世の中には不思議な事件が色々あるが、2015年4月にJR東京駅で起きたコインロッカー老女死体遺棄事件もその1つだ。発生からまもなく2年になるが、事件は今も未解決。現場のコインロッカーのかたわらには、老女の似顔絵が描かれた警察の情報募集のポスターが貼り出されたままだ。現場を訪ね、事件の真相に思いをめぐらせた。

現場を行き交う人々は誰も情報募集のポスターを一瞥もしない

◆身元特定の手がかりは揃っている印象だが……

事件が発覚したのは2015年5月31日。JR東京駅構内でコインロッカーに無施錠で放置されていた黄色いキャリーバッグの保管期限が過ぎたため、駅職員が中身を確認したところ、中から老女の死体が出てきたという。

警視庁によると、このキャリーバッグがロッカー内に放置されたのは同4月26日。死体の年齢は70歳以上で、身長は140センチくらい。体型はやせ型で、ベージュのカーディガンなどを着ていた。額に5ミリ大の「骨腫」のような隆起があり、歯は抜けているか、または入れ歯だったという。

老女の死体はこのような特徴的な容姿をしていたうえ、埼玉県西部のパチンコ店で配られたタオルも一緒にキャリーバッグに入れられていたとの報道もあった。これほど手がかりがあれば、すぐに死体の身元は判明しそうなものだが、そうはならなかった。警視庁は老女の似顔絵やキャリーバッグの写真も公開して情報を求めているが、有力な情報が集まらないまま時間ばかりが過ぎているようだ。

◆犯人の目的は一体何だったのか?

現場を訪ねてみたところ、問題のコインロッカーは丸の内南口の改札を入ってすぐの場所にあった。通勤時間帯ということもあり、実に多くの人が行きかっていた。しかし、コインロッカーのかたわらの壁に貼られた老女の似顔絵が印象的な情報募集のポスターに、行き交う人々は一瞥もせずに通り過ぎていく。こうした状況を見ると、都会の人たちの自分以外の人間への無関心さが警察に有力情報が集まらない原因の一つではないかとも思わされた。

それにしても、と気になったことがある。犯人がここに老女の死体を遺棄した目的だ。

というのも、死体には事件性を疑わせる痕跡はなかったとされるが、老女の死の原因が何であれ、東京駅のコインロッカーに人間の死体など入れていたら、いずれ発見されることは犯人も当然わかったはずだ。それにも関わらず、犯人が老女の身元特定を困難にするために何らかの工夫をした形跡はまったく見受けられない。犯人はおそらく死体が見つかっても構わないと思っていたのだろうが、それならばここに死体を遺棄した目的は何だったのか……。

ただ一つ確実だと思えるのは、老女は社会との接点が乏しく、孤独な人だったのだろうということだ。老女が普通に社会生活を営み、家族と仲良く暮らしているような人ならば、さすがに2年も身元不明のまま放置されることはないはずだからだ。

現場のコインロッカー周辺を足早に行き交う人々の流れを見ながら、ふと切ない思いにさせられた。

現場のコインロッカーのかたわらに貼られた情報募集のポスターは独特の雰囲気

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン!

久しぶりの講演に会場は満員!
「共謀罪」が政治過程に上る中、
「名誉毀損」に名を借りた自らの逮捕・勾留事件の体験を話す!

松岡利康=鹿砦社代表

4月15日(土)夕刻、東京・水道橋の「たんぽぽ舎」が運営する会議室「スペースたんぽぽ」に多くの方々に集まっていただきました。久しぶりに私が12年近く前(2005年7月12日)の自らの逮捕・勾留事件について話す機会を与えていただいたからです。会場は、予想を越えて90名近くの方々で満員、熱気溢れる講座でした。菅直人元首相の講演以来の盛況だったとのこと、当初用意したレジメ・資料30セットでは足りずに、慌てて増刷りをしたほどでした。

この集まりは、たんぽぽ舎が3・11以来適宜継続的に行っている講座の一環で、実に今回が460回目だということです。今回は「浅野健一が選ぶ講師による『人権とメディア連続講座』」の第8回で、テーマは「表現の自由弾圧事件--懲罰としての逮捕、長期勾留」。私は「私が巻き込まれた、『名誉毀損』に名を借りた出版弾圧事件」について自らの体験と、逮捕以来12年近く思ってきたことを話させていただきました。

単なる地方小出版社の経営者にすぎない私の話になぜ多くの方々が関心を抱き参加されたかというと、「共謀罪」なる稀代の悪法が政治過程に上り国会審議が始まったからだと思われます。主催のたんぽぽ舎や浅野健一さんの狙いもここにあるのでしょうか。

つまり、私が逮捕・勾留された当時は、これに至るには刑事告訴→検察(あるいは警察)受理→捜査という一定のプロセスを経るわけで、それなりの日数もかかりますが、「共謀罪」が制定されれば、法的なお墨付きが出来るわけですから、そのプロセスは必要なく、すぐに逮捕することが可能になります。参加者が多かったのは、この危機感をみなさんが感じ取られていたからでしょうか。

◆「表現の自由」「言論・出版の自由」は〈生きた現実〉の中で語るべきだ

講座の内容は、追ってYou Tubeでも配信されるということですから、詳しく知りたい方はそれをご覧になっていただきたいと思いますが、私の話の概要は次の通りです。

一 事件の経緯、二 人権上問題となること、三「表現の自由」「言論・出版の自由」とは何か?、四「表現の自由」「言論・出版の自由」上の問題
ということでした。

私が最も言いたかったことは、憲法21条に高らかに謳われながらも形骸化、空洞化しつつある「表現の自由」「言論・出版の自由」──耳障りの良いこれらの言葉を机上でこねくりまわすのは簡単ですが、それではまさに〈死んだ教条〉になってしまいます。「共謀罪」や権力弾圧がリアルに〈生きた現実〉として迫っているのですから、私たちも〈生きた現実〉として語らなければならないということです。

