「あれ?ない……」
13日午後、福島駅前のホテルで開かれた第44回「県民健康調査」検討委員会。配布資料をめくると、筆者はすぐに〝異変〟に気付いた。委員名簿にあるはずの名前がなかったのだ。記者席で思わず声を出してしまったほど驚いた。

7カ月前の昨年10月に開かれた前回委員会で座長に再任されたばかりの星北斗氏(福島県医師会副会長)の名前も、座長代行になったばかりの稲葉俊哉氏(広島大学 原爆放射線医科学研究所教授)の名前もない。さらに2人を加え、計4人の委員が「一身上の都合」で辞めていたのだ。2年の任期が始まったばかりだというのに……。

「『県民健康調査』検討委員会設置要綱」第3条7項で「座長に事故があるとき又は座長が欠けたときは、座長代行が、その職務を代理する」と定められている。座長に選ばれたばかりの星氏が夏の参院選に自民党公認で立候補することから、次の座長は当然、稲葉代行が務めるものと考えていた。

開会までまだ時間があるので、旧知のフリーランス記者とその事で立ち話をしていると、会場に1人の委員が入って来たのが目に留まった。高村昇氏(長崎大学 原爆後障害医療研究所教授)だった。高村氏は前回委員会を欠席。それ以前もコロナ禍でリモート形式での開催が続いたので、会場に姿を現すのは実に2年ぶりのことになる。

「まさか…」
物書きとして冷静でいなければいけないことは分かっていたが、徐々に鼓動が激しくなっていった。もし高村氏が新しい座長に選ばれれば、「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」(2011年3月21日、福島県福島市での講演会)と言い放った山下俊一氏(初代座長)とともに福島県内各地で〝安全講演〟をした人物が座長に就任することになるからだ。


◎[参考動画]3.11直後の山下俊一発言

果たして、その「まさか」が的中した。
「福島県復興のためにご尽力されている。高村先生以外にはいない」、「やっぱりここは高村先生しかいらっしゃらない」などと称賛を受けての選出だった。高村氏は2020年4月から「東日本大震災・原子力災害伝承館」の初代館長(非常勤、任期5年)も務めており、検討委員会も〝牛耳る〟ことになったのだった。

高村氏の問題点については、これまで何度も「民の声新聞」で指摘してきた。
福島県の担当者は「伝承館」の館長に選出した理由について①考え方に偏りが無い、人格的に温厚で高潔②福島県の復興、避難地域等の支援に関わってきた③「伝承館」の運営に必要な能力を持っている─の3点を挙げた。しかし、高村氏は「考え方に偏りが無い」と言えるだろうか。

「伝承館」初代館長就任にあたり内堀雅雄知事を表敬訪問した高村氏。山下俊一氏の影響下にある高村氏が検討委員会も〝牛耳る〟ことになり、検討委の中立性が揺らいでいる=2020年撮影

高村氏は1993年に長崎大学医学部を卒業。2013年度からは同大原爆後障害医療研究所の教授を務めている。原発事故直後の2011年3月19日には、山下俊一氏とともに福島県の「放射線健康リスク管理アドバイザー」に就任。県内各地で行った講演会では「放射性セシウムはろ過されやすいので水道水には出てこない」、「放射性セシウムセシウム 137 が体に入った場合の半減期は30年では無い。子どもであれば2カ月、大人でも3カ月程度で半分になる」などと発言したほか、子どもたちの鼻血についても「放射線の影響ではない」と断言していた。

飯舘村では震災発生から2週間後の2011年3月25日に県と村の共催で高村氏の講演会が行われている。その場で「マスク着用や手洗いなどをすれば、健康に害なく村内で生活できる」という趣旨の発言をしているが、実はこの講演会、そもそもの目的が「村民に安心してもらうため」だったのだ。当時の菅野典雄村長が著書「美しい村に放射能が降った」のなかで「私も安心した」と明かしているほどだ。

復興庁が2018年3月に発行した冊子「放射線のホント~知るという復興支援があります。」は「原発事故の放射線で健康に影響が出たとは証明されていません」と書いているが、「作成にあたり、お話を聞いた先生」に名を連ねているのも高村氏。
伝承館館長就任にあたって「一番の主眼は、復興のプロセスを保存して情報発信すること」、「ぜひイノベーションコースト構想の一翼を担いたい」と語って内堀雅雄知事を満足させたのも高村氏。

事故発生直後から被曝リスクを全否定し、住民を線源から遠ざけるどころか逃げないように〝安心〟させ、国や福島県が画策する原発事故被害の矮小化と復興PRに加担するような人物を座長に選んで本当に良いのだろうか。筆者は委員会後の記者会見で質問した。高村座長は苦笑していたが、どの委員も質問に答えなかった。答えないも何もない。司会役の県職員が全力で質問をブロックしたのだった。

「申し訳ありませんけれども、本日の議事議題に関係ありませんので、お答えを控えさせていただきます」

原発事故後に神奈川県に区域外避難、現在は避難元の郡山市と行き来している松本徳子さんは、今回の検討委員会や記者会見を動画で観て福島県の県民健康調査課に電話をかけた。「子どもが健康調査を受けている親として、県民健康調査検討委員会の場で傍聴や質問をする権利を与えてもらえませんか?」と申し入れたが、けんもほろろに断られたという。

「県民健康調査課と私との意見交換の場を設けてもらえませんか?とも言いましたが、『それもできません』とのことでした。どれだけ詰め寄っても『それは松本さんの見解なので仕方ありません。これ以上お話しても意味がありません』と電話を切られてしまいました」

検討委員会後の記者会見に臨む当時の星北斗座長(左)と高村昇委員。自民党公認で参院選に出馬する星氏の後継座長に高村氏が選ばれた=2017年撮影

高村氏は昨年2月、原子力産業新聞のインタビューで次のように語っている。

「もちろん、今後もいろんな調査研究を進めていく必要があるが、因果関係を調べた結果、10年経った現時点では、福島で見つかる甲状腺がんは被ばくの影響とは考えにくいという結論に至っている」

「福島では、これまで甲状腺検査をしてこなかったから見つからなかったものが検査をすることにより見つかるようになった」

これではもはや、検討委員会の方向性は見えている。

そもそも、初代座長が「子ども脱被ばく裁判」の一審証人尋問で厳しく追及され、二代目座長は原発再稼働に躍起になっている自民党の公認候補として参院選出馬。その路線を継承するのが〝山下チルドレン〟の三代目座長。そんな委員会が説得力を持ち得るのだろうか。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の脱原発季刊誌 『季節』2022年春号(『NO NUKES voice』改題 通巻31号)

ウクライナ戦争は、ある意味で第二次大戦の残滓でもある。前回明らかにしたとおり、軍事大国(ドイツとロシア)に挟まれた、悲劇と言うべきであろう。

「共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を『共産主義ロシアの圧制からの解放軍』と歓迎した。とくに東欧の反共産主義者は、ロシア国民解放軍やロシア解放軍としてソ連軍と戦った。プーチンが『ウクライナ民族主義者たちは、ナチスに協力した』とするのは、一面では当たっているのだ。」

「スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きを利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省は、ドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、これらは一部実行された。」

「ウクライナ戦争をどう理解するべきか〈2〉──帝国主義戦争と救国戦争のちがい」2022年5月13日

◆世界は分割された

ファシズム(枢軸独裁国)に対する民主主義世界(連合国軍)の勝利によって、第二次世界大戦は終結した。ドイツは東西に分割され、日本はアメリカの占領下に置かれたのだった。

これを「20世紀の悲劇」(民族分断と従属)と言いなすこともできるが、日本とドイツは戦争を仕掛けた、開戦責任をもって「平和に対する犯罪」として裁かれたのである。

概括すれば第二次世界大戦も帝国主義間戦争だが、開戦した側、侵略した側に全面的な責任が問われる。これは今回のウクライナ戦争においても同様である。

ところで、現在も日独は国際連合憲章において「敵国」なのである。したがって、れいわ新選組の山本太郎が指摘するとおり、独自の核武装は不可能である。安倍晋三が云う「核共有論」もまた、国連憲章の前では意味をなさない。

さて、ファシズムは敗戦によって裁かれたが、戦勝国もまた東西に分裂する。
ソ連(およびロシア共和国を中心にした連邦国家・その同盟国)とアメリカ(および西ヨーロッパ列強・その同盟国)が、ベルリンの壁、北緯38度線(朝鮮半島)、北緯17度線(ベトナム)で睨み合うことになったのだ。東西冷戦である。

◆ソ連はどのような国家だったのか

第二次世界大戦後の冷戦下で、日本の左翼はしばらくのあいだ、ソ連邦支持だった。ロシアではなく、ソ連邦である。ソ連邦の原爆や水爆も、欧米のものとはちがう「きれいな核兵器」だとされたものだ。そのソ連邦とは、そもそも何だったのだろうか?

ソビエト社会主義共和国連邦は、対外的(国際的)には単独の国家でありながら、15もの共和国からなる連邦である。

【旧ソ連邦構成国】
ロシア・ウクライナ・白ロシア(現ベラルーシ)・ウズベク・カザフ・グルジア(現ジョージア)・アゼルバイジャン・リトアニア・モルダビア・ラトビア・キルギス・タジク・アルメニア・トルクメン・エストニア

ソ連邦はロシアを中心としながらも、ソビエト(会議)という社会主義国の連合体であり、共産主義者にとっては世界革命の実質だった。

国民党との内戦をへて成立した中華人民共和国、中米に社会主義の旗を立てたキューバ、フランスの植民地支配をくつがえした北ベトナム、アメリカ軍(国連軍)と渡り合った朝鮮人民民主主義共和国、そして東ドイツをはじめとする東欧社会主義諸国が、ソビエト連邦の同盟国だった。1950年代から80年代にいたるまで、われわれの世界は東西両陣営に分断されていた。

時代は民主主義と科学的な進歩史観が支配し、帝国主義の旧体制は反動とされていた。社会主義・共産主義こそが、人類の未来ではないかと思われたのだ。

昭和30年代までの日本人の文章には「科学的」「進歩的」「反動的」「封建的」という言葉がおびただしく散見される。進歩的知識人とは、左翼系の学者や左派の評論家をさしたものだ。

しかし、スターリンの死去とともに、社会主義神話に亀裂がはいる。ソ連共産党の無謬性に疑義が呈されたのである。1956年のソ連共産党20回大会、フルシチョフの秘密報告、すなわちスターリン批判である。プロレタリア独裁の名の下の行きすぎた専制的支配、おびただしい粛清と収容所。鉄のカーテンと言われた、ソ連邦の秘密が暴かれたのである。

