第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

2011年3月11日に発生した大震災は歴史の中にすでに確固とした座を占めている。ナショナル・ジオグラフォックが2012年に発行した『ビジュアル 1001の出来事でわかる世界史』でも、古代から続く人類の歴史で3・11が最新の1ページに記されているほどだ。

でも、福島第一原発事故はすでに歴史になったのか? 地震と津波が発生したのは7年前の3月11日で間違いない。けれど、そもそも福島第一原発の事故とはメルトダウンしたことなのか? それとも放射性物質の拡散? あるいは風評被害を与える言説も事故なのか? あれ、そもそも福島第一原発はいまだに“事故ってる”んじゃないのか!? だとしたら、歴史に刻まれる前にやらなければいけないことがあるはずだ。

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

2018年3月11日千代田区内幸町にて

2018年3月11日に東京電力本店前(東京都千代田区内幸町)で催された抗議行動『東電は原発事故の責任をとれ-第54回東京電力本店合同抗議行動-東電解体!汚染水止めろ!柏崎刈羽原発再稼働するな!』には前年の500人をはるかに上回る900人が参加し、現況を共有。東電に対する抗議と申し入れを行った。

集会では作家の落合恵子さん、ルポライターの鎌田慧さん、東海村(茨城)の元村長の村上達也さんなど多数のスピーカーが脱原発のスピーチを行った。今回は、当日の様子と共に、東京電力株主代表訴訟事務局長で「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(原自連)事務局次長を務めている木村結さんのスピーチを紹介する。

第54回東京電力本店合同抗議行動(2018年3月11日千代田区内幸町)

◆6月の東電株主総会では株主65万人に私たちの提案を届ける

「原自連」事務局次長の木村結さん

木村結さん

こんにちは。木村結でございます。私たちは30年も前から、東京電力に対して「原発をやめよう」という株主提案を続けてまいりました。いま、6月の株主総会に向けて提案を10件ほど準備しております。法務省は、10件は多すぎるから5件にしろとかですね、そういう具体的な数字で締め付けをしてきております。現在は3万株で提案できるのですが、そのハードルを上げるというようなことも言ってきております。

全国には東京電力の株主が65万人もいるんです。その65万人の株主に私たちの提案を届けることができるという、かなり壮大な運動なんですね。「原発を動かしてもいいじゃないか」っていう人たちにも声を届けることが出来るんです。

◆今がチャンスの〈原発ゼロ〉実現

もうひとつ、去年の4月に原自連というものを立ち上げました。『原発ゼロ自然エネルギー推進連盟』と名前が長いんですけれども、これは電自連(電気事業連合会)の向こうを張って原自連というふうにいいます。脱原発大賞というのを3月7日に発表したのですが、今日もこれから挨拶をします『さようなら柏崎刈羽プロジェクト』が金賞を獲りました。そして銀賞は『反原発議員市民連盟』です。審査員賞に『再稼働阻止ネット』も入りました。賞金も出ますので是非ご応募していただければと思います。

そしてですね、今皆さん気になってらっしゃるのが、立憲民主党、希望の党、そして共産党、社民党が共同して出している『原発ゼロ法案』です。1月10日に、私たち原自連も原発ゼロ法案を出しました。私たちのものは即時ゼロ。非常に明快な法案でございます。しかし、議員でない私たちには提案権がございません。そこで、全ての野党を回って「是非法案を出して欲しい」という呼びかけや意見交換会を重ねてきました。そうしましたら、立憲民主党、希望の党の心に響いたようで、ようやく法案を出すことができました。原自連は、普段声が届かない人たちに声を届けたいと考えております。あいつは嫌いだから手を組まないとか、あの時あんなことを言ったから許さないとか、そんなことを言っていたら脱原発はいつまでたってもできません。今がチャンスなんです! みんなで手を繋いで前に行きましょう! 進みましょう!

木村結さん

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

多士済々の登壇者たち

 

集会冒頭で上映された『三里塚のイカロス』

管制塔占拠闘争から40年目をむかえた3月25日、連合会館で集会がひらかれた。参加したのは300人ほどだが、わたしをふくめて初老をむかえた元被告たち、三里塚闘争の歴史に興味を持っているという若い人の参加もあった。

◆映画『三里塚のイカロス』に感謝

冒頭に『三里塚のイカロス』が上映された。この映画では、加瀬勉さん(農民活動家)のインタビューをはじめ、第四インターの初期の現地闘争団の活動家、元中核派の三里塚闘争責任者(昨年雪山スキーで逝去)、支援嫁たち、土地買収を担当した公団職員(反対派に自宅を爆破され重傷を負う)に話を聞くかたちで、三里塚闘争の重たい陰の側面に光があてられている。反対同盟の3・8分裂をめぐる内ゲバについても触れられている。あるいは部落の共同体をのこすために、部落決議で移転に応じた辺田部落の支援嫁の自殺も、この映画のモチーフだったという。ちなみに、その女性は筆者の相被告(三月要塞戦)でもある。インタビューはたびたび、離着陸するジェット機の騒音にさえぎられる。観る者に、いやでも三里塚の現実が伝わってくる。まさに三里塚の過去と現在に向き合った、重厚な作品といえるだろう。この映画を撮った監督(代島治彦)とスタッフに感謝したい。

◆反対同盟の柳川秀夫さんの言葉

反対同盟の柳川秀夫さんからは「元被告の皆さんは、三里塚闘争で人生が変わったと思います。たとえ人生が変わっても、こうして会えているのだから、それはそれで納得のいく人生を歩んできたのではないでしょうか」と、自身も納得のいく生き方をつづけたいと語られた。そして三里塚闘争が歩んできた足跡を振り返りながら、「腹いっぱいではなく、腹八分目で生きていく社会、不自由なく持続できる社会に作り変えていく内容があるのではないか。そのための運動を持続していきたい」と提案された。哲学が感じられる話だった。

反対同盟の柳川秀夫代表

 

廃港要求宣言の会の鎌田慧さん(ジャーナリスト)は、当時をふりかえって「第2第3の管制塔占拠をという掛け声はあったが、あれは二度も三度もできるものではなかった。開港にむけた情勢が煮詰まり、反対運動が高揚したところに、ある種の必然性をもってやり遂げられたもので、管制塔占拠をしなくても廃港にできる運動を模索するべきだと感じていた」と語られた。そして持続的に社会のあり方を変えていく運動の質があれば、三里塚闘争の半世紀およぶ歴史は無駄にはならないし、伝えていかなければならないと述べた。

 

まさにその世代をこえた伝承が、木の根ペンションで行われていることが、ビデオで報告された。すなわち、木の根風車あとに造られたプール付きの木の根ペンションが再開され、若者の音楽を中心にイベントが開かれていることだ。その担い手は、現地闘争団のメンバーを親に持つ若者(大森武徳さん)である。幼いころから現地闘争を目にしてきた彼は、自分よりも若い世代にも伝えていきたいと語っていた。大森さんは有機農業をひろめることを、営農のテーマにしているという。

主催者でもある管制塔被告団の平田誠剛さんの挨拶、現地に住んで現闘を継続している山崎宏の第3滑走路計画の解説、清井弁護士からの発言につづいて、支援嫁のひとりである石井紀子さんのメッセージが代読された。

◆三里塚闘争に女性が継続して参加できない側面があった事実

メッセージで印象的だったのは、彼女自身がリブの出張所として三里塚に来たつもりだったが、それはじつに困難な道だった。今回「女性の発言者がいないので」という理由で参加を要請されたが、どうしてほかに女性の参加者がいないのか、と疑問が提起された。もちろん集会に女性参加者はいたが、三里塚闘争には女性が継続して参加できない側面があったのは事実である。このあたりは深く切開されなければならない、日本の社会運動全体の問題であろう。

遺影は、新山幸男さん(右・第四インター)、原勲さん(左・プロ青同)

◆あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった

 

全国で空港反対運動を持続している反空連などの発言のあと、管制塔被告団が壇上に上がった。その後の人生の歩みや現在が語られ、なるほど多士済々の彼らならではの管制塔占拠なのだなと思わせるが、壇上からは「われわれは、あの日各所で闘っていた、みなさんの一部にすぎないのです」という発言があった。そう、あの日のわたしたちは誰が管制塔に登っても不思議ではなかった。政府と農民の非妥協のたたかいが、最終的にのぼり詰めた先。78年3月の開港阻止闘争そのものが、管制塔占拠という歴史的な勝利をもたらしたのだと思う。

レセプションでは、わたしも三月要塞戦被告団として発言させていただいた。ほかに5・8(岩山大鉄塔破壊にたいする野戦)被告団、2月要塞戦被告団、第8ゲート被告団、第9ゲート被告団からも発言があった。それぞれが戦友会という雰囲気である。この連載でもふれるが、厳寒のなかで闘われた2月要塞戦にくらべて、わたしたちは用意周到な準備(バストイレ・三食付き・二交代でベッド就寝・大量の火炎瓶と鉄筋弾・鉄筋矢など)に加えて、脱出(補給)用のトンネルまであったのだ。

 

そこで、二次会では「3・26で管制塔を破壊したあとに、なぜわれわれは脱出しなかったのか」という議論になった。管制塔が占拠された夜、横堀要塞を包囲していた機動隊は一時的に、大挙して撤退していた。おそらく政府高官や官僚が事件後の視察に来たので、機動隊の警備状態をみせるために、一時撤退したのではないだろうか。しかしわれわれには、トンネルからの撤収は最後の段階まで持ち越された。撤退は議論にすらならなかったのである。

議論にできなかったのは、おそらく管制塔占拠・空港突入が赤ヘル三派(第四インター日本支部・プロ青同=共産主義労働者党・共産同戦旗派主流派)だったから、中核派(4名)はぜったいに要塞からの撤退に反対するだろうと思われる。ここで逮捕者を出さなければ、かれらは開港阻止闘争でまるっきり何もしなかったことになるからだ。事実、彼らは機動隊が突入するや、鉄塔に登って抗戦した(第四インターも1名が鉄塔に残った)。撤退のイニシアチブを反対同盟3幹部も取ろうとはしなかった。管制塔を破壊して開港阻止闘争に勝ったのだから、逃げも隠れもしまいという空気があったのも確かだった。いまこうして闘争記を書けるのも、あのとき逮捕されたからだと考えると、撤退の議論は懐旧をみたす酒の肴なのかもしれないと思う。冒頭に紹介した柳川秀夫さんの言葉ではないが、われわれは三里塚闘争で逮捕され英雄(一部の社会運動だけでの英雄ですが)になったことに、こころから納得しているのだ。

当時のヘルメット姿で物販する元被告たち

▼ 横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

タケナカシゲル『誰も書かなかったヤクザのタブー』(鹿砦社ライブラリー007)

3月19日大阪地裁でM君が提訴した、李信恵ら5人に対する判決が言い渡されたことについては、本コラムですでにお伝えしてきた。判決言い渡し後、判決文を入手したM君、弁護団は即座に「控訴」の意思を固めた。その後M君、弁護団、支援会が協議し、本日(29日)大阪高裁への「控訴」が行われる。

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる(『カウンターと暴力の病理』グラビア)

◆李信恵の責任が認められなかったことは被告側の「勝利」なのか?