事件の経緯を振り返れば、事件の一因となった書籍を刊行したのが2002年4月、それから出版差止仮処分、刑事告訴、逮捕→勾留、有罪判決(懲役1年2カ月、執行猶予4年)と民事訴訟での高額賠償金(600万円+利息)、控訴審、上告審を経て確定、執行猶予を不服とする再告訴、これが不起訴となる2011年6月まで9年間の月日が掛かり苦しめられました。本当にきつかった。これは体験した者でないとわかりません。

この間に、私が経営する出版社「鹿砦社」は壊滅的打撃を蒙り、いちどは地獄に堕ちました。正直「もうあかん」と思いましたし、弁護士もそう思ったとのことでした。しかしながら多くの方々のご支援により運良く再起できました。私も「このままでは終われない」と死に物狂いで働き運良く再起できましたが、普通は死に物狂いにもがいて地獄に堕ちたままでしょう。

「こいつはイジメたらんといかん」と警察・検察・権力に目をつけられたら、それは凄まじいものです。当時「ペンのテロリスト」を自称し、「巨悪に立ち向かう」と豪語、これが当時警察キャリアを社長に据えていた警察癒着企業や警察・検察を刺激し、警察のメンツにかけて本気にさせてしまったようです。

今でも「われわれにタブーはない!」をモットーとする私たちの出版活動に対しては批判も少なからずありますが、私たちを批判する人たちの多くは、自らは〈安全地帯〉にいてのものです。果たしてどれだけ体を張った言論を行っているのか!? 私は半年余り(192日間)ですが、1カ月でも2カ月でも拘置所に幽閉されたらキツいぞっ!

◆心ある方々のご支援で奇跡的再起を果たした私たちは〝支援する側〟に回ります

私、および私の出版社「鹿砦社」は、奇跡的ともいえる再起を果たすことができました。私も死に物狂いに働きましたが、保釈後挨拶に出向き塩でも撒かれ追い返されるかと思いきや高級すし屋に招いてくれ、「人生にはいろんなことがあります。私は支援しますので頑張ってください」と激励し仕事を受けてくださった印刷所の社長(当時)はじめライター、デザイナーさんら多くの方々のご支援の賜物と言わざるをえません。私の能力など、出版業界では並で、大したことはありませんから。本当に有り難い話で、事件から12年近く経ち、あらためて感謝する次第です。

私たちは今、再建なった中で、3・11以降、たんぽぽ舎はじめ幾つかの脱原発の運動グループを継続して些少ながら支援しています。いちどは壊滅的打撃を蒙りながら地獄から這い上がってこれたことへの〝恩返し〟です。かつて支援された側が、今度は支援する側に回ります。もう支援される側には戻りたくありません。

また、私たち鹿砦社は脱原発を今後の出版方針の一つとして定め、たんぽぽ舎のお力を借りて脱原発情報マガジン『NO NUKES voice』を創刊し、すでに11号を数えました。脱原発の老舗市民グループ・たんぽぽ舎はもう30年近くになるということですが、脱原発をライフワークとされる柳田・鈴木両共同代表はじめスタッフの方々のピュアな想いにも励まされ、齢65になった私の今後の方針も見えてきました。鹿砦社東京編集室の〝隣組〟ということもありますが、今後共、最大限共同歩調を取っていきたいと思います。

最後になりましたが、今回の講座で東京で久しぶりに、くだんの「名誉毀損」逮捕事件について話す機会を与えてくださったたんぽぽ舎のみなさん、及び逮捕直後から支援され今回も自身の連続講座の一つに組み入れてくださった浅野健一さんに感謝いたします。 

(鹿砦社代表・松岡利康)

〈原発なき社会〉を求める声は多数派だ!

『NO NUKES voice』11号

当欄で昨年12月28日と今年2月17日に紹介した「知られざる冤罪」米子ラブホテル支配人殺害事件の控訴審で被告人の石田美実さん(59)に対する判決公判が先月27日に広島高裁松江支部であり、栂村明剛(つがむら・あきよし)裁判長は懲役18年の一審・鳥取地裁判決を破棄し、石田さんに無罪判決を宣告した。

3月10日に最高裁で逆転無罪判決を受けた広島の元アナウンサー・煙石博さん(70)に続き、これまで当欄で伝えてきた冤罪事件で月に2度も逆転無罪判決が出たわけだ。有罪率99.9%の日本の刑事裁判において、極めて珍しい幸福の連鎖と言えるが、この2つの冤罪事件には「知られざる共通点」がある。

石田さんに逆転無罪が宣告された広島高裁松江支部

◆妥当な無罪判決

「原判決のうち、有罪部分を破棄する。被告人は無罪」

改修工事が終わったばかりで、まだ建物が真新しい広島高裁松江支部の第200号法廷。午後1時30分から始まった判決公判で、栂村裁判長がそう宣告すると、傍聴席の記者たちが一斉に席を立ち、法廷の外に駆け出した。「逆転無罪判決」が出たことを速報するためである。

事件の内容については、すでに当欄では詳述したので、ここでは省略する(そこから知りたい人は後掲の関連記事を読んで欲しい)。判決内容についても、まだ判決文を入手できていないので、細かい論評は控えたい。ただ、栂村裁判長の判決朗読を聴いていた限りでは、無罪推定の原則に従った妥当な判決だと思えた。「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという言い方で、一審判決の有罪認定をことごとく否定していたからだ。

日本の刑事裁判では、無罪推定の原則はお題目と化しており、否認事件の判決では、「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという曖昧な言い方で、被告人に不利な事実認定がなされて有罪と結論されることが非常に多いのが現実だ。栂村裁判長がこれまでにどのような裁判をしてきたかを私は知らないが、普段からこういう判決を出してきたのなら、かなり良い裁判官と言える。