これを機に、東欧でソビエト支配から脱する動きがはじまる。ハンガリー動乱(1956年10月)がその端緒だった。

社会主義体制の閉鎖性、密告と強権的な独裁政治にたいする、自由の抵抗である。60年代後半のプラハの春や70年代後半のポーランド連帯労組の運動、80年代後半の東西の壁崩壊へとつらなる流れだが、ここでは多くは触れない。

◆共産主義運動の病根

今日的には、ソ連邦を中心とした社会主義国の独裁政治、全体主義と称される政治体制の淵源は、歴史的に明らかになっている。

労働者階級の団結がひとつである以上、指導政党である共産党も唯一(単一党)である。分派の自由はない(コミンテルン22年決議)というものだ。

その指導政党は「民主主義以上のあるもの(同志的信頼)」(レーニン『何をなすべきか』)にゆだねられ、選挙は行なわれない。あるいは党公認の候補者にしか投票できない。党という官僚組織が政治と文化のすべてを統括し、正しい指導のもとに国民をみちびくというのだ。

したがって、間違った行動をする者たち、党と政府に反対する者たちは秘密警察に密告される。これが民主集中制による一党独裁である。党と国家は正しいのだから、遅れた部分・間違った道を歩む者を取り締まる。強制収容所で正しく労働教育される。この単純な原理で、一党独裁は盤石なものとなった。ソ連は「収容所群島」(ソルジェニーツィン)と呼ばれたものだ。

スターリンを尊敬するウラジーミル・プーチンによって、いまもロシア連邦は事実上この政体を採っている。

そしてここが肝心なのだが、日本共産党をはじめとする日本の共産主義政党もまた、このレーニン主義・スターリン主義の組織原則を堅持しているのだ。党内選挙を行なわない、労働者階級の党は単一であるから分派の自由を認めない。したがって、党から離反する者は反革命分子とされるのだ。

ここに他党派の主張をみとめない、場合によっては内ゲバ(処刑)を厭わない、左翼の病根があるといえよう。内ゲバは感情や倫理ではなく、組織原理に基づくものなのだ。左翼においては、とくに排除の思想がいちじるしい。

つい最近のことだが、わたしが編集する雑誌「情況」において、「キャンセルカルチャー」を特集したときに、議論を封殺しようとする事件が起きた。

このキャンセルカルチャーとは、差別的な表現や社会運動にとって認めがたい表現は、キャンセル(取り消し)できる、という文化だと措定できる。ところがそのなかで、特定の人物への原稿依頼をもって、情況編集部が差別に加担したというのである。当該の掲載論攷には、直接的に差別的な内容はなかった。

いかに差別的な言動であれ、言論をもって批判・反批判をするのが理論闘争の原則である。言論誌としてのあまりにも当然な編集姿勢について、批判的な人たちは「情況誌をボイコットせよ」と呼びかけるに至ったのだ。このとんでもない主張も言論であるから、情況誌はボイコット運動の呼び掛けをふくむ論文も注釈付きで掲載した。

ここまではまだ、言論空間(雑誌編集・販売)の出来事である。しかるに、批判的な人たちは「情況編集部と関係のある人は、その人間関係を断ってください」なる呼びかけをしたのだ。関係を断たれても痛くも痒くもないとはいえ、日本の社会運動の深刻な病理を見る思いだった。

運動からの排除や人間関係を断てという呼びかけと、内ゲバ殺人のあいだに、それほど距離があるとは思えない。たとえば日本共産党が、彼らの云う「ニセ左翼集団」とはいっさい対話をしないように、無党派の市民運動や学生運動においても、この排他的な運動論は継承されてしまっているのだ。反対派を排除するソ連邦(手法を受け継いだロシア連邦)と同じ政治空間が、そこには現出する。

この話題を持ち出したのは、ほかでもないプーチンとアメリカ帝国主義(およびNATO)の評価において、日本の左翼は米帝を原理的(陰謀論的)に批判するあまり、プーチン擁護にまわってしまうからだ。内容を抜きに、アメリカなら許さないという無内容な決めつけである。おそらく彼らは、民主党政権と共和党政権の差異も論じることは出来ないであろう。国際社会におけるアメリカの役割の正否も、論評することはできないであろう。これを「教条主義」と呼ぶ。

毛沢東の云う「主要側面・副次的側面」(矛盾論)をみとめなければ、そこには「絶対悪」という硬直した思想が表象するのだ。

つぎに日本のとくに新左翼が陥った、民族解放戦争への客観主義について解説しよう。そこにも、硬直した原理主義があった。

◆民族解放戦争

帝国主義間の争闘、あるいはソ連邦とアメリカの覇権主義的な争闘は、第三世界諸国を巻き込んでくり広げられた。とりわけ旧植民地において、その対立は「代理戦争」の様相をおびたものだ。

だがここで注意しなければならないのは、帝国主義の植民地支配の残滓として傀儡政権に対する闘争は、民族解放闘争である事実だ。第二次大戦後の世界は、旧植民地国・従属国の独立と自立をかけた民族運動として顕われたのである。

この世界史的な動きに、マルクス・レーニン主義はじつに冷淡だった。反帝・反スタ思想も民族解放闘争には冷淡だった。

プロレタリアートの階級闘争は、先進国革命によって果たされる。史的唯物論は市民社会の進化によって、大工業化された資本と賃労働の関係において、プロレタリアートの形成が階級関係を高次に変化させ、社会主義革命へといたる(マルクス)。

あるいは、帝国主義段階に至った資本主義は市場再分割の戦争を引き起こすがゆえに、戦争を内乱に転化することで政治危機を社会主義革命に至らしめる(レーニン)。

そもそもヨーロッパ世界のみを研究テーマにしてきたマルクスは、東洋を「アジア的専制」と読んでいた。レーニンは帝国主義の市場再分割が、直接的な侵略戦争ではなく、協調と対立を内包しながらも超帝国主義に至ることを予見しえなかったのだ。

いっぽう、日本の左翼運動は、社会党系のソ連派、新左翼の反スターリン主義派(革命的共産主義者同盟)のほか、家元である日本共産党もソ連・中共と訣別していた。これらの党派は、おしなべて民族解放闘争の背後にスターリン主義がいることをもって、きわめて客観主義的な立場だった。

今回のウクライナ戦争にたいしても、帝国主義間戦争にすぎない、と新左翼の多くは腰が引けている。ウクライナ人民への支援や連帯を訴えるのでもなく、単に原則的な反戦運動(日米安保粉砕)を呼び掛けるだけなのだ。※個人においては、ウクライナ独立戦争を支持する人は少なくない。

◆国際主義の実体とは

かように、左翼は民族解放闘争に冷淡なのである。

60~70年当時、唯一といってもいいだろう。ブント系のみが中国共産党やキューバ共産党に、世界革命の現実性を見ていた。

そして旧植民地国の民族解放戦争が、社会主義革命を内包していることに着目したのである。その政治路線は、組織された暴力とプロレタリア国際主義、三ブロック階級闘争の結合による世界革命戦争と定式化された(ブント8回大会)。

世界的な組織を持っている第4インターや、早くからベ平連をつうじてベトナム反戦運動に取り組んでいた共産主義労働者党(プロ青同)などがこれに続き、やがて民族解放闘争が現代革命のキーワードとなったのだった。じっさいにブントは国際反戦集会に各国の革命組織をまねき、赤軍派においてキューバ・北朝鮮・パレスチナに同志たちが渡航した。

そして1975年4月30日、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)の革命戦争が勝利を果たし、世界は民族解放社会主義革命戦争が規定するようになったのである。

にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、世界は民族対立と宗教対立のカオスとなったのだ。いっぽうで、ナショナリズムを煽る右翼ポピュリズムの躍進によって、プロレタリアートの先進国革命は彼方に忘れられた。

ウクライナをはじめとする東欧情勢を、国民国家以前と評した評論家がいたが、けだし当然である。民族国家としての独立性を、いまだに問題にしなければならない人類の21世紀なのである。

ウクライナ戦争を理解するために、さらにわれわれは人民民主主義革命と救国戦争の諸相にせまってみよう。20世紀が「戦争と革命」の時代であったのに対して、どうやら21世紀は「民族と宗教戦争」の時代になりそうな気配だ。

◎[関連リンク]ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか
〈1〉左派が混乱している理論的背景
〈2〉帝国主義戦争と救国戦争の違い
〈3〉反帝民族解放闘争と社会主義革命戦争

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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神奈川県真鶴町の松本一彦町長が町職員だった2020年2月、選挙人名簿抄本などを盗み出し、みすからが出馬した町長選で利用した問題を調査していた「選挙人名簿等流出に係る第三者委員会」は、4月28日、「報告書」を公表した。報告書は、松本町長と元職員、それに松本町政が誕生した後に選挙人名簿を受け取った町議らを刑事告発することが相当と結論ずけた。

これを受けて真鶴町は、「関係当事者に対する刑事告発及び損害賠償請求を行います」とする談話を発表した。談話の発信者は、「真鶴町長 松本一彦」となっており、型式上は松本町長が自身を含む関係者に対して刑事告発することになった。起訴される可能性が高い。

◎報告書の全文 https://www.town.manazuru.kanagawa.jp/material/files/group/29/daisansyahoukoku.pdf

「真鶴町長コメント」と「報告書」

この事件は、デジタル鹿砦社通信でも既報してきた。概要は次の記事に詳しい。

◎[関連記事]すでに崩壊か、日本の議会制民主主義? 神奈川県真鶴町で「不正選挙」、松本一彦町長と選挙管理委員会の事務局長が選挙人名簿などを3人の候補者へ提供 

報告書は、関係者が該当する可能性がある犯罪について、次のように述べている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・【引用】・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 松本氏については、窃盗罪、建造物侵入罪、守秘義務違反の罪、公職法上の職権濫用による選挙の自由妨害罪及び買収(供与)罪が各成立し、尾森氏(注:選管職員)については、地公法上の守秘義務違反の罪、公選法上の職権濫用による選挙の自由妨害罪が各成立すると解されるものである。また、青木氏(注:町議)、岩本氏(町議)については公職選挙法上の被買収罪、刑法上の証拠隠滅罪が成立する可能性がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・【引用おわり】・・・・・・・・・・・・・・・・・

青木氏と岩本氏は、松本町長が自らの町長選で使った選挙人名簿(投票行動の有無を明記したもの)などの複写を受け取った後、焼却したり、廃棄したりしていた。それが原因で、「証拠隠滅」の可能性を指摘された。