ただし、まず確認しておかなければならない。地裁判決は事実認定やM君の主張をほとんど取り入れないなど、極めて不当な判断が散見されるものの、決して被告側の「勝利」などではないことである。本訴訟にかかわっている被告側一部の人間は、19日の判決のあと「祝勝会」を開いたり、大仰な「勝利宣言」のような発信をツイッターで行っていると側聞(そくぶん)するが、判決では被告側に総額約80万円の支払いが命じられているのである。さらにはM君を反訴した一部被告の請求はすべて退けられているのだ。これでどこが「勝利」といえるのだろうか。取材班は理解できない。

M君にすれば、少なすぎる賠償額と「掴みかかった」と本人が証言し、「掴みかかった」事実が認定された、李信恵の責任が認められなかったこと(判決では、この不可解な認定を正当化するために判決文38頁のうち、実に5頁を割いている)。凡についての評価も容認できる内容ではなかったことが、もっとも納得のできない部分であり、弁護団、支援会も同様の見解だ。さらには後遺症と暴行の関係を認めない乱暴な判断は到底容認できるものではない。

本訴訟に直接かかわってはいないものの、事件の経緯を知り、判決文を読んだ複数のジャーナリストや法曹関係者からも同様の感想が寄せられている。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(神原弁護士のツイッターより)

◆エル金の暴力を「幇助」したと認定された伊藤大介

いっぽう、伊藤大介については、本人が証人調べで繰り替えし述べたように、M君が殴られて怪我をしているのを知りながら、それでも「友達なんだから話し合うべきだと思い」店の外にM君を出すことを促した行為が「幇助」(ほうじょ)にあたると認定された。刑事では伊藤に捜査や刑罰は及ばなかったが、大阪地裁は「暴力は振るっていないけれども」伊藤がエル金の暴力を「幇助」したと認定したわけで、これは反訴までしていた伊藤にとっては大敗北ではないのか(取材班はこの判断自体は当然と評価する)。

判決についての評価の詳細は、今後の高裁での審理にも影響するので、委細を述べるのは差し控えるが、M君並びに弁護団にとって総体として到底納得のできるものではないことは明らかだ。

そして、このような判決に異を唱えず、納得してしまうことは「長時間にわたり鼻骨骨折し、目が見えなくなるほどの暴行を行っても、民事では80万円払えばよい」という、とんでもない判例を残すことになる。当事者M君が納得できないのは当然であるが、市民感覚からしても到底受け入れられない判決を放置はできない。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

◆M君が頑張っている限り、弁護団も支援会も鹿砦社特別取材班も、絶対に諦めない

闘いは第2ラウンドを迎える。しかし、読者諸氏に是非とも伝えたい。判決直後のM君は「報告会」でこれまで支援してくださった(カンパを頂いたり、精神的に支えてくださった)方々への御礼を何度も口にして、本人のツイッターアカウントでも謝辞を述べている。ところが翌日になってM君から取材班に電話がかかってきた。

「きのうは緊張していたし、たくさんの人がいらしたのでそうでもなかったんですが、きょう一人になると、苦しい気持ちになって……」

無理はない。取材班は、「君が頑張っている限り、弁護団も支援会も鹿砦社特別取材班も、絶対に諦めない。いまは苦しいだろうが、ともに試練を乗り越えよう。見ている人はちゃんと見ている」と激励するしかなかった。M君の心中を想像すると、その苦渋は察するに余りある。

控訴にあたっては、また弁護団への着手金の支払いなどが生じる。「M君の裁判を支援する会」(https://twitter.com/m_saiban)では彼の法廷闘争をご支援頂ける方々に、ご協力を呼び掛けている。取材班からもM君救済のために、これまでご支援いただいた方々に御礼申し上げると同時に、今後もさらなるご支援を可能な限りお願いしたい(支援頂いている方の中には何度も何度も繰り返しご送金頂いている方も少なくないと聞く。あくまでもご無理のない範囲で)。支援に頼るばかりではなく、当然M君本人も可能な限り裁判費用を捻出することは言うまでもない。

「対5人裁判」控訴審へさらなるご注目とご支援を!

(鹿砦社特別取材班)


◎[参考音声]M君リンチ事件の音声記録(『カウンターと暴力の病理』特別付録のリンチ音声記録CDより)

最新刊『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD

3月25日、東京品川区内で「戦争と治安管理に反対するシンポジウム」が開催された。主催は同シンポジウム実行委員会。森友学園事件などで末期的症状を示す安倍自民党政権下で、「治安管理」体制の強化が進んでいる。今回開催されたシンポジウムの内容と参加者に配布された資料を見ると、いま日本で進行しつつある「治安管理」の全体像がうかがえる。

◆一般人を管理・監視することに異様な情熱

「治安管理」とは、平和で安定した社会をつくるために治安をよくすることではなく、権力者にとって都合よく一般人を監視・管理することだ。

当日のシンポジウムは3つの分科会にわかれていた。

・第1分科会「やめろ! 改憲・戦争・大軍拡」提起者 清水昌彦・日本体育大学教授(憲法)
・第2分科会「ぶっとばせ! テロ等共謀罪・緊急事態条項」提起者 永島靖久弁護士(大阪弁護士会)
・第3分科会「差別・貧困―監視・排除型社会を超えて」提起者 池原毅和氏(医療観察法をなくす会、東京第二弁護士会)

この3つだけでも、人々を監視・管理し、自由を奪うことに異様な情熱を示す権力には、あきれ返るばかりだ。緊急事態条項で国民の基本的な人権を大幅に制限し、事実上国会機能を停止させる自民党憲法案はその象徴だ。

とくに第二次安倍政権成立後は、13年12月に成立した特定秘密保護法、15年9月に成立したいわゆる安保法制、16年5月成立の盗聴法拡大と司法取引導入、17年6月成立の「共謀罪」など、市民を弾圧する法律が次々と成立施行されてきた。

そして、この記事を書いている3月26日時点では3月29日の都議会本会議で成立すると見られている東京都迷惑防止条例「改正」がある。「悪意の感情をもって」メールやSNSを発信すると、警察に取り締まられる内容だ。またスマホで撮影しても「悪意ある」とみなされたらいつでも取り締まられる。

名誉棄損は被害者が告訴して初めて捜査が始まる。ところが今回の都条例改定では、被害者が訴えなくても、悪意の感情をもった名誉棄損だと警察が判断すれば逮捕できる。国会周辺で安倍首相を批判する行動も、その対象にされかねない。

なにしろ「悪意の感情」という人間の内面を警察が恣意的に判断できるシロモノだ。国の法律と絡んで、日本の監獄国家が進みそうだ。こんな条例改定案を議会に出すこと事態がまともな神経ではない。

◆人を支配することに快感を得る変態たち

分科会終了後は全体集会となったが、主催者あいさつや数人の問題提起があった後、ジャーナリストの斎藤貴男氏が基調講演を行った。今の治安管理社会を分かりやすく解説しているので、その一部を抜粋して紹介したい。

「森友学園問題で公文書の改ざんが問題化しているが、あらためジョージ・オーウェルの『1984年』を思い出した。ディストピア(ユートピア=理想郷の反対)小説だが、絶え間ない戦争を繰り返し、国内的には独裁を確立している国を舞台としている。主人公は、その独裁国家の真理省で働いており、仕事は過去の新聞を書き換える作業だ。偉大なる指導者ビッグ・ブラザーの過去の発言と現在が違っている場合、過去の新聞での発言を変えてしまう。現在の日本では、森友学園に関する公文書を書き換えているのだから、タチが悪いといえるだろう。
『1984年』では、国民がテレスクリーンで監視され、それは双方向になっている。現在ならスマホと同じ。国民は番号で管理されており、マイナンバー(共通番号)で管理されている現代日本にも通じる。マイナンバーは、奴隷の刻印のようなものだ。
 役所は私たちを番号でとらえている。いったいなぜここまでして国民を管理しなければならないのか。このような監視社会を進める人たちを端的に言えば、人を支配することにエクスタシーを感じる変態である。そう考えるのが一番分かりやすい。
 事細かに人々を管理監視するのは、戦時体制を確立するために必要だからだ。戦争になればほとんどの人は被害を受けるだけでメリットはないが、社会の上層にいる一部の人たちは金儲けができる。嫌がる人を無理やり動かして嫌がるのを楽しむわけだ。
 安倍首相は岸信介の孫で、おじいちゃんが成し遂げられなかった大日本帝国を復活させようとしている、との見方がある。しかし、それは“アメリカの手のひらの上での大日本帝国ごっこ”と言わざるを得ない。なぜなら、アメリカが係わる戦争に日本国民を差し出し、アメリカに代わってアメリカの敵と闘うように仕向けるようにしているからである。
 そのような考えなので、大日本帝国復活と対米従属は矛盾しない。第二次世界大戦後の歴史を見ても、日本は朝鮮戦争では掃海艇を派遣し、実際にひとり戦死している。そのときの責任者が『国際社会の名誉ある一員としての地位を示せた』という旨を述べている。自民党の上位を占める議員たちはその当時の人々の孫にあたるわけで、アメリカ様のおかげで現在の高い地位を得ることができているのだ」(斎藤貴男氏)