被告人席で判決の朗読を聴いていた石田さんは無表情で、手放しで喜んでいるような様子ではなかった。「自分は元々無実なのだから、無罪判決が出て当たり前」という思いなのではないかと想像させられた。一方、捜査段階から弁護人を務めてきた2人の担当弁護士は、弁護人席でたまにうなずいたり、目のあたりを手で押さえたりしており、胸に熱いものがこみ上げているのではないかと思われた。

いずれにしても、無実の人に無罪判決が宣告されるのは喜ばしいことである。


◎[参考動画]元従業員に逆転無罪判決 米子のホテル支配人死亡で(ミドpomピカット2017年3月27日公開)

◆月に2度も冤罪を暴かれた裁判長と検察官

では、この事件と3月10日に最高裁で逆転無罪判決が出た煙石博さんの事件の「知られざる共通点」とは何か。

それは第1に、裁判官である。というのも、石田さんに対し、一審の裁判員裁判で懲役18年の冤罪判決を宣告した鳥取地裁の辛島明裁判長は、広島高裁であった煙石博さんの控訴審で右陪席の裁判官だった。広島高裁から鳥取地裁に異動し、今度は裁判長として再び無実の人を冤罪に貶めたわけである。

「知られざる共通点」の2点目は、検察官である。というのも、石田氏の控訴審判決公判に立ち会った2人の検事のうち、中澤康夫検事は、広島高裁であった煙石さんの控訴審でも公判を担当していた。その頃からずっと広島高検にいたのかと思いきや、調べたところ、煙石さんの控訴審が終わった後、高松高検に異動になっており、今年1月に広島高検に戻ってきて、石田さんの控訴審の公判を担当したらしい。

この中澤検事は煙石さんの控訴審では、控訴棄却の判決を受けた煙石さんが怒りの声をあげているのをニヤニヤしながら見つめていたのをはじめ、公判中に不遜で、いやみったらしい態度が目についた。そんな検事がひと月に2度も担当した事件で逆転無罪判決を受けたことには、正直、胸がすく思いだった。

冤罪問題に関心のある人には、この機会にぜひ、辛島明裁判長と中澤康夫検事の名前を覚えておいてもらいたい。そして、この2人が他でも何か重大な冤罪事件に関与しているようであれば、ぜひ情報提供をお願いしたい。


◎[参考動画]元アナウンサーに逆転無罪 最高裁「重大な事実誤認」(共同通信社2017年03月10日公開)

〈追記〉
なお、私はこの事件について、6月8日発売の冤罪専門誌「冤罪File」でもより詳細にレポートする予定なので、関心のある方はぜひご覧頂きたい。

【関連記事】
◎2016年の冤罪判決──再審無罪も出た一方で裁判員裁判で新たに2件の冤罪判決(2016年12月28日)

◎鳥取の「知られざる冤罪」──米子ラブホテル支配人殺害事件、控訴審も結審(2016年2月17日)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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新小学1年生とおぼしき子供たちが真新しいランドセルを背負って登下校する姿を見かけ、微笑ましい思いにさせられる今日この頃。そんな「はじまりの季節」に私は、ある痛ましい事件を思い出す。2015年に世を騒がせた愛媛県八幡浜市の乳児5死体遺棄事件だ。犯人の女はすでに懲役7年の判決が確定して服役しているが、あまり報道されなかった裁判では、思った以上にむごたらしい事件の内実が明らかになっていた――。

◆いつのまにか終結していた裁判

「臨月のように大きかったお腹がへこんだのに、子供の姿が見えないんです」

事件は近隣住民のそんな通報から発覚したという。2015年7月、愛媛県警は八幡浜市の無職、W(当時34、女性)を死体遺棄容疑で逮捕した。Wが実父や弟、中学生の息子と一緒に暮らす家の物置などから赤ちゃん5人の死体が見つかり、Wは相次いで子供を産み、殺害した疑いがあるとされた。

事件は注目を集め、「実父との近親相姦で出来た子供を殺していたのではないか」などの憶測が飛び交った。だがその後、松山地裁であったWの裁判員裁判はあまり報道されなかった。2016年1月、懲役7年の判決が出て、Wの裁判は終結していたのだが、そのことを知っている人はマレだろう。

新聞報道によると、赤ちゃん5人の死体が見つかりながら、Wが起訴されたのは1人の女児に対する殺人罪だけで、他の4人に対する殺人罪は嫌疑不十分で不起訴になったという。それ自体が不可解だが、そもそも赤ちゃんたちの父親は誰だったのか。私は取材を進め、裁判員裁判の判決を入手したが、それを読み、思わずため息をついてしまった。

Wが逮捕された当初、メディアは事件を一斉に報道したが、続報はあまりなかった

◆次々に妊娠していた本当の理由

〈被告人(筆者注・Wのこと)は、平成18年(2006年)頃に元夫と離婚し、父、弟及び長男と同居するようになったが、家計を支えるため、短時間で日払いの高収入が得られ、苦手な人付き合いも少ない仕事として風俗店で勤務するようになり、平成20年頃風俗店での収入が減少すると、出会い系サイトを利用しての売春もするようになった。被告人は、より高い料金を得られることなどから避妊せずに売春したことで同年頃妊娠し、一旦中絶の予約もしたが、代金が高いため手術を受けることなく早産し、その後も避妊せずに売春したことで妊娠出産してはその死体を自宅物置きに置くことを何度か繰り返しながらも、避妊せずに売春を続けていた〉(Wに対する判決より)

つまり、Wは家計を支えるために否認せずに売春を重ね、妊娠を繰り返していたのだが、驚くのは「ピルで避妊する」という発想すらなかったことである。私はWに対し、生命の尊さをわかっているのか否かということ以前に、知的能力に相当な問題があったのではないかと思わざるを得なかった。