一方、同じように名簿類を受け取った森敦彦議員は、それを警察に届け出ていたので、刑事事件に連座した可能性は低いとされた。

◆親密な人間関係が生んだ馴れあい

この事件では、真鶴町の市民グループがすでに松本町長らを刑事告発している。(受理されたかどうかは、不明)。第三者委員会の報告を受けて、真鶴町も刑事告発に踏み切ることで、事件の捜査が本格化する可能性が高い。

松本町長が選挙人名簿を持ち出した時の様子を、報告書は次のように述べている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・【引用】・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (注:当時、町職員だった松本町長は文書を盗み出した後、)文書保管庫から約100メートル離れた町役場に移動して、町が管理しているコピー機を利用して、約1時間かけてその選挙人名簿全部のコピーを取った。コピー後、持ち出した選挙人名簿の妙本は文書保管庫の持ち出した場所に戻し、コピーした文書は自宅に持ち帰って保管した。松本氏は、自身の選挙に際し、選挙人に選挙用はがきを郵送する際に宛名書きのため、当該名簿を利用したが、その選挙後も名簿を廃棄せず、保管していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・【引用おわり】・・・・・・・・・・・・・・・・・

この名簿を2021年の町長選の際に再コピーして、選挙管理委員会の尾森氏を通じて、一部の町会議員に提供したのである。

報告書は今回の選挙人名簿等の流出事件が起きた背景に、「関係当事者の遵法意識の欠如、関係当事者の馴れ合い意識、そして町としての情報管理体制の不備にあるものと結論」ずけている。人間関係が親密な小さな自治体の役所にありがちな体質を指摘している。実際、松本町長と尾森職員は竹馬の友だった。

第三者委員会の委員は、次の3氏である。

今村哲也(関東学院大学法学部教授)
加藤勝(弁護士 神奈川県弁護士会)
板垣勝彦(横浜国立大学大学院教授)

真鶴町民の間からは、「第三者委員会を設けてもうやむやになるのではないか」との声も上がっていたが、関係者が法廷に立たされる可能性が高くなっている。

なお、松本町長は辞任を表明していない。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

厳しかった冬の終わりがようやく見え始め、暖かい陽射しが降り注いだ3月。横浜・みなとみらい地区の一角では、キッチンカーに長い行列ができていた。「発見!ふくしまお魚まつり」と銘打たれたイベントは、原発事故による福島県産水産物の〝風評払拭〟が目的で復興庁や福島県が後援。海鮮丼などを食べてもらうことで福島県沖で獲れる「常磐もの」をPRするのが狙いだ。ホームページには「ぜひこの機会に、『常磐もの』を食べて、福島を応援してください」と書かれている。

筆者もカップルや家族連れなどの列に加わり、奮発して一番高い2000円の「全部乗せ」を食べた。サーモンやアナゴ、マグロなど確かに美味しい。原発事故による影響など考える必要がなければどれだけ良かっただろうと思う。しかし、現実には原発事故後にたまり続ける「汚染水」(国や東電は〝ALPS処理水〟と呼称)の海洋放出計画が着々と進められているのだ。しかも、福島県などの「事前了解」はまだ得ていない。福島だけの問題ではないとはいえ、県民の賛同さえ得られていない。それなのに海底トンネル設置の工事だけが粛々と進められ、この種の〝風評払拭イベント〟が行われる。

横浜・みなとみらい地区で行われた〝常磐もの〟のPRイベントには長い行列ができた(2022年3月5日)

キッチンカーの周囲では、当然ながら汚染水海洋放出計画への言及などない。では、〝常磐もの〟を堪能する人々は反対の声を無視して進められている計画をそもそも知っているのだろうか。時に激しく怒られながら声をかけただけでも、ほとんどの人の答えが「知らない」だった。

「全然知りません。そういう情報は入ってこないですね」(都内在住の男性)
「聞いたことないです」(横浜在住の男性)
「知りません」(横浜在住の女性)

もちろん、海洋放出計画を知っている人もいた。だが、単なる偶然なのか、ともに「福島出身」の人だった。

「知っていますよ。トリチウムのキャラクターで騒いでいましたね。ちゃんと検査をしているのは知っているので、海洋放出したとしても食べるか食べないかには影響しません。実家が農家で、桃や野菜を幅広く生産しているのでそういうことはよく分かっていますよ」(中通り出身の女性)

「実家がいわき市なので知っています。致し方ないのかな。地元としては反対しているけれどどんどん溜まっていく一方だし…。一方で漁師の方々は苦労していますよね。難しい…」(横浜在住の男性)

こんな声もあった。

「海に流すというのは聞いたことがあります。流したとしても食いますよ。関心ないわけではないけど、国に『安心ですよ』って言われたら面倒くさいから食べますね」(都内在住の男性)

出店者の1人、大川魚店の大川勝正社長が現場で取材に応じた。大川社長は、自民党に移った細野豪志代議士(元環境大臣)が昨年2月に出版した「東電福島原発事故 自己調査報告」(徳間書店)で細野氏と対談するなど、海洋放出計画そのものには賛成している。

「2012年くらいから水をどうするんだというのは言われていた話で、どうするのかいつまでも決めねぇなとずっと思っていました。突然決めたというか、時間はあったわけだからもっと合意形成をちゃんとすれば良かったんですけど、何もしないで急にパンとやった。下手だなあって感じです。どういう結論になってもあれなんですけど、もうちょっとやり方があったでしょって感じがします」

調理の手を止め、こちらの質問にも嫌な顔ひとつせずに答える姿には誠実さを感じた。一方、廃炉完了のためには海洋放出が必要だという考えはブレなかった。

「海に流すというか、僕は廃炉がスムーズに進むことを一番望んでいるので、廃炉がスムーズに進めば良いなという視点です。僕が住んでいるところ(いわき市四倉)は原発に近いし、双葉郡には親戚が住んでいます。子どもの頃から慣れ親しんだ街なので、早く何もなくなってくれれば良いなと思っているんです」

「水の問題も以前、経産省の方(木野氏や奥田氏)と話す機会があって、素朴な質問として『あの水どうするんですか?』と尋ねたら『普通の原発は(海に)流すんですけど、とりあえずタンクに溜めておく。でも、いつかは流さなければいけない』と、5つくらい処分方法案を口にしていました。その後、年に1回くらいは水をどうするかという話はあったんですけど、それ以上話は進まなくて、なんだかなあと。で、実際にキャパオーバーだから、なんというグダグダぶりなんだろうと思います。グダグダすぎる……」

来年にも汚染水の海洋放出が強行されようとしているが、そもそも海洋放出計画を知らない人も多い。何も知らないまま「美味い美味い」と喰うだけで良いのだろうか

なぜ海洋放出計画に反対しないのか。

「僕の場合は物理的な問題ですね。キャパがない。土地がない」

「みんな反対って言っていますけど、トリチウム水のことを学べば学ぶほど、あんまり問題じゃねえなと(笑) あとは反対の声をあげる方が処理水を流したときの風評被害が『地元の人たちも反対しているのになぜ流すんだ』となって話が大きくなっちゃう。東電に文句ばかり言っていても福島の応援にはならないことを、みんな肌感覚で分かっているんですよ」

「自宅の近くにごみ処理場ができるような話ですよね。まあ嫌だけど、みんなのためには必要だと。安全に運営してくれるんだったらって感じですかね。世界の原発でもやっている?そうですね。懸念を口にしている専門家もいる?うーん……」

大川社長が指摘したのは「合意形成のまずさ」だった。

「時間はあったのに、何でちゃんとやらなかったのか。合意形成をね。反対する人がいたとしても、もうちょっと容認する人を増やしてバランス良くできなかったのか…」

福島民友新聞は4月27日付の1面トップで「処理水放出方針 国内6割知らず」と復興庁の調査結果を報じた。しかし「情報発信不十分」との見出しは立てるが、会報放出そのものの是非は論じない。時間をかけて反対意見に耳を傾けるのが民主主義の基本だろう。まずは立ち止まり、代替案をていねいに議論するのが「合意形成」ではないのか。

汚染水を海に流しながら〝常磐もの〟を宣伝するという矛盾した取り組みが、来年にも始まろうとしている。「知らなかった」では済まされない。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

おかげさまで創刊200号! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年6月号

2022年は沖縄返還50年ですが、もっと遡ると、日本の近代史における「黒歴史」ともいえる事件から90年、そして80年となります。5・15事件から90年。そしていわゆる翼賛選挙、そして京大助教授らによる「近代の超克」から80年です。そして、軍部を「日本維新の会」(維新)や安倍晋三さんら自民党右派に、立憲政友会系を岸田総理ら自民党主流派に、立憲民政党系を立憲民主党に、京大助教授らを一時期の成功体験から卒業できない企業や広島県内の大手労働組合に置き換えると、まさに、いま、戦中が繰り返されているということが言えると思うのです。

◆5・15事件90年 政党の腐敗を追い風に昔は軍部・今は維新の人気が高まる

まず、5・15事件から90年。満州事変の翌年の1932年5月15日。海軍の青年将校が犬養毅総理を「問答無用!」と暗殺。政党政治はここで終了しました。しかし、政党政治の腐敗の不満から軍部への国民の期待が高まる中で、被疑者への甘い処分をもとめる民意が高揚。被疑者は軽い罰しか科せられず、1936年の2・26事件へとつながっていきます。既成政党のだらしなさへの憤りのいきおいあまって、「維新」への期待が高まってしまう。維新が少々の不祥事をやっても維新の支持率は下がらない。そういう現在の状況に似ていませんか?

◆翼賛選挙80年 軍国主義者が「革新」と持ち上げられる状況、現在に酷似

そして、今年はいわゆる翼賛選挙80年です。1942年4月執行の衆院選は、いわゆる翼賛選挙と呼ばれました。大政翼賛会系の候補には選挙資金が陸軍の機密費から出る、大政翼賛会に批判的な候補は政府により選挙妨害をうける。こういう選挙でした。当時はユダヤ人への今風にいえばヘイトスピーチで有名な四王天延孝中将ら、軍国主義者が「革新的」と持ち上げられて大量得票しました。これは、「維新」や「安倍晋三さん」がとくに若者から「革新的」とみなされている状況に似ていませんか?

ただし、この翼賛選挙を前に、腐っている、古くさいと指弾された既成政党、それも立憲政友会(立ち位置が今の自民党に近かった)よりはリベラルとされた立憲民政党(立ち位置が今の立憲民主党に近かった)も結局大政翼賛会に参加していたことも確認しておかなければいけません。

◆自民党と「国民ファースト維新の会」による「大政翼賛会」が迫っている

現代では、大政翼賛会一本に収斂されるまではひどくない、と思われるかもしれません。しかし、現代では擬似的な二大政党による翼賛体制がいままさに、構築されようとしているのではないでしょうか?自民党と補完勢力、いわゆる「ゆ党」による擬似二大政党制が起きようとしているのではないでしょうか?

