共闘は、お茶の水の明治大学の学生会館の1室に身を寄せていた。その頃の神田駿河台近辺の緊迫した空気が、今懐かしく思い出されるのは、あの当時はまだ無名であった重信房子と、明大周辺の路上や『丘』という学生の溜り場になっていた古風な喫茶店で一度や二度は顔を合わせていたに違いないなんて、後づけの創作的回想に浸ってしまえるからか。


◎[参考動画]神田カルチェ・ラタン闘争 1969年

私が重信房子の存在を知ったのは70年代になって以降ではあったが、当時はもう日本にいなかった重信房子とそれ以前の一時期、同一の地域で別個に活動していたという事実が、記憶に新しい意味を添加さする淡い倒錯に導く。その偏向は、やはりファン心理と呼ぶべき現象ではないだろうか。

そんなわけで重信房子が獄中にいる間、私の心の片隅には、もし無事に満期の務めを終えて出所されるならば、願わくば日本赤軍を再結成してもう一度、「世界同時革命」の旗を掲げてほしいと、無責任に勝手な夢想を抱いてしまう欲求が生じては消えていったのだ。

今でこそ、いやずっと以前から「世界同時革命」等「荒唐無稽」な観念の暴走に過ぎないというメディアの押しつけ総括が、1億総保守リベラル化した現代日本の大衆を洗脳してしまったように思えるが、重信房子のアラブでの大活躍が報じられていた頃、日本の若者たちの熱狂的な支持を集めていたロックバンド頭脳警察は『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』『銃をとれ』等々、日本赤軍への共鳴を露骨に表現していた。

『赤軍兵士の歌』はブレヒトの詩をそのまま歌っただけの言わばカヴァー曲だが、あの時期にこんなタイトルの曲を持ち出されたら、どうしても日本赤軍への讃歌としか聞こえなかった。

今、パンタ(頭脳警察のリーダー)がどういう心境であるのかは知らないが、よもやかっての楽曲にこめられた思いを否定するようなコメントを口にするとは考えられない。もちろん20年の獄中闘争を貫徹し、医療刑務所内で数回も癌の手術を受けたという重信房子への評価が変ったとも思えない。かって日本赤軍=重信房子の信奉者であり、自らもロック・バンドを率いてアイドルの立場にいた彼も出獄後の重信房子の「謝罪」を恐れていたのではないかと思われる。

アイドルが「謝罪」したり「反省」したりすることが、かって自分に追従して来た多くのファンを見棄てる「転向」に繋がるのは、ファンとしても辛いところなのだ。
 
◆しかし、重信房子は天才だった!

 

重信房子

私自身は自分が天才であるという自覚を持ったことは一度もないが、天才もしくは天才的人物を認知し、天才が時代の中で果たした役割とその存在意義を解明する慧眼については人後に落ちぬものがあると自負している。

これまで鹿砦社からだけでも、三島由紀夫、アントニオ猪木、X-JAPANのYOSHIKI、あるいは飯島愛、そしてローリング・ストーンズ、ポール・マッカートニー等の評伝やフォト・エッセイ集を出版しまくった。

皆、時代を画期する天才ばかりだった。(約1名を除いて)職業は作家、プロレスラー、ミュージシャン、AV女優と様々だが、単なるエンターテイナーという以上の影響力を大衆の一部に与えることで一定程度の社会的混乱状態を作り出したと言える。

恐らくそれが天才の定義と合致するのだろう。天才とは第一に発想が新鮮であり、第二に時代に対してアンチであり、第三に他人の批判に耳を貸さない強い確信に支えられているというのが私の自論である。

もちろん重信房子はかつてこの天才の定義にぴったりあてはまっていた。そして今は、出所後の重信房子が不安定になっていた私の精神状態を一応安定させてくれたことを報告しておきたい。

刑務所の門前で、重信房子は確かに「謝罪」という言葉を口にした。しかしそこには「50年も前のことではありますが」という前置きがあった。そこから「もう昔のことだから謝罪の必要なんかないんだけども」というニュアンスが伝わって来た。

そして当日は予想通り右翼団体の街宣車が押しかけて、やかましく奏でられる軍歌をバックに「極左テロリスト」「人殺し」等の罵声を浴びせられ、それが逆に重信健在を印象づけたことも否めない。

仮釈放でもないのに「今後も監視し続ける」という警察官僚のコメントも、重信房子御当人を勇気づけたことだろう。少なくとも「長い、長い獄中闘争、本当にお疲れ様でした。しかもそれが、癌との闘いを伴ったのですから、筆舌に尽くせないものだったと拝察します」「出所したばかりの貴方の前には、解決しなければならない問題が山積していることでしょう。まずは、メイさんをはじめ愛する人々の中でゆっくり体を休め、その問題の解決から始めながら、闘いの鋭気を養ってください」(小西隆裕=在ピョンヤン)というような励ましともいたわりとも区別出来ない種のメッセージよりずっと、闘士をかきたてられたはずである。(つづく)