唯一立件された2015年7月に女児を殺害した件については、Wは自宅の風呂場でこの女児を出産し、すぐに口と鼻を手でふさいで窒息死させたという。判決はこの事件について、こう批判している。

〈家族や行政機関への相談の道もありながら何ら相談することなくむしろ拒絶し、結局本件に至ったのであるから、その意思決定は厳しく非難されるのが当然である〉(同前)

この批判はもっともだが、Wがなぜ、家族にすら相談しなかったのかも不思議だ。Wは40代前半で社会復帰することになるが、出所後は真っ当に働き、真っ当に生きていけるのか、他人事ながら心配だ。

Wの子供として生まれ、生きることを許されなかった乳児たちは順調に成長していれば、今ごろはランドセルを背負って、小学校に通い、楽しい学校生活を送っていたかもしれない。取り返しのつかない罪を犯したWには、せめてきちんと社会復帰して欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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無実を訴える被告人の勝又拓哉氏(34)が宇都宮地裁の裁判員裁判で有罪判決(無期懲役)を受けて4月8日で1年になる今市女児殺害事件。冤罪の疑いを指摘する声が非常に多い事件だが、実を言うと、勝又氏の自白調書には一読しただけでわかる明白な嘘がある――。

有希ちゃんが行方不明になった現場には供え物が絶えない

◆取り調べの録音録画で有罪とされたが……

2005年12月に栃木県今市市(現・日光市)で小学1年生の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が殺害された事件で、勝又氏が殺人の容疑で検挙されたのは事件から8年半が経過した2014年6月のこと。昨年春にあった勝又氏の裁判員裁判では、物証の乏しさが指摘されたが、有罪の決め手となったのは取り調べの録音録画映像だった。

「決定的な証拠はなかったが、取り調べの録音録画を観て、間違いないかなと思った」

判決後の会見で、裁判員たちは異口同音にそう言った。裁判で無実を訴えた勝又氏だが、捜査段階にはいったん容疑を全面的に認めており、公判では、勝又氏が取り調べで否認から自白に転じていく過程を録音録画した映像が法廷のモニターで再生された。裁判員たちはその映像から有罪心証を固めたのだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(1)

しかし、勝又氏の取り調べはすべてが録音録画されていたわけではなく、部分的に録音録画されていただけだった。そんな事情もあり、録音録画されていない取り調べで勝又氏が自白を強要されていたのではないかと疑う人が続々現れた。それが、この事件に冤罪の疑いを指摘する声が多い一番の理由だ。

かくいう私も裁判員裁判は全公判を傍聴し、勝又氏のことを冤罪だと確信している。ただ、皮肉なのは、取り調べの映像にばかり注目が集まったため、結果的にもっとわかりやすい冤罪の根拠が見過ごされてしまったことだ。というのも、検察官は公判の終盤、証拠採用された4通の自白調書を法廷で朗読したのだが、それを注意深く聞いていれば、それだけで自白の嘘は簡単に見受けたからである。

◆「服装はよく覚えていない」という決定的な不自然

では、勝又氏の自白にどんな嘘があるのか。具体的に見てみよう。

勝又氏の自白によると、犯行の際は栃木県鹿沼市の自宅から今市市の有希ちゃんの小学校の近くまで車で赴き、1人で歩いて下校している有希ちゃんをさらったことになっている。そして勝又氏は自白調書でこの時のことを振り返り、有希ちゃんの服装について、次のように供述している――。

「有希ちゃんは赤いランドセルを背負っていたことは覚えていますが、服装はよく覚えていません」

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(2)

勝又氏の自白が決定的におかしいのは、この部分だ。その理由は第一に、勝又氏が自白調書の他の部分では、有希ちゃんの衣服や靴について、次のような供述をしているのと整合しないことだ。

「自宅アパートに連れ込んだ有希ちゃんをベッドでうつ伏せにさせ、上着をハサミで切り、上半身を裸にしました。そして有希ちゃんのズボンも腰から脱がし、パンツも脱がし、完全に裸にしました(以下、わいせつ行為をしたような供述が続く)」

「有希ちゃんを殺害し、遺体を遺棄したあとは1週間から2週間くらいかけ、有希ちゃんのランドセルや靴などを細かくハサミで切って、ごみ袋に入れ、それらを自宅アパートの前のゴミ捨て場に何度かに分けて捨てました」

勝又氏が本当にそんなことをしたならば、有希ちゃんの服装のことを覚えていないということがありえるだろうか。

◆県内のあちこちで「有希ちゃんの服装」は見かけたはずだが……

事件の日から勝又氏が検挙されるまでに8年半も経過しているから、「本当に犯人でも有希ちゃんの服装を忘れた可能性があるのではないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、それはありえない。なぜなら、勝又氏が検挙されるまで8年半も「未解決」だったこの事件では、栃木県内のあちこちにここに掲載したような犯人の情報を求める警察のポスターが貼り出されていたからだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(3)。これで服装を供述できないとは……

このポスターに出ている有希ちゃんの事件当日の服装は黄色いベレー帽や、「とっとこハム太郎」の絵が描かれたピンクのスニーカーなど極めて特徴的だ。事件があった頃からずっと栃木県内に住んでいた勝又氏が仮に犯人ならば、このポスターをまったく目にしていないとか、このポスターに出ている有希ちゃんの服装をまったく記憶していないとは考え難い。

げんに勝又氏は自白調書において、次のような供述もしている――。

「コンビニとか交番とか町中のあちこちに有希ちゃんを殺した犯人の情報提供を求めるポスターが貼られていて、それを見るたびに怖い思いがしていました」

これほどポスターのことを気にかけていながら、ポスターにわかりやすく描かれた有希ちゃんの服装について、自白できなかった勝又氏。それだけでも自白の信ぴょう性など無いに等しいというほかない。