すでに、衆院選2021で、連合の芳野会長は野党共闘を解体するほうへ、解体するほうへと動きました。こうした中で連合を基盤とする国民民主党は予算に賛成して事実上の与党に。一方で、国民民主党は参院選京都選挙区で維新と共闘をしています。

このままだと、参院選後にも、たとえば国民民主党、小池ファースト、吉村維新が合併した新自由主義政党、改憲推進政党「国民ファースト維新の会」誕生の公算が大きいでしょう。維新の支持層も連合の組合員も大手企業中堅以上のサラリーマンが多いという点で重なっています。維新が公務員を叩いてきたことで連合にも維新への反発はあります。しかし、公務員の組合が推薦した立憲民主党でも、公務員ボーナスカットには賛成してしまいました。「まあ、維新でもいいか」と思ってしまう組合員もすくなくないと思います。従って「国民ファースト維新の会」実現への障壁はそう高くはないでしょう。

◆野党第一党や組合がふがいない広島、平和都市なのに大政翼賛会化の先頭

一方で、立憲民主党も広島をふくむいくつかの選挙区では国民民主党と野合しています。広島はこのままでは、まさに、自民党の高級官僚出身世襲現職と、立憲・国民の野合にかつがれた元タレント新人による、「与党と補完勢力による独占」になりかねない情勢です。というか、そもそも、広島は、自民党と野党を自称した補完勢力による2議席独占がずっと続いていたといっても過言ではありません。

広島では野党といっても、原発や武器製造の大手企業の組合だのみなのが立憲民主党さんです。自民党系の知事でさえ進める脱炭素に懸念を表明したり、原発に対するスタンスを曖昧にしたりする参院議員がおられるのが広島の立憲民主党さんです。自民党官僚市長の提案する議案に、自民党系の一部の会派の議員以上に賛成してネオリベ市政を支えているのが立憲民主党の市議の皆様です。そして、再選挙2021で筆者が立候補した際、「俺の地域に出入りするな」と脅してこられた党員がおられるのが広島の立憲民主党さんです。中央の立憲民主党からも想像がつかぬような「補完勢力」ぶりです。広島のこのような大政翼賛会ぶりは、日本の大政翼賛会化を先取りしているといえるでしょう。

◆「近代の超克」と大差ないお笑い「日本すごい」

さらに翼賛選挙の年に「近代の超克」というスローガンが、当時の京都大学の哲学科の助教授らから出され、人々にウケていたことにも言及しなければなりません。「近代の超克」は、大ざっぱに申し上げると「日本は近代のチャンピオンである米英などを乗り越えた!」という趣旨の言説です。確かに、第一次世界大戦を契機に西洋の没落ということも言われてはいました。しかし、一方で、アメリカと日本の国力の差は歴然としたものがありました。日本はアメリカを乗り越えたどころか、コテンパンにやっつけられてしまうのです。この悲劇は日露戦争で勝利したことの成功体験から卒業できていないこととも関係あるのでしょう。

いま、日本は、また大いなる勘違いを繰り返そうとしています。「日本すごい」です。そのすごいはずの日本ですが、いまや、介護用手袋もマレーシアの企業に勉強にいかないと作れません。ひとりあたりGDP購買力平価では、韓国や台湾などに抜かれました。いわゆる失敗国家をのぞけば唯一といっていいほど、この30年間で給料が上がっていません。男尊女卑や報道の自由度の低下もさんたんたるものがあります。

広島県内でも結局、原発製造をふくむ重厚長大産業でひとりあたり県民所得(GDP)が全国3位だった1975年ころの成功体験から、企業ももちろん、行政、与野党の大多数も卒業できず、今日に至っています。

◆街頭や挨拶回りでも実感する大政翼賛会化

筆者は参院選を前に県内全域の有権者の皆様と対話しています。また、れいわ新選組チーム広島は街頭で憲法についてのアンケートにとりくんでいます(写真)。

 

その中で「いま、まさに、戦中が繰り返されている」と強く感じています。ありていに申し上げれば、筆者に対して男性有権者の方からは、「維新から立候補したほうがいいのでは?」とのお言葉をいただき、女性有権者の方からは、「自民から立候補したほうがいいのでは?」とのお言葉をいただく機会も以前より劇的に増えています。

また、れいわ新選組チーム広島による憲法についてのアンケートでも、「ロシアやコロナがこわいから憲法を変えたほうがいい」という趣旨のご回答がめだちます。一方で自民党の改憲案については、ご存じない方がほとんど、という状況があります。かくたる根拠はないが、なんとなく、ながされていく。これも実は戦中の日本に酷似しているといえるでしょう。

◆まずは冷静に考えていただくことだ

しかし、ここで陥ってはいけないのは、有権者を見下すような議論です。「改憲すればコロナ対策は安心」「ウクライナは核兵器をもっていないからロシアにやられた。だから日本はもつべき」などの有権者の思考回路もきちんと分析する必要がある。その上で有権者の皆様に以下のことを考えていただくことではないでしょうか?

自民党や補完勢力がいうような緊急事態条項で総理に権限を集中させる形で憲法を変えたらコロナ対策がうまくいくのか?

ソバや小麦などをウクライナとロシアで多くをつくっている中で、国内でろくにつくれない日本が軍備だけ増やして意味があるのか?

ウクライナ以外にも大国に対抗して核兵器を持ち出す国が次々現れたら核戦争のリスクは増えるのでは?

今までの原発製造ふくむ重厚長大産業に過度に期待する産業政策で広島の将来は大丈夫なのか?

正直、現時点の広島では、頭ごなしに正論をぶっても反感だけがのこると感じます。まずは冷静に考えていただく。そういう作業の積み重ねがいまは大事なように思います。

こういう二大政党による大政翼賛会化の背景には小選挙区制もあります。筆者は小選挙区制の廃止も公約していますが、まずは、いまのピンチを切り抜けないといけません。

もちろん、筆者としても、参院選立候補へ向けた準備は続けますが、他方で広島県選挙区において、自民党と補完勢力による独占をふせぐため、最大限の努力もしていまいります。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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5月15日、沖縄が日本に「返還」(併合)されて50年が経ちました。

50年前の5月15日、私はデモの中にいました。ビルの谷間に空しくこだまするシュピレヒコールが記憶に残っています。

1972年5月15日付けの『琉球新報』

1972年5月15日付けの『沖縄タイムス』

 

映画『沖縄決戦』ジャケット

事実上の沖縄決戦は前年の1971年でした。『沖縄決戦』という映画も作られ放映されました(監督・岡本喜八、脚本・新藤兼人、東宝。8月14日封切り。俳優も、小林桂樹、仲代達也、丹波哲郎、加山雄三、田中邦衛、大空真弓、酒井和歌子ら錚々たる布陣)。映画の中で、終戦間近、敗色濃い沖縄決戦直前、大本営は精鋭部隊の派遣をドタキャンし、その理由として「沖縄は本土のためにある。それを忘れるな」と語っていますが、ヤマトンチュのこの意識は「返還」後もずっと続き、今はどうでしょうか。

返還協定調印(6月)から批准(11月)まで沖縄現地、「本土」ともに激しい抵抗がなされました。翌72年は、連合赤軍事件があったりで、沖縄「返還」に対する抗議行動は、わずかにブント戦旗日向派が「5・13神田武装遊撃戦」を最後の火花のごとく実力闘争で闘ったことが記憶に残るぐらいです。同派は前年、精鋭の「共産主義武装宣伝隊」が権力中枢の外務省に突入を試みたことがありましたが、5・13は、権力の中枢とは程遠い御茶ノ水での闘いでした。かなりの数の逮捕者を出しましたが、それだけの逮捕者を出してまでもやるのなら、もっと権力中枢でやってほしかったところで残念です。

70年安保闘争が1970年その年の闘いではなく、67年羽田闘争から69年秋期決戦まで続き雌雄が決っしたように、沖縄決戦は、1971年に大きなうねりとなり闘われ敗北しました。

71年5・19沖縄返還協定調印阻止闘争(京都)

71年6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)

よく69年の闘いに敗北し、その後の反戦運動、社会運動、学生運動(以下それらをまとめて「運動」と略称します)がそこで終わったかのように記述されますが、70年にも闘いを続ける人たちはまだ多くいました。当時私も大学に入ったばかりで「遅れてきた青年」(大江健三郎の同名の小説のタイトル)でその運動に参加しました。今と違い学園には立看が林立し日々多くのビラが撒かれました。深夜喫茶などもあって、夜遅くまで喧々諤々の議論が交わされました。熱い季節はまだ続いていました。

1971年には、三里塚闘争も山場を迎え、また国公私立大の学費値上げ阻止闘争と連繋し沖縄闘争が闘われました。当時のドキュメント映像が時に放映されますが、みな真剣でひたむきな目をしています。この頃の時代の空気や闘いの記録、記憶は、昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』に、詳細な年表と共に、多くの執筆者が書き記している通りですので、未読の方はぜひご購読いただきたいと思います。

11・14沖縄返還協定批准阻止闘争(東京渋谷)

11・19沖縄返還協定批准阻止闘争(東京日比谷)

72年5・15偽善的「返還」にひとり気を吐いたブント戦旗日向派の72年5・13神田武装遊撃戦

◆盛り上がった運動に水を差した分裂と、死者を続出させた内ゲバ

1971年の運動は盛り上がりましたが、それに水を差したのは運動の分裂と、死者が続出した内ゲバだといえます。

運動の分裂としては、新左翼最大党派の一つブントが、いわゆる戦旗派(日向派)と連合派(関西派、さらぎ派、神奈川)に4・28沖縄デーでの日比谷公園でのゲバルトで分裂に決着、これが第二次ブント最後の分裂かと思いきや、以後も分裂や離合集散を繰り返しています。ブントは、60年安保前夜に結成、60年安保闘争を闘い、その後分裂し、ようやく66年に再建しましたが、以来毎年のように分裂してきました。なんのための再建だったのでしょうか。

また、対立はありつつも表面上は分裂を回避してきた新左翼系の統一運動体・全国全共闘(八派共闘)が、6月15日に大きく二つ(奪還派〔中核・第四インター〕と返還粉砕派〔解放派・フロント・ブント・プロ学同など〕)に分裂しました。

さらに沖縄の青年組織も、「沖縄青年委員会」(略称「沖青委」。中核派と共闘)と「沖縄青年同盟」(略称「沖青同」。解放派等と共闘)に分裂し、前者は皇居突入、後者は国会内で爆竹を鳴らすなどの抗議行動を行いました。

