格闘群雄伝〈04〉元木浩二 ── 昭和のキックボクシング同志が日本を守る

◆現役時代──1980年のデビュー以来、ノックアウト勝利を重ねた元ストリートファイター

元・日本ライト級1位.元木浩二(もとき・こうじ/1963年1月19日生)は、魅せられるノックアウト勝利を心掛け、その強面とは正反対の、社会貢献に人生を懸けたキックボクサーだった。

幼ない頃から自由奔放の腕白坊主で育ち、十代半ば頃までストリートファイトに明け暮れたが、元木浩二の場合は単なる荒くれ者とはその存在感が違っていた。

1978年(昭和53年)3月、中学を卒業すると、幼ない頃からテレビでキックボクシングを観て、強い憧れを抱いていた名門・目黒ジムの門を叩いた。

1980年1月、元木浩二は17歳になるまでに筋力トレーニングで鍛えた筋金入りの身体でバンタム級でデビューするとノックアウト勝利を重ね、ライト級まで階級を上げていったが、将来を嘱望されながら業界はテレビ放映が終わった低迷期に入り興行は激減。

各々の団体やジムがあらゆる手段で浮上を試みる中、1983年4月、ジムの先輩だった伊原信一氏が新たにジムを興すと、その伊原ジムへ移籍。同年9月、伊原氏が新日本キックボクシング協会を設立すると元木浩二は10月22日、設立記念興行にて、新日本ライト級1位、砂田克彦(東海)にノックアウト必至の一進一退の末、3ラウンドKO勝利。ランキング上位へ浮上した。

砂田克彦戦、攻められながら逆転に導いた(1983.10.22)

1984年11月には、統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟に吸収された後、翌年6月7日、なおも分裂騒動が起こった後だったが、タイガー岡内(岡内)に速攻の1ラウンドKO勝利。王座に手を掛けるトップ戦線に浮上した試合となった。

同年11月9日、日本キック連盟ライト級王座決定戦としてタイガー岡内と再戦することになったが、互いのノックアウト狙った激戦の末、疑念が残る僅差の判定で敗れ王座獲得は成らず。再挑戦のチャンスは訪れず、その後は世界大戦シリーズに於いて国際戦に出場、強力多彩な攻めで勝っても負けてもノックアウト必至の激闘を繰り返していた。

王座決定戦でタイガー岡内と再戦 (1985.11.9)
デビッド・トーマスとは激戦の末、敗れ去った(1986.10.18)
引退式でかつて対戦した佐藤正男から花束を贈られる(1990.10.19)

1989年、平成に入ると新たなライバルが出現。新格闘術連盟黒崎道場から移籍して来た佐藤正男(渡辺)がライト級上位に浮上してきた。年齢は同じでも、互いのデビュー時期は業界低迷期を跨いだ時代差があったが、佐藤正男とライト級トップ戦線を争い、元木浩二はコンディション調整失敗から意外にもノックアウトで敗れてしまう。

「佐藤は上位に挑む必死さがあった。俺は気持ちで負けていた。」と反省。これが時代の変わり目でもあった。

この時代は他団体の躍進もあって、元木浩二はあまりスポットライトを浴びる存在ではなかったが、KO率が高く、一つ一つの試合が信念を貫ぬくノックアウト狙いで、他団体チャンピオンとも戦わせてみたい存在だった。

◆父の教え

元木浩二はデビュー戦からファイトマネーの半分を交通遺児施設、老人ホーム、難病患者施設等へ寄付し、災害被災地への救援物資等の支援活動を行ない、現役引退後も1995年1月の阪神大震災、2011年3月の東日本大震災等にも、これらの活動を継続してきた。

デビュー当時はファイトマネーの半分といっても1万円にも満たなかったが、このボランティア活動は当時の目黒ジム会長やトレーナー、後の伊原ジムでも誰も知らないことだった。その元木浩二の強面に似合わぬボランティア精神は、幼い頃から自由奔放に育てられた中にも文武両道で厳しい教育方針の父親の存在があった。

「弱い者、困った者を見て見ぬふりするな、男たるもの常に弱者の見方を心掛けろ、持つ者が持たざる者に分け与える心を持て!」など、これらを当たり前のように叩き込まれて来た元木浩二は、その教えが本能から身に付いた人生。

血気盛んな十代は荒くれ者だったが、弱い者イジメだけはしなかった。そんな心優しい元木浩二は、街での通りすがりに遭遇した、不良が弱者を脅すトラブルを目撃し、見て見ぬフリは出来ず仲裁に入ったことが幾度かあった。その一つでは乱闘に巻き込まれ、首の頸椎を損傷する重症を負ってしまった。救急車で運ばれ、潰れた頸椎に人工骨を入れる手術も受けるも神経障害が残り、杖を突いて歩く身体障害者となってしまい、それが原因で引退に導かれてしまうのだった。

昭和のキック同志会のステッカーデザイン

◆昭和のキック同志会発足

元木浩二は現役当時から世代を問わず、リングに上がった仲間達を飲み会に誘っていた。そこでは昭和の良き時代のキックボクシングの語らいから、自身がやりたいことへの話が進み、自然災害が多い日本の被災地への救援物資協力、義援金送付等の支援活動の想いを語り続けると賛同する仲間が増えていき、2009年に「昭和のキック同志会」を発足。

その後も昭和のキックボクシングに携わった者が中心に集って会食し、この参加費の一部を物資を送る資金として、その後も各被災地の救済に活動を継続している。

飲み会に集まる主なメンバーは、藤原敏男氏、渡嘉敷勝男氏、佐竹雅昭氏といった、そうそうたるチャンピオンクラスや、元木浩二と親交深いスポーツ選手と一般社会人含む大勢が参加している。

昭和のキック同志会パーティーでYAMATO氏のミニライブで盛り上がる (2017.11.18)
かつてのライバル佐藤正男と再会(2017.11.18)

◆続くボランティア

元木浩二は現在、かつて父親が興した建設とリフォーム業の後を継ぎ、株式会社ケーアップジャパンを立ち上げ代表取締役を務める日々。ボランティアではいろいろな現場を訪れたが、昨年の千葉県での台風15号に続き19号と災害をもたらした際は、詐欺業者が横行し、お年寄りが頼みもしないのに勝手に屋根に上がり破損した箇所の補修工事に掛かり、中には手抜き工事をしながら高額な修理費を要求、お年寄りは手に負えず従うままという事件が多発していた。

元木浩二は同志スタッフを引き連れ、無償で十数軒の屋根の修理に掛かったという。お年寄りからは感謝され、御礼金を差し出されても誠意を持って受け取らず、お年寄りを励まし、元気を与えて去って来るボランティアを貫いた。正に父親が教えた弱者への味方を心掛けた精神を受け継いだ行ないだった。

今年もすでに熊本豪雨災害が発生しているが、現地から「救援物資は足りているが、かなりの人手が必要になるかもしれない」と連絡を受けて、救援体制を準備しているという(7月6日時点)。また今後も被災各地へ物資を送る活動も続けていくという。

この昭和のキック同志会では、忘年会や花見の時期など、ある節目ごとに集う会を開いており、今年はコロナウイルス蔓延の影響で暫く遠ざかっているが、コロナ騒動が落ち着いた頃に再開予定。

こんな心優しい荒くれ者が居たのかと思うほど、強面で近づき難かった元木浩二の十代の荒くれ時代から取材を始めていればよかったと筆者は思う次第である。

昭和のキック同志会創始者、元木浩二の語り (2017.11.18)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
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韓国・平昌市の安倍晋三土下座像から見えてくる〈閉ざされる世界〉

◆従軍慰安婦像と土下座彫像

コロナ禍のなかで、世界が閉ざされようとしている。

水際防疫である検疫・入国禁止措置だけではない、政治的な相互鎖国が始まっているのだ。米中は「スパイの拠点」として、相互に領事館(テキサス州ヒューストン・四川省成都)の閉鎖を命じ、事実上の準交戦体制に入った。