基調講演を行うジャーナリストの斎藤貴男氏(2018年3月25日)

◆アメリカ様のためにも日本自身のためにも戦争をしたい

「ただし、日本自身も戦争をしたいと考えている。少子高齢化の進行で国内マーケットが縮小することを財界や支配層は心配している。となれば外需に依存するしかない。その場合、単に製品を輸出するだけでなく、インフラシステムの輸出がカギとなる。たとえば新興国に対し、計画段階からコンサルも含めて係る。仮に首都を建設するなら、その設計・施工・運営と初期か段階から係っていくのである。その中核の一つに原発輸出もある。
 インフラシステムの輸出は第一に資源の確保。ビジネスマンが出ていくと危険も生じるので、第二には在外邦人の安全のために軍隊を使うという発想がでてくる。第二次安倍政権が発足して間もない2013年1月、アルジェリアの天然ガス精製プラントを武装勢力が襲撃して死者を出す事件が起きた。このときにプラント建造に参加していた日本企業の社員を含む約40人が武装勢力に人質にとられた。
 アルジェリアの事件を受けて安倍首相はプロジェクトチームを作ったが、まさに海外へのインフラシステム輸出に備えてのものだった。これは、過剰資本の捌け口としてのインフラシステム輸出であり、新たな帝国主義と言えるだろう。このようなシステムを構築するための改憲ではないのか。そして改憲に反対する勢力は邪魔になる」(斎藤貴男氏)

◆森友問題で政権が弱体化するからこそ改憲を急ぐ

「森友学園がらみの公文書改ざんで政権が揺らぎ、改憲などとても手をつけられないはずだ、という見方がある。しかし、そうとばかりは言えない。政権が長くもたないからこそ、安倍政権のうちにやらなければならないと、躍起になって改憲に向かう恐れがあるのだ。
 先日参加したシンポジウムで、元自衛隊の幹部が2003年の武力攻撃事態法の成立でとっくに日本は戦争ができる国になっていると発言した。まさにその通りで、かろうじて歯止めをかけてきたのが憲法なのである。この状況で自衛隊明記を9条に盛り込めば、本当に戦争ができる国になる。
 見逃せないのは、自民党は憲法21条を変えようとしていること。『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保証する』の現行の条文に加えて、『前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない』と付け足している。
 反体制的な言論は一切認めないということに他ならないだろう。改憲派の中には、現行憲法を“押し付け憲法”と主張する人がいるが、安倍改憲、自民改憲はアメリカに従属する憲法改正でしかない。ナショナリズムを主張する人たちが積極的に自国の属国化をめざすのは、非常にめずらしい」(斎藤貴男氏)

◆マスコミがあぶない。

「今後は、マスコミがどうなるか心配である。この間、政権の意のままの報道が増えてきた。いま森友問題で息を吹き返したかのように見えるがはたしてそうだろうか。ここ何日かで、放送法4条の改定問題が浮上してきた。放送法4条とは、放送局の政治的中立を示したもの(「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が盛り込まれている)。
 一昨年、TBSの岸井成格氏へのバッシングが強くなり番組のレギュラーコメンテーターから降板する事件があった(『NEWS23』のアンカー降板)。そのときに市民団体と称する人たちが、岸井氏が放送法4条の政治的中立に違反していると攻撃していた。その4条の政治的中立をなくすというのだ。もしそうなったら、おそらくすべてのテレビ局がネトウヨチャンネルになるだろう。政権を厳しくする局などないのではないか。マスコミはナメられているのだ。
 もうひとつ気にかかるのは、新聞と消費税増税。2019年から消費税が増税されるが、2015年12月に食料品とともに新聞が軽減税率の対象に指定された。ずっと新聞業界が働きかけをして自民党側が了承したのである。(新聞に軽減税率を適用する決定がされる前に、新聞社幹部らが安倍首相と会食を重ねており、そうした場で“おねだり”したと見られてもしかたがない)。これで政権を批判できるのだろうか」(斎藤貴男氏)

まったく斎藤氏が講演で指摘したとおりの情けない日本の姿だ。安倍政権、自民党政権がつづけば日本の監獄国家はさらに深刻化するのは間違いない。安倍政権下で日本の民主主義は相当程度破壊されているのだから、安倍首相が退陣しただけではとても回復はできない。

政権交代を早期に実現する以外に道はないのである。今、さまざまな人やグループが政権交代のために動き出している。今後は、そのような積極的な動きも伝えていきたいと思う。

「戦争と治安管理に反対するシンポジウム」の様子(2018年3月25日)

▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

『紙の爆弾』4月号 自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

伊方原発のゲート前にて、原発に向かって声を張り上げる斉間淳子さん

 

伊方原発3号機の運転差し止め決定を下した広島高裁の野々上友之裁判長を賞賛して「ありがとう野々上裁判長」と書かれた手作りの旗を掲げる

四国電力が本日(3月27日)にも伊方原発2号機の廃炉を正式決定する。1号機に次ぐ廃炉決定で、伊方で再稼働可能な原発は3号機のみとなり、少なくとも四国では〈原発ゼロ〉が遠からず現実味を帯びてきた。

伊方では昨年12月13日、広島高裁抗告審決定で九州・阿蘇山の「噴火リスク」がまっとうに強調され、再稼働が差し止められた。とはいえ、この司法の快挙に喜んでばかりはいられないと現地では1月20日、21日の二日間、廃炉を求める集会が開かれた。以下、その現地レポートを『NO NUKES voice』15号から一部加筆転載する。

      ※   ※   ※  

伊方原発3号機は2015年7月、原子力規制委員会が東日本大震災後に策定した新規制基準による安全審査に合格し、2016年8月に再稼働した。住民側は、四国電力の安全対策は不十分で、事故で住民の生命や生活に深刻な被害が起きるなどとして広島地裁に仮処分を申請したが、広島地裁はこの申し立てを却下。住民側は即時抗告していた。そして昨年12月13日、伊方原発3号機をめぐっての抗告審が開かれた。広島高裁は、伊方原発から130キロ離れた阿蘇山の巨大噴火を挙げ、9万年前の破局的噴火の規模なら火砕流到達の可能性は否定できないとして広島地裁の決定を覆し運転停止を命じた。

原発の運転を差し止めた司法判断は高裁では初めてだ。伊方原発は愛媛県の伊方町に建てられている四国唯一の原子力発電所で、福島第一原発事故後の2012年に全三基が停止。その後1号機は廃炉されることになり、また2号機は再稼働に必要な審査を受けるための申請がされておらず、運転を停止したままだ(※3月27日にも四国電力は2号機廃炉を正式決定)。残る3号機は2016年8月に再稼働するも昨年10月からは定期検査のために運転を停止。この司法決定で伊方原発は2018年9月30日までは運転を再開することができない。

こうした状況にある伊方原発だが、立地する伊方町では引き続き抗議活動が行われている。1月20日に催された集会には現地の方のみならず全国各地から参加者が集まり、その数約250人。近くに駅も無いのによく集まるものだと思う。

◆沖縄から山城博治さんがやってきた!

開会直前に現場に到着した沖縄平和運動センター議長・山城博治氏に注目が集まる。愛媛新聞の記者やローカルテレビ局が取材のタイミングを見計らうなか、経験は浅いが決断と短距離走がやたらに早い私はまっさきに山城氏の元に駆けつけ、登壇するので解放してくれという付き添いの声が聞こえるまでの7分間だけ、直接インタビューを行うことができた。

壇上から連帯を呼びかける沖縄平和運動センター議長・山城博治さん。スピーカーが弾けてしまうような張りのある声で集会に熱を加えた

伊方でも叫び、歌い、踊りだす山城博治さん

沖縄平和運動センター議長・山城博治さん

1月20日(土)に催された集会場の様子

 

四国電力の用地買収に対して「原発反対、プルサーマル反対」を生涯貫き農地を売らなかった地主農家の広野房一さん(2005年、92歳逝去)の碑

◆ここには怒りが備わっている

伊方原発への反対運動には怒りが備わっている。人間そのものが発する怒りが備わっている。他方、首都圏の運動に欠けているのは、この怒りだ。たとえば国会前での抗議活動はまさにその典型。ふざけるな。よし殴る。今スグぶち壊してやろう。といったフィジカルな気迫はどこからも感じられない。それは結局のところ、当人たちが苦しんでいないからではないだろうか。社会に不満があるとはいいつつも、その中でそこそこの安寧を得ており、だからこその腑抜けた態度が身について、その取り組みがポーズだということにも気がつかない。彼らは既に漂白されている。

ところが伊方ではどうだろう。この伊方町に暮らす人々は、原発が誘致されたことによりおよそ非倫理的とも言える苦しみのなかに蹴落とされた。南海日日新聞社の斉間満さんが著した『原発の来た町』には、その事実と怒りが淀みなく記されている。魚を殺し職を奪い、暴力的に金をばら撒き人間とその生活を引き裂く。

これが原発だ。許せるはずがない。「もし事故が起きたら被曝して苦しい思いをするかもしれないからイヤだ」などという思いから発せられる行動とはまるで違う。事故を起こした福島第一原発と同じように、既に、そして常に暴力を振るい被害を生んでいるのだ。

◆福島からは大熊町議の木幡ますみさん

大熊町議会議員・木幡ますみさん。たんぽぽ舎代表・柳田真さんや大間原発反対現地集会実行委員会・中道雅史さんの姿が見える

大熊町議会議員・木幡ますみさん

壇上でマイクを握る木幡ますみさん

夜は八幡浜の公民館にて大熊町議会議員・木幡ますみさんの講演会が行われた。講演が始まって一時間もすると、日中の疲れのためか、ウトウトとしている人がチラホラ。そんな時、前に出て休憩の提案をしたのは愛媛有機農産生協理事の秦左子さんだ。