分裂はしつつも死者を出すまでもなく、各派、各組織ともに権力(当時の佐藤政府)に対して懸命に72年欺瞞的「返還」に抗議・抵抗しました。

71年4・28 ブントの内ゲバ(東京日比谷公園)

 

71年6・15 全国全共闘の分裂

ところが、中核vs革マル間の内ゲバが、70年に革マル派学生が1名亡くなった後も続き、71年には横浜国大寮で革マル派学生が中核派に襲撃され1名が死亡(10月)、革マル派も反撃し学費値上げ反対闘争を闘っていた関西大学のバリケードを深夜襲撃、そこにいた中核派の中心的活動家2名が亡くなっています(12月)。そのうち1名は面識があった人でした。

さらに、これはあまり知られていませんが、沖縄人民党(「返還」後に共産党に合流)民青が琉球大の寮で革マル派を襲撃、1名死亡させています(6月)。

この当時、沖縄人民党の党首は、ここ数年ヒーロー扱いされている瀬長亀次郎でした。私はよく言うのですが、瀬長を持ち上げる人たちは、その事件をどう考えるのか、教えていただきたいと思います。瀬長が、駐留米軍と闘ったことと共に、この死亡事件に対しどう対処したのかも併せて考えないと瀬長の総合的な評価はできないんじゃないでしょうか。

そうして決定的だったのは、72年3月に発覚した連合赤軍事件でした。この事件については、前出『抵抗と絶望の狭間』はじめ本年になって続々と刊行された書籍を参考にしてください。

沖縄人民党民青による革マル派襲撃1人死亡

◆沖縄は変わったのか?

沖縄が「本土」に「返還」(併合)されて50年、果たして沖縄は変わったのでしょうか?「本土」との往来は自由になったとはいえ、相変わらず米軍の基地が、沖縄本島のかなりの面積を占め、米軍関連の事故や事件もなくなってはいません。観光産業が基幹産業で、国家的に抜本的な産業振興策もあまり聞かれませんし経済的にも恵まれているとはいえません。

50年前の私たちのスローガンに「沖縄の侵略前線基地化阻止!」がありました。当時沖縄は、ベトナム戦争のまさに最前線でした。では、ベトナム戦争が終わったからといって、米軍基地が沖縄からなくなったでしょうか。いわずもがなです。今はアジア支配への最前線、日米安保体制の要であり続けています。沖縄に米軍基地がなくなれば、どれほど美しい島になるでしょうか。基地に働くみなさんの生活はどうする? 政府がきちんとした経済政策を採ればいいだけの話です。沖縄県は「返還」以来、いわゆる「革新」知事が長かったこともあるのか、自民党政府も、お金が要る経済政策はおざなりだったのではないでしょうか。

沖縄の民意は基地反対! 辺野古新基地を問う県民投票の結果を報じる『琉球新報』

同じく『沖縄タイムズ』

「返還」直前の70年12月、米兵の乱暴狼藉が続き、日米両政府への不満が一挙に爆発したのが、70年12月の「コザ暴動」でした。一時「騒乱罪」が適用されようとしましたが不起訴になりました。当時のコザ(現在の沖縄市)は『あめりか通り』(ネーネーズ)という歌になっているように繁栄していたようですが(当時行ったことはありませんので記録や語りで察するしかありませんが)、今は閑散としています。数年前に一度行って驚いた次第です。「これがあの『コザ暴動』が起きた街か」と感じたことを覚えています。

私が生まれ育った熊本は沖縄の方々が多い街でした。一時は30万人といわれたそうです。なぜ鹿児島ではなく熊本かといえば、沖縄は島津藩に支配され苛められたからでしょう。中学校、高校の裏手の市営住宅には沖縄出身の方々が多く住んでいて友人も少なからずいました。今住んでいる関西も、その規模は熊本を遙かに凌ぐものです。60年代からの高度成長期、西宮の隣の尼崎は阪神工業地帯の中心として鉄鋼、造船で栄え、特に多く、(これはあらためて調べようと思いますが)沖縄県人会で市議を出していたという話を聞いたことがあります(実際に沖縄をルーツにする市議はいるので、このことを言うのでしょうか?)。いつしか尼崎から基幹産業の鉄鋼、造船はなくなり(と同時に公害もなくなりましたが)、今はパチンコと風俗の街になったとさえ揶揄され残念ですが……。

そうしたことの悲哀を歌ったのがネーネーズの『黄金(こがね)の花』(作詞・岡本おさみ、作曲・知名定男。1994年)で、知名先生も一時は尼崎に住んでおられたそうです。

「家族を故郷、故郷に置いて泣き泣き、出てきたの」――当時(今もそうでしょうが)沖縄には産業らしい産業はなく、多くの方々が、いわば出稼ぎに、主に関西に出てこられたようです。当時は船で移動していましたから東京よりも近い関西ということになったのでしょう。大阪大正区や港区には「リトル・オキナワ」と呼ばれる地域もあります。

「黄金で心を汚さないで 黄金の花はいつか散る」
「黄金で心を捨てないで 本当の花を咲かせてね」

涙が出るような歌詞です。先に書いた「琉球の風」で、ネーネーズのこの歌を聴いていた「かりゆし58」の前川真悟君が涙ぐんでいた映像が残っていますが、聴く者すべてに感動を与える曲です。

ちなみに、作詞の岡本おさみは鳥取出身で、『島唄』の宮沢和史、『さとうきび畑』『涙そうそう』の森山良子、後述する『沖縄ベイ・ブルース』の阿木燿子・宇崎竜童夫妻もヤマトンチュであり、特に山梨県出身の宮沢和史は『島唄』を発表した当初、かなり拒絶されたそうですが、そのひたむきさに知名先生は「いとおしくなった」と仰っていました。

◆これからも沖縄・奄美と共に

これからの日本は、どう転ぼうが沖縄を度外視してはやっていくことはできません。また、忘れられがちな奄美も含めて考えていかないといけないでしょう。ちなみに、沖縄と奄美は対抗意識があるようで、例えば、沖縄は「島唄」、奄美は「シマ歌」ですし(かつて奄美出身の歌者を招きライブを行い、そのフライヤーの原稿が「シマ歌」となっていたので「島唄」と直したところ校正で「シマ歌」と修正され教えていただきました)、沖縄は「泡盛」、奄美は「黒糖焼酎」ですしね。

1971年の沖縄返還協定調印→批准阻止闘争が、60年代後半の闘いに匹敵するほど盛り上がりつつも、運動の分裂や内ゲバの激化を大きな要因の一つとして敗北し、中途半端な形で「返還」(併合)がなされてしまいました。私たちヤマトンチュは、50年余り前の当時、沖縄「返還」(併合)の本質的な意味を理解するに十分ではなく、ともかく「返還」はよかったんだという意識がなかったか? いろいろ反省すべきことが多く、「返還」50年ということで、先のGWに考えながら塞ぎ込んでしまいました。

最後に『沖縄ベイ・ブルース』(作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。1976年)の一部を挙げておきます。阿木・宇崎夫妻が「返還」から5年も経たないのに、沖縄の現状を鋭く見つめていたことに驚きます。ここでいう「約束」とは「核抜き・本土なみ」ということですが、いまだにこの「約束」は履行されていません。――

「♪約束はとうに過ぎて 影ばかり震えてるの
今すぐ旅立てるよう 手荷物はまとめてあるわ」

「アーン アーン 聞き違いなの 教えてよ
アーン アーン 待ちぼうけ残して
青い鳥が逃げた」

「約束はオウム返し 唇に乗せてみるの
窓からの月の光 心の壁突き抜けるよ」

「アーン アーン 勘違いなの 教えてよ
アーン アーン 忘れた顔をして
青い鳥が逃げた」

(文中、一部を除き敬称略。また、半世紀も前の話なので記憶違い等があればご指摘ください)

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馬渡亮太はこの日のMVP賞となる鮮やかTKO勝利で、日本人チャンピオン対決での結果を残す。

モトヤスックは北野克樹のハイキックで2度ノックダウン喫する大差判定負けの失態。

王座目指す睦雅は交流戦でNJKFの吉田凛汰朗と引分け、前に進めぬ足踏み状態。

皆川裕哉も交流戦で、大稚YAMATOに戦略で優って判定勝利。

興之介はNKBからの刺客、棚橋賢二郎に倒される。

◎CHALLENGER.5 / 5月1日(日)後楽園ホール17:30~20:37
主催:(株)オフィス超合筋 / Yashioジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第9試合 57.5kg契約 5回戦

馬渡亮太(治政館/2000.1.19埼玉県出身/57.5kg)
     VS
佐野貴信(創心會/1994.12.20神奈川県出身/57.45kg)
勝者:馬渡亮太 / TKO 3R 1:36 / カウント中のレフェリーストップ
主審:少白竜

馬渡亮太はWMOインターナショナル・スーパーバンタム級チャンピオン。佐野貴信は2019年4月にWMC日本フェザー級王座を獲得。

馬渡は相変わらず、しなやかな蹴り速く、ローキックが冴える。佐野も勢いある蹴りで探り合いが続いていく。第3ラウンドに蹴りの攻防から馬渡が右ストレートを佐野のアゴに打ち抜くと崩れ落ち、立ち上がろうとするも脚がおぼつかず、カウント中のレフェリーストップ。鮮やかなTKOでメインイベントを締め括り、MVP賞獲得となった。

馬渡亮太の力強いハイキックが佐野貴信へヒット、TKOへの伏線となった

馬渡の右ストレートで佐野貴信は立ち上がれず

鮮やかな右ストレートで倒し、MVP賞獲得した馬渡亮太

◆第8試合 68.0kg契約 5回戦

北野克樹のハイキックがモトヤスックの顔面を何度も襲った

モトヤスック(=岡本基康/治政館/2001.9.22埼玉県出身/68.0kg)
      VS
北野克樹(誠至会/1996.5.26大阪府出身/68.0kg)
勝者:北野克樹 / 判定0-3 /
主審:和田良覚
副審:椎名45-49. 櫻井45-49. 少白竜46-50

モトヤスックはこのジャパンキックボクシング協会ウェルター級チャンピオン。北野克樹WBCムエタイ日本スーパーライト級チャンピオン。

北野克樹が開始早々に左ハイキックでモトヤスックの顔面を狙う。蹴り中心の攻防の中、第2ラウンドにタイミング掴んだ北野がパンチから左ハイキックでモトヤスックはノックダウン。

北野は更にハイキックで顔面を掠めていき、危なっかしいモトヤスック。ダメージを引き摺っていたか、第5ラウンドにもまたもハイキックでノックダウンするモトヤスック。勢い付いた北野は威圧的にハイキックを連発。モトヤスックは大差判定負けとなった。