◎日本赤軍・重信房子元最高幹部が出所会見ノーカット(2022年5月28日)

◎板坂 剛「何故、今さら重信房子なのか?」〈前編〉
     「何故、今さら重信房子なのか?」〈後編〉
※本稿は季節33号(2022年9月11日発売号)掲載の「何故、今さら重信房子なのか?」を再編集した全2回の後編です。

▼板坂 剛(いたさか ごう)

作家。舞踊家。1948年福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と1970年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 1968年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年2月号

《1月のことば》頑張れ自分 負けるな俺(鹿砦社カレンダー2023より。龍一郎揮毫)

新しい年、2023年を迎えました。
昨年はいろいろな意味で暗い年でした。
昨年の今頃はまだウクライナ戦争は起こっていませんでした。
一国の首相が殺されるなどと誰が想像したでしょうか。
新型コロナの勢いは3年経っても衰えません。

ウクライナ戦争は、当初の予想に反し、まだ続いています。
いつこの国に飛び火するかわかりません。
かつて私たちはベトナム戦争に抗議の声を挙げました。
日本だけでなく世界中で抗議の声が挙がりました。
そうした抗議の声が続いたからこそベトナム戦争は終わり、
日本の平和も80年近く維持できていると思っています。
これからはどうでしょうか?

コロナ禍を躓きの石として私たちの出版社も、他の中小企業や書店などと同様苦しみもがいています。
もう17年余り前になりますが、『紙の爆弾』創刊直後の、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧の時同様、皆様方のご支援でふたたび奇跡の復活に向けて苦しみもがいています。
おそらくコロナがなかったなら左団扇で社長交代もあったでしょう。
今は社長交代どころか生きるかくたばるかの瀬戸際です。

1月の言葉は別のものでしたが、急遽変更になりました。

「頑張れ自分 負けるな俺」

まさに今の私たちの心境を表わす言葉です。
みずからに更に鞭を打ち、この苦境を突破するしかありません。
本年もよろしくお願い申し上げます。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

 

※本稿は『季節』2022年夏号(2022年6月11日発売号)掲載の「何故、今さら昭和のプロレスなのか?」を再編集した全3回連載の最終回です。

昭和という特殊な時代に、大衆的な人気を獲得したスポーツ(と敢えて言っておく)の代表がプロ野球とプロレスであることに異論の余地はないと思われる。

しかし両者には大きな違いがあった。プロ野球には外人選手はチラホラといたが、日本人のチームに助っ人として参加していただけしていただけで、外人選手ばかりのチームがあったわけではない。

プロレスはそこが違った。昭和のプロレスは最初から日本人対外人の構図が売りだった。そこで大衆(観戦者)心理は当然民族主義的になる。

「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」

 

「無敵黄金コンビ敗る 日大講堂の8500人、暴徒と化す」(1962年2月3日付け東スポ)

こんな見出しの記事が出ているスポーツ紙をトークショーの当日に私はターザン山本と観客の前に提示した。昭和37年2月3日に日大講堂で行われたアジアタッグ選手権試合で力道山・豊登組がリッキーワルドー・ルターレンジの黒人2人組に敗れ、タイトルを失った「事件」の記録だった。

「決勝ラウンドは『リキドーなにしてる、やっちまえ』という叫び声の中で豊登がレンジの後ろ脳天逆落としで叩きつけられフォール負け。無敵の力道山・豊登組が敗れた。一瞬……茫然となった8500人の大観衆は、意気ようようと引き揚げるワルドー、レンジに”暴徒”となって襲いかかった。『リキとトヨの仇討ちだ』『やっちまえ』『黒を生かしてかえすな』とミカン、紙コップを投げつけ、イスをぶつける。怒り狂ったレンジとワルドーが観客席へなだれこみ、あとは阿鼻叫喚……イスがメチャメチャに飛び交い、新聞紙に火がつけられてあっちこっちで燃え上がる。『お客さんっ、お願いしますっ、必ずベルトはとりかえします。お静まりくださいっ』力道山がリング上からマイクで絶叫する」

記事の文面から察するとかなりの反米感情が当時の大衆にはあったように思われるが、そう簡単に割り切れる状況ではなかった。

昭和37年と言えば、マリリンモンローが死んだ年であり、後に『マリリンモンロー、ノーリターン』と歌った作家がいたように、大半の大人たち(男性)はアメリカの美のシンボルの死に打ちのめされていた。われわれ当時の男子中学生がその死を超えることが出来たのは、既に吉永小百合が存在していたからである。