韓国・平昌(ピョンチャン)市につくられた「永遠の贖罪」像

いっぽう、米朝対話・朝鮮南北対話は遠のき、日韓関係もまた「決定的な影響を受ける」(菅義偉官房長官)事態となっている。この「決定的な」事態を生起させようとしているのは、平昌(ピョンチャン)市の韓国自生植物園につくられた「永遠の贖罪」像である。従軍慰安婦を象徴する少女像に、ひざまずいているのが安倍晋三総理であるという。

植物園は「安倍首相が植民地支配と慰安婦問題について謝罪を避けていることを刻印し、反省を求める作品」としている。

そのいっぽうで、個人的にこれを作った園長のキム氏は、一部メディアの取材に「安倍首相を特定してつくったものではなく、謝罪する立場にある全ての男性を象徴したものだ。少女の父親である可能性もある」と話しているという。このコメントはおそらく、内外からの議論噴出・賛否の声が大きくなったことへの対応であろう。土下座像の近影をみると、どう見ても安倍総理の面影・姿勢であることは印象は否定できない。デフォルメされたものではない、きわめて写実的につくられた彫刻なのである。

◆日本政府の無策が泥沼化をまねいた

いずれにしても、冷え込んだ日韓関係がさらに深刻な状態になるのは必至だ。

というのも、この8月4日には徴用工裁判で凍結された日本企業資産が公示を終えて「現金化」されるからだ。これが実施されれば、韓国における日本企業のまともな企業活動は不可能となる。さらには軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の契約更新も控えている。

ところが、もはや泥沼と化した日韓関係にもかかわらず、日本政府は「(土下座像は)国際儀礼上、許されるものではない」(菅官房長官)とコメントするだけで、何ら手を打とうとしない。

そもそも慰安婦少女像は民間で作られたものであり、韓国政府に「国際儀礼」をもとめても始まらない。民間人の政治表現であるがゆえにこそ、特使を派遣して韓国社会に直接うったえ、日本の立場を理解させる外交上の努力が必要なのだ。外交当局・韓国政府のみならず、韓国市民との対話を通じて「日本の謝罪の真意」あるいは「日本の誠意」を表明することこそ、日本政府が責任をもって行なうのでなければならない。

にもかかわらず、安倍政権は「不快感」を表明するだけで、何ら行動を起こそうとしないのだ。元来、きわめて政治的な韓国の司法において、世論に働きかけるより他に方法はない。司法判断を文政権にせまることで、三権分立を掘り崩そうとする安倍政権の対応が滑稽に見えてしまう。

文政権になって、初めて首脳会談が行なわれたのは一昨年の5月、日中韓サミットの付随的な会談だった。50分の首脳会談ののち、ワーキングランチが約1時間、形式的な「日韓関係を未来志向で発展させていくことを確認し」たにすぎなかった。

昨年12月の会談も安倍総理の訪中のさいに行なわれた付随的なもので、わずか45分という短さだった。通訳を通しての会談であれば、実質的な会話は半分以下、それぞれが10分程度の発言となる。事前の事務方協議がある会談とはいえ、じつに無内容な会談となったのである。

しかも「日韓両国はお互いに重要な隣国同士であり、北朝鮮問題をはじめとする安全保障にかかわる問題について、日韓、日米韓の連携は極めて重要だ」「この重要な日韓関係を改善したい」(安倍総理)。これにたいして「直接会い、正直な対話を交わすことが重要だ。両国がひざを交えて知恵を出し、解決方法を早く導き出すことを望む」(文大統領)という聞こえの良い共同記者会見の中身が、継続されることはなかった。

◆不可逆的なモニュメント

2015年8月、韓国・西大門刑務所の跡地で頭を垂れる鳩山友紀夫元総理

それにしても、従軍慰安婦問題は「不可逆的に解決」したはずである。その結果、新たに完成したのは、安倍総理をかたどった「非可逆的なモニュメント」だった。

前政権を訴追ないしは殺す韓国を相手にした交渉において、そもそも「解決」など望むべくもなかったのだ。

それがたとい国際条約法上あるいは国際慣習上、不思議な事態であっても、韓国の世論が日本の謝罪をみとめないかぎり、けっして歴史観の一致はありえないのだ。

したがって、今後は金色の安倍晋三像にひたすら謝罪してもらい、足りない分は安倍総理自身が韓国の国民との対話をつうじて、その真意を理解してもらうほかない。安倍総理に「謝罪の真意」があれば、という仮定になるとしても、元総理・鳩山友紀夫氏がかつて中国、韓国において、頭を垂れたように。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

《廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記06》居合わせた祖母とA子さんの悲劇

2004年10月5日、自暴自棄になって会社を辞めた鹿嶋学は原付で東京に向かう途中、歩く女子高生たちを見たのをきっかけに「レイプをしたい」と考えるようになった。そして広島県廿日市市の路上で見かけた高校2年生の北口聡美さんの自宅に侵入したが、抵抗されたために持参したナイフで刺殺してしまう。この際、聡美さんの当時72歳の祖母ミチヨさんと当時小学6年生の妹A子さんも現場に居合わせ、それぞれ深刻な被害を受けている。

今年の3月3日、広島地裁で開かれた鹿嶋学の初公判。この2人の供述調書が検察官により朗読され、事件の凄惨な様子がつまびらかになった。

◆キャーキャーという女の人の凄い悲鳴が聞こえてきて……

「13年半前の出来事なので、記憶があいまいになっているところもありますが、現時点で思い出せることを話します」

聡美さんの妹A子さんの調書はそんな一文から始まった。事件のことを「13年半前の出来事」と言っているのは、この調書が2018年4月、鹿嶋が逮捕されてから作成されたものだからだ。

「私はその日、少し体調が悪かったので、学校を休んでおり、祖母のミチヨと母屋にいました。布団を敷いて、横になっていたところ、外から、自転車のスタンドが立てられ、ガチャガチャさせる音が聞こえてきたので、お姉ちゃんが学校から帰ってきたことがわかりました。お姉ちゃんは自転車を止めると、母屋の中に入ってきました」

それは午後2時前のことで、その後しばらく聡美さんは母屋にいたという。

「お姉ちゃんは高校の制服から、上が黒、下がオレンジっぽい色の部屋着に着替え、台所のテーブルに座り、何かをしていました。おそらくお昼ご飯を食べていたのだと思います。その後、お姉ちゃんは『4時に起こしてね』と言って、母屋の勝手口から出ていきました。離れに行ったのだと思います」

聡美さんが離れに行ったのは、自分の部屋が母屋ではなく、離れにあるためだ。そして午後3時頃、異変が起きる――。

「私が母屋で横になってテレビを観ていたところ、離れのほうから、キャーキャーという女の人の凄い悲鳴が聞こえてきたのです。そしてすぐあと、ゴトゴトゴトッという大きな音が聞こえてきました。後から考えると、あれは何かが階段を転がり落ちる音だったと思います。おかしいと思い、勝手口のドアを少し開け、離れの出入り口のほうを見ました。すると、ギャーギャーと泣くような大きな声や、ドンドンと出入り口の扉を内側から叩くような音が聞こえました」

すでにおわかりだろうが、この時、離れの出入り口の内側で、聡美さんが鹿嶋にナイフで刺され、殺害されていたのだ。

「あまりに異様な光景で、怖くて仕方ありませんでした。そのまま離れの出入り口のほうを見ていると、ほどなくして悲鳴や音がやみ、シーンとしました。その時、お祖母ちゃんがトイレから出てきたので、離れから叫び声が聞こえてきたことを告げ、一緒に離れのほうに向かったのです」

そしてA子さんは祖母ミチヨさんと一緒に離れに向かい、犯行直後の鹿嶋と遭遇してしまうのだ。

◆知らない男が仁王立ちのような体勢で立っていた

事件が未解決だった頃の警察の情報募集のポスター。犯人の似顔絵は、A子さんの目撃証言をもとに描かれた

「離れに向かったあとのことについては、今となっては記憶が曖昧で、はっきりとお話できません。記憶に残っているのは、離れの扉の前で、私か、お祖母ちゃんのどちらかが、扉を開けようとドアノブをつかみ、ガチャガチャと回したのですが、鍵がかかっていて開かなかったことと、お祖母ちゃんが『さっちゃん。さっちゃん』と呼びかけたのに、何の返事もなかったことです」