現場ではリーダーとして常に笑顔で動き回りとてつもないエネルギーを周囲に振りまく。2016年の夏に伊方を訪れたときには「市民運動というのは、思想とか哲学から始まっているものが多かったんです。現地の人たちは命の戦いをしているのに、私たちは思想や哲学で原発反対と言ってきた。そこには大きな距離がある。」という話を聞かせてくれ、私はそのことについて時間をかけて熟慮したのを覚えている。『原発の来た町』をプレゼントしてくれたのも秦さんだ。

そんな秦さんが、集会の終わりにチラッと声に出した「原則として原発に反対しています!」という言葉は、伊方の反原発運動の特徴をバシっと表現しているのではないだろうか。放射能は子供達の未来を……、差別被差別の構造が……、事故の起こる可能性がゼロでないのなら……等々の理由を飛び越え、とにかく原発には反対なんだ。もう検討の余地などない。償って償いきれるものではない。誰がなんと言おうと絶対に認めない。そんな本当の信念を、希望や期待では無く信念を、特別な意図なく発したであろう「原則」という言葉からはっきりと感じ取ることができた。

現場で誰よりも明るく大きな声で動き回る秦左子さん。斉間淳子さんと共に活動を続けるリーダー的存在だ

愛媛新聞の記者からインタビューを受ける二木洋子さん。40年以上前から伊方原発反対運動に参加している

集会を盛り上げる原発さよなら楽団、通称“原さよ楽団”のメンバー

◆ふるさとは原発を許さない

翌朝は8時45分に伊方原発のゲート前に到着した。天気は晴れ。怒声あり。警察とデモ参加者あわせて10人ほどで早速揉み合っている。さてさて、とカメラと共に駆け寄る。「せめて確認しろよ!勝手に何やってるんだ!」「車を止めることを認めていないんだから!」「メモした紙を破れ!いますぐここで破りなさい!」不承不承その通りにするリーダーらしき警察官。

到着したころには少なかった警察官の数がいつの間にか倍増していた。

「彼らが守っているのは原発です! 私たちを監視するためにここに来ている! まず君達が一番最初に守らなければならないのは憲法だ! そのことを忘れてここにいる資格はない! 原発ではなく国民を守るのが君たちの仕事だ!」

伊方原発を背に反対運動参加者を無表情に見つめる警察官の隊列。ゲート前近くから望む四国電力伊方発電所。中央に見えるのが1号機、右が2号機、そして左に見えるのが、昨年12月に広島高裁が運転差し止めの決定を下した3号機

原発に背を向け抗議行動を監視する警察官。全員がマスクをしており匿名性が保たれている

反対運動参加者に対峙する警察官の隊列。数がどんどん増えていく

1月21日の朝、伊方原発ゲート前に到着すると怒声が聞こえた。警察の対応への抗議の声だ。警察も簡単には引き下がらない

伊方原発に向かって抗議の声をあげる参加者たち

「伊方原発、廃炉! 伊方原発、廃炉!」と始まりの挨拶があるわけでもなく徐々に抗議活動は熱を帯びてきた。「西日本で事故が起これば日本には住むところがなくなるんだ!」

「我々は微力だが無力ではないことを証明し、原発を廃炉にしよう!」
「この故郷には誇ることのできないものがひとつある!」

集会の最後には『ふるさとは原発を許さない』が歌われた。

国道197号沿いに設えられたステージにあがりマイクを握る、伊方の家主宰・八木健彦さん

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [写真・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
Facebook : https://m.facebook.com/omiyakohei
twitter : https://twitter.com/OMIYA_KOHEI
Instagram : http://instagram.com/omiya_kohei

※伊方集会の詳細は木幡ますみさん、山城博治さんのインタビュー等を掲載した『NO NUKES voice』15号をご購読ください。

好評発売中『NO NUKES voice』15号 〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

 

挨拶される、呼びかけ人実質的代表の新開純也さん。塩見さんの大学の先輩であり、政治的には赤軍結成時に訣別。その後タカラブネ元社長。松岡と同郷。(2018年3月17日京都)

昨年11月に亡くなった「日本のレーニン」塩見孝也さんの追悼会(正式には「塩見孝也とその時代」)が3月17日、母校・京都大学時計台前のレストランで開かれ約80名が参加しました。

塩見さんの最後の著書となった『革命バカ一代 駐車場日記』(鹿砦社刊)

この前に3月5日に東京の追悼会が開かれ約160名が参加したということです(このレポートは3月23日付けの本「通信」に掲載されていますので、そちらを参照してください)。関西はその半数ですが盛況でした。

私は、赤軍派ではなく、ギリギリまで参加を迷いましたが、塩見さんの最後の著書『革命バカ一代 駐車場日記』を出版し、これを参加者に配布(もちろん無料!)するため参加しました。予想に反し多くの先輩方に歓迎されました。

塩見さんは、1960年代後半の学生運動、70年安保闘争、ベトナム反戦運動の高揚の中で、それまで以上の武装闘争で運動のさらなる爆発を勝ち取ろうと赤軍派を結成しました。中心になったのは京都の学生運動、とりわけ京大、同志社でした。しかし、権力による大弾圧で、私が入学する1970年にはほぼ解体し、一部が、その理論「国際根拠地論」により平壌、アラブに活路を見い出し飛んでいきます。これはよく知られるところです。

同志社では、赤軍派の活動家・望月上史さんが激しい分派闘争の過程で亡くなります。この件では、私が『遙かなる一九七〇年代‐京都』で書いた一文「内ゲバで亡くなった二人の先輩活動家の無念」に対して、赤軍派と対立し監(軟)禁した中央大学ブントのリーダー・神津陽さんから反論と謝罪要求がありました。これを受け、翻って思い返すと、望月さんについて書かれているのは作家・小嵐九三郎さんの『蜂起には至らず』の中の一項だけで、重要な問題でもあり、現在取り組んでいるカウンター大学院生リンチ事件の書籍の編集が一段落したら取材班を作り調査・取材に取り掛かる予定で、来年の50周忌までには報告集として上梓するつもりです。

◆「7・6事件」のこと ── 血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとした塩見さん

当日、久しぶりに会った方もいたりで、偶然に受付をしていた方が、「7・6事件」に参加し、くだんの望月さん死亡前後のことについて話してくれました。

「7・6事件」とは、赤軍派のフラク(当時はまだ赤軍派の結成前)が、明大和泉学舎でのブントの会議を武装襲撃し、さらぎ徳二議長にリンチを加え、瀕死の重傷を負わせ、介入してきた警察に逮捕されたという事件です。この時さらぎ議長は、その前の4・28沖縄闘争で破防法で指名手配されていましたので、権力に売り渡したというわけです。反赤軍派の人たちの怒りは凄まじく、赤軍派フラクが拠点としていた東京医科歯科大学を急襲、約30人ほどを拉致し、神津さんらの拠点・中央大学に連行、5日ほど監禁したということです。その方も殴られ前歯2本を折ったそうです。

中央大学に到着すると、望月さんや塩見さんら幹部4人が捕捉されていたそうです。解放されたら、ともかく西の方角の汽車に乗り逃げたということで、気づいたら靴が片方なくなっていたということでした。望月さんら幹部4人はその後、真夏の暑いさなか20日間も軟禁され、ロープを伝って逃げる際に結核を患い体力が弱っていた望月さんは転落し、その後亡くなります。塩見さんは、血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとするが捕まらなかったということです。知らないことばかりで興味津々でした。

◆〈二つの安保闘争〉を牽引した「関西ブント」

挨拶した方々もほとんどが赤軍派の元幹部ばかりで、やはり「7・6事件」のことがさんざん出てきます。私以降の世代には何がなんだか分からない話です。わずかに私は同じ大学の学生運動の先輩の死ですから、在学中から聞いていましたので関心があります。

当時、同志社大学は「関西ブント」といわれる党派の拠点で、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その強固な戦闘力で全国の学生運動を牽引したことは有名な話です。学生運動の天王山だった69年1月の安田講堂攻防戦において、大学別では広島大学に次いで2番目に逮捕者が多かったことからも分かります。

血気にはやる同志社の学生活動家の多くが赤軍派に流れたといいます。赤軍派に流れなくともシンパとして支え、私が同大に入った頃の雰囲気は、親赤軍赤ヘルノンセクトでした。過激であればあるほど人気があった時代です。

しかし、追悼会には同志社OBの参加がほとんどなく、呼びかけ人や実行委員会の方々は困ったようでした。京大と共に二大拠点だったわけですから、やはり同志社OBの多くの参加を希望されていたようです。私が知る限り、私を含め4人、その中で赤軍系の人はわずか2人でした。私が居た寮は定員20数人の小さな寮でしたが、藤本敏夫さんはじめ多くの活動家を輩出しました。それでも誰一人赤軍派には行かず、例年の学友会倶楽部主催の講演会には多くの動員を行うのですが、塩見さん追悼会には私以外一人も参加しませんでした。

◆塩見さんが「無二の親友」と呼んでいた弁護士の海藤壽夫先生

参加者の中で意外な方が声を掛けてくれました。弁護士の海藤壽夫先生です。挨拶されることはプログラムに記載されていましたので、ご挨拶に伺おうと思っていたところでした。海藤先生は塩見さんと同級生で、生前の塩見さんから「無二の親友」と聞いたことがあります。「私も存じ上げていますよ」と言うと、「なんで知ってるんだ」と返されました。実は、1972年、私が学費値上げ阻止闘争で逮捕・起訴された際に、弁護士に成り立てだった海藤先生が弁護人を受任してくれたのです。全く奇縁です。

私は1970年に京都の同志社大学に入学しました。その少し前に赤軍派メンバーによるハイジャックがあり、同志社の学生も1人いました。70年当時の京都は、バリケード封鎖は解除されていましたが、まだ熱い雰囲気が残っていました。ベストセラーとなった高野悦子著『二十歳の原点』にはこの頃の様子がよく書かれています。沖縄返還も政治日程に上っていましたし、三里塚も空港の「く」の字も見えない時期ですが反対運動が続いていました。また、学内では「田辺町(現在の京田辺市)移転-大同志社5万人構想」(いまだに5万人どころか3万人にも到底及ばず、夢のまた夢です)、このための資本蓄積=学費値上げ問題がささやかれていました。