第一審が終わり、1年が過ぎたため、現在は東京高裁に控訴中の勝又氏の控訴審が始まる日もそう遠くないだろう。私は控訴審も取材する予定なので、また続報をお届けしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
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年度末の3月は大阪母子殺害事件やミナミ通り魔殺人事件、神戸小1女児殺害事件など重大事件の裁判で相次いで判決が出たが、4月以降も重大裁判は目白押しだ。冤罪の疑いがある事件の中で要注目は、「2度目の裁判員裁判」が行われる見通しの志木市妻子放火殺人事件。被告人の男性は2015年に裁判員裁判で一度は無罪判決を受けながら、控訴審で無罪判決を破棄される憂き目に遭ったが、この事件では「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっている――。

◆一度は無罪判決が出たのだが……

事件は2008年12月3日の早朝5時過ぎ、東武東上線の志木駅から北東1キロ余りの住宅街で起きた。会社員の山野輝之さん(当時34)とその家族が暮らす2階建ての家から火の手が上がって全焼。火災時に外出していた山野さんと、2階の窓から脱出した長男(同12)は無事だったが、鎮火後の焼け跡からは妻(同34)と長女(同4)の焼死体が見つかった。

この痛ましい火災をめぐり、山野さんが殺人や現住建造物等放火の容疑で埼玉県警に逮捕されたのは5年後の2013年8月のことだ。山野さんは火災当時、妻と別れて別の女性と再婚したいと望んでいたのだが、妻が離婚を拒み、別れられないでいた。そして火災後、再婚を望んでいた女性と実際に再婚している。そういったことが警察には疑わしく思えたらしい。

そんな山野さんが2015年3月、さいたま地裁であった裁判員裁判で無罪を判決受ける決め手になったのは、警察が模擬家屋で行った燃焼事件だった。その実験結果と山野さんが車で外出する様子をとらえた近所の防犯カメラ映像をもとに検証すると、山野さんが外出後に出火した可能性が浮上したのだ。

ところが、検察官が控訴すると、控訴審の東京高裁は2016年7月、「燃焼実験は再現性が認められない」などと指摘したうえで裁判員裁判の無罪判決を破棄し、裁判員裁判をやり直すように命じた。弁護側がこれを不服として最高裁に上告したが、今年2月、最高裁が上告を棄却し、山野さんはもう一度、裁判員裁判で裁かれることになったのだ。

このあたりに現場の山野さん宅はあった。今は別の家が建っている

◆妻に「真犯人の可能性」が指摘される理由

有罪率が99・9%を超える日本の刑事裁判。無実を訴える被告人はその厳しいハードルを越えて無罪判決を取っても、英米法では認められていない検察官の上訴にさらされ、逆転有罪判決を受けることもある。山野さんもまさにそういう悲劇に見舞われたわけだが、無罪判決が出た裁判員裁判では、冒頭で触れたように「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっていた。それは、焼死した妻である。

というのも、妻は事件当時、境界性人格障害の特徴を併せ持つ解離性障害を有しており、しばしば衝動的な自傷行為に及ぶほど病状は深刻だった。証人出廷した2人の医師によると、妻は事件の約7カ月前には、「頭の中に声もきて、“死ネ”と言ってくる」などと幻聴を示唆する発言をし、事件の約5カ月前にも、「死にたくなり、カミソリを持ってきてしまったりする」などと述べ、入院を勧められていた。そして事件の1カ月前、最後に医師の診察をうけた際には、頼りにしていた山野さんが離れていくと感じ、家庭に不安を感じているという発言をし、腕を強く掻いて腫らすなどの行動をとっていたという

また、こうした病状のため、妻は事件当時、睡眠薬を服用していた。この睡眠薬には、せん妄や奇異反応といった意識を変容させる副作用があり、とくに妻のような解離性障害の人には、意識変容を起こさせやすいものだったという。そこで、こうした睡眠薬の副作用から妻が放火したのではないかとの疑いが浮上したわけである。

山野さん宅近くの防犯カメラには、火災の少し前に外出する山野さんの姿が映っていたが……

この「妻=真犯人説」について、証人出廷した2人の医師のうち、1人は「睡眠薬による副作用の可能性は低い」と否定的だったが、もう1人は「解離性障害に陥り、衝動性が高く、自傷行為を繰り返す人は、実際に自殺してしまうことがある」「薬の副作用が放火行為を促進した可能性も考慮すると、妻が放火した可能性は高い」という見解だった。結果、裁判員たちは後者の見解を採用し、「妻が解離性障害の影響下での睡眠薬などの副作用で犯行に及んだ可能性がある」と判断したのだ。

これに対し、無罪判決を破棄した控訴審・東京高裁の裁判官は、高裁で証言した医師の見解をもとに判決で妻が火災発生時に睡眠薬の作用で眠っていた可能性が高い指摘したのだが、複数の医師が別々の意見を述べている中、医学の素人である裁判官が正しいジャッジを下せたのかは疑問だ。こういう時は本来、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に従った判断をすべきではなかったか。

再びさいたま地裁の裁判員裁判で有罪、無罪が争われることになったこの事件。今後も適時、続報をお伝えしたいと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。その主犯格の関根元死刑囚(75)が3月27日、収容先の東京拘置所で病死した。稀代の猟奇殺人犯として知られた関根死刑囚だが、娘にはデレデレの甘い父親という一面を持っていた。

関根死刑囚が営んでいた犬猫の繁殖販売業の犬舎

◆「お父さんっ子」だったという娘

「ボディを透明にする」。自分の殺人手法をそう豪語していたとされる関根死刑囚。被害者たちの遺体を細かく解体して燃やしたうえ、残骸を山や川に遺棄し、殺人事件の存在自体をほぼ完ぺきに証拠隠滅していたことから、検挙に至るまでに警察捜査は難航したとされる。ミュージシャンの泉谷しげる似の武骨な風貌。ライオンや熊を家で飼っていたというワイルドな私生活などは猟奇殺人犯らしいエピソードには事欠かない。