二度ノックダウンを奪った北野克樹は終盤に一層圧力掛けて蹴ってきた

他団体から乗り込んで勝利者となった北野克樹

◆第7試合 62.5kg契約3回戦

JKAライト級1位.睦雅(ビクトリー/ 1996.6.26/東京都出身/62.45kg)
VS
NJKFライト級2位.吉田凛太朗(VEATEX/2000.1.30杤木県出身/62.4kg)
引分け 0-0
主審:松田利彦
副審:和田29-29. 櫻井29-29. 少白竜29-29

序盤からパンチと蹴り、組み合うとヒザ蹴りの目まぐるしい展開も、睦雅は吉田凛太朗の下がらず手数減らない圧力に打ち返し、最後は追い上げる流れだったが、採点に於いては上回ったと言える印象は無く、交流戦においては引分けが続く。

睦雅は吉田凛太朗の前進を止める蹴りで攻防を盛り上げた

◆第6試合 フェザー級3回戦

JKAフェザー級8位.皆川裕哉(KICK BOX//57.1kg)
VS
NJKFフェザー級8位.大稚YAMATO(大和/57.1kg)
勝者:皆川裕哉 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:和田29-28. 松田30-28. 少白竜30-27

皆川裕哉はパンチと蹴り、首相撲からのヒザ蹴りでアグレッシブに打って出るが、しぶとい大雅が踏ん張って蹴り返し、皆川が攻め切れない展開も採点は僅差とフルマークもあったが、順当な判定勝利。

皆川裕哉は倒し切れぬもアグレッシブに攻め、好ファイトを展開

◆第5試合 ライト級3回戦

JKAライト級3位.興之介(治政館/61.1kg)
VS
NKBライト級2位.棚橋賢二郎(拳心館/61.0kg)
勝者:棚橋賢二郎 / TKO 2R 1:29
主審:桜井一秀

開始直後は両者が蹴りの距離で様子見。興之介の蹴りは上手く距離を取るが、徐々に棚橋の強打狙いの形勢で距離が詰まる。

打ち合いの距離で棚橋がプレッシャーを与え、連打(最後は左フックらしい)でノックダウンを奪い、立ち上がろうとする興之介は足下おぼつかないままカウント中にレフェリーストップが掛かった。

棚橋賢二郎がミドルキックで興之介を追い詰めていくミドルキック

◆第4試合 ウェルター級3回戦

正哉(誠真/66.73→66.67kg)
VS
田村大海(拳心館/66.25kg)
勝者:田村大海 / TKO 1R 2:31

両者のローキックからパンチに繋ぐ様子見から、田村は右ストレートでノックダウンを奪い、立ち上がった正哉にヒザ蹴り、パンチ連打から右ストレートで倒し、カウント中のレフェリーストップとなった。

◆第3試合 ウェルター級3回戦

鈴木凱斗(KICK BOX/66.67kg)
VS
大将(KIX/66.15kg)
勝者:鈴木凱斗 / 判定3-0 (30-25. 30-25. 30-25)

◆第2試合 スーパーフェザー級3回戦

布施有弥(KIX/58.55kg)
VS
和斗(大和/58.1kg)
勝者:和斗 / TKO 3R 3:00

◆第1試合 フェザー級3分3R

石川智崇(KICK BOX/56.5kg)
VS
熊谷大輔(GT/56.85kg)
引分け 三者三様 (29-29. 29-30. 29-28)

《取材戦記》

前日計量で、「CHALLENGER.5」プロモーターで、元・ラジャダムナンスタジアム殿堂チャンピオンの武田幸三氏の選手への御挨拶で、来月の「THE MATCH」での那須川天心vs武尊のファイトマネーは過去最高額と言われる億単位について、「皆さんも貰えると思いますか?、貰えると思いましょうよ(そんなトップ選手になって)。そういう大会にしていきたいし、こっちが数十万円では悔しいですね。私もプロモータ-として、 今回出場する選手、その良い選手にはどんどんファイトマネー上げていきます。今回もスポンサーさんから“KO賞、MVP賞に使ってください”と言って頂きました。向こう(THE MATCH)には全然敵わないですけど、MVP賞、KO賞など、私の出来る限りのことはやりますので、とにかく熱い試合を、会場を盛り上げるのは選手ですので、宜しくお願いします!」

既存のキックボクシング団体では、過去においても(類似イベントを除いて)、一試合のファイトマネーが一千万円単位にも跳ね上がることはなかったでしょう。現在は凄い時代になったものです。ファイトマネーが一時的、一部だけでも日本のプロボクシング世界チャンピオンを超えるほどになるとは。“キックボクシング系競技”がこうなって来たのも、最初はK-1の出現からでしょう。

過去に述べたかもしれませんが、K-1等を観て育った世代が今、企業の経営者となって、スポンサーとなる理解者が増えたのもこの時代の流れが大きい。そんな新世代の格闘技と、昭和のキックボクシングを継承している団体とでは、アピール、プレゼンテーションにも違いがあるのでしょう。既存の団体やプロモーションも影響を受けて徐々に変わって来ている時代であります。

気合入る武田幸三氏の活入れるセレモニー

武田幸三さんのセレモニーでの語り口にはオーラがありました。他団体から出場する選手に「ウチの選手を遠慮なくブッ倒してください!」と檄を飛ばし、モトヤスックと馬渡亮太には「お前ら負けたらどうなるか分かってんだろうな!?」

毎度聞くセリフながら、リング上での選手に対する脅しのような活(かつ)を入れるオーラにも滲み出ています。これは今後、一層進化していくという「CHALLENGER」興行でしょう。

空手経験者は至近距離での正拳突きの経験から、その距離からのハイキックが得意だと聞いたことがあります。そんな不意を突かれるタイミングだったかは分からないが、モトヤスックが貰い過ぎるハイキックは最初のノックダウンからダメージを引き摺ったか、焦りがあったかもしれません。

ジャパンキックボクシング協会興行は6月12日(日)に市原臨海体育館にて市原ジム主催興行。7月17日(日)には新宿フェースにてビクトリージム興行が予定されています(イベント名未定)。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一般的に、保守派・右派がウクライナ政府を支援し、左派がロシア連邦を支持している、と思われがちだ。ロシアが社会主義革命の聖地だからだろうか。あるいは保守派のなかにも、アメリカの覇権主義を警戒して、プーチンを支持する人がいる。アメリカのネオコンを中心にした、ディープステートの世界支配を唱える元駐ウクライナ大使馬渕睦夫など、トンデモ系(史実・事実の論拠なし)の著作や発言に飛びつくのは、しかし左右を問わない。

妄想を論拠にしたトンデモ議論に付き合えばきりがないので、ここでは引き続き、左翼の理論的な混乱を解説していこう。右翼にはほとんど合理的な理論指針がないので、メディアの画像をちゃんと見ている人たちは、大きな誤りに陥らないとも言えよう。

前回は、第一次世界大戦に際しての第二インターの分裂をたどってきた。

ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか〈1〉左派が混乱している理論的背景

第一次大戦は、それまでの民族的な国境紛争や王家の継承戦争といった、いわば絶対主義王政時代(近世ヨーロッパ)の戦争とはちがう。帝国主義段階の拡張政策・市場再分割がおもな動因であった。

そして兵器の高度化とともに、戦争動員が国民的な経済資源と人的資源にまで及んだ、いわゆる「総力戦」となって顕われてきたのだ。そこで、左派も戦争に対する態度が問われてきた。

第二インターの指導者であるカール・カウツキー自身は戦争に反対の立場だったが、分裂を回避するために祖国防衛の立場をとっている。のちに、レーニンか「プロレタリア革命と背教者カウツキー」としてこき下ろされる。

だが、帝国主義論においては現在のグローバリズム(資本の国際化)が、カウツキーの「超帝国主義論(世界大に発展した帝国主義諸国は、もはや協調に至らざるをえない)」を実証した。ぎゃくにレーニンの帝国主義間戦争の必然性は、第二次大戦以降は証明されていない。もちろん代理戦争と呼ばれる、地域戦争や紛争は後を絶たないが、兵器の発達が帝国主義国同士の世界戦争を回避させているのだ。

◆レーニンの戦争革命論

第一次大戦までの左翼(共産主義者・社会民主主義者)は、帝国主義本国にあって自国の敗北のために闘う路線を採っていれば良かった。自国帝国主義打倒とプロレタリア国際主義である。帝国主義本国においては、これは今日も変らない。

この帝国主義本国内の左翼反対派は、よく「サヨクは反対論ばかりで政策がない」と謗られる原因だ。ある意味ではラクな政権批判であり、対案なき批評なのである。対案がないということは、単なる悪口にすぎない。

新左翼の老舗雑誌といわれる『情況』でも、国防論特集を組んだときに、オールドボリシェヴィキ(団塊以上)から猛反発が起きたものだった。かりに政権交代があったときに、旧民主党の鳩山政権のようにトータルな国防政策を欠いた「沖縄米軍基地撤去」の空公約では、政権は立ちいかない。そのあたりの政策遂行能力の有無は、現在の日本の左派においては、いまだに重大な欠陥となっている。

ともあれ、戦争に疲弊する本国政府の政治危機を衝いて、プロレタリア階級が政治権力を奪取した。これが、マルクスの「窮乏化革命論」「恐慌革命」にたいする「戦争を内乱・革命政権の樹立」として定立された。戦争革命論である。じっさいにロシアでは第一次大戦の疲弊に乗じた革命政権(1907年2月・10月)が成就したのだった。

革命ロシアはひきつづきドイツ革命・イタリア革命で、世界革命を展望できると考えられていた。しかし、そうはならなかった。反革命の国際的な干渉とドイツ革命の敗北によって、レーニン率いるボリシェヴィキは世界革命の展望をうしない、やがてスターリンのもとで一国社会主義の道を歩むことになるのだ。そのかんに、革命ロシアはウクライナをはじめとする周辺国にソビエト政権を打ち立てて、ソビエト連邦へと併呑していく。これは周辺国を内戦の渦に叩き込むことになった。

◆ウクライナ・ロシア戦争

階級問題を軸心としたマルクスの思想と理論が、民族問題の解決を射程に入れていなかったことに、ボリシェヴィキは逢着したのだ。

帝国主義と民族植民地問題において、レーニンが民族自決の原則と、その上での連邦制を主張したのに対して、スターリンはソビエト連邦への上からの吸収を主張していた。この議論が決着を見ないうちにレーニンは没する。ちなみに、米大統領ウイルソンの民族自決の原則(第一次大戦後)は、レーニンの提案を容れたものだ。
現実のソビエトは、周辺諸国の民族派を弾圧し、工業化のための農産物の供出を強要し、膨大な餓死者を強いていたのである。ちなみに、ウクライナ・ロシア戦争は1917年から足掛け5年におよんでいる。ロシアとウクライナの紛争は、いまに始まったことではないのだ。