まだ田舎出の18歳、多くのことがきのうのことのように目に浮かびます。私が学生運動に関わったのは学生時代の5年間にすぎず、党派に入るわけでもなくノンセクトでした。周囲に党派に入る者はほとんどいませんでした。後から考えると、これでよかったと思いますが、75年春、私が同志社を離れる前後から、運動は分裂に分裂を重ね、主流派だった私が属した「全学闘争委員会」(全学闘)と拠点とした寮は少数派に転落し、学友会から放逐、ある時には深夜寮が襲撃され、居合わせた寮生が監禁・リンチされるという事件が起きました(79年)。

70年代前半は、むしろぬるま湯的な、比較的安定した時期で、のちの混乱は予想もしませんでしたが、70年代後半は混乱と分裂の時期だったようです。そうしたことを私は、同期で京大OBで学費決戦では応援に駆けつけてくれた垣沼真一さんと昨秋『遙かなる一九七〇年代‐京都--学生運動解体期の物語と記憶』にまとめ上梓しました。

◆望月さんと一緒に逃げようとしたMさん

追悼会に参加された方々も、いろいろな当時の想い出があるやと察しますが、どのように拙い形ででも語り書き残す時期が来ていると思います。残された時間はあまりありませんから……。

二次会には参加しないつもりでしたが、先の方と意気投合し参加しました。そろそろ佳境に入った頃、望月さんと一緒に逃げようとしたMさんが声を掛けてくれました。私は「きょうはご苦労様でした。いちどゆっくり話を聞かせてください」と言って座を辞しました── 。

〝最年少〟の私の世代でさえ齢60代後半、私たちの時代はすでに黄昏に入っています──。

ありしひの塩見さんと。

※「マイ・センチメンタル・ジャーニー」の〈1〉と〈2〉は私のフェイスブックにアップしていますので、ご関心のある方は下記リンクをご一覧ください。
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈1〉私にとっての〈2月1日〉
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈2〉2月9日、先輩の芝田勝茂さんの講演会に参加しました……
 

【追記】上記の文章を送った後に気づきましたが、くだんの神津陽さんが3月23日の自身のブログで次のように書いておられます。
「リベラシオン社ブログに3・17関西集会での物江克男の発言も出ている。
7・6事件後の中大からの逃亡時に塩見が顔面血だらけの望月を背負いタクシーを停めたとあるので、望月は落下時に頭部に自ら傷を負い指は潰れてなかった事が分かる。松岡は全容を読んで謝罪しろ! まだ許してはないぞ!」
文中で私も書いているように、3・17追悼会には私も出席し物江さんの発言(長い!)も聴きましたが、本件については取材班を設け、調査・取材を重ね、早晩きちんとした形で報告書としてまとめるつもりです。ここまで詰られると私も本気になります。(松岡利康)

70年代はじめの京都の学生運動について書き連ねた『遙かなる一九七〇年代-京都』(松岡利康/垣沼真一編著)

賑やかにやって来た寄進者のお祭り行列

ビザ問題に突入していく中、ラオス行きが浮上、カティン祭が終わり、仲間の還俗も現れました。

◆カティン祭!

午前中、寺に得度式(私以外)の参列者のように、楽器吹奏隊と共に寄進者が踊ってやって来ました。聞いていたとおり、クリスマスツリーのような飾り木にお金(紙幣)を貼り付け、派手な衣装の女性たち中心に信者さんが本堂を回る行進。若い比丘達は私に「女の子撮れ!」と言う。今私はカメラマンではないが、本能的に出来るだけ接近しようと考えてしまいます。やはり今の立場としては無理があり、適当に撮るだけでも仕方ないところでした。

撮影を頼まれて集まった美女軍団

寄進された黄色い包みはこんな感じ(撮影は2017年のもの)

和尚さんとお話に来た常連の信者さんたち、皆、横座りです

お札のツリーを抱える美女

「あの木のお金、これだけあったらバンコクでどれだけ遊べるだろう」と考える比丘として不謹慎な私。

この賑やかな外から比丘は全員、クティに移動、昼食を含め、ホー・スワットモン(読経の場)に居ること多い1日。タイでは横座りが正座とされる座り方で、足を組み替えることは出来てもこれが長いとやっぱり足が痺れます。この祭りの読経は所々間が空くところはあるも1時間以上続き、唱えられない私は合掌を続けるのみ。

ところが足痺れよりキツイのが眠気。読経が子守唄となっています。舌噛んで堪えるも、足の痺れより眠気が勝ってしまうのだから、これこそ必死に堪える修行。長い読経が終わると信者さんは和尚さんのもとで身の上話をする者と徐々に帰る者、我々はイベントスタッフのような大道具・小道具の片付けをして、ようやく長い1日が終了……と思ったら、夜には本堂で、これまでの総合的な懺悔の儀式があり、また長い読経と和尚さんの説法が続きました。天井高い本堂で大勢の読経が響くと夜では不気味な響きがあります。やると思っていた二人組んでの懺悔の儀式は無く、出来ない私はホッとするところ。

藤川さんは一時僧時代に巡礼先の寺で、二人組んでの懺悔の儀式を突然やらされても出来ず、その場で教わってこなして、更に1日で覚えきって翌日にはちゃんとこなしたことがあるそうで、私がそこまで追い詰められることなく済んだのは、この寺の緩さなのでしょう。

◆ラオス行きが視野に!

観光ビザ延長申請に、もし滞在日数が残り3日しか無い状態で入国管理局に行って、延長を認めらなかった場合、唖然と途方に暮れるところだったでしょう。

改めてノンイミグレントビザ(留学)を取ることになったので、得度した寺の証明や、比丘であることを証明する、サンガ(僧組織)から認可を貰わなければなりません。

藤川さんにビザ問題を指摘された時点で日数には充分余裕があったので、選択肢がいろいろありました。還俗も一つの手段。「もう辞めたい」と弱気になっていたところで、藤川さんから「ラオスへ行くぞ!」と提案されました。

「マレーシアはイスラム教の多い国、仏教の寺は無いから、寺に泊まることも托鉢も出来ん。ラオスはタイと同じ仏教国やからラオスに行こう。社会主義国の仏教を見ておくのも勉強になるぞ。ただ、ラオスに入るにもビザが要るけど、バンコクのラオス領事館行ってビザ下りんかったら厄介やからな、面倒な手続きやってくれる旅行代理店に頼むから、来週バンコク行くぞ、アーチャーン(和尚)は“ハルキを3ヶ月は寺から外(外泊)に出すな”と言うとったけど、ビザ取らないかんのやから、しっかり言うとけよ!」と、私のビザ問題だから私が言うのは当然のところ、ちょっと和尚さんには言い難い相談でした。

これまで藤川さんは私を無視していたが無関心ではなかった。そしてラオスを視野に「もうちょっと頑張ろう!」と再度気合いを入れるのでした。

寄進者の方々でクティ内はいっぱいに

比丘尼と言われる尼さんたちも、タイ国家では未公認ながらしっかり根付いています

◆気難しい和尚さんの許可は!

暇な時間、街には一人で何度か出向いていました。撮影した証明写真を受け取りに、郵便を出しに、フィルム現像とプリント注文に。証明写真はケーオさんに渡し、比丘達を撮った写真は、なかなか撮られる機会が無いタイ人だけに、かなり喜ばれ、カメラ効果を発揮する私の存在でした。手紙は春原さんや、得度したことを知る友達に送っていました。

カティン祭が終わって2日後、洗濯しようと葬儀場近くの水汲み場に行くと、ワイシャツにジーパン姿の若者が先に黄衣を洗濯していました。誰かと思えば昨日まで黄衣纏っていたクンペーンくん(画像の青年)ではないか、還俗したんだ。何か自由の身になっている姿に羨ましくなりました。

そこへケーオさんが記載が済んだ比丘手帳を我々の分2冊持って現れ、「和尚のところへ行ってサイン貰って来い!」と言われました。早速、和尚さんの前に“二人”で行ってクンペーンくんは御丁寧に三拝しますが、私はいきなり本題へ。

「来週、バンコクに行かせてください……。タイに滞在するビザを取る為に、ラオスに行かねばなりません……なので、提出書類として必要なので、比丘証明書(手帳)にサインください!」。藤川さんに言われたことを回りくどく話し、「バンコクに行かせてください……」と言った後はあまり正確に伝わっていないような中、「ダーイ(いいよ)!」といとも簡単な許可。和尚さんは私がお願いすることはいつも簡単に「ダーイ!」ばかりでした。出家願いも「ダーイ!」、「写真屋行って来ます」と言っても「ダーイ(行って来い)」、「郵便出して来ます」と言えば「ダーイ(出して来い)」。

和尚さんから見れば、日本の観光客で信仰心も無いと見えた私はたいした存在ではなく、修行者であるべき藤川さんが頻繁に遠出願いに出ることには「こいつ、遊びに行ってるな?」と胡散臭く思っているような気がしてきました。

右が還俗前のクンペーンくん

手前の私服の男性は還俗したばかり、私は彼の黄衣姿を知りません

還俗したクンペーンくん、黄衣は洗って寺に帰します(サンガに戻す)(1994.11.7)

◆比丘手帳完成!