私がそんな関根死刑囚に関心を抱いたのは、共犯者とされて一緒に死刑確定した元妻の風間博子氏(60)について、冤罪の疑いを抱いたのがきっかけだ。確定判決では、風間氏は4人の被害者のうち、3人の被害者の殺害を関根死刑囚と共謀したとされるが、裁判では「関根の指示に逆らえず、遺体の損壊や遺棄に一部関わっただけだった」と冤罪を主張。実際、風間氏が前夫との間にもうけていた息子は「母は、関根のDVに苦しみ、奴隷のようだった」と証言し、「関根には逆らえなかった」という風間氏の主張を裏づけていた。風間氏は現在も支援者らに支えられ、無実を訴えて再審請求を行っている。

一方、良い話があまり聞かれない関根死刑囚だが、風間氏との間にもうけた娘Nさんによると、実の娘にはデレデレの甘い父親だったという。

「父は、母や兄には暴力をふるっていましたが、私には本当に優しくて、何をしても怒りませんでした。それに私が何か欲しいと言うと、何でも買ってくれました。思い出のプレゼントは、小学校3年生の時に買ってくれたテディ・ペアのヌイグルミ。当時の私と同じくらいの身長で、一目ぼれした私が『欲しい』と言ったら、父が『買おうか』と言って買ってくれたんです」

今から3年ほど前、Nさんは私の取材に対し、懐かしそうにそう語った。関根死刑囚のことが大好きで、「お父さんっ子」だったと自認する彼女の話を聞いていると、稀代の猟奇殺人犯も普通の父親としての顔を持っていることを感じさせられた。

◆娘への手紙に書いていた「ある言葉」の意味は……

関根死刑囚が病死するまで収容されていた東京拘置所

Nさんによると、20歳の頃に一度、関根死刑囚から「会いに来て欲しい」という手紙をもらったが、その時は「父がどんなふうになっているのか見るのが怖くて・・・」と面会に行かなかった。すると、関根死刑囚はそれ以来、Nさんの面会に応じなくなり、関係が途絶えてしまったという。そんなNさんが気になっているのが、関根死刑囚がかつて手紙に書いてきた「ある言葉」だ。

「父からの手紙には、『お母さんをNのもとに帰してあげるね』と書いてあったんです。あれは一体何だったんだろうと・・・」

殺人については無実を訴えていた風間氏が裁判で関根死刑囚と共謀して3人を殺害したと認定された大きな要因は、関根死刑囚が「犯行を主導したのは妻だった」と証言していたことだ。関根死刑囚がNさん宛ての手紙に書いてきた言葉を素直に解釈すれば、関根死刑囚は風間氏が無実であるという真実を打ち明け、風間氏に再審で無罪を取らせることを考えていたのではないか。

この私の推測が当たっているか否かについて、関根死刑囚本人の口から真相が語られることはもう永遠にない。残念だ。

※なお、拙著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、風間氏が有罪、死刑とされた裁判の問題点が詳述されているほか、風間氏が自分の潔白や子供たちへの思いを綴った手記を収録されている。


◎[参考動画]埼玉愛犬家連続殺人事件起訴へ(1995年2月ニュース映像)

◎[参考動画]埼玉の愛犬家殺人 関根死刑囚が病死(NHK3月27日10時24分)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

2014年に神戸市長田区で小1の女児、生田美玲ちゃん(当時6)が殺害された事件で、殺人や死体損壊・遺棄、わいせつ目的誘拐の罪に問われた君野康弘被告(50)に対する控訴審の判決公判が3月10日、大阪高裁であり、樋口裕晃裁判長は「殺害に計画性が認められない」などと述べ、第一審・神戸地裁で裁判員らが下した死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。前日に判決公判があったミナミ通り魔殺人事件の礒飛京三被告(41)から2日連続で大阪高裁が裁判員裁判の死刑判決を破棄した形だが、実を言うと、君野被告の死刑判決破棄は初公判の前からあらかじめ決められた結論だったふしがある。

死刑判決を破棄した大阪高裁

◆たどたどしい受け答え

昨年12月16日、大阪高裁の第201号法廷で行われた君野被告の初公判。上は紺色の薄手のダウンジャケット、下はグレーのスウェットパンツという姿で現れた君野被告は、逮捕から2年以上続く獄中生活のためか、顔は青白かった。短く刈り込んだ頭髪も白いものが目立ち、いかにも生命力が弱そうな印象だった。

この公判では、被告人質問も行われたが、君野被告は法廷に現れた時の印象通り、たどたどしい受け答えに終始した

弁護人「一審判決では自分の身勝手さや攻撃性と向き合ってないと言われたけど、どう思った?」
君野被告「その通りだと思いました」
弁護人「今はいきなり首を絞めたり、包丁で刺したことをどう思ってる?」
君野被告「・・・・・・」
弁護人「現在はどう思ってるんだろう?」
君野被告「・・・・・・しっかり反省し、これからはそういうことがないようにしたいです」
弁護人「自分がしたことをどう思う?」
君野被告「ひどいことをして申し訳ないという思いがますます深まっています」

いまいちかみ合わないやりとり。反省しているのを訴えたい思いは感じるが、それを実現できない貧しいボキャブラリー。一審の死刑判決は君野被告について、〈知的能力は、心理検査の点数上は知的障害と正常の境界域にある〉としていたが、実際そうなのだろう。

一審の死刑判決によると、君野被告は下校中の美玲ちゃんにわいせつ行為をしようと、「絵のモデルになって欲しい」と声をかけて自宅アパートに連れ込んだ。そして騒がれずに身体を見たり触ったりしたいと考え、美玲ちゃんの首をビニールロープで絞め、包丁で首を4回以上刺して殺害。その挙げ句、死体を包丁でバラバラにして複数のビニール袋に入れ、近くの雑木林に遺棄したとされる。社会を騒がせた凶悪事件の犯人が普段は弱々しい人物であることは珍しくないが、君野被告もまさにその1人だった。