A子さんの記憶が曖昧なのは、離れに向かったあとに体験したことがあまりにショッキングで、パニック状態になったためではないかと思われる。A子さんの供述はこう続く。

「記憶では、最終的には私が扉を開けました。すると、ドアを開けたと同時に、白目をむいたお姉ちゃんがその場に崩れ落ちるようにして倒れてきたのです。そして、私はお姉ちゃんが崩れ落ちるのを見たのとほぼ同時のタイミングで、そこに立っていた知らない男と思いっきり目が合ったのです。その男は、仁王立ちのような体勢でした」

つまり、A子さんがドアを開けた途端、「ナイフで刺され、殺害された実の姉」と「実の姉を殺害した犯人の男」が目の前に同時に現れたわけである。想像を絶する衝撃だったろう。

「お姉ちゃんが倒れたのとほぼ同時に、お祖母ちゃんがキャーという高い悲鳴をあげましたが、私はその間、ずっとお祖母ちゃんと目が合い続けていました。そして、お祖母ちゃんの長い悲鳴がやんだのを合図のようにして、その場から走って逃げ出したのです。ただ、私は気が動転してパニックになっていたのか、離れの周りを一周するようにして逃げました。その途中、後ろを振り向いてみたわけではないですが、その見知らぬ男が追いかけてきたと思った覚えがあります」

鹿嶋が被告人質問で明かしたところでは、鹿嶋はこの時、実際にA子さんを追いかけていたという。A子さんは近くの花屋に逃げ込み、助けを求めて難を逃れたが、鹿嶋は「追いつけていたら、ナイフで刺していたと思います」と言っている。A子さんはまさしく「九死に一生を得た」という状況だったのだ。

◆自分がなぜ入院しているのかもわからなかった

この時、A子さんと一緒に現場に居合わせた祖母ミチヨさんの記憶は、もっと曖昧だ。事件のショックにより「解離性健忘」に陥ってしまったためだ。

解離性健忘とは、受入れがたい困難な体験をした時などにその情報が思い出せなくなるというものだ。ミチヨさんは、A子さんと一緒に離れに向かい、ドアが開いた時に「知らない男の人」が立っている姿を見たところまでは憶えているが、それより先のことがどうしても思い出せないという。

ミチヨさんは、鹿嶋が逮捕された2018年4月、検察官に対し、次のように供述している。

「意識を取り戻した時、私は病院に入院していましたが、なぜ入院しているのか、まったくわかりませんでした。とにかく背中が痛くて、仕方ありませんでした。家族も何も説明してくれないので、高いところから落ちたのだろうか…と一人で考えていました。数日後、病院の先生から『背中を刺されているから、気をつけて動いてください』と言われ、初めて誰かに刺されたことを知り、大変なことが起きたとわかったのです」

そしてその頃、ミチヨさんは聡美さんの父・忠さんから、「さっちゃんが死んだ」と聞かされ、初めて聡美さんが亡くなったことを知った。しかし、頭が混乱し、まったく信じられず、現実のこととして受け入れられなかったという。

一方、事件のことを記憶しているA子さんは、「事件のことや犯人の顔を憶えているのは自分一人だけ」という状況にずっと苦しみ続けたという。

「2度と思い出したくない、すぐにも忘れたい辛い出来事でしたが、犯人を見たのは私だけです。『犯人が捕まるまで忘れてはいけない』というプレッシャーと、『時間の経過と共に見たことを忘れてしまうかもしれない。そうなったら、犯人が捕まらないかもしれない』という恐怖心がないまぜになり、この13年半の間、心が折れそうなのをなんとか耐えてきました。それが正直な気持ちです」

このように鹿嶋は聡美さんの生命を奪ったうえ、祖母のミチヨさんと妹のA子さんにも深刻な被害を与え、現場から逃走した。被告人質問では、逃走後のことも詳細に語っている――。(次回につづく)

ミチヨさんが救急搬送された広島市民病院。当初は生命が危ぶまれる状態だったという

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

混迷するポスト安倍 ── 菅義偉「中継ぎ」政権への禅譲の可能性 横山茂彦

新型コロナ防疫対策で、無策と危機管理のなさを露呈した安倍政権が末期であることは、もはや誰の目にも明らかとなっている。

朝日新聞が実施した世論調査(2020年5月第2回調査)によれば、支持29%、不支持52%である。安倍総理に批判的な朝日新聞とはいえ、29%という数字は危険水域であろう。

共同通信が6月17~18日に行った調査では、安倍政権の支持率は44.9%で前回より10.5ポイント低下。不支持の43.1%と拮抗する結果であった(共同の調査では、2012年の第2次安倍政権発足以来、安定して50%以上の支持率を保っていた)。

7月のNHKの世論調査では、安倍内閣を「支持する」と答えた人は、先月の調査と同じ36%だったのに対し、「支持しない」との答えは45%である。

これら支持率の停滞・急落は自民党不支持ではなく、宰相である安倍個人の政治能力への不信感にほかならない。

◆院政をねらう安倍晋三の陥穽――岸田文雄無能説

誰がやっても同じだから、見た目が「よりマシ」な安倍で良いというわが国の政治文化によって、前代未聞の長期無責任政権は延命してきた。

ひとつには自民党の人材不足、そして官邸人事による官僚統制(族議員の政治活動の統制)、さらには小選挙区制による公認の本部統制(派閥の管理)を背景に、選挙で勝てる安倍右翼政権は未曾有の長期政権となったのだった。

総裁任期が来年秋となり、そろそろ「辞めるべき」という国民の声も大きくなったいま、安倍総理が準備しているのは政権禅譲と「院政」であろう。

7月19日の時事通信報によると、安倍総理の盟友である麻生太郎副総理兼財務相らの有力者から、自民党の岸田文雄政調会長を「ポスト安倍」候補として推すことに疑問の声が漏れはじめているという。

課題である発信力が向上せず、党内での指導力も見えにくいためだ。安倍総理が絶対に避けたい石破茂氏の党総裁選出阻止のため、菅義偉官房長官を担ぐ案も浮上しており、首相が描く岸田氏への禅譲路線が揺らいでいるとの観測だ。

岸田文雄政調会長公式HPより
岸田文雄政調会長公式HPより

岸田の発信力のなさは、この欄でも再三指摘してきた。年に4回しか発行されない季刊誌「翔」は、写真と形式的な挨拶、連絡事項やプロフだけの貧弱な内容である。

公式サイトの活動報告も政治部会や会派(宏池会)の報告、目新しい内容のない記者会見を掲載しているにすぎない。

公式サイトの看板メッセージも、以下のとおり「戦後レジーム」(安倍晋三)の平和主義であり、何らみずからの主張があるわけではない。平和国家の実現のために、何が必要なのか具体策があるわけではなく「国民が何を望むのか」などという小学校の教科書のごとき凡庸さである。

【世界で唯一の戦争被爆国である日本はこれまでもこれからも平和国家として歩みます。私はその歴史を受け継ぎ、希望ある未来を目指し国民が何を望むのか現実を見据え勇気をもって決断する政治を実現していきます。】

たとえば石破茂が毎週ブログを更新し、石破チャンネルという動画で所見や個人的な趣味などを発信しているのに比べると、まるで「失語症」のような寡黙さなのだ。

とくに記憶に新しいのは、岸田氏の肝煎りとされた新型コロナウイルス対策の「減収世帯への30万円給付」が、公明党が求める一律10万円給付に覆されたことだ。これによって力量不足が露呈し、各種世論調査の「次の首相にふさわしい人」では石破氏に大きく水をあけられたまま、差が縮まる気配もない。総理周辺は「あれでは石破氏に負けてしまう」と危機感を隠さない。