和尚さんのサインを貰うと今度は「ワット・ヨームに行け!」と言うケーオさん。この地域を代表する高僧の居る寺で、サンガの認可を貰ってこそ、比丘証明書(手帳)は完成となります。クンペーンくんは寺に乗って来ていたバイクで、私に「後ろに乗れ!」と言う。

私は「待て、俺は黄衣纏うのに時間掛かるんだ、ゴメン!」と言うとサッサと私に纏い付けてくれたクンペーンくん。さすがに速かった。そして、「腕から肩はここをこう締めるんだ!」と黄衣を掴みながらアドバイスしてくれ、よりコツが分かった気がしました。しっかり纏えば左腕はキツメの長袖ワイシャツ着たように肩から袖までがしっかり締まるのだ。「黄衣なんかクルクル丸めて巻き付けるだけや!」と藤川さんが言っていた意味が改めて分かる気持ち。

行った先のヨーム寺で、ここはクンペーンくんと共に私も高僧和尚さんの前でしっかり三拝。後はクンペーンくんが御丁寧にお願いしてくれて、手帳に貼られた証明写真の上に、このお寺のハンコが押され、この和尚さんのサインがされて、昔のパスポートのように、何とも頼りない感じはするものの、正式な比丘身分証明書完成となりました。クンペーンくんは試験の成績良かったのか、他の者より授かる証明証類が多いようで、還俗後の受取りになったようでした。

そして11月半ば、バンコクに向かう日がやって来ました。托鉢を済ませた後、藤川さん行きつけのバンコクの寺に泊まる準備をして出発します。それは初めての外泊。当然、托鉢の準備もして行きます。この黄衣を纏って歩くバンコクの街が楽しみでした。

一緒に修行した仲間と収まるクンペーンくん(1994.11.7)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

2018年3月4日、お茶の水の連合会館で開かれた『塩見孝也お別れ会』

2018年3月4日、東京・お茶の水の連合会館にて、元赤軍派議長として生涯を駆け抜けたあの人の名の下に、『塩見孝也お別れ会』が開かれた。2月24日に「人民新聞社・オリオンの会への弾圧抗議」集会について書こうかとも考えたが、『紙の爆弾』本誌に報告文が掲載されるとのことで、そちらもぜひ、ご覧いただきたい。

◆「本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」

塩見さんは、2017年11月14日、心不全のため、満76歳にて亡くなった。それから5カ月近くを経た『お別れ会』の司会は椎野礼仁さんと村田能則さん。椎野さんは、2014年に鹿砦社から出版された塩見さんの著作『革命バカ一代 〜駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場〜』の編集担当者であり、当日同書が無料配布されることを伝達した。

まず、実行委員会を代表し、塩見さんとは京大時代の友人であった新開純也さんは、以下のように振り返る。
「彼は武装闘争の路線化、よど号ハイジャック事件の共謀共同正犯などとして約20年(19年10カ月)間獄中にあり、近年は9条改憲阻止の会、経産省前テントひろばにも参加して活躍。闘い続けた一生だった。赤軍派の頭領にこだわり続けた一生だったとも思う。赤軍派からはよど号・北朝鮮の流れ、連合赤軍にいたる過程、重信さんたちのいわゆる日本赤軍への流れがあった。あとの2つについて彼はタッチしていないために彼は責任を負えない、負うべきでないが、よくも悪くもそれを総括することを一生の課題にしたのではないか。人々を愛するキャラクターだった。生身の言葉で表現しようとし、文字通り我が儘に生きた、幸せな人生を送ったのではないか」

その後、塩見さんのお連れ合いによる手紙が長船青治さんによって読まれ、黙祷の際には『同志は斃れぬ』が流れた。次に、参加者からの挨拶・メッセージが伝えられる。経産省前テントひろばの仲間であった淵上太郎さんは、交わした会話や2010年に同じ場所(当時は「総評会館」)で開かれた「生前葬」などを振り返った。三上治さんも次のように語る。
「塩見さんとは長い付き合いで、赤軍派が登場した時、叛旗派で武装闘争に反対し、激しく対立していた。9条改憲阻止の会で再会し、議論・論争もし、60年代の問題で激烈なけんかに。ただし、互いの意見を聴こうとし、付き合ってきた。2015年の塩見の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補、落選の後、励ましに会いに行った。僕が手がける雑誌『流砂』への投稿も提案。彼が言葉にできなかったことは、僕の問題でもある。60〜70年代をともに闘った、その時代の問題でもあり、彼の本当の声を理解できるまで、再会するまでお別れの言葉は留保させてもらう」

また、雨宮処凛さんは1998年の出会いから振り返り、以下のように強調した。
「北朝鮮に誘われたのが最初の会話で、私の初の海外旅行に。生きづらさへと追い込まれ、社会から排除された若い人が塩見さんの周囲に集まったのは、彼らが抱える問題に対し、ほかの大人のように自己責任というのでなく、資本主義の問題だといってくれたから。本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」

さらに、椎野さんが「塩見さんとは左右の交差」と表現するような関係があった鈴木邦男さんも、ユーモアを交えつつ語る。
「『自衛隊を赤軍にしてワルシャワ条約に加盟しろ』という人がいた。塩見さんにも、そんな『憲法はいらない』『天皇制も大統領制に』と主張するような存在になってほしいと話したことがある。ただし、塩見さんは『俺はダメだ』とまじめ。冗談でも大風呂敷を広げない。また、若い人の話もきちんと聴き、『革命的だ』『今の若者はしっかりしている』とほめる。他人に対して甘いかもしれない。連合赤軍についても『成功も失敗もすべて俺の責任だ』といえばよいと思うがいわなかった。彼を大きくできなかったのは我々の失敗(苦笑)。肉体は奪還できなくても、革命の志は奪還したい」

ほかにも、平野悠さん、白川真澄さん、朝日健太郎さん、松平直彦さんなどによる挨拶、メッセージが続く。塩見さんを「日本のレーニン」と名付けたのは藤本敏夫さんではないかという話もあった。

◆「赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見を高く評価せねばならない」

そして、赤軍派最高幹部だった高原浩之さんの言葉も印象的だった。ご本人のことは、よく存じ上げないが……。
「赤軍派の路線はリンチによって維持されたと考えざるをえない。人民に依拠する路線に転換することを我々は問われ、自己批判と総括をおこなって関係者はそのような路線に転換していったと思う。だが、連合赤軍事件はもっと悲惨だと私は考えている。赤軍派の指導路線の責任を曖昧にしたり、美化するのはやめてほしい。そのうえで、連合赤軍事件で殺された同志に謝罪し、不本意な形で生き残り人生を破滅させた人にも謝罪しなければならない。赤軍派に人生を狂わされた関係者全員に謝らねばならないと考えている。これは、そこに向かう会になるべき。連合赤軍関連で殺されたり自殺した人の写真も飾るべきだ。私にとって赤軍派は後悔と贖罪以外の何者でもない。それを生み出した第二次ブントと塩見孝也について、第二次ブント時代の意義は認めねばならず、塩見は当時の有力な指導者であったろう。新左翼の代名詞『実力闘争』の思想は日帝打倒・プロ革・社会主義革命という新左翼路線であり、この直接民主主義は現在には自己決定権といわれるものかもしれない。また、アジアとの連帯も以降、日本に根付いてきた。過渡期世界論は塩見が最初に定義した。帝国主義から社会主義への過渡期であるなどといわれたが、ロシア革命以降、民族解放闘争、社会主義革命はアジアにおいてなされ、アジアの闘争と結合するという時代認識は現代も引き継がれていると思っている。赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見の果たした役割を高く評価せねばならない。我々70年代闘争の世代が最後に何を残さねばならないか、反安保闘争をはじめとする人民闘争、民族・女性・部落差別問題、労働者階級の下層の問題が大きいだろう。新左翼がその運動のなかでよい体質、実力闘争、自己決定権は堅持しながらも悪い体質を払拭して交わっていったこと。その先には、人民民主主義、革命的民主主義の運動が目の前にある。アジアとの連帯、日中の帝国主義・覇権主義に反対するなかで朝鮮・韓国・台湾・香港などの独立・自己決定権を守る闘争と結合していくことで70年闘争も生きていく。ソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だが、中国・ベトナムの変質、朝鮮の信じられないような現実。マルクス・レーニン主義の総括も我々の責務。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正負の経験、新左翼の内ゲバとリンチの体質。苦い経験を教訓として、今の運動を担っていく新たな世代の人にぜひ、闘争の発展に成功してほしい」。

よど号の現在のリーダー・小西隆裕さんのメッセージは、彼らと会って朝鮮から帰国したばかりの「政治的遭難者」を対象とする救援連絡センター事務局長・山中幸男さんが代読。最後に、懲役20年の判決を受けて現在、東日本成人矯正医療センターにて服役する重信房子さんのメッセージを、頭脳警察で1969年の赤軍派日本委員会が出した『世界革命戦争宣言』を叫ぶような歌にしたり、重信さんとの共作を含むアルバム『オリーブの樹の下で』を発表しているPANTAさんが代読した。重信さんからのメッセージは、『情況』誌編集長だった大下敦史さんの(1月2日・がんによる)死や、チェ・ゲバラの「我々を夢想家だと呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」「2つ、3つ……数多くのベトナムをつくれ、これが合言葉だ」という言葉にも触れるなどし、次のように続いた。
「私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者だったため、敗れるべくして敗れたのだと思います」
「最後に『20年か、きついなぁ、15年なら待てるけど、その5年はきついなぁ』といっていたとおり、先に逝かれました」
「過ちを前向きな力にしたいという点で、ともにありました」

苦々しい思い出を振り返る人、参加を拒否した人もいらっしゃった。小冊子には大下さんから塩見さんへの追悼文(聞き取り中心のまとめ)も掲載されている。

わたしが過去からの学びを現在の運動に生かしたいと考えていることは、いつも述べているとおりだ。だが、さまざまな方のメッセージを聴きながら、結局、現在の運動に対し、特に格差・貧困という大きな問題に対し、理解しているのかどうか、今、何をしているのか、が問われるのではないかとも思った。第二部「時代を語る会」には参加しなかったので、そこでどのような総括や議論の発展があったかは、まだ知人にも聞いていないのでわからない。ただし少なくとも、塩見さんは、私たちの世代ともよく会い、話した。もちろんほかにもそういう方は多くいらっしゃるし、現在さまざまな活動に携わっている人も多い。格差・貧困の背景に国際情勢・関係はもちろんある。わたしたちは説教を聞きたいのでなく、ともに語り合い、ともに活動を進めたいだけだ。そういった意味で、『救援』誌の追悼文やFacebookでも触れたが、塩見さんはわたしにとって特別な人である。そして、お別れ会参加者に知人や仲間が多く参加していることによって、塩見さんを通じて知り合った人がいかに多いかを改めて実感させられた。わたし個人が運動をはじめた原因の3分の1から4分の1くらいは、塩見さんとの出会いと交流が占めているのではないかとすら考える。複雑な思いはわたしにもなくはないけれど、塩見さんにはまだまだ本当に、わたしたちの活動から目を離さないでほしいと、そう思っている。