◆検察官の追及にタジタジに

それでも弁護人の尋問では、君野被告は日々、被害者の冥福を祈りながら写経をし、反省を深めていることを訴えた。しかし、検察官の反対尋問では案の定、厳しい追及によりタジタジにされてしまうのだ。

検察官「反省が深まったというのは一審でも言っていましたが、それ以後、具体的に反省がどう深まったの?」
君野被告「・・・・・・」
検察官「答えられない?」
君野被告「・・・・・・はい」
検察官「じゃあ、般若心経を写経しているそうだけど、その般若心教がどういう意味かは調べてるの?」
君野被告「・・・・・・」
検察官「本で勉強したことはないの?」
君野被告「あります」
検察官「どういう意味だと書いてあった?」
君野被告「忘れました・・・・・・」

公判慣れした検察官にとっては、君野被告のような知的能力の低い被告人を追及し、答えに窮させることはきっと朝飯前なのだろう。

一方、弁護側は君野被告が美玲ちゃんを誘拐した動機について、「わいせつ目的ではなく、お酒を飲みながら話をしたかった」と主張。さらに現在、養子縁組をして君野被告を支えようしている女性が存在することなども死刑回避の事情になりうることだと訴えていた。

だが、質問役として登場した美玲ちゃんの母からは逆に「あなたが養子縁組をしたと聞いて、私たち家族がどんな気持ちになるか考えなかったんですか?」と責め立てられ、君野被告は「すみません。考えませんでした」と小さくなるばかり。何をやっても裏目になっている印象だった。

◆年度内に片づけたい思惑がミエミエだった裁判長

では、初公判はそんな状態だったにも関わらず、なぜ死刑破棄が「あらかじめ決められた結論」だったと言えるのか。それは、樋口裁判長が初公判の最後に「第2回公判で結審しますので、第2回公判の日時だけでなく、判決公判の日時も決めてしまいしょう」と言い、初公判が終わった時点で早々と判決公判を「3月10日か同15日」と決めてしまうなど「この事件は年度内に片づけたい」という思惑がミエミエだったからである。

私はその様子を見ながら、樋口裁判長らは「控訴棄却」という結論を決めて初公判に臨んでいるのだろうとばかり思っていた。しかし実際には、死刑回避を最初から決めていたのである。大阪高裁で2日連続で起きた、まったく予想できない死刑判決の破棄。裁判とは本当にわからない。

君野被告が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

不当逮捕で長期勾留されている沖縄平和運動センター議長の山城博治さん

15日に発売された『NO NUKES voice』第11号には福島現地からの声も当然満載されている。特集Ⅰは「3・11から6年──福島の叫び」だ。原発事故をきっかけに大熊町の町会議員になった、木幡ますみさんは震災が起きたあの日、あの時刻に偶然にも友人たちと「原発震災」の話をしておられたそうだ。まさかの偶然が現実の悪夢となって、どれほど恐ろしい思いをされたことであろうか。木幡さんは静かに、ひたひたと怒りをつづっている。

原発推進標語「原子力明るい未来のエネルギー」が街に飾られる標語に採用された経験を持つ大沼勇治さんは、この6年間、被災地で脚光を浴びた方の一人でもあった。自身が「騙されて」作った標語を未来への教訓として残すべく、双葉町に働きかけたり、本誌でご紹介した通り、元の標語の前に立ち原発を批判するメッセージを掲げたり様々な行動をしてこられた。大沼さんだからこそ味あわなければならなかった、苦渋と決意があかされる。佐藤幸子さんは事故後早い時期から文科省をはじめとする政府機関や東電への抗議の先頭に立ち、鋭い批判や行動力を発揮されてきたが、運動の中でも過酷な事態に直面したことを告白されている。福島敦子さんは京都へ避難し裁判闘争に直面せざるをえなくなる。

被災者は異口同音に政府の欺瞞を糾合し、健康被害への過小評価、事故は「無かったこと」にしようとする政府を中心とする動きに真っ直ぐな異議を申し立てている。健康被害同様、事故の「風化」への危機感も同様だ。何よりもまず、被災しながらくじけることなく闘い続ける人たちの声を聞こう。専門家と自称し嘘を語って儲けにしている人間に対しての対抗言語の最強の反撃は、闘い続ける被災者の声の中にある。

特集Ⅱは「逆流の原発輸出 本流の原発破綻」だ。間もなく上場廃止が避けられない状況まで屋台骨が傾いた「東芝」。優秀な電気関連機器、半導体メーカーとしてその名を世界にとどろかせていた「東芝」は原発に深入りし過ぎたために、破たんを迎える。山崎久隆さんの解説は日経新聞よりも正しく詳細にその原因を解き明かす。

森山拓也さんはトルコへの原発輸出策動を現地の人がどのように受け止めているかを、トルコの反原発運動家の声を通じて紹介している。井田敬さんは先日憲法裁判所がパククネ大統領弾劾を決定するに至った韓国における市民運動と原発産業の現状を、昨年11月自身が訪韓した際の取材を中心に報告する。100万人を超える集会が開かれている大事件を多くの日本人は知らない。井田さんの報告はパククネ弾劾に至る韓国の多様な市民運動の姿を知る格好のテキストだ。佐藤雅彦さんは「原発ゼロの世界地図」を解説、須藤靖明さんは主として九州の火山と原発の危険性を指摘する。

その他各地の運動情報や報告も満載だ。『NO NUKES voice』は絶対に福島第一原発事故を風化させない。

国際的にも不当な長期勾留が問題視される中、一刻も早い山城さんの保釈を!