一方、女子中学生たちはやはり同年公開された『ブルーハワイ』のテーマ曲を歌うエルヴィスの甘い美声に酔いしれていた。アイゼンハワー米大統領(当時)の来日を阻止した全学連の闘いが、全人民の共感を呼んだのは2年前のことだったが、所謂60年安保闘争の標的は岸信介であってアメリカ政府ではなかった。二律背反という言葉が脳裏をよぎる。

当時の日本の大衆心理を簡単に定義すれば、政治的には反米、文化的には親米ということになるだろうか。もちろん双方にマイナーな反対派はいた。

昭和のプロレスは力道山時代に限って言えば、アメリカの下層大衆の娯楽であるプロレスを日本に持ち込んだので、文化の領域に属するわけだが、第2次世界大戦の軍事的敗北を根に持っている大衆が昭和30年代まではまだまだ多かったのだろう。軍事は政治の延長という説に基けば、その種の怨恨も政治意識とは言えないこともない。故に文化的であって政治的な変態性ジャンルとしてのプロレスが成立し成功したのだろう。

プロレスとは正反対の健全な娯楽性を維持していたプロ野球の世界でも、シーズンオフに米大リーグからチームを招いて日本選手の代表チームとの「日米親善」と銘打った試合が行われたことはある。プロレスの場合、日米対決は定番だったが、しかし「日米親善」という雰囲気が会場を包んだことはなかった。

前述した暴動が起こったアジア・タッグ選手権試合の現場写真を見ると、まるで数年後にブレイクした学生運動の乱闘場面かと思わせる迫力が感じられる。(場所が日大講堂だっただけに……)

その写真はプロレスが秩序を否定する文化、即ちカウンターカルチャー(反抗的文化)であることをはっきり示していると思われる。

それにしても、力道山・豊登組を破ったリッキーワルドー・ルターレンジの2人が黒人だったからと言って……「黒を生かして生かしてかえすな」はないだろう。

カウンターカルチャーにだって品格というものがあるんじゃないかね。刺される直前に「ニグロ、ゴーホーム」と叫んだ力道山と同様に、こういう発言を口にする者には相応の裁判が待っていると考えるべきなのかもしれない。

◆ミスター・アトミック(原子力)はプロレス界の悪役だった!
 

 

ミスター・アトミック(原子力)

プロ野球とプロレスの大きな違いに悪役の存在がある。と言うか悪役が存在するプロスポーツなんてプロレス以外にはないことは明らかなのだが、実は『昭和のプロレス大放談』の最中に、私はある1人の悪役レスラーのことを思い出していた。

その名をミスター”アトミック”という。私の知る限り、来日した最古の覆面レスラーである。まだ原発など大衆の視野にはなかった時代だから、最初から力道山の好敵手として悪役を演じた彼が日本では”アトミック”と名乗ったのは、やはり日本人にとって忌まわしい思い出となっている原爆をイメージさせようとしたからだろう。

昭和のプロレスは他のプロスポーツよりはるかに多量のエネルギーを、同時代人に与えてくれた。そのエネルギーは悪役の存在があったからこそ放出された。

今思えば悪役の1人だったミスター”アトミック”は、原子力が悪のエネルギーであることを正直に表明していたとも言える。今さら「原子力はクリーンなエネルギーである」と開き直る奴らに、彼の試合のビデオがあったら見せてやりたいものである。

ミスター”アトミック(原子力)”は決して、一度たりともクリーンなファイトをしなかった。(完)

◎今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏を偲び、本日12月23日(金)午後5時30分(午後5時開場)より新宿伊勢丹会館6F(地中海料理&ワインShowレストラン「ガルロチ」)にて「昭和のプロレス大放談 PART2 アントニオ猪木がいた時代」が緊急開催されます。板坂剛さんと『週刊プロレス』元編集長のターザン山本さん、そして『ガキ帝国』『パッチギ!』などで有名な井筒和幸監督による鼎談です。詳細お問い合わせは、電話03-6274-8750(ガルロチ)まで

会場に展示された資料の前に立つ筆者

▼板坂 剛(いたさか・ごう)
作家/舞踊家。1948年、福岡県生まれ、山口県育ち。日本大学芸術学部在学中に全共闘運動に参画。現在はフラメンコ舞踊家、作家、三島由紀夫研究家。鹿砦社より『三島由紀夫と一九七〇年』(2010年、鈴木邦男との共著)、『三島由紀夫と全共闘の時代』(2013年)、『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(2017年)、『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』(紙の爆弾2018年12月号増刊)等多数

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年冬号(NO NUKES voice改題 通巻34号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

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