在りしの日の塩見孝也さん

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文/写真]
1972年生まれ。フリーライター、エディター。労働・女性運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『NO NUKES voice』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『neoneo』『情況』『救援』『現代の理論』『教育と文化』ほかに寄稿・執筆。

塩見孝也『革命バカ一代 駐車場日記──たかが駐車場、されど駐車場』

『紙の爆弾』4月号《対談》天木直人(元駐レバノン日本国特命全権大使)×田中宏和(「世に倦む日日」ブロガー)「『日米同盟』の真実」(構成・まとめ=小林蓮実)他

ブログ『野次馬雑記』より

 

ブログ『野次馬雑記』より

横堀要塞建設は1977年の12月にはじまった。ちょうど三ノ宮さんの畑は野球のグラウンドのような広さの正方形で、その北端の杉林に面した場所に要塞は造られた。地下一階、地上三階の鉄筋コンクリート造りである。だが、明けて78年1月段階では、まだ2階と3階は骨組みのままだった。要塞を建てている「グラウンド」の反対側、要塞をバックスクリーンのあるスコアボード棟に見たてるなら、ベンチの位置にある作業小屋で暖をとりながら、中島みゆきの曲を聴いた記憶がある。荒井由実(ユーミン)の曲も新鮮な時代だった。2月6日、未完成の要塞の最上階部分に20メートルの鉄塔が建てられたのだ。滑走路(未完の横風用)の延長に建てられる鉄塔の高さが航空法49条に違反するとの警告は何度も受けていた。未完成にもかかわらず、大量の火炎瓶が運び込まれたのだ。その意図は何だったのか?

わたしの大学の先輩でもあるYさんのブログ『野次馬雑記』に転載されている、管制塔占拠闘争にかかわったH氏の手記(https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/)を読んでも、2月要塞戦の明確な意図は書かれていない。鉄塔が滑走路の延長上の妨害物とはいえ、まだ完成はおろか用地の買収すら目途が立っていないのである。航空法49条に本当に抵触するのか否か、あるいは当該である千葉県警と警視庁(警察庁)の判断がどうなるのか、それはおそらく本番の開港阻止決戦の計画にかかわる前哨戦だったはずだ。同時にそれは、戦術の検証にもなるはずだった。

ブログ『野次馬雑記』より

 

「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて

 

3.25集会で上映される映画『三里塚のイカロス』

事実、東京と千葉をむすぶ京葉道路に配置されたレポ(偵察役)は、警視庁から重機と機動隊のカマボコ(輸送車)が派遣されるのを現認している。ぎゃくにいえば、千葉県警はこの段階での取り締まりをためらったのであろう。いずれにしても、サイは投げられた。

要塞にたてこもった40人ほどの支援は、現闘の責任者クラスが多かった。反対同盟からは内田寛一行動隊長、婦人行動隊長の長谷川タケさん、小川むつさん(副行動隊長)、辺田の石井英祐さん、横堀の熱田一さん(のちに熱田派代表)、木の根の小川源さんの6名の幹部である。緒戦から火炎瓶が降りそそぎ、ガソリンの炎に包まれた毛布が落ちてくる。そんな光景がテレビ画面に報じられて興奮したものだ。わたしは党派の事務所に呼び出されて、そのまま労働者が運転するクルマで現地に運ばれた。空港付近に着いたときには、ヘリコプターのサーチライトに照射された要塞の鉄塔が夜空に、鮮明に浮き上がっていた。黒い針葉樹林のむこう。真冬の暗い夜空に、そこだけが切り取られたような、明るいステージに見えたものだ。

闘争現場はしかし、悲惨をきわめるものだった。凍てつくような極寒の夜空に、放水と催涙弾が飛びかう。鉄塔上では4人の支援活動家が抵抗をつづけていた。要塞を遠くのぞむ「グラウンド」に機動隊と対峙しながら、われわれはジュラルミンの盾と揉み合ういがいに何もできないのだ。まる24時間以上も激闘に耐え、飲まず食わず不眠不休で闘っている要塞戦士たち……。

ビニール袋に入れていたと思われるライターで、火炎瓶に着火して鉄塔下に炎が炸裂したときは驚いたものだ。そのかん、ゲートに火焔瓶が投げられた報が届いて、支援のデモ隊から喝采が上がるなど。夜を徹して対峙戦がつづいた。やがて夜が明けて、反対同盟の要請で鉄塔に登っていた戦士たちは投降した。不眠だったわたしたちも団結小屋からのクルマに収容されて、その行程で幻を見た記憶がある。夜明けの風景にあらわれた立木が、怪獣のように見えたのだった。あの怪獣は、何だったのだろうか。

3月1日の現地集会は、北総台地特有の赤風が吹きすさぶ中で開かれた。そしてこの時に、わたしは要塞戦への参加を示唆されたのだった。学内での運動に行き詰まりを感じていた矢先のことで、しばらく拘置所にでも行って資本論を本気で読んでみるか、などと軽く考えるいっぽう、のっぴきならないことになったなとも思ったものだ。そして反対同盟農民の闘いに呼応する決意を固めては、憶しがちな心を鼓舞するのだった。のちに暴力団取材でヒットマンたちの憶する心境を知って、似たようなものだなと思ったことがある。(つづく)


◎[参考動画]映画『三里塚のイカロス』予告編

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

『紙の爆弾』4月号!自民党総裁選に“波乱”の兆し/前川喜平前文科次官が今治市で発した「警告」/創価学会・本部人事に表れた内部対立他

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号

すでに報じられていますように、私たちがこの2年間、真相究明と被害者支援を続けて来たカウンター大学院生リンチ事件の加害者5人に対する民事訴訟の一審判決が3月19日大阪地裁で下されました。

ハッキリ申し上げれば、これだけ事実関係が明確で、音声データなど証拠資料もあるにもかかわらず、裁判所は何を考えているのか、いや、人間の心があるのか、全く遺憾な判決でした。まず5人による集団リンチがあったことは明々白々な事実なのだから、リンチはいけないと断罪し、リンチの場にいた全員に連帯責任を負わせるべきでしょう。そして総額約80万円の賠償金(請求額は約1千万円)、常識外に過少です。この金額では、法的な歯止めにさえなりません。たとえば300万円だったら歯止めになり、もう再度リンチはしないとなるでしょう。80万円だったら、これぐらいなら憎い奴はリンチするかとなりかねません。この判決を見て知人は、「自分がM君だったら、この判決を下した裁判長に『80万円払いますから被告5人をぼこぼこに殴らせてください』と言うかもしれません」と怒りに満ちたメールをくれました。

リンチの場にいた全員に連帯責任を負わせ、歯止めとなる賠償金を課す――そうでなかったら、これからも社会運動において、同種同類の事件や不祥事は起きるでしょう。

裁判所(官)には世間の常識が通じないとよく言われますが、今回の判決を見て、あらためてそう感じました。結論から言えば、〈歴史的誤判〉です。この判決をそのままに放置しておけば、M君の救済にならないのは勿論、この国の社会運動にとっても禍根を残し悪影響を与えると考え、M君の控訴の意志に同意し、今後もM君や弁護団と共に頑張っていく決意です。

判決の際の法廷。桜真澄さん画(本人の承諾を得て掲載しています)

◆被害者M君との出会いと、この2年間の伴走

判決内容の詳細な分析はまた日を改め行いたいと思いますが、リンチ被害者の大学院生M君は、2014年12月17日深夜に、李信恵らカウンター – しばき隊の主要メンバー5人がいる大阪・北新地のワインバーに呼び出され、李信恵が「なんやねん、おまえ! おら!」とM君の胸倉をつかみ一発張ったのを合図に主にエル金による激しいリンチが始まりました。リンチは1時間ほども続き、この間、李信恵らは悠然とワインを飲んでいたということです。そして瀕死の重傷を負ったM君を師走の寒空に放置し去って行きました。人間として考えられないことです。普通なら、大の大人が5人もいれば、誰かが止めるでしょう。今回で言えば、年長者の伊藤大介、格闘技経験者の松本英一が止め役にならないといけないでしょう。果たして止めたのでしょうか。リンチを黙過し殴らせるままにしていたのではないですか。

その後、いったんは李信恵、エル金、凡は「謝罪文」を出しましたが、それも対「在特会」らとの訴訟があるからという理由で反故、また同時にリンチをなかったことにする隠蔽工作がなされます。メディアも報じません。M君は、一部の人たちを除いて、みなから村八分にされます。村八分行為は現代社会では差別として禁じられています。「反差別」を語る人たちが村八分を行っていいのか!? さらには、ネットリンチも様々なされM君は精神的に追い詰められていきます。

そうして、2016年2月28日、「相談があります」とM君の知人「ヲ茶会」(ハンドルネーム)さんが、主だった資料を持って鹿砦社を訪れます。リンチ直後の1枚の写真に驚きました。その数日後にM君と会いました。リンチが起きたのは2014年12月ですから1年余りが経っていました。その1年余りの間、M君の孤独と精神状態は想像に絶するところです。M君の話を聞き主だった資料を目にしリンチの最中の音声データを聴いたりして、私たちは、この青年を支援することにしました。瀕死の重傷を負い、リンチ後もさんざんネットリンチをなされ、藁をもすがる想いで助けを求めてきた青年を人間として放っておけますか? 私はできませんでした。この時点で、「カウンター」-「しばき隊」に対決するなどという気など毛頭もありませんでした。素朴にM君への同情でした(この直前に、「カウンター」-「しばき隊」と連携する反原連〔首都圏反原発連合。鹿砦社は、脱原発雑誌を発行することに関連し経済的にかなりの額を支援していました〕に絶縁宣言を出され訣別しましたが、この頃は、彼ら相互の密接な繋がりはさほど知りませんでした)。

同時に、リンチ事件の真相究明のために客観的分析や取材を開始しました。加害者らが関わり被害者M君も事件前まで関わっていた「カウンター」-「しばき隊」、そしてこれと関係がありリンチ事件を知っていると推察される人たちへの直接取材も可能な限り行いました。ほとんどの人が誠実に答えてくれませんでした。むしろ逃げました。

この2年間の取材の成果は『ヘイトと暴力の連鎖』『反差別と暴力の正体』『人権と暴力の深層』『カウンターと暴力の病理』の4冊の本にまとめられ世に送り出されました。「デマ本」などという非難が「カウンター」-「しばき隊」とこの界隈の人たちから向けられましたが、概ねは好意的に迎えられました。「カウンター」-「しばき隊」内外の方々、その元活動家らからほぼ正確だとの評価を受けました。M君や私たちに反対する人たちに「デマだ」「ウソだ」以外に具体的かつ真摯な批判はありません。ほとんどが本も読まないで「デマだ」「ウソだ」と批判しているようだったので、第4弾の『カウンターと暴力の病理』をカウンター活動家ら数十人に献本送付し意見を求めましたが、ほとんど回答らしい回答はありません。ちゃんと回答せよ!