◆山城さんの「訂正と謝罪」文をそのまま1頁掲載

ところで、本号には少し異色な1頁がある。本日17日、那覇地裁で初公判をむかえる沖縄平和運行センター議長、山城博治さんからの「山城博治インタビュー記事に関する訂正及び謝罪」だ。山城さんには『NO NUKES voice』10号にご登場頂き、私が伺ったお話をそのまま掲載した。ところが取材直後に山城さんは不当逮捕されてしまい接見禁止とされたために、ご本人にインタビュー原稿を確認して頂くことが出来なかった。

編集部としては問題なしと判断しそのまま前号に山城さんのインタビューを掲載したのであるが、拘置所にいまだに閉じ込められている山城さんが前号をお読みになり、弁護士の先生を通じて「訂正をしたい」旨のご連絡があった。通常の取材であれば、取材に応じて頂けた方に確認をして頂いた後に記事を掲載するのだが、上記の事情により山城さんご本人に確認することなくインタビュー記事を掲載し、それにより山城さんには大変なご心配をおかけしたことを、私自身深く反省し、お詫びを申し上げたい。

山城さんの「訂正と謝罪」は頂いた文章をそのまま1頁掲載した。「訂正と謝罪」にも山城さんのお人柄が溢れている。重ねて山城さんと、訂正記事掲載にご協力いただいた沖縄平和運動センターの皆様と弁護団の先生方にお詫びとお礼を申し上げる。国際的にも不当な長期勾留が問題視される中、一刻も早い山城さんの保釈を!


◎[参考動画]脱原発集会での山城博治さんのスピーチ(2016年3月26日原発のない未来へ!全国大集会)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求める『NO NUKES voice』11号

『NO NUKES voice』11号発売開始!

2012年6月に大阪・ミナミの路上で2人の男女が殺害された通り魔殺人事件で、殺人罪などに問われた礒飛京三被告(41)の控訴審判決公判が9日、大阪高裁で開かれ、中川博之裁判長は「計画性は低く、精神障害の影響を否定できない」などと述べ、一審・大阪地裁で裁判員らが下した死刑判決を棄却し、無期懲役を宣告した。この結果は私にとって、大変意外なものだった。前回公判を傍聴した際、死刑が回避されそうな雰囲気は微塵も感じられなかったからである。

礒飛被告が凶器の包丁を購入した現場近くの百貨店

◆「地裁の判決に従ってもらいたい!」

「今からでも遅くはありません。すみやかに控訴を取り下げ、地裁の判決に従ってもらいたい!」

昨年12月22日、大阪高裁の第201号法廷。被害者参加制度を利用し、公判に出席した被害者遺族の男性は証言台から被告人と弁護人に対し、怒鳴りつけるようにそう言った。被告人席の礒飛被告は表情こそポーカーフェイスだったものの、メモをとる手がとまって身をすくめ、遺族の怒りの意見陳述に気圧されているような雰囲気が窺えた。

覚せい剤取締法違反で2度の服役歴がある礒飛被告が事件を起こしたのは、2度目の服役を終え、出所した翌月だった。生まれ育った栃木で仕事が見つからず、刑務所内で知り合った男から「仕事を紹介してやる」と言われて大阪へ。しかし、紹介された仕事は詐欺や覚せい剤の密売人だったため失望。そして翌朝、覚せい剤精神病による「刺せ。刺せ」という幻聴に促され、ミナミの路上で音楽プロデューサーの南野信吾さん(当時42)と飲食店経営の佐々木トシさん(同66)の2人を包丁でめった刺しにして殺害したのだ。

◆遺族の陳述により死刑維持の雰囲気が出来上がっていたが……

一審・大阪地裁の裁判員裁判は責任能力の有無が争点になったが、判決は犯行時の礒飛被告に完全責任能力が認め、死刑を選択した。この地裁の死刑判決に従うように法廷で礒飛に求めた冒頭の男性は、南野さんの実父Aさんだ。近年、心臓と大腸ガンの手術を相次いでうけ、「今ここに立っているのが奇跡に近い状態」というAさんが気力を振り絞って繰り広げた20分余りの意見陳述は怒りと悲しみに満ち溢れ、凄まじい迫力だった。

「生命の代償は、生命しかありえない!」と礒飛に強く訴えたかと思えば、亡き息子になりきり、「これからという時になぜ、俺を刺す? なぜ、君は音楽に救いを求めなかったのか?」と礒飛に語りかけたAさん。礒飛被告にとって、遺族から浴びる怒りや憎しみの言葉は検察官の死刑求刑などよりはるかに重く感じられたことだろう。

その後、佐々木さんの長男や南野さんの妻も意見陳述したが、「一審の判決後、弁護士を通じて謝罪文を渡したいと言ってきましたが、控訴しておいて何を謝罪するんですか」(佐々木さんの長男)、「夫は還ってこないのに、なぜ礒飛は生きているのでしょうか」(南野さんの妻)などとそれぞれ被害者遺族ならではの鎮痛な思いを吐露。この時も法廷は終始、緊迫したムードだった。遺族の意見陳述が終わった後、礒飛被告が被告人質問で「本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と反省の言葉を述べたが、裁判官たちが心を動かされたような様子は微塵も感じられなかった。この公判を傍聴していて、死刑判決が破棄されることを予想できた者はおそらくいなかったろう。

2008年12月に被害者参加制度が始まって以来、同制度を利用して刑事裁判に参加した犯罪被害者や遺族が被告人に質問したり、求刑意見を述べるケースは年々増えている。この件に関し、裁判官や裁判員が犯罪被害者や遺族の意見に影響され、厳罰化が進むのではないかと指摘する声は一部にあるが、私もその指摘は当たっているのではないかと思っていた。しかし、この裁判の控訴審は遺族の意見から完全に独立したものだった。裁判とは、本当に先が読めないと私は再認識させられたのだった。

礒飛被告が南野さんと佐々木さんを刺殺したミナミの路上

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

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