◆菅義偉中継ぎ政権への禅譲説

そこでにわかに浮上してきたのが時事報が伝えるとおり、菅義偉官房長官の中継ぎ総理・総裁就任説である。

菅義偉官房長官公式HPより

安倍総理は7月21日発売の「月刊Hanada」に掲載されたインタビューにおいて、菅官房長官を「(ポスト安倍の)有力候補の一人であることは間違いない」との見方を示したのだ。「ポスト安倍は菅長官で決まり」との評価について感想を問われたのに対して答えたものだ。ただし、続けて「『菅総理』には『菅官房長官』がいないという問題がありますが」などと語り、質問者の笑いを誘っている。

年初から安倍総理は意識的に「菅はずし」を表現してきた。アベノマスクや一時給付金、個人事業者および中小企業支援の持続化給付金も、官邸補佐官や秘書官の提案に依拠してきた。

あるいは二階俊博幹事長の策を入れることで、危機管理における党内の融和をはかってきたのだった。

その「菅はずし」自体は、ナンバー2を嫌う、狭量なトップの神経衰弱、および菅官房長官が「令和おじさん」として国民にひろく認知されることになったことへの「嫉妬」にほかならない。

そしてもう一点、菅官房長官が無派閥ながら独自の強力な財界人脈を持ち、党内でも「菅グループ」ともいわれる無派閥議員の糾合を行なっているからだ。

実際に、菅義偉を中心にした「準派閥」は、昨年の6月20日に発足している。ホテルニューオータニに、5期~7期目の議員が集り、「令和の会」が発足しているのだ。菅氏のもとに若手無派閥議員約20人が集まる「ガネーシャの会」や、派閥所属議員も加えた「偉駄天の会」、さらには参議院の菅グループまで集合し、総勢50人ほどが結集したことになる。無派閥議員で菅義偉を支持する勢力は、衆議院だけで30人に達するという

つまり、安倍の「院政」が成り立たない可能性があるがゆえに、ポスト安倍から「菅はずし」を画策していたものだ。

いっぽう菅官房長官は、7月19日のフジテレビ番組で、秋に予想される内閣改造・自民党役員人事をめぐり、官房長官としての続投に意欲を示している。「引き続き官房長官として支えていくか」との質問に「安倍政権をつくった一人だから、そこは責任を持っていきたい」と述べたのである。来年9月の自民党総裁任期を巡り「ポスト安倍」への意欲を問われると「全くない」と強調した。ポーカーフェイスで「粛々と」役割をこなす、菅らしい受け答えといえよう。

にわかに浮上した菅中継ぎ禅譲政権論だが、政治家の約束ほど不確かなものはない。安倍晋三が「過去の人」になったとき、わが国の舵切りは大きく曲がる可能性がある。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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《廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記05》犯人の口から明かされた凶行の詳細

事件前日の2004年10月4日、当時21歳だった鹿嶋学は宇部市にある会社の寮を飛び出し、そのまま会社を辞めてしまった。入社してから3年半で初めて「遅刻」をし、自暴自棄になったためだ。精神鑑定を行った医師によると、鹿嶋は「広汎性発達障害の偏り」があり、そのせいで些細な失敗に絶望感を抱いたのだという。

鹿嶋はその日、故郷宇部市の友人に会って別れを告げると、翌5日は朝から東京を目指し、原付を走らせた。東京に何かアテがあるわけではなかったが、とにかく原付で東京に行こうと考えたのだ。そして山口から広島へと入ったあたりで、鹿嶋は制服姿の女子高生たちを見かけ、「レイプしよう」と思い立つ──。

3月4日、広島地裁で行われた被告人質問。鹿嶋は犯行に至る経緯をそのように語った。弁護人から「なぜ、レイプしようと考えたのですか?」と質問されると、こう答えた。

「セックスしてみたいという気持ちがありました。普段はそういう気持ちがあっても、『レイプしよう』というふうにはならないのですが、その時は『捕まってもいい』という気持ちだったので、そういうふうになりました。『人生、どうでもいい』という考えになっていたので、犯罪への抵抗感がなかったのです」

たかだか一度「遅刻」をしたくらいのことで、鹿嶋はここまで思い詰めていたわけだ。ちなみに鹿嶋は当時、会社の寮でほぼ毎日、エッチなビデオを観ていたが、セックスの経験がなかったという。

そして「レイプできる相手」を探し、原付で走り回った鹿嶋は、信号待ちをしていた1人の制服姿の女子高生を目にとめる。ほどなく信号が青になると、女子高生は横断歩道を渡り、自宅と思われる家の敷地内に入っていった。それがこの事件の被害者、北口聡美さんだった。

「その時、聡美さんが入っていた敷地内には1台も車がありませんでした。そこで、保護者、親がいないのではないかと思い、この子をレイプしようと考えました」

こうして聡美さんは、鹿嶋のターゲットになってしまったのだ。

◆聡美さんが離れにいたことに気づいた理由は……

以下、鹿嶋が被告人質問で語った犯行の核心については、弁護人との一問一答の形で紹介する。

── 聡美さんが敷地内に入っていくのを見て、すぐに追いかけたのですか?
鹿嶋「いえ、近くのコンビニに行き、マスクと手袋を購入しました」

── なぜ、マスクと手袋を購入したのですか?
鹿嶋「マスクは変装のために、手袋は指紋がつかないようにするために購入しました」

── マスクと手袋を購入したあと、どうしたのですか?
鹿嶋「聡美さん宅の近くに原付を止め、中の様子を伺いました。そして、敷地の中に入っていきました」

── その時、凶器になった折り畳み式のナイフはどうしていましたか?
鹿嶋「ズボンのポケットに入れていました」

── そのナイフで聡美さんを切りつけるつもりはありましたか?
鹿嶋「なかったです。ナイフで脅そうと思っていました」

── コンビニで購入したマスクと手袋はどうしましたか?
鹿嶋「手袋は、タクシーの運転手がつけるような白いものだったので、つけたら逆に変だと思い、つけませんでした。マスクもつけなかったです」

── 聡美さん宅の敷地に入る時、誰かに見られるとは考えなかったですか?
鹿嶋「考え……考えなかったと思います」

こうして聡美さん宅の敷地に入った鹿嶋だが、その時に聡美さんがいた場所は、母屋ではなく、離れの2階だった。そして鹿嶋は離れの2階に侵入し、聡美さんを襲っている。鹿嶋はなぜ、聡美さんが離れにいたことがわかったのか。それは、この事件の謎の1つだったが、鹿嶋本人の口から答えが明かされた。

── 聡美さんが離れに入るのを見ていたのですか?
鹿嶋「見ていませんでした」

── では、なぜ聡美さんが離れにいると思ったのですか?
鹿嶋「離れの前に履物があったので、そこにいるのではないかと思いました」

これが、離れに聡美さんがいたことに、鹿嶋が気づいた理由だった。真相を聞いてみると、あっけないものである。そして鹿嶋は、離れのドアをあけ、建物に侵入していったという。

◆ナイフで脅かしたら逃げられて……

── 建物に侵入した際、靴はどうしましたか?
鹿嶋「はっきりした記憶はないですが、たしか脱いだと思います」

── 聡美さんのいる2階まで階段はどう昇ったのですか?
鹿嶋「しのび足で昇りました」

── 2階に昇ったら、どうしましたか?
鹿嶋「廊下があり、廊下の右側に部屋があったので、その引き戸をあけました。そして部屋の中をうかがいました」

── 部屋の中に何か見えましたか?
鹿嶋「聡美さんがベッドでうつ伏せの状態で、頭だけを起こした体勢で、こっちを見ていました。自分が部屋の中をのぞく前から、聡美さんが自分に気づいていたのかと思い、びっくりしました」

── あなたと目があってから聡美さんはどうしましたか?
鹿嶋「ベッドに座る体勢になりました」

── あなたはどうしましたか?
鹿嶋「一歩前に出て、ポケットに入れていたナイフを聡美さんに向け、『動くな』と言いました」

── そう言ったら、聡美さんは?
鹿嶋「動きませんでした」

── そのあとは?
鹿嶋「聡美さんに近づき、『他に誰かいるのか』と言いました。聡美さんは首を横に振りました」
 
── そして、どうしたのですか?
鹿嶋「『脱げ』と言いました」

── その時に持っていたナイフは?
鹿嶋「聡美さんに向けたままでした」

── それから、聡美さんはどうしましたか?
鹿嶋「自分の左側を走り抜け、逃げました」

── 聡美さんが逃げようとしたのを、あなたは阻止しなかったのですか?
鹿嶋「咄嗟のことで、阻止できませんでした」

── そのあと、あなたはどうしましたか?
鹿嶋「聡美さんが部屋から走って逃げるところは見ていないのですが、階段のほうからトコトコという音が聞こえてきました。それで、自分は聡美さんを追いかけました」

── なぜ、追いかけたのですか?
鹿嶋「『逃げられる』『通報される』という思いから、追いかけました」

そして鹿嶋は階段を降り切ったところで聡美さんを捕まえ、再び2階に連れ行こうとした。しかし、聡美さんに抵抗されたため、ついに凶行に及んだのだという。

◆恨みを持つ人物による犯行の可能性も指摘されたが……

鹿嶋は、犯行の核心部分とその時の心情をこのように説明している。

「聡美さんに抵抗され、対応をどうしていいかわからなくなったのです。そして、『なんで逃げるんや』という気持ちになり、ナイフで聡美さんのおなかを刺しました。その時、聡美さんは『え、なんで』という表情でした。それから、自分は『クソ』『クソ』と言いながら、何回も聡美さんを刺しました。『なんでこーなったんか』という感情が爆発したのです」

この事件は未解決だった頃、聡美さんが何度も身体に刃物を突き立てられていたため、犯人は聡美さんに恨みを持つ人物である可能性が指摘されていた。しかし実際には、ある日突然、聡美さんの家にレイプ目的で侵入した通りすがりの男が、思い通りにいかないことに逆切れし、感情を爆発させて、何の罪もない聡美さんを何度も刃物で刺したというのが真相だったのだ。(次回につづく)

全公判を傍聴した北口聡美さんの父・忠さんは毎回、娘の遺影を持参していた

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【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

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天皇制はどこからやって来たのか〈12〉古代女帝論-4 持統天皇 ── 古代史上、最強の女帝

白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた中大兄皇子は、近江大津宮に遷都して天智天皇となった。唐・新羅軍の来寇に備えるいっぽう、近江令を発して律令制をととのえる。のちの公地公民制のもとになる戸籍も、このとき初めて作られた。

その天智帝が没すると、弟の大海皇子(天武天皇)と大友皇子(天智の第一皇子)が帝位を争う。壬申の乱である。大海皇子は吉野に隠棲し、東国の兵をあつめて近江京を攻めた。

乱に勝った天武天皇の后が、鰞野讃良(うののささら 持統)である。彼女は天武の吉野隠棲をともにし、このとき皇子たちに忠誠を誓わせている。天武とともに戦ったという印象がつよい。

その名は、小倉百人一首に収録された、この詠歌でよく知られる。

春すぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほしたる 天の香具山

やがて天武帝が病がちになり、皇后が代わって執政するようになった。そして夫が没すると、ただちにわが子草壁皇子のライバル・大津の皇子を謀反の疑いで捕らえ、自害に追いやっている。

この大津皇子は、じつは女帝が殺さねばならぬほどの傑物だったのだ。

「幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性(格)すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す」(懐風藻)と称賛されるほど、非の打ちどころのない人物である。持統天皇の治世で編纂された『日本書紀』にも同様の記述があるので、抜群の人物だったのは疑いない。

密告があったとはいえ、われわれはここに持統の果断さをみる。わが子のために、ライバルを死に追いやったのだから。

しかしながら、彼女が望んでいたわが子・草壁皇子は病に斃れてしまう。このとき天武の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ七歳だった。天武天皇の存命中も大極殿で政務をとっていた彼女は、ここに即位して持統帝となる。45歳のときだった。

持統天皇の事蹟として有名なのは、藤原京の造営であろう。藤原京はわが国ではじめての条房制をもった都城で、5キロ四方の規模だった。25キロ平方メートルは、平城京や平安京よりも広い。

たとえば現在の京都御所の北辺を一条として、京都駅が八条、東寺をさらに南へ、東光寺あたりが十条である。当時の都城の北から南まで、歩いて一時間では着かないだろう。いずれにしても、それまでの簡易な御殿を宮と呼んでいた時代とはちがう、本格的な大極殿をかまえた巨大都市である。造営が巨大な国家プロジェクトだったにもかかわらず、皇極(斉明)天皇の時のような、民衆に怨嗟される記録は残っていない。仁政だったのか、批判も許さない圧政だったのかはわからない。

いっぽうでは律令の完成が急がれ、史書も編纂された。『古事記』(稗田阿礼)『日本書紀』(舎人親王)である。これには能吏の藤原不比等が監修に当たった。

◆なぜ、天照大御神が皇祖なのか

持統天皇は夫の崩御後、三年間も帝位を空位にしている。

なぜ、すぐにも草壁皇子を帝位に就けなかったのか、これは古代史の大きなナゾとされてきた。ライバルの大津皇子を殺してまで、わが子の立太子を実現したというのに。

この時期、律令の編纂作業は、世に比べる者なしと呼ばれた天才藤原不比等の手で進められ、史書もまた順調に成りつつあった。かりに草壁が病弱だったからだとしても、すでに天武天皇の殯宮(もがりのみや)の喪主として、立太子を内外に明らかにしていたはずだ。形だけの即位でも不都合はなかった。

だが、三年間も空位にしているうちに、草壁は病死してしまう。あたかも持統は、わが子が死ぬのを待っていたかのようだ。

そう、持統は草壁が死んだから、やむなく中継ぎとして即位したのではない。草壁の死を待っていたのであろう。なぜならば、みずから編纂させた「記」「紀」において、天照大御神および神功皇后(気長足姫尊)の記述をもって、女帝の正統性を語らせているからだ。元明・元正と女帝が連続することに、その編集意図は明白である。やはり古代の女性は太陽だったのだ。

上山春平氏は『神々の体系』の中で、『日本書紀』の神話には重要なテーマがあるという。祖母から孫への皇位継承(天孫降臨)がそれだ。のちに持統は孫の文武天皇に譲位して、みずからは皇統史上はじめての太上天皇(上皇)となるのだから。
彼女は帝位にあって、父・天智が果たせなかった律令の完成をいそぎ、藤原京の造営に力をそそいだ。そして大宝律令十七巻の完成を、上皇の立場でたしかめてから、その2年後に薨去した。

果断さと深慮遠謀な立ち居ふるまいから、壬申の乱そのものが彼女の策謀だったとか、天武から天智系への王朝交代説、さまざまに謀略説が語られるほど、その治世は力づよいものがある。不比等の辣腕ぶりに藤原氏の勃興も明らかだが、持統時代において古代天皇権力は最高潮に達したとされている。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

格闘群雄伝〈03〉向山鉄也 ── 埋もれた存在から激闘で伝説残した名チャンプ

◆運命の目黒ジム入門

向山鉄也(さきやま・てつや/1956年11月27日生)は数々の打ち合いの名勝負で強烈なインパクトを残した昭和の名チャンピオンである。

決戦へ向けてのジムワーク(1983.1.30)

1978年(昭和53年)、電気職人としての仕事帰りに目黒駅に向かう途中、たまたま通りかかった権之助坂のガラス張り目黒ジムの練習風景が目に入り、気紛れにフッと扉を開けてしまったことから人生の運命は変わった。高校時代に空手の経験がある向山は戦う本能が蘇り、すぐに入門。翌年6月、22歳でデビュー。喧嘩スタイルで勝ち星を重ねるも、4戦目でガードガラ空きのアゴにカウンターパンチを受けて失神ノックアウト負けを喫した。負けて覚えるディフェンスの大切さ。それでも挫けることなく勝ち続け、デビュー1年後にはテレビ朝日の特番で放映された日米決戦のリングで、かつて富山勝治(目黒)を下したサミー・モントゴメリー(米国)と対戦も、パンチで額を切られて2ラウンドTKOで敗れたが、堂々たる戦いぶりには将来を嘱望されていた。

しかしこの時期はめっきり興行が減るキック界の低迷期に突入していたこともあり、強豪ひしめく中での戦いを求めて、単身タイに渡った。1981年から1982年にかけてムエタイランカーを打ち破り、1982年1月度のランキングでラジャダムナンスタジアム・ウェルター級8位にランクイン。自力で切り開いた本場の壁。あと2試合勝ち上がれば王座挑戦のところまで上り詰めていたが、あと少し手が届かなかった。
現地で国際式プロボクシングも経験し、ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのラクテー・ムアンスリン(国際式でも同級チャンピオン)を右ストレートで1ラウンドKO勝利している。向山が語るベストバウトのひとつだという。

合宿を行なった1983年元旦のロードワーク、江戸川の土手を走る(1983.1.1)

◆埋もれた存在から浮上

帰国前には元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏が興した西川ジムに移籍(厳密には自ら興したキングジムに在籍)し、帰国後、江戸川区北小岩のジム寄宿舎となる六畳一間のアパートに暮らし、テレビは持たず身軽な生活だった。日常は建設現場で電気配線を設置する職人として働きながら、キックブームが起きていた香港での試合に赴いていた。

西川純会長のミットを蹴る。新しいジムが出来た頃(1983.1.30)
独身時代の孤独な部屋はポスターだらけ、バンテージを巻きジムに向かう前(1983.1.30)

1982年(昭和57年)10月3日、閑散とする日本国内でも日本プロキック・ウェルター級王座決定戦で岩崎新吾(花澤)に1ラウンドKO勝利し王座獲得。初のチャンピオンとなったが、リングサイドに一社の報道関係者も来ない中では知名度は全く上がらなかった。しかしここから激闘の名勝負を残していくことで知名度、存在感は業界トップクラスに浮上していった。

1983年2月5日、業界が集結した1千万円争奪オープントーナメントの枠外ながら、他団体の日本ナックモエ・ウェルター級チャンピオン、レイモンド額賀(平戸)とのチャンピオン対決を迎えた。

しぶといファイトで定評あるベテラン、レイモンド額賀の顔面が向山鉄也のパンチ連打でボコボコに腫れあがり、普通ならすでに倒れているであろう状態から、しぶとく向かってくる額賀のヒザ蹴りで向山の鼻が“くの字”にひん曲げられた。カウンターパンチでダウンを奪った向山が判定勝ちしたが、内容は両者血みどろの凄絶な展開、向山が「最も疲れた」と語る一戦だった。

当時でも好カード、そして激闘となったレイモンド額賀戦(1983.2.5)
コーナーに帰った表情、しぶとい相手に次なる戦略を練る(1983.2.5)

両者は1985年1月6日に再戦。前年11月に4団体が統合されて設立された日本キックボクシング連盟の日本ウェルター級王座決定戦。前回に劣らぬ両者血を見る激闘の中、向山はガードも打ち破る強引なパンチとヒジ打ちの猛攻で、レイモンド額賀の額にはまたも大きなコブを作ったが、判定は三者三様のドロー。規定による延長戦で向山がパンチで滅多打ちにして額賀を戦意喪失に追い込みレフェリーストップ。この時代、最も統一に近い日本ウェルター級初代チャンピオンに認定された(公式記録は引分け)。マスコミも向山の過激なファイトをする存在として注目し始めた試合だった。

向山鉄也はこの前年に約1年間、アメリカ遠征もしていた。日本の低迷期とあって多くの強豪と頻繁に戦えない中では積極的に海外へ向かう冒険が必要だった。突然タイに行ったかと思えば次はアメリカに渡る風来坊で、1984年3月3日にミシガン州で、かつて富山勝治とWKBA世界ウェルター級王座を争い、KO勝利で王座獲得していたディーノ・ニューガルト(米国)に挑戦。これもパンチの打ち合いでダウンを奪い合う両者血みどろの戦いで12ラウンド2-1の判定で敗れている。

第2戦レイモンド額賀と乱闘寸前となった第4ラウンド終了後(1985.1.6)
ボコボコに殴り付けても倒れないレイモンド額賀との死闘(1985.1.6)

◆伝説の名勝負

1985年(昭和60年)11月にはヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝利で日本ウェルター級王座初防衛。翌年5月12日の2度目の防衛戦では、一時的ながらやっとテレビに映るまで復興したキックボクシングの目玉カードとして大役を任された向山鉄也の相手は、元・日本ライト級チャンピオンで名を馳せた須田康徳(市原)と死闘を繰り広げた。ノックアウトパンチを持つ両者の、蹴りがほとんどない打ち合いだった。一度ノックダウンを奪いながら須田康徳が底力を見せた逆転のノックダウンを奪われ、口が半開きの向山に、セコンドの西川会長がタオル投入を躊躇うほどのダメージを負いながら、向山はこの我慢比べを制し、第4ラウンドKO勝利。「もうこんな試合したくない」と語るほど疲れ、ダメージを負う激闘だった。この名勝負はこの年のMA日本キックボクシング連盟での年間最高試合となった。

ヤンガー舟木の挑戦を受けた第1戦(1985.11.22)

同年11月、向山鉄也はタイ国ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、パーヤップ・プレムチャイ(タイ)とノンタイトルで対戦。両者は過去、タイと香港で対戦し、向山は1敗1分。パーヤップの大木のような重い左ミドルキックを何十発と受け、向山の腕と右脇腹から背中までの広範囲にケロイド状にまで腫れ上がっていく中、第4ラウンドにパンチでスリップ気味ながらダウンを奪った。それに反発して勢い増すパーヤップにより激しく蹴られ、結果は2-0の僅差判定負け。内容的には惨敗ながら、逆に強い向山を印象付けた試合となり、この試合もテレビ東京で放映され、年間最高試合の候補に挙がっていた。

パーヤップ戦。蹴られても最後まで倒れなかった向山鉄也。これが強さを印象付けた(1986.11.24)

向山鉄也にとって最後のビッグマッチは、1987年7月15日の全日本キックボクシング(旧・岡村系)復興興行のメインエベント。タイ国ラジャダムナン系ウェルター級新チャンピオンとなっていたラクチャート・ソー・プラサートポン(タイ)戦での4ラウンドKO負け。パーヤップのような強い蹴りはないが、オールラウンドプレーヤーの上手さに翻弄され、パンチで倒された。

ピークを過ぎた頃で怪我も伴いブランクを作ったが、ラストファイトは1990年1月、全日本ウェルター級チャンピオン、船木鷹虎(=ヤンガー舟木/仙台青葉)に挑むも、かつて勝利した相手に1-0の優勢ながらの引分けで返り咲きは成らず、引退を決意した。

◆世代交代となっても伝説の人

引退後の1993年(平成5年)5月、向山鉄也は所属するニシカワジムを受け継ぐ形で、かつて自ら持っていたキングジムを復興させ、江戸川区一之江でバラック小屋のジムを開き、後進の指導に当たった。2007年2月には、それまでの不便な立地条件から江東区大島の都営新宿線大島駅近くのビル2階に新設されたジムは近代設備を整え、女性も入門しやすい広くて明るく綺麗なジムとなっている。

現役時代にタイ人女性と結婚した後は、風来坊といった生活から一転して落ち着いた家庭を持ち、一男二女を儲け、日々自らミットを持って後進の指導に当たっている。長男の竜一は羅紗陀というリングネームでWBCムエタイ日本スーパーフェザー級とライト級チャンピオンに育て、他、スーパーライト級でテヨン(=中川勝志)、スーパーウェルター級でYETI達朗、女子アトム級でPIRIKAをWBCムエタイ日本チャンピオンへ育て上げている。

令和の時代となっても、苦しい境地から踏ん張り激闘となった昭和の名勝負は伝説となって今後も語り継がれていくだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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《廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記04》「初めての遅刻」に絶望して暴走

鹿嶋学が高校を卒業後に就職したアルミの素材メーカーは、大幅な時間外労働を連日強いられる「ブラック企業」だった。鹿嶋はストレスを蓄積させ、寮の部屋が「ゴミ屋敷」のような状態になるほど生活も荒れた。それでも、「会社を辞めてはいけない」という父の言いつけを守り、3年半に渡って辛抱強く働き続けていたのだが──。

事件を起こす前日の2004年10月4日の朝、あることをきっかけに状況は一変する。裁判員裁判の第2回公判で行われた被告人質問では、鹿嶋はその朝のことも詳細に語っている。

◆たった一度の遅刻で「明日、世界が滅びる」と思うほど絶望

「当時住んでいた寮は、勤めていた工場の目の前にあったのですが、その日、朝起きたら、工場のほうから機械が動いている音が聞こえてきました。それで、自分は寝坊し、遅刻をしたことに気づきました。『やばい。怒られる』と思い、怒られるのはいやなので、寝転がったまま、どうしようかと考えました。そして結局、会社に行くのがいやになり、リュックに携帯電話と財布を入れ、寮を飛び出したのです」

鹿嶋は「遅刻をした」と言ったが、起きた時間は「7時から8時の間」だったから、定時の始業時間である午前8時に間に合うように出勤することは可能だった。しかし、鹿嶋は毎日、定時の2時間前である午前6時頃に工場に出勤し、作業の段取りをさせられていたので、「遅刻をした」という認識になったのだ。鹿嶋はそれ以前、遅刻をしたことは一度もなく、これが「初めての遅刻」だったという。

寮を飛び出した鹿嶋は原付で実家のある宇部市に向かった。そしてその道中、自暴自棄な感情にとらわれていく。

「会社を逃げ出すというのは、自分にとって許せないことでした。『もう、どうなってもいい』という気持ちになっていきました」

それにしても、たかだか一度遅刻したくらいのことで、このような極端な行動に出る人間も珍しい。この被告人質問があった日の翌日、精神鑑定を行った医師が証人出廷し、この時の鹿嶋の事情をこう説明している。

「被告人は明らかな発達障害ではないですが、広汎性発達障害的な偏りがありました。普段は社会に適応できているのですが、情緒的な発達が乏しいため、大きなストレスがかかると、極端な行動をとってしまうのです。この時も寝坊をしただけのことで会社を辞めてしまい、さらに会社を辞めてしまったことに『明日、世界が滅びる』というくらいの絶望感を抱いてしまったのです」

◆思い付きで決めた原付での東京行き

鹿嶋は原付で宇部に向かう道中、携帯電話の電源を切ってしまった。会社とは、もう完全に縁を切ったわけである。会社を辞めた後のアテは何もなかったが、原付を走らせているうち、ふとあることを思いつく。

「下関に住んでいた小学生か、中学生の頃、温泉に入るために自転車で東京からやってきた人を家に泊めたことがありました。それを思い出し、自分もすることがないので、原付で東京に行こうと思い立ったのです」

弁護人から「東京に行って、何かやりたいことがあったのですか?」と質問され、鹿嶋は「とくに何もありませんでした」と答えた。話しぶりからすると、とくに東京への憧れがあったわけでもないようで、本当に思いつきだけで東京に行こうとしたようだ。

そして鹿嶋はホームセンターに入ると、方位磁石と折り畳み式のナイフを購入した。

「方位磁石を買ったのは、東京に行くには、東に進めばいいと漠然と思ったからです。ナイフについては、野宿するつもりだったので、『ナイフさえあればどうにかなるだろう』と思って買いました」

鹿嶋によると、この時点ではまだ女性を襲う考えはなかったという。しかし、のちに被害者の北口聡美さんを襲った際、このナイフは聡美さんの生命を奪う凶器となってしまった。

◆「もう地元には戻らない」と決意

原付で宇部に到着した鹿嶋は、両親のいる実家には戻らず、一番仲が良かった友人の家に向かった。そしてこの日は、その友人の家に宿泊している。

「友人の家に行ったのは、別れを告げるためでした。自分は東京に行ったら、もう地元に戻るつもりはなかったからです」

つまり、鹿嶋は東京に行くことを思いつくと、その日のうちに「もう地元には戻らない」と決めていたわけだ。実際、この時に所持していた20万円の現金のうち、その友人に「餞別」として5万円を渡しているから、地元に戻るつもりがなかったのは確かだろう。

ちなみに鹿嶋がこの友人に「餞別」を渡した理由は、「その友人は障害者で、給料が安かったからです」とのことである。

◆「下校中の女子高生」を見て、思いついたことは……

鹿嶋はこの友人の家に一泊すると、翌朝6時半くらいに原付で東京に向かって出発している。そして5、6分走ったところで、信号待ちをしていると、横に停まった車から「学」と名前を呼ばれたのだという。

「車には、父親と母親が乗っていました。しかし、自分はそのまま走り去りました」

そして鹿嶋は両親と別れた後、「もう宇部には帰らない」との思いを強くし、携帯電話を川に捨てたという。こうして自ら退路を断つと、原付でひたすら東に向かったが、山口と広島の県境を越えたあたりで、新たにとんでもないことを思いつく。

「下校中と思われる女子高生を見かけ、それをきっかけに『レイプをしよう』と考えるようになりました」

そして鹿嶋は、レイプできる相手を探し、原付で走り回った──。(次回につづく)

鹿嶋の裁判が行われた広島地裁

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

新型コロナウイルスの問題から、次の生き方を再考する〈1〉 小林蓮実

◆新型コロナ禍とよど号LIFE

先日、11人程度でオンライン会議をおこなった。東京は1カ所に9名程度が集まっていたが、オンライン参加が私を含めて2名いたということだ。会議の内容は、以前ここでもご紹介したように、よど号メンバーの支援に関するもの。会議は毎月おこなっているが、私たちは50周年を機に、イベントを開催しようとしている。

そこで、リーダーの小西隆裕さんが書いた論文を輪読し、感想や意見を交換。いずれここに掲載されるかもしれないが、新型コロナウイルスに触れた内容で、「収束の先行」という出口戦略を主張するものだ。それに対し、さまざまな意見が出て興味深かったので、改めてコロナに対する戦略を考えてみたい。

右から小西隆裕さん、若林盛亮さん、赤木志郎さん

◆各国における実現可能なPCR検査数

まず意見としてあったのは、「収束の先行」の困難。そこでやはり、休業などに対する補償の重要性について確認された。次に出されたのが、検査数に関する問題だ。PCR検査に関しては、たとえば『東洋経済ONLINE』でもまとめられているが、人数は7月12日時点で累計46万6,738名、この日の新規は1,838名で、1日の最高は9日の1万1,505名だろう。件数は6月28日時点で累計65万5,822件、この日の新規は3,452件だ。東京都では7月12日時点で累計11万3,458名、10日の新規は1,367名で、1日の最高は8日の3,302名だろう。

それに対し、中国では、『NHK』によれば、6月22日までに「延べ9,000万人分の検査を行」い、「検査態勢を強化した結果、1日に最大370万人余りの検査を行えるようになったと強調し」ているという。また、韓国でも、『朝鮮日報』によれば、7月「13日0時現在で累計で140万8312人が武漢コロナウイルス感染症の検査を受け」たという。無症状の患者が多いなかで「収束の先行」をかんがみれば、検査数の増加は可能であり、すべきということになるだろう。