ともあれ、ロシアにおいてはボリシェヴィキが政権をにぎり、プロレタリアートがソビエト権力を担うことになった。したがって、帝国主義の干渉にたいして「国防」が問われることになったのだ。

プロレタリアートとその党が帝国主義内部にあって、自国帝国主義を打倒する闘争に終始するのとちがい、みずから赤軍を国軍として組織して、防衛戦争を組織しなければならなくなったのだ。

レーニンがブレスト・リトウスク条約でドイツと停戦・講和し、革命政権を保ったのは、革命政権を維持する苦肉の策である。そして戦時共産主義経済と新経済政策で、ソビエト政権は農民を犠牲にした工業化をはかる。とりわけ農業地帯への締め付けは過酷だった。

そしてスターリン革命と称される第二次五か年計画の過程(1932年~)で、ウクライナの農産物は中央政府に徴発された。これは社会主義的原始的蓄積とも称され、同時に農場の集団化・国有化が行なわれた。

これをウクライナでは、スターリンのホロドモール(ウクライナ語でホロドは飢饉、モールは疫病を示す)という。それはまた、スターリンが「ウクライナ民族主義」を撲滅する過程でもあった。

◆ナチスドイツのバルバロッサ作戦

さて、前段で左翼の政策能力を問題にしたが、侵略戦争に遭遇したときほど、その政治能力の有無が問われることはない。

現在のウクライナ政権は、ロシアの侵略戦争に対して、NATOの支援頼みだとはいえ、じゅうぶんにその能力を発揮しているといえよう。はたして、ゼレンスキー政権の戦争継続を批判する日本の左翼は、自分たちが侵略戦争に遭遇したときに、どんな行動をするのだろうか。

非暴力(無抵抗)で虐殺されるのか、それとも降伏して強制移住させられるのか、ぜひとも意見を訊いてみたいものだ。スターリン麾下の革命ロシアも、第二次世界大戦に否応なく巻き込まれた。ナチスドイツの東方侵略である。

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソビエト連邦との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、通常の占領政策をとらなかった。つまり、最初から虐殺のための戦争として発動したのだ。

1941年6月22日、ドイツ軍は「バルバロッサ作戦」としてソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパのドイツ占領地から反共主義者の志願者、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。外交官加瀬俊一によれば、この反共討伐軍は、ヨーロッパでは人気があったという。

開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎した。

とくに東欧の反共産主義者は、ロシア国民解放軍やロシア解放軍としてソ連軍と戦った。プーチンが「ウクライナ民族主義者たちは、ナチスに協力した」とするのは、一面では当たっているのだ。

ところが、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きを利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省は、ドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、これらは一部実行された。

ヒトラーは『我が闘争』において、ドイツ人のための生存圏を東欧・ロシアにもとめ、ドイツ人を定住させることを構想していた。そこではドイツ人が「支配人種」を構成し、スラブ系住民のほとんどを根絶またはシベリアへ移送し、残りを奴隷労働者として使用する構想だった。

◆大祖国戦争

当時、スターリンによる粛軍によって、ソ連軍(赤軍)は弱体化していた。1941年の夏までにウクライナのキーフ、ハリコフが陥落した。ドイツ軍は9月には、モスクワ攻略作戦を発動する。最新鋭の6号戦車(タイガー)を主力にした機械化師団、ユンカース急降下爆撃機の支援で、圧倒的な戦力をほこるドイツ軍はモスクワまで十数キロに達した。ところが、この年は冬の訪れが早かった。戦車隊は雪と泥濘で進撃を止められ、戦局は膠着した。スターリンが「大祖国戦争」を呼号したのは、このときである。

アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが、ソ連への武器供与を決断したのも、ドイツ軍のモスクワ攻囲が完成した時だった。現在のウクライナ戦争(ロシアの侵攻)とよく似ていることに気付くはずだ。

さてこのとき、左翼(共産主義者)は自国帝国主義(アメリカやイギリス)の武器供与に反対すべきだっただろうか? フランスでは共産主義者をふくむ抗独レジスタンスが、やはり米英の武器供与(空輸)を受けていた。米英の左派は、この武器供与に反対するべきだったのだろうか。史実は反ファシズム戦争として、民族ブルジョワジーから民族主義右翼、社会主義者・共産主義者がこぞって、ナチスドイツの軍事侵略に反対し、民主主義擁護の戦争に参加したのである。

このように、帝国主義戦争においては、かならず民族的な抑圧・虐殺が起きる。帝国主義間戦争のなかに、かならず反侵略の自衛戦争が生起する。このときに、自国の平和だけを唱える者はいない。少なくともマルクス主義左翼は、国際共産主義者として、抑圧民族の自衛戦争を支援・参加するはずだ。

だがなぜか、今回のウクライナ戦争において、日本の新左翼と反戦平和市民運動はそうではないという。やはり革命ロシアの記憶がプーチンを擁護させるのだろうか。それとも「戦争」という言葉それ自体に、忌避反応してしまうのだろうか。次回は民族解放戦争に論を進めよう。

◎[関連リンク]ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか
〈1〉左派が混乱している理論的背景
〈2〉帝国主義戦争と救国戦争の違い

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟など、医療現場での人権侵害に取り組んで来た鈴木利廣弁護士が4月22日、「浪江原発訴訟」の報告集会で講演した。同訴訟は事実上の現地検証に続き、原告本人尋問が始まる。なぜ裁判官に現場を見せ、原告の想いを聞かせることが大事なのか。鈴木弁護士の言葉からは被害当事者が直接、語りかけることの重要性が伝わってくる一方、被害者がそこまでしなければ被害救済につながらない「原発事故」の罪深さを改めて考えさせられる。

「浪江原発訴訟」では今月26日、小川裁判長など3人の裁判官が実際に浪江町を訪れる「現地進行協議」(事実上の現地検証)が実施される。裁判官が現場を見たり、原告の説明を聴いたりすることでどういう印象を受けているのか。心証形成にどのような影響を及ぼすのか。鈴木弁護士は2000年3月に「ハンセン病国家賠償請求訴訟(東日本訴訟)」で行われた現地検証での経験を例に挙げた。

「群馬県草津町の国立ハンセン病療養所『栗生楽泉園』を訪問。全ての説明を原告自ら行いました。そして、吉川裁判長が正門前で,園を離れるに際して参加者全員にこう語りかけたのです。
『今,私はここを去りがたい思いでいます。このことは私も忘れることはありません』
私は、裁判長の感極まった様子を目の前で見ていました。彼の言葉を聞き、やはり現場を見るというのは大事なことなのだと思いました」

「浪江原発訴訟」の報告集会で講演した鈴木利廣弁護士。裁判官による現地検証や原告本人尋問の重要性を語った

次回6月22日の期日からは、原告本人尋問が始まる。12月の期日まで4回にわたって実施される予定だが、原告代理人弁護士が質問する主尋問でも緊張で思ったように答えられないうえに、被告国や東電の代理人が行う反対尋問では、原告を圧迫するような意地悪な質問が矢玉のように飛んでくる。そこまでしてでも被害者は法廷に立たなければならないのか。鈴木弁護士は「裁判官の目を潤ませられるか否かで勝敗が決まる」という言葉を口にした。

「なかなかそのようには感じられないかもしれませんが、裁判官も人間なんです。法廷で目頭が潤んでしまい、まばたきをすると涙がこぼれてしまいそうになったので鉛筆を故意に落とした裁判官がいました。鉛筆を拾うときに法服で目を拭ったそうです」

たしかに、原発事故後の裁判では、原告の言葉に目を潤ませたように見えた裁判官は複数いる。そこまで心に訴えかけることができれば判決にも好影響しそうだが、それには相当の苦痛が伴う。仙台高裁判決が確定した「中通りに生きる会」の損害賠償請求訴訟(被告は東電のみ)でも、多くの原告が涙を流しながら陳述書を書き上げた。封印していたはずの被曝不安や怒りに再び直面しなければならないからだ。鈴木弁護士は「つらい経験を忘れたいと考えるのは人間として当然のこと」としたうえで、「弁護士もつらい」と語った。

「本人尋問では、かさぶたを強引に引きはがして傷口をもう一度さらけ出し、そこに塩をまいてタワシでこするというような悲痛なことを代理人弁護士はやっています。しかし、本人尋問の重要性は『裁判官に原告の被害体験を聴かせて、救済しなければならないという意識を持たせる』ことです。被告の主張に裁判官が引きつけられるのか、原告の被害実態に引きつけられるのかが勝負。かさぶたをはがしてでも被害の実相を裁判所に伝えなければならない。弁護士もつらいのです」

一方、本人尋問を経て原告が強くなるという。

「原告自身が被害体験を思い起こし、改めて自認する。この作業には覚悟と学習が必要です。でも、被害救済への共感を拡げるための闘いのエネルギーは、本人尋問手続を経て初めて本物になると言えます。薬害エイズ訴訟では苦しい本人尋問を耐えて耐えて、ようやく終わったら『もう怖いものはなくなった』と口にした原告がいました。その人は実名を出して街頭で被害の実態を語るようになりました」

いくら代理人弁護士や支援者が努力をしても、最後は当事者が声をあげなければ、当事者が訴えなければ世論を喚起することはできない。

1995年に来日したアメリカの人権派弁護士アーサー・キノイ氏は、こう述べたという。

「誤解を恐れずに言えば、裁判に勝つことよりも民衆の怒りに火をつけることの方が重要だ」

「裁判なんかどうでも良いと言っているのではありません。仮に敗訴したとしても、民衆の怒りに火がつけば紛争は解決すると。勝訴したとしても民衆の怒りに火がつかなければ金だけで終わって紛争は解決しないということを意味しています」(鈴木弁護士)

「浪江原発訴訟」は今月26日に事実上の現地検証を実施。次回6月の弁論期日から原告本人尋問が始まる

民衆の怒りに火をつけるには、裁判官に現場を見せることに加え、原告が改めて被害に向き合い、想いを語るつらい作業は避けられない。それが鈴木弁護士の言う「覚悟」ということだ。そして、最後に勝利をたぐり寄せるのは原告だと強調した。