◆司法に救済を求めるも……

さて、事件後1年余り村八分にされ隠蔽工作が進行する中で、M君は司法に救済を求めます。当然です。事件から1年以上も経っていたので遅かったかもしれません。それまでM君本人は、わずかの支援者と共に弁護士探しにも奔走したりしましたが、ことごとく断られ、遂には本人訴訟も考えたといいいます。私たちと知り合った後は、私も、鹿砦社顧問の大川伸郎弁護士を紹介し、大川弁護士を中心に訴訟の準備を進め、ようやく16年7月に李信恵ら5人を大阪地裁に提訴、前後してM君へのネットリンチを繰り返す野間易通を名誉毀損等で提訴、司法に救済を求めようとしました。事件から1年半余りが経っていました。このかんのM君の心中を察すれば、筆舌に尽くし難い想いです。私だったら耐えられないでしょう。

しかし、司法は被害者の味方ではありませんでした。本件に限らず多くの人たちは司法への期待と幻想から司法に救済を求めますが、司法が必ずしもこれに応えるかといえば、そうではありません。私も多くの訴訟を経験し、それは判っていたつもりでしたが、今回は加害 – 被害の事実関係がはっきりしているので、裁判所の判断は間違いないと確信していました。本人尋問も、原告M君優勢裡に行えました。

昨年12月の本人尋問、そして3・19の判決を傍聴された、『マンガでわかる女が得する相続術』などの著書がある法律漫画家の桜真澄さんは、「今回の裁判を客観的に見た。大学院生が複数名に暴行され、その後民事で長い間戦っていた。彼は寒空の中で暴行され、その後もネットで中傷され、この判決だ。一体なんなんだろう。私だったら正気を保てないよ。よく頑張ったねM君!」とツイートされています。これが一般人の感覚でしょう。

今回の判決で、エル金 – 伊藤大介には、少額と雖も賠償金が課されました。リンチがあったという事実ははっきりしましたが、主犯格の李信恵(誰が見ても伊藤が主犯格とは思えないでしょう)の共同不法行為が認められなかったのは大いに疑問です。一人の人間としての人権を毀損された被害者を法的に救済するのが司法の本来の姿ではないでしょうか? 裁判所が「人権の砦」というのなら、そうすべきです。裁判所は「人権の砦」ではありませんでした。

本件を担当した、長谷部幸弥(裁判長)、玉野勝則、牧野賢の3人の裁判官に人間の心はあるのか!? 法律を司る前に一人の人間であれ!

◆リンチ事件と本件訴訟に凝集された問題から何を学ぶべきか? 加害者らは、反省すべきは反省せよ!

確かに李信恵らの共謀、共同不法行為が司法上認められなかったからといって、これはあくまでも司法上でのことであり、現実にはリンチ(私刑)があったことは否定しようのない事実であることは、私たちが上梓した4冊の本で証明されています。そうでないと言う人は、これら4冊の本を越える反論を行なっていただきたいと思います。具体的に詳細に――。裁判所には、そのうち3冊を証拠資料として提出していますが、これをどう斟酌したのでしょうか。

残念ながら、M君は一審では、不本意な判決内容を受けましたが、リンチ事件から1年余り後に私たちに出会った頃、そわそわ落ち着かない精神状態だったことに比べると、明るくなり精神的にも落ち着いてきました。なによりもこれが最も嬉しいことです。

本件リンチ事件は「反差別」運動、カウンター運動内部で起きた不祥事であり、かつての共産党の査問、新左翼の内ゲバ同様、主体的な反省がなければ、この国の社会運動に禍根を残し悪影響を及ぼすと考えています。

私がまだ十代の終わり頃(1969年~70年)、勢いのあった新左翼内部で内ゲバが起き3人の活動家が亡くなりました。すると作家で京大助教授の高橋和巳先生は雑誌『エコノミスト』に「内ゲバの論理はこえられるか」を連載し、即刻やめるよう警鐘を鳴らしました。『エコノミスト』のような経済誌でもこうした問題を採り上げた時代です。しかし、高橋先生の声は蔑ろにされ、結果、100人以上の活動家が亡くなり、新左翼運動は衰退していきました。

共産党も同様です。70年代はじめ「新日和見主義」といわれる、主に学生・青年組織の幹部が多数査問され除名されるという事件が起きました(有名な方ではジャーナリストの高野孟)。この頃共産党は、当時の社会党と共に社共統一戦線で東京、京都、大阪で革新系知事を出し、今では想像できないほどの勢いがありました。現在共産党が唱える「野党共闘」など比ではありませんでしたが、以後衰退していきます。

誤解を恐れず申し述べれば、たかが裁判に勝った負けたは、本質的な問題ではありません。仮に裁判の判決が不本意だったからといって悔やむ必要もありません。要は、この裁判に凝集された問題から、何が良くて何が悪いのかを剔出し反省、止揚することではないでしょうか。それを、運動に関わる人は運動に活かし、また運動をやっていない人は、日々の暮らしの中で社会を見る目に活かすなり……。

特に今回は、加害者らが「反差別」や「人権」という言葉を錦の御旗にしているから、多くの人がその美名に幻惑され騙されたりしています。「反差別」を語る人らが被害者を村八分にし、また「人権」を語る人らが人ひとりの人権を暴力で毀損するという異常事態です。私は今でも人間を信じたい。「カウンター」‐「しばき隊」の中にも心ある方はおられるはずです。心ある方々が、この事件に真正面から向き合い、「リンチはなかった」などと隠蔽せず、反省すべきは反省してほしいと願っています。

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる(『カウンターと暴力の病理』グラビア)

◆勝訴に浮かれ「祝勝会」! この人らの人権感覚を疑います

ところで、判決の夜、李信恵、伊藤大介、エル金、そして代理人・神原元弁護士らは「祝勝会」と称し酒盛りを行い、これみよがしに、これをネットに上げています。これはM君を精神的に追い詰めるものです。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(神原弁護士のツイッターより)

先の桜真澄さんも、「法廷で一度、原告に頭を下げ謝罪した後で、被告がわざわざ判決日に笑顔で焼き肉を食べる写真をSNSで公開するなんて…… 私だったら心が潰れる」とツイートされています。また、医師の金剛(キム・ガン)さんは、「DMでインスタグラムにアップされた被告らの浮かれた写真が伝えられてきた。 ずいぶん気持ちよさそうだが、あの陰惨な事件に関与した者たちが真摯な態度をまったく示そうともしないというのは、実に奇怪な光景である。あれが『奴らの反差別、奴らの正義の正体』であることを忘れないようにしよう」とツイートされています。李信恵、伊藤大介、エル金、神原弁護士よ、あなた方は、いやしくも「人権」を語ってきたわけでしょう? このようにあからさまにみずからの「人権感覚」の程度を晒すようなことはやめられたほうがいいのではないでしょうか。

さらに、神原弁護士は調子に乗って、「正義は勝つし、レイシストは常に破れる」などと言っています。ここに言う「レイシスト」とは誰のことでしょうか? M君を差していると推認されますが、これはさらにM君を精神的に追い詰めるものです。M君は「レイシスト」なのか? リンチされ、村八分にされ、セカンドリンチをされ、リンチはなかったように隠蔽工作をされ、司法に救済を求めても真意を理解されず不本意な判決を下され、さらに「反差別」や「人権」を語る人から「レイシスト」呼ばわり……いい加減にしていただきたいものです。私はM君が「レイシスト」だったら支援しません。最低これぐらいの矜持はあります。

ちなみに神原弁護士には、私や鹿砦社は「極左」呼ばわりされていますが、さすがに「レイシスト」呼ばわりはされないようです。

◆今後の決意 本当の勝負(裁判だけではなく)はこれから!

M君はここまで叩きのめされても、多くの皆様方の激励により元気を取り戻しつつあります。やはり司法に期待や幻想を持ったらいけないようです。司法の結果がどうあれ〈真実〉は満天下に明らかになっています。私たちはM君が頑張る意志を持ち続ける限りサポートを続けていきます。ここでも桜真澄さんは、「判決に耳を疑った。 人が殺されかけたのに…… 法律とはグレーであり奥が深く理不尽である。それは私が法律を学ぶ上で沢山の弁護士達から教えられてきた。今回の裁判で、法とはやはりグレーで理不尽だと実感する。そして一人の青年にこんなにも沢山の応援団がいることは素晴らしいと思った」とツイート。桜真澄さんのお気持ちに涙が出そうです。

「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」(鹿砦社元社員でカウンターメンバーだった藤井正美評)とか「好々爺」(合田夏樹さん評)と揶揄された私は、この問題と出会う頃に現役を退くつもりで、内外にそう公言していましたが、この問題と出会ったのもなにかの運命、最後まで見届ける決意です。心ある人たちの〈良心〉を信じて――。

闘いはまだ一里塚、本当の勝負(裁判だけでなく)はこれからです。このままでは終われません。まずは控訴審に向けて、心ある皆様方の圧倒的なご支援をお願い申し上げます。(本文中、一部を除いて敬称略)


◎[参考音声]M君リンチ事件の音声記録(『カウンターと暴力の病理』特別付録リンチ音声CDより)

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD

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