これに関し、日本医師会による検査反対の意向があったのではないかという意見が出された。『日医 on-line』によれば、3月18日の定例記者会見で横倉義武会長は、「『現在、わが国では医療提供体制の見直しで病床数の抑制が求められているが、今後もこのような事態に備えて入院医療体制に余裕を持たせておくことが必要である』との見解を示した」とある。ただし、釜萢敏常任理事は、「医師がPCR検査を必要と判断したにもかかわらず、検査に結び付かなかった不適切と考えられる事例が生じていることを受けて」「新型コロナウイルスに関する『帰国者・接触者相談センター』への相談件数(2月1日~3月13日)が全国で18万4,533件あり、そのうち『帰国者・接触者外来』の受診につながったのは7,861人、PCR検査の実施に至ったのは5,734件であったことを報告。『相談から検査につながったのは3.1%であり、やはりこの数は少ない』と指摘」とのことだ。

つまり、無駄な入院患者の急増によって医療体制が崩壊するという意見は多く聞かれたが、検査自体を否定するものではないのかもしれない。また、偽陰性の問題もよく主張されていたが、日本疫学会の『新型コロナウイルス関連情報特設サイト』によれば、「PCR検査自体の問題ではなく、検体採取部位におけるウイルス量(RNAコピー数)の問題である」そうだ。

さらに、『Care Net』では、

・偽陰性率は感染1日目が100%(95%CI:100~100%)であり、4日目が67%(95%CI:27~94%)と5日目(COVID-19の典型的な発症日)まで減少した。・発症日(感染5日目)の偽陰性率は38%(95%CI:18?65%)であった。

・感染8日目(発症から3日目)の偽陰性率は20%(95%CI:12~30%)と最低となり、その後、9日目(21%、95%CI:13~31%)から再び増加し、21日目に66%(95%CI:54~77%)となった。

とのことだ。

※上記写真はまぽ (S-cait)さんによる写真ACからの画像

◆新型コロナ禍の利権構造

そのほかにも、当日の会議では、利権構造を疑う意見が出された。新型コロナウイルス関連の利権について調べていると、さまざまなコンテンツにたどり着く。次回は、この利権構造、任意と強制、医療従事者の感染、問題の深刻度、併発と原発被害との比較、対策と公衆衛生学、情報開示、補償と財政などについて引き続き、触れたい。そして、原発、台風、コロナなどの問題を総合的に考えた際、導き出される人類の次の生き方についてまで、書き進めていきたいと考えている。

▼小林 蓮実(こばやし はすみ)
フリーライター、労働・女性運動等アクティビスト。月刊『紙の爆弾』8月号特集第4弾「『新型コロナ危機』と安倍失政」「セックスワーカーを含む すべての人の尊厳を守れ 『SWASH』代表 要友紀子氏インタビュー」、『現代用語の基礎知識 増刊NEWS版』に「従軍慰安婦問題」「嫌韓と親韓」ほか。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
〈原発なき社会〉をもとめて 『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

米国従属国家による「敵基地攻撃能力の保有」とは? 間違ってミサイル戦争になりかねない官邸の「アイデア」 イージス・アショアなき新たなミサイル防衛

「アベノマスク」といい、実現性も経済効果も希薄な「GO TO トラベルキャンペーン」といい、冗談のように派手な看板を掲げては、世論の反発を受けている安倍政権の「アイデア」政策である。

だが、こと国防問題においては、これが単なる冗談では済まなくなる。イージス・アショワ設置が停止になったあとの、ミサイル防衛戦略である。

安倍政権は17日にNSC(国家安全保障会議)の4大臣会合を首相官邸で開き、地上配備型迎撃システム、イージス・アショアに代わる新たなミサイル防衛について協議した。政府は9月をめどに方向性をまとめたい考えだという。

◆トランプに媚を売った安倍総理の失敗

そもそもイージス・アショアは、きわめて杜撰な計画だった。秋田県男鹿市の設置場所では、死角になる本山への仰角をグーグルアースで計測した(三角系数で試算しなかった)ために、ミサイルを発射できないというチョンボを犯し、山口県においてもブースター(第一段ロケット)が住宅地に落下することが判明したのだ。

しかも、高額(トランプに押し付けられた)のうえ、当面は役に立たないという頼りなさである。設置予定だった迎撃ミサイルSM3ブロック2Aは2200億円以上、じつに12年の開発期間を要するものだったのだ。河野防衛大臣は6月16日の記者会見で、計画停止の理由を「約束を実現するためにコストと時間がかかり過ぎる」「(ブースターが地上に落ちるので)計画どおりに運用できない」「ハードウェアを改修すれば倍のコストがかかる」などと説明した。

ようするに、安倍総理の「思いつき」(トランプからの押し売り)で設置を計画してみたものの、あまりにも杜撰で使いものになりそうになかった、というものだ。12年間もの空白が生まれることに、安倍総理は契約時に思いをめぐらせなかったのだろうか。日米同盟の健在(トランプとの蜜月)をアピールするあまり、押し売りでしかない防衛装備を大量に買い入れ、効率の悪い防衛戦略を抱え込んでしまったのだ。

◆敵基地への先制攻撃?

ところで、このチョンボを奇禍とするがごとき動きが、安倍政権内部に起きつつあるのだ。冒頭に紹介したNSC(国家安全保障会議)の4大臣会合こそ、新たなミサイル防衛戦略にほかならない。それはしかし、専守防衛の壁をこえて一気に先制攻撃に道を開こうとするものなのだ。

安倍首相は6月18日の総理会見でイージス・アショアの配備計画停止について「わが国の防衛に空白を生むことはあってはならない」などと言い、敵基地攻撃能力の保有について「抑止力とは何かということを、私たちはしっかりと突き詰めて、時間はないが考えていかなければいけない」「政府においても新たな議論をしていきたい」と発言していた。その発言につづいて、政府高官のあいだから「守るより攻めるほうがコストは安い」(テレビ報道)という発言が飛び出すなど、従来の防衛戦略を突き崩す動きが顕著になっているのだ。

敵基地の先制攻撃論は、北朝鮮がミサイル実験をはじめた当初から議論されてきた。発射されてからでは遅い。ミサイル(液体)燃料の注入が始まった段階で、攻撃の意志ありとみなして攻撃すべきだと。実験のためのミサイル発射準備も「攻撃意志ありとみなす」じつに危険きわまりない発想である。北朝鮮のミサイルが固形燃料になった今、どうやって敵の攻撃意志を確認し、どの基地をどう叩くというのだろうか。

この点については、軍事評論家の香田洋二氏(元自衛艦隊司令官・統合幕僚会議事務局長や佐世保地方総監などを歴任。著書に『賛成・反対を言う前の集団的自衛権入門』など)が警告を発している(ネットマガジンなど)。

「イージス・アショアの配備断念を決定する段取りが拙速との評価を免れ得ない一方で、その善後策として敵基地攻撃能力の議論が始まるのも同様に拙速」であると。

◆偶発的「戦争の準備」よりも外交努力を

「敵基地攻撃は、やる以上、相手のミサイル能力を殲滅(せんめつ)する必要があります」(香田氏)

当然のことであろう。北朝鮮は500発以上の弾道ミサイルを保有し、そのうち数十個の核弾頭を装着可能だといわれている。攻撃の意志ありと「判断」し、先制攻撃したとして、一個でも撃ち漏らせば核弾頭が日本を襲う可能性があるのだ。北朝鮮のミサイル反撃はアメリカの応戦を呼ぶかもしれないが、核の応酬は惨劇を招くいがいの何ものでもない。核時代の戦争に勝者はないのだ。

香田氏はまた、ワイドショーのインタビューでは「日本には北朝鮮のミサイル基地を把握するスパイもいません。基地を叩こうにも、肝心の情報がないのです」と、指摘する。けだし当然である。

すでに北朝鮮は、潜水艦からの弾道ミサイル発射に成功している。自衛隊のP3C(早期警戒機)が領海をこえて、北朝鮮のミサイル潜水艦を索敵するのは、もはや戦争行為である。

いや、日本を仮想敵国にしている韓国・中国の防衛攻撃を受けかねない。その方面(歴史認識と島嶼領土問題)では、日本の政治的孤立は深刻である。安倍政権の外交努力の貧困こそ、問題にしなければならない。アメリカにすり寄るだけを外交だと思い込んでいる人物を、総理の座から引き下ろすのでなければならない。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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