「闘いの序盤には、勝利は原告団の手の届かないところにあります。原告団だけでは勝利は難しい。到底無理です。それを手の届くところに近づけるのが弁護団の役割。しかし、手の届くところに近づいてきたとき、それをつかみとれるのは原告団だけです。原告団でなければつかみとれない。弁護士がつかみとろうとしても逃げられてしまうのです」

勝訴をつかみ取るのは原告本人。他方、そこまでしなければ真の被害救済につながらないのもまた、原発事故。国や東電には被害者に真摯に向き合う姿勢が改めて求められる。

鈴木利廣弁護士は1947年、東京生まれ。1976年に弁護士登録をし、1989年からは「東京HIV訴訟」(薬害エイズ訴訟)弁護団の事務局長。2002年提訴の「薬害肝炎訴訟」では弁護団代表に就任。「薬害オンブズパースン会議」の代表も務めており、プロフィールには「弁護士人生の約2/3を『医療と人権』の課題に取り組んできた」と書くほど、20年にわたり医療問題に取り組んで来た。2004年からは明治大学法科大学院教授として後進の育成に力を注いでいる。

【浪江原発訴訟】2018年11月27日、福島地裁に提訴。原発事故による損害賠償として「コミュニティ破壊慰謝料」、「避難慰謝料」、「被曝不安慰謝料」を合わせた1100万円、集団ADRの和解案を東電が違法に拒否したことによる精神的損害として110万円の計1210万円を一律に支払うよう請求している。浪江町民は2013年5月29日、精神的損害に関する賠償の増額などを求め集団ADRを申し立てた。しかし、東電は原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)の再三の勧告にもかかわらず6度にわたって和解案の受諾を拒否。2018年4月5日をもって打ち切られていた。訴訟の狙いは、①国と東電の原発事故における責任を明らかにする、②浪江町民の一律解決、③浪江町民の被害の甚大さを広く訴え、慰謝料に反映させる、④東電のADR和解案拒否に対する追及─の4点。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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横浜副流煙事件「反訴」の第1回口頭弁論が、10日、横浜地裁で開かれ、原告の藤井敦子さんが「(被告らは)事実的根拠のない所見を記載した診断書に基づいて高額請求に及んだ」として、裁判所に厳密な事実検証を求める上申書を口頭陳述した。

被告の作田学・日本禁煙学会理事長ら4人と、代理人の山田義雄弁護士、片山律弁護士は欠席した。原告側からは、藤井さんと古川健三弁護士とが出廷した。

※被告は、第1回口頭弁論に関して欠席が認められている。

山田・片山の両弁護士が提出した答弁書

この事件は2017年11月にさかのぼる。藤井さん夫妻と同じマンションに住むAさん一家(夫妻と娘)が、藤井家の煙草が原因で「受動喫煙症」に罹患したとして、4518万円の損害賠償を起こした。しかし、藤井家からは、副流煙はほとんど漏れておらず、たとえ漏れていたとしても、気象庁の風向きデータによると、藤井家が風下になることが多く、A家への煙が流入していたとする主張には根拠がなかった。さらにA家3人の診断書のうち娘のものを、作田医師が診察せずに交付していたことが分かった。もちろん娘と面識はなかった。これは医師法20条違反である。

つまりA家の3人は、違法行為の下で作成された診断書を根拠として、4518万円の金銭請求を行ったのである。喫煙の禁止を請求しただけならともかく、高額の金銭請求を行ったのだ。

それが訴権の濫用にあたるとして、藤井夫妻は前訴の判決が確定した後に、A家の3人と診断書を作成した作田医師に対して約1000万円の損害賠償裁判を起こしたのである。

ちなみに藤井夫妻の地元、横浜市青葉区の青葉警察署は、2022年1月、作田医師を虚偽診断書行使の疑いで横浜地検へ書類送検した。横浜地検は、不起訴としたが、検察審査会が「不起訴不当」の議決を下した。

今回の民事訴訟は、A家による損害賠償裁判、藤井夫妻らによる刑事告訴に続く第3弾である。法的措置の前段の時期を含めると、事件は勃発から6年目に入っている。

◆山田弁護士、「今なお重大な健康被害を被っている」

被告の訴訟代理人山田弁護士(A家の3人の担当)は、10日に裁判所へ提出した答弁書の中で、「被告Aらが、原告らの喫煙によって今なお重大な健康被害を被っていることは厳然たる事実である」と述べ、現在も健康被害の原因が藤井さん夫妻にあるという事実を摘示している。

しかし、藤井敦子さんは、喫煙者ではない。夫の将登さんは、喫煙者であるが、自宅では1日に2、3本吸う程度である。しかも、喫煙場所は、防音装置がある密封性が高い音楽室に限られている。

前訴の確定判決で、Aらの健康被害と藤井将登さんの喫煙との間に因果関係は存在しないことが確定している。従ってAらの健康被害はタバコ以外に原因がある可能性が高い。

片山律弁護士(作田医師の担当)は答弁書の中で、作田医師の医師法20条違反を認定した前訴・横浜地裁判決について、「判決記載内容の限度で認め、その余は否認ないし争う」と述べている。今後、作田医師の医療行為が医師法20条に違反しないとする主張を展開する可能性が高い。

また藤井夫妻らが起こした刑事告発については、「虚偽告訴等罪を構成する可能性もあるため、被告作田においては、同罪についての告訴も検討している」と述べている。

原告の藤井敦子さんは、自宅で英語を教えている

【藤井敦子さんの上申書全文】

私は前訴において被告となった藤井将登の妻、藤井敦子です。この上申書では、本件裁判の被告らが、前訴(平成29年(ワ)第4952号事件)で請求した4518万円の根拠とした3通の診断書により、私たち原告がどのような被害を受けたかを述べさせていただきます。これらの診断書は被告・作田学医師が作成したものです。そのうちの一通は医師法20条に違反して自ら患者を診察しないで交付された違法なものでした。

事実的根拠のない所見を記載した診断書に基づいて被告らは高額請求に及んだのです。

平成29年12月5日、A家からの1通の訴状が我が家に届きました。これを機として、以後、4年のあいだ私たちの生活は翻弄され続けました。

長年にわたり、盆踊りやお神輿、高齢者の歌の会など多くのボランティア活動を行っていた私は、裁判に巻き込まれた後、これらの活動を中止せねばならなくなりました。裁判に時間を費やさなければならかった事情もありますが、「被告藤井家」の噂が地元で広がっており、誤解や噂がさらに伝播するのを恐れたのもその理由のひとつです。

年老いた義父母に対しても、私は接し方で迷いました。90歳を過ぎた義父母に対して、息子将登が4500万円もの裁判に巻き込まれたなどと告げることは出来ません。伝えれば義母などショックで寿命を縮めかねないと思いました。従って、未だ義父母には、裁判のことを伝えていません。

提訴されるまでは、同じ団地に住む義母の所へ月に2回ほどお喋りに行くことが、私の大きな楽しみの一つでありました。が、裁判を起こされたことで、私は笑うことが出来なくなっていました。義母が「何かよくない事が起こっている」と察してしまうのを危惧して、私は会いに行くのをやめました。

一度だけ、控訴審で裁判所にいた時、うっかり義母からの電話に応えてしまったことがあります。すると、義母は私の声の様子がただならぬと察し、その後、随分長い間、「あの時何があったのか」と聞き続けました。

兵庫県に住んでいる実父には、事情を話しました。そして頻繁には帰省できなくなったことを理解してもらったのです。

4500万円という金額を他人から請求されるのは想像を超える屈辱でした。大きなストレスになりました。ちょうど住宅ローンを払い終える時期でしたから、また借金をせねばならないのかという不安にかられました。請求額全額が全額認められることは無いとわかっていましたが、一軒の家を買えるぐらいの金額ですから、一時も平穏ではいられませんでした。

提訴された日にインターネットで作田医師について調べると、作田氏は日本禁煙学会という全国規模の反喫煙団体の長であることが判明しました。また作田学という名前とともに「禁煙ファシズム」という言葉も検索で出て来ました。その人物が「藤井将登が犯人である」と根拠ない診断書を交付したわけですから、当然、日本禁煙学会の政策目的が背景にあると考えました。実際、診断書の中で作田医師は、被告家族が重篤な病気になったのは、私の夫によるタバコの副流煙だと事実摘示をしています。現場に来たこともないのに、憶測でこうしたことを所見として記述したのです。夫を勝手に「犯人」にして、「禁煙撲滅運動」のマニュアルどおりのストーリーに仕組んだことは明らかでした。

診断書は、警察がわが家の捜査をはじめる根拠にもなりました。前訴が提訴される前後、藤井家に神奈川県警青葉署が2度にわたり来訪して取り調べを行いました。最初に刑事が来たのは、平成29年8月25日でした。2度目は12月27日でした。夫をなんとか犯人に仕立て上げようとしていることは明白でした。その偏見の根拠となっていたのが作田医師の作成した事実的根拠のない診断書でした。しかし、刑事らは、診断書の所見と整合するような事実はなにも確認できませんでした。2度とも深く謝罪して、わが家を後にしたのです。

ちなみに被告A妻と前訴の原告代理人山田義雄弁護士が、当時の神奈川県警本部長斎藤実に対し、わが家を取り調べるように陳情を行っていた事実も判明しています。夫に対して最初に内容証明を送りつけてきたのも、3通の診断書が交付された直後でした。これらの診断書が常に事件の根底にあるのです。

前訴の控訴審において、被告・A夫がある資料を証拠として提出しました。それは我が家を4年間監視したことを裏付ける日記でした。そこからは被告A夫が日常的に、我が家の行動をチェックしていた様子が読み取れます。特に、駐車場に夫の車があるか無いかを確認していたことがうかがわれます。車が無い時に、「臭う」とA夫が感じれば、その原因は私か娘の煙草だと疑っているようでした。裁判の中で、私は、何度か「私と娘は喫煙者ではない」と被告側に伝えましたが、彼らには私達が嘘をついているとしか映っていなかったようです。

受動喫煙の被害についての記録をつけることは、日本禁煙学会の「お困りになったら、こうしましょう」というマニュアルにも明記されています。裁判を起こしたり警察を動かすための証拠が必要だからにほかなりません。そして提訴の段階になると、日本禁煙学会の医師が診断書を作成するのです。

私は、患者の自己申告だけを鵜呑みにした診断書の作成は絶対にやってはいけないと思います。

まして客観的な証拠がないのに、自己申告だけをそのまま書いた診断書を根拠に裁判で法外に高額な金銭を請求することは訴権の濫用に該当します。診断書は、医師が患者本人を直接診察して、客観的な事実だけを記入するのが原則です。作田医師は、その原則を踏み外しました。

裁判所にはこの点に鑑みて、慎重に審理していただきたいと思います